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奈良時代の初期には、藤原不比等が権力をにぎった。(なお、大宝律令を制定したのも、彼が中心。また、中臣鎌足の子。) 藤原不比等は娘の宮子(みやこ)を文武天皇と結婚させた。さらに、文武天皇と宮子の間に生まれた皇太子(のちの聖武天皇)に、娘の光明子(こうみょうし)を嫁がせた。 (724年、三世一身(さんぜい いっしん)の法(ほう)。) (724年、聖武天皇が即位。) 不比等が死去すると、後続の長屋王(ながやおう)が権力をにぎって、長屋王は左大臣まで登りつめたが、不比等の子の4兄弟の策謀により、729年に長屋王は謀反の疑いをかぶさられ、729年に長屋王は自殺に追い込まれた(長屋王の変)。 なお、不比等の子の4兄弟はそれぞれ、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合((うまかい)・麻呂(まろ)。 ところが、長屋王の事件後、この4兄弟は全員、病死してしまう。 その後、皇族の橘諸兄(たちばなの もろえ)が政権をにぎり、唐から戻ってきた僧 玄昉(げんぼう) や吉備真備(きびのまきび)を登用した。 太宰府に派遣されていた藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)は、これに不満をつのらせ、740年に九州で反乱を起こしたが、鎮圧された。 こうした政情不安や、疫病の影響もあってか、この乱が起きてからしばらく、聖武天皇は遷都をして、都を転々とした。遷都先は、恭仁(くに)、難波(なにわ) 、紫香楽(しがらき)である。(745年に平城京に戻る。) そして、聖武天皇は仏教によって国を安定させようと思い、741年に国分寺建立の詔 (こくぶんじ こんりゅう の みことのり)を出した。(国ごとに国分寺の建立しようとした。) つづいて743年に大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅう の みことのり)を出した。 聖武天皇は749年に孝謙天皇(こうけん てんのう)(←女)に譲位してしまう。その後、藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)が権力をにぎる。そして、橘諸兄(たちばなの もろえ)の子の奈良麻呂(ならまろ)が反乱をくわだてたが、発覚して鎮圧される。 なお、つぎの淳仁天皇のとき、藤原仲麻呂は「恵美押勝」(えみの おしかつ)と改名する。 孝謙天皇はまだ生きてるが、758年に淳仁天皇が即位した。そして、この淳仁天皇の時代に、藤原仲麻呂は道鏡(どうきょう)と対立する。(※ 「道鏡」は人名。僧侶。) そして、追い詰められた藤原仲麻呂は反乱を起こすが、藤原仲麻呂は敗死する(恵美押勝の乱 (えみのおしかつ の らん) ) そして、孝謙天皇がふたたび天皇になり、称徳天皇(しょうとく てんのう)として即位する。(つまり、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物。) 道教は法王の地位まで登りつめたが、孝謙天皇の死後は道鏡は勢力を失い、道教は下野(しもつけ)の薬師寺(やくしじ)に追放された。 そして、次の天皇には、天智天皇の孫である光仁天皇(こうにん てんのう)がたてられた。(なお、光仁までの天皇は、天武天皇の系統だった。) 人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。 722年、政府は「百万町歩の開墾計画」 (ひゃくまんちょうぶ の かいこんけいかく)を出した。(しかし、実際に百万町歩が開墾されたのではないようだ。現代では、単なるスローガンにすぎないと思われている。) 朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが 三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。 さらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。 この時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。山上憶良(やまのうえの おくら)のよんだ貧窮問答歌(ひんきゅう もんどうか)には、このころの農民の苦しい生活のさまが歌われている。 * また、人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。 朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが 三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。 さらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。 これは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。 また、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに 荘園(しょうえん) と呼ばれることになる。 経済では、この奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)という貨幣が708年(和同元年)に発行され、流通していました。 これより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。
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奈良時代の美術では、立体造形が進歩した。 従来の木像と銅像に加え、さらに塑像(そぞう)と、乾漆像(かんしつぞう)が、加わった。
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かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。 のちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、光仁天皇のあとをついだ桓武天皇(かんむ てんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年に都を山背国(やましろこく)の長岡京に移した。 しかし、新都造営(しんとぞうえい)の中心人物であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されたり、政情不安が続いたので、794年に都を平安京に移した。 桓武天皇は、国司に対する監督をきびしくするため、勘解由使(かげゆし)という役人を置きました。 勘解由使に、国司の交代の際には、前任の国司に不正がなかったことを証明するための解由状(げゆじょう)を審査させた。 桓武天皇の政策として、辺境の他では徴兵をやめ、辺境の他では従来の軍団を廃止して、あらたに郡司の子弟で弓馬にたくみな者からなる健児(こんでい)を設けた。 また、このころ、都の造営と、蝦夷との戦いからなる二大事業が、国家財政や民衆の負担だった。 貴族間で、この事業の存続をめぐる論争が起き、桓武天皇はこの二大事業を中止した。 桓武天皇は、二大事業の存続の件で、管野真道(すがのまみち)と藤原緒嗣(ふじわらおつぐ)という2人の参議に論争させた(徳政論争)。(菅野が存続派。藤原が打ち切り派。) 桓武天皇の死後、平城天皇(へいぜいてんのう)、つづいて809年に嵯峨天皇(さがてんのう)になった。 嵯峨天皇(さがてんのう)のとき、薬子の変(くすこのへん)が起きた。しかし、薬子の変は失敗に終わった。 薬子の変[1]とは、810年に藤原薬子(ふじわらの くすこ)とその兄 藤原仲成(ふじわらの なかなり)が、平城太上天皇(平城上皇)をふたたび天皇の地位につけようとして失敗した事件。「平城太上天皇の変」ともいう。 嵯峨天皇は、あらかじめ蔵人所(くらうどのところ)を設置し、機密をあつかった。 蔵人所の長官を蔵人頭(くらうどのとう)という。蔵人頭(くらうどのかみ)には、藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)らが任命された。 また、京都の治安維持・警察をつかさどるために検非違使(けびいし)を置いた。 (※ 参考: )検非違使が創設される前は、京都の治安維持・警察などの仕事は、複数の官庁(衛府(えふ)、刑部省、弾正台、京職など)に分散されて処理がされていた[2]。つまり、検非違使長の創設により、それらの処理がひとつの官庁に一元化された事になる。一説には、いわゆる「縦割り行政」の弊害を解消するという目的もあって京都という地域限定だが検非違使が設けられたのだろう、という説もある。[3] これら新設の官職は令(りょう)には規定がないので、令外官(りょうのげかん)と呼ばれた。 検非違使も、令の規定によらずに犯罪人の取り締まりができた。(※ 東京書籍の見解) また、これら令外官では、家柄にとらわれずに有能な人材を登用できた。(※ 東京書籍の見解) また、嵯峨天皇は、律令を補足した格(きゃく)と、官庁で施行する際の細則である式(しき)とを整備した。 嵯峨天皇のもとで、820年ごろ、光仁格式(こうにん〜)が出来た。 のちの天皇のもとで、「貞観格式」(じょうがん〜)・「延喜格式」(えんぎ〜)が出きた。これら3つ(光仁格式、貞観格式、延喜格式)をあわせて三代格式という。 (823年に嵯峨天皇は、つぎの天皇に皇位をゆずって退位する。) (833年には、)令(りょう)の条文の解釈を統一するための注釈書として『令義解』(りょうのぎげ)がつくられた。 (842年、嵯峨 元天皇が死没。) 唐で仏教を学んだ最澄(さいちょう)と空海(くうかい)が日本に帰国して、仏教の知識も日本に持ち帰る。 空海は、唐では、インドから中国に伝えられたばかりの真言密教(しんごん みっきょう)を学んでいた。 空海が日本で密教(みっきょう)[4]を広めた。(いっぽう、最澄が広めたのは法華経(ほけきょう)。) 空海は、高野山(こうやさん)に金剛峰寺(こんごう ぶじ)を建て、密教にもとづく真言宗(しんごんしゅう)をつくった。 また、最澄は比叡山(ひえいざい)に延暦寺(えんりゃくじ)をひらき、天台宗(てんだいしゅう)をつくった。 天台宗・真言宗の寺院の多くは、山中に建てられた。 天台宗も、しだいに密教の影響を受け、最澄の弟子の円仁(えんにん)・円珍(えんちん)が唐に留学して密教の知識を日本に持ち帰り、天台宗は密教化した。 真言宗の密教を東密(とうみつ)という。いっぽう天台宗の密教を台密(たいみつ)という。 また、従来の宗派でも山岳修行をしていたが、これらが天台・真言宗とむすびつき、修験道(しゅげんどう)が流行した。 密教の特徴として、加持(かじ)祈祷(きとう)など、呪法(じゅほう)的なお祈りで悟りが開けるとされる。 これらの特徴が、現世利益(げんぜりやく)を求める貴族に好まれた。また、密教は、経典よりも山岳修行などの修業を重んじる傾向がある。 いっぽう、奈良時代の後半から既に、日本古来の神々と仏教とをむすびつける神仏習合(しんぶつ しゅうごう)の考えがあった。 このため、神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、神前(しんぜん)で読経(どきょう)する風習などがあったが、密教の普及とともに、これらの風習も普及した。 大和の室生寺(むろうじ)では、伽藍(がらん)も地形に応じて自由に配置された。 文芸では、漢詩・漢文が流行した。 勅撰漢詩文集の『凌雲集』(りょううんしゅう)、『文華秀麗集』(ぶんかしゅうれいしゅう)、『経国集』(けいこくしゅう)などが編纂(へんさん)された。 また、空海の漢詩文をあつめた『性霊集』(しょうりょうしゅう)もつくられた。 書道では、唐風の書が好まれ、嵯峨天皇・空海・橘逸勢(たちばなの はやなり)は三筆(さんぴつ)と呼ばれた。 有力な氏族たちは、一族から優れた官吏(かんり)を出すために、氏ごとの塾・予備校的な寮(りょう)の大学別曹(だいがくべっそう)を建てた。 また、空海は、大学や国学に入学できない庶民が仏教・儒教などを学べる綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開いた。 大学別曹 和気(わけ)氏の弘文院(こうぶんいん)、藤原氏の勧学院(かんがくいん)、橘(たちばな)氏の学館院(がくかんいん)、在原(ありわら)氏の奨学院(しょうがくいん)、などがある。 絵画では、密教の世界観をあらわす曼荼羅(まんだら)が描かれた。 彫刻では、一本の大木を彫って作る一本造(いっぽんづくり)が流行した。 また、不動明王(ふどう みょうおう)の絵画や彫刻がつくられた。
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藤原北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)は、嵯峨天皇の信任を得て、冬嗣は蔵人頭に任命された。また、冬嗣の娘は、皇太子の妃になった。 冬嗣の子の藤原良房(よしふさ)が、842年の承和の変で、大伴・橘氏の勢力をそいだ。 858年に、幼少(9歳)の清和天皇が即位すると、藤原良房が外祖父として実権をにぎり、良房は摂政(せっしょう)になった。 さらに応天門の変[1]で、伴氏などが失脚し、ますます藤原氏が権力をにぎった。 応天門の変(おうてんもん の へん)ののち、良房は正式に摂政に就任した。 ついで、良房の甥(おい)から養子になった藤原基経(もとつね)が、幼い陽成天皇(ようぜい〜)の摂政になり、884年には光孝天皇(こうこう〜)を即位させ、また、基経は関白(かんぱく)の地位についた。 (897年に基経は死亡。) 基経の死後、宇多天皇は、摂政・関白を置かずに、菅原道真(すがわらの みちざね)を重用した。 しかし、つづく醍醐天皇のときに、藤原時平(〜ときひら)の策謀により菅原道真は太宰府に左遷(させん)された。 醍醐・村上の両天皇は、摂政・関白を置かず、天皇みずからの親政を行った。
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国司が任国に代理人である目代を行かせて、国司本人は京に在任する制度も認められた。また、代理人として目代(もくだい)を任国に行かせて、国司本人は在京する場合、このような国司のことを遥任(ようにん)という。または、そのような行為(代理人を任国に行かせて自分は在京する行為)のことも遥任(ようにん)という。 いっぽう、代理人をつかわずに国司本人が任国に行く場合、このような国司は受領(ずりょう)と呼ばれた。 また、浮浪逃亡や偽籍の横行が増えたことで、戸籍や計帳による農民把握が難しくなり、班田が行われなくなり、課税の対象が人から土地へと変わった。 そして、有力な農民に耕作を請け負わせた。また、耕作を請け負った有力農民のことを田堵(たと)という。 また田の管理区分では、田に、この請負人(田堵)の名前をつけて区分して管理したため、その田は「名田」あるいは「名」と呼ばれる 10世紀後半ごろから、熱心に開墾をする領主があらわれ、11世紀には彼らは開発領主と呼ばれた。 開発領主のなかには、国司による税の負担をのがれるため、中央の貴族に土地を寄進するものが現れた。このように寄進された土地は荘園(しょうえん)と呼ばれた。(のちの『百錬抄』(ひゃくれんしょう)や『愚管抄』(ぐかんしょう)などで「荘園」という用語がある。) 寄進をうけた貴族は領家(りょうけ)とよばれた。寄進を受けた貴族が、さらに上級の貴族に寄進する場合もあり、その上級貴族は本家(ほんけ)と呼ばれた。 いっぽう、寄進をした側の現地の管理者は、荘官(しょうかん)とよばれた。 荘園は、しだいに、租税をまぬがれる不輸の権(ふゆのけん)を獲得した。 また、国司の派遣する検田使(けんでんし)などの役人の立ち入りをさせない不入の権も獲得した。 9世紀から10世紀ごろ、地方でたびたび反乱が起き、鎮圧のため「押領使」(おうりょうし)や「追捕使」(ついぶし)と呼ばれた軍隊が地方に送られた。軍隊の現場管理者たちのなかには、鎮圧後も京都にかえらず、地方に土着する者もあらわれていった。 このような武装集団たちが武士となっていった。 10世紀の前半、関東の有力武士の平将門(たいらの まさかど)は、下総(しもうさ)を根拠地として、一族と争っているうちに、国司とも対立し、将門は939年に常陸(ひたち)の国府を襲い、将門は反乱を起こした(平将門の乱)。さらに下野(しもつけ)・上野(こうづけ)の国府も襲った。そして、将門みずからを新皇(しんのう)と自称した。しかし940年、平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ふじわらひでさと)によって、平将門の反乱は鎮圧され、将門は討たれた。 同じころ、元・伊予(いよ)の国司であった藤原純友(ふじわら すみとも)が939年、瀬戸内海の一帯の地域で反乱を起こし、941年には太宰府を攻め落とした(藤原純友の乱)。しかし、同949年、小野好古・源経基らによって討たれた。 1028年には関東の房総半島で平忠常(たいらのただつね)が反乱したが、源頼信(みなもとの よりのぶ)が鎮圧した。 これ鎮圧の以降、関東で源氏の影響力が高まる。 1051年、陸奥で豪族の安倍氏が乱を起こす。頼信の子の頼義(よりよし)とその子(つまり頼信の孫)の義家(よしいえ)が、現地に下り、東国の武士をひきいて戦い、豪族の清原(きよはら)氏の援けを得て、安倍の反乱を鎮圧した。(前九年合戦(ぜんくねん がっせん) ) その後、安倍氏にかわって奥羽で権力を得た清原(きよはら)氏に内紛が起き、義家はこれに介入し、1083年に藤原清衡(〜きよひら)をたすけて、反対派を鎮圧した。(後三年合戦(ごさんねん がっせん) ) こののち奥羽では、清衡および その子の基衡(もとひら)と孫の秀衡(ひでひら)による奥州藤原氏が、陸奥(むつ)の平泉(ひらいずみ)を拠点にして支配し、約100年にわたって繁栄した。 また、これらの合戦の成果により、源氏の東国支配は確固たるものになった。
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この平安のころ、十二単(じゅうにひとえ)とか、竹取物語などの日本文学が流行ったので、平安期の文化のことを、日本風の文化という意味で、歴史用語で「国風文化」ということが多い。 しかし、この時代、外国由来の仏教や密教なども、ひきつづき、流行していた。 この時代、宗教では、「国風」という名前に反して、外来文化である密教や陰陽道(おんみょうどう)も流行していた。 また、陰陽道などでの方角に関する考え方により、縁起の悪い方角を避ける「方違え」(かたたがえ)などの風習も生まれた。 また、従来からあった神仏習合(しんぶつ しゅうごう)の考えは、この時代、より具体化し、神は仏が姿を変えた仮の姿(権現(ごんげん) )であるとする本地垂迹説(ほんち すいじゃくせつ)となった。 漢字の草書体をくずした かな文字(平仮名)は、貴族社会では、和歌や文学で用いられた。だが、公文書では、かな は用いられなかった。 また、かな の普及により、多くの和歌や文学がつくられるようになった。 『竹取物語』(たけとり ものがたり)は、いつ誰がつくったのか不明であるが、日本最古の かな物語 であると考えられる。(『竹取物語』の作者は不明なので、検定教科書では紹介してない。) また、前提として、かな文字が普及している必要がある。 ※ なお、紀貫之(きの つらゆき)が、(日本最古の)日記文学として『土佐日記』(とさにっき)を、かな文字をつかって書いている。なので、『竹取物語』も、この頃の時代の作品だろうと考えられている。 かなが普及したことにより、かな文字の文学が作られていくようになり、かなの和歌を多く含む勅撰の和歌集である『古今和歌集』がつくられた。 在原業平(ありわらの なりひら)など実在の人物を題材にした歌物語である『伊勢物語』も、書かれた。 また、『源氏物語』を書いた紫式部は、藤原道長の娘の中宮彰子(ちゅうぐう しょうし)に仕えた。 なので、その頃の時代の人である。 随筆では、清少納言(せい しょうなごん)の『枕草子』(まくらの そうし)がある。 なお、この時代、日記の使いみちは、文芸のほかにも、貴族の各家庭で子孫のための歴史書としても日記は書かれた。(※ 実教出版などの教科書で紹介。)これらの日記でも、漢字とともに平仮名が活用された。 「国風文化」という名とは裏腹に、仏教では、釈迦の没後から2000年後と考えられる西暦1052年に世界が乱れるだろうと不安視する末法思想(まっぽう しそう)が流行した。 このような思想のなか、死後は、けがれた地上に生まれ変わるのではなく、天国の浄土(じょうど)への生まれ変わり(往生(おうじょう) )を願う浄土教(じょうどきょう)が流行した。 985年に僧侶の源信(げんしん)は、『往生要集』(おうじょうようしゅう)を著した。 また、10世紀、空也(くうや)が京都で念仏を布教した。 また、貴族によって、各地に阿弥陀堂(あみだどう)が建てられた。 京都の宇治(うじ)にある平等院鳳凰堂(びょうどういん ほうおうどう)も、阿弥陀堂のひとつであり、平等院鳳凰堂のなかには阿弥陀如来像がある。 この時代の男子は、元服(げんぶく、げんぷく)という儀式を経ることで成人と見なされていた。 元服は、およそ数え年で12から16歳の時に行われる(時代や階級で前後する)。また、貴族の女子の場合は、裳着(もぎ)という儀式を行うことで成人したものとされた。元服にともない、貴族の男子は官職を得て、朝廷に仕えた。 また、この時代、宮中で、元旦や 節会(せちえ)や 新嘗祭(にいなめさい)などの年中行事が発達した。新嘗祭や大祓(おおはらえ)などの神事も、この平安時代の年中行事に含まれる。 男性貴族の正装は束帯(そくたい)だが、普段着として、束帯を簡素化した直衣(のうし)や、簡単な構造で動きやすい狩衣(かりぎぬ)や布衣(ほい)などの衣服も着用された。 庶民の男性も、晴れ着(はれぎ)として、水干(すいかん)などを着ることもあった。 女性の正装は、女房装束(にょうぼうしょうぞく)である(いわゆる十二単(じゅうに ひとえ) )。
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11世紀のなかば、藤原氏を外戚としない後三条天皇(ごさんじょう てんのう)が即位したので、摂関政治が終わった。 後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令(えんきゅう の しょうえん せいりれい)を出し、記録荘園券契所(きろく しょうえん けんけいじょ)を設置し、基準に満たない荘園を停止した。 摂関家も例外なく、多くの荘園を停止された。  (後三条天皇は、院政を行ってない。) つづいて、後三条の子の白河天皇(しらかわ てんのう)が即位したが、1086年に退位して幼少の堀河天皇(ほりかわ てんのう)に皇位をゆずり、白河みずからは上皇となった。 そして、上皇みずから、政治を行った。 このような、上皇による政治のことを院政という。 院とは、もともとは上皇の住まいのことだったが、しだいに上皇じしんを指し示すようになった。 白河上皇、鳥羽(とば)上皇、後白河(ごしらかわ)上皇が、院政を行い、100年ほど院政が続く。 白河上皇は、院の御所に警備のため北面の武士を設けた。 歴代の上皇の院政の仕組みでは、上皇は院庁(いんのちょう)を設けた。国政は、上皇が太政官(だじょうかん)に指示して、実行された。 院政では、上皇の意志を伝える文書である院宣(いんぜん)や、院庁から下される文書である院庁下文(いんちょうの くだしぶみ)が権力をもった。 この頃から国司ではない公卿や寺社に、律令国の国司推薦権と税などの収益を得る権限を与える知行国の制度が広まった。背景として、俸禄制度が崩壊して朝廷が公卿への給与を支払うことができなくなったことがあげられる。つまり、知行国からの収益を公卿への給与の代わりとしたのである。また、上皇が院近臣らに、あたかも私領のように知行国を与えることによって奉仕させることも可能になった。 荘園の制度は、この時代もひきつづき、存続した。ますます、荘園の独立性は高まっていき、中央政府は貴族や寺社の荘園からは租税などを取りづらくなった。 この頃、寺社が武装するようになった。寺社は、下級僧侶や領民を武装させて僧兵(そうへい)として組織した。また、僧兵らは、たびたび、貴族など相手に神木(しんぼく)や神輿(みこし)などをかついでデモ行進してくる強訴(ごうそ)を行い、要求を通そうとした。 朝廷は、僧兵らの圧力に対抗するため、武士を重用したので、中央政界で武士の影響力が高まった。
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鳥羽法皇は源平の武士を組織し、荘園を集積していったことで絶大な権力をえた。しかし、このことは鳥羽法皇の権勢の継承という問題を引き起こすことになる。1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去すると、次の治天の君の地位をうかがう崇徳上皇と後白河天皇の対立が表面化する。 また、鳥羽法皇の治世末から藤原氏も摂関家の継承をめぐって、関白・藤原忠通と左大臣・藤原頼長が対立していた。 崇徳上皇は権力を取り戻すために頼長らと手を結び、さらに源為義・為朝父子や平忠正らの武士を招集した。一方の後白河天皇は、鳥羽法皇の側近だった藤原通憲(信西)を参謀として、源義朝・平清盛・源頼政らの有力武士たちを動員し、上皇方に先制攻撃を加えた。兵力に劣る上皇方はすぐに総崩れとなり、崇徳上皇は降伏した。この戦いを保元の乱という。 この結果、崇徳上皇は讃岐に流され、為義らは処刑された。この戦後処理では、400年ぶりに上皇が島流しとされたこと、約350年ぶりに死刑が行われたことで当時の貴族たちに大きな衝撃を与えることになった。そして、武士が単なる警護役ではなく政治闘争にも関わるようになったことも貴族層に強く印象付けることになった。後に『愚管抄』を記述する慈円はこの乱によって「武者の世」になったと評した。 保元の乱ののち、後白河天皇は退位し、院政を開始した。この時に政治の主導権を握ったのが藤原通憲であった。通憲は平清盛と手を結び、荘園整理や悪僧・神人の取り締まりなどを行い、時代の変化に対応した政治を行った。しかし、今度は後白河上皇の近臣同士の対立が激しくなり、権勢をもつ通憲への反発が強まった。 1159(平治元)年、通憲に反感を持つ藤原信頼は、清盛が熊野詣に出かけた隙をついて源義朝とむすんで挙兵し、通憲を自害に追い込み、後白河上皇と二条天皇を幽閉した。しかし、帰京した清盛が六波羅の自邸にもどり、二条天皇を脱出させて信頼・義朝討伐の宣旨(命令)を得ることに成功する。そのため、清盛は多くの武士をまとめることに成功し、信頼・義朝らを倒した。信頼は処刑され、義朝は再起を図るために東国に向かう最中に殺害された。そして、義朝の子の頼朝は伊豆に流された。これが平治の乱である。 保元・平治の乱の結果、藤原氏の力はさらに落ち込み、源氏をはじめとする多くの武士も没落・滅亡した。一方で、平清盛の地位は、唯一の武家の棟梁として急速に高まっていった。 平氏は清盛の父・忠盛の頃から日宋貿易に力を入れていた。11世紀後半から日本・宋・高麗との間での商船の往来は活発化しており、貿易の利益は清盛にとって重要な経済基盤となっていた。 こうした豊かな財力を背景にした後白河上皇への奉仕と軍事力は清盛の権勢を大いに高め、1167(仁安2)年には武士として初めて太政大臣に就任する。清盛本人だけではなく、嫡子・重盛をはじめとした一族も高位高官にのぼり、最盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出することになる。 清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れる。徳子と高倉天皇の間に皇子が誕生し、安徳天皇として即位すると清盛は外戚として権勢を誇るようになる。 その間に荘園は500余りを所有するようになった。こうした清盛を中心とした政権を平氏政権、あるいは六波羅政権という(六波羅は清盛の邸宅の場所)。 平氏政権は従来の朝廷の組織にのっとったもので、平家一門が官職を独占して政権を運営していた。一方で、清盛らとの縁の薄い貴族や他の武家は政権から排除されていたため、徐々に平氏政権に対する不満が高まっていった。また、後白河法皇と清盛との関係も微妙なものとなっていた。そうした中、1176年に後白河法皇の妃で清盛の妻の姉妹であった建春門院滋子が病没し、清盛と法皇・近臣との対立が深まっていった。 1177年、後白河の近臣である藤原成親や信西の弟子であった西光、僧の俊寛らが京都郊外の鹿ケ谷で平氏打倒の計画をするが失敗した(鹿ケ谷の陰謀 。 そして1179年、清盛の嫡男であり法皇と清盛の調整役であった平重盛が死去するなどの出来事が積み重なると対立は決定的なものとなる。同年11月、清盛はクーデターを起こして関白をはじめとした多くの貴族たちを左遷または官職を剥奪し、後白河を幽閉した。受領も平氏または平氏に近い者に交代させられ、一門の知行国は32か国に急増した。 こうして、平氏は独裁的な強権を手に入れた。しかしこのことがかえって平家一門への反感を強め、反平氏の勢力を結集させることになる。
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この時代、歴史への関心が高まり、『大鏡』(おおかがみ)や『今鏡』(いまかがみ)などの歴史物語がつくられた。また、藤原道長の逸話を書いた『栄花物語』(えいがものがたり)も書かれた。いっぽう、『大鏡』は、藤原氏に批判的な視点で書かれている。 また、『大鏡』や『栄花物語』の文体は、仮名(かな)書きである。 また、新興勢力である武士への関心が高まったことから、軍記物への関心も高まり、平将門の乱を書いた『将門記』(しょうもんき)や、前九年の役を書いた『陸奥話紀』(むつわき)も書かれた。 また、絵巻物(えまきもの)がつくられ、『源氏物語絵巻』や『伴大納言絵巻』(ばんだいなごん えまき)、『鳥獣戯画』(ちょうじゅうぎが)もつくられた。 当時の民間の流行の歌謡のひとつに今様(いまよう)というのが、あった。後白河は今様を好み、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)を編纂した。 このほか、民間では、田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などの芸能も流行していた。 これらの歌謡は芸能は、貴族のあいだでも流行していた、という。 インド・中国(チャイナ)・日本の仏教説話をあつめた『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)もつくられた。 建築物では、この時代に奥州藤原氏によって、中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)が平泉(ひらいずみ)に建てられた。 このほか、各地の豪族により、陸奥に白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)、九州に富貴寺大堂(ふきじ おおどう)などが建てられた。 (これらの建築物の分布からも推測できるように、)この時代には、日本全国の各地に仏教や浄土教が普及していった、と考えらている。 また、平家が厳島神社(いつくしまじんじゃ)に納経した『平家納経』にも、絵画が描かれている。 『扇面古写経』に、絵画あり。
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1179年に平清盛は後白河法皇を幽閉し、平氏の専制体制を作り上げた。このことは他の有力貴族や寺社の不満を高めることとなった。1180年に清盛が、娘の徳子の産んだ安徳天皇を即位させると、後白河法皇の第2皇子の以仁王が源頼政とともに挙兵した。これに清盛は速やかに対応し、以仁王らを攻撃した。頼政は宇治で戦死し、以仁王も奈良に逃亡する最中に討ち取られた。 こうした中、同年6月に清盛は都を摂津の福原に移した。この遷都は瀬戸内海の支配を確保し、平家の指導力を高めるための拠点移動であった。だが、貴族の反対に加え、南都北嶺の僧兵や畿内の源氏の活動が活発になったために半年で京に都を戻した。 以仁王は敗死したが、挙兵と同時に諸国の武士に平氏討伐の令旨を出しており、各地でこれに呼応した各地の武士(在地領主)が立ち上がった。こうして全国に反平家勢力が挙兵したことによって起きた内乱を治承・寿永の乱と呼ぶ。反平家勢力の中でも有力だったのが、平治の乱で敗れて伊豆に流されていた源頼朝、および信濃国木曽の源義仲であった。 源頼朝は、叔父の源行家によって伝えられた以仁王の令旨に応じ、1180年8月に妻・政子の父である北条時政らと挙兵して伊豆国目代の館を奇襲した。目代への襲撃は成功するものの、頼朝挙兵の報を受けた平家方の大庭景親が3000騎の大軍を率いて頼朝討伐を開始した。兵力の乏しい頼朝軍は石橋山(神奈川県)で迎撃するも大敗する(石橋山の戦い)。頼朝は安房国(千葉県南部)へと逃れ、再起をはかった。安房で北条氏とともに挙兵した三浦氏とも合流し、源氏に仕えていた武士たちも頼朝の下に集まりはじめた。そして、千葉常胤や上総広常などの有力な豪族が頼朝に従うと形勢は頼朝の方へ一気に傾いた。そして、同年10月には平家方の大庭らの平家方豪族を倒して源氏ゆかりの地である鎌倉に入った。 清盛は孫の平維盛を大将とした討伐軍を派遣するが、平家軍は駿河国富士川での頼朝軍との合戦(富士川の戦い)に敗北する[1]。しかし、勝利した頼朝は御家人の意見を取り入れてそれ以上の進軍を行わず、鎌倉に帰還して東国経営に専念する。 大敗した平家も立て直しを図り、以仁王に味方した大寺社を焼討し、畿内の源氏勢力を討伐した。特に、1180年12月には反平家の動きを見せた興福寺を、清盛が息子の平重衡に命じて攻撃した南都焼打ちは興福寺と東大寺の堂塔伽藍を焼失させ、奈良の街にも大きな被害をもたらした。しかし、翌1181年2月に清盛が死去する。加えて、畿内・西国を中心とした飢饉(養和の飢饉)は、西国を拠点とする平家に深刻な打撃を与えることとなった。 頼朝のいとこにあたる源義仲は拠点である信濃国で挙兵した。義仲は1181年6月に平家方の豪族を倒すと、北陸道の反平家勢力をまとめ上げて勢力を急拡大する。1183年、平家が再び維盛を大将とした義仲討伐軍を派遣するも、加賀国と越中国の国境にある倶利伽羅峠の戦いで義仲軍に大敗してしまう。勢いに乗った義仲軍は平家方を追撃し、同年7月には京都に進軍してきた。畿内の反平家勢力もこれに呼応するように進撃をはじめた。防衛が難しいと判断した平家は京都を放棄し、安徳天皇を連れて拠点である西国に撤退する(平氏都落ち)。その際、平家方は後白河法皇も西国へと連れ出すことを企図していたが、法皇はいち早く比叡山に脱出しており、失敗した。 入京した義仲は、当初こそ後白河法皇から軍功を称賛されたものの、安徳天皇の次の皇位をめぐる問題から法皇・朝廷との関係が急速に悪化する。さらに飢饉によって疲弊していた京都の市街では義仲軍だけでなく他の反平家勢力も混在していたこともあり、義仲の統制が十分にはなされなかった。そのため、都の治安が急速に悪化し、兵たちによる略奪が横行した。こうした失態を挽回するべく義仲は同年9月に西国へと出陣した。 しかし、義仲が京都を発つ頃には後白河法皇と頼朝とが交渉を始めていた。同年(1183年・寿永2年)10月、交渉の末、頼朝による東海・東山両道の支配権を承認された(寿永二年十月宣旨)。これにより、頼朝は公式に赦免された。 そして、頼朝は弟の源範頼および源義経を将とする軍勢を京に派遣する[2]。源義仲は防戦するも、もはや義仲に付く武士は少なかった。1184年1月、義仲は近江国粟津にて討死した。 義仲と頼朝が争っている間に平家は福原まで進出し、京都奪還をうかがうまでに勢力を回復した。後白河法皇は義仲が討たれると、すぐさま平家討伐の院宣を頼朝に下す。1184年2月、源氏勢は摂津国一の谷での決戦に勝利する。こののち、頼朝勢は義仲の残党や平家に与する勢力を掃討または臣従させ、平家の拠点たる九州・四国まで勢力を伸ばすことに成功する。1185年2月には讃岐国屋島を急襲して平氏を破る(屋島の戦い)。そして、同年3月には長門国の壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡し、安徳天皇も海中に没した。 治承・寿永の内乱は源平合戦とも言われ、源氏と平氏の勢力争いのように描かれることが多い。軍記物では「源平の宿命的な対立」も強調されがちである。しかし、実のところ全ての源氏が頼朝に、全ての平氏が平家[3]の下についたわけではない。例えば、頼朝とともに挙兵した北条氏・三浦氏は平氏であった。一方、古くからの源氏の家人は当初、頼朝の挙兵には否定的な者も少なくなかった。また、同じ清和源氏である常陸(茨城県)の佐竹氏は平家に近かったため、頼朝から討伐された。 治承・寿永の内乱の背景には、平家による権力の独占に対する反発に加えて、所領の拡大を目指す在地領主と国司・荘園領主との対立があった。自らの知行国を増加させて荘園の集積も行った平家一門は、地方政治の矛盾を一手に引き受けてしまった上に有効な手を打てなかったのである。そのことが平家への反発を強めることになったのだ。そして、在地領主はあくまで自らの要求に最も応える可能性のあるものに従ったのであり、「源氏の棟梁」という理由で頼朝に従ったわけではない。 そのため、頼朝以外にも武家の棟梁となりうる者もいた。平家一門を都落ちさせた源義仲、以仁王の令旨を届け、交渉力に長けた源行家、甲斐源氏の棟梁であり富士川の戦いで頼朝の勝利に貢献した武田(源)信義、さらには清盛の後継者である平宗盛にも棟梁となるチャンスはあった。しかし、在地領主や荘園の荘官、諸国の在庁官人たちの要求に最もよく応えられた頼朝だけが彼らを御家人としてまとめ上げ、武家の棟梁となることに成功したのだった。 鎌倉は東海道の要衝であり、三方を山で囲まれ、南は海に面した天然の要害であった。さらに、頼朝の五代前の先祖である頼義が鶴岡八幡宮を建立したこともあり、鎌倉は源氏ゆかりの地でもある。こうしたことから、頼朝は鎌倉を拠点として関東統治のための機構をつくりあげる。頼朝は鎌倉を動かず、合戦はもっぱら弟の源範頼と源義経に任せていた。 1180年、富士川の戦いの後、頼朝は有力武士たちとの主従関係を明確なものとし、頼朝に直属する武士たちは御家人と呼ばれるようになり、頼朝は後に鎌倉殿と呼ばれるようになった。そして、御家人たちを統括する部署として侍所が設けられた。その別当(長官)に任じられたのが関東の有力豪族であった三浦一族の和田義盛であった。 1184年には政務や財務を取りしきる公文所と裁判事務を担当する問注所が開かれた。公文所は後に整備が進み政所となる。公文所(政所)別当には元々朝廷の下級官吏であった大江広元が、問注所執事(長官)には下級官吏出身の三善康信が招かれた。 1185年、後白河法皇は、平家滅亡後に頼朝の勢力をそごうとして義経と叔父の行家に西国の武士の指揮権を与えて頼朝追討を命じる。だが、武士たちは義経らにつくことはなく、孤立してしまう。そして、頼朝は軍勢を京に送って後白河にせまり、追討令を撤回させる。加えて、御家人を守護[4]として各国に置く権利を獲得する。また、荘園や国衙領にも地頭を置いて兵糧米を徴収する権利も獲得した(文治勅許)。すでに東国は頼朝の支配下にあったので、実質的には、頼朝は西国の支配権を手に入れたことになる。 同年、京都に京都守護を置き、京都の警備と在京御家人の統率を命じた。九州には鎮西奉行を置き、地方の御家人を統率させた(1189年に奥州藤原氏が滅亡すると、奥州には奥州総奉行が置かれる)。一方、朝廷でも頼朝の後援を受けた九条(藤原)兼実が内覧、ついで摂政の地位に就く。兼実は貴族の合議を重視したため、後白河法皇の権力を牽制することになる。また、兼実は頼朝との協調路線をとっていった。 かくして頼朝が実質的に全国支配をする体制が出来上がった。そのため、1185年を鎌倉幕府成立とすることが通説となっている。 こうして頼朝は日本のほとんどの支配権を確立したが、未だ奥州には奥州藤原氏が残っていた。頼朝と対立した義経をかくまった藤原秀衡が没し、跡を継いだ藤原泰衡は頼朝との協調を目指して義経を自害に追い込む。だが、1189年、頼朝は大軍を率いて奥州へと攻め込み、奥州藤原氏を滅亡させる。これによって、頼朝に対抗する武家勢力は全て滅亡または従属して御家人となった。 後顧の憂いのなくなった頼朝は、1190年に上京し、右近衛大将に任ぜられた[5]。1192年の後白河法皇の死後、源頼朝は征夷大将軍に任命された。こうして、名実ともに鎌倉幕府が成立した。 今(2022年)の40歳代以上の年代に鎌倉幕府の成立年を聞けば、たいていの場合「いい国つくろう鎌倉幕府」の言葉とともに1192年という答えが返ってくるだろう。 しかし、現在では1192年を鎌倉幕府成立とする教科書・テキストはない。現行の小中高の日本史教科書では1185年を鎌倉幕府成立としていることが多いが、これは頼朝が「日本国惣追捕使(守護)」「日本国惣地頭」の地位を獲得し、守護・地頭の任命権を持ったことを根拠とする。しかし、中世史研究者の間では以下の6説が提示されている。 古くからの説は5と6であるが、これは「幕府」という言葉が近衛大将や将軍の館の意味に由来したことに基づく説である。すなわち、「頼朝が近衛大将・将軍となったこと」に注目したものと言える。現在、この2説に人気がないのは、既に頼朝が統治のための機構を作り上げつつあったことよりも「将軍」という形式にのみ注目しているからといえる。 一方、1~4は「鎌倉幕府」が軍事政権としての実体を持つようになった時期、つまり「どの段階で頼朝が政権を握った」と言えるか注目したものである。現在有力視されている4は頼朝の権力を全国に広げる契機に着目した説である。だが、鎌倉幕府の「頼朝による東国の支配権の確立」という性格に着目すれば2ないし3の説が、さらにその実効支配までさかのぼるならば1の説も主張される。 こうした見解の相違は、結局のところ「武家政権=幕府なのか」「将軍がいなくとも幕府と言えるか」「そもそも武家政権の権限はどこまで有効だったのか」などといった「幕府とは何か」という根本的な問いに由来する。 平安後期以降、武士は上皇・女院・摂関家・有力貴族と主従関係を結んでいた。この関係は後年に比べると非常に緩やかで、複数の有力者を主人とすることはごく当たり前のことであった。争いの中で、武士は自らの利益となる集団を選んだため、合戦の前後で主人を変えることも普通に行われた。 頼朝が挙兵し、鎌倉に入ると関東の武士たちは頼朝を主人と仰ぐようになる。それは頼朝が源氏の血筋だったからではなく、自分たちの権益を庇護する存在とみなしたからであった。頼朝の権力が公認されて勢力を拡大させていくと、関東以外の武士も頼朝に仕えるようになる。こうして、頼朝とその下に服属した武士は当時としては非常に強固な主従関係を結ぶ。 頼朝は鎌倉殿と呼ばれる一方で、彼に服属した武士は御家人と呼ばれた。頼朝は御家人に対して、先祖伝来の土地や新たに開発した私領を本領として確認し、その支配を承認した。これを本領安堵という。これは土地所有をめぐって国衙や他の勢力との争いが頻発していた中で、特に重要なことであった。また、新たに軍功などの功績があれば、それに応じて新たに領地を与えられたり、守護や地頭職に任ぜられたりすることもあった。これは新恩給与という。他に朝廷への官職推挙も行われた。こうした頼朝(鎌倉殿)から御家人に対して行われた恩恵を御恩という。 一方で御家人は主君たる鎌倉殿に奉仕する、奉公が義務付けられた。奉公の内容は、第一に戦時に一族郎党を率いて出陣する軍役であった。いわゆる「いざ鎌倉」とよばれる非常時には真っ先に鎌倉に駆けつけるのである。平時には、京都に滞在して内裏などを警護する京都大番役、鎌倉の将軍御所を警護する鎌倉番役が課せられた[6]。 御家人は戦時には将軍・幕府のために命がけで戦った。平時の番役も自弁であり、御家人の負担は重いものだった。しかし、それでも幕府・将軍に仕えたのも、土地の給与を媒介とした主従関係ができたからであった。こうした関係を封建関係といい、これが政治的・軍事的制度となったのが封建制度である。そして、鎌倉幕府は封建制度に基づく、最初の政治体制だった。 一方で、この時代はまだ朝廷や荘園領主たる有力貴族や大寺社の権威と権力は強く残っていた。守護・地頭の任命権は幕府にあったものの、その設置には朝廷の承認を必要とした。また、平安時代に引き続いて朝廷が国司を任命し、国政全般を朝廷が担うという形式そのものは維持された。 経済的にも荘園公領制を前提としており、有力貴族や大寺社は荘園や公領からの収益の多くを得ていた。つまり、政治経済両面において、幕府と朝廷、幕府と荘園領主という二元的な支配体制が敷かれたのである。これを公武二元支配という。こうした二元支配は地方政治や土地制度だけでなく、御家人の主従関係にもおよんだ。御家人は鎌倉殿たる頼朝と主従関係を結んでいたわけだが、以前からの朝廷・有力貴族・寺社との関係も維持することもあった。 公武二元体制に対して、朝廷・寺社・幕府は相互補完的な関係であり、この三者によって国政が進められたとする説がある。この説に基づく政治体制を権門体制という。この説によれば、朝廷は王家[7]・摂関家を戴き法令発布・官職任免・儀礼を担当し、大寺社は宗教権威を有し、幕府が軍事・警察を担当し、ゆるやかに国家を構成したとされる[8]。
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鎌倉時代、商業や工業も発展していった。 手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶(かじ)職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになった。衣料品などの手工業者もあらわれた。 農工業の発達もあって商業も発達した。定期的に市場(いちば)をひらく定期市(ていきいち)が、寺社などの近くで、毎月3回ほど決まった日に市が開かれはじめるようになった。この毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。 商業には貨幣が必要なので、中国大陸から宋銭(そうせん)が多く、日本に輸入された。また、貨幣の流通とともに、銭を貸す高利貸し(こうりがし)もあらわれた。 上述のように、鎌倉時代のころ、宋銭が日本全国的に貨幣として普及したと考えられている。つまり、貨幣経済が鎌倉時代ごろに日本全国的に普及したという事。つまり、鎌倉時代以前の地方の経済は、いまでいう「物々交換」や「現物交換」の経済が主体だった事である。 裏を返すと、鎌倉時代以前の古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)や富本銭(ふほんせん)は、京都および京都の周辺など一部の地域でしか普及しなかった事[1][2]が、歴史学的には分かっている。貨幣の流通しなかった地方では、麻や布、稲などが貨幣の代わりとして役割をはたした[3][4]。 平安時代のころ、地方でためしに和同開珎などが使われていた時期もあったが、しかし地方経済に混乱が見られたようで、そのせいもあってか中央政府(京都の朝廷)の命令により、和同開珎などを京都・奈良など畿内に回収する命令が地方に出されている[5]。 高校教科書で習うが、708年ごろの和同開珎の鋳造のあとに、さらに 蓄銭叙位令(ちくせん じょいれい)を出して貨幣の流通を目指した。しかし上述するように、蓄銭叙位令にかかわらず、最終的に古代(平安時代の終わりまでが「古代」)日本では貨幣は、京都・奈良といった畿内とその周辺でしか普及しなかった。 なお、日本で発行された通貨は、10世紀なかばまでに合計12~13種類の通過が発行されている。(けっして、和同開珎と富本銭だけが古代の通貨だったわけではない。和同開珎や富本銭は、初期に発行された貨幣だから中学教科書では紹介されているだけである。つまり、和同開珎のあとも、日本産の貨幣は数種類も発行されている[6])。 平安時代には貨幣の鋳造が行われたが、しかし鎌倉時代になって、貨幣の鋳造が行われなくなった[7]。 さて、鎌倉時代、通貨が普及してきたので、地方でも、年貢も銭で納税されることが増えてきた(「代銭納」[9]という)。地方の荘園などで、宋銭による年貢の代納が行われた事例[10]のある事も分かっている。 また、鎌倉時代、定期市の他にも、都市に限定だが、常設の小売店である見世棚(みせだな)という商売も登場してきた。 さて、のちにモンゴル襲来などによって経済難になった武士が金融業者からカネを借りて借金苦になるわけだが、前提として金融業者が日本各地に普及しているわけであり、つまり、鎌倉時代には金融業者が登場しており、その鎌倉時代の金融業者は借上(かしあげ)といわれた。 なお、鎌倉時代の後半ごろですが、武家における相続の風習が変わり、武士の世界では、 上記の説明の前提ですが、鎌倉時代の前半は、まだ、分割相続の方式が主流です[11][12]。
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北条泰時の後押しを受けて即位した後嵯峨天皇は、1246年に後深草天皇に譲位して院政をしいた。しかし、1259年には後嵯峨上皇の指示で後深草天皇の皇子ではなく、弟が即位して亀山天皇となった。1268年に後嵯峨法皇は死去するが、そのときに次の治天の君を定めなかった。そのため、天皇家は後深草上皇系の皇統持明院統と亀山天皇系の皇統大覚寺統に分裂した。両統は皇位継承や院政権、皇室荘園領の相続などをめぐって対立した[1]。両統とも鎌倉幕府に働きかけて次代の天皇を自統から出そうとした。幕府は両統が交代して皇位を継承する両統迭立を提案し、1317年には幕府の提起によって両統の協議がなされた(文保の和談)。そして、幕府はそれ以降、皇位継承には関与しないとした。 文保の和談の後に、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は父の後宇多上皇の院政を排して親政を敷いた。後醍醐天皇は平安時代の延喜・天暦の時代を天皇による親政が行われた理想的な時代と考えていた。そして、当時の最新学説であった宋学(朱子学)が君臣の別を説いていた(大義名分論)こともあって、天皇は幕府政治に不満を抱いていた。 元寇や貨幣経済の浸透は御家人たちの窮乏を加速させた。これに対して、幕府は得宗専制を強化して幕府の指導力を高めることで対処しようとした。しかし、これによって御家人たちは幕政から排除されてしまった。 また、若くして死去する得宗が相次ぎ[2]、若年で得宗になる者も多くなった。そのため、得宗被官にすぎなかった御内人が幕府政務の処理にも大きくかかわるようになる。また、得宗家以外の北条一族の発言力も大きくなり、得宗の地位さえも形骸化しつつあった。 9代目得宗(14代執権)の北条高時の頃には、政治を内管領の長崎高資とその父・長崎高綱(円喜)が担っていた。長崎親子を中心とする御内人の権勢は絶大なものとなり、御家人らの不満が高まっていた。 幕府は御家人たちの支持を失いつつあった上、新たな流通や産業を基盤とした新興武士らを中心とした悪党の活動も活発化していた。幕府は悪党への対応にも追われ、ますます混乱していった。 こうした状況を見て、後醍醐天皇は討幕の動きを進める。1324年には天皇と側近の日野資朝・俊基らが、畿内の武士と僧兵を味方につけて六波羅探題を襲撃する計画を謀議するものの、この計画は露見してしまう(正中の変)。しかし、このときの幕府の対応は日野資朝を佐渡への流罪に処しただけで、俊基は許され後醍醐天皇も責任を問われなかった。 しかし、後醍醐天皇は討幕をあきらめてはいなかった。護良親王・宗良親王を比叡山の長である天台座主とし、僧兵の力を取り込もうとした。また、正中の変で許された日野俊基は山伏に変装し、畿内の武士をまとめようと試みた。
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日本が鎌倉幕府滅亡・南北朝の戦乱・室町幕府の成立と権力の形成という大きな政治的変動に揺れていたころ、東アジア世界全体の情勢が大きく変動しつつあり、それに伴って新たな国際関係がつくられつつあった。 日本と元との間に正式な国交はなかったが、私的な貿易は盛んにおこなわれていた。その中でも代表的なものは、鎌倉幕府が地震によって被災した建長寺の再建費用を得ることを名目として1325年に派遣された建長寺船、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立を計画した、天龍寺の造営費を捻出するために1342年に派遣された天龍寺船である。 このころ、倭寇と呼ばれる海賊集団が東シナ海一帯で活発な活動を行っていた。規模は2・3艘ほどの小規模なものから数百艘にもなる大規模かつ組織的なものまであった。倭寇は朝鮮半島全域および中国沿岸部を荒らしまわり、捕らえた人々を売買したり、略奪を行ったりしていた。 このころの倭寇の拠点は壱岐・対馬・肥前松浦地方などであった。倭寇の構成員もこれらの地方出身者が中心であったが、朝鮮半島沿岸を襲撃した者は高麗人、中国沿岸部を襲った者は中国沿岸民もいたと推定され、多様な人々が関わっていたと考えられている。 こうした14世紀に活動していた倭寇を特に前期倭寇という。明の要請を受けた足利義満が本格的に取り締まりを行ったこと、日明貿易や日朝貿易が始まったことで、前期倭寇の活動は下火になっていった。
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3代将軍 義満の子の足利義持(よしもち)は義満から将軍職を任命された。4代将軍 足利義持は、父 義満の没後に、外交において、明への朝貢という形式を嫌い、明と断交した。(しかし、のちに6代将軍 義教(よしのり)の代に貿易および国交を再会した。義教は、幕府の財政安定のためと、自身の権威確立(明から日本の将軍は「日本国王」とみなされた)のため、貿易を再会した。) 6代将軍はクジ引きで選ばれ、足利義教(あしかが よしのり)が6代将軍になった。義教は、将軍権力の強化をねらって、1438年に関東に大軍を派遣して、長年対立してきた鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかが もちうじ)を滅ぼした(永享の乱)。 しかし、1441年に有力守護の一人である播磨(はりま)守護の赤松満祐(あかまつ みつすけ)によって義教は謀殺された( 嘉吉の変(かきつのへん))。まもなく、赤松氏は、幕府軍によって討伐された。 義教の死後、将軍の権力は失墜し、以降の足利将軍は、強力な指導力を持てなかった。 関東では、1460年代後半の応仁の乱よりも速く、すでに1440年代には持氏の死後の主導権あらそいによって、戦国の世に入っていた。 1454年の享徳の乱により、関東は、持氏の子の成氏(しげうじ)による古河公方(こがくぼう)と、伊豆の堀越(ほりごえ)を拠点とする政知(まさとも)の堀越公方(ほりごえ〜)とが対立した。 こうして、1450年代後半には、関東は戦国に突入した。(なお、戦国時代の関東南部の大名の北条氏は、15世紀末に、この堀越公方の領地をうばって大名になった。) のちに、1460年代後半の応仁の乱によって、(日本の)全国各地で戦乱が広まる。
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詳しくは日本史探究「戦国大名の分国経営」2回分を参照して下さい。(現在執筆中)
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戦国時代の織田信長の時代に、茶の湯(いわゆる茶道のようなもの)が武士のあいだに普及する。 だが、茶の湯そのものは、けっして信長の時代に始まったわけではない。 落ちついた感じの茶道が始まったのは、室町時代の後半(東山文化)であり、そのころの村田珠光(むらた じゅこう)が 侘び茶(わびちゃ) を始めた。 なお東山文化(ひがしやま ぶんか)とは、銀閣を8代将軍 足利義政(よしまさ)が建てたころの文化のことである。 そもそも、東山文化の特徴が、おちついた感じの文化である。(※ 銀閣も東山文化。読者は、頭の中で関連づけよう。) なお、村田珠光は、茶道の説明のさいに、禅(ぜん)にたとえて茶道を説明した。 村田より以前は、茶道というよりも、茶の品種を当てるクイズのような 闘茶(とうちゃ) というジャンルだった。 絵画では、戦国時代に狩野永徳(かのう えいとく)が活躍するが、狩野派も、けっして狩野永徳が始めたわけではない。 狩野派は、室町時代の後半に、狩野正信(まさのぶ)・元信(もとのぶ)の父子が、始めたのである。 ただし、正信のころの狩野派の画風は、水墨画に近い。水墨画を基調として、それに着色をした、独自の画風を、正信らは、あみだした。 この画風は、当時っぽい用語で言えば、水墨画に大和絵の手法を取り入れたわけである。 この水墨画じたい、(日本の小学校では)雪舟(せっしゅう)が有名だが、じつは日本で水墨画を始めたのは雪舟ではない。 雪舟の以前は、水墨画は、禅を説明するための補助的な美術であり、寺社の僧によって水墨画が作られていた。だが、雪舟は、水墨画を禅とは独立した美術として作品を作り出した。 雪舟は、明(ミン)に渡って水墨画の知識を日本に持ち帰った。だが、べつに日本初ではない。 雪舟は、西日本を中心に何度か引っ越し、日本の自然を水墨画で描いた。 (※ なんだか、江戸時代の松尾芭蕉(まつお ばしょう)と、やってることが似ていますね。) 上述のように、ところどころ「禅」(ぜん)が出てくる。 これは、室町時代の前半には、禅が流行したからである。 そして、室町時代の後半の文化は、茶道や美術などのそれぞれの文化で、禅の制約から脱却する文化という段階に移る。
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元々織田家は尾張守護代の家柄であった。その守護代の家臣であった織田信秀は勢力を伸ばし、三河の松平氏・美濃の斎藤道三・駿河の今川義元と争うようになった。信秀の跡を継いだ織田信長は、1555年に尾張守護代を滅ぼして清州城を奪い、やがて尾張を統一する。1560年に桶狭間の戦いにて、尾張に侵攻してきた今川義元をやぶり、今川家から独立した松平元康(後の徳川家康)と同盟を結んだ。 信長は、1567年には美濃の大名・斎藤氏を滅ぼす。こうして、濃尾平野を手にした信長は居城を美濃の稲葉山城に移し、岐阜城と改称した。このころから、信長は「天下布武」(天下に武を布く)の印判を使用しはじめる。 1568年、信長は、室町幕府の13代将軍 故・足利義輝(よしてる)の弟の足利義昭(よしあき)を奉じて信長は京都に入った。そして信長は、足利義昭を15代将軍につかせた。 しかし足利義昭は、しだいに信長と対立した。そして義昭は、越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくら よしかげ)、近江の浅井長政(あさい ながまさ)、信濃(しなの)の武田信玄(たけだ しんげん)、などの有力な大名や、本願寺(ほんがんじ)と結び、信長に対抗した。 これに対し信長は、1570年、姉川(あねがわ)の戦いで、浅井・朝倉の連合軍を破った。 翌年には信長は、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちした。 そして1573年、信長は、足利義昭を京都から追放して、室町幕府は滅んだ。 そして1575年、長篠の戦いで、織田・徳川の連合軍は大量の鉄砲を活用し、騎馬隊を中心とした武田軍に圧勝した。このとき、武田信玄は既に死亡しており、武田勝頼(たけだ かつより)が武田の大名である。 このころ、信長の領地は、一向一揆に悩まされていた。 1574年、織田は、伊勢長島の一向一揆を滅ぼした。 翌年には、越前の一向一揆を滅ぼした。 そして1580年、ついに、大坂の石山本願寺を屈服させた。 1582年には、信長は、天目山(てんもくざん)の戦いで武田氏を滅ぼした。 信長は、つづいて毛利氏を倒そうと、京都の本能寺に泊まっている途中、家臣の明智光秀(あけち みつひで)に裏切られ、信長は自害した(本能寺の変)。 こうして信長は、日本統一をせずに死亡した。 最初に楽市を始めた人物は、じつは信長ではない可能性がある。(信長以前にも「楽市」という用語があったが、当時はその語句は注目されておらず、信長以前の「楽市」政策の実態がまだ解明されてない。) 1549年に近江(おうみ、現在の滋賀県あたり)の大名の六角氏が、戦国時代でおそらく最初に「楽市」を始めたとも思われている。 そのほか、駿河では今川義元や子の今川氏真が、領地で楽市のような政策をしていたとも、思われている。 いっぽう、「楽座」という用語を最初に始めたのが、おそらく信長だと思われている。要するに、楽座のない「楽市」だけの経済政策をする大名なら、信長の前にも、そこそこ、いたようだ。 すでに楽市という用語があって、信長はさらに「楽座」という用語を付けくわえたわけだから、今迄の楽市よりも、いっそう信長は、規制緩和をすすめたと考えるのが、妥当だろう。 「座」(ざ)というのは、同業者組合のこと。「楽座」の以前は、商人は加入料や営業税を(地元の領主や、座の責任者などに)払って、その業種の「座」に入らないと、営業を行えない場合があった。信長は、その「座」による規制を緩和したということ。 信長の楽市楽座は、安土城の城下町で行われた政策である。 また信長は、領地で関所を廃止した。 信長の狙いは不明だが、関所撤廃などの結果、それまで関所の通行料などの収入を得ていた寺社や公家は、信長の政策で、資金源のいくつかを断たれた。(※ 参考文献: 東京書籍の検定教科書。) ※ これにより、荘園もまた資金源を絶たれた。 本能寺の変による信長の死後は、権力をにぎった秀吉が、関所の廃止や楽市楽座の政策を行った。 信長は、「天下布武」(てんか ふぶ)の印を使ったが、天下統一はしていない。 信長のキリスト教保護政策については、信長の出会った宣教師はルイス=フロイスである。 1582年、本能寺の変が起きて信長が自害した。 。 秀吉は、毛利と和睦して、京都方面に引き返し、山崎の戦い で明智光秀を滅ぼした。 信長の家臣だった柴田勝家が、秀吉と対立した。 1583年、賤ヶ岳の戦い(しずがだけ の たたかい)で、秀吉は柴田勝家をやぶる。勝家自害。(この戦いのあと、中国地方の毛利は秀吉に従う。) 同1583年、秀吉は、石山本願寺の跡地に大阪城を建てる。 1584年、小牧・長久手の戦い(こまきながくて の 〜)で、信長の次男 織田信雄(おだのぶかつ)と徳川家康の連合軍と戦い、勝負がつかないまま和睦に終わる。 1585年、秀吉は朝廷から関白に命じられ、翌1586年には秀吉は太政大臣(だいじょう だいじん)に任命され豊臣(とよとみ)の姓をたまわる。 1588年には秀吉は、京都に新築した 聚楽艇(じゅらくてい) に後陽成天皇(ごようぜい てんのう)を招いた。 いっぽう戦史では1585年、秀吉は、四国の長宗我部元親をたおし、四国を平定する。(なお中国地方の毛利は、すでに1583年から秀吉に従っている。) そして翌1586年に太政大臣になった秀吉は、天皇の命令であるとして、諸国の大名に戦争をやめるように提唱した。 その後、この停戦命令にしたがわないとして、秀吉は、1587年に九州の島津義久(しまづ よしひさ)を攻めて降伏させた。(義久は生きのこる。) 1590年には、小田原の北条氏政(ほうじょう うじまさ)を攻めて、北条氏を滅ぼした。(このとき北条氏政は死亡。) 同1590年、伊達政宗(だて まさむね)など東北の諸大名も降伏し、秀吉は日本統一をした。 豊臣政権は秀吉の独裁色が著しく、また政権を握っていた時期が比較的短いこともあって、鎌倉・室町幕府のような政権組織の整備が十分にはなされなかった。秀次事件の後に、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)・上杉景勝・小早川隆景の6人の有力大名が大老(年寄衆)とされるようになった。 秀吉は死を前にして、秀頼が成人するまでの間、小早川隆景(1597年死去)をのぞく先ほどの五人の有力大名(五大老)と秀吉の腹心の浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の五人(五奉行)との合議制をしくように遺言した。これがいわゆる五大老・五奉行である。 1587年には秀吉は、バテレン追放令を出した。この追放令では、宣教師の追放のほか、大名がキリスト教徒になることも禁止した。また、大名が信者を強制的にキリスト教徒にすることや、寺社を破壊することも禁止した。 キリシタン大名の高山右近(たかやま うこん)は、改宗を拒否して領知没収になった。 この追放令では、民衆が個人的にキリスト教徒になるのは、自由とされた。 秀吉は、1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、そして日本は、フランシスコ会の宣教師・信者の26名を処刑した。 フィリピンを出港したスペインのサン=フェリペ号の乗船員が、土佐に漂着したとき、乗船員が、スペインが各国を侵略する際に宣教師の布教のあとに侵略して植民地化をすると話したため、それが秀吉に報告された。 背景として、イエズス会とフランシスコ会との対立もある、と考えられている。 秀吉は、1588年には海賊停止令を出し、倭寇(わこう)などの海賊を取り締まった。 豊臣政権の財政的基盤は石高にして約220万石もの蔵入地であった。秀吉は、京都・大坂・伏見・堺・博多・長崎など重要都市、生野銀山・佐渡相川金山などの鉱山を直接支配した。さらに畿内や北九州をはじめとした地域から年貢を徴収し、直臣団への扶持米や戦時の兵粮米とした。 さらに、秀吉は褒賞や軍事費の調達を目的として、1588年に金貨である天正大判を発行する。
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建築では、城郭建築では、戦国時代の後半に戦が収まってくると、高層の天守閣と、巨大な石垣が、建築された。また、平地に城がつくられる場合が多かった。(※ 城下町などとの関係?) (※ なお、現在の大阪城の天守閣は、第二次世界大戦後の昭和になってから復興されたものである。また、安土城は消失している。姫路城以外の現存する古城は、例えば江戸時代に増築・改築されたりしていて、桃山時代の特徴が減っている。) この時代、美術では、こういう(ページ右のような)屏風絵(びょうぶえ)や襖絵(ふすまえ)が流行した。 金箔の背景に、青や赤や緑で色をつける手法のことを、濃絵(だみえ)という。(これとは画風は違うが、平安時代から「だみえ」という美術用語があったらしい。※ 参考文献 : コトバンク『濃絵』ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 ) つまり、狩野永徳の屏風絵などに濃絵(だみえ)の作品が多い。 なお、屏風絵や襖絵をまとめて、現代では「障壁画」(しょうへきが)という。 茶道では、信長が恩賞として家臣に茶道具などを与えたこと等により、織田配下の武将のあいだで茶の湯の人気が高まった。 つづく秀吉も、茶の湯を重視した。 信長・秀吉の時代、堺の町衆(ちょうしゅう、まちしゅう)出身の千利休(せんの りきゅう)がそれまでの日本の侘び茶(わびちゃ)の文化をひきつづき普及させ、利休は茶人として活躍した。(わび茶の創設者は、千利休ではない。室町時代の村田珠光(むらた じゅこう)という、別の人が侘び茶(わびちゃ)を創設した。) いっぽう、秀吉は、大阪城内に黄金の茶室をつくった。 文学では、イソップ童話が日本語に翻訳され、『伊曾保物語』(いそほ ものがたり)として日本に輸入された。しかし、これらの欧文和訳の翻訳文学は、その後の江戸時代の鎖国政策のため、短命に終わった。 いっぽう、日本発の文学は、この時代の文芸は、特に知られてない。
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大名による幕府への負担は、参勤交代のほかにも、河川改修などの土木工事などを命じられる手伝普請(てつだいぶしん)があった。江戸城や大阪城の改修などを手伝普請として命じられた藩もある。 朝廷と幕府との間の連絡役として、公家のなかから2名を選んで武家伝奏(ぶけでんそう)とし、京都所司代と連絡をとりながら、幕府の意見を朝廷に伝えた。 1629年におこった紫衣事件(しえ じけん)により、幕府はさらに朝廷への統制をつよめた。 仏教に対しては寺院法度(じいんはっと)を出し、宗派ごとに本山から末寺にいたるまでを組織させた(本末制度(ほんまつ せいど))。 1665年、神社・神職に対しても神社禰宜神主法度(じんじゃ ねぎ かんぬ しはっと)を制定して統制を行った。 (※ いちぶの検定教科書(明成社など)で紹介されている。また、参考書などに書いてあるので。) 徳川家康(とくがわ いえやす)は1603年に将軍職をもらってから、わずか2年で息子の徳川秀忠(とくがわ ひでただ)に将軍職をゆずり(つまり1605年に秀忠に将軍職をゆずった)、将軍職が徳川家の世襲であることを示した。 家康自身は「大御所」(おおごしょ)と言う肩書きの職につき、家康が幕政の実権をにぎり、家康は駿府(すんぷ、いまの静岡県あたり)を拠点に幕政を指揮していた。
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日本では、藤原惺窩(ふじわら せいか)が朱子学を啓蒙した。 徳川家康は、惺窩の門人の林羅山(はやし らざん)を登用した。 建築では、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)と桂離宮(かつらりきゅう)が、寛永時代の建物である。 日光東照宮の建築様式は権現造(ごんげんづくり)。 桂離宮は京都にある。桂離宮の建築様式は数寄屋造(すきやづくり)。 絵画では、狩野派から狩野探幽(かのう たんゆう)が出て、幕府の御用絵師となった。 京都では、俵屋宗達(たわらや そうたつ)が出て、装飾画を 。 京都の町人である本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)は、多才であり、蒔絵(まきえ)や陶器(とうき)など、さまざまな作品を残した。また、本阿弥光悦は、家康から京都鷹ヶ峯(たかがみね)の地を与えられた。 陶器では、有田焼(ありたやき)の分野で、酒井田柿右衛門(さかいだ かきえもん)が赤絵(あかえ)の技法を完成させた。 文芸では、教訓・道徳を題材にした仮名草子(かなぞうし)があらわれた。 連歌から俳諧(はいかい)が独立し、京都の松永貞徳(まつなが ていとく)の俳諧が流行した。
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1651年、3代将軍 家光が死去し、子の家綱が幼少(当時は11歳)にして4代将軍になった。 同1651年、将軍が幼少なのに乗じて、軍学者の由井正雪(ゆい しょうせつ)が、幕府を転覆しようと、反乱を企てたが、事前に露見して失敗した(慶安の変)。 この事件の背景として、牢人が多いという社会問題があったので、同1651年、幕府は、末期養子の禁(まつごようしのきん)を緩和した。 1657年、明暦の大火により、江戸の町が壊滅する。幕府は、復興のため、財政難になった。 1663年、武家諸法度を改訂した。 同1663年、殉死(じゅんし)を禁止した。( 殉死(じゅんし)とは、主君が死んだ時に、家臣が一緒に死ぬこと。)また、主君が死んだら、家臣は前の主君の跡継ぎに仕えることを、義務化した。 翌年、一斉検地を行った。 いくつかの藩は、儒学や歴史学などを奨励した。水戸藩では藩主 徳川光圀(とくがわみつくに)らが、歴史書『大日本史』の編纂にとりかかった。岡山では池田光政、加賀藩では前田綱紀(まえだ つなのり)が、朱子学を奨励した。 1680年、家綱が死去し、弟の綱吉が5代将軍になった。 綱吉は、堀田正俊(ほった まさとし)を大老にしたが、掘田は暗殺された。その後、綱吉は側用人(そばようにん)を江戸時代で初めて設置し、柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)を側用人にした。なお、側用人の仕事内容は、将軍と老中とのあいだの連絡役。 1685年に生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)の発した。この生類憐みの令では、動物の保護だけでなく、(人間の)捨て子の禁止も行っている。 1684年には、近親者が死んだ時に喪に服す日数などを定める服忌令(ぷっきれい)をさだめた。 綱吉は学問(おもに儒学)を奨励し、江戸の湯島に孔子をまつる聖堂(湯島聖堂)を建て、林信篤(はやし のぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任命した。 綱吉の時代の幕府は、財政難であった。勘定吟味役(かんじょうぎんみやく、※ のちの勘定奉行)の荻原重秀(おぎわら しげひで)は、金銀の含有率を低めた質の悪い元禄金銀(げんろく きんぎん)を発行したので、物価が上がった。 綱吉の時代の1701〜1702年に赤穂事件(あこう じけん)が起きた。 1707年(宝永4年)には富士山が噴火し(宝永大噴火)、駿河・相模などが降灰の被害を受けた。 なお綱吉は1683年に武家諸法度を改訂し、第一条を「文武弓馬(きゅうば)の道、専ら(もあっぱら)相嗜む(あいたしなむ)べき事」から「文武忠孝(ちゅうこう)を励まし、礼儀を正すべき事」に改訂している。 1709年に6代将軍 家宣(いえのぶ)が就任し、(儒学の)持講(じこう)の新井白石(あらい はくせき) および 側用人には間部詮房(まなべ あきふさ) を任用したが、わずか3年で家宣は死去した。 7代将軍 家継(いえつぐ)は、まだ3歳の将軍で、新井白石らが政治を行った。 この時代(6代将軍・7代将軍)の政治を正徳の治(しょうとくのち)という。 白石らの政治では、まず、生類憐みの令を実質的に廃止した。 幕府の権威を高めるために、朝廷との結び付きを深め、新しい宮家の創設費用を出費した。(閑院宮家(かんいんのみやけ)) 朝鮮通信使に対しては、対応を簡素化した。また、朝鮮から日本の将軍当ての国書にそれまで「日本国大君殿下」(〜たいくんでんか)とあったのを「日本国王」に改めさせた。 白石らは、「大君」は「国王」よりも低い意味をもつと考えた。(なお8代将軍 吉宗(よしむね)以降は、もとの「大君」に戻した。) 経済政策では、貨幣の品質をもとに戻した。しかし、経済は混乱した。 また、長崎貿易では、金銀の海外流出を防ぐため、貿易額を制限する海舶互市新例(かいはく ごし しんれい)を出し、年間の貿易量をオランダ船2隻(せき)で銀3000貫(かん)、中国は船30隻で銀6000貫に制限した。
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農学では、宮崎安貞が『農業全書』を著した。 本草学とは、もともとは医薬になる植物などを研究する学問だったが、しだいに博物学的に植物・動物などを研究する学問になっていった。 この分野では朱子学者の貝原益軒が植物の分類の研究を行い『大和本草』を著した。また、稲生若水は『庶物類纂』を著し、本草学の範囲を大きく広げた。 天文学では、渋川春海(安井算哲)が、従来の宣明暦の誤差を修正した貞享暦をつくった。この功績により、当時の将軍綱吉は幕府に天文方を創設し、渋川春海を天文方に任命した。 数学では、土木工事などの計算の必要から日本独自の和算が発達した。中でも、関孝和は、筆算の研究、円周率、連立一次方程式の理論などを研究した。 地理学では、長崎で通訳をしていた西川如見が、オランダ人との接触によって得られた外国事情に関する知識を基にして、本格的な世界地理のテキストである『華夷通商考』を著した。 幕政が安定すると、幕府は歴史に関心を持ち始めた。 また、歴史学や和歌などでは、教育方法が従来は師匠から弟子への秘伝として閉鎖的な教育方法で伝えられてきたが、それを改めようとする風潮が起きてきた。 林羅山・林鵞峰の父子は、幕府に歴史書の編纂を命じられて、編年体の歴史書である『本朝通鑑』を著した。 いっぽう、水戸藩主の徳川光圀は、多数の学者を集めて紀伝体の歴史書『大日本史』の編集に着手した。 新井白石は、独自の歴史観にたち『読史余論』および『古史通』を著した。 契沖は、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の手法を批判し、文献学的な方法で万葉集を研究して『万葉代匠記』を著した。 北村季吟は、綱吉の代に幕府の歌学方として登用され、将軍らに和歌を教えるかたわら、『源氏物語』や『枕草子』など古典の研究を行い、注釈書を著した。 戸田茂睡は、和歌で、中世以来の制約にとらわれるべきではないと、和歌の革新を説いた。 朱子学からは、神道を儒教流に解釈する垂加神道(すいか しんとう)を唱える山崎闇斎(やまざき あんさい)が出た。 中江藤樹(なかえとうじゅ)は(儒学のひとつである)陽明学(ようめいがく)を学んだ。中江の門人の熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、幕政を批判したため、幽閉された。 いっぽう、『論語』や『孟子』など古代中国の古典を、直接、原典にあたって研究しようという古学(こがく)が起きた 古学では、京都の町人出身の学者 伊藤仁斎(いとう じんさい)とその子 東涯(とうがい)父子は、京都の堀川(ほりかわ)に私塾 古義堂(こぎどう)を開き、古学にもとづく儒学の講義を行った。 江戸では、(伊藤仁斎よりも40歳ほど若い)荻生徂徠(おぎゅう そらい)が中国語の研究を通じて古学の研究を行った。 荻生徂徠は、柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)・将軍吉宗(よしむね)の政治顧問として用いられ、幕政にも関わった。また、徂徠は江戸に私塾 蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。 俳句では、「わび」「さび」と言った落ちついた作風の松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、もともと、強調表現や派手な表現を得意とした談林派(だんりんは)の出身である。 ※ では、経緯を見ていこう。 そもそも、俳句(はいく)のもとになった俳諧(はいかい)は、もともと連歌の一部の発句(はっく)であった。 江戸時代の初めごろ、連歌から分かれた俳諧(はいかい)が人気になった。 まず始めに、西山宗因(にしやま そういん)が軽妙な俳諧で人気になった。 松尾芭蕉も、西山の一門に学んだ。 しかし、松尾芭蕉はやがて西山の派から脱け、独自の作風を確立する。(芭蕉のような作風のことを「蕉風」(しょうふう)という。) また、松尾芭蕉は紀行文『奥の細道』を残した。 なお、のちに小説家として知られる井原西鶴(いはら さいかく)も、西山宗因の俳諧に学んだ。 小説では、井原西鶴(いはら さいかく)が、小説の題材として、金銭ざたや色恋ざたなど、町人や庶民の風俗を題材にした小説を書いた。 井原の書いたようなジャンルの小説は、浮世草子(うきよぞうし)と言われる。(従来の「仮名草子」(かな ぞうし)に対して、浮世草子と言った。) 井原の代表作に『好色一代男』(こうしょく いちだいおとこ)、『日本永代蔵』(にほん えいたいぐら)、『武道伝来記』(ぶどうでんらいき)などがある。 人形浄瑠璃では、大坂で竹本義太夫(たけもと ぎだゆう)が竹本座を創設し、義太夫節(ぎだゆうぶし)の浄瑠璃の語りで人気になった。同じ頃、脚本家の近松門左衛門の脚本が、浄瑠璃で多く使われ、竹本座でも近松の作品が語られた。 歌舞伎(かぶき)は、もともとは女性の踊り(おどり)などをみせる女歌舞伎(おんな かぶき)だったが、風俗を乱すとして禁止され、つづいて少年の演じる若衆歌舞伎(わかしゅ かぶき)になったが、これも風俗を乱すとして禁止され、最終的に成年男子の演じる野郎歌舞伎(やろう かぶき)になって認められた。 歌舞伎の内容も、しだいに演劇になっていった。そして、役者が人気になっていった。 江戸では、初代 市川団十郎が、力づよい演技である荒事(あらごと)で人気の俳優になった。 いっぽう、上方(かみかた)では、色男の役である和事(わごと)の坂田藤十郎(さかた とうじゅうろう)や、女役である女形(おやま)の芳沢あやめ(よしざわ あやめ) が人気の俳優になった。 絵画では、狩野派がひきつづき幕府の御用絵師として活躍したが、狩野派は様式の踏襲にとどまった。 いっぽう、上方(かみがた)を中心に、美術や工芸では新規の作風が育ってきた。 上方では、大和絵(やまとえ)の系譜(けいふ)である土佐派(とさは)の土佐光起(とさ みつおき)が朝廷の御用絵師になった。 そして、土佐派から分かれた住吉如慶(すみよし じょけい)と住吉具慶(〜ぐけい)の父子も、幕府の御用絵師となった(住吉派)。 江戸では、浮世絵(うきよえ)があらわれ、安房(あわ)出身の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)などが作品を残した。菱川師宣の絵の制作方法は、はじめ肉筆だったが、やがて版画を始めた。版画だと、安価に絵を入手できることもあって、菱川の絵は人気になった。菱川師宣は、美人画などを残した。 陶器では、京都の野々村仁清(ののむら にんさい)が色絵(いろえ)の技法を完成させて京焼(きょうやき)の祖(そ)となった。 また、屏風(びょうぶ)絵では、京都の尾形光琳(おがた こうりん)は俵屋宗達の影響をうけて、尾形光琳が『燕子花図屏風』(かきつばた ずびょうぶ)などの作品をつくった。 染物でも、京都の宮崎友禅(みやざき ゆうぜん)が、友禅染(ゆうぜんぞめ)を始めた。
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教科書に書いてないが、江戸時代の人口は、中盤以降、約3000万人の水準がつづき、幕末まで人口はそのままの水準で停滞するのである。 もし人口が4000万人くらいになろうとすると、飢饉などが起きて、3000万人の水準にもどるのが史実である。 江戸時代の財政難や飢饉などの根本的な原因のひとつは、日本の国土での米などの食用農作物の生産量に対して、人口が多すぎることである。しかし幕府の歴代の政権は人口問題にまったく手をつけない。 おそらく幕府にとっては、農民たちが子供をたくさん産んでくれたほうが、将来の労働力が増えて好都合なので、産児制限をしないのだろう。 歴代の政権は、その場しのぎで、様々な改革をする。 1716年に7代将軍 家継(いえつぐ)が幼くして(8歳で)死去し、徳川本家の血統が絶えると、三家のひとつの紀州藩主の徳川吉宗(よしむね)が8代将軍になった。 吉宗は綱吉以来の側用人による政治をやめ、有能な人材をとりたてた。吉宗の在職期間の29年間の改革のことを享保の改革(きょうほうのかいかく)という。 吉宗は財政の再建のため、武士には倹約令を出し、また、増税的な手法や、統制経済的な手法を行った。 まず、諸大名に石高1万石につき米100石を納めさせる上米の制(あげまいのせい)を定め、かわりに参勤交代の期間を半減した。(しかし1730年に上米制を廃止し、参勤交代も元の制度に戻した。) また、年貢をそれまでは豊作/凶作に応じて代官らが調節していたが(検見法(けみほう) )、吉宗は年貢を豊凶に無関係に一定にする定免法(じょうめんほう)を実施し、また年貢を引き上げた。 さらに、米の収穫量そのものを増やすために、新田開発も推進した。江戸の日本橋には高札を立てられた。享保年間には町人請負新田として、越後の紫雲寺潟新田や河内の鴻池新田が作られた。 統制を行う一方、1730年に大阪の堂島の米市場(堂島米市場)を公認し、米価の統制を行った(公認する=幕府が口出しできる)。 このように米の問題に積極的に吉宗は取りくんだため、吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)「米公方」(こめくぼう)といわれた。 また、(おそらく裁判にかかる行政費用を削減するためか、)金銭貸借に関しては幕府に訴えさえず当事者間で済ませる相対済し令(あいたい すましれい)を出し、幕府は金銭貸借の争訟を放置した。 株仲間をつくることを認めるかわりに、運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)などの営業税を納めさせた。 また、旗本の大岡忠相を取りたてて町奉行にするなど、人材の登用も積極的に行った。 さらに(大岡忠相など有力な奉行(3奉行)の成果か)裁判の判例などを紹介した公事方御定書(くじがた おさだめがき)を制定するなどの改革をして、司法を合理化した。公事方御定書は上下二巻からなっていて、下巻のことを「御定書百箇条」という。 江戸の都市改革にも力を入れた。 そして、江戸の防災として、防火に力を入れた。火災時の延焼をふせぐための空き地である火除け地を江戸の各地に設定した。 さらに、それまでの定火消(じょうひけし)のほかに、町火消(まちひけし)を設置させた。なお、町奉行として大岡忠相を登用したのも都市改革のひとつ。 さらに、評定所に目安箱(めやすばこ)を設置し、庶民の意見を聞いた。そして、医者小川笙船の目安箱への投書にもとづき、貧しい人のための病院である小石川養生所(こいしかわ ようじょうじょ)を設置した。 また、青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)にオランダ語を学ばせ、蘭学を学ばせた。また、キリスト教に関係のない、中国語に翻訳された洋書(漢訳洋書(かんやく ようしょ))の輸入を許可した。 さらに、青木昆陽の奨励のもと、甘藷(かんしょ)の栽培を推進した。(甘藷とは、サツマイモのこと) その他、さとうきび、櫨(はぜ)、朝鮮人参の栽培を奨励した(ハゼからは、蝋燭(ろうそく)の原料がとれる。) しかし1732年、享保の大飢饉が起き、翌年、江戸で米問屋に対する打ちこわしが起きた。 10代将軍家治のとき、1772年に田沼意次(たぬま おきつぐ)が側用人から老中になった。 この頃、ロシアがオホーツク海の近隣に進出しており、ロシアはアイヌとも交易をしていた。 仙台の医師の工藤平助は、そのような状況について書籍を書いて『赤蝦夷風説考』(あかえぞ ふうせつこう)を著した。 工藤の研究成果が幕府の耳にも入り、田沼は最上徳内らに蝦夷地の調査を命じた。また、田沼は、ロシアとの交易も企画したが、最終的に失敗に終わった。 経済政策では、田沼は、年貢に頼る財政では限界があると考え、商業の経済力を活用して財政再建をしようとする政策を目指した。 田沼は、銅座や人参座や真鍮座(しんちゅうざ)など、扱う商品ごとに株仲間を認め、営業税として運上金や冥加金を取って、税の増収をした。 なお、田沼意次は、大阪の商人資本を活用して下総(しもうさ、現在の千葉県あたり)の印旛沼(いんばぬま)および手賀沼(てがぬま)の干拓工事を試みたが、(利根川の)洪水で、1786年に中止になった。 長崎貿易では、金銀の獲得のため、銅の輸出を目指すとともに、海産物(ふかひれ、いりこ、ほしあわび、等)の「俵物」(たわらもの)の輸出を目指した。 いっぽう、幕府役人のあいだで、賄賂(わいろ)による人事が横行するなど、問題になった。 また、1782〜83年ごろに凶作が起き(冷害が原因だと言われる)、さらに1783年に浅間山の噴火が起き、天命の大飢饉(てんめいの だいききん)となり、東北地方で多くの餓死者を出した。それに加え田沼意次の息子の田沼意知が1784年に佐野政言に江戸城で殺される事件が起こった。 このため、全国で百姓一揆や打ちこわしが起こった。将軍家治が死去すると、田沼は老中を罷免(ひめん)され、失脚した。 8代吉宗が将軍になる前の1695年、天文学者の西川如見は、長崎にあつまる世界地理の情報をもとに『華夷通商考』を表した。 その後、1716年ごろに吉宗が将軍になり、漢訳洋書の輸入を許可して、洋学が発達した。 そして、吉宗は、青木昆陽(あおきこんよう)や野呂玄上(のろ げんじょう)にオランダ語を学ばせた。 医学では、洋学よりも先に、山脇東洋(やまわき とうよう)が1754年に、実際の解剖観察にもとづく知見をまとめた『蔵志』(ぞうし)を発表し、大まかな解剖図ではあるが、人体の内臓の大まかな様子が分かった。また、これらの研究により、解剖観察による実証的な解剖学への関心が高まった。 その後、医師の前野良沢(まえの りょうたく)は、目にした西洋の医学書にある精密な解剖図などの図におどろき、前野はオランダ語の医学書を翻訳しようと思い立ち、晩年の青木昆陽からオランダ語を習った。 そして、前野良沢は杉田玄白(すぎた げんぱく)とともに、オランダ語の解剖書を翻訳し、1774年に『解体新書』として発表した。この『解体新書』には、かなり正確な人体解剖図があり、人々をおどろかせた。 前野・杉田らは自分らの学問を「蘭学」と読んだため、オランダ語の翻訳によって輸入された学問は、以降「蘭学」と呼ばれるようになった。 ついで、良沢の門人である大槻玄沢が入門書『蘭学階梯』(らんがくかいてい)を出した。また、宇田川玄随(うたがわ げんずい)は、西洋医学の内科書の翻訳書を出した。 また、大槻玄沢の門人である稲村三伯(いなむら さんぱく)が、日本最初の蘭日辞典である『ハルマ和解』(はるまわげ)を1796年に出した。 いっぽう、田沼意次よりも9歳ほど若い平賀源内(ひらが げんない)は、長崎で学んだ科学知識をもとに、摩擦発電機や寒暖計などを作成したり、西洋画法を日本に伝えたりした。 このような洋学の普及により、西洋のさまざまな自然科学が輸入された。 日本の古典を実証的に研究する国学(こくがく)は、元禄時代に契沖(けいちゅう)による『万葉集』の研究によって始められた。 その後を継いで、荷田春満(かだの あずままろ)や賀茂真淵(かもの まぶち)が、日本の古代思想を研究した。 特に真淵は、仏教や儒学が伝わる前の日本の古代思想を研究する必要性を主張した。 賀茂真淵より約40歳ほど若い本居宣長は、国学の研究を目指して賀茂真淵の弟子になって学んだ。 そして本居宣長は、35年間もの歳月をかけて古事記を研究し、『古事記伝』をあらわし、 また宣長は、『源氏物語』なども研究し、日本のこころの本質は「もののあはれ」であると、宣長は主張した。 真淵に学んだ盲目の塙保己一(はなわ ほきいち)は、幕府の援助を受けて、和学講談所を設立し、古典の収集・保存・分類を行い、『群書類従』(ぐんしょ るいじゅう)を出した。 田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として松平定信(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になり、定信は11代将軍家斉(いえなり)に仕えた。定信はもともと奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主。 ちょうど、その1787年のころ、江戸で天明の打ちこわしがあった。 定信は、吉宗の時代の政治を理想と考え、緊縮的な政策を行った。松平定信の行った改革のことを 寛政の改革(かんせいの かいかく) という。 飢饉(ききん)により、まず、食料生産を増やさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす政策を取る。 定信は、農民による江戸への出稼ぎを制限し、江戸に出稼ぎに来ている農民を農村に帰らせた(旧里帰農令(きゅうり きのうれい))。また、各地に食糧を貯蓄するための社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)を立てさせた(囲米(かこいまい))。 武士相手に米の売却業と金融業をする職である札差(ふださし)による6年以前の武士への借金を放棄させた(棄捐令(きえんれい))。かわりに、幕府は札差に低利で融資を行った。 また、江戸の町々に町費(町入用)を節約させ、節約金の7割を積み立てさせ(七分積金(しちぶ つみきん))、災害や飢饉のさいの資金源にしようとした。 江戸の石川島に人足寄場(じんそく よせば)をつくり、無宿人を強制的に収容し、職業訓練(や手工業などの強制労働)などの教育をして定職につかせようとした。 また、人足寄場は、無宿人のほかにも、軽犯罪者に(社会復帰のための)職業訓練や、懲役のような労働をさせるための施設でもある。 この政策のおかげで江戸の治安は良くなっていった。 湯島の学問所(のちの昌平坂学問所)では、朱子学以外(異学)の学問を禁止した(寛政異学の禁)。(儒学の派には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。) 朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、(陽明学などの)他の派の儒学は異学(いがく)とされた。 民間に対しては、出版統制を行い、政治への風刺や批判を取り締まった。 そして、林子平(はやし しへい)が1791年に発刊した『海国兵談』(かいこく へいだん)などで海防の必要性をとなえたことが、幕府批判と捕らえられ、処罰をされた。 そのほか、幕府は洒落本(しゃれぼん)の出版を禁止した。このため、『仕縣文庫』の作者で有名な洒落本作家の山東京伝(さんとう きょうでん)などが弾圧された。 松平定信が老中の時代の1789年、光格天皇が実父(閑院宮典仁親王)に与える称号について、朝廷は幕府に同意を求めてきたが、定信はこれを拒否した(「尊号一件」 (「そんごういっけん」))。 この尊号一件の是非をめぐって、定信は将軍家斉と意見が対立し、1793年、定信は老中の座から しりぞいた。 松平定信の退任後も、しばらくの間、寛政の改革と似たような政策が続いた(松平信明ら率いる寛政の遺老と言われる定信の盟友らが政治を引っ張った為)。 寛政の改革のころ、それぞれの藩も、改革を行い、倹約や農業育成などにつとめた。 藩の財政収入を増やすため、特産品の生産と専売に力を入れる藩もあった。 また、藩校を設立して、教育に力を入れる藩もあった。 米沢藩の上杉治憲(はるのり)、秋田藩の佐竹義和(さたけ よしまさ)が、この時代の藩の名君だと言われる。 狂歌には、 と、うたわれた。 「蚊ほど」は、「これほど」の意味の「かほど」と かけている。「ぶんぶ」は、蚊の羽音のぶんぶんと、文武をかけてる。 「白河」とは、元・白河藩主の松平への皮肉。「田沼」とは、田沼意次と かけている。 1789年、クナシリ・メナシでアイヌの蜂起が起きた。
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1789年、クナシリ・メナシでアイヌの蜂起が起きた。 1792年に根室(ねむろ、北海道)にロシア使節 ラクスマンが来た。ラクスマンは、ロシアに漂流した大黒屋光太夫(だいこくだ こうだゆう)を日本に送り返し、また、日本に通商を求めた。 幕府は、外交交渉は長崎で行なうとして、ラクスマンに長崎入港の許可証(信牌)を与えた。また幕府は、通商の要求を断った。 1804年に、その入港許可証をもったロシア使節レザノフが長崎に来て通商の要求をするが、しかし幕府は通商を拒否する。 それからロシアは、(幕府に対する報復だろうか)しばしば蝦夷地や樺太や択捉を攻撃した。 それから幕府は、蝦夷地の防備を固めて、1807年に蝦夷地を一時期、直轄地とした。 1811年には、日本とロシアとの間で、ゴローニン事件も起きた。 ラクスマンからゴローニンの一連の事件のあいだ、幕府は北方の探検を行った。 まず、ラクスマンの来日から数年後の1798年、幕府は近藤重蔵(こんどう じゅうぞう)・最上徳内(もがみ とくない)らに、国後・択捉を探検させ、「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)の標柱を立てた。 また1800年、伊能忠敬は日本全国の測量を行った。 レザノフの来日後で(1807年に松前藩を直轄地にした翌年の)1808年、間宮林蔵に樺太とその沿岸を探検させた。 1811年、ロシアに軍人ゴローニンが国後(くなしり)島で測量してたところ、幕府の役人がゴローニンを捕らえた(ゴローニン事件)。これに対してロシアは翌年、日本の船を捕らえ、その船に乗っていた交易商人の高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ)が捕らえられた。 最終的に、1813年に嘉兵衛が日本に送られ、嘉兵衛がゴローニン釈放を奉行所(松前奉行所)に依頼し、嘉兵衛じしんが日露交渉の仲介も精力的に行い、日露両国のゴローニン釈放交渉は成功し、幕府はゴローニンを釈放した。 そして、幕府は蝦夷地を松前藩に返還した。 さて、ロシアと紛争をしていた頃の1808年に、イギリス軍艦フェートン号が、当時敵国だったオランダ戦の だ捕(だほ、拿捕)をねらって長崎に侵入し、商館員をとらえ、薪水・食糧をうばい、やがて退去した(フェートン号事件)。 1824年、イギリス捕鯨船が来航し、日本に上陸した。薩摩国宝島では牛などを強奪する事件が起こった(宝島事件)。 翌1825年、幕府は、異国船打払令を出し、清・オランダ以外の異国船はすべて打ち払うことを命じた。 1837年、アメリカの商船モリソン号が、漂流民の返還をしにきて、通商を求めたが、打ち払い令による攻撃を受けた(モリソン号事件)。 この出来事に対し、蘭学者の渡辺崋山や高野長英は、それぞれ別の著書で打ち払いを批判したため、1839年に渡辺・高野は幕府によって弾圧された(蛮社の獄(ばんしゃのごく) )。 1793年ごろに松平定信が老中を退いたあと、しばらくは緊縮的な政策が続いたが、しだいに緩んだ。 11代将軍家斉(いえなり)は、1818年ごろまでは、寛政の改革の方針で政治をつづけたが、1818年以降は、政策を変えた。 (寛政の改革の方針をつづけてたと思われる期間の)1805年、幕府は、飢饉の影響などで荒廃した農村の秩序を保つために、関東取締出役(かんとうとりしまり しゅつやく)を置いて、犯罪者を取り締まった。 (寛政改革の撤廃後の)1818年以降、幕府が、質の悪い貨幣を発行すると、物価は上がったが、幕府財政はうるおった。また、家斉はぜいたくな暮らしをして、大奥の生活も華美になった。 都市の商業活動が活性化したが、農村が疲弊した。 このころ、なんらかの原因で、農民が農村から流出して、農村が管理されなくなり荒廃し、農村の治安が悪化した。その対策のため、1827年には、幕領・私領の違いを超えて近隣の村々をまとめて治安の取り締まりを委ねる寄場組合(よせば くみあい)をつくった。 1837年に家斉が将軍職を家慶(いえよし)にゆずった後も、家斉は大御所(おおごしょ)として実権を握りつづけた(大御所政治)。家斉は1841年に亡くなった。 家斉の時代、商業がさかんになったため、浮世絵・歌舞伎など芸術・芸能などの文化が発達した(化政文化)。家斉の時代の元号の「文化」「文政」(1804〜1830年)にもとづき、家斉のころの芸術などの文化を「化政文化」という。 (※ これらの元号の名前は、この時代の天皇が決めている。) 徳川家斉(いえなり)が生存中の1832〜1833年、天保の飢饉(てんぽうのききん)が起きた。 この天保の飢饉は、きびしい飢饉であり、全国的な飢饉であった。 各地で、百姓一揆や打ちこわしが続発した。 1836年にも、飢饉が起き、もとから米が不足していた状況で飢饉が起きたので、ひどい状況になり、甲斐の郡内地方や三河の加茂郡で一揆が起きた。 1836年ごろ、大阪でも飢饉の影響で餓死者が出ていたが、大阪の役所は対策をとれず、それどころか米を江戸に回送していたた。 町奉行所の元・与力(よりき)で陽明学者の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)は、1837年に、貧民の救済のために門弟とともに民衆に呼びかけ武装して、富裕な商人などを襲撃する反乱を起こしたが、わずか半日で鎮圧された(大塩の乱)。 幕府の元役人が反乱を起こしたという事実に、幕府や諸藩は大きな衝撃を受けた その後の同年、越後では国学者 生田万(いくだ よろず)が大塩の門弟と称して陣屋を襲撃した(生田万の乱)。このほか各地で、一揆が続発した。 1841年に大御所 家斉が死ぬと、12代将軍家慶(いえよし)のもとで、同1841年に老中に水野忠邦(みずの ただくに)がつき、政治改革を行った(天保の改革)。 ※ 天保の改革の経済政策的な内容については、中学で習ったとおり。 水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための人返しの令(ひとがえしのれい)を出した。事実上の、武士への借金帳消しをする棄捐令(きえんれい)も出した。 また、出版や芸能などを取り締まり、寄席の数も大幅に減らし、人情本作家の為永俊水(ためなが しゅんすい)らを処罰した。 物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させたが、かえって商品の流通を混乱させた。 しかし、貨幣の質を落とした。 このころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けると、幕府は(欧米との戦争をふせぐため)1842年に異国船打払令を撤回し、薪水給与令を復活させた。 また、日本の軍事力を強化するため、長崎から西洋砲術を学んだ高島秋帆(たかしも しゅうはん)を呼び寄せ、実射訓練をさせた。 1843年には、江戸・大阪の周辺を幕府の直轄地にしようと上地令(あげちれい)を出したが、諸大名や旗本(はたもと)などに反対され、実施できなかった。 ※ 水野忠邦は、馬鹿である。どうせ儒学の暗記勉強ができるだけの、実務能力のない馬鹿である。 馬鹿の水野は、(現実を無視して)松平定信の寛政の改革を手本にした。 株仲間を解散させることで、商人は自由に取引をできるようになるが、しかし、風俗や出版などを取りしまったので、それらの業界では自由に営業できない。つくづく、水野のやってることは矛盾しており、こいつ馬鹿。 馬鹿の水野は、財政再建をしたいはずなのに、幕府の権威の復興のため、諸大名を動員して日光社参を何度も参拝するという費用のかかることをする。(つくづく、水野、馬鹿だろ。) 国防の強化をしたが、だったら大名をひきつれての日光参拝みたいな出費の掛かる行事を減らすべきだし、つくづく水野は馬鹿。 また、出版も統制されてるので、民間人から国防のための優秀な意見も出にくくなる。つくづく水野は馬鹿。 水野は馬鹿で役立たずなので、老中を解任させられた。 天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、かえって幕府そのものの権威は低下した。 諸藩のなかには、経済改革や人材改革などを行い、改革に成功する藩も出てきた。 のちの明治維新では薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4つの雄藩(ゆうはん)が活躍するが、この4藩は、この1820〜30年代の藩政改革に成功している。 まず1827年に薩摩藩は、下級武士の出身の調所広郷(ずしょ ひろさと)を登用し、藩の借金を無利子返済にさせた。そして薩摩は、琉球を通じた清との密貿易や、奄美諸島(あまみしょとう)産の黒砂糖の専売などで、利益をあげた。 さつま藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)も開明的な政策をおこない、鹿児島に反射炉(はんしゃろ)を築き、さらに造船所をつくり、藩の工業技術を向上をさせた。 なお、水戸藩は、1829年に就任した藩主 徳川斉明(なりあき)が率先して改革をおこない、造船所を設置した。 佐賀藩も、藩主 鍋島直正(なべしま なおまさ)の積極的な改革により、反射炉を築き、さらに大砲を製造した。また佐賀藩は、陶磁器(有田焼、伊万里焼)の専売でも儲けた。 そのほか佐賀藩では、地主の土地の一部を小作人(土地をもってない農民)に与えさせ、本百姓(土地をもってて自分で耕す農民のこと)を増やした(均田制)。 土佐藩は、支出を切りつめるのに成功し、財政再建をした。 長州藩では、村田清風(むらた せいふう)が藩の借金を整理させ、紙・蝋(ろう)の専売を強化した。さらに、下関に寄港する廻船(かいせん)の積荷をあつかう腰荷方(こしにかた)で、倉庫業と金融業で利益をあげた。(※ 「倉庫業」という表現については、東京書籍の見解。他社の検定教科書によると、腰荷方のビジネスでは、資金の貸し付けや、委託販売などのビジネスを行ってたらしい。) 幕府も、やや送れるが、代官 江川太郎左衛門(えがわ たろうざえもん)に命じて、伊豆(いず)の韮山(にらやま)で反射炉を築いた。
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寺子屋が、吉宗〜田沼あたりの時代に大きく普及し、農村などにも寺子屋がつくられるようになった。 田沼意次のころから、文化の中心が上方(かみがた)から江戸に移った。 (「上方」(かみがた)とは、関西の大阪・京都の付近のこと。) 徳川家斉(いえなり)の時代、商業がさかんになったため、浮世絵・歌舞伎など芸術・芸能などの文化が発達した。 家斉の時代の元号の「文化」「文政」(1804〜1830年)にもとづき、家斉のころの芸術などの文化を「化政文化」という。 (※ これらの元号の名前は、この時代の天皇が決めている。) また、この「文化」「文政」のころの時代を化政時代という。
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アヘン戦争で清国がイギリスに負けた情報が幕府にも伝わり、1842年に幕府は異国船打ち払い令を緩和して薪水供与令(しんすい きょうよれい)を発し、外国船には燃料・食料を与えることとした。 しかし、1844年にオランダ国王が幕府に親書を送り開国を勧告しても、幕府は鎖国体制を守ろうとした。 このころアメリカは、清国貿易船や捕鯨船のための寄港地として日本に開国を望んでいた。 1846年、アメリカ東艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航して、開港や通商を要求したが、幕府は拒否した。 1853年にアメリカ東インド艦隊司令官ペリー(Perry)が4隻の軍艦をひきいて日本に来航して開国を求め、フィルモア大統領からの国書を幕府に差し出した。 幕府は国書を受け取り、1年後の返答を約束して、ひとまずペリーを帰らせた。 同年7月には、ロシアのプチャーチンも長崎に来航した。 老中首座(しゅざ)の阿部正弘(あべの まさひろ)は、これらの事態を朝廷に報告し、諸大名にも意見をたずねた。 そして翌1854年に、ペリーがふたたび日本に来航すると、幕府は貿易自由化はしなかったものの、かわりに幕府は日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)をアメリカと結んだ。 この日米和親条約の内容は、 のほか などである。 ついで幕府は、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を締結し、こうして日本の鎖国は終了し、日本は開国した。 つづいて、下田に着任した初代アメリカ総領事ハリスは、日米間の自由貿易のための通商条約の締結を幕府に強く要求した。 (日米和親条約は自由貿易については規定していない。) 老中 堀田正睦(ほった まさよし)は、イギリスの脅威を説くハリスの圧力におされて通商条約の許可(勅許)を朝廷に求めたが(※イギリスの脅威うんぬんは第一学習社『日本史A』の見解)、しかし攘夷主義者の多い朝廷は反対し、調停からの許可(勅許)は下りなかった。 このころ、1858年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)で清国がイギリス・フランス連合軍に敗退し、ますます日本の周辺では欧米の影響力が強まった。 1858年4月に大老になった井伊直弼(いい なおすけ)は、勅許(ちょっきょ)を得ないまま、同年6月に日米修好通商条約に調印した。ついで幕府は、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政の五か国条約)。 日米通商条約では、日本の関税自主権を認めておらず、領事裁判権(治外法権)の承認など、日本が不利な点も多い。 しかし、アヘンの輸入禁止、外国人の日本国内の自由な旅行の禁止などを、認めており、アヘン戦争で敗退した清国がヨーロッパ列強と結ばされた条約と比べると、日本に有利な点もある。 日米修好通商条約の内容は、 などである。 (※ 高校の範囲: 参考)なお、日米通商条約の第4条では、日本へのアヘンの輸入を禁止している。同じく第4条にある別の規定により日本は関税自主権を失った(※ 帝国書院の高校「歴史総合」で紹介あり)。一見すると、関税自主権の喪失だけを見れば第4条は日本に損な条文をアメリカが押し付けたかのように見えるが、しかしアヘンの禁止の規定も同じ第4条であることなどまで合わせて考えると、解釈はそう簡単ではない。歴史にはこのように色々な側面もある。 通商条約にもとづき、開港がされ、開港場には外国人の居留地がもうけられ、外国人商人と日本人商人との間で貿易が行われた(居留地貿易)。 最大の貿易港は横浜であり、最大の貿易相手国はイギリスであった。 主要な(日本からの)輸出品目は、生糸(きいと)や蚕卵紙(さんらんし)、茶であった。 輸入では、毛織物・絹織物や、武器や艦船などの軍需品であった。 当初は、輸出が輸入を上回った。 国内経済では、流通魍が大きく変わることとなり、それまでの江戸を中心とした流通システムは解体されていき、生糸などの輸出品は横浜に商品が集まるようになった。 幕府は、江戸中心の流通システムを保護をするため、1860年に五品江戸廻送令(かいそうれい)を出して生糸・雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服は江戸の問屋を必ず通すように定めたが、外国と地方商人からの反対により、効果は出なかった。 また、金銀の交換比率の日本と列国との違いから、金(きん)が海外に流出した。幕府は金流出をふせぐため小判の改鋳を行い、新小判での金の含有量を下げた(万延改鋳)。改鋳により貨幣価値が下がったためもあり、物価は上昇した。 ハリスと通商条約の交渉をしていた頃、幕府内では、13代将軍・徳川家定(いえさだ)に子がなく、いわゆる将軍継嗣問題が起きていた。越前藩主松平慶永(よしなが)、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)ら親藩や雄藩は賢明な人物を求めて徳川斉明(なりあき)の子である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推し(一橋派)、譜代大名らは、より徳川将軍家に血統が近い紀伊藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推した(南紀派)。大老に就任した井伊直弼は、慶福を支持し、慶福を将軍継嗣とした(のちの14代将軍・徳川家茂(いえもち))。 しかし、強引な将軍継嗣決定や通商条約の無勅許調印に不満を抱く一橋派や尊王・攘夷派は井伊を批判したため、井伊は一橋派や尊皇・攘夷派を弾圧した(安政の大獄)。これにより、一橋慶喜および一橋派の徳川斉昭・松平慶永は謹慎を命じられた。また、越前藩士で思想家の橋本佐内(はしもとさない)や長州藩士の吉田松陰(よしだしょういん)が処刑された。 1860年、このような強硬な弾圧に憤激した水戸脱藩浪士たちにより、井伊直弼は江戸城桜田門外で登城中のところを襲われ、暗殺された(桜田門外の変)。現職大老が殺害されたことにより、幕府の権威はまたもや失墜した。 桜田門外の変ののち、幕政の中心となった老中安藤信政(あんどうのぶまさ)は、幕府の権威を回復するために、朝廷(公)と幕府(武)の融和を図った(公武合体(こうぶがったい) )。幕府は孝明天皇の妹である和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)を将軍徳川家茂の妻として迎え入れた。しかし、尊王攘夷派はこれに反発し、安藤は江戸城坂下門外で水戸藩の浪士に襲撃されて傷を負い、こののち老中を退いた(坂下門外の変)。 薩摩藩では、藩主の父である島津久光が公武合体論を支持し、1862年には上洛して藩内の急進的な尊皇攘夷派を弾圧した(寺田屋事件)。そして勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に下り、幕府に対して政治改革を要求した。幕府はこれに応じて、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任命し、参勤交代を緩和した(文久の改革)。この帰途、薩摩藩の行列をイギリス人が横切り、薩摩藩士がそのイギリス人を殺傷する事件が起こっている(生麦事件)。 島津久光が去ったあとの朝廷は、長州藩が主導権を握り、将軍を上洛させて孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂社行幸に従わせ、幕府に対して攘夷を実行するように強く要求した。将軍家茂は1863年5月10日に攘夷を決行することを天皇に伝え、また全国の藩にこれを命じ、長州藩は攘夷決行の日に、下関の海峡を通過した外国船を砲撃した(下関事件)。 これら尊皇攘夷派の動きに対して、1863年8月18日、薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家と協力して長州藩と三条実美(さねとみ)ら7名の公家を京都から追放した(八月十八日の政変、文久の政変)。 翌1864年7月、新撰組(しんせんぐみ)が京都の旅館池田屋で尊皇攘夷派の浪士を殺傷する池田屋事件が起きると、長州藩は京に兵を進めて勢力回復を図ったが、御所外郭門の蛤御門(はまぐりごもん)で会津藩・薩摩藩・桑名藩によって撃退された(禁門の変、蛤御門の変)。 これを理由に、幕府は長州藩征討の詔を奉じて1984年7月に軍を起こした(第一次長州征討、第一次長州征伐)。この頃、長州への報復の機をうかがってたイギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの列国が連合艦隊を編制して下関を砲撃して、下関側の砲台を占領した(四国艦隊下関砲台占領事件)。この結果、長州藩は尊攘派にかわって幕府恭順派が主導権をにぎり、戦闘が起こる前に、長州藩は幕府に降伏した。外国からの攻撃を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを悟り、以降開国論が主流となった。 一方、薩摩藩はこれより前の1863年に、生麦事件の報復として1863年にイギリス軍艦に攻撃され、敗北していた(薩英戦争)。薩摩も、こうして攘夷の無理を悟り、開国派に転じた。さらにイギリスは、これを契機に薩摩藩に接近し、幕府にかわる雄藩連合政権の可能性を探るようになった。 1864年、長州藩の高杉晋作(たかすぎ しんさく)が奇兵隊(きへいたい)をひきいて挙兵して、長州藩は内戦となり、高杉が勝利して藩内の保守派から実権をうばう。( 奇兵隊は、1863年に高杉らによって組織された軍隊。奇兵隊は、身分にとらわれずに百姓や町人も兵士として含む、志願制の部隊だった。) そして長州では、高杉晋作や木戸孝允(きど かたよし)が藩政を指揮したため、長州藩の方針は開国倒幕になった。 そして長州は大村益次郎(おおむら ますじろう)を登用し、洋式の軍制にもとづく軍事改革を行った。 いっぽう薩摩藩では、西郷隆盛(さいごう たかもり)や大久保利通(おおくぼ としみち)が実権をにぎるようになり、イギリスから武器を輸入するなどして、薩摩は軍備の増強につとめた。 幕府は1865年、長州追討の令を出した(第二次長州追討令)。しかし、1866年1月、ひそかに薩摩藩と長州藩は、土佐藩脱藩浪士の坂本竜馬(さかもと りょうま)や中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の仲介のもと同盟を結んだ(薩長同盟)。 そして同1866年4月に幕府と長州との戦闘が始まるが、西洋式軍備の長州軍に幕府は各地で敗北を重ね、将軍家茂の急死もあり、休戦になった(第二次長州戦争)。 このころ、「世直し」をとなえた農民一揆が、全国各地で起きていた。また、大坂や江戸で、打ちこわしが起きた。また、1867年には「ええじゃないか」と民衆が熱狂する騒ぎが起きた。 15代将軍になった慶喜は、1867年、フランスの援助を受けて、軍備の西洋化を行った。 いっぽう、薩摩藩は幕府に、政治改革を要求し、諸般の大名どうしで会議して国政を決める大名会議のようなものを作るべきだと要求したが、幕府に拒否された。(参考文献: 清水書院の教科書) また、長州藩の処遇をめぐっても、幕府と薩摩は対立した。 すると薩摩は長州とともに倒幕を決意し、また朝廷は倒幕の密勅を下した。 しかし土佐藩は公武合体の立場をとり、坂本竜馬たちの活動により、前藩主 山内豊信(やまうち とよしげ)を通して将軍徳川慶喜に、討幕の機先を制して政権を朝廷に返還することを進めた。 そして慶喜もこの策を受け入れ、10月14日に幕府は大政奉還を朝廷に申し出た。 そして同じ14日に、薩摩と長州が倒幕の密勅を入手した。 機先を制された薩長は、12月9日に朝廷を武力で制圧して宮中クーデターを起こし(※ 山川出版や清水書院の見解)、王政復古の大号令を発して、(徳川慶喜ぬきの)天皇による新政府樹立を宣言した。 新政府は将軍の廃止はもちろん、摂政・関白も廃止し、新たに天皇のもとに総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職を置いた。 さらに同9日、小御所会議(こごしょ かいぎ)で、慶喜の内大臣辞任と領地の一部返上が決定された。この決定に怒った慶喜(よしのぶ)は、京都から大阪城に引きあげ、新政府と軍事的に対決するため、1868年1月に京都に(徳川)軍をすすめ、鳥羽・伏見の戦いとなったが、新政府軍が勝利した。 慶喜は海路で江戸に帰ると、新政府が慶喜を朝敵として追討軍を派遣し、追討軍は江戸城に迫った。 だが、慶喜の命を受けた勝海舟(かつ かいしゅう)と追討軍指揮官の西郷隆盛との交渉により、江戸城は無血開城された。 しかし、江戸城の開城後も、東北の諸侯は奥羽列藩同盟を結成して新政府に服従しなかったため、新政府軍は北上して東北諸侯と戦い、1868年には新政府軍は会津城を攻め落し、翌1869年5月には函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった旧幕臣の榎本武揚(えのもと たけあき)を降伏させた。 これらの1年ちかくの内戦のことを戊辰戦争(ぼしん せんそう)という。 相良総三(さがら そうぞう)の赤報隊(せきほうたい)は、民衆の支持を得られるように年貢半減を掲げて進撃した。しかし、財政難に苦しむ新政府は、相良らを「偽官軍」(にせ かんぐん)として処刑した。 (※ 一部(山川出版)の教科書でしか紹介してない。) 反射炉が 〜 勝海舟が、〜 咸臨丸(かんりんまる)が (ばんしょしらべどころ) へボンが 〜
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戊辰戦争のころ、1868年3月に新政府は五箇条の誓文(ごかじょう の せいもん)を出した。 これは、公儀世論(こうぎよろん)の尊重や開国和親など新政府の政治方針を、示したものである。 五箇条の御誓文(抜粋) (※ この「我国未曾有」(以下略)の部分の訳は、扱った教科書もなく、高校教育界では、あまり訳が定まってない。) このため、『五カ条の誓文』は天皇が神々に誓う型式で公布されたものと思われる。(※ 検定教科書で「神々」に「誓約」など記載されてるのは、上記のような文の加わった古い文献があるため。) いっぽう民衆に対しては同日と思われる3月15日に、五傍の掲示で、江戸幕府と同様にキリスト教の禁止などの方針を示した。 1868年閏(うるう)4月には、政府組織を定める政体書(せいたいしょ)が出され、その主な内容は「太政官」(だじょうかん)と呼ぶ中央組織の設置と「太政官」への権力の集中、立法・行政・司法の三権分立制、官の4年任期、などである。 これらの(政体書に定められた)制度は、欧米を手本にしたものである。なお、完全には実施されなかった。 同年7月には江戸を東京と改め、9月には元号を発し「明治」とするとともに「一世一元の制」を定めた。 政府は1869年1月に、薩摩・長州・土佐・肥前(ひぜん)の4藩に版籍奉還(はんせきほうかん)を上表させた。つづいて6月、すべての藩に版籍奉還を命じた。 そして旧藩主を知判事として任命し、旧藩主には藩内の石高の10分の1にあたる家禄を与える事にした。 しかし版籍奉還のあとも、徴税と軍事の権限は旧藩主が保有した。 版籍奉還後の中央組織の再編で、祭政一致の理念から神祇官を太政官から独立させた。また、太政官の下に、外務省・大蔵省などの各省を置く組織となった。 新政府の直轄地は一部の地域に限られていた。新政府は、かぎられた直轄地から、税をきびしく徴収したため、税負担の軽減を期待していた民衆の期待は裏切られ、一揆が多発した。 1871年、薩摩・長州・土佐の3藩の兵を東京に集め、その武力を背景に同年7月、廃藩置県を断行した。 すべての知藩事は解任され、旧藩主は東京在住を命じられ、かわって中央政府から府知事・県令が派遣された。 廃藩置県の直後に政府組織も改編され、太政官は正院(せいいん)となり、さらに右院(ういん)と左院(さいん)がもうけられ、正院・右院・左院の三院制となった。そして正院の下に各省が置かれた。 これら一連の改革を通して、政府内では薩摩の西郷隆盛(さいごう たかもり)や長州の木戸孝允(きど たかよし)など、薩長土肥の出身者が権力をにぎるようになった。また、公家の岩倉具視(いわくら ともみ)など少数の公家が権力を握るようになった。特定の藩出身者などの特定勢力出身者が権力をにぎっていったので、のちに藩閥政治といわれるようになった。 などが、権力をにぎった。 版籍奉還後、明治政府は「四民平等」の理念にもとづき、江戸時代の身分制度を廃止した。このため、公家や大名は華族(かぞく)とし、大名や幕臣は士族(しぞく)とし、下級武士は卒(そつ)とし、農民や町民は平民(へいみん)とした。(卒は1872年に廃止された。) そして1870年までには、平民も、苗字を持てるようになった。また婚姻では、平民も華族や士族と法律上は結婚できるようになった。また関所も1869年に廃止されており(※ 参考文献: 清水書院の教科書)、人々は移転や職業選択も自由になった。 また1871年には、身分の解放令(かいほうれい)が布告され、えた・非人(ひにん)などの称は廃止されて、そのような差別をされていた人たちも平民として扱われる事となった。 そして1872年には、新たな族籍(ぞくせき)にもとづく戸籍が作られた(壬申戸籍(じんしん こせき))。 武士の切り捨て御免の特権も廃止された。ちょんまげは、まず、まげをしなくてもいいと許可が出され、やがてちょんまげは禁止された。また、帯刀も禁止された(廃刀令)。 このような、明治時代に、江戸時代の封建的な身分を廃止したことを、一般に「四民平等」という。 なお、農業政策では、1871年に田畑勝手づくりを許可し、翌72年には田畑永代売買禁止を解除した。 士族や華族には廃藩置県後も禄(ろく)が与えられていたが、これが新政府の財政の30%ほどを占めていて財政圧迫をしていた。そのため、まず新政府は、家禄奉還の希望者をつのり、家禄を受けとる権利を政府に返す代わりに約6年ぶんの現金と公債を与えた。 そして1876年には金六公債証書を発行し、これにより家禄の支給をすべて廃止した(秩禄処分(ちつろくしょぶん) )。 同76年、廃刀令も実施され、旧(一般)武士の特権は、制度上はすべて無くなった。 結果、下級士族は仕事をさがす必要が生じたが、巡査や教員や職業軍人など公務員になって成功したものを除くと、ほとんどの下級武士が没落した。 政府は、士族に開墾や新規事業の奨励のための資金貸付けの士族授産を行ったが、あまり効果は無かった。 軍隊の管理については兵部省が管轄することになった。 政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年(明治6年)に徴兵令(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。 江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。 ただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金(代人料270円)を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。 徴兵制の導入のとき、政府が「血税」という表現を使ったので、本物の生き血をとられると勘違いした人々のデマが生じて、これに特権をうばわれる士族による不満が重なり、一揆が各地で起こった(血税一揆)。 なお、警察制度については、1873年に新説された内務省(ないむしょう)が担当することとなり、内務省は地方行政や殖産興業を担当する省庁であるが、警察行政も担当した。翌1874年には東京に警視庁が創設された。 1871年、政府は、田畑の勝手作りを許可した。 翌1872年には、田畑の永代売買の禁令を解除し、地主に地券(ちけん)を与えて土地所有権を確定した。 ついで1873年、政府は地租改正(ちそかいせい)を行った。地租改正は1873年から行われ、1881年までにほぼ完了した。 地租の納税者は土地所有者であり、金納である。地租の金額は当初、地価の3%とされた。地価の決定のさい、政府は高めに地価を設定したので、不満をもつ農民たちによる一揆が各地で起きた(地租改正反対一揆)。 のちの1877年には、地租の税率(ぜいりつ)が引き下げられ、3%から2.5%へと税率が引き下げられました。 なお、一連の地租改正では、山林や原野などの共有地や入会地(いりあいち)は官有となった。 明治政府は、戊辰戦争などの戦費を調達するために太政官札(だじょうかんさつ)や民部省札(みんぶしょうさつ)などの紙幣を発行していたが、これらは不換紙幣(ふかん しへい)だったので信用されなかった。(不換紙幣(ふかんしへい)とは、金銀との交換が保証されてない紙幣のこと。なお、金銀との交換を保証された紙幣のことは、兌換紙幣(だかん しへい)という。 ) これらの紙幣にくわえて、旧来の藩札や貨幣も流通しており、貨幣の状況が複雑であった。 このため、政府は通貨統一の必要にせまれれ、1871年(明治4年)に新貨条例(しんか じょうれい)を公布し、円(えん)・銭(せん)・厘(りん)を基本単位とする金本位制で十進法の新貨幣の制度を採用した。 しかし、これらの改革の結果にかかわらず、アジア地域では貿易に銀が使われたため、日本の貿易でも銀が使われたため、制度上は日本は金本位だったが、事実上は金本位と銀本位との金銀複本位だった。貿易では銀貨が流通していた。 さて政府は翌1872年に新紙幣を発行して、これを太政官札と引き換えることにより太政官札を回収し、旧紙幣回収に成功した。なお、この新紙幣は不換紙幣である。 また政府は、(アメリカのナショナル=バンク制度を参考に、)1872年、渋沢栄一(しぶさわ えいいち)が中心となって国立銀行条例を公布し、兌換銀行(だかんぎんこう)を普及させようとした。 1873年には日本で初めての銀行である第一国立銀行が出来た。(第一国立銀行は「国立」といっても制度上は民間銀行である。) しかし、民間には兌換義務は負担が重く、この頃に設立された銀行は4行と少なかった。そこで政府は1876年に、兌換義務のない銀行の設立を許可すると、いっきに多くの銀行が設立され、1879年までには153行の銀行が設立されていた。
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1870年に設立された工部省が、鉄道・鉱山・製鉄などの官営事業を担当した。 1873年に設立された内務省が、製糸・紡績などの軽工業の振興を担当した。 また、内務省は、群馬県に富岡製紙場を設置するなど、各地に軽工業の官営模範工場を設置した。 工業には、交通手段として鉄道も必要だし、また通信の普及も必要である。 (通信機のほうが設置が簡単だったようで、(電源のほかには、せいぜい通信ケーブルをひくくらいで済むからか)) 鉄道よりも先にまず1869年に日本初とみられる本格的な電信線が東京・横浜間に設置された。 鉄道の設置には莫大な費用が必要なので、イギリスから費用を借入れした。 つづいて鉄道が工部省の担当のもと1872年、新橋・横浜間に設置された。ついで1874年、大阪・神戸間の鉄道が設置された。 また、電信は1874年ごろまでに北海道から長崎まで、つながった。 郵便は、1871年に前島密(まえじま ひそか)の意見によって官営の郵便事業が東京および大阪で発足された。 海運では、有事のさいの輸送を確立するために、政府は岩崎弥太郎(いわさき やたろう)の三菱会社(みつびしかいしゃ)に手厚い保護を与えた。 そのほか、さまざまな事業で、三井(みつい)・三菱などの特定の民間の大企業が、優遇・保護された。このように、政府とむすびついた商人たちのことを政商(せいしょう)という。 宗教政策では新政府は、王政復古の祭政一致の理念により、神仏習合を禁じて1868年に神仏分離令(しんぶつ ぶんりれい)を出した。そのため、全国にわたって廃仏毀釈(はいぶつ きしゃく)の運動が起き、各地で仏像や寺院が破壊された。 いっぽう、政府は神道(しんとう)の国教化を目指し、1870年に大教宣布の詔(だいきょうせんぷ の みことのり)を出し、神社制度や、皇室行事にもとづく祝祭日を設定した。 キリスト教については、新政府は当初、旧幕府のキリスト教の禁止を継続し、長崎の浦上のキリシタンが弾圧を受けていたが、列国の強い抗議により、1873年にキリスト教禁止の高札(こうさつ)が撤去され、キリスト教の信仰が黙認されるようになった。これを機に多くの外国人宣教師が来日し、布教活動を行った。 靖国神社の前進となる東京招魂社(とうきょう しょうこんしゃ)は、このころ(1869年)作られた。 招魂社では、戊辰戦争以来の国事に協力して死没した者をまつった。 (※ 教科書に無い話題: )戊辰戦争前に死んだ吉田松陰など、のちに新政府側に都合のいい思想家も、まつられている。いっぽう、戊辰戦争で政府軍の敵側である白虎隊や、西南戦争で反乱軍だった西郷隆盛は、まつられてない。 1871年に文部省が設置された。そして、すべての日本国民の子どもの男女に教育をさずけるべきとの理念のもと、1872年に小学校から大学までの制度や学区などについての学制を定めた。(※ いくつかの検定教科書では、フランスの学制を参考にしたのだろうと分析されている。山川出版や清水署員など) しかし、学校建設費や授業料の負担が地域や保護者に課せられたため、反発運動が高まり、政府は1879年に学制にかえて教育令を出した。 高等教育については、1877年に旧幕府の開成所や医学所などを統合して東京大学(現在の東京大学の前身)をつくった。そして、多くの外国人教師が招かれた。 そのほか政府によって、教員養成のための師範学校や、女子教育のための学校、産業教育のための専門学校もつくられた。 いっぽう政府とは別に、福沢諭吉の慶応義塾、新島襄(にいじま じょう)の同志社(どうししゃ)英学校、大隈重信の東京専門学校(のちの早稲田大学)などの私立の学校が設立された。 日本は明治維新により近代化が必要になったが、産業・経済の近代化では工場が必要だが、工場労働者は時刻にもとづいて労働中は計画的に時間を管理される必要があるので、前提として人々に時間をもとにした行動習慣を教育する必要があった。だから学校教育でも時間割に基づいて行動したり、授業中は私語をつつしむ事や実技以外の座学の授業では原則として着席するなどの何気ない習慣も、工場労働者を育てるための規律の教育という意図があると、よく教育評論では昔から言われている。 さて、検定教科書では深入りしてない話題なのだが、教育学の用語で1970年代の古くから「隠れたカリキュラム」という欧米人の提唱した概念があり、その分析法を明治日本にあてはめるなら、「隠れたカリキュラム」とは、けっして表向きの「国語」「数学」や「体育」などの授業ではなく、まさに上述の時間割という習慣をつけさせることや、そのほか産業革命時代の労働者として都合のいい機械的な単純反復作業によって達成できる労働や勉学の奨励、そのほか国家の政策に都合のいいような思想に染めていくことなどが、「隠れたカリキュラム」の代表例・典型例としてよく言われる。
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幕末から、外国新聞を幕府は翻訳していた。 1869年には本木晶造が鉛活字の鋳造に成功したので日本で活版印刷が実用化し、1870年には最初の日刊新聞である『東京毎日新聞』が創刊された。 1873年(明治6年)には、森有礼(もり ありのり)・福沢諭吉・中村正直(まさなお)・西周(にし あまね)・加藤弘之(かとう ひろゆき)・西村茂樹(にしむら しげき)らの洋学者が明六社(めいろくしゃ)を結成して翌年から『明六雑誌』(めいろくざっし)を発行して、雑誌内で啓蒙主義的な論説を提唱したり、近代思想の紹介をするなどして、近代思想の普及につとめた。 福沢諭吉は『西洋事情』『学問のすすめ』『文明論の概略』を著した。 中村はスマイルスの著作の訳で『西国立志編』を著した。 彼らとは別に、(幕末ではフランス語の翻訳仕事をしていた)中江兆民(なかえ ちょうみん)が、明治維新後には中江はフランス留学させてもらい、明治7年ごろにルソーの翻訳を紹介するなどして社会契約論(しゃかいけいやくろん)の紹介をした。
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征韓論にやぶれて政府を去っていた者のうち、板垣退助(いたがき たいすけ)・後藤象二郎・江藤新平は、1874年1月に民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出した。 そして板垣退助は1874年4月には故郷の土佐に帰って片岡健吉(かたおか けんきち)とともに立志社(りっししゃ)を創設した。 そして翌1875年には、板垣のよびかけで各地の民権派士族が大阪にあつまり、民権派士族の全国組織である愛国社(あいこくしゃ)が結成された。 いっぽう、政府側の大久保利通は、板垣退助と、台湾出兵に反対して参議を辞職していた木戸孝允(きど たかよし)と大阪で会談し(大阪会議)、板垣・木戸の両名に参議に復帰するように大久保は頼み、また、復帰の条件として立憲制のための政治改革を約束した。 同1875年4月に 漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじ ~ みことのり)が出され、この結果、 いっぽう、政府は同1875年、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を制定し、反政府的な言論を取り締まった。 征韓論争でやぶれた江藤新平は、故郷の佐賀に帰っていた。士族反乱は、西南戦争よりも「佐賀の乱」や「神風連の乱」(じんぷうれんのらん)が先。 1876年に熊本で「神風連の乱」が起きた。翌1877年に西南戦争が起きた。 経緯は以下のとおり。 1874年、江藤新平が 佐賀の乱(さがのらん) を起こした。 その後も、1876年に廃刀令が出され、それに不満をもつ士族の敬神党(神風連)が同1876年に熊本で反乱を起こした(神風連の乱)。 これに呼応して、福岡では秋月の乱(あきづきのらん)が起き、山口県では前原一誠(まえばら いっせい)らによる萩の乱(はぎのらん)が起きた。 このように、西日本で反乱があいついだ。 そして翌1877年、西郷隆盛が鹿児島の不平士族を中心に反乱を起こし、西南戦争に発展した。この西南戦争は今までに起きた士族反乱のなかで、最大の規模のものであった。 政府軍は約7ヵ月で西郷軍を鎮圧した。やぶれた西郷は自害した。 西南戦争後、1876年ごろから、激しいインフレが起きた。 原因として考えられているのは、不換紙幣(ふかんしへい)の大量発行である。不換紙幣というのは、金や銀と交換しなくてよい紙幣のこと。 なぜ、そのような紙幣を大量発行したかというと、西南戦争の戦費や、明治維新の諸改革などで、出費が かさんだ からである。 ともかく、インフレが激しくなったので、政府は財政改革の必要にせまられた。 そして松方正義(まつかた まさよし)が大蔵卿(おおくらきょう)に就任し、増税および歳出削減を行った。 1882年には日本銀行が設立され、1885年には兌換銀行券(だかんぎんこうけん)を発行した。兌換銀行券とは、銀や金と交換できる紙幣のこと。 兌換紙幣の交換先の金属を、金(Au)を中心とした場合の制度を金本位制といい、銀(Ag)を中心とした場合の制度を銀本位制という。 当時の日本銀行券は、銀本位制である。 このようにしてインフレはおさまっていくが、今度は日本がデフレによる不況が起きた(松方デフレ)。 米、繭(まゆ)などの農産物価値が下落し、地租改正などの増税の負担も加わったので(しかも地租は定額金納であった)農民の生活は苦しくなり、土地を手放して小作人になる農民も急増した。 いっぽう、富める地主たちは、没落した農民が手放した土地を買ったりしたので、土地は地主に集中した。 土地を失った農民たちのなかには、都市に貧民として流入することもあった。 じつは松方正義が大蔵卿になる前は、大隈重信が大蔵卿だった。 西南戦争の最中の1877年、立志社の片岡健吉らは政府の国会開設などをもとめる建白書を天皇に提出しようとしたが(立志社建白)、このときは政府によって拒否された。 1880年(明治13年)に、各地の自由民権運動の代表が大阪に集まり、国会期成同盟(こっかい きせい どうめい)をつくり、署名を集めて、政府に対して国会開設を要求した。いっぽう、大隈重信(おおくま しげのぶ)は、イギリスにならった憲法をつくるべきと主張し、ただちに国会を開こうとして、岩倉や伊藤らと対立した。 1881年に政府が北海道開拓使の施設を安く、商社に払い下げようとして問題になった(開拓使官有物払い下げ事件)。 このため、民間からの政府への批判が高まり、政府への国会開設の要求が、さらに高まった。政府は払い下げを中止した。 また、政府はこの世論に大隈重信が関係しているとして、大隈を罷免した。 また、政府は国会開設の勅諭(ちょくゆ)を出して、10年後の1890年に国会開設とすると約束した。(数え年での10年後なので、1881年の10年後が1890年になる。) しかし、1881年のときには、まだ、国会をひらくために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がなかった。国会の決まり事をきめた法律すら、まだ出来てないので、まだ民撰議院をひらくことも出来ない。 国会の開設の時期や憲法の方針をめぐって、政府では意見がわかれた。岩倉は、ドイツにならった憲法を時間をかけて作ろうとした。 板垣退助は1881年にフランス流の急進的な政策を主張する自由党を結成した。いっぽう、政府から追放されていた大隈重信は1882年に、イギリス流の政策を主張する立憲改進党(りっけん かいしんとう)を結成した。 このような理由もあり、政府は、すぐには民撰議院を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束した 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) を1881年にだしました。実際に、10年後の1890年に国会が開かれます。 1881年以前からも、民間人による私擬憲法案(しぎけんぽうあん)は、いろいろな人物により、さまざまな草案が出されていた。 1881年、いよいよ将来的に憲法制定が本格化しそうだと話題になると、1881年に福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)が「私擬憲法案」を出したのがきっかけに、他社や民間人も憲法案を出した。 植木枝盛(うえき えもり)による憲法草案は『東洋大日本国国憲按』(とうよう だいにっぽんこく こっけんあん)は、それより後。 植木の草案は有名だが、べつに、こいつが最初ではない。単に、植木の草案の『東洋大日本国国憲按』は内容が急進的だったので、有名なだけ。(「国憲按」は「こっけんあん」と読む。) 千葉卓三郎(ちば たくさぶろう)が書いたと思われる「五日市憲法」(いつかいち けんぽう)という私擬憲法案もある。「五日市憲法」は人権規定が詳細という特徴がある(※ そのため、歴史学的には、のちの日本国憲法との関係などの観点でも「五日市憲法」が注目されている)。 このほか、自由党系(つまり板垣退助系)の立志社の『日本憲法見込案』(~みこみあん)という私擬憲法案もある。 1882年に政府は、自由党の板垣退助にも欧米視察をさせようとして、政府は板垣の洋行を援助した。 だが、それを立憲改心党が問題視した。 改進党の批判によると、板垣は三井財閥から洋行を支援してもらっていたが、それは実は政府がひそかに三井を支援していたというのである。 いっぽう、批判された側の自由党も、改進党と三菱財閥との関係をあばいた。 いっぽう、増税などによる不満により、1882年には、福島で県令の三島通庸(みちつね)による道路建設工事に対する運動が起き、三島に反対をした河野広中ら自由党員が反乱をくわだてたとして逮捕された(福島事件)。ついで関東でも反乱が起きた。 1884年には、関東の秩父で、約3000人の農民による武装蜂起が起き、高利貸・警察・郡役所などを襲撃したので、政府は鎮圧のために軍隊を出動する結果になった(秩父事件)。そして秩父での農民反乱は鎮圧された。 こうした事件への不安から、自由党は支持を失っていき、やがて自由党は解散した。 いっぽう、立憲改進党では大隈重信が離党した。 このように、民権運動家の活動は停滞していった。 なお、1884年に朝鮮で、日本の明治維新にみならった改革を強行的に進めようとする金玉均ら(※ 範囲外: 「開化党」・「独立党などという」)一部の青年官僚によるクーデタ未遂事件(※ 範囲外: 『甲申政変』(こうしんせいへん)という)が起きたが、清国がクーデター鎮圧の援軍を挑戦に送ったのでクーデターは失敗したので(※ 範囲外:)金玉均は日本に亡命し、その金玉均を福沢諭吉らが支援した(※ 1882年『時事新報』、福沢諭吉『金玉均の全貌』[3])。板垣も金玉均を支援した。(なお、クーデターの直前、清国はベトナム領有をめぐってフランスと争った清仏戦争(初期)を1883年に終わらせており、清国はフランスに敗北している。) 甲申政変(こうしんせいへん)をうけてか、1885年、日本にいる自由党の大井憲太郎(おおい けんたろう)が朝鮮でクーデタ(保守政権を倒す)を起こそうとして朝鮮に渡ろうとしたが、未然に日本の大坂で検挙された(「大阪事件」)。 民権運動はいったん停滞したが、しかし、国会開設が近づくにつれ民権運動はもりあがり、1886年に民権派は再結集をしようとして、後藤象二郎が中心人物になり、大同団結(だいどうだんけつ)をとなえた。 翌1887年、井上馨(いのうえ かおる)外相の条約改正交渉が失敗すると、民権派は、地租軽減・ 言論と集会の自由 ・ 外交の挽回(対等条約の締結) をとなえる三大事件建白運動を展開した。 すると、政府は保安条例を発し、民権派を都内から追放した(正確には皇居から約12km(三里)よりも外に追放)。追放された民権運動家のなかには中江兆民(なかえ ちょうみん)や星享(ほし とおる)などが含まれ、合計で約570名が都内から追放された。 政府は1882年に軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)を出し、軍人勅諭では軍人は天皇に忠誠をちかうべきあるとし、また、政治に関与すべきではないとされた。 明治政府は、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らを、ヨーロッパの憲法を調べさせるためヨーロッパに送った。そして伊藤は、イギリスの法学者スペンサーやドイツの法学者グナイストから学び、またオーストリアの法学者シュタインから憲法学のほか軍事学・教育学・統計学・衛生学などなど様々な学問を学んだ。 スペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えた。 また、伊藤の帰国後の1884年に華族令が出され、華族の構成範囲が拡大し、華族には従来の公家や藩主に加え、さらに国家の功労者が華族になれるようになった。また、華族は侯爵・公爵・伯爵・子爵・男爵に5分類された。(華族はのちに貴族院の構成員になる。) (※ おそらく、将来的な二院制を見越しての改革だろう。) 1885年(明治18年)に、立憲制の開始にそなえて内閣制度がつくられ、伊藤は初代の内閣総理大臣に就任した。内閣制度の制定にともない、太政官制(だじょうかんせい)は廃止された。 地方制度については、ドイツ人顧問モッセの助言により、山県有朋が中心になって改正作業をすすめ、1888年に市制・町村制が、(憲法発布後の)1890年に府県制・郡制が公布され、政府の統制のもとであるが地方自治が制度的には確立した。 憲法の草案作成では、ドイツ人の法学者ロエスレルの助言のもと、憲法草案を、伊藤を中心に井上毅(こわし)・伊藤巳代治(みよじ)・金子堅太郎らによって憲法草案が作成された。 そして、この憲法草案が宮中にある枢密院(すうみついん)で天皇臨席のもとで議論され、1889年に大日本帝国憲法(明治憲法)として公布された。 帝国議員は、衆議院と華族院の二院制で構成された。 憲法の公布と同日に皇室典範と衆議院議員選挙法と貴族院令も制定された。 大日本帝国憲法(抜粋) 現在(21世紀)の日本と比べると、大日本帝国憲法は国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての憲法となった。当時の明治の日本としては、江戸時代から比べると、大日本帝国憲法は民主的に進歩した憲法だった。 そして、明治の日本は憲法を持ち憲法にもとづいた議会政治を行う、アジアでは初めての立憲国家(りっけんこっか)となった。 新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。 イギリスのある新聞では新憲法は高く評価され、「東洋の地で、周到な準備の末に議会制の憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と報じられた。 大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。 つまり、日本を統治するのは、藩閥ではなく、華族でもなく、天皇である、ということである。ただし天皇の独裁ではなく、議会の助言をもとに天皇が政治を行うとした。大日本帝国憲法では、予算や法案の成立には、議会の同意が必要だった。(表向きには天皇が日本を統治すると定められているが、じつは議会の承認がないと天皇は法律も予算も成立できないので、天皇だけでは国政を動かせず、じつは明治の日本の政治は表向きとは違い、天皇による親政ではなく)事実上の立憲君主制(りっけん くんしゅせい)である。 司法・立法・行政などの最終的な決定権は、天皇が持つ事になった。 外交や軍事の、最終的な決定権は天皇がにぎる事とされた。憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統率(とうそつ)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。 つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。 このように軍隊を統率する権限を 統帥権(とうすいけん) と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。 外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。 国民は、天皇の「臣民」(しんみん)とされた。 国民の権利は、法律の範囲内という条件つきで、言論の自由や結社・集会の自由、心境の自由などの権利が保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。 国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。 なお、右の図中にもある「枢密院」(すうみついん)とは、有力な政治家をあつめて、天皇の相談にこたえる機関である。 憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための総選挙が行われた。つづいて国会である帝国議会(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。(第1回帝国議会) 帝国議会の議院は対等の権限をもつ衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)とからなる二院制であった。 この1890年のときの選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。いっぽうの貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。 衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(年間15円以上。)が必要で、満25才以上の男子に選挙権が限られた。実際に選挙が出来たのは全人口の約1.1%ほど(約45万人)に過ぎなかった。 憲法発布の翌年の1890年には教育勅語(きょういく ちょくご)が出された。教育勅語では、「忠君愛国」(ちゅうくんあいこく)の道徳が示され、また、親孝行などを中心とする道徳も示された。 憲法の交付に続いて、刑法(けいほう)・民法(みんぽう)・商法(しょうほう)などの法律も整備する必要があった。公布されていった。 日本政府はフランス人の法学者ボアソナードをまねいて、1880年に刑法と治罪法(刑事訴訟法)を制定してもらった。 つづいて1889年までにボアソナードの協力のもと、民法・商法・民事訴訟法も制定された。そして1890年に民法も公布されるが、しかし日本の法学者から反対意見が出て(家族制度を破壊するものであると)論争となった(民法典論争)。 帝国大学(東京大学)の法学者の穂積八束(ほづみ やつか)は「民法いでて、忠孝ほろぶ」(民法出デテ、忠孝亡ブ)と題した論文を書き、ボアソナードの民法を批判した。 結果的に議会で民法は修正されて、家族制度について家長(父親)や男性の権限が強いものに変わった。(一夫一妻制が制度化されたことにより、女性の地位は安定し、江戸時代よりかは少しはマシになったものの、あいかわらず女性の地位は低かった。) 議会開会前の、憲法発布の翌日に黒田清隆(くろだ きよたか)首相は、政府は政党の意向に左右されてはならないという超然主義(ちょうぜん しゅぎ)の立場を表明していた。 しかし1890年の第1回帝国議会(第一議会)の衆議院総選挙では、立憲改進党や立憲自由党など民権派政党(民党)が大勝し、衆議院の過半数の議席を獲得した。(いっぽう、政府師事の派閥は「吏党」(りとう)と呼ばれた。) 第1回帝国議会が開かれると、山県有朋内閣は軍備の拡張を主張し、いっぽう民党は「政費削減」(意味: 行政費の削減)と「民力休養」(意味: 地租の軽減、地価の修正)を主張し、対立した。最終的に山県内閣は予算を成立させた。 つづく第2回議会では、松方正義内閣が、民党と対立し、衆議院を解散した。 つづく第2回総選挙では、内務大臣である品川弥二郎(しながわ やじろう)が選挙干渉をおこなったが、しかし選挙では民党が圧勝した。 そして松方内閣は選挙干渉の責任を問われて辞職したので、つぎは第2次伊藤博文内閣が成立した。 伊藤内閣では海軍予算について、民党と対立したが、最終的に予算を成立させた。 旧幕府が欧米と結んだ不平等条約の改正は、新政府の外交の重要課題のひとつであった。特に、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復が、重要課題であった。 1887年、井上馨(いのうえ かおる)外務卿(がいむきょう)は、列国と外国人を居留地でなく内地雑居(内地の開放)を認める条件と、外国人を被告とする裁判では判事を半数以上は外国人判事とするという条件のもと、領事裁判権を廃止するという案で、合意した。 しかし政府内では、外国人判事の義務化は、日本の主権の侵害であるとして、政府内での反対意見が強かった。また、井上が改正交渉を有利にしようとして進めた欧化政策が民権派などから批判された。結局、列国との改正交渉は中止になり、井上馨は外相を辞任した。 なお、東京日比谷に鹿鳴館(ろくめいかん)が、欧化政策のために建設されており、そこでは西欧風の舞踏会がよく開かれた。 ついで外相となった大隈重信(おおくま しげのぶ)は、条約改正に好意的な国から個別に交渉を始めていた。そして、アメリカ・ロシア・ドイツとの改正調印にした。しかし、大審院の裁判官にかぎり外国人判事を任用するという条件つきであるという事が外部にもれると、政府内外に強い反対運動が起きた。 そして大隈重信は、対外硬派団体の玄洋社(げんようしゃ)の青年に爆弾で襲われるというテロ事件で負傷したが、しかし大隈重信は一命を取りとめた。そして改正交渉は中止になった。 条約改正に消極的だったイギリスは、ロシアが南下政策をすすめようとシベリア鉄道の建設を始めると、イギリスはロシアの南下政策を警戒し、日本との条約改正の交渉に好意的になった。 そして大隈のあとの青木周蔵(あおき しゅうぞう)外相が条約改正をめざして交渉に入ったが、1891年の大津事件で外相を辞任した。 その後、第2次伊藤内閣の陸奥宗光(むつ むねみつ)外相は、青木周蔵をイギリスに派遣して交渉させ、日清戦争直前の1894年に、領事裁判権の撤廃および関税の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇の内容である日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく)が結ばれた。(まだ日本の関税自主権は取り戻せていない。関税は引き上がったほうが日本経済に有利なので、イギリスが日本に譲歩してくれた。) ついで、他の欧米諸国とも同様の改正条約を調印し、1899年から施行された。 関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年に小村寿太郎(こむら じゅたろう)外相による条約改正で実現した。こうして日本は、条約の上では欧米列国と対等な国家になった。
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日清戦争は1895年に終わる。 (中学校で説明したので、説明を省略。) なお、当時の清国の艦隊のことを「北洋艦隊」(ほくよう かんたい)と言う。(高校の検定教科書にも書いてあるよ。) (日露戦争のときのロシアのバルチック艦隊の名前は小中の検定教科書に書いてあるのに、北洋艦隊は高校でしか習わない。) 戦争前の金玉均の例のクーデター未遂も、高校の検定教科書にも書いてある。 中国が周辺諸国を支配する体制のことを「冊封」(さくほう)と言うのだが、日清戦争による日本の勝利により、朝鮮が冊封から脱することになったというのが、検定教科書の解釈である[1]、のだろうと考えられている。(※ 参考文献『ここまで変わった日本史教科書』の著者たちが文科省の教科書調査官) 日本の議会では、日清戦争後、政党の力が強くなった。 1898年の伊藤内閣(第3次)のころ、民権派の大隈重信(おおくま しげのぶ)と板垣退助(いたがき たいすけ)が憲政党(けんせいとう)を結成し、その結果、伊藤内閣は退陣し、同1898年に大隈重信を首相とする日本で最初の政党内閣が生まれた( 「隈板内閣」(わいはんないかく)という)。 しかし、尾崎行雄(おざきゆきお)の共和事件によって憲政党内の対立は深刻化し、党は分裂して「憲政党」(旧・自由党系)と憲政本党(旧・進歩党系)に分裂する。 こうして隈板内閣はわずか4ヵ月あまりで退陣し、1898年11月から(第二次)山県有朋(やまがた ありとも)内閣になる。山県内閣は憲政党の支持をあつめ、地租増税を成立させた。 つづいて山県内閣は1899年に政党勢力が官僚に入り込めないように文官任用令(にんようれい)を制定した。 また1900年に山県有朋は、政党の影響が軍部や官僚に及ぶのをおそれ、軍部大臣現役武官制を制定した。 さらに同1900年、治安警察法を制定し、労働運動などを取り締まった。 このような山県の政党への制限に、憲政党は不満をもった。なので憲政党は、山県と対立する伊藤博文(いとう ひろぶみ)に接近していった。 そして山県内閣が終わり、1900年には伊藤博文(いとう ひろぶみ)が、伊藤みずからを総裁(そうさい)とする立憲政友会(りっけん せいゆうかい)の結成が9月に予定されていたので、憲政党はこれに合流し、そして立憲政友会が予定どおりに9月に結成され、1900年10月から立憲政友会による第四次伊藤内閣になった。 ※ 憲政党と立憲政友会は対立していない。議会で対立したのは、山県系の勢力と、政党系の勢力である。 つまり順序は、 である。 なお、伊藤内閣は貴族院の反対によって退陣させられ、1901年に政権が桂太郎(かつら たろう)内閣に変わる。桂は、山県系の人物だと考えられている。 ※ 政党名がたくさん出てくるが、まず覚えるべき政党は、「憲政党」「立憲政友会」の二つであり、覚えるべき人物については憲政党の大隈重信と板垣退助、および立憲政友会の伊藤博文である。他の政党を覚えるよりも、それなら「山県有朋」をさらに覚えたほうが、政争の背景が分かりやすくなるだろう。 三国干渉で日本に譲歩をせまったヨーロッパ国は、ドイツ・フランス・ロシアの3か国である(中学でも、そうならっている)。 三国干渉の当時、ロシアとフランスは同盟(露仏同盟)を結んでいる。(なので、あとはドイツさえ覚えればいい。) ※s世界史Bでは『高等学校世界史B/欧米列強の内部情勢』などで露仏同盟を習う。 ただし、日清戦争の時点では、フランスは清国と数年前にベトナムの領有権をめぐり戦争(清仏戦争:1883年8月・1885年)をしている。(※ 清仏戦争については高等学校世界史B/東南アジアの植民地化) このため、三国干渉でのフランスの意図はおそらくだが、清国の味方をする意図ではなく、(日本の同盟国である)イギリスの活躍を嫌ったものだろう。 また、露仏同盟によってロシアが先進国フランスの金融市場から巨額の資金を調達できるようになった事もあり、シベリア鉄道の建設が1891年から本格的に開始する[2]。 1898年、アメリカはハワイを併合した。 (同年、アメリカはスペインをやぶってフィリピンを植民地化。) アメリカは中国進出におくれ、中国に植民地をもっていなかった。いっぽう、アメリカ以外の列強が、中国で独占的な経済範囲を設定していった(事実上の植民地の拡大)。のような動きを中国分割という。 しかし、中国領内に権益をもたないアメリカにとっては、列強の中国分割は旨み(うまみ)がない。 1899年、アメリカ国務長官ジョン=ヘイが、中国分割に反対して、門戸開放宣言を出した。(くわしくは世界史B『高等学校世界史B/1900年前後のアジア情勢』で) (中国分割) このように、アメリカが中国に進出しようとしてきた。 ?読者のきみたちは、小学校で、日露戦争の講和条約はポーツマス条約って習ったよね? ポーツマス条約のとき、小村寿太郎が交渉した相手のロシア全権はウィッテ(人名)である。(※ 範囲外: ロシアの政治の実権を握っていただろう人物が、このウィッテだろうと思われている。また、シベリア鉄道の建設を推進した人物も、このウィッテである[3]。) 日露戦争は1904年に始まり、1905年に終わる。 ほかの知識として、日露戦争の戦費の多くが外債で調達されたことが検定教科書でよく紹介されている。(ロシアを除く)欧米の銀行[4]から、日露戦争の戦費を日本は調達した。 ※ 中学校社会科の歴史分野では「債権」や「債務」をまだ習っておらず(中3の公民で習う。実は中学の国語でも二字熟語として少し習う)、そのため「外債」も中学では扱わないので、高校でないと日露戦争の「外債」は紹介が難しいだろう。 日露戦争中、日本は韓国に日韓協約を強制的に結ばせ、日本は韓国内での軍事行動の自由を得た。 日露戦争終戦時の1905年、日本はアメリカとの間で非公式に桂・タフト協定(かつら タフト きょうてい)を結んだ。桂タフト協定の内容は、日本がアメリカのフィリピン統治を承認し、アメリカは日本の朝鮮支配を承認するという また、イギリスとも日英同盟が更新され(第2次日英同盟)、日本はイギリスのインド支配を承認し、イギリスは日本の朝鮮支配を承認することとなった。 これを背景に、同時期に日本は第2次日韓協約をむすんで韓国の外交権をうばい、統監府(とうかんふ)を置いて伊藤博文が初代の統監になった。 これに対し韓国は、1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り、日本の韓国支配について抗議したが、しかし、列強は無視した(ハーグ密使事件)。 日本はこの密使事件を理由にして韓国皇帝高宗を退位させ、第3次日韓協約をむすんで韓国の内政権をうばい、さらに韓国軍を解散させた。 関東都督府 満州では1906年、日本単独で南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。この鉄道は、ロシアから譲り受けた鉄道を母体にしたものである。 当初、この鉄道会社は、日本とアメリカの資本家ハリマンとで共同経営する予定だったが(桂ハリマン協定)、小村寿太郎の反対により、日本単独で満鉄が設立された。 (※ 一説には、かわりにアメリカの大財閥であるモルガン財閥からの融資を満鉄は受けたという説もあるが、しかし真偽はハッキリしない。)
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第1次桂内閣は、1905年に退陣し、立憲政友会の総裁である西園寺公望(さいおんじ きんもち)に政権をゆずった。 そして1906年に西園寺内閣(第1次)が組織された。西園寺内閣は、日本国内の鉄道建設を大いに行った。 1906年以降から1913年まで、西園寺と桂が数年おきに交互に政権を交代する結果になったので、最初の桂内閣の1901年から1913年までの期間のことを桂園時代(けいえんじだい)という。 いっぽう、伊藤博文や山県有朋たちは第一線をしりぞき、元老(げんろう)と言われるようになり、元老は背後から国政に影響を与えた。 さて、第1次西園寺内閣は1907年、恐慌が起き、翌1908年の選挙では勝利したが責任を感じて、桂太郎に政権をゆずった。 そして1908年に桂内閣になり、(財政の建て直しのためだろうか)国民に質素倹約や勤労をとく戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布(はっぷ)して、地方改良運動を推進した。 また桂内閣は、1910年に大逆事件(たいぎゃく じけん)が起きると、社会主義者を弾圧した。 いっぽう、翌1911年に桂内閣は、労働環境の改善をさだめた工場法を制定するなど、多少の配慮も見せた。(しかし工場法の公布は5年後である。) そして桂内閣は韓国併合を強行したのち、1911年にふたたび西園寺に内閣をゆずった。 そして1911年、西園寺内閣がふたたび組閣された。 辛亥革命(しんがい かくめい)などへの対策を理由に、日本では陸軍が二個師団の増設を要求して併合後の韓国に置こうとしたが、西園寺内閣は財政難を理由(日露戦争の費用を外債などで賄っていたため)に、陸軍の要求を拒否した。いっぽう、西園寺内閣は海軍の建艦を優先した。 すると、陸軍大臣の上原勇作(うえはら ゆうさく)が辞表を天皇に提出し、陸軍が後任の人員を出さなかったので、軍部大臣現役武官制により西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。 西園寺退陣後の後任の首相には、陸軍出身で長州閥であり内大臣兼侍従長であった桂太郎(かつら たろう)がついた(第3次桂内閣)。しかし世論は、西園寺内閣の退陣が桂によるものと見て、桂を批判し、また宮中にいた(侍従長)人物が政府の要職につくことは政府と宮中の境界を乱すものだとして、(世論は桂を)批判した。 そして、「閥族打破・憲政擁護」(ばつぞくだは、けんせいようご)というスローガンの倒閣運動が起こり、批判勢力の政界の中心人物は野党勢力の立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)や立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)であった。 この批判運動に新聞記者・雑誌などのマスコミに、弁護士、商工業者や民衆などが加わり、全国的な倒閣運動になった(第一次護憲運動、だいいちじ ごけん うんどう)。 結果的に、桂内閣は在職50日あまりで退陣するはめになり、1913年2月に桂内閣は倒れた(大正政変、たいしょうせいへん)。 この出来事の前、民衆が議会を取り込んで、政府系の新聞社や交番などを襲撃する事件が起きた。 なお桂は護憲運動のさなかの政権時に、桂は新党を結成しようとしており、のちの加藤高明が総裁の立憲同志会の母体になる。 大正政変後、桂のあとの内閣には、薩摩出身の海軍大将の山本権兵衛(やまもと ごんべえ)が政友会を与党として内閣を組閣した。 山本内閣は行財政改革を行い、 軍部大臣現役武官制をゆるめる改正をして、現役規定を削除し、予備役・後備役の軍人でも陸海軍大臣につけるように陸海軍大臣の資格を拡大する改革をした。 また、文官任用令(ぶんかんぶんようれい)を再改正して、政党員でも高級官僚につけるようにした。 (軍部大臣現役武官制は、過去に西園寺内閣の辞職の原因になったので、山本内閣の時点で、すでにこの制度に問題点があること自体は気づかれていた。) しかしドイツのやイギリスのなど外国からの軍艦の購入にからむ、日本の海軍高官がからむ汚職事件のジーメンス事件(シーメンス事件)が1914年に起きた。このジーメンス事件により、山本内閣は国民から批判され、退陣に追い込まれた。 なお、そもそも軍部大臣現役武官制を最初に明確化したのは山県有朋(やまがた ありとも)の内閣であり、山県が軍部大臣現役武官制を制定した年は1900年のできごとである。そして、文官任用令をさだめて政党人が官僚になるのを制限した人物も、山県有朋であり、1899年のできごとである。つまり、山本権兵衛は、山県の政策を修正したのである。山県有朋は、陸軍出身である。さらに、治安警察法をつくって政治運動や労働運動を制限した人物も、1900年ごろの山県有朋である。 のちの昭和の日中戦争の前の時代ころに、治安警察法が治安維持法に発展して、日本の言論活動を統制することになる。この治安警察法・治安維持法による統制が、戦前・戦中の昭和前半の当時の日本が「ファシズム」「軍国主義」などと言われる状態になった原因の一つと考えられる。日中戦争の直接的な原因は、おそらく満州事変とそれ以降の対中強行路線であろうが、その遠因には、このようなこともある。 また、同じく日中戦争前の昭和前半の時代ころに、軍部大臣現役武官制のせいで、軍部の強行路線が政府に影響力を持つようになった。(広田弘毅内閣が組閣したあたりから)そして、戦前昭和の政党が軍部の意向に従わないといけなくなった結果、議会では、日中戦争と太平洋戦争へと向かう日本政府の強行路線を止める議会勢力が機能しなくなった。もちろん、議会の機能低下のより直接的な原因には、満州事変のときに政府が、軍部に同情的な世論に応じてしまい、政府が事件関係者を処罰できなかったため、そののち軍部の暴走を許すような雰囲気を政治や民意につくってしまったという、議会の不手際ももあるだろう。しかし、そのような軍部の暴走の後押しをしかねないような軍部大臣現役武官制という制度が、そもそも存在していたのである。 そして日中戦争が拡大していき、アメリカの貿易封鎖などの圧力に日本が反発して日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日中戦争から太平洋戦争へと拡大する。同時期の前後にヨーロッパで起きたドイツと周辺国との戦争とあわせて、第二次世界大戦へと組み込まれることになる。そして、その第二次世界大戦に日本は敗戦して、日本は憲法を改正することになり、日本国憲法が制定されることになる。そして、その日本国絹憲法の内閣の関する事項では軍部大臣現役武官制が否定され、また言論の自由や政治結社の自由、信教の自由などが制定されることになる。 官僚機構の一種として軍部を解釈してみよう。選抜方法などは軍部と一般の省庁とでは違うが、とりあえず、「軍部 = 官僚機構の一種」として、軍事をあつかう官僚機構の一種として、軍部をとらえてみる。 以下の考察は、仮説であり、学生は暗記する必要は無いし、鵜呑み(うのみ)にしてはならない。(ただし、政治学者の丸山眞男(まるやま まさお)の学説などに基づいている。丸山眞男は、戦後昭和の日本の代表的な政治学者である。) さて、明治・大正に現役武官制や文官任用令などを導入した意図は、おそらく、三権分立のように、権力を立法府だけでなく行政にも分散するのと同様に、軍部にも権力を与えようとしたのだろう。こうして行政権や軍部の権限を強めて、政党の影響力をうすめることで、政党の暴走をふせごうとしたのだろうと、一部の評論家などには考えられている。(※ 「評論家」とは、誰によって? 要出典. ←BSフジのプライムニュースで見ました。あと、小室直樹とか宮台シンジが似たような事を昔から言ってます。元ネタは丸山眞男です。) もっとも、明治憲法(大日本国帝国憲法)では、天皇に軍の統帥権(とうすいけん)があるので、もし議会と軍が対立したら、いざとなったら天皇に判断してもらおうとでも、もしかしたら明治時代の当時の政治家は考えたのかもしれない。(※ 要出典.) だから、軍部大臣が口をだせるのは軍事だけに限定させよう、という意図で、軍部大臣だけは現役武官でなければならない、と明治大正期には限定していただけだろう。 ところが結果的には、昭和10年代の時代のように、内閣の組閣そのものに軍部の賛同が絶対に必要な制度となってしまい、そのため結果的に軍部以外の省庁すらも軍部の意向に従わざるをえなくなってしまった。こうして、権力の分散どころか、権力が、軍部と議会とに二分化されるという結果になってしまった。そして、政治家には選挙があるので身分が不安定であるが、しかし軍部には選挙がないので、実質的には権力の二分化どころか、軍部への権力集中となってしまった。 現役武官制のこのような欠陥のため、軍部の暴走をふせぐような手段が弱まってしまった。 日本軍暴走の原因の考察の細部は諸説あるが、ともかく戦前の日本軍の暴走の原因としては、(けっしてヒトラー的な独裁者によるものではなく、)官僚主義の弊害・形骸化によるものである、とするとみたほうが妥当であろうとする仮説があり、丸山眞男(まるやま まさお)はこのような日本軍の現象を「無責任の体系」と称した[1]。 教訓としては、内閣の組閣の権限は、国政選挙で選ばれた国会議員の代表者である内閣総理大臣だけが組閣できるという、内閣総理大臣の専権事項でなければならない、ということだ。そして、その目的を達するためには、内閣の組閣には、けっして官僚機構や軍部や司法など他機関の承認・許認可などを必要としてはならない、ということだ。 「政治を、みんなで話し合って決めよう」というのは、一見すると、平和的に聞こえるかもしれない。だがしかし内閣の組閣に関するかぎり、「内閣以外のみんなとも話し合って、決めなければならない」というのは、国政選挙で選ばれた議員の権力を侵害することであり、よって「内閣以外のみんなとも話し合って、決めなければならない」は悪事なのである。 明治大正期の「軍事政策については、軍部とも話し合って、なかよく決めよう」として軍部大臣現役武官制を導入したのが、そもそもの失敗のキッカケであった。 聖徳太子のような「和をもって とうとし となす」という考えは、内閣の組閣に関しては悪事なのである。 政策の最終的な決定権は、立法府および立法府だけが選抜できる内閣総理大臣に、なければならない。そして、軍部大臣現役武官制は、軍部が内閣のもつべき人事権(じんじけん)を侵害してしまったため、結果的に、軍部が政策の決定権を侵害してしまったことが、欠陥なのである。 なにも内閣の人事にかぎらず、一般の組織運営では、役職を決める人事権は、これほどまでに、とても大切な権利なのである。たとえば現代の株式会社では、代表取締役をきめる人事権は、株主がもつ。このため、大株主や筆頭株主(ひっとう かぶぬし)が、その会社の実質的な支配者となっている。 こんにちの日本国憲法では、立法・行政・司法の三権のなかでも、立法だけが残りの2権よりも、やや強いのであるが(※ 高校『政治経済』科目で、このことを習うので、覚えておこう)、そのことには理由があり、おそらくは、過去の軍部大臣現役武官制のような失敗を繰り返さないとするための工夫であろう。また、内閣の中でも、他の国務大臣よりも内閣総理大臣の権限が明確に強いのも、軍部大臣現役武官制のような失敗をふせぐためであろう。(※ 中学「公民」および高校「政治経済」で習う) また、その内閣総理大臣そのものが、もし官僚や軍部などの選挙で選ばれない人物であっては、意味がないから、現在の日本国憲法では「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。」(67条)と規定している。 政党は選挙で多数決で選ばれるわけであるが、官僚や軍部は多数決で選ばれない。 この節で見たように、大正時代にも山本権兵衛内閣のように、軍部大臣現役武官制を修正しようという動きがあったのである。しかし、それだけでは、結果的には、のちの軍部の暴走を解決できなかった。 そして元老は、民衆のあいだで人気の高い大隈重信(おおくま しげのぶ)を、山本権兵衛の後継の首相に任命した(第2次大隈内閣)。第2次大隈内閣は立憲同志会を与党として出発した。 そしてこの第2次大隈内閣の時代に、第一次世界大戦が1914年に勃発する。第二次大隈内閣は日英同盟を理由にイギリス側の陣営として、外相加藤高明(かとう たかあき)の主導により第一次世界大戦に参戦した。 また、大隈内閣は1915年の総選挙で勝利し、与党の立憲同志会を勝利に導き、懸案の2個師団増設を実現した。 第二次大隈内閣のときに、日英同盟を理由に、第一次世界大戦に参戦した。参戦当時の日本の外相は加藤高明(かとう たかあき)である。 そして日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの勢力範囲として中国にもっていた山東省の青島(チンタオ)を占領し、またドイツ領だった南洋諸島を占領した。 日本は対中外交では、加藤外相ひきいる日本政府は1915年1月、中国の袁世凱政権に二十一カ条の要求をした(※ 中学校でも二十一か条の要求の存在については習っている)。二十一カ条の要求で日本は中国に要求として、 からなる第1号〜第4号と、 要求した。 アメリカが第5条に抗議を行い、第5条は削除されたが、日本は5月に最後通牒を中国につきつけ、袁世凱政権に要求の大部分を承諾させた。 この21カ条の要求に対して、中国国内では反発が高まり、中国政府が要求を受けいれた5月9日は「国恥記念日」(こくち きねんび)として記憶された。 大隈内閣のあとは寺内内閣である。1916年、陸軍出身の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣は外交政策を一変し、中国のホップポウ軍閥の段祺瑞(だんきずい)政権を支援し、巨額の対中借款を行って(西原借款、にしはら しゃっかん)権益を確保した。(なお、この西原借款は、のちに焦げついた。) 1917年、中国進出をねらっていたアメリカは、おなじく中国進出をねらっていた日本と利害調整をするため、寺内内閣の特派大使 石井菊次郎(いしい きくじろう)と国務長官ランシングとのあいだで、石井・ランシング協定(いしいランシングきょうてい)が結ばれた。この協定により、日本が中国にもつ特殊権益の大部分は、アメリカに認められた。また、アメリカの主張する、中国の領土保全や門戸開放の原則が決められた。 (※ 『高等学校世界史B/第一次世界大戦』) ロシアでは第一次世界大戦中の1917年に、革命が起きた(ロシア革命)。1917年3月にはロシアのロマノフ王朝が倒され、ロシアの帝政は滅んだ。そして11月にはレーニンひきいるボリシェビキが政権を取って(11月革命)、ソヴィエト政権が誕生した。こうして、ロシアで世界で初めての社会主義国家が生まれた。 ソヴィエト政権は翌1918年、ドイツ・オーストリアと単独講和し(ブレスト=リトフスク条約)、第一次世界大戦から離脱した。 このため、英仏などの連合国にとっては東部戦線が崩壊し、革命への武力干渉を行った。シベリアにいたチェコスロバキア軍の救出を名目に、連合軍は革命に武力干渉した(シベリア出兵)。日本の寺内内閣も1918年(大正7年)8月、シベリアに出兵した。 大戦終了後の1920年には連合国の欧米はシベリアから撤退したが、日本は1922年まで駐兵して欧米からの不信感を高めた。 在華紡(ざいかぼう) シベリア出兵にともない、1918年、日本では米の買占めによる米価の高騰が起き(米騒動)、社会が混乱し、各地で暴動が起きて警官隊と衝突したため、政府は軍隊を出動させて鎮圧する事態になった。この騒動のため、当時の寺内内閣は辞職し、代わって同1918年に衆議院第一党の立憲政友会 総裁の原敬(はら たかし)内閣が組閣された。 原が首相に選ばれた理由は、元老からの推薦によるものである。 原内閣は、最初の本格的な政党内閣であり、軍部大臣と外務大臣以外はすべて政友会党員であった。 原首相は華族でもなく藩閥でもなかったので「平民宰相」(へいみんさいしょう)と呼ばれ、大衆からの人気が高かった。 原内閣は、教育の充実に力を入れ、高等教育(※ 現代で「高等教育」とは大学教育のこと)の充実を行った。早稲田大学や中央大学などの私立大学は、この頃に正式な大学として認可された。また、旧制高校の数を増やしていった。 当時、男性普通選挙を求める運動が広がっていたが、原首相は時期尚早(しょうそう)と考えて普通選挙は導入しなかったが、代わりに選挙資格に必要な納税額を引下げ、選挙資格に必要な納税額は「3円以上」になり、また小選挙区制を導入した。 また、艦隊の増強や、鉄道の建設、などの積極財政を行った。 しかし1921年、原は東京で一青年によって暗殺された。 原の死後、原内閣の大蔵大臣であった高橋是清が首相となって高橋是清内閣が成立したが、国民からの人気は出ず、短期政権となり、高橋内閣は倒れ、かわって、つぎの加藤友三郎(かとう ともざぶろう)内閣ではシベリア撤兵が実現し、つぎの第二次山本権兵衛内閣の時代に関東大震災のあとに起きた虎の門事件(とらのもん じけん)で政権が倒れ、つぎの清浦奎吾(きようら けいご)内閣となった。 加藤・山本・清浦の3人とも、非政党人である。 このような非政党の活躍に政党は反発したので、1924年、憲政会・政友会・革新倶楽部(かくしんクラブ)の3政党が護憲三派(ごけんさんぱ)を結成し、第二次護憲運動を展開した。 そして同年の総選挙で護憲三派が圧勝したので、清浦内閣は総辞職した。 清浦内閣が倒れ、つぎの内閣は、護憲三派の3党の連立内閣となり、第一党となった憲政会の総裁 加藤高明が首相になり、政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅(いぬかい つよし)をくわえた護憲三派内閣が誕生した。 これ以降、1932年に五・一五事件で犬養毅内閣が倒れるまで、政党の総裁が首相をつとめる事が慣例になり、その慣例が「憲政の常道」と呼ばれるようになった。 さて、1925年の加藤内閣では、いわゆる普通選挙法が実現し、25歳以上の男子に選挙権(衆議院)が認められた。(現代の「普通選挙」とは違い、女性選挙権は無い。) これにより、有権者の数は、従来の約300万人から増加し、有権者は1200万人ほどになった。 しかし、1925年の加藤内閣で治安維持法が成立した。(つまり、実質的に普通選挙法と治安維持法との抱き合わせ。交換条件。) 治安維持法の当初の目的と内容は、共産主義者の取り締まりであった。その理由は、日ソ国交樹立の年が同1925年であったので、日本はロシア革命の波及をおそれたからであった。 第一次大戦中において日本が中国「進出」を行ったり、ソヴィエト連邦がロシア革命の結果世界で最初の社会主義政権を作り上げたり、中国で民族運動が活発化していくなか、東アジアにおけるこのような情勢に対応する必要が生まれた。そこでアメリカはワシントン会議を開催した。アメリカの主な目的は、建艦競争を終わらせて財政負担を終わらせること、日本をけん制することにあった。欧米列強の主な目的は、(列強の中国権益を保持するため)、戦争再発の防止と、列強間の協調を通じてアジア・太平洋地域の「平和的な」国際秩序を形成することにあった。 締結された条約とその内容 1923年、関東地方の東京を中心にマグニチュード7.9の大地震が起き、地震のあと大火災も生じて、東京が壊滅した(関東大震災)。 全焼家屋20万戸、死者・行方不明者が10万人にのぼる、大災害となった。 このような中、人々はパニックになり、デマが飛びかい、朝鮮人が井戸に毒を入れたとかで、多くの朝鮮人(やそれに間違われた日本人・中国人)などが反乱を疑われて、自警団を組織した民衆や警官などの手によって殺害された。 殺害された人数について定説は存在せず、人数は定まっていない。司法省の発表によれば、230名あまりの朝鮮人が殺害されたという。その他の説についても、数百人〜数千人まで様々である。 また、無政府主義者大杉栄(おおすぎ さかえ)が、憲兵大尉 甘粕正彦(あまかす まさひこ)によって殺害される事件が起きた(甘粕事件)。 また、警官によって警察署(東京・亀戸(かめいど)署)で労働運動の指導者10名が殺害された(亀戸事件)。(※ 検定教科書では、地域差別の防止のためか、亀戸の地名を隠す教科書も多い。) 朝鮮人の容疑がデマだと分かると、政府は朝鮮人の保護のため、朝鮮人を日本国内で移送して隔離した。(参考文献: 東京書籍の教科書) (無政府主義者が甘粕事件に憤ってか、)年末には無政府主義者の青年の難波大介(なんば だいすけ)が、摂政をつとめていた裕仁親王(ひろひと(のちの昭和天皇))を狙撃する 虎の門事件(とらのもん じけん) が起きた。(のちに難波は大逆罪により死刑となり、処刑された。) 山本権兵衛内閣は、これらの事件の責任をとる形となり、年末に総辞職した。つづいて、清浦奎吾(きようら けいご)内閣が成立した。 社会的に差別されている女性の解放をうたう婦人運動もさかんになり、平塚らいてう(らいちょう) によって、文学団体の青踏社(せいとうしゃ)が結成され、文学活動と同時に女性の地位向上をめざす運動をした。 つづいて、平塚らいてうは市川房江(いちかわ ふさえ)と協力して、1920年に新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。 これらの婦人運動によって、それまで女性の政治集会を禁止していた治安警察法第5条が1922年に改正され、女性も政治集会を行えるようになった。 未記述 この頃にデパートが都心に出現していた。 東京都心では、企業のキャッチフレーズか何かで「今日は三越(みつこし)、あすは帝劇(ていげき)」などと言われた。(三越(みつこし)とは、三越デパートのこと。帝劇とは、演劇などを公演していた帝国劇場のこと。) 関西地方でも、阪急電鉄(はんきゅう でんてつ)のターミナルの梅田(うめだ)に阪急デパートが登場していた。(なお、阪急電鉄が経営する劇場・劇団は宝塚(たからづか)歌劇団。) 洋服は日本ではもともと男性向けの衣服として普及したのが先だが、大正のころになると、女性むけを含むオシャレ用の衣服にもなり、洋服を着ている男女はそれぞれ「モボ」(モダンボーイ、男)、「モガ」(モダンガール、女)と言われた。 また、一部の女学校の制服に、大正末期ごろから、セーラー服が採用された。(※ もっとも、これはオシャレというよりも、水兵の衣装を学校の制服として採用したのである。)しかし、この時代の多くの女性の衣装の普段着は、和装であった。 この頃、新聞や雑誌の発行部数が急激に伸びた。『東京朝日新聞』や『大阪毎日新聞』の(年間)発行部数は100万部を越えた。 また、雑誌の創刊も盛んになり、週刊誌『週刊朝日』や週刊誌『サンデー毎日』もこの頃に創刊された。 新聞には小説が連載されており(現代でいう「新聞小説」)、中里介山(なかざと かいざん)・直木三十五(なおき さんじゅうご)・吉川英治(よしかわ えいじ)などの大衆文学作家が確立した。 また、総合雑誌『中央公論』『改造』なども創刊された。 大衆雑誌『キング』もこの時代に講談社によって創刊され、100万部以上の大人気になった。 その他、『現代文学全集』などの1冊1円の円本(えんぽん)といわれた低価格本も流行した。同じ頃、岩波文庫(いわなみ ぶんこ)も登場した。 ラジオ放送も1925年に始まり、新聞・雑誌ともにメディアの中心となった。 この頃、高校野球や大学野球が人気になった。1924年に阪神甲子園(こうしえん)球場ができると、高校野球大会がここで開かれるようになった。 映画は、大正時代の映画は、音声なしの無声映画で弁士(べんし)をともなう方式だったが、昭和初期に有声映画(トーキー)がでてきた。 理科系の分野では、本田光太郎のKS磁石鋼、野口英世の医学研究、などの優れた発見があった。
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第一次大戦中、日本は一時期、好景気になり(大戦景気)、生産量が増えた。 しかし1919年に第一次世界大戦が終わり、しだいにヨーロッパ経済が回復すると、日本は生産過剰になり、日本は不況におちいり、1920年に日本の株式市場が暴落したことをきっかけに多くの日本企業が倒産した(戦後恐慌)。 そのうえ、1923年に関東大震災がおきた。 この被害により、多くの企業は、振り出した手形の決済ができなくなったので(震災手形)、政府は日本銀行に約4億3000万円の特別融資をして、事態をしのごうとした。 1926年に若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内閣が成立した。 しかし1927年、議会にて震災手形を処理する審議で、経営難におちいっている銀行名が出されたことから、取り付け騒ぎ(預金の引き出しが あいついで、銀行が資金難におちいる事)が起こり、金融恐慌が始まった。 さらに、大戦景気で急成長した鈴木商店が破産したため、鈴木商店に巨額の融資をしていた台湾銀行が巨額の不良債権をかかえた。こうして、金融恐慌が深刻化したため、若槻内閣は辞職に追い込まれた。 ついで、立憲政友会の田中義一(たなか ぎいち)内閣が成立し、田中内閣は三週間の支払い猶予(モラトリアム)を発して、恐慌をひとまず落ちつかせた。 (なお、田中内閣は、共産主義運動をとりしまり(三・一五事件 および 四・一六事件)、また特別高等警察(特高警察)を設置した。) このような一連の恐慌により、預金が大銀行に集中したたため、三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行による金融支配が強まった。 中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」などというようなことを主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた 満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。 満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。 いっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。蒋介石は、アメリカ・イギリスとの外交を重視した。 蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。 田中首相は、満州における日本の権益を守るため、満州軍閥の張作霖を支援し、また、満州の居留民の保護という名目で3度にわたる出兵をした(山東出兵)。 第2次出兵の際には、日本軍が北伐軍と武力衝突した(済南事件(さいなんじけん) )。 日本の関東軍(かんとうぐん)は、張作霖が反日的な態度をとるようになってきたので、関東軍は張作霖を殺害しようと企てる。 蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は関東軍の陰謀により爆殺される。現代では、この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。しかし、当時は真相は国民には知らされず、関係者のあいだで「満州某重大事件」(まんしゅう ぼう じゅうだいじけん)と呼ばれた。 田中首相ひきいる日本政府は、犯人の軍人たちを、きびしく処罰できなかった。首謀者とみられる参謀 河本大作(こうもと だいさく) など一部の関係者を処罰しただけだった。 この事件で、田中首相は天皇に叱責され、1929年に田中内閣は総辞職した。辞職した田中内閣にひきつづいて、立憲民政党の浜口内閣が組閣された。 いっぽう中国では、関東軍の陰謀は裏目に出る。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。 1929年、浜口内閣は、大蔵大臣に井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)を起用し、物価を安定させるため、緊縮財政を行った。 また、大戦後に欧米が金本位制に復帰したのにならい、浜口内閣は生前、1930年に、国際競争力をつける目的で、金輸出解禁を行った。(日本は1917年から金の輸出を禁止していた。) (金輸出の禁止状態は実質的に変動相場制であったので、「金解禁をすれば為替相場が安定するだろう」という意図もあった、とも考えられている。) しかし1929年にアメリカ国ニューヨークでの株価暴落による世界恐慌が起きていて世界経済が急変していたため、日本が値付けた円と金の交換比率の価値が実態にあっておらず、金解禁のあとの円はかなりの円高になっていたこともあり、世界恐慌そのものによる不況に加えて円高による輸出不況の二つの不況を日本は受けてしまい、日本は深刻な不況におちいった(昭和恐慌)。 このような不況の影響を農民は強く受け、米価は下落した。 もともと植民地産の安価な米が輸入されていて米価をはじめ各種の農産物価格が低かったことに加えて、昭和恐慌によって、さらに農産物の価格は下落した。 さらに、アメリカが生糸の輸入を減らしたため、繭(まゆ)価は下落した。 (米価は下がったが、どうも食糧事情などが改善したわけではないようで)1930年は豊作だったが「豊作貧乏」と呼ばれ、翌1931年に東北・北海道で凶作になると、東北を中心に欠食児童や女子の身売りが続出した。 このようにして国民生活は困窮していき、労働争議や小作争議が増加・激化した。 浜口内閣は、外相に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)を起用し、協調外交の観点からロンドン海軍軍縮条約を締結した。 しかし軍部は、この条約締結を、統帥権の干犯(とうすいけんのかんぱん)だとして浜口内閣を批判した。 1930年、浜口首相は東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負い、翌年に死亡した。 同1930年、浜口内閣のあとをついで同じ立憲民政党の第2次若槻礼次郎内閣が成立した。
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詳しい内容は、「世界史探究」の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅰ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。 「黄金の20年代」と呼ばれた繁栄の時代、1929年10月、ニューヨークのウォール街で株式市場が大暴落しました。世界恐慌の原因となったこの出来事は、世の中にどのような影響を与えたのでしょうか。 ロカルノ条約、パリ講和条約と、1920年代後半は国際協調が進みやすい時代でした。日本の経済成長は、こうした問題から必ずしも順調ではありませんでした。第一次世界大戦中とその終結直後は、経済が急速に成長しました。しかし、戦後ヨーロッパ経済が立ち直ると、輸出が減少して不況になりました。1927年には関東大震災による混乱から金融恐慌が起こり、多くの銀行が閉鎖・倒産しました。また、昭和恐慌と呼ばれた1929年のアメリカの世界恐慌は、1930年の日本経済にも大きな影響を与えました。 1929年の世界恐慌は、全世界に大きな影響を与えました。経済の中心となっていたニューヨークの株式市場の大暴落から始まりました。第一次世界大戦後、工場の過剰生産と行き過ぎた投機のために不安定な経済になる中、世界恐慌が起こりました。世界恐慌は瞬く間に全世界に広がりました。多くの国で、銀行の倒産や工場の閉鎖によって、大勢の失業者が出ました。特に、アメリカ資本の支援によって回復していたドイツ経済が破綻しました。ドイツから賠償金をもらっていた他のヨーロッパ諸国も危機の影響を受けました。一方、ヨシフ・スターリンが支配していたソ連は、資本主義国との貿易が少なく、世界恐慌の痛手はそれほど受けませんでした。 アメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトは、ニューディールと呼ばれる計画を実行に移しました。大統領の強い指導を受けて、政府が経済に介入して、経済をよくしていこうとしました。 イギリスとフランスは、自国の経済を守るために、自治領や植民地を支配下に置いて排他的経済圏を作り、他の地域の商品には高い関税をかけて、貿易をさせないようにしました(ブロック経済圏)。しかし、この政策は広大な植民地を持っている国にしか使えない方法でした。ドイツ、イタリア、日本など、天然資源が少なく経済基盤の弱い国は、低迷から抜け出せませんでした。また、経済状況の悪化は、政治状況や国民の不満も悪化させ、政局はさらに不安定になりました。これらの国々は、国際協力に反発して、他国を攻撃してでも自分達の要求を実現しようとしました。
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詳しい内容は、高等学校世界史探究の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱ」に記述されていますので、そちらをご参照ください。ここでは、簡単に記述します。 満州事変により、日本は世界から孤立しました。当時、世界は国際協調の流れの中にありましたが、この満州事変はそれに逆行するものでした。また、国際連盟からの脱退や日中戦争も行われ、それらがなぜ支持され、また元に戻れなくなってしまったのか、その理由は何でしょうか。 1931年、中国東北部に駐留していた日本の関東軍は、中国東北部の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破しました。この爆破を中国軍の犯行に見せかけて軍事行動を開始しました。関東軍は、パリ不戦条約が自衛権を否定していないと主張し、満州鉄道の爆破は自衛のための軍事行動であるとしました。この主張を受け入れた日本政府は軍事行動を活発化させました。こうして「満州事変」が始まりました。1932年、満州の現地住民は中国政府から離脱し、今後の方針を自分たちで決められるようになりました。こうして「満州国」が建国されました。中国政府は国際連盟に救済を求めたため、国際連盟はリットン調査団を派遣しました。調査団の報告は以下の通りです。 しかし、この報告に対して、日本は強硬な態度をとって、国際連盟を脱退しました。 こうした日本の動きは、第一次世界大戦後に高まった国際協調の世界的な流れに逆らいながらも、日本では支持されました。その背景には、不況が長引く中で、日本のマスコミや世論が「満州は帝国の生命線」などと主張し、政府の立場に共感していた側面もあります。また、政党政治への不満や社会不安から、国家改造の思想を伝えた人もいました。この思想に賛成した陸軍の青年将校が 二・二六事件 を引き起こしました。 正式な宣戦布告なく、1937年7月、北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍が交戦する形で、日中戦争は始まりました。蒋介石は南京に中国国民党(国民党)政権を立ち上げました。彼は、敵対する中国共産党との内戦を休止し、抗日民族統一戦線(国共合作)を結成して、日本軍相手に抵抗しました。1937年12月になると南京が陥落し、戦争の結果に対する日本国民の怒りを無視できなくなった日本政府は、国民政府との和平交渉を打ち切りました。これで戦争は継続されました。日本も調印したパリ不戦条約は、日本が中国での軍事活動を活発化した時点で破棄されました。これは、中国の主権と領土保全という九カ国条約への挑戦でした。アメリカとイギリスが蒋介石を支援したのは、日本の軍事力の増強に脅威を感じていたからです。そのため、戦争の結末を予測しにくくなりました。 満州事変以来、人々は大陸の情勢に関心を持つようになり、新聞やラジオが普及しました。夫や息子が軍隊に入った家庭では、日常生活に戦況の理解も欠かせなくなりました。命を懸けて戦争に協力し、貧しい生活を送っていた人々は、戦争が上手くいくように、より大きな期待を持っていました。メディアが世論を形成するやり方も、戦争が継続される理由と大いに関係がありました。対日戦争を続けるために、国民政府は重慶に拠点を移しました。
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満州事変後の1933年5月に日中間で停戦協定がいったん結ばれた(塘沽(タンクー)停戦協定)。中国では華北を中国の支配から切り離そうとする華北分離工作がすすめられ、関東軍は河北省東部に冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)を樹立した。 いっぽう、1936年12月に、共産軍討伐をしていた張学良は、督励のために西安(せいあん、シーアン)に訪れた蒋介石を監禁し、共産党との戦闘停止と抗日を蒋介石にせまり同意させた(西安事件)。そして1937年には国共合作が実現した。(「国共合作」とは、国民党と共産党との同盟のようなもの。) 広田内閣は1937年1月に総辞職した。 かわりに、組閣の大命が、穏健派の陸相の宇垣一成(うがき かずしげ)にくだった。しかし、反対する陸軍が陸相を出さなかったので宇垣は組閣できなかった。 なので1937年2月、陸軍大将の林銑十郎(はやし せんじゅうろう)が首相となって組閣したが、4月の選挙で大敗し、総辞職した。 かわりに1937年5月、国民からの人気も高くて華族出身の近衛文麿が首相となり、組閣した(第1次近衛内閣)。(なお、近衛文麿は以前は貴族院議長もつとめていた。) 第1次近衛文麿内閣の時代の1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)郊外にある盧溝橋(ろこうきょう)で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった(盧溝橋事件(ろこうきょう じけん) )。 これを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。当時、この戦闘を 「北支事変」(ほくしじへん) と言った。 はたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。 現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦協定が結ばれた[2]。 だが、25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう じけん)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん じけん)が起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。(小学・中学・高校では覚えなくて良い。) この7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。 もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も同様の理由で「事変」という語を用いなかった。 事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、日中戦争(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。 日本軍は1937年8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。 宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。 もし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカから石油などの物資の輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。 上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。) 国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。 このときの 1937年12月から1938年はじめの南京で起きたとされる大量殺害事件のことを 南京事件(ナンキンじけん) と言う。いわゆる南京大虐殺(なんきん だいぎゃくさつ)のことである。 首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。 ドイツ国はドイツ中華大使トラウトマンを通して日中両国に和平を斡旋(あっせん)したが(トラウトマン工作)、和平交渉は失敗し、近衛内閣は1938年1月「国民政府を相手とせず」と声明を発表した(第1次近衛声明)。 同1938年11月には、東亜新秩序の声明を出し、日本・中華・満州の3国の協力による国際政治を中国に呼びかけた(実質的には国民党に、共産党との提携をやめて日本側に協力してほしいと呼びかけた宣言)、国民党が応じず、失敗した。(※ 参考文献: 明成社の検定教科書) 日本は、国民党の幹部(副総裁)の汪兆銘(おう ちょうめい)をひそかに重慶から脱出させ南京に招き、1940年に親日的な新政府を樹立を宣言した。(なお第二次大戦後、この汪兆銘政権は傀儡政権だと批判される。) しかし、国民党・共産党軍との戦闘は止まらず、日中戦争は長期化した。 事変の長期化にともない、日本では、戦争遂行の協力体制の確立のため、1937年から「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」(きょこくいっち・じんちゅうほうこく・けんにんじきゅう)のスローガンとする国民精神騒動運動が開始された。 つづいて、総力戦体制を確立するために、日本で1938年に、議会の承認なしに物資・人員の動員・統制のできる国家総動員法が制定された。また、国家総動員法にともなう類似の法として、1939年には賃金統制令・国民徴用令・価格統制令などを発布した。価格統制令によって、公定価格が導入された。国民徴用令によって、一般国民が軍需工場などに動員された。 電力も、電力国家管理法によって、各地にあった民間のいくつもの電力会社が、単一の国策会社に統合させられた。 また、1938年ごろから企業では、労使一体となって戦争遂行に協力する産業報国会の結成がすすめられた。 その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1940年にぜいたく品の製造・販売が禁止され、また、米(こめ)の強制買い上げ制度(供出性)が実施され、1941年からは米や日用品などは配給制(はいきゅうせい)や切符制になった。(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。) なお1940年には、近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)に合流した。 また、大政翼賛会の下部組織として、隣組・町内会・部落会などが結成された。庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。 1941年に小学校は「国民学校」に改称させられ、国家主義的な教育が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。 1930年代の文学では、戦時統制とは あまり関係のない文学的な理由で、島崎藤村(しまざき とうそん)の作品が流行した。 いっぽう、思想弾圧によりプロレタリア文学が壊滅した。いっぽう、戦争を描写した戦争文学がさかんになった。火野葦平(ひの あしへい)は自らの従軍経験をもとに『麦と兵隊』を書き、人気を博した。いっぽう、石川達三(いしかわ たつぞう)の『生きている兵隊』は発売禁止になった。 歴史学者の津田左右吉(つだ そうきち)は、日本書紀などは歴史的事実ではないと主張していたため、1940年に津田左右吉の著書の『神代史の研究』ほか3冊は発禁処分となった。 美術の分野では、従軍画家などとして戦地に派遣された画家によって、戦争画が描かれた。 朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える創氏改名(そうし かいめい)が行われた。また、この創氏改名の際、夫婦同性が強制された。(それまで朝鮮半島では、夫婦が別姓だった。) 創氏改名の実態については、2つの学説がある。強制説と、非強制説である。 満州のハルビンを拠点としている(日本軍の)「731部隊」が、中国人捕虜などをつかった人体実験で、細菌兵器の実験をしたといわれる。 国際条約で使用禁止のされている毒ガスを、日本軍は中国戦線で使用したという容疑が言われている。 日本軍は、抗日ゲリラの拠点と考えられる村で、掃討作戦を行った。 中国側は、これを住民に対する大虐殺として、中国側はこれを「三光作戦」(さんこう さくせん)と呼んで非難している。 三光の意味は「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」という意味らしい。 (※ 範囲外: )なお、「三光」の呼び名の元ネタは、おそらく、義和団事件のときにドイツ人居留民を多数殺害されたドイツ皇帝が怒り、ドイツ兵に対する命令で、義和団および義和団に協力した現地中国軍を「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」と、ドイツ軍に三箇条で命令したことが、おそらく元ネタ。 1938年は第二次世界大戦の勃発よりも前である。 1938年の時点、日本とドイツは既に防共協定を結んでいたが、まだ軍事同盟は結んでいない状態である。防共協定は軍事同盟ではない。なので、軍事同盟を組もうという議論があった。 1938年、ノモンハン事件で日本は大敗。(ノモンハンは地名で、満州とモンゴルの国境にノモンハンがある。) 1939年に日本で平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)内閣が組閣した。 1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれると、日本の平沼騏一郎内閣は、「欧州の情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職した。まだ、ドイツと日本の軍事同盟は結ばれてない。 なお、1939年9月にドイツがポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が勃発する。 平沼内閣のあとの(陸軍大将)阿部信行(あべのぶゆき)内閣、(海軍大将)米内光政(よないみつまさ)内閣の両内閣も、ドイツとの軍事同盟には消極的であり、当初の日本は世界大戦には介入しない方針だった。 1939年、アメリカは日米通商航海条約を延長しないと日本に通告した。日本は資源をアメリカからの輸入に頼っていたので、日本は資源不足の不安のある状況になった。このような事情もあり、日本では南進論が高まった。 7月、陸軍の圧力で米内光政内閣が倒れ、(第2次)近衛文麿内閣が成立した。すると、近衛内閣は、日独伊三国同盟を締結した。 近衛文麿は、ただちに「大東亜共栄圏」構想を提唱し、南方での資源確保に関心を示した。(※ のちの東条内閣で大東亜戦争(太平洋戦争)に発展するが、当初の近衛の構想では、経済的な構想だった可能性もある。インドネシアに植民地をもつオランダとも、日本は交渉をしている(しかし、条件がおりあわず、失敗する)。構想の真相は不明?) 同じ頃、援蒋ルートを断ち切るために、ドイツに降伏したフランスの植民地のひとつであるフランス領インドシナの北部に進駐した。これによって、アメリカは態度を硬化させ、日本への石油・くず鉄などの輸出を制限した(まだ禁止はしてない。禁止するのは数年後)。アメリカの姿勢にイギリスも同調した。 日本国内では、近衛内閣は、ナチスのような一国一党の大政翼賛会を結成した。そして、社会大衆党、立憲政友会、立憲民政党などの諸政党が大政翼賛会として合流した。しかし、当初予定をしていた大戦翼賛会の政党としての機能は、天皇の統治権を侵害するという議論が起きたため(※ 参考文献: 東京書籍の検定教科書)、大政翼賛会に政党としての機能は無くなり、かわりに全国各地の町内会などを支配して国策を民衆に伝えるための上意下達の機関になった。このため大政翼賛会は、首相を総裁とし、都道府県知事を支部長とし、部落会・町内会・隣組などを下部組織とする全国組織になった。 大政翼賛会の初代総裁は、近衛文麿である。 いっぽう企業などでは、1938年には労使一体の機関として、産業報国会の結成が奨励された。1940年には、これらの全国組織として大日本産業報国会が結成された。 そして大戦翼賛会に、大日本産業報国会や大日本婦人会や大日本青少年団なども統合された。 その一方で外相松岡洋右(まつおか ようすけ)により、1941年4月に日ソ中立条約が結ばれた。 日ソ中立条約には、軍事面の安全を得ようという思惑のほかにも、(日本の味方を増やすことで)対アメリカとの交渉を有利にすすめようとの思惑もあった。(※ 思惑の参考文献: 山川出版や東京書籍などの検定教科書に書かれてる。) しかし6月にドイツとソ連が開戦した。 日本は、北方では満州 ー ソ連国境に大軍を集中させるとともに、南方ではフランス領インドシナ南部に進駐した。 アメリカは、在米日本資産を凍結し、8月には石油輸出を禁止した。アメリカに、イギリス・オランダも追随した。 日本は、これを相手国の頭文字をとって「ABCD包囲網」と呼んだ。(アメリカのA、ブリテン(イギリス)のB、チャイナ(中国)のC、ダッチ(オランダ)のD。) 近衛内閣のもと、9月6日の御前会議では、日米交渉がまとまらない場合にはアメリカとの開戦をすることが決定された(帝国国策遂行要領)。(ていこく こくさく すいこう ようりょう) しかし交渉は10月まで続いた。そして、対米交渉がまとまらないまま、10月に近衛内閣が総辞職し、木戸幸一(きどこういち)内大臣の推挙で(現代では対米強行派と言われている)東条英機(とうじょうひでき)内閣が成立した。 東条内閣は11月まで対米交渉を継続した。しかし、結局、対米交渉がまとまらず、アメリカは、日本に満州事変以前の状態への復帰を要求した覚書(ハル=ノート)を突きつけてきた。 日本は、これを最後通牒として受け取り、本格的に開戦の意志を固め、12月1日の御前会議で開戦を決定した。 そして12月8日、日本陸軍がマレー半島に奇襲上陸するとともに、日本海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日本が米英に宣戦布告し、日米戦争が開戦した(太平洋戦争)。 三国同盟にしたがって、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦した。 真珠湾への奇襲攻撃により、アメリカの太平洋艦隊に大損害を与えた。 また、マレー沖では、日本軍は航空兵器を活用してイギリス東洋艦隊を壊滅させた。 日本軍は1941年12月中に香港を占領し、つづけて翌1942年1月にフィリピンを占領、2月にマレー半島およびシンガポールを占領し、つぎつぎと占領地を増やしていき、東南アジアのほとんどと周辺地域を占領した。 日本はこの戦争を「大東亜戦争」と名付け、戦争目的を、欧米の植民地となっていたアジアの解放であると(戦争目的を)設定した。 このため、一部の占領地域では、占領地域の原住民たちは日本軍に協力した。 いっぽう、べつの一部の地域では、抗日運動が起きた。 さて1942年6月、太平洋のミッドウェー島沖で日本海軍は、主力空母4隻および多数の艦載機(かんさいき)を失うという大敗をしてしまい(ミッドウェー海戦)、以降、日本の戦況は悪化する。 また、ガダルカナル島では、1942年8月からアメリカ軍が上陸をして攻撃を開始し、現地の日本軍は食料不足におちいり、おびただしい数の(日本兵の)餓死者を出した。翌1943年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退した。 1943年に日本は、ビルマとフィリピンの独立を承認した。またインドでは、自由インド仮政府が樹立した。 1943年11月、登場内閣は、占領地域の日本協力者の指導者をあつめ、東京で大東亜会議を開いた。 この大東亜会議には、タイ・フィリピン・ビルマ・中国(汪兆銘)・満州国・インド(自由インド仮政府)・日本が参加した(台湾や韓国の代表者は、いない。)。 この大東亜会議では、「アジアの解放」や「共存共栄」、「自主独立」などがうたわれた。 タイとビルマの間では、現地の住民を徴発して泰緬鉄道(たいめんてつどう)が建設された。 日本軍にかぎらず、各国の軍隊は、外部に対する給料の支払いなどで、軍票(ぐんぴょう)という特殊な紙幣を発行し、それを支払った。しかし、日本の軍票は、日本の敗戦とともに、価値が無くなった。 インドネシアの住民も日本具のために重労働をさせられ、現在ではこれを「ロームシャ」(労務者が由来か?)と教えている。 1943年には、大学生の徴兵猶予をなくし、文科系の大学生を中心に軍に徴兵をする学徒出陣が行われた。(理科系と教員養成系が除外され、徴兵されなかった。) 徴兵をまぬがれた学生や若者も、軍需工場などに動員された(勤労動員)。 25歳未満の独身・未婚の女子は、女子挺身隊として工場などに動員された。 兵力不足や労働力不足をおぎなうため、朝鮮や台湾からも徴兵が行われたり、朝鮮や台湾などの労働者が日本へ連れてこられたりもした。なお、この施策は国民徴用令を植民地にも適用したものであり、(いいか悪いかはともかく)朝鮮・台湾を特別あつかいしたわけではない。(※ 参考文献: 東京書籍の教科書) 表現規制も厳しくなり、野球の英語用語なども禁止されるようになったり、ジャズなどの西洋的な流行音楽も禁止されるよになった。だが、これは裏を返すと、1930年代ごろには日本でアメリカ産の娯楽が流行していた事のあらわれでもある。(※ 実教出版の教科書の見解。) (※ ジャズはアメリカで流行しはじめて、世界的なブームになっていった。) 教育では、1941年に小学校が国民学校に改称され、教育内容でも軍国主義的なものが増えた。 本土空襲がせまった1944年からは、主要都市では学童疎開(がくどう そかい)が行われるようになった。 軍需工場も、空襲などの被害をのがれるため、軍需工場が地方移転をする事例も出てきた。 1944年7月には、サイパン島などマリアナ諸島を占領していた日本軍が(アメリカの攻撃によって)全滅し、アメリカ軍がマリアナ諸島を占領した。 東条内閣は、サイパン陥落の責任をとるため退陣し、陸軍大将の小磯國昭(こいそ くにあき)内閣が成立した。 アメリカ軍がマリアナ諸島を確保したことにより、日本の本土はアメリカ空軍の空襲の距離内に入った。1947年7月からは、アメリカ空軍はマリアナ諸島を基地として、B29爆撃機が焼夷弾(しょういだん)をつかって東京を標的の中心として無差別的に空襲をした。特に1945年3月の空襲は大規模かつ無差別的であり、一夜にして約10万人が焼死した(東京大空襲)。 「無差別」的な空襲という事の意味は、けっして基地だけ軍事施設だけを狙うのではなく(※ 「精密爆撃」ではなく)、住宅街なども狙うという意味。 つづいて、(京都を除いて)名古屋・大坂・神戸などにも空襲が行われた。 (1945年3月にアメリカ軍が硫黄島を占領。) 1945年4月からは沖縄本島にアメリカ軍が上陸し、島民をまきこむ戦闘が3ヵ月つづき、1945年7月にアメリカ軍によって沖縄は占領された。 沖縄戦敗退の責任のため小磯國昭内閣は退陣し、(天皇の)侍従長の鈴木貫太郎(すずき かんたろう)内閣が成立した。(※ 鈴木貫太郎は海軍出身者でもある。) 鈴木貫太郎は、敗戦やむなしと考え、表向きには戦争続行をのぞむ軍部に同調したように振舞いながらも、ひそかに鈴木はソ連を仲介に終戦交渉をすすめたが、交渉はまとまらず失敗した。 沖縄戦では、男子学生が鉄血勤皇隊や通信隊に編制されたり、女学生が女子学徒隊などに編制され、動員された。 通信隊は、形式的には通信・伝令などの任務とされていたが、実際には戦闘にも参加したという。 従軍看護婦の「ひめゆり学徒隊」や「白梅(しらうめ)学徒隊」は、女子学徒隊の一種である。女子学徒隊は、野戦病院で看護に従事した。 1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下される。 8月8日、ソ連は日ソ中立条約をやぶって日本に宣戦布告し、満州・北朝鮮に侵入した。 8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。 1945年8月14日、昭和天皇の出席する御前会議で鈴木内閣と軍部は、ポツダム宣言の受諾を決定。同14日、日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を通告。 15日正午、昭和天皇がラジオ放送で国民に「終戦の詔勅(しょうちょく)」として終戦を発表(玉音放送)。 玉音放送の直後、鈴木貫太郎内閣が総辞職したが、後任の内閣が定まるまで鈴木は首相としての仕事をつづけ、1945年8月17日に東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)内閣が組閣された。 東久邇宮内閣のもと1945年9月2日、降伏文書の調印が、東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号上で行われ、重光葵(しげみつ まもる)外相と梅津美治郎(うめづ よしじろう)参謀総長が降伏文書に調印した。 こうして、日本は連合国の占領下に入り、太平洋戦争は終結した。
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ポツダム宣言を受諾するとともに、鈴木貫太郎内閣は総辞職し、かわりに皇族で西欧留学経験をもつ東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が組閣した。そして1945年8月後半に進駐軍の受け入れが行われ、9月2日には日本はミズーリ号上において降伏文書に調印し、正式に戦争が終結した。 日本は、ポツダム宣言受諾後、アメリカ軍を主力とする連合国軍により占領される。初期の占領政策は、日本を武装解除し、国際社会にとって再び脅威となることを防ぐため、民主化などの政治改革に重点が置かれていた。また、アメリカ軍によって日本は占領されていたので、占領政策はアメリカの都合を反映したものであった。連合国軍の指令機関である連合国軍最高司令官司令部(GHQ)が東京都に設置され、連合国軍総司令官(SCAP)にはアメリカ軍元帥・ダグラス=マッカーサーが就任した。 GHQは、自ら直接占領統治はせず、日本政府に対して占領政策の指令・勧告を出し、日本政府がそれを実行するという、間接統治の方法をとった。このため、日本本土ではアメリカ軍による軍政は敷かれなかった。しかし、沖縄・奄美・小笠原は、アメリカの軍政下に入った。 首相の東久邇宮稔彦は「国体護持」、「一億総懺悔」などを掲げてGHQと対立した。1945年10月にGHQは日本政府に対して治安維持法の廃止・特別高等警察(特高)の廃止・共産党員ら政治犯の釈放などを指令した(人権指令)ことをきっかけに、10月に東久邇宮内閣は総辞職した。次いで協調外交で国際的によく知られていた幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が組閣した。このころまでに日本軍は解体された。 GHQは幣原に対し、「憲法の自由主義化」、「婦人参政権の付与」、「労働組合の結成奨励」、「教育の自由主義化」、「秘密警察(特高など)の廃止」、「経済の民主化」を内容とする五大改革指令を口頭で指令した。加えて1945年12月には、日本国民の精神的指導に大きな役割を果たした国家神道を解体するため、神道指令を出した(神道と国家の分離)。この頃、GHQの指令により、戦争指導者とみなされた軍人幹部、政治家、右翼活動家などが次々に逮捕された。 翌1946年1月、昭和天皇は詔書において、天皇を「現御神(あきつみかみ)」であるとするのは架空の概念であるとし、天皇の神格を否定した(いわゆる人間宣言)。同じく1月、日本軍の軍人や国家主義者などと見なされた者たち約21万名が公的な地位から追放された(公職追放)。(追放者の中には、自由主義者の石橋湛山もいた。石橋がGHQに反発したことが原因とみられる。)(鳩山一郎は、戦時中の翼賛選挙では翼賛体制の推薦を受けずに立候補して当選した非推薦議員であるにもかかわらず、鳩山一郎も公職追放された。) (※ どうやらGHQが、あまり日本国内の政治史を分かってないようだ。) 戦争犯罪に関しては、1945年9月から、戦争指導者とみられる軍人や政治家が逮捕され、うち28名はA級戦犯として起訴されて、1946年5月から極東軍事裁判(東京裁判)で審理された。A級戦犯については1948年11月に判決が下され、翌12月に東条英機・広田弘毅・板垣征四郎ら7人には死刑が執行された。 GHQは、天皇を占領統治に利用するため、あえて天皇の戦争責任について追及せず、戦犯指定もしなかった。また、極東軍事裁判では天皇は不起訴である。 B級・C級の戦犯は、捕虜虐待などの通常の戦争犯罪の容疑者のことである。B・C級戦犯では、約5700人が訴追され、約1000人が処刑された。だが現代では、処刑されたB・C級戦犯には、実際には冤罪(えんざい)も多かったと考えられている。日本人がB・C級戦犯に含まれているのは当然として、さらに兵士として動員された朝鮮人や台湾人も、B級戦犯またはC級戦犯には含まれていた。 なお、このA/B/Cの分類とはけっして日本の戦犯をさばくための独自の方式ではなく、ヨーロッパ方面においても勝利した連合国がドイツの戦犯をさばくためのニュルンベルク軍事裁判との共通の分類法である。(※ なおB級が主に捕虜虐待で、C級が非人道的行為である。) 国家の指導者が、戦争犯罪人として裁かれるのは、第二次世界大戦以前には例がなく、反対意見もあった。当時からインド人判事パルやオランダ人のレーリンクらが反対意見を書いた。 また、このような軍事裁判は、事後法による裁判であり、公平性などに問題があるとの批判や、日本国民が裁判に参加しなかったことで、国民自身の植民地・占領地への戦争被害に対する責任感を薄れさせたのではないかとの批判がある。 敗戦ののち、政党が次々と結成され、政界は再編された。まず、GHQによる政治犯釈放によって釈放された徳田球一らが、合法政党としての日本共産党を結成した。1945年11月には、旧無産政党を中心に合流した日本社会党が結成された。同月、鳩山一郎ら翼賛選挙の非推薦議員らが中心となって日本自由党を結成した。また同月、翼賛選挙で推薦議員であり、旧立憲民政党系の議員らが中心になって、日本進歩党が結成された。この11月の時点での与党は、日本進歩党であった。 12月には衆議院議員選挙法が改正され、女性にも参政権が与えられ、男女の選挙権年齢が満20歳以上に引き下げられた。また、GHQが政治介入し、旧翼賛選挙で推薦議員だった議員が多く公職追放された。鳩山一郎は翼賛選挙の非推薦議員だったにもかかわらず、なぜか公職追放された。 1946年4月、戦後初の衆議院総選挙が実施され、日本自由党が第一党となった。第二党は日本進歩党となった。しかし、衆議院第一党の日本自由党総裁の鳩山一郎は公職追放されていたため組閣できず、5月、外交官出身の日本自由党議員の吉田茂(よしだ しげる)が新総裁に就任し、第二党の日本進歩党の協力を得て第一次吉田茂内閣を組織した。なお、この総選挙では、日本史上初の女性議員が39人当選している。 1945年後半、GHQは幣原内閣に憲法改正を指示した。日本政府は「憲法の自由主義化」のもとで憲法調査会を設置し、憲法草案を作らせたが、それは依然として保守的(=GHQからすれば「全然反省していない」という風に見えるということ)なものであったため、GHQが独自の改正案を作成した。 そして、その改正案をもとに、日本政府は民間の憲法草案や外国の憲法を参考に、憲法草案を作成した。そして1946年4月に、憲法改正草案として公表した。 日本国民は、この憲法草案を賞賛し、帝国議会はこの草案をもとに正式な憲法をめざして審議に入り、1946年11月3日に日本国憲法として公布され、翌1947年5月3日から施行された。 刑法では、大逆罪や不敬罪や姦通罪(かんつうざい)が廃止された。 民法では、新憲法の男女同権の趣旨にしたがって、父親や長男中心の戸主制度や家督制度が無くなった。 中国大陸において発生していた国共内戦で共産党が優勢になると、GHQは占領方針を転換し、日本を西側陣営に組み込もうとした。 都心部では、空襲で住居を失った人も多く、彼らは防空壕や仮設小屋に住んだ。 また、失業者が増えた。原因として、軍需工場が閉鎖された事と、軍隊から復員(ふくいん)や、海外からの引き揚げ(ひきあげ)をしてきた人が、大量にいたため。 (復員(ふくいん)とは、軍隊を除隊して、もとの家に戻ること。) 配給の米も不足し、人々は農村への買い出しや、闇市(やみいち)での購入、サツマイモなどの代用食の栽培でしのいだ。 また、インフレーションが発生した。このため日本政府は金融緊急措置令を出して預金の封鎖と新円を発行したが、効果は弱かった。 第二次大戦後の日本経済の民主化政策の一つとして、GHQは1945年に、三井・三菱・住友などの15財閥の資産凍結・解体を指令した。 翌46年8月には、持株会社整理委員会が発足し、指定した持株会社・財閥家族は強制的に株式を売却させられ、それらの株式は一般に売りに出された さらに1947年、持株会社やカルテル、トラストなどを禁止する内容をふくむ独占禁止法が制定された。 また、既存の独占的大企業を分割するため、過度経済力集中排除法が制定された。 (325社が分割指定されたが、実際に分割されたのは11社だけだった。日本製鉄会社や三菱重工などが分割された。また、銀行は対象外だったので、旧財閥系の銀行が残りつづけた。) このような施策のことを財閥解体という。 農地改革は、1946年から翌年に2度にわたり、行われた。1度目の農地改革は政府が主体となって行われたが不徹底で、GHQがさらなる農地改革を勧告し、2度目の農地改革が行われた。 2度目の農地改革では、地主制じたいは認められたが、土地の所有面積に制限につき、在村地主の小作地を1町歩まで(北海道では4町歩まで)とした。(1町歩(ちょうぶ)は、ほぼ1ヘクタール。) それを超えるぶんは政府が買い上げ、小作人に売り渡された。 また、農地の近隣に居住しない地主は不在地主として扱われ、いっさい権利は認められなかった。 これらの施策のため、日本全国で小作地は1割程度にまで減少した。 なお、2度目の農地改革は法的根拠として、1946年10月に制定された改正農地調整法と、同10月に制定された自作農創設特別措置法(じさくのう そうせつ とくべつそちほう)にもとづく。 このような施策のことを農地改革という。 (※ 参考書の範囲: )農地改革により、自作農は増えたが、一方で農業が零細化して多くの零細農家を生み出し、戦後農業の生産性の低下につながり、戦後の新たな農業問題の原因になったという側面もある[2]。 ※ 中学で「労働基準法」などについて習ったとおり。 また、1947年に片山内閣のもとで労働省が設置された。 戦後は、戦災によって物資が不足してることもあり、政府は1947年、石炭や鉄鋼などの基幹産業に重点的に資材や資金を投資する傾斜生産方式(けいしゃ せいさんほうしき)を採用した。 さて、労働運動が高揚すると、労働者たち大衆の多くは社会党を支持した。 また、官公庁労働者を中心とする全国官庁共同闘争委員会は、吉田内閣打倒をスローガンとするストライキ(二・一ゼネスト)を計画したが、GHQの指令によって中止された。 新憲法公布後の1947年4月に行われた総選挙では、社会党が躍進して第一党になり、社会党が連立内閣で民主党(進歩党から再編)と国民共同党を連立し、社会党の片山哲(かたやま てつ)が組閣したが、翌年2月に連立政権内の対立で総辞職した。 ついで民主党総裁の芦田均(あしだ ひとし)が同じ3党の連立政権で組閣したが、疑獄事件(昭和電工事件)で10月に退陣した。 その後、民主自由党の吉田茂内閣(第2次)が成立し、長期に渡り政権を担当した。 GHQの指示により、修身・日本史・地理の授業が一時、中止された。 アメリカの教育使節団の勧告にもとづいて教育の民主化が行われることになり、1947年の教育基本法では、民主化の理念をうたうとともに、義務教育期間を6年間から9年間に延長し、原則的に男女共学になった。 また、学校教育法により、6・3・3・4制になった。(小学校の6年間、中学の3年間、高校の3年間、大学の4年間) 1948年には、都道府県・市町村ごとに地方公選制による教育委員会が設置された。 日本はあたかも第二次大戦中に軍国主義的な教育が多かったように思われがちだが、最近の教育史研究によると、実は日露戦争の終わったころから学校教科書には戦争を題材にした教材が多かったことが分かっている(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。 また、今まで何となく国が軍国教育を強制したかのように思われていたが、どうも通説とは違う側面があるらしい。 というのも戦前、社会科以外のある教科書では、唐突に戦争を題材として扱っているのに、一方で同じ教科の別会社の出版している教科書を調べてみると戦争を扱っていなかったりと、割と不統一でチグハグである(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。 また、よく誤解されるが文部省の指導要領は(戦前は「指導要領」ではなく別の呼び方だが)、そもそも題材を具体的には指定していない(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。 戦前の日本では、軍隊の学校は学費が安いなどの理由もあり志望者も多かった。 逆に、東大や京大などは、戦前は学費が高かった。国立大の学費が安かったのは、実は戦後の昭和の一時期だけである。 このため、軍隊の学校に合格するにも、受験対策が多く必要であった。また、軍の学校は、入試の国語・数学・英語などの文章題や応用問題などの題材に、当時としては当然ながら、仕事に関係のある戦争に関する題材を扱って出題することも多かった。 このためか、どうやら軍学校の世間の親子にとっての人気を反映して、教科書会社が割と自発的に戦争の題材を入れた側面もあるらしい。 そういう背景が分かってくると、終戦直後の墨塗り教科書の解釈も、少し変わってくる。 つまり、「戦時中の軍国教育を排除した」と言うよりも、「軍国主義の排除のために、戦前から続いてきた軍事教育を排除した」と再解釈したほうが良さそうだ、という事になる。 民主化改革のひとつとして、地方自治の推進が行われ、1947年には地方自治法が公布され、首長を選ぶのは住民による直接選挙になった。 また、戦前に地方自治や警察行政を担当していた内務省は廃止された。なお、警察制度では、1947年の警察法により、国家地方警察とともに自治体警察が置かれた。
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第二次世界大戦後、東ヨーロッパ諸国の多くにはソ連が進駐し、まもなく東ヨーロッパに社会主義国が多く誕生した。 アメリカ・イギリスは、このような東ヨーロッパの状況を、ソ連の侵略としてとらえて警戒した。この米ソの対立を冷戦という。アメリカは1947年に共産主義国を封じ込める目的でトルーマン-ドクトリンを発表した。 第二次世界大戦の終戦直後、日本は、はげしいインフレになった。 このインフレを解決するため、1948年、GHQは経済安定9原則を指令し、また、アメリカ国務省顧問の銀行家ドッジが日本に派遣され、翌1949年にはドッジ=ラインと呼ばれる財政引き締め政策が日本で行われ、その結果、復興債の発行禁止、1ドル=360円の単一為替レート、などの政策が行われた。 つづいて1949年、アメリカからシャウプ博士(Shoup)を団長とする税制使節団(シャウプ使節団)が来日し、日本の税制の大幅な改革を勧告され(いわゆる「シャウプ税制」「シャウプ韓国」)、日本の税制が、所得税などの直接税を中心にした税制に改められた。 これらの経済・税制政策の結果、インフレは収まったものの、今度は逆に、デフレによる不況(安定不況)が到来した。 大企業は復活したが、中小企業の倒産があいつぎ、失業者が増加した。これに行政整理もともない、失業者が増加した。その結果、労働運動が激化した。 同じ頃、国鉄(現JR)の労働争議をめぐって1949年に下山事件(しもやまじけん)・三鷹事件(みたかじけん)・松川事件(まつかわじけん)などの怪事件が発生した。 下山事件とは、1949年7月に、国鉄の人員整理を行ってた総裁の下山定則(しもやま さだのり)が行方不明となり、轢死体(れきしたい)で発見された事件。(轢死(れきし)とは、車などに、ひかれて死ぬこと。) 三鷹事件とは、1949年8月に中央本線三鷹駅での無人電車が暴走し、死傷者を出した事故。 松川事件とは、東北本線松川駅で、列車転覆事故があり乗務員3名が死亡し、容疑を疑われた国鉄労働組合や東芝松川労働組合の組合員20名が逮捕された。1963年の最高裁で、起訴された者は全員、無罪になった。 言論の分野では、占領軍に対する批判は規制され、発表できなかった(プレスコード(press code))。 映画では、戦時中に公開の禁止されていた洋画が公開された。 いっぽう、演劇では、『忠臣蔵』や『水戸黄門』などの時代劇が、封建的であるとして、GHQの指令によって公開を禁止された。 1951年にラジオの民間放送が始まった。1953年には、テレビの本放送が開始した。 1949年に法隆寺金堂の壁画の焼損したことなどから、翌1950年には文化財保護法が定められた。 1949年に湯川秀樹が日本人ではじめてノーベル賞を受賞した。 マルクス主義思想も解禁され、経済学や歴史学などに影響を与えた。また、丸山眞男(まるやま まさお)の政治学や大塚久雄(おおつか ひさお)の経済史学が、社会科学の分野で知識人などに大きな影響をあたえた。 文学では、1940年代後半に坂口安吾が『白痴』を発表、太宰治が『斜陽』を発表。 その他、この時代、多くの雑誌が創刊した。 (※ 範囲外: )創刊した雑誌のなかには、売れ行きの悪いものもあり、そのような雑誌は粗悪な酒に例えられてカストリと呼ばれ、廃刊していった雑誌も多い(カストリ雑誌)。 文化的な作品は多くあり、すべてを教科書では紹介することは出来ないし、入試にも出ないだろう。 本コラムでは、誤解しやすい作品について、いくつか紹介する。 終戦直後の時代(1945年)に流行した歌謡曲のひとつ『リンゴの唄』を発売時に歌った歌手は、並木路子(なみき みちこ)である。美空ひばり(昭和中期の歌手)ではない。美空ひばりは、1946年のNHK『素人のど自慢』に当時9歳で出場したときに、この歌を上手に歌ったことで注目されるようになった(将来の)歌手である。 漫画家の手塚治虫(てづか おさむ)は占領期に既にプロデビューしていたが、作品がヒットしたのは、占領後の時代。 このため検定教科書では、占領期の作家としては、手塚を紹介していない。高度経済成長期の作家として、検定教科書では手塚が紹介されることが多い。 朝鮮戦争でアメリカは日本の価値を再認識し、日本を自由主義陣営に組み込もうとする動きを加速させた。このため、日本との講和条約の締結を急がせた。 1951年9月8日にサンフランシスコ講和会議が開かれ、日本と48か国との間でサンフランシスコ平和条約が締結された。また、同日に日米安全保障条約(安保条約)が調印され、日本独立後もひきつづきアメリカ軍が日本に駐留することになった。 同条約は翌1952年4月8日に発効し、アメリカによる日本占領は終わり、日本は独立国としての主権を回復した。 サンフランシスコ平和条約と同日に調印された安保条約にもとづき、1952年2月に日米行政協定が締結され、日本は駐留アメリカ軍に基地を提供することと、駐留経費を分担することが定められた。 吉田茂内閣は、平和条約の発効する1952年4月に海上警備隊を新設し、また、警察予備隊は保安隊に改称された。 1954年にMSA協定(日米相互防衛援助協定)で、アメリカからの援助(軍事や農産物)を受けるかわりに、日本は防衛力強化を義務づけられた。 同1954年7月、保安庁を改組して防衛庁とし、保安隊と海上警備隊を統合して、陸・海・空の3隊からなる自衛隊が発足した。 また、吉田内閣は、「血のメーデー事件」を契機に、1952年7月、吉田内閣は破壊活動防止法を制定した。そのほか、1954年の新警察法では、自治体警察を廃止し、警察庁の指揮下の都道府県警察に一本化する制度にあらためた。(※ それまでは、警察が2種類あった。) 吉田内閣は、1954年には、公立学校教員の政治活動を禁止する教育二法が成立した。(なお1956年の鳩山内閣で、教育委員はそれまで公選制だったが、自治体の首長による任命制にかわった。) 1954年12月、造船疑獄事件で吉田内閣は総辞職し、日本民主党の鳩山一郎内閣が成立した。 鳩山内閣は憲法改正をとなえると、それまで日本社会党は右派と左派に分裂していたが、改憲を阻止するために社会党の両派は合流して統一し、社会党は改憲阻止に必要な議席の3分の1を確保した。 これに対抗し、民主党と自由党も合流して自由民主党が結成された(保守合同)。これ以降38年にわたり、自由民主党の政権が続いた(55年体制)。 1956年10月、鳩山内閣は、ソ連との領土問題を棚上げして、日ソ共同宣言に調印し、国交が回復した。 これにともない、日本の国連加盟を拒否していた常任理事国ソ連が加盟賛成にまわったので、同1956年12月に日本は国連に加盟した。 1954年のアメリカが水爆実験を太平洋ビキニ環礁で実験し、日本の漁船の第五福竜丸が被爆(ひばく)した。これをきっかけに、日本国内で原水爆禁止運動が広がり、翌1955年には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。 1952年にはアメリカ軍拡張に反対した石川県住民らによる内灘事件(うちなだじけん)が起き、つづいて1950年代に東京都で砂川事件(すながわじけん)などの基地反対闘争が起きた。
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岸内閣は1960年1月に訪米して、日米相互協力および安全保障条約(新安保条約)をアメリカと結んだ。この条約で、アメリカの日本防衛義務が明文化され、軍事行動の前には事前協議が規定された。また、この条約の期限は10年間とされた。 いっぽう社会党・共産党などの革新勢力は、この新安保のせいで日本がアメリカの戦争に巻き込まれる危険があるなどと主張して、反対運動を行った。 しかし自民党は議会の手続きどおりに1960年5月に採決を行った。「強行採決」などと批判された。(※ 革新勢力は、自分たちの気に入らない法案の採決のことを、よく「強行採決」という。しかし保守政党は単に、議会で国会法などの手続きどおりに採決しているだけである。) 国会での新安保の採決により、反対運動が盛り上がり、安保反対勢力は「民主主義の擁護(ようご)」などのスローガンをかかげて1960年5月〜6月にかけて連日、国会周辺で大きなデモが起きた(安保闘争)。 このデモには、全日本学生自治総会(全学連)の学生や、市民や労働者をあわせて、数万人が参加した。 新安保条約は参議院での賛成を得られないまま6月に自然成立し、岸内閣は新安保条約が発効するまでは内閣を続けて、条約が発効したのち、岸内閣は総辞職した。 総辞職した岸内閣にかわって1960年に池田勇人(いけだ はやと)内閣が成立した。 池田内閣は、国交の無い中華人民共和国とも、貿易協定(LT協定)を締結した。 東京オリンピック後の1964年、池田内閣は総辞職した。 ついで成立した佐藤栄作(さとう えいさく)内閣は、大韓民国の朴正煕(パクチョンヒ)政権と国交正常化交渉をすすめ、日本は1965年に日韓基本条約を結び、韓国との国交を正常化した。 このとき、日本は、韓国を朝鮮半島で唯一の正式な政府と認めた。(つまり、日本は北朝鮮を認めてない。) ついで佐藤内閣は、非核三原則「(核兵器を)持たず、つくらず、持ち込ませず」を公言した。 さらに1971年に沖縄返還協定が調印され、翌72年には沖縄が日本に復帰した。 しかし、沖縄にある広大なアメリカ軍基地はそのまま維持された。(また、核兵器がアメリカ軍艦に搭載されたまま日本に寄港していた可能性のあることが、2010年に推定された。) 東アジア外交において、佐藤内閣はアメリカの意向どおりに親台湾の方針をとった。
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1950年、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍を中心とする連合軍からの特需(とくじゅ)が発生し、日本は不況を脱した。 1951年には、国民総生産(GNP)が戦前の水準を取り戻した。 1950年代に日本はIMF(国際通貨基金)とGATT(ガット、関税および貿易に関する一般協定)に加盟した。 また、1955年以降には米(こめ)の大豊作がつづき、食糧難も解消していった。 そして1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述されるまでに景気回復した。 なお、1955年には、労働運動において、総評が中心となって、各産業の労働組合がいっせいに賃上げ要求をする「春闘」(しゅんとう)方式が始まり、しだいに一般的になった。(※ 毎年、春に賃上げ要求をするので、「春闘」という。) 一般に、1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述された頃が、高度経済成長の開始の時期とされる。 1955〜57年の当時は「神武景気」と言われていた。その後も好景気が続いたので、1958〜61年の好景気を「岩戸景気」といった。 1960年に池田勇人(いけだ はやと)内閣が成立した。 池田内閣では、親米政策のもと、革新勢力(社会党・共産党などの事)との対立を避け、(その意味か)「寛容と忍耐」をとなえ、また、すでに始まっていた高度経済成長による「所得倍増」をスローガンにかかげた。 1955(昭和30)年から1973年まで、経済成長率が年平均10%ほどという高い率で、景気後退年でも5%ていど以上という高い水準だった。 そのため、1955年から1973年ごろまでを「高度経済成長」という。 1968年には日本のGNPが旧・西ドイツを抜き、アメリカについで日本が世界の資本主義国でGNP第2位になった。 高度経済成長期の好景気としては1955〜57年の神武景気、1959〜61年の岩戸景気、1963〜64のオリンピック景気などがある。 また、1949年に設定された1ドル=360円の固定レートが外国にとっては日本円が割安であり、そのことが日本からの輸出に有利だった。 また、高度成長期に、企業による設備投資が進み、工業化が進んだ。 そのような企業の設備投資の資金源には、銀行から貸し出された資金が使われた。 この高度成長のころから、太平洋ベルトに工場が集積していった。「投資が投資を呼ぶ」と言われるほど、設備投資が盛んだった(※ 現代社会の検定教科書に、「投資が投資を呼ぶ」の記述あり)。 また、農村出身の若者が、集団就職で、都会に移住した。通説では、高度成長の原因のひとつは、教育の普及により勤勉で良質な労働力が供給されたことが理由だろう、と言われている。 一方、しだいに都市部で住宅不足などが起こりはじめ、渋滞や過密化などが起こるようになった。 なお、この当時の就職しはじめの20代前後の若者とは、戦後のベビーブームの時期(1947〜1949年)に生まれた「団塊(だんかい)の世代」である。この当時は、大学進学率が低く、中卒や高卒で就職するのが一般的であり、この世代の中卒・高卒の労働者は「金の卵」と言われた。 さて、戦前は日本の製品は品質が低いと国際的には見なされていたが、高度成長のころから、日本企業が国際的な競争力をつけていった。 なお、石炭から石油へのエネルギー革命が、日本では、この高度成長期に起きた。 1960年代、日本では貿易の自由化を求める声が高まり、それまでの輸入は政府の許可制だったが、1963年にGATT11条国(ガットじゅういちじょうこく、意味: 国際収支の悪化を理由には輸入数量の制限ができない国)になり1964年にIMF8条国(意味: 国際収支を理由には為替制限ができない)になった。(なお1964年は、東京オリンピック開催の年でもある) このようにして、日本はIMFーGATT体制に入り、また、日本では貿易がしだいに自由化されていく。 戦時中に制定された食糧管理制度による所得保障による農家保護が、戦後もつづき、さらに米価も値上げしたので、農家は裕福になっていった。なので、戦前のような貧しい農業の問題は、ほぼ解決した。(なお、政府は1961年に農業基本法を制定した。) しかし、それでも人々の多くは農業に就職するより製造業などに就職することを目指し、都市に人口が流入していき、一部の農村は過疎化をしていった。また、兼業農家も増加していった。 いっぽう、都市では、人口の流入によって過密化していき、都市郊外にニュータウンや団地が造成されていった(スプロール化)。また、家族形態では核家族が一般的になった。 都市では、渋滞や大気汚染、騒音などで、生活環境が悪化した。 この頃、公害の問題が深刻化した。 地方自治では、大都市では革新系政党(社会党など)の首長(革新首長)が増えていった。いっぽう、農村では、保守系政党(自民党)が支持されることが多かった。 東京都では社会党や共産党が推薦する美濃部亮吉(みのべ りょうきり)が1967年に都知事に就任した。 1970年代には、京都や大坂でも革新系の首長が誕生した。 なお、革新系の首長をもつ自治体のことを、革新自治体という。(たとえば、1967年以降の東京はしばらく革新自治体である。) この頃までに、エネルギー源が石炭から石油にほぼ変わっていった(エネルギー革命)。 1960年代には小売業でスーパーマーケットが普及した。 1954年には日本で100軒だったスーパーマーケットが、1959年には1000軒をこえた。(参考文献: 山川出版社『もう一度読む 山川 戦後日本史』、2016年1版、115ページ、) なお、のちの1970年代前半に、スーパーのダイエーが売上高(うりあげだか)で百貨店の三越(みつこし)を抜いて、ダイエーが小売業界で売上高で日本一になる。 すでに戦前の1930年代には、中小の商店を保護するための法である百貨店法(※ 内容は、デパートなどの大型商店を規制する法律)が存在している。けっして戦後のダイエーの躍進で、大型商店の規制が法制定されたわけではない。1974年には、百貨店法が廃止され、かわりに規制強化をした大規模小売店舗法が制定された。(大規模小売店法は一般に「大店法」(だいてんほう)と略される) 現在では「大規模小売店舗立地法」によって(※ 法律名に「立地」が加わってる。本書では区別のため「大店立地法」とする)、スーパーやデパートなどの大規模な商業施設は、法規制を受ける。 この「大規模小売店舗立地法」は、1998年6月に制定され、2000年6月から施行された。それにともない、かつての大規模小売店舗法(旧・大店法)は2000年に廃止された。(※ よく、勘違いで「(2001年からの)小泉純一郎内閣が、大店法を規制緩和した」などの誤解がある。しかし、けっして、それは勘違いであり、1998年6月の内閣は橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう)内閣である。2001年からの小泉内閣では、大店立地法の改正は行っていない。) 旧・大店法では、デパート等を出店したい大企業は地元商店街の意見などを聞く必要があり、そのため大企業などから政府に法改正を求められていたり、90年代にはアメリカ政府から大店法は外資参入をさまたげる規制でありWTO違反だと日本政府が批判されたりしたので、2001年に廃止になり、かわりに「大規模小売店舗立地法」が制定された。 高校への進学熱も高まり、 また、大学では、「学園紛争」と呼ばれる、デモ行為が起き始めた。 このような高度経済成長によって、多くの人々は自分たちが経済的に豊かになったと感じ、もはや自分は貧乏人ではないと考えて、中流意識をもつようになった。 テレビの本放送が1953年に始まると、1950年代後半には洗濯機・冷蔵庫・テレビなどの「三種の神器」といわれた家電も普及していった。 1953年にはテレビの本放送も始まった。 スポーツでは、野球が流行した。また、テレビ中継などを通して、野球のほかにもプロレスなども流行した。 この結果、長嶋茂雄(ながしま しげお)や力道山(りきどうざん、プロレス選手)が、人気のスポーツ選手になった。 テレビの影響もあって、(※ 読売巨人の)長嶋茂雄や王貞治(おう さだはる)が人気選手となった。 また、マンガも流行し、長谷川町子(はせがわ まちこ、『サザエさん』原作者)や手塚治虫(てづか おさむ、『鉄腕アトム』原作者)などが人気となった。 この頃、子供向けのマンガ週刊誌が誕生した(1959年の『少年サンデー』など)。 週刊漫画でなくても良いなら、サンデー以前からも漫画雑誌は存在する。講談社の月刊少女漫画雑誌『なかよし』(1954年創刊)のほうが、1959年創刊の週刊『少年サンデー』よりも古い。『なかよし』は21世紀まで現存した雑誌の中では最古であるとされる。なお、20世紀中に廃刊してしまった雑誌も含めれば『少年画報』(少年画報社)の1948年創刊のほうが、さらに古い。少年画報社とは、現在では『ヤングキング』などの雑誌を出版してる会社。) サンデーは、べつに漫画雑誌の創刊そのものの行為は日本初ではないので、勘違いしないように。あくまで、週刊ペースの漫画雑誌として、サンデーは日本初なだけである。 1950年代には特撮怪獣映画の『ゴジラ』が1954年に映画公開され、話題になった(※ 2018年度センター日本史Aの問題文。)。 この作品のできた背景は、太平洋戦争中の広島・長崎の原爆投下や、1946年の太平洋ビキニ沖原水爆実験である。(アメリカなどの原水爆実験がビキニ沖で50年代にあった事は、背景ではない。なぜなら、アメリカによるビキニ沖原水爆実験の年度(1954年3月1日)や、その結果の第五福竜丸の被爆事故の年(1954年3月1日)と、ゴジラ放映は同じ年である。アメリカは40年代にもビキニ沖で原水爆実験を行っており、そちらのほうが『ゴジラ』の背景。) また、1960年代にはアニメーション版『鉄腕アトム』などが放映され、人気となった。(※ なお、アニメ版『鉄腕アトム』は、国産では日本初の長編テレビアニメ番組であると考えられている。1963年に『鉄腕アトム』が初放映された。CMアニメなどの短編アニメや非テレビの映画アニメなら、鉄腕アトム以前からある。詳しくは『中学校社会 歴史/検定教科書で紹介されているコラム的話題など』を参照。) アトムのテレビアニメ放映の年代(1960年代)よりも、特撮映画であるゴジラの映画公開の年代(1950年代)のほうが、先である。つまり、テレビアニメの制作は、それだけ難しかったようだ(アニメそのものの制作の難しさや、テレビ受像機の普及の問題などがあろう)。 文学では、純文学では大江健三郎(おおえ けんざぶろう)が有名になった。 また、大衆小説では、推理小説などで松本清張(まつもと せいちょう)が人気になり、歴史小説で司馬遼太郎(しば りょうたろう)が人気になった。 音楽では、ポピュラー音楽では1960年代にフォークソングやロック音楽が日本でも流行しはじめた。(※ 範囲外: 当時は「ロックは不良の音楽」とか言われてたらしい。)(ビートルズ来日は1966年の出来事であり、60年代の出来事である。) 民主社会党が1960年に結成された。なお結成の経緯は、社会党が分裂して、出ていった側の政治家が結成したのが民主社会党である。(民主社会党は、のちの1969年に「民社党」に改名する。) ほか、公明党(こうめいとう)が1964年に結成された。なお公明党は、宗教法人の創価学会(そうかがっかい)を基盤とする政党である。
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1960年代後半、アメリカ経済は国際収支が悪化しており、時のニクソン政権は、ドル防衛の必要にせまられてた。そして1971年8月に、アメリカ合衆国が金とドルとの交換を停止した(ニクソン-ショック)。 (ニクソン大統領の政策なので、ニクソン-ショック(Nixon shock [1])という。) この結果、1971年12月の10か国蔵相国際会議で日本は円とドルとの交換レートの切り上げをせまられ、1ドル=308円になった。当初、日本は固定相場制を維持しようとしたが、1973年に変動相場制に移行した。 1972年に田中角栄(たなか かくえい)が総理大臣に就任した。 田中内閣では、田中首相が北京に訪れ、毛沢東と交渉し、日中共同声明を発して日中国交正常化が行われ、中華人民共和校と日本との国交が樹立した。(これにともない、日本と中華民国(台湾)とは断交した。) (※ まだ日中平和友好条約は締結されていない。のちの福田赳夫(ふくだたけお)内閣の時代に、日中平和友好条約は締結される。) (なお、アメリカ合衆国のニクソン大統領は1972年に訪中して、ひとまず米中和解を実現した。しかし、1972年の時点では米中の国交は正常化しなかった。米中国交正常化の年度は1979年からである。)(なお1976年に毛沢東が死去している。) 日本経済では、1972年に田中角栄が、太平洋に集中している工業地帯を、(東北や北陸、山陰や四国などの)各地の拠点都市に分散して、その間を高速道路や新幹線でつなごうとする「日本列島改造計画」を唱え、公共事業を推進した。この結果、土地投機をまねいて地価が上昇した。 1973年10月以降の第1次石油危機(the first oil crisis [2])は、田中内閣の時代の出来事である。 第1次石油危機の原因は、1973年10月の第4次中東戦争が原因である。 この結果、日本でGNP成長率が戦後初めてマイナスに転落し、戦後日本の高度成長は終焉した。なお、日本では物価は上昇し(激しいインフレ)、「狂乱物価」と言われた。 石油危機の不安により、日本の消費者たちは「物が無くなる」という不安のために、洗剤やトイレットペーパーなどの買いだめに走り、品不足が起きた。 (しかし、その後の日本経済は先端技術への投資により不況を乗り切り、その結果、しだいにコンピュータや産業用オートメーションの導入が進んでいく。) また、石油危機などをきっかけに世界的に、インフレ状況下での不況であるスタグフレーションがおとずれ、その対策のため先進各国は1975年、アメリカ・日本・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア6か国の首脳による先進国首脳会議が開かれ、対応に各国が協力しあう事となった。 (なお田中角栄は1974年に金脈問題などにより総辞職し、三木武夫(みき たけお)内閣に変わった。) 1970年代後半、アメリカ財政が「双子の赤字」と呼ばれた(アメリカの)財政赤字と(アメリカの)貿易赤字に苦しみ、アメリカはその打開策として日本に、貿易自由化をもとめてきた。 このため、アメリカは日本に、農産物の輸入自由化などを求めてきた。 田中角栄は1974年に金脈問題などにより総辞職し、後継として「クリーン政治」をかかげる三木武夫(みき たけお)内閣に変わった。 しかし、1975年に田中元首相が米国ロッキード社との(航空機の売り込みをめぐる)収賄容疑で(田中角栄が)逮捕され(ロッキード事件)、その影響で総選挙で自民党が大敗したので、三木内閣は総辞職した。 退陣した三木内閣にかわって、福田赳夫(ふくだ たけお)内閣が組閣された。 福田内閣は、経済政策では貿易黒字・円高不況の解消のため内需拡大を掲げた。外交面では福田内閣は1978年に日中平和友好条約を締結した。 しかし、じつは、財政再建が国政で重要問題になったのは、中曽根のころからではなく、1970年代後半の大平正芳(おおひら まさよし)内閣のころからである。そして、いちぶの国営事業の民営化の方針が決まったのは、大平内閣のつぎの1980年からの鈴木善幸(すずき ぜんこう)内閣のときである。 戦後日本は1965年度に赤字国債を1度発行したが、しばらく赤字国債を発行せずに済んだが、しかし1975年以降はそれまでしばらく発行していなかった赤字国債を毎年発行しつづけざるを得ない財政状況になった( 前年の1974年は戦後初のマイナス成長の年)。このため大平内閣のころまでには財政問題が注目され、大平内閣は財政問題に着手した。(※ そもそも大平は、過去の内閣では大蔵大臣(いまでいう財務大臣)をやっていた。財政問題が深刻化しはじめたので、大平が首相に選ばれたのだろう。) 大平内閣は財政問題の対処のため、当初、増税をしようとしたが、しかし世論の反発により、増税をあきらめた。 つぎの鈴木内閣で、増税でなく公務員削減などの行財政改革によって歳出を削減する方針となった。1981年には、行政改革を目的とする第2次臨時行政調査会を発足させ、「増税なき財政再建」が目標にされた。しかし、鈴木内閣では行財政改革は実行されず、つぎの中曽根(なかそね)内閣で行財政改革が実行される事になる。 福田内閣の後継の大平正芳(おおひら まさよし)内閣は、第二次石油危機に対処するなどしたが、1980年の選挙運動中に急死した。 1980年の選挙では自民党が圧勝し、鈴木善幸(すずき ぜんこう)内閣が成立した。 地方自治では、革新自治体が財政的に行きづまり、革新自治体は減っていった。 大平正芳内閣、鈴木善幸内閣のつぎに、1982年に中曽根康弘(なかそね やすひろ)内閣が成立した。 中曽根は財政改革として、官営(かんえい)事業だった電電公社(現NTT)、国鉄(現JR)、専売公社(現JT)の民営化をした。 中曽根は首相として初めて靖国(やすくに)神社に参拝した。 また、防衛費について、過去の三木内閣の設定したGNP1%枠とする目安を、中曽根政権の当時、突破し、当時は話題になった。 1987年に中曽根は、後継に竹下登(たけした のぼる)を指名して退陣した。 つづいて1987年11月に竹下登内閣が成立した。 1989年、竹下内閣のもとで消費税が成立して実施された。 しかし政治資金の疑惑により(リクルート事件)、退陣した。 上述の中曽根内閣の説明でみたように、国営事業・公営事業を民営化する方針は、中曽根政権のころには既に存在した政策である。 けっして、小泉純一郎が初めて民営化政策を考えたのではない。 1980年代末の不動産バブルを時代の基準に考えると、80年代前半の中曽根政権はバブル崩壊前だし、2001年からの小泉政権はバブル崩壊から かなり後である。 けっして、不動産バブル崩壊によって急に民営化政策が考えられたのではなく、まして小泉が急に民営化を考えたのではなく、すでにバブル崩壊前から、財政問題の解決策として、さまざまな事業の民営化が考えられてたのである。 1980年代、貿易摩擦やアメリカの財政赤字の問題もあり、1985年のG5会議によりドル安を誘導するための円高および(ドイツ通貨の)マルク高が合意した(プラザ合意)。そして日本では実際に円高になった。 このため日本の製造業など輸出産業はやや不況になったが、輸入品の価格が下がったこともあり、日本では内需が拡大した。 この頃、一般企業でもパソコンなどのコンピュータが普及しはじめた。(※ たとえばNEC社のPC88シリーズなど)(※ 80年代の時点では、インターネットは、まだ普及してない。携帯電話も、まだ普及してない。) また、小売業ではコンビニが全国各地に普及しはじめた。外食産業も、増え始めた。 そして、この頃から、経済界では、今後の予想として従来の建設業や鉄鋼業や自動車などの「ハード」産業にかわり、コンピュータやレジャー産業などの第三次産業や各種のサービス業などの「ソフト」産業がきっと今後は重要になるだろうと思われた。 いっぽう、日本の金融市場は好景気になった(ほぼ、20世紀中の日本では戦後最大の好景気と思われる)。 そして、地価や株価が高騰し、80年代後半の日本の景気は、いわゆる「バブル景気」となった。(※ 当時から「バブル」と言われてた。) しかし、その後、1990年の前後に、日本のバブル景気が終わる(いわゆる「バブル崩壊」)。 バブル崩壊の原因は諸説あるが(日銀による1989年の公定歩合の引きあげ、などの説)、1990年に株価が下がり、1991年には景気は後退しはじめ、92年には地価も下がった。 その結果、土地を担保に融資をしていた金融機関には、巨額の不良債権が残った。 このため、金融機関じたいが、破産の危機にあい、実際にバブル崩壊後の90年代後半には、いくつかの金融機関が破産していく。 (※ 範囲外: )また、バブル崩壊までは積極的に企業に融資していた銀行などの金融機関が、中小企業などへの融資が消極的になり、当時のニュース報道では、(銀行の)「貸し渋り(かししぶり)」などの流行語が話題になり、資金繰りの悪化した中小企業が倒産していったり、大企業も事業の見直しを迫られるようになっていく。 政府は、(上述のような)連鎖的な景気悪化をふせぐために、政府は金融機関に巨額の公的資金を投入し、公共事業を行ったが、しかし景気は回復しなかった。
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ベルリンの壁が崩壊したこと、ソビエト連邦経済が停滞したことにより、冷戦が1989年ごろに終結する。 1989年、竹下内閣のもとで消費税が成立して実施された。 しかし政治資金の疑惑により(リクルート事件)、退陣した。 つづいて、宇野宗佑(うの そうすけ)内閣では、(リクルート事件の影響もあってか)1989年7月の参議院選挙で自民党が大敗し(社会党が躍進)、宇野内閣はわずか2か月で退陣した。(衆議院でなく参議院での大敗なの、自民党政権のまま。) 宇野内閣の次の、海部俊樹(かいふ としき)内閣では、湾岸戦争への国際貢献の対応に追われた。 つづいて宮沢喜一(みやざわ きいち)内閣では、国連平和維持活動協力法(PKO法)を成立させた。 しかし、1992年に佐川急便事件やゼネコン汚職などの大企業との癒着(ゆちゃく)が明るみに出て、国民の政治不信が高まった。 そして、1993年6月には自民党内が小選挙区制をめぐって分裂し、1(社会党などの野党から)内閣不信任案が出され衆議院で可決し、7月の総選挙で自民党が敗北し、自民党は野党になった(55年体制の終わり)。 そして、非自民8党の連立政権が与党となり、日本新党の細川護熙(ほそかわ もりひろ)を首相にした。 なお、このときの非自民8党派は、社会党・新生党・公明党・日本新党・民社党・新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合、の8つ。 細川内閣は、選挙制度改革をして小選挙区比例代表並立制を成立させた。 後継の新生党の羽田孜(はた つとむ)内閣は、短命に終わった。 そして、社会党と自民党が連立し、1994年6月に社会党委員長 村山富市(むらやま とみいち)を首相とする村山内閣が成立する。 そして社会党は、自衛隊・日米安保の容認をするなど、従来の党の方針を大幅に転換させた。 (1995年1月17日に阪神淡路大震災が起き、6000人以上の死者が出た。) 1996年に村山内閣は退陣し、自民党総歳の橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう)が連立政権を引き継いだ。 社会党は党名を社会民主党に変更した。 橋本内閣は、財政改革のため、消費税を5%に引きあげたが、アジア通貨危機の時期と重なり、景気は後退した。 そして、1997年、都市銀行のひとつの北海道拓殖銀行が破綻し、大手証券会社のひとつの山一證券も破綻した。 これらの結果、日本の不況が深刻化した。 (湾岸戦争や、1995年1月に阪神大震災、1995年3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件などが発生し、日本は安全保障をみなおす必要にせまられた。) 「サリン」とは、猛毒物質の一種である。 宗教団体のひとつであるオウム真理教は、1995年3月20日、サリンを東京都内の地下鉄に散布するというテロを実行した。このテロの被害によって、11人の死者と、5000人を超える重軽傷者を出した。 なお、サリンは第二次大戦中にドイツが開発していた物質でもあり、海外からは、日本で化学兵器を用いたテロが起きたとして注目された。 橋本龍太郎、1996年、クリントン大統領が来日して日米安保共同宣言 小渕恵三(おぶち けいぞう) 周辺事態法、国旗国家法、通信傍受法 2000年に小渕は病死し、後継の森喜朗(もり よしろう)内閣が成立したが(自民党・公明党・保守党の連立政権)、しかし国民の支持が得られず支持率が低迷し、2001年に森内閣は総辞職した。 森内閣の後継で小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣が2001年4月に成立した。 検定教科書では、「地上げ」とか紹介。なお、「地上げ」とは、不動産業者が強引な方法で住民を立ち退かせ、更地にして転売すること[1]。 毎日新聞社の撮影した、地上げされた土地の写真が有名で(周りが空き地になった中、一軒だけ古い家屋のある写真)、検定教科書にもその毎日新聞の写真がよくあるのだが、本wikiでは権利の都合で省略。 ディスコの写真もあったり(いわゆる「ジュリアナ東京」)。 ※ ジュリアナは店舗名なので覚えなくていい ※ その他、1985年のプラザ合意などは、本wikiでは『政治経済』科目のほうで説明してある・・・はず。電電公社→NTT といった民営化についても、検定教科書では日本史でも触れているが、本wikiでは『政治経済』で扱う。 90年代の円ドル為替は円高の傾向であり、1995年には1ドル80円台に達した。 このような理由もあって製造業などの大企業は、生産拠点を海外に移した。このため、しだいに国内産業の空洞化が、危惧(きぐ)されるようになった。 80年代ごろから日米の貿易問題が深刻になり、何度か日米間で会議が開かれた。 アメリカは1988年には包括通商法を改正して、不公平な貿易相手国に輸入制限や高関税などの報復措置(ほうふく そち)をとれるようにするスーパー301条を制定した。 このため日本は、市場開放に前向きにならざるをえなくなった。そして、1989年には日米構造協議が開かれ、1993年には日米包括協議が開かれた。 89年の会議では、日本の市場開放、および、そのための規制緩和の方針が求められた。そして1993年の協議では、より具体的なことが決定し、「大規模小売店舗法」(大店法)の規制緩和の方針が決まった。(のちの橋本龍太郎内閣で、大店法の規制緩和の方針の改正法案が成立した。) 1991年には、アメリカからの強い要望で、牛肉・オレンジの輸入自由化が決まった。 それとは別に、1994年からアメリカ政府は日本政府に年次改革要望書を提出し、この要望書で、さまざまな要求をした。2009年の民主党の鳩山内閣で年次改革要望書が廃止されるまで、さまざまな要望がアメリカから出された。 ウィキペディア日本語版の記事によると、年次改革要望書によって実現した政策は、 と多い。 1995年の村山政権では、日本による過去の(アジアへの)侵略と植民地支配を謝罪する内容の村山談話(むらやま だんわ)が発表された。 2001年4月に成立した小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣は、自民党・公明党・保守党の連立政権であった。 小泉政権は「聖域なき構造改革」をスローガンに、経済政策や行財政では新自由主義を採用し、郵政民営化や、労働の規制緩和を行った。 小泉は自民党総裁の任期満了にともない、2006年に小泉は首相を辞職し、後継の内閣は安倍晋三(あべ しんぞう)内閣になった。 小泉政権のころから自民党は、公共事業を削減したり、地方交付税を削減したため、地方格差が目立つようになった。 また、非正規労働者は、この頃から急増したと思われる。 「郵政解散」の用語は無い。当然、「小泉劇場」とかのフレーズも無い。 しかし、いちぶの検定強化書で、解散総選挙をしたことは書かれている。 2005年の8月の参議院で郵政民営化法案が否決されたとき、小泉は衆議院を解散して総選挙を行って、選挙に圧勝し、民営化が民意に支持されてることを主張した。 そして選挙後の10月、郵政民営化法案が可決された。 また、郵政民営化をめぐって対立した政治家の亀井静香(かめい しずか)や、亀井の創設した国民新党の説明も無い。 小泉の民営化改革は、郵政民営化のほかにも、道路関係四公団の民営化がある。 また、実質的な地方交付税の削減である、地方への財源移譲の改革もある。(東京のように富める自治体は、ますます富むが、地方の貧しい自治体は、ますます貧しくなる。) 現在(2018年に記述)の政治評論などでは、よく、小泉政権が、民営化路線や規制緩和路線の政策の代表例として挙げられることが多い。 しかし、1980年代の中曽根内閣のころから、民営化も規制緩和も、実行されていた。中曽根内閣のころにも、電信電話公社(現在のNTT)や国鉄(現在のJR)や専売公社(現在のJT)が民営化された。 労働者の「派遣」社員制度の規制緩和についても同様に、けっして小泉政権が元ネタではなく、中曽根政権が元ネタである。小泉政権時代の2004年にも規制緩和が進んだが、しかし1986年の中曽根内閣のころから既に「派遣法」があって派遣制度は存在し、その後も規制緩和の方針での法改正が1993年・1996年とつづいたのである。けっして小泉が最初に派遣の規制緩和を考えたわけではない。 さらに中曽根政権の前の鈴木内閣で既に、いちぶの行政の民営化の方針が決められていたのであり、その後の中曽根政権はその民営化方針を実行したにすぎない。 軍事学ですが、戦術論では、中国の兵法書『六韜』(りくとう)で、仮想敵国を滅ぼすための外交戦略として、 という格言があります。 つまり、敵意を隠して、敵対勢力の中にある不合理なものを自分の気持ちにウソをついて褒めることにより、そのウソを真に受けた敵集団の中での不合理なものの割合を増大させることができるので、効率的に侵略できる、という戦術です。 実際、平成の日本国内の国政でも、国会の政局論争でも、失言などによって政党支持率を低下させた党首ほど、なぜか対立野党が褒め称えるという現象がありました。自民党の森政権の時代、2001年の『えひめまる沈没事故』やゆとり教育などに関して、自民党が日本国民から嫌われて自民の支持率が下がったとき、野党(民主党など)は当初は政権を攻撃していましたが、 しかし自民党が総理・党首を変えようとすると(のちに小泉潤一郎が総理になる)、野党の民主党党首の鳩山由紀夫は、 「なぜ変えるのか? 総理を変える必要はない」と言った感じのことを国会論戦で言いました。これは普通にテレビ報道されているシーンです。 野党からすれば、国民から嫌われた自民党党首のままで居てくれたほうが、次回の選挙がラクになるので、だから将来の選挙を見越して、その前の国会の会期中にはあえて対立政党の問題点を批判しないでむしろ選挙前のテレビ番組出演の可能期間までに取っておくために国会では対立政党の弱点を褒めておくという国会戦術すら存在するくらいなのです。 ただし、具体的な問題点(および問題の無い点)を明示する批評にしか、価値はありません。世の中には、曖昧な言葉でケチつけて、具体的な問題点を指摘しないことにより、達者ぶりたがることが好きなヘンな人がいます。それやってる人間は一片たりとも信用しないのが良いでしょう。 また、別の注意点として、政治の世界だと、この現象(「教えてくれる人が偉い」)を逆手にとって悪用して、大して情報価値の無い些細な事をまるで押し売り的に敵対勢力の若者・新人などに教えて、「教える側の自分が、さも相手より上位である」かのように周囲に印象づけようとする姑息(こそく)な手口もあります。 アメリカ同時多発テロが2001年9月11日に起き、アメリカのブッシュ大統領が対テロ戦争(the war on terror)の方針を打ち出すなどすると(そしてアメリカ軍は、テロ首謀者の潜伏しているとみられるアフガニスタンの一地域を空爆などによって攻撃し、テロ組織を支援しているとみられるタリバン政権を打倒した。)、日本の小泉政権は積極的にアメリカの方針を支持した。そして2001年10月に日本ではテロ対策特別措置法が成立した。 そして日本は、多国籍軍支援のため、海上自衛隊をインド洋に給油活動のため派遣した。 その後の2003年3月にアメリカのブッシュ政権がイラク戦争を開戦すると、アメリカはただちにフセイン政権を打倒し、アメリカ軍はイラク占領に入った。(このイラク占領では、中東アジア系勢力によるものと見られるテロが多発し、アメリカ軍は苦しめられる事になる。) そして日本は同年7月にイラク復興支援特別措置法を成立させ、イラク復興活動として自衛隊をイラクに派遣した。(2009年2月まで、イラクに自衛隊が派遣されていた。) (なお、アメリカ軍は2011年12月にイラクから撤退する。) 小泉政権は、その圧倒的な支持率により、それまでタブーとされてきた「日米同盟」など表現を国民に提唱した。 小泉以前の日本では、憲法によって、日本は「戦力」をもたないというタテマエのため、自衛隊を軍隊とみなす発言はタブー(禁句)的な扱いであり、そのような事情もあり、マスコミも公文書も小中高の教科書も 日米安全保障 のことを「日米同盟」とは呼ばなかったが、しかし小泉は積極的に「日米同盟」という用語を使った。 もっとも、自衛隊にイラクなどに派遣する際には、派遣先の地域については「非戦闘地域」であるという表現を、小泉政権は使った。 また、小泉は、A級戦犯をまつっているとされる靖国(やすくに)神社に首相として公式参拝した。 2002年に小泉純一郎首相は北朝鮮を訪問して北朝鮮の金正日朝鮮労働党総書記と会談して、日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤン宣言)を結び、これによって北朝鮮による拉致(らち)被害者の一部の帰国が実現した。 しかし、日朝の国交は(2018年の)いまだに正常化していない。 小泉純一郎の辞職後、約1年で首相が交代する期間が2009年まで続いた。 この2006〜2009の期間の自民党内閣は、安倍晋三・福田康夫・麻生太郎の内閣である。 2006年の安倍政権の時の、中華人民共和国での反日デモの激化。 2008年にアメリカで起きた金融恐慌の影響を麻生内閣は受け、自民党の支持率は大幅に下がった。そして2009年の選挙では民主党が圧勝して第一党となり、民主党の鳩山由紀夫(はとやま ゆきお)内閣が成立した。 このときの民主党政権は、民主党・社民党・国民新党の連立政権である。 鳩山内閣は、子ども手当ての支給などの政策を行った。 しかし、沖縄のアメリカ軍の普天間(ふてんま)基地の移設問題で、行きづまり、鳩山は首相を辞職し、2010年、おなじ民主党の菅直人(かん なおと)に内閣を交代をした。 菅直人内閣の時代には、尖閣諸島の周辺で中国漁船が領海侵犯した事件により(尖閣諸島不審船事件)、日中関係が悪化した。 菅直人内閣の時代の2011年3月11日、東北沖を中心とする大地震が起き、東北地方を中心に大津波により壊滅的な被害を受けた。震災・津波による死者は約2万人となった。 そして、東京電力福島第一原子力発電所では、津波などの被害により、大量の放射性物質もれをする深刻な事故になり、多数の近隣住民が避難する事態となった。 これらの事故の対応で民主党は批判をあび、2011年に菅直人は政権を同じ民主党の野田佳彦(のだ よしひこ)にゆずった。 2012年の衆議院選挙で民主党は大敗し、自民党政権となり、自民党の安倍晋三(あべ しんぞう)内閣(第2次)が成立した。 (※ 日本の国会について、検定教科書で教えられてるのは、ここらへんまで。第二次安倍政権の内容について、経済政策を簡潔に説明している教科書もある。) 文化については、1970年代から、もう検定教科書で、あまり紹介していない。このため、1980年代に流行したファミコンなどの家庭用ゲーム機も、教科書では、まったく触れられないのが通常である。 ファミコン以前にも、家庭用ゲーム機は販売されていた。しかし、ファミコンは売れ行きがケタ違いに高かった(世間では、ときどき、てっきり、ファミコンが日本初の家庭用ゲーム機だと誤解している人がいる)。なので、小中高の教育の段階では、ファミコンを優先的に紹介するのは意義がある。 なお、世界初の家庭用ゲーム機は欧米産のオデッセイ。 日本初の家庭用ゲーム機はエポック社のテレビテニス。 ファミコンと上記のゲーム機との差異についての説明は、省略する。小中高の公教育のレベルを超えるので。 中学高校の音楽の教科書や副教材などで、過去に、ドラゴンクエストのテーマ曲が紹介されてたりしたこともあった。ときどき、ファイナルファンタジー シリーズの曲も掲載される(FF4やFF10の曲などが過去に学校教材に掲載されたことがあった)。 高校の美術の教科書で、『ゼルダの伝説』が紹介されたこともあった。 また音楽の教科でも、ゼルダを出してる企業の任天堂(にんてんどう)の出しているゲームの『Mother』(マザー)シリーズの曲が学校教材に掲載されたことがあった。 ドラクエとゼルダ、ともに西洋風の中世風ファンタジーを題材にした作品であることも興味ぶかい。ファイナルファンタジーのシリーズも、シリーズ当初は西洋風の中世風ファンタジーを題材にした作品であった。 なおゲーム以外にも、それぞれの時代の歌謡曲など、いくつか学校音楽の教材に掲載されたこともあるし、いまでも、たびたび、一昔前に流行した歌謡曲が掲載される。アニメの主題歌なども、いくつか掲載されたこともあった。 ところで文芸のほうでも世界史では、西洋風の中世風ファンタジーをトールキンという作家が20世紀中期に『指輪物語』という長編小説を書いている。(世界史Bのほうで、帝国書院の世界史Bの教科書でトールキンと『指輪物語』が紹介されている。トールキンは第二次世界大戦の前に書いていたが、発表が戦後になり、影響も戦後になって出てきたこともあり、教科書では戦後史として紹介されている。) この指輪物語が、その後の日本のファンタジー作家にも大きな影響を与えたと考えられている。 90年代からのインターネットなどの技術が文化に及ぼした影響についても、歴史科目では多くの教科書では、あまり触れられてない。(しかし、『情報』教科のほうで、インターネットについては触れられる可能性はある。) 第一学習社の日本史Aの教科書で、歌声合成ソフトの『初音ミク』(はつねみく)が2010年ごろに流行したことを紹介している。 帝国書院の世界史Bの教科書で、本文中ではなく図表だが、20世紀後半の文化として、音楽ではビートルズとか取り上げてる一方、マンガやアニメではともに日本人の作品の『ドラゴンボオール』と『AKIRA』を取り上げている。 20世紀後半の1990年代から、21世紀の始めのほうの2001年の頃にもなると、日本のマンガやアニメの評価が世界的に高まり、娯楽性だけでなく芸術性も評価されるようになり(※ 東京書籍がそう言ってる)、アニメ監督の宮崎駿(みやざき はやお)の作ったアニメが国際的な賞を受賞した。(※ 東京書籍の日本史Bの教科書がそう言ってる。 まず、文化のうち、商業を無視した文化で、比較的に権威のあるとされる文化がメインカルチャーです。「メイン」とは「主流」とかの意味です(清水書院「公共」の見解)。 なにがメインカルチャーかは教科書では紹介されていないですが(そもそもメインカルチャーの用語自体、紹介されていない)、たとえば古典芸能やクラシック音楽などがメインカルチャーでしょう。 一方、ファッションやアニメやゲームなどは、商業が主体なので、サブカルチャーです(清水書院「公共」の見解)。少なくとも、一般的な社会科学的な分類ではそうです。 「サブ」とは「副次的」とかの意味です(清水書院「公共」の見解)。 サブはメインの対義語です。 なお、若者文化のことは「ユース カルチャー」youth culture といいます(※ 清水書院の検定教科書に書いてある)。 日本史Bの検定教科書で、明成社(という教科書会社がある)の検定教科書で、2010年における日本の畜産農業での口蹄疫(こうていえき)の感染拡大について記述されている。 2010年のこの口蹄疫の感染拡大の出来事じたいは、単なる病原菌の感染拡大という生物学的な現象であるが、しかし当初、この問題は、テレビの地方局や地方新聞などを除いて、全国規模のテレビ放送局や全国規模の新聞などでは報道されなかった。 現代では、民主主義を成り立たせるための前提として、国民がマスメディアを活用して情報収集する必要があるが、ともすれば行政は国民を見下し、「パニックを防ぐ」などの名目で情報は隠されやすい。 同じような 行政による情報を隠す行為は、2011年の原発事故のときにもあった。 災害が起きているにもかかわらず、行政はただひたすら「安心してください」と根拠も述べずに、国民を無知なものと見下して命令するだけであった。(のちに全国的に報道され、批判されるようになった。) 他にも、民主党政権時代での、尖閣諸島の中国不審船の侵入事件などでも、当初、行政は、証拠とされるビデオ映像などを非公開としており、情報を隠していた。 そして行政だけでなく、本来はそれを監視する立場であるはずのマスメディアですら、取材をラクにしたいなどの理由だろうからか、取材先にあたる機関などの意向にしたがった報道をする事態もたびたび発生している。(上記の口蹄疫の問題がそうであろう。) しかも残念なことに、日本国内についての出来事の報道でなく、国際問題などの報道についても、マスコミ各社が取材をラクにするための理由などで、本来なら独裁国家などであると報道しなければならないような外国ほど、マスコミは好意的に報道するという事態も、過去に何度か発生した。 実例として、21世紀の今では独裁国家だと言われている北朝鮮ですら、昭和の戦後の時代の日本のマスコミ報道では「地上の楽園」であるとして大手のマスメディアなどで報道されていた時代もあった。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%86%B7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC
熱帯は降水量が多く、雨により養分が流されたため、アルミニウムと鉄が残るため、赤色の土壌になるが、この熱帯の赤色の土壌をラトソルという。 ラトソルは養分が少ない。アルミニウムの鉱石であるボーキサイトの産地は、このラトソルのある地域に多い。 熱帯では、突発的に激しい風が吹くスコールという気象現象があり、しばしば強い降水を伴う。 スコールに伴う降雨で土壌の養分が流されてアルミニウムと鉄が残るため赤色度のラトソルになる。そしてラトソルの地域にボーキサイト産地が多い。 アメリカ合衆国では、各地に半導体産業がある。てっきり、西海岸の「シリコンバレー」のIT産業地域の近くに半導体産業の地域が多そうと思いがちだが、そうではない。じっさいにはアメリカ各地に半導体産業の地域がある。ただし、北部はすでに鉄鋼業など重工業の開発が進んでいるため、中部や南部に半導体産業の工業地域が多い。もちろん、シリコンバレーの近くにも、半導体工場の多い地域がある。 潮境(しおさかい)とは暖流と寒流がぶつかりあう場所であるが、地理学的には、潮目が良い漁場であることが重要。なぜ、良い漁場なのかというと、海水がかき回されることで海底に沈んでたプランクトン(水中の微生物)が巻き上げられるのだが、このプランクトンが魚のエサとなるため、魚にとって栄養豊富な場所になり、そのため魚が集まるからである。また、暖流に住む魚と、寒流に住む魚の両方が穫れる。 1960年代、「緑の革命」(Green Revolution [1][2])とよばれる農産物の品種改良で、農業生産性や収量が向上した。 これら「緑の革命」の品種には、化学肥料や豊富な水などが必要だが、そのかわりに収量の高い品種である。 この「緑の革命」により、先進国で収量が増えたのはもちろん、東南アジアや南アメリカでも灌漑設備などの普及・発達もあり、生産量が増えた。 東南アジアでは、米(こめ)を中心に、品種改良が行われた。 農家にとっては、「緑の革命」の恩恵を受けるには、灌漑のためのポンプや、化学肥料や農薬などの投資が必要なので、それらの投資額をまかなえる富裕な農家には有利だが、いっぽう、その投資をできない小規模で貧しい農家には不利である。このため「緑の革命」は、農家間の格差を広げたとも考えられている。 日本では製鉄所の多くは、世界からは例外的に海岸沿いに製鉄所が立地している。だが、世界的には製鉄所の立地は、輸送コストを減らすため、鉄鉱石の原産地の近くに製鉄所をつくり、粗鋼などを精錬する場合が多い。鉄鉱石には不純物も含まれており、不純物をわざわざ輸送するのは無駄だからである。 世界的には鉄鋼業やセメント工業や重化学工業では、原料(鉱石、原油など)の原産地の近くに生産工場が立地しやすい。 ビール工業は、水の輸送の手間を減らすため、消費地のちかくで生産するのが一般的。 日本では、海に面した工業地帯・工業地域の海岸沿いに製鉄所が多い。これは、鉱石が海外から輸入されてくるので、輸送のコストを減らすために海岸沿いに製鉄所が立地するのである。 人が住めるところの集合をエクメーネという。 人が住めないところの集合をアネクメーネという。具体的には、たとえば南極など極地域、あるいは砂漠、あるいは標高の高すぎる高山の山頂付近など。 穀物の栽培限界と近いが、必ずしも一致するとは限らない。 また、低緯度地方では、標高の高い場所のほうが涼しくて住みやすい場合もあるので、低緯度地方では標高が高い場所だからといってもアネクメーネとは限らない。 地球上のおもな人種は、肌の色などの身体的特徴による分類法により、つぎの3通りに分類される。 という、3つの人種である。 居住地ではなく、肌の色などの身体的特徴により分類する。 なお、おもな居住地をついでに説明すると、 である。 じっさいには混血などにより、さらに人種は細かく分類されるが、とりあえず、この3つを覚えよう。 テストに出やすいのは、 なお、オーストラリアの先住民のアボリジニなどをオーストラロイドとして、コーカソイド・モンゴロイド・ネグロイドとは独立した人種とする場合もある。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E5%9C%B0%E7%90%86
アメリカ・ソ連が朝鮮半島を分割占領。 2016年現在、朝鮮半島には、大韓民国(通称・韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(通称・北朝鮮またはDPRK)という2つの国がある。 20世紀初頭は朝鮮国(日清戦争後は大韓帝国)という国だったが、日清戦争・日露戦争後に、朝鮮は日本に併合され(韓国併合)、植民地になった。このとき、日本本土と同様に近代化政策が朝鮮半島でも進められた。 1945年の日本の敗戦により、名目上は朝鮮民族の独立国として、1948年に韓国と北朝鮮が独立した。しかし、終戦直後からしばらく、韓国はアメリカ合衆国の属国、北朝鮮はソビエト連邦の属国だった。 韓国と北朝鮮の戦争である朝鮮戦争が1950年に起きたが、現在は停戦中である。北緯38度線をさかいに2つの国に分かれており、38度線の北側が北朝鮮であり、38度線の南側が韓国である。 1990年に韓国と北朝鮮は同時に国連に加盟した。 2016年の現在、北朝鮮と日本とは国交が無い。近年、北朝鮮は核実験を成功させ、たびたびミサイル実験を行っている。 韓国の経済では最近は、工業の発展が目覚ましい。とくに電子機器や半導体など電子機械の分野では、世界的にも競争力が高い。自動車産業や造船業もさかんである。 韓国の民族衣装では、女性用の民族衣装であるチマ・チョゴリが有名である(センター試験などにも「チマチョゴリ」は出やすいようだ。センター対策の参考書にも紹介されている。ほかにも男性用の民族衣装などもあるのだが、あまり有名でなく、入試に出ないだろう)。 現在、日本と韓国は国交がある。1965年の日韓基本条約で、国交を回復したのである[1]。 韓国の経済では、財閥と呼ばれる、ごく少数の大企業が、経済に大きな影響力をもっている。 1997年のアジア通貨危機では、韓国も大きな打撃を受け、韓国の通貨ウォンは暴落し、韓国は一時的にIMF(国際通貨基金)に経済をゆだねることになった。 その後、韓国経済は回復し、今日の繁栄に至る。 教育については、韓国はかなりの学歴社会であり、近年では大学など高等教育機関への進学率がほぼ80%を超えて世界最高の水準である。なお、大学の学費は、韓国では有料である。 韓国は国土面積が小さいわりに、人口が4800万人と多いので、人口密度が高い。しかも、首都ソウルに人口が集中してるので、ソウルが過密である。このため、韓国は日本と同様に食料自給率も低く、韓国の食料自給率は約50%である(なお日本の食料自給率は約40%である)。 朝鮮半島の国土は、安定陸塊であり、地震がほとんど無い。 韓国の南部の沿岸は、リアス式海岸になっている。 韓国の気候は、夏は韓国も太平洋の気団の影響を受けて暑くなるが、冬にはシベリア気団の影響で寒くなる。そのため、同緯度の日本や中国の各都市と比べて、韓国は1年の温度差が大きい。 「オンドル」という、伝統的な床暖房のためのカマドがあるのも、そもそも韓国の冬が寒いからである。 韓国の文字をハングルという。漢字ではなくハングルが、韓国では国語の文字として用いられている。 ハングルは15世紀に朝鮮王朝が制定した表意文字である。15世紀の当時は、支配層は漢字を用いていたが、平民は識字率が低く、そのため平民にハングルを普及させて識字率を高めようとしたのである。 近現代になってハングルが普及する前は、韓国の政府などでは漢字を多く用いていたので、漢字に由来する言葉が韓国にも多い。 現在の韓国では、民族固有の文字を重視する政策のため、漢字は日常語としては用いられていない。 儒教の影響が強い。そのため、父親の権力が強い・女性は結婚しても女性の父方の姓を名乗るなど、儒教による制度の名残が今も残っている。 また、韓国ではアジアの中ではキリスト教徒が多い国の一つで、全人口の30%ちかくはキリスト教徒とされる。 1960年代までは、韓国は農業国、または繊維産業などの軽工業の国だった。 1960年代後半からは工業化が進んでいき、1970年代に鉄鋼や造船や石油化学など重工業も発達し、「漢江の奇跡」と言われた。「漢江」(ハンガン)とは、ソウル市内を流れる川の名前。 工業団地が、首都ソウルを中心につくられた。ソウルでは、機械工業が盛んである。また外港のインチョン(仁川)で、造船が盛んである。なお、インチョンには国際空港もある。 また、日本海側の沿岸部のウルサンやポハンで、工業団地が作られ、その工業団地で工業が発達した。ポハンは鉄鋼、ウルハンは鉄鋼および石油化学である。資源を輸入するのに、臨海部のほうが有利だからである。このように、ポハンとウルサンが、臨海型の工業地域を形成している。 また、このような発展により、アジアNIESと呼ばれる新興国として1970年代ごろから国際的に認知されていった[1]。 1990年代ごろから、韓国では電子機械工業や自動車工業が発達した。 1996年に、韓国は、おもに先進国からなるOECD(経済協力開発機構)に加盟した。 一方、韓国に進出していた外国企業が、韓国の賃金の上昇により、韓国から撤退していき、外国企業は中国や東南アジアなどに工場を移していった。 また、都市を中心に工業化が進んだことから、韓国では都市と農村との経済格差が出て来た。農村から、多くの労働者が、仕事を求めるなどの理由で、都市に流入していった。2016年の現在、総人口の約5分の1にあたる1000万人以上がソウルに居住している。 韓国ではインターネットやブロードバンドの普及率が高い。 2011年2月に韓国は、アメリカ合衆国とのFTA(自由貿易協定)に調印。 近年では、プサン(釜山)が韓国最大の貿易港であり、世界的にも規模の大きい貿易港である。 1970年代から、韓国では、農村の所得の低さを解消する目的のために、農地の整備などを掲げたセマウル運動が行われ、灌漑の導入、農業機械の導入などが行われ、韓国農業は生産性が向上した。 韓国は輸出を基盤とした経済のため、農産物の貿易については、米以外の農産物の輸入を自由化しており、そのため中国産の低価格の野菜との競走では、韓国の野菜農家は不利である。 1980年代まで、韓国は、日本文化の流入を規制してきた。しかし、1990年ごろから、日本の文化の流入を開放した。 2002年には、日韓共催サッカーワールドカップが開かれ、両国の関心をあつめた。 また、2000〜2005年頃、韓国製ドラマが、「韓流ドラマ」として、日本の放送局などでも取り上げられ、日本のテレビ視聴者層で話題になった。 これにはアジア通貨危機の際に、国家的経済危機に陥った韓国が経済回復のために、IT・コンテンツ産業を振興させたという背景がある。そのため韓国のインターネット普及率は日本のそれ以上である。 また2010年ごろに日本で第一次K-POPブームが巻き起こったのには韓国国内で違法ダウンロードなどが増え国内の市場が縮小したことが要因の1つになっている。 首都はピョンヤン。 政治は社会主義であり、金日成とその子孫による独裁政治がつづいている。 国名は、朝鮮民主主義人民共和国。 北朝鮮は、ソ連や中国を手本とした計画経済の国であった。しかし、指導者が、農業など産業の知識が乏しいのに口出しをするという(たとえば、農地を広めるために山の森林を大量伐採して、洪水を引き起こすなど)ずさんな経済政策や、軍事費の過大な負担などのため、飢饉や洪水などが、たびたび発生した。 資源が比較的多く、戦前・戦中に日本企業の導入した工場設備なども比較的に多かったこともあり、北朝鮮では重工業化が戦後の早くから進んだ。しかし、経済政策の失敗から、1970年代以降の経済力・工業力は韓国に追い抜かれている。 外交問題として、日本とは国交がない。そして、北朝鮮の工作員に日本人がさらわれたという、拉致問題がある。2002年に、日朝ピョンヤン宣言で、北朝鮮は拉致問題をみとめた。しかし、その後はほとんど進展がない。 なお、北朝鮮は核開発をしているので、アメリカを中心とした多くの国から経済制裁を受けている。核兵器を持っていることが公式に認められている国は、アメリカ・ロシア・中華人民共和国・フランス・イギリス・インド・パキスタンである。北朝鮮は、この核兵器開発をみとめない諸国の姿勢を、アメリカ中心の姿勢だとして批判している。 中国西部は、山脈や高原などの高地である。 いっぽう、中国東部は平原などの低地である。 人口は、東部に集中している。 黄河(こうが)の中流の周囲に、黄土と呼ばれる黄色〜茶褐色の砂の平原がある。黄土は英語で「レス」という。 黄河と長江のあいだあたりに、ホワイ川がある。このホワイ川は、1月の平均気温0℃と年間降水量1000mあたりの線に近く、地理学では大切であるので、チンリン=ホワイ線という。チンリンとは、チンリン山脈のこと。 つまり、農業では、チンリン=ホワイ線よりも北が小麦などの畑作地帯である。チンリン=ホワイ線よりも南側が稲作地帯である。 中国(中華人民共和国)は、人口が約13億人であり、世界でもっとも人口が多く、世界の人口の約5分の1をしめている。 第二次大戦が終わると、国民党と共産党との内戦が起きた。そして、毛沢東ひきいる共産党が勝利した。国民党は、台湾に逃げのびた。 こうして、中国は、毛沢東ひきいる共産党の主導のもと、1948年に中華人民共和国として建国され、社会主義の国となった。そして、中華人民共和国の建国の初期に、多くの企業が国有化された。 そして、1958年から大躍進政策とよばれる農業・工業の大増産を行うが、中国の実情を無視した計画により、逆に飢饉が発生するなどして大失敗に終わる。さらに、1966年から毛沢東が死去する1976年まで文化大革命が行われ、中国の政治・経済はさらに混乱した。その後、アメリカ・日本などと国交を回復するとともに、経済面においては改革開放路線を敷き、自由主義経済を取り入れたことにより、急速な経済発展を遂げつつある。 中国は、1組の夫婦の子供の数は1人だけとする 一人っ子政策 を1979年から行っている。ただし少数民族は、一人っ子政策の適用外である。おもに、漢民族が、一人っ子政策の対象である。 このため、現在、人口の増加は抑えられている。かわりに、高齢者の割合がふえる高齢化が予測されており、心配されている。(いっぽう、インドも人口が10億をこえるが、インドでは人口の増加が予測されている。将来的にインドの人口が中国の人口を抜く可能性が予測されている。) しかし、法律に逆らって、2人目の子どもを産んで、出生届を出さない事態も起きている。出世届けが出されないため、その子には戸籍がない。このように戸籍を持たない子どもは、「闇っ子」のような意味でヘイハイズ(黒孩子)と呼ばれる。都市よりも農村で、無戸籍の闇っ子が多く見られる。 また、中国人は、あと継ぎや労働力として男子が欲しいようで、女の子が産まれても処分するようであり、そのため人口比が男に片寄り始めている。 そういった弊害もあって、一人っ子政策の見直しがされている。両親とも一人っ子の場合には第二子が認められたり、また、第一子が女子の場合には第二子が認められる場合もある。 中国の人口のうち、9割の民族は漢民族(かんみんぞく)である。漢民族は、おもに中国東部に住んでいる。 ある国で、多数派でない民族は、少数民族という。中国は50以上の少数民族を持つ多民族国家である。おもな民族は、漢民族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、ミャオ(苗)族、朝鮮族、ホイ(回)族、チョワン(壮)族、などである。 中国は第2次世界大戦のあとにチベットとウイグル地方を侵略し併合したので、チベット人とウイグル人は、中国の少数民族になっており、チベット民族やウイグル民族として扱われている。 中国政府は、少数民族の自治区をもうけており、チベット自治区などをもうけており、伝統文化などを保護しているが、少数民族の中国からの独立などは認めていない。そのため、中国の支配に対する抵抗運動などがチベットやウイグルなどで、たびたび起きている。こうした独立運動に対して中国政府が厳しい弾圧を加えていること、漢民族との政治的・経済的格差が生まれていることから、人権問題として批判されることが多い。 チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世(14th Dalai Lama)は、1959年にインドに亡命した。 政治制度に関しては、社会主義であり、民主主義では無い。共産党が政治の決定権をにぎっており、事実上は、中国共産党による独裁政治の国である。たとえば政治指導者は、中国共産党内部で決定され、国民からの直接の選挙では選ばれていない。1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。この天安門での抗議運動に関する事件を天安門事件と言う。 中国は農業の大国である。中国のおもな農産物は、米、トウモロコシ、小麦である。 農業は、華南(「かなん」、意味:中国の南部のこと)や華中(かちゅう、意味:北部と南部のあいだ)では、雨が多いため、米の生産が多い。また、これら南部では、茶の生産も盛んである。 つまり、中国の南部では、米と茶の生産が盛んである。 東南アジアに近いハイナン(海南)島のあたりでは、年に2回、米を作る二期作も行われる。 華北(「かほく」、意味:中国の東北部)では、雨が少ないため、小麦・大豆などの畑作が多く、また、コウリャンという雑穀の一種を生産している。なお、近年では、日本などから寒さに強い品種改良された稲を導入するなどして、中国北部でも米の生産もするようになった。 西部は、乾燥しており、あまり農業にはむかず、遊牧などの牧畜が中心である。 中国は、小麦の生産量が世界1位である。(2位インド、3位アメリカ。) 中国北部やインド内陸部などの乾燥地帯の農業では、小麦など乾燥に強い作物の畑作がさかん。 2000年頃から、中国人の食生活の変化により、肉類の需要が増えたため、飼料用作物としてトウモロコシや大豆の消費が増えた。 このため、アメリカなどからのトウモロコシや大豆の輸入が増え、中国は近年(2016年に記述)では大豆の輸入国に転じている。 農産物の品質管理能力が低い企業も多いようで、2000年ごろから中国産の農産物に有害な物質が混ざるなどして、消費者に健康被害が出る問題が発生・発覚している。 中華料理の地域料理は農作物の分布に対応している。南部では稲作が有利なため、ビーフンなどの米を使った地域料理が多い。いっぽう北部の地域料理には、小麦を使ったものが多い。こうした農作物の分布の違いに加えて、文化や風土の差異から様々な料理が生まれた。日本では北京・上海・広東・四川料理が知られる。 北京料理は、北京が明・清時代に首都であったことから北京ダックなどのように宮廷料理をルーツとしているものがある。また、畑作や牧畜が中心のため、米よりも小麦を使ったものが多く、魚よりも肉がよく使われる。日本でなじみ深い麺類(ラーメン)や餃子や饅頭などが、北部の地域料理である。 上海料理は、現在の上海の地域が中国の穀倉地帯であったこと、長江流域に属することから米と豊かな魚介類を使った料理がメインである。日本では小籠包や上海ガニがよく知られている。 広東料理は、広東省一帯が古くから貿易で盛んだったことから様々な食材が使われてきた。くわえて、海に面しているため、魚介類を中心とした素材のうま味を生かした薄味の料理が多い。日本では飲茶やふかひれスープなどがよく知られる。 四川料理は、四川省一帯の料理である。長江流域の内陸のため、湿度は一年中高いが、気温は夏冬の差が激しい。そのため、体調をととのえるとされる香辛料をふんだんに使った料理が多い。食材には肉や川魚がよく使われる。日本でよく知られているのは麻婆豆腐や担々麺である。また、茶の原産地であり、茶を飲む習慣もここから始まった。 なお、少数民族の自治区では、その民族独時の文化や風土にねざした料理もある。 (※ 中国の地域料理の出題が、入試に出やすい。地域料理の分布の傾向には例外もあるだろうが、そのような瑣末な例外的知識は一般の高校生には不要なので、そういう瑣末な知識を問う大学は、相手にしないほうが良いだろう。) 工業は、人件費の安さを利用している。そのため、世界の多くの国に中国の製品が輸出されており、中国は「世界の工場」とも言われている。 南部の沿岸部の地域などに経済特区が多く、そのため工業地帯も南部の沿岸部に多い。南部の香港(ホンコン)の近くにあるシェンチェン(しんせん、深圳)市が経済特区であり、シェンチェンなどを中心に工業が発展している。 南部とは別にも、中国東北部には第2次大戦の前から日本の旧・満州国への投資などで発達していた工業地帯があり、戦後も東北部の工業地帯が重工業の地帯になっている。(※ 検定教科書にも、旧・満州国の設備が、第二次大戦後の中国での重工業に役だったということが普通に書いてある。) 東北部では、アンシャンに鉄山があり鉄鉱石の産地であることもあり、第二次大戦後には東北部で重化学工業が発達した。 なお、華中のウーハン(武漢、ぶかん)にも鉄鋼コンビナートがある。 第二次大戦後、アンシャン、パオトウ、ウーハンで、工業化が進められた。 なお、東北部のターチン油田で、石油が産出する。 そのほか、鉱産資源としてレアメタルがレアアースの産地が中国になる。 第2次大戦後、中国の経済は、市場経済を禁止して、政府が経済を管理する、計画経済の経済政策を取った。 また、農村の集団化のため、人民公社(じんみんこうしゃ)を設立した。 しかし、計画経済がうまくいかず、中国は経済発展が遅れた。1980年ごろから、経済のおくれを取り戻すため、鄧小平(とう しょうへい)の指導により、市場経済を部分的に取り入れていく改革・開放政策に転じ、また、経済特区 をシェンチェン(しんせん、深圳)市やアモイ(廈門)市など一部の地域に導入した。また、この頃、人民公社を廃止・解体した。 (なお現在、経済特区に指定されている都市は、アモイ、スワトウ、シンチェン(しんせん、深圳)、チューハイ、ハイナン島であり、いずれも華南の沿岸部。) 農村でも、自治体が企業として生産活動をする郷鎮企業(ごうちん きぎょう)が設立された。 また、生産請負性が導入された。生産請負性とは、国に一定量の請け負い分の農作物を納めたら、それ以上の農作物は自由に販売してもいいという制度である。 2001年には、中国はWTO(世界貿易機関)に加盟した。近年の中国は貿易黒字であり、その結果、外貨準備高は世界最大である。 欧米や日本などの工場も、人件費の安さや、人口の多さによる消費者の多さを当てにして、おそくとも2000年ころからは、多くの外国企業の工場などが中国各地に進出した。ただし、すでに1970年代から、中国の経済特区には外国企業が進出していた。 2000年代の頃の中国の工場では、液晶テレビ・エアコン・冷蔵庫なども生産できるようになった。そのため、中国は、テレビ・エアコン・冷蔵庫など家電の一大生産国になった。 こうして2000年〜2010年代、中国は、経済の規模がアメリカや日本につぐ経済大国になり、中国のGDP(国内総生産)も世界2位になった。(なお、GDP世界1位はアメリカ合衆国。GDP世界3位は日本。) 2010年の時点では、中国のGDPは世界2位であり、2015年までは中国がGDP世界2位のままである。(なお、日本のGDPは、2010年〜2015年では世界3位である。) GDPは、所得の水準ではない。所得の水準では、中国は、日本やアメリカと比べ、所得が低い。 仮に、日本やアメリカが平均的に高所得の国だとしたら、中国は中所得の国だろうし、インドやベトナムは低所得だろう。 つまり、中国経済は、中所得の国ではあるが、人口が多いため、GDPが世界2位である。 中国は、BRICs(ブリックス)のうちの一国として、各国の投資家などが経済発展を期待している。BRICsとはブラジル(Brazil)、ロシア( (Russia)、インド(India )、中国(China) のこと[1]。 BRICsは国土と人口と資源の多いから、経済発展するだろうと期待された4国のことである。 しかし、近年では、中国でも人件費が上昇しつつあり、外国企業は、より人件費の安いベトナムなどの東南アジア諸国に工場を移している。 なお、中国に進出する外国企業については、地元中国と共同で設立された合弁企業とする中国政府の決めた法律などがあるので、中国進出した外国企業の工場・会社などは合弁企業である。 中国では、貧富の格差もとても大きい。 とくに、内陸部の農村部は貧しい。そのため、農村部から出稼ぎなどで、沿岸部などの都市部に働きに出る。農村部から出稼ぎに来る人たちを 「農民工」(のうみんこう)あるいは「民工」(みんこう)と言う[1]。 また、中国では、農村から都市へ人口が流入している。このような、中国での農村から都市部への人工流入の現象を民工潮(みんこうちょう)という。 中国の経済は、その貧富の格差によって、人件費を低くおさえているという面もある。 中国では、戸籍の変更が困難であり、原則的に農村で生まれたら、農村の戸籍のままである。 したがって出稼ぎ労働者は、戸籍は農村戸籍のまま、都市に出稼ぎにきている人が多い。農村出身者は、たとえ都市に住居を構えても、戸籍は農村戸籍のままである。 中国の法律・制度などによる出稼ぎのありかたでは、都市に住居が確保されてる場合などにかぎり、都市に出稼ぎしてよいのであるが、じっさいには都市に住居を確保しないまま違法に出稼ぎしている場合も多い。 2008年には北京オリンピックが開催された。2010年には、上海国際博覧会(上海万博)が開かれた。 インターネットや携帯電話やテレビなどは、都市部を中心に普及している。しかし検閲などの言論統制が厳しく、インターネットやテレビや雑誌などでの自由な議論などは出来ない。 中国人は、中国の本国とは別の場所にも多く移住している。世界中のいろんな国に中国人は移住しており、それら外国にいる中国人を華人(華僑)という。特に東南アジアやアメリカに多い。 2000年頃から、「西部大開発」として、開発の遅れていた内陸部や西部の開発が進んでいる。理由は、主に経済格差を解消するためや、あるいは、すでに沿岸部の開発が進んで沿岸部は開発の余地が減ったこと等だろう。 西部大開発により、道路や鉄道の基盤が整備され、ガスや電気が整備されている。 重慶(じゅうけい、チョンチン)やチベットなどが、開発されている。 2009年に、内陸部の湖北(こほく、フーペイ)省で、長江(ちょうこう、揚子江(ようすこう)とも言う。)ぞいに、サンシヤ(三峡、さんきょう)ダムが完成した。ダムの建設により、長江の水の流れがせき止められるので、生態系への影響が各国の環境保護団体により心配されている。 鉄道の建設も、各地で進んでいる。西部のチベット自治区では、青蔵(せいぞう)鉄道が2006年に開通した。 工業地帯や都市を中心に、大気汚染が深刻である。理由は主に、燃料の石炭などが大量に燃やされているため。 大気の汚染にともない、酸性雨の被害も発生している。 耕地を広げたり、工業地域や商業地域の開発などのための無理な森林開拓により、森林破壊も起きている。 工場などから出る排水などによる、水質汚染も各地で深刻である。川の魚が大量に死んだりする事例も多く発生している。 中国の国民1人あたりのエネルギー消費量は世界の平均と比べて低く、経済発展によるエネルギー消費量の上昇にともない、これから、まだまだ環境破壊が進むおそれもある。 中国は周辺国との領土をめぐる争いが多い。東南アジア諸国と中国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと争っている。ブータンとは国境問題がある。さらにインド、パキスタンとはカシミールをめぐる領土問題がある。 日本とは、尖閣諸島をめぐる争いが起きている。日本の固有の領土であるが、中国も領有権を主張している。2010年には、中国の漁船が日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きるなど、小規模なトラブルが多く発生している。 韓国・北朝鮮とも白頭山(中国名:長白山)や黄海上の島々の領有をめぐる領土問題がある。 ホンコン(香港)は、1997年にイギリスから中国に返還された。一国二制度によって、例外的にホンコンでは資本主義制度をはじめとしたイギリス領時代の制度が認められている。 第二次大戦後は軽工業や機械工業が盛んだったが、近年ではホンコンは金融の中心地にもなっている。 マカオはポルトガルから1999年に返還された。マカオもホンコンと同じように一国二制度の対象となっている地域である。こちらは伝統的にカジノで有名な島である。 中国には、中国大陸を中心とした政府を持つ『中華人民共和国』と、もうひとつ、台湾に『中華民国』という政府がある。 (※ この記事では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。) 日本とは、1978年にむすばれた日中平和友好条約によって、中華人民共和国と国交があるが、その時から日本政府は台湾と断交している。民間レベルでの日本と台湾の経済交流はつづいている。 台湾の政治は民主主義であり、普通選挙が行われている。親日的である。 台湾を中心とした政権である。首都は台北。工業国である。 台湾は南方にあることもあって、農業では稲作が多い。 台湾の工業では、コンピュータ部品などの産業が、さかんである。大陸側の人件費の安い労働力などを利用するため、台湾の企業が大陸側に工場をもうけたりしている。 1970年代ごろは、アジアNIESのひとつとして、韓国とともに台湾は数えられていた。 第二次大戦の前や戦中では、中国は中華民国という国であり、国民党という政党が支配をしていて、蒋介石という人物が国の支配者だった。しかし第二次大戦後、ソビエト連邦の支援を受けた中国共産党が、国民党と戦闘し、中国は内戦になった。そして共産党が勝利して、中国は、1949年に 中華人民共和国という国になった。 共産党の支配者は毛沢東という人物で、毛沢東が中国大陸の支配者になった。 いっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾にのがれた。 このため、台湾は中華民国になった。このころから、中国は「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。 しかし、日本をふくめ世界の多くの国は、台湾は中国の一部という立場にたっている。また、現在の国際連合では、中華人民共和国を中国の代表として認めており、台湾は国連に加盟できない。
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マレーシアの民族は、大きく分けると、マレー系、インド系、中国系の3つに分けられ、このほか山岳などに少数民族がいる。マレー系住民が国民の6割、中国系住民が国民の3割、インド系住民が国民の1割である。 東南アジアの中国系移民は、移民1世ではなく何代も前から現地に住んでいる。そのため、最近では「仮住まいの中国系移民」という意味を含む華僑ではなく華人という。 マレーシア語の公用語はマレー語だが、中国系住民は中国語を日常的に話し、インド系住民はタミル語を日常的に話す。 宗教は、マレー系住民はイスラム教を信仰。中国系住民は仏教を信仰。インド系住民はヒンドゥー教を信仰。 マレーシアは植民地時代は、イギリスによって支配されていた。植民地時代の影響もあり、マレーシアでは先住民のマレー系住民よりも、華人の経済的な影響力が大きい。そこで、格差を是正するための政策として、マレーシアでは雇用や公立大学入学などでマレー系住民を優遇するブミプトラ政策[1]が取られている。 中国系住民は都市に多く住んでおり、いっぽうマレー系住民は農村に住んでいる。マレーシアの中国系やインド系住民は、イギリスによる植民地時代に連れてこられた人などの子孫である。 イギリス植民地時代のマレーシアは、天然ゴムの主要な産地だった。天然ゴムは植物のゴムノキの樹液から作る。この天然ゴムのプランテーションが、マレーシアの一帯に多くあった。 第二次大戦後、合成ゴムが世界的に普及していくと、天然ゴムが売れなくなってきた。そのため、油やし の栽培へと転換した。油やしからはパーム油という油がとれ、食用油や洗剤などの原料になっている。その結果、マレーシアでの天然ゴムの生産量は減っていき、今ではタイとインドネシアが天然ゴムの主要な生産国である。 また、マレーシアの森林からは、合板などになるラワン材が得られる。 工業では1980年代、マハティール首相がルックイースト政策を打ち出し、西洋ではなく、日本や韓国・台湾などアジアの工業国を見習って工業化を目指す政策を掲げ、また日本など先進工業国からの工場を誘致した。そのため、マレーシアで工場が増えていき、現在では、マレーシアは、タイとならぶ東南アジアの工業国である。 日系家電メーカーの工場が1980年代からマレーシアに進出したため、マレーシアの工業では現在、電気機械工業などが発達している。 シンガポールの国土はシンガポール島とその周辺の小島からなる。もとはマレーシアの一部であり、第二次大戦後にマレーシアの一部としてイギリスから独立したが、中国系住民がマレーシアでのマレー系住民の優遇策に反発して、1965年にマレーシアから分離独立した国である。 シンガポールでは人口の80%ちかくが中国系である。 (※ 歴史総合の範囲:)シンガポールの第一公用語は英語です。民族数では中国系が最多ですが、しかし中国語はマレー語などと同様に第二外国語どまりです。 英語が第一外国語になったのは、建国時の政策による面もあります。シンガポールはマレー系や中国系やタミール系など多民族の国家ですが、しかし民族間の紛争を防ぐため、どの民族の言語でもない外国語である英語を公用語にした経緯があります。また英語はビジネスや科学技術の世界での国際公用語です。このような理念は、シンガポール建国の政治家リー・クアンユーが述べています(「リー・クアンユー回顧録」などで確認できる)。※ 清水書院の「歴史総合」教科書に記載あり。 シンガポールは積極的に外国資本を導入したため経済発展しており、かつてNIES(ニーズ、新興工業経済地域)のひとつになっていた。なおNIESは韓国、シンガポール、香港、台湾の4地域。現在では他の地域も発展してきたため、「NIES」という呼び方の重要性は下がっている。 シンガポールでは電子工業が現在では発達している。独立後に早くから輸出志向型の経済政策を行い、加工貿易によって経済力を高めた。ジュロン工業地区が輸出加工区に指定されている。 マラッカ海峡の近くに位置するため、古くは中継貿易もシンガポールは行っていた。 シンガポールでは金融も発達している。東南アジアでは早くから経済発展していることや、英語が公用語なことなどが、金融の発達した理由と考えられている。現在では東南アジアに進出する企業によってシンガポールの金融が利用されており、シンガポールが世界の金融センターのひとつにもなっている。 国民一人あたりの所得は世界の中でも高い。  インドネシアはスマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島などからなる多島国である。 人口が約2.6億人であり、人口が世界4位の規模である。 人口のほとんどがジャワ島に集中している。インドネシアの首都であるジャカルタはジャワ島にある。 宗教はイスラム教が信仰されている。 第二次大戦前は、オランダの植民地にさせられていた。 インドネシアは、カリマンタン島などに原油や天然ガスの産地がある。 インドネシアには熱帯雨林がある。第二次大戦後のインドネシアはかつて日本に木材を輸出していたが、自国(インドネシア)の産業保護のため、1980年代に丸太の輸出を禁止した。合板など木材に加工すれば輸出が可能である。インドネシアの森林からは、家具材などになるチーク材が得られる。 マレーシアやタイが日本などの外国資本を積極的に導入したのに対して、インドネシアは当初は外国資本には厳しかった。また、インドネシア国内の政治情勢の混乱などの問題などもあり、インドネシアは工業化が遅れ、経済発展が遅れた。 だが、現在ではインドネシアも工業国になっている。 公用語は、マレー語を母体としたインドネシア語である。 民族や地域によって格差が大きい。 16世紀にスペインの植民地になった。そのため宗教ではカトリック教徒がフィリピンでは多い。 ただし南部のミンダナオ島には、イスラム教徒であるモロ族が多く、そのためミンダナオ島で武力衝突や反政府運動がある。 スペインの支配が300年間つづき、その後はアメリカ合衆国の領土になり、第二次大戦中の一時期は日本に占領され、戦後は独立した。 フィリピンの公用語は、英語と、タガログ語を母体としたマレー系のフィリピノ語。 農業ではバナナの栽培が盛ん。日本のバナナ輸入元の外国は、フィリピンが1位。フィリピンから見ても、バナナの輸出先国の大部分は日本である。 このフィリピンのバナナ産業には日本企業やアメリカ企業などの多国籍企業が携わってる。アメリカ企業は、けっしてアメリカ向けのバナナ輸出ではなく、アメリカのバナナ企業は日本向けにバナナ輸出をしてるわけである。 フィリピンの首都はマニラ。マニラはルソン島にある。 貧富の格差がとても大きく、そのためスラムがマニラなどの都市で見られる。 「スラム」とは、貧しい人などが、かってに路上などに住んだり、河川敷などの公共用地に勝手に住んだりして形成された、不法占拠の住宅街のこと。 フィリピンは統計上では、製造業が盛んであり、日本への輸出の貿易総額に占める割合では、統計上では製造業がフィリピンの最大産業となっている( あくまで、統計上では。)。 2010年以降の近年、フィリピンの日本への輸出のうち、輸出総額のうち多くの割合をしめるのは製造業であり、40%ほどが製造業である(※ 2017年センター試験に出題)。 ※ フィリピンでは、タイやインドネシアほど製造業が盛んでないイメージがあるが、なぜかフィリピンで製造業の占める金額が高いのは、下記の理由(ネット調べ)。 第二次大戦前はフィリピンはアメリカ合衆国の植民地だったこともあり、そのため冷戦中には、アメリカの大企業の工場がフィリピンに進出していた時代もあった。 また、1980〜90年代に日本企業の大手電気メーカの工場がフィリピンに進出しはじめた。このため、フィリピンでは、相対的に機械部品の金額の割合が高くなっている。これが、フィリピンで事実上は製造業が最大産業になっている原因のようだ。 (しかし、フィリピンは、このような日米からの投資にめぐまれた環境にあったにもかかわらず、「フィリピンは貧富の差が大きい」と言われ、「国民の多くは貧しい」と言われ、「治安も悪い」と言われる。どうやら、海外企業の工場を誘致するだけでは、一部の投資家や大企業だけが豊かになっても、国民の多くは豊かにならないようだ。) ※ また、一般に電気機械工業は、組立てなどの工程で、(あまり熟練を必要としないが)多数の人間の手作業が必要になる場合もある。なので、電気機械工業そのものは高度な技術を必要とするにもかかわらず、人件費などの費用を安く抑えるために、発展途上国のような貧しい国に、欧米日の電気機械工業の大手メーカーの工場が進出する場合も多い。 第二次大戦前はフランスの植民地だった。第二次大戦後に独立したが北ベトナムと南ベトナムに別れて、1960年代には南北のベトナムが戦争をした(ベトナム戦争)。 北ベトナムは社会主義であり、ソビエト連邦の支援を受けた。いっぽう南ベトナムはアメリカ合衆国の支援を受けた。 ベトナム戦争では最終的に北ベトナムが勝ち、こうしてベトナムは社会主義国となった。 しかし経済的には、社会主義の計画経済が、しだいにソビエト連邦・中国など世界各国の社会主義国で失敗して財政が苦しくなっていき、ソビエト連邦や中国などの工業化も遅れていき、だんだんと社会主義の欠陥が明らかになった。 ベトナムでも計画経済が失敗したため、ベトナムは1986年からは経済政策を改め、政治の統制という意味では社会主義を残しつつ、経済では市場原理を取り入れる「ドイモイ」という政策(いわゆる「ドイモイ政策」)をベトナムは実施した。「ドイモイ」とは「刷新」(さっしん)という意味である。 やがて冷戦が終わり、1995年にはアメリカとの国交が回復し、ASEANにも1995年に加盟した。」 現在では、ベトナム経済は、発展が遅れたこともありベトナムの労働者は低賃金であるが、しかし、ベトナム企業はそれを逆手にとり、人件費の安さによって、輸出用の衣類や繊維などを生産する産業が盛んである。 また農業では、ドイモイ政策後、輸出用として米(こめ)やコーヒーの生産が盛んになり、現在ではベトナム農業では、米とコーヒー豆が、世界でも有数の輸出国となっている。 ベトナムは、コーヒー豆の生産量が世界2位。 (2017年度センター地理B追試験の統計によると、2012年次統計として、コーヒー豆の世界での生産量順位と割合は) (「FAOSTATにより作成」とのこと) コーヒー生産量の2位と3位が、なんと東南アジアである。東南アジアがいつのまにか、コーヒー豆の一大産地になっている。 さて、近年、油田がベトナムの近海で開発されている。 タイの工業は、現在では、工業がそこそこ発達している。日本の自動車メーカーの工場も進出しており、自動車部品なども生産している。 タイで信仰されている仏教は上座部仏教である。 首都はバンコク。 第二次大戦前は、緩衝国(かんしょうこく)だった。イギリス領とフランス領が接触しないようにするための緩衝国である。 このため、タイでは王制が残っており、現在でも国王がいる。 治安は比較的良い国である。 都市地域と地方地域によって国民の所得格差はかなり大きい。 (※ タイは民主政治を原則としているが、ときどきクーデタが起きる。)2014年、軍隊によるクーデタが起きたが、2019年に民政に復帰した。(※ 第一学習社『政治経済』の教科書に書いてある。) タイでは仏教が盛んである。タイの仏教は上座部仏教という宗派である。また、ミャンマー、ラオス、カンボジアも上座部仏教である。 ベトナムでは、大乗仏教が信仰されている。 インドネシアではイスラム教が信仰されている。ただしインドネシアのバリ島ではヒンドゥー教が信仰されている フィリピンではキリスト教のカトリックが信仰されている。 1980年代以降、タイやマレーシアは、シンガポールの輸出志向型の工業化の成功にも見習い、輸出で儲けるため、タイやマレーシアも各地に輸出加工区を設置した。 カンボジア、ラオス、ミャンマーは、過去の政治の混乱などのために、工業化が遅れている。 多雨な地域で、天然ゴム・油ヤシが生産されている。 天然ゴムの生産量では、現在では、インドネシアとタイが天然ゴムの主な生産国である。 油ヤシの生産量では、マレーシアとインドネシアが油ヤシの主な生産国である。 米の生産量ではインドネシアが東南アジアでは第1位だが、そのほとんどは国内消費用であり、輸出用ではない。米の輸出量ではタイが世界1位である。 なお、中国は米の生産量が世界1位、インドが米の生産量の世界2位である。 日本向けの えび の養殖が東南アジアでは盛ん。 インドネシア、タイ、ベトナムなどが、日本などへの輸出に向けての えび の養殖をしている。 えびの養殖場を沿岸部につくるさい、マングローブ林が伐採されるので、自然保護の観点からは問題視もされてる。 雨が多いため、稲作も各地で行われている。 インドネシアのジャワ島や、フィリピンのルソン島などでは、平地が少なく丘陵地が多いため棚田(たなだ)によって米(こめ)が作られている。 その国の産業が、たとえば農業だけに依存してて、プランテーションで特定の農産物ばかり作らされるなど、ほぼひとつの産業に依存してる状態をモノカルチャーという。 たとえばマレーシアは、イギリスの植民地時代のかつて、天然ゴムのモノカルチャーだった。 アフリカや東南アジアや南アメリカなど、かつてヨーロッパに植民地にされたり支配されたりしていた場所では、宗主国の貿易の都合のため、植民地にされた国では、輸出用に特定の産物だけを生産するようにさせられていた。そのため、アフリカや東南アジアなど、それらの国の産業は、植民地時代からモノカルチャーだった。 第二次大戦後の独立後も、いきなりは工業化できないし、農園もいきなりは他の作物には転換できないので、独立したばかりの多くの国でモノカルチャーだった。 モノカルチャーでは輸出用の農産物や原料ばかりを作らされた。いっぽう、穀物や、その国の一般人が生活で必要とする日常品は、あまり作らせなかったので、その国の一般大衆の生活は豊かにならなかった。 たとえば、天然ゴムは、食べられないことに注目しよう。 インドの植民地時代では、綿花や茶を大量に栽培させられていたが、綿花も食べられない。茶は食べられるが、あまり空腹を満たせない事に注目しよう。 東南アジア以外でも、アフリカでもエチオピアでコーヒー豆を大量に栽培させられるのも、やはり、空腹を満たせない。 このように植民地の農業では、いわゆる「商品作物」「換金作物」ばかりをプランテーション(大農園)で栽培させられたのである。 だが東南アジア各国では現在、モノカルチャーからの脱却に成功している。また、モノカルチャー時代の農産物も、現在では主要な農産物として活用している国も多い。 1997年に東南アジアなどの通貨が暴落するアジア通貨危機が起き、深刻な経済危機におちいった。このアジア通貨危機は、タイの通貨バーツが下落したのがキッカケである。 しかし、これを先進各国の貿易企業は逆手にとり(欧米だけでなく日本もふくむ)、通貨の安さにもとづく賃金の安さを見こんで、先進国の企業がどんどん東南アジアに進出した。 ベトナム戦争が起きると、インドネシア・マレーシア・シンガポール・フィリピン・タイの5ヶ国により、経済などの協力をめざすASEAN(東南アジア諸国連合)が結成された。その後にブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジアが加入して現在に至る。元々は社会主義勢力に対抗するための組織だったが、ベトナムも加盟していることからわかるように、現在は政治経済分野での共同体となっている。 また、日本・中国・韓国は、ASEAN諸国に積極的に投資しているので、ASEAN加盟国に日本・中国・韓国の3国をくわえた枠組み もあり、それを「ASEAN + 3」という。 ASEAN域内では現在、関税の引下げをしており、そのためのASEAN自由貿易地域(AFTA、アフタ、ASEAN Free trade Area)が締結されている。これらの政策によって、自動車産業などではASEAN域内での部品ごとの分業が発達している。
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インド半島は、中部から南部が(デカン高原に相当する地域が)、大陸移動説でいう旧ゴンドワナランドに相当し、安定陸塊(あんていりくかい)である。 ヒマラヤ山脈は、プレートテクトニクスでいうところの、インド=オーストラリアプレートと、ユーラシアプレートが衝突してできた。 気候は、モンスーンの影響によって、雨季と乾季がある。 夏が雨季である。冬は乾季である。 夏(4月〜10月)は海洋から吹く南西からの風の影響により、夏が雨季である。 冬(11月〜3月)は大陸から吹く乾燥した風の影響により、冬が乾季である。 しかし、いくつかの地域では、地形の事情により、年中、雨の少ない、乾燥帯となる。 さて、デカン高原の土は、玄武岩が風化してできたレグール(regur)という土である。 インド地方のデカン高原の地域の多くで綿花が栽培されている理由も、おそらくはレグールの特性を利用した産業によるもので、このレグール土は黒色で保水力が大きく、また綿花の栽培に適しているから、綿花の栽培が盛んになったのだろうと地理学では考えられている。 インド半島の東がわにある大きな川がガンジス川。西がわにある大きな川がインダス川。 ガンジス川下流に広大なデルタ(三角州)が広がり、農業などに利用されている。 第二次大戦前はイギリスの植民地であったが、1947年にヒンドゥー教の多いインドと、イスラム教の多いパキスタンが、イギリスから別々に独立した。1948年にスリランカが独立した(当時の国名はセイロン)。 また、バングラディシュは、パキスタンから分離独立した。 インド、ネパールはヒンドゥー教が盛ん。インドは、特定の宗教を国教にしていない。 (まとめ) スリランカを通して東アジアへ伝わった仏教を大乗仏教という。 ヒンドゥー教は、ビシュヌ神やシヴァ神などを信仰する多神教である。(※ 神様の名前は、地理の範囲外なので、おぼえなくて良い。ただし、「倫理」科目や「世界史」科目では、シヴァ神は有名な神なので、私大や国立文系2次では問われる可能性もある。) ヒンドゥー教では、牛(うし)を神聖な動物と見なす。牛そのものが神様のひとつだったり、牛が神様の乗り物だったりする。 なので、ヒンドゥー教では牛肉を食べない。しかし、牛乳を飲むのは構わない、とされる。 ガンジス川を神聖な川としており、ガンジス川での沐浴(もくよく)で、現世での宗教的な汚れを落とせる、とヒンドゥー教では考えている。 輪廻転生(りんね てんせい)を信じている。 カースト制と呼ばれる身分についての慣習があり、これが身分差別につながることから、現在では憲法によってカースト制は禁止されている。だが、あいかわらず、身分についての差別が強い、と日本では一般的に言われている。 イスラム教と混同しないように。 イスラム教は一神教である。イスラムの神は、アラーの神だけである。イスラム教では、ブタを汚れた動物と見なす。なのでイスラム教では、ブタを食べない。 イスラム教の経典は、コーラン(クルアーン)である。 2011年の時点で、インドの人口は12億人ほどである。 なお、第二次大戦直後の独立のころのインドの人口は約3億人である。 このように近年のインドの人口が多いため、世界の投資家などの予想で「インドは生産者・消費者の人口も多いから、きっと経済発展するだろう」的なことを、各国から考えられ、各国からインドに投資されている。 第二次大戦直後ごろのインドは、多い人口に食料生産が追い付かず、慢性的に食糧不足の国だった。しかし、1960年代からの「緑の革命」による農業改良によって、農業の生産量が向上した。 そして1980年代には、インドは食料の自給が可能になった。 一方で、農家によっては高収量品種や大量の化学肥料を導入できない場合もあるため、貧富の差が拡大する傾向がある。 近年のインドで、ミルクや乳製品の生産量が増えたことを「白い革命」という。 インドの経済発展により、ミルクなどの需要が増えたため、ミルクなどの生産量も増えた。 ちなみに近年、宗教的な禁忌の少ない鶏肉の消費や生産が増えたことを「ピンク革命」という論者もいる。(帝国書院「地理総合」がピンク革命を紹介。) カシミール問題とは、インドとパキスタン、さらに中国が、カシミール地方の領有をめぐって対立している領土問題のことである。 「緑の革命」「白い革命」にくわえて、以下のことが重要である。 インドでは、アッサム地方が世界的な茶の産地。なぜならアッサム地方には傾斜地が多く、また、茶は水はけのよい場所で栽培しやすいので。 ※ インドの茶は「チャイ」と呼ばれる。 そのほか、ダージリン地方が紅茶の産地。ダージリンは、アッサム地方の西にある。 麻袋などの原料になる植物のジュートの栽培が、ガンジス川下流のデルタ地帯で行われている。 稲作が、ガンジス川の中流〜下流の各地で行われている。 小麦の栽培が、インド北西部のパンシャブ地方や、ガンジス川上流を中心に行われている。これら(パンジャブ地方、ガンジス川上流)は、降水量が少ない、インド北部の内陸部である。 ※ インドのパンのような料理で「ナン」というものがある。このようにインドでは小麦が主食。こういうのと関連づけて覚えよう。 インドはバナナの生産量が、世界一である。(2017年度センター地理B追試験。なお、知らなくてもセンター問題は解けるようになってる。) 日本ではフィリピン産のバナナが有名だが、なんとフィリピンのバナナ生産量は世界3位でしかない。バナナ生産量の世界2位は中国である。 (2017年度センター地理B追試験の統計によると、2012年次統計として、) (「FAOSTATにより作成」とのこと) インドの牛肉輸出量は世界一(2017年)。(※ 高校の帝国書院「地理総合」) ヒンドゥー教では牛は神聖な動物なのでヒンドゥー教徒が牛を食べることは、普通、ない。 しかし、インドの人口すべてがヒンドゥー教徒なわけではなく、インド内にいるムスリムは牛肉を食べることや、またインドではミルクなどの生産のため牛を飼っている事もあり、大量の牛がいるので、ミルクを出せなくなった牛が外国に食肉として輸出されたりするのが現実であるとのことである。 なお、インドの茶であるチャイにもよくミルクを入れるとのこと。 インドではIT産業が発達している。インド南部にあるバンガロールにIT産業の工業団地があり、IT産業が発達している。このためバンガロールが「インドのシリコンバレー」と呼ばれている。 インドでは英語が補助公用語になっている。 このため、アメリカと貿易をしやすく、アメリカ企業からインドのIT産業に投資されている。インドとアメリカの時差が約12時間である。このため、アメリのIT企業がインドのIT企業に注文をだすと、アメリカでの夜中のあいだにインドは昼間なので仕事が進むので、アメリカの翌朝までにインドからアメリカにインターネットで成果が届き、アメリカからすれば翌朝には仕事が片付いているので、便利である。 東部のダモダル川の下流域が、第二次大戦後に工業地域として開発され、周辺の炭田(石炭)や鉱山(鉄鉱石、ボーキサイトなど)も開発され、この地域では重化学工業などが発達している。 また、インドでは近年、自動車の生産が、デリーやムンバイなどで、増えている。 インドの首都であるデリーはインド北部にある。デリーでは自動車工業と綿工業が盛ん。 インド西部の沿岸部にあるムンバイでは、自動車工業と綿工業が盛ん。 その他、零細(れいさい)な繊維(せんい)工業が、それらの原料である綿花やジュートの産地の近くの地域で盛んであり、家内工業で紡績などをしている。 第二次大戦後、インドは工業の国産化を重視したため、重化学工業を公営企業化した。第二次大戦後、軽工業など重化学工業以外の工業は民営化したが、外国からの参入などを規制して、国内産業を保護した。 しかし、経済競走がとぼしく、そのためインドの経済力が落ちた。 よって、経済改革をするため、1980年代から部分的に経済統制をゆるめていき、そして1991年には経済開放によって経済をほぼ全面的に自由化した。この1991年の改革によって、外国との取り引きや、外国企業の参入なども、規制緩和された。 農村と都市との非常な貧富の格差がある。 インドではヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教では牛(うし)は神聖な動物として扱われるため、インドでは牛が神聖な動物として扱われる。 インドの公用語はヒンディー語。だがじっさいには、準公用後の英語がインドでは普及している。 インドは核保有国である。(※ 高校「地理」の教科書・参考書にはインドの核保有について書いてないが、たぶん「政治経済」「世界史」あたりの教科書・参考書に書いてあるはず。)かつてアメリカ合衆国など核不拡散を主張する国々により、経済制裁をインドはされたが、現在はその制裁が解かれている。 インドの女性の民族衣装としてサリーがある。 インドは、BRICs(ブリックス)のひとつ。BRICsとは、ひとむかし前に経済発展の予想された4つの大国(領土が広く、人口が多いという意味での大国)であるブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)のことで、頭文字をあわせている。 インドのおもな宗教はヒンドゥー教だが、じつはイスラム教徒も少しはいる。またシーク教徒やキリスト教徒も、インドにいる。 インドからの移民が、欧米などにいる。インドでは英語が準公用語なので、欧米で働くのに有利であり、IT業界のインド人技術者などでは、アメリカ合衆国やイギリスなどに移住していく人も多い。 ちなみに、インドからの世界各地への移民のことを「印僑」(いんきょう)と、日本語では言う。 パキスタンの位置は、インドから見て、西側にある。つまり、アラブ地方側に近い位置にある。 つまり、インドから見て、インダス川の方向に、パキスタンはある。 宗教はイスラム教が盛ん。 領土問題で、インドとのあいだにカシミール地方の領有をめぐる領土問題がある(カシミール問題)。 ウルドゥー語を国語とし、英語を公用語とする。 インドとは、友好的ではなく、しばしば国境沿いで武力衝突などが起こる。 農業は、綿花や小麦が盛んである。(インド西部のインダス川方面の農業に近い。インド西部の農業と関連づけて覚えよう。) パキスタンは核保有国である。(※ 高校「地理」の教科書・参考書にはパキスタンの核保有について書いてないが、たぶん「政治経済」「世界史」あたりの教科書・参考書に書いてあるはず。) 国民の多くは貧困層でテロが起きるなどして治安が悪い。 バングラデシュの位置は、インドから見て、東側にある。つまり、東南アジアに近い側にある。宗教はイスラム教である。 バングラデシュの位置は、ガンジス側の下流のデルタ地域の近くにある。 このため、農業が、インドのガンジス川の中下流あたりの農業に近い。バングラデシュの農業は、米(こめ)とジュートが盛ん。(インド東部の農業と関連づけて覚えよう。) 雨季に、洪水の被害を受けやすい。また、サイクロンの被害を受けやすい。 バングラデシュの公用語はベンガル語。そもそも国名の「バングラデシュ」は「ベンガル人の国」という意味。 バングラデシュは、1971年にパキスタンから分離独立した。 国の経済はとても貧しい。国民の多くは貧困層である。 スリランカは、インド洋にあり、島国である。茶の栽培が盛ん。 夏に雨が多く、高温。また、傾斜地が多い。茶の栽培をしやすい場所とは、降水量が多く、高温で、水はけの良い場所である。スリランカは、このような特徴を満たしている。 つまり、スリランカは、気候が夏には降水量が多く、高温であり、また地形は傾斜地が多い。 宗教は仏教が盛んである。 ネパールはヒマラヤ山中にある国であり、内陸国(ないりくこく)である。宗教では、ヒンドゥー教徒が多い。ネパール人の8割はヒンドゥー教徒。釈迦の生誕の地とされ仏教も信仰されている。 (※ 地理的なイメージから、ブータンと混同しやすいので、注意。) ブータンはヒマラヤ山中にある国であり、内陸国である。ブータンの国境は仏教(チベット仏教)。 インド洋に浮かぶ島国。漁業と観光が産業。国教はイスラム教。
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西アジア・中央アジアと日本は、他のアジアの地域ほど強い繋がりを持っていませんでした。しかし、西アジアは石油、中央アジアは天然ガスやレアメタルの重要な供給源です。いろいろな見方をしてみましょう。 西アジアとは、アフガニスタンから地中海までの地域をいいます。中央アジアは、カフカス諸国(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)から北のパミール高原、天山山脈までの地域です。面積はカザフスタンが最も大きく約270万㎢、サウジアラビアが2番目に大きく約220万㎢です。最も人口が多いのはイランとトルコで、それぞれ約8000万人です。次いでイラクとアフガニスタンがそれぞれ約3000万人です。西アジア・中央アジアは砂漠や山が多いため、人口密度は1㎢あたり38人程度とそれほど高くありません。しかし、人口増加率は比較的高く、今後も増加していく見込みです。 砂漠の多い西アジアや中央アジアでは、人は限られた場所にしか住めません。そのため、オアシスのような水のある場所に都市が作られました。遊牧と灌漑農業が盛んな西アジアや中央アジアの人々は、古くから交易や商業の場として都市を発達させました。これらの多くの都市は、中国とヨーロッパを結ぶシルクロードを初めとする陸上・海上の東西交易路の要所として重要な地位を占めました。19世紀末頃、西アジア諸国はイギリスとフランスに政治・経済的に支配されるようになりました。独立後も、石油資源は欧米企業が独占していました。 人々の生活習慣や価値観から、都市が交易を中心に発展してきた様子が伝わってきます。バザールはアラビア語でスークとも呼ばれ、衣服や食器、農具、食料、香水などを販売する伝統的な市場です。バザールでは、商品の売買や情報交換が活発に行われています。街角にはイスラム教のモスクがあり、金曜日にはイスラム教徒が店を閉めてそこへお祈りに行きます。多くの外国人が行き交う街なので、そこに住む人々は異文化を受け入れて、おもてなしを大切にする文化があります。 西アジアでは、河川やオアシスの周辺に大都市が発達しました。例えば、バグダッドはティグリス川やユーフラテス川のような大きな川の流域で発展しました。また、ダマスカスはレバノン山脈から流れ出る川の流域で発展しました。このように、都市を中心とした文明は、古代から中世にかけて支配したイスラム王朝の時代にも発展しました。 中央アジアでも、ブハラやサマルカンドといった都市がシルクロードの拠点として発展しました。また、イスラム文化の中心地となり、現在も多くのモスク(イスラムの礼拝堂)やマドラサなどが残っています。さらに、カザフスタンの首都ヌルスルタンは、1990年代にソ連から独立して建設された都市です。ソ連が統治していた時代には、政治の中心は全て中央アジア諸国の首都に置かれていました。独立後は、自分達の都市を作り、ロシアの影響から離れようという動きが出てきています。しかし、古い都市基盤を維持するために多額の費用がかかるなど、問題も少なくありません。 アラビアプレートは紅海とペルシャ湾の間にあります。アラビアプレートの北側でユーラシアプレートと合流しています。西アジアの新期造山帯がイランからトルコ、イランからアフガニスタンまで広がっています。ザグロス山脈はアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部になっています。ザグロス山脈以外にも標高5000m以上の高山は、上記地域内にあります。そのため、環太平洋造山帯に含まれる日本と同じように、地震多発地域でもあります。 アラビア半島は、世界最大のルブアルハリ砂漠を中心とした安定陸塊です。アラビア半島の紅海に接した側は、ペルシャ湾に接した側よりも高い位置にあります。半島北部では、ティグリス川とユーフラテス川が農耕に適した肥沃な沖積平野を作っています。古生代から中生代にかけて、ペルシャ湾周辺の広い海域に溜まった厚さ数千mの地層があります。ペルシャ湾岸は、微生物の遺骸が集まった地層と微生物が作る石油を集める地層があるため、世界でも有数の石油資源が豊富な場所となっています。 一方、中央アジアは、そのほとんどが古期造山帯や安定陸塊に含まれています。中央アジア北部は、-28mの高さにあるカスピ海からパミール高原や天山山脈の間にあります。パミール高原はインド半島の衝突時に隆起しました。 西アジアも中央アジアも乾燥地域です。アラビア半島はほとんど砂漠で、亜熱帯の高気圧に覆われています。イラン北部が乾燥しているのは、内陸にあり、海からの湿った風があまり当たらないからです。また、イラン北部は山脈の風下にあるため、カヴィール砂漠やトルクメニスタンのカラクーム砂漠のような大きな砂漠があります。カザフスタン北部の気候はステップ気候で、カザフステップは肥沃なチェルノゼムのある草原です。地中海沿岸から南部のカスピ海、天山山脈北嶺までは地中海性気候です。 乾燥地域では、死海のような塩湖が多く、そこに流れ込む川はありません。また、アラビア半島にはワジと呼ばれる涸れた川がたくさんあり、ラクダの商人や自動車の道路として利用されています。 乾燥地帯の多い西アジアや中央アジアでは、水は農耕のための貴重な資源です。砂漠でもオアシスと呼ばれる場所では、湧き水を利用して小麦・ナツメヤシ・西瓜・メロン・葡萄などを栽培しています。イランやアフガニスタンなどの砂漠地帯では、オアシス農業が行われています。山の麓にある地下水脈から水を汲み上げ、水を供給するためにカナートやカレーズが利用されています。カナートやカレーズは、水が蒸発しないように、山脈など地下水の多い場所から集落や農地まで掘られた地下水路です。地下水路は、緩やかに傾斜した横穴でつながっています。ほとんどの場合、土地を所有する投資家が、水も所有します。地下水路の掘削や管理には費用がかかるため、水の利用方法には厳しく決められており、小麦や綿花が栽培されています。イラクのメソポタミア平原では、外来河川ティグリス・ユーフラテス川を農作物の水源として利用されています。 遊牧は、水不足で農耕が困難な地域で行われます。自然の草や水を求めて、住居や家畜を移動させる生活様式です。場所を変えながら飼育させると、草や木の芽を食べ尽くさずに済みます。 乾燥した地域では、乾燥に強い駱駝が飼われます。駱駝は荷物の運搬や乗り物として使われます。このほか、羊は草原で飼育されています。駱駝や羊の家畜から出る生乳が遊牧民の主食となります。余った生乳は塩を加えてチーズやバターにします。肉を食べると動物の数が減るので、休日やお祝い事など特別な日にしか食べません。木が育たず、燃やす木がないため、家畜の排泄物を燃料として利用します。家畜の毛や皮は、衣服やテントの材料として使われます。 遊牧民は開かれたオアシスの町に行き、乳製品や皮、動物などを小麦やナツメヤシと交換して農民と交易を行ってきました。近年は国の定住政策によって、遊牧民も自動車を使い、新しい仕事を求めて都市に移動しています。 ペルシャ湾の産油国は、石油を売って得たお金(オイルマネー)で、砂漠でも地下水を利用した農業や牧畜業に投資しています。1970年代、サウジアラビアでは、地下水を汲み上げてスプリンクラーで散水するセンターピボットを導入して小麦や野菜を栽培していました。1980年代には、小麦は国外に出荷されていました。しかし、1990年代以降、節水や補助金の打ち切りにより生産量は減りました。今では、国内消費分しか栽培していません。また、牛乳は空調で一定温度に保たれた室内牧場で作られています。 中央アジアでは、外来河川のシルダリア川やアムダリア川の水を、昔から農作物の水やりに使ってきました。また、山岳の多い東部では、地下水路も農作業に利用されてきました。 ソ連時代、中央アジアの乾燥した土地は、自然改造計画によって農地化されました。肥沃な土壌のチェルノゼムからなるカザフステップでは、企業的穀物農業地域に変わりました。さらに、トルクメニスタン南部の砂漠地帯には、アムダリア川から水を得るために世界最大の灌漑用運河であるカラクーム運河が建設されました。カラクーム運河は、アムダリア川とカスピ海を結ぶために建設された運河です。現在、トルクメニスタンのアシガバードの北西まで開通しています。その結果、広大な農地が生まれ、カザフスタンを中心に小麦の生産が増え、ウズベキスタンなどでは綿花の生産が伸びました。しかし、カザフステップでは、草地になっていたために保護されていた肥沃な表土が農地化によって流され、収穫量が落ちた場所もあります。塩害により、シルダリア川やアムダリア川流域の灌漑農地では作物が育たなくなりました。一方、アラル海の上流では無計画な灌漑によって、湖に入る水量が減り、ほとんどが干上がってしまいました。その結果、沿岸での漁業が出来なくなりました。湖水から出る塩分も乾いて近くの農地にまで広がりました。塩分を含んだ砂嵐は、そこに住む住民の健康被害をもたらしました。 イスラム教は、アラビア半島で始まりました。現在、西アジア、中央アジア、東南アジア、北アフリカ、東南アジアで見られます。信仰がどの程度日常生活に浸透しているかは、地域によって異なります。しかし、イスラム教は世界中に広がり、ペルシャ(イラン)やトルコなどアラブではない国にも広がりました。その理由は、どんな人種や階級でも、イスラム教徒として平等だと感じられるようにしたからです。イスラム教の教義の平等性やイスラム文化の先進性など、イスラム教の発展を支えた要素があります。交易は、西アジアを中心とした当時の世界の貿易網を通じて広がっていきました。例えば、東西交易はシルクロードを通り、サハラ交易はサハラ砂漠を通り、インド洋交易はインド洋を通りました。こうしてみると、ムスラム商人が大きな役割を果たしていました。 西アジアには様々な言語や宗教があり、様々な文化が存在しています。アラビア語は最初、アラビア半島の一部で話されていました。イスラム教が広まるにつれて、イラクから北アフリカへ広がりました。 トルコではトルコ語を話し、政治と宗教が分離した時に、アラビア文字がラテン文字に置き換わりました。イランはペルシア語が話されている国で、ほとんどの人がシーア派イスラム教徒です。アラビア語とペルシア語は同じ書き方ですが、文法は大きく異なります。イラクの人口のほとんどはアラブ人ですが、クルド人など非アラブ人が20%ほどを占めています。イスラエルは国民のほとんどがユダヤ人で、言語も古代ヘブライ語がベースになっている国です。レバノンではキリスト教徒、イスラム教のスンナ派、シーア派が対立し、それぞれの人数に応じた国会議員の数が決められています。シリアではアラブ人が大半を占めますが、キリスト教のアルメニア人もいます。 クルド人は、自分の国を持たない世界最大の民族です。彼らはトルコ、イラク、イランに住んでいます。アフガニスタンのように、様々な人種の人々が全員イスラム教を信仰している国もあります。このように、西アジアには様々な宗教と言語があります。 イスラム教を信じ、アラビア語を話す人々は、これまで異民族や非イスラム教徒に支配されてきました。それを取り戻すために、アラブ人を一つの集団にまとめようとするアラブ民族主義運動が行われてきました。他の宗教でも、宗教を本来の理想的な姿に戻そうとする運動があります。中東では、イスラム政党が、貧富の差の拡大を食い止め、政府の腐敗を止める努力と政治活動を両立させ、大きな成果を上げています。1945年、アラブ系の人々の多いアラブ諸国が集まり、アラブ連盟を結成しました。その目的は、各国の独立を守り、絆を深めようとしたからです。一方、イスラム原理主義と呼ばれる過激派勢力を強めている地域もあります。シリアやイラクでは、政府と過激派組織イスラム国や反体制派との戦闘により、大勢の人々が故郷を離れています。これは国際問題になっています。 西アジアと中央アジアの人々は、どのように行動し、生活するかについて、イスラム教のルールに従わなければなりません。コーランは、アッラーが預言者ムハンマド(マホメット)に告げた内容を要約した聖典です。コーラン(クルアーン)は、アラビア語で書かれている場合だけ認められます。イスラム教は一神教なので、万能の神アッラーだけを信じています。アッラーは見えないので、偶像を崇拝してはいけません。また、イスラム教を始めた預言者ムハンマド(マホメット)は、信仰の対象になりません。 イスラム教徒はただ神を信じるだけでなく、毎日、実際の方法で信仰を示さなければなりません。次の義務(五行)を守らなければなりません。 毎年、世界中からイスラム教徒が巡礼に訪れ、街はイスラム教徒で溢れかえっています。富裕層も貧困層も同じ白いローブを着て、カーバ神殿に巡礼に行きます。これは、人種や民族が信者を隔てない姿勢を示す大規模な宗教行事になっています。  また、酒や豚肉の飲食禁止、汚いとされる左手での食事禁止、屋外に出る女性のみ肌の露出禁止など、日常生活にも厳しい制限があります。 1990年代前半、中央アジアの国々はそれぞれ独立しました。中央アジアは、ペルシア語を話すタジキスタンを除き、ほとんどの国がトルコ語系言語を話します。しかし、これらの国の多くは、かつてソビエト連邦(ソ連)の一部となっていたため、今でもロシア語やキリル文字を使っています。 国民の大多数はイスラム教徒ですが、正教のキリスト教徒もいます。トルコ系やイラン系の民族は羊を中心とした肉や乳製品を売っています。朝鮮民族はキムチを売っており、この地域の文化の多様性が感じられます。多くの人が信仰しているイスラム教ですが、ソ連時代では禁止されました。そのため、新たにマドラサ(イスラム神学校)を立ち上げてイスラム教育を推進しようという動きも見られます。 このように、中央アジアの街並みは、イスラム風のオアシス都市とヨーロッパに建設されたような旧ソ連時代の都市とが共存しています。ソ連時代に農業の集団化(コルホーズ、ソフホーズ)が進んだ結果、農村部には遊牧民が定住し、かつての遊牧生活はほとんど見かけなくなりました。ウズベキスタンの首都タシケントは、中央アジア最大の都市として、長い歴史を持っています。当初はオアシス都市として発展しました。しかし、1966年の大地震の後、旧ソビエト連邦によって都市が再設計され、ヨーロッパ的な雰囲気を色濃く残す都市となりました。 パレスチナ紛争(アラブ・イスラエル紛争)の歴史は古く、ユダヤ人が紀元前1500年頃にパレスチナに定住して国家を樹立した時から続いています。その後、ユダヤ人国家は滅亡して、ユダヤ人は各地に移住させられました(ディアスポラ)。19世紀後半、パレスチナにユダヤ人国家を再建しようとするシオニズム運動が活発になりました。その結果、より多くのユダヤ人がパレスチナに移り住むようになりました。第一次世界大戦中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の協力を求め、アラブ人はトルコからの独立、ユダヤ人はユダヤ人国家を約束しました(バルフォア宣言)。この二重外交のため、パレスチナの主権をめぐる両者の主張が対立して、紛争に発展しました。 第二次世界大戦後、国連はパレスチナ分割決議を採択して、パレスチナをアラブ国家とユダヤ人国家に分割しました。これを受けて、ユダヤ人はイスラエル国を建国しました。100万人以上のアラブ人がパレスチナから追い出されて難民となり、イスラエル建国に反対するアラブ諸国は互いに争うようになりました(第一次中東戦争)。さらに、パレスチナを奪還しようとするパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)が結成され、それに対するイスラエルへの攻撃は激しくなりました。1993年、パレスチナ人は、対話による紛争終結への第一歩として、暫定自治に合意しました。しかし、紛争は解消されていません。現在、イスラエル側の和平推進派と対パレスチナ過激派、パレスチナ側の穏健派ファタハと過激派ハマスが、紛争の終結方法を巡って対立しています。国内にユダヤ人が住んでいるアメリカなどが仲介役となって和平への道を探ろうとしています。 クルド人は世界全体で約3000万人暮らしています。そのほとんどがスンニ派で、タルト語を話します。中世以降、オスマン帝国(オスマントルコ)がタルト人を支配していました。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れた後、イギリスとフランスがオスマン帝国を分割して、クルディスタンと呼ばれる居住地は中東諸国に広がりました。それ以来、タルト人と各国が独自の国家建設を目指す争いが増えました。全人口の5分の1にあたる1200万〜1500万人のタルト人が住むトルコでは、独立のための武装活動が活発になっています。
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テレビ番組でも、アフリカを紹介する時、よく自然や動物が取り上げられます。一方で、支援先・市場先・レアメタルなどの資源開発地として、日本とアフリカの関係はますます深まっています。アフリカの多様な様子を学んでいきましょう。 アフリカ大陸の面積は3000万平方キロメートル以上あり、その大きさはアジアに次いで2番目に大きい大陸です。東西の最長距離は西経17度から東経51度まで約7400kmあり、おおむねヨーロッパの最西端からカスピ海までです。南北の最長距離は北緯37度から南緯35度まで約8000kmあり、大陸のほとんどは南北回帰線より低緯度に位置しています。赤道に沿って、ギニア湾南部・コンゴ盆地・ケニア中央部などが広がっています。中でも、マダガスカル島はアフリカ大陸の南東に位置していて、日本の約1.5倍の大きさです。 様々な民族がアフリカに暮らしており、約1000種類の言語を使い分けているようです。その分布はサハラ砂漠を境界に、北は北アフリカ、南は中南アフリカに分かれています。この項目では、中南アフリカについてしか説明していません。次の節で、北アフリカについて説明します。 各民族がそれぞれの言語を持ち、現在でも中南アフリカの各地域は旧宗主国と経済的・文化的に繋がっています。そのため、宗主国の言語(英語やフランス語など)が公用語となっています。植民地時代にはキリスト教が広がりました。また、イスラームがサハラ砂漠南部のサヘル地域、アフリカ東海岸のソマリアやタンザニアで広まりました。また、東海岸のムスリム商人がインド洋で貿易を盛んに行っています。その結果、今でもムスリムが多く、アラビア語由来のスワヒリ語やアムハラ語などが使われています。4世紀中頃、エジプトはエチオピアにキリスト教を伝えました。エチオピア正教は、現在もエチオピアの主要な宗教です。今でも精霊信仰(アニミズム)やアフリカの伝統的な祖先崇拝を大切にしている地域もあります。 人種隔離政策(アパルトヘイト)時代の南アフリカは世界から孤立していました。人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃後、南アフリカは急速に世界経済とつながり、経済成長を遂げました。 古代エジプト文明が四大文明の一つとして紀元前30世紀頃から栄えていました。その頃から、北アフリカはサハラ砂漠を横断する豊かな交易地域として、長い間イスラームの影響を受けました。7世紀にアラブ人がやって来ると、先住民族のベルベル人は、現在のマグレブ諸国で暮らしていました。マグレブ諸国とは、アラビア語で「太陽の沈む国」を意味します。エジプトを除く北アフリカにある国々(チュニジア・アルジェリア・モロッコなど)で、複数の小さな国から成り立っています。アラビア語とイスラームはアラブ民族の住むアラビア半島から伝わり、マグレブ諸島にも伝えられました。 15世紀中頃から大航海時代が始まり、アフリカと交易しました。その後、ヨーロッパ諸国はインドまでの海洋航路を求めて、アフリカ沿岸部に港をつくりました。インド洋の東沿岸でもムスリム商人が賑わっていました。16世紀になって、奴隷がアフリカから新大陸の植民地に送られ、インディオの代わりに働かされました。17世紀に入って、南北アメリカ大陸でプランテーション農業が発達すると、三角貿易で奴隷も次々と送られるようになりました。三角貿易で、奴隷がアフリカからアメリカ大陸に輸出されました。雑貨・銃はヨーロッパからアフリカに輸出されました。砂糖・煙草・珈琲はアメリカ大陸からヨーロッパに輸出されました。ヨーロッパの豊かな富が、産業革命を実現させました。一方で、奴隷はアフリカから1000万人以上連れ去られたと考えられています。 19世紀になって、デイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーが奥地へ足を踏み入れました。その後、アフリカが農作物や資源の宝庫として注目されるようになり、次々と探検が行われるようになりました。ヘンリー・モートン・スタンリーは中央アフリカの横断に成功しました。また、デイヴィッド・リヴィングストンは南部アフリカの横断に成功したり、ナイル河源流の一つを見つけました。その後、金やダイヤモンドの鉱山が発見されると、列強の植民地支配は進みました。ヨーロッパ諸国は内陸部の開拓と開発を競いました。産業革命がヨーロッパで始まると、住民に聞かず、勝手に農園(プランテーション)・鉱山が開発されました。19世紀後半、コンゴ地域の支配権を巡って争っていたため、ベルリン会議が開かれました。ベルリン会議後、ヨーロッパ各国(イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・ポルトガルなど)がアフリカの大半を植民地化するようになりました。ヨーロッパ列強は、植民地を上手く運営するために、現地の統治者を中心とした間接支配体制を整えました。間接支配体制を維持するために、民族間の対立を利用する場合もありました。 第二次世界大戦後の南アフリカは人種隔離政策(アパルトヘイト)をとりました。この政策によって、少数派の白人は強い権利を与えられ、黒人・有色人種・アジア人は差別されてきました。国民は、白人・黒人・有色人種(白色人種と他人種の混血)・アジア人に分かれました。人種隔離政策に基づいて、居住地域が分けられ、違う人種の結婚も禁止されました。当時、日本は重要な貿易相手国だったので、「名誉白人」と呼ばれていました。冷戦時代、南アフリカはソ連に代わる勢力として西側諸国から注目されていました。また、南アフリカは豊富な天然資源を持つと西側諸国から考えられていました。これらの理由から人種隔離政策(アパルトヘイト)は1991年まで続きました。冷戦体制が終わると、人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃を求める声も高まりました。1994年、初めて総選挙でどの人種か関係なく誰でも同じように投票出来るようになりました。その結果、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれました。ネルソン・マンデラ大統領は、人種隔離政策(アパルトヘイト)をなくすため、撤廃運動を長年続けてきた人物です。 第二次世界大戦終了後、アフリカの独立国は4カ国(エジプト・エチオピア・リベリア・南アフリカ共和国)だけでした。第二次世界大戦後の独立運動の主役は、宗主国で教育を受けたエリート層でした。1950年代後半から1960年代にかけて、次々と独立国が誕生しました。1960年は、17カ国が独立した年なので、「アフリカの年」と呼ばれています。現在、アフリカの独立国は54カ国です。 第二次世界大戦後のアフリカは、次第にナショナリズムが高まり、独立運動が起きました。これを受けて、ヨーロッパ諸国は、植民地の独立を認めつつ、経済利益を守りました。しかし、新しい国々は植民地時代の人為的国境をそのまま引き継ぎ、複数の民族が集まり、民族の繋がりも弱い多民族国家になりました。このような多民族国家は民族紛争を招きました。鉱物資源の豊富な国は、紛争の激しい地域によく見られます。 本項目では、ルワンダについてみていきましょう。第一次世界大戦まで、農耕民(多数派のフツ族)と牧畜民(少数派のツチ族)は穏やかに暮らしてきました。しかし、第一次世界大戦後、ベルギーの支配下に入り、ツチ族がフツ族を支配する上下関係がさらに強まりました。そのため、両民族の関係はますます悪化しました。両民族に人種的違いは少なくても、植民地時代を通じて、少数派のツチ族は多数派のフツ族よりも好待遇でした。1990年から1994年にかけて、ルワンダ共和国は、ツチ族中心の反政府勢力(ルワンダ愛国戦線)とフツ族中心のルワンダ政府軍で内戦を繰り広げました。1994年、大統領の殺害後、フツ族過激派が大量虐殺を始め、大量虐殺の犠牲者も80万人から100万人になりました。その後、武装集団のツチ族が攻撃したため、約200万人が故郷を離れました。多民族が一つの政治体制の中で一緒に暮らしていけないため、民族間の対立から内戦や国家間の争いに発展する場合も珍しくありません。ルワンダ虐殺をテーマにした映画『ホテル・ルワンダ』は、日本だけでなく世界中で話題になりました。 その後、ツチ族中心の政権が発足すると、治安の維持や雇用の創出に力を入れるようになりました。また、ツチ族中心の政権は、珈琲や紅茶の栽培だけでなく、ソフトウェア開発などのICT分野にも力を入れました。その理由を説明すると、ルワンダ虐殺を逃れて外国に渡った人々が、世界各地で生活する中で身につけた知識や技術を持ち帰ったからです。現在、ルワンダは「アフリカの奇跡」と呼ばれ、急速な経済成長を続けています。 ナイジェリアはアフリカ最大の都市です。200以上の異民族が暮らしていますが、大きく分けて、北部にイスラーム信仰のハウサ族、南西部に伝統宗教信仰のヨルバ族、南東部にキリスト教徒信仰のイボ族に分けられます。石油資源を巡るビアフラ戦争が終わってから、民族はより自由になろうと努力していますが、問題は解決していません。こうした問題は、国連やアフリカ連合で解決する必要があります。アフリカの独立国と西サハラは全てアフリカ連合に加盟しています。 アフリカ統一機構は、アフリカ諸国が平和維持のために1963年発足しました。その後、2002年になると、アフリカ統一機構がヨーロッパ連合を倣った国家統合体(アフリカ連合)に変わりました。アフリカ統一機構は、内政問題に部外者が関与してはならない考えで発足したため、紛争解決に消極的でした。その反省もあり、アフリカ連合は域内の紛争解消も目的に掲げています。パン・アフリカ主義とは、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達を中心にアフリカの独立と統一を望む運動です。19世紀後半に、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達がアメリカで教育を受けました。第二次世界大戦後、パン・アフリカ主義もアフリカのナショナリズムと結びつきました。 また、武装集団がアンゴラ・シエラレオネ・リベリアなどで資金源としてダイヤモンドなどの資源を採掘した結果、内戦も長引きました。1990年代以降、冷戦体制が崩壊すると、被軍事援助国の政権も不安定になりました。その結果、ソマリア内戦などが発生しました。国連平和維持軍はこのような内戦に介入しましたが、失敗に終わりました。 北アフリカ諸国の長期政権が、2010年から2011年にかけて崩壊しました。その原因は、チュニジア・リビア・エジプトなどで始まった民主化運動です(アラブの春)。「アラブの春」のきっかけとして、チュニジアのジャスミン革命が挙げられます。ジャスミン革命で、インターネットにアクセス出来る若者などが街中に溢れました。エジプトでは、30年間続いた独裁政権が終わり、代わりにイスラーム主義勢力中心の政権が誕生しました。しかし、反政府活動が高まり、軍のクーデタによって政権も移りました。民主化を求める動きは、他のアラブ諸国でも政情不安の波を引き起こしました。 政情不安から、そのような場所で反政府勢力やイスラーム原理主義組織が活動を強めています。2011年に南スーダンが独立するまで、スーダン南部のナイル・サハラ語系住民と北部のアラブ系住民の間で内戦が続いていました。 近代的農業は灌漑設備・農薬・化学肥料などを取り入れました。アフリカの一部地域で近代的農業を取り入れています。アフリカの場合、焼畑農業が中心ですが、半農半牧を行う地域もあり、駱駝の放牧も見られます。これまで、多くの作物を一緒に栽培する混作が頻繁に行われてきました。アフリカの伝統的定着農業では、もろこしや隠元豆(ささげ)などを同じ畑で数種類栽培します。小規模な自給的農業とはいえ、自然と上手く付き合いながら植物を育てる方法なので、旱魃でもある程度の収穫量は望めます。最後に、主食についてみていくと、次の通りです。 北アフリカの砂漠地域では、オアシスや外来河川の近くで、ナツメヤシ・小麦・野菜などを育てて食糧としています。ナツメヤシの果実は食用になり、葉は縄や籠の材料になり、幹は建築に利用されます。また、灌漑農業も行われており、地下水路(フォガラ)を作り、貴重な地下水を枯らさないようにしています。  諺「エジプトはナイルの賜物」があるように、ナイル川の氾濫で豊かな土壌も生まれました。それを利用して、古くから農業を行っていました。現在も、エジプトの外来河川(ナイル川)に沿って広がる土地で、小麦・コメ・綿花が栽培されています。日本の政府開発援助を受けて、技術と灌漑設備が整備されるようになりました。整備後、ナイル川流域でもジャポニカ米が栽培されるようになりました。ソ連の援助を受けて、ナイル川上流のアスワンハイダムが1970年に完成しました。こうして、大洪水がなくなり、水力発電によって産業が発展するようになり、暮らしも豊かになりました。しかし、ダムの建設で、上流から豊かな土壌が増水時に下流まで届かないため、化学肥料の使用も増えました。このほか、旱魃で灌漑農地が塩害を受けたり、ナイル川デルタの海岸線も縮小したり、ナイル川河口付近のプランクトンも減って不漁になるなど、ダム建設の悪影響もあります。 昔ながらの遊牧は、サバナ気候やステップ気候で見られます。牛は主にサバナ地域で飼育されています。一方、羊・山羊は湿潤地域で飼われます。そして、駱駝はサハラ砂漠南部からソマリア・ケニア北部までのステップ地域で飼われています。ここ最近、遊牧民が都市に移住してそこで暮らすようになりました。 当時のアフリカはヨーロッパ諸国にほとんど支配されていたので、1種類だけ大量に商品作物を栽培して、先進国に輸出しました(モノカルチャー)。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは、19世紀中頃からヨーロッパに輸出されるようになりました。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは機械の潤滑油・石鹸・食用油の原料として利用されました。現在でも、両商品は重要な輸出品となっています。また、ガーナやコートジボワールは、カカオ豆(ココア・チョコレートの原料作物)を大量に栽培しています。カカオ豆は、一年中気温と湿度が高く、風もほとんど吹かない熱帯雨林気候地域の中で最もよく育ちます。しかし、カカオの樹木は、大規模なプランテーションでは上手く育たないため、家族だけで栽培しています。 イギリス人は、赤道直下のケニアを植民地にしました。標高1500~2500mの高地に住み、茶や珈琲のプランテーション農業を行なっていました。ケニアが茶の栽培を始めたのは、20世紀に入ってからです。赤道直下の高山気候なので、高品質の茶葉が一年中栽培出来ます。そのため、茶葉を摘んでから1~2週間後に、次の茶摘みを行えるようになります。この地域は、白人が農場や牧場を経営していたため、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)と呼ばれるようになりました。独立後、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)はケニア人に譲ったので、現在も茶と珈琲はケニアの2大輸出品となっています。また、珈琲原産地のエチオピアは現在でも珈琲を中心に輸出しています。 一方、地中海に近いモロッコ・アルジェリア・チュニジアなどの北アフリカ諸国では、商業的な農業が発達しています。温暖な地中海性気候を活かしてオレンジや檸檬、オリーブ、葡萄などを栽培しています。地中海性気候のため、南アフリカ共和国の南西部では、葡萄などを大量に栽培しています。また、南アフリカ共和国の東部高地草原はかつてヨーロッパ人によって開発されました。その後、南アフリカ共和国に譲られ、トウモロコシの栽培や企業的牧畜が行われています。しかし、伝統的な農産物輸出の大半は、1980年代以降、減少しています。その背景に近隣地域の生産量増加が挙げられます。一方、ケニア・エチオピアでヨーロッパ市場向け花卉生産などの新しい輸出農産物が登場しました。こうした商品作物の生産によって、国内の買い取り価格は低く抑えられ、生産者はあまり儲かっていません。 1950年、アフリカの人口は約2億3000人でした。2023年現在、アフリカの人口は約15億人です。アフリカの人口はこの73年間で約6.5倍になり、アジアに次いで2番目に多くなっています。医療や公衆衛生の整備で死亡率が下がっても、出生率が高いので、自然成長率は2.7%程度です。年少人口が多いため、2050年になると、アフリカの人口は24億人を超えると考えられています。 人口増加に見合う量の食料を作れないため、複数の国で外国から食料を輸入しています。そのため、アフリカは食料自給率の向上につながっていません。アフリカの食料自給率を高めるために、通貨流出や穀物価格の上昇に伴う物価の高騰を防ぎ、経済を安定させなければなりません。また、アフリカで食料需要が増えると、世界でも食料不足になるため、国際社会でも食料自給体制の整備を急がなければなりません。 農業生産性の低さが食料自給率の悪化につながっています。植民地支配が終わってから、アフリカは輸出用の作物を中心に栽培するようになり、主食用の穀物はほんの少ししか栽培しなくなりました。農業機械の導入が遅く、化学肥料の価格も高いため、多くの農地が利用されていません。そのため、大量に食料を作れません。 現在、アフリカでも都市化が進み、経済も成長しています。しかし、都市と農村部の経済連携は進んでいません。農産物を都市に効率よく届けるようになると、農村地域も都市の経済発展の恩恵を受けられるかもしれません。例えば、マラウイ・ザンビアの国内市場向けに、芋類が出荷されます。ここで、300人の農家が働いています。そのために、農業生産性を高め、農産物の生産・集荷・輸送・貯蔵・販売の仕組みを作っていかなければなりません。穀物だけでなく、野菜を栽培する園芸農業の整備も求められています。 また、その土地に合った農業技術を広めていかなければなりません。国連開発計画や日本の国際協力機構などの支援を受けて、病気や乾燥に強く、豊産を見込める陸稲ネリカを開発して、世界中に広めています。農業技術を広めていけば、主食の量産体制を整備出来るでしょう。 持続的な開発を行うため、アフリカは様々な社会制度や食糧供給の安定を図らなければなりません。2003年のアフリカ連合首脳会談で、「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」が採択されました。「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」では、外国からの支援に頼らず、自助努力で開発を目指そうとしました。政治家の汚職を防止する法整備、紛争を解決するための仕組みの強化、教育・保健・社会基盤・産業振興など、各国間の連携が大切です。 アフリカは、石油・石炭・ウランなどのエネルギー資源に恵まれています。また、鉄鉱石・ボーキサイト・金・銅・レアメタルなどの金属資源も豊富です。植民地支配から逃れても、内戦や独裁政権がアフリカ諸国で長続きしていました。そのため、政治状況も不安定になり、鉱山開発が遅れていました。近年、外国からの投資や需要の増加によって、各国間の資源開発競争も激しくなっています。鉱山開発は、資源確保と重機メーカーの市場拡大につながっています。例えば、ギニアはボーキサイト、ザンビアは銅、ニジェールはウラン、モロッコとリベリアは鉄鉱石の最大輸出国になっています。しかし、資源分布の偏りは、資源を輸出出来る国と資源を輸出出来ない国の間に経済格差を生みます(南南問題)。また、資源の輸出後に儲けたお金を一部の人が独占しているため、貧富の差も大きくなっています。 ナイジェリアはアフリカ最大の産油国です。ビアフラ地方を中心に石油が埋蔵されています。輸出の8割以上が石油と石油製品で、そのほとんどをアメリカに輸出しています。アンゴラはアフリカ第2位の産油国です。2002年の内戦終結後、油田開発に力を入れ、石油の約半分を中国に送っています。アルジェリアの石油は、国全体の輸出の約4割を占めています。また、天然ガスも多く埋蔵しており、地中海横断パイプラインを通してヨーロッパ諸国へ送られています。今世紀に入って国際連合がリビアの独裁政権に対して経済制裁を緩めてから、リビアでも急速に油田開発を進めています。さらに、エジプトは石油製品や原油を大量に輸出しています。このように、アフリカ各国は原油や天然瓦斯を産出して、欧米諸国へ送っています。 カッパーベルトは、コンゴ民主共和国とザンビア共和国の国境にあります。銅鉱石がカッパーベルトで採掘され、タンザン鉄道を経由して出荷されます。タンザン鉄道は、タンザニアのダルエスサラームとザンビアのカピリ・ムポシを結んでいます。中国からの支援も受けて、1975年に完成しました。かつてコンゴ民主共和国とアンゴラを結んでいたベンゲラ鉄道は、アンゴラの内戦で破壊され、現在修復を行っています。南アフリカは、石炭(トランスヴァール炭田)・金・クロム・プラチナ・バナジウム・チタンなどに恵まれています。ボツワナ共和国・コンゴ民主共和国・アンゴラ共和国は、ダイヤモンドを豊富に産出しています。南アフリカ共和国は、レアメタルも豊富に産出されています。また、コンゴ民主共和国は、他国よりもコバルトを大量に産出しています。 アフリカの工業化は遅れています。植民地時代は、鉱産資源の採掘・販売を制限して、アフリカを工業製品の市場として販売しました。その影響で、独立後も内戦や不安定な政治が続き、所得水準も低かったため、国内市場が弱く、工業の発展も遅れました。今でも、電力供給・鉄道・港湾・金融制度・就学者数などは、決して恵まれているようには思えません。 対外債務の増加・モノカルチャー経済への依存・工業化資金の不足などが原因で、何カ国も破綻しました。こうした中、国際通貨基金と世界銀行は、構造調整政策に取り組むように求めました。構造調整政策によって、アフリカ諸国も計画経済から自由市場へと移行しなければ新たな融資を行えなくなりました。複数の国がこれを受け入れて市場経済化を進めると、一部の国で国内総生産が増加しました。しかし、貧富の差はさらに広がりました。リベリア・シエラレオネ・スーダン・コンゴ民主共和国などでは、内戦の影響で経済成長も遅れました。また、内陸国も経済成長に影響を与えるかもしれません。アフリカ南部の国々は、周辺諸国と経済協力しているので経済も成長しています。 1980年代以降、内戦や旱魃などの影響でアフリカ経済は伸び悩んでいました。しかし、2000年代に入るとアフリカ経済は回復に向かいました。この場合、鉱産資源の価格は国際市場で上がっています。ボツワナなどの一部の国で、輸出指向型の工業化を進めて、モノカルチャー経済から抜け出し、一人当たりの国内総生産を増やしました。 鉱産資源の豊富な国は、原料地指向型の工業化が進んでいます。リビア・アルジェリア・ナイジェリアなどの産油国では、石油精製業や石油化学工業が発達しています。ザンビアは銅鉱石を多く産出するため、ザンベジ川のカリバダムによって銅の精製業が発展しました。一方、南アフリカ共和国は、サハラ以南のアフリカで圧倒的な地域大国となり、工業製品の輸出を中心に取引されるようになってきています。鉱業や醸造業などの世界的な企業を数多く持ちます。ヨハネスブルグにはアフリカ最大の証券取引所もあり、アフリカと世界経済を結ぶ役割を果たしています。元々BRICsは4カ国を表していました。これに、南アフリカ共和国も加わり、BRICsのSが大文字に変わりました。鉄鋼・機械工業・自動車工業などで、周辺国から出稼ぎ労働者が集まって働いています。また、チュニジアとモロッコは、石油・天然瓦斯・様々な工業製品をヨーロッパにほとんど輸出しています。北アフリカのチュニジア・モロッコ・エジプトは元々人件費も安いので、衣料・皮革・食品工業などの軽工業が主要な産業となっています。さらに、電気・機械の部品をヨーロッパへ輸出しています。 これまで、アフリカの複数の国では、工業製品を輸入して、一次産品を輸出する貿易を行っていました。一次産品とは、自然から育てられ、採取され、そのまま利用される産品をいいます。例えば、農畜産物・林産物・水産物・鉱産物などが一次産品にあたります。一部の農産物や鉱物資源の輸出が行われる限り、モノカルチャー経済(単一経済)も続きます。そのため、世界経済の変化に弱く、高付加価値産業の育成や産業の多角化にも問題が出てきています。ガーナは、カカオ豆のモノカルチャーから抜け出すため、アコソンボダムの水力発電を使ってアルミニウムの製造を盛んに行いました。ヴォルタ川のアコソンボダムは、1965年に建設されました。貯水量が少ない乾季になると、発電量も減少します。しかし、旱魃に伴う電力不足や、他国との競争が激しくなるなどの問題が発生します。一方、第三次産業は非常に素晴らしい成長を遂げています。 カカオ・珈琲・タコ・白身魚・グレープフルーツ・薔薇など、多くの農水産物がアフリカから日本に輸出され、日本人の生活に役立っています。また、スマートフォンやハイブリッド車の生産に、アフリカ産のレアメタルが必要です。日本はこのような一次産品を中心にアフリカから輸入しています。一方、アフリカ諸国の経済が発展すると、自動車需用も増えます。このため、日本は新車・中古車・トラック・自動車部品などをアフリカに大量に輸出しています。 日本はアフリカから多くの農水産物や鉱物資源を輸入しています。しかし、アフリカ諸国は貧困や内戦などの問題を抱えています。そこで、日本政府は政府開発援助や非政府組織を通じて、教育・医療・輸送インフラの整備・貧困削減・平和構築・環境保全などの支援を続けています。このように、「人間の安全保障」の考え方から、人間の生存を重視します。その背景から、日本人はタンザニアの農村開発やニジェールの学校建設や教育制度の整備を進めています。また、今後のアフリカ社会を引っ張っていく人材も育成しています。 製造業や資源関連産業を中心に日系企業のアフリカ進出が進んでいます。例えば、南アフリカ共和国では、日本企業の自動車製造や鉱山開発などが行われています。しかし、2000年代以降、消費市場の高まりから、化粧品・家電製品・調味料・缶詰などの分野でも日系企業のアフリカ進出が進んでいます。近年、発展途上国の低所得者にも、BOPビジネスの支援が行われています。蚊帳・乳幼児向け栄養食品・アルコール消毒液など、日本企業の技術協力によって、発展途上国の低所得者に届けられています。経済的貧困者(Base of the Economic Pyramid:BOP)とは、世界で最も所得の低い人々を指す言葉です。BOPビジネスは、世界人口の7割を占める経済的貧困層を対象にしています。水や生活必需品の提供、貧困の削減など、現地の様々な課題を解決出来るでしょう。BOPビジネスの具体例として、ウガンダ産のサトウキビが挙げられます。ウガンダ産のサトウキビを材料にして、アルコール消毒液を日本の技術や品質管理の手法で生産しています。このアルコール消毒液は、医療機関の衛生環境改善・院内感染の防止に役立ちます。 21世紀から、農作物も鉱産資源も値上がりしたので、アフリカの経済が潤っています。このような理由から、近年、アフリカの人口も首位都市に集中しています。農村の出稼ぎ労働者は、同郷の出身者同士で就職の支援を受けたり、生活の面倒を見たりしています。そのため、民族集団が違えば、職業も変わります。そうした職業の多くは路上販売者のようなインフォーマルセクターです。ナイジェリアやアンゴラなどの石油資源国でも、都市部を中心に高層ビルやショッピングモールが建設されています。各国で、携帯電話の利用者や自動車・家電などの耐久消費財の購入者が急速に増えています。外資系企業の進出も進み、内戦や紛争などの危険はあっても、さらなる市場の拡大や地域の成長が期待されています。 北アフリカ諸国は豊富な石油資源に恵まれているので、軽工業が発達しています。また、地中海の温暖な気候を求めて、北アフリカ諸国に向かう観光客も増えています。例えば、アフリカ主要都市とヨーロッパまでを地中海経由で結ぶ直行便が複数あります。このような理由から、外国人向けの観光業がエジプト・ケニア・タンザニアで重要な産業になっています。また、北アフリカからヨーロッパまでパイプラインが通っており、天然瓦斯を運んでいるので、貿易も盛んに行われています。パリやロンドンでは、アフリカ諸国からの移民も数多く住んでいます。 サハラ以南のアフリカ諸国は、海外からの債務を抱えており、自力で経済を回せません。国内の貧富の差も大きく、マラリア・ヒト免疫不全ウイルス・エボラ出血熱・COVID-19などの感染症も問題になっています。このような背景から、観光産業・情報通信技術産業を発展させて、豊かな自然や文化を生かし、経済の多様化を図ろうとしています。また、先進国からの支援を受けて、自立を目指しています。近年、中国は資源を手に入れるためにアフリカへ進出しており、経済・政治の両面で関係を深めています。 中国は、銅の輸出をしやすくするために、内陸国のザンビアからタンザニアを結ぶタンザン鉄道の建設に協力しながら、それまでの友好関係をさらに深めています。中国は銅やレアメタルを輸入したいと考えています。しかし、中国製格安輸入品の増加によって、ザンビアやタンザニアで工業発展の遅れや中国人労働者に雇用を奪われるなどの問題も起きています。 アフリカ大陸は全体が台地になっており、アフリカプレート上の安定陸塊です。マダガスカルも安定陸地なので、固有種も数多く生息しています。その理由は、長い間、本土から切り離されたため、動植物も独自の進化を遂げたからです。標高200m以下の低地は全体の1割程度なので、海岸線に広い平野はあまり見られません。紅海・エチオピアからヴィクトリア湖・ザンベジ川河口まで、標高2000m以上のエチオピア高原、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山などの火山、タンガニーカ湖やマラウイ湖などの断層湖が広がっています。アフリカ大地溝帯(グレートリフトヴァレー)は、最も広い箇所で幅100km、全体で7000kmもある大きな断層帯です。また、火山地帯なので、地震もよく起こります。地球の内部からマントルがアフリカの大地溝帯で出てきます。上昇流が周辺の地殻を押し上げているので、プレートが東西に割れています。将来、大地溝帯がアフリカを東西に分断すると考えられています。アフリカ大地溝帯では、現世人類の化石がたくさん見つかっているので、人類進化の舞台になりました。 北アフリカからコンゴ盆地にかけて、標高200~1000mの比較的低い台地が続いています。その東部をナイル川が流れ、その河口に大きな三角州を形成しています。一方、北西部には新期造山帯のアトラス山脈があり、険しい山が連なっています。全長6695kmのナイル川は、世界で一番長い川です。南スーダンからハルツームまでの本流(白ナイル)は、赤道地帯から流れています。白ナイルはハルツームから南スーダンに流れています。ハルツームで、水量豊富な青ナイル(エチオピアのタナ湖源流)に合流します。 ギニア湾中央沿岸地域は、海岸から急に高度を上げますが、サハラ砂漠に向かうにつれて、標高の大幅な減少が見られます。そのため、ニジェール川の上流部はサハラ砂漠に向かって流れますが、途中で南東に変わり、ギニア湾に注いでいます。コンゴ川中流のコンゴ盆地は、キサンガニからキンシャサまで河川交通は賑やかですが、コンゴ川の下流は急流なので河川交通も閑散としています。 コンゴ盆地南部からアフリカ大陸最南端まで、標高1000m以上の高い台地が続きます。南アフリカ共和国のメサで先カンブリア時代の硬い岩盤層の台地(テーブルマウンテン)が見られます。古期造山帯のドラケンスバーグ山脈は、南アフリカ共和国の南東部にあり、石炭の産出地になっています。 アフリカの気候区分は、赤道から高緯度にかけて帯状に近い形で変化します。その理由として、アフリカ大陸に天候を大きく左右する山脈があまり見られないからです。したがって、アフリカ大陸に亜寒帯気候や寒帯気候がありません。気候区分は、熱帯気候(約4割)・乾燥気候(約5割)・温帯気候(約1割)になります。 コンゴ盆地周辺とギニア湾沿岸は、熱帯モンスーン気候です。コンゴ盆地は赤道を通っているので、熱帯雨林気候です。これらの地域は、エボラ出血熱やマラリアの流行地域としても知られています。熱帯雨林気候の北と南は、サバナ気候です。まばらな草原が広がり、乾燥していてもバオバブの樹木などは耐えられます。一方、北東部のエチオピア高原は高山気候です。日中は暖かく乾燥していて過ごしやすく、標高5000m以上の高地(ケニア山やキリマンジャロ山など)では万年雪が見られます。 サバナ気候の高緯度側にステップ気候が広がり、さらに進むと砂漠気候に変わります。アフリカ北部では、亜熱帯高圧帯の真ん中に北回帰線があります。北回帰線の周辺に世界最大のサハラ砂漠が広がっています。また、ソマリア半島も砂漠気候になります。高緯度のアトラス山脈より北側は、温暖な地中海性気候です。人が暮らせるオアシスやワジも見られます。サハラ砂漠の東部に、世界最長の外来河川(ナイル川)が南から北へ流れています。サハラ砂漠の面積は860万㎡で、西側に岩石砂漠(ハマダ)が数多く広がり、東側に砂砂漠(エルグ)が広がっています。ワジにオアシス集落が広がり、交易に駱駝が使われてきました。 ベンゲラ海流が寒流を北上させるため、アフリカ南部の西海岸にあまり雨が降らず、ナミブ砂漠のような海岸砂漠も残ります。一方、暖流のモザンビーク海流は、アフリカ南部の東海岸に暖かく湿った空気を運びます。そのため、低緯度側で南北方向にサバナ気候が広がり、高緯度側で温帯湿潤気候が広がります。アフリカ大陸の南端は地中海性気候ですが、内陸部はステップ気候や温帯冬季少雨気候が広がっています。南半球の温帯冬季少雨気候は4月から9月まであまり雨が降りません。一方、南半球の地中海性気候は11月から3月まであまり雨が降りません。マダガスカルは南東貿易風帯にあります。このため、東側は上昇気流の影響で雨量も増えます。1月から3月になると、サイクロンの影響も受けます。一方、国土の南西部は下降気流になるので、乾燥気候になります。
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予備知識として、まず、EU域内の農産物の移動には、関税が掛からない、ということを知っておこう。 さて、EU域内で食料を自給しようという目的で、つぎの共通農業政策が1960年代から実施された(当時は「EU」でなく「EC」などだが、細かいことは気にしなくてよい)。 共通農業政策の内容は、EU域内で農産物にごとに統一価格を定め、生産性の低い国にあわせて、市場価格よりも高い価格で買い取ることである。つまり、市場価格よりも高い値段でしか生産できない農家からEUが農産物を買い取る場合に、市場価格との差額がEU財政の負担になる。 アメリカなど域外からの安い農産物の輸入については、域内価額との差額を課徴金(かちょうきん)として取ることで、EU域内の農家を保護する。 また、EU域外に輸出するときは、国際市場価格との差額を農家に補助金として与えて価格を下げさせる。 この共通農業政策はEU域内の農家に有利なので、結果的にEU内の農家の生産意欲が上がり、生産量も上がった。だが、EU財政の負担になったので、小麦など一部の農産物で買い取り価格の低下をしたり、生産調整をしたりなども起きている。 ヨーロッパ州はユーラシア大陸の西の端にある。 ヨーロッパの西の大西洋にある、暖流の北大西洋海流(きた たいせいよう かいりゅう)から、ヨーロッパに温かい風が来るという 偏西風(へんせいふう) という現象により、ヨーロッパ北部は緯度のわりに温暖である。また、偏西風が水分をふくんでいるので、雨も多く、水不足にはなりにくい。このような気候を西岸海洋性気候(せいがん かいようせい きこう)という。 ヨーロッパ南部にはアルプス山脈があり、南部は山がちである。南部からヨーロッパ北部に向かうに連れて、すずしくなってくる。 アルプス山脈の南側の、ヨーロッパ南部の地中海沿岸の気候は、夏は暑く雨が少なく乾燥しており、冬は雨が多く温暖である。地中海式農業(ちちゅうかいしき のうぎょう)と呼ばれる農業が行われており、夏にはぶどう や オリーブやオレンジ類などが乾燥に強いので栽培されており、冬には小麦が栽培されている。羊や山羊などの放牧による飼育もおこなわれている。 イタリアでスパゲティなどのパスタ料理が有名なのも、これらの農産物を活かした料理である。パスタには小麦が使われている。オリーブオイルなどが調味料に使われたりしている。 北西部や東部では、小麦やライ麦などの穀物の栽培と、豚や牛などの飼育と、トウモロコシやジャガイモなどの飼料作物、根菜(かぶ、てんさい)の栽培などが、組み合わされて行われている。このような農業と家畜の飼育を組み合わせた農業を混合農業(こんごう のうぎょう)と言い、ヨーロッパ州の北部で、このような混合農業がさかんである。 イギリスやデンマークやオランダなどの北海・バルト海沿岸のヨーロッパ北部や、スイスなどのアルプス山脈の地帯は、冷涼であるので、あまり穀物の栽培には向かないので、かわりに酪農(らくのう)がさかんである。 一般に、畑作では地力が低下しやすい。このため、毎年、畑で同じ作物を栽培しつづけると、生産量が低下する。いわゆる連作障害である。なので、1年ごとなどに作物を変える輪作(りんさく)をしたり、あるいは定期的に休閑(きゅうかん)させることが必要である。なお米をつくる稲作は、連作障害に強い。 ヨーロッパは、気候的に、あまり稲作には向かない地域である。稲作には、高温多湿な季節があって、降水量が多いことが必要だが、ヨーロッパは、その条件を満たしていない。 地中海付近は高温だが、降水量が少ない。いっぽう、ヨーロッパ北部などは降水量はあるが、気温が低い。 中世のヨーロッパ北西部では、三圃式農業(さんぽしき のうぎょう)が行われた。これは、地力の低下をふせぐために、耕地を3つに区分して、夏作物(大麦、えんばく)の耕地、冬作物の耕地、休閑地(きゅうかんち)として、1年ごとにローテーションさせることで輪作(りんさく)する栽培する方法である。 休閑地には、地力回復の効果のあるクローバーを植えることもあった。 なお、古代のヨーロッパでは、耕地を2つに区分して、耕地と休閑地とをローテーションさせることで輪作(りんさく)する二圃式農業(にほしき のうぎょう)が行われた。地中海沿岸では、中世にも二圃式農業が行われた。 なお現在のヨーロッパで主流である混合農業は、三圃式農業が発展したものである。 、混合農業はたとえば耕地を4つに区分して、夏作物、牧草、冬作物、根菜(かぶ、てんさい)を栽培し、さらに豚や肉牛などの家畜の飼育を合わせたようなものである。 また、家畜の排泄物を肥料として利用する。 都市近郊の農業では、都市近郊では地価が高く、また現金が必要なので、販売価格の高い作物である野菜や花卉(かき)などの園芸作物の栽培が盛んになったが、このような園芸作物の農業を園芸農業(えんげい のうぎょう)という。 近年では交通機関の発達により、都市から離れた地域でも園芸農業が行われているが、これを輸送園芸(ゆそう えんげい)という。 現代のヨーロッパで行われてる農業は、 である。 三圃式農業は中世の農業であり、現代の主流ではない。 ヨーロッパ北部のノルウェーなどの海岸ぞいのギザギザした地形は氷河によって削り取られた地形である。このようなギザギザした地形をフィヨルドと言う。ノルウェーでは、この地形を活かし、漁業などの水産業がさかんである。 ヨーロッパには40カ国以上の国がある。国の多くは、国土の面積が、日本よりも小さい国が多い。 ヨーロッパの言語は、およそ3種に分類される。ヨーロッパ北西部の英語やドイツ語などのゲルマン語派と、南部のフランス語やイタリア語などのラテン語派と、東部のロシア語やチェコ語などのスラブ語派の3つの系統である。 南部が中心。イタリア語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語 北西部が中心。イギリス語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語 東部が中心。ポーランド語、チェコ語 ゲルマン語派、ラテン語派、スラブ語派ともにインド・ヨーロッパ語族である。 なおフィンランド語、ハンガリー語はウラル語族。 スイスでは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4言語を公用語として定めている。 ベルギーでは、ワロン語とフラマン語がある。 ヨーロッパの民族も、とても多くあるが、おおまかにはゲルマン民族、ラテン民族、スラブ民族の3つに分けることが出来る。 ヨーロッパではキリスト教が中心に信仰されている。キリスト教の宗派は、おおまかに3つの宗派に分かれる。古代からの教えを重んじるカトリックと、近世以降に宗教を改革したプロテスタントと、ルーマニアなどヨーロッパ東部でさかんな東方正教(とうほう せいきょう)である。 カトリックはイタリアなど南部のラテン系の国家でさかん。 プロテスタントはイギリスを中心にさかん。 東方正教は、ヨーロッパ東部に多い。 このほか、アルバニア、ボスニア、コソボなどヨーロッパ南東部でイスラム教も信仰されている。 このほか、20世紀後半から、西アジアなどイスラム圏からの移民を受けいれたため、ヨーロッパ各国でイスラム教徒が増えている。 イタリアの首都ローマの中にある国であり、世界最小の国であり、独立国でもある。ローマ教皇(ローマきょうこう)が住んでいる国である。キリスト教のカトリック宗派の中心地になっている。 ヨーロッパ連合とは、ヨーロッパでの経済の統合など、ヨーロッパの国どうしで協力しあっている国家どうしの連合である。ヨーロッパ連合のことを EU(イーユー) という。 EUの本部はベルギーの首都ブリュッセルにある。 もともとは第二次大戦後に、ヨーロッパの資源の共同管理をすることで、資源をめぐる戦争をなくそうという平和目的として1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC,イーシーエスシー、European Coal and Steel Community)の設立が、戦争であらそったドイツとフランスを中心に設立された。結果的にドイツ・フランスにイタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクを加えた6カ国で1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立された。 似たような国際機関で、1958年にはヨーロッパどうしの経済協力を目的にヨーロッパ経済共同体(EEC イーイーシー、European Economic Community)が設立した。また1958年に原子力の共同管理のためのヨーロッパ原子力共同体(EURATOM 、 ユーラトム European Atomic Energy Community)が設立された。 このECSCとEECとEURATOMの3つが統合して、1967年にEC(ヨーロッパ共同体 European Community)が設立された。 ECの原加盟国はフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の6カ国である。 その後、ECは加盟国が増えていった。 1992年のマーストリヒト条約で、経済協力だけでなく政治統合に向けても協力しあうことが合意された。オランダのマーストリヒトで調印されたので、マーストリヒト条約という。 1993年にはECからEU(ヨーロッパ連合、European Union)に発展した。 ECが市場の統合を目指していたのにくらべ、EUはさらに通貨の統合や外交政策の共通化など、より踏み込んだ目標を目指している。 2002年からEUの共通通貨のユーロ(Euro)が加盟国の多くで使われている。このため、それまで加盟国にあった通貨(たとえばドイツのマルク通貨やフランスのフラン通貨など)は回収された。 EU域内で国境管理を廃止して、通行を自由化するシェンゲン協定(Schengen Agreement)が1995年に発効し、現在も実施されてる。このためEU域内では、パスポートなしで国境を通過できる。この協定は、ルクセンブルクのシェンゲンで調印された。 ただし、イギリス・アイルランドは、シェンゲン協定を実施していない。(北アイルランド問題などが理由だろう。) また、EU非加盟であるスイス・ノルウェーはシェンゲン協定を実施している。 フランスのストラスブールにヨーロッパ議会。 ベルギーのブリュッセルにEU本部に相当するヨーロッパ理事会およびヨーロッパ委員会。 ルクセンブルクにEU裁判所。 ドイツのフランクフルトにヨーロッパ中央銀行(ECB)。 2000年〜2010年ごろ、旧ソ連圏の東欧諸国などがEUに加盟した。 なお、近年、財政危機が言われているギリシアが加盟した年は1981年である。 またなお、トルコはEUに未加盟である。 2010年ごろ、ギリシャの財政赤字によるギリシャ財政危機や、スペインの財政不安などが発生し、その結果、ユーロが急落し、財政の健全な他の加盟国も影響を受け、EUの金融政策にも弱点があることが明らかになった。 一方で、ユーロの下落により、EU諸国の輸出産業には有利に働いたという側面もある。 イギリスに属する北アイルランドでは、多数派のイギリス系住民(宗教はプロテスタント)と、少数派のケルト系住民(宗教はカトリック)が対立している。少数派のケルト系住民はアイルランドへの帰属を主張している。 政治や経済ではイギリス系住民が優位に立っている。 1998年に和平合意ができ、解決に向かっている。 そもそもイギリス(グレートブリテンおよび北部アイルランド連合)とは、イングランド王国が、ウェールズ王国・スコットランド王国・北部アイルランドを併合して出来た国である。 1945年〜1946年に結成された旧ユーゴスラビアは、社会主義で、多民族国家で、6つの共和国からなる連邦国家であった。 セルビア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、スロベニア、マケドニア、モンテネグロの6ヶ国からなる。 冷戦の終結時、民族運動が高まり、そして1991年にスロベニアとクロアチアが独立した。その後、ボスニア=ヘルツェゴビナやモンテネグロも独立。 宗教は、ギリシャ正教、カトリック、イスラム教が混在している。ボスニアにはイスラム教徒が多い。 各国の独立のさい、各国内で、民族対立や宗教対立が起きた。 ボスニア=ヘルツェゴビナでは民族・宗教対立から内戦になった。 またセルビアでは、2008年にコソボが独立を宣言したが、セルビア政府はこれを認めていない。 旧ユーゴスラビアは指導者チトーによって率いられていた国で、「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国」と言われた。 イギリスとフランスとのあいだのドーバー海峡(ドーバーかいきょう)の海底に、海底トンネルのユーロトンネルがある。 1994年にユーロトンネルが開通した。 また、そのユーロトンネルをつかった高速鉄道のユーロスターが、ロンドン〜パリ間を走る。 産業革命のころ、製鉄や蒸気機関などの燃料には、石炭を用いていた。 このため、炭田のちかくに工業地帯が作られていった。 しかし、第二次大戦後、石炭から石油にエネルギー資源が変化したこともあり(エネルギー革命)、炭鉱・炭田のちかくに立地する必要性がうすれたこともあり、むしろ沿岸部のほうが外国からの石油の輸入に便利なので、第二次大戦後は沿岸部に工業地帯があたらしく作られた。(例:イギリスのカーディフ フランスのダンケルク) また、都市部の周辺に、電気機械などの工業地帯が作られるようになった。 なお、ヨーロッパのかつての炭鉱などは閉鎖され、一部は観光施設などとして活用されている。 フランスでは、航空機の産業が有力である。 産業革命がヨーロッパのイギリスやフランスを中心にして起きた。古くからヨーロッパで近代工業が起こったことにより、ヨーロッパでは工業がイギリス、フランス、ドイツなどを発達した。 今でこそ中国が(一昔前は日本が)「世界の工場」と言われているが、元はイギリスが「世界の工場」と言われていた。 現在でも、イギリス、フランス、ドイツなどの工業の技術力も高い。 第2次大戦後はアメリカや日本の工業が発達してきたので、ヨーロッパの国々は日米に対抗するため、ヨーロッパの企業どうしで協力しあっていることが多い。 たとえば航空機の生産では、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、ベルギーの企業が、航空機の部品を分担して共同生産をしている。 EUの4カ国(フランス、ドイツ、イギリス、スペイン)が出資したエアバス社により、各国で部品を作り、最終組み立て工場のラインがあるフランスのトゥールーズで組み立てている。 ヨーロッパ州は工業が古くから発達したことで、大気汚染などの公害や環境問題などにも直面した過去があり、そのため公害などへの規制がきびしい。人々の環境問題への意識も高く、リサイクルも普及している。また、太陽光発電や風力発電などの普及にヨーロッパ諸国は積極的である。 東ヨーロッパは、工業がおくれており、賃金も安い。そのため、外国の企業が安い賃金の労働力を求めて、工場などを進出させている。日本の企業の工場やアメリカの企業の工場も、東ヨーロッパのチェコやポーランドやハンガリーに進出している。 どのあたりを東ヨーロッパというかは、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどが東ヨーロッパである。 チェコとポーランドとハンガリーの3カ国で工業がさかんである。とくにチェコは昔からの工業国である。冷戦中はソビエト連邦の主導する社会主義の陣営にチェコやポーランドやハンガリーなどは組み込まれたが、その中でもチェコは工業力の高い国であった。現在でも東ヨーロッパの中でチェコは工業がさかんである。 いっぽう、ポーランドは東欧の中でも人口と国土が多い。ポーランドの国土の広さは、スペインと同じくらいである。(チェコとハンガリーの国土面積は、北海道と同じくらい。)そのため、今後の発展が期待されており、西ヨーロッパやアメリカなど外国の企業もポーランドに進出している。 近代、グレートブリテン島の中央付近にあるペニン山脈から石炭が産出されたので、この石炭を産業革命のころは利用していた。 18世紀にイギリスのマンチェスターを中心とするランカシャー地方で産業革命が起きた。ペニン山脈の西側の沿岸部にマンチェスターがある。産業革命時のマンチェスターでは綿工業が発達した。いっぽう、ペニン山脈の東側にあるヨークシャー地方では羊毛工業が発達した。 この東西での綿工業と羊毛工業の違いは、降水量のちがいによる、空気の乾燥のちがいであると考えられている。 偏西風のためヨーロッパでは、山脈の東側と西側とでは、降水量がちがう。 ペニン山脈の西側は湿潤なため、綿工業の加工に適していたと考えられている。 また産業革命により、ペニン山脈の南側にあるミッドランド工業地帯が鉄鋼業などで栄えた。 近代にはイギリスは「世界の工場」と言われるほどに製造業が盛んだった。近代には、その工業力を背景に、軍備も強大化し、世界の各地を占領し、世界各地に植民地を持っていた。 しかし、第二次大戦後、植民地だった国が独立した。 また、1960年代、主要産業であった造船、自動車工業、機械工業など重工業が国際競争力をうしない、イギリスの経済が低迷し、イギリスの景気も悪化し、「イギリス病」と言われた。 このような景気の低迷を打破しようと、1980年代には改革がされ、国営企業の民営化や、各種の規制緩和が行われた。1980年代のイギリスでは、サッチャー首相(女性である)などの政治家が、このような規制緩和の政策をすすめた。 近年のロンドンの工業地帯では、エレクトロニクス産業が盛んである。 世界標準時の基準になってるグリニッジ天文台はロンドン郊外にある。 イギリスの正式名称は、「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合」。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランド連合からなる。 北海油田(ほっかい ゆでん)の開発によって、イギリスとノルウェーは産油国となった。 現代でもイギリスには王室があり、また、貴族などの階級制度の残る国である。 公用語は英語。宗教はおもにキリスト教のプロテスタントで、宗派はイギリス国教会。 イギリスは国際連合の5つの常任理事国のうちのひとつ。(イギリス、フランス、ロシア(当時はソ連)、アメリカ、中国、の5つの国が国際連合の常任理事国である。) イギリスは核兵器の保有国でもある。 高緯度であるが、周辺の海の暖流の影響により、緯度のわりには寒くない(西岸海洋性気候)。 現代のドイツはヨーロッパでは最大の工業国である。 自動車産業や電子工業や重化学工業がさかん。ライン川ぞいにあるルール工業地帯は、かつては石炭の産出地でもあり、鉄鋼業や重化学工業が、さかんであった。 ドイツのルール工業地帯はルール炭田の近くにあり、伝統的な工業地帯であるが、しかし第二次大戦後の石炭から石油へのエネルギー革命や、機械工業からエレクトロニクス産業への産業構造の変化などにより、ルール工業地帯は伸び悩んでいる。 第二次大戦後のドイツでは、臨海部や消費地周辺に新たな工業地帯が作られていった。 大都市周辺であるミュンヘンに、自動車工業やエレクトロニクスの工業地帯がある。 ドイツで話されている言語はドイツ語であり、英語では無い。 おもな宗教はキリスト教でプロテスタントが信仰されている。 冷戦時は東西ドイツに分裂していた。なお東ドイツがソ連など共産主義・社会主義の陣営で、西ドイツがアメリカ・イギリスなど資本主義・民主主義の陣営である。 冷戦の終了によって1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年には西ドイツが東ドイツを吸収する形で東西ドイツが統一した。 第二次大戦後、ドイツは、労働力不足をおぎなうため、移民を多く受け入れた。トルコなど地中海付近の国から多くの移民を受け入れた。 また、ポーランドなど東ヨーロッパ諸国からの移民も、ドイツには多い。 ライ麦、じゃがいもの栽培、酪農や、豚の飼育(豚肉の生産のため)などを組み合わせた混合農業が盛ん。(ソーセージなどは豚肉料理) イタリア北西部に重化学工業が多い。 工業は、ミラノ、トリノ、ジェノヴァを中心に発達。 南部は農業地帯。 これらに対し、ボローニャ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどが服飾・皮革・家具製造などの企業が多くて盛んな地域であり、このようなイタリアの服飾・皮革・家具製造などの企業が多くて盛んな地域(ボローニャ、フィレンツェ、ヴェネツィアなど)を「第3のイタリア」(third itary ,「サードイタリー」)という。イタリアのこれら(服飾・皮革・家具製造など)の産業は世界的なブランドになっている。 イタリアの宗教はカトリックが主に信仰されている。 南部の農業は地中海性農業。 北部の農業は混合農業。 経済格差が南北のあいだにあり、北側が裕福で、南側が貧しい。 フランスは、ヨーロッパを代表する農業国であり、小麦の生産がさかんである。フランスは農産物の輸出も多い。農業がさかんなため、食料自給率は100%を超えており、外国に農産物を輸出している。 北部にあるパリ盆地で、小麦の生産が盛んである。 地中海沿岸では ぶどう も生産しており、ワインの産業が有名である。 フランスは工業国でもある。 航空機産業や自動車産業が、さかん。 石油などのエネルギー資源にめぐまれず、そのため原子力発電を重視しており、原子力発電が全電力の7割を越えている。 (※ 地理の範囲外 :)フランスは核保有国でもある。 (※ 『地理』科目では核問題は通常、範囲外なので。ただし『政治経済』科目では核問題を扱うので、問われる可能性あり。) かつては内陸部にあるロレーヌ地方で鉄鉱石が産出したので、ロレーヌ地方が工業地帯であった。だが現代では、フランス南北の沿岸部に工業地帯が立地している。北海沿岸のダンケルクや、地中海沿岸のフォスに、鉄鋼業などの重化学工業地帯が立地している。 フランスの首都はパリ。芸術の文化がさかん。首都のパリは観光地でもある。 工業では、パリ周辺にも工業地帯があり、衣類・化粧品の工業や、自動車工業や機械工業などの工業地帯がパリ周辺にある。 フランスは移民を入れているが、旧植民地であったアルジェリアなどの北アフリカ諸国からの移民も多い。 また、イスラム系の移民やその子孫もフランスに暮らしているが、フランスでは公立学校や官公庁などの公共機関では政教分離を徹底するので、公共機関での宗教的なシンボルの着用を禁止している。イスラム教徒にも政教分離を徹底させるため、フランスの公立学校では、イスラム教徒の女子学生・女子生徒などの髪をおおうためのスカーフやベールの着用を禁止している。 国土の4分の1が(つまり25%が)、海面よりもひくい干拓地(かんたくち)であり、その干拓地はポルダーと呼ばれる。 ポルダーは塩分が多いので耕作に向かず、酪農が主に行われている。 チューリップの栽培などの園芸農業や、バター・チーズなどの酪農がさかん。 オランダの首都はアムステルダム。 沿岸部のロッテルダムにヨーロッパ最大の貿易港になっているユーロポートを持つ。 また、ロッテルダムでは製油所や石油化学工場が多く、石油化学工業が発達している。(一般に石油化学の大工場は、輸入に便利な沿岸部に立地しやすい。日本でも同様。) スイスは、どこの国とも軍事同盟を結ばない永世中立国である。そのため、スイスはEUに加盟していない。 中立の政策が、経済にも影響している。 チューリッヒが、国際的な金融の中心地のひとつになっている。 工業もさかんで、時計などの精密機械が盛ん。 農業では、アルプス山脈中での涼しい気候をいかした、酪農(らくのう)が盛ん。 スイスの公用語については、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4言語を公用語として定めている。「スイス語」という言語は無い。 宗教も、カトリックとプロテスタントの両方である。スイスは、中立国ということから、国際会議などの開催の場所になることも多い。スイスには国際機関の本部も多く、たとえば世界保健機関の本部がある。フランスやドイツなどが加盟しているヨーロッパ連合(EU)には、スイスは加盟していない。 永世中立というスイスの立場のため、第2次大戦後、ながらく国際連合にはスイスは加盟しなかったが、2002年にスイスは国際連合に加盟した。スイスは、その中立を維持するために、軍事力を高めている国である。スイスには徴兵制(ちょうへいせい)がある。 水力発電が盛んで、アルミ二ウム工業が盛ん。 北海油田から原油が産出されるので、イギリスとノルウェーは産油国である。 高福祉国家としても知られる。 社会保障の制度が充実していることで有名。しかし、福祉が充実しているぶん、税金も高い国としても有名。 製紙工業が、さかん。 首都はストックホルム。 スウェーデンでは鉄鉱石が産出され、ドイツなどに輸出されている。 自動車工業が発達している。 育児を支援する制度が1980年代から充実し、出生率を上昇させた。 スウェーデンは緯度が高く、気候が寒冷なことから、農業(畑、田)には適さない土地が多い。森林は耕地にはせず、森林のまま、森林資源として用いている。 スウェーデンは1995年にEU加盟したEU加盟国である。だがスウェーデンは、EUの共通通貨ユーロを導入していない。 中立国である。軍事に関していうが、日本では あまり知られてないが、スウェーデンは徴兵制(ちょうへいせい)を2010年まで行っていた。スウェーデンの徴兵制は、2010年に廃止された。 酪農、養豚などの畜産、漁業がさかん。世界有数の酪農国。豚肉などの輸出国になっている。水産物の輸出国でもある。高福祉国家としても知られる。 農業は、ライ麦・ジャガイモなどの栽培。 シロンスク地方で石炭が産出される。 住民のほとんどはスラブ系で、宗教はカトリック。 プラハで工業が発達している。 冷戦中はチェコスロバキアという国だったが、1993年にチェコとスロバキアという2つの国に分離。 チェコ、スロバキアは両国とも、住民のほとんどはスラブ系で、宗教はカトリック。 チェコの首都はプラハ。 住民はウラル語族のマジャール人で、宗教はカトリック。 ドナウ川が流れる。 首都はブダペスト。 ハンガリーの農業では、小麦の栽培、あるいは肉牛や豚などの飼育を組み合わせた混合農業が盛ん。 住民の大半がラテン系で、宗教は東方正教。国名のルーマニアとは「ローマ人の土地」という意味。 カルパティア山脈などから石油・天然ガスが産出する。 ルーマニアの農業は小麦が盛ん。あるいは混合農業。 ドイツの出生率は2010年の時点で約1.4であり、日本の出生率と近い。 いっぽう、同時期(2010年前後)のフランスの出生率は1.8〜2.0であり、アメリカ合衆国の出生率と近い。 また、福祉の充実しているスウェーデンやデンマークの出生率も、じつは1.8〜2.0であり、アメリカ・フランスと、あまり差が無い。 フランスは、北欧と違って高福祉・高負担というわけでもないのに、フランスでの出生率がアメリカ・北欧なみに高いことから、近年、各国の少子化対策政策においてフランスが注目されている。
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日本の隣国といえる国は何処でしょうか?ロシアは世界で一番大きな国です。ヨーロッパとアジアの両方にあり、地下にはたくさんの資源が眠っています。日本の重要な隣国でもあります。領土問題が解決していないため、「近くて遠い国」と呼ばれるロシアについて、私達はあまり知りません。ソビエト連邦が国としてロシアになった後の様子を学んでみましょう。 ロシア連邦はユーラシア大陸の北半分に位置し、そのほとんどが日本より高緯度です。アジアからヨーロッパにまたがる世界最大の国土を持ちます。ロシア連邦の大きさは、日本の約45倍(東西1万1000km)にもなります。そのため、11の標準時帯に分かれ、東端と西端では昼と夜がほぼ入れ替わっています。 行政的に、国全体は8つの連邦管区と83の連邦構成主体に分かれています。連邦構成主体のうち26は少数民族を中心とした共和国、自治区、自治管区です。このうち、2大都市モスクワとサンクトペテルブルクは、連邦政府が直接管轄しています。 ロシアの地形は、大きく分けて次の通りです。 東ヨーロッパ平原 [ヨーロッパロシア] 西シベリア低地と中央シベリア高原 [シベリア] かつてシベリアは、ウラル山脈より東の地域の名称でした。現在、この地域のうちサハ共和国とアムール州以東の地域を極東ロシアに分類しています。 特に、東シベリアから極東ロシアまでの冬はシベリア高気圧に覆われ、オイミャコン周辺は北半球で観測史上最も寒い場所とされています。 春から夏にかけて、北極海に注ぐオビ川、エニセイ川、レナ川などの上流では雪が解け始めても下流では凍ったままなので、しばしば氾濫します。また、路面の凍土層が解けて路面が柔らかくなると、通行出来なくなる場合もあります。そのため、シベリア北部の鉱業都市では、ほとんどの人が飛行機を使って他の地域と行き来しています。さらに、永久凍土が多い地域では、高床式の建物も見かけます。これは、床と地面の間に空間を作り、暖房で永久凍土が柔らかくなって、建物が沈んだり傾いたりしないようにするためです。 ロシアは、ユーラシア大陸の北部のほとんどを占めています。シベリアを含むロシアのほとんどは、冷涼な寒帯や亜寒帯気候です。国土の約30%で、1月の平均気温が-30℃を下回り、半年以上寒さが続きます。海の影響を受けないので、そのほとんどが大陸性気候です。そのため、一年を通して寒い時期と暖かい時期の差が大きく、春と秋の季節がとても短く感じます。 厳しい気候のため、北極海沿いのツンドラ気候の地域を除き、国土のほとんどがタイガと呼ばれる針葉樹林に覆われています。東ヨーロッパ平原の南部だけがわずかに耕作出来る土地を持ち、そのほとんどが寒さと旱魃から守らなければなりません。チェルノーゼムが分布するステップ気候地帯や気候が比較的穏やかな混合林が広がる地域は、ロシアの南西部や南部の国境付近の地域に限られています。ここに多くの人が住んでいます。特に、黒海とカスピ海に挟まれた地域は、世界でも有数の保養地として知られています。 資源や産業の面では、国内にある石炭や鉄鉱石を利用して重化学工業が成り立っていました。しかし、原油や天然ガスは自国で十分に確保出来ないため、ロシアから輸入する必要がありました。しかし、ここ数年、ロシアが天然ガスの値上げを計画し、それに対してウクライナが天然ガスの輸送を停止するなど、天然資源をめぐる問題が起きていました。 2014年、親ロシア派の住民と西側諸国を支持するウクライナ政府との間で争いが発生しました。この内戦はウクライナ東部からクリミア半島に広がり、そこにロシア軍が介入して内戦[1]が発生しました。ロシアはクリミア半島の領有を一方的に宣言し、世界から強く反発されました。 2022年には、ロシアがウクライナに大規模な侵攻を開始し、戦争になりました。現在(2023年8月)も戦争が続いています[2]。 そしてこの侵攻により、ロシアは、Euやアメリカなどからの国際社会から経済制裁を受けた[3]。 ウクライナは穀物輸出国でもあるため、ウクライナ侵攻により、世界の穀物の貿易に大きな影響を与えた[4]。 ウクライナに関する地名の表記を、日本政府は2022年以降から、従来のロシア語表記に代わり、新しくウクライナ語に合わせた表記に変更している。 つまり、 キエフ(古い) → キーウ (新しい) オデッサ → オデーサ   ドニエプル川 → ドニプロ川 など[5]。 ハリコフ → ハルキウ なお、キーウ(キエフ)はウクライナの首都。ハルキウはウクライナの都市のひとつ[6]。 ロシアは20世紀初頭まで皇帝が統治していました。しかし、1917年のロシア革命の後、1922年、ロシアの共産党は世界最初の社会主義国を作りました。これが、ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国)です。ソビエト連邦では、ロシア帝国の広大な国土のほとんどを手に入れました。第二次世界大戦後は、その軍事力の強さから、世界の超大国としてアメリカと対立していました。これが冷戦の始まりです。しかし、経済の停滞や民族間の対立から、1991年にソ連は15の国に分裂してしまいました。以降の、ロシアはソビエト連邦の一部だった頃に比べ、世界での政治的・経済的な力関係が大きく低下しています。ロシアは最も人口が多く、国土も最も広い国です。カザフスタンなどの中央アジア諸国やアゼルバイジャンなどのカフカス地域諸国はソ連を離れ、完全な独立国家となりました。 ソ連がロシアに変わってから、土地も国境もずいぶん変わりました。ヨーロッパの海の玄関口であるバルト海や黒海では、海に面した国土がずいぶん減りました。また、多くの国がソ連を脱退したため、中央アジアの国境が変わりました。そのため、ウクライナやカザフスタンなど、かつてソ連に属していた国からロシアに移住してきたロシア系民族もいます。しかし、それらの国に留まる者も多く、民族紛争の火種を残しました。2014年には、ロシア人が多く住む地域をめぐって、ロシアとウクライナの間で対立が起きました。その後、2022年からロシアが一方的にウクライナに侵攻しました。 ソ連解体後、ロシアは出来るだけ多くの共和国と仲良くしようとしました。そこで、旧ソ連構成国と一緒になって独立国家共同体(Common wealth of Independent States)を作り、政治的・経済的に協力し合う緩やかな独立国家の集まりとしました。独自の議会や憲法を持たず、首脳会議や閣僚会議も必要な時にしか開かれません。しかし、ソ連の一部だったバルト三国やトルクメニスタンは参加せず、後にロシアと大喧嘩したジョージアも脱退しました。カザフスタンとベラルーシは、今加盟している9カ国のうちの2カ国です。この共同体が出来た最大の理由は、世界各地に設置されたソ連時代の核兵器や軍事基地を処理するためでした。これらの基地は全てロシアが管理するようになっていたため、CISは軍事・安全保障面での協力が中心で、経済面での協力はあまり行われていません。このように、CISは緩やかなつながりのある国の集まりなので、EUやアメリカに近づこうとする国もあります。 ロシアは多民族国家ですが、そのうち約8割がスラブ系のロシア人です。 トルコ系やモンゴル系など大小100以上の民族からなります。このうち、人口50万人を超える民族は15もあります。また、北極海周辺には、アジア系少数民族の住む大きな共和国や自治管区があります。さらに、カフカス地域やヴォルガ川流域には、チェチェン人やタタール人の住む共和国が多く見られます。 総人口の多くを占めるロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、インド・ヨーロッパ語族のスラブ語派に分類される言語を話しています。また、アルタイ語族やウラル語族の言語を話す人々もいます。公用語はロシア語で、キリル文字が使われており、様々な民族語が話されています。宗教は東方正教(ロシア正教)が最も一般的ですが、イスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒もいます。 ロシアの国境付近では、民族や土地をめぐる紛争が絶えず、外国人投資家の悩みの種となっています。特に、カスピ海と黒海に挟まれたカフカス地域は異民族が多く、ロシアのチェチェン共和国のように政治的に不安定な場所も少なくありません。2008年には、ソビエト連邦の解体により独立したロシアとグルジアの国境で、軍事衝突がありました。民族間の対立が大きな原因となりました。日本は極東にある北方領土の返還を求めていますが、まだ解決していません。 ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)では、共産党が計画経済を運営していました。計画経済とは、生産、流通、販売の全てを中央の計画機関によって支配する経済体制をいいます。ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)が崩壊して民間企業による市場経済に転換した時、ロシア国民の生活は大きく変わりました。資本主義の発展とともに、経済の効率化が最も重視されるようになりました。この結果、非効率的な国営企業は閉鎖され、多くの人々が職を失いました。計画経済から市場経済への転換が早すぎたため、ロシア経済は他の東欧諸国の経済よりも混乱しました。ロシアの国内総生産(GDP)は6年連続で減少し、世界恐慌時のアメリカよりも悪くなっています。 ソビエト連邦時代、国民は教育、医療、社会保障を無料で受けていました。しかし、ソビエト連邦の崩壊後、これらを無料で受けられず、それに代わる制度も完全に整備されていません。しかし、物価が上がり、新たな富裕層が生まれても、失業者や退職者など弱者の生活は苦しく、貧富の差は大きくなる一方です。また、外国資本が急成長しているヨーロッパロシアとそれ以外の地域では、所得に大きな差があります。したがって、このような差を解消しなければなりません。ロシアでは自殺者やアルコール中毒者が増えているだけでなく、出生率が下がっているため、人口が減り続けています。 市場経済への転換による混乱で、食料品や日用品の不足は深刻でした。当時、小売店に並ぶのはロシアの風物詩とさえいわれました。しかし、今は経済が良くなり、消費財も増え、買い物も以前ほど苦労しなくなりました。日用品が充実し、耐久消費財の需要が高まり、自家用車が急速に普及するなど、人々の暮らしがどんどん良くなってきています。 大きな変化の中で、変わらないものもあります。都市部ではほとんどの人がマンションに住み、田舎ではほとんどの人が小さな家に住んでいます。大都市では約半数の家が郊外に簡素な木造の別荘ダーチャを持ち、週末や夏休みを過ごしています。庭では農作業を楽しみ、手に入りにくい野菜や果物を採って生計を立てています。スポーツも自由な時間の過ごし方として人気があり、バレエや演劇、コンサートを好む人も少なくありません。 政治体制が変わった後、経済危機が起こり、人々は就職先があるかどうかわからなくなりました。そのため、経済基盤の弱い農村部や地方の小都市から大都市や地方都市に人々が移動するようになりました。ウクライナや中央アジア、バルト三国を離れた多くのロシア人が大都市に移り住んでいます。 首都モスクワは、人口1000万人を超えるヨーロッパ最大の都市です。1990年代以降、急速に発展を遂げましたが、その成長の多くは金融などの第三次産業で起こっています。高層ビルが立ち並び、郊外には大型ショッピングモールが立ち並ぶ副都心のオフィス街は、市場経済への転換で生まれた新しいロシアの姿を表しています。モスクワが世界で最も物価の高い都市と言われるのは、それだけ多くの人が住み、移動が容易だからです。その他、サンクトペテルブルクやニジニノヴゴロド(旧ゴーリキー)など、ヨーロッパロシアの大都市も中心都市として大きく発展してきました。 農業分野でも、ロシアの市場経済化の影響を感じさせます。ソ連時代は、コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)によって大規模な生産と販売が行われていました。しかし、市場経済に移行すると、土地の個人所有が認められ、多くのコルホーズやソフホーズが民間企業に再編され、運営されるようになりました。また、生産性の高い企業的な農業への転換が容易でなく、農業法人の成長も遅れています。極東では、農産物を近隣のアジア諸国から購入する傾向が強まっています。さらに、家族経営の農家はあまり増えていません。そのため、穀物やテンサイ、油脂用の向日葵などは、ほとんどが個人所有の大農場で栽培されています。一方、ソ連時代から認められている農場では、野菜や果物、肉などを栽培し、定期市や路上で販売されています。 【現代ロシアの農業形態】 ロシアの自然環境は南北で異なり、東西に伸びる農業地帯も少なくありません。チェルノーゼムのある黒土地帯では、小麦を中心とした穀物栽培が盛んです。ヨーロッパロシアではライ麦やジャガイモの栽培が盛んで、豚や牛を飼育する混合農業が見られます。沿岸部では漁業が盛んで、日本向けの水産物製造が主な産業となっています。 このように、ロシアの主要作物は、小麦、大麦中心の穀物栽培とジャガイモ、テンサイなどといった耐寒性作物です。中でも、小麦はロシアの主要輸出品目です。ロシアは作物を栽培出来る土地が豊富ですが、単位面積あたりの生産性はヨーロッパに比べると下がります。 商業・サービス業の成長に比べ、工業の再生は各部門で大きく異なっています。ソビエト連邦時代には、ウラル山脈の南部やクズネツク炭田といった場所が、様々な種類の資源を結びつけてコンビナート方式の重工業地帯となりました。コンビナートとは、鉄鉱石や石炭などの資源とそれを利用する産業を結びつけて、計画的に設置された工業地帯をいいます。ソビエト連邦崩壊後、経済の混乱でこれらの重工業は大きな打撃を受け、低迷していましたが、少しずつ回復してきています。 ここ数年、ロシアの製造業が世界的に注目されています。ロシア連邦に加盟して以来、サンクトペテルブルクの港湾や交通網は急速に発展してきました。また、自動車や家電などの産業が大きく変化し、製造業の中心地となろうとしています。2005年には経済特区を設け、外国資本を導入し、欧米や韓国、日本などの企業も入ってきました。2005年には、研究開発のための技術導入区と工場生産のための工業生産区が設置されました。一方、繊維産業を始めとする軽工業は、安価で高品質な外国製品に押され、不振が続いています。 市場経済への転換により、特に第三次産業が成長しました。生産活動が民営化され、価格の自由度が高まったからです。特に携帯電話やインターネットの普及で、通信・情報部門の成長は驚くばかりです。また、商業・サービス業も急成長しました。スーパーマーケットをはじめとする商業施設は、ロシア各地で見られます。 現在のロシアでは、鉱物資源の開発が産業・経済の大部分を占めており、原油や天然ガスの輸出量は世界でも上位に位置しています。西シベリアは、石油や天然瓦斯が多く作られている場所です。以前は、永久凍土から原油や天然ガスを取り出すのに高い費用がかかるため、人々はそれを実行に移せませんでした。しかし、今では、それを実現しようとする動きが加速しています。また、金や鉄鉱石の埋蔵量も世界有数です。 シベリアには、プラチナ、金、銅の鉱山があります。極東には、ダイヤモンド鉱山があります。ヨーロッパロシアでは、沿海州とウラル地方に最も多くの原油と天然ガスが埋蔵されています。チュメニには国内最大の油田があります。エニセイ川やヴォルガ川では、大きな水力発電所が同時に建設されています。 ロシアの対外貿易を見ると、これらの鉱物資源の輸出が外貨獲得の大半を占めているため、資源を加工して付加価値をつける産業が十分に育っていません。また、すでにある油田やガス田の有効利用よりも、新たな鉱脈や鉱床の開発が重視されてきました。そのため、乱開発や自然環境の破壊といった問題が発生しています。 ロシアは天然資源が豊富ですが、国土が広いため、なかなか国が発展しません。首都モスクワと日本海に面したウラジオストクの間には7時間の時差があります。また、地形的に物資の運搬や通信が困難です。エニセイ川以東は山が多く、人も少ないので資源開発が進んでいません。鉄鉱石を除き、ロシアの鉱物・エネルギー資源の多くは、東部と北部に偏って分布しています。そこで、シベリア鉄道やバム鉄道、パイプラインなどの長距離輸送路を整備し、これらの資源を輸出して国内で利用出来るようにしました。 北極を中心に描かれた地図を見ると、カナダ、アメリカ、日本、中国、EUが、世界最大の国であるロシア(EU)に寄り添っています。つまり、ロシアは世界経済に大きな影響を与える国々に囲まれているため、地理的・経済的に有利な立場にあります。 ロシアは、資源大国です。シベリアや北極海沿岸には石油や天然瓦斯などの地下資源がたくさんあり、石油や天然ガスを中国や日本に送るパイプラインの建設も計画されています。しかし、現時点、エネルギーの結びつきはEU諸国が中心です。サハリン(樺太)の石油や天然ガス、極東ロシアの石炭、海産物、木材などが日本への重要な輸出品となっています。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%A8%E5%91%A8%E8%BE%BA
北東部にはカナダ楯状地が広がる。 カナダ楯状地の南側あたりに、中央平原が広がる。 中央平原は、構造平野である。 カナダ楯状地のラブラドル高原からは鉄鉱石が産出される。 西部のロッキー山脈は新期造山帯のため、周辺では地震が発生する。また、ロッキー山脈は環太平洋造山帯の一部である。また、カリフォルニア州あたりにあるサンアンドレアス断層は、プレートのずれる境界にあたり、地震が多い。 また、ロッキー山脈は比較的に険しい山脈である。 東部のアパラチア山脈は古期造山帯であり、比較的なだらかである。一般的に古期造山帯では石炭が取れやすい。アパラチア山脈でも石炭が取れる。 西海岸のIT産業地域「シリコンバレー」が有名であるため、てっきり「シリコンバレー」の近くに半導体産業の地域が多そうだと思いがちだが、実態は、ちがう。実際にはアメリカ合衆国各地に半導体産業の地域がある。ただし、北部はすでに鉄鋼業など重工業の開発が進んでいるため、中部や南部に半導体産業の工業地域が多い。もちろん、シリコンバレーの近くにも、半導体工場の多い地域がある。 1950年代ごろまでの古くからの工業地帯はアメリカ合衆国の北部に多く、この一帯をスノーベルトと言う。 いっぽう、新しい工業地帯は南部に立地した。アメリカ合衆国の北緯37度以南をサンベルトという。 サンベルトに、1970年代ごろから、エレクトロニクスなどの新しい工業地帯が立地した。それ以前の第二次大戦前の昔は、綿工業くらいしか、南部には、おもな工業が無かった。 カリフォルニア州、フロリダ州、テキサス州が、サンベルトである。 アメリカ北東部のボストン周辺に エレクトロニクスハイウェー と言われるエレクトロニクスの工業地帯がある。 また、この北東部のボストンのあたりは、歴史的にはヨーロッパから移住してきた白人たちの初期の入植地であり、ニューイングランドと言われる。 なお、ボストン周辺にマサチューセッツ工科大学やハーバード大学がある。 また、ボルティモアやフィラデルフィアでは、輸入鉄鉱を利用した鉄鉱業が発達しており、製鉄所が立地している。 テキサス州のダラス周辺に、シリコンプレーン と言われるエレクトロニクスの工業地帯がある。 日本ではあまり知られていない企業だが、「テキサス・インスツルメンツ」という、エレクトロニクス部品の世界的な大企業が、テキサス州のダラスに位置している。 また、南部の海岸沿いにあるヒューストンでは、NASA(アメリカ航空宇宙局)の宇宙センターがあり、また、航空機産業が発達している。 また、メキシコ湾岸に油田がある。 メキシコ湾岸沿いにあるヒューストンやニューオリンズで、石油化学産業が発達している。 メサビの鉱山で、鉄鉱石が産出されていた。アパラチアで石炭が産出されていた。これらメサビとアパラチアを五大湖の水運で結び付けて、鉄鋼業などの重化学工業が発達した。 ピッツバーグやクリーブランドで鉄鋼業が発達した。 デトロイトで自動車工業が発達した。 シカゴは周辺に農業地域があるため、農業機械の産業や食品加工産業が発達している。 かつて、五大湖沿岸の鉄鋼業が、アメリカでも最大だったが、近年、メサビ鉄山の枯渇などにより、輸入鉄鉱をもちいる大西洋岸のボルティモアなどの臨海部の工業地域に押され、五大湖沿岸の鉄鋼業の役割は低下している。 カリフォルニア州のサンフランシスコ郊外にシリコンバレーがあり、電子機器工業、ソフトウェア工業などが発達している。 また、シアトルやロサンゼルスで航空機工業が発達している。航空機の世界的大企業のひとつであるボーイング社の本社は、シアトルにある。 カリフォルニアには油田がある。 アメリカ合衆国は50州からなる連邦国家。 もともとは先住民として北アメリカ大陸にはモンゴロイドのインディアン(あるいはネイティブ・アメリカンとも言う。)やイヌイットなどが住んでいた。 15世紀のおわりごろの1492年に、コロンブス(英: Columbus、イタリア語: Colombo)がヨーロッパ人としては始めてアメリカ大陸を発見した。 それから、17世紀にはイギリス人やフランス人やスペイン人などのヨーロッパ人がアメリカ北東部から移住を始めて、アメリカ大陸を侵略した。 ヨーロッパからの移民は、原住民から土地を奪った。住む場所を奪われた先住民たちは人口が減っていった。そのようなヨーロッパ人による侵略を、ヨーロッパ人は、「開拓」「入植」などと言った。 イギリスはおもに東海岸沿いを侵略して領有し、フランスはおもにミシシッピ川沿いを侵略して領有した。 アメリカ合衆国の白人の多くは、先祖がヨーロッパから移住した移民でありアメリカに住み着いたものである。イギリス系の白人がもっとも多い。アメリカ合衆国の政治を握る人種は、長い間、白人のアングロサクソン系のプロテスタントが政権をにぎってきた。これらの人種をWASP(「ワスプ」と読む)と言う。WASPとは、 White(ホワイト) ・ Anglo-Saxon(アングロサクソン) ・ Protestant(プロテスタント) の頭文字をとった略語である。 ここで言う「アングロサクソン」とは、先祖がイギリス系の民族や人種のこと。 アメリカ大陸では、17世紀から18世紀にかけて、労働力を確保するためにアフリカ大陸から黒人が奴隷として多く連れられてきた。 とくにアメリカ合衆国の南部では、綿花などのプランテーション(plantation [1])のための労働力として、アフリカから黒人が多く連れられてきた。 このため、現在の黒人は、南部の綿花地帯(コットンベルト)に多く住んでいる。 1862年には、開拓民が5年間定住した開墾したら、無償で約65haの公有地を与えるホームステッド法(Homestead Act)が実施された。 また、第二次大戦後ごろから、ヒスパニック(Hispanic)が増えた。ヒスパニックとは、メキシコなど中米、南米からの移民のことである。 「ヒスパニック」という単語はもともと、スペイン系の何かをあらわす形容詞である。メキシコなど中南米の国にはスペイン語を公用語とする国が多いので、メキシコやキューバやプエルトリコなどからの移民をヒスパニックという。 カリフォルニア州やテキサス州などのメキシコに近い南西部の州にヒスパニックの住民が多い。 なお、メキシコやキューバなどと、ブラジルやアルゼンチンなどには、スペインやポルトガルなどのラテン系ヨーロッパ人が入植して侵略して開拓していったので、これらメキシコ、キューバなどカリブ海諸国と、南アメリカ大陸の諸国をあわせて、ラテンアメリカという。 アメリカ合衆国は多民族国家であり、「人種のサラダボウル」(じんしゅのサラダボウル)(salad bowl)と言われる。 アメリカの人口の中では、白人がもっとも多く、他には先住民や、黒人や、南アメリカからの「ヒスパニック」とよばれる移民や、アジア系の民族などがいる。 昔は「人種の るつぼ」(melting pot)と呼ばれていた。「るつぼ」(melting pot)とは、合金をつくるときなどに溶かした金属を入れるための容器のことである。合金がまじり合って、新しい別の性質を持った金属になるように、ことなる人種の文化が交じり合って新しいアメリカ文化になる、というふうな考えかたである。しかし、近年になり呼び方が変わり、それぞれの民族の独自性を尊重するという考えから、「人種のサラダボウル」(salad bowl)という表現に変わって、「人種のるつぼ」とは言われなくなった。 アメリカ合衆国は、とうもろこし、大豆、綿花、小麦の、世界有数の生産国になっており、輸出も盛んである。 大手の穀物商社である穀物メジャー(major grain companies)という、ごく一部の商社たちが、穀物の価格決定に大きな影響を与えている。穀物メジャーは、「エレベーター」と呼ばれる巨大貯蔵施設をもっている。 農産物の生産だけでなく、農産物の加工や流通、農業機械の生産や販売、農産物の販売、農薬、肥料など、農業に関するさまざまな産業をまとめて、アグリビジネス(agribusiness)という。 大規模農場で様々な機械を用いた、企業的な大量生産が行われている。そのため、土地生産性は低いが、労働生産性は非常に高い。 その他、遺伝子組み換え作物(GMO、genetically modified organism)なども、アメリカの農業では積極的に導入している。 五大湖沿岸からニューイングランドにかけての農業では、酪農が盛んである。 五大湖周辺は、気候が冷涼であり、また土地が痩せているので、あまり農地には向かない。いっぽうで、五大湖周辺は大都市に近く、また冷涼な気候が、酪農に有利である。 北東部の大西洋岸では、都市に向けた野菜などの園芸農業が盛んである。 五大湖の南にあるアイオワ州とイリノイ州ではトウモロコシの生産が盛んであるので、アイオワ州とイリノイ州はコーンベルト(corn belt)と言われる。また、アイオワとイリノイでは、大豆の生産も盛んである。さらに、肉牛の飼育や養豚を行う混合農業が盛んである。 家畜の飼料のトウモロコシなどが安価で豊富なので、出荷前の肉牛を太らせるのに、フィードロットといわれる施設が利用される。 アメリカ中部にあるカンザス州では、冬小麦の栽培が行われる。この地域は、比較的に雨が少ない。世界で生産される小麦の多くは、冬小麦である。 緯度の高いノースダコタやサウスダコタでは、春小麦の栽培が行われる。春小麦は、春に種をまき、夏から秋に収穫するので、小麦が冬をこせない地域でも収穫できる。このため、寒冷なノースダコタなどの農業では、春小麦を生産している。 南部のジョージア州からテキサス州にかけて、かつては綿花の栽培が盛んな地域であり、コットンベルトと言われる。近年では、産業構造などの変化により、大豆やとうもろこしなども生産していたり、牧畜などの混合農業もしていたりする。 また近年では、カリフォルニア州など西方に綿花栽培地帯が拡大している。 奴隷制があった時代、黒人奴隷を南部のプランテーションの農場で多く働かせていたので、これら南部の地域には黒人が多い。 ロッキー山脈東側のグレートプレーンズでは、肉牛などの牧畜が見られる。この地域は、雨が少なく、かつては農業には向かなかったので、牧畜が発達した。しかし近年では、灌漑が発達し、センターピボットによる灌漑が行われている農場もある。 カリフォルニアの気候は地中海性気候である。カリフォルニアの農業では、オレンジ、ブドウ、野菜などをつくっている。農場の労働者に、メキシコ系(ヒスパニック)の労働者が多い。 カナダは小麦の世界2位の輸出国。カナダの小麦は、春小麦である。一般に寒冷な国で小麦を栽培する場合には、冬の前に収穫できる春小麦を栽培する。 カナダは寒冷なため、国土のほとんどは、農地に向いてない。カナダの南部で、農業を行っている。 カナダは森林資源にも恵まれていて、カナダは木材やパルプの世界的な輸出国である。 アメリカとカナダとメキシコの3国は、北米自由貿易協定(NAFTA、ナフタ)を結んでいる。NAFTAは1994年に発効した。NAFTAによって、域内関税を撤廃している。 NAFTAの3国合計のGNPの規模は、EUに匹敵する。(なお、2018年以降、NAFTAはUSMCAに更新されている。[2]) カナダとアメリカのあいだには、フェンスや壁などはなく、自由に通行できる。 いっぽう、アメリカとメキシコのあいだは、フェンスや壁などがある。 五大湖の周辺で、工業がさかん。スノーベルトに含まれる。 カナダでは水資源が豊富なため、水力発電がさかん。また、水力発電の電力をいかして、カナダではアルミニウム産業が盛んである。 ロッキー山脈の東部あたりで石油が産出される。 先住民はインディアンとイヌイットである。ヨーロッパ人でカナダに最初に入植した民族はフランス人だが、のちにイギリス人が入植し、イギリス領になった。 このため、歴史的に、イギリス系とカナダ系との対立がある。 その後、カナダはイギリスから独立した。 現在、イギリス系住民がカナダ国民の大半を占める。しかしケベック州ではフランス系住民が多い。 首都のオタワは、イギリス系住民の多いトロントと、フランス系住民の多いモントリオールとの、中間にある。 近年、イヌイットが多数を占めるヌナブト準州が成立した。 (※ 範囲外: )治安は世界の中でも良い国である。人種差別や不平等も少ない。 [要出典]
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB
※後日、本文を大幅加筆する予定です。 参照:中学校社会 地理/南アメリカ州 工業化される以前のブラジルは、単一作物による農業国でした。輸出の約7割がコーヒーでした。現在も世界最大のコーヒー輸出国ですが、ブラジルの全輸出量のうちコーヒーは3%程度に過ぎません。 ブラジルは1960年代末から1970年代初めにかけて、年率10%以上の経済成長を遂げました。これはブラジルの奇跡と呼ばれました。外国資本の援助と輸入代替工業化政策を取って、工業を近代化したからこそ実現出来ました。ブラジルは、安価な労働力を利用して産業構造を変え、重化学工業を発展させました。その結果、それまで多くの重化学工業製品を輸入していたブラジルは、自国で製造を開始しました。 ブラジルの経済は急成長しました。しかし、物価が年間25〜30%上昇し、累積債務問題、金融危機もあったため、不況も経験しました。その都度、政府は輸入を自由化し、国有企業を売却しました。これによって物価の上昇が止まり、経済が再び成長するようになりました。また、1995年にはMERCOSUR(南米南部共同市場)が設立され、ラテンアメリカの経済が立ち直れるようになりました。その後も経済成長に大きく貢献しています。MERCOSUR(南米南部共同市場)は、経済を改善するための地域経済統合です。アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラ、ボリビアが加盟しています。ブラジルはMERCOSURで重要な役割を果たす一方、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国とともにBRICsに加盟し、世界経済への影響力を強めています。 赤道付近を流れるアマゾン川の流域の気候は熱帯雨林気候である。なお、アマゾン川流域の熱帯雨林や、ラテンアメリカの熱帯雨林のことをセルバという。 アマゾン川流域の地域の農業では、キャッサバなど熱帯の作物を栽培するのが盛んである。 (※ アフリカの熱帯でのキャッサバ栽培と類似。) 焼畑農業が主流。(※ アフリカの熱帯と、類似。) そして、ラテンアメリカの熱帯雨林の周辺にあるブラジル高原(カンポ)やオリノコ川流域(リャノ)の気候は、サバナ気候である。(※ アフリカの熱帯の周辺にもサバナ気候がある。類似。) ブラジル高原あたりをカンポという。 オリノコ川流域をリャノという。 1960年以前のブラジルではコーヒー豆の生産が有名だった。しかしブラジルでは1970年代ごろから、サトウキビや大豆の生産が盛んである。とはいえ、ブラジルのコーヒー豆の生産量は世界1位である。(コーヒー豆生産の2位はベトナム、3位はコロンビア) ブラジルは大豆の生産量で世界2位。(大豆生産の世界1位はアメリカ合衆国、3位はアルゼンチン) ブラジルの大豆生産地は、赤道からは、やや外れた、ブラジル高原南部にある。 バナナは、ブラジルが世界でも有数の生産量。(バナナ生産量はエクアドルが世界1位。) このように、ブラジルの農業は多角化が進んでいる。 アルゼンチンでは、ラプラタ川流域に、パンパと呼ばれる草原地帯がある。パンパでは肥沃な黒色土(パンパ土)が分布している。 また、ラプラタ川流域で、大豆の生産が盛ん。 パンパには、降水量の比較的多い湿潤パンパと、降水量の少ない乾燥パンパがある。乾燥パンパは農業に向かず、羊などの放牧などに利用される。 湿潤パンパが農業に利用される。湿潤パンパで、小麦やトウモロコシやアルファルファなどが栽培される。 大土地所有制のエスタンシアが残っている。 なお、アルゼンチンの住民には、ヨーロッパ系白人が多い。 チリ沖合は寒流であるペルー海流が流れるため、上昇気流が生じにくく、降水量は少ない。 そのために北部は砂漠気候でありアタカマ砂漠が分布するが、南部は偏西風域内にあるためその影響が強く、西岸海洋性気候である。 なお、アルゼンチン南部のパタゴニアにも砂漠があるが、これは、偏西風の、山脈の風下側にあるため。(チリ北部の砂漠と、アルゼンチン南部の砂漠は、発生原因が違う。) 降水量の少ないチリ中部では、ブドウの栽培が盛ん。(ブドウは降水量が少なくても育ちやすい。日本の甲府盆地などを思い出そう。) ペルーなど、アンデスの山岳地帯での農業は、低地ではトウモロコシや周辺諸国の農産物と同じような作物を栽培しているが、しかし標高が高くなるにつれて小麦やジャガイモやトウモロコシなどが栽培される。 さらに標高が上がり、さらに寒冷になると、耕作限界をこえるので、リャマやアルパカなどの家畜を放牧する。 なお、ペルーの住民には先住民のインディオが多い。 (※ 定期試験レベルの基礎知識) ラテンアメリカの先住民のインディオはモンゴロイド(黄色人種)。 ラテンアメリカには混血人種が多い。白人(コーカソイド)とインディオとの混血をメスティソという。白人と黒人との混血をムラートという ラテンアメリカの黒人の先祖は、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人(ネグロイド)である。 つまり、ラテンアメリカの黒人は、アフリカ系黒人である。 ラテンアメリカには、白人とインディオとの混血であるメスティソや、白人と黒人との混血であるムラートも多い。 西インド諸島のハイチやジャマイカに、黒人が多い。この理由は、サトウキビなどのプランテーションの労働力として、黒人がハイチやジャマイカなどに移住させられたからである。 (※ 入試で問われやすい) キューバは白人の割合が高い国であり、キューバでは全人口のうち65%が白人である(スペイン系の移民が多かったので)。また、キューバの人口の残り35%のほとんどは、黒人よびムラートである。つまりキューバにインディオおよびメスチソは、ほぼゼロ%である。 (キューバの黒人は、日本ではマスコミ報道などで比較的にキューバ白人よりも話題にはなりやすいかもしれないが、じつはあまりキューバ黒人の人口比は多くない。) キューバなどのカリブ海諸国を除くと、ラテンアメリカの大陸側の国(ブラジルやペルー、アルゼンチンなど)は、じつは黒人はあまり多くなく、白人以外の人種は、先住民およびメスチソ(先住民との混血)がほとんどである。 例外的に(大陸側では)コロンビアは、黒人およびムラートが合計20%ほどである。日本人の視点からはコロンビアが地理的にアメリカ合衆国に近いので目立つので、ついつい「ラテンアメリカは黒人も多いかも?」と錯覚いがちだが、じつはコロンビアが例外的に黒人が多いのである。 ブラジルは人口の40%ちかくが混血であるが、白人系の混血なのか黒人系の混血なのか、ハッキリしない。 アルゼンチン、ブラジルは、白人の割合が高い。(統計の取り方によっては、チリも白人の割合が高い国に含める場合もある。) 特にアルゼンチンは白人の割合が高く、全人口の97%ほどを占める(2010年統計)。 同じくアルゼンチンの隣国のブラジルは、白人の割合が高く、48%である。 隣国のチリはメスチソの割合が高いが、このメスチソも白人と先住民との混血のことであり、チリのメスチソおよび白人の割合は、ほぼ95%である。 また、アルゼンチン、ブラジルは先住民・インディオが少ない国でもある。(ただしブラジルはメスチソが多い。つまり、混血が進んでしまっており、純度の高い先住民は残ってない。) アルゼンチン、ブラジル、チリとも、先住民の人口は10%未満である。 まとめると、 いっぽう、(アルゼンチンの北隣にある)ボリビアや(ボリビアの隣の)ペルーは、先住民・インディオの割合が高い国であり、人口の50%ほどがインディオ系である。 ラテンアメリカでアルゼンチン、ブラジル、チリ以外の国は、白人の割合が少なく、白人は全人口の10〜20%ほどである。 たとえばボリビア・ペルーで、その国の全人口のうち白人の占める割合が15%ほどである。エクアドルやコロンビアも同様に、全人口のうち白人の占める割合が10%〜20%ほどである。 漁獲高が高い。アンチョビ(かたくちいわし)を、魚粉(フィッシュミール)にしてから輸出する。 住民の多数がインディオ。インカ帝国があった場所はペルーのあたり。 ペルーの首都はリマ。 ペルーは銅の産地。 ペルー海流の影響で、太平洋側が砂漠気候。しかしペルー東部には森林などが広がる。 ペルー中央に、アンデス山脈が走る。 ブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合がやや多い。ペルーでは、日系人のフジモリが大統領になったこともある。 (※ 範囲外 :)治安はあまり良くない。貧富の格差は大変大きい。 ボリビアの首都のラパスは標高4000m以上。ラパスは世界一標高の高い首都といわれている。ボリビアは内陸国。スズの産出地。住民の多数がインディオ。 ボリビアのウユニ塩原の地下に、大量のリチウムが存在している事が分かっており、開発などが進められている。 国民の多くは貧しく、経済的格差は世界の中でも大きい。  (※ 範囲外 :)治安も良くない。 チリの国土は南北に細長い。南北で気候が違う。 チリ北部は砂漠気候。チリ南部は、偏西風の影響を受けるため、西岸海洋性気候。そのあいだのチリ中部は地中海性気候であり、ブドウの栽培が盛ん。 政治や経済は良い状態にある。 (※ 範囲外 :)治安もラテンアメリカの中では良い国。但し貧富の差は大きい。 ベネズエラは産油国であり、OPEC加盟国。 貧富の格差は非常に大きい。 エクアドルは赤道直下に位置する。バナナの輸出国。また、エクアドルからは原油も算出し、産油国であり、OPEC加盟国である。 エクアドルの首都キトは標高2000m以上の高山都市。 コーヒーの輸出国。 コロンビアの首都ボゴタは標高2000m以上の高山都市。 コロンビアはエメラルドの世界的な産地である。 (※ 範囲外: )反政府ゲリラがはびこり、殺人や誘拐が多く大変治安が悪い。コカインの産地でもある。貧富の格差も相当大きく、失業率も高い。 ブラジルの公用語はポルトガル語である。(スペイン語ではない。) 第二次大戦後に、開発のおくれた内陸部を開発させるため、1960年にブラジルは首都をそれまでのリオデジャネイロから、内陸部のブラジリアに移転させた。つまり、現在のブラジルの首都はブラジリアである。 さらにアマゾンの熱帯雨林を開発するため、1970年代にアマゾン横断道路(トランスアマゾニアンハイウェー)を建設した。 ブラジル高原南部の土壌は、玄武岩が風化してできたテラローシャである。テラローシャは肥沃であり、コーヒー栽培に適している。 テラローシャは、赤紫色。ポルトガル語で「テラローシャ」とは「紫の土」という意味。 いっぽう、ブラジルの熱帯雨林地帯では、雨が強すぎて養分を流してしまうので、ブラジルの熱帯の土壌のラトソルは養分がすくない。 近年の農業では、サトウキビの生産が盛んであり、またバイオエタノールの生産も盛ん。バイオエタノールの原料は、サトウキビやトウモロコシなどである。 バイオエタノールは、エタノール車の燃料。 メルコスールは、域内の関税撤廃と、域外との共通関税をしている。 ブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合が多い。ブラジルは世界で一番日系人が多い。 (※ 範囲外: )治安はとても悪く世界的に見ても犯罪が多い国である。貧富の格差は極端である。 白人はイタリア移民の子孫が多い。 ブラジル南東部のサンパウロとリオデジャネイロで工業が盛ん。 機械類、自動車、鉄鉱の生産が、ブラジルの工業では盛ん。 ブラジルは鉄鉱石の産地。カラジャス鉄山やイタビラ鉄山で、鉄鉱石が産出。 また、ブラジルはボーキサイトの産地でもある。一般に、ボーキサイトは熱帯雨林の地帯で産出することが多い。熱帯のつよい雨が、ボーキサイト以外のさまざまな成分を流してしまうが、ボーキサイトは流されずに、残るからである。 マンガンも産出する。 白人が多く特にイタリア系が多い。首都はブエノスアイレス。 草原のパンパには、温暖湿潤気候の湿潤パンパと、ステップ気候の乾燥パンパがある。年間降水量500mmの境界線が目安。 パンパ東部は、湿潤パンパ。 パンパ西部は、乾燥パンパ。 農業については、湿潤パンパでは小麦、大豆、とうもろこし、アルファルファなどを生産。乾燥パンパでは、羊の放牧が行われている。 パタゴニアは砂漠気候。パタゴニアが乾燥する理由は、偏西風がアンデス山脈にさえぎられて、パタゴニアは(偏西風の)風下側になるため。 1950年代まで裕福な先進国だった過去を持つ。 住民のほとんどが白人。小麦や大豆や肉類などを生産する農業国。政治や経済はチリに次ぐ水準である。 (※ 範囲外 :)治安も比較的良い。かつては南米のスイスと言われ福祉制度が充実していた時期がある。 1908年頃からブラジルに、日本人が農場などの労働者のための移民として、移住した。そのため、ブラジルには日系移民が多い。ペルーでは、日系人のフジモリが大統領になったこともある。 ブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合がやや多い。 キューバやジャマイカなどと、南アメリカ大陸とのあいだの海を、カリブ海という。 いっぽう、キューバやジャマイカなどと、メキシコと、アメリカ合衆国の南部とのあいだの海は、メキシコ湾である。 キューバやジャマイカなどを「カリブ海諸国」という。 住民にメスチソが多いが、インディオも多い。 なお、メスチソとは、白人とインディオとの混血のこと。(つまり、キューバなどカリブ海諸国と比べたら、メキシコでは黒人系(ムラートなど)の人口の割合は少ない。) (※ 入試で問われるのは、どの人種が多いかだけでなく、どの人種が少ないか、が問われやすい。) 首都はメキシコシティ。メキシコシティは、人口2000万人を超える大都市で、世界有数のプライメートシティである。 メキシコシティでは、人口の増加や流入などに、政治が追い付かず、不法占拠によるスラムが拡大している。このスラム街は都心から離れた山の斜面や、大都市の郊外に形成されている。ちなみに発展途上国のスラム街は郊外、先進国のスラム街は都心部に形成される傾向がある。 また、メキシコシティは、周辺を山に囲まれた、盆地状の地形である。 メキシコシティ自体も、標高2000m以上の場所にある。 メキシコシティで、自動車の排気ガスなどによる大気汚染が悪化してる。原因として、盆地状の地形であるため、空気が滞留(たいりゅう)しやすいことも一因だろうと考えられている。 メキシコの経済については、1994年に、NAFTA(読み:ナフタ、北米自由貿易協定)を、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコの3か国が結成した。 メキシコ湾岸から原油が産出されるため、メキシコは産油国。ただし、OPECには、メキシコは加盟していない。 輸出品は、機械類、自動車、原油。 (※ 範囲外 :)国の治安は大変悪い。世界的に見ても犯罪の多い国である。 貧富の格差も大きいとされる。 1959年にキューバ革命が成功し、それ以降から社会主義国。現在も社会主義国のまま。 また、このキューバ革命により、それまで企業や地主などが所有していたサトウキビ農園が、国有化された。 また、このキューバ革命により、ソビエト連邦の勢力圏に入り、いっぽうでアメリカ合衆国との関係は悪化。 人口は、黒人系の混血(ムラート)の人口が多い。(つまり、メスチソ(先住民と白人との混血)は少ない。) 現在も、アメリカとの関係は悪い。 2015年1月アメリカ合衆国と国交回復交渉 同年7月国交回復 キューバやバハマは観光地として有名であり、地理的近接性も相まってグレナダなど周辺国よりも観光客は多い。(※ 範囲外:)キューバは治安が良いとされる。貧富の差も少ない。 フロリダ半島から離れるほど、観光客が減少するという統計的な傾向が知られている。(2017年度センター試験で、カリブ海諸国の観光客の2010年度の統計がある。) (※英語教科書) 日本のある英語教科書でキューバが紹介されたことがある。医療費の安さ(ほぼ無料)、医師の人口が比較的に多い、大学などの教育費の安さ、などの特徴があった(掲載当時。掲載時期は未確認)。キューバの公用語はスペイン語。 1804年にフランスから独立。黒人が多い。公用語はフランス語。近代最初の、黒人による独立国。 国民の80%は貧困層である。 ブルーマウンテン山などの場所で、ブランド名も「ブルーマウンテン」で、コーヒー栽培が盛ん。 黒人が多い。ボーキサイトの産地。公用語は英語。 (※ 範囲外: )国の治安は世界の中でも最も悪い。
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オーストラリアから見て南東の洋上に、ニュージーランドがある。 ニュージーランドは国土の大部分が、環太平洋造山帯に属する新期造山帯のため、火山が多い。 ニュージーランドは主に北島と南島に大別される。 ニュージーランドの南島に、南北方向につらなるサザンアルプス山脈があるため、気候が南島の東西で異なる。 ニュージーランドには偏西風が吹いており南島の西側は降水量が多いが、あまり農業に利用されていない。 南島の東側は、雨が少なくて農地に向かないこともあり、羊の放牧や羊毛の生産に利用されている。(オーストラリアでも、雨が少なく、農地に向かないため、羊を放牧している。オーストラリアとニュージーランドを関連づけて覚えること。) なおニュージーランド南島の南東部の北側の沿岸にはフィヨルドがある。 フィヨルドの形成された理由として、偏西風の影響により、山地に雪が大量に発生し、その影響だと考えられている。(※参考文献:山川出版社『もういちど読む山川地理』) 北島は、偏西風をさえぎるものがないこともあり、降水量が多くて温暖であり、酪農が行われている。(オーストラリアでも、南東部で酪農が行われている。ニュージーランドの位置は、オーストラリアから見て、南東方向にある。つまり、このあたりの地域(オーストラリア南東部〜ニュージーランド北島 のうち、陸地の部分)で、酪農がさかん。関連づけて覚えること。) ニュージーランドは、チーズやバターの輸出で有名。日本にも、ニュージーランド産のチーズが輸出されている。戦前は、ヨーロッパにチーズ・バターを輸出する時代もあった。 ニュージーランドは、偏西風の影響や緯度などにより、夏と冬との気温差が少なく、年中とおして雨が平均的に多いので、ニュージーランドの気候は、ほぼ全土が西岸海洋性気候である。(南島の東側は、山脈で偏西風がさえぎられるため降水量が少ないが、しかし東側の気候も「西岸海洋性気候」と見なして構わない。参考書でも、そう見なしている。) ニュージーランドの先住民はマオリ人。 ニュージーランドの公用語は、英語とマオリ語。 オーストラリアとは違い、ニュージーランドでは先住民の言葉であるマオリ語も公用語になっている。 ニュージーランドは、北島に火山が多いことをいかして、北島には地熱発電所も作られている。なお、(ニュージーランドの)南島では水力発電が電力エネルギー源。 ニュージーランドの治安は世界的に見ても良い。 第二次大戦前のかつて、オーストラリアやニュージーランドの農産物は、ヨーロッパに多く輸出されていた。しかし戦後、ヨーロッパがEC、EU域内の農産物を重視したので、オーストラリアやニュージーランドの農産物は、あまりヨーロッパには売れなくなった。 ちょうど戦後のそのころ、日本を始めとするアジア諸国が経済発展しだしたので、オーストラリアやニュージーランドの農産物の生産者が、日本などへの輸出を目ざし、そしてオーストラリアやニュージーランドの農産物は日本向けになっていった、という経緯がある。 ニュージーランドの先住民はマオリ人。オーストラリアの先住民はアボリジニ。 移民制限法。(白豪主義) 北東部の沿岸にグレートバリアリーフというサンゴ礁がある。 オーストラリア大陸の東部のグレートディバイディング山脈は、古期造山帯である。 このように、オセアニア地方の島じまは、火山島か、あるいはサンゴ礁島である。 オーストラリア北部は南緯10°ほどの低緯度帯にあり、熱帯に属する。 オーストラリア大陸の北部沿岸は、サバナ気候である。 なお、オーストラリアの雨季と乾期に関して、南半球にあるため、季節が日本とは反対なので、注意すること。 オーストラリアでは1月前後は夏で多雨であり、7月前後は冬で小雨である。 オーストラリアの内陸部は、亜熱帯高圧帯の影響下にあり、年降水量500mm以下の砂漠気候が多い。 なお、すべての大陸の中で、オーストラリアは、砂漠の割合がもっとも高い。 大陸の東側の沿岸部は、西岸海洋性気候。 APEC(アジア太平洋協力会議)を最初に提唱した国は、オーストラリアである。だからAPEC第1回の開催地はキャンベラ。 オーストラリアにはボーキサイトや石炭など様々な資源が産出し、重要な産業となっている。 ボーキサイトが、北部の熱帯・サバナ気候のゴヴやウェイバなどの地域から産出する。 一般に熱帯では降雨によりボーキサイト以外の塩分が流されやすいためボーキサイトが産出しやすい。 例外的に、オーストラリアでは南西部のパースでもボーキサイトが産出する。 古期造山帯であるグレートディバイディング山脈では石炭が産出する。 一般に、古期造山帯からは石炭が産出しやすく、いっぽう、新期造山帯からは石油が産出しやすい。オーストラリアでも、石炭は、そのパターンどおりに産出している。 オーストラリア北西部のピルバラ地区からは、鉄鉱石が産出する。 ※ 『高等学校生物/生物II‐生物の進化』で「ストロマトライト」について調べると、鉄鉱石が産出する理由が説明されてるはず。 かいつまんで言うと、地球の始めごろの大昔に、まだ光合成生物がいなかったころ、海中で鉄イオン濃度が高く、さらに海中の酸素が少ない時代があった。 その後、光合成生物が海中で誕生したら、光合成により酸素が発生するので、鉄イオンと酸素が反応して、酸化鉄が大量に出来た。 酸化鉄は、比重が水より重いので沈殿するので、海底に酸化鉄がしずむ。 のちの時代に、古代にそういう酸化鉄の沈殿現象の現象の起きてた場所が、地層になったりしたとき、安定陸塊では、その地層が地表ちかくにある事が多い。 よって、安定陸塊は、鉄鉱石の産地になりやすい。 地理学では、「安定陸塊で鉄鉱石が産出しやすい」とよく言われるが、つまり酸化鉄が沈殿したまま、そこに固まったということ。 オーストラリアは、内陸部に行くほど乾燥していく。沿岸から離れた地域は農地には向かなくなる。 オーストラリア東部の沿岸から、オーストラリア南西部では、乾燥のため農地に向かないこともあり、羊の放牧をして羊毛を生産する産業が発達した。 さらに内陸にいって東部の中心部ちかくになると、乾燥しすぎて、牧羊すらも行われない非農業地域になる。 また、オーストラリアで飼育されてる羊の品種の多くは、毛の長いメリノ種である。なお、ニュージーランドで飼育されている羊では、コリデール種や、肉用にもなるロムニー種が多い。 第二次大戦前のかつて、オーストラリアは、イギリスに羊毛を輸出していた。 グレートアーテジアン盆地やマリーダーリング盆地で、羊毛の生産が盛ん。(「盆地は雨が少ない」と小学校から習ってるのを思い出そう。) 羊の飲み水は、井戸水を使っている。 オーストラリア産の牛肉であるオージービーフが有名なのも、もとをただせば、気候的な理由も一因だろう。なお、近年では、肉牛をフィードロットで肥育している。 (※ フィードロットについては、中学校社会 地理/北アメリカ州などを参照せよ。) 肉牛の生産地は、オーストラリア北部に多いので、結果的にサバナ気候の場所にオージービーフ肉牛生産地が多いことになる。 もし降水量が少なくて乾燥している地域で、無理やり灌漑して農業をしても、蒸発によって塩害が起きてしまい、なかなか上手くいかない。実際に、農地の無理な拡大により、オーストラリアでは塩害の発生が広まっている。 かつて、オーストラリア南東部にあるマレーダーリング盆地で農業しようと、スノーウィーマウンテンズ計画や地下水などで灌漑したが、塩害が発生するという結果になってしまった。「スノーウィーマウンテンズ計画」とは、オーストラリアアルプス山脈の東側にある川の上流から、水を引っ張ってくる計画。(「オーストラリアアルプス山脈」とは、グレートディバイディング山脈の南端の山脈。) 塩害という皮肉な結果に終わったが、しかし、それでもオーストラリア人は、ひきつづきマレーダーリング盆地で灌漑をつづけて、農業をしている。 オーストラリア南東部のメルボルン周辺や、グレートディバイディング山脈東側のブリスベン周辺では、地形の影響もあり、降水量が比較的多いため、酪農もしている。 ※ 「アボリジニー」とか「白豪主義」とかも高校の出題範囲なので、勉強するように。 中学校社会 地理/オセアニア州 。 なお、ニュージーランドの先住民はマオリ族。 オーストラリアでは19世紀のゴールドラッシュなど鉱産資源の開発のときに、中国人が低賃金の鉱山労働者として移民してきたので、オーストラリアで中国人が増えた。(※ けっして、近年になってから中国人が増えたわけではない。) そもそも、このゴールドラッシュによる中国人移民の増加こそが、オーストラリアでの白豪主義の原因である。 アジア系移民の流入を制限するなどの政策の、白豪主義が取られた。 第二次大戦前は、イギリスの影響が強く、オーストラリアの貿易相手国もイギリスが輸出相手1位だった。 しかし、戦後、日本との貿易が大きくなり、1970年代に白豪主義を撤廃し、オーストラリアはAPEC(アジア太平洋協力会議)を提唱して、1989年ごろにAPEC(アジア太平洋協力会議)が設立された。 1985年(日本の不動産バブル前後)では、日本が、オーストラリアの最大の輸出相手国だった。なお、このころはアメリカ合衆国は、じつはオーストラリアの第2位の輸出相手国。 APECの加盟国も、オーストラリア、日本、中国、アメリカ合衆国などである。オーストラリアの1980年代の貿易相手と、APEC加盟国が、とっても近しい関係である。 なお現在(2016年に記述)、オーストラリアの最大の貿易相手国は中国である。また一方で近年、アメリカとの貿易が、オーストラリアは大幅に減っている。 オーストラリアの治安は良好である。 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定、Trans-Pacific Partnershi)はもともと、APEC加盟国であるシンガポール・ブルネイ・ニュージーランド・チリが2006年頃から交渉していた(4ヶ国とも、APECに加盟している)。 TPPの交渉当初は、APECなどの経済協定を発展させるのを目指し、関税の原則撤廃などを目指して、より積極的な貿易自由化をめざした経済協定であった。 その後、アメリカ合衆国や日本やオーストラリアなどもTPPの交渉に参加してきた。TPPは2016年の現在も交渉中である。 フィジーの位置は、ニュージーランドの北東の洋上で、オーストラリア中部から東方にあり、日付変更線の手前。 フィジーでは、サトウキビのプランテーションが、おもな産業。 第二次大戦前は、イギリスの植民地だった。イギリスの植民地時代に、インド人がプランテーションなどのための労働力として連れてこられたので、フィジーにはインド系住民も多い。また、インド系住民がいるため、ヒンドゥー教徒も多い。 フィジーのおもな宗教はキリスト教だが(キリスト教徒が多いのは、イギリスの影響による)、インド系住民にはヒンドゥー教徒もいる。 オーストラリアから見て北にある、赤道より少し南の、けっこう大きい島が、ニューギニア島。 そして、ニューギニア島のほぼ東半分がパプアニューギニア。 なお、ニューギニア島の西半分はインドネシア領。 パプアニューギニアでは銅鉱や石油などの資源を産出し、輸出している。(東南アジアに位置的に近く、産出する資源にも石油があることが、東南アジアと似ている。) 木材も輸出している。(東南アジアと似ていることに注目。) 国民の平均年収は3万円程。 国の治安は良くはない。 ナウルは、ほぼ赤道直下にある。 ナウルでは、むかしはリン鉱石の輸出がおもな産業だったが、現在ではリン鉱石の枯渇が心配されている。 トンガはカボチャ輸出のモノカルチャー経済。日本では輸入量は減少している。(参考:http://kainouken.web.fc2.com/tokouki/zemi/2009/kabotya/4.html) 地球温暖化などによる海面上昇によって、土地の水没が起き始めている。 ツバルはサンゴ礁島であるので、標高が低い。
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