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九二式艦上攻撃機の概要 昭和7年(1932年)に日本海軍は、この年に制式採用された八九式艦上攻撃機の後継機作成を中島、三菱の両社に指示した。しかし、少しでも早く後継機を実用化したかったため、これと並行して海軍航空廠でも独自に後継機の開発を行うことにした。海軍航空廠では開発失敗のリスクを軽減させるために、既に旧式になっていた一三式艦上攻撃機の機体各部を改修した試作機を開発し、中島、三菱製の試作機との比較審査に臨んだ。その結果、性能面では大差はなかったが、操縦性、安定性で本機が一番優れていることが判明した。早急に八九式艦上攻撃機の後継機を必要としていた海軍は、愛知航空機に機体の改修・設計を依頼し、昭和8年(1933年)に本機を九二式艦上攻撃機として制式採用した。本機は一三式艦上攻撃機をベースにしていたが、機体の骨組みを鋼管化したりエンジンも広工廠で開発した強力なものを搭載しており、機体各部も再設計されたことによってより洗練されたものになっていた。ただし、広工廠製の新型エンジンはトラブルが多く、部隊配備後もエンジンの不調に悩まされることとなった。制式採用後は航空母艦鳳翔や龍驤に搭載されるなど、支那事変(日中戦争)中の主力機の一部として活躍した。生産は主に愛知航空機で行われたが、後期には広工廠や渡辺鉄工所でも少数機生産された。初期の生産型は2枚翅のプロペラだったが、途中から4翅に変更された。また後期に生産されたものには、垂直尾翼や排気管の改設計を施された機体もあった。生産機体数は128機である。
UFC 230の大会概要 本大会では王者ダニエル・コーミエと挑戦者デリック・ルイスによるUFC世界ヘビー級タイトルマッチが組まれた。
UFC 230のカード変更 負傷などによるカードの変更は以下の通り。
東葉高等学校の歴史 この正門は明治中期に上飯山満村(現在の飯山満町)の旧家近藤四郎左衛門家の屋敷の長屋門として造られたもので、桁行11巻2尺(約20.6m)・梁間2間半(約4.5m)ある。現在では、東葉高等学校が近藤家の屋敷跡に移転するのにあたり修復され、「東葉門」の名称で同校の正門として活用されている。 また、この門は国の登録有形文化財に登録されており、日々通学門として親しまれている。
東葉高等学校の旧家近藤四郎左衛門家 近藤四郎左衛門家は、江戸時代において上飯山満村の名主総代を務めていた豪農で、苗字・帯刀を許され、江戸時代末期には同村に接していた小金下野牧と呼ばれた幕府管轄の牧場の管理(牧士)を命じられた家柄だった。1849年(嘉仁2年)の12代将軍徳川家慶の獅子狩りの功績で、中野牧の牧士を兼任し、帯刀・乗馬・鉄砲の所持を許され、村人は近藤四郎左衛門家のことを大近藤(おおこんどう)と呼び「水戸の黄門か、飯山満の四郎左衛門か」と云われたが、昭和の初期に行われた農地改革によって没落してしまった。農地改革で手放した田畑は120町歩にも及んだとされる。なお、この門は歌舞伎役者の阪東妻三郎が無声映画「野火の兄妹」を製作した際に、撮影に使われている。飯山満地区に「近藤」という姓の旧家が多いのは、この近藤四郎左衛門家に由来する。
熊飛のクラブ 2010年、南京有有から上海申花へ完全移籍した。2018年1月17日、遼寧宏運足球倶楽部へ移籍した。
遠藤優也の略歴 1991年、東京都大田区に次男として生まれる。小学生の頃はドッジボールクラブに所属し、全国大会に3回出場した。当時のドッジボールスピードガンコンテストでは全国2位の実績を誇る。学生時代にはバスケットボールの選抜チームに抜擢される。雑誌「stereet JACK」の読者モデルとして活動していたが、2014年に某大手企業に就職した後はタレント活動を休止。2017年、ライブ配信やDJ、YouTubeやクリエイター業など多彩なスキルを活かしながら再始動する。2018年、ジョーブログジョー創立のオンザロードに所属。
汽笛が響く!の内容 九州・島原を中心に展開する小私鉄「有明鉄道」を、大資本の横暴から守るため立ち向かう屋代由之を中心に、彼とその周りの人々の様々な人生模様を描く。物語は昭和23年から始まる。主人公のモデルは「まぼろしの邪馬台国」著者の宮崎康平。
シャルル3世 (西フランク王)の生涯 2代目の西フランク王ルイ2世吃音王の3男として父王の死後に生まれた。母は吃音王の2人目の妻、アデライード。吃音王はシャルルの誕生前に没して、2人の異母兄が共同で王位を継いでいたが、共に早逝し、885年に東フランク王国のカール3世が西フランク王を兼務し、シャルルはカール3世に後見された。当時西フランク王国は、ノルマン人・サラセン人・マジャール人の侵入に苦しんでいた。887年にカール3世が失脚した次の王には、885年 - 886年のノルマン人の包囲からパリを護った英雄、ロベール家のウードが選ばれた。聖俗諸侯が力を付け、王を世襲でなく選挙で決める時代になっていた。ウードの治世下の893年1月28日、シャルルはランスのサン=レミ聖堂で、カロリング派のフルク司教(Foulques le Vénérable)により聖別され戴冠した。両派が3年争って後、ウードはシャルルにセーヌ北部を渡し、シャルルを次の王に指名して、898年1月に没した。19歳のシャルルは、漸く西フランク全体の王になった。911年シャルルは、侵入するノルマン人の長ロロとサン=クレール=シュール=エプト条約(le traité de Saint-Clair-sur-Epte)を結び、ノルマンディー地方を与えてロロをノルマンディー公に封じた。ロロは洗礼を受け、シャルルの娘ジゼルを妻とした。同じ911年、東フランク王国ではルートヴィヒ4世が没してカロリング家の世襲が絶えると、ロタリンギア(当時のロレーヌの呼び名)には親西フランクの派閥が形成され、シャルルはロタリンギア貴族の臣従を受け、ロタリンギア王となった。しかし、ロタリンギアへの執着と部下の処遇の不公平などから、シャルルはロレーヌ公ジルベール(のちハインリヒ1世を支持)と不仲になり、西フランク王国の諸侯にも嫌われた。そして922年に叛かれて廃位され、その反乱を指揮したロベール(ウードの弟)が王に選ばれ、シャルルはロレーヌへ逃げた。923年、シャルルはノルマンの兵を率いてロベール1世とソワソンで戦って討ち取ったものの、ロベールの息子ユーグ大公と娘婿のラウールとに敗れ、ヴェルマンドワ伯エルベール2世(Herbert II)にティエリ城(Château-Thierry)へ囚われ、翌年ペロンヌ城の塔に移された。ラウールが西フランク王になった。エドギフはのちのルイ4世を連れ、イングランドの実家へ亡命した。ロタリンギアは925年、ハインリヒ1世がドイツに取り戻した。シャルルは929年10月7日獄死し、ペロンヌ城に近いサン=フルシー教会(l’église Saint-Fursy)に埋葬された。
武装闘争の日本共産党の武装闘争 日本共産党では1951年の第4回全国協議会(四全協)より山村工作隊などの武装闘争路線が採用された。更に同年10月に開催された第5回全国協議会(五全協)で「51年綱領」が採択され、火炎瓶等を用いた武装闘争が各地で繰り広げられた。しかし1955年の日本共産党第6回全国協議会(六全協)では武装闘争路線を転換し、権力が暴力で革命運動を抑圧しない限り、革命運動も暴力を行使しない、という「敵の出方論」を採用した。権力奪取が、武装闘争になるか否かは、状況次第、ということになる。この協議会で当初の「農村から都市部を包囲」という中国共産党型の暴力革命路線を放棄した日本共産党の当時の国会議員・地方議員の大部分は暴力路線を支持して暴力活動に参加した徳田派だったのにも関わらず、暴力路線で日本国内でテロをしていたのを「党の一部」だとして責任を徳田球一にのみ押し付けたことは無責任だと批判されている。山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、党を去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。また、日本共産党が戦後から再開した「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は、新指導部への不信・不満を募らせ、のちの共産主義者同盟結成や新左翼や過激派ら誕生へと向かう種が、この六全協によって蒔かれた。日本社会党だけでなく、日本共産党も既成左翼政党が武装闘争路線を事実上放棄したとして反発した学生を中心に、当初の日本共産党の武装路線を継続する新左翼と呼ばれる過激派が誕生した。そのため、武装革命に賛同して戦後に日本で暴力行為を扇動・参加していた多数の日本共産党の党員はその後の新左翼誕生の責任を負うべきだと元党員からも批判されている。
武装闘争の海外の武装闘争 海外では非合法組織が合法化する代わりに、武装闘争中止を求める政治的取引もある。左翼武装組織コロンビア4月19日運動は、上記の提案をコロンビア政府からなされ、4月19日運動民主連合と改称し、国政選挙に参加している。
ハイリゲンクロイツ修道院の歴史 1133年、レオポルト3世は、当時モリモン修道院に所属していた息子オットーのために本項の修道院を設立した。1188年にレオポルト5世が聖十字架をもたらすと、この一帯を含め聖十字架を意味する「ハイリゲンクロイツ」と呼ばれるようになった。バーベンベルク家のバックアップもあり、多くの子院を設立した。ハイリゲンクロイツ修道院の内部においても自給自足のための養魚池のみならず、13世紀には製鉄業も営んだ。18世紀末の1780年から1790年、啓蒙主義に影響を受けたヨーゼフ2世により修道院解体の危機に陥ったが、これを乗り越え1802年には哲学と神学の大学を設立した。第二次世界大戦の余波も受けた。ナチス・ドイツにより修道院の財物は没収され、修道士も抑留された。戦後、開放されてからは修道院の改革が行われ、折からの第2バチカン公会議の趣旨が反映された。1988年にはルール地方のボーフムに新たな子院も設立している。 21世紀、ハイリゲンクロイツ修道院は「ヨーロッパのシトー会修道院では最大規模」としており、観光客も受け入れる、開かれた修道院として現役である。
ハイリゲンクロイツ修道院の建築 当初ロマネスク様式で建設されたハイリゲンクロイツ修道院は幾度も改修が施され、改修時代ごとの様式が各部に混在する状態となっている。ゴシック様式の明るく高い内陣は当初は1288年 - 1295年に改装された。17 - 18世紀ごろには一部バロック様式が取り入れられたが、19世紀末にはこれを用いた内装はネオゴシック様式に置き換えられた。西正面には前庭が配されておりその奥に、ファサードがロマネスク様式をとどめる教会堂の入口がある。教会堂内部の身廊は1187年に整えられたもので、この1187年に完成とされるファサードと身廊はロマネスク様式である。その奥、上述した東端の内陣をはじめとした1295年完成としている箇所はゴシック様式で、そこに配された祭壇天蓋などの装飾はネオゴシック様式である。身廊南側の内陣近くから出られる回廊は1220 - 1240年に完成したもので、内部に噴水を備えた小屋が付属している。この小屋は噴泉室といい、シトー会修道院によく見られるもので、ハイリゲンクロイツの噴泉室は幅の大きなトレーサリーとステンドグラスで構成され、外光が多く取り入れられ明るい。回廊の南には修道士たちの居住区が、東には作業室、集会室などが配されている。集会室はバーベンベルク家当主であった4人の墓所ともなっている(後述『修道院に埋葬された人物の例』を参照)。
ハイリゲンクロイツ修道院のオーストリアのワイン この地方はローマ帝国の時代にブドウを移入したものの、その後ワイン作りもブドウ栽培もマジャール人の侵攻があってより、一時期途絶えていた。しかしハイリゲンクロイツ修道院はシトー会というキリスト教の信仰だけでなく、ワイン作りとブドウ栽培もブルゴーニュからオーストリアへ再移入した。2012年現在、ハイリゲンクロイツ修道院のあるニーダーエステライヒ州は、ドナウ川沿岸の地域で最大のワイン生産地となっている。土壌と気候が栽培に適しているのだという。
ハイリゲンクロイツ修道院の修道院に埋葬された人物の例 集会室にはレオポルト4世、レオポルト5世、フリードリヒ1世、フリードリヒ2世という歴代のバーベンベルク家当主が埋葬されている。このうち、フリードリヒ2世はハイリゲンクロイツ修道院へ多くの支援をしたため、石棺に収められた状態で床上に安置されている。なお、ハイリゲンクロイツ修道院を設立したレオポルト3世は、ここではなくクロスターノイブルク修道院 (en) に埋葬されている。
宮城県知事公館の概要 仙台市都心部の北西、広瀬川中流の胡桃淵に面した左岸の仙台中町段丘面にある。藩政期、広瀬川左岸の仙台中町段丘と仙台下町段丘との間の段丘崖崖上には、対岸の仙台城を囲むように上級家臣の邸宅が延々と連なっていたが、当館もその一部に建つ。現在の公館の建物は1921年(大正10年)に建てられたもので、外観は青色瓦、フランス式マンサード屋根の洋館となっている。洋室2つ、和室、休憩室、貴賓室などがある。正門は、切妻造で本瓦葺きの四脚門。大正時代に仙台城にあった門を移築したものと伝えられる。宮城県指定有形文化財。
宮城県知事公館の歴史 江戸時代の1695年(元禄8年)、広瀬川に澱橋が架けられると、北二番丁西端から澱橋北詰に下りる新坂が整備され、伊達家の家臣田村顕行がこの地に屋敷を賜った。明治維新後の1868年(明治元年)、後に仙台市長となる山田揆一が購入し、米国バプテスト同盟の女性宣教師が設立した塾(学校法人尚絅学院の前身)として貸与、さらに仙台衛戍病院長邸宅を経て、大正時代、陸軍第二師団長官舎となる。終戦後は、進駐軍に接収され東北地方司令官官舎となる。1958年(昭和33年)に東北財務局に返還されると宮城県に譲渡され、県の児童会館となる。1965年(昭和40年)に児童館が向山に移ったため知事公館に転用され、宮城県を訪問した諸外国の大公使、皇族など賓客を接遇する施設として利用されている。一般公開も行われている他、結婚式などイベントにも貸し出しされている。
師木野村の道路 現在は旧村域を山陽自動車道が通過するが、当時は未開通。
埼玉県道362号上中条斎条線の経歴 1965年、マサチューセッツ工科大学から数学の学士号を取得。ディフィーはマーティン・ヘルマンと共に1976年、New Directions in Cryptography という論文を発表した。これは革新的な暗号鍵配布方法を示したもので、暗号における基本的問題とされていた鍵配布の問題解決に迫るものだった。これは今日、Diffie-Hellman鍵共有として知られている。この論文によって、公開鍵暗号のアルゴリズムの研究開発が公然と行われるようになった。ディフィーはノーテルネットワークスの Secure Systems Research のマネージャとして勤務し、X.25ネットワークのPDSDセキュリティシステムの鍵管理アーキテクチャを設計した。1991年、サン・マイクロシステムズの研究所(カリフォルニア州メンローパーク)に移り、暗号の公的側面を主に研究している。2007年5月現在もサンに在籍しており、Chief Security Officer、副社長、サン・フェローなどの肩書きを持つ。1992年、スイス連邦工科大学から名誉博士号を授与された。マルコーニ財団のフェローでもあり、アイザック・ニュートン研究所の客員フェローでもある。2010年ハミングメダル、2015年チューリング賞をヘルマンと共同受賞している。1998年の Susan Landau との共著 Provacy on the Line では、盗聴と暗号化の政治学を扱っている。その改訂版が2007年に出版された。ロンドン大学ロイヤル・ホロウェイ校にある情報セキュリティ部門の客員教授も務めている。2017年王立協会外国人会員選出。
ジョン・スペンサー (第5代スペンサー伯爵)の経歴 1835年に第4代スペンサー伯爵フレデリック・スペンサーの長男としてロンドンで誕生。母はその妻ジョージアナ・ポインツ。ハーロー校を経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学ぶ。1857年3月に南ノーザンプトンシャー選挙区の自由党庶民院議員に当選するも、同年12月にスペンサー伯爵位を継承し、貴族院議員に転じる。1858年にフレデリック・チャールズ・ウィリアム・シーモア(Frederick Charles William Seymour)の娘であるシャーロットと結婚した。ストール宮内官として1859年から1861年までヴィクトリア女王の王配アルバートに仕え、ついで1862年から1866年まで皇太子エドワードに仕えた。1865年にガーター勲章を受勲する。1869年から1874年まで第1次グラッドストン内閣のアイルランド総督を務める。第2次グラッドストン内閣では1880年から1883年まで枢密院議長を務め、1882年から1885年までアイルランド総督に再任する。この後の短期間の野党時代に自由党党首ウィリアム・グラッドストンはアイルランド自治の方針を固めた。これに党内ホイッグ貴族派の領袖ハーティントン侯爵が強く反発し、彼は1886年1月末に成立した第3次グラッドストン内閣への入閣を拒否した。スペンサー卿もホイッグ派だが、彼はグラッドストンを支持して入閣を了承した。第3次グラッドストン内閣には枢密院議長として入閣した。自由党はアイルランド自治法案をめぐって自治賛成派と反対派に分裂したが、スペンサー卿は「総督としての経験から言って、アイルランドには自治を与える以外に解決策がない」として法案を支持した。しかし自由党議員が多く造反した結果、法案は否決され、解散総選挙にも敗れた結果、第3次グラッドストン内閣は短命政権に終わった。1892年6月末に成立した第4次グラッドストン内閣には海軍大臣として入閣した。グラッドストンはスペンサー卿に第2代グランヴィル伯爵のような穏健派としての役割を期待していたが、この時期に閣内で起こった海軍軍拡論争では軍拡に反対するグラッドストンに協力しなかった。孤立したグラッドストンは1893年3月に辞職した。退任にあたってグラッドストンはスペンサー卿を後任の首相に推そうと考えていたというが、女王は慣例に反して退任する首相への次期首相への下問をせず、独断で外相第5代ローズベリー伯爵に組閣の大命を下したため、スペンサー卿の首相就任は沙汰やみとなった。ローズベリー伯爵内閣でも引き続き海軍大臣に在職した。中国分割をめぐってロシアとフランスが極東における海軍力を急速に増強していることを念頭に、極東にも二国基準(露仏両国の海軍力よりも上の海軍力を目指す)を導入することを決定した。これについてスペンサー卿は「イギリスは極東でも露仏の海軍共同を恐れる理由はない。イギリス駐中国艦隊は露仏両国の海軍力の合計よりも相対的に強力である」と自負した。1901年から1907年までコーンウォール公領会議議員、コーンウォール公璽尚書(Keeper of the Privy Seal of the Duke of Cornwall)を務める。1910年に死去。子がなかったため、異母弟のチャールズが爵位と家督を相続した。
府中市立府中第三中学校の概要 1960年(昭和22年)4月1日に開校した。著名な卒業生として、女優でタレントの安めぐみがいる。
原博実の選手時代 小学5年生時からサッカーに傾倒し、黒磯中学校時代にはすでに長身を活かしたヘディングを得意としていた。1974年に矢板東高校へ進学し、栃木県選抜として国体でベスト4入り。当時は西ドイツのFWウーヴェ・ゼーラーのプレーを参考にしていた。1977年に早稲田大学教育学部へ進学。1978年の総理大臣杯では法政大学を相手に得点を重ねて優勝を果たした。大学選抜として参加した1979年のユニバーシアードでは、ゼーラーに影響されて身に付けた相手よりも早く跳ぶヘディングで海外の190cmクラスのセンターバックを相手にしても競り負けず8試合で7得点を挙げた。A代表に選出されても偉ぶらず真剣に練習に取り組む姿勢は周囲からの信頼を集め、大学4年時には主将を務めた。このように「ストライカーたるものエゴイストであるべき」と言われる中で、彼の言動や振る舞いはその正反対でとても利他的であり、誰からも尊敬される人物であった。大学時代の同期には木村孝洋、一学年上には岡田武史、唐井直、二学年上には加藤久、三学年上には西野朗、松浦敏夫、下條佳明、さらに二学年下には城福浩、吉田靖、三学年下には神戸清雄ら錚々たるメンバーがいた。1981年に三菱重工業に入社し(勤労管理課)、日本サッカーリーグ(JSL)の同社サッカー部(のちに三菱自動車サッカー部。現在の浦和レッドダイヤモンズの前身)に所属。ポジションはフォワード(FW)で、エースストライカーとして活躍した。中盤の構成力に欠ける三菱では、田口光久らが原を目掛けてフィード、原が頭で落とし、川添孝一らがゴールを狙うというシンプルなカウンター攻撃も多用された。1982年には尾崎加寿夫と共に得点源となりJSL優勝を達成。社員選手としてプレーを続けていたが、31歳の時にJリーグ参入を控えるクラブからの呼び掛けに「サラリーマンやるために三菱に入ったわけじゃないから」と応じてプロ契約を結び 三菱重工業を退社した。Jリーグでのプレーを望んでいたが、コーチ就任を要請されたため、1992年5月に現役を引退。臆せず真っ向から競り合いに臨んでいたため、鼻骨骨折は現役通算で9度に及んだ。大学在学中に日本代表に初選出され、通算で国際Aマッチ75試合に出場。釜本邦茂に次いで歴代2位 となる37得点を記録した(国際Aマッチ以外にも日本サッカー協会が認定した日本代表の試合を含めると171試合出場72得点。)。当時の日本代表はアジアの中でもまだまだ弱小国ではあったが、そういった背景がありながらも2試合に1得点という驚異的なペースでゴールを決めていたことになる。森孝慈監督の下、尾崎や柱谷幸一と共にセンターフォワードの候補ともなったが、持ち前の体力・運動量からサイドで守備にも貢献することを求められたため、左ウイングに配された。中央へ切れ込んで放つヘディングシュートを武器とし(ただし、本人はヘディングよりも左足シュートの方が得意だったと回想している)、その圧倒的な得点力で「アジアの核弾頭」の異名を取った。代表チームがアウェーゲームの際に敵国に行くと、最も警戒すべき選手として常に大写しになるのは原だったと言われている。特に1986年ワールドカップ予選・ホーム北朝鮮戦で水溜りに入ったボールを足先で浮かせてDFをかわし決めた「雨中ゴール」、1987年のソウルオリンピック予選・アウェー中国戦での強烈な決勝ヘディングシュート が有名である。
原博実の浦和レッドダイヤモンズ 1992年5月に引退後、浦和レッドダイヤモンズのコーチ・ユース監督を務めた。1998年にトップチーム監督に就任。主軸FWの福田正博が負傷離脱する中、新人の小野伸二をトップ下に抜擢し、変則的な中盤を菱型にした4-4-2(左MFのチキ・ベギリスタインを攻撃的、右MFの石井俊也を守備的にプレーさせることで、バランスを取った。)を形成してチームを躍進させる。セカンドステージでは過去最高順位の3位に入った。また、怪我が多かった福田に替えて、若手の山田暢久を「一皮向ければ」と主将に据えている。翌1999年ファーストステージは負傷者が続出した影響もあって13位と振るわず、解任。原は守備の人材不足を感じていたためシーズン途中に補強がなされたものの、その補強が活かされる前の解任だった。この年浦和はJ2降格を喫するが、後にGMの横山謙三は、降格の主要因について「原監督を途中で替えたということが大きい」「(原を留任させていれば)後半盛り返せただろうと思っている」と語っている。原自身は後に雑誌のインタビューで「弱いといわれた時期も、誰もが誇りは持っていた。ある意味王者のスピリットを持っているチームだった」と浦和を評する。また、2000年1月に発売された本『浦和レッズは負けない』にも寄稿している。2000年以降は浦和の育成担当としてクラブに残留するという選択肢も有ったが、監督として再び勝負する機会が遠のきかねないと判断し、浦和を退団。その後スペインへ渡りリーガ・エスパニョーラの数チームを視察。ベギリスタインを通じて紹介を得たこともあった。帰国後はサッカー解説者としてスカイパーフェクTV!の欧州サッカー中継を中心に活動。多くのファンを得た(後述)。
原博実のFC東京 2002年からFC東京の監督に就任。新興クラブであるFC東京は、J2降格を避けるべく負けないサッカーを志向してチーム作りを行っていたが、「攻撃サッカー」を掲げる原の招聘によって、勝つためのサッカー、面白いサッカーを標榜するように転換。原によれば、チームには大熊清前監督が築いたひたむきに守備をこなす姿勢が残っていたので、攻撃重視で指揮を執っても守備が疎かになることは無いだろうという目算があったという。初采配となった2002年Jリーグ開幕戦では、前年度リーグ優勝の鹿島アントラーズを相手に、前がかりに走り続ける積極的なサイドアタックを繰り返し、4得点を挙げて圧勝。後の語り草となった。4-2-3-1の布陣を基本としつつ、同年獲得したMF石川直宏、DF加地亮のコンビで右サイドから打開し、左サイドには戸田光洋らFWタイプの選手を置いて中央へ走りこませるという左右非対称の斬新な攻撃 で上位進出に成功。2004年ナビスコカップでは延長PK戦の末に古巣浦和を下して、チームに初のJリーグタイトルをもたらした。解説者時代同様に親しみやすいコメントと、自チームの得点時には何度もジャンプして体全体で喜びを表現する姿でチーム成績とは別の部分でもサポーターから慕われ、人気を集めた。古巣・浦和をライバル視する発言が多かったが、2003年に行われた福田の引退試合では、テレ玉での中継解説者を務め、2004年のナビスコカップ優勝後の場内インタビューでは「浦和も非常に素晴らしいチーム。是非リーグ戦で頑張ってもらって優勝して欲しい」とエールを送っている。2005年は出だしこそ首位に浮上したものの、4月以降主力を次々と負傷で欠いたことなどから J2降格圏まで成績を低迷させたが、シーズン終盤は12戦負けなしと持ち直した。しかし4・5月の躓きによってクラブ首脳は次期監督候補の選定を本格化しており、契約期間終了と共に退任することとなった。退任報告の集会には5000人近くのファンが詰め掛けた。2007年、監督に再任。身上としているリスクをかけて攻撃に比重を置くサッカー を続けたが、大量失点での敗戦も多く1年限りで退任となった。
原博実の日本サッカー協会 2009年2月、日本サッカー協会(JFA)は技術委員会を強化・育成の2部門に分割再編。原のJリーグでの指導実績や欧州サッカーへの精通が評価され、JFA技術委員長(強化担当)に就任した。グラつきの見られた岡田体制を支えた他、JFA特任理事及び国際マッチメイク委員にも任ぜられ、Jリーグ各クラブとの調整や戦術分析、マッチメイクを統括した。また、霜田正浩と共に2010 FIFAワールドカップ終了後の日本代表新監督選定の中心としても奔走。2010年8月、新監督はアルベルト・ザッケローニに決定したが、ザッケローニの就労ビザ取得が間に合わなかったため、同年9月に行われたキリンチャレンジカップにおいて代行監督を務め、2試合を指揮しいずれも勝利を収めた。ロンドンオリンピックではU-23日本代表の団長を務めた。2013年12月より、JFA専務理事を兼務。激務が続く中でも公式戦・合宿を問わずに現場視察を欠かさず、ザッケローニとの戦略擦り合わせに腐心した。2014年9月、同年6月開催のFIFAワールドカップ総括とザッケローニの後任であるハビエル・アギーレの就任決定をもって 技術委員長を退任し、以後は専務理事に専念。日本代表やJリーグだけでなく各種サッカー大会を精力的に視察し、日本サッカー界の底上げに注力した。2015年2月のJFA理事会において、大仁邦彌JFA会長や霜田と共にアギーレの解任に伴う処分が提議されたが、3名とも任命責任は認められなかったため、給与を自主返納することで 収拾を図った。2015年6月、日本体育協会常務理事に選定され、国体委員長として 冬季国体の開催地選定や、2020年東京五輪に向けた女子種目の拡充を担った。2016年1月、JFAは史上初となる会長選挙を行った。当時JFAのNo.3でもあった原は「自分も出ないと(選挙戦にならず制度が)変わらない」 と立候補を表明。原とNo.2の田嶋幸三副会長が争う構図になるのは「規定路線」であり、原は劣勢が確実視されていたが、秋春制の導入に慎重なJリーグクラブや、JFAとJリーグの関係強化を推進した実績により支持を集め、45%の評議員票を獲得、僅差での敗退となった。
原博実のJリーグ役員 2016年2月、田嶋は自分と会長の座を争った原を二階級ほどの降格になる理事職に降格させる人事案を決めた。その話を田嶋から直接聞いた村井満Jリーグチェアマンは 各クラブの強化部門に影響を及ぼせる人物として、すぐさま原にJリーグ副理事長就任を打診。原もこれに快諾し、3月より同職に就任。JFAを離職し、自身の「専門とするところ」であるクラブ目線での日本サッカー強化を担うこととなった。翌3月、Jリーグからの選出で、JFA常務理事に就任。彼の功績や人柄を表すエピソードと言える。同年4月の熊本地震に際しては、自ら現地入りして活動休止中のロアッソ熊本と協議し、リーグ戦再開に向けての調整に当たった。2018年4月、日本サッカー協会技術委員会強化部会員に就任。
原博実の監督としての戦術・若手育成 指導者としての評価に際しては、特に若手の積極起用に注目して語られることが多い。自身も「監督をやっていて楽しいのは、(チームの勝利よりも)選手がみるみる伸びていき、顔を輝かせているのを見ているとき」「タイトルをとれれば楽しいけど、人がぐんぐん伸びていく時期を見るのがうれしい。それが一番好き」と語る。浦和でも小野、山田を抜擢し、大きく成長させているが、小野は元々注目度の高い期待株であること、盛田剛平ら新人選手を重用してチームを低迷させたこともあったことから、原の評価を低く見る者もある。原の下でもプレーした浦和OB福田正博は「サテライト・ユースの指導経験しかなかった原にいきなりトップチーム、しかも浦和レッズという独特の雰囲気を持つチームの監督を任せるのは非常にプレッシャーのかかることだったのではないか」という趣旨のコメントを、雑誌に寄せた原稿で述べている。その後に就任したFC東京でも若手登用の傾向は強く、石川、加地、茂庭照幸、今野泰幸を獲得してレギュラーに据え、日本代表に選出されるまでに成長させた。横浜F・マリノスで出場機会のなかった石川に対しては「(故障者が出ている)今なら使っちゃうよ」という口説き文句で移籍を決断させた。選手として原と4年間(2002-2005)過ごした戸田は、原と選手との距離感・信頼関係の構築について「“試合に出てくるんじゃないか”と思わせるくらい選手と一緒の目線で戦っている」「顔色を伺ったってどうこうなる人じゃない」とコメント。原の下で5年間(2002-2005, 2007)コーチを務めた長澤徹は、原は選手の短所を包み隠さず指摘し、時に敗因として名指しするが、それでも選手からの信頼を損ねることはなかったという。選手と真摯に向き合うことができるコミュニケーションの天才だと評している。4バックシステムを好み、『ニュースステーション』がJリーグ全クラブの監督に対して行った、3バックと4バックに関するアンケートに対し(このアンケートが行われた当時は3バックシステムを採用するクラブが多く、このようなテーマが議題となった)、回答の理由を「4バックが好きだから」とだけ説明した。原曰く、布陣を決める時にまず考えることは、選手個々の長所を出せるかどうか である。しかし、選手の個性・特徴を最大限発揮させることを理想としていることから、2007年には、不安定ながら新たなプレースタイルの模索を始めた石川と、石川には元来の能力を発揮してほしいと原点回帰を求める原との間で、微妙な溝が生じたこともあった。
原博実の解説・評論 原はテレビ解説者としても、多くのファンを得ている。解説者としての原のファンのことを「ヒロミスタ」と呼ぶことがある。ゴールが決まった時に、それが開始1分であろうが後半ロスタイムであろうが、あるいはVゴールであったとしても「いい時間帯 に得点しましたね」と発言したり、選手がまだシュート態勢であり、実際にそのシュートがゴールインするか否かがわからない状態にもかかわらず「あ、入った」などと発言したことが、そのきっかけとなった。試合に熱中するあまり解説を忘れることもしばしばだが、広い視野からの的確な指摘を分かりやすく視聴者に伝えるという解説者としての技量がある、さらに選手への批判も臆せず口にする。解説者を辞する時はスカパー!で特別番組が何本も作られた。コラムニストのえのきどいちろうもヒロミスタの一人である。試合中に感極まって泣きながら解説をしたこともある。その試合はUEFAカップ史上最高の決勝と呼び名の高い2000-01シーズンの決勝戦、リヴァプールFC vs デポルティーボ・アラベスである。アラベスはリヴァプールとは比較にならないほどの中小クラブであったが、ヨハン・クライフの息子であるジョルディ・クライフらをはじめとする魅力的な選手は少なくなかった。その決勝ではリヴァプールに2-0、3-1、4-3と3度もリードを奪われながら決して諦めることなく戦い、88分にクライフが同点ゴールを決めて4-4、延長戦に持ち込む。しかし、最後は5-4でリヴァプールに敗れ、アラベスは準優勝に終わった(このシーズン、リヴァプールは他にもFAカップとリーグカップも制し、最終的に三冠を達成している)。この激闘を解説していた原は「涙がでてきてしまいましたよ。」と話した。また、浦和レッズ監督時に指導したベギリスタイン(後にFCバルセロナ技術部長など)と親交を深めたことを機に日常会話に支障が無い程にスペイン語を習得。スペイン語に近いとされるポルトガル語を話すブラジル人選手とも通訳を介さずに会話している。料理をはじめとするスペイン文化全般にも造詣が深い。FC東京の監督時にも、チームのラ・コルーニャ遠征やポストシーズンの視察に合わせて、原がスペインを紹介する番組が作成された。
二神範蔵の経歴 愛媛県南宇和郡城辺町(現在の愛南町)出身。二神彦一の男。大正7年(1918年)東京高商(現在の一橋大学)を卒業し三井物産を経て、昭和6年(1931年)6月山下汽船に入社し日濠定航事務所長、紐育支店副長、名古屋支店長を歴任。昭和18年(1943年)山下近海機船常務に転じ、昭和22年(1947年)3月同社社長に挙げられ、昭和24年(1949年)4月第二会社山下近海汽船を設立し社長に就任した。
二神範蔵の人物像 趣味はゴルフ、囲碁。
二神範蔵の家族・親族 一男四女あり。
フランス2の歴史 1963年に当時唯一の放送組織であったフランス国営放送「RTF」の第2チャンネル(La deuxième chaîne)として開局。直後にRTFはフランス放送協会「ORTF」 へ改組された後、1974年8月8日にORTFの分割によりアンテンヌ2(アンテーヌ2、Antenne 2、A2)という独立した公共テレビ会社となる。ただ、同じく公共テレビ局であったTF1に大きく視聴率で水を開けられた上、1987年にTF1が民営化を果たすと経営難に陥る。1992年9月7日、公共テレビ局の再編によるフランス・テレビジョン発足に伴い、フランス2とチャンネル名を変更する。放送内容は総合編成で、全国同一プログラムである。2012年4月5日(JST)、日本のNHK総合テレビジョンにてフランス2の「Tout le monde veut prendre sa place」をベースとした「連続クイズ ホールドオン!」の放送が開始された。
小西良幸の略歴・人物 父方の親族は医者が多く、母は呉服屋を営む。三重大学教育学部附属小学校、三重大学教育学部附属中学校、佼成学園高校卒業後、芝浦工業大学を目指したが落ち、明星大学理工学部中退。在学時にはロンドンに短期留学する。文化服装学院卒業後、アパレルメーカー「GRASS」(本社は広尾、店舗は原宿)に就職。同僚に舘ひろしや永田友純もいた。1981年に独立し、小西良幸デザインオフィスを設立。自身のファッションブランド「FICCE(FICCE UOMO)」を立ち上げる(FICCEという言葉には意味はない)。当初は苦戦するも、業者からただで仕入れた端切れを使うなどして、アバンギャルドなファッションスタイルを提案しヒット。80年代後半から90年代前半にはビートたけしがテレビ出演時に「FICCE」を着用。ほかにも谷村新司やエルトン・ジョンらが愛用したことで、ブランドが知られるようになる。小西の名はファッション界にとどろき、税関(当時の大蔵省)、東武鉄道の制服などもデザインしている。しかし、バブル崩壊に加え、シンプルな服装を好むファストファッションが台頭するようになり、売り上げが低迷。スタッフにも見放され、ショップはすべて閉店に追い込まれ、負債15億円を抱えるまでに至る。ブランドを売却するなどして負債を圧縮するも債務は残り、テレビ出演を開始。フジテレビ「とくダネ!」でのファッションチェックコーナーに「ドン小西」の芸名で出演、人気を博す。「とくダネ!」のディレクターが命名した この芸名を、以後使用するようになる。のちに自身のブランドを再設立(「YOSHIYUKI KONISHI」「d.k.f - Produced by Don Konishi」)。一時期Gacktをブランドのイメージキャラクターに起用していた。「FICCE」は山本寛斎が保有しているが、2016年には小西が参加し、自身の創り出したブランドに復帰を果たしている。テレビ出演開始で本人の知名度が上がったことをきっかけに、名古屋学芸大学メディア造形学部ファッション造形学科特別講師を務めたり、2007年には出身地三重県の観光大使である「みえの国観光大使」に就任している。2012年11月、テレビ東京系「主治医が見つかる診療所」に出演。心臓ドッグを受診する企画に参加した際、心臓弁膜症であることが判明した。同年12月22日に手術を行ったことが2013年2月13日、明らかになった。術後の経過は良好であるという。低迷後に離婚した妻との間に娘がいる。プロ野球・読売ジャイアンツファン。
山田規三生の経歴 小学1年生の時に東大阪囲碁教室に通い始め、2年生の時に関西総本部の院生となる。4年生から6年生までは2人の兄とともに山下順源六段の内弟子となる。1989年入段。1年目23勝6敗、2年目39勝5敗で、2年連続勝率トップ。17歳、二段時に「囲碁クラブ」誌のアマチュア強豪と若手プロ対抗の勝ち抜き戦に出場し、力で圧倒する碁形で連勝して「ブンブン丸」と名付けられた。1993年、六段で天元戦の挑戦者決定戦に進出し、片岡聡に敗れるも大型新人として注目される。1997年、新人王戦優勝。第45期王座戦本戦で片岡聡九段・武宮正樹九段・中野寛也九段そして決勝で王立誠九段に4目半勝ちし七大タイトル初挑戦者となる。柳時熏王座を3-1で破り初タイトル獲得、関西総本部所属棋士では初の七大タイトルともなった。次に関西総本部の棋士が七大タイトルを取るのは井山裕太の14年後のことである。賞金ランキングで自身初のトップ10入り(8位)。1998年、のちの七冠王となる井山裕太(当時小学3年生・小学生チャンピオン)と週刊碁の企画で3子で記念対局をしている。2000年、三星火災杯世界オープン戦で、決勝五番勝負で劉昌赫に1-3で敗れ準優勝。2006年、八段で200勝により九段昇段。本因坊リーグ戦で依田紀基、羽根直樹の3者が5勝2敗の同率プレーオフとなり、羽根、依田に連勝して挑戦者となったが、初の七番勝負では高尾紳路本因坊に2-4で敗退。賞金ランキングでは平成四天王に次ぐ自己最高の5位。2007年、賞金ランキング7位。名人戦リーグでは2007年、2008年、2009年と3年連続2位、本因坊戦リーグでも2008年、2009年と連続2位。2008年第1回ワールドマインドスポーツゲームズでは、男子個人戦に出場してベスト8進出するが、李喆に敗れる。賞金ランキング9位。「碁ワールド」誌1998年8月号から2000年6月号までエッセイ「とんぼり交友録」を連載。2006年10月から2007年3月までNHK囲碁講座「山田規三生の超攻撃法」の講師。詰碁作りを得意として「詰碁といえば山田」と言われるほどで、「碁ワールド」誌2007年1月号から2008年12月号で「詰碁のエッセンス」を連載した他、著作多数。通算成績は778勝330敗(2010年4月時点)。2009年、2010年、共に賞金ランキング7位2011年3月27日、第58回NHK杯テレビ囲碁トーナメントで、依田紀基九段を破り初優勝。賞金ランキング9位。2016年5月6日、日本棋院史上23人目となる公式戦通算900勝達成(407敗)。達成時勝率 .689は史上2位タイ。入段から27年1ヶ月での達成は史上3位。43歳7ヶ月での達成は史上5番目の年少記録。
金色のコルダの概要 2003年9月19日にWindows98/Me/2000/XP用に発売されたのを皮切りに、2004年3月18日にPlayStation 2用の移植版が、2005年11月10日にPlayStation Portable用の移植版が発売された。また、キャラクターデザインを担当した呉由姫による同名の漫画が『LaLa』(白泉社)にて連載。2006年10月からは『金色のコルダ〜primo passo〜』としてテレビアニメ化され、2007年3月に放送を終了した。2009年3月と6月にスペシャルアニメとして『金色のコルダ〜secondo passo〜』が放送された。2010年3月には『金色のコルダ ステラ・ミュージカル』としてミュージカルの公演が行われた。題名のコルダとは、イタリア語で「弦」「絆」という意味。横浜が舞台になっており、実在する場所が作中に多く描かれている。キャラクターを引き継いだ続編として、『金色のコルダ2』、『金色のコルダ2 アンコール』。新キャラクターを追加したPSP移植版『金色のコルダ2 f』、『金色のコルダ2 f アンコール』、PlayStation Vita版『金色のコルダ2 ff』が発売された。2011年8月16日にソーシャルゲームサイトMobageより『100万人の金色のコルダ』のサービスが提供開始され、順次スマートフォンに対応している。2012年3月30日より配信元のディー・エヌ・エーが提携しているゲームサイトYahoo!モバゲーでの同ゲームの提供が開始された。コーエーテクモゲームスが運営するコミュニティサイト「my GAMECITY」でも2013年10月24日からサービスが開始された(スマートフォン用「my GAMECITY」では2014年3月24日より配信)。後にGREEで2014年8月27日からも配信されている。これらすべてのプラットフォームで2018年3月30日に配信終了した。
金色のコルダのストーリー 普通科と音楽科が併設された星奏学院(せいそうがくいん)が舞台。高等部の普通科に在籍する主人公は、音楽に関しては素人だった。だが、リリという音楽を司る妖精に選ばれ、学内音楽コンクールに出場することになる。
金色のコルダのサブキャラクター 漫画およびTVアニメ版に登場する人物を紹介する。
金色のコルダのテレビアニメ 『金色のコルダ〜primo passo〜』のタイトルで、テレビ東京系6局にて2006年10月から2007年3月まで放送された。副題には必ず音楽関連単語が含まれている。DVD最終巻には、TV未放映の第26話「ひと夏のアンコール」も収録。2009年3月26日と6月5日にキッズステーションにおいて、スペシャルアニメ『金色のコルダ〜secondo passo〜』が前後編に分けて放送。『金色のコルダ2』や『金色のコルダ2 f』の新キャラクターも登場した。
金色のコルダのWebラジオ 『金色のコルダ〜放課後のエチュード〜』は、ラジオ大阪とTBSラジオにて放送された女性向け恋愛シミュレーションゲーム「金色のコルダ」に関連したラジオ番組。パーソナリティは、谷山紀章(月森蓮役)と小西克幸(王崎信武役)。番組内での名前の云い間違いにより、パーソナリティの二人を合わせて「こにやま30's(さーてぃーず)」と称することになった。放送終了後ランティスウェブラジオにて再配信されていた。後にインターネットラジオへと移行し、ランティスウェブラジオのみでの配信となった。
金色のコルダの概要 同アニメのために特別に結成され、エンディングテーマ「CRESCENDO」を歌った。レーベルはSony Music Japan International。「stella quintet」とはイタリア語で「星の五重奏」という意味。2009年に『金色のコルダ〜secondo passo〜』が放送された際には加地葵役の宮野真守が追加されたstella quintet+(ステラクインテット プラス)というユニットが結成され、テーマソングCDを発売した。
ショーン・マーフィー (野球)の経歴 2016年のMLBドラフト3巡目(全体83位)でオークランド・アスレチックスから指名され、プロ入り。契約後、傘下のルーキー級アリゾナリーグ・アスレチックスでプロデビュー。A-級バーモント・レイクモンスターズでもプレーし、2球団合計で23試合に出場して打率.228、2本塁打、7打点、1盗塁を記録した。2017年はA+級ストックトン・ポーツとAA級ミッドランド・ロックハウンズでプレーし、2球団合計で98試合に出場して打率.250、13本塁打、48打点を記録した。 オフにはアリゾナ・フォールリーグに参加し、メサ・ソーラーソックスに所属した。2018年にMLB.comが発表したプロスペクトランキングでは、アスレチックスの組織内で8位にランクインした。シーズンではルーキー級アリゾナリーグ・アスレチックス、AA級ミッドランド、AAA級ナッシュビル・サウンズでプレーし、3球団合計で78試合に出場して打率.285、8本塁打、43打点、3盗塁を記録した。また、7月にはオールスター・フューチャーズゲームのアメリカ合衆国選抜に選出された。2019年、マイナーでは主にAAA級ラスベガス・アビエイターズでプレーし、41試合に出場して打率.293、11本塁打、31打点を記録した。9月1日にメジャー契約を結んでアクティブ・ロースター入りし、4日のロサンゼルス・エンゼルス戦にて「8番・捕手」で先発出場すると、5回裏にメジャー初安打となる本塁打を放った(この試合は3打数1安打)。
ショーン・マーフィー (野球)のプレースタイル 肩、ボールブロック、キャッチングに優れる守備型の捕手である。打撃では今後、長打力が増せば面白い存在になると言われている。
横浜市立鶴見中学校の関連項目 神奈川県中学校一覧
木庭顕の概要 トロリーバスは路面電車とバスの長所をもった交通機関で、排気ガスを出さない、軌道を敷設する必要がない、などの長所を持つ。しかし、稀にトロリーポール(集電装置)が架線から外れるトラブルが起こる。架線が分岐・交差する個所ではトラブルが起こりやすく、その手前では減速する必要があり、後続車列で充分な車間距離が保たれていないと交通渋滞を招く。現在は自動車交通量の増加に加え、性能が良いディーゼルエンジンやハイブリッド方式の大型路線バスの出現とともに廃止が進んでおり、日本では市街地を走るトロリーバス路線は全て廃止されている。しかし、道幅が広く、車が比較的少ない社会主義国・旧社会主義国の都市には今も多く残されている。また、カナダなどの水力発電による豊富で安価な電力が安定して供給される地域でも利用されている。給電用の架線が張れない場所で走行するための小排気量の補助エンジンを持つものもある。このエンジンは発電用ではなく、車両を直接推進するために用いられ、日本でもかつて都営トロリーバスで、電化された鉄道の踏切を渡るために使用するものがあった。最近では、ディーゼル 発電機を搭載したハイブリッド方式や蓄電池を搭載した車両が開発され、架線がない道路でより長距離を走行できるようなものもある。中国 北京市では、王府井の繁華街の景観対策や長安街の横断対策(建国記念日である国慶節や節目の年には大規模な軍事パレードがあるため、架線を張ることができない)に利用されている。
制阿難の生涯 東南アジアでは唯一シンガポールで運行されていたが、1962年に廃止された。韓国には(狭義の)トロリーバスはないが、ソウル近郊のソウル大公園に(走行中に外部から給電するという点でトロリーバスと類似する)オンライン電気自動車の「ぞう列車」が運行されている。アジア太平洋では(狭義の)トロリーバスが廃止傾向にある。その一方で、変種に当たる電磁走行カートやオンライン電気自動車の運行が始まっている。
埼玉県道128号熊谷羽生線の概要 元々はチャンパに服属する一介の土酋であった。1318年にチャンパは陳朝大越の侵攻を受け、国王のジャヤ・シンハヴァルマン5世がジャワへ救援を求めて逃亡すると、大越によってパタルトールが効誠亜王に擁立された。ジャヤ・アーナンダの治世中にポルデノーネのオドリコがチャンパを訪問している。1323年8月4日に弟の保佑八剌を元に遣使してその後ろ盾を得て、1326年に恵粛王陳年率いる大越軍を破ったことで大越の支配下から脱することに成功した。1328年2月26日にも朝貢して大越の侵略を訴え、泰定帝は両者に和解するよう詔を下した。1331年4月2日に高暗都剌を、1332年4月14日には阿南那那裏沙ら4人を元に遣使して朝貢し、金書表を奉った。1335年5月27日にも剌忒納瓦児撒を元に遣使して大越に道を遮られたことを訴え、恵宗は詔を下して大越を宣諭した。ジャヤ・アーナンダは子のジャモを布田(大王)、娘婿のマハー・サーヴァをポティー(宰相)に任じていたが、ジャヤ・アーナンダの死後にマハー・サーヴァがジャモを追放して即位した。
ティーサージ・パラダイスの概要 2018年(平成30年)春から夏にかけて、旧国道125号の熊谷市佐谷田北交差点から加須市志多見交差点までの間、及び国道122号の志多見交差点から羽生市下岩瀬交差点までの間が熊谷羽生線として指定された(国道125号区間は指定解除の上で熊谷羽生線単独区間化、国道122号区間は重複)。これにより、熊谷羽生線は、国道125号行田バイパスの南北を挟む形で並行するそれぞれ独立した2ルートの路線となった。
キャノン・ストリート駅のナショナル・レール 当番組の柱となっているコーナー「アンケー島(トー)」をはじめとした、リスナー参加型の番組である。沖縄方言が放送中に多く発言され、放送内の投稿部分のみを抜粋したものが、ポッドキャストで放送局のラジオ沖縄から毎日配信されている。radikoプレミアムやポッドキャスト、ラジオクラウドなどを通して県外や国外にもリスナーが多い。番組への投稿用メールアドレスの覚え方として、「おしり、あっと驚く(為五郎)、あーら沖縄、こんなジャポン」という文句が、冒頭のCM前やジングルのなかで読み上げられている。慰霊の日である毎年6月23日には、正午に1分間の黙祷が行われるため、放送開始が12:10前後になる。放送終了時間も2017年いっぱいまで13:50だったが、『チャットステーションL』が終了したことを受けて、2018年1月1日から放送時間が30分拡大され、14:20まで放送されることとなった。この際、2時台はEX枠となった。 それと同時に、CM後のジングルも全面変更された。なお、この日からラジオ沖縄の午後から夕方の番組において、後続の番組も含めて大幅に改編された。かつて、当番組と、その後に放送されていた『チャットステーションL』をまとめて「TEA茶(ティーチャ)」と表記し、公式掲示板もこの名前を採用していた(TEA茶掲示板)。リスナーからの公募により、毎年12月3日をTEA茶の日と定め、2008年にはチャリティーボウリング大会などの合同イベントが開催された。
東領家出口の周辺 ロンドンバスの15、17、521系統とヘリテージルートの15H、ナイトバスのN15、N199系統が当駅を経由する。
パティ・レイノルズの人物 川口市東領家は市南東部にある町である。町は新芝川の下流、荒川河口近くに位置し、新芝川によって東西に分断されている。東領家出口がある五丁目と加賀出口がある四丁目は新芝川の東岸に位置し、陸続きで隣接する東京都足立区鹿浜に都市農業公園がある。公共交通ではJR川口駅から国際興業バス・川21系統で20分ほど、東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線の赤羽岩淵駅(東京都北区)から同バス・赤23系統で15分、JR赤羽駅(北区)や東武伊勢崎線西新井駅(足立区)から同系統で20分ほどを要し、川口駅と赤羽岩淵駅とは直線約3kmでほぼ等距離。バス便は川口駅へは毎時1~2本ほど、赤羽岩淵駅・赤羽駅・西新井駅へ毎時3~4本ほど運行されているものの、公共交通機関でのアクセスがやや不便な地域である。周辺は町工場が多く、住宅は比較的少ない。
ビデオカメラの原理 レンズを通した映像を、古くは撮像管、現在ではCCD撮像板などの個体撮像素子に結像させ、それを電気信号であるビデオ信号として出力する。信号は、画面を細かく区切っていきそれを端から時系列に並べたものとなる。画面の区切り方は、ビデオ信号の規格に従う。最初に開発されたビデオカメラは撮像管と機械式シャッター(回転円盤によって機械的に画面の一部を撮影していくもの)を組み合わせたものであった。次世代のビデオカメラは、撮像管に画面の一部を切り出す機能を搭載し機械式シャッターを追放したものとなった。更にその次世代は、撮像管を廃して半導体による撮像板を採用している。
恐羅漢スキー場の概要 画質面では、放送用、業務用カメラが高性能で、民生用カメラはそれに劣る。しかしこの差は、徐々に埋まってきている。監視用カメラでは、そもそもあまり画質は要求されない。
TVピックアップの発生のしくみ この現象は、多数の人々が同じテレビ番組を視聴している場合、CMなどによって中断が入ったときに、その中断時間を利用して、冷蔵庫や電気ケトルなどの家電製品を使用したりトイレに入ったりする行動が重なることによって発生する。各家庭での電気や水道の利用が同じ時間帯に集中するため、消費電力量や水道使用量が急激に上昇(ピックアップ)することになる。イギリスでは同じテレビ番組にきわめて多数の視聴者が集まることが多く、TVピックアップが発生しやすい状況にある。テレビチャンネルの多様化により頻度は減少しているが、それでもイギリスの送電事業者であるナショナル・グリッドにとってTVピックアップは大きな問題のままであり続けている。イギリスでは、テレビ番組の放送スケジュールや曜日、天気により、1日のうちに数回の大きなTVピックアップのピークが発生することが一般的である。1日のうちで最大のピークは、人気のある番組が終わったりCMに入ったりする21時前後である。一般的なTVピックアップによる電力需要の上昇幅は 200 – 400 メガワット (MW) ほどであるが、きわめて人気の番組の場合はこれが 700 – 800 MW に達することもある。
Ayumi hamasaki ASIA TOUR 2007 A 〜Tour of Secret〜の解説 日本では、2018年のサッカーワールドカップの際、日本が出場する試合のハーフタイム中や試合終了後に、東京都や神戸市、岡山市などで水道使用量が一時的に増大する現象が起きた。試合をテレビ中継で観戦していた視聴者の多くが、このタイミングで一斉にトイレやシャワーを使用したためとみられている。東京都内の水道使用量データを分析した東京都水道局の担当者によれば、これはスポーツの国際大会がテレビ中継される場合に多く見られる傾向で、特にサッカーにおいて顕著であるという。同水道局では、利用が集中しても水が適切に供給されるよう、過去の事例を参考に水量や水圧などの調整を行っている。
ケンタッキー (原子力潜水艦)の艦歴 2008年3月12日にソフト化し『ayumi hamasaki ASIA TOUR 2007〜Tour of Secret〜 "LIVE + DOCUMENTARY"』を発売。なお、タイトル中にある「A」はロゴ表記。また、LIVE + DOCUMENTARY と題している通り、ライブ本編とドキュメンタリーが合間に収録されている。ドキュメンタリーには約5ヶ月間に年明けから最終日までを完全密着し、ツアーミーティングや初のアジア公演の裏側、ステージ模型、バックステージやリハーサル、インタビューなどが収録されている。なお、浜崎のツアーファイナルでは珍しく、ライブ収録の会場であった東京・国立代々木競技場第一体育館ではなく、地元でもある福岡・マリンメッセ福岡での公演となった。前頭にアジアツアーを控えていた為である。また今回のツアー・ファイナルを通じて初の凱旋公演となった。
安居玉一の来歴・人物 ケンタッキーの建造は1985年8月13日にコネチカット州グロトンのジェネラル・ダイナミクス・エレクトリック・ボート社に発注され、1987年12月18日に起工した。1990年8月11日にキャロリン・ペネベーカー・ホプキンス(ラリー・J・ホプキンス上院議員の妻)によって命名、進水した。進水式ではシャンパンに代わってケンタッキー・バーボンを特注でブレンドした物が用いられた。1991年7月13日にブルー班のマイケル・G・リーゲル艦長およびゴールド班のジョセフ・ヘンリー艦長の指揮下就役した。1998年3月19日、ニューヨーク州ロングアイランド南方でケンタッキーはサンフアン(USS San Juan, SSN-751)と衝突事故を起こす。ケンタッキーは方向舵を破損する。サンフアンは前部バラストタンクを破損したが、浮上し港に帰還した。この事故で負傷者は発生しなかった。2隻の潜水艦は当時統合訓練演習中であった。2005年、ブルー、ゴールド両班の乗組員はアーニー・フレッチャーケンタッキー州知事によってケンタッキー・カーネルの称号が贈られた。ケンタッキーは2006年に第17潜水艦隊の1隻として「Battle E」を受賞した。
萩尾薬品の概要 神奈川大学総合理学研究所は、1986年前身となる知識情報研究所として数学・物理科学、情報科学、物質・エネルギー科学、そして生命科学の4分野を総合的にとらえ、「知識情報」として体系化するという目的で開設された。1993年に名称変更、科学技術の4分野の共同研究、セミナー、シンポジウムなどを行う。また、研究所内に理学部産官学連携推進委員会を置き、同大学理学部が産業界等の外部組織と接触する際の受け皿の役割となっている。
チャムの概要 チャムは多神教であるチベット仏教圏の人々の彼岸のイメージを具現化する舞踊とされ、敬虔なチベット仏教徒にとっては三次元で表されるマンダラに相当する。神や神格化された人物・動物を象徴する仮面(ボク)をつけた踊りが有名だが、シャ・ナのように仮面を着けずに演じられるチャムもある。チャムで使われる仮面はほとんどが木製であり、ルネ・ド・ネベスキー=ヴォイコヴィッツの調査では、チャムに登場する神々は俗世に関係のある低級神「ラ」(lha)と、「ナムツォラ」(毘沙門天)など俗世の外に座す高位神に分けられるという。年少の僧の踊るチャムは低級の神々であり、ジャンプやステップを繰り返す動きの速さに特徴がある。年長の僧のチャムは豪華で重い衣装のために動きは緩慢だが、大きくダイナミックな動作と重厚な鳴り物によって特異な空間を作る。魔を調伏するなど、儀式において重要な意味を持つチャムは実践が非常に難しく、修業や経験を積んだ僧侶によって演じられる。
チャムの無形文化遺産 ブータンのダミツェ・ンガ・チャムは2005年に人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言に、2008年にユネスコの無形文化遺産に登録された。
アゴスティーノ・カラッチの人生 カラッチはボローニャで生まれ、建築家としての教育を受けた。1574年から、エングレービングの製作を始め、フェデリコ・バロッチ、ティントレット、アントニオ・カンピ、パオロ・ヴェロネーゼ、コレッジョら16世紀の画家の模写を描いた。またこの時期、2つエッチングを含む新作も描いた。カラッチは1586年から1587年までパルマ、1587年から1589年までヴェネツィアを旅した。また、ボローニャに戻るとアンニーバレ、ルドヴィーコとともにPalazzo FavaやPalazzo Magnaniの壁面にフレスコ画を描いた。また1592年には、現在ボローニャ美術館に収められている『Communion of St. Jerome 』という作品を描いたが、これは彼の最高傑作とみなされている。1586年からは、現在パルマの国立美術館に収められている祭壇画『Madonna with Child and Saints 』の製作に取り掛かった。1598年、カラッチは弟とともにローマでファルネーゼ宮の装飾に取り組んだ。1598年から1600年までは、現在ナポリにある風俗画triple Portraitを製作した。1600年、パルマ公ラヌッチョ1世からパルマに召還され、Palazzo del Giardinoの装飾を行ったが、完成を待たずに亡くなってしまった。1583年にヴェネツィアで生まれた息子のアントニオ・カラッチもまた画家であり、父親の作った学校で絵を学んだ。
インフルエンザワクチンの製造 インフルエンザワクチンは、通常、ニワトリの受精卵からワクチン製造メーカーによって製造される。北半球においては、世界保健機関 (WHO) による冬季インフルエンザ流行期に推奨されるウイルス型(系統)の発表(通常は2月に行われる)に続いて製造が開始するインフルエンザの3つの系統(H1N1、H3N2、およびB型を表す)が選択され、別々のニワトリ卵に投与されたのち、それぞれの生成物(1価)を3つ組み合わせて3価ワクチンを製造する。従来の注射型だけでなく、経鼻スプレーも鶏卵を使用して製造されている。2009年の新型インフルエンザウイルスの流行を受けて2010/2011冬シーズンからA/H1N1がA/H1N1pdm09に変更され、2015/2016冬シーズンからは、4つのウイルス型(A/H1N1pdm09、A/H3N2、B/山形系統、B/ビクトリア系統)に増やされた。2007年の報告書では、季節性インフルエンザワクチンの世界全体での生産能力は、不活化ワクチンと弱毒生ワクチンあわせて約8億2600万個であったが、これは実際に生産された4億1300万個の2倍程度であった。2013年までに世界的大流行(パンデミック)に対するインフルエンザワクチンを生産するという計画予測においては、6か月の期間内に生産可能なワクチンは28億個にとどまるとされた。もしも、中高所得国のすべてが、パンデミック発生時に全人口のワクチンを必要とした場合、約20億個が必要となり、これに中国が加わると、30億個以上が必要となる。世界中の人口に対して、手ごろな価格でより多くの量のインフルエンザワクチンを生産することができる新しいワクチン製造方法を開発するために、ワクチンの研究開発が進められている。
インフルエンザワクチンの過程 インフルエンザワクチンは、11-12日齢の病原体のないニワトリ卵を使用して製造される。まず、ニワトリ卵の上部をアルコールによって消毒する。その後、尿膜腔(卵殻の直下に広がる空間)内の静脈が存在しない領域を探し、圧力を解放するための小さな穴をあける。さらに2つ目の穴を卵の上部に作り、そこからインフルエンザウイルスを尿膜腔に注入する。続いて、2つの穴を溶融パラフィンで密封し、37 ℃で48時間孵卵する。孵卵時間の間、インフルエンザウイルスは内部で複製され、新たに複製されたウイルスは尿膜腔の液中に放出される。48時間の孵卵期間のあと、卵の上部にひびを入れ、そこから10 mLの尿膜腔液を取り出すと、約15μgのインフルエンザワクチン成分を得ることができる。(15μgは、日本において3歳以上のワクチン1回接種量である0.5mLに含まれる抗原量に相当する。)その後インフルエンザワクチン(ウイルス抗原)は精製され、添加物が入れられたのち、注射薬ではバイアルやシリンジ、経鼻薬では鼻腔噴霧器(スプレー)の中に注入される。このような方法を経ることによって、必要とされるワクチンを製造することができる。また、インフルエンザワクチンをニワトリ卵で作る過程において、ウイルスを卵の中で増えやすくするためには、ウイルスを卵で複数回増やし、卵での増殖に適応させる「馴化」という工程が必要となる。この過程でウイルスの遺伝子に変異が起きる場合があり、これが起きた場合ワクチンの有効性が低下することもありえる。そのため、製造されたワクチンは毎年有効性の確認がされている。季節性のインフルエンザワクチンでは、増殖させたインフルエンザウイルスを上記のような方法で分離精製したのち、エーテル処理により脂溶性成分を抽出除去し、ヘマグルチニン(HA)を含む画分を得て不活化ワクチンとしている。そのため、このような不活化ワクチンは「インフルエンザHAワクチン」と呼ばれる。かつてはホルムアルデヒド(ホルマリン)で不活化していたが、2017年現在の「インフルエンザHAワクチン」にはホルマリンは使用されていない。経鼻投与されるタイプでは、上記のような不活化の過程を経ない弱毒生ワクチンが用いられている。(詳細は、別節を参照)
インフルエンザワクチンの新技術による製造 ニワトリ卵を用いた手法は、大規模な製造に向いておらず、また接種者に卵に対する食物アレルギー反応を引き起こす可能性や、ニワトリを含む鳥類に影響を及ぼす鳥インフルエンザウイルス株と不適合性であるなどの問題も生じており、解決が求められている。また、特定の株に対してのみならず、幅広い種類のインフルエンザウイルスに対して効果的である「普遍的な」インフルエンザワクチンの開発の研究も続けられている。(詳しくは研究節参照)卵の必要性を代替するワクチンの生成方法には、インフルエンザの「ウイルス様粒子」(VLP)の構築法が含まれる。VLPはウイルスの構造に似ているが、ウイルスの遺伝子コードを含まず、ウイルス粒子と同様の方法でヒトの免疫系に対して抗原を提示するだけであるため、不活性化をする必要はない。VLPを産生するいくつかの方法には、昆虫細胞(ツマジロクサヨトウ、ガの一種)や植物(ベンサミアナタバコ、タバコの一種など)を活用した培養方法などが存在する。2013年1月17日には、アメリカ食品医薬品局 (FDA) が、卵の代わりに昆虫細胞で製造された季節性インフルエンザワクチンであるFluBlokを承認している。この製品は、卵が製造過程において使用されていないため、卵アレルギーの問題を回避することができる。DNAの逆転写技術を用いた細胞培養によるワクチンの製造は、製造速度がより速くなることが期待されており、2011年付で、安全性と有効性を決定する臨床試験が行われている。2012年11月20日には、最初の細胞培養ワクチンFlucelvaxが、製薬メーカーのノバルティスによって、アメリカ食品医薬品局 (FDA) の承認を受けている。その後、ノバルティス社のインフルエンザワクチン製造部門は、アメリカの製薬メーカーであるCSLベーリングによって買収され、現在ではCSLベーリングの設立したSeqirusが事業を引き継いでいる。このような細胞培養によって作成されるワクチンは、世界的大流行(パンデミック)の際に大量のワクチンが早急に必要な場合にも、適切かつ迅速な供給を維持できることが期待されている。副反応についても、従来型ワクチンとほぼ同等程度とされている。ただし、FDAによる最初の承認では、18歳以上だけが使用の対象とされている。
インフルエンザワクチンの価格 南アフリカにおける卸売価格は、2015年8月時点で1剤(シリンジ入り0.5mL)あたり4.56米ドルであり、アメリカ合衆国では2015年時点で25米ドル未満である。日本では、2017年現在、厚生労働省等が決める公定価格一覧である「薬価基準収載品目リスト」には収載されておらず、保険適用外となっている。そのためインフルエンザワクチンの接種は自由診療となり医療機関ごとに価格は異なるが、2017年現在で3500円程度である。自治体・学校・企業等で接種費用の補助を受けられる場合もある。
インフルエンザワクチンの定義 ワクチンは、一定の条件下において疾患の危険性を減らす程度を示す「効果」と、ワクチン接種後に観察された感染リスクの低下を考慮した「有効性」によって評価される。インフルエンザワクチンの場合、この「有効性」に関しては、インフルエンザに起因するとは限らないインフルエンザ様の症状を含んだ罹患率を用いて測定されるため、「効果」と比べて低く見積もられていると予想される。動物モデルあるいはワクチン接種されたヒトにおける抗体産生の測定において、インフルエンザワクチンは一般的に高い効果を示している。しかし、現実における実際のインフルエンザワクチンの有効性に関する研究は困難である。その理由としては、ワクチンのウイルス型が完全に一致していない可能性、インフルエンザの有病率は年によって大きく異なること、しばしば他のインフルエンザ様の症状が出る病気と混同されていることなどが挙げられる。とはいえ、ほとんどの年(2007年以前の19年のうち16年)において、インフルエンザワクチン株は流行株とのおおむね一致を示しており、また仮に不一致であったとしても、交差防御によって効果が得られることがある。インフルエンザワクチンは、その対象となるウイルス株が毎年変更されるため(詳細は後節参照)、毎シーズンワクチンの有効性(vaccine effectiveness;VE)を評価する必要がある。この有効性の推定には「診断陰性例デザイン」が用いられている。この方法は、2005年にカナダにおいて初めてインフルエンザワクチンに用いられたことが報告されて以降、世界的に標準方法として使用されるようになった。診断陰性例デザインによるワクチン有効性の算出は、インフルエンザの疑いとして、インフルエンザの検査を受けた患者を陽性群と陰性群に分け、それぞれのワクチン接種率を比較することによって行われる。つまりその結果は、「インフルエンザワクチンを接種したら、インフルエンザと診断される確率を何%減らせているか」というものと同義となる。この方法による精度は高く、ランダム化比較試験に匹敵するものいう意見もある。診断陰性例デザインによるVEは様々な条件下で算出されており、国、地域、年や施設によって結果は大きく異なる。インフルエンザワクチンの有効率は一般的に、(1 - 接種群罹患率)/ 非接種群罹患率 X 100 である。つまり、「非接種者群の発症者10人で、接種者の発症者が4人である」とき、「10人から6人へと減らしたので有効率は60%」と表現される。よって、「有効率60%」は、100人の非接種者群と100人の接種者群の研究において、「予防接種を受けた100人のうち、60人は発症しない」ことを示すのではない(このような計算方法では、罹患率の影響を受けるため、罹患率が低い感染症では有効率の評価ができない)。
インフルエンザワクチンの報告  季節性インフルエンザに対する不活性ワクチンの試験の結果はいくつかのメタアナリシスに集約されており、これは、成人、子供、高齢者において季節性インフルエンザに対する不活性化ワクチンの効果効能および有効性を調べたものである。2012年のメタアナリシスによると、インフルエンザワクチン接種の有効率は67%であった。最も効果が高かった集団は18から55歳の後天性免疫不全症候群(HIV陽性)の成人で、有効率は76%であった。そのほかの集団の有効率は、18から46歳の健康な成人では70%、生後6から24か月の健康な子供では66%であった。弱毒生インフルエンザワクチン(鼻スプレー型)について、米国予防接種諮問委員会(ACIP)は、2016-2017年、2017-2018年のインフルエンザシーズンに、これら鼻スプレーのワクチンを使用しないよう推奨していたが、2018-2019年では、無効になっていたH1N1の抗体が変更されたため使用中止の推奨を取りやめ、またしかし市場から離れていたため有効性に関するデータは存在しない。2017年の報告では、日本の不活化インフルエンザワクチン接種による発症予防効果は、小児で25~60%、成人で50~60%とされている。65歳以上の老人福祉施設・病院に入所している高齢者を対象とした1999年の研究では、インフルエンザワクチンによって34~55%の発病を防ぎ、死亡を抑制する効果は約82%であった。インフルエンザワクチンの効果は年々低くなってきているという日本臨床内科医会の報告も存在する。この報告によると、全年齢群において、2001-2002年から2007-2008年シーズンまでは効果が有意に認められたものの、以降は2009年の一部と2014-2015年シーズンを除き、有意ではなくなっているとされている。これらのことから、インフルエンザ対策は、インフルエンザワクチンのみでは不充分とされており、手指消毒や咳エチケット、マスクの着用といった標準予防策を合わせて用いることが重要とされる。
インフルエンザワクチンの集団接種の有効性 より長期間の観察での評価として、日本の集団接種を対象として行われた研究がある。日本では1987年まで小中学生を対象としたインフルエンザワクチンの集団接種が行われていた。この集団接種は、約300万人が感染し約8000人(推計)が死亡した1957年のインフルエンザ(アジアかぜ)大流行がその引き金になったもので、1962年から小児への接種推奨がなされ、1977年に予防接種法で小中学生の接種が義務化された。しかし、接種後に高熱を出して後遺症が残ったと国を訴えられて国側が敗訴するケースも続出したため国が方針転換し、1987年に保護者の同意を得た希望者に接種する方式に変更され、 1994年には任意接種となった。またインフルエンザワクチンの効果に対する不信感も世論に広まり、100%近かった小中学生の接種率は1990年代には数%に低下した。その結果、インフルエンザ脳症によって死亡する児童が増加しただけではなく、インフルエンザに対する集団免疫の低下により高齢者施設で入所者がインフルエンザで相次いで死去することになった。後に、当時の日本での小中学生に対するインフルエンザワクチンの集団接種は、高齢者を含めて年間約3万7000-4万9000人の人命を救っていたことが指摘された。この研究によって「集団免疫」(間接予防効果)の重要性が認識されるようになり、各国のその後のインフルエンザ対策に大きな影響を与えた。
インフルエンザワクチンの成人 2014年、コクラン共同計画のシステマティック・レビューによると、ワクチン接種によって、インフルエンザと確認された症例は約2.4%から1.1%に減少し、インフルエンザ様の症状を示した者は約16%から約10%に減少していた。入院数の増減に関するデータは得られなかった。仕事を持つ成人において、ワクチン接種はインフルエンザの症状および休業日数の両方に対して、わずかながら減少をもたらすことが示されている。しかし、このデータから出版バイアスの影響を評価することができずバイアスによるデータの誤差などのリスクは不明である。2018年にコクランはレビューを改訂し、ワクチンを接種しなかった場合のインフルエンザの頻度2.3%を0.9%へと減少させ、これは1人のインフルエンザを予防するために71人がワクチンを接種する必要があり、インフルエンザ様症状では21.5%を18.1%へと減少させ同じように1人の予防に29人の接種が必要とし、また休業あるいは入院をわずかに減少させるという証拠の確かさは低いとし、有害事象では接種者は「わずかな発熱」のリスクを増加させていた。インフルエンザウイルスに対して、ある程度の予防効果も存在するとされているが、その効果は時間を経るにつれて大幅に減少または消失するとされる。理論的に全ての人々がワクチンを接種しても、集団に感染が拡大することを防止する集団免疫の獲得には至らないという報告もあるが、先の日本の集団接種のデータなど、それに反する報告が複数報告されている。医療従事者においては、2006年のシステマティックレビューにおいて、医療従事者に対するワクチンの確かな接種によって、患者死亡率が低下したことを示した。このレビューでの18の研究のうち、2つの研究において医療従事者のインフルエンザワクチン接種率に対する患者死亡率の関係を評価した。双方ともに、医療従事者のワクチン接種率が高いほど患者の死亡率が減少していることを示している。2014年のシステマティックレビューでは、医療従事者に対するワクチン接種の患者へ与える影響について、医療従事者がワクチン接種を受けていなかった場合と、医療従事者がワクチン接種を受けた場合において、患者のあらゆる原因による死亡率の減少が観察されたことを挙げている。
インフルエンザワクチンの小児 2012年のコクラン共同計画のレビューによれば、2歳以上の子供の発症の予防に効果を示したが、インフルエンザと同様の症状を呈する疾患(インフルエンザ様疾患)を予防する効果なく、しかしまた6歳以上では不活性化ワクチンは偽薬と同じであった。また、2歳未満の小児に対するワクチン接種については、存在する限られたわずかな研究データとしては測定可能なほどの効果は得られていない。2018年の改定されたコクランのレビューは、証拠の確実性は中程度であり、おそらくインフルエンザを減らし、インフルエンザ様の症状では低い確実性で減らすとし、有害事象については記載が十分ではないため評価できず、2歳未満では同様に研究がほとんどなかった。
インフルエンザワクチンの高齢者 2010年のコクランレビューでは、65歳を超える高齢者では証拠の品質が低く結論が導けなかった。65歳以上の高齢者における効果は不明であるとされている。ランダム化比較試験 (RCT) と症例対照研究の両方を調べる系統的レビューでは、信頼性の高い研究結果が存在しないことが示された。それらより信頼性の低い症例対照研究のレビューでは、高齢者において、診断されたインフルエンザ、肺炎、および死亡に対する効果の存在を示唆している。高齢者は、季節性インフルエンザに対して最も脆弱なグループであるのにもかかわらず、ワクチン接種の効果が最も少ない。高齢者における急激なワクチン効果の低下には、複数の理由が存在する。最も一般的なものは、免疫機能の低下と高齢に伴う衰弱である。インフルエンザの大流行が発生しなかった年において、アメリカ合衆国では、50-64歳の人は若年者よりもインフルエンザ関連死亡率が10倍近く高く、65歳以上の人では10倍以上となるとのデータが存在する。より強い免疫応答を提供するために特別に製造された新しい高用量インフルエンザワクチンも存在する。信頼性が担保された研究によると、この高用量ワクチンを高齢者に接種すると、正規用量のワクチンよりもインフルエンザに対して強い免疫応答が誘導できることが示されている。また、インフルエンザに対して脆弱な高齢者における流行を減らすことを目標として、高齢者とかかわる医療従事者に対するワクチン接種が、多くの国で推奨されている。医療従事者のワクチン接種によって、高齢者をインフルエンザ感染から守るという確かな臨床試験からの決定的な証拠には乏しいものの、効果を示唆する証拠は存在している。
インフルエンザワクチンの妊婦 2018年のコクランによるレビューでは、母親と新生児に対する保護作用は成人一般におけるものよりも小さく、妊婦とその新生児では非常に控えめであった。妊娠中であっても、インフルエンザワクチン接種は可能である。妊婦へのインフルエンザワクチン接種は、母体だけでなく、産まれてくる児への防御という重要な役割も果たす。また、コホート研究によれば、妊婦に対するインフルエンザワクチン接種は、インフルエンザ感染の影響から母親や子供を守るだけでなく、満期妊娠を成功させる可能性を増加させる傾向がある。また、3価不活化インフルエンザワクチンの研究では、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染した妊婦に対する予防効果が示されている。インフルエンザワクチンの接種は、妊娠のどの期間においても可能とされているが、ワクチンの効果が出現するまでは約2~3週間要し、その効果が継続する期間は約3~4ヵ月であることを考慮すると、インフルエンザ流行期が始まる10~11月にワクチン接種を行うことが理想的とされている。母体ヘワクチン接種することによって、母体で獲得された抗体は胎盤を介して胎児へも移行する上、その抗体は胎児の出生後も約6ヵ月間持続するとされている。出生後の乳児へのインフルエンザワクチン接種は、多くの場合生後6か月以降とされているが、この空白期間を妊婦への接種によって補うことが可能である。妊娠中の接種の場合、胎児へのリスクとして催奇形性、胎児毒性や妊娠の継続に関する懸念をもつ妊婦も多いが、実際にはインフルエンザワクチン接種による胎児奇形の誘導は認められず、接種妊婦において奇形児が発生する確率は、自然発生率を超えないとされている。また、自然流産早産、胎盤発育異常が増加するという明確な証拠も存在しない。ただし、母体への危険性として、インフルエンザワクチンによる母体の副反応やアレルギーが挙げられるが、これらの発生頻度は妊娠の有無には関係ないとされている。ただし、経鼻スプレー型の生ワクチン(後述)の妊婦への接種は禁忌である。
インフルエンザワクチンの安全性 インフルエンザワクチン接種によって副反応(一般的な医薬品における副作用に相当)が発生する可能性があるが、通常は軽微なものがほとんどである。具体的な副反応としては、鼻水や喉の痛みなどの症状を引き起こす可能性があり、これらは数日間続くこともある。ただし、これらのワクチン接種による一般的な副反応や危険性は、毎年流行するインフルエンザあるいはそれによって引き起こされる可能性のある入院、死亡などの危険性と比較して、一時的かつ軽微なものに留まることが多い。稀に、アレルギー反応を含む深刻な副作用を引き起こす可能性はあるものの、確率は非常に少ない。日本におけるインフルエンザワクチンの接種後の副反応の報告データでは、接種関連死亡として報告された例は、通常年間5例以下であった。これに対して使用量は、年によって異なるものの、年間約2500万本であり、報告されている疑い死亡例の確率は非常に少ない。また、これらの死亡例を専門家が評価したところによると、死亡とワクチン接種の直接の明確な因果関係があるとされた症例は1例もなかったとされている。また、上記死亡例のほとんどが、基礎疾患等がある高齢者である。
インフルエンザワクチンの卵アレルギーとの関連 インフルエンザワクチンは通常卵を使用して作られているため、接種者の卵アレルギーの有無も注意しなくてはならない。複数の専門家グループは、卵アレルギーとインフルエンザワクチンの研究に基づいて、軽度のアレルギーの人にはワクチンを推奨し、重症の人にはワクチン接種を慎重に行うべき、としている。イギリスにおいて実施された、卵アレルギーを持つ800人近くの小児(卵によるアナフィラキシーショックの既往歴を伴う250人以上の小児を含む)が参加した大規模な研究では、弱毒生インフルエンザワクチン接種を受けた際に、全身性のアレルギー反応が生じた小児は1人も認められなかった。また、卵アレルギーの人への安全な接種のための研究も進んでいる。2013年1月17日には、アメリカにおいて医薬品承認を行う機関であるアメリカ食品医薬品局(FDA)によって、卵の代わりに昆虫細胞で製造された季節性インフルエンザワクチンであるFluBlokが承認された。FluBlokは製造過程において卵が使用されていないため、アレルギーの問題を回避することができる。
インフルエンザワクチンのギラン・バレー症候群 予防接種による合併症としてギラン・バレー症候群(筋肉の運動神経に生じる障害によって引き起こされる疾患)が懸念されてきたが、アメリカ疾病予防管理センター (CDC) は、現在のインフルエンザワクチンに関するほとんどの研究においてギラン・バレー症候群との関連性は認められないとしている。2009年の推定値によると、インフルエンザウイルスへの感染そのものによって上昇する死亡の危険性(10,000人中最大1人)及びギラン・バレー症候群を発症・増悪させる危険性は、ワクチン接種による副反応との関連性が疑われている最も高い危険性の水準よりも、約10倍高いものであるとされている。2009年Vaccine誌掲載レビューによると、ワクチン接種によるギラン・バレー症候群の発生率は100万回あたり約1例とされている。もっとも権威ある医学雑誌のひとつである『ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン』に掲載された別の研究によると、2009年に中国においてH1N1ブタインフルエンザに対するワクチン接種が行われた際、1億人に近い人に接種が行われたのに対し、ギラン・バレー症候群の発生例は11人のみであった(100万人あたり約0.1人)。これは中国におけるギラン・バレー症候群の通常の罹患率より低く、その他にも顕著な副作用はみとめられなかった。リスク対効果を考えるならば、圧倒的に接種を行ったほうが有利であるという結果となっている。2010年日本公衆衛生雑誌掲載の総説では、インフルエンザの疾病負担とワクチン有効性を比べると、インフルエンザワクチン接種の有益性は、季節性ワクチン接種後のギラン・バレー症候群の発生リスクを大きく上まわると結論付けている。
インフルエンザワクチンのナルコレプシー 2013年に発表されたある研究によると、2009年にH1N1インフルエンザが大流行した際に用いられたワクチンのひとつである「H1N1インフルエンザASO3アジュバント添加ワクチン」の接種者において、ナルコレプシーの発生率が増加していることが確認されており、この機序を解明することによって、ナルコレプシーが自己免疫疾患であることが示唆された。この研究では、「H1N1インフルエンザASO3アジュバント添加ワクチン」は、オレキシン(ヒポクレチン-1)と類似しており、ナルコレプシー発症の原因となり得るとされていた。ただし、上記の主旨で発表された2013年の論文は、論文の構成上重要な実験が再現できなかったとして、2014年に著者により取り下げられている。
インフルエンザワクチンの添加物の安全性 チメロサールやアジュバントの安全性については、マスメディアによって論争がある。1997年にアメリカでの法改正によって水銀化合物が使用できるようになり、1999年にはいくつかのワクチンにエチル水銀含有の防腐剤であるチロメサールが使用されるようになり、乳児には水銀量が過剰ではないかと提起され、一方その政府機関は安全性だと述べてきた。2012年にも、世界保健機関のワクチン安全性に関する諮問委員会は、ワクチンにおけるチメロサールの有害性の証拠は方法的な欠陥のある研究であり、半減期が3-7日のエチル水銀が血中及び脳に到達する水銀濃度は毒性がない域であり、安全性を支持している、と報告している。
インフルエンザワクチンの注射型不活化ワクチン 3種類のウイルス株が入った3価ワクチン (TIV) および4種類のウイルス株が入った4価ワクチン (QIV) の注射薬は、一般的には筋肉内、皮下あるいは皮内に投与して用いられる。これらは体内に注射されることによって、不活性化されたインフルエンザウイルスに存在する抗原に対する免疫応答に基づいて防御機構を誘導する。不活化ワクチンは、インフルエンザウイルスの病原体としての活性を失わせ、免疫をつくるのに必要な成分を取り出したものである。したがって、不活化インフルエンザワクチン接種によって、インフルエンザを発症することはない。
インフルエンザワクチンのヨーロッパ 欧州疾病予防管理センター(ECDC)は、第1に高齢者、第2に慢性疾患を抱える人や医療従事者に対して、インフルエンザワクチンを接種することを推奨している。インフルエンザワクチンの接種戦略は一般的に、インフルエンザの流行を抑制あるいは完全に防止するというよりも、むしろインフルエンザに対して脆弱な人々を保護することにある。この点において、急性灰白髄炎(ポリオ)や麻疹などの他の感染症に対する「集団免疫 (herd immunity)」の考え方とは対照的となっている。
インフルエンザワクチンのアメリカ合衆国 アメリカ合衆国では、生後6か月以上のすべての人に対して、定期的なインフルエンザワクチン接種が推奨されている。アメリカ疾病予防管理センター (CDC) は、医療従事者に対するインフルエンザワクチン接種の推奨を1981年に開始した。CDCは、一般的に感染症に対して高リスクな人々と、その治療・看護をする人々は特に予防接種の緊急性を要するとの趣旨を、一般的なワクチン接種の包括的推奨のなかで臨床医に対して強調している。インフルエンザワクチン接種に関しては、重篤なインフルエンザの合併症の危険性がより高い人、またはこれらの人と一緒に暮らしている人や世話をする人々にとって特に重要となる。2009年には、インフルエンザ標準ワクチンの、新しい高用量製剤であるFluzone High Doseが承認された。Fluzone High Doseは、特に65歳以上の人に適しており、標準のFluzone(15μg)の抗原投与量の4倍の用量(60μg)となっている。インフルエンザの合併症の危険性がより高い人には、妊婦や生後6か月から18歳までの若年者などが含まれる。年齢制限を18歳とする目的は、小児科医への受診、学校の欠席あるいは合併症に対処するための抗生物質の必要性等を減らすことである。さらに、子供へワクチンを接種することによって、その親および生活を共にする人々のインフルエンザ罹患者の減少、ひいては一般社会への感染拡大の可能性を減少させることが期待できる。アメリカ合衆国政府は、病院に対して従事者のワクチン接種率を報告するよう求めている。また、アメリカ合衆国の州や多くの病院は、インフルエンザ流行期に医療従事者にワクチン接種を受けたり、マスクを装着するよう要求している。これらの要求に対して団体交渉や組合訴訟が起こされることもあるが、一般的に裁判所は、病気の流行時に一般住民に及ぼす影響を考慮したのものとして、これらのワクチン接種に関する規則を支持している。なおCDCは、経鼻スプレー型である弱毒生インフルエンザワクチン(LAIV)を、2016-2017年のインフルエンザ流行期において推奨しないことを発表している。さらに、重度の免疫不全患者を治療・看護する医療従事者は、弱毒生インフルエンザワクチン型(LAIV)ではなく不活化ワクチンである注射型(TIVまたはQIV)を受けるべきであるとしている。
インフルエンザワクチンの接種指向 季節性インフルエンザとパンデミック(大流行)を引き起こすインフルエンザの両方において、インフルエンザワクチン接種率は一般的に高くない。パンデミックを引き起こすインフルエンザに対するワクチン接種に関するシステマティック・レビューでは、性別(男性の接種率が高い)、民族性(少数民族の接種率が高い)および慢性疾患の有無などが、接種に影響を与える個人的要因として特定されている。さらには、ワクチンの安全性と有効性に関する個人的な心情も重要な因子となる。
インフルエンザワクチンの医療従事者 最前線で働く医療従事者は、季節性インフルエンザやパンデミックを引き起こすインフルエンザに対するワクチン接種を受けることが推奨されている。例えば、イギリスでは、患者の治療に携わるすべての医療従事者は、季節性インフルエンザワクチンの接種を推奨されており、2009年の新型インフルエンザのパンデミックの際には、新型インフルエンザに対するワクチンも同様に推奨された。しかし、接種率はしばしば低くなっている。2009年の新型インフルエンザのパンデミックの際には、イギリス イタリア,、ギリシャ、および香港において、接種率が低かったことが指摘されている。アメリカの医療従事者を対象とした2010年の調査では、2010-2011年の流行期に63.5%の人がインフルエンザワクチン接種を受けたと報告しており、前年の61.9%から増加している。医師と歯科医(84.2%)やナース・プラクティショナー(アメリカにおいて、一定の医療行為が許された看護師)(82.6%)など、患者と直接接する医療従事者では、ワクチン接種率がとくに高かった。医療従事者に対してワクチン接種が推奨される主な理由は、医療従事者が接する患者へのインフルエンザ感染を防ぐことや、需要が高い時期に欠勤する医療従事者を減らすことにある。しかし、彼らがワクチン接種を受け入れるかどうかについては、接種によって受ける個人の利益によるところもある。
インフルエンザワクチンの歴史 1918年に世界的なインフルエンザパンデミック(いわゆるスペインかぜ)が起こった際には、医者は、患者の出血に関する古くからの伝承治療から、酸素の投与、新しいワクチンや血清の開発に至るまで、さまざまな手を尽くした(「インフルエンザ菌(Hemophilus influenzae)」と呼ばれている病原体は、当時インフルエンザ感染症の病因と考えられていたことに由来する名前である。現在ではこの説は否定されているが、インフルエンザに続発してインフルエンザ菌の感染をきたす可能性はある)。このうち、回復した患者から感染者に血液を輸血するという治療法は、インフルエンザの対する成功の一助となった。1931年には、ヴァンダービルト大学のErnest William Goodpastureらによって、ニワトリ卵内におけるインフルエンザウイルスの増殖が報告された。この研究は、複数の他の研究者らによって引き継がれ、インフルエンザウイルスの増殖によって最初の実験的インフルエンザワクチンが誕生した。1940年代には、インフルエンザワクチンによる一定の予防効果が確認された。実験・開発は、アメリカ軍に設置された「インフルエンザその他陸軍において発生する伝染性疾患の研究と防疫の為の委員会」によって主にすすめられ、第二次世界大戦期(1943年ごろ)から本格的な使用が開始された。さらに、ワクチン製造メーカーは、ウイルスの純度を改善するために製造プロセスの開発を行い、ニワトリ卵タンパク質をより除去し、さらにワクチンの全身反応性を低下させるための改善を進めた。最近では、アメリカ食品医薬品局 (FDA) は、ニワトリ卵を用いず細胞培養によってウイルスを増殖させて作られたインフルエンザワクチンを承認した。また、植物細胞由来のインフルエンザワクチンも臨床試験が行われている。日本において1962年にインフルエンザワクチンの集団予防接種が開始され、1964年にはその副反応の被害訴訟がはじまり80年代、90年代まで続いた。1994年には学校での集団予防接種は廃止された。次第に新型インフルエンザの恐怖が煽られ、出版物が続々と刊行された。2009年には世界的なパンデミック宣言が発せられた。各国は膨大な税金をワクチンや抗ウイルス薬を備蓄したが、その致死性が恐れていたほどではないと判明した。
インフルエンザワクチンの年によるワクチン型の変更 世界保健機関 (WHO) は、次年に流行する可能性が最も高いインフルエンザウイルス株を選択して、毎年ワクチンの内容を調整している。WHOの世界的インフルエンザ調査ネットワーク (Global Influenza Surveillance Network; GISN) によって、毎年、それぞれの年の流行期におけるインフルエンザワクチンとして、3つあるいは4つのウイルス型が選択される。従来は3価(3種類のウイルス型が入っている)のインフルエンザワクチンが使用されていたが、4価インフルエンザワクチンが承認されたことに伴い、WHOは、2012年から2013年までの北半球におけるインフルエンザ流行期から、B型株を2つに増やした4価のインフルエンザワクチンを推奨している。H1N1、H3N2、B型の系統から選択されたこれら3つあるいは4つの型は、次の流行期にヒトへの影響が強い可能性が最も高いとされる。最初の正式なWHOによる勧告は、1973年に出されている。1999年からは、北半球(N)と南半球(S)の2つの勧告を年に2回行うこととなった。WHO世界インフルエンザ監視対応システム(Global Influenza Surveillance Network;GISN)は、1952年に設立された。このネットワークは、世界140か国に存在する「WHO国内インフルエンザセンター」(WHO National Influenza Centres; NICs) と、WHOによって認められた6つの「WHOインフルエンザ協力センター」(WHO Collaborating Centres; WHO CCs)によって構成されている。NICsは、自国でウイルスサンプルを収集し、検査を行う。ここから新しく単離されたウイルス株を、さらに高度な検査のためにWHO CCsに提供し、その結果が毎年のインフルエンザワクチンの構成に関する勧告の基本となる。製造するワクチンを決定するためのウイルス株選定は、どの株が次の年において支配的となるのかという最善の推定に基づいており、最終的には外れる可能性も存在する。とはいえ、ほとんどの年(2007年以前の19年のうち16年)において、インフルエンザワクチン株は流行株とのおおむね一致を示している。日本においては、厚生労働省健康局の要請によって国立感染症研究所で開催される「インフルエンザワクチン株選定のための検討会議」に基づいて、厚生労働省が最終的な決定・通達を行う。国立感染症研究所では、WHO世界インフルエンザ監視対応システム(GISN)を介した世界各地の情報のみならず、日本全国77カ所の研究所と、厚労省結核感染症課の感染症発生動向調査事業により得られた国内の流行状況、および約8,158株に及ぶ国内分離ウイルスについての抗原性や遺伝子解析の成績、感染症流行予測事業による住民の抗体保有状況調査の成績などを考慮し、ワクチン候補株を選択する。さらに、これらの候補株について、ニワトリ卵での増殖効率、抗原的安定性、免疫原性、エーテル処理効果などの項目について、ワクチン製造に適するか検討を行っている。国立感染症研究所での会議で最終的なワクチン株が選定されると、厚生労働省健康局長から決定通知が公布され、その年のワクチン株が発表されることとなる。
インフルエンザワクチンの研究 インフルエンザウイルスワクチンの研究は、分子ウイルス学、分子進化、病因、宿主の免疫応答、ゲノミクス、および疫学などのさまざまな学問が重要となる。また、インフルエンザウイルスがどのように細胞に侵入し、複製し、変異し、新たな系統に進化し、免疫応答を誘導するかということに関する基礎研究を必要としている。「インフルエンザゲノム配列解析プロジェクト」は、インフルエンザの遺伝子配列のライブラリを作成している。このプロジェクトによって、どのウイルス株が他のウイルス株より致命的なであるのか、どの遺伝的決定因子が免疫に最も影響を与えるのか、そしてウイルスがどのように進化するかを理解するのに役立ちつ。さらに、現状のワクチンによる対策の限界への解決策が研究されている。
インフルエンザワクチンの世界的大流行に対する迅速な対応 インフルエンザの世界的大流行(いわゆるパンデミック)が発生した時、インフルエンザワクチンを迅速に開発、生産、流通させることは、何百万人もの命を救う可能性がある。短期間でパンデミックの原因となったウイルス株と特定し、それを迅速かつ安価に製造し、パンデミックの発生源地と予想されている中低所得国へ提供するために、研究者たちは、ニワトリ卵や遺伝子組み換え技術を用いた新しい技術の開発を進めている。2009年に発生した新型インフルエンザの世界的流行と関連して、2009年7月には、70以上の臨床試験が完了しており、パンデミックを引き起こすインフルエンザ株に対するワクチン開発も進められた。2009年9月、アメリカ食品医薬品局(FDA)は、2009年の新型インフルエンザウイルス株に対して4種類のワクチンを承認している。
インフルエンザワクチンの季節性インフルエンザに対する4価ワクチン 従来は、3種類のウイルス株が入った3価のインフルエンザワクチンが使用されていたが、2012年3月に、アメリカ食品医薬品局(FDA)によって、経鼻スプレーによって投与される4価インフルエンザワクチン(4種類のウイルス株が入ったもの)であるFluMist Quadrivalentが承認された。さらに、2012年12月には、4価不活化ワクチンであるFluarix QuadrivalentがFDAの承認を受けた。これらのワクチンは、アメリカ合衆国において2013-2014年のインフルエンザ流行期から導入されている。日本においても、2015-2016年のインフルエンザ流行期から4価のインフルエンザワクチンが導入されている。国立感染症研究所は、世界的に3価インフルエンザワクチンから4価インフルエンザワクチンへと移行が進んでいるのを受けて、4価インフルエンザワクチン導入の是非について2015年度における「インフルエンザワクチン株選定のための検討会議」において検討を行い、4株のワクチン株を選定した。この選定を受けて、最終的に厚生労働省が4価ワクチン導入を決定した。なおこのとき、インフルエンザワクチンの医薬品としての製法、性状、品質、貯法等に関する基準を定めた「生物学的製剤基準」の改正もあわせて行われた。
インフルエンザワクチンのユニバーサルインフルエンザワクチンの開発 インフルエンザワクチンは、2017年現在の技術では、各半球の各インフルエンザ流行期に合わせてそれぞれ内容を調整して製造しなければならない。このような必要がなく、すべてのインフルエンザ株に効果のあるワクチン「ユニバーサルインフルエンザワクチン」を開発することができれば、ワクチンの供給を安定させ、ウイルスの変異を原因とするインフルエンザの流行を防ぐことができるとされる。そのため、何十年にもわたって研究の対象となってきた。この「ユニバーサルインフルエンザワクチン」を実現させるために、現在のワクチンが標的としているウイルス抗原(HAヘッド)ではなく、抗原変異が起こらない別の抗原部位(HAストーク)を標的にしてワクチンをつくるというアイデアがある。2009年には、世界インフルエンザワクチン会議(IVW2009)において、インフルエンザウイルスの3種類のタンパク質から、変異しない特定の領域9カ所を連結した遺伝子組み換えワクチンが「ユニバーサルインフルエンザワクチン」として発表された。その後、2015年にも別の手法によって作成したワクチンのマウス実験の結果が発表されている。しかし、いずれの感染防御効果もいまだ実用段階には至っていない。また、そのほか期待されている方法として、免疫系による免疫応答を利用して抗体を生成する現在のワクチンによるシステムではなく、中和抗体を使用する方法が提案されている。
E-LineRの概要 e-LineRの愛称は行先・路線・系統に関係なく遠鉄の運行する高速バス全般に使用される。「eLineR」とも表記されることがあるが、正式には「e-LineR」である。ちなみに、遠鉄が運行する空港リムジンバスには「空港直行バスe-wing」の愛称が与えられている。愛称は遠鉄 ("e"ntetsu)の運行する定期路線("liner")であることが由来である。また、綴り字の"L"と"R"が大文字表記になっているのは、それぞれを左("L"eft)右("R"ight)の頭文字に見立て、各地へのアクセスを形容しているからである。路線ごとに「渋谷・新宿イーライナー」など、「●●イーライナー」という形で愛称がつけられている他「e-LineR●●線」とも呼称される。なお、e-LineR(イーライナー)を名乗るのは遠鉄の運行便のみであり、他社運行便は別の愛称がつく。このため共同運行する会社同士で愛称が一致しない。なお、遠鉄では片道利用可能な都市間ツアーバス事業として2000年代後半にちょこっとおでかけ便(このうち渋谷経由六本木行、東京丸の内行のみ該当)を、2010年代初期に観光都市方面へ結ぶ遠鉄直行バスを運行していたがいずれも既に廃止されている。こちらの詳細は遠鉄観光を参照。
E-LineRの横浜イーライナー 路線名は浜松横浜線である。横浜イーライナーの愛称も使用される。
E-LineRの大阪イーライナー 共同運行会社である西日本JRバス担当分についても解説する。
E-LineRの使用車両 どちらもトイレ付4列シート車で運行、車内禁煙。遠鉄担当便については車両の節も参照。なお大阪イーライナーではエアロエースが優先的に充当されており、この車両は全席コンセント付のワイドシートである他、各座席にクッションが用意されている。なお、エアロエースの772号車が導入される前はエアロバスの516号車が使用されていた。代走時はこの限りではない。西日本JRバス担当便は他路線と共通のエアロバス・セレガなどを使用。
片貝駅の駅構造 単式ホーム1面1線を有する地上駅。無人駅となっている。コカ・コーラの自動販売機が1台設置されている。
鋤簾の農具 水が溜まった水路などから泥や砂を取り除く道具。鍬に似るが刃先の後ろに、すくい上げが容易なように湾曲が付いたり縁取りが付けられている。また、引き上げた際に水分が適当に除去できるよう、板状の部分には小穴やスリットが付いている。
鋤簾の漁具 シジミやアサリ、ハマグリなどの貝類、エビやシャコなどの甲殻類を採取する際に使う道具。大型の熊手に似るが、刃先の後ろに、引き上げた際に砂や小石だけ抜けるようバケット(箕や金網)が付いている。船で使う大型のものは2m前後の大きさがあるが、浅瀬や波打ち際で使う小型のものは1m以下。ホームセンターでも売られていることもあるが、労せずして大量の漁獲が得られるため各県の条例や漁業調整規則で禁止漁具とされている場合があり(例として愛知県、三重県)、漁業権が設定されている場所では収穫没収の上、処罰(罰金刑)対象となる。
鋤簾のその他 発掘調査において使用される。
小島孤舟の人物・来歴 生年月日、生地等不詳。1870年代生まれか。1899年(明治32年)7月号の文芸誌『新小説』(第2次、幸田露伴編集、1896年7月 - 1926年12月)に、『菅笠日記』を「孤舟生」名義で執筆している。1910年(明治43年)2月に大阪・杉本梁江堂から発行された小説『春の光』が、日本の国立国会図書館に所蔵されている小島孤舟の最古の単行本著作である。翌1911年(明治44年)7月1日 - 同月20日、小島が脚色した新派劇『恨』が、京都市新京極の京都座で上演されている。同月31日、小島の著作を原作に、京都の映画会社横田商会(現在の日活の前身の一社)が『緑』というタイトルで映画化、公開している。1917年(大正6年)6月5日、徳田秋声の小説『誘惑』の脚色を完成、片岡我童(のちの十二代片岡仁左衛門)らの出演で、同月9日、歌舞伎座で公演されている。同年9月11日 - 同月20日、小島作の新派劇『浅草物語』が成美団の福井茂兵衛らの出演で歌舞伎座で公演されている。1921年(大正10年)には、当時の大阪府の方面委員(現在の民生委員)の小河滋次郎が原作を執筆し、同府社会局が松竹蒲田撮影所に製作させた映画『生存の為に』の脚本を執筆、同作は牛原虚彦が監督し、ホール上映された。1922年(大正11年)5月31日 - 6月11日、小島作の連鎖劇『神楽の夜』が、大阪市道頓堀の中座で公演されている。1924年(大正13年)3月19日 - 同月27日、前田曙山原作を小島が脚色し、幕内主任をつとめた新派劇『糸の乱れ』が京都座で上演されている。出演は梅島昇、花柳章太郎ほか、座主は松竹合名社(現在の松竹)であった。1926年(大正15年)までに20冊ほどの著作が書籍として出版され、1932年(昭和7年)までに小島の著作を原作に、10本の映画が製作、公開されている。50代と推測される1926年(昭和元年)以降の活動の形跡が存在しない。
いかりや長介の概要 「ザ・ドリフターズ」のリーダーとして、TBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で一世を風靡。その後は俳優、タレントとして活躍。先に挙げた2番組での「お笑い」のイメージとは一線を画した、味わい深く「渋い」演技を見せた。1997年に放映されたドラマ『踊る大捜査線』(フジテレビ系)のベテラン刑事・和久平八郎役では、『全員集合』をリアルタイムで見たことがなかった若いファンからも支持を受ける。1999年、『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。晩年は独特な語り口調を生かし、ナレーションを務めたことでも有名だった。趣味はアフリカ旅行(特にケニア方面)で、いかりやをメインレポーターとしたアフリカ紀行番組もたびたび放送された。長男の碇矢浩一(1969年5月8日-)は明治大学卒業後、森永製菓に勤務。在職中の2004年にドリフターズ事務所の代表取締役社長に就任し、父・長介の没後に著書『親父の遺言』(2006年、幻冬舎)をいかりや浩一名義で出版した。2008年12月に森永製菓を退職してドリフターズ事務所の代表取締役に専任し『いかりや長介という生き方』(幻冬舎、2008年)を出版した。浩一には妻の他、2人の息子と2人の娘がおり、合計で6人家族である。また、浩一の妹で長女の碇矢まゆみは『容疑者 室井慎次』での俳優担当スタッフであった。
いかりや長介の生い立ち 4歳の時、母・よねが結核で病没。本所区横川国民学校(現在の墨田区立横川小学校)卒業。国民学校時代の教師に書道家の井上有一がいる。父・碇矢一郎(1908年6月21日〜1995年4月23日)は築地の魚河岸で運搬の仕事に従事していた。いかりやは自伝『だめだこりゃ』の中で、この父について「私に一番影響を与えた、傑作な人物」と語っている。1944年、戦争の激化に伴って静岡県の吉原市へ疎開。吉原市立第三中学校へ入学。翌年に同地で終戦を迎えた。以後、長介の父は86歳で亡くなるまで生涯この地から離れることはなかった。
いかりや長介のミュージシャン 吉原市の中学を卒業後、わずか8年のみの設置であった静岡県立吉原高等学校定時制課程吉永分校(1950年4月設置、1955年4月生徒募集停止、1958年3月廃校)に進学、同校を中途退学後、静岡の製紙工場(春日製紙)に勤めながら、同僚らとハワイアンバンドを組み、ダンスホールで活動していた。元々はスティール・ギターを担当していたが、後にベースに転向。当時のバンド仲間に元プロ野球選手の田村満がいる。そもそも音楽を始めた動機が、女性に「モテたい」からであり、実際に父親から「食えるわけないから辞めろ」と反対されたとのこと。1959年にミュージシャンを目指して上京、最初の妻とともに新宿二丁目のアパートで暮らす。ミッキー・カーチスも在籍していたロカビリーバンド「クレイジーウェスト」に参加後、カントリーウェスタンバンド「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」にベーシストとして加わり(ギタリストは寺内タケシ)、立川や横須賀や横田の米軍キャンプで巡業。しかし1961年12月31日、巡業の往路で交通事故を起こし、「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」の所属事務所と関係が悪化する。1962年、加藤茶と同時期に、小野ヤスシ、ジャイアント吉田らが在籍していた「桜井輝夫とザ・ドリフターズ」に参加。のちに桜井が引退しリーダーがいかりやに交代し「碇矢長一とザ・ドリフターズ」にグループ名を改称。しかしその後、諸事情から小野らは独立しドンキーカルテットを結成してしまう。1964年に仲本工事、高木ブー、荒井注(1974年脱退)、綱木文夫(1965年脱退)を加えて「ザ・ドリフターズ」を再結成する。しかし直後に綱木が脱退したが、この時はメンバーの補充を行わなかった。綱木脱退直後にドリフはナベプロの傘下に入って、当時人気絶頂だったハナ肇とクレージーキャッツの後輩として、大々的に売り出した。ただし、いかりや自身が後に自著のあとがきで「師匠に付いたことはない」と記述している通り、クレージーの直弟子であったわけではない(クレージーにはいかりやより年下のメンバーも含まれていた)。なお、クレージーとの初対面の時に、クレージーのリーダーであったハナ肇から「いかりや長介」の芸名を与えられ(本名の長一より長介のほうが響きが良いというこじつけ)、以来その芸名で通すことになった(他のメンバーもハナ肇が名付け親)。1966年にはビートルズの前座として、ザ・ドリフターズを率い日本武道館で公演。仲本のヴォーカルで『のっぽのサリー』(Long Tall Sally)を演奏した。ベーシストとしては、日本におけるチョッパー奏法の元祖と語られることがあり、2001年の自著『だめだこりゃ』でも「いかりや奏法」「いかりや弾き」「長介弾き」という言葉には躊躇いつつ呼称への感謝を書き留めている。「ベーシスト・いかりや」が思い起こされたきっかけは、近田春夫が風化しつつある和製洋楽でロカビリー音楽に触れたコメントがもととされる。いかりやは戦後日本のカントリーミュージックで代表格のジミー時田とマウンテン・プレイボーイズに在籍しその頃はウッドベースからエレキベースギターに転向かまたは兼任するプレーヤー達の弾き方主流スタイルはこの「親指弾き」だった。マウンテン・プレイボーイズ、ドリフターズ両方の元メンバーで親友ジャイアント吉田は「(当時のステージレパートリーで主流のカントリー&ウエスタンや、ロックンロールに)このチョッパー奏法と呼ぶものは(エレキ・ベース・ギターでは)不要でやったことはない」と、語っている。この再認識について、いかりやのバンドマン時代を知らない若年層、俳優やコメディアンにとってはいかりやが演奏する姿が新鮮で、前述の通り「いかりや奏法」「いかりや弾き」「長介弾き」という俗語が生まれたが、いかりやのミュージシャンとしての活動最盛期はビートルズ以前の時代で、現代では古典的な奏法からスティングも同じ演奏スタイルで有名な事から目立ったが特に際立った奏法ではない。ただし、日本においてフェンダー製エレキベースを使用し表舞台に立ったベースプレーヤーとしては先駆け的存在である。なお、事務所の後輩でのちグループ・サウンズブームを牽引したザ・ワイルドワンズのベーシスト島英二によると、いかりやは当初は島の勧めでピック奏法を試みたが、ピックが邪魔でコントに支障をきたすため親指奏法に切り替えたという。晩年出演したテレビCM(キリン・ラガー)に、エレクトリック・アップライト・ベースを演奏する姿があった。その際に撮影されたスチル写真が遺影に使われた。ベースライン自体は、スタジオミュージシャンの渡辺等の手によるものであった。バンド時代のあだ名は「幡随院長兵衛」をもじって「バンス院長兵衛」。バンスとは、バンドの符丁でギャラの前借り(advanceより)のこと。当時のいかりやは、借金がかさんでいた。長兵衛は本名の長一から。いかりや逝去の際、バンド時代から親交の深かった立川談志が、追悼コメントで「ヤツ(いかりや長介)を今時『長兵衛』と呼ぶのも、もう俺ぐらいしかいない(=それだけ付き合いが古かった)」と語っていた。
いかりや長介のコメディアンとして TBSの『8時だョ!全員集合』や、フジテレビの『ドリフ大爆笑』で大人気となった。ドリフ時代のギャラ配分は、イザワオフィス移籍直後から6(いかりや):1:1:1:1だったためメンバーとの衝突も多かった。ただし、諸経費等はいかりやのギャラからほぼ全て出していた(=言い換えるとメンバーは全員給与の一部より営業などの諸経費を負担していた)ため、実際の取り分は他のメンバーよりもわずかに多かったに過ぎなかった。それをネタにしたコントもある。『全員集合』が開始された頃に、山田康雄に演技指導を受けていたというエピソードがあり、それが縁でルパンの収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演した。また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。『全員集合』の打ち合わせは2日前の木曜日に行われていたが(これを木曜会議と言う)、いかりやを中心にネタが決められていて、いかりやがネタを思いつくまで皆が黙っていることが多かった。他の作家がアイデアを出しても、「つまらねぇ」と却下することも多かった。この事について「彼らのネタは机上でしか考えてないようだったり、面白くてもドリフではできない内容ばかりだった」と著書で述べており、加藤も後に「作家が考えたネタより、自分達で考えた方が観客には受けた」とコメントしている。当時、駆け出しだった高田文夫は『全員集合』のスタッフとして参加していたが、打ち合わせ時の、あまりにも静かで重い空気に耐えられず、逃げ出した経緯をスポーツ紙の連載に記している。志村も「自分の考えたネタをいかりやさんに見せる時が一番緊張した」と、いかりやの死後のインタビューで述べている。いかりやは著書で志村のネタ作りの才能と積極的に提案する姿勢を高く評価しており、ドリフターズに加入させた理由の一つであったと語っている。『全員集合』での「オイッスー!」、「次、行ってみよう」、『ドリフ大爆笑』"もしものコーナー"の「だめだこりゃ」などのフレーズがモノマネのネタにされる。特徴であった唇の形もよくネタにされていた。コントでは、抑圧的な憎まれボスというキャラ設定が主で、典型的なツッコミタイプである。(『ドリフ大爆笑』の人気コーナー「ばか兄弟」(仲本とのコンビによるコント)シリーズ等でボケを演じることもある)、それに対して、加藤や志村らが反撃に出るといったスタイルで、それをギャグとして取り入れていた。60歳を超えてからも体を張って大量の水を被ったり、金たらいや一斗缶を頭に受ける等の芸風を通した。弟子に志村けん、井山淳、すわ親治らがいた。清水キョウイチ郎は、元弟子を自称していたが、いかりやの関係者から「そんなの知らない」という証言があり、詳細は不明である。尚、清水自身は「『渋谷とんぼ』という芸名を付けてもらう寸前に離れてしまったので、向こうは覚えていないかも知れない。でも当時数十人居たボーヤ(弟子)の中でそこまで行くのはほとんどいなかった」とコメントしている。