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いかりや長介の俳優・タレント 1985年『8時だョ!全員集合』終了後、俳優、タレントとして活動を始めた。1987年のNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で鬼庭左月斎役を演じたことで、俳優としてブレイクするきっかけとなった。1994年より始まった日本テレビの火曜サスペンス劇場・『取調室』シリーズでは、佐賀県警本部捜査一課の警部補・水木正一郎を演じ、佐賀県の観光振興をするとともに、本人はこの作品をライフワークと語っていた。2001年にはTBSの月曜ミステリー劇場『弁護士猪狩文助』シリーズが開始。70代にして二つの人気主演シリーズを抱える状態となった。こちらは原作では八十代と設定されている役柄であり、老耄したような日常の姿から一転して法廷での迫力ある追及の落差で魅せるいかりやの演技、古いジャズをあしらった渋い演出などで高い評価を受け、後日全作品がDVD化された。1992年〜1996年のドラマ版『サザエさん』(フジテレビ)では磯野波平役を演じ、1997年に出演した『踊る大捜査線』(同局)和久平八郎役では、『全員集合』を見たことがない若いファンからも人気を博す。1999年には、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。2000年2月、荒井注が急逝した際、弔辞を読んだのはいかりやであった。弔辞の最後、いかりやは荒井に対して「じゃあいずれ」と締めくくった。作家の小林信彦が1970年代前半に『日本の喜劇人』を著したころはドリフの最盛期であったが、ほとんど触れていない。
いかりや長介の晩年 2003年5月末、「原発不明頸部リンパ節がん」により緊急入院。闘病生活を経て、同年7月17日に一旦退院する。翌々日には『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の映画舞台挨拶に参加。同年8月6日に『SMAP×SMAP』(関西テレビ・フジテレビ系、「BISTRO SMAP」ゲスト)の収録でテレビの仕事に復帰する。しかし長男・浩一によると、7月の退院直後に担当医から「余命はもって数ヶ月」であると宣告されていたが、本人には伝えなかったという。同年12月23日に放送された『40年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル』(フジテレビ系)がいかりやにとって生涯最後のテレビ出演(仕事)となった。2004年3月15日、がんの転移により東京都港区の東京慈恵会医科大学附属病院に再入院したが、同年3月20日15時30分、死去。72歳没。3月21日、自宅前には午前中から約40人の報道陣が集まり、森光子など生前交友のあった芸能関係者やテレビ局から花が続々と届けられた。谷啓、西条昇、海老名香葉子、田中麗奈らもお悔やみのコメントを出した。3月23日、通夜にはザ・ドリフターズのメンバーである加藤茶、高木ブー、仲本工事、志村けん、踊る大捜査線の共演者である織田裕二、柳葉敏郎、深津絵里、水野美紀たちも、そろって弔問に駆けつけた。芸能関係者、一般ファン合わせて約3500人が参列した。3月24日、告別式。喪主は長男浩一が務め、弔辞はドリフの最古参加メンバーである加藤が読んだ。高木は、葬儀で「バカヤロー!」と叫びながら大泣きしていたという。出棺の際バッハ作曲のG線上のアリアの曲が流された。また、最後まで涙を抑えていた加藤は出棺の霊柩車のクラクションの音と共に目頭を押さえたという。遺体は品川区の桐ヶ谷斎場で火葬され、その後東京都葛飾区に所在する蓮昌寺に納骨された。戒名は瑞雲院法道日長居士。
いかりや長介の加藤茶の弔辞 長さん…。随分急いで向こうに行っちゃったんだね。あんた、最後の最後に嘘ついたよなぁ。去年の12月に『大爆笑』のオープニング撮るときに久しぶりに会って、「40周年の記念で『全員集合』と『大爆笑』、この2本撮りたいね」って。長さん「いいね」って、「やろうよ」って、そう言ったよね。うちのメンバー4人もその気になってたんだよね。だけどその約束を守れないうちに逝っちゃったね。40年間一生懸命、一生懸命走ってきて絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで一生懸命やってきたんだと思う。本当にご苦労さん。これから俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した、財産だからね。荒井さんが亡くなった時、長さん言ってたよな。「俺も、もうじきそっちに行くから、一緒に酒飲もう」って。本当にそんな日が来てしまったな。でもちょっと早すぎたんじゃないか? もう少し我慢してほしかったな。まぁ2人してつもる話もあるだろうけど、あまり深酒しないように。 それから、いきなりそっちから「全員集合!」と言われても俺たち4人は集まれないからね。たぶんそのうち本当に「全員集合」になるかもしれないけど、その時はやっぱりまた向こうでコントをやろうよ。40年間本当にありがとう。そしてご苦労さんでした。何も心配なくゆっくり休んでちょうだい。さよなら。
いかりや長介の没後 いかりやが死去したことは、3月20日の死去当日はテレビの速報テロップで伝えられ、翌日の3月21日の19時のNHKニュース7でトップで報じられた。2004年の没後まもなく、第一回喜劇人大賞「特別功労賞」を受賞。3月27日には、TBSで追悼番組『長さんだョ!全員集合』が放送された。番組は土曜日の20時(午後8時)をまたいで放送されたこともあり、時計の秒針が20時を刻むのと同時に『8時だョ!全員集合!!』と当時の全員集合のオープニング映像も流し、追悼した。さらに、NHK、フジテレビ、テレビ朝日でも追悼番組が相次いで放送された。2004年に静岡県富士市から市民感謝状が贈られ記念の展示会が開催された。また、佐賀県は取調室シリーズで佐賀県の観光アピールを全国的にした事で、佐賀県出身・在住のいかりやのファンが佐賀県知事に多数陳情し、佐賀県知事と佐賀県警察本部長が感謝状を贈った。なお、いかりやは佐賀県警のポスターにも生前、広報用で使われていた。2005年、静岡県富士市吉原の商店街の一角が「長さん小路」と命名された。七回忌になる2010年3月にも、「8時だョ!全員集合 DVDBOX最終盤」が発売され、フジテレビで「懐かしのいかりや長介大爆笑スペシャル!!」TBSでも「ドリフ伝説最終章 8時だョ! 全員集合 大笑い4時間スペシャル」が放送された。2010年の映画『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』では、いかりやが演じていた和久平八郎は病死した設定だが、過去作でのいかりやの音声による「人の希望になってやれ。…なんてな」という和久のセリフが流れるシーンがある。続編(2012年)の『踊る大捜査線 THE FINAL 新たなる希望』のオープニングムービーでも過去作の映像を流用する形で登場している。
いかりや長介の全員集合 「8時だョ!全員集合」出演中の1980年9月、声帯ポリープの手術を受け、その直後の13日と20日の放送は出演したが手術直後で声を出せない状態であった。このためいかりやの役割担当は他のメンバーが持ち回りで務めた。その中で「全員集合」のオープニング(特に本来いかりやが『行けぇー!』や『よろしくぅ!』と言うべき箇所)で見事な口笛を披露。声は出なくとも存在感を改めて誇示する形となり高く評価された。
いかりや長介のアフリカ旅行 アフリカ旅行を趣味としていた。彼のアフリカ通は芸能界でも評判で、自身をレポーターとしたアフリカ紀行番組のシリーズも作られている。自伝『だめだこりゃ』によると、1973年にプライベートで初めて海外旅行へ行けることになった時に、あえて一般の人が行かない場所へ行ってみたいという理由でアフリカへ行ったのが最初で、その後もほぼ毎年アフリカを訪れることが習慣になり、現地の人々とも積極的に交流を結んでいた。彼自身は、時間の流れ方が日本と全く異なっていて、東京でのゴタゴタから自分を精神的に解放させてくれる、アフリカ独特の大らかな風土とスケールの大きな自然が気に入っている旨を語っていた。
いかりや長介の踊る大捜査線 織田裕二は踊る大捜査線において、いかりやに請われてテレビドラマでの演技のノウハウを教えた。劇中の関係とは逆であるが、1999年4月13日放送のフジテレビの特別番組『踊る織田裕二』での対談で、いかりや本人が、「剣豪に倣って、あなたの芝居は何流か? と問われれば、織田流だと答える」と述べて謝意を表している。また、いかりやの自伝『だめだこりゃ』にも同様の言葉が掲載されている。織田は、いかりやが亡くなった後もいかりやを大変慕っている。柳葉敏郎は役柄上輪に入れないので、階段のところで座っていることが多かった。そんな時、いかりやが来て競馬など話し相手をし、柳葉は張り詰めたものが癒されたという。水野美紀は『ファイナル』のオープニングでいかりやとの思い出がよみがえってきたという。夜遅い時間のスタジオ撮影で皆が疲れてきたとき、長回しのワンカットのOKがなかなか出ずに「もうワンカットお願いします!」って声がかかったとき、いかりやの“生”「だめだこりゃ」が誰もが聞きたいけれどねだれなかったこと(セリフ)が出て、みんなのテンションは一気に上がったという。ムードメーカー的なところも含めて、格好いい方だったという。ユースケ・サンタマリアは踊る大捜査線の出演者の挨拶でスタッフが「真下正義役、ユースケサンタマリアさんです」と言った時に、「CX(フジテレビ)のリーサルウエポン(最終兵器)ユースケ・サンタマリアです」と挨拶をして空気が凍りついたという。そんな中で輪に入れたのはいかりやが『俺もバンドあがりだから』と僕を仲間みたいに言ってくれたことだったという。神山繁とは『独眼竜政宗』での共演以来、プライベートでも親交が深かった。神山は『踊る大捜査線 THE MOVIE』の和久と視線を交わすラストシーンの撮影を、良いシーンだが難しい場面でもあったと振り返っていた。いかりやはドリフターズであり、神山は新劇の舞台出であり、出自が違い過ぎていたのが面白かったのか、妙に馬が合って、二人が勝手なことを喋りあって友情が生まれたという。飲食を共にし、京都の家まで訪ねてきてくれたこともあり、神山はいかりやがガンで入院することになったときも、発表の前に電話で受けていたという。小泉孝太郎とは同じ事務所に所属しており、デビュー前から役者についての手ほどきを、台本の見方からスタジオのカメラの呼び方一つまで、丁寧に優しく教えたりと、師弟に近い関係でもあった。いかりやが亡くなった後でも、孝太郎は彼を慕い目標としている。いかりやは生前、「俺たちの仕事は、良い仕事だよ。駄目な時は駄目な自分が出る。良い時は仕事もプライベートも良いんだ。その時の自分で勝負できる、良い仕事だろ。その時の自分にうそはつけないから」という言葉を孝太郎に残している。
いかりや長介のその他 大村崑とは生年月日が同じという縁から、交友があった。いかりやにとっては数少ない関西出身者の友人であった。またショーン・コネリーを尊敬しており、頭髪や髭などはショーン・コネリーを意識したものとされている。
いかりや長介の出演作品 ザ・ドリフターズとしての出演は、「ザ・ドリフターズ」を参照。
東京大学定量生命科学研究所の沿革 日本学術会議の勧告により、1953年8月1日に応用微生物研究所が東京大学附置研究所として設置された。応用微生物研究所は微生物学の研究を目的としていたが、より広い分子生物学の研究を推進するため、1993年4月1日に分子細胞生物学研究所に改組された。2016年8、9月に受理された不正告発により、2018年4月1日に定量生命科学研究所と改称、既存の13の研究分野および2つの研究センターを廃止し、相互補完する機能である2部門、2研究センターからなる4研究領域に新設、基盤技術(実験動物の管理、可視化技術、ゲノム解析技術、質量分析技術)を中央化した中央実験室の設置などの中核となる研究施設の共通化、大講座制による運営など研究室の垣根を越えたオープンな研究環境を目指している。
仁田三夫の来歴 埼玉県川口市生まれ。埼玉県立浦和高等学校卒業、東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)を卒業後、主として西欧の風景写真を主として撮影している。1970年頃より、その文化的根源であるエジプト文明とその文物と古代エジプトの遺跡と壁画を、エジプト政府(考古省)の了解を得て、ルクソールの女神の神殿の壁画、ルクソールのファラオの壁画、ツタンカーメン王の壁画を中心に、当時初の非熱源の照明装置と大型撮影装置を駆使し、困難を極めた古代壁画の撮影を行った。その後も70回以上、古代壁画を中心にエジプト考古学の文物の撮影と考古学的研究のため、エジプトを再三訪れ、エジプトの首脳陣との交流を深め、多数のエジプトの文物の写真画像を記録している。仁田は、ヒエログリフをはじめとするエジプト学にも明るい考古学者であって、写真家としてのみならずエジプト学者としても国際的に著名である。(1980年代には、早稲田大学考古学研究隊が活躍をはじめているが、2005年現在、日本のエジプト考古学研究者は極めて限られている。仁田の主著は、『古代エジプト壁画 : 新王国.- 東京:日本経済新聞社, 1977.9. - 165(図版)p 36cm』である。該著作物のダイジェスト版がカイロ博物館のガイドブックともなっていた)
MANAMI Nの略歴 1999年に山崎憲司と共にKamomellia(当初はTaeと名乗っていたが2005年に改名)をスタート、2003年にはヨーロッパツアーを行っている。また、PlayStation 2のゲーム音楽に参加もしている。ソロ活動は2004年・2005年にヨーロッパのインディーレーベルよりリリース、それをきっかけに2006年からドイツ・ベルリンに拠点を移し、現在はパフォーマンスをメインテーマとして年間12本程度のパフォーマンスを行っている。2008年、de:Faust (Band)主催のAvantgarde festivalに出演。2009年よりドイツ・ライプツィヒのインディーレーベルであるprivatelektroのメンバーとなる。
Sugar Sugarの概要 前作「恋はパッション」から6ヶ月ぶりのシングル。「Sugar Sugar」は、前作の「TRA-LA-LA」に引き続き、'87 丸井 赤いカード CFソングに起用された。
疾風ロンドのあらすじ 医科学研究所からバイオセーフティーレベル4の新型炭疽菌「K-55」が盗まれた。しかし、秘密裏に作った生物兵器なので警察に通報することも出来ない。所長の東郷の下には「K-55」を埋めた場所の目印というテディベアの写真と「三億円を用意しろ」という脅迫メールが届いた。犯人は研究所を解雇された葛原という研究員だったが、この直後、警察から葛原が死亡したという連絡が入る。葛原の遺品には「K-55」は無く、テディベアに埋め込まれた発信機の電源は4日後の金曜日までしか持たない。気温が10℃を超えると容器が破裂するため、東郷は主任研究員の栗林に大至急「K-55」を回収するように命令する。栗林は野沢温泉スキー場でテディベアを捜索し始めるが、久々のスキーで醜態を晒すばかりで、立ち入り禁止区域で深雪に嵌り救助を呼ばれ、翌日は滑走禁止の林の中へスキーで突っ込み足首靭帯を負傷してしまう。両日共に栗林の救助を行ったスキー場のパトロール隊員の根津とプロスノーボードクロス選手の千晶から栗林の行動を不審に思われたため、栗林は咄嗟に「新薬を隠されてしまった」と二人に嘘をつき、二人を「K-55」捜索に巻き込む事に成功する。しかし、そんな彼らの一部始終を見つめる不審な男がいた。
NORUCAの概要 NORUCAは、非接触ICカードに回数乗車券と同等の情報を記録し、乗車の度に度数を引き去っていく。また、乗・降車データを運賃箱のメモリーカードに保存でき、集計の上、正確な統計データを収集できる。また、非接触ICカードを採用することにより、紙式回数券の廃棄物や、磁気カードにおける読取機の消耗・使用済券の廃棄物の問題が解消される。NORUCAは「バスに乗るカード」として命名された。同社では、NORUCA導入以前にも郡山支社管内でバスICカードが導入されていた。裏面に記載されている、17桁の英数字の上2桁は、FKとなっている。
NORUCAの導入の経緯 東北の事業者として初めて郡山支社で導入したICバスカードは、FeliCaの普及前であり、MIFAREが採用された。これとは別に磁気カードを福島市内で導入していたが、いずれもシステムの老朽化・保守面の問題(旧ICカード発売当時と比べFeliCaの方がMIFAREより交通系ICカードとして普及しており、他のFeliCa系ICカードと同様の設備などを採用することにより導入・維持コストが削減できる)・親会社の変更(みちのりホールディングス)などの理由により、乗車券の媒体・規格を統一するため、NORUCAが導入された(東北の事業者において磁気バスカードを廃止した初の事例である)。
大口蓋動脈の経路 翼口蓋管に置いて、下行口蓋動脈より出る枝の一つ。大口蓋孔より出、硬口蓋の歯槽隆起内側にある溝を通り、切歯窩から切歯管を上り、蝶口蓋動脈中隔後鼻枝と吻合する。
大口蓋動脈の臨床 下鼻甲介後端付近の骨部分欠損のため、鼻出血の原因が大口蓋動脈であることもある。
芸能人格付けチェックの概要 出演者が「高級品」と「安物」を見分ける問題に挑戦し、正解数に応じて番組内独自のランク付けを行う番組。前述の通り開始当初は『人気者でいこう!』での1コーナーとしてスタートし、最終回まで不定期に放送。番組終了後、2005年に単発特番としてコーナーを番組化。その後、好評により毎年元日に放送されるようになり、後述する「予選会」と共に元日の顔として放送されている。2013年からは「常識チェック」「BASIC」「MUSIC」などといった、「芸能人格付けチェック」からの派生番組が春・秋の改編期に放送されている。
芸能人格付けチェックのレギュラー企画期 1999年3月23日に放送開始。正式なコーナー名は「芸能人格付けチェック 〜お前たちは果たして何流芸能人なのか!?〜」(げいのうじんかくづけチェック 〜おまえたちははたしてなんりゅうげいのうじんなのか!?〜)で、初期は週替わり企画の1つであった。2000年9月まで同番組のメイン企画となり、リニューアル後の同年10月から最終回の2001年9月25日までは不定期に行われた。司会はレギュラーの浜田雅功・内藤剛志・堀部圭亮が「謎の3兄弟」として進行。1999年8月31日放送分から、3兄弟も「事前チェック」としてゲストが挑戦する問題に解答。解答方法はどちらかのフリップボードを挙げ、正解はスタッフから発表される。また事前チェックの様子は、ゲストの挑戦中VTRの間に挟み込まれる。進行席の後ろには一流芸能人を獲得した芸能人の写真が飾られており、最年長の丹波哲郎、最年少の上原多香子、スポーツ界からは松木安太郎(サッカー解説者)、落合博満(元・中日ドラゴンズ監督)、吉田義男 (元・阪神タイガース監督。現・朝日放送解説者) などがいる。一方、進行席の向かい側には映す価値なし殿堂入りとして志村けん、加藤茶、古手川祐子、梅宮辰夫のシルエット(白い紙に顔と肩のラインを点線で描いただけの物)が飾られている。普通芸能人以下は一流芸能人の写真の下にピンクの横書きネームプレートでランク毎に区分けされていた。1999年12月21日には特別編として『プロ野球対抗格付けチェック』を実施。福岡ダイエーホークス(浜名千広・篠原貴行・松中信彦)・中日ドラゴンズ(久慈照嘉・関川浩一・愛甲猛)・横浜ベイスターズ(石井琢朗・波留敏夫・斎藤隆)・ヤクルトスワローズ(石井一久・古田敦也・高津臣吾)・阪神タイガース(坪井智哉・藪恵壹・矢野輝弘)の球団別3人一組による団体戦で行われた他、通常とは違うランク名で行われた。
芸能人格付けチェックの特番時代 2005年に特別番組として復活し、以降正月恒例の単発特番となっている。第5弾からハイビジョン制作となり、朝日放送での現在のロゴマークが自社制作送出で初披露となった。第8弾は朝日放送創立60周年記念番組として、第13弾は朝日放送創立65周年記念番組として放送された。ナレーターはレギュラー期の松本大、諏訪部順一とは異なり木村匡也が担当している。第4弾は木村が他にナレーションを担当している『クイズ$ミリオネア』(フジテレビ系)のスペシャルと放送が重なったため、垂木勉が代理担当した。司会進行は浜田と伊東四朗が「格付けマスター」として出演。基本的な部分はレギュラー期と同じだが、2人(一部のチームは3 - 5人)1組のチーム制となっており、計5 - 8組が出演する。チェックには一部を除き、チームの代表者が挑戦する。視聴率は好調を維持しており、第5弾以降は全て同時間帯1位となっている。特に第6弾では18.1%を記録し(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)、2009年の正月三が日におけるテレビ朝日のゴールデン・プライム平均視聴率トップ獲得に貢献した(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)。その後も好調をキープし続け、2012年は15.9%、2013年は16.7%、2014年は16.3%、2017年は18.7%、2019年は最高視聴率となる19.7%(いずれもビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)を記録しており、同時間帯トップの平均視聴率を獲得し続けている。また、現在では「羽鳥慎一モーニングショー・新春特大スペシャル」や、「志村&所の戦うお正月」、後番組の「相棒・元日スペシャル」と並ぶテレビ朝日系列の元日の顔になっている(2017年からこの体制が確立)。通常版第3弾以降は、レギュラー期と同様に進行役は事前に全てのチェックを実際に行う「ミニ格付け」の模様が流され、正解はスタッフから告げられる。第9弾以降は発表と同時に、不正解者には炭酸ガスが発射される。結果は第7弾以前と第14弾以降は最後にまとめて発表、第8弾から第13弾は解答シーンが問題ごとの正解発表の前に挟み込まれていた。特番時代の「ミニ格付け」では一流芸能人で終えるケースはほとんど無く、浜田らはMCにも関わらず正解率がいつも低いため、ナレーションにツッコまれるのが定番となっている。最終チェックの結果発表や「映す価値なし」になると同時に、中島みゆきの「世情」がBGMとして流される。ミニ格付けは派生版でも行われるが、常識チェック版では行われない。通常版第10弾以降は、一部の地域を除きSoftBank、日産、LINE、ワイモバイルなどのコラボCMが放送され、芸人がコラボ企業の商品・サービスにちなんだチェック問題に挑戦する。本編と異なり、解答が分かれた場合個人の解答を選択する。正解発表はナレーションの木村が担当。通常版第16弾からは、視聴者もデータ放送やスマホアプリでチェックに参加できるようになった。
芸能人格付けチェックの常識チェック版・派生版 2012年12月14日放送の『Oh!どや顔サミットスペシャル』にて、派生企画『芸能人品格チェック』が放送された。同企画はその後、2013年10月4日に格付けチェックのシステムに合わせた形で特番が放送され、以降も春・秋の改編期特番として2017年10月まで続いた。2018年3月以降は常識チェックに代わり、春は身近な物を2択でチェックする『BASIC版』、秋は出題を音楽に絞った『MUSIC版』という派生版が行われている。常識チェック版と派生版のスタッフは『Oh!どや顔サミット』から引き継がれているため、通常版とはテロップなどの演出に多少の差異が見られる。MUSIC版では視聴者もスマートフォンを利用してチェックに参加できるようになっている。
芸能人格付けチェックの事前番組・再放送 通常版の第5弾以降の視聴率が元日の同時間帯でトップの高視聴率を維持していることを受けて、当該年度の通常版の放送に合わせる形で、前年の大予選会と本編を制作局の朝日放送をはじめとするテレビ朝日系の各局にて放送している。制作局の朝日放送では放送翌日の1月2日の7:30 - 8:40に前年の大予選会を、そのまま続けて8:40 - 11:45に前年の格付けチェック本編を合わせて再放送することが恒例となっている。朝日放送を除くテレビ朝日など多くの系列局では、放送前日の前年12月31日の8:00 - 11:45に事前番組の形で朝日放送から再編集版素材を受け取ったテレビ朝日からの送り出しにより再放送を行っている。また、朝日放送と同様に一部のネット局でも1月2日以降に前年の通常版再放送を行うところがあるが、ネット局の中には大予選会の再放送を行わずに、本編のみを再放送している局もある。また、ネット局によっては年度によりテレビ朝日からのネットとなる事前番組を放送するか、自社送り出しで1月2日以降の再放送をするかが異なる局もある。
芸能人格付けチェックの解答者・最終ランク 括弧の前はチーム名。本稿では、放送当時の芸名で記載する。一流芸能人で終えたチームの内、パーフェクト(チームで全問正解)を達成したチームは、チーム名(ミニ格付けは名前)を太字で表記する。
芸能人格付けチェックの概要(予選会) 通常版第3弾からは、本戦出場をかけたお笑い芸人対抗での予選会(正式タイトルは「隠れた一流芸能人を探せ!」)が開催されている。本編と同じく、出場者は2人(3人)1組のチームで出場する。問題は当初、「新鮮な牛乳と賞味期限切れの牛乳の飲み比べ」や「芸人の家賃とペットの値段の比較」といった味覚や金銭感覚を問う問題であったが、現在は特定の人物(一般人、若手芸人、テレビスタッフ、グラビアアイドルなど。さらに、浜田や伊東1人への質問を問題にすることもある(決勝戦で「伊東が(勝ち残った2組のうち)スタジオに呼びたいのはどちら?」という問題として出されることが多い)。これは番組内では「1人アンケート」と呼ばれ、正解は本人の口から発表される)に行った参加者に関するアンケート結果の1位を予想する問題となっている(不正解選択肢は2位もしくは最下位のもの。また、選択肢発表の前に参考として5位〜3位が発表される)。第2回以前と第14回は全チームが全ての問題に挑戦し、既定の問題数をクリアした1組が勝ち上がる方式、第3回から第13回は既定の問題数をクリアした一部のチームが勝ち上がっていく方式となり(それ以外のチームは脱落)、最終問題(決勝)は2組で行われる。優勝したチームは、スタジオでの本戦に出場することができる。本戦では主に若手女性タレントのチームに加入する形であるが、第14弾のみ単独チームで出場した。常識チェック版と派生版では予選会が行われないが、一部の出場経験者は優勝経験に問わず、パネリストや挑戦者として出演している。問題に間違えた場合は、『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』並の過激な罰ゲームを食らわされる事になる。罰ゲームの名称は決まって頭に「格付け」が付き、仕掛けが作動するスイッチは浜田が罰ゲーム名を叫びながら押している(第12回以前は伊東が担当し、自身の持ちネタである「ニン!」と発言する事もあった)。第14回は内容が大幅にリニューアルされ、開催場所が野外から本戦と別の特設スタジオに変更。問題はこれまでのアンケートなどに代わって芸人とアスリートによるスポーツ試合が生で行われ、試合の勝者を予想する。罰ゲームの過酷さもこれまでに比べて大幅に下げられ、最終問題では罰ゲームが無かった。また、試合中に「格付け応援劇場」と題して、出場芸人が応援を兼ねて持ちネタを披露する。
芸能人格付けチェックの出場者 太字は優勝チーム(本戦での結果は上記参照)。
十輪院の歴史 元は大寺院だった元興寺の別院とされ、寺伝によると奈良時代に右大臣・吉備真備の長男である朝野宿禰魚養が、元正天皇の旧殿を拝領し創建したと伝わる。その後、弘仁年間には弘法大師が留錫したという。朝野魚養は能書(書道の名人)とされ、空海の書の師ともいうが、伝記のはっきりしない人物である。十輪院については、『大和名所記(和州旧跡幽考)』のような近世の地誌類には弘法大師(空海)の創建とも伝え、創建の正確な時期や事情については不明である。「十輪院」の名称の文献上の初見は、鎌倉時代の仏教説話集『沙石集』(弘安6年・1283年成立)とされている十輪院の寺名は、『地蔵十輪経』に拠ったものと考えられている。現存する本堂、石仏龕(せきぶつがん)、東京へ移築された宝蔵などはいずれも正確な年代は不明ながら鎌倉時代のものとされており、鎌倉時代には地蔵信仰の寺院として栄えていたと思われる。中世以降は庶民の地蔵信仰の寺として栄えた。室町時代、天正13年(1585年)までは院領300石を所領したが、豊臣秀長に没収され、また兵乱により堂宇宝物なども大きく被害を受けた。しかし慶長7年(1602年)に徳川家康より、添上郡肘塚町・法華寺町内に寺領50石の寄進を受け、本堂、石仏龕の修復などが進み、一般大衆の地蔵信仰の高まりと相まって次第に寺勢は興隆した。明治維新後は校倉の宝蔵を手放すなど、一時寺勢は衰えたが、1955年(昭和30年)に本堂・南門の文化財としての解体大修理が行われ、以降1962年(昭和37年)に不動堂の修理、1976年(昭和51年)に御影堂の解体修理と続き、境内が整っていった。
十輪院の南門(重要文化財) 切妻造・本瓦葺の四脚門。鎌倉時代中期建築。1958年(昭和28年)からの解体修理の際、前面道路の拡充のため1.2メートル内側に移され、築地塀との釣り合い上外観が少し変わった。
十輪院の本堂(国宝) 背後の覆堂内に安置された石仏龕を拝むための礼堂として建立された鎌倉時代の住宅風仏堂。寄棟造、本瓦葺きで桁行5間、梁行4間。前面一間通りは床張りで開放になっており、四方には浅い縁が巡らされ、東北隅の一間も開放になっている。正面の蟇股は力強い鎌倉様式で、他にも軒下組物、大仏様繰形など細部の建築手法に見るべきものが多い。建物全体の立ちが低く、正面は広縁の奥に蔀戸(しとみど)を設け、全体として住宅風の意匠になる。軒裏に垂木(たるき)を用いず板軒とする点も一般の仏堂建築と異なる特色である。
十輪院の御影堂(奈良県指定文化財) 棟札によると、慶安3年(1650年:江戸時代)の建築。位牌堂とも呼ばれ、解体修理の際に地下に納骨廟堂が設けられた。桁行3間、梁行3間、宝形造、銅板葺で正面に1間の向拝が設けられている。内陣須弥壇上に、慶長17年(1612年)の造立銘がある弘法大師坐像を祀る。
十輪院の護摩堂 不動堂とも呼ばれる。南門を入ってすぐ左手に位置し、「一願不動尊」の扁額が掛かっている。重要文化財の木造不動明王および二童子立像が内部に安置される。
十輪院の境内鎮守社 天照大神・春日大神の二座、及び浮島弁財天石祠がある。
十輪院の魚養塚 「うおかいづか」と読む。横穴式石室で、奥壁に半肉で刻まれた如来型坐像の石仏や、宝塔を刻んだ石が巡らされている。
十輪院の旧十輪院宝蔵(重要文化財) 東京国立博物館構内にある「旧十輪院宝蔵」(重要文化財)は、元この寺にあり、1882年(明治15年)に東京へ移築されたものである。小規模な校倉造倉庫で、鎌倉時代の建築である。
十輪院のその他 十三仏図、尊勝曼荼羅図、両界曼荼羅図、十六羅漢図など。
十輪院の備考 河島英五の墓はここにある。
アッシュボリー・ベースの特徴 アッシュボリー・ベースは音を鳴らすためにシリコンゴムの絃とピエゾ式ピックアップを使用する。絃の張力が弱いため、アッシュボリー・ベースのネックにはトラスロッドが入っていない。エレキギターやエレキベースと異なり、ブリッジもネックも調節可能にはなっていない。
アッシュボリー・ベースの弦 純正品であるシリコンゴムの弦は滑りが悪いため手にベビーパウダーをつけて演奏するなどの工夫が必要であり、また、耐久性が低いという問題がある。材質としてポリウレタンを使用したウクレレベース用の弦を使用することが可能であり、多くの演奏者はこの弦を利用している。
アッシュボリー・ベースのその他 アッシュボリー・ベースは元々ベーシストのための携帯用楽器として考案された。皮肉にも、現在の34インチスケールのエレキベースは元々同じ理由によりコントラバスの代用として使用されたものである。アッシュボリー・ベースは現在フェンダー社のライセンス下により製造されている。
ウインドブレーカーのウインドパンツ ウインドパンツ(英: windpants)は、ウィンドブレーカーのボトムス。下着の上に着用するズボン、またはズボンの上に着用するいわゆるオーバーパンツとして使用される。長ズボンの場合、裾にスリットが入っていて、ファスナーやボタンで開閉できるようになっていることが多い。これは靴を履いたままでも脱着しやすくするための工夫である。
南城大輔の概要 この県道は、旧滋賀県道257号を取り込んでいる。また、市町村合併により長浜市のみを通過する道となった。
熊岳城温泉の位置 1513年5月、ポルトガルの探検家ジョルジ・アルヴァレスが珠江デルタに到達し、そこのある島を「タマン」と名付けた。これはおそらく、それ以前から香港島や深圳の西側の地域につけられていた「屯門」という地名の転訛であると考えられている。そのため、一般には現在の香港・新界の屯門とタマンを結び付けて認識されている。中国側の史料では、ポルトガル人は「屯門澳」付近に入植したと記録されているが、この場所の正確な位置は分かっておらず、現在でも歴史家の間で議論が続いている。これを屯門付近にある2つの湾、すなわち現在の屯門新市鎮に近い青山湾と、新界と南東(現在の深圳市南山区)の間に位置する后海湾(深圳湾)のどちらかに比定されることが多い。後者には明の防衛隊が駐留していた。ポルトガル側の文献でタマンが島と記録されていることも後代の研究者を混乱させる一因となっている。屯門は島ではないため、研究者の間では、タマンとは別の近くにある島を指しているのではないかという説が挙がっている。J・M・ブラガはポルトガルの文献に登場するタマンを内伶仃島に比定し、この説が西洋の学界では定説となっている。しかし最近では中国の学界から、この説は史実的な裏付けが不十分であるとして、より大きな大嶼島と結びつけるなどいくつかの異説が登場している。
アベ・ピエールの生涯 リヨンで裕福な生糸商人の5番目の子供として生まれたが、18歳の時に父親の遺産を慈善事業に寄贈し、清貧を旨とする托鉢修道会、カプチン・フランシスコ修道会に入る。1938年に司祭に叙階され、1939年に修道会を出てグルノーブルの助任司祭となる。第2次世界大戦中はナチスによる占領下のフランスでユダヤ人を助け、レジスタンスとともに闘い、戦後は政治活動を選び1951年に辞職するまでムルト=エ=モゼル県選出の議員を務める。また議員手当てを最初の救援活動センターにつぎ込む。1949年に自らの資金でホームレスなど何らかの理由で社会に適合できなくなった人々を救済するための協会「エマウス Mouvement Emmaüs」を設立。全国で回収した不用品をリサイクルして販売するという独特な資金調達法でも有名なこの協会は、現在フランスに115拠点、世界41カ国にネットワークが広がる大きな活動となった。1954年2月1日ラジオ・リュクセンブール局から「友よ、助けを!この早朝3時に一人の女性が凍死した」とホームレス救援を要請、前代未聞の反応を得る。この経験から彼はメディアがいかに大切であるかを理解。1980年代にはコリューシュ(当時有名なコメディアン)が貧困者救済事業として始めた『レスト・デュ・クール "Resto (Restaurants) du coeur" (心のレストラン)』を支持して再び脚光を浴びる。1994年には貧困層向けの公団住宅を建設しない大都市市長を批判(2004年にも同様の批判を行う)。しかし1996年には修正主義者(ナチスによるユダヤ人虐殺否定論者)である哲学者ロジェ・ガロディを擁護して波紋を引き起こす。批判に晒されガロディ擁護を撤回。 晩年には『死は一種の影だ。死にたい。生を受けて以来、死を望んでいた』と語った。亡くなる直前まで現役として社会的弱者の味方として尽力してきたが、肺感染症のため2007年1月14日から入院し、22日朝、パリ市内のヴァル・ド・グラース病院で死去した。94歳であった。神父は、「フランス人が最も愛する有名人アンケート」でも、1998年にプロサッカー選手ジダンが選ばれるまで、長年1位の座にあった。シラク大統領は「ピエール氏は貧困、苦難、不正義に対する闘いを続け、連帯の強さを人々に示した」と、その死を悼んだ。1月26日にはノートルダム寺院で国葬が営まれ、シラク大統領、ジスカール・デスタン元大統領、ド・ビルパン首相をはじめとする政府要人のほか、人種、宗教などを超えて多くのフランス人が参加した。
ホウ素の同位体の応用 ホウ素10は、脳腫瘍の実験段階の治療法である中性子捕捉療法に用いられる。
北本水辺プラザ公園の概要 北本市付近を流れる荒川に沿って作られた河川敷公園として2012年に竣工された。公園は舟運で栄えたかつての荒川の川の流れをイメージした「旧流路体験水路」や、芝生広場がある。公園を管理・維持するための費用ねん出のため、桶川市にある清涼飲料メーカー「三国コカ・コーラボトリング」(日本コカ・コーラの埼玉県管轄ボトラー。現在はコカ・コーライーストジャパンに合併)と、日本の直轄河川敷開発事業で初となる施設命名権を締結し、完成1年前の2011年2月から2014年3月の3年契約を結んだ。契約当時の名称は「三国コカ・コーラボトリング北本みずべひろば」。なお条例上の正式名は当初より「北本水辺プラザ公園」としている。
外務審議官の職務 「外務審議官は、命を受けて、外務省の所掌事務に係る重要な政策に関する事務を総括整理する。」(外務省設置法第5条第2項)。一般的には、日本国内で外交政策の企画立案や外務省の事務の統括を行う外務事務次官に代わり、諸外国との外交交渉を担当する。特に「次官級交渉」という場合、外務審議官が交渉の現場に立つ事が多い。定数2人の担当職務の内訳は法令レベルでは明記されていないが、内部の辞令で「政務担当」と「経済担当」が指定される。この場合の「政務」は純粋に政治的内容に関する事務(政務)を担当するという意味であり、「内閣官房副長官(政務担当)」のように「国会議員から充てられる」わけではない。法的には二者の序列は同列であるが、「政務担当」の審議官は内閣総理大臣の外遊や首脳会談に同伴するなど実務的にもより枢要なポストとされており、歴任後に事務次官に就任するケースも経済担当に比べて多い。経済担当審議官は、サミット(主要国首脳会議)におけるシェルパ会議で首席シェルパを務める。
ウィンチェスター M1200の開発 M1200は、ウィンチェスターM12を更新する安価な散弾銃として1964年に開発された。少数がアメリカ陸軍によって採用され、1968年-翌年にかけてベトナム戦争で使用されており、短命であったとはいえ敵に奪取される危険が迫った場合の取り扱い命令が行われている。これは、遺棄された散弾銃からスペアパーツを再利用可能であるため、それを阻むために破壊することが目的であった。破壊が必須とされた主要パーツは機関部・弾倉・銃身・銃剣アッセンブリー、ボルトグループ、トリガーガードグループである。軍用モデルは市販品と銃としては同一であり、冷却孔が設けられたハンドガード・負い紐用の回り継ぎ手・着剣金具が追加されている。M1200の後継は、ウィンチェスター社の従業員が設立したU.S. リピーティングアームズにより1983年に開発されたウィンチェスターM1300であり、2006年の倒産まで生産された。
ウィンチェスター M1200の機構 M1200は、銃身長20インチ(50.8cm)、口径12ゲージの手動ポンプアクション式散弾銃である。スライド部は銃身の下に設けられ、前後に動かすものである。装弾数はチューブ型弾倉に4発、これに薬室に装填した1発を加えた5発が上限となる。撃鉄が内蔵されて外部に露出しないハンマーレス式であり、撃鉄と撃針が一体化されているのではなく、撃針のみが雷管を作動させるために用いられる。輸送・保管を容易とする、分解が可能な構造を有していた。M1200は、散弾銃としてはじめて回転式ボルトを採用した銃であり、4つのロッキング・ラグが銃身と噛み合う構造である。また、ウィンチェスター社の特許であるWinchokeシステムを組み込んだ最初の散弾銃でもあり、チューブの交換により容易にチョーク(絞り)の変更を可能としていた。
ウィンチェスター M1200の銃剣 軍用モデルは、先端に銃剣の装着が可能である。銃剣を使用するシチュエーションとしては、白兵戦・捕虜の警備・暴動への対処が想定されている。最も用いられた銃剣は、1917年にM1917エンフィールドの銃剣として採用されたM1917である。これは、第一次世界大戦後、M1903を制式ライフルとして維持したため、M1903に装着できないM1917の余剰が大量に存在し、これを着剣可能な散弾銃を設計したことに端を発するものである。
貝塚ひろしの略歴 千葉県九十九里町で生まれる。幼い頃に父を亡くし女手一本で育てられる。中学・高校の頃から漫画グループを作って漫画を描いていた。高校卒業後は国鉄千葉鉄道管理局に就職するも半年で退職。1957年に東京寿書房より『乞食と殿様』で貸本漫画家デビュー。翌1958年、『おもしろブック』(集英社)で『くりくり投手』の連載を開始。それ以降、数々のヒット作を発表して熱血少年漫画家との評価を得る。1968年に『少年ジャンプ』が創刊した際には、看板漫画家として同誌の草創期を支えた。
貝塚ひろしの人物 『ジャンプ』に連載していた当時、彼は仕事が多忙なために失踪事件を起こしたが、その間、当時新人だった本宮ひろ志の作品が『少年ジャンプ』の代用原稿として用いられ、本宮は後のジャンプを支えることとなった。かつて『まんがマニア』という漫画研究誌を発行していた。貝塚本人やつのだじろう、吉沢やすみ、荘司としおなどが寄稿していた。その縁でアシスタント出身の人気漫画家も多い。
シルフェイド幻想譚の概要 ゲームの大まかな内容は、15日の間に島に起こる災いを防ぐというもの。その間の行動によって善人にも悪人にもなることができ、自由度が大変高い。独自のシステムが数多く採用されているが、初心者から上級者まで遊べるように細やかな配慮がされている。シナリオはシリアスかつシビアで、特に人の生死に関してかなり厳しい場面が多い。本来なら向かってこない敵を惨殺することが出来たり、主人公以外の味方キャラは戦闘で全滅すると二度と生き返らなかったりするなど、主人公の行動如何で様々な登場人物の命運が決まる。本作品はテックウィン本誌でのコンテストパーク応募作品として公開され、後に作者のサイトで一般公開された。テックウィンにおいては、ストレスフリーな作りとシナリオ構成の2点が特に評価され、金賞を受賞したが、審査員の1人は「(金賞の上の)プラチナでも良かった」と後に語っている。本作品は従来のシルフェイドシリーズファンだけではなく、RPGゲーマーをも引き込んだ。そこからシルフェイド見聞録に触れたというファンも少なくはなく、作者の出世作とも言える。開発当初は他のシルフェイドシリーズとの関連はあまりないドラゴンクエストIのオマージュ的な作品が予定されていた。当初のタイトルは「勇者RPG(仮)」。開発が進行する中で「シルフェイド伝承録 碧空の獣達(仮)」と改められたが、最終的には「伝承録」が「見聞録」と被るという理由で「シルフェイド幻想譚」に決定した。二次創作として、本作の登場人物のアルバートとアーサが主役のRPGツクール2000製ゲーム『白き首長竜の剣』が有志の手により製作された。開発時に作者もテストプレイなどで協力しており、公式ファンサイトからダウンロードが可能。
シルフェイド幻想譚のストーリー 意識の海を漂っていた主人公の魂は、ある日リクレールにより肉体を与えられる。海に覆われた世界に浮かぶ天空島、主人公はそこに15日後訪れるという災いの阻止を、リクレールより頼まれる。主人公は世界を救うため、リクレールより与えられたパートナー「トーテム」とともに天空島を巡る旅へと出る。
シルフェイド幻想譚の主人公 リクレールにより肉体を与えられた人間。ゲーム開始時に性別、名前をプレイヤーが決定する。
クラウディアヌスの生涯 生涯の多くは不明だがローマ帝国のアレクサンドリアで生まれ育った。ギリシア人であり、母語はギリシア語。非キリスト教徒であった。若い頃にローマに移り、宮廷詩人として迎えられる。皇帝ホノリウスや将軍スティリコに使え、皇帝や将軍のためにヘクサメトロス形式の称揚詩や敵対する人物に対する誹謗詩を書き、絶賛された。また、未完成だが長編叙事詩も書いてる。記録は残っていないがローマで404年頃に没したと考えられている。死後、将軍スティリコはクラウディアヌスを偲んで、クラウディアヌスの詩をまとめた詩集を発表した。
陳湯の生涯 第5代コーク伯爵および第5代オーラリー伯爵ジョン・ボイルの次男(長男は1759年没)として、1730年2月3日に生まれた。1748年6月14日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1755年にB.C.L.の学位を修得、オックスフォード大学総長補佐の任期(1762年 – 1764年)中の1763年7月6日にD.C.L.の学位を授与された。1759年から1760年までチャールヴィル選挙区のアイルランド庶民院議員を務め、1761年イギリス総選挙でウォリック選挙区から出馬して当選した。ただし、グレートブリテン庶民院で発言した記録はなかったという。1762年11月23日に父が死去すると、コーク伯爵とオーラリー伯爵の爵位を継承した。しかし自身も1764年1月17日に未婚のまま死去したため、異母弟エドマンドが爵位を継承した。
フィルハーモニック・ウインズ大阪の概要 関西の若手演奏家により1999年に自主運営の「吹奏楽団パルス」として設立。2005年に現在の楽団名に改称し、同年10月に大阪市音楽団元団長の木村吉宏が音楽監督に就任した。2006年にプロの吹奏楽団として日本で初めてNPO法人となる。2009年にアメリカのシンシナティで開催された第14回世界吹奏楽大会に出演。2011年に豊能町教育委員会と「教育・文化・芸術等の振興」に関する協定を結び、豊能町立ユーベルホールを本拠地とする。2010年4月に社会人バンド「オオサカンアカデミーウインドバンド」、2012年1月にママさん吹奏楽団「オオサカンユーベルママブラス」をそれぞれ設立し、技術面、運営面のサポートを行っている。現在は年に2回の定期演奏会をいずみホールで行うほか、大阪府下を中心に演奏会や音楽鑑賞教室などの演奏活動、レコーディングなどを行っている。
東広島市立黒瀬中学校の概要 東広島市の南西部にある。昭和50年頃から校区の宅地造成が急激に進み、県下有数の大規模校となっている。しかし近年では生徒数はやや減少傾向にある。
マレーウオミミズクの分布 東南アジアに分布する。
マレーウオミミズクの形態 全長38-44cm。
マレーウオミミズクの生態 河川や海岸、池沼などの水辺近くの森林に生息する。主に魚類やカエルのほか、昆虫類、小型哺乳類、爬虫類なども捕食する。繁殖は樹洞や他の鳥類の古巣で行う。
葵 (AV女優)の人物 秋田県出身。2014年10月、エスワン専属女優でAVデビュー。デビューのきっかけは、知り合いの紹介で、有名志向がなかったため、顔にモザイクが入る作品へ1本だけの出演の話をしていた。芸名が「葵」に決定する前は「冴羽葵」を提案をした。
シャーガーの2歳時(1980年) シャーガーは1978年にアーガー・ハーン4世が所有する牧場で生まれた。2歳になるとイギリスの調教師マイケル・スタウトのもとへ預けられ調教を受けた。1980年9月にニューベリー競馬場で行われたクリスプレートに出走。デビュー戦を勝利で飾った。翌10月にG1フューチュリティステークスに出走。ベルデイルフラッターから2馬身半差の2着に敗れた。2戦1勝でシーズンを終えたシャーガーに対する評価はヨーロッパ全体の競走馬を対象とした2歳フリーハンデで31位、ブックメーカーが年末に作成したダービーステークスの単勝オッズが34倍とさほど高いものではなかった。
シャーガーの3歳時(1981年) 1981年、陣営は2000ギニーには出走せず目標をダービーステークス一本に絞った。4月のクラシックトライアルで10馬身、5月のチェスターヴァーズで12馬身差の着差をつけて優勝し、単勝オッズ1番人気(1.9倍)で6月3日のダービーステークスに出走した。シャーガーは好位からレースを進め直線入り口で先頭に立つと、そのまま優勝。2着馬につけた着差は、公式の記録に残されるようになって以来ダービーステークス史上最大となる10馬身であった。騎乗していたウォルター・スウィンバーンはレース後「あんな大差が付いてるとはちっとも気づかなかったよ。」というコメントを残している。6月27日にはアイリッシュダービーを勝ち、イギリス・アイルランド両国のダービーを勝った史上7頭目の競走馬となった。翌7月25日にはキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを優勝した。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス優勝後、陣営はセントレジャーステークス出走を表明した。この当時ダービーステークス優勝馬がセントレジャーに出走することはめずらしくなっており、この発表は競馬関係者を驚かせた。陣営は凱旋門賞のステップレースとしてセントレジャーステークスを選んだのだと説明した。シャーガーは単勝1.4倍の1番人気に支持されたがレース終盤に伸びを欠き、4着に敗れた。レース後陣営は凱旋門賞出走を取り消しシャーガーを引退させると発表した。シャーガーはこの年のイギリス年度代表馬に選出された。
シャーガーの種牡馬となりバリメニー牧場で繋養される 競走馬を引退したシャーガーはアーガー・ハーン4世がアイルランドで経営するバリメニー牧場で種牡馬となった。キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス出走前にすでに総額1000万アイルランド・ポンド(約43億円、1株25万アイルランド・ポンド×40株)のシンジケートが組まれていた。1982年の春には44頭の牝馬と交配され、翌年28頭の仔馬が生まれている。初年度の産駒は28頭で、そのうちの一頭アウザールはアイリッシュセントレジャーで優勝、シャーガー産駒の代表格となった。このほかには、1000ギニー2着・オークス3着の成績を残した牝馬メイスーンらを出している。産駒の総収得賞金は28万4426ポンドであった。
シャーガーの誘拐事件 1983年の繁殖シーズンが始まる直前の2月8日夜9時ごろ、覆面をつけた男6人がバリーメニー牧場に侵入し、牧場長を銃で脅してシャーガーを誘拐する事件が起こった。その翌日、犯人グループから200万ポンド(約7億円超)の身代金を要求する電話があり、シンジケート側がこれを拒否すると、以後の連絡は途絶え、シャーガーの行方は完全に不明になった。アーガー・ハーン4世に恨みを持つ者の犯行説や、アメリカに連れ去られたなどさまざまな説が流れたが、結局真相は解明されなかった。1984年1月、アイルランドの警察は事件はアイルランド共和軍 (IRA) によるもので、シャーガーは誘拐後間もなく殺害された模様との見解を発表した。なお1983年11月、イギリスの保険会社はシャーガーのシンジケート株の所有者に対し総額700万ポンドの保険金を支払っている。産駒のなかではアウザールが最も活躍したが、種牡馬入り後すぐに日本に輸出されてしまったため、父系は途絶えた。ただし現在でもイラン・イスラム共和国で存続している可能性がある。1999年、グッドウッド競馬場にてシャーガーの名を冠した騎手招待競走のシャーガーカップが創設された。現在は8月のアスコット競馬場において開催され、ヨーロッパおよび世界各地から有名騎手が招待される大イベントとして認知されるに至っている。
シャーガーのエイプリルフール シャーガー消失から8年後の1991年、イギリス新聞ザ・サンの1面に「シャーガーは生きていた。去勢されているが元気であり、7月のキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークスに出走予定」との記事が掲載された。結局これはエイプリルフールのジョークだったが、このネタは以後エイプリルフールの定番ネタとなり、毎年その時期になると英国各地でシャーガーが発見されるようになった。さらに、シャーガーの死亡証言や遺体と思しきものも頻繁に見つけられている。1992年、サンデータイム紙は別件で逮捕されたIRA暫定派のメンバーからの証言として、IRA暫定派が資金確保のため誘拐し、シャーガーが暴れたためすぐ射殺されたとの証言が得られたと報じている。また1996年には同じくサンデータイムから、北アイルランドのダンゴール州でシャーガーの遺体らしき骨が発見されたという報道があった(のちにエイプリルフールのジョークと判明する)。2000年にはバリーメニー牧場から160キロメートル離れた山中で、2つの弾痕がある馬の頭部が袋に入れられた状態で発見され、シャーガーのものではないかと騒ぎになった。獣医師によりシャーガーから採取されていた2本の毛髪、およびシャーガー産駒とのDNA鑑定が進められたが、そのDNAは一致せず、さらに2歳ごろの仔馬の骨であることが判明し、これもまたシャーガーとは無関係であったことがわかった。
シャーガーの映画化 シャーガーの誘拐事件をもとにした映画も存在する。1999年にアメリカのハリウッドで作られた映画『シャーガー(Shergar、デニス・ルイストン監督作品)』がそれであり、シャーガーが同馬を大切にしていた一人の少年によって助け出される流れの話となっている。
シャーガーの血統 ファミリーラインを溯ると、7代母にアーガー・ハーン4世の祖父アーガー・ハーン3世の所有馬ムムタズマハルがいる。
ライアン・カーンズの略歴 デューク大学卒業(在学中はマーチング・バンド部に所属)。初主演作品「Eating Out」および出世作となった『デスパレートな妻たち』では、いずれも同性愛者の青年を演じたが、本人はゲイではないと話している。特に『デスパレートな妻たち』では、多くの若者の支持を受けたアンドリュー・バン・デ・カンプの同性の恋人の役柄で注目を集めた。
和田正武の出自 父は南朝に仕えた和田正興ともされているが、正武の出自に関しては諸説あり、はっきりとしていない。当時、南朝に仕えた者のなかでは楠木正季の子の和田高家・賢秀兄弟などが和田姓を称しているが、彼らと正武との関係は不明。正武らの和田氏を楠木氏一族とは別流とする見解もある。
和田正武の生涯 楠木氏の当主楠木正儀とともに南朝の後村上天皇に仕えた。正平7年/文和元年(1352年)、足利尊氏が東国に拠った弟直義を討つため出陣すると、南朝は北畠親房指揮のもと一斉に蜂起し、京に残った尊氏の子義詮を追い出して京都を一時的に占領する(正平一統の破綻)。しかし、程なくして細川氏や佐々木氏らに保護された義詮の巻き返しに遭い、撤退。この時、子の正忠が美濃守護土岐頼康の弟康貞(悪五郎)を一騎討ちで討ち取るなど南朝方は奮戦するものの、結局敗れて再び賀名生に逃れた。正平23年/応安元年(1368年)3月、後村上天皇が崩御し長慶天皇が即位する。長慶天皇は北朝に対してきわめて強硬な姿勢をとった。そのため和睦派の正儀と対立するようになり、翌年になって管領細川頼之の誘いを受けた正儀は北朝方に転じた。正儀の裏切りに激怒した長慶天皇は、正武らに正儀への攻撃を命じた。正武は軍勢を率いて(南朝方に留まっていた正儀の子・正勝を擁していたともされる)正儀の本拠地東条城へと攻め込んだが、細川氏らの援軍を得た正儀に撃退された。建徳2年/応安4年(1371年)にも正武は四条隆俊(隆資の子)とともに再び東条城を攻めるが、攻めきれず撤退している。文中2年/応安6年(1373年)、幕府は正儀を先鋒に南朝の本拠地であった天野山金剛寺を攻める。正武らは必死に防戦するも支えきれず、四条隆俊が戦死するなど南朝方の敗北に終わった。弘和2年/永徳2年(1382年)に正儀が再び南朝方に転じた後、正武は死去した(死因は病死とされるが、具体的な没年に関しては不明)。
変幻自在のマジカルスターの音楽性 本曲は、テレビアニメ『黒子のバスケ』の第2期2クール目のオープニングテーマに起用された。甘酸っぱく切ないラブソングで、歌詞はNBAで使われる「頼れるエース」を意味する「Go to guy」が盛り込まれている他、岡村靖幸の13thシングル「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」に登場するフレーズ「35連敗」や彼の作品に頻繁に登場する「ピーチ」を基にした「peachmind」をちりばめるなど岡村靖幸へのオマージュ的な内容に仕上がっている。
変幻自在のマジカルスターのシングルリリース 2014年2月12日にLantisから発売された。GRANRODEOのシングルとしては前作「The Other self」から約4か月ぶりのリリースとなる。販売形態は初回限定盤(LACM-34189)・通常盤(LACM-14189)・アニメ盤(LACM-14190)の3種リリースで、初回限定盤には本曲のPVを収録したDVDが同梱され、アニメ盤のジャケットには『黒子のバスケ』の登場人物である黒子テツヤと火神大我のイラストが描かれている。2曲目「絶頂ポイズン」は、『白雪姫』をテーマとしたロカビリー調のダークな曲。歌詞は完璧な女性の裏の部分を推測する内容になっている。3曲目「Once & Forever(Plugless Live Edition)」は、ファンクラブ『ロデオ組』限定のライブで歌われた「Once & Forever」のセルフアレンジバージョンである。
変幻自在のマジカルスターのチャート成績 オリコン週間チャートで10位を獲得。19thシングル「偏愛の輪舞曲」から3作連続でTOP10を獲得している。初動売上枚数は1.5万枚であり、前作から約0.1万枚減少した。デイリーチャートでは、2月16日付けのチャートで3位を獲得し、3作連続でTOP3入りを果たした。また、COUNT DOWN TV This week 's TOP100で15位を獲得。3作連続でTOP20入りした。また、オリコン月間チャートで30位を獲得した。月間チャートのTOP30入りは「偏愛の輪舞曲」から3作連続である。尚、2作連続で月間チャートで2.0万枚超えでランクインしている。
キヌバネドリ属の系統と分類 旧大陸キヌバネドリ類(アジアキヌバネドリ属+アフリカキヌバネドリ属+Apalharpactes と姉妹群である。
益田武衛の生涯 徳島藩の中老である仁尾永捷の息子として生まれる。後に仁尾氏の旧姓である益田氏を継ぐ。1869年(明治2年)に阿部興人・南堅夫と共に外交御用となり上京。1870年(明治3年2月28日)に長州藩で起こった脱隊騒動の視察を命じられ、阿部・益田と共に徳大寺実則一行と蒸気船・戊辰丸(徳島藩船)に乗り、山口を視察、その後、東京に戻る。同年9月15日に庚午事変(いわゆる稲田騒動)の首謀者である新居水竹の切腹の介添人を勤める。1876年(明治9年)、自由民権運動の結社である普通社を創設。その後、同社社長兼主筆となり、普通新聞を発行した。普通新聞の廃刊後は、徳島県会議員となり、県政に携わった。
あさきゆめみし 〜八百屋お七異聞の概要 江戸本郷を舞台に、恋人に会いたい一心で放火事件を起こしてしまい火刑に処せられた八百屋お七の悲しい恋物語を題材に、ジェームス三木が脚本を手がける。お七の放火事件については諸説あるが、本作では恋人、吉三郎を救うためにお七自ら罪人となるという設定で描かれる。ヒロイン・お七を演じる前田敦子はNHKドラマ初主演、時代劇初主演。現在DVDが発売されている他、2014年8月31日までNHKオンデマンドで配信されていた。
有蹄類の特徴 ここでは、現生の蹄の発達した有蹄類である、偶蹄類・奇蹄目・長鼻目について述べる。ひづめを持ち、蹄行性である。かかとは地面に付かない。ほとんどの場合、指は5本より減っている。大型の草食動物であり、セルロースを消化できる。脊椎動物共通の性質として有蹄類も生化学的にはセルロースを分解できないため、分解は腸内細菌によるものである。腸内細菌の所在など細部の機構は目により異なる。
戦術高エネルギーレーザーの概要 THELの本格的な開発は、1996年7月18日のアメリカとイスラエルの協定により開始された。THELは高エネルギーレーザーを利用した光学兵器システムで、レーザー生成技術とレーザー制御技術とを組み合わせ現存のセンサーや通信技術から新しい対空防衛能力を持たせようとしていた。THELの目標は、短距離から中距離にかけての接近戦での問題に、他のシステムや技術とは異なる解決法を提供し、それにより戦闘部隊の能力を高めることである。また、THELは1迎撃辺りのコストが約3,000USドルと低く、空からの脅威に対して、費用対効果に優れた低コストな防御策となる可能性がある。60回の射撃で再装填し、5kmの範囲では100%に近い迎撃率となることを目標としている。THELは1998年に発射試験を行い、初期作戦能力(IOC)の獲得は1999年と計画されていた。しかし、移動型のMTHELのため再設計を行い、かなりの遅れが発生した。最初の固定式のデザインにはかなりの重量、サイズ、電力の制限があり、現代の流動的な戦闘には適していなかった。MTHELの目標は大きなセミトレーラー3台分のサイズで移動できることである。最近になり、イスラエル政府が予算を減少させたため、IOCは少なくとも2010年まで延期されている。ノースロップ・グラマンが主契約社として開発している。使用されるレーザーはフッ化重水素レーザーによる波長3.8μmの中赤外線域化学レーザーであるため大気圏内での減衰が少ない。2000年から2001年にかけて、THELは28発のカチューシャのロケット弾と、5発の砲弾を撃墜している。また、MTHELもテストを成功裏に完了した。2004年8月24日に行われたテストでは複数の迫撃砲弾の撃墜にも成功している。このテストでは実際の迫撃砲による攻撃を想定し、単体の迫撃砲による射撃と、一斉射撃の両方が試験された。目標はTHELの実験機により迎撃、破壊された。
戦術高エネルギーレーザーの同種の兵器 2010年7月19日、イギリスで開催されたファーンボロー国際航空ショーでは、軍艦に設置された米レイセオン社レーザー兵器が、レーダーシステムによる誘導の下、約3.2キロ先を時速480キロで飛行する無人航空機4機を32キロワットという高エネルギーレーザー兵器により破壊するというデモンストレーションを行った。無人航空機は数秒で焼き払われたという。レイセオン社のレーザー兵器はレーザー設備6基を使用、軍艦に設置し、強力な高エネルギーレーザービームを合成させる事で威力を高めているという。米軍艦の「ファランクス」艦艇用近接防御火器システム(CIWS)と連携し、そのレーダーシステムを使い照準を定める。無人航空機以外に、小型艦船・迫撃砲弾・ロケット弾などへの攻撃・迎撃にも使用可能であり、2016年に実戦配備される見通しである。これまでは、大気中の減衰のためレーザー光線によるエネルギーの遠距離伝達は極めて困難であり、まだまだ兵器としての実用化には程遠いものと考えられてきた。しかし最新の技術情報によれば、ポーランドで遠距離到達も可能な極めて高出力のレーザー衝撃波を生成することを可能にする技術的なブレークスルーがあったとの報道が2014年に行われた。
マルバアオダモの特徴 幹の高さは5-15mになる。若い枝は緑色で、若枝や花序、葉柄には細毛があり、次年には灰白色になる。葉は、長い葉柄をもって枝に対生し、3-5(-7)葉からなる奇数羽状複葉で、小葉の形は卵形から卵状長楕円形になる。葉の先端は鋭尖形で、基部はゆがんだくさび形で、葉身の長さ(3-)5-10cm、幅1.5-3.5cmになる。ふつう葉の裏面の中脈沿いに白毛が生えるが、のちに無毛になる場合がある。葉の縁はほぼ全縁であり、鋸歯は不明瞭で波打つ程度。同属のアオダモ(青梻、学名:Fraxinus lanuginosa f. serrata)には明瞭な鋸歯がある。和名のマルバは、葉の形や葉先が丸いことを表すわけではなく、縁に明瞭な鋸歯がなく滑らかであるためといわれている。葉の形の実態を表す別名として、ホソバアオダモ(細葉青梻)がある。花期は4-5月、今年枝の頂や葉腋に円錐花序が数個対生し、白色の4弁花を密に咲かせる。花弁は線形で長さは6-7mm。雄蕊は、雄花、雌花(両性花)ともに2本あり、雌蕊は雌花(両性花)に1本ある。果実は長さ2-2.7cmの翼果となる。
マルバアオダモの分布と生育環境 日本では、北海道、本州、四国、九州に分布し、低い山地に生育する。アジアでは朝鮮に分布する。
瑞芳菴流の流祖 西山水仙を流祖とする。淀藩稲葉家に仕えた国家老の家柄に生まれ、早くから煎茶を嗜む。のちに瑞芳菴流を立て、京都へ移住した。
瑞芳菴流の活動 世界遺産二条城や祇園祭、平安神宮での煎茶会や献茶式を担う。宇治では、毎年6月1日に宇治上神社にて新茶献茶式を担当するほか、宇治市営茶室「対鳳庵」においても呈茶している。かつては城南宮や石清水八幡宮でも活動していた。
緊急時対策支援システムの概要 緊急時対策支援システム(ERSS) 緊急事態において、国が原子力災害応急対策を実施するに当たり、必要となる事故進展予測を支援するために、電気事業者 から送られてくる情報に基づき、事故の状態を監視し、専門的な知識データベースに基づいて事故の 状態を判断し、その後の事故進展をコンピュータにより解析・予測するシステム。チェルノブイリ原発事故などを受け、原子力事故が起きた際の国の対応を迅速化する目的で導入された。全原発55基の原子炉の圧力や周辺の放射線量などの状況を一元的に把握し、事故状況を予測することなどができる。これまでに国が155億円以上を投じ開発・運用してきた。
緊急時対策支援システムの開発・運営の主体 2003年9月まで(財)原子力発電技術機構が実施してきたERSSの開発、運用は2003年10月 以降独立行政法人原子力安全基盤機構が引き継ぐ。2014年3月1日、原子力安全基盤機構が原子力規制庁と統合、原子力規制委員会が引き継ぐ。
緊急時対策支援システムの福島第一原子力発電所事故における使用 総理大臣官邸危機管理センターには2・3号機の緊急時対策支援システム(ERSS)の予測が送付されている。地震により外部電源を喪失した2011年3月11日午後2時47分ごろにデータの送信が停止。(外部リンク参照) ERSSを所管した経済産業省原子力安全・保安院は「非常用電源が接続されていればデータが受け取れた」と認めており、本震から余震で国の通信網がダウンする3月11日午後4時43分ごろまでの約2時間、本震直後のデータを生かすことができた可能性が高い。
削減経の参照 http://planetmath.org/examplesof1automorphicnumbers
上山あゆみの色調と風味 カカオリカーから圧搾した直後のココアバターは、若干の非脂肪カカオ分を含有するため、薄黄色である。未脱臭のココアバターには独特の匂いがある。脱臭処理を行うことで、白色・無味・無臭に近くなる。
笈川幸司の食品以外への利用 ココアバターは室温で保管でき体温で溶けるため、座薬などの基礎薬剤として用いられる。また、安定した脂質であり、天然の酸化防止剤を含んでいるため腐りにくく、2-5年貯蔵することができる。ココアバターの滑らかな素地、甘い芳香、皮膚を軟化させる特性のため化粧品と石鹸やローションなどのスキンケア製品としてよく使われる。
トゥーラックハンデキャップの概要 埼玉県所沢市出身。日本大学文理学部教育学科卒業。1996年5月から衆議院議員の公設秘書を務める。1997年に秘書を辞めた後、東京の事務所で漫才の道に。「NHK爆笑オンエアバトル」、「TBSお笑い道場」等に出演。2001年芸能界を辞め北京へ。2001年7月、北京美国英語語言学院で講師に着任したのを皮切りに、2002年2月~2004年12月清華大学、2005年~2007年8月北京大学、それぞれで講師を務め2007年9月に清華大学に復帰。教え子である清華大学生が、北京市スピーチ大会で6大会連続優勝。北京大学生が、北京市日本語コンテスト5大会連続優勝。KODAMAメンバーが、全国大会優勝4回。JASLONメンバーが、全国大会優勝3回の実績を持つ。2011年9月~2013年3月、日本大使館後援『日中国交正常化四十周年記念全国講演マラソン』で中国500以上の大学で講演、45都市で教師研修を行う予定。
製紙業の概要 世界的な製紙業は北米(アメリカ合衆国、カナダ)、北ヨーロッパ(フィンランド、スウェーデン)と東アジア(中国、日本、韓国)が最も盛んな地域である。近年はインドネシア、インド、タイなどのアジアの国やオーストラリアとブラジルなどのラテンアメリカもまた、製紙業が盛んとなってきている。中国は2001年に日本を抜いて世界2位となり、2009年には首位となるなど、近年急速な発展をし、2012年には世界の1/4に当たる年間1億トンを製造するに至った。もともとは、木材のチップを加工したパルプを原料として紙を製造することが主流であったため、森林に近い地域で盛んな産業であったが、近年はリサイクルされた古紙や裁落を原料として製造する比率が高まったことから、森林から遠い地域での製造も増えている。
相川広秋の経歴・人物 大正14年(1925年)東京帝国大学農学部水産学科を卒業後、農林省(現 農林水産省)水産講習所・水産試験場技師を経て、昭和17年(1942年)より九州帝国大学の教授となり、同大天草臨海実験所長、長崎大学教授、水産庁調査研究部長、津屋崎水産実験所長を兼任。その他、中央漁業調整審議会委員、日本学術会議会員などを歴任した。プランクトンの研究に従事し、国内の水産資源学の発展に尽力した。昭和13年(1938年)「日本産短尾甲殻類ノ幼形ニ関スル研究」で農学博士。
吉野周太郎 (10代)の経歴 陸奥国白河郡、後の福島県西白河郡白河町(現白河市)で素封家・伊藤善右衛門の三男として生まれ、1888年(明治21年)7月、信夫郡八島田村(信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田)の9代吉野周太郎の婿養子となる。1911年(明治44年)8月、養父の死去に伴い家督を継承し、同年11月、10代周太郎を襲名した。養父の築いた多額の財産により、福島第六銀行頭取、第百七銀行頭取、福島銀行頭取、武蔵野銀行頭取、岩代銀行頭取、福島電灯社長、夏井川水電取締役会長、福島羽二重取締役会長、福島県購買組合連合会理事長、同県信用組合連合会理事長などを務めた。1925年(大正14年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられた。昭和金融恐慌、世界恐慌により財産を失い、貴族院議員を1928年(昭和3年)10月27日に辞職した。
ザクセン=ラウエンブルクの歴史 ザクセン公国は1296年の分割相続により、ザクセン=ラウエンブルクとザクセン=ヴィッテンベルクに分裂した。ザクセン=ラウエンブルク公爵の居所はラウエンブルク及びラッツェブルクに置かれた。分裂した2つの公国は、成立当初からザクセン公が持つ選帝侯の地位を巡って対立した。1314年の国王選挙では、ハプスブルク家のフリードリヒ3世(美王)とヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世が競合状態となった。この選挙でザクセン=ラウエンブルク公ヨハン2世はザクセン選帝侯としての資格でルートヴィヒ4世に投票、一方でザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世は同じくザクセン選帝侯の資格でフリードリヒ3世に票を投じた。1314年の国王選挙では、ザクセン=ラウエンブルクの支持したルートヴィヒ4世が最終的に勝利、1328年には神聖ローマ皇帝に即位した。しかしルートヴィヒ4世は1346年、対立王に選出されたルクセンブルク家のカール4世によって廃位され、翌1347年に没した。カール4世はザクセン=ヴィッテンベルク公ルドルフ1世に支持されており、1356年の金印勅書では、ザクセン=ヴィッテンベルク公がザクセン選帝侯と定められた。ザクセン選帝侯に昇格したザクセン=ヴィッテンベルク系のアスカーニエン家(アスカン家)が1422年に絶えた時、ザクセン=ラウエンブルク公エーリヒ5世は選帝侯位を相続しようとしたが叶わず、ヴェッティン家のマイセン辺境伯フリードリヒ4世がザクセン選帝侯位を獲得した。ザクセン=ラウエンブルクは14世紀以後、1180年に崩壊した部族公国時代のザクセン公国の後継国家であることを示すため、ニーダーザクセン(Niedersachsen)と称するようになった。1500年に神聖ローマ帝国が税の徴収や共同軍事行動のために帝国クライスを設置した際、ザクセン=ラウエンブルクとその近隣地域はニーダーザクセン・クライス (en) とされた。一方、ヴェッティン家の支配下に移っていたザクセン選帝侯領とその近隣地域はオーバーザクセン・クライス (en) とされた。1689年にユリウス・フランツが死ぬと、ザクセン=ラウエンブルク系アスカーニエン家の男系は絶えた。しかしながら、ザクセン=ラウエンブルク公爵家の家内法では女子相続も可能とされていた。ユリウス・フランツの2人の娘、アンナ・マリアとジビッラ・アウグスタは、亡き公爵の長女であるアンナ・マリアが公国を相続できるよう奔走した。しかし近隣のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国の一部を統治するリューネブルク侯ゲオルク・ヴィルヘルムは姉妹の弱みにつけ込み、軍勢を引き連れてザクセン=ラウエンブルクを侵略し、武力でアンナ・マリアの女子継承を阻止した。ゲオルク・ヴィルヘルムが女子継承に異議を唱えると、同様に近隣諸国の君主たちもザクセン=ラウエンブルクの相続権を主張したため、各国の間で継承に関する揉め事が起きた。ザクセン=ラウエンブルクの相続人に名乗りを挙げたのはメクレンブルク=シュヴェリーン公国、デンマーク王領ホルシュタイン公国、ザクセン=ラウエンブルク公爵家と同族の5つのアンハルト侯領、ザクセン選帝侯領、スウェーデン及びブランデンブルク=プロイセンである。ゲオルク・ヴィルヘルムとデンマーク・ノルウェー王クリスチャン5世は1693年10月9日にハンブルクの和議(Hamburger Vergleich)を結んだ。この和議では、ザクセン=ラウエンブルク公国の大部分を事実上支配しているリューネブルク侯領が、占領後にホルシュタインに対峙するために築いたラッツェブルクの要塞が解体されることを認めた。その代わり、デンマーク領ホルシュタインはラッツェブルク要塞を破壊した上で、ザクセン=ラウエンブルク領内から撤退することになった。結局、ラント・ハーデルン (en) を除くザクセン=ラウエンブルクはゲオルク・ヴィルヘルムとその相続人であるブラウンシュヴァイク=リューネブルク(ハノーファー)選帝侯家が領有することになった。一方、正統な女子相続人であるアンナ・マリアとジビッラ・アウグスタ姉妹は追放されてボヘミア領プロスコヴィツェ (en) に亡命した。神聖ローマ皇帝レオポルト1世はゲオルク・ヴィルヘルムのザクセン=ラウエンブルク占有に承認を与えず、リューネブルク侯が支配を及ぼせないハーデルンを自分の管理下においた。1728年、レオポルト1世の次男カール6世はゲオルク・ヴィルヘルムの外孫のグレートブリテン王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世(ゲオルク2世アウグスト)にザクセン=ラウエンブルク継承に関する承認を与え、ゲオルク・ヴィルヘルムが1689年と1693年に行った占領行為を正当化した。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯(ハノーファー選帝侯)は1714年よりグレートブリテン王を兼ねたため、ザクセン=ラウエンブルクはグレートブリテン王国と同君連合関係になった。公国は1803年にフランス軍に占領されたが、1805年にフランス軍はオーストリアに対する遠征に参加するためザクセン=ラウエンブルクを離れた。イギリス、スウェーデン、ロシアは1805年の秋、第三次対仏大同盟戦争の初期にザクセン=ラウエンブルクを占領した(1806年まで)。1806年の初頭には、プロイセン王国がフランスよりザクセン=ラウエンブルク公国の領有権を譲られる形で同公国を占領支配した。しかしプロイセンは1806年8月6日の神聖ローマ帝国解体により、ブランデンブルク選帝侯の称号を失ったことに反発し、第四次対仏大同盟に加わってフランスに敵対した。フランスは1806年11月にイエナ・アウエルシュタットの戦いでプロイセンに勝利すると、ザクセン=ラウエンブルクを再占領した。ザクセン=ラウエンブルクはしばらくフランスの占領下に置かれたが、1807年から1810年まで領土の大部分がフランスの衛星国ヴェストファーレン王国に併合され、人口1万5000人ほどの公国領の一部のみがナポレオンの直接支配下に残された。1811年1月1日、ヴェストファーレン王国内のザクセン=ラウエンブルクの大部分が再びフランス帝国領に戻された。ナポレオンの失脚後、1813年にザクセン=ラウエンブルク公国はブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領との同君連合に戻された。ウィーン会議の決定により、ザクセン=ラウエンブルクはドイツ連邦の独立構成国の一員となった。1814年、ハノーファー王国(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領が昇格)はプロイセンとの領土交換を行い、ザクセン=ラウエンブルクを譲渡してオストフリースラント (en) を手に入れた。1815年6月7日、プロイセンはザクセン=ラウエンブルクに260万ターラーの補償金を付けてデンマーク王国に譲渡し、代わりにデンマークのポンメルンに対する相続請求権を放棄させた。当初、プロイセンはスウェーデン領ポメラニア (en) の取得に対する補償としてスウェーデン政府にザクセン=ラウエンブルクを渡そうとしたが、デンマークがスウェーデン領ポメラニアに対する相続請求権を有していたため、スウェーデンが譲歩することとなった。これは1814年のキール条約によるスウェーデンのノルウェー王位取得の代償にポンメルンをデンマークに譲渡するとの履行が果たされず、プロイセンに併合されたため、失われたポンメルンの代りの補償とされたのである。これにより、デンマーク王国とザクセン=ラウエンブルクの同君連合が成立した。プロイセンは第2次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 (en) の最中にザクセン=ラウエンブルクを占領した。1865年、ザクセン=ラウエンブルクの封建身分はプロイセン王ヴィルヘルム1世にザクセン=ラウエンブルク公爵位を差し出し、ヴィルヘルム1世はこれを受諾したためプロイセンとの同君連合が成立した。ヴィルヘルム1世はプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクをザクセン=ラウエンブルク宰相に任命し、公国はビスマルクの政府の下で1867年に北ドイツ連邦に加盟した。1871年のドイツ帝国成立に際し、ザクセン=ラウエンブルクも帝国の構成国に加わった。しかし、1876年7月1日に公国の政府と身分議会は公国の解体を決定し、ザクセン=ラウエンブルクはプロイセン領シュレースヴィヒ=ホルシュタイン県 (en) のヘルツォークトゥム・ラウエンブルク郡 (en) とされた。その後、同郡は1918年の君主制廃止に際してプロイセン州に所属し、1946年にはドイツ連邦共和国のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に属し、現在に至っている。
閔丙大の略歴 普成専門学校 (現在の高麗大学校) を卒業後、1940年6月7日に開催された紀元二千六百年奉祝東亜競技大会で日本代表として初出場した。第二次世界大戦後は大韓民国代表に選出され、1948年のロンドン五輪で2試合、1954 FIFAワールドカップ・予選および1954 FIFAワールドカップで各1試合出場した。現役引退後は指導者となり、大韓民国代表の監督を3度 (1962年、1966年、1972年から1973年まで) 務めた。
国鉄タキ8900形貨車のタキ8900形 タキ8900形は、アスファルト専用の30t 積タンク車として1961年(昭和36年)4月18日に4両(タキ8900 - タキ8903)、同年5月4日に2両(タキ8904 - タキ8905)の合計6両が日本車輌製造にて製作された。本形式の他にアスファルトを専用種別とする形式にはタキ9200形(後記)、タキ11700形(後記)の2形式が存在した。落成時の所有者は、シェル石油でありその常備駅は三重県の塩浜駅であった。1977年(昭和52年)3月2日に全車(6両)が北海道廃油処理工業(1983年(昭和58年)4月に「ホクハイ」へ社名変更)へ名義変更された。1979年(昭和54年)10月より化成品分類番号「90」(有害性物質、危険性度合3(小))が標記された。荷降ろし時のためにオイルバーナーをタンク体内部に装備した。オイルバーナーの炎が焔管にてタンク体内部へ導かれ、焔管は車体中央で折り返して鏡板から突き出た煙突に連なっている。この方式は後形式であるタキ9200形、タキ11700形にも引き継がれた。車体色は黒色、寸法関係は全長は13,100mm、全幅は2,400mm、全高は3,886mm、台車中心間距離は9,000mm、実容積は34.0m³、自重は22.3t、換算両数は積車5.0、空車2.2であり、台車はベッテンドルフ式のTR41Cであった。1987年(昭和62年)3月の国鉄分割民営化時に車籍がJR貨物に継承されたが、同年7月に全車一斉に廃車となり同時に形式消滅となった。
JamバンドのMusic Maker Music Maker は、MAGIX製造・AH-Software (AHS) 輸入販売のDAWである。日本版は2007年12月21日、Music Maker Producer Edition(以下「バージョン1」)が発売され、2009年3月19日には Music Maker 2 Producer Edition にバージョンアップした。なお、日本では Producer Edition(以下「通常版」)のみがラインナップされている。数量限定の「特別限定版」として、「Music Maker Producer Edition jamバンド」と「Music Maker 2 Producer Edition jamバンド」が、それぞれ通常版と同日発売された。これらは、パッケージデザインが大幅に異なり、萌え系のオリジナルキャラクターの「jamバンド」がデザインされていて(通常版は音符を中心に据えたシンプルなデザイン)、タイトルロゴも、「jamバンド」が「Music Maker ~」より大きくなっている。中には、オリジナルキャラクターグッズ等が同梱されており、また、通常版のパッケージも箱ごと入っている。ソフトウェア本体は、インターフェースが「jamバンド仕様」になっているほかは同じで、音楽ソフトとしての機能に違いはない。
JamバンドのSound PooL Sound PooL は MAGIX製造・AHS輸入販売の著作権フリーオーディオ素材集である。Music Maker 用の追加データとして最適化されているが、Music Maker 以外でも使用は可能である。日本版は2008年5月16日にVol.1と2が同時発売され、現在 Vol.8 まで販売されている。Sound PooL に対しては、「jamバンドパック」が発売されている。「jamバンドパック」は Sound PooL 2巻ずつとオリジナルキャラクターグッズが同梱されており、2巻セットであること以外は音楽ソフトとしては同じである。現在までに、I (Vol.1&2)、1.5 (Vol.3&4)、II (Vol.5&6)、III (Vol.7&8) が通常版と同時発売された。Music Maker の「jamバンド」と違い、数量限定とはされていないが、「I」は入手困難になっており、通常版のように継続的に販売されるかどうかは不明である。