{"text": "本ユニットでは交通・通信を学習します。交通・通信は私達の生活に欠かせません。例えば、当たり前ですが、郵便局の荷物や宅急便の荷物とか運ぶ際、配達員は車・バイクとかを使います。また、自宅から10キロ以上離れた高校に通っている学生は学校や親からの送迎がない場合、公共交通機関(電車・バス)を利用しているでしょう。\n人間は元々徒歩で移動しましたが、様々な交通手段の発明によって、行動の範囲は広がりました。船の発達により、水上を移動出来るようにもなりました。陸上交通では、馬車の時代から鉄道の時代を経て、現在では自動車が主流です。さらに、航空機によって人間の行動圏は著しく拡大し、地球上の時間距離を大幅に短縮させました。\n現在、世界には様々な交通機関がありますが、人の移動にも貨物の流通にも、用途ごとに最適な手段を選べるようになっています。\n航空交通が発達するはるか以前から、水上交通は重要な交通手段でした。水上交通には、河川の流路や深さに影響されたり、移動の速度が遅い欠点もありますが、重い貨物や容積の大きい貨物を安い運賃で遠くまで運べるため、石油・石炭・鉱石・穀物などの輸送に利用されています。石油はオイルタンカー、鉱石は鉱石輸送用の撒積船などの大型専用船で輸送されます。また港として、港湾での積み替え作業を合理化、高速化するためにコンテナ船が普及し、世界各地の港湾にはコンテナ埠頭やオイルタンカー向け専用岸壁が整備されています。中国の上海、香港、シンガポール、オランダのロッテルダムは、中継貿易港として取り扱い貨物量の多い港湾都市として知られています。\nヨーロッパでは、河川や運河が国境を越える貨物輸送に欠かせない輸送路となっています。ライン川やドナウ川などの国際河川は、大小様々な運河を通じてオランダ・ドイツなどの工業地帯の河港を結びつけ、原料や製品の輸送路として利用されています。\nヨーロッパやアメリカ合衆国では鉄道が発達しました。これらの地域には広大な平野が広がり、鉄道網を整備しやすかったからです。産業革命以降、産業活動の活発化に伴って高密度の鉄道網が形成され、経済発展の基盤となりました。鉄道は、レールの敷設や整備に多額の費用がかかりますが、大量の旅客や貨物を長距離にわたって、時間も正確に輸送出来るという利点があります。しかし、現在、鉄道の輸送量は多くの先進国で減少あるいは停滞しています。一方、ヨーロッパや日本のように国土が狭く人口密度の高い地域では、新幹線やフランスのTGV、ドイツのICE、ロンドン・パリ間を結ぶユーロスターなど、都市間に高速鉄道が整備され、旅客輸送では鉄道の利用度は高まっています。\n 先進国では、貨物輸送は鉄道の役割は薄かったのですが、渋滞がなく、温室効果ガス排出量が少なく環境への負荷を削減出来ているので、自動車輸送からの転換が進んでいます。また、鉄道によるコンテナ輸送の増加や、都市内の近距離用の路面電車・地下鉄・近郊鉄道などの路線も拡充されました。都市部ではLRTも増え、高齢者や障害者が利用しやすい低床車両も導入されています。ドイツでは、郊外駅に自家用車を駐車し、鉄道に乗り換えて市街地に出入りするパークアンドライド方式が普及しています。一方、発展途上国では、依然として貨物鉄道・旅客鉄道ともに大きな役割を担っています。\n自動車は、船舶や鉄道に比べて一度に輸送出来る旅客数や貨物量は少ないですが、道路網を自由に移動でき、目的地まで積み替えなしで貨物を運べる点で優れています。現在、世界各地でモータリゼーション(車社会化)が進み、道路交通は重要な陸上交通になっています。先進国では高速道路網や幹線道路などが整備され、貨物や旅客輸送に頻繁に利用されています。自動車は短距離利用がほとんどですが、国家間を結びます。\n航空交通には、発着が空港に限定され、輸送費用が高いなどの欠点もありますが、地形や海洋の影響をほとんど受けません。例えば、成田からホノルルに行く場合、航空手段を使えば、最短時間・最短距離で移動出来ます。国境を越えて移動する人々の数は年々増加傾向にあり、特に長距離旅客輸送では航空交通の利用が圧倒的に多くなっています。また、航空機の高速化・大型化によって、比較的近距離でも、高速鉄道などの競合する交通機関がない場合は、航空交通が利用されます。先端技術製品・生鮮食料品・花卉、貴金属など、付加価値が高く比較的軽量な貨物も航空機で輸送されるようになっています。\n航空路線網が密な地域は欧州・アメリカ・オーストラリアの域内路線です。このため、その地域の路線の利用が多くなっています。\n世界中の物資流通の拡大とともに、航空機を利用した輸送も発展してきました。国際航空貨物を専門に扱う輸送業者も出現し、空港の近くには、先端技術産業のハイテクエ業団地や巨大流通センターが整備されています。日本でも成田国際空港は、電子部品や精密機械から生鮮食料品に至るまであらゆる貨物を取り扱い、輸入額では日本最大を誇っています。航空機で外国へ旅行する観光客も多く、国・大陸間の結びつきが強まっていますが、国際航空は国内と比べ大きな旅客数の変動があります。景気の変動や国際関係、感染症の流行などの影響を受けやすいからです。\n最近の航空交通では、アメリカ合衆国のシカゴ、ヨーロッパのフランクフルトの空港など、国際・国内の航空路が集中する拠点であるハブ空港の重要性が高まっています。ハブ空港には、空港使用料ばかりでなく、人の移動や物流が生み出す大きな経済効果が期待されるため、先進国を中心に、ハブ空港をめぐる主導権争いが激しくなっています。\n近年の航空交通の活発化を促進してきた一つの要因として、格安航空会社(LCC)の存在があげられます。かつては、大手航空会社によって国際航空運賃は高い水準で維持されていましたが、1980年代にアメリカ合衆国では規制緩和が進んで格安航空会社が登場し、低価格の航空運賃が普及するようになりました。\n格安航空会社はその後、ヨーロッパでも急成長し、観光産業に新たな需要をもたらしています。21世紀に入ると、格安航空会社は東南アジアや中国、韓国でも出現し、低所得者を中心に移動手段としての重要性が増しています。現在、東南アジアでは航空輸送量の半分を格安航空会社が占めるまでになっています。\n一方、発展途上国では航空路線網の整備が遅れ、先進国との経済格差の原因にもなっています。\n通信設備の進歩によって、大量の情報が世界中に瞬時に伝達出来るようになりました。\nこのような、情報通信ネットワークが世界規模に発展した現在の社会は、高度情報化社会とよばれます。\n情報をいかに早く大量に送受信出来るかが経済を左右するまでになっています。\nインターネットは、世界各国のコンピューターを電話回線・衛星回線・専用回線などで相互接続したシステムで、大量の情報を瞬時に入手し、情報の発信も簡単に出来ます。\nかつてのインターネットは、学術研究や軍事目的が中心でした。\n革命が進むにつれて、人々は、コンピューターや携帯電話を使うようになりました。このため、自宅にいながら買い物・チケットの予約や世界の人々との交流も出来るようになりました。\nしかし、コンピューターを使った犯罪の多発や、コンピュータウイルス侵入による被害など、高度情報化社会には弱点もあります。\nさらに、情報化は均等に進行しているわけではありません。\n例えば、若者達はインターネットやSNSを頻繁に利用していますが、高齢者はパソコンやスマートフォンの使い方が分からない人達が多く、その結果、特殊詐欺などに巻き込まれやすくなります。\nこのような格差は、情報格差(デジタルデバイド)とよばれます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E3%83%BB%E9%80%9A%E4%BF%A1"} {"text": "本ユニットでは\n現代世界は国家が一つの基本単位になっています。特に、かつて植民地だったアジアやアフリカの国々が独立を果たしました。以降、一部の自治領や南極大陸を除き、世界中のほとんどの地域は独立国家になりました。さらに、1990年代にはソ連やユーゴスラビアなど、社会主義国の解体によって独立国の数が増加し、現在、世界には約200の国家があります。\n主権・領域・国民を国家の三要素といいます。主権とは他国からの干渉を受けずに自らの手で領域や国民を統治する権利です。領域とは主権が行き渡る範囲です。国民とは国籍をもつ国家の構成員を指します。\n国家の主権が行き渡る領域は、領土・領海・領空から成り立っています。\n領土は、陸地のほかに河川・湖沼などの内水面をも含んでいます。領土の形態には、ひとまとまりになっている国もあれば、多数の島々で成り立つ国もあります。また、領土が各地に分散している国もあります。\n領海とは領土に接した一定の幅をもった海域です。現在、多くの国が12海里(約22km)を採用しています。領海は、通常、海岸の低潮線を基線として、そこからの距離で決定されます。海岸線の出入りが激しい場合は、直線的な基線を基準に決められます。その場合、基線の内側にある湾や内海は内水とよばれます。\nまた、領海の外側でも、接続水域とよばれる海域では、出入国管理などに関する権利が沿岸国に認められます。1982年に調印された国連海洋法条約によって、沿岸から200海里(約370km)までの海域が排他的経済水域(EEZ)として、水産資源や鉱産資源などに対する沿岸国の権利が認められています。\nさらに、その外側の海域は、公海として船舶の航行や漁業が誰でも自由に出来ます。\n領空は、領土・領海の上空にあります。ある国の航空機が他国の領空を通過する場合、事前に国家間の協定を結ばない限り自由な飛行は出来ません。領空の範囲は航空機の飛行可能な大気圏内とされますが、人工衛星が宇宙空間に多数打ち上げられている現在、その利用方法とルールの確立について国際的に議論されています。\n世界の多くの国は隣国と陸続きで接しており、国家と国家との境界線が国境です。\n山脈や河川などの境界は自然的国境とよばれるのに対し、緯度や経度などで定められた直線的な国境(数理的国境)は人為的国境とよばれています。人為的国境は民族の分布と無関係に引かれ、民族間の対立や紛争が絶えません。国境は、隣接する2国間の国境協定によって決定されます。しかし、互いに主張が対立し、国境紛争に発展する場合もあります。海を隔てて他国と接する場合でも、領海や排他的経済水域の範囲が重なりあう場合は、関係沿岸国の協議によって境界線を設定する必要があります。特に境界線周辺に海底油田や海底ガス田などが見つかると、資源開発を巡る争いに発展します。\n国家は、様々な観点から分類出来ます。日本などの多くの国のように、地方自治体に比べて、中央政府の権限が強い国家を中央集権国家といいます。また、アメリカ合衆国やロシアのように、司法権と立法権などの権限をもつ州や共和国などが連合して成り立っている国を連邦国家といいます。これ以外にも、国家を構成する民族の数からみた分類もあります。一つの民族が一つの国をつくるという民族国家(国民国家)の考え方は、近代ヨーロッパで発達しました。しかし、現実の世界をみると、全ての国民が一つの民族に属するという単一民族国家はほとんど存在しません。これに対して、多民族国家とは、ナイジェリアやスペイン、ロシア、中国などのように、複数の民族から構成され、それぞれが強い民族意識を持っている国を指しています。近代以降の国家形成の過程では、このような民族意識やナショナリズム(民族主義)が重要な役割を果たしてきました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%A8%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E7%BE%A4"} {"text": "本ユニットでは、人々が生きていくのに欠かせない食事や住居について見ていきます。\n人間は文化をもつ動物です。文化とは、言語によるコミュニケーション、道具の製作、慣習化した習俗、人生や物事についての価値観、身の回りの世界についての見方など、人間が成長していく中で学習によって身につけ、世代を超えて継承される生活様式の全体を意味します。\n人間は文化なしでは生活出来ません。文化を獲得する能力は人類に共通して備わっていますが、どのような文化を身につけていくのかは、地域や時代によって異なり、世界中で多様な生活文化が見られます。\n地域によって異なる多様な生活文化は、なぜ生まれたのでしょうか。人間集団は文化を通して自然環境に働きかけます。また、自然環境は文化の形成に影響を受けます。異なる自然環境に適応した結果として、生活文化の多様性が生まれます。人間集団が多様な自然環境に適応してきた結果としての生活文化は、人類の地域的な多様性の原点ともいえます。\n同じ地域に暮らす人々が、衣・食・住など生活に密着した事柄について、共通の言語、習慣や宗教、価値観、規範などに基づいて、同じようなものを使ったり、同じような行為をしたりする時に、地域で共通していると感じる文化を「地域の文化」といいます。ただし、同じ地域に住む人の宗教や言語が異なっていても、食べ物や着る物が似ているので、地域の文化を規定する要素は一つではありません。\nそして、人・物・情報などが国境を越えて移動するグローバル化が進行し、地域固有の文化は、徐々に変わっていく場合もあります。\n例えば、イヌイットはアザラシの狩猟にGPSを活用するようになり、アフリカでは牧畜民が携帯電話を利用して家畜の価格を教えあうようになるといった変化もみられます。\n人類の食料の獲得方法の違いは、自然環境と深い関わりを持っていました。年中高温湿潤な熱帯では、料理用のバナナやイモ類などが主に栽培されました。農耕に適さない乾燥帯や亜寒帯では遊牧が中心でした。一方、狩猟、採集を中心に生活した人々の間でも様々な形態がみられました。例えば、サケ類などの漁業資源が豊かな北アメリカ大陸の西岸では、定住生活を送る狩猟採集民が見られました。\nただし、狩猟採集民のように孤立しているように見える社会の文化も、現在では周囲の農耕民や牧畜民の文化との密接な関連の中にあり、都市の商工業と消費を中心とした生活文化ともつながっています。\n大規模な放牧をともなう牧畜は、ユーラシアでは中央アジア・西アジア・ヨーロッパとヒマラヤ山脈、アフリカではサハラ砂漠の周辺やナイル川上流の東アフリカ北部、南米ではアンデス山岳地帯に、それぞれ特有の家畜種と利用法を持って分布しています。特に広大な放牧面積を必要とする遊牧は、湿潤な熱帯やモンスーン地帯にはあまり見られず、ステップやサバナのような草原が広がる地域を中心に分布しています。\n一方、様々な形の農耕は、低緯度地域から中緯度地域を中心に広がっています。これら農耕文化は、作物の種類、栽培技術、その利用形態などにおいて地域性を持っています。中緯度地域では米や小麦などの穀物と豆類などを組み合わせた農耕が広く見られる一方、低緯度地域ではイモ類やバナナを主食とする農耕が見られます。\n大地を資源として利用する生業の牧畜と農耕に対し、海や川、湖の資源を利用した生業が漁労です。太平洋にあるポリネシアやメラネシア、ミクロネシアと呼ばれる島々では多様な漁労文化がみられます。こうした島々で生活してきた人々は、古くから航海の技術を発達させ、島から島へと移住し、人類の居住地域を広げていきました。\n暑さや寒さから身を守るのが、衣服の基本的な役割です。世界では、それぞれの地域の自然環境に応じて、衣服の素材や形が様々に工夫されています。寒冷な地域では、防寒のために、古くから動物の毛皮や皮(獣皮革)を使った衣服が着用されてきました。一方、高温で湿潤な地域では、吸湿性のよい木綿や麻を用い、ゆったりとして体を締めつけない形の衣服がみられます。1枚5~6mもある長い布を体に巻きつけて着るサリーは、古くから伝わるインドの女性の民族衣装です。サウジアラビアなどの乾燥地域に住む人々は、強い日差しや砂嵐から肌を守るため、長袖で裾の長い衣服を着ています。また、冬や夜の気温が低いアンデス地方のペルーに住む先住民は、頭や首、肩のあたりから冷気が入り込むのを防ぐため、ポンチョとよばれる毛織物の上着をまとっています。\nまた、衣服は、宗教や地域の伝統文化、階級の違いなど社会環境や経済的環境の影響も受けています。イスラームでは、女性は家族以外の男性には肌を見せてはいけないとされているため、女性達は頭にスカーフを巻き、体を隠すような形のゆったりとした衣服を着ています。\nこのように衣服の素材は、地域の自然環境によって様々で、栽培・飼育される作物や家畜にも左右されてきました。しかし、そうした制約も経済や技術の発達によって克服され、現在では、安価で丈夫な既製服が大量に生産され、短期間に大量に販売するファストファッションと呼ばれる販売形態も現れました。\n人類は、動物性と植物性の食物を満遍なく食べる雑食性の動物です。食物の料理には、煮たり焼いたりする加熱や、水さらしなどの方法が含まれ、加熱によって生のままでは消化出来ない原料が食べられるようになり、水さらしは有毒なイモ類などから毒を抜く効果をもちます。こうした料理法の発達によって、人類は多様な食材を用いられるようになり、地球上の様々な生態系に適応する生活を築けるようになりました。\n食事のとり方や作法も文化によって異なります。東南アジアの都市では、屋台での食事風景が特徴的です。稲作の盛んなモンスーン地帯では、麺は小麦よりも米粉(ビーフン)がよく用いられます。宗教と食生活の関係も深く、例えばイスラム教では、食べてよい素材調理法が認められた食品をハラールといい、そうでない食品と区別しています。\n現在では文化の違いを越えて、昔の人々が口にしなかったものも食べるようになっています。エスニック料理の流行は、今や世界の多くの都市生活に見られる現象ですが、食生活は依然として地域の文化を映し出す鏡ともいえ、だからこそエスニック料理の流行は、文化多様性の楽しみとして存在しているともいえます。\nまた、アメリカの食文化の影響で、半世紀の間にコーラやコーヒーを飲みながらハンバーガーを食べるといった光景が、日本をはじめ世界各地で見られるようになりました。こうしたファストフードは、元々はアメリカの大衆向けの簡易食に過ぎませんでした。しかし、冷凍食品やインスタント食品の普及、多国籍企業の外食産業への進出が国境を越えて広がり、食生活の均一化・等質化がますます進んでいます。\n伝統的な主食は、その地域で栽培出来る作物と深い関わりがあります。コメ、小麦、とうもろこし、イモ類、雑穀、肉、乳は、世界各地で主食とされており、食べ方には地域ごとの特色があります。\n小麦は西アジアで最初に栽培され主食となりました。その後、交易の拡大により、地中海沿岸からヨーロッパ・南アジア・中国、ヨーロッパ人が進出した北アメリカやオーストラリアで主食とされました。小麦の食べ方には2通りあります。\nキビやトウモロコシなどの雑穀は、アフリカ大陸やラテンアメリカに分布します。雑穀の食べ方は、次の通りです。\nイモ類は、ヤムイモやタロイモを食べる東南アジアや南太平洋の島々と、キャッサバ(マニオク)やジャガイモを食べる南アメリカやアフリカに分布します。アンデス地方が原産のジャガイモは、16世紀にヨーロッパへもち込まれ、現在ではドイツなどの主食になっています。\nコメは夏に雨量が多い東アジア、東南アジアを中心に広がりました。コメの食べ方は、次の通りです。\n日本と同じ稲作農業を中心とする地域では、主食としての米飯に対して副食(おかず)があるという考えが広くみられます。主食と副食の区別は、私達にとってはごく自然のように思われます。しかし、この区別は決して世界的に共通ではありません。\nアフリカや中央アジアの牧畜民や農耕と牧畜の組み合わせが見られるヨーロッパでは、このようなはっきりとした区別はありません。これらの地域では、乳製品の利用が目立ちます。例えば、モンゴルの遊牧民は多くの大型家畜の乳を利用し、それらの加工品としてバターやチーズがつくられます。また、乳製品と並んで羊・ヤギ・牛の肉が冬場の保存食として用いられます。\nなお、北極海沿岸ではトナカイやアザラシなどが、伝統的に食べられてきました。\n世界の食生活は、交易の発展、生産技術や食品工業の発達、生活水準の向上によって、近代以降、大きく変化しました。ヨーロッパで肉類が広く食べられるようになったのは、18~19世紀の産業革命以降に過ぎず、ヨーロッパのほとんどの地域が伝統的に小麦を主食としてきました。\n一方、食生活には、風土や環境のほか、民族的・地域的な多様性が深く根付いています。そのため世界中どこに行っても、その歴史の中で生まれた郷土料理があり、地域の独自性や魅力にもなってきました。食生活のグローバル化は国境を越え、例えば中国料理やイタリア料理、インド料理、韓国料理など、外国料理店が建ち並ぶ光景は、世界の大都市に共通する景観となっています。このように、食生活は、生産技術や流通の発達によって自然環境や地域の制約から解放され豊かになってきました。しかし、その恩恵を受ける国とそうでない国との格差は拡大しています。豊かな国では過食や偏食による健康への弊害が問題になっています。\n東南アジアや南アジアなど高温多湿な地域では、高床にして通気性をよくし、屋根の勾配を急にして雨水を流しやすくするなどの工夫がなされています。一方、北アフリカや西アジアのように、乾燥していて寒暖の差が大きい地域では、急激な気温の変化が室内に及ばないように、壁を厚くし、窓を小さくする工夫がなされています。ほかにも、イヌイット(エスキモー)のように雪や氷を材料としたイグルーや、モンゴルの遊牧民のように羊毛を圧縮したフェルトを材料にしたゲル(中国語ではパオ)もあります。\nこうした住居の多様性は建築資材や社会組織によって変わっていきます。熱帯地域では豊かな植生を反映して木や葉・草が、またやや乾燥した地域では、とげの多い灌木が古くから建築材料となってきました。一方、冷涼な針葉樹林地帯ではモミやマツが、反対に、降水量が少なく樹木が成長しにくい乾燥地域では、土・煉瓦・石が建築材料となりました。\n日本では、衣食住を厳しく規定する宗教上の規範はほとんど見られません。そのような背景から、経済発展に伴って、欧米諸国の文化が広く受け入れられてきました。生活文化の欧米化によって、最も大きく変わったのは服装です。大正時代になると洋服が普及し、第2次世界大戦以降には、女性の職場進出によって女性の洋装化も進みました。これ以降、和服は、日常の生活で着る人が少なくなり、結婚式や卒業式などの礼装として、限られた場面でのみ着用されるようになりました。第二次世界大戦後には、アメリカ合衆国の文化やファッションの影響を強く受けるようになり、若者を中心にジーンズやTシャツも普及しました。ファッションや流通がグローバル化され、多国籍企業によって世界中で普段着(カジュアルウェア)が着られるようになりました。\n就職活動・転職活動や事務系の職場をみると、ワイシャツにネクタイ、背広(スーツ)を着用する習慣が定着しています。しかし、この服装は高温多湿な夏の日本では気候に適しているとは言いにくく、夏にはオフィスの冷房を強めなくてはならないという矛盾も起きています。\n食文化についても、特に第二次世界大戦後、欧米諸国の食文化が普及し、パン食が定着しました。その後、タイなどアジア諸国の料理をはじめ、フランス料理・イタリア料理・インド料理など世界各地の食文化も広まり、食の好みも多様化しています。しかし、どの国の料理にしても、食材や調味料などにおいて、日本人の味覚に合わせる工夫がなされています。\n日本の住宅事情の変化は次の通りです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%BA%BA%E9%96%93%E7%94%9F%E6%B4%BB%E3%81%A8%E8%87%AA%E7%84%B6"} {"text": "本ユニットでは、集落はどうして出来てきたのかを解説します。\n人々が一定の場所に集まり、居住しながら社会的な生活をする空間を集落といいます。集落は村落と都市の2つに区分されます。\n世界各地の様々な村落は、いずれも居住村落の機能のための家屋だけでなく、生業や社会生活のための施設をも含んでいます。農業を営む場合には、家畜・農機具・飼料・肥料・収穫物などを納めたり、作業をしたりする畜舎や納屋、倉や中庭などが必要です。また、生活や共同作業のために共同体(コミュニティ)が形成され、祭りなどの行事も行われます。このため、寺社・教会・集会所なども重要な施設です。住居やこれらの施設のほか、それぞれの農業経営に合わせた区画の農地や、そこへの道路や用水路なども整備されなければなりません。\n漁業を中心とする村落では、港や船着き場を中心にして多くの住居が密集しています。こうした漁村や、林業を生業の中心とする山村でも、自家で消費するための自給的な農業を行っており、乏しい平地に小規模な農地が見られます。\n現在、集落はどこにでもみられるように思われますが、歴史的にみると、一定の規則性をもって特定の場所に立地してきました。村落は、生活や農業・漁業などの仕事の場となるため、立地は自然条件に大きく左右されます。まず、生活には水が欠かせないため、立地に選ばれるのは川や泉のほとりがほとんどでした。河川下流部の海岸付近、山麓部、扇状地の扇端部に集落がみられるのも水が得やすいためです。さらに、生活環境としては高低差の少ない方が適しているため、平坦地に人口が密集するようになりました。一方、低地では、水害を避けるために自然堤防や盛り土をした土地などが選ばれます。濃尾平野の輪中集落などは、周囲に堤防を作って水害を克服してきました。また、農業には気候条件も欠かせないため、村落は、極度に乾燥した地域や寒冷な地域を避けてつくられています。世界に目を向けると、北半球の温帯の山間地では、日射量の多い南向きの日なた斜面に立地した集落もみられます。一方、砂漠やその周辺部の乾燥地域では、外来河川の付近や、地下水が豊富に得られるオアシスなどに早くから集落が発達しました。ヨーロッパの場合、人口分布の粗密は、農耕活動に深く関わってきたオーク林の北限である北緯60度を境としています。\n人や物の交流が活発になるにつれて、集落の立地には、社会条件が強く影響するようになりました。例えば、物資の交易点となる山地と平野とが接する場所や、主要交通路沿い、重要な道路の交わるところなどには、数多くの集落が発達しました。関東平野の周辺部にみられる谷口集落は、その典型です。\n内陸アジアの遊牧地域と農耕地域とが接する場所の近くにも、両者の交易によって発達した集落がみられます。外敵や疫病から身を守るため、丘陵や高台に発達した丘上集落も見られます。さらに、ヨーロッパのように水上交通の発達した地域では、河川の合流点や河口部などに大規模な集落が発達しました。\nやがて農業や漁業を主とする集落だけでなく、商業や政治などの新たな機能をもった集落も発達するようになりました。これらの集落は、周辺の地域への影響力を次第に強めるようになり、多くの人口を抱える中心集落に成長していきました。多くの集落は、一般に、これらの自然条件と社会条件が組み合わさって立地しています。\n村落は、家屋の分布形態によって、大きく集村と散村とに分けられます。歴史の古い地域では、田植えや稲刈りなどの共同作業が多いため、村落共同体のまとまりで居住するのが適していました。そうした人々が家屋を密集させて居住するようになった村落を集村といいます。中でも不規則な塊となって並ぶ塊村が自然に出来上がりました。\nヨーロッパの村落形態はほとんど平野部を中心とした集村です。家族を養うための農地面積が小さくて済み、地形的な制約もあまりないからです。中世以降の開拓地域では、村落は道路を基準として計画的につくられたため、家屋は道路や水路に沿って分布しました。こうした集村を路村とよびます。路村の背後に細長い帯状の耕地が均等に割りあてられています。ドイツやポーランドの森林地域に発達した林地村は、路村の一類型です。\n広場村や円村(環村)とよばれる集村では、外側に家屋を配置して村の中心に広場をつくり、そこに教会や共同牧場などを設けました。治安が悪くなった時には、防御の機能も果たしました。防御の機能をもっていた村落としては、ほかに中国の囲郭村などにみられます。\n日本の村落をみると、山地や丘陵の麓、盆地の周縁、沖積地の微高地などに集村(塊村)がよく分布しています。中世後期から近世初期にかけて、稲作用の農業用水の管理や環濠集落のように侵入する外敵への防御などが必要になり、集まって住んだ結果です。一方、地形や道路に沿って列状に並ぶ集落を列状村といいます。列状村のうち、街道沿いに並ぶ集落を街村、道路に沿って農家などが並ぶ集落を路村ともよびます。例えば、海岸平野に平行する海岸砂丘・浜堤や、河川沿いの自然堤防には起伏に沿って集落が並びます。寺社への参詣路沿いや街道沿いには門前町や宿場町がみられます。江戸時代、武蔵野の台地などに開拓された新田集落や、明治時代、北海道の警備と開拓を目的として設置された屯田兵村には、道路沿いに短冊状に農家と耕地が並ぶ形態も見られます。\n農家が1戸ずつ分散して居住する村落は、散村とよばれます。散村は、開発の歴史が比較的新しく、農業の経営規模の大きいところによく見られます。各農家の周りに耕地を集めやすい利点があり、どの農家も耕地までの距離が近いため、日頃の耕作や収穫に便利です。散村は、アメリカ合衆国やカナダの土地分割制度(タウンシップ制)によって土地区画がなされた地域や、オーストラリアの小麦栽培地域、北海道の開拓地などのように、計画的に区画された農地が広がる地域によくみられます。また、散村は、北ヨーロッパやイタリア北部、アルプス地域などにみられます。近代に入ってからの囲い込み運動や、政策による農地の整理統合によって出来ました。特に山間部の冷涼な地域では、地形的な制約もあって穀物栽培が出来ず家畜飼育に依存していたため、散村や、数戸の家屋からなる小村が適していました。\n本州以南の日本でも、最近まで砺波平野や出雲平野、大井川扇状地などで典型的な散村がみられました。しかし、ヨーロッパのように政策で大規模に進められた散村に比べ、日本の散村は、小規模に進められ、今ではそこにも市街地化の波が押し寄せてきています。\n村落に居住する人々は、伝統的に土地とのつながりが強く、一般に村落とその周辺の限られた範囲の中でよく日常生活を過ごします。また、主に何世代にもわたってそこに住み続けてきた人々によって構成されているため、住民相互の結びつきが強く、長い時間をかけて緊密な村落共同体が形成されてきました。しかし、近年、その変化が激しくなっています。例えば、日本の農村や山村では、これまで伝統的な村祭りや冠婚葬祭、農作業などを通じて、人々はお互いに協力し合ってきました。第二次世界大戦後の高度経済成長期から、都市部での雇用の機会を求めて村を離れる若者が相次ぎました。その結果、都市周辺部の丘陵地や農地は切り開かれ、住宅やビルが建ち並ぶようになりました。この現象を村落の都市化といいます。さらに、若者が逃げた村落では極端な人口減少(過疎化)と高齢化を招きました。現在、大都市から遠く離れた山間の地域では、人口の50%以上が65歳以上の高齢者によって構成される農村や山村も珍しくありません。このような村落では、共同体としての機能の維持が困難となっており、村自体の存続も限界に達しているといわれています。\n伝統的な村落の人口流出や住民の高齢化は、日本と同様に、パリ盆地南部の円村がみられる地域など、ヨーロッパの村落でも起きています。そこでは、農村の伝統的な景観が大きく変化し、中世以来続いてきた共同体のしくみの急激な崩壊も進んでいます。\nこのように、第1次産業従事者が暮らす村落と第2次・第3次産業従事者が集中して居住する都市との区別は難しくなっています。\n人々は、なぜ都市に集まるのでしょうか。多くの都市には、各種の専門店やデパート、ホテル、銀行などが見られます。また、役所や学校のほか、博物館・美術館・ホールなども多数あります。このような都市施設は、商業・政治・教育・娯楽などの拠点となり、その都市に住んでいる人々だけでなく、周囲の村落や近くのより小さな都市に住んでいる人々もよく利用します。都市がもっている、このような財とサービスを提供する役割を中心地機能(都市機能)といいます。\n多くの都市とその周辺とは鉄道や道路で結ばれ、電車やバスなどの公共交通機関が整備され、発達しています。都市は、財が移動し、人々が交流する結節点ともなっています。多数の労働者が集まってモノを生産する機能をもつ都市もあります。規模の大きな都市には、大企業の本社や支社などの管理機能が集中し、これらに関連する情報サービス業や生産者サービス業も集積します。様々な機能を併せ持った都市は、複合都市となります。\n人々は、このような機能に従事するために、あるいは多種多様なサービスを求めて都市に集まります。こうして都市化が一層進みます。\n都市の成立は古代まで遡ります。ギリシャの都市国家(ポリス)はアクロポリスとよばれる丘を中心に発達し、メソポタミアのバビロン、中国の長安(現在の西安)、日本の平城京や平安京は、宮殿を中心に計画的に建設された都市でした。古代の都市は、政治を執り行う神殿や王宮などを中心にもつ、政治機能の強い都市でした。\nしかし、広く発達するのは、ヨーロッパなどで交易が盛んになり交易都市があらわれた中世以降です。こうした都市には、外敵の侵入を防ぐために周囲を高い城壁で取り囲んだ城郭都市に起源を持ちます。\nまた、市民は商業や手工業などの経済力を背景に領主や国王から自治権を獲得しました。その結果、商業機能を中心とした都市が発達しました。ブレーメンやハンブルクやベネチアはその代表例です。\n近代になって産業革命が波及すると、炭田や港湾周辺に工業を中心とする都市が生まれ、多くの労働者が集住するようになりました。さらに関連産業も集まり、様々な機能をもった大都市に成長しました。\nこのような都市発達の経緯は、日本でも同じようにみられます。城郭は、初期には防御に有利な山地や台地の先端部に作られましたが、戦国時代を過ぎると交易に便利な河口や河川沿いの平地に築かれるようになりました。特に、江戸時代に入って社会が安定すると、城下町や港町が発展しました。日本の都道府県庁所在地は、行政や経済の拠点となっていた城下町から発展しています。\n私達が住む都市は、一般に行政・文化・生産・消費・交通などの様々な都市機能を備えています。フランスのニースは、近くのカンヌやモナコなどと並んで、世界有数の観光保養都市として知られており、ヨーロッパをはじめとして世界各地から多くの人々が訪れます。観光保養都市は、観光や避暑・避寒を目的としています。日本では軽井沢が当てはまります。\nまた、エルサレムはユダヤ教・キリスト教・イスラームの聖地です。宗教に関わる機能が卓越した宗教都市として、世界中の信者の信仰を集めています。計画的な市街地をもつブラジリアやキャンベラは、首都・行政機能を集める目的で建設された政治都市です。フランクフルトやニューヨークは、世界的規模の商業・金融都市として知られています。オックスフォードやハイデルベルクは、大学や研究機関を中心とした学術都市として知られています。\nさらに、江戸時代からの繊維産業地域にある愛知県豊田市は、繊維関連産業で蓄積してきた技術を自動車産業に応用し、世界的規模の自動車工業都市として発展しました。しかし、都市は発展すればするほど様々な機能を併せ持ちますので、現在では、一つの機能のみが優れている都市はあまりありません。\n都市は、道路網の形態によっても分類出来ます。北京やニューヨークの街は直交路型で、アジアの古代都市や新大陸などによくみられます。パリやモスクワなどは、1500年代から1800年代にかけて放射環状路型に発展した都市で、道路網が集中する中心点に宮殿や記念碑などをおき、首都としての威厳と美観を優先した構造になっています。西アジアや北アフリカに多くみられる迷路型は、外敵の侵入を防ぐとともに、強い日射しを遮る効果があります。このほか、ワシントンD.C.のような放射直交路型もみられます。一般的に、多くの都市は、村落に比べると計画的につくられています。\nこうした道路網は平面的ですが、垂直的にも、都市の発展形態には様々な違いがみられます。ヨーロッパでは、旧市街などの中心部に低い建物が密集し、高層ビルは郊外に建てられています。歴史的景観を重視するため、都心部での高層ビルの建設が制限されているからです。一方、北アメリカでは都市の歴史が新しいため、都心部では高層ビルの開発が進んでいるのに対して、郊外には一戸建ての住宅や低階層の建物があります。\n都市は絶えず拡大しています。例えば、パリは10世紀頃にセーヌ川の中洲であるシテ島を中心に発達し、12世紀には城壁が築かれ、ヨーロッパの代表的な中世都市となりました。その後、城壁の修復・建築を繰り返し、19世紀初めには、市街は現在の6つのターミナル駅に囲まれる区域にまで拡大しました。さらに19世紀半ばには市街の外側に新たに城壁(現在の高速道路環状線)が築かれ、人口も100万に達しました。現在、さらに周辺に新しい市街地が広がっています。\n大都市圏の中心部(都心)は、交通機関や情報通信網が集中し、都市圏の中枢となっています。ここには、政府・行政機関などの官公庁街や金融業、大企業・多国籍企業の本社や支社などが集中します。これは中心業務地区(CBD)とよばれ、ニューヨークのマンハッタンやロンドンのシティなどが典型的な例です。中心業務地区(CBD)の特徴は次の通りです。\n都心と外縁の新しい住宅・工業地域の中間に位置する古くからの市街地は、住宅や商店・工場などの様々な都市機能がよく混在したままになっています。アメリカでは、低所得層の人々や高齢者、外国人労働者などの居住地となっているところも見られます。\nまた、都心の周辺部には、郊外へ向かう鉄道のターミナルを中心にして商業・娯楽施設の集中した副都心や新都心が発達します。東京の渋谷、池袋、大阪の天王寺、埼玉県さいたま市などがその例です。ロンドンやパリでも同様の例が見られます。\nこのような地区ごとに分かれる機能の違いは、都市の内部構造とよばれます。その特徴は、これまで同心円構造デル、扇形構造モデル、多核心構造モデルなどによって説明されてきました。しかし、実際には、地形や河川などの自然環境のほかに、地価や交通網にも左右されるため、それらが入り交じった複雑な構造になっています。\n都市が発達するにつれて、市街が拡大し、周辺地域の都市化も進みました。大都市の周辺では、大都市へ通勤する人々が住む住宅都市(ベッドタウン)がつくられ、移転した工場や大学、研究所などを中心として新しい都市も形成されました。日本では大阪府の千里ニュータウン、東京都の多摩ニュータウンのような住宅都市や、筑波研究学園都市、関西文化学術研究都市などが典型的な例です。このように大都市の周辺に立地し、大都市の機能の一部を担う都市は衛星都市とよばれます。\n大都市に成長した都市は、周辺地域に工業製品やサービスを提供します。一方、周辺地域は都市に農産物を供給したり、通勤・通学者を送り込みます。こうして、日常生活の上で都市機能を通じて都市と密接な関係をもち、都市を中心に日常生活や生産活動が一体となる地域が形成されます。その範囲を都市圏とよびます。\n都市圏の範囲は中心となる都市の人口規模と密接に関係します。大きな都市ほど政治・経済・文化の中心となる機能が集中するため、周辺地域に及ぼす影響力は強くなり、都市圏も広くなります。こうした大都市をメトロポリス(巨大都市)とよび、パリ・東京・ジャカルタなどが挙げられます。また、行政上の市域を越えて周辺地域を合わせた都市圏の範囲を大都市圏(メトロポリタンエリア)といいます。これに対して、連続する多くの都市が、交通網や情報通信網などによって、広範囲に一つのまとまりとして密接につながったメガロポリス(巨帯都市)も現れました。代表例として、アメリカ北東岸地域や日本の東海道メガロポリスがあげられます。\nさらに、経済・社会のグローバル化の中で、人や物・情報・資金などの国際流動も活発になり、ニューヨークやロンドン・香港などは、国際金融市場や多国籍企業などが集中する世界都市(グローバルシティ)として発展しています。\n日本や世界の国々の行政機関は、それぞれの管轄地域の行政の中心として機能するだけでなく、国・県・市町村、あるいは連邦・州・市町村などといった行政組織によって、相互に連絡・指示がされています。企業の本社・支社・支店・営業所なども、企業内での情報・指令を伝えるネットワークを形成しています。これらの各組織は、大量の情報を収集・記録するとともに、加工して新たな情報をつくり出し、発信していきます。各種のデータを収集し、経営方針やその実施のための方策を決定して連絡する機能を中枢管理機能といい、関係する地域の政治・経済や社会生活に重要な影響を与えます。\n都市には、それぞれの規模に応じて多くの中枢管理機能が集積しています。現代のように情報社会となり、経済の世界的な結びつきが強くなると、その役割は極めて大きくなります。\n中枢管理機能を担う都市は、情報・指令のネットワークの中枢となります。一方、出先機関や支店がおかれる中小の都市では、情報・指令の発信よりも受信機能に重点をおく傾向があります。大小様々な規模の都市は、政治的・経済的な機能を通じて、上位から下位へと相互に階層的関係で結びついています。このような都市間にみられる相互の関係を都市システムといいます。\nイギリスやフランスでは、中枢管理機能の首都への集中度は日本よりさらに大きく、一極集中型を示します。一方、ドイツでは、逆に中枢管理機能が多くの都市に分散する多極分散型を示します。アメリカでは、中枢管理機能の集中の度合いとしてはニューヨークの首位は変わらないものの、ロサンゼルスなどほかの都市の比重が増大しており、全体としては分散する傾向が見られます。\n都市の発達は、都市を人口規模の順に並べてみるとよくわかります。一般的に、都市の発達の歴史が古い国ほど、人口規模が1位の都市と2位以下との隔たりは大きくありません。これに対して、第2次世界大戦後に植民地から独立した国々では、首都など優先的に資本が投下された都市に、政治・経済・文化などの中枢機能が集中しています。さらに、農村から職を求めて人口が流入するため、2位以下の都市との差が非常に大きくなります。このような都市を首位都市(プライメートシティ)といいます。\n20世紀後半以降の世界の大都市の人口増加をみると、パリやニューヨークのように早くから都市化の進んだ都市より、発展途上国の都市の方が急速に増加しています。そのため、社会基盤(インフラ、インフラストラクチャー)の整備が追いつかず、居住環境が劣悪なまま改善されていません。\n発展途上国の大都市では、都市の内部や鉄道・主要道路沿いなどにスラム(不良住宅街)が形成されており、市街地の拡大に伴って都市周辺部にも増えてきています。政府機関や商業施設が集まる近代的な都心部のすぐそばに、劣悪な居住環境のスラムが広がる都市もあります。スラムの中には、水道や電気が不法に引かれ、下水処理の設備も整っていない場所もあります。そのため水質汚濁を招き、熱帯の地域では感染症もよく発生します。\nスラム居住者のほとんどは、農村部での貧困に耐えかねて都市部に出てきた人々です。彼らは、農業の大規模化や機械化、都市部への産業の集中などによって土地や仕事を失い、農村から押し出されてきた農民やその家族が主体となっています。しかし、都市に移り住んでも定職に就ける人々はわずかで、露天商や修理業などのインフォーマルセクターとよばれる部門で働き、生活を支えている人もいます。この部門で働く人々の中には、ホームレスや親・親戚などによって養育・保護されずに路上で集団生活するストリートチルドレンなども含まれています。また、生計を立てられない者の中には、生活苦から逃れるため、密輸や麻薬取引などといった犯罪に手を染めていく場合もみられます。\n発展途上国では、都市環境や生活・居住環境などについての様々な都市問題を抱えていますが、その解決には莫大な費用と長い時間を必要としています。また、一般に発展途上国の都市問題は、いくつかの課題が複合的に関連している場合が少なくありません。現在では、大都市を中心に、都市内の道路整備や公共交通機関の充実化、上下水道の敷設、安定した電力の供給など、都市の基盤整備が進められています。低所得者層向けに安価な住宅を建設して、スラムの住民やホームレスなどに提供しています。\nしかし発展途上国の中には、インフレや諸外国からの債務の増加など不安定な経済状況に苦しんでおり、その対策が十分に進められていない国もあります。このため、先進国に都市基盤整備の協力を求めている国もあります。これに対して、例えばNGOなどの手による住宅建設や、ストリートチルドレンのための学校づくりなども行われるようになってきています。\n先進国の大都市では、第2次産業に比べて、第3次産業に携わる人々の割合が高く、そこに住む人々は医療・福祉・教育・娯楽などといった様々なサービスを受けれます。しかし、活発な都市活動によって、ごみや建設現場・工場からの産業廃棄物、病院などからの医療廃棄物などが大量に排出され、その処理には不法投棄の問題も含めて、多額の費用と労力がかけられています。また、上下水道の整備や市街地の照明、住宅やオフィスの冷暖房、道路や鉄道などの交通網の整備・維持、インターネットや携帯電話などといった情報・通信網の拡充にも、石油や電力などのエネルギーのほか、莫大な費用を必要とします。さらに、こうした大量のエネルギー消費が、大気汚染や都心部における気温上昇など、都市環境の悪化や環境負荷の増大に多く関係しています。このような問題は、一つの都市では解決出来ず、広域的な地域の課題として取り組まなくてはなりません。\nアメリカ合衆国やヨーロッパなどの大都市の中には、都心部やその周辺の古くからの市街地にあたる地域で、インナーシティ問題が顕在化しているところもみられます。早くから市街化した地域は、道路が狭く建物やライフラインなどの社会基盤の老朽化が進んでいます。そのため、低所得者や移民・高齢者などが都心部に取り残されやすく、地区の財政悪化や、地域コミュニティの崩壊、治安の悪化などが社会問題になっています。\nしかし、いくつかの都市では、老朽化した住宅や工場・操車場などの施設を取り壊して再開発を行っています。その跡地に新しい商業施設や高級な高層住宅が建設され、比較的豊かな人々が流入するジェントリフィケーションとよばれる現象がみられます。\n先進国の大都市では、都心地域の空洞化や極度の機能集中といった都市問題を解消するため、様々な再開発が行われています。例えば、パリ郊外のラ・デファンス地区では、都市機能の一部を担う副都心が形成されており、そこには高層のオフィスビルや高級アパート、ショッピングセンターなどがあります。また、ヨーロッパの大都市では、都心地域に残る伝統的な建物を、かつての雰囲気を残しながら再開発している例が少なくありません。一方、都心地域で供給が過剰ぎみとなったオフィスビルを改装し、住宅として利用する試みも行われており、利便性を求める人々に注目されています。ロンドンのテムズ川やパリのセーヌ川の周辺、日本の港湾都市などでは、ウォーターフロント開発が進められています。このように再開発された地域は、海外からも観光客を集める人気スポットとなっているところがあります。\nしかし近年では、人口の集中に応じた市街地の拡大やインフラの整備を一方的に進めるのではなく、周囲の環境や資源・エネルギーの消費に配慮し、公共サービスの効率性をより高めた都市の建設を意味するサスティナブルシティ(持続可能な都市)やエコシティ(環境共生都市)の実現を目指す考え方がヨーロッパや日本で模索されています。交通渋滞や排ガスによる大気汚染の緩和に向けては、パークアンドライドやロードプライシング制度が取り入れられています。パークアンドライドは、自宅から自動車やバイクで郊外にある公共交通機関の駅近くまで行き、それらを駐車させたあと、鉄道やバスで通勤や買い物など、自分の目的地に向かう交通システムです。この仕組みは、ドイツのフライブルクやフランスのストラスブールなどで取り入れられています。これに対して、ロードプライシング制度は、平日の日中、官庁街やオフィス街、観光地や商業施設などが集まる都心部に乗り入れる自動車に課金するもので、ロンドンやストックホルム、オスロのほか、シンガポールなどでも取り入れられています。さらに、大量のごみや廃棄物の処理については、リサイクルやリユースの仕組みをつくり、その量を減らす努力が続けられています。\n現在では、都市と農村の間ばかりではなく、大都市と地方都市との間にも地域格差が目立っています。一般に、地方の中小都市では、大都市に比べて雇用の機会が少なく、労働人口の大幅な伸びは期待出来ないため、大都市に出て行く若者が増えて高齢化も進んでいます。人口の減少と高齢化は、同時に経済活動の停滞を招き、かつて賑わいをみせた駅前や街並み全体が寂れる事態も起きています。地方都市の商店街の中には、昼間からシャッターが閉められ、営業をしていない店も少なくありません。\n日本の大都市で生活する人々の多くは、都市・居住問題、面積が小さいわりに価格の高い家をもち、また通勤時間も比較的長い場所に住んでいます。東京・名古屋・京阪神の三大都市圏に人口が集中するようになったのは、特に高度経済成長期以降です。それに伴い、大都市では住宅不足の状態が続き、地価も次第に高騰していきました。また、市街地が周辺部へと急速に拡大し、郊外では無秩序な開発が行われた結果、スプロール現象もみられました。一方、高層のオフィス街や官庁街が分布する都心地域では、居住する人の数が郊外に比べて急激に少なくなり、空洞化が進行するドーナツ化現象もみられるようになりました。\n一方、高度経済成長期に開発・建設された大阪府の千里ニュータウンや東京都の多摩ニュータウンなどでは、居住者の高齢化が急速に進んでいますが、近年は建物や傾斜地のバリアフリー化、老人福祉施設の建設などの対策が進められています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E6%9D%91%E8%90%BD%E3%81%A8%E9%83%BD%E5%B8%82"} {"text": "西アジア・中央アジアと日本は、他のアジアの地域ほど強い繋がりを持っていませんでした。しかし、西アジアは石油、中央アジアは天然ガスやレアメタルの重要な供給源です。いろいろな見方をしてみましょう。\n西アジアとは、アフガニスタンから地中海までの地域をいいます。中央アジアは、カフカス諸国(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)から北のパミール高原、天山山脈までの地域です。面積はカザフスタンが最も大きく約270万㎢、サウジアラビアが2番目に大きく約220万㎢です。最も人口が多いのはイランとトルコで、それぞれ約8000万人です。次いでイラクとアフガニスタンがそれぞれ約3000万人です。西アジア・中央アジアは砂漠や山が多いため、人口密度は1㎢あたり38人程度とそれほど高くありません。しかし、人口増加率は比較的高く、今後も増加していく見込みです。\n砂漠の多い西アジアや中央アジアでは、人は限られた場所にしか住めません。そのため、オアシスのような水のある場所に都市が作られました。遊牧と灌漑農業が盛んな西アジアや中央アジアの人々は、古くから交易や商業の場として都市を発達させました。これらの多くの都市は、中国とヨーロッパを結ぶシルクロードを初めとする陸上・海上の東西交易路の要所として重要な地位を占めました。19世紀末頃、西アジア諸国はイギリスとフランスに政治・経済的に支配されるようになりました。独立後も、石油資源は欧米企業が独占していました。\n人々の生活習慣や価値観から、都市が交易を中心に発展してきた様子が伝わってきます。バザールはアラビア語でスークとも呼ばれ、衣服や食器、農具、食料、香水などを販売する伝統的な市場です。バザールでは、商品の売買や情報交換が活発に行われています。街角にはイスラム教のモスクがあり、金曜日にはイスラム教徒が店を閉めてそこへお祈りに行きます。多くの外国人が行き交う街なので、そこに住む人々は異文化を受け入れて、おもてなしを大切にする文化があります。\n西アジアでは、河川やオアシスの周辺に大都市が発達しました。例えば、バグダッドはティグリス川やユーフラテス川のような大きな川の流域で発展しました。また、ダマスカスはレバノン山脈から流れ出る川の流域で発展しました。このように、都市を中心とした文明は、古代から中世にかけて支配したイスラム王朝の時代にも発展しました。\n中央アジアでも、ブハラやサマルカンドといった都市がシルクロードの拠点として発展しました。また、イスラム文化の中心地となり、現在も多くのモスク(イスラムの礼拝堂)やマドラサなどが残っています。さらに、カザフスタンの首都ヌルスルタンは、1990年代にソ連から独立して建設された都市です。ソ連が統治していた時代には、政治の中心は全て中央アジア諸国の首都に置かれていました。独立後は、自分達の都市を作り、ロシアの影響から離れようという動きが出てきています。しかし、古い都市基盤を維持するために多額の費用がかかるなど、問題も少なくありません。\nアラビアプレートは紅海とペルシャ湾の間にあります。アラビアプレートの北側でユーラシアプレートと合流しています。西アジアの新期造山帯がイランからトルコ、イランからアフガニスタンまで広がっています。ザグロス山脈はアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部になっています。ザグロス山脈以外にも標高5000m以上の高山は、上記地域内にあります。そのため、環太平洋造山帯に含まれる日本と同じように、地震多発地域でもあります。\nアラビア半島は、世界最大のルブアルハリ砂漠を中心とした安定陸塊です。アラビア半島の紅海に接した側は、ペルシャ湾に接した側よりも高い位置にあります。半島北部では、ティグリス川とユーフラテス川が農耕に適した肥沃な沖積平野を作っています。古生代から中生代にかけて、ペルシャ湾周辺の広い海域に溜まった厚さ数千mの地層があります。ペルシャ湾岸は、微生物の遺骸が集まった地層と微生物が作る石油を集める地層があるため、世界でも有数の石油資源が豊富な場所となっています。\n一方、中央アジアは、そのほとんどが古期造山帯や安定陸塊に含まれています。中央アジア北部は、-28mの高さにあるカスピ海からパミール高原や天山山脈の間にあります。パミール高原はインド半島の衝突時に隆起しました。\n西アジアも中央アジアも乾燥地域です。アラビア半島はほとんど砂漠で、亜熱帯の高気圧に覆われています。イラン北部が乾燥しているのは、内陸にあり、海からの湿った風があまり当たらないからです。また、イラン北部は山脈の風下にあるため、カヴィール砂漠やトルクメニスタンのカラクーム砂漠のような大きな砂漠があります。カザフスタン北部の気候はステップ気候で、カザフステップは肥沃なチェルノゼムのある草原です。地中海沿岸から南部のカスピ海、天山山脈北嶺までは地中海性気候です。\n乾燥地域では、死海のような塩湖が多く、そこに流れ込む川はありません。また、アラビア半島にはワジと呼ばれる涸れた川がたくさんあり、ラクダの商人や自動車の道路として利用されています。\n乾燥地帯の多い西アジアや中央アジアでは、水は農耕のための貴重な資源です。砂漠でもオアシスと呼ばれる場所では、湧き水を利用して小麦・ナツメヤシ・西瓜・メロン・葡萄などを栽培しています。イランやアフガニスタンなどの砂漠地帯では、オアシス農業が行われています。山の麓にある地下水脈から水を汲み上げ、水を供給するためにカナートやカレーズが利用されています。カナートやカレーズは、水が蒸発しないように、山脈など地下水の多い場所から集落や農地まで掘られた地下水路です。地下水路は、緩やかに傾斜した横穴でつながっています。ほとんどの場合、土地を所有する投資家が、水も所有します。地下水路の掘削や管理には費用がかかるため、水の利用方法には厳しく決められており、小麦や綿花が栽培されています。イラクのメソポタミア平原では、外来河川ティグリス・ユーフラテス川を農作物の水源として利用されています。\n遊牧は、水不足で農耕が困難な地域で行われます。自然の草や水を求めて、住居や家畜を移動させる生活様式です。場所を変えながら飼育させると、草や木の芽を食べ尽くさずに済みます。\n乾燥した地域では、乾燥に強い駱駝が飼われます。駱駝は荷物の運搬や乗り物として使われます。このほか、羊は草原で飼育されています。駱駝や羊の家畜から出る生乳が遊牧民の主食となります。余った生乳は塩を加えてチーズやバターにします。肉を食べると動物の数が減るので、休日やお祝い事など特別な日にしか食べません。木が育たず、燃やす木がないため、家畜の排泄物を燃料として利用します。家畜の毛や皮は、衣服やテントの材料として使われます。\n遊牧民は開かれたオアシスの町に行き、乳製品や皮、動物などを小麦やナツメヤシと交換して農民と交易を行ってきました。近年は国の定住政策によって、遊牧民も自動車を使い、新しい仕事を求めて都市に移動しています。\nペルシャ湾の産油国は、石油を売って得たお金(オイルマネー)で、砂漠でも地下水を利用した農業や牧畜業に投資しています。1970年代、サウジアラビアでは、地下水を汲み上げてスプリンクラーで散水するセンターピボットを導入して小麦や野菜を栽培していました。1980年代には、小麦は国外に出荷されていました。しかし、1990年代以降、節水や補助金の打ち切りにより生産量は減りました。今では、国内消費分しか栽培していません。また、牛乳は空調で一定温度に保たれた室内牧場で作られています。\n中央アジアでは、外来河川のシルダリア川やアムダリア川の水を、昔から農作物の水やりに使ってきました。また、山岳の多い東部では、地下水路も農作業に利用されてきました。\nソ連時代、中央アジアの乾燥した土地は、自然改造計画によって農地化されました。肥沃な土壌のチェルノゼムからなるカザフステップでは、企業的穀物農業地域に変わりました。さらに、トルクメニスタン南部の砂漠地帯には、アムダリア川から水を得るために世界最大の灌漑用運河であるカラクーム運河が建設されました。カラクーム運河は、アムダリア川とカスピ海を結ぶために建設された運河です。現在、トルクメニスタンのアシガバードの北西まで開通しています。その結果、広大な農地が生まれ、カザフスタンを中心に小麦の生産が増え、ウズベキスタンなどでは綿花の生産が伸びました。しかし、カザフステップでは、草地になっていたために保護されていた肥沃な表土が農地化によって流され、収穫量が落ちた場所もあります。塩害により、シルダリア川やアムダリア川流域の灌漑農地では作物が育たなくなりました。一方、アラル海の上流では無計画な灌漑によって、湖に入る水量が減り、ほとんどが干上がってしまいました。その結果、沿岸での漁業が出来なくなりました。湖水から出る塩分も乾いて近くの農地にまで広がりました。塩分を含んだ砂嵐は、そこに住む住民の健康被害をもたらしました。\nイスラム教は、アラビア半島で始まりました。現在、西アジア、中央アジア、東南アジア、北アフリカ、東南アジアで見られます。信仰がどの程度日常生活に浸透しているかは、地域によって異なります。しかし、イスラム教は世界中に広がり、ペルシャ(イラン)やトルコなどアラブではない国にも広がりました。その理由は、どんな人種や階級でも、イスラム教徒として平等だと感じられるようにしたからです。イスラム教の教義の平等性やイスラム文化の先進性など、イスラム教の発展を支えた要素があります。交易は、西アジアを中心とした当時の世界の貿易網を通じて広がっていきました。例えば、東西交易はシルクロードを通り、サハラ交易はサハラ砂漠を通り、インド洋交易はインド洋を通りました。こうしてみると、ムスラム商人が大きな役割を果たしていました。\n西アジアには様々な言語や宗教があり、様々な文化が存在しています。アラビア語は最初、アラビア半島の一部で話されていました。イスラム教が広まるにつれて、イラクから北アフリカへ広がりました。\nトルコではトルコ語を話し、政治と宗教が分離した時に、アラビア文字がラテン文字に置き換わりました。イランはペルシア語が話されている国で、ほとんどの人がシーア派イスラム教徒です。アラビア語とペルシア語は同じ書き方ですが、文法は大きく異なります。イラクの人口のほとんどはアラブ人ですが、クルド人など非アラブ人が20%ほどを占めています。イスラエルは国民のほとんどがユダヤ人で、言語も古代ヘブライ語がベースになっている国です。レバノンではキリスト教徒、イスラム教のスンナ派、シーア派が対立し、それぞれの人数に応じた国会議員の数が決められています。シリアではアラブ人が大半を占めますが、キリスト教のアルメニア人もいます。\nクルド人は、自分の国を持たない世界最大の民族です。彼らはトルコ、イラク、イランに住んでいます。アフガニスタンのように、様々な人種の人々が全員イスラム教を信仰している国もあります。このように、西アジアには様々な宗教と言語があります。\nイスラム教を信じ、アラビア語を話す人々は、これまで異民族や非イスラム教徒に支配されてきました。それを取り戻すために、アラブ人を一つの集団にまとめようとするアラブ民族主義運動が行われてきました。他の宗教でも、宗教を本来の理想的な姿に戻そうとする運動があります。中東では、イスラム政党が、貧富の差の拡大を食い止め、政府の腐敗を止める努力と政治活動を両立させ、大きな成果を上げています。1945年、アラブ系の人々の多いアラブ諸国が集まり、アラブ連盟を結成しました。その目的は、各国の独立を守り、絆を深めようとしたからです。一方、イスラム原理主義と呼ばれる過激派勢力を強めている地域もあります。シリアやイラクでは、政府と過激派組織イスラム国や反体制派との戦闘により、大勢の人々が故郷を離れています。これは国際問題になっています。\n西アジアと中央アジアの人々は、どのように行動し、生活するかについて、イスラム教のルールに従わなければなりません。コーランは、アッラーが預言者ムハンマド(マホメット)に告げた内容を要約した聖典です。コーラン(クルアーン)は、アラビア語で書かれている場合だけ認められます。イスラム教は一神教なので、万能の神アッラーだけを信じています。アッラーは見えないので、偶像を崇拝してはいけません。また、イスラム教を始めた預言者ムハンマド(マホメット)は、信仰の対象になりません。\nイスラム教徒はただ神を信じるだけでなく、毎日、実際の方法で信仰を示さなければなりません。次の義務(五行)を守らなければなりません。\n毎年、世界中からイスラム教徒が巡礼に訪れ、街はイスラム教徒で溢れかえっています。富裕層も貧困層も同じ白いローブを着て、カーバ神殿に巡礼に行きます。これは、人種や民族が信者を隔てない姿勢を示す大規模な宗教行事になっています。\n また、酒や豚肉の飲食禁止、汚いとされる左手での食事禁止、屋外に出る女性のみ肌の露出禁止など、日常生活にも厳しい制限があります。\n1990年代前半、中央アジアの国々はそれぞれ独立しました。中央アジアは、ペルシア語を話すタジキスタンを除き、ほとんどの国がトルコ語系言語を話します。しかし、これらの国の多くは、かつてソビエト連邦(ソ連)の一部となっていたため、今でもロシア語やキリル文字を使っています。\n国民の大多数はイスラム教徒ですが、正教のキリスト教徒もいます。トルコ系やイラン系の民族は羊を中心とした肉や乳製品を売っています。朝鮮民族はキムチを売っており、この地域の文化の多様性が感じられます。多くの人が信仰しているイスラム教ですが、ソ連時代では禁止されました。そのため、新たにマドラサ(イスラム神学校)を立ち上げてイスラム教育を推進しようという動きも見られます。\nこのように、中央アジアの街並みは、イスラム風のオアシス都市とヨーロッパに建設されたような旧ソ連時代の都市とが共存しています。ソ連時代に農業の集団化(コルホーズ、ソフホーズ)が進んだ結果、農村部には遊牧民が定住し、かつての遊牧生活はほとんど見かけなくなりました。ウズベキスタンの首都タシケントは、中央アジア最大の都市として、長い歴史を持っています。当初はオアシス都市として発展しました。しかし、1966年の大地震の後、旧ソビエト連邦によって都市が再設計され、ヨーロッパ的な雰囲気を色濃く残す都市となりました。\nパレスチナ紛争(アラブ・イスラエル紛争)の歴史は古く、ユダヤ人が紀元前1500年頃にパレスチナに定住して国家を樹立した時から続いています。その後、ユダヤ人国家は滅亡して、ユダヤ人は各地に移住させられました(ディアスポラ)。19世紀後半、パレスチナにユダヤ人国家を再建しようとするシオニズム運動が活発になりました。その結果、より多くのユダヤ人がパレスチナに移り住むようになりました。第一次世界大戦中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の協力を求め、アラブ人はトルコからの独立、ユダヤ人はユダヤ人国家を約束しました(バルフォア宣言)。この二重外交のため、パレスチナの主権をめぐる両者の主張が対立して、紛争に発展しました。\n第二次世界大戦後、国連はパレスチナ分割決議を採択して、パレスチナをアラブ国家とユダヤ人国家に分割しました。これを受けて、ユダヤ人はイスラエル国を建国しました。100万人以上のアラブ人がパレスチナから追い出されて難民となり、イスラエル建国に反対するアラブ諸国は互いに争うようになりました(第一次中東戦争)。さらに、パレスチナを奪還しようとするパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)が結成され、それに対するイスラエルへの攻撃は激しくなりました。1993年、パレスチナ人は、対話による紛争終結への第一歩として、暫定自治に合意しました。しかし、紛争は解消されていません。現在、イスラエル側の和平推進派と対パレスチナ過激派、パレスチナ側の穏健派ファタハと過激派ハマスが、紛争の終結方法を巡って対立しています。国内にユダヤ人が住んでいるアメリカなどが仲介役となって和平への道を探ろうとしています。\nクルド人は世界全体で約3000万人暮らしています。そのほとんどがスンニ派で、タルト語を話します。中世以降、オスマン帝国(オスマントルコ)がタルト人を支配していました。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れた後、イギリスとフランスがオスマン帝国を分割して、クルディスタンと呼ばれる居住地は中東諸国に広がりました。それ以来、タルト人と各国が独自の国家建設を目指す争いが増えました。全人口の5分の1にあたる1200万〜1500万人のタルト人が住むトルコでは、独立のための武装活動が活発になっています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E8%A5%BF%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2"} {"text": "テレビ番組でも、アフリカを紹介する時、よく自然や動物が取り上げられます。一方で、支援先・市場先・レアメタルなどの資源開発地として、日本とアフリカの関係はますます深まっています。アフリカの多様な様子を学んでいきましょう。\nアフリカ大陸の面積は3000万平方キロメートル以上あり、その大きさはアジアに次いで2番目に大きい大陸です。東西の最長距離は西経17度から東経51度まで約7400kmあり、おおむねヨーロッパの最西端からカスピ海までです。南北の最長距離は北緯37度から南緯35度まで約8000kmあり、大陸のほとんどは南北回帰線より低緯度に位置しています。赤道に沿って、ギニア湾南部・コンゴ盆地・ケニア中央部などが広がっています。中でも、マダガスカル島はアフリカ大陸の南東に位置していて、日本の約1.5倍の大きさです。\n様々な民族がアフリカに暮らしており、約1000種類の言語を使い分けているようです。その分布はサハラ砂漠を境界に、北は北アフリカ、南は中南アフリカに分かれています。この項目では、中南アフリカについてしか説明していません。次の節で、北アフリカについて説明します。\n各民族がそれぞれの言語を持ち、現在でも中南アフリカの各地域は旧宗主国と経済的・文化的に繋がっています。そのため、宗主国の言語(英語やフランス語など)が公用語となっています。植民地時代にはキリスト教が広がりました。また、イスラームがサハラ砂漠南部のサヘル地域、アフリカ東海岸のソマリアやタンザニアで広まりました。また、東海岸のムスリム商人がインド洋で貿易を盛んに行っています。その結果、今でもムスリムが多く、アラビア語由来のスワヒリ語やアムハラ語などが使われています。4世紀中頃、エジプトはエチオピアにキリスト教を伝えました。エチオピア正教は、現在もエチオピアの主要な宗教です。今でも精霊信仰(アニミズム)やアフリカの伝統的な祖先崇拝を大切にしている地域もあります。\n人種隔離政策(アパルトヘイト)時代の南アフリカは世界から孤立していました。人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃後、南アフリカは急速に世界経済とつながり、経済成長を遂げました。\n古代エジプト文明が四大文明の一つとして紀元前30世紀頃から栄えていました。その頃から、北アフリカはサハラ砂漠を横断する豊かな交易地域として、長い間イスラームの影響を受けました。7世紀にアラブ人がやって来ると、先住民族のベルベル人は、現在のマグレブ諸国で暮らしていました。マグレブ諸国とは、アラビア語で「太陽の沈む国」を意味します。エジプトを除く北アフリカにある国々(チュニジア・アルジェリア・モロッコなど)で、複数の小さな国から成り立っています。アラビア語とイスラームはアラブ民族の住むアラビア半島から伝わり、マグレブ諸島にも伝えられました。\n15世紀中頃から大航海時代が始まり、アフリカと交易しました。その後、ヨーロッパ諸国はインドまでの海洋航路を求めて、アフリカ沿岸部に港をつくりました。インド洋の東沿岸でもムスリム商人が賑わっていました。16世紀になって、奴隷がアフリカから新大陸の植民地に送られ、インディオの代わりに働かされました。17世紀に入って、南北アメリカ大陸でプランテーション農業が発達すると、三角貿易で奴隷も次々と送られるようになりました。三角貿易で、奴隷がアフリカからアメリカ大陸に輸出されました。雑貨・銃はヨーロッパからアフリカに輸出されました。砂糖・煙草・珈琲はアメリカ大陸からヨーロッパに輸出されました。ヨーロッパの豊かな富が、産業革命を実現させました。一方で、奴隷はアフリカから1000万人以上連れ去られたと考えられています。\n19世紀になって、デイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーが奥地へ足を踏み入れました。その後、アフリカが農作物や資源の宝庫として注目されるようになり、次々と探検が行われるようになりました。ヘンリー・モートン・スタンリーは中央アフリカの横断に成功しました。また、デイヴィッド・リヴィングストンは南部アフリカの横断に成功したり、ナイル河源流の一つを見つけました。その後、金やダイヤモンドの鉱山が発見されると、列強の植民地支配は進みました。ヨーロッパ諸国は内陸部の開拓と開発を競いました。産業革命がヨーロッパで始まると、住民に聞かず、勝手に農園(プランテーション)・鉱山が開発されました。19世紀後半、コンゴ地域の支配権を巡って争っていたため、ベルリン会議が開かれました。ベルリン会議後、ヨーロッパ各国(イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・ポルトガルなど)がアフリカの大半を植民地化するようになりました。ヨーロッパ列強は、植民地を上手く運営するために、現地の統治者を中心とした間接支配体制を整えました。間接支配体制を維持するために、民族間の対立を利用する場合もありました。\n第二次世界大戦後の南アフリカは人種隔離政策(アパルトヘイト)をとりました。この政策によって、少数派の白人は強い権利を与えられ、黒人・有色人種・アジア人は差別されてきました。国民は、白人・黒人・有色人種(白色人種と他人種の混血)・アジア人に分かれました。人種隔離政策に基づいて、居住地域が分けられ、違う人種の結婚も禁止されました。当時、日本は重要な貿易相手国だったので、「名誉白人」と呼ばれていました。冷戦時代、南アフリカはソ連に代わる勢力として西側諸国から注目されていました。また、南アフリカは豊富な天然資源を持つと西側諸国から考えられていました。これらの理由から人種隔離政策(アパルトヘイト)は1991年まで続きました。冷戦体制が終わると、人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃を求める声も高まりました。1994年、初めて総選挙でどの人種か関係なく誰でも同じように投票出来るようになりました。その結果、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれました。ネルソン・マンデラ大統領は、人種隔離政策(アパルトヘイト)をなくすため、撤廃運動を長年続けてきた人物です。\n第二次世界大戦終了後、アフリカの独立国は4カ国(エジプト・エチオピア・リベリア・南アフリカ共和国)だけでした。第二次世界大戦後の独立運動の主役は、宗主国で教育を受けたエリート層でした。1950年代後半から1960年代にかけて、次々と独立国が誕生しました。1960年は、17カ国が独立した年なので、「アフリカの年」と呼ばれています。現在、アフリカの独立国は54カ国です。\n第二次世界大戦後のアフリカは、次第にナショナリズムが高まり、独立運動が起きました。これを受けて、ヨーロッパ諸国は、植民地の独立を認めつつ、経済利益を守りました。しかし、新しい国々は植民地時代の人為的国境をそのまま引き継ぎ、複数の民族が集まり、民族の繋がりも弱い多民族国家になりました。このような多民族国家は民族紛争を招きました。鉱物資源の豊富な国は、紛争の激しい地域によく見られます。\n本項目では、ルワンダについてみていきましょう。第一次世界大戦まで、農耕民(多数派のフツ族)と牧畜民(少数派のツチ族)は穏やかに暮らしてきました。しかし、第一次世界大戦後、ベルギーの支配下に入り、ツチ族がフツ族を支配する上下関係がさらに強まりました。そのため、両民族の関係はますます悪化しました。両民族に人種的違いは少なくても、植民地時代を通じて、少数派のツチ族は多数派のフツ族よりも好待遇でした。1990年から1994年にかけて、ルワンダ共和国は、ツチ族中心の反政府勢力(ルワンダ愛国戦線)とフツ族中心のルワンダ政府軍で内戦を繰り広げました。1994年、大統領の殺害後、フツ族過激派が大量虐殺を始め、大量虐殺の犠牲者も80万人から100万人になりました。その後、武装集団のツチ族が攻撃したため、約200万人が故郷を離れました。多民族が一つの政治体制の中で一緒に暮らしていけないため、民族間の対立から内戦や国家間の争いに発展する場合も珍しくありません。ルワンダ虐殺をテーマにした映画『ホテル・ルワンダ』は、日本だけでなく世界中で話題になりました。\nその後、ツチ族中心の政権が発足すると、治安の維持や雇用の創出に力を入れるようになりました。また、ツチ族中心の政権は、珈琲や紅茶の栽培だけでなく、ソフトウェア開発などのICT分野にも力を入れました。その理由を説明すると、ルワンダ虐殺を逃れて外国に渡った人々が、世界各地で生活する中で身につけた知識や技術を持ち帰ったからです。現在、ルワンダは「アフリカの奇跡」と呼ばれ、急速な経済成長を続けています。\nナイジェリアはアフリカ最大の都市です。200以上の異民族が暮らしていますが、大きく分けて、北部にイスラーム信仰のハウサ族、南西部に伝統宗教信仰のヨルバ族、南東部にキリスト教徒信仰のイボ族に分けられます。石油資源を巡るビアフラ戦争が終わってから、民族はより自由になろうと努力していますが、問題は解決していません。こうした問題は、国連やアフリカ連合で解決する必要があります。アフリカの独立国と西サハラは全てアフリカ連合に加盟しています。\nアフリカ統一機構は、アフリカ諸国が平和維持のために1963年発足しました。その後、2002年になると、アフリカ統一機構がヨーロッパ連合を倣った国家統合体(アフリカ連合)に変わりました。アフリカ統一機構は、内政問題に部外者が関与してはならない考えで発足したため、紛争解決に消極的でした。その反省もあり、アフリカ連合は域内の紛争解消も目的に掲げています。パン・アフリカ主義とは、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達を中心にアフリカの独立と統一を望む運動です。19世紀後半に、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達がアメリカで教育を受けました。第二次世界大戦後、パン・アフリカ主義もアフリカのナショナリズムと結びつきました。\nまた、武装集団がアンゴラ・シエラレオネ・リベリアなどで資金源としてダイヤモンドなどの資源を採掘した結果、内戦も長引きました。1990年代以降、冷戦体制が崩壊すると、被軍事援助国の政権も不安定になりました。その結果、ソマリア内戦などが発生しました。国連平和維持軍はこのような内戦に介入しましたが、失敗に終わりました。\n北アフリカ諸国の長期政権が、2010年から2011年にかけて崩壊しました。その原因は、チュニジア・リビア・エジプトなどで始まった民主化運動です(アラブの春)。「アラブの春」のきっかけとして、チュニジアのジャスミン革命が挙げられます。ジャスミン革命で、インターネットにアクセス出来る若者などが街中に溢れました。エジプトでは、30年間続いた独裁政権が終わり、代わりにイスラーム主義勢力中心の政権が誕生しました。しかし、反政府活動が高まり、軍のクーデタによって政権も移りました。民主化を求める動きは、他のアラブ諸国でも政情不安の波を引き起こしました。\n政情不安から、そのような場所で反政府勢力やイスラーム原理主義組織が活動を強めています。2011年に南スーダンが独立するまで、スーダン南部のナイル・サハラ語系住民と北部のアラブ系住民の間で内戦が続いていました。\n近代的農業は灌漑設備・農薬・化学肥料などを取り入れました。アフリカの一部地域で近代的農業を取り入れています。アフリカの場合、焼畑農業が中心ですが、半農半牧を行う地域もあり、駱駝の放牧も見られます。これまで、多くの作物を一緒に栽培する混作が頻繁に行われてきました。アフリカの伝統的定着農業では、もろこしや隠元豆(ささげ)などを同じ畑で数種類栽培します。小規模な自給的農業とはいえ、自然と上手く付き合いながら植物を育てる方法なので、旱魃でもある程度の収穫量は望めます。最後に、主食についてみていくと、次の通りです。\n北アフリカの砂漠地域では、オアシスや外来河川の近くで、ナツメヤシ・小麦・野菜などを育てて食糧としています。ナツメヤシの果実は食用になり、葉は縄や籠の材料になり、幹は建築に利用されます。また、灌漑農業も行われており、地下水路(フォガラ)を作り、貴重な地下水を枯らさないようにしています。\n 諺「エジプトはナイルの賜物」があるように、ナイル川の氾濫で豊かな土壌も生まれました。それを利用して、古くから農業を行っていました。現在も、エジプトの外来河川(ナイル川)に沿って広がる土地で、小麦・コメ・綿花が栽培されています。日本の政府開発援助を受けて、技術と灌漑設備が整備されるようになりました。整備後、ナイル川流域でもジャポニカ米が栽培されるようになりました。ソ連の援助を受けて、ナイル川上流のアスワンハイダムが1970年に完成しました。こうして、大洪水がなくなり、水力発電によって産業が発展するようになり、暮らしも豊かになりました。しかし、ダムの建設で、上流から豊かな土壌が増水時に下流まで届かないため、化学肥料の使用も増えました。このほか、旱魃で灌漑農地が塩害を受けたり、ナイル川デルタの海岸線も縮小したり、ナイル川河口付近のプランクトンも減って不漁になるなど、ダム建設の悪影響もあります。\n昔ながらの遊牧は、サバナ気候やステップ気候で見られます。牛は主にサバナ地域で飼育されています。一方、羊・山羊は湿潤地域で飼われます。そして、駱駝はサハラ砂漠南部からソマリア・ケニア北部までのステップ地域で飼われています。ここ最近、遊牧民が都市に移住してそこで暮らすようになりました。\n当時のアフリカはヨーロッパ諸国にほとんど支配されていたので、1種類だけ大量に商品作物を栽培して、先進国に輸出しました(モノカルチャー)。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは、19世紀中頃からヨーロッパに輸出されるようになりました。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは機械の潤滑油・石鹸・食用油の原料として利用されました。現在でも、両商品は重要な輸出品となっています。また、ガーナやコートジボワールは、カカオ豆(ココア・チョコレートの原料作物)を大量に栽培しています。カカオ豆は、一年中気温と湿度が高く、風もほとんど吹かない熱帯雨林気候地域の中で最もよく育ちます。しかし、カカオの樹木は、大規模なプランテーションでは上手く育たないため、家族だけで栽培しています。\nイギリス人は、赤道直下のケニアを植民地にしました。標高1500~2500mの高地に住み、茶や珈琲のプランテーション農業を行なっていました。ケニアが茶の栽培を始めたのは、20世紀に入ってからです。赤道直下の高山気候なので、高品質の茶葉が一年中栽培出来ます。そのため、茶葉を摘んでから1~2週間後に、次の茶摘みを行えるようになります。この地域は、白人が農場や牧場を経営していたため、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)と呼ばれるようになりました。独立後、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)はケニア人に譲ったので、現在も茶と珈琲はケニアの2大輸出品となっています。また、珈琲原産地のエチオピアは現在でも珈琲を中心に輸出しています。\n一方、地中海に近いモロッコ・アルジェリア・チュニジアなどの北アフリカ諸国では、商業的な農業が発達しています。温暖な地中海性気候を活かしてオレンジや檸檬、オリーブ、葡萄などを栽培しています。地中海性気候のため、南アフリカ共和国の南西部では、葡萄などを大量に栽培しています。また、南アフリカ共和国の東部高地草原はかつてヨーロッパ人によって開発されました。その後、南アフリカ共和国に譲られ、トウモロコシの栽培や企業的牧畜が行われています。しかし、伝統的な農産物輸出の大半は、1980年代以降、減少しています。その背景に近隣地域の生産量増加が挙げられます。一方、ケニア・エチオピアでヨーロッパ市場向け花卉生産などの新しい輸出農産物が登場しました。こうした商品作物の生産によって、国内の買い取り価格は低く抑えられ、生産者はあまり儲かっていません。\n1950年、アフリカの人口は約2億3000人でした。2023年現在、アフリカの人口は約15億人です。アフリカの人口はこの73年間で約6.5倍になり、アジアに次いで2番目に多くなっています。医療や公衆衛生の整備で死亡率が下がっても、出生率が高いので、自然成長率は2.7%程度です。年少人口が多いため、2050年になると、アフリカの人口は24億人を超えると考えられています。\n人口増加に見合う量の食料を作れないため、複数の国で外国から食料を輸入しています。そのため、アフリカは食料自給率の向上につながっていません。アフリカの食料自給率を高めるために、通貨流出や穀物価格の上昇に伴う物価の高騰を防ぎ、経済を安定させなければなりません。また、アフリカで食料需要が増えると、世界でも食料不足になるため、国際社会でも食料自給体制の整備を急がなければなりません。\n農業生産性の低さが食料自給率の悪化につながっています。植民地支配が終わってから、アフリカは輸出用の作物を中心に栽培するようになり、主食用の穀物はほんの少ししか栽培しなくなりました。農業機械の導入が遅く、化学肥料の価格も高いため、多くの農地が利用されていません。そのため、大量に食料を作れません。\n現在、アフリカでも都市化が進み、経済も成長しています。しかし、都市と農村部の経済連携は進んでいません。農産物を都市に効率よく届けるようになると、農村地域も都市の経済発展の恩恵を受けられるかもしれません。例えば、マラウイ・ザンビアの国内市場向けに、芋類が出荷されます。ここで、300人の農家が働いています。そのために、農業生産性を高め、農産物の生産・集荷・輸送・貯蔵・販売の仕組みを作っていかなければなりません。穀物だけでなく、野菜を栽培する園芸農業の整備も求められています。\nまた、その土地に合った農業技術を広めていかなければなりません。国連開発計画や日本の国際協力機構などの支援を受けて、病気や乾燥に強く、豊産を見込める陸稲ネリカを開発して、世界中に広めています。農業技術を広めていけば、主食の量産体制を整備出来るでしょう。\n持続的な開発を行うため、アフリカは様々な社会制度や食糧供給の安定を図らなければなりません。2003年のアフリカ連合首脳会談で、「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」が採択されました。「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」では、外国からの支援に頼らず、自助努力で開発を目指そうとしました。政治家の汚職を防止する法整備、紛争を解決するための仕組みの強化、教育・保健・社会基盤・産業振興など、各国間の連携が大切です。\nアフリカは、石油・石炭・ウランなどのエネルギー資源に恵まれています。また、鉄鉱石・ボーキサイト・金・銅・レアメタルなどの金属資源も豊富です。植民地支配から逃れても、内戦や独裁政権がアフリカ諸国で長続きしていました。そのため、政治状況も不安定になり、鉱山開発が遅れていました。近年、外国からの投資や需要の増加によって、各国間の資源開発競争も激しくなっています。鉱山開発は、資源確保と重機メーカーの市場拡大につながっています。例えば、ギニアはボーキサイト、ザンビアは銅、ニジェールはウラン、モロッコとリベリアは鉄鉱石の最大輸出国になっています。しかし、資源分布の偏りは、資源を輸出出来る国と資源を輸出出来ない国の間に経済格差を生みます(南南問題)。また、資源の輸出後に儲けたお金を一部の人が独占しているため、貧富の差も大きくなっています。\nナイジェリアはアフリカ最大の産油国です。ビアフラ地方を中心に石油が埋蔵されています。輸出の8割以上が石油と石油製品で、そのほとんどをアメリカに輸出しています。アンゴラはアフリカ第2位の産油国です。2002年の内戦終結後、油田開発に力を入れ、石油の約半分を中国に送っています。アルジェリアの石油は、国全体の輸出の約4割を占めています。また、天然ガスも多く埋蔵しており、地中海横断パイプラインを通してヨーロッパ諸国へ送られています。今世紀に入って国際連合がリビアの独裁政権に対して経済制裁を緩めてから、リビアでも急速に油田開発を進めています。さらに、エジプトは石油製品や原油を大量に輸出しています。このように、アフリカ各国は原油や天然瓦斯を産出して、欧米諸国へ送っています。\nカッパーベルトは、コンゴ民主共和国とザンビア共和国の国境にあります。銅鉱石がカッパーベルトで採掘され、タンザン鉄道を経由して出荷されます。タンザン鉄道は、タンザニアのダルエスサラームとザンビアのカピリ・ムポシを結んでいます。中国からの支援も受けて、1975年に完成しました。かつてコンゴ民主共和国とアンゴラを結んでいたベンゲラ鉄道は、アンゴラの内戦で破壊され、現在修復を行っています。南アフリカは、石炭(トランスヴァール炭田)・金・クロム・プラチナ・バナジウム・チタンなどに恵まれています。ボツワナ共和国・コンゴ民主共和国・アンゴラ共和国は、ダイヤモンドを豊富に産出しています。南アフリカ共和国は、レアメタルも豊富に産出されています。また、コンゴ民主共和国は、他国よりもコバルトを大量に産出しています。\nアフリカの工業化は遅れています。植民地時代は、鉱産資源の採掘・販売を制限して、アフリカを工業製品の市場として販売しました。その影響で、独立後も内戦や不安定な政治が続き、所得水準も低かったため、国内市場が弱く、工業の発展も遅れました。今でも、電力供給・鉄道・港湾・金融制度・就学者数などは、決して恵まれているようには思えません。\n対外債務の増加・モノカルチャー経済への依存・工業化資金の不足などが原因で、何カ国も破綻しました。こうした中、国際通貨基金と世界銀行は、構造調整政策に取り組むように求めました。構造調整政策によって、アフリカ諸国も計画経済から自由市場へと移行しなければ新たな融資を行えなくなりました。複数の国がこれを受け入れて市場経済化を進めると、一部の国で国内総生産が増加しました。しかし、貧富の差はさらに広がりました。リベリア・シエラレオネ・スーダン・コンゴ民主共和国などでは、内戦の影響で経済成長も遅れました。また、内陸国も経済成長に影響を与えるかもしれません。アフリカ南部の国々は、周辺諸国と経済協力しているので経済も成長しています。\n1980年代以降、内戦や旱魃などの影響でアフリカ経済は伸び悩んでいました。しかし、2000年代に入るとアフリカ経済は回復に向かいました。この場合、鉱産資源の価格は国際市場で上がっています。ボツワナなどの一部の国で、輸出指向型の工業化を進めて、モノカルチャー経済から抜け出し、一人当たりの国内総生産を増やしました。\n鉱産資源の豊富な国は、原料地指向型の工業化が進んでいます。リビア・アルジェリア・ナイジェリアなどの産油国では、石油精製業や石油化学工業が発達しています。ザンビアは銅鉱石を多く産出するため、ザンベジ川のカリバダムによって銅の精製業が発展しました。一方、南アフリカ共和国は、サハラ以南のアフリカで圧倒的な地域大国となり、工業製品の輸出を中心に取引されるようになってきています。鉱業や醸造業などの世界的な企業を数多く持ちます。ヨハネスブルグにはアフリカ最大の証券取引所もあり、アフリカと世界経済を結ぶ役割を果たしています。元々BRICsは4カ国を表していました。これに、南アフリカ共和国も加わり、BRICsのSが大文字に変わりました。鉄鋼・機械工業・自動車工業などで、周辺国から出稼ぎ労働者が集まって働いています。また、チュニジアとモロッコは、石油・天然瓦斯・様々な工業製品をヨーロッパにほとんど輸出しています。北アフリカのチュニジア・モロッコ・エジプトは元々人件費も安いので、衣料・皮革・食品工業などの軽工業が主要な産業となっています。さらに、電気・機械の部品をヨーロッパへ輸出しています。\nこれまで、アフリカの複数の国では、工業製品を輸入して、一次産品を輸出する貿易を行っていました。一次産品とは、自然から育てられ、採取され、そのまま利用される産品をいいます。例えば、農畜産物・林産物・水産物・鉱産物などが一次産品にあたります。一部の農産物や鉱物資源の輸出が行われる限り、モノカルチャー経済(単一経済)も続きます。そのため、世界経済の変化に弱く、高付加価値産業の育成や産業の多角化にも問題が出てきています。ガーナは、カカオ豆のモノカルチャーから抜け出すため、アコソンボダムの水力発電を使ってアルミニウムの製造を盛んに行いました。ヴォルタ川のアコソンボダムは、1965年に建設されました。貯水量が少ない乾季になると、発電量も減少します。しかし、旱魃に伴う電力不足や、他国との競争が激しくなるなどの問題が発生します。一方、第三次産業は非常に素晴らしい成長を遂げています。\nカカオ・珈琲・タコ・白身魚・グレープフルーツ・薔薇など、多くの農水産物がアフリカから日本に輸出され、日本人の生活に役立っています。また、スマートフォンやハイブリッド車の生産に、アフリカ産のレアメタルが必要です。日本はこのような一次産品を中心にアフリカから輸入しています。一方、アフリカ諸国の経済が発展すると、自動車需用も増えます。このため、日本は新車・中古車・トラック・自動車部品などをアフリカに大量に輸出しています。\n日本はアフリカから多くの農水産物や鉱物資源を輸入しています。しかし、アフリカ諸国は貧困や内戦などの問題を抱えています。そこで、日本政府は政府開発援助や非政府組織を通じて、教育・医療・輸送インフラの整備・貧困削減・平和構築・環境保全などの支援を続けています。このように、「人間の安全保障」の考え方から、人間の生存を重視します。その背景から、日本人はタンザニアの農村開発やニジェールの学校建設や教育制度の整備を進めています。また、今後のアフリカ社会を引っ張っていく人材も育成しています。\n製造業や資源関連産業を中心に日系企業のアフリカ進出が進んでいます。例えば、南アフリカ共和国では、日本企業の自動車製造や鉱山開発などが行われています。しかし、2000年代以降、消費市場の高まりから、化粧品・家電製品・調味料・缶詰などの分野でも日系企業のアフリカ進出が進んでいます。近年、発展途上国の低所得者にも、BOPビジネスの支援が行われています。蚊帳・乳幼児向け栄養食品・アルコール消毒液など、日本企業の技術協力によって、発展途上国の低所得者に届けられています。経済的貧困者(Base of the Economic Pyramid:BOP)とは、世界で最も所得の低い人々を指す言葉です。BOPビジネスは、世界人口の7割を占める経済的貧困層を対象にしています。水や生活必需品の提供、貧困の削減など、現地の様々な課題を解決出来るでしょう。BOPビジネスの具体例として、ウガンダ産のサトウキビが挙げられます。ウガンダ産のサトウキビを材料にして、アルコール消毒液を日本の技術や品質管理の手法で生産しています。このアルコール消毒液は、医療機関の衛生環境改善・院内感染の防止に役立ちます。\n21世紀から、農作物も鉱産資源も値上がりしたので、アフリカの経済が潤っています。このような理由から、近年、アフリカの人口も首位都市に集中しています。農村の出稼ぎ労働者は、同郷の出身者同士で就職の支援を受けたり、生活の面倒を見たりしています。そのため、民族集団が違えば、職業も変わります。そうした職業の多くは路上販売者のようなインフォーマルセクターです。ナイジェリアやアンゴラなどの石油資源国でも、都市部を中心に高層ビルやショッピングモールが建設されています。各国で、携帯電話の利用者や自動車・家電などの耐久消費財の購入者が急速に増えています。外資系企業の進出も進み、内戦や紛争などの危険はあっても、さらなる市場の拡大や地域の成長が期待されています。\n北アフリカ諸国は豊富な石油資源に恵まれているので、軽工業が発達しています。また、地中海の温暖な気候を求めて、北アフリカ諸国に向かう観光客も増えています。例えば、アフリカ主要都市とヨーロッパまでを地中海経由で結ぶ直行便が複数あります。このような理由から、外国人向けの観光業がエジプト・ケニア・タンザニアで重要な産業になっています。また、北アフリカからヨーロッパまでパイプラインが通っており、天然瓦斯を運んでいるので、貿易も盛んに行われています。パリやロンドンでは、アフリカ諸国からの移民も数多く住んでいます。\nサハラ以南のアフリカ諸国は、海外からの債務を抱えており、自力で経済を回せません。国内の貧富の差も大きく、マラリア・ヒト免疫不全ウイルス・エボラ出血熱・COVID-19などの感染症も問題になっています。このような背景から、観光産業・情報通信技術産業を発展させて、豊かな自然や文化を生かし、経済の多様化を図ろうとしています。また、先進国からの支援を受けて、自立を目指しています。近年、中国は資源を手に入れるためにアフリカへ進出しており、経済・政治の両面で関係を深めています。\n中国は、銅の輸出をしやすくするために、内陸国のザンビアからタンザニアを結ぶタンザン鉄道の建設に協力しながら、それまでの友好関係をさらに深めています。中国は銅やレアメタルを輸入したいと考えています。しかし、中国製格安輸入品の増加によって、ザンビアやタンザニアで工業発展の遅れや中国人労働者に雇用を奪われるなどの問題も起きています。\nアフリカ大陸は全体が台地になっており、アフリカプレート上の安定陸塊です。マダガスカルも安定陸地なので、固有種も数多く生息しています。その理由は、長い間、本土から切り離されたため、動植物も独自の進化を遂げたからです。標高200m以下の低地は全体の1割程度なので、海岸線に広い平野はあまり見られません。紅海・エチオピアからヴィクトリア湖・ザンベジ川河口まで、標高2000m以上のエチオピア高原、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山などの火山、タンガニーカ湖やマラウイ湖などの断層湖が広がっています。アフリカ大地溝帯(グレートリフトヴァレー)は、最も広い箇所で幅100km、全体で7000kmもある大きな断層帯です。また、火山地帯なので、地震もよく起こります。地球の内部からマントルがアフリカの大地溝帯で出てきます。上昇流が周辺の地殻を押し上げているので、プレートが東西に割れています。将来、大地溝帯がアフリカを東西に分断すると考えられています。アフリカ大地溝帯では、現世人類の化石がたくさん見つかっているので、人類進化の舞台になりました。\n北アフリカからコンゴ盆地にかけて、標高200~1000mの比較的低い台地が続いています。その東部をナイル川が流れ、その河口に大きな三角州を形成しています。一方、北西部には新期造山帯のアトラス山脈があり、険しい山が連なっています。全長6695kmのナイル川は、世界で一番長い川です。南スーダンからハルツームまでの本流(白ナイル)は、赤道地帯から流れています。白ナイルはハルツームから南スーダンに流れています。ハルツームで、水量豊富な青ナイル(エチオピアのタナ湖源流)に合流します。\nギニア湾中央沿岸地域は、海岸から急に高度を上げますが、サハラ砂漠に向かうにつれて、標高の大幅な減少が見られます。そのため、ニジェール川の上流部はサハラ砂漠に向かって流れますが、途中で南東に変わり、ギニア湾に注いでいます。コンゴ川中流のコンゴ盆地は、キサンガニからキンシャサまで河川交通は賑やかですが、コンゴ川の下流は急流なので河川交通も閑散としています。\nコンゴ盆地南部からアフリカ大陸最南端まで、標高1000m以上の高い台地が続きます。南アフリカ共和国のメサで先カンブリア時代の硬い岩盤層の台地(テーブルマウンテン)が見られます。古期造山帯のドラケンスバーグ山脈は、南アフリカ共和国の南東部にあり、石炭の産出地になっています。\nアフリカの気候区分は、赤道から高緯度にかけて帯状に近い形で変化します。その理由として、アフリカ大陸に天候を大きく左右する山脈があまり見られないからです。したがって、アフリカ大陸に亜寒帯気候や寒帯気候がありません。気候区分は、熱帯気候(約4割)・乾燥気候(約5割)・温帯気候(約1割)になります。\nコンゴ盆地周辺とギニア湾沿岸は、熱帯モンスーン気候です。コンゴ盆地は赤道を通っているので、熱帯雨林気候です。これらの地域は、エボラ出血熱やマラリアの流行地域としても知られています。熱帯雨林気候の北と南は、サバナ気候です。まばらな草原が広がり、乾燥していてもバオバブの樹木などは耐えられます。一方、北東部のエチオピア高原は高山気候です。日中は暖かく乾燥していて過ごしやすく、標高5000m以上の高地(ケニア山やキリマンジャロ山など)では万年雪が見られます。\nサバナ気候の高緯度側にステップ気候が広がり、さらに進むと砂漠気候に変わります。アフリカ北部では、亜熱帯高圧帯の真ん中に北回帰線があります。北回帰線の周辺に世界最大のサハラ砂漠が広がっています。また、ソマリア半島も砂漠気候になります。高緯度のアトラス山脈より北側は、温暖な地中海性気候です。人が暮らせるオアシスやワジも見られます。サハラ砂漠の東部に、世界最長の外来河川(ナイル川)が南から北へ流れています。サハラ砂漠の面積は860万㎡で、西側に岩石砂漠(ハマダ)が数多く広がり、東側に砂砂漠(エルグ)が広がっています。ワジにオアシス集落が広がり、交易に駱駝が使われてきました。\nベンゲラ海流が寒流を北上させるため、アフリカ南部の西海岸にあまり雨が降らず、ナミブ砂漠のような海岸砂漠も残ります。一方、暖流のモザンビーク海流は、アフリカ南部の東海岸に暖かく湿った空気を運びます。そのため、低緯度側で南北方向にサバナ気候が広がり、高緯度側で温帯湿潤気候が広がります。アフリカ大陸の南端は地中海性気候ですが、内陸部はステップ気候や温帯冬季少雨気候が広がっています。南半球の温帯冬季少雨気候は4月から9月まであまり雨が降りません。一方、南半球の地中海性気候は11月から3月まであまり雨が降りません。マダガスカルは南東貿易風帯にあります。このため、東側は上昇気流の影響で雨量も増えます。1月から3月になると、サイクロンの影響も受けます。一方、国土の南西部は下降気流になるので、乾燥気候になります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB"} {"text": "日本の隣国といえる国は何処でしょうか?ロシアは世界で一番大きな国です。ヨーロッパとアジアの両方にあり、地下にはたくさんの資源が眠っています。日本の重要な隣国でもあります。領土問題が解決していないため、「近くて遠い国」と呼ばれるロシアについて、私達はあまり知りません。ソビエト連邦が国としてロシアになった後の様子を学んでみましょう。\nロシア連邦はユーラシア大陸の北半分に位置し、そのほとんどが日本より高緯度です。アジアからヨーロッパにまたがる世界最大の国土を持ちます。ロシア連邦の大きさは、日本の約45倍(東西1万1000km)にもなります。そのため、11の標準時帯に分かれ、東端と西端では昼と夜がほぼ入れ替わっています。\n行政的に、国全体は8つの連邦管区と83の連邦構成主体に分かれています。連邦構成主体のうち26は少数民族を中心とした共和国、自治区、自治管区です。このうち、2大都市モスクワとサンクトペテルブルクは、連邦政府が直接管轄しています。\nロシアの地形は、大きく分けて次の通りです。\n東ヨーロッパ平原\n[ヨーロッパロシア]\n西シベリア低地と中央シベリア高原\n[シベリア]\nかつてシベリアは、ウラル山脈より東の地域の名称でした。現在、この地域のうちサハ共和国とアムール州以東の地域を極東ロシアに分類しています。\n特に、東シベリアから極東ロシアまでの冬はシベリア高気圧に覆われ、オイミャコン周辺は北半球で観測史上最も寒い場所とされています。\n春から夏にかけて、北極海に注ぐオビ川、エニセイ川、レナ川などの上流では雪が解け始めても下流では凍ったままなので、しばしば氾濫します。また、路面の凍土層が解けて路面が柔らかくなると、通行出来なくなる場合もあります。そのため、シベリア北部の鉱業都市では、ほとんどの人が飛行機を使って他の地域と行き来しています。さらに、永久凍土が多い地域では、高床式の建物も見かけます。これは、床と地面の間に空間を作り、暖房で永久凍土が柔らかくなって、建物が沈んだり傾いたりしないようにするためです。\nロシアは、ユーラシア大陸の北部のほとんどを占めています。シベリアを含むロシアのほとんどは、冷涼な寒帯や亜寒帯気候です。国土の約30%で、1月の平均気温が-30℃を下回り、半年以上寒さが続きます。海の影響を受けないので、そのほとんどが大陸性気候です。そのため、一年を通して寒い時期と暖かい時期の差が大きく、春と秋の季節がとても短く感じます。\n厳しい気候のため、北極海沿いのツンドラ気候の地域を除き、国土のほとんどがタイガと呼ばれる針葉樹林に覆われています。東ヨーロッパ平原の南部だけがわずかに耕作出来る土地を持ち、そのほとんどが寒さと旱魃から守らなければなりません。チェルノーゼムが分布するステップ気候地帯や気候が比較的穏やかな混合林が広がる地域は、ロシアの南西部や南部の国境付近の地域に限られています。ここに多くの人が住んでいます。特に、黒海とカスピ海に挟まれた地域は、世界でも有数の保養地として知られています。\n資源や産業の面では、国内にある石炭や鉄鉱石を利用して重化学工業が成り立っていました。しかし、原油や天然ガスは自国で十分に確保出来ないため、ロシアから輸入する必要がありました。しかし、ここ数年、ロシアが天然ガスの値上げを計画し、それに対してウクライナが天然ガスの輸送を停止するなど、天然資源をめぐる問題が起きていました。\n2014年、親ロシア派の住民と西側諸国を支持するウクライナ政府との間で争いが発生しました。この内戦はウクライナ東部からクリミア半島に広がり、そこにロシア軍が介入して内戦[1]が発生しました。ロシアはクリミア半島の領有を一方的に宣言し、世界から強く反発されました。\n2022年には、ロシアがウクライナに大規模な侵攻を開始し、戦争になりました。現在(2023年8月)も戦争が続いています[2]。\nそしてこの侵攻により、ロシアは、Euやアメリカなどからの国際社会から経済制裁を受けた[3]。\nウクライナは穀物輸出国でもあるため、ウクライナ侵攻により、世界の穀物の貿易に大きな影響を与えた[4]。\nウクライナに関する地名の表記を、日本政府は2022年以降から、従来のロシア語表記に代わり、新しくウクライナ語に合わせた表記に変更している。\nつまり、\nキエフ(古い) → キーウ (新しい)\nオデッサ → オデーサ\n \nドニエプル川 → ドニプロ川\nなど[5]。\nハリコフ → ハルキウ\nなお、キーウ(キエフ)はウクライナの首都。ハルキウはウクライナの都市のひとつ[6]。\nロシアは20世紀初頭まで皇帝が統治していました。しかし、1917年のロシア革命の後、1922年、ロシアの共産党は世界最初の社会主義国を作りました。これが、ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国)です。ソビエト連邦では、ロシア帝国の広大な国土のほとんどを手に入れました。第二次世界大戦後は、その軍事力の強さから、世界の超大国としてアメリカと対立していました。これが冷戦の始まりです。しかし、経済の停滞や民族間の対立から、1991年にソ連は15の国に分裂してしまいました。以降の、ロシアはソビエト連邦の一部だった頃に比べ、世界での政治的・経済的な力関係が大きく低下しています。ロシアは最も人口が多く、国土も最も広い国です。カザフスタンなどの中央アジア諸国やアゼルバイジャンなどのカフカス地域諸国はソ連を離れ、完全な独立国家となりました。\nソ連がロシアに変わってから、土地も国境もずいぶん変わりました。ヨーロッパの海の玄関口であるバルト海や黒海では、海に面した国土がずいぶん減りました。また、多くの国がソ連を脱退したため、中央アジアの国境が変わりました。そのため、ウクライナやカザフスタンなど、かつてソ連に属していた国からロシアに移住してきたロシア系民族もいます。しかし、それらの国に留まる者も多く、民族紛争の火種を残しました。2014年には、ロシア人が多く住む地域をめぐって、ロシアとウクライナの間で対立が起きました。その後、2022年からロシアが一方的にウクライナに侵攻しました。\nソ連解体後、ロシアは出来るだけ多くの共和国と仲良くしようとしました。そこで、旧ソ連構成国と一緒になって独立国家共同体(Common wealth of Independent States)を作り、政治的・経済的に協力し合う緩やかな独立国家の集まりとしました。独自の議会や憲法を持たず、首脳会議や閣僚会議も必要な時にしか開かれません。しかし、ソ連の一部だったバルト三国やトルクメニスタンは参加せず、後にロシアと大喧嘩したジョージアも脱退しました。カザフスタンとベラルーシは、今加盟している9カ国のうちの2カ国です。この共同体が出来た最大の理由は、世界各地に設置されたソ連時代の核兵器や軍事基地を処理するためでした。これらの基地は全てロシアが管理するようになっていたため、CISは軍事・安全保障面での協力が中心で、経済面での協力はあまり行われていません。このように、CISは緩やかなつながりのある国の集まりなので、EUやアメリカに近づこうとする国もあります。\nロシアは多民族国家ですが、そのうち約8割がスラブ系のロシア人です。\nトルコ系やモンゴル系など大小100以上の民族からなります。このうち、人口50万人を超える民族は15もあります。また、北極海周辺には、アジア系少数民族の住む大きな共和国や自治管区があります。さらに、カフカス地域やヴォルガ川流域には、チェチェン人やタタール人の住む共和国が多く見られます。\n総人口の多くを占めるロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、インド・ヨーロッパ語族のスラブ語派に分類される言語を話しています。また、アルタイ語族やウラル語族の言語を話す人々もいます。公用語はロシア語で、キリル文字が使われており、様々な民族語が話されています。宗教は東方正教(ロシア正教)が最も一般的ですが、イスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒もいます。\nロシアの国境付近では、民族や土地をめぐる紛争が絶えず、外国人投資家の悩みの種となっています。特に、カスピ海と黒海に挟まれたカフカス地域は異民族が多く、ロシアのチェチェン共和国のように政治的に不安定な場所も少なくありません。2008年には、ソビエト連邦の解体により独立したロシアとグルジアの国境で、軍事衝突がありました。民族間の対立が大きな原因となりました。日本は極東にある北方領土の返還を求めていますが、まだ解決していません。\nソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)では、共産党が計画経済を運営していました。計画経済とは、生産、流通、販売の全てを中央の計画機関によって支配する経済体制をいいます。ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)が崩壊して民間企業による市場経済に転換した時、ロシア国民の生活は大きく変わりました。資本主義の発展とともに、経済の効率化が最も重視されるようになりました。この結果、非効率的な国営企業は閉鎖され、多くの人々が職を失いました。計画経済から市場経済への転換が早すぎたため、ロシア経済は他の東欧諸国の経済よりも混乱しました。ロシアの国内総生産(GDP)は6年連続で減少し、世界恐慌時のアメリカよりも悪くなっています。\nソビエト連邦時代、国民は教育、医療、社会保障を無料で受けていました。しかし、ソビエト連邦の崩壊後、これらを無料で受けられず、それに代わる制度も完全に整備されていません。しかし、物価が上がり、新たな富裕層が生まれても、失業者や退職者など弱者の生活は苦しく、貧富の差は大きくなる一方です。また、外国資本が急成長しているヨーロッパロシアとそれ以外の地域では、所得に大きな差があります。したがって、このような差を解消しなければなりません。ロシアでは自殺者やアルコール中毒者が増えているだけでなく、出生率が下がっているため、人口が減り続けています。\n市場経済への転換による混乱で、食料品や日用品の不足は深刻でした。当時、小売店に並ぶのはロシアの風物詩とさえいわれました。しかし、今は経済が良くなり、消費財も増え、買い物も以前ほど苦労しなくなりました。日用品が充実し、耐久消費財の需要が高まり、自家用車が急速に普及するなど、人々の暮らしがどんどん良くなってきています。\n大きな変化の中で、変わらないものもあります。都市部ではほとんどの人がマンションに住み、田舎ではほとんどの人が小さな家に住んでいます。大都市では約半数の家が郊外に簡素な木造の別荘ダーチャを持ち、週末や夏休みを過ごしています。庭では農作業を楽しみ、手に入りにくい野菜や果物を採って生計を立てています。スポーツも自由な時間の過ごし方として人気があり、バレエや演劇、コンサートを好む人も少なくありません。\n政治体制が変わった後、経済危機が起こり、人々は就職先があるかどうかわからなくなりました。そのため、経済基盤の弱い農村部や地方の小都市から大都市や地方都市に人々が移動するようになりました。ウクライナや中央アジア、バルト三国を離れた多くのロシア人が大都市に移り住んでいます。\n首都モスクワは、人口1000万人を超えるヨーロッパ最大の都市です。1990年代以降、急速に発展を遂げましたが、その成長の多くは金融などの第三次産業で起こっています。高層ビルが立ち並び、郊外には大型ショッピングモールが立ち並ぶ副都心のオフィス街は、市場経済への転換で生まれた新しいロシアの姿を表しています。モスクワが世界で最も物価の高い都市と言われるのは、それだけ多くの人が住み、移動が容易だからです。その他、サンクトペテルブルクやニジニノヴゴロド(旧ゴーリキー)など、ヨーロッパロシアの大都市も中心都市として大きく発展してきました。\n農業分野でも、ロシアの市場経済化の影響を感じさせます。ソ連時代は、コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)によって大規模な生産と販売が行われていました。しかし、市場経済に移行すると、土地の個人所有が認められ、多くのコルホーズやソフホーズが民間企業に再編され、運営されるようになりました。また、生産性の高い企業的な農業への転換が容易でなく、農業法人の成長も遅れています。極東では、農産物を近隣のアジア諸国から購入する傾向が強まっています。さらに、家族経営の農家はあまり増えていません。そのため、穀物やテンサイ、油脂用の向日葵などは、ほとんどが個人所有の大農場で栽培されています。一方、ソ連時代から認められている農場では、野菜や果物、肉などを栽培し、定期市や路上で販売されています。\n【現代ロシアの農業形態】\nロシアの自然環境は南北で異なり、東西に伸びる農業地帯も少なくありません。チェルノーゼムのある黒土地帯では、小麦を中心とした穀物栽培が盛んです。ヨーロッパロシアではライ麦やジャガイモの栽培が盛んで、豚や牛を飼育する混合農業が見られます。沿岸部では漁業が盛んで、日本向けの水産物製造が主な産業となっています。\nこのように、ロシアの主要作物は、小麦、大麦中心の穀物栽培とジャガイモ、テンサイなどといった耐寒性作物です。中でも、小麦はロシアの主要輸出品目です。ロシアは作物を栽培出来る土地が豊富ですが、単位面積あたりの生産性はヨーロッパに比べると下がります。\n商業・サービス業の成長に比べ、工業の再生は各部門で大きく異なっています。ソビエト連邦時代には、ウラル山脈の南部やクズネツク炭田といった場所が、様々な種類の資源を結びつけてコンビナート方式の重工業地帯となりました。コンビナートとは、鉄鉱石や石炭などの資源とそれを利用する産業を結びつけて、計画的に設置された工業地帯をいいます。ソビエト連邦崩壊後、経済の混乱でこれらの重工業は大きな打撃を受け、低迷していましたが、少しずつ回復してきています。\nここ数年、ロシアの製造業が世界的に注目されています。ロシア連邦に加盟して以来、サンクトペテルブルクの港湾や交通網は急速に発展してきました。また、自動車や家電などの産業が大きく変化し、製造業の中心地となろうとしています。2005年には経済特区を設け、外国資本を導入し、欧米や韓国、日本などの企業も入ってきました。2005年には、研究開発のための技術導入区と工場生産のための工業生産区が設置されました。一方、繊維産業を始めとする軽工業は、安価で高品質な外国製品に押され、不振が続いています。\n市場経済への転換により、特に第三次産業が成長しました。生産活動が民営化され、価格の自由度が高まったからです。特に携帯電話やインターネットの普及で、通信・情報部門の成長は驚くばかりです。また、商業・サービス業も急成長しました。スーパーマーケットをはじめとする商業施設は、ロシア各地で見られます。\n現在のロシアでは、鉱物資源の開発が産業・経済の大部分を占めており、原油や天然ガスの輸出量は世界でも上位に位置しています。西シベリアは、石油や天然瓦斯が多く作られている場所です。以前は、永久凍土から原油や天然ガスを取り出すのに高い費用がかかるため、人々はそれを実行に移せませんでした。しかし、今では、それを実現しようとする動きが加速しています。また、金や鉄鉱石の埋蔵量も世界有数です。\nシベリアには、プラチナ、金、銅の鉱山があります。極東には、ダイヤモンド鉱山があります。ヨーロッパロシアでは、沿海州とウラル地方に最も多くの原油と天然ガスが埋蔵されています。チュメニには国内最大の油田があります。エニセイ川やヴォルガ川では、大きな水力発電所が同時に建設されています。\nロシアの対外貿易を見ると、これらの鉱物資源の輸出が外貨獲得の大半を占めているため、資源を加工して付加価値をつける産業が十分に育っていません。また、すでにある油田やガス田の有効利用よりも、新たな鉱脈や鉱床の開発が重視されてきました。そのため、乱開発や自然環境の破壊といった問題が発生しています。\nロシアは天然資源が豊富ですが、国土が広いため、なかなか国が発展しません。首都モスクワと日本海に面したウラジオストクの間には7時間の時差があります。また、地形的に物資の運搬や通信が困難です。エニセイ川以東は山が多く、人も少ないので資源開発が進んでいません。鉄鉱石を除き、ロシアの鉱物・エネルギー資源の多くは、東部と北部に偏って分布しています。そこで、シベリア鉄道やバム鉄道、パイプラインなどの長距離輸送路を整備し、これらの資源を輸出して国内で利用出来るようにしました。\n北極を中心に描かれた地図を見ると、カナダ、アメリカ、日本、中国、EUが、世界最大の国であるロシア(EU)に寄り添っています。つまり、ロシアは世界経済に大きな影響を与える国々に囲まれているため、地理的・経済的に有利な立場にあります。\nロシアは、資源大国です。シベリアや北極海沿岸には石油や天然瓦斯などの地下資源がたくさんあり、石油や天然ガスを中国や日本に送るパイプラインの建設も計画されています。しかし、現時点、エネルギーの結びつきはEU諸国が中心です。サハリン(樺太)の石油や天然ガス、極東ロシアの石炭、海産物、木材などが日本への重要な輸出品となっています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%A8%E5%91%A8%E8%BE%BA%E8%AB%B8%E5%9B%BD"} {"text": "※後日、本文を大幅加筆する予定です。\n参照:中学校社会 地理/南アメリカ州\n工業化される以前のブラジルは、単一作物による農業国でした。輸出の約7割がコーヒーでした。現在も世界最大のコーヒー輸出国ですが、ブラジルの全輸出量のうちコーヒーは3%程度に過ぎません。\nブラジルは1960年代末から1970年代初めにかけて、年率10%以上の経済成長を遂げました。これはブラジルの奇跡と呼ばれました。外国資本の援助と輸入代替工業化政策を取って、工業を近代化したからこそ実現出来ました。ブラジルは、安価な労働力を利用して産業構造を変え、重化学工業を発展させました。その結果、それまで多くの重化学工業製品を輸入していたブラジルは、自国で製造を開始しました。\nブラジルの経済は急成長しました。しかし、物価が年間25〜30%上昇し、累積債務問題、金融危機もあったため、不況も経験しました。その都度、政府は輸入を自由化し、国有企業を売却しました。これによって物価の上昇が止まり、経済が再び成長するようになりました。また、1995年にはMERCOSUR(南米南部共同市場)が設立され、ラテンアメリカの経済が立ち直れるようになりました。その後も経済成長に大きく貢献しています。MERCOSUR(南米南部共同市場)は、経済を改善するための地域経済統合です。アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラ、ボリビアが加盟しています。ブラジルはMERCOSURで重要な役割を果たす一方、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国とともにBRICsに加盟し、世界経済への影響力を強めています。\n赤道付近を流れるアマゾン川の流域の気候は熱帯雨林気候である。なお、アマゾン川流域の熱帯雨林や、ラテンアメリカの熱帯雨林のことをセルバという。\nアマゾン川流域の地域の農業では、キャッサバなど熱帯の作物を栽培するのが盛んである。\n(※ アフリカの熱帯でのキャッサバ栽培と類似。)\n焼畑農業が主流。(※ アフリカの熱帯と、類似。)\nそして、ラテンアメリカの熱帯雨林の周辺にあるブラジル高原(カンポ)やオリノコ川流域(リャノ)の気候は、サバナ気候である。(※ アフリカの熱帯の周辺にもサバナ気候がある。類似。)\nブラジル高原あたりをカンポという。\nオリノコ川流域をリャノという。\n1960年以前のブラジルではコーヒー豆の生産が有名だった。しかしブラジルでは1970年代ごろから、サトウキビや大豆の生産が盛んである。とはいえ、ブラジルのコーヒー豆の生産量は世界1位である。(コーヒー豆生産の2位はベトナム、3位はコロンビア)\nブラジルは大豆の生産量で世界2位。(大豆生産の世界1位はアメリカ合衆国、3位はアルゼンチン)\nブラジルの大豆生産地は、赤道からは、やや外れた、ブラジル高原南部にある。\nバナナは、ブラジルが世界でも有数の生産量。(バナナ生産量はエクアドルが世界1位。)\nこのように、ブラジルの農業は多角化が進んでいる。\nアルゼンチンでは、ラプラタ川流域に、パンパと呼ばれる草原地帯がある。パンパでは肥沃な黒色土(パンパ土)が分布している。\nまた、ラプラタ川流域で、大豆の生産が盛ん。\nパンパには、降水量の比較的多い湿潤パンパと、降水量の少ない乾燥パンパがある。乾燥パンパは農業に向かず、羊などの放牧などに利用される。\n湿潤パンパが農業に利用される。湿潤パンパで、小麦やトウモロコシやアルファルファなどが栽培される。\n大土地所有制のエスタンシアが残っている。\nなお、アルゼンチンの住民には、ヨーロッパ系白人が多い。\nチリ沖合は寒流であるペルー海流が流れるため、上昇気流が生じにくく、降水量は少ない。\nそのために北部は砂漠気候でありアタカマ砂漠が分布するが、南部は偏西風域内にあるためその影響が強く、西岸海洋性気候である。\nなお、アルゼンチン南部のパタゴニアにも砂漠があるが、これは、偏西風の、山脈の風下側にあるため。(チリ北部の砂漠と、アルゼンチン南部の砂漠は、発生原因が違う。)\n降水量の少ないチリ中部では、ブドウの栽培が盛ん。(ブドウは降水量が少なくても育ちやすい。日本の甲府盆地などを思い出そう。)\nペルーなど、アンデスの山岳地帯での農業は、低地ではトウモロコシや周辺諸国の農産物と同じような作物を栽培しているが、しかし標高が高くなるにつれて小麦やジャガイモやトウモロコシなどが栽培される。\nさらに標高が上がり、さらに寒冷になると、耕作限界をこえるので、リャマやアルパカなどの家畜を放牧する。\nなお、ペルーの住民には先住民のインディオが多い。\n(※ 定期試験レベルの基礎知識)\nラテンアメリカの先住民のインディオはモンゴロイド(黄色人種)。\nラテンアメリカには混血人種が多い。白人(コーカソイド)とインディオとの混血をメスティソという。白人と黒人との混血をムラートという\nラテンアメリカの黒人の先祖は、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人(ネグロイド)である。\nつまり、ラテンアメリカの黒人は、アフリカ系黒人である。\nラテンアメリカには、白人とインディオとの混血であるメスティソや、白人と黒人との混血であるムラートも多い。\n西インド諸島のハイチやジャマイカに、黒人が多い。この理由は、サトウキビなどのプランテーションの労働力として、黒人がハイチやジャマイカなどに移住させられたからである。\n(※ 入試で問われやすい)\nキューバは白人の割合が高い国であり、キューバでは全人口のうち65%が白人である(スペイン系の移民が多かったので)。また、キューバの人口の残り35%のほとんどは、黒人よびムラートである。つまりキューバにインディオおよびメスチソは、ほぼゼロ%である。\n(キューバの黒人は、日本ではマスコミ報道などで比較的にキューバ白人よりも話題にはなりやすいかもしれないが、じつはあまりキューバ黒人の人口比は多くない。)\nキューバなどのカリブ海諸国を除くと、ラテンアメリカの大陸側の国(ブラジルやペルー、アルゼンチンなど)は、じつは黒人はあまり多くなく、白人以外の人種は、先住民およびメスチソ(先住民との混血)がほとんどである。\n例外的に(大陸側では)コロンビアは、黒人およびムラートが合計20%ほどである。日本人の視点からはコロンビアが地理的にアメリカ合衆国に近いので目立つので、ついつい「ラテンアメリカは黒人も多いかも?」と錯覚いがちだが、じつはコロンビアが例外的に黒人が多いのである。\nブラジルは人口の40%ちかくが混血であるが、白人系の混血なのか黒人系の混血なのか、ハッキリしない。\nアルゼンチン、ブラジルは、白人の割合が高い。(統計の取り方によっては、チリも白人の割合が高い国に含める場合もある。)\n特にアルゼンチンは白人の割合が高く、全人口の97%ほどを占める(2010年統計)。\n同じくアルゼンチンの隣国のブラジルは、白人の割合が高く、48%である。\n隣国のチリはメスチソの割合が高いが、このメスチソも白人と先住民との混血のことであり、チリのメスチソおよび白人の割合は、ほぼ95%である。\nまた、アルゼンチン、ブラジルは先住民・インディオが少ない国でもある。(ただしブラジルはメスチソが多い。つまり、混血が進んでしまっており、純度の高い先住民は残ってない。)\nアルゼンチン、ブラジル、チリとも、先住民の人口は10%未満である。\nまとめると、\nいっぽう、(アルゼンチンの北隣にある)ボリビアや(ボリビアの隣の)ペルーは、先住民・インディオの割合が高い国であり、人口の50%ほどがインディオ系である。\nラテンアメリカでアルゼンチン、ブラジル、チリ以外の国は、白人の割合が少なく、白人は全人口の10〜20%ほどである。\nたとえばボリビア・ペルーで、その国の全人口のうち白人の占める割合が15%ほどである。エクアドルやコロンビアも同様に、全人口のうち白人の占める割合が10%〜20%ほどである。\n漁獲高が高い。アンチョビ(かたくちいわし)を、魚粉(フィッシュミール)にしてから輸出する。\n住民の多数がインディオ。インカ帝国があった場所はペルーのあたり。\nペルーの首都はリマ。\nペルーは銅の産地。\nペルー海流の影響で、太平洋側が砂漠気候。しかしペルー東部には森林などが広がる。\nペルー中央に、アンデス山脈が走る。\nブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合がやや多い。ペルーでは、日系人のフジモリが大統領になったこともある。\n(※ 範囲外 :)治安はあまり良くない。貧富の格差は大変大きい。\nボリビアの首都のラパスは標高4000m以上。ラパスは世界一標高の高い首都といわれている。ボリビアは内陸国。スズの産出地。住民の多数がインディオ。\nボリビアのウユニ塩原の地下に、大量のリチウムが存在している事が分かっており、開発などが進められている。\n国民の多くは貧しく、経済的格差は世界の中でも大きい。 \n(※ 範囲外 :)治安も良くない。\nチリの国土は南北に細長い。南北で気候が違う。\nチリ北部は砂漠気候。チリ南部は、偏西風の影響を受けるため、西岸海洋性気候。そのあいだのチリ中部は地中海性気候であり、ブドウの栽培が盛ん。\n政治や経済は良い状態にある。\n(※ 範囲外 :)治安もラテンアメリカの中では良い国。但し貧富の差は大きい。\nベネズエラは産油国であり、OPEC加盟国。\n貧富の格差は非常に大きい。\nエクアドルは赤道直下に位置する。バナナの輸出国。また、エクアドルからは原油も算出し、産油国であり、OPEC加盟国である。\nエクアドルの首都キトは標高2000m以上の高山都市。\nコーヒーの輸出国。\nコロンビアの首都ボゴタは標高2000m以上の高山都市。\nコロンビアはエメラルドの世界的な産地である。\n(※ 範囲外: )反政府ゲリラがはびこり、殺人や誘拐が多く大変治安が悪い。コカインの産地でもある。貧富の格差も相当大きく、失業率も高い。\nブラジルの公用語はポルトガル語である。(スペイン語ではない。)\n第二次大戦後に、開発のおくれた内陸部を開発させるため、1960年にブラジルは首都をそれまでのリオデジャネイロから、内陸部のブラジリアに移転させた。つまり、現在のブラジルの首都はブラジリアである。\nさらにアマゾンの熱帯雨林を開発するため、1970年代にアマゾン横断道路(トランスアマゾニアンハイウェー)を建設した。\nブラジル高原南部の土壌は、玄武岩が風化してできたテラローシャである。テラローシャは肥沃であり、コーヒー栽培に適している。\nテラローシャは、赤紫色。ポルトガル語で「テラローシャ」とは「紫の土」という意味。\nいっぽう、ブラジルの熱帯雨林地帯では、雨が強すぎて養分を流してしまうので、ブラジルの熱帯の土壌のラトソルは養分がすくない。\n近年の農業では、サトウキビの生産が盛んであり、またバイオエタノールの生産も盛ん。バイオエタノールの原料は、サトウキビやトウモロコシなどである。\nバイオエタノールは、エタノール車の燃料。\nメルコスールは、域内の関税撤廃と、域外との共通関税をしている。\nブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合が多い。ブラジルは世界で一番日系人が多い。\n(※ 範囲外: )治安はとても悪く世界的に見ても犯罪が多い国である。貧富の格差は極端である。\n白人はイタリア移民の子孫が多い。\nブラジル南東部のサンパウロとリオデジャネイロで工業が盛ん。\n機械類、自動車、鉄鉱の生産が、ブラジルの工業では盛ん。\nブラジルは鉄鉱石の産地。カラジャス鉄山やイタビラ鉄山で、鉄鉱石が産出。\nまた、ブラジルはボーキサイトの産地でもある。一般に、ボーキサイトは熱帯雨林の地帯で産出することが多い。熱帯のつよい雨が、ボーキサイト以外のさまざまな成分を流してしまうが、ボーキサイトは流されずに、残るからである。\nマンガンも産出する。\n白人が多く特にイタリア系が多い。首都はブエノスアイレス。\n草原のパンパには、温暖湿潤気候の湿潤パンパと、ステップ気候の乾燥パンパがある。年間降水量500mmの境界線が目安。\nパンパ東部は、湿潤パンパ。\nパンパ西部は、乾燥パンパ。\n農業については、湿潤パンパでは小麦、大豆、とうもろこし、アルファルファなどを生産。乾燥パンパでは、羊の放牧が行われている。\nパタゴニアは砂漠気候。パタゴニアが乾燥する理由は、偏西風がアンデス山脈にさえぎられて、パタゴニアは(偏西風の)風下側になるため。\n1950年代まで裕福な先進国だった過去を持つ。\n住民のほとんどが白人。小麦や大豆や肉類などを生産する農業国。政治や経済はチリに次ぐ水準である。\n(※ 範囲外 :)治安も比較的良い。かつては南米のスイスと言われ福祉制度が充実していた時期がある。\n1908年頃からブラジルに、日本人が農場などの労働者のための移民として、移住した。そのため、ブラジルには日系移民が多い。ペルーでは、日系人のフジモリが大統領になったこともある。\nブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合がやや多い。\nキューバやジャマイカなどと、南アメリカ大陸とのあいだの海を、カリブ海という。\nいっぽう、キューバやジャマイカなどと、メキシコと、アメリカ合衆国の南部とのあいだの海は、メキシコ湾である。\nキューバやジャマイカなどを「カリブ海諸国」という。\n住民にメスチソが多いが、インディオも多い。\nなお、メスチソとは、白人とインディオとの混血のこと。(つまり、キューバなどカリブ海諸国と比べたら、メキシコでは黒人系(ムラートなど)の人口の割合は少ない。)\n(※ 入試で問われるのは、どの人種が多いかだけでなく、どの人種が少ないか、が問われやすい。)\n首都はメキシコシティ。メキシコシティは、人口2000万人を超える大都市で、世界有数のプライメートシティである。\nメキシコシティでは、人口の増加や流入などに、政治が追い付かず、不法占拠によるスラムが拡大している。このスラム街は都心から離れた山の斜面や、大都市の郊外に形成されている。ちなみに発展途上国のスラム街は郊外、先進国のスラム街は都心部に形成される傾向がある。\nまた、メキシコシティは、周辺を山に囲まれた、盆地状の地形である。\nメキシコシティ自体も、標高2000m以上の場所にある。\nメキシコシティで、自動車の排気ガスなどによる大気汚染が悪化してる。原因として、盆地状の地形であるため、空気が滞留(たいりゅう)しやすいことも一因だろうと考えられている。\nメキシコの経済については、1994年に、NAFTA(読み:ナフタ、北米自由貿易協定)を、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコの3か国が結成した。\nメキシコ湾岸から原油が産出されるため、メキシコは産油国。ただし、OPECには、メキシコは加盟していない。\n輸出品は、機械類、自動車、原油。\n(※ 範囲外 :)国の治安は大変悪い。世界的に見ても犯罪の多い国である。\n貧富の格差も大きいとされる。\n1959年にキューバ革命が成功し、それ以降から社会主義国。現在も社会主義国のまま。\nまた、このキューバ革命により、それまで企業や地主などが所有していたサトウキビ農園が、国有化された。\nまた、このキューバ革命により、ソビエト連邦の勢力圏に入り、いっぽうでアメリカ合衆国との関係は悪化。\n人口は、黒人系の混血(ムラート)の人口が多い。(つまり、メスチソ(先住民と白人との混血)は少ない。)\n現在も、アメリカとの関係は悪い。\n2015年1月アメリカ合衆国と国交回復交渉 同年7月国交回復\nキューバやバハマは観光地として有名であり、地理的近接性も相まってグレナダなど周辺国よりも観光客は多い。(※ 範囲外:)キューバは治安が良いとされる。貧富の差も少ない。\nフロリダ半島から離れるほど、観光客が減少するという統計的な傾向が知られている。(2017年度センター試験で、カリブ海諸国の観光客の2010年度の統計がある。)\n(※英語教科書) 日本のある英語教科書でキューバが紹介されたことがある。医療費の安さ(ほぼ無料)、医師の人口が比較的に多い、大学などの教育費の安さ、などの特徴があった(掲載当時。掲載時期は未確認)。キューバの公用語はスペイン語。\n1804年にフランスから独立。黒人が多い。公用語はフランス語。近代最初の、黒人による独立国。\n国民の80%は貧困層である。\nブルーマウンテン山などの場所で、ブランド名も「ブルーマウンテン」で、コーヒー栽培が盛ん。\n黒人が多い。ボーキサイトの産地。公用語は英語。\n(※ 範囲外: )国の治安は世界の中でも最も悪い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_%E5%9C%B0%E7%90%86%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB"} {"text": "削除依頼中\n当ページ「高等学校歴史総合 (通常版)/日本の領土をめぐる問題」の削除依頼が提出されています。今後当ページに加えられた編集は無駄となる可能性がありますのでご注意頂くとともに、削除の方針に基づき削除の可否に関する議論への参加をお願いします。なお、依頼の理由等については削除依頼の該当する節やこのページのトークページなどをご覧ください。\n日本には、国際法などに照らして日本固有の領土であっても、近隣諸国と領土をめぐって問題が発生している地域があります。\n北方領土、竹島、尖閣諸島は、いずれも日本固有の領土ですが、北方領土はロシアが、竹島は韓国が不法に占拠しており、また、尖閣諸島は日本政府が実行支配し、領土問題は存在しないものの、中国などが領有権を主張し、挑発を繰り返しています。\nここでは、北方領土、竹島、尖閣諸島が日本固有の領土になった経緯を見ていきましょう。\n北方領土、尖閣諸島、竹島はどのような経緯で日本固有の領土になったのだろう。\n北方領土、尖閣諸島、竹島の現状はどのようなものなのだろう。\n17世紀前半には、蝦夷地(北海道)の南部を支配していた松前藩が北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)や樺太について調査を行っていたこともあって、江戸幕府が作成した地図には、国後島、択捉島、得撫島などの島名が書かれていました。\nこうした島々では、18世紀の半ばから、ロシア人が進出し、日本人の住民との間で対立が起こっていました。そこで幕府は、これらの島々を直接統治すると決め、国後島から択捉島までの調査を行い、択捉島に「大日本恵登呂府」と書いた標柱を立てました。1801年(享和元年)には、約100人の南部藩と津島藩の兵隊を常駐させて、これらの島々を守備しました。\n1855年(安政元年)には、幕府はロシアとの間で日露和親条約を締結し、択捉島と得撫島の間に国境が定められ、北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)は名実ともに日本固有の領土になりました。樺太については、国境を定めず、両国民の混住の地としました。\n明治に入った1875年(明治8年)には、樺太・千島交換条約を締結し、日本が樺太を譲ることと引き換えに、得撫島より北の千島列島の島々を日本の領土とすることになりました。\nその頃、日本人が開拓を進めていた北方領土では、多くの日本人が移住し、海産物の加工や畜産などが行われるようになりました。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結時には、約1万7000人の日本人が暮らしていました。\n第二次世界大戦後の占領から独立するために、サンフランシスコ講話条約が締結されると、千島列島を放棄することになりましたが、北方領土は放棄に含まれなかったため、これまで通り、日本の領有権が維持されました。\nしかし、1945年(昭和20年)にソ連が国際法に違反して北方領土を侵略し、北方領土を不法占拠していたため、戦後、日本の実行支配が及ぶことはありませんでした。日本政府は、日本固有の領土である北方領土を不法に占拠したソ連に抗議しましたが、返されませんでいた。\nその後にソ連が崩壊し、ロシアになった後も北方領土に対する不法占拠は続きました。日本政府は、ロシアに抗議し、北方領土を返還するよう求めていますが、未だに返還されていません(2022年現在)。\n1980年(昭和55年)には、日露和親条約が締結された2月7日を「北方領土の日」とすることが国会で決まりました。\n島根県の隠岐島の北西にある竹島は、古くは「松島」と呼ばれていました。\n17世紀初期から江戸幕府が鎖国政策の中で、竹島への渡航を認め、あしか猟が行われるようになりました。また、竹島の西にある鬱陵島(当時はこの島を「竹島」と呼んでいた。)にあわび漁やあしか猟に行く際の航海の目印や停泊地としても活用され、遅くとも17世紀半ば頃には、日本は竹島に対する領有権[1]を確立しました。\n竹島(松島)でのあしか猟は、明治時代の終わり頃から本格化し、多くの漁民が猟を行うようになり、民間の竹島利用がさかんになりました。\nこうした中、隠岐島民が、安定した猟のために竹島を島根県に編入することを政府に願い出ました。これを受けて政府は、1905年(明治38年)1月に竹島の編入を閣議決定して、正式に「竹島」と命名し、名実ともに日本固有の領土となりました。\nこうして政府は、竹島の領有の意思を再確認しました。\n竹島でのあしか猟は、戦争がはじまる1941年(昭和16年)まで続きました。\n第2次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約においても、韓国は竹島の領有権を主張しましたが、日本固有の領土であることが認められ、日本の領有権は維持されました。\nしかし、竹島の領有権を主張する韓国は、1952年(昭和27年)、国際法に違反して日本海上に一方的に李承晩ラインを引き、ラインを超えたとする日本漁船を銃撃・拿捕・抑留しました。1954年(昭和29年)には、韓国が竹島に沿岸警備隊を派遣し、竹島を侵略して、竹島を不法に占拠しました。李承晩ラインが廃止されるまでの間に、約4000人もの日本人が抑留され、おびただしい数の人々が殺害されました。\n日本政府は、こうした韓国の行動に対して厳しく抗議し、国際司法裁判所へ付託して決着をつけることを1954年以来から提案していますが、韓国が応じていません。\n竹島の不法占拠は、2022現在まで続いています。2005年(平成17年)には、島根県議会が竹島の編入を告示した2月22日を「竹島の日」と定めました。\nもともと尖閣諸島は、どの国にも属さない無人島でしたが、東シナ海を行き来する船に航路標識として認識されていました。\n1885年(明治18年)から日本政府は、尖閣諸島について沖縄県を通じて現地調査を行い、無人島であることや当時の清をはじめとするどこの国の支配も及んでいないことを慎重に確認した上で、1895年(明治28年)に尖閣諸島を編入し、日本の領土であることを示す標柱を立てることにしました。こうして尖閣諸島は、日本固有の領土になりました。\n尖閣諸島では、19世紀末から日本人による開拓が本格化し、多くの人々が移住しました。多い時には、200人以上の人々が暮らしていました。\n中心となった魚釣島では、「古賀村」という集落も生まれ、尖閣諸島の開拓が進みました。漁業を中心に、かつお節の製造や羽毛の採取などが行われてきました。\nこうした尖閣諸島に対する実行支配は、現在も及んでおり、領土問題は存在しません。\n1970年代ごろから日本固有の領土である尖閣諸島の海域に油田の存在が確認されると、中国などが領有権を主張するようになりました。\nそして2010年には、中国の漁船が、尖閣諸島の魚釣島の海域で日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きました。\nその後、2012年に尖閣諸島のほとんどを日本政府が国有化したものの、中国は、国際法に違反して武装した中国船を尖閣諸島の海域に侵入させ、日本漁船を追尾して脅迫に近い行動に出るなど、地元の人々は中国の脅威に警戒しています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88_(%E9%80%9A%E5%B8%B8%E7%89%88)/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A0%98%E5%9C%9F%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "日本と世界の歴史から、これまでのスポーツの状況を振り返ってみましょう。\nイギリスで近代スポーツが始まった頃、労働者は娯楽としてスポーツを楽しむようになりました。同時に、学校でもスポーツが重視されるようになりました。鉄道の発達により、学校同士で交流試合をするようになり、地域によって異なっていたルールも統一されました。\n明治時代、アメリカから野球、イギリスからサッカーが日本に伝わりました。野球は1878年、開通間近の官営鉄道の作業員が最初のチームを作り、高校生の間にも広まり、現在の大学のような形になりました。イギリスを手本に、スポーツは学校のカリキュラムに加えられ、主に人格形成のために行われてきました。\n大正時代の日本では、健康や趣味のためにスポーツをする人が増えました。同時に、各競技の団体が次々と設立され、高等女学校の生徒を中心に女性の間にもスポーツが広まりました。それでも、女性がスポーツに親しんでいる姿を当時気に入らない人もいました。\n野球はアメリカ合衆国で生まれ、1871年にプロのリーグ戦が始まると、国民的スポーツになりました。日本では、1915年に全国中等学校優勝野球大会が始まりました。一方、1934年にアメリカの大リーグの選抜チームが来日して、1936年に日本でプロ野球が始まりました。このように、スポーツ観戦は私たちにとって娯楽の1つとなりました。\n明治時代以降、柔道、剣道、空手など日本生まれの近代的な創作武道が世界的に人気を集め、競技人口も増えました。また、俗に日本の国技とされる相撲も外国人力士が増え、スポーツ全般が国際的になってきています。\nスポーツの大衆化、競技としてのルール整備、国際的な競技大会の開催などが背景にあります。\n代表的なイベントとして、1896年にギリシャのアテネで初めて開催された近代オリンピックがあります。\n近代スポーツの発展には、身体教育の普及が大きく関わっています。\n近代スポーツは、スポーツ文化の発展にも大きく貢献し、スポーツが社会的な意義を持つことを示し、多くの人々がスポーツに関心を持つきっかけとなりました。\n一方で、競技の商業化やドーピングなどが問題となっています。また、必要以上に過酷な練習や精神的負担なども問題となっています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2"} {"text": "夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)で、8月15日の正午に試合が中断され、皆が黙って立っているのをご覧になりませんか?日本では、8月15日は戦争で亡くなった人達を追悼して、平和を祈る日となっています。8月15日は、なぜこのような特別な日になったのでしょうか?\n1945年8月14日に「終戦の詔書」が発表され、1945年8月15日正午にラジオで天皇陛下が自ら読み上げる録音が流れました(玉音放送)。「終戦の詔書」は、ポツダム宣言を日本が受け入れ、第二次世界大戦の終結を皆に知らせるための天皇陛下の命令でした。残された多くの下書きを見ると、この文章が何度も変えられています。1945年8月15日、新聞各紙は「終戦の詔書」を掲載しました。\n8月14日から8月15日にかけて、世界中の人々が終戦のお知らせを聞きました。上の資料『ヒロシマ日記』から、終戦をどのように感じていたかが伝わってきます。\n資料から、どんな歴史を学べたでしょうか。8月15日はどんな日になると思うか考えてみてください。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/8%E6%9C%8815%E6%97%A5%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%9E%E3%82%8C%E3%81%AE%E3%80%8C%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%80%8D"} {"text": "16世紀以降、アジアの交易ネットワークが繁栄し、ヨーロッパ諸国も参加するようになりました。その結果、世界的な交易ネットワークが形成されました。アジアの経済は、日本やアメリカ大陸の銀が多く使われ、大交易時代を迎えました。\n17世紀前半、江戸幕府はキリスト教の普及を恐れ、日本人の海外渡航と帰国を禁止しました。また、外国船の来航を禁止し、長崎ではオランダと中国にしか貿易を許しませんでした。一方、朝鮮との貿易や外交は、対馬藩が担当し、朝鮮は通信使を送りました。琉球王国は明(後の清)に朝貢を納め続け、薩摩藩は琉球王国を支配し、日本に慶賀使や謝恩使を送りました。松前藩は、蝦夷地北部のアイヌとの交易を許され、中国から物資を入手するためにアイヌを利用しました。江戸幕府の外交政策は、後に「鎖国」と呼ばれるようになりました。\nこの時期、中国は明清交代期の動乱が続いており、清朝は厳しい海禁政策を採用しました。この政策により、民間人の海外渡航や貿易が困難になりました。また、1661年から1684年にかけて、清朝は沿岸に住む人々を内陸に強制移住させました。さらに、気候の寒冷化により、ヨーロッパの経済は減速し、アメリカや日本での銀の製造・販売も停滞しました。17世紀後半、大交易時代は終わりを迎え、東アジアの国家が外交を担当するようになりました。\n一方、東アジアの各国は長い間安定していたため、経済的にも緩やかな成長を続けていました。日本では農業やその他の産業が発展し、海運や河川舟運、街道などのインフラが整備され、全国的に物を売る市場が形成されました。このため各地に都市が発展し、江戸、大阪、京都は世界でも有数の大都市となりました。\n近世東アジアの国際秩序は、明朝、朝鮮王朝、日本などの国々の間での政治的、経済的、文化的な交流によって形成されました。この期間は、約1400年から1800年まで続き、明朝が衰退し、清朝が台頭するなど、東アジアの政治的な勢力図が大きく変化しました。\n東アジアの国際秩序は、中国を中心として展開されました。中国は、周辺諸国との貿易や交流を行い、文化や技術の伝播に大きな役割を果たしました。また、中国は、周辺諸国との紛争解決や外交交渉にも積極的に取り組みました。\n一方、朝鮮王朝は、中国との関係を重視し、明朝の皇帝に朝貢し、交易を行いました。また、朝鮮は、日本や琉球などの周辺国との貿易も行い、文化や技術の交流を進めました。\n日本は、江戸時代に入ると、鎖国政策をとり、外交交渉を制限しました。しかし、オランダや中国、朝鮮との貿易は続けられ、蘭学や洋式技術の導入が進められました。\n近世東アジアの国際秩序は、東アジア各国の交流や文化の交流、そして外交交渉によって形成されました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E8%BF%91%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E4%B8%96%E7%95%8C"} {"text": "18世紀、清の経済的な成果はどの程度だったのでしょうか。\n清は、18世紀の中国を支配していました。満州族は北東アジアに住んでいたため、17世紀前半に清朝を建国しました。1644年に首都を北京に移し、中国を支配するようになりました。清は、17世紀初めから20世紀前半まで、260年以上にわたって中国を支配しました。この間、モンゴルやチベットまで統治しました。この清朝の領域は、現在、中華人民共和国が支配しています。\n18世紀、清朝は産業と商業を急速に発展させました。税金は現金で納めなければならなかったので、お茶や綿布、陶器などの商品が各地で作られ、川や運河で運ばれました。商人達の出身地同士が結びつき、都市で商売をするようになりました。また、荒れ地や山地でも育つトウモロコシや薩摩芋などのアメリカ原産作物も広まりました。人々の生活や社会が安定するようになり、人口も大きく増えていきました。\n強大な力を持ち、急速に発展した清は、アジア各国にとって、その結びつきが重要でした。清の冊封制度によって、朝鮮・琉球・ベトナム・タイ・ビルマ(現在のミャンマー)の間で貿易が行われました。しかし、日本は清のように冊封体制に入っていなかったので、政治的に無関係でした。17世紀末、清が朝貢しない民間貿易を認めると、中国商人はアジア各地に渡るようになりました。日本や東南アジアから、鱶鰭、鮑、海鼠など、今でも中華料理に使われる海産物が大量に輸入されました。また、銅や鈴などの鉱産物も多く輸入されました。長崎は日本と中国商人が出会い、商売をする場所でした。ヨーロッパ各国もアジアと貿易を行いました。清からお茶や陶磁器などを買い、その代金を銀で支払っていました。\n貿易や商売が盛んになり、清の人口も増えると、東南アジアに移住する人が増えました。彼らは華僑と呼ばれます。華僑とは、中国(華)からやってきて、一時的に別の場所(僑)に住んでいた人達をいいます。華僑は東南アジアの貿易や物流で大きな力を持ち、東南アジアの発展にとって非常に重要な存在でした。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E8%B2%BF%E6%98%93"} {"text": "18世紀のイギリスでは、中国のお茶やインドの綿織物など、「アジアの豊かな産物」が人気を集めました。同時に、イギリスは大西洋三角貿易で大きく儲けました。イギリスの世界貿易は、各地でどのような変化をもたらしたのでしょうか。\n15世紀後半、ポルトガルやスペインが大西洋経由でアジアへの航路を開くと、西欧諸国はアジア・アフリカ・南北アメリカ大陸へと広がっていきました。16世紀中頃、スペイン人は南アメリカのポトシ銀山を発見すると、先住民に過酷な労働をさせて銀を採掘させました。その銀は海を渡ってヨーロッパに渡りました。17世紀になると、オランダはヨーロッパ経済の拠点となりました。イギリスとフランスは、17世紀後半に北アメリカやカリブ海の西インド諸島に植民地を築きました。\nアメリカ大陸とヨーロッパを結ぶ大西洋貿易は、熱帯・亜熱帯の植民地で栽培される主食用作物が中心でした。プランテーションでは、これらの商品作物をヨーロッパ人向けに多く栽培していました。プランテーションとは、熱帯や亜熱帯で、外国に販売するために一種類の作物だけを育てている大規模な農場をいいます。18世紀に入って、西インド諸島や北アメリカ南部から、砂糖・珈琲・煙草がヨーロッパに大量に運ばれるようになりました。その結果、ヨーロッパ人の暮らしは大きく変わりました。\n先住民が初めてプランテーションで働くようになりました。しかし、過酷な労働と病気のために先住民の人口が急速に減ると、西アフリカから多くの黒人が輸入され、奴隷として働かされるようになりました。ヨーロッパの奴隷商人達は、アフリカの部族間の戦争につけこんで、敗者から奴隷を買い取りました。18世紀、ヨーロッパ・西アフリカ・アメリカ植民地を結ぶ大西洋三角貿易は、ヨーロッパ諸国の世界的貿易拠点となりました。\n17世紀から18世紀にかけて、西ヨーロッパでは大西洋三角貿易の利益を巡って戦争が続きました。特に、イギリスとフランスは、アジアやアメリカ大陸の各地で植民地戦争を行いました。18世紀中頃、イギリスは北アメリカ大陸の北部と東部を支配するようになりました。また、インドは当時ムガル帝国が統治していましたが、ムガル帝国は名目上だけ存在していました。その後、イギリスが勝利して植民地化を進めました。\n東インド会社は、イギリスの貿易発展に役立ちました。中国から茶を、インドから綿織物(キャラコ)を購入しました。1600年、インドに貿易会社(東インド会社)が設立されました。植民地政府として、貨幣の発行権や軍隊の運営権も持っていました。しかし、中国は18世紀中頃になると、広州1港しか貿易が出来なくなったため、イギリスは徐々に自由貿易を推進するようになりました。\n18世紀に入って、イギリスは国際貿易や植民地経営で他国を大きく引き離しました。その中に、大西洋三角貿易も含まれていました。首都ロンドンは国際貿易の中心地となり、そこで儲けたお金で国内の産業を発展させて、産業革命を実現しました。こうして19世紀、イギリスは世界で最も力強い経済大国となりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/18%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB"} {"text": "「琉球」「蝦夷地」は、近世の日本では「異国」「異域」として考えられていました。薩摩藩は琉球王国との関係を、松前藩は蝦夷地との関係を担当しました。江戸幕府は、異民族や異国を「抑える」ための軍役(防備を固める義務)と引き換えに、彼らに通商特権を与えました。\n19世紀に入ると、外国の船が琉球付近に現れるようになり、特にアヘン戦争後にやってきたフランス船は、琉球王国との取引を希望していました。また、マシュー・ペリーが日本にやってきた頃、彼は琉球に行き、友好通商条約を結びたいと頼みました。これがきっかけとなり、1854年に琉球とアメリカは修好条約を結びました。この時、琉球は清の年号を利用しても構わないという条約だったため、琉球が日本と清の「二重所属」になっていても、幕府としては問題になりませんでした。\nしかし、明治新政府になると、「二重所属」をやめて、日本政府の単独運営にするための作業が始まりました。まず、1872年、琉球王国の王であった尚泰が琉球藩王となりました。その結果、彼は貴族となり、外務省が外交権を担当するようになりました。また、1875年には清国への朝貢をやめて、中国の福州にあった琉球館を廃止しました。琉球士族は日本への一方的な併合に反対していましたが、1879年に廃藩置県=「琉球処分」が行われ、沖縄県が作られました。\n「琉球処分」の結果、琉球諸島の所有者をめぐって清との間に対立が生まれました。この対立は、日清戦争まで続きました。日清戦争は、台湾を日本に渡して平和的に終わりました。この間、明治政府は、琉球の古い制度をそのまま残す「旧慣温存」政策から、日本に溶け込む同化政策に少しずつ切り替えていきました。\n一方、18世紀末からロシア帝国が徐々に南下して、蝦夷地支配を強めると、江戸幕府はそれまでの北方政策を変更しました。1802年、東蝦夷地は直轄地となりました。1807年には、松前と蝦夷地全域が直轄地となりました。「同化主義」(内国化)が推し進められ、日本の風習に近い形に無理やり変えようとしました。1821年まで、蝦夷地は江戸幕府の直轄地でした。\nマシュー・ペリーが長崎に着いてからしばらくして、ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に着きました。1855年、日露和親条約が結ばれました。日露和親条約で1855年に日本とロシアの国境が決まると、幕府は北方防衛を強化して、蝦夷地の実権を握るために、再び直轄支配を行うようになりました。それまでの直轄化に比べて、内国化はさらに進められました。\n明治維新後も、北海道開拓使はこの政策を継続しました。アイヌは一般住民の一部とされ、その伝統的な習慣は禁止されました。北海道に対する日本の支配が強まる中、1875年に締結された樺太・千島交換条約によって、北方の国境が定められ、近代的な領土主権が定められました。\nこの条約によって、樺太と北千島のアイヌの人達は、日本とロシアのうちどちらかに所属しなければなりませんでした。北海道に移住した樺太アイヌは、石狩川流域の対雁に強制移住させられました。石狩川流域の対雁では、農耕に適応出来ず、やがて天然痘やコレラで人口の半分が亡くなるなど、大きな犠牲を払いました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%A8%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E5%9C%B0"} {"text": "産業革命は、経済や社会にどのような影響をもたらしたのでしょうか。\n18世紀後半、イギリスで産業革命が始まると、農業を中心とした社会から工場を中心とした社会へと大きな転換が起こりました。イギリスでは、古くから良質の羊毛を原料として毛織物を作っていました。18世紀後半には、世界貿易を支配して、多くの植民地を持つようになりました。その結果、産業発展のための多くの資金と海外の広大な市場へのアクセスを手に入れて、どちらも産業の発展に貢献しました。\n17世紀以降、イギリスはインド製の綿織物(キャラコ)をどんどん買っていました。高品質で安価なキャリコに対抗するため、イギリスは自国の綿織物をより多く生産するための新しい方法を考えなければならなくなりました。そこで、1733年にジョン・ケイが飛び杼を作り、1760年代から1770年代にかけて、3種類の紡績機が作られると、綿糸の生産量が増えました。次に、織物産業の生産性を上げる必要があり、1780年代には力織機が作られました。ジェームズ・ワットが蒸気機関を改良する以前は、水の力で物を動かしていました。道具を使っていた生産が、機械を使って行われるようになると、綿製品の生産量は大きく伸びました。\n生産部門が盛んになると、流通部門も盛んになり、原材料や完成品を運ぶシステムの整備に力を入れました。まず、道路や運河が整備されました。1820年代にジョージ・スティーブンソンが蒸気機関車を実用化すると、陸上での移動は一気に鉄道が主流となり、鉄道網が全国に広がっていきました。鉄道の発明により、人や物を大量に、長距離を短時間で移動出来るようになりました。また、帆船に代わって蒸気船が作られ、海上での移動がより安全で効率的になりました。\n産業革命が進むにつれて、資本主義社会が発展しました。資本主義社会では、物を作るのに必要な機械や工場を持つ産業資本家が、労働者を雇って生産労働を行い、お金を稼ぐようになりました。また、マンチェスターやバーミンガムなどの工業都市、リバプールなどの貿易港など、交通の重要な拠点に位置する都市が急速に発展していきました。こうして、田舎からこれらの都市に移り住む人々も急速に増えました。\n当時の労働条件は悪く、1日10時間以上働かなければなりませんでした。機械生産の結果、単純労働が必要となり、賃金の安い女性や子供も働かなければなりませんでした。このような状況の中で、労働者は徐々に自分達の置かれている状況を意識し始め、賃金の引き上げ、労働時間の短縮、政治的権利の獲得などを求めて、力を合わせ始めました。労働運動の目標は、より高い賃金、より短い労働時間、より多くの政治的権利を手に入れようと考えました。同時に、資本主義を批判して社会問題を解決しながら、より平等な社会を実現しようとする社会主義思想も生まれました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%99%BA%E5%B1%95%E3%81%A8%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96"} {"text": "産業革命は19世紀から始まり、国際貿易はイギリスを中心に発展しました。また、世界中の企業が協力して仕事をするようになりました。産業革命によって、欧米やアジア各国の交流はどのように変化したのでしょうか。\n産業革命の結果、イギリスは世界金融の中心地となりました。「世界の工場」「世界の銀行」と呼ばれ、高品質で安価な製品を大量生産して世界中に輸出しました。様々な意味で、イギリスは他国よりも経済的に恵まれていました。一方、他国は自国の産業を成長させようとしながら、イギリス商品の流入を防ごうとしました。イギリスは、国内外を問わず関税や貿易制限を問題視したため、経済上の自由主義が推進されました。19世紀中頃までに、フランス・ベルギー・ドイツ・アメリカなどで資本主義が採用されました。産業革命の頃に、ロシアや日本も資本主義が採用されました。\n19世紀中頃、産業革命が各国に広がり、イギリスを中心とした世界経済体制が整備されました。後発資本主義国は、イギリスとその後継者が、東ヨーロッパ・中南米・アジア・アフリカなどを服従させました。その後、製品市場や原料・食料の供給地とするように社会と経済を変化させました。こうして、欧米やイギリスにとって都合の良い世界市場が誕生しました。\nイギリス東インド会社がインドを経営していた頃、イギリス製の安価な綿製品によって、伝統的な手作りの綿織物産業は大きな打撃を受けました。以降、インドの農村では、綿花・藍・ケシなど、海外に売るための作物を育てなければなりませんでした。インドの国民は、イギリスのやり方を嫌って、1857年にインド大反乱を起こしました。イギリス政府はこの反乱を鎮圧すると、東インド会社を解散させ、インドを直接支配するようになりました。1877年、インド帝国はイギリスのヴィクトリア女王に譲渡されました。\nまた、イギリスは中国(清)を乗っ取ろうとしました。イギリスは清から茶などを大量に輸入しましたが、輸出が悪かったので、清は茶と引き換えに銀を大量に手に入れました。イギリスは、制限貿易の清と貿易を開放しようとしましたが、断られました。そこで、ケシ製の麻薬アヘンを、インドから中国に密輸しました。また、イギリスからインドへ綿花を送り、清からイギリスへ茶や絹織物を送る三角貿易も整えました。このため、清から多くの銀が流出し、清は金とアヘン中毒に悩みました。清がアヘンの密輸をやめると、イギリスは制限貿易をなくす機会と見ました。1840年、艦隊を組んで清を攻撃しました(アヘン戦争)。イギリスはアヘン戦争の勝利後、1842年、清と南京条約を結びました。1843年、追加条約が結ばれましたが、追加条約も清に不利な条文が含まれていました。その後、清は他の欧米諸国とも不平等条約を結びました。その代償として、香港・広州・上海など5つの港の自由貿易と、多額の賠償金を手に入れました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E9%80%B2%E5%87%BA"} {"text": "1853年、アメリカ人のマシュー・ペリーが指揮する東インド艦隊が浦賀に到着しました。マシュー・ペリー艦隊は、1852年にアメリカ東海岸のノーフォークを出航して大西洋を横断しました。その後、アフリカ大陸の喜望峰を経由してインド洋方面に出航して、香港、那覇まで半年以上かけて航海していました。1840年代、アメリカはメキシコとの戦争に勝利して、カリフォルニアなどを手に入れました。また、太平洋の向こう側にあるアジアへの関心も強まっていました。マシュー・ペリーは、日本にアメリカへの国境開放を求める大統領からの手紙を渡し、香港に向かいました。1854年、マシュー・ペリーは再び日本へ向かいました。江戸幕府と話し合い、日米和親条約を締結しました。日米和親条約の内容に下田と箱館の開港、アメリカ船への物資の供給、漂流者の救助などが盛り込まれていました。\n1858年、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは日米修好通商条約を締結させ、神奈川を含む5港を自由貿易地域とすると宣言しました。その後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間で安政五カ国条約が結ばれました。1859年には、横浜、長崎、函館が開港しました。これらの条約は、日本にとって不公平で不利な条約でも、中国の南京条約と違って、戦争に負けた後に結んだ条約ではなく、交渉によって結ばれました。したがって、賠償金や領土の譲渡を伴わないし、外国人が日本国内を旅行するのを困難にして、日本の独自性を保っていました。\n日本の開港は、当時の人々の世界旅行のあり方を変えて、イギリスが世界市場を作るのに大きく役立ちました。\n1850年代以降、スクリューとエンジンの性能向上は、蒸気船の航行性能に大きな違いを生み出しました。つまり、より遠くへ、より速く行けるようになりました。1867年、アメリカの海運会社が、マシュー・ペリーで有名な太平洋横断航路を開設しました。その結果、船は初めて世界を一周出来るようになりました。さらに1869年にはスエズ運河とアメリカ大陸横断鉄道が開通したため、世界一周がより簡単に、より速く出来るようになりました。\nそうして、アジアとの貿易が盛んになり、欧米とアジアの経済的な結びつきが強くなっていきました。その中で、かつての日本の開港は、東アジアに燃料となる石炭を大量に供給して、アジアを拠点とする定期汽船航路網を維持・発展させるために重要でした。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%96%8B%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BD%B1%E9%9F%BF"} {"text": "野麦峠は、北アルプスにある標高1672mの峠です。長野県と岐阜県の県境にあります。野麦という名前から、野生の麦が生えているように思われますが、実はクマザサで、不作の年に実が悪くなってしまいました。飛騨(岐阜県北部)では野麦と呼ばれ、お腹が空いた時にその実で団子を作りました。野麦峠は、10代の飛騨の女性達が多く越えていきました。諏訪湖の近くにあった信州(長野県)の「キカヤ」(製糸工場)で「糸引き」(製糸工女)として働くためでした。\n野麦峠は、北アルプスにある標高1672mの峠です。長野県と岐阜県の県境にあります。野麦という名前から、野生の麦が生えているように思われますが、実はクマザサで、不作の年に実が悪くなってしまいました。飛騨(岐阜県北部)では野麦と呼ばれ、お腹が空いた時にその実で団子を作りました。野麦峠は、10代の飛騨の女性達が多く越えていきました。諏訪湖の近くにあった信州(長野県)の「キカヤ」(製糸工場)で「糸引き」(製糸工女)として働くためでした。\n1909(明治42)年11月20日、野麦峠で飛騨の工女が兄の背中に乗りながら亡くなりました。まだ20歳の少女で、名前は正井みねといいました。\n労働基準法も工場法もない時代、労働者は朝早くから夜遅くまで、食事も休憩もとらずに働かされていました。病気になれば即「クビ」でした。\n産業革命後、イギリスでは労働条件を改善しながら、労働者の生活様式を守るために工場法が制定されました。1833年に制定された工場法では、9歳以下は働いてはいけないと定めました。また、18歳未満の者は夜中に働いてはいけないと定めました。また、12時間労働を定めて、工場に監督者を置きました。1844年になると、女性労働者を保護するための法律が追加されました。1847年には、女性と子供は1日10時間しか働いてはいけないと定めました。\n一方、日本では1911年に「工場法」という法律が成立しました。工場法は、ヨーロッパに留学していた若い官僚達が作った法律です。その内容は、次の通りです。\nしかし、工場法が施行されたのは、成立から5年後の1916年でした。その理由は、紡績業や製糸業の資本家が反対運動を展開したからです。結局、若者や糸を紡ぐ女性は、昭和元年の1929年まで、夜中も働いていました。\n日本では、工場法がイギリスより遅れて施行されました。その理由は、資本家が労働者の生命や健康を守るより、国家の軍事力や企業の利益を強化する方が重要だと考えたからです。\n工場で働くために刑務所に行くような感じだ♪\n稼いだ金の鎖を手放せない♪\n工場労働者は、籠の鳥や刑務所の刑務官よりも大変だ♪\n上の歌にあるように、日本の資本主義は、こうした若い女性を踏み台にして、女性労働者の労働力だけでなく、生命まで奪って成り立っていました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE16%E6%AD%B3_%E5%B7%A5%E5%A5%B3%E3%81%A8%E5%B7%A5%E5%A0%B4%E6%B3%95"} {"text": "吹奏楽部をブラスバンドと呼ぶ人がいます。ブラスバンドには金管楽器と打楽器がありますが、ブラスバンドは「管楽器と打楽器の合奏、つまり弦楽器を持たないオーケストラ(『新版吹奏楽講座』)」なので、異なります。動物の骨や角、木、金属などで作られた管楽器は、太古の昔から戦争や儀式に使われてきました。ところで、金管楽器を見て何を思い出すでしょうか。トランペットが最初です。他にもチューバ、コーネット、ホルン、トロンボーンなどがあります。金管楽器とは、マウスピースを口にくわえて、唇を動かして演奏する楽器を指します。\n近世ヨーロッパでは、誰が主導権を握っているかを示すために、トランペットを使っていました。しかし、当時のナチュラルトランペットは限られた音(自然倍音)しか出せず、メロディーは高音域で唇を動かして演奏するしかなく、かなりの技術が必要でした。一方、ホルンは、昔は角笛でしたが、均一な音にするため、金属製になりました。18世紀に入ると、ホルンはクルークと呼ばれるパイプに置き換えられるようになりました。これによって、様々な音色に調整出来るようになったので、トランペットよりも多くの種類の音楽に使われるようになりました。イギリスでは18世紀半ばに工業化が始まり、18世紀末にはフランス革命が起こりました。この2つの出来事が、金管楽器を大きく変えていきました。\nまず、工業化によって紡績機や織機が高速化されました。この変化に対応するため、木製の機械から金属製の機械へと変わっていきました。同時に、蒸気機関も実用化されました。蒸気機関にはピストンやシリンダーが必要なので、高精度の工作機械を使って作らなければなりません。金属で物を作る精度が上がり、1810年代にはドイツで角型のピストンバルブを持つホルンが作られるようになりました。バルブを押したり回したりすれば、バルブの長さを変えられました。その結果、それまで金管楽器でしか演奏出来なかった半音の音階を、他の楽器でも簡単に演奏出来るようになりました。\nこうした変化以前に起こったフランス革命によって、宮廷に仕えていたトランペット奏者達は仕事を失ってしまいました。彼らはギャルド・ナシオナルと呼ばれる近衛兵の新しい楽団に入り、屋外や市民が建てた大きなホールで演奏しました。また、彼らはフランス音楽院の講師もしていました。彼らはトランペットより短いコルネットにバルブをつけ、美しいメロディーを演奏するようになりました。\n一方、イギリスでは、労働者の健康的な娯楽として、ブラスバンドが奨励されていました。19世紀は、金管楽器の価格が下がり続けた時代でした。19世紀、金管楽器の価格は下がりつづけました。工業化によって、原料金属の精錬、部品の共通化、電気メッキやペンダントメッキなどの新しい技術の採用が進んだからです。労働者達は、バルブ付きで演奏しやすいコーネットやサックスホルンの練習に励みました。そして、安く大量生産された楽譜を手に、演奏を楽しんでいました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%A8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89"} {"text": "18世紀の終わり頃、アメリカやフランスで起きた革命は、これまでとは違う社会の実現を求めました。革命は、新しい考え方や生き方を広めて、現代の世界にも大きな変化をもたらしています。革命に参加した人逹は、どのような社会を望んでいたのでしょうか?\n18世紀後半、イギリスはアメリカ東海岸にある13の植民地に対して、増税を行いました。その背景には、フランスとの戦争で発生した財政赤字を解消するためでした。イギリス本国では、議会が国の政治に大きな役割を果たすようになっていました。しかし、植民地は議会に対して、自分達の代表を送りませんでした。植民地は「代表なくして課税なし」と訴えて、1775年に独立戦争を開始しました。1776年7月4日、民主政治の基本的な考え方を示した独立宣言を採択しました。イギリスは、ヨーロッパ諸国が植民地を援助したため、孤立してしまいました。1783年、イギリスは植民地を独立させました。こうして、アメリカ合衆国が建国されました。1787年、アメリカ合衆国憲法が発布されました。アメリカ合衆国憲法は、人民主権と三権分立の考え方に基づいています。その後、ジョージ・ワシントンがアメリカ合衆国初代大統領に就任しました。\nフランスでは、絶対王政ともよばれる君主制が敷かれ、第1身分(聖職者)、第2身分(貴族)は、税金を払わなくてよいなどの特別な特権を手に入れました。しかし、大半の国民からなる第3身分(平民)に政治的権利はありませんでした。旧体制(アンシャン・レジーム)とは、このような社会構造の総称です。\n1789年、イギリスとの戦争で国の財政が苦しくなった時、国王ルイ16世は3つの身分の代表からなる小委員会を招集し、特権的身分への税金のかけ方を考えさせました。しかし、この問題で議会の意見は分かれました。その後、国王は、第三身分の者を中心に構成されていた国民議会に圧力をかけていきました。1789年7月14日、怒ったパリ市民がバスティーユ牢獄に突入して、フランス革命が始まりました。1789年8月、国会は人権宣言を採択して、基本的人権、国民主権、私有財産権は侵害されないとしました。1791年には憲法が制定され、1793年には国王が殺害されました。この時点で、国は共和制になりました。\nフランスは共和制の中で、特権をなくし、兵役の義務化を始めるなど、いろいろな改革を行いましたが、政治は不安定でした。国王の処刑や革命の拡大を恐れた各国との戦争が続き、人々が安定を求める中、ナポレオン・ボナパルトという軍人が政権を握りました。ナポレオン・ボナパルトはフランス革命に終止符を打ち、1804年に民法典(ナポレオン・ボナパルト法典)を制定して、革命が成し遂げてきた成果を積み重ねていきました。ナポレオン・ボナパルト法典は、私有財産の安全、誰もが法律で同じように扱われ、人々が自由に取引出来るようにしました。1804年、国民投票により皇帝に選出され、戦争により周辺諸国を次々と服従させて、ヨーロッパの大部分を支配しました(ナポレオン帝国)。しかし、1812年、ロシアの敗戦とフランス支配に対する各地の民族主義の台頭により、1815年にナポレオン・ボナパルトの帝国は崩壊しました。\nフランス革命とナポレオン帝国の支配は、ヨーロッパ人に「国民」としての意識を植え付け、誰もが自由と平等を尊重されなければならないという思想を広めました。こうした考え方によって、世界は大きく変わりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%B8%82%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%B0%91%E4%B8%BB%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B"} {"text": "欧米では、19世紀に立憲主義によって国民国家が台頭してきました。しかし、各国で様々な政治運動が展開されるとともに、国民国家とは何かをもっと知りたいと思う動きもありました。それぞれの国民国家が抱えていた問題をどのように解決しようとしたのでしょうか。\nナポレオン戦争の後、ヨーロッパでは新しい国際秩序(ウィーン体制)が成立しました。ウィーン体制は、大国間の協力に基づく内容となっており、各国の領土や支配体制はフランス革命以前の状態に戻っていました。しかし、各地のナショナリズムや自由主義運動が国民国家の結成を後押ししました。小国に分かれていたイタリアやドイツは統一国家を求め、ロシアやオスマン帝国の諸民族は独立運動を始めました。フランスでは1830年に民衆が王の支配に反抗して(7月革命)、1848年には共和制を敷きました(2月革命)。それがヨーロッパ全土に影響を与えて、「諸民族の春」と呼ばれる革命が続きました。結局は鎮圧されましたが、自由と独立を求める民衆の声を無視出来なくなりました。\nドイツ北東部のプロイセン王国の首相を務めたオットー・フォン・ビスマルクは、軍事力を使ってドイツ全土をまとめようと考えていました(鉄血政策)。普仏戦争は、強力な軍隊を持つプロイセンが勝利しました。1871年、プロイセン王は立憲君主制であるドイツ帝国の初代皇帝となりました。オットー・フォン・ビスマルクは帝国首相として、ドイツ語を話す人々の同胞意識に基づく国民国家の建設に取り組みました。\nイスラーム教のトルコ系戦士を中心としたオスマン1世は、13世紀後半にアナトリアでオスマン帝国を建国しました。その後、15世紀半ばにイスタンブールを制圧して首都としました。1600年代の最盛期には、アジア、アフリカ、ヨーロッパを含む広範囲に渡って支配しました。イスラーム教の最重要都市メッカとメディナを支配しました。オスマン帝国では、イスラーム教徒(イスラーム教徒)が政治を行っていましたが、様々な宗教・民族が緩やかに共存していました。しかし、民族運動は、ナショナリズムと西洋からの妨害によって、ますます活発になっていきました。これを受けて、オスマン帝国政府は欧米列強に対抗するため、近代化・改革を進めました。同時に、非イスラムイスラーム律で平等に扱われるように、国をまとめようとしました。\n19世紀前半、アメリカは西へ西へと領土を拡大しながら、太平洋岸にたどり着きました。しかし、時代が進むにつれて、貿易政策や奴隷制度をめぐり、南北の対立が深まっていきました。北部では商工業が発展する一方、南部では産業革命後の綿花の需要に応えるため、黒人奴隷が綿花農園で働くようになりました。1861年、奴隷制度に反対する共和党のエイブラハム・リンカーンが大統領になると、南部の各州は連邦から離脱してアメリカ連合国を結成しました。これが南北戦争の始まりです。1863年、エイブラハム・リンカーンは奴隷解放宣言を発表して、国内はもちろん、世界中の人々の支持を集めました。1865年、戦争は北軍が勝利して終わりました。\n南北戦争では、60万人以上が死亡して、アメリカ史上最悪の出来事でした。その後、連邦政府は国民統合を進めました。1869年には初の大陸横断鉄道が開通すると、中国や東ヨーロッパから来た人々によって経済が発展しました。しかし、奴隷制度廃止後も、南部では人種差別が進み、黒人はしばしば選挙権を奪われました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E7%B5%B1%E5%90%88%E3%81%A8%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0"} {"text": "伊藤博文は、岩倉使節団の歓迎式典で、明治維新は短期間で完成して、日の丸は「文明諸国と肩を並べ、前へ、上へと進もうとしています。」と述べました。明治維新はどのような国家を作ろうとしたのでしょうか。また、どのような姿をしていたのでしょうか。\n開港後、大名や武士を天皇に近づけ、協力して国内・海外の危機を解決しようとする動きが少しずつ出てきました。その一方で、政治的主導をめぐって尊王攘夷運動が起こりました。そして、薩摩藩や長州藩が幕府をなくそうとするようになりました。1867年、ついに江戸幕府は倒れ、王政復古の大号令によって、天皇を頂点とする新政府が誕生しました。\n新政府は、旧幕府領に、1868年から県や府を設置しました。しかし、各大名の支配方法は、どの地域でも一緒でした。1871年、新政府は全ての藩を廃止して、府県を設置しました(廃藩置県)。その結果、全ての権力が新政府に集中するようになりました。つまり、近世の政治体制は廃止され、天皇中心の中央政権に変わりました。江戸時代の終わりから、日本は近代国家になるために多くの段階を踏んできました。これらの段階は明治維新と呼ばれます。明治維新は、ヨーロッパの主要な革命よりも死者が少なく、天皇が権力を行使して社会変革を行ったという事実によって定義されています。\n1871年末の脱藩後、岩倉具視を大使とする岩倉使節団が欧米に渡りました。不平等条約を改正するための事前協議という当初の目的は未達成でした。それでも、岩倉使節団は各国の事情をよく理解して帰国しました。この間、西郷隆盛を始め、不在の政府関係者が、学制・徴兵制・地租改正などを推進しました。しかし、大久保利通らが欧米視察から帰国すると、政情不安から政権を奪取しました。彼らは、視察旅行で見聞内容を踏まえて、近代国家の建設を進めました。\n当時の清では、曽国藩や李鴻章のような漢人官僚が軍備を整えようと考えていました。彼らは兵器工場や造船所を建設したり、ヨーロッパの技術を利用したりして、これを実現しました(洋務運動)。しかし、近代ヨーロッパの政治制度は、中体西用の方針で、チベットに持ち込まれていません。中体西用とは、中国の伝統的な制度を変えずに、西洋の技術を使う方針です。\n1871年、中国と日本の間で日清修好条規が結ばれました。日清修好条規は、日本が朝鮮半島の支配者として清に負けない力を持とうとする内容でした。1875年、江華島事件を起こしました。江華島事件とは、1875年、朝鮮の江華島砲台が、日本の軍艦に対して発砲した事件です。日本の軍艦は測量などをしていたため、朝鮮の一方的な行動を許さず、朝鮮と日本の間で戦争になりました。1876年、日朝修好条規を締結して、朝鮮を開国しました。これに対して、清国は朝鮮への支配を強め、日本と清国の関係はさらに悪化しました。日本は近代国家を目指すため、領土や国境線の整備を進めました。北方では、1875年に日本とロシアで樺太・千島交換条約を締結しました。樺太・千島交換条約によって、日本は千島列島を支配出来るようになりました。1855年の日露和親条約で、択捉島と徳富島の間に国境が定められました。北方領土は択捉島以南の島々で、当時、日本領でした。南方でも、台湾人が琉球人を殺害したため、1874年に琉球人が台湾に派遣されました。1879年、警察と軍隊が琉球に派遣され、沖縄県が設置されました(琉球処分)。1876年、日本は小笠原諸島の領有を欧米諸国に伝え、許可を取りました。1895年と1905年には、尖閣諸島と竹島をそれぞれ日本の領土として編入しています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E4%B8%96%E7%95%8C"} {"text": "ウィーン大学の弁護士ローレンツ・フォン・シュタインは、明治政府の指導者達が次々とヨーロッパに行き、憲法を学んだと記しています。彼は「我々の中のどんな要素が彼らを動かしているのだろうか」と問いかけました。なぜ、明治政府の指導者達は憲法を成立させたのでしょうか?\n板垣退助と後藤象二郎は、1874年、政府に民選議院設立建白書を送りました。彼らは、大久保利通を中心とする政府の専制政治を批判して、国会開設を訴えました。こうして自由民権運動が盛り上がりました。1881年、明治政府は10年後の国会開催を約束するとともに、君主権の強い憲法の制定に合意しました。1882年には、伊藤博文などをヨーロッパに派遣して、憲法を学ばせました。伊藤博文は主にドイツの憲法理論を学んでから、日本に帰国しました。そして、朝廷を変えて内閣制にするなど、国のあり方を変えるような制度改革を押し進めました。それから憲法は、伊藤博文などの協力で秘密裏に書き進められました。枢密院(天皇の諮問機関)で何度も話し合われた後、1889年2月11日に大日本帝国憲法(明治憲法)が正式に制定されました。\n天皇は大日本帝国の欽定憲法を定めて、国民に与えました。そのため、天皇には大きな権力が与えられました。国会は宣戦布告、講和、条約締結、陸海軍の指揮をとれませんでしたが、天皇はその全てを行えました(天皇大権)。天皇制の中で、憲法は立法、行政、司法の三権分立制を定めました。しかし、政府は国会よりも大きな権限を持ち、国会は一定のルールに従わなければなりませんでした。帝国議会には、貴族院と衆議院の二院がありました。どちらも政府が提出する法案や予算を審議する権限は同じように持っていました。一方、国民は天皇の臣民と見られるので、法律を破らなければ、信教、言論、集会などの自由が与えられていました。また、日本では衆議院議員を制限選挙で決められました。その結果、国会が国政に参加出来るようになりました。つまり、日本はアジアで最初の近代立憲国家となりました。1894〜1895年の日清戦争後は、清国や朝鮮半島など、西洋的近代化の手本となりました。\n憲法が制定されると、不平等条約を変更する理由が出来ました。欧米が条約を変えたがらなかったのは、日本の法典整備があまり進んでいないからでした。しかし、その理由がなくなってしまいました。また、それまでの交渉で、外国人を裁判官に任用するなどの歩み寄りもありました。国内では強い反対があっても、完全に平等な条約改正の条件が整いました。\n1891年にロシアがシベリア鉄道の建設を始めると、イギリスは日本との関係を改善したいと考え、方針を転換して条約変更に同意しました。滋賀県大津市で、ロシア皇太子(後のニコライ2世)来日時に警護の警官が切りつけられた「大津事件」が起こり、交渉が一時中止されました。しかし、日清戦争直前の1894年、陸奥宗光外相がイギリスと通商航海条約を結んで領事裁判権を廃止すると、他の欧米諸国も同じように領事裁判権を廃止しました。1911年の日露戦争終結後、小村寿太郎が外務大臣だった頃、日本に残っていた関税自主権も回復しました。つまり、開港から50年、日本は条約上、欧米諸国と同じ地位を手に入れました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8%E3%81%AE%E7%A7%BB%E8%A1%8C%E3%81%A8%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%88%B6%E5%AE%9A"} {"text": "現在、世界は様々な国によって成り立っており、それぞれの国が独自の領土を持っています。南極大陸を除く全ての大陸は、土地をめぐる争いがありつつも、それぞれ国境で区切られています。19世紀後半以降、最近の人類史の中でようやく一般的になってきました。当初、地球上には一箇所に留まらない遊牧民など多くの人がいて、国境がどこにあるのか知りませんでした。\n1648年、ウェストファリア条約で、ヨーロッパの国々は、自国の主権の範囲について取り決めました。領土の間に明確な線を引かなければならなくなりました(ただし、「飛び地」はありました)。その後、これは世界中で起こりました。また、近代国家として初めて無人島を発見して領有権を主張する競争も行われました。列強同士の勢力争いの結果、そこに住む人々の本来の絆や生活様式を考えずに、人為的に国境線を作ってしまう場合も少なくありません。\n現代の日本では、国境は昔からあって気づかないし、変わらないと考えてしまいます。しかし、現実にはそうなっていません。沖縄、樺太、小笠原諸島は、明治維新後に新政府が各国と交渉して日本の領土として認められました。樺太(サハリン島)との境界線は何度も変更されています。\n人間の移動だけでなく、商品やお金、情報の流れを管理してきた国境の役割は、国によって、時代によって変化してきました。昔は、国境を越えて情報を共有したり、海外へ渡航したりするのは大変でした。しかし、今はインターネットを通じて世界中に瞬時に情報を送れ、海外旅行もしやすくなりました。また、シェンゲン協定に加盟しているヨーロッパ各国の国民は、お互いに自由に国境を越えられます。自分の国以外の場所で仕事をしたり、学校に行ったりしている人もよく見られます。\n交通手段や通信技術の発達によって、今後、ますます人や物、お金、情報などが国境を越えるようになります。しかし、その分、管理を強めようとする動きも出てきています。欧米の一部の国では、テロリストや大量の難民・移民の侵入を防ぐために、国境管理を厳しくしようという動きが出てきています。また、インターネットに規制をかけて、海外の情報が入りにくくする国も出てきています。\nしかし、国境によって、大切な人に会えなかったり、仕事に就けなかったり、知りたい情報を手に入れられなかったりしても構わないでしょうか。\n国境があるから、傷つけられる人がいるのを忘れてはなりません。「国なんかないと想像してごらん」というのは、ジョン・レノンが歌った曲です。国境はすぐに無くせません。しかし、国境の問題は話し合われ、変わるかもしれません。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E5%9B%BD%E5%A2%83%E3%81%AE%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%83%BB%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%83%BB%E6%9C%AA%E6%9D%A5"} {"text": "19世紀中頃、イギリスは産業革命を主導しました。その後、強力な経済力と軍事力を備えていたので、他国が真似出来ないような繁栄の時代を迎えました。このようなイギリスを「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」と表現します。この言葉は、ラテン語の「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」に由来しています。ヴィクトリア女王は「パクス・ブリタニカ」を実現させて、太陽が沈まない大英帝国の黄金時代を治めました。\nヴィクトリア女王は、ザクセン・コーブルク公爵家のアルバート公と結婚してからの17年間で、4男5女を出産しました。アルバート公は、女王が妊娠している時も、子供を産む時も、女王を助けてくれました。また、女王は夫の世話もしました。中産階級は、産業革命の中心となって、この二人の協力関係を高く評価しました。\n中流階級の人々は、幸せな家庭が一番だと考えていました。産業革命の時代になって、工場や都市が発展しました。その結果、職場は製品を作る場所となり、家庭は製品を使う場所となりました。中産階級の人々は、一生懸命働き、お金を貯め、自分自身を助けながら生活しようと考えました。その結果、夫と妻と数人の子供で暮らす一家団欒が生まれ、「家庭は城」「家庭こそ安全な場所」という考え方が生まれました。ヴィクトリア女王とアルバート公の家庭は、生活のために働かなくてもよかったので、中流家庭の代表例といえるでしょう。\n明治天皇と皇后に子供はいませんでした。しかし、明治天皇と女官5人の間に5男10女が産まれました。大正天皇は、明宮とも呼ばれ、権典侍柳原愛子の3男でした。\n1896年、侍従・山県有朋・松方正義らは、皇子を誕生させるため、一刻も早く御側女官(側室)を雇うように求めました。皇室典範によると、皇位は男系の長男に与えられるとされています。しかし、皇子は明宮一人で、他は全て皇女でした。\nしかし、明治天皇はこの要望を受け入れませんでした。ヨーロッパ流の夫婦(一夫一婦制)が文明国の姿として望ましいと考えていたからです。次の大正天皇も、侍女は貞明皇后(九条節子)だけでした。\nその中で、天皇家は、天皇家のために働く人達の家族模範となるような存在とも見られています。天皇家や皇室の家族は、当時の画報類『風俗画報』などで、東京や地方の風俗を紹介して、一般家族の模範となりました。大正時代になると、『主婦之友』『婦人公論』などの婦人雑誌に、皇室が「家族の模範」として取り上げられるようになりました。\nしかし、20世紀中頃、都市の文化住宅で台所が整備されるようになると、箱膳から卓袱台に変わりました。大英帝国の中産階級が望んだ家族団欒が日本の家庭でも行われるようになりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87_%E7%90%86%E6%83%B3%E3%81%AE%E5%AE%B6%E6%97%8F"} {"text": "帝国主義は19世紀後半から20世紀前半にかけて盛んになりました。この間、列強は植民地として、世界人口のほぼ3分の1が暮らす広大な土地を手に入れました。帝国主義は、世界の仕組みをどのように変えたのでしょうか。\n1870年頃、ヨーロッパと北アメリカで「石油と電気」が中心になりました。このため、技術革新が進展しました(第二次産業革命)。工業化が進むと、大企業が発展して、資本の独占が強くなりました(独占資本主義)。新しい産業が成り立つためには、大きな機械と多くの資金が必要でした。そのために、少数の大企業は、企業連合(カルテル)や企業合同(トラスト)を作りました。また、銀行の力を借りたり、主要産業を買収したりして、お互いの利益に気配りするようになりました。特に、ドイツとアメリカは急成長を遂げて、イギリスは重工業の分野でアメリカに追い抜かれつつありました。こうした技術進歩に対応して、欧米列強は、原料の調達・商品市場の拡大・資本投下を行いました。さらに、植民地や勢力圏を拡大するために、積極的に海外進出を行いました。帝国主義とは、欧米列強が他国を支配しようとする姿勢をいいます。1873年から1896年まで、ヨーロッパは大不況に見舞われました。その原因として、アメリカから安い穀物が大量に流入してきたためです。その結果、経済不況から抜け出すために、外国と貿易を拡大する政策が加速されました。\nイギリスは、すでに「大英帝国」という名称で世界中に植民地を持っていました。世界一の強国としての地位を維持するために、イギリスは本国と植民地の結びつきを強めようとしました。1877年になると、インド帝国が設立され、ヴィクトリア女王が統治するようになりました。また、植民地大臣ジョセフ・チェンバレンの時代に、帝国主義政策を進めて、アフリカやアジアに進出しました。\nアメリカは、巨大な国内市場と多くの移民労働者によって、世界一の工業国となりました。1889年、パン・アメリカ会議を開催しました。これは、アメリカ大陸の国々の関係を改善する目的で、ラテンアメリカ諸国をアメリカ政府の支配下に置きました。また、カリブ海や太平洋にも進出しました。1898年、米西(アメリカ・スペイン)戦争に勝利し、フィリピン・グアム・ハワイを併合しました。\nオットー・フォン・ビスマルクがドイツを離れると、皇帝ヴィルヘルム2世は、世界を分割する「世界政策」を始めました。海軍の増強・バグダード鉄道の敷設権獲得などを行い、イギリス・フランス・ロシアなどと対立しました。\nフランスは、国内の政治が不安定なので、国内問題を解消するためにアジアやアフリカの植民地拡張を進めました。フランスとイギリスは、アフリカや東南アジアの植民地化について違う考えを持っていました。しかし、20世紀に入って、ドイツの進出を恐れたため、英仏協商を結びました。\nロシアでは、1890年代にフランスなどが資金を送ったため、工業化が進みました。しかし、国民の生活水準は低く、皇帝の支配下にあるため国内市場も小規模でした。そこで、海外市場の必要性が高まり、1891年、極東地域への進出を目的にシベリア鉄道が建設されました。そのため、日本と対立するようになり、日露戦争を引き起こしました。\nこうした列強間の分割競争は、世界各地で戦争を引き起こすようになり、第一次世界大戦へ発展しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%88%97%E5%BC%B7%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9"} {"text": "欧米列強が帝国主義によって世界を支配するようになると、アジアやアフリカに圧力がかかるようになりました。アジア・アフリカの人々はどのように生きて、どのように帝国主義に対抗しようとしたのでしょうか。\nアフリカ大陸は、ヨーロッパ列強の帝国主義が一番支配していた場所でした。20世紀に入って、ヨーロッパ列強はエチオピア帝国とリベリア共和国を除くアフリカ大陸のほぼ全域を支配しました(アフリカの分割)。それまで、奴隷を連れていかれ、仕事もないアフリカが、19世紀末にはヨーロッパ資本の行き先となりました。そのため、アフリカは1つの農作物と鉱物資源しか生産しないモノカルチャー経済を採用しなければならなくなりました。\n1800年代前半、オスマン帝国は他国からの圧力によって、軍隊の近代化・改革を進めました。また、中央集権的な支配体制を整えようとしました。19世紀中頃から、知識人達はますます憲法と議会を求めるようになりました。1876年、ミドハト憲法が成立しました。ミドハト憲法は、アジアで最初の憲法と考えられています。その後、露土(ロシア・トルコ)戦争が始まると、スルタンのアブデュルハミト2世は憲法作成を中止しました。1908年、ミドハト憲法を復活させるため、青年トルコ人革命運動が起こりました。イラン(カージャール朝)では、政治的・経済的にイギリスやロシアへの依存を強めていました。そのため、イギリスへ煙草の権利譲渡に反対する煙草ボイコット運動が、民族主義運動のきっかけとなりました。1905年、国王の残酷な支配に対してイラン立憲革命が起こりました。\nジャマールッディーン・アフガーニーはイラン出身です。彼は、イスラーム世界各地のムスリムを統合して帝国主義勢力と戦うため、パン・イスラーム主義を唱えました。エジプトを中心に各地で、彼の思想に影響を受けました。\nインド大反乱後、イギリスはイギリス領インドをつくり、インドの植民地支配を開始しました。一方、インド人中産階級は高等教育を終えて、政治に関与するようになりました。その結果、1885年にインド国民会議が結成されるようになりました。成立当初の国民議会は、イギリスを支持する立場でした。しかし、バール・ガンガーダル・ティラクのように自治と独立を求める急進派が議会に参加するようになりました。そのため、イギリスの植民地支配を少しずつ批判するようになりました。\n列強諸国は、東南アジアでも植民地を展開しました。列強はプランテーションを経営して、国際市場で販売出来るように、特産品の栽培を増やしました。また、自国工業のために原材料を栽培したり、採掘したりしました。この時期、フィリピンのホセ・リサールやベトナムのファン・ボイ・チャウのように、世界各地で植民地化に反対する人々が立ち上がり、植民地支配への批判と国民意識が芽生え始めました。彼らは、フランスの独立に反対する運動を起こすと、日本の有力者に支援を求めました。日本への留学を勧めたので、東遊運動と呼ばれるようになりました。しかし、日本政府に追い出されて、東遊運動は失敗しました。成功しなくても、全国で独立や自立のために民族運動を展開しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%8C%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AB%E3%82%82%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE"} {"text": "日清戦争後、日露戦争・第一次世界大戦・日中戦争・アジア太平洋戦争へと、次々と大きな対日戦争が起こりました。日清戦争勝利後、日本の領土や周辺地域がどのように変化しましたか?\n朝鮮の開国後、日本と清国は朝鮮をめぐって争うようになりました。日本は朝鮮半島をより多く支配しようと考え、清国は支配を続けようと考えました。このような争いは、朝鮮半島に新たな政治的対立をもたらしました。1884年、日本軍の支援を受けて、急進的な改革派が中国を支配しようとしました。しかし、清軍によってクーデタを止められました(甲申政変)。1885年、日中両国は天津条約に調印しました。天津条約は、両国が同時に軍隊を撤退させ、軍事的な動きをする時はお互いの事前通告などを定められました。\n1894年、朝鮮で宗教結社(東学)が農民反乱(甲午農民戦争)を起こしました。朝鮮政府は清に軍隊の派遣を求めると、日本も居留民保護という名目で出兵しました。朝鮮政府は日本と清に軍隊の撤退を求めました。しかし、日本は自国内で清への反感を強く持っていました。このため、日本は、清と戦争して、清に軍隊を駐屯したいと考えました。\n1894年7月、日本軍が朝鮮王宮を占領して親日政権を成立させました。その後、豊島沖で清国艦隊を攻撃すると、日清戦争が始まりました。日本軍はこの戦いに勝利して、朝鮮半島の戦いを有利に進め、遼東半島を制圧したり、黄海海戦で清軍を壊滅させたり、様々な活躍を見せました。\n日清戦争は、日本初の本格的な対外戦争でした。日本社会に大きな影響も与えました。人々は連戦連勝と聞いて興奮しながら、日本という国を知り、国民としての自覚を深めました。\n1895年4月、下関条約が締結されて、和解も成立しました。日本は、朝鮮を清から独立させ、遼東半島・台湾・澎湖諸島を手放しました。その後、2億円の賠償金を支払い、港湾都市に工場を開設しました。しかし、ロシア・フランス・ドイツは、東アジアでの勢力を伸ばしたいと考え、三国干渉に参加しました。その結果、遼東半島は清に返還されました。台湾は、台湾民主国を建国しました。また、抗日運動も起こりました。しかし、抗日運動は日本軍によって鎮圧され、日本はアジアで唯一植民地を持つ国家となりました。\n一方、清は日清戦争前にベトナムやビルマなどの冊封国家を失いました。日清戦争で敗れると、朝鮮半島の支配権も失いました。琉球を日本に譲渡する最終決定によって、朝貢と封建制度に基づく東アジアの古い華夷秩序は崩壊しました。日清戦争後、欧米列強は中国への投資を本格的に開始しました。鉄道建設や鉱山開発などの分野で安定的な利権を手に入れるため、勢力圏を設定しました。そこで中国は分裂して、列強による帝国主義的な侵略が一気に進みました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%BD%B1%E9%9F%BF"} {"text": "日清戦争に勝利した日本は、朝鮮半島の支配を強化しながら、大陸を攻めるための基地を作りたいと考えていました。そのため、極東でさらに南進しようとするロシアとの関係が悪化しました。日露戦争は、世界にどのような影響を与えたのでしょうか?\n列強の侵略に対抗するため、義和団は山東省を占領して、「扶清滅洋(清を助け、西を滅ぼす)」をスローガンに、教会や鉄道を破壊しました。1900年に義和団が北京に侵入して各国の公使館を包囲すると、清国は各国に対して宣戦布告を行いました。しかし、日本とロシアを中心とする8カ国連合軍が北京を占領して、清国軍と義和団を打ち破りました(義和団事件)。翌年、清は借金の返済や北京駐在の許可を出しました。\n義和団事件後、ロシアは中国東北部の満州から軍を撤退させず、朝鮮半島に留まりました。一方、日本は、ロシアの南下を警戒していたイギリスと日英同盟を結びました。日本とロシアの話し合いがこじれると、日本は1904年2月、仁川沖、旅順港沖のロシア艦隊を攻撃して、日露戦争が始まりました。1905年1月になると、日本は旅順を占領しました。さらに3月の奉天会戦、5月の日本海海戦で勝利しました。\nしかし、戦争は1年半ほど続き、日本は資金が底をつき、兵士を大量に失いました。同じ頃、ロシアでは、日露戦争中の1905年1月、首都ペテルブルグで、労働者の平和を願うデモを取り締まりました(血の日曜日事件)。以降、第一次ロシア革命が発生して、両国とも戦争を続けられなくなりました。両国とも戦争を早く終わらせたかったので、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、ポーツマス条約に調印するのを手伝いました。こうして日露戦争は終わりました。しかし、大きな犠牲を払いながら補償を受けられなかった国民が怒り、東京の日比谷公園で講和反対国民大会が開かれ、暴徒が交番や政府発行の新聞社に襲いかかりました(日比谷焼き打ち事件)。\n日露戦争に勝利したので、日本は明治維新以来の独立を維持しつつ、欧米に近い国になるという目標を達成しました。列強に支配されていたアジアの人々は、日本の勝利はアジア人がヨーロッパ人に勝ったのだと考えました。そのため、彼らの独立への希望は強くなりました。しかし、日本国民は、他のアジアの民族よりも優れていると考えるようになりました。\n日清戦争後、朝鮮は冊封体制から脱却して、1897年に大韓帝国(韓国)と改名しました。しかし、ポーツマス条約で日本は韓国を支配出来るようになり、日韓協約で韓国は保護国になってしまいました。韓国では多くの人が武器を持って日本と戦おうとしました。しかし、1910年、日本は韓国併合を強制的に行って、京城(現在のソウル)に朝鮮総督府を設置しました。\n義和団事件後、清は科挙を廃止して立憲制に切り替えるなどの改革を始めました。中でも、孫文は、移民で成功した兄の住むハワイに行きました。帰国後、香港の医学部に進学し、首席で卒業しました。マカオで医業を始めると、清朝打倒を目指す革命運動に参加するようになりました。運動が本格化する中、1905年、東京で中華同盟会を結成して、三民主義(民族独立、民権確立、民生安定)を掲げて革命勢力の結集をはかりました。1911年10月、政府は支払いに困るので、鉄道利権を担保に列強からお金を借りようとしました。これが辛亥革命につながり、1912年1月、南京に共和制の中華民国が建国され、清朝は滅亡しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89"} {"text": "みなさんは、博覧会に行かれましたか?\n万国博覧会は、18世紀にヨーロッパで始まりました。様々な製品や文化財、学術的な成果を披露して紹介する場所でした。19世紀になると、世界各地で万国博覧会(万博)が開催されるようになりました。1851年、イギリスのロンドンで第1回万国博覧会が開催されました。1862年、第2回ロンドン万博に日本が初めて参加しました。江戸時代末期なので、日本は国として不参加でしたが、初代駐日英国公使ラザフォード・オールコック氏が日本で収集した漆器や和紙などの工芸品や日用品が展示され、注目を浴びました。\n1873年、明治政府の主導で、日本は初めてウィーン万国博覧会に公式参加しました。日本は輸出と貿易の促進を図るため、ヨーロッパでは見られない伝統工芸品や植物を数多く展示しました。会場には神社や日本庭園が造られ、日本独自の文化を紹介しながら、ヨーロッパに「日本趣味」を広めました。その後、日本も自国の産業を紹介するために、内国勧業博覧会を開催するようになりました。\n欧米諸国の植民地産品は、近代の万国博覧会でも展示されました。ロンドンの第1回万国博覧会では、世界各地のイギリス植民地からの珍しい展示物が、自国の商品と勘違いされました。1889年の第4回パリ万博では、フランスの植民地の原住民が、当時流行した動物園や植物園と同じように、学術研究の名目で「展示」されました。彼らは家族として連れてこられ、地元の村のような部屋で数か月間、強制的に生活させられました。\n日本もやがて、この植民地展示と「人間の展示」という人種差別的な考え方に共感するようになりました。万国博覧会の歴史を振り返ると、西洋から初めて「見られた」日本は、「文明国」だからこそ「未開」なものを「見る」力をつけていきました。1903年、大阪で開催された第5回内国勧業博覧会では、かつて日本の植民地だった台湾の文化財を展示する「台湾館」が建てられました。その場外には、沖縄、アイヌ、朝鮮、清、台湾、東南アジアなどの人々を「展示」する「学問人類館」が設置されました。この計画が報道されると、清の学生などから批判や抗議の声が上がりました。開館後も沖縄や韓国から強い抗議があり、一部の展示は中止しなければなりませんでした。しかし、展示館自体は閉鎖されず、「展示」された人達は、他の「原始民族」の人たちと同じ扱いを受けたとして、抗議してきました。差別は、ご覧のようにいろいろな形で起こりました。\n第二次世界大戦前、植民地時代の展示会は世界中でよく行われていました。博覧会は、植民地支配国がいかに裕福で、植民地より優れているかを見せ、帝国主義を正当化するための手段となりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8D%9A%E8%A6%A7%E4%BC%9A"} {"text": "感染症は古くから人々の悩みの種でしたが、現在でもその悩みは続いています。例えば、14世紀にヨーロッパで起こった黒死病は、そのほとんどがペストによって引き起こされたと考えられています。これは人口が減少するなど社会的な影響を与えました。ペストで病気になるのは、ペスト菌です。ペストは元々鼠などの動物の病気でした。保菌動物の血を吸った蚤が天にたかると広がります。主にリンパ腺に感染する腺ペストが悪化して肺ペストになると、飛沫によって人から人へと広がり、大流行になります。\n近代でも、ペストは大きな問題となっています。18世紀後半、清朝の時代に中国の人口が急増し、経済が発展すると、多くの漢民族が雲南省に移り住み、そこでペストが発生しました。鉱山が建設され、山間部が開墾されたため、ペスト菌を保有する野生の鼠と接触する機会が多くなりました。これがペストの流行の始まりと考えられています。\nアヘン戦争後、中国社会が混乱していた19世紀半ば、雲南に住み、役人から不当な扱いを受けていたイスラム教徒や少数民族が立ち上がりました。ペストは雲南全域に広がり、19世紀末には国際貿易港となっていた香港に到達しました。そこから東は中国の沿岸部、台湾、日本、ハワイ、北アメリカへ、西は東南アジアからインド、アフリカへと移動しながら、世界的流行を引き起こしました。\n1894年にペストが発生した香港では、ペスト菌の発見者をめぐって争いが起こりました。ドイツの細菌学者ロベルト・コッホから細菌について学んでいた北里柴三郎とフランスのバストゥール研究所から派遣されたアレクサンドル・イェルサンです。この細菌はアレクサンドル・イェルサンが発見したので、彼の名前にちなんで名付けられました。\nペストのような病気を防ぐという目的で、欧米諸国や日本では近代的な衛生設備が整えられました。帝国主義の時代には、植民地にもこのような衛生設備が整備されました。植民地は文明の力で民衆を救ったと賞賛され、それを植民地政策の正当化に利用しました。例えば、1895年、台湾(日本の植民地)ではペストが流行して、2万人以上の死者が出ました。台湾総督府は、感染者を隔離し、警察官による監視を行うなどの対策をとりました。この制度は、国民の安全を守るためにも使われました。衛生制度は、検疫という理由で人々の生活や文化にも影響を与え、為政者が人々の身体を支配するきっかけとなりました。\n日本が中国を侵略すると、関東軍防疫給水部(七三一部隊)が満州に設置され、ペスト菌などの細菌を兵器として使えるかどうか研究されました。スパイなどの疑いで逮捕された人を、秘密の方法で感染させ、解剖しました。1940年代には、製造された細菌兵器が中国の湖南省などで使われ、多くの住民に被害を与えました。しかし、戦後の冷戦体制の中で、第73師団に所属して日本で戦争犯罪をした者達は、決して責任を問われませんでした。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E3%83%9A%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%A8%E6%84%9F%E6%9F%93%E7%97%87"} {"text": "鉄道が走り始めた頃、その速さに多くの人々が驚きました。当時の人々は、鉄道がこんなに速いとは想像もしていませんでした。鉄道以前のイギリスでは、馬車が一番速い移動手段でした。\n中世は、農耕生活をしながら自給自足の生活を送っていました。物や人の移動はほとんど地域社会内で行われ、遠距離の移動は稀でした。近世になり都市が発展すると、農村と都市の間の移動が活発になりました。人々は農村から農産物を運び、都市で手工業製品を作りました。当時、移動の主な手段は馬が引く馬車でした。そのため道路も整備されました。\n1625年、初めて馬車が公共交通機関として使用されるようになりました。最初はロンドンで駅馬車が運行されました。その後、長距離の駅馬車が運行されるようになりました。1678年には、エディンバラからグラスゴーまで6頭立ての駅馬車が運行されました。この6頭立ての駅馬車は、片道約70kmを1日で走破しました。\n郵便制度が発展するにつれて、国民はより速い馬車を求めるようになりました。1785年からは速達の郵便馬車「メール・コーチ」が、ロンドンとエディンバラの間を走り始めました。1788年には、ロンドンとグラスゴーの間でも運行されるようになりました。18世紀に入ると、道路や馬車のスプリングが整備されました。この中で、四頭立ての馬車はロンドンと主要都市を時速9〜10マイル(約15キロ前後)で結びました。\n本格的な鉄道開通前の1823年、イギリスでは蒸気で走るスチームバスが登場しました。平均時速20km、最高時速30kmでしたが、馬車に比べるとまだまだ低速でした。また、音が大きく、煙を吐き、カタカタと音を立てるので、「危険」「道路に悪影響を与える」という反対意見もありました。そのため、不人気であまり売れない自動車でしたが、最後の1台は1923年まで生産され、ちょうど100年になりました。\n鉄道が本格的に開通する前、イギリスの炭鉱地帯においては、鉄道が少しずつ進展していました。1712年にトーマス・ニューコメンが発明した蒸気機関は、上下にしか動かないもので、炭鉱や小川から水を汲み出して利用する程度に留まりました。しかし、1780年にジェームズ・ワットが回転式蒸気機関を発明すると、蒸気機関は色々な分野で利用されるようになりました。\n当時、馬がトロッコ列車を引いて炭鉱から最寄りの石炭積み出し港まで運んでいましたが、すぐにジェームズ・ワットの蒸気機関製の蒸気機関車に置き換わりました。これらの炭鉱地帯の路線は、それぞれ独立しており、繋がっていませんでしたが、19世紀に入ると、総延長2400kmにまで拡大しました。\n1804年、ウェールズ出身のリチャード・トレヴィシックが初めて蒸気機関車を製作しました。この機関車は、10トンの貨物と70人を乗せた貨車5台を、平均時速80キロで15キロメートルを2時間かけて走破しました。\n列車が馬車よりも速く、大量に人や物を運び出せたので、イギリス国民は鉄道建設を望むようになりました。トーマス・グレイの『鉄道概論』は、まだ旅客列車が建設される前の1820年に出版されましたが、すぐにベストセラーとなり、5版を重ねたため、イギリスでの鉄道の知名度と期待度が高まったとされます。\nトーマス・グレイは、「一般鉄軌道に関する所見」という著作で、自身の研究について述べています。馬1頭は労働者8人分の穀物を食べ、また、馬や人は上下に移動しなければならないため、エネルギーが浪費されます。一方、蒸気機関は規則正しく連続的で非常に滑らかな回転運動をするため、エネルギー効率が高く、馬車の場合は運転手のミスや動物虐待、悪路などによる遅延や故障、事故が起こるかもしれませんが、鉄道ではそういった心配はありません。\nジョージ・スティーヴンソンは、19世紀初頭にイギリスで活躍した技術者で、蒸気機関車の開発者として知られています。彼は、世界で最初の公共鉄道の1つであるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の建設にも関与しました。\nジョージ・スティーヴンソンは、蒸気機関車の設計に多くの革新をもたらし、燃費の向上や速度の増加を実現しました。また、彼は鉄道の軌道や橋梁などのインフラストラクチャーの設計にも貢献し、これらの技術は現代の鉄道建設にも引き継がれています。\nストックトン・アンド・ダーリントン鉄道は、1825年に開業し、当時は馬車による運搬が一般的であった石炭の運搬に使われました。ジョージ・スティーヴンソンはこの鉄道の設計に携わり、蒸気機関車「ロケット号」を開発し、鉄道の速度と貨物輸送能力を大幅に向上させました。この鉄道の成功は、蒸気機関車を使った鉄道建設の先駆けとなり、19世紀における産業革命の発展に大きく貢献しました。\nリバプール・アンド・マンチェスター鉄道は、1830年に開業したイギリスの鉄道で、世界で最初の公共鉄道の1つとされています。この鉄道は、蒸気機関車による列車運行により、貨物輸送だけでなく人々の移動にも大きな影響を与えました。また、この鉄道の建設は、当時の技術革新と、イギリスの工業革命の進展に役立ちました。\n本鉄道の建設予定区間の途中に、試運転に使える4キロメートルの平坦な直線区間がありました。全線の完成前に、この直線区間で蒸気機関車の競技会を開いて、路線に使用する蒸気機関車を決めました。懸賞金付きの募集で、5台の機関車が応募しました。\n1829年10月6日、科学者や観察者含む15000人が集まり、今世紀で最重要イベントとなったこのトライアルを観戦しました。最初のノベルティー号はすぐに時速45キロを記録しました。その後のサイクロベッド号はベルトの上を馬がトロトロ歩いて移動したので、脱落します。また、次のパーシヴァランス号も、時速10キロの最高速度だったので、脱落しました。サン・パリール号はシリンダーの破損から、途中で操縦出来なくなりました。ノベルティー号も、ボイラーの配管が故障しました。このような状況でも、ジョージ・スティーブンソンのロケット号は決められた条件を唯一満たしました。ジョージ・スティーブンソンのロケット号は最高時速56km、平均時速22kmだったので、すぐに営業運転に使われるようになりました。\n政治家のトマス・クリービーは、試乗のため大会に招待され、その速さを気に入りながらも、安全性について非常に心配していました。「ただ乗っているだけなのに、つまらない事故で乗っている人全員が即死してしまうのではないかと思うと、不安で仕方ありません。」と語りました。\n1830年9月15日、リバプール~マンチェスター間に初めて列車が走りました。列車は22両編成で、49.5キロメートルを4時間半かけて走りました。1832年、急行列車は表定速度時速33kmで1時間半かけて走り、普通列車は時速24kmで2時間かけて走りました。当時の表定速度は時速約11km、最高速度は時速約30kmでした。それが開業時になると、すでに2〜3倍の速度になり、ダイヤに反映されるようになりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E9%89%84%E9%81%93%E5%BB%BA%E8%A8%AD"} {"text": "詳しい内容は、「世界史探究」の「第一次世界大戦とロシア革命Ⅰ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。\nバルカン半島で起こった一つの事件が、長期間続き、全世界に影響をもたらす大きな戦争のきっかけとなりました。科学の力で大量殺戮が出来るようになりました。史上最多の犠牲者を出した世界大戦は、何が原因で発生したのでしょうか?その主な特徴は何でしょうか?世界をどのように変えたのでしょうか?\nオスマン帝国が崩壊し始めた19世紀以降、バルカン半島には数多くの独立国が誕生しました。しかし同時に、各民族の間で領土争いが始まりました。また、19世紀終わり頃に悪化したドイツの帝国主義的な拡大政策は、イギリス、フランス、ロシアを近づけました。一方、ドイツはオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア、オスマン帝国と協定を結んで協力し合うようになりました。1914年6月、バルカン半島のサラエボで、セルビアの民族主義者の青年が、オーストリア王位継承者とその妻を殺害する事件が発生しました(サライェヴオ事件)。サライェヴオ事件は、オーストリア・ハンガリー帝国の人種的緊張から始まった地方の事件でした。しかし、国同士の外交関係から、全世界に影響を与える世界大戦に発展してしまいました。それも列強が、国民の力を借りようとした総力戦でした。\n当初、ドイツ軍は電撃的に前進しましたが、フランス軍に妨害されて、いったん塹壕が作られると戦線は行き詰まりました。1917年、アメリカもドイツとの戦争に参戦しました。発達した科学技術は軍事に生かされ、戦車、潜水艦、飛行機、毒ガスなどの新兵器が作られました。戦争が進むにつれて、多くの人が亡くなり、戦争が終わった後の生活が大きく変わりました。第一次世界大戦は、これまでにない規模の戦争でした。ロシアが自国の革命のために戦争をやめると、ドイツも革命を起こしたので終わりました。\n新たな戦場にやってきた兵士の大半は、植民地からでした。植民地の中には、戦後の独立に向けて、人や物を差し出した地域もありました。西アジアの勢力圏をめぐっては、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国と対立していました。特にイギリスは、アラブ人やユダヤ人との秘密交渉で戦争を有利に進めました。これが、現在も続くパレスチナ問題を招いています。\n日英同盟の名目で、日本もドイツに参戦しました。中国の山東半島でドイツ軍と戦って占領し、地中海に軍艦を送りました。死者が出たとはいえ、日本は主戦場から外れていたので、経済が戦争中に急成長しました。ヨーロッパで落ち込んでいた武器や日用品の輸出増加だけでなく、成金も登場しました\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6"} {"text": "詳しい内容は、「世界史探究」の「第一次世界大戦とロシア革命Ⅱ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。\nロシアの民衆は長い戦争に疲れていたので、食べ物を探すために行動に移しました。革命は、労働者、農民、兵士が中心となって行われました。革命について、世界の人々はどのように受け止めたのでしょうか?また、革命の思想はどのように広がったのでしょうか?\n1917年、第一次世界大戦で空腹感を抱えたロシアの労働者達がデモやストライキを始めました。これが三月革命の始まりで、皇帝ニコライ2世は退陣して、ロシア帝国は滅亡しました。ウラジーミル・レーニンは、第一次世界大戦を終わらせて、ソビエト(評議会)に全権を任せようと呼びかけました。十一月革命によって、ソビエト政権が始まりました。まず、ソビエト政権は「和平に関する布告」を行いました。「領土を併合しない」「損害賠償をしない」「自分の判断で決める」という原則に基づいて、戦争の即時終結と和平交渉の開始を求めました。また、「土地に関する宣言」では、土地の私有権の廃止を求めました。ソ連政府は、ドイツ、オーストリアと平和条約を結んで、第一次世界大戦から撤退しました。\n国内の反革命勢力と革命の拡大を恐れた資本主義の列強は、社会主義に向かうソビエト政権に対して介入戦争を始めました。大陸へ進出したい日本は、反革命勢力が拡大する労働運動と戦うのを助けるという名目で、シベリアで列強と手を結びました。しかし、ソビエト政権は赤軍を強化させました。反体制派を厳しく取り締まって、介入戦争を食い止めました。\nソビエト政権は、コミンテルン(第三インターナショナル)を立ち上げ、世界各地の社会主義勢力を組織したり、指導したりしていました。コミンテルンの目的は、社会主義革命をヨーロッパ各国と世界に広めるためにありました。共産主義の理想は、コミンテルンの活動を通じて広まっていきました。19世紀半ばにカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが書いた『共産党宣言』では、共産主義は財産の私有をやめて、代わりに共有・国有化すれば、社会の平等を達成出来るとしていました。ドイツやハンガリーでの革命は失敗に終わりましたが、コミンテルンは東南アジアなどでの民族運動に大きな影響を与えました。中国では、コミンテルンが1921年に中国共産党を立ち上げるように指示したため、その後の民族革命に重要な役割を果たしました。日本では日本共産党が出来て、日本統治下の台湾や朝鮮でも政党が作られました。また、東アジアでは、社会主義運動と関連した民族運動が盛んに行われるようになりました。日本政府も、これらの出来事に対応しなければならなくなりました。\n1922年、ロシアのソビエト政権とその周辺の社会主義共和国が集まって、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。海外と外交関係を持つようになり、ソ連の国際的地位は徐々に高まっていきました。ソ連では、1924年に革命の指導者ウラジーミル・レーニンが亡くなり、ヨシフ・スターリンが新たな指導者となりました。ヨシフ・スターリンは、一国社会主義を目指していたので、反対派を厳しく取り締まりました。一方、ヨシフ・スターリンの時代に入ってから、工業化が目まぐるしく進みました。このような成果を見た各地の指導者達は、列強から抜け出して社会主義社会を建設したいと考えていました。そのため、第一次五カ年計画による工業化のような計画経済が最適だと考えました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E9%9D%A9%E5%91%BD"} {"text": "詳しい内容は、「世界史探究」の「」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。\n20世紀が始まるまで、戦争は国家間の対立を解決する最も効率的な方法の一つでした。しかし、人々の命を奪って、多くの命を奪った第一次世界大戦は、この考え方を大きく変えました。戦争に頼らずに国家間の問題を解決しようとする動きは、どのように始まったのでしょうか。\n第一次世界大戦の戦後処理については、1919年1月のパリ講和会議で話し合われました。戦勝国のイギリス、フランス、そしてウッドロウ・ウィルソン大統領を中心とするアメリカが会議の主導権を握っていました。この会議は、ヨーロッパの戦後秩序を整えるため、第一次世界大戦中にウッドロウ・ウィルソンが平和構想として示した「十四か条」を基本原則としました。しかし、イギリスとフランスはドイツを許しませんでした。ヴェルサイユ条約は敗戦国ドイツも結びましたが、その内容は懲罰的な内容でした。海外領土の譲渡、軍備の制限、莫大な賠償金の支払いなどです。また、他の敗戦国も和平協定を結びました。これらの条約は、ヴェルサイユ体制の基礎につながりました。ウッドロウ・ウィルソンは国際的な平和組織として国際連盟を作りました。しかし、アメリカは参加せず、ドイツとソ連は省かれたので、あまり機能しませんでした。\n日本は南洋諸島をドイツから奪って、国際連盟に常任理事国として加盟すると、国際社会でより大きな力を持つようになりました。1921年から1922年にかけて、東アジアと太平洋の新しい運営方法を話し合うワシントン会議が開催されました。ワシントン会議は、アメリカ側の主導で開催しました。東アジア・太平洋地域の国際秩序(ワシントン体制)を整えて、日本の勢力拡大を防ぎました。中国の領土保全と主権の尊重を唱えた九か国条約は、このワシントン会議で調印されました。日中間の協議の結果、山東権益は中国に返還されました。日英同盟は、太平洋での状況を変えない四か国条約が締結されて終わりました。また、海軍軍縮条約によって、イギリス、アメリカ、日本の保有する主力艦の比率は、5:5:3になりました。しかし、日本は南洋諸島や中国東北部(満州)の利益を守りながら、アメリカとの関係を悪化させないように努めました。日本は、国際的な地位を高めようとする一方で、日系移民がアメリカから追い出されている問題に直面していました。このため、国際連盟の規約に人種差別撤廃の条項を加えようとしましたが、欧米諸国の反対で失敗しました。それ以降、日本国内では欧米主導の国際協調に反対する動きがありました。\nヴェルサイユ体制、ワシントン体制で、国際協調の流れはますます強まりました。集団安全保障という考え方がよみがえったからです。その結果、国際連盟の創設やヨーロッパ諸国の国境の現状維持を取り決めたロカルノ条約に見られるように、戦争回避のための取り組みが始まりました。1928年になると、国家間の紛争を解決する手段として戦争を行うのは、パリ不戦条約の調印で禁止される方向になりました。日本もパリ不戦条約に調印して、合計63カ国が調印しました。\nしかし、列強の利益は維持されており、植民地支配もその中に含まれていました。ヨーロッパでは、民族自決によって、8か国が新たに誕生しました。しかし、植民地では民族自決が行われなかったため、抑圧が続きました。自国の利益を最優先させようとする各国の思惑が、外交官同士の協調を難しくしていました。一方、第二次世界大戦後の植民地の解放・独立には、パリ不戦条約の理念が生かされました。日本国憲法にも「戦争をしません。」と書かれていますが、これはこうした原則に基づきます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%94%E8%AA%BF%E4%BD%93%E5%88%B6"} {"text": "ウッドロウ・ウィルソンの十四か条は、民族自決の原則を打ち出して、第一次世界大戦後の世界中で民族運動を大きく後押ししました。しかし、それが必ずしも「独立」や「解放」に繋がりませんでした。アジア各地の民族は、どのように独立を目指して活動したのでしょうか?\n日露戦争は1880年代から始まりました。日本は日露戦争に勝利して、近代工業を発展させました。こうした動きは、ヨーロッパの進出に苦しむ地域の人々に希望を与えました。第一次世界大戦中、欧米諸国はヨーロッパ向けの軍需品を中心に作り、中国やインドは民族資本を受けて、工業製品を多く作っていました。このようなアジア各地の経済成長は、さらなる民族運動の舞台となりました。\n朝鮮半島は、日本に占領されていました。第一次世界大戦後、ロシア革命やウッドロウ・ウィルソンの「十四か条の民族自決」に影響を受けた国民がいました。1919年3月1日、京城(現在のソウル)で独立宣言をして、「独立万歳」と叫ぶ大規模なデモを行いました。日本政府はこの集会を妨害しました(三・一独立運動)。日本は、二十一か条の要求で、山東省のドイツ利権継承・関東州の租借期限延長・南満州鉄道沿線の権益期限延長などを要求しました。また、中国は、第一次世界大戦で連合国に参加したため、大戦中に日本が強要した二十一か条の要求をパリ講和会議で破棄するように求めました。しかし、受け入れられず、1919年5月4日、北京の大学生達が反日運動(五・四運動)を開始しました。五・四運動は全国に広がりました。孫文は1919年に中国国民党を結成しました。同時に、革命派が中国共産党に合流して、改革のために闘うようになりました。 \n第一次世界大戦中、イギリス領インドから多くの兵士が戦いに行きました。なぜなら、もっと自由が欲しかったからです。兵士達は武器と戦費を支給されました。しかし、第一次世界大戦後、イギリスはある程度の自由と引き換えに、ローラット法を成立させて、インド人が政治に参加出来なくしました。一方、国民会議派のマハトマ・ガンディーは、非暴力・不服従運動を開始しました。非暴力・不服従運動は、インド全土のあらゆる宗教・社会階層の人々を巻き込む運動へと発展しました。1930年、マハトマ・ガンディーの塩の行進をきっかけに、反英運動が高まりました。これを受けて、イギリスは英印円卓会議を開催しました。1935年、インド統治法が制定されました。しかし、インド統治法は地方に自由を与えただけでした。\n東南アジアのオランダ領東インド(現インドネシア)では、1920年にインドネシア共産党が、1927年にスカルノがインドネシア国民党を立ち上げています。しかし、両党とも弾圧されました。1930年、フランス領インドシナでは、インドシナ共産党を立ち上げました。ホー・チ・ミンらは労働者や農民の力を借りて、独立運動を始めました。\nイギリスとフランスは敗戦したオスマン帝国の大半を占領しました。しかし、ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、トルコ人が多く住むアナトリアを中心に抵抗運動を展開しました。その後、トルコ民族主義に基づくトルコ共和国を建国しました。ムスタファ・ケマル・アタテュルク大統領は、教会と国家の分離・文字の書き方の変更・女性の地位向上などの改革を推進しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%81%8B%E5%8B%95"} {"text": "現在、世界各地で起きている紛争は、宗教や民族の違いによって、頻繁に発生しています。しかし、多くの場合、近代に入ってからの歴史的変化が紛争の直接的な原因になっています。パレスチナ問題もその1つです。\nパレスチナは、地中海の東側に位置します。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの一神教の聖地として知られています。特に有名なのは、パレスチナの中央に位置する都市エルサレムです。ユダヤ教徒にとっては、イスラエルの旧首都として、キリスト教徒にとっては、イエスが死刑になった後によみがえった場所として知られています。また、イスラム教徒は、預言者ムハンマドが聖地メッカからエルサレムまでペガサスに乗って旅をしたという話を信じています。\n古くから、パレスチナでは様々な勢力が入れ替わりながら栄えてきました。紀元前1世紀から7世紀まではローマ帝国が支配していました。その後、イスラム王朝に支配されました。そこに住んでいたのはほとんどがイスラム教徒です。キリスト教徒やユダヤ教徒はごくわずかしか残らなかったにもかかわらず、みんな助け合いながら暮らしていました。しかし、近代から、こうしたつながりが途切れてしまっています。\n19世紀、ヨーロッパ各地のユダヤ人が集まってシオニズム運動を始めました。ユダヤ人は、当時流行していたナショナリズム思想に影響を受けていました。ユダヤ人は、自分達の「祖国」パレスチナを、ユダヤ人の国民国家にしようと考えました。しかし、当時のパレスチナはオスマン帝国の一部なので、そこにユダヤ人国家の建国は困難でした。\n第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、シオニズム運動にとって大きな機会が訪れます。第一次世界大戦中、シオニズム運動はイギリス政府に働きかけました。イギリス政府は、ユダヤ人がパレスチナに「民族的郷土」をつくるのを助けると約束しました。第一次世界大戦後、イギリスとフランスは中東地域を分けました。この時、「パレスチナ委任統治領」を設置しました。\nしかし、当時パレスチナに住んでいた人々のうち、ユダヤ人は全体の1割以下でした。そのため、世界中のユダヤ人が移住していき、特に1933年にドイツでナチ党が結党されると、ユダヤ人移民が急に増えました。\n移民の増加が急激に進むと、パレスチナに住んでいたアラブ人は危機感を抱くようになりました。1929年にアラブ人とユダヤ人が大喧嘩をして、「嘆きの壁事件」とよばれるようになりました。1936年になると、イギリス委任統治当局にユダヤ人移民をすぐにでも止めさせたいアラブ人は、ストライキなどの実力行使に出ました。\n第二次世界大戦後、イギリスは事態の収拾を諦めて、問題解決を国際連合に委ねました。1947年11月、「パレスチナ分割決議」が採択されました。パレスチナ分割決議は、パレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家、そしてエルサレムを含む国連が運営する地域の3つに分けるという内容でした。これが、現在も続くパレスチナ問題の始まりです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E7%A7%BB%E4%BD%8F%E3%81%A8%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%8A%E5%88%86%E5%89%B2"} {"text": "日本は 1910 年に大韓帝国を併合し、ソウルに朝鮮総督府をおいて朝鮮半島を統治下におきました。この統治は、1945年太平洋戦争終戦の年、9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまで続きます。朝鮮に日本軍が入り、日本語を使うよう強制もなされたといいます。\nこれは事実上の朝鮮半島の植民地化です。兄の浅川伯教は 1913年、弟の浅川巧は 1914年に、朝鮮半島に渡りました。この二人は日本人の兄弟です。巧は朝鮮総督府農商工部山林課(後の林業試験場)で林業技師として働いていました。巧は伯教に導かれて、韓国で日常的に使用されている白磁に魅せられていきました。そして韓国の生活、文化に深くかかわっていきます。朝鮮語を学んで、伝統的なバジ・チョゴリを好んで着ていました。\n支配者として韓国人を見下す日本人が多い中、巧は朝鮮人との平等な交流を目指しました。本業の林業でも、苗を成長させる方法を研究し、韓国の林業の発展を望みました。巧の書いた多くの朝鮮に関する文献は、今も残っています。1924年、浅川兄弟は、文化人柳宗悦とともに、ソウルに朝鮮民族美術館を設立します。\n1931年、浅川巧は急性肺炎にかかり40歳の若さで急死しました。朝鮮人たちの手によって、巧の棺は京城郊外の清凉里(現ソウル市東大門区)の丘に葬られる。その一方で日本の同化政策はより強化され、朝鮮民族の文化や伝統は軽視され、朝鮮の人々の日本式の名前への変更(創氏改名)など、不遜な政策も実施されていった。\n1945年に日本が戦争に負け、韓国は植民地支配から解放されました。そして、韓国にある浅川巧の墓には、「韓国の山と民芸を愛して、韓国人の心の中に生きた日本人は、韓国の土になります。」と書かれています。\n国によって、言葉や文化に優劣はありません。しかし能力だの経済だの技術だのには差があって優劣があるのかね?今でも自分やその仲間が優秀で賢くて能力がある人間だと思い込んでいる、傲慢な輩は腐るほどいます。浅川は、そういう世界からは一歩離れた、自然人ではあったと思います。\n価値観とは何でしょう? お互いの良さを認め合うといえば、言葉は綺麗ですが、実際には言葉だけでそれを実践することは困難だし、実践していると思い込んでいるのも、自己満足の只の傲慢・幻想かもしれませんよ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E6%B5%85%E5%B7%9D%E5%B7%A7_%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%80%85%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA"} {"text": "第一次世界大戦前後の世界を見ると、民衆が様々な形で政治に参加していた様子が読み取れます。当時の政治・経済・文化の状況を踏まえて、大衆がどのように政治に参加したのかを考えてみましょう。\n17世紀から19世紀にかけて、欧米諸国では「近代化」が進み、政治的、経済的、社会的地位が変化しました。また、工業化や都市化によって労働問題や社会問題が深刻化しました。そのため、民衆は、時には雇用者に、時には政治家に、自分達の権利を求めるようになりました。選挙権の拡大を求める運動もその一つでした。1832年の第1回選挙法改正の時、選挙権を持つのは全国民の4.6%でした。1918年の第2回選挙法改正では、この数字が50%に上がり、投票がより身近になりました。また、第一次世界大戦後、労働党は大きく活躍します。1924年になると、初めての労働党内閣が自由党と合流して連立政権を結成しました。\n第一次世界大戦で戦争に協力した一国民が、社会的な後押しを受けました。イギリスをはじめとする欧米諸国では、男性普通選挙や女性参政権による議会制政治の発展も認められました。第一次世界大戦中、ロシアで社会主義ソビエト政権が誕生したのも、世界の労働運動を盛り上げました。\n明治の終わりから大正の初めにかけて、日本の国際的な地位は徐々に強化されて、国民は列強の一員になったと感じ始めていました。政府は教育事業に力を入れ、就学率の向上と学習の質の向上を図りました。1902年になると、学校に行かなければならない人の90%以上が学校に行くようになりました。日本は、経済成長のために熟練労働者や兵士を集めるため、学校教育に力を入れたいと考えていました。また、様々な福祉政策や法整備を進めて、誰もが国家の一員としての自覚を持ってほしいと考えていました。\n一方、憲政擁護運動(護憲運動)は、学校で学んだ内容を利用して、憲法の精神に従いつつ、国民の意見を反映した政治にしようと考えました。これが政党政治の発展につながりました。吉野作造の民本主義の考え方は、多くの人々の心をつかみ、民主政治を実現するための運動につながりました。第一次世界大戦中、経済が好景気になると物価が上がったので、都市に住む民衆は苦しい生活を送るようになりました。賃金よりも物価の方が早く上がり、1918年にシベリア出兵が決まると、商人が買い占めたため、お米の値段が一気に上がりました。そのため、全国で米騒動が起こりました。この混乱の責任をとって内閣が辞めると、初の本格的な政党内閣が組まれました。労働運動・農民運動・部落解放運動も高まり、普通選挙を求める運動も活発になりました。大正デモクラシーとは、日露戦争後から第一次世界大戦、満州事変が始まるまでの民衆主導の民主化運動の名称です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%8F%82%E5%8A%A0"} {"text": "フランスの「人権宣言」やアメリカの「独立宣言」は、自由と平等の権利について述べています。しかし、当時の女性や奴隷などには自由と平等の権利がありません。当時、女性が社会で活躍出来る機会はまだ限られていました。女性はどのようにして社会の一員になれたのでしょうか?\n女性史を見ると、欧米・日本・中国など状況は違っても、登場人物は男性と比べると意外に限られています。近代までのヨーロッパは、女性は家にいて「良妻賢母」になってほしいと期待されていました。女性もフランス革命に参加しており、やがて選挙の立候補が許されなくなりました。人権宣言は、フランス革命の時に制定されました。フランス語で「男性・男性市民の権利」を保障すると書かれています。しかし、19世紀中頃から、欧米諸国でも女性に参政権を与える取り組みが始まりました。なぜなら、教育の普及によって、女性が看護師・幼児教員・著述家などの仕事をするようになったからです。20世紀初めのイギリスでは、石を投げてまで参政権を手に入れようとする女性もいました。\nイギリス領ニュージーランドは、1893年に世界で初めて女性に選挙権を与えた国です。そのほかの国は、20世紀初めまで女性に参政権を認めていません。第一次世界大戦は本格的な戦争だったので、欧米では多くの男性が戦地に送られました。その頃、国内で働く人も限られていました。そのため、女性は兵器を作る工場で働くようになりました。以降、戦後数年間は女性史も変わりました。\nまた、女性の社会進出は、衣服の変化にもつながりました。コルセットやペティコートは、ココ・シャネルのように動きやすいシンプルコーデに変わり、世界中の労働者達は着心地の良い服を求めました。\n日本でも自由民権運動の中で、1870年代に一部の地方議会は女性の選挙権を与えましたが、すぐに取りあげられました。社会運動が大正デモクラシーで高まり、第一次世界大戦が世界を大きく変えると、日本でも女性解放運動が始まりました。平塚らいてうはこの活動を担当しながら、雑誌『青鞜』の発刊時に、「そもそも、女性は太陽」と述べています。平塚らいてうは市川房枝らとともに新婦人協会を設立しました。より多くの女性が高等教育や政治に関われるように、取り組みました。紡績業や製糸業の工場労働者以外にも、タイピストや電話交換手として働く女性も増えました。都市部では、モダンガールと呼ばれる新しい流行も生まれました。しかし、その後の深刻な経済危機の中で、自由な流れは停滞しました。「産めよ殖やせよ」の掛け声で、女性は男子をたくさん産んで兵士に育ててもらえばいいという社会になりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%8F%82%E5%8A%A0"} {"text": "大衆社会の発展とともに、スポーツ・映画・旅行などの趣味が広まりました。大衆社会にはどのような特徴がありますか?現代社会との共通点・違う点、注意点など、色々な角度から見ていきましょう。\nある程度の年齢になると、学校に行き、前日に読んだ雑誌の内容や気になったニュースなどを友達と話すようになります。また、空き時間には趣味などの計画を立てます。このような日常習慣が当たり前になったのは、いつ頃からでしょうか。\n産業革命が社会を大きく変えました。その一つに、娯楽がありました。1851年にロンドンで万国博覧会が開催されました。その際、イギリス人のトーマス・クックが旅行商品を企画すると、成功を収めました。その結果、旅行が趣味となり、それまで以上に人気を集めました。19世紀後半になると、第二次産業革命が始まりました。第二次産業革命は、大量生産・大量消費社会を実現しました。また、工業分野の技術革新や都市化も進むようになりました。学校に行く人が増えて、生活環境もよくなると、大衆が文化や社会の中心になりました。都市に住む若者を中心に大衆文化も発展しました。スポーツ・音楽・演劇などの大衆文化が発展していく中で、国民は新聞・映画・ラジオなどから多くの情報を得るようになりました。\n大衆社会とは、大衆が支配する社会です。私達が生きる現代社会はここから始まりました。マス・メディアは大衆に対して大きな力を持っており、大衆の生活も同じような傾向が見られます。また、大衆は政治に無関心です。巧妙な宣伝によって独裁的な指導者を支持するように説得され、誤った情報のために誤った決断をしてしまいます。\n第一次世界大戦中、アメリカはヨーロッパ各国に武器や軍資金を提供すると、債務国から債権国になり、ロンドンは世界経済中心地としての地位をニューヨークに奪われてしまいました。アメリカで大量生産方式によって自動車が作られるようになると、価格が下がり、より多くの大衆が自動車を買えるようになりました。電化製品で生活が便利になり、かつてないほど豊かになったので、「黄金の20年代」と呼ばれるようになりました。ラジオや映画を通じて多くの大衆が新しい生活様式を知り、プロ野球やジャズなど新しい娯楽も生まれました。その一方で、社会はより保守的になりました。社会主義者・移民・黒人がより非難され、排他的な風潮が広がりました。また、アジアからの移民を禁止する法律も制定されました。\n1923年の関東大震災は、東京近郊に大きな被害を出しました。東京近郊は、新しい都市計画に基づいて再建され、都市の姿を大きく変えました。都市化は大都市だけでなく、地方でも進みました。1925年、東京と大阪でラジオ放送が開始されました。やがてそれは全国に広がり、映画や雑誌も娯楽の選択肢に加わりました。こうしたメディアの発展によって、新しい世界・新しい生活への欲求が高まり、国民の社会変革への期待も高まりました。また、中学・高校・大学の数が増えると、優秀な学校に入り、将来のエリートになるための受験競争も激しくなりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%A4%A7%E8%A1%86%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90"} {"text": "シネマトグラフを「発明」したのは、工業家リュミエール兄弟です。1895年12月、パリのレストランで初めて一般に公開されました。これが映画の始まりと思われますが、フランス以外の欧米諸国でも同様の装置が登場するようになりました。例えばアメリカでは、1893年にトーマス・エディソンがキネトスコープを作りました。キネトスコープは、一度に一人しか映像を見れない装置でした。\nベネディクト・アンダーソンは、「国民国家」や「ナショナリズム」がどのようにして実現されたのかを研究しました。ベネディクト・アンダーソンは、ヨーロッパで近代的な小説や新聞の登場によって実現されたと述べています。その結果、登場人物、著者、読者が全て同じ場所で誰もが自由に時間を進められるようになり、「国民国家」の舞台を整えたと述べていますまた、映画は小説ほど読解力を必要としないため、集団で同時に見ても、近代新聞小説の読者の間に広がっていた一つの空間という考え方を「大衆化」させました。1890年代には、南アフリカ戦争(イギリスと、南アフリカのオランダ系住民が作った国との戦争)、米西戦争、日露戦争といった「国民戦争」をテーマにした映画が作られるようになりました。これらの映画は「国民的メディア」となりました。\n映画は、ヨーロッパで中流階級のための見せ物として、「映画芸術」として政府の支援と規制がありました。一方、アメリカでは、貧しい人達の趣味となりました。そのため、アメリカには巨大な映画市場があり、第一次世界大戦の頃に「映画の都」と呼ばれるハリウッドが生まれました。一方、日本では欧米とほぼ同時期に導入されて、20世紀初頭に常設の映画館が開館しました。\nそれ以前の映画では、無音声だったので、「サイレント映画」と呼ばれていました。世界恐慌の頃、「トーキー映画(発声映画)」が登場しました。\nトーキーは、音声付きでさらに分かりやすく、子供も楽しめる初めての大衆娯楽となりました。\nこうした背景から、トーキー映画は、アメリカではニューディール、イギリスでは1931年以降の内閣、ドイツではアドルフ・ヒトラーとナチス党の大衆宣伝のために、人々の支持を集める重要な手段になっていきました。1937年、日本でもトーキー映画を製作する会社として東宝映画株式会社が成立しました。1939年、「映画法」がメディアを統制する戦時法の第一弾となりました。「大衆」を思い通りに動かす最も効果的な方法は、全員が見る映画でした。\n無声映画からトーキー映画になると、ナレーション入りのニュース映画が登場するようになりました。新聞やラジオとは違って、ニュース映画はありのままを見せるので、見る人はそれをそのまま受け入れるしかありませんでした。つまり、日本では、単なる楽しみだった映画が、ニュースを知るための有力な手段にもなりました。\nつまり、トーキーは、見て聞いて楽しめる複合媒体の第一歩でした。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%A4%A7%E8%A1%86%E5%8C%96%E3%80%8D"} {"text": "1896年、アテネで第1回近代オリンピック大会が開催されました。現在、200以上の国と地域がこのようなスポーツの祭典に参加しています。2020年東京近代オリンピック大会でも205か国参加しています。\n第一次世界大戦、第二次世界大戦の時は、1916年、1940年、1944年に開催されました。世界大戦が本格的な戦争になった時に、オリンピックを開催する訳にはいきません。実際、1940年の大会は東京開催が決まり、日本の国民的祭典となるはずでした。しかし、日中戦争が激しくなると、日本政府から大会辞退の申し出がありました。政治とスポーツはかみ合わないという人もいますが、切り離せません。第一次世界大戦直後の1920年のアントワープ大会には、戦争に負けたドイツ、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、トルコが招待されませんでした。また、1948年のロンドン大会でもドイツと日本は招待されませんでした。\n全体として、以前より選手の数は増えています。ただし、第2回大会以降、女性選手の参加数は当初の数年間、非常に限られていました。1952年のヘルシンキ大会から、女性選手の数が全体の10%を超えました。また、1972年のミュンヘン大会から、女性アスリートの数が1000人を超えました。\n参加選手の合計人数を見ると、1904年のセントルイス大会、1932年のロサンゼルス大会、1956年のメルボルン大会は、いずれも前回より減少しています。いずれもヨーロッパ以外の国で開催された大会です。グラフの左半分、列車や船で移動する選手が多かった時代には、ヨーロッパからの選手が多かったので、大陸間の移動が大変だったかもしれません。また、世界恐慌の後、不景気だったため、1932年の大会で参加選手の減少理由の1つかもしれません。\n最初の聖火リレーは、1936年にナチ党政権下のベルリン大会で行われました。10万人収容のスタジアムでナチスの旗が振られ、開会式はアドルフ・ヒトラーに関する宣伝を広めるために利用されました。\n1968年のメキシコ大会では、アメリカで公民権運動が盛り上がっていた頃、2人のアメリカ人選手が黒い手袋をはめた拳を立てて表彰台に立ちました。この人種差別の訴えは政治的な動きと見なされ、その選手は失格となり、チームから追い出されました。\n1980年のモスクワ大会は、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻していたため、アメリカは不参加を決定しました。他の西側諸国や日本も参加を見送りました。オリンピックは世界中の人々が見ており、様々な主張を発表する場所として利用され、活用されてきました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%AD%A9%E3%81%BF"} {"text": "詳しい内容は、「世界史探究」の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅰ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。\n「黄金の20年代」と呼ばれた繁栄の時代、1929年10月、ニューヨークのウォール街で株式市場が大暴落しました。世界恐慌の原因となったこの出来事は、世の中にどのような影響を与えたのでしょうか。\nロカルノ条約、パリ講和条約と、1920年代後半は国際協調が進みやすい時代でした。日本の経済成長は、こうした問題から必ずしも順調ではありませんでした。第一次世界大戦中とその終結直後は、経済が急速に成長しました。しかし、戦後ヨーロッパ経済が立ち直ると、輸出が減少して不況になりました。1927年には関東大震災による混乱から金融恐慌が起こり、多くの銀行が閉鎖・倒産しました。また、昭和恐慌と呼ばれた1929年のアメリカの世界恐慌は、1930年の日本経済にも大きな影響を与えました。\n1929年の世界恐慌は、全世界に大きな影響を与えました。経済の中心となっていたニューヨークの株式市場の大暴落から始まりました。第一次世界大戦後、工場の過剰生産と行き過ぎた投機のために不安定な経済になる中、世界恐慌が起こりました。世界恐慌は瞬く間に全世界に広がりました。多くの国で、銀行の倒産や工場の閉鎖によって、大勢の失業者が出ました。特に、アメリカ資本の支援によって回復していたドイツ経済が破綻しました。ドイツから賠償金をもらっていた他のヨーロッパ諸国も危機の影響を受けました。一方、ヨシフ・スターリンが支配していたソ連は、資本主義国との貿易が少なく、世界恐慌の痛手はそれほど受けませんでした。\nアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトは、ニューディールと呼ばれる計画を実行に移しました。大統領の強い指導を受けて、政府が経済に介入して、経済をよくしていこうとしました。\nイギリスとフランスは、自国の経済を守るために、自治領や植民地を支配下に置いて排他的経済圏を作り、他の地域の商品には高い関税をかけて、貿易をさせないようにしました(ブロック経済圏)。しかし、この政策は広大な植民地を持っている国にしか使えない方法でした。ドイツ、イタリア、日本など、天然資源が少なく経済基盤の弱い国は、低迷から抜け出せませんでした。また、経済状況の悪化は、政治状況や国民の不満も悪化させ、政局はさらに不安定になりました。これらの国々は、国際協力に反発して、他国を攻撃してでも自分達の要求を実現しようとしました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C"} {"text": "貧しい人々は、理想を語り、それを実現するファシスト政党に引き寄せられました。どうして民衆がファシズムの原動力となったのでしょうか。\n第一次世界大戦後、列強諸国ではより多くの人が選挙権を手にするようになりました。また、第一次世界大戦で疲弊した地域では社会主義運動が盛んになりました。ドイツではヴァイマル憲法が制定されて、社会権が明確に定められ、民主化を進めました。イタリアでは、特に北部を中心にストライキなどの労働運動が盛んになりました。こうした変化に危機感を抱いた保守勢力は、暴力によって国内の政治改革を進めるとともに、国民の自由と民主主義を制限しました。また、軍備を拡大しながら、他国を侵略して、自国を中心とした経済圏をつくろうとしました。ファシズムとは、このような動きに伴う全体主義的な独裁体制です。ソ連のヨシフ・スターリンによる独裁政治も全体主義の一つという考え方もあります。イタリアでは、1922年にファシスト党が政権を握りました。労働者の台頭を恐れた地主や軍部がそれを支持しました。ベニート・ムッソリーニの指導により、各地の社会主義運動は暴力で鎮圧されました。また、ドイツでは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の活動が始まりました。こうした動きは、欧米諸国をはじめ、日本でも軍部や一部の政治家、社会運動家などに影響を与えるようになりました。\n※詳しい内容は、「世界史探究」の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅲ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。\nアドルフ・ヒトラーは、ナチ党の指導者となりました。アドルフ・ヒトラーは、さらに信者を増やすために、様々なメディアを通じてプロパガンダを広めて、巧みな演説を行いました。プロパガンダでは、少数者に対して、指導者の思想などを強制させます。その結果、仲間意識が働いて、大勢の人と同じように行動するようになります。世界恐慌が発生すると、ドイツ経済は再び不況になりました。アドルフ・ヒトラーは1930年の国会議員選挙で知名度を上げて、1933年1月、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領がついにアドルフ・ヒトラーを首相に選びました。組閣後、すぐに議会を解散しました。選挙運動中に、アドルフ・ヒトラーは国会議事堂放火事件を理由として、ナチ党の対抗勢力となる共産党を追い出しました。アドルフ・ヒトラーは、3月に開かれた国会で、ナチ党の議席数を大幅に増やしました。その後、国会に対して、国会に代わって法律を制定する権限(全権委任法)を承認させました。その結果、独裁的な権力を手に入れました。1934年にパウル・フォン・ヒンデンブルグが亡くなり、アドルフ・ヒトラーが総統として国家元首に就任しました。一方、民衆はアドルフ・ヒトラーのやり方が気に入らないのに、ナチ党からの暴力を恐れて、文句や行動も出来ない状態でした。アドルフ・ヒトラーは「ドイツ人の生存圏」を主張して、ドイツ人のナショナリズムとアイデンティティを高めました。これが、ユダヤ人を追い出す理由となりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%B7%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%8F%B0%E9%A0%AD"} {"text": "詳しい内容は、高等学校世界史探究の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱ」に記述されていますので、そちらをご参照ください。ここでは、簡単に記述します。\n満州事変により、日本は世界から孤立しました。当時、世界は国際協調の流れの中にありましたが、この満州事変はそれに逆行するものでした。また、国際連盟からの脱退や日中戦争も行われ、それらがなぜ支持され、また元に戻れなくなってしまったのか、その理由は何でしょうか。\n1931年、中国東北部に駐留していた日本の関東軍は、中国東北部の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破しました。この爆破を中国軍の犯行に見せかけて軍事行動を開始しました。関東軍は、パリ不戦条約が自衛権を否定していないと主張し、満州鉄道の爆破は自衛のための軍事行動であるとしました。この主張を受け入れた日本政府は軍事行動を活発化させました。こうして「満州事変」が始まりました。1932年、満州の現地住民は中国政府から離脱し、今後の方針を自分たちで決められるようになりました。こうして「満州国」が建国されました。中国政府は国際連盟に救済を求めたため、国際連盟はリットン調査団を派遣しました。調査団の報告は以下の通りです。\nしかし、この報告に対して、日本は強硬な態度をとって、国際連盟を脱退しました。\nこうした日本の動きは、第一次世界大戦後に高まった国際協調の世界的な流れに逆らいながらも、日本では支持されました。その背景には、不況が長引く中で、日本のマスコミや世論が「満州は帝国の生命線」などと主張し、政府の立場に共感していた側面もあります。また、政党政治への不満や社会不安から、国家改造の思想を伝えた人もいました。この思想に賛成した陸軍の青年将校が 二・二六事件 を引き起こしました。\n正式な宣戦布告なく、1937年7月、北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍が交戦する形で、日中戦争は始まりました。蒋介石は南京に中国国民党(国民党)政権を立ち上げました。彼は、敵対する中国共産党との内戦を休止し、抗日民族統一戦線(国共合作)を結成して、日本軍相手に抵抗しました。1937年12月になると南京が陥落し、戦争の結果に対する日本国民の怒りを無視できなくなった日本政府は、国民政府との和平交渉を打ち切りました。これで戦争は継続されました。日本も調印したパリ不戦条約は、日本が中国での軍事活動を活発化した時点で破棄されました。これは、中国の主権と領土保全という九カ国条約への挑戦でした。アメリカとイギリスが蒋介石を支援したのは、日本の軍事力の増強に脅威を感じていたからです。そのため、戦争の結末を予測しにくくなりました。\n満州事変以来、人々は大陸の情勢に関心を持つようになり、新聞やラジオが普及しました。夫や息子が軍隊に入った家庭では、日常生活に戦況の理解も欠かせなくなりました。命を懸けて戦争に協力し、貧しい生活を送っていた人々は、戦争が上手くいくように、より大きな期待を持っていました。メディアが世論を形成するやり方も、戦争が継続される理由と大いに関係がありました。対日戦争を続けるために、国民政府は重慶に拠点を移しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%99%B8%E9%80%B2%E5%87%BA"} {"text": "第一次世界大戦後、国際協調体制が整ったとはいえ、世界は再び戦争への道を歩み始めていました。戦争は人々の考え方にどのような影響を与えるのでしょうか。\nドイツが1933年に国際連盟を脱退したのは、ヴェルサイユ体制から自由になりたかったからです。その後、再軍備宣言と徴兵制復活を決めました。ドイツはロカルノ条約も破り、ラインランドの非武装地帯に進出しましたが、列強はドイツに対する制裁を厳しくしません。イタリアもエチオピアに侵攻するなど、他国への侵略を強めていきました。また、ドイツと接近し、1936年にはベルリン・ローマ枢軸が成立しました。スペインで反ファシズムの人民戦線内閣が成立され内戦が起こると、ドイツとイタリアは反乱軍のフランシスコ・フランコ将軍を支持しました。一方、イギリスとフランスは不干渉政策をとったので、ソ連や国際義勇軍の支援を受けても、人民戦線政府は敗退しました。\nアドルフ・ヒトラーが1938年にオーストリアを併合したのは、「ドイツ民族」を復活させるためでした。次にドイツ人の多いチェコスロヴァキアの一部、ズデーテン地方を併合しようとしました。戦争を回避するため、イギリスとフランスはドイツ、イタリアとミュンヘン会談を行い、ドイツの要求に応じました。このような政策を宥和政策といいます。\n1937年、イタリアは日本、ドイツとともに防共協定を結びました。この3カ国は、ソ連の恐怖に備えるために、枢軸国を結成しました。1939年、ドイツはミュンヘン会談で不参加を約束していたチェコスロヴァキアに侵攻し、チェコスロヴァキアを解体しました。独ソ不可侵条約を締結したドイツは、1939年9月にポーランドに進攻しました。これに対して、フランスとイギリスが宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。ソビエト連邦もポーランドの東半分を占領し、フィンランドとバルト三国を領土に加えました。\nドイツ軍はパリも占領して、ロンドンなどでは民間人への空襲で多くの被害が出ました。ドイツはバルカン半島も占領し、ソ連との関係も悪くなったため、1941年6月に独ソ戦に突入しました。しかし、ドイツはスターリングラードの戦いに敗れ、東部戦線で敗北しました。一方、アメリカは1941年3月に武器貸与法を成立させて、ヨーロッパ戦線でイギリスとソ連を支援しました。1941年12月、ついにアメリカは戦争に参加しました。1944年6月、連合国によるノルマンディー上陸作戦が成功すると、ドイツは西部戦線での戦力を縮小しました。\nナチ党は優生思想に基づき、ユダヤ人、スラヴ人、ロマ、障害者、その他社会的弱者を対象に、組織的な殺害を行いました。特にユダヤ人におびただしい数の死者が出たといわれています[1]。ドイツ軍占領地域では、抵抗運動(レジスタンス)が盛んになり、自力で解放した地域もありました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6"} {"text": "ナチス・ドイツは、ユダヤ人を強制的に隔離された地域(ゲットー)に住むように強要しました。以後、ユダヤ人が次々と各地の強制収容所に送られ、ガス室などで殺されました。しかし、人々はただじっとその時を待っていたわけではありません。\nポーランドの首都ワルシャワに、ユダヤ歴史研究所があります。リンゲルブルム・アーカイブ(別名:ワルシャワ・ゲットー地下史料)は、ユダヤ歴史研究所に保管されています。リンゲルブルム・アーカイブは、1939年から1943年にかけてワルシャワのゲットーへ住むように強制された人達が書いた文書記録です。歴史家エマヌエル・リンゲルブルムらによって収集されました。ゲットーには頭のいい人がたくさんいて、エマヌエル・リンゲルブルムもその一人でした。エマヌエル・リンゲルブルムらは、人々に話しかけ、ナチス党が毎日行った残酷な行為を全て書き留めるように言いました。記録によると、そこに住んでいた人達の中には、収容所に送られた時に自分達がどうなるかを知っていた人もいました。そして、ゲットーの内外で見聞きした内容や後世に伝えたい内容を、自分達の視点で書き残しました。作家の中には知識人ばかりでなく、木工職人のような一般人も結構いました。1942年、多くの人が強制送還されると思われた時、膨大で複雑な書類を牛乳缶に入れ、地下に埋めました。本文章は、戦後、その容器が発見され、調べられ、そこにあった書類と、埋蔵場所を知っている数少ない生存者の話を参考に書かれました。\nしかし、私達はそれを見られません。だから、この最後の願いを書いています。この宝物が良い人の手に渡り、より良い時代まで続くように、そして20世紀に起こった出来事を世界が知り、それに警告を与えられるように。私達は今、穏やかに死ねません。私たちは何をしなければならないか、実行します。歴史が我々に何をしたらよいかを教えてくれますように。\nナチス・ドイツに占領されていたオランダで、アンネ・フランクの日記も他の戦争文学とは少し違っています。日記に「キティ」の声を与え、アンネ・フランクの文体で書かれているので、ほとんどの人はこの作品を日記文学、戦争文学と考えます。しかし、目の前で起こった出来事を伝えているので、歴史的な資料といえます。実際、1944年3月28日、アンネ・フランクはオランダ亡命政府閣僚からの無線連絡に応じて、「戦争中の個人的な記録や手紙を残しておくように」と言われました。\nその場にいない人には「可笑しい」と思える内容でも、戦争に行かなかった人にとっては重要な史料になります。何より、当時の事実を残そうとした人達の姿を実感出来るでしょう。戦争が終わると、アンネ・フランクは『隠れ家』という小説を書きたいと思い、1944年5月11日、日記にその決心を次のように記しました。\nこうして、最初は他の人に読まれるつもりのなかったアンネ・フランクの日記が、他の人に読んでもらえると思って、戦後も出版されるようになりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%81%A8%E3%80%8E%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98%E3%80%8F"} {"text": "1936年、広田弘毅内閣によって「20年計画100万世帯派遣」が国策として決定されました。この頃から満州への農業移民が本格的に始まりました。この計画は、20年後に満州国の人口を5000万人とした場合、その1割に当たる500万人を農業移民としようという内容でした。農業で自給自足が困難な農業所得5段未満の小規模農家の半数にあたる100万世帯が20年間で満州に移住すれば、1世帯5人として満州の日本人は500万人になるという計画でした。満州に多くの日本人を移住させて、対ソ戦に使える人数を増やし、内地の農民を追い出そうと考えました。\nしかし、1937年7月の盧溝橋事件や日中戦争が始まると、当初予定していた成年だけ移住させるという目標が難しくなりました。そこで、「満蒙開拓青少年義勇軍」が作られました。全国から16〜19歳の青年を集めて、日本の研修所で2〜3カ月、満州の青年義勇隊訓練所で3年間訓練し、現地に永住する開拓農業者となるよう指導しようという内容でした。\n各都道府県で志願兵の募集が行われました。入国管理局を担当する文部省が定めた志願者数を満たすため、各県は市町村役場や小学校、退役軍人の団体(在郷軍人会)の協力により、現在の中学3年生、高校1~2年生にあたる小学校・高校課程卒業者を懸命に探しました。教育委員会は、そのほとんどを担当していました。\n義勇軍の国内訓練場として、茨城県東茨城郡下中津村内原(現在の水戸市内原)に内原訓練所が設置されました。訓練生は「日輪兵舎」とよばれる宿舎で、60人ほどの同じ故郷の小隊と一緒に生活しました。内務訓練、農業訓練、教練、武道など様々な分野の訓練を受けました。内原は「満州移民の聖地」と呼ばれ、300棟もの「日輪紡績所」が建てられていました。\n1941年、3年間志願兵になるための訓練を受けていた若者達が、初めて訓練を終えて志願兵となりました。北安や東安などの開拓地は、いずれもソ連との国境に近い場所でした。青年挺身隊は、ソ連との戦争に備えて、農業移民と「鍬の戦士」と呼ばれる準戦闘員の両方を担当しました。\n長野県、山形県、福島県、広島県、熊本県、山口県が横綱、大関、関脇を占めて、ハワイや北米など海外からの参加者も少なくありません。また、沖縄や植民地だった朝鮮半島など、各県から志願者が出ている様子も分かります。\n1945年8月の終戦まで、約10万人が内原研修所に通い、「鍬の戦士」の心構えを学びました。訓練を終えて満州に行った「鍬の戦士」はおよそ8万6500人だったそうです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE16%E6%AD%B3_%E6%BA%80%E8%92%99%E9%96%8B%E6%8B%93%E9%9D%92%E5%B0%91%E5%B9%B4%E7%BE%A9%E5%8B%87%E8%BB%8D"} {"text": "中国との戦争が長引くと、日本はアメリカやイギリスと戦争を始め、戦闘はアジア・太平洋地域にまで広がりました。一方、東南アジアの人々は、戦前から独立を求めていました。戦後、アジアに何が残りましたか?\n1920年代以降、アメリカはワシントン体制でアジア太平洋地域の秩序を維持しようとしました。日本の中国大陸への勢力拡大を防ぎ、日中戦争では中国の国民政府を支援しました。アメリカが日本に提示した和平交渉の条件は、領土と主権の尊重・内政不干渉・通商上の機会均等・平和的方法以外で太平洋秩序の不変更という四原則を守らなければならないとしました。このような和平交渉の条件は、満州国を含む中国大陸の利権を守り、独自の経済圏を築こうとする日本の計画とは合いませんでした。\n日中戦争が長引き、1939年に第二次世界大戦が始まると、日本は資源の豊富な東南アジアに戦線拡大しようとしました。一方、これはワシントン体制への挑戦なので、アメリカとの関係はさらに悪化してしまいます。日本が北方領土の脅威から日ソ中立条約を結ぶと、1941年、フランス領インドシナ南部に軍隊を送り込みました。これを受けて、アメリカは日本に対して石油の全面禁輸を行いました。日本はアメリカとの話し合いを諦め、1941年12月8日、ハワイの真珠湾を攻撃すると、アメリカ・イギリスとの戦争が始まりました。第二次世界大戦後、この戦争は太平洋戦争と呼ばれました。しかし、東南アジア・太平洋地域・中国を巻き込んでいるため、近年は、アジア太平洋戦争ともいわれています。\n開戦後、日本は太平洋に勢力圏を広げていきました。また、アジアを欧米の支配から解放する方法として、「大東亜共栄圏」を築く考えをまとめました。欧米の植民地支配に対抗していた東南アジアの国々は、これを独立の機会と考え、日本に協力する指導者もいました。しかし、日本の占領地域では、日本語の使用や神社の参拝を強制されました。また、強制的に働かされ、輸出などもされました。南洋諸島では、現地の文化も考慮されませんでした。日本はアジアの解放を目指しましたが、植民地の朝鮮や台湾の独立を認めなかったので、それらの地域の人々は「日本人」として戦争に参加しました。\n1943年以降、日本軍はアメリカ軍の攻勢に負けてばかりでした。1945年8月、アメリカは広島市と長崎市に原爆を投下しました。本土空襲・沖縄戦という激しい地上戦の後でした。一方、ソ連は中立条約を破って参戦しました。満州・南樺太・千島列島は全てソ連に占領されました。現在の北方領土問題は、国後島・択捉島・色丹島・北方四島を占領されてから始まっています。このような状況を受けて、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏しました。これで戦争は終わりました。\n日本は自らの考えで、アジアや敵国の人々を傷つけました。日本国民も、特に戦争末期には多くの苦しみを味わいました。そのため、アジアに対する「加害性」が中々見えませんでした。植民地・占領地・戦場では、アジア諸地域の人的被害や物的被害が深刻化しました。また、戦後は人体の損傷・戦争による精神的被害・家族との別れなどから、多くの人が長く辛い生活を送りました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89"} {"text": "ラジオ・新聞・雑誌の広がりで、時代の「空気」が人々の行動に影響を与えるようになりました。価値観や情報は都市から地方へ同じように発信され、大量に作られた商品は誰もが平等に入手出来るようになりました。このような画一化は、大衆の役割をどのように変えていくのでしょうか。\n人々は、マス・メディアのおかげで、自分が国家の一部になっているような気分になりました。例えば、アドルフ・ヒトラーは、映画やラジオを通じて宣伝を広め、全体主義を作り上げました。フランクリン・デラノ・ルーズベルトは、ラジオ放送を通して政策を説明しました。マス・メディアを通じて政治と国民が一体になる新しい時代の到来を予感させる出来事でした。その一方で、世界各地で同じような生活が出来るようになりました。日本でも、1930年代に入ってから新聞やラジオが急速に普及するようになり、都会でも田舎でも情報を簡単に手に入れられるようになりました。また、ラジオから音楽・漫談・落語を聴けるようになりました。戦前、日本人は西洋の映画や音楽に親しんでいました。しかし、戦後はマス・メディアの宣伝によって、「鬼畜米英」に対して敵意を感じるようになりました。\n総力戦は、国民生活に溶け込むように戦いました。ドイツでは、ナチ党が制服を着せ、特定の行動を取らせて、集団の一員として意識させました。アメリカでは、企業や民間団体がその時代に合った運動を行い、生活の中で国民を結びつけました。日本では1938年の日中戦争で、国家総動員法を制定しました。国家総動員法によって、戦争に勝つために人や物資を集めました。国民は市民として仕事をしながら、近所や職場で組織を作り、戦争に協力しなければならなくなりました。日本では、町内会・国防婦人会・在郷軍人会など、地域の人達の集まりが充実していました。出征兵士の見送りや興亜奉公日などの学校行事もあり、子供達も「小国民」として戦争に参加したような気分になりました。\n総力戦をするために、国民が生計を立てる方法を考え、働きながら次世代の兵士を育てられるような健康状態を整える必要がありました。戦時中の日本は、健康保険制度を整え、母子の健康管理について多くの説明書を配りました。1938年、厚生省はこうした政策を担当するようになりました。また、生活必需品に公定価格が定められ、各家庭では必要な量だけ手に入れられるようになりました。\n これらの施策によって、国民生活の差がなくなっても、無秩序な物資の取引などが行われていました。そのため、全ての国民生活が平等になりませんでした。また、戦争に役立つと見なされない人々は、ひどい扱いを受けました。\n植民地に住む人々は、自分達の力で近代化を進められません。そのため、植民地では、外から来た支配者の利益のためにインフラを整備していました。また、伝統的な暮らしや文化は、原始的で非文化的な存在として否定されました。\n総力戦が始まると、植民地の民衆も強制参加されました。指導者達は、国民が国を離れていかないように、戦争について教えるようにしました。日本の植民地では、植民地に溶け込めるような同化政策がとられました。例えば、天皇に服従したり、常に日本語を話したり、日本で一般的な名前を名乗るなどです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%8C%E5%A4%89%E3%81%88%E3%81%9F%E4%BA%BA%E3%80%85%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%97"} {"text": "第二次世界大戦後、アメリカとソビエト連邦は、どちらが主導権を握ればよいのか、争いました。そして、第二次世界大戦の終結は、今後さらなる争いの種をまきました。戦後、世界はどんな様子になっていたのでしょう。\n1941年に第二次世界大戦が始まると、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、大西洋上で会談して、戦後の計画について話し合いました。この会談がきっかけとなり、大西洋憲章が成立しました。これを踏まえて、1942年に連合国共同宣言を発表して、加盟国を増やしました。1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の首脳がヤルタ会談で、ドイツをどう占領するか、戦後の国際連合をどうするかという話をしていました。\n一方、1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸以降、ドイツは徐々に追い込まれていました。アドルフ・ヒトラーが、1945年4月に自殺すると、ドイツは首都ベルリンをソ連軍に陥落されて降伏しました。ドイツの指導者達は、ニュルンベルクの国際軍事裁判で裁かれました。\n戦争中に資本主義国と社会主義国が協定を結んでも、終戦後、アメリカとソビエト連邦は再び争うようになりました。アメリカはトルーマン・ドクトリンによって、1947年にギリシアとトルコに軍事援助を行いました。また、マーシャル・プランによって、ヨーロッパ全土に経済援助を行いました。これは、第二次世界大戦後、世界各地で高まっていた社会主義運動を食い止めるために行われました。アメリカの封じ込め政策に反発するように、ソビエト連邦は、各国の共産党が連絡を取り合い、協力するための組織[Cominform]を設立しました。また、1949年、ソビエト連邦は経済相互援助会議[Council for Mutual Economic Assistance]を主導しました。\n1948年、ソビエト連邦は、アメリカ主導の通貨改革に納得出来なかったため、ベルリンを封鎖しました。こうして、1949年からドイツは東西に大きく分かれました。1949年、西ヨーロッパ、アメリカ、カナダの資本主義諸国が集まって、北大西洋条約機構[North Atlantic Treaty Organization]を結成しました。ソビエト連邦と軍事的に対抗する安全保障体制を整えるためでした。しかし、1955年にソビエト連邦を中心とした東欧諸国がワルシャワ条約機構を作りました。アメリカとソビエト連邦は、第二次世界大戦後の世界を左右する東西緊張関係(冷戦)の中心にいました。\n1945年、連合国50カ国が「国際連合憲章」を採択しました。これを受けて、国際連合が誕生しました。国際連合は、ニューヨークに本部を置きました。平和維持活動を行う安全保障理事会・総会・国際司法裁判所から成り立っています。武力行使を含む幅広い制裁を行う権限を持てるようになりました。また、国際通貨基金や国際復興開発銀行を設置して、保護貿易から自由貿易への転換を推進するとともに、経済のグローバル化にも貢献しました。しかし、アメリカドルはブレトン・ウッズ体制(固定相場制)の基軸通貨なので、世界経済がアメリカ経済の影響を受ける可能性もありました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AA%E6%9E%A0%E7%B5%84%E3%81%BF"} {"text": "敗戦後、日本は6年間も無政府状態でした。冷戦とGHQの政策によって、日本は天皇の立場を変え、軍国主義を改めて、新しい国を作ろうとしました。この大きな変化の中で、人々の心はどのように変化し、何が変わらなかったのでしょうか。\n敗戦後の日本は、ドイツなどのように東西陣営に分断するのではなく、連合国軍に占領されました。東京の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、アメリカ政府から指示を受けて、日本政府に提案を行いました。日本を軍国主義から民主主義にするための戦後改革が進められました。日本国憲法は、国民主権を認め、世界で初めて戦争を放棄しました。その後、新しい日本の基礎となりました。農地改革や財閥解体など、様々な分野で改革が進められました。こうして、戦後の国民生活の基礎が整えられました。\n極東国際軍事裁判(東京裁判)では、連合国が裁判官を選び、誰が戦争責任を負わなければならないかを調べ、判決を出しました。軍部・閣僚・官僚が大衆を戦争に向かわせたと責められても、天皇制は維持されました。\n空襲で日本の各都市は破壊され、戦後になって駅前や広場に闇市が出来ました。食料品を含む色々な品物が高値で売られていました。戦時中は、両親を失う子供も続出しました。\n戦時中、日本は広い地域に進出したため、海外でも多くの戦闘に敗れました。終戦直前には中国の内戦やソ連の満州侵攻によって、帰国困難者が発生しました。ソ連軍にシベリアに連れて行かれた人達は、強制労働などで亡くなりました。帰国出来るようになったのは、日ソ共同宣言が結ばれた1956年になってからです。また、子供達も家族を失い、中国人に育てられました。その後、女性達も中国に残り、中国人と結婚しました。日本兵の中にも、東南アジアの戦争終結に貢献しており、現地の独立運動に参加しました。\n1950年に朝鮮戦争が始まると、「朝鮮特需」で国連軍に軍事物資を提供していました。このため、日本経済が回復しました。朝鮮半島の情勢が悪化すると、アメリカは日本との平和条約締結を急ぎました。1951年、サンフランシスコ講和会議が開かれました。サンフランシスコ平和条約は、ソ連と中国を除く全ての国と調印して、日本の独立を回復しました。また、日本とアメリカは日米安全保障条約を結び、アメリカ軍を日本に残しました。1954年になると、国の防衛力を高めるために自衛隊が誕生しました。さらに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに運営を任せて、アメリカの重要な軍事基地となりました。一方、中国・ソ連との平和条約は締結されず、ソ連は北方四島を占領したままで、対中戦争の戦争責任問題も後回しになりました。\n日本は連合軍の圧倒的な力によって無条件降伏すると、占領されました。それだけではなく、アジア冷戦の影響も受けました。こうした背景から他のアジア諸国と向き合い、和解する機会を逃してしまいました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%95%97%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2"} {"text": "アメリカとソ連の戦争は、第二次世界大戦後の東アジアの情勢を大きく変えました。中華人民共和国と台湾に中華民国政府、朝鮮半島に大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国を建国させました。第二次世界大戦後、東アジアの秩序はどのように変化したのでしょうか。\n1945年に日本が敗戦すると、国民党の蒋介石と共産党の毛沢東は双十協定を結びました。その時、新しい国家をつくるために政治協商会議の開催に合意しました。1946年に本格的な国共内戦が始まると、3年後に中華人民共和国が誕生しました。中国共産党の毛沢東が中央人民政府主席、周恩来が総理になりました。その結果、社会主義陣営はさらに力をつけました。中ソ友好同盟相互援助条約によって、中華人民共和国とソビエト連邦の間に提携関係が生まれました。また、中華人民共和国の工業化を進めるため、人材交流も活発化しました。一方、蒋介石の国民党政府は台湾に中華民国を建国して、アメリカの支援を受けながら大陸に反撃したため、中国が分断されました。\n毛沢東主導の中華人民共和国は、大躍進運動で食糧や鉄鋼の増産を図りましたが、失敗しました。1960年代になると、ソ連と問題を起こし、国境問題でインドと縁を切りました。そのため、1970年代になるとアメリカに接近するようになりました。\n朝鮮半島は日本の植民地支配から解放されても、北緯38度線に沿って、北はソ連軍、南はアメリカ軍に分割占領されました。南北の戦争は激しくなり、朝鮮半島は冷戦の最前線となりました。1948年、南部に大韓民国(李承晩大統領)がアメリカの支援を受けて建国しました。一方、北部に朝鮮民主主義人民共和国(金日成首相)がソビエト連邦の支援を受けて建国しました。こうして、朝鮮半島は完全に分断されました。1950年に北朝鮮が韓国に侵攻して朝鮮戦争が始まると、朝鮮半島のほぼ全域が朝鮮民主主義人民共和国の支配下に置かれました。しかし、アメリカは軍隊を送り込み、アメリカ軍を中心とした国連軍を立ち上げました。一方、中国も義勇軍を送りました。その結果、板門店で休戦協定が結ばれ、朝鮮戦争は終わりました。しかし、北朝鮮と韓国間の線引きはそのままでした。朝鮮戦争では、民間の日本人も輸送軍務に協力するようになり、犠牲になりました。\n大韓民国は、休戦協定以降の1960年代に軍人朴正熙がクーデタで政権を握りました。朴正熙は工業化も進めました。大韓民国と中華民国(台湾)は、アメリカの支援を受けながら資本主義的な経済成長を遂げ、1980年代には民主化も進みました。一方、朝鮮民主主義人民共和国では、金一族による軍部優先の独裁体制が続きます。\n日本は敗戦すると、台湾統治を放棄しました。やがて国民党が政権をとった時、戦前から暮らしていた人達に、国民党の思い通りになるように強要しました。本省人は煙草の密売を取り締まったら怒ったので、二・二八事件に発展しました。機関銃で次々と人が殺され、本省人エリートは警察に検挙されて、処刑されました。1947年の二・二八事件以降、戒厳令が敷かれ、独裁者が統治するようになりました。戒厳令は、30年後の1987年に廃止されました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%86%B7%E6%88%A6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2"} {"text": "東京・渋谷駅では、2008年から、JR線と京王井の頭線の間の通路に、長さ30メートル、高さ5.5メートルの巨大な作品が展示されています。その作品は『明日の神話』と名付けられています。原爆が爆発したらどうなるかを描いています。画面から圧倒的な破壊力と上昇するエネルギーが伝わってきます。しかし、この作品は単なる被害者の絵ではありません。作者の岡本太郎は、「人は最悪の悲劇も誇りを持って乗り越えてこそ、『明日の神話』が生まれます。」と強いメッセージを込めました。\n原爆が投下された出来事は、私達日本人がいかにひどい戦争だったかという「記憶」としてずっと残っています。渋谷駅でこの作品を見た時、原爆が投下された瞬間が描かれていると思い、とても衝撃を受けました。これは、私達が皆、この悲劇を覚えている証拠です。日本は世界で唯一、原爆で傷ついた国です。そのため、岡本太郎は原爆を「誇りをもって乗り越えなければならない悲劇」として書きました。被爆者をはじめ、様々な立場の人々が、二度とこのような悲劇が起こらないように、この「記憶」を語り継ごうとしてきました。被爆時に生きていた人が減り、被爆後に生まれ、その被害を知らない、関心がない人が増えている現在でも、悲劇から前に進むための「記憶」は、映像や文章によって、次の世代に伝えられています。\nしかし、それぞれの立場の「記憶」がどのように残されているか、考えてみましたか?アメリカの首都ワシントンD.C.にあるスミソニアン国立航空宇宙博物館の別館には、B-29爆撃機がいつも展示されています。エノラ・ゲイと呼ばれる愛称です。1945年8月6日、広島に原爆が投下されました。アメリカの多くの人々は、原爆投下は正しい行為だったと思っています。日本に戦争を放棄させ、多くの米兵の命を救うために必要だったという点では、誰もが認めています。このように考えると、原爆が投下された歴史的事実と「記憶」のあり方は、大きく異なっています。正義には様々な種類があり、それぞれの立場があります。太平洋戦争(アジア・太平洋戦争)[1]は、アメリカで「Good War(良い戦争)」と呼ばれています。\n「記憶」が新たな争いを生んでいる場合も少なくありません。よく「歴史は繰り返す」という言葉がありますが、人々が自分の立場で出来事を「記憶」して、次の世代に伝えているからでしょう。同じ出来事でも、違う立場の人が違う形で「記憶」している可能性もあります。SNSやVRが流行した現在、私達はより多くのやり方で物事を「記憶」出来ます。ある事象を判断・評価する際には、一つの視点からだけでなく、異なる立場からどのように見られるかを考えてみましょう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%82%92%E3%80%8C%E8%A8%98%E6%86%B6%E3%80%8D%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8"} {"text": "日本への原爆投下後、欧米ではすでに、原子力が持つ膨大なエネルギーを平和的に利用する方法が考えられていました。それが原子力発電という形になりました。1953年、ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー大統領は国際連合総会の演説で、原子力の平和利用を推進しつつ、軍事利用を食い止めるための国際機関の設立を呼びかけました。その結果、1957年に国際原子力機関[International Atomic Energy Agency]が設立されました。\n戦後、原爆が投下された広島の市民は、核兵器をなくしたいという思いと、原子力を平和利用したいという思いの両方を持っていました。この2つの考え方は、お互い矛盾しませんでした。初めて原子力の被害を受けた広島こそ、原子力の平和的恩恵を受ければよいという声が上がり、広島市内に原子炉を建設しようという動きも出てきました。1955年、日本とアメリカは日米原子力研究協定を結びました。その結果、アメリカから日本に濃縮ウランの貸し出しが認められました。ほぼ同時期に制定された原子力基本法では、「民主」「自主」「公開」の三原則に基づかなければならないと定められました。この法律から、原子力の研究・開発・利用は平和目的に限定するようになりました。1956年4月、茨城県東海村に原子力研究所の開設を決定しました。1957年8月、臨界実験に成功すると、日本で初めて「原子炉の火」が点きました。\n現在、原子力エネルギーは世界中で平和利用されており、各地で原子力発電所が建設されています。2度の石油危機を経験したため、石油の代替エネルギーとして原子力発電が世界で注目されるようになりました。フランスは1970年代から原子力発電所の建設を推進してきました。フランスが目指しているのは、「エネルギーの独立」です。現在でも、フランスは電力の約70%を原子力発電所から賄っている上、近隣諸国にも電力を送っています。\nしかし、アメリカでスリーマイル島原発事故(1979年)、ソビエト連邦でチェルノブイリ原発事故(1986年)、日本も福島第一原発事故(2011年)が起こり、ヨーロッパ各国は原子力・エネルギー政策の大きな転換を迫れられました。スウェーデン・イタリア・オーストリアでは、国民投票によって脱原発が決定されました。ドイツでは、1990年代から脱原発の動きが加速して、2022年末までに全ての原子力発電所を廃止する方針を固めました。この動きと並行して、ドイツでは風力や太陽光などの再生可能エネルギーの利用を拡大しつつ、国民に省エネルギーを呼びかけています。\n一方、2011年以降、世界の原子力発電量は増えています。中国を中心としたアジアやロシアでも、新しい原子力発電所を建設して、電力を送り始めようとしています。今後も世界中で原子力の平和利用が進むと予想されます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E6%A0%B8%E3%81%A8%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC"} {"text": "本節は、ナショナリズムの特集です。高校生には難しい論点ばかりなので、興味がある人だけ読み進めてください。実際の国際関係論は、このように奥深く、ナショナリズムを解説しています。\nナショナリズムとは、全国民が同じ仲間意識を持つ考え方です。政治学や国際関係からナショナリズムを見ると、ヨーロッパが近代に入ってから出来た言葉だと分かります。言葉「ナショナリズム」は古代や中世に見られません。ヨーロッパの封建制が中世に入って崩壊すると、絶対王政がイギリス・フランス・オランダなどで発展します。こうして「イギリス人」「フランス人」「日本国民」と意識されるようになりました。\n私達2人はフランス出身なので、文法や発音も現地と同じなので、同じフランス語を話します。このような国民意識は、国民が共通の言語・歴史・伝統を持つからこそ、より深まりました。また、教育を通じて自国の素晴らしい歴史が後世に伝わると、より高い愛着(愛国心)を感じられます。しかし、このような愛国心は、仲間達と同じ価値観を共有していて、皆で力を合わせようという気持ちを思い出させてくれます。一方、違う見方をすると、違う信条を持つと敵視され、国内から追い出したり、国内にいても差別的な扱いを受けたりする危険性があります。例えば、「外国人は国から出て行け」「お前は国民じゃない」というような言い方をすると、様々な悲劇に見舞われています。\n歴史を振り返ると、西欧型ナショナリズムは、「普遍的帝国」→「局地的な地方政治」→「一元的専制」→「政治的統合」のように発展してきました。\nナショナリズムはヨーロッパで始まり、アジアやアフリカなど世界各地に広がりました。植民地支配や社会的支配がなくなると、非ヨーロッパ諸国で国民主義政府の誕生に繋がります。また、生活圏・文化圏・コミュニケーションなどが整っていない場合、ナショナリズムの単位も小さくなります。途上国では、ナショナリズムの指導者として有名な学者は少ないかもしれません。よって、ナショナリズム運動は弱まっていると言えるでしょう。また、途上国のナショナリズム運動は2種類あります。\nヨーロッパは、中産階級や新興市民層(ブルジョワジー)が国民国家の必要性を感じるようになると、ナショナリズムを強める傾向にあります。このようなナショナリズムは、民主主義思想(右翼思想)と繋がりやすくなります。一方、インターナショナリズム(国際的労働運動)は、労働者や下層民衆が奴隷や苦労から逃れようとする傾向にあります。労働者が自分達の権利を守るために、国家ではなく世界的一体感を求めるため、インターナショナリズムは社会主義思想(左翼思想)と頻繁に結びついています。\n国家に縛られないからこそ、人種・国籍・場所に縛られない社会を作れるかもしれません。このような考え方をコスモポリタニズム(世界市民主義)といい、それを支持する人達をコスモポリタンといいます。\n国家は、同化政策と同じように、エスニシティの居住国と強い結びつきがあれば、その民族を政治に参加させても構いません。エスニシティの指示で、政治的正統性を取得出来ると考えられています。しかし、エスニシティと国家の関係が対立すると、国家は中々まとまらなくなります。なぜなら、このような国家から抜け出して独立するために、激しい抗議運動を始めるかもしれないからです。\nアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどのように、ほとんどの途上国には豊富な天然資源を持っています。天然資源を利用して自国の近代化と経済成長を図り、残った天然資源を先進国の貿易材料に利用しようという考え方(資源ナショナリズム)が途上国で生まれました。1970年代になると、産油諸国が資源ナショナリズムに従って原油価格を引き上げました。その結果、先進国は大きな影響を受けました。なお、資源ナショナリズムと似たような表現で開発独裁があります。開発独裁はフェルディナンド・マルコス政権時代のフィリピンやスハルト政権時代のインドネシアで行われました。\nブルース・ラセットは、著書『パクス・デモクラティア』の中で民主的平和論を取り上げています。民主的平和論によると、民主主義国同士は、民主主義国家と非民主主義国家間、非民主主義国家間よりも戦争につながりにくいと考えられています。\nしかし、民主主義体制だと、相手が非民主主義国家なら戦争しても構わないと考える傾向があります。例えば、アメリカは日本とおそらく戦争をしないでしょう。しかし、アメリカがアフガニスタンやイラクを攻撃したのは、アメリカの民主主義の基準を満たしていなかったからでしょう。\n民主的平和論は、カント的国際政治観とも呼ばれ、近代ドイツ哲学者イマヌエル・カントの『永遠平和のために』に由来する政治理論です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0"} {"text": "1945年に出来た国際連合憲章には、全ての人に同じ権利と自分で決める権利があると書かれています。しかし、旧植民地が独立してからその後の発展を遂げるのは困難でした。アジアやアフリカの国々はどのように独立をして、世界に何を伝えたのでしょうか。\n第二次世界大戦は、アジア・アフリカの植民地や委任統治領を担当していた列強を疲れさせました。また、これらの地域の人々にも、独立出来るかもしれないという希望を与えました。\n1942年、日本軍がオランダ領東インドを占領しました。その後、1945年8月になって、スカルノらがインドネシア共和国の独立を宣言しました。1949年、インドネシア共和国は戦争でオランダを破って独立しました。1940年、フランス領インドシナは日本軍に占領されました。日本軍に抗議する運動が、ホー・チ・ミンらによって展開されました。1945年9月、これをきっかけにベトナム民主共和国(北ベトナム)が誕生しました。ベトナムと旧宗主国のフランスは、1946年にインドシナ戦争を開始しました。フランスはこの戦争を認めませんでした。1949年、フランスはベトナムに傀儡政権(南ベトナム)を建国しました。しかし、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランスは敗れ、ジュネーヴ休戦協定により北緯17度線が南北ベトナムの軍事境界線となりました。そして、アメリカの支援を受けて、北緯17度線の南側にベトナム共和国が成立し、国土は永久に南北に分断されるようになりました。\n第二次世界大戦中、南アジアはイギリスの植民地でした。ジャワハルラール・ネルーと国民会議派は統一インドの独立を目指し、ムハンマド・アリー・ジンナーとインド・ムスリム連盟はパキスタンの独立を目指しました。インドとパキスタンの争いが激しくなると、1947年、両国は独立を果たしました。\n中東では、イギリス軍とフランス軍も撤退していました。第二次世界大戦終戦後まもなく、イギリスとフランスの支配下にあったヨルダンとシリアが独立しました。一方、パレスチナでは、イギリスの委任統治時代に移住してきたユダヤ人が、地元のアラブ人が反対する中、1948年にイスラエルの建国を宣言しました。\n北アフリカは、1956年にチュニジアとモロッコが独立するまで、フランスの植民地でした。アルジェリアは長い紛争の末、1962年に独立しました。黒人アフリカでは、1957年にクワメ・エンクルマがガーナ共和国を独立させました。1960年には、他の17カ国も独立を果たしました。この年は「アフリカの年」といわれるようになりました。\nアメリカとソ連の冷戦時代、アジアやアフリカの国々は第三世界を作るために手を組もうとしました。1954年、中国の周恩来とインドのジャワハルラール・ネルーが平和五原則に合意しました。1955年、日本を含む29カ国がインドネシアのバンドンに集まり、植民地主義の廃止と平和共存を謳った平和十原則に合意しました(アジア・アフリカ会議)。1961年、非同盟諸国首脳会議が開催されました。非同盟諸国首脳会議は、ユーゴスラビアのヨシップ・ブロズ・チトーとエジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルらの呼びかけで、開催されました。独自の社会主義やアラブ民族主義といった非同盟運動の立場から、世界の平和共存と民族解放を宣言しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E8%84%B1%E6%A4%8D%E6%B0%91%E5%9C%B0%E5%8C%96%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%AB%B8%E5%9B%BD"} {"text": "冷戦が進むにつれて、ベトナム戦争や中東戦争など、世界各地で戦争が起こりました。それぞれの戦争が始まった時、どのような背景で発生して、どのように歴史を変えたのでしょうか。\n独立したばかりのアジアやアフリカの国々は、アメリカとソ連の冷戦に巻き込まれました。そのため、世界各地で地域紛争や代理戦争が発生しました。インドシナ戦争後、南ベトナムの国民は、アメリカが支援する独裁体制に不満を強めていきました。1960年、南ベトナム解放民族戦線が結成され、ベトナム軍と政府軍が激しく争いました。1965年、アメリカは北ベトナムが支援する解放戦線を食い止めるため、北ベトナムへの空爆を開始しました(ベトナム戦争)。アメリカは50万人以上の軍隊を送り込みましたが、北ベトナムと、ソ連や中国の支援を受けた解放戦線は激しく反撃しました。アメリカでは反戦運動が高まり、1973年にベトナム(パリ)和平協定が締結されると、ベトナムから撤退しました。その後、1975年、北ベトナムが南ベトナムを併合しました。1976年にベトナム社会主義共和国が誕生しました。\nイスラエルは、建国宣言後、近隣のアラブ諸国との戦争(第一次中東戦争)に勝利して独立を果たしました。その結果、多くのアラブ系パレスチナ人が故郷を離れ、周辺諸国へ避難しなければならなくなりました。\nこの後、エジプト大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルがアラブ民族主義の指導者となりました。1956年、ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領はイギリス・フランス領のスエズ運河をエジプトが引き継ぐと発表しました。これを受けて、イギリスはフランスとイスラエルから軍隊を送り、第二次中東戦争に発展しました。国際的な批判とアメリカやソビエト連邦の反対で3カ国が軍隊を撤退させると、ガマール・アブドゥル=ナーセル大統領の評判が上がりました。\nしかし、1967年の第三次中東戦争で中東の政治情勢は変わりました。エジプト・シリア・ヨルダンがイスラエルの電撃戦に敗れ、イスラエルがガザやヨルダン川西岸を含むパレスチナ全土を占領しました。ガマール・アブドゥル=ナーセルが権力を失い、パレスチナ人自身が先頭に立って、自由を求めて戦うようになりました。1964年に結成されたパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)は、パレスチナ人の声を伝える機関として、世界中で注目されるようになりました。\n1970年代、アラブ諸国はイスラエルとの戦いよりも国内の成長を優先させる現実的な道を歩むようになりました。エジプトとイスラエルは、ガマール・アブドゥル・ナーセルから引き継いだアンワル・アッ=サーダート大統領の時代に、イスラエルと第四次中東戦争を戦いました。1978年、アメリカはエジプトとイスラエルの和平協定に合意しました。しかし、イスラエルは第三次中東戦争で占領された地域にユダヤ人の移民を進めてしまいました。そのため、問題の解決を難しくしました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%86%B7%E6%88%A6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E7%B4%9B%E4%BA%89"} {"text": "1968年頃、若者・女性・黒人などが世界各地で社会運動を起こしました。1968年という年は、世界の歴史の中でどのような意味を持つのでしょうか。\n第二次世界大戦後、クレメント・アトリーがイギリスを支配しました。フランスのシャルル・ド・ゴールは、主要産業の買収と社会保障制度の整備によって、戦後復興を目指しました。イギリスの「ゆりかごから墓場まで」思想に代表される福祉国家政策は、戦後の西側資本主義国に共通する考え方でした。福祉国家政策とは、「大きな政府」による富の再分配です。政府が低金利と公共投資を増やせば需要も増え、完全雇用と社会政策の充実を図らなければならないというケインズ派の考え方に基づきます。1955年、日本は55年体制と呼ばれる政治体制が敷かれました。保守的な自民党が与党、革新的な日本社会党や日本共産党が野党の代表的な政党でした。経済成長を背景に、公共事業や補助金を活用した再分配政策が行われました。\n1960年代、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディとリンドン・ジョンソンがアメリカ政府を指揮していた頃、「偉大な社会」思想に基づいて福祉の充実が進められました。しかし、ベトナム戦争への出費や社会福祉予算の増大が財政を圧迫しました。また、1960年代以降、国際的に見たアメリカの地位は低下しました。一方、ソ連では、ニキータ・フルシチョフがヨシフ・スターリンの重工業重視の政策を変えて、農業生産を増やしましたが、経済的に行き詰まりました。\n1960年代後半から1970年代前半にかけて、資本主義国・社会主義国を問わず、活発な社会運動が展開されました。例えば、アメリカではベトナム反戦運動・公民権運動・女性解放運動などがあります。また、大学紛争・チェコスロヴァキアの「プラハの春」・中国の「文化大革命」なども挙げられます。1968年頃、これらの社会運動は世界中に広がりました。社会主義政党と結びついていた労働運動などの伝統的な社会運動とは異なります。\n「ニューレフト(新左翼)」と呼ばれる新しい社会運動には、自国に限らない共通点がありました。例えば、ベトナム戦争に反対したり、文化大革命を支持したり、第三世界の力が強まる中で社会的少数派に大きな関心を寄せていました。また、運動の中心となった若者達は、伝統的な権力を持った文化とは異なるカウンターカルチャーに参加していました。\nこのような運動が各国の政治や社会に与えた影響はまちまちですが、人種・性別・環境・移民・難民など多様な論点は、その後の新しい社会運動の基礎となりました。また、カウンターカルチャーは消費文化とも結びつき、サブカルチャーを中心に現在の文化やライフスタイルに影響を与えました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%85%88%E9%80%B2%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%81%A8%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E9%81%8B%E5%8B%95"} {"text": "冷戦時代、ソ連を中心とした国々は核兵器を手に入れました。アメリカは世界で唯一、核兵器を使用した国でした。核兵器がどんどん作られていく中で、核兵器の脅威は世界をどのように変えていったのでしょうか。\nアメリカが原爆を投下した時、多くの日本人が犠牲になりました。日本は「唯一の戦争被爆国」と言われますが、広島・長崎では国籍を問わず多くの人が犠牲になりました。その中には、日本の統治下にあった台湾や朝鮮半島の人達や連合国軍の捕虜も含まれています。放射線を浴びた人達は、今もその影響を受けています。\n第二次世界大戦後、1949年にソ連が原爆を手に入れると、1952年にイギリスも原爆を手に入れました。その結果、アメリカの核兵器独占が崩れました。1952年にアメリカが水素爆弾(水爆)の実験に成功すると、1953年にソビエト連邦も水素爆弾(水爆)の実験に成功しました。1960年代には、フランスも中国も核兵器を作りました。\n核保有国の核実験や原子力発電所の事故などで、国民が被曝したり、亡くなったりしました。このため、核兵器の脅威は世界的な問題となりました。1954年、西太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験による「死の灰」で、日本の漁船第五福竜丸の乗組員1名が死亡しました(第五福竜丸事件)。その結果、原爆や水爆といった核兵器に反対する運動はより活発になりました。\n1959年、フィデル・カストロはキューバで革命を起こして、親米政権を倒しました。その後、フィデル・カストロは社会主義思想を支持しつつ、ソ連に接近しました。1962年、ソ連がキューバにミサイル基地を建設しました。このため、アメリカとソ連の間で核戦争が起こる可能性が高まりました(キューバ危機)。しかし、ソ連が譲歩したため、戦争は起こりませんでした。これを受けて、アメリカとソ連の関係は改善されました。1963年、アメリカ・イギリス・ソ連の3カ国は、部分的核実験禁止条約に調印しました。また、1968年には国連で核拡散防止条約が成立しています。1967年、日本の佐藤栄作首相は、核兵器を「持たない」「作らない」「持たせない」という非核三原則を打ち出しました。1972年、アメリカとソ連が戦略兵器削減交渉に調印しました。1980年代には戦略兵器削減交渉が進み、1987年に中距離核戦力全廃条約が調印されました。\nソ連の崩壊後、アメリカとロシアは、戦略的核兵器の軍縮に取り組んできました。核軍縮は、国連安全保障理事会・国際原子力機関・核保有国同士が協議しながら推進してきました。一方、核軍縮に反対する動きもあります。包括的核実験禁止条約は1996年に署名されました。しかし、アメリカなどが批准していないため、まだ発効していません。北朝鮮は1993年、核拡散防止条約から脱退すると発表しました。それ以来、数回の核実験を行ったと伝えています。また、1998年にインドとパキスタンが地下核実験を行い、イスラエルも近隣のアラブ諸国と対立を続けているため、「事実上の核保有国」と呼ばれています。「核抑止論」は世界的に根強い考え方なので、核拡散が心配されます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%A0%B8%E5%85%B5%E5%99%A8%E3%81%AE%E8%84%85%E5%A8%81%E3%81%A8%E6%A0%B8%E8%BB%8D%E7%B8%AE"} {"text": "第二次世界大戦後の世界では、国や地域の安定と成長を求めて、多くの組織が協力し合ってきました。これらの組織はどういった活動をしたのでしょうか。\n30年足らずの間に2度の本格的な戦争を戦ったヨーロッパ諸国は、その国力に大きな打撃を受けました。植民地が次々と独立する一方、アメリカやソ連の台頭でその地位は低下しました。第二次世界大戦後、東ヨーロッパ諸国は、ソ連を中心とした社会主義圏として復興を目指しました。一方、西ヨーロッパ諸国は、アメリカの経済に支えられて復興を遂げました。その後、フランスはドイツ(西ドイツ)と共同で、フランスの軍事力を支える資源や産業を管理するように提案しました。1952年、イタリアとベネルクスがそれぞれドイツとフランスに加わり、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を創設しました。これを基礎に、1958年にヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)を創設して、共通市場と共通経済政策を作り上げました。1967年に上記3つが合体してヨーロッパ共同体(EC)が誕生しました。当初、イギリスをはじめとするイギリス連邦の国々は、この動きから遠ざかっていました。しかし、1973年にイギリス、デンマーク、アイルランドがヨーロッパ共同体に加盟して、ヨーロッパ協同体が大きくなり、西ヨーロッパが一つになる動きが加速しました。\n第二次世界大戦後、独立を果たしたアジア諸国は、決して順調な道を歩んできたわけではありません。その背景に、冷戦と経済問題がありました。アメリカは、中国での共産党政権の誕生、朝鮮戦争やインドシナ戦争の発生を受けて、反共産主義の安全保障体制づくりを進めました。そのため、1950年代中頃に東南アジア条約機構を組織して、南ベトナムに親アメリカ政権を樹立しました。やがて、東南アジア諸国では、軍部や官僚を背景とした政府が権力を握るようになりました。これらの政権は、外国資本の導入と国内資源の運用を計画的で強権的に進めました。そして、アメリカの支援と日本との経済協力によって、東南アジア諸国の経済を成長させようとしました。タイのサリット・タナラット、フィリピンのフェルディナンド・マルコス、シンガポールのリー・クアンユー、インドネシアのスハルトなどが開発独裁政権です。政治的には親アメリカでも、計画経済など共産主義的な手法をとる独裁者もいます。\n1960年代中頃、ベトナム戦争の悪化を受けて、タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア、シンガポールが集まり、東南アジア諸国連合(ASEAN)を結成しました。東南アジア諸国連合の目的は、東南アジアの政治的安定と経済的協力を図るためにありました。当初、東南アジア諸国連合は反共産主義を掲げていましたが、ベトナム戦争後、経済協力に重点を置くようになりました。各国の経済が発展すると、各国で民主化への動きも高まりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E8%A5%BF%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BB%E6%9D%B1%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E9%80%A3%E6%90%BA"} {"text": "1951年にサンフランシスコ平和条約が結ばれたとはいえ、アジア諸国間の問題が全て解決されたわけではありません。日本は独立後、アジア諸国との関係をどのように回復して、再編したのでしょうか。\n吉田茂内閣に代わって、鳩山一郎内閣が「自主外交」を推し進め、1956年に日ソ共同宣言を結んで、ソ連との関係改善に取り組みました。その結果、日本とソ連の国交は正常化され、領土問題の解決は平和条約を結ぶまで先送りされました。日本は、国連安全保障理事会の常任理事国ソ連との国交が正常化した1956年に、国連に加盟しました。\n佐藤栄作内閣は、池田勇人内閣の日韓国交正常化を引き継ぎました。アメリカがアジアの安定を望んでいたので、韓国の朴正煕(パク・チョンヒ)政権との国交正常化交渉を続けていました。日本国内では、北朝鮮と国交を正常化しないで、韓国だけと国交を正常化しようとする動きに反対意見がありました。また、韓国でも学生を中心に条約の内容に反対する声がありました。しかし、1965年、日本と韓国の間で日韓基本条約が結ばれると、日韓の国交は正常化されました。\n1971年、ベトナム戦争で混乱して経済が悪化していたため、人々は金とドルを交換出来なくなってしまいました。このドル・ショックで、アメリカのアジアに対する考え方が変わって、アメリカは中国ともっと仲良くしようとするようになりました。また、中国とソ連の対立が激しくなったため、中国もアメリカに近づきました。中国がソ連の政策変更に反対して、両国の国境紛争が始まりました。1971年、中華人民共和国が国連に加盟して、中華民国(台湾)が脱退しました。1972年、アメリカのリチャード・ニクソン大統領が突然中国に訪問すると、日本は中国との国交正常化を急ぐようになりました。佐藤首相の後を受けた田中角栄首相は、1972年に中国へ渡りました。そこで周恩来首相と日中共同声明を結んで、日中間の国交を正常化しました。一方、中華人民共和国を唯一の合法的政府として認め、日本は中華民国との公式な国交を絶ちました。\n日本のアジア諸国への戦争賠償は、サンフランシスコ平和条約が結ばれてから、国ごとに取り決められ、経済協力という形で進められました。現在も日本とアジア諸国は、賠償金、領土問題、歴史認識などを巡って争いを続けています。\n1953年に奄美が、1968年に小笠原諸島が日本に返還されました。しかし、沖縄はまだアメリカによって統治されていました。1960年代以降、沖縄では祖国復帰運動が盛んになりました。「核抜き本土並み」を求めた佐藤内閣は、アメリカ政府と交渉を始めました。1971年、沖縄は1972年に日本に返還される方向でまとまりました(沖縄返還協定)。しかし、日米安全保障条約によって、沖縄には多くのアメリカ軍基地が残され、現在も負担が続いています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82"} {"text": "第二次世界大戦とその復興に時間をかけた後、1950年代以降、一部の国の経済は目覚しい成長を遂げました。このような経済の成長は、私達の社会に何をもたらしてきたのでしょうか。\n第二次世界大戦後、国際経済は金・ドル体制になりました。アメリカは経済的に順調で、これを「パクス・アメリカーナ(アメリカの平和)」といいました。アメリカは資本主義国に技術や資金を提供して、復興と工業化を支援しました。1960年代のイギリスは、軍事費の増大と公共投資によるインフレのため、経済成長は緩やかでした。一方、西ドイツと日本は、輸出による貿易黒字があったため、経済が急成長しました。\n朝鮮戦争で需要が高まり、日本経済は戦前の水準に戻りました。1950年代中頃から1970年代初めにかけて、日本経済は急成長を遂げました(高度経済成長期)。岸信介内閣は日米安保条約改定への反対(安保闘争)で退陣しました。次の池田勇人内閣は「所得倍増」を掲げて公共投資を拡大しつつ、技術革新や貿易振興など積極的な財政政策を実施しました。\n日本では、経済成長によって、大量生産・大量消費が広まった結果、消費革命やエネルギー革命と呼ばれる社会変化が起こり、国民生活も大きく変わりました。\n次のような社会変化は、現在の暮らしでもつながっています。\nまた、1964年の第1次東京オリンピック[1]、1970年の大阪万博は、日本の復興と経済成長を海外に示しました。\n一方で、先進国の経済成長によって、大きな問題も起きています。産業や開発が急速に発展したため、公害や自然破壊が引き起こされました。ヨーロッパでは大気汚染が酸性雨を引き起こし、国境を越えて被害をもたらしています。環境問題を解決するためには、これまでの枠組みにこだわらないで、国家同士が協力していく必要があります。\n日本でも、環境汚染や交通渋滞で生活環境が悪化しました。環境汚染では、水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息など深刻な社会問題(公害問題)を引き起こして、四大公害裁判などの訴訟も頻繁に行われました。工業化、農業の機械化、減反政策によって、産業構造が変化しました。その結果、農村から都市へと多くの人が移動したので、都市は過密となり、農村は過疎化しました。\nこうした問題を受けて、日本政府は1967年に公害対策基本法を制定したほか、1971年になると、環境庁を設置しました。一方、日本社会党や日本共産党など新しい勢力の支持を集めて、環境政策や社会政策を推進する首長が、各地で支持を集めていきました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7"} {"text": "ストリートダンスは、どこでも踊れる路上ダンスの1つです。ストリートダンスは、バレエやダンスホールでの社交ダンスのように、ルールがあって、観客に見せるための踊りではありません。その代わり、ストリートダンスは自由に自分を表現出来ます。\n日本のダンスは、ストリートダンスと呼ばれています。ストリートダンスの起源は、1920年代のアメリカでジャズに合わせて踊るスイングダンスにあると言われています。ジャズ音楽を考え出したのはアフリカ系アメリカ人です。第二次世界大戦をはさんで、1960年代、アメリカで公民権運動が高まり、白人のアフリカ系アメリカ人に対する感じ方が変わり始めました。その頃、新しいタイプのソウルダンスが生まれました。ソウルダンスは、シカゴにある黒人向けの番組「Soul Train」で、ソウル・ミュージックに合わせて行われました。この番組がきっかけで、ロッキング、ポッピング、ワックなどのスタイルが一気に広まりました。\n一方、ヒップホップ文化は、1970年代に、アフリカ系アメリカ人が自己表現するための手段として始まりました。当時、ニューヨークに住み、貧困や暴力に苦しみながらも十分な権利を持てませんでした。ブレイクダンスはこの対抗文化の一つとして生まれました。西海岸のストリートダンスと混ざり合い、現在のストリートダンスと呼ばれる形になったと考えられています。\n1983年、映画「フラッシュダンス」は日本で公開されました。映画「フラッシュダンス」では、ストリートダンスを世に広めました。ブレイクダンスの場面は短くても、若い人にはとても興味を持ってもらえました。そして、1983年の映画「ワイルド・スタイル」の宣伝で来日したダンサーが各地で踊り、あっという間に広まりました。若者は、ブレイクダンスに興味を持ちました。ビデオデッキで繰り返し観て、踊り方を覚えました。当時、原宿の歩行者天国では、ラジカセから流れる大音量の音楽に合わせて、若者達が踊っていました。踊るには音楽が必要なので、昔はホールのような生バンドやレコードがかけられる場所で聴いていました。しかし、ラジカセが登場すると、路上がダンス場に変わりました。\n1990年代になると、民放のバラエティ番組内のコーナーで「ダンス甲子園」が始まりました。過去の反文化的な雰囲気を取り除き、より健やかな印象になりました。安室奈美恵のように踊りも歌も出来る歌手が次々と出てきて、みんなダンスに馴染んでいきました。\n2000年代に入ると、ストリートダンスを教える学校が次々と開校され、子供達が学校でダンスを習うようになりました。スマートフォンが2010年代に流行すると、動画アプリなどで自分のダンスを紹介したり、他の人のダンスを参考にしたりしやすくなりました。\nストリートダンスはアフリカ系アメリカ人の文化に反発する形で始まりました。現在、日本でも若者から中高年までが楽しみながら健康づくりに取り組んでいます。動画アプリを利用して、世界中のダンサーを見たり真似したり出来るのは一見素晴らしくても、一方で、ダンスをより均一化させてしまいました。でも、そのおかげで、世界中のどこでも同じステップや振り付けが出来るようになり、ダンスの標準化が進みました。あなたはどんなダンスを踊りたいですか?\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9"} {"text": "森進一さんは、昭和の有名な歌手です。「おふくろさん」「襟裳岬」などの歌で知られています。母子家庭で育ち、幼少期は各地を転々としていました。中学3年の時、鹿児島(母の故郷)に移住しました。1963年春、長田中学校を卒業すると、友人達と24時間かけて電車で大阪に向かいました。この年、九州の中学を卒業した4万4000人余りが関西や関東に集団就職しました。かつて国鉄博多駅の駅長を務めていた井出干樹さんは、当時の様子を次のように語っています。\n窓から手を出して、手を振ります。子供達は窓枠から両手を出して手を振り、親達は嬉しい反面、見送るのが悲しくてやりきれない気持ちになりました。それぞれの思いが物語をつくっていきました。\n見知らぬ土地で、見知らぬ人達と一緒に仕事をする幼い子供達は、この家族の強い絆に支えられていたのかもしれません。私達も、複雑な思いで子供達を送り出しました。\n1965年、中学を卒業して県外に就職した男子生徒の74.5%、女子生徒の89%が鹿児島県を第1位としています。当時、日本経済は急成長しており、重化学工業や繊維工業を中心に多くの労働力が必要とされていました。しかし、都市部では高校や大学へ進学する学生が増えたため、貧しく進学率の低い地方は、特に中学を卒業したばかりの人が就職するのに最適な場所となりました。この人達は、「金の卵」と呼ばれました。九州・中国・四国の卒業生は京阪神や中京方面へ、東北・北海道の卒業生は東京方面へ、それぞれ国鉄の特別列車で移動しました。また、沖縄のように船で集団就職する地域もありました。\nこの歴史的な出来事は、1964年のヒット曲「あゝ上野駅」にも反映されています。\n「金の卵」といっても、給料はほとんど貰えず、大変な仕事も数多く見受けられました。森進一さんは寿司屋の住み込みで働いていましたが、月給5000円は大卒の3分の1しかなく、家族に仕送りをするために17回も転職を繰り返しました。子供がどうやって生計を立てていくのか、心配したのは家族だけではありません。学校も、生徒の職場に職員を送って励まし、生徒の姿をもっと知りたいと考えていました。また、受け入れ側も、子供達の出身県から木を植えて、関係を深めるとともに、安定した労働力の確保に努めました。その一例が、大阪市の長居公園にある「ふるさとの森」です。\n1970年代に入ると、集団就職に支えられた日本の高度経済成長は終わりを迎えます。1977年、労働省は集団就職を廃止しました。しかし、沖縄など地元の就職先が少ない県では、都市部での集団就職が続きました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AE16%E6%AD%B3_%E9%9B%86%E5%9B%A3%E5%B0%B1%E8%81%B7_%E3%80%8C%E9%87%91%E3%81%AE%E5%8D%B5%E3%80%8D%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "1970年代の2度にわたる石油危機は、エネルギーの需給だけでなく、様々な問題を明らかにしました。石油危機はなぜ起こり、世界にどのような影響を与えたのでしょうか。\n1971年、アメリカ国内の物価が上昇する中で、貿易赤字となったため、金とドルの交換を停止しました。第二次世界大戦からの世界経済の回復を支えたブレトン・ウッズ体制は、金とドルの交換が停止されると崩壊しました。1973年、大半の国が変動相場制に切り替えました。\n1973年10月に第4次中東戦争が始まると、アラブの産油国は石油の生産と輸出に制限をかけるようになりました。これが石油危機を招きました。石油危機は先進国の経済を停滞させ、価格高騰は途上国の経済に大きな影響を与え、政治情勢を悪化させました。\n石油危機によって、エネルギーの安全保障がいかに重要か、福祉国家政策がいかに経済に悪影響を与えるかが明らかになりました。そのため、先進国は「小さな政府」の方向へ進み始めました。石油危機を乗り越えるためには、エネルギーを節約するための技術革新も必要でした。しかし、計画経済を基本とする社会主義では、この要求に応えられず、経済を停滞させました。\n石油危機は、日本経済と国民生活に大きな影響を与えました。石油危機は政府の支出を増やし、「日本列島改造論」を掲げた田中角栄内閣はさらに支出を増やしました。そのため、物価が急激に上昇する「狂乱物価」が発生しました。1974年、戦後初めて経済成長率がマイナスになりました。高度経済成長期が終わりました。\n世界的な経済危機の中、日本はハイテク産業を中心に自動化などの軽量化を進め、石油危機を乗り越えました。一時は労働運動も盛り上がりましたが、三池争議のような大規模な労働争議をきっかけに、労働者と使用者が共に働くように政策が転換されました。女性の社会進出が進み、男女雇用機会均等法のような法律が作られると、パートタイムのような時間給の仕事が、女性を中心に増えました。また、財政赤字が拡大すると、福祉の充実に取り組んでいた革新自治体が何も出来なくなりました。\n第二次世界大戦後、石油危機やドル・ショックは、政治・経済・生活のあり方を見直すきっかけとなりました。西側先進国は、世界のエネルギー問題や経済問題を解決するために協力しなければならないという考えを持つようになりました。1975年、初めて先進国首脳会議(サミット)が開催されてから、毎年開催されています。\nまた、経済や人々の考え方の面でも、「大規模」「大量」から「小型化」「軽量化」への価値観の転換が進んでいます。価値観の転換は、代替エネルギーの開発、省エネルギー、エコロジー思想の広がりなどに見られます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E7%9F%B3%E6%B2%B9%E5%8D%B1%E6%A9%9F%E3%81%A8%E4%BE%A1%E5%80%A4%E8%A6%B3%E3%81%AE%E8%BB%A2%E6%8F%9B"} {"text": "石油危機で先進資本主義国が苦しみ、ソ連をはじめとする社会主義国の経済が停滞する中、アジアの一部の国々は大きく成長しました。なぜ「アジアの奇跡」が起きたのでしょうか。\nアジア諸国では、植民地支配から解放された後、民族紛争が起きても、強権的な政府が輸入品を国内で生産して、農業生産を拡大させる「緑の革命」を推進しました。1970年代以降、2度の石油危機を経験すると、先進国の経済成長は減速しました。しかし、アジア新興工業経済地域や東南アジア諸国連合諸国は高い成長を保っており、工業製品の輸出を伸ばしてきました。しかし、経済のグローバル化が進むと、海外のヘッジファンド(投資家など)による投機がバブル的な経済状況を生み出し、アジア通貨危機を招きました。\n東アジアでは、韓国で1960年代後半に経済成長を遂げて、「漢江の奇跡」と呼ばれました。中国は文化大革命以後、1970年代末から鄧小平を中心とした改革・開放政策が取り入れられました。1990年代に入ると、市場経済も整備された。しかし、政治体制の変更には厳しい姿勢を見せ、天安門事件で民主化要求を抑えつけました。\n東南アジアでも、シンガポール・タイ・インドネシアなどが経済成長を遂げました。ベトナムも「ドイモイ(刷新)」政策が推進されて、社会主義が再び注目されるようになりました。しかし、内戦のあったカンボジアや、軍事クーデタで社会主義政権を終わらせ、民主化運動を潰したミャンマーは、経済成長も遅れていました。\nイスラエルとアラブ諸国の対立で不安定な西アジアで、イランは王政の近代化と改革を推進しました。しかし、強権的な政策と富の拡大で批判を浴びるようになりました。1979年になると、イラン・イスラーム革命が起こり、ルーホッラー・ホメイニーが共和国の指導者となりました。イスラエルとの和解を巡って、アラブ諸国の対立やイラン・イラク戦争など、緊張状態が続きました。\n日本と東南アジアの経済関係は、戦時中の補償や政府開発援助(ODA)によって、より深まっていきました。しかし、そのために日本企業が現地に進出して、現地の抵抗を受ける場合もありました。プラザ合意後、円の価値が上がり、バブル経済崩壊後、日本企業は生産拠点をより早く海外に移転しました。プラザ合意は、ドルの上昇を緩やかにする目的で行われました。長期金融緩和政策も経済成長を支えました。また、バブル経済とは、株式市場や不動産市場価値以上に大量の資金流入によってもたらされた経済現象をいいます。そのため、アジア諸国は、もっと海外に売る商品を作りたいと思うようになりました。1985年のプラザ合意で円高になりました。\n日本はすでに経済大国でした。出荷量を減らし、成長するアジア経済との接点を増やしてきたため、対米貿易黒字も増やしました。その結果、自動車を中心とした日米貿易摩擦が問題となり、アメリカは日本に市場を大きくするように要求してきました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%88%90%E9%95%B7"} {"text": "1980年代、社会主義陣営は行き詰まりを見せました。この問題を解決するための改革が進められ、アメリカとソ連は急速に仲直りして、ついに冷戦は終わったと言われるようになりました。冷戦の終結は、お互いの関係をどのように変えていったのでしょうか。\n社会主義圏では、中国がソ連の平和共存政策に反対していました。1960年代以降、中国とソ連軍は戦争状態になりました。東欧諸国のソ連離れも進みました。1968年、チェコスロヴァキアで大規模な自由化・民主化運動「プラハの春」が起こりました。その際、ソ連はワルシャワ条約機構軍を送り込み、自由化・民主化運動を鎮圧して国際的な信用を失いました。その後、アメリカとソ連の間に緊張が薄れました。しかし、翌年ソ連軍がアフガニスタンに侵攻します。この時、アメリカを含む西側諸国は、1978年にアフガニスタンに樹立された左翼政権の支持を口実に対抗しました。これが新冷戦の始まりです。\n当時、ソ連の経済は成長せず、産業構造の転換も遅れていました。1985年、ミハイル・ゴルバチョフ書記長は、この状況から抜け出すために、情報公開(グラスノスチ)と民主化を促す通称ペレストロイカ(改革)政策を始めました。新思考外交・アフガニスタンからの撤退・核抑止論の否定などの結果、アメリカとソ連の関係は一気に改善しました。こうしたソ連の動きに対抗して、東欧諸国も民主化に動き始めました(東欧革命)。東欧革命によって、共産党の一党支配を終わらせました。1989年、東欧革命中に、冷戦の象徴(ベルリンの壁)が壊されました。マルタ会談で、アメリカとソ連の首脳が冷戦終結を宣言しました。1990年、ドイツは再統一しました。\nソ連では、ペレストロイカの成果で、民族主義が高まり、政権交代まで叫ばれるようになり、保守派がクーデタを起こしましたが、失敗しました。ボリス・エリツィンら改革派は、1991年12月、独立国家共同体(CIS)を発足させました。独立国家共同体(CIS)は、ロシアを含む11の共和国で成り立っています。ソ連は69年目になり、崩壊へ向かいました。\n冷戦末期頃、世界各地で冷戦時代に中断していた紛争が発生しました。イラクが中東の軍事大国化したのも、1980年に始まったイラン・イラク戦争で、イランに反発していたソ連や西側諸国がイラクに味方したからです。1990年、イラクがクウェートを攻撃した時、アメリカ・イギリス・サウジアラビアなど各国の軍隊がイラクに攻撃を仕掛けました(湾岸戦争)。日本は国際軍に資金を提供しましたが、海外から「後手」と批判されました。この戦争は、冷戦終結後のアメリカ中心の世界秩序を印象付ける結果となり、冷戦終結後の国際社会で国際貢献のあり方について日本国内でも論議が始まりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%86%B7%E6%88%A6%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%B5%90"} {"text": "詳しい内容は、「世界史探究」の「」、「日本史探究」の「新たな世紀の日本へⅠ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。\n冷戦終結前後には、各地で民主化運動が活発化すると、軍事政権や独裁政権が崩壊するようになり、民主化が進みました。民主化が進むにつれて、世界は平和になったのでしょうか。また、冷戦が終わって、日本の政治はどう変わったのでしょうか。\n1980年代に、アメリカとソ連が良好な関係を取り戻すと、東ヨーロッパ諸国では改革や革命が相次いで起こり、共産主義政党による一党支配体制や社会主義経済が終わりました。その後、軍事政権や独裁政権が崩壊して、多くの地域で民主化が進みました。東南アジアでは長期の独裁政権が崩壊して、民主化が進みました。例えば、1986年のフィリピン民主化革命、1998年のインドネシアの民主化などが挙げられます。東アジアでは、金大中(キム・デジュン)が、1998年に韓国の大統領に就任しました。金大中(キム・デジュン)は、韓国の民主化運動の中心人物でした。北朝鮮への友好的な政策を進めて、緊張を緩和させようと努めてきました。朝鮮半島間には解決困難な問題があり、この地域の協議には日本、中国、ロシア、アメリカの各国が関わる必要があると言われてきました。\n2010年末に、チュニジアで起きた民主化を求めるデモは瞬く間に他のアラブ諸国にも広がり、チュニジア、エジプト、リビアで長年続いた独裁政権が倒れました(アラブの春)。南アフリカでは長い間、アパルトヘイト(人種隔離)政策が行われていました。しかし、1980年代に入ると国際的な批判が高まりました。その結果、1991年にアパルトヘイトが廃止され、民主化と人種間の和解が進みました。\n民主化運動が進んでも、権威主義的な体制が残る国もあれば、民主化運動が停滞した国もあります。1989年、経済開放を進めていた中国で、大学生を中心に北京の天安門広場で民主化を求める抗議行動や座り込みが行われました。これを受けて、中国政府の保守派は人民解放軍を送り込み、デモに終止符を打って、多くの人が犠牲になりました(天安門事件)。\nアラブの春以降、アラブ諸国では政治的不安から、民主化が思うように進みませんでした。例えば、シリアでは、政府と反政府勢力の戦闘が長く続きました。1990年代のアフリカでは、ルワンダ、ソマリア、シエラレオネで内戦が発生すると、多くの国民が犠牲になりました。1997年に30年以上続いた独裁政権が終わったコンゴ民主共和国では、周辺国同士の紛争が続いています。\n「保守」と「革新」を基本としていた日本の政治体制は、冷戦が終わると大きく変わりました。1993年、自民党の一部の議員の協力で、宮沢喜一内閣に対する内閣不信任案が可決されました。汚職事件で国民が既成政党に疑惑を持つようになったからです。自民党は分裂して、新生党と新党さきがけなどが誕生しました。総選挙で自民党が敗北すると、日本新党の細川護煕が非自民党系8団体と連立政権を組みました。こうして、1955年から続いた自民党政権は崩壊して、55年体制に終止符が打たれました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%8C%96%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%B1%95%E3%81%A8%E5%86%B7%E6%88%A6%E7%B5%82%E7%B5%90%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC"} {"text": "詳しい内容は、「世界史探究」の「」、「日本史探究」の「新たな世紀の日本へⅠ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。\n冷戦が終わり、お金持ちになりたい人が世界中で商売をするようになりました。経済の自由化が進んで、私達は幸せになったのでしょうか?\n世界恐慌から第二次世界大戦後の高度経済成長期にかけて、多くの先進国は経済成長、国力増強、国民生活の向上のために、産業活動の統制や公共サービスの充実を図りました。これを受けて、アメリカのロナルド・レーガン政権やイギリスのマーガレット・サッチャー政権は、規制緩和、公営企業の民営化、税制改革などを通じて「小さな政府」を作りました。また、市場原理に基づく自由競争によって社会を活性化させようとする新自由主義改革を開始しました。日本でも、自民党の中曽根康弘政権が国鉄や電電公社などの民営化を進めました。そのため、新しいアイデアや技術に基づく起業が推奨されて、企業間の競争によって価格が下がりました。一方、資金力のある大企業が業界を支配するようになり、経済格差を拡大させました。冷戦の終結とともに、このような現象がロシアや東ヨーロッパ、社会主義市場経済を持つ中国など、世界中で広がりました。\n国際市場経済の発展に伴って、人・物・資本・技術が国家間を自由に移動するようになり、多国籍企業も様々な形で成長しています。グローバル化(グローバリゼーション)とは、世界の経済が1つにまとまっていく過程です。グローバル化は1990年代以降、より強まりました。1995年に関税と貿易に関する一般協定(GATT)が終了して、世界貿易機関(WTO)[1]がその代わりを務めました。また、インターネットなどの情報通信技術の広がりによって、先進国から投機的な理由で資金が流れやすくなりました。その結果、1990年代になると、世界各地で通貨危機が発生しました。特に1997年のアジア通貨危機では、タイ、インドネシア、韓国の経済に大きな影響を受けました。\n21世紀に入ると、中国やロシアが世界貿易機関に加盟したため、自由貿易がさらに広がりました。しかし、加盟国が増えるにつれて交渉は難しくなったり、時間もかかったりして、貿易ルール作りは二国間、多国間ともに活発になっていきました。日本は、東南アジア諸国などと二国間経済連携協定(EPA)や多国間で環太平洋パートナーシップ協定(TPP)[2]を結んで、経済を活性化させようとしました。一方で、食や環境と深く関わる農林水産業の持続性の視点では、国や地域の違いに合わせた貿易ルールの整備が強く求められています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%B8%82%E5%A0%B4%E9%96%8B%E6%94%BE%E3%81%A8%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E5%8C%96"} {"text": "冷戦後、各地で経済統合が進められました。その一方で、近年、地域統合に反対する動きも出てきています。地域統合には、どのような課題があるのでしょうか。\n冷戦終結後、新しい国際経済秩序が求められる中、経済協力などのために世界各地で地域統合が推進されました。\nカンボジア内戦が終わった後、東南アジア情勢はかなり安定していました。1989年に設立された東南アジア諸国連合(ASEAN)とアジア太平洋経済協力(APEC)は、この地域の国々の協力関係の向上に努めました。ASEAN共同体は、経済面だけでなく、政治、安全保障、社会、文化などの面でも各国の距離を縮めるため、2015年に設立された団体です。\nヨーロッパ共同体(EC)を構成する12カ国の首脳は、1992年にマーストリヒト条約に合意しました。マーストリヒト条約は、通貨、安全保障、法律の分野での協力に焦点を当てました。1993年、ベルギーの首都ブリュッセルに本部を置くヨーロッパ連合(EU)が発足しました。通貨は国家主権の象徴なので、条約の締結は必ずしもうまくいきませんでしたが、1999年に単一通貨ユーロが導入されました。2000年代に入ると、中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ、バルト三国がヨーロッパ連合に加盟しました。2004年には、さらに東ヨーロッパの旧社会主義国など10か国が加盟して、加盟国は25か国になりました。その後も加盟国は増え続けました。\n一方、被統合地域内での不均衡の発生、世界各地域で排外的なナショナリズムの台頭、非地域統合など、地域統合は新たな問題も抱えています。\n2006年から2010年にかけて、タイでは貧富の差が大きくなり、政権運営に大きな支障をきたすようになりました。また、各地の東南アジアでは、国外在住中国人(華僑・華人)とインド人が経済を支配するようになりました。そのため、経済格差が広がり、特定の集団を排除しようとする排斥運動などの民族対立も起きています。\nヨーロッパでは、ヨーロッパ連合加盟国間の貧富の差がまだ大きく、農業、財政、難民の受け入れなどの問題が積み重なっています。2008年には世界的な金融危機があり、ギリシアの財政危機をきっかけに多くの人がユーロを心配するようになり、ヨーロッパ連合は不況になりました。また、シリアなど中東からの難民が多く、移民に対する運動も高まりました。こうした動きから、イギリスで2016年に行われた国民投票で、ヨーロッパ連合脱退賛成派が勝ちました。2020年、イギリスはヨーロッパ連合から脱退しました。ヨーロッパ連合が出来てから、初めて小さくなりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E7%B5%B1%E5%90%88%E3%81%AE%E9%80%B2%E5%B1%95%E3%81%A8%E8%AA%B2%E9%A1%8C"} {"text": "もし、私達がスマートフォンを持っていなかったらどうでしょうか?友人と会う時間を決める時、どこかへの行き方を調べる時、流行を知りたい時、何かを多くの人に伝えたい時、私達は携帯電話を使っています。情報通信技術の発展が、私達の生活や世界をどのように変えてきたのでしょうか。\n19世紀に電信、ファクシミリ、電話などが発明されてから、情報通信技術は成長しながら変化してきました。20世紀後半になると、技術革新が加速しました。1970年代から、パーソナルコンピュータや携帯電話の開発が進み、1990年代にはインターネットが世界中に急速に広まりました。インターネットによって、遠く離れた場所でも瞬時に情報やデータのやり取りが出来るようになったため、世界的な統合が進みました。2000年代に入ると、スマートフォンの普及や様々な媒体の拡大によって、情報の収集、伝達、発信がさらにしやすくなりました。\n情報通信技術によって、モノを作る経済から、サービスを提供する経済へと変化しました。日本では、第三次産業の重要性が年々高まっており、幅広いサービス産業がその半分以上を占めています。様々なソフトウェアやアプリケーションを利用して、新しい製品やサービス、さらには生活様式が生み出されています。その結果、オンラインショッピングやソーシャルネットワーク(SNS)、映画やテレビ番組、音楽、漫画、アニメ、ゲームなどのコンテンツ産業が発展してきました。18世紀の産業革命と同じように、これらの変化は情報技術(IT)革命と呼ばれています。私達の生活や社会の仕組みに大きな変化をもたらしました。なお、情報通信技術(ICT)とは、情報技術革命を表す言葉として、近年よく使われるようになった言葉です。\n情報化社会では、国境を越えて人々が情報をやり取り出来るようになり、自由や人権に対する意識、民主主義が高まるという考え方もあります。しかし、政府や大企業などが多くの個人情報を入手出来るようになるので、誰もが監視される社会になるのではという意見もあります。また、情報機器を通じて多くの人が簡単に情報を発信出来るため、フェイクニュースやヘイトスピーチが広がりやすくなり、人々の考え方や行動が変わってしまう可能性があります。情報のデジタル化により、著作権や肖像権などの権利の侵害、個人情報の流出、インターネットを悪用した犯罪なども起こりやすくなっています。災害時には、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)を利用して、素早く、大量に情報を発信・収集出来ます。これは、被災者が必要な情報を得るのに役立ちますが、嘘や誤解を招くような情報が広がる可能性もあります。そして、こうした機器を使って情報を入手したり、会話出来ない人達(情報弱者)が生まれています。\n情報化社会では、大量の情報に振り回されず、自分の考えを持ち続けるために、あらゆる情報を確認する力が必要です。歴史は、過去の「情報」、つまり過去の文献が基本です。過去を知れば、現在を快適に生きられます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%80%9A%E4%BF%A1%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%AE%E7%99%BA%E9%81%94"} {"text": "冷戦の終結は、一部の地域に平和と安定をもたらしましたが、新たな紛争も引き起こしました。\n冷戦終結後、冷戦時代に抑えられた民族や宗教の対立が、内戦や地域紛争という形で再開されました。ユーゴスラビア連邦は、様々な民族で成り立っていました。\n1991年から、連邦をつくっていたそれぞれの共和国が独立を宣言して、連邦の崩壊とともに激しい内戦が起こりました(ユーゴスラビア紛争)。\n西洋列強の帝国主義支配の影響を受けた旧植民地国でも、地域紛争は深刻化しました。パレスチナでは、1987年のパレスチナ人の蜂起(インティファーダ)が和平を推進しました。1993年、イスラエルとパレスチナ解放機構はパレスチナ暫定自治協定を結ぶと、1994年に自治政府を成立させました。しかし、イスラエルは占領地に集落建設を続けており、和平の進め方に不満を持つパレスチナの勢力がますます強まっています。\n冷戦終結後、反グローバリズム、反アメリカを強めた人がいます。その理由は、アメリカ中心のグローバル経済が貧富の差を大きくしたからです。2001年のアメリカ同時多発テロ事件(9.11事件)は、過激な思想や運動が結びついた代表例です。\n地域紛争を終結させるために、国連決議や平和維持活動(PKO)は非常に重要な役割を果たしてきました。湾岸戦争後、1992年に日本は国連平和維持活動等協力法(PKO協力法)を制定して、自衛隊をカンボジアに派遣しました。また、アメリカ同時多発テロを受けて、テロ対策特別措置法を制定しました。海上自衛隊をインド洋に派遣し、アメリカ軍の後方支援にあたりました。2003年のイラク戦争後には、イラク復興支援特別措置法に基づいて、自衛隊がイラクに派遣されました。\n地域紛争が悪化しても、解決した場合もあります。ネルソン・マンデラは、南アフリカの抵抗運動の指導者ですが、当時の大統領と協力してアパルトヘイトの撤廃に取り組みました。アパルトヘイトを無くした理由は、国連の非難決議や経済制裁といった国際的な圧力が強まる中、黒人住民の抵抗運動があったからです。アパルトヘイト撤廃後、1994年に選挙が行われ、ネルソン・マンデラは大統領に就任しました。\n近年、地域紛争の解決のために非政府組織(NGO)や非営利団体(NPO)がどのような活動をしているのかにも注目が集まっています。また、日本での阪神・淡路大震災や東日本大震災などの災害時には、各国の人々が協力し合って、被災地の人達を助けました。一方で、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の大流行は、国際化された世界で生きる難しさを改めて教えてくれました。世界をより平和にするために、私達全員が何を出来るかが問われています。\n1983年、パキスタンの医療活動を支援するために非政府組織「ペシャワール会」を立ち上げました。このうち、中村哲医師はペシャワール会の現地代表でした。井戸の掘削や灌漑設備の建設を進め、荒れてしまった農地を復活させました。病気の原因は、常に食べ物がなく、栄養状態が悪かったからです。その結果、土地は徐々に息を吹き返しました。しかし、2019年12月、中村哲医師はアフガニスタンのジャララバードで襲撃を受けて、命を落としてしまいました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%86%B7%E6%88%A6%E7%B5%82%E7%B5%90%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%B4%9B%E4%BA%89%E3%81%A8%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8F%96%E3%82%8A%E7%B5%84%E3%81%BF"} {"text": "過去に何度も大きな自然災害が日本列島を襲っています。ここ数年、大雨や台風、地震など大小様々な被害が発生する一方で、復興対策や防災対策への必要性が高まっています。特に、阪神・淡路大震災と東日本大震災は、社会に大きな影響を与えました。\n阪神・淡路大震災は、1995年1月17日に兵庫県南部で発生したマグニチュード7.3の直下型地震です。震源地に近い神戸市などでは大規模な火災が発生して、6000人以上の死者を出しました。その上、インフラの被害や家屋などの倒壊も発生しました。2011年3月11日、宮城県沖でマグニチュード9の地震(東日本大震災)が発生しました。この地震は、関東大震災以来、最悪の自然災害となりました。地震後に発生した巨大津波は、東北・関東地方の沿岸部に大きな被害をもたらしました。約1万8400人が死亡・行方不明となり、最大で47万人が自宅を離れなければなりませんでした。また、津波により福島原子力発電所が被災したため、放射性物質が大量に放出される大規模な原子力事故が発生しました。\n阪神・淡路大震災は、高度経済成長期から続いてきた日本の「安全神話」が崩れたと感じさせました。また、政府が危機に対処する方法を理解していませんでした。また、東日本大震災は、科学技術の悪い面や日本の原発政策、防災政策、災害時の立ち直り方などの問題点を示しました。そのため、2つの地震をきっかけに、災害への備えや原子力をどう扱うかについて、国民的な議論が行われています。特に、放射性物質の除染や原子力発電所の停止などの問題は、今後も人々にとって大きな問題となるでしょう。\n一方、阪神・淡路大震災では、救援や復興のために多くの人がボランティアとして参加しました。これは、「ボランティア元年」と呼ばれました。そして、震災のあった1月17日を「防災とボランティアの日」と定めました。東日本大震災では「絆」がキーワードとなり、海外でも多くの国や地域から救援金や支援隊が派遣されるなど、国境を越えた支援の輪が広がりました。災害は多くの被害をもたらしますが、その一方で、日本や世界の人々が互いに助け合いながら、災害を乗り越えてきました。ここ数年、高校生をはじめとする多くの若者がボランティアとして災害復興に携わっています。また、大規模な被害が発生した場合、日本から支援隊や自衛隊を派遣するなど、より国際的な対応も行われるようになりました。\n今後、大小様々な自然災害が世界中で起こる可能性がある中、私たちは災害に対して何が出来るのか、復興に向けて何をしなければならないのか、そして私達にとって「豊かさ」とは何なのかを問い続けなければなりません。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%A8%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1"} {"text": "近代に入ってから、ヨーロッパで始まったナショナリズムの思想は世界中に広がり、各地で国民国家が建設されました。少数派は、そのために同化や差別、時には迫害を強いられていました。国家は似た者同士で構成されなければならないという考え方は、すぐに広まりました。近代の日本でも、領土の拡大とともに、様々な言語や文化を持つ人々が国内に集められました。日本語教育や日本人に近づけるように強制された政策は、誰でも知っています。\n中東では、古くから異なる民族や宗教が出入りしていました。中東でも、19世紀以降、少数民族を多数派に近づけるための政策がとられるようになりました。特に、第一次世界大戦後、各地で起こった強制的な国家統一によって、こうした少数派に対して厳しい同化政策がとられました。\nクルド人は人口が多く、トルコ、イラク、イラン、シリアの国境付近に住んでいます。これらの国々で、クルド人はひどい扱いを受け、弾圧を受けてきました。それでもクルド人は立ち上がり、自分達の自治と権利を求めてきました。そのため、クルド人問題は、パレスチナ問題と並んで、中東で深刻な民族問題の一つとして注目されています。\n例えば、イラクは第一次世界大戦後、イギリスが中東を分割して作った国で、アラブ系住民が人口の大半を占めています。1960年代になるとクルド人が独立を求めて激しい戦闘を始めます。1970年3月、ようやくイラク政府に自治権の付与を認めさせました。しかし、クルド人居住地域にある油田を自治区に含めるかどうかで、クルド人と中央政府の意見が一致せず、再び紛争が急速に始まりました。\nその後、1988年のイラン・イラク戦争末期、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、クルド人の運動を止めようと化学兵器を使用したため、大勢の犠牲者を出してしまいました。この出来事は、「クルドの広島」として記憶に残りました。\n1991年3月、湾岸戦争でサッダーム・フセイン政権が弱体化したため、大勢のクルド人が立ち上がり、クルド地域の主要都市を乗っ取りました。しかし、政府軍はすぐにこの反乱を収束させ、大勢の難民が近隣諸国に逃げ、国内でも大勢の難民が移動するようになりました。このように、国内の避難民を最初に助けたのが、国連難民高等弁務官として勤務を開始したばかりの緒方貞子でした。\nその直後、多国籍軍の協力でイラク北部にクルド人政府が作られ、独自に運営されるようになりました。また、2003年のイラク戦争でサッダーム・フセイン政権が倒れると、イラクは正式な連邦国家となりました。これによって、クルド人地域は大きな自由を手に入れました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84_%E4%B8%AD%E6%9D%B1%E3%81%AE%E5%B0%91%E6%95%B0%E6%B4%BE%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%89%E4%BA%BA"} {"text": "「移民」とは、違う国や地域に移住を意味します。移民は、人々が生まれ育った土地や文化を離れ、新しい環境で生活をします。歴史上、移民は様々な背景や理由によって行われてきました。移民が歴史を通じて果たした役割は非常に大きく、世界中の国々に多様な文化や人種の人々が暮らす原動力となっています。本章では、移民がどのように歴史を変えてきたのか、どのような困難や葛藤があったのか、そして現在の移民問題について考えていきます。\n黒人奴隷貿易は、16世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの国々がアフリカから奴隷を誘拐し、アメリカ、カリブ海地域、南アメリカ、欧州などに売買した人間売買の歴史です。この貿易によって数百万人のアフリカ人が奴隷として連れ去られ、壮絶な苦痛を受け、多くが亡くなりました。\nこの奴隷貿易は、アフリカの部族間の対立や戦争などが原因で始まり、ヨーロッパ諸国の植民地経営に不可欠な労働力を確保するために広がりました。奴隷貿易によってアフリカは人的資源を失い、社会や経済的な混乱を引き起こし、現代に至るまでその影響が残っています。\n奴隷貿易は、19世紀に世界的な反対運動が起こり、イギリスを中心に奴隷貿易禁止を主張するアビー・グリーン運動が盛んになり、奴隷貿易は廃止されました。しかし、人種差別や人権侵害が根強く残る現代社会についても、奴隷貿易の歴史からもっと学ばなければなりません。\n19世紀半ば、アメリカ合衆国は急速な工業化と都市化を経験し、これに伴い大量の移民が流入しました。その中でも、西欧と北欧からの移民は「旧移民」と呼ばれ、アメリカ合衆国を築いた先駆者たちのひとつとして知られています。\n19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、アイルランド、ドイツ、イタリア、スウェーデン、ノルウェー、そしてデンマークなどから、約3,500万人以上の移民がアメリカ合衆国にやって来ました。彼らは貧困や迫害、または単に新しい機会を求めて、祖国を離れたのです。\n当時、アメリカ合衆国政府は移民を積極的に受け入れる政策をとっており、移民のための法律も整備されていました。しかし、移民たちは困難な状況に直面しました。多くの移民は貧しく、病気や劣悪な住環境に苦しんだり、職も見つからなかったりしました。\nまた、旧移民はアメリカ合衆国社会に溶け込むまでに時間がかかりました。彼らは自分たちの文化や言語を守ろうとする傾向があり、アメリカ合衆国の主流社会との摩擦も生じました。しかし、時間が経つにつれ、彼らはアメリカ合衆国社会に同化していき、多くの人々がアメリカ合衆国の市民として成功を収めました。\n旧移民は、アメリカ合衆国の発展に多大な貢献をしました。彼らは新しい工業化されたアメリカ合衆国の労働力として重要な役割を果たし、また、彼らが持っていたスキルや知識を活かして新しい産業を発展させました。そして、彼らはアメリカ合衆国に多様性をもたらすようになり、アメリカ合衆国の文化も豊かにしました。\n19世紀末から20世紀前半にかけて、東欧や南欧からアメリカに移住する人々が増えました。彼らは「新移民」と呼ばれ、アメリカの経済成長に貢献しました。\n新移民の多くは、イタリア、ポーランド、ロシア、ギリシャ、トルコなどの東欧や南欧諸国から来ていました。彼らの多くは、貧しい家庭出身であり、アメリカに移住して生活水準を向上させようと考えていました。彼らは、農業や工場、鉱山、建設業などの分野で働き、アメリカの経済成長を支えました。\nしかし、新移民たちは、アメリカの社会や文化になじめません。なぜなら、彼らは、言葉や習慣、宗教などが違うからです。その結果、アメリカ人から差別的な扱いを受けました。また、新移民たちは、貧しい生活環境や労働環境に苦しめられました。そのため、彼らは自分たちの文化や宗教を守りながら、アメリカ社会になじもうと努力しました。\n「華僑」とは、中国の民族である華人が海外に移住し、その地に居住・定住している人々を指します。華僑は、歴史的には中国の経済・文化の担い手として、東南アジア、北米、オーストラリア、ヨーロッパなど世界各地に移住してきました。\n華僑は、移民の経緯や移住先の地域によって、異なる文化的背景や言語、生活環境を持っています。例えば、北米に移住した華僑は、英語圏の社会で暮らし、英語を第一言語とする環境で育ちます。一方で、マレー半島に移住した華僑は、マレーシアやシンガポールなどの東南アジアの国々で、マレー語や英語、華語などを話す多文化な社会で暮らしています。\n華僑は、経済的にも重要な役割を果たしています。彼らは、起業家やビジネスマンとして活躍し、現地の経済を支えています。また、中国との取引や投資などの架け橋としての役割も果たしています。\nただし、華僑は、移民としての歴史が長く、現地社会との関係が複雑なので、民族的・文化的な対立や差別的な扱いもされました。そのような問題を解決するために、現地社会とのコミュニケーションや相互理解を深めなければなりません。\n「印僑」とは、インドから海外に移住したインド人を指します。印僑の移住は、イギリス領インド帝国時代に始まり、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も活発に行われました。彼らは、イギリス帝国の植民地やその他の国々で労働力として働き、商業や産業の分野でも活躍しました。\n印僑の移住の主な理由は、経済的な困窮や政治的な迫害、天災などによる生活の苦しさから逃れようとしたからです。彼らは、海外での生活に慣れるまでに多くの困難に直面し、差別や偏見にも遭遇しました。\n一方で、印僑は自分たちの文化や伝統を維持するために、コミュニティを形成しました。彼らは、宗教的な儀式や祭り、言語や料理などを継承し、自分たちのアイデンティティを守りました。\n今日、印僑は世界中に分布しており、インドや海外の他の国々との交流も盛んに行われています。彼らは、多様な文化や経験を持ち、世界の社会や経済に重要な役割を果たしています。\n「日系移民」とは、日本から世界各地に移住した日本人を指します。多くの日系移民が、アメリカ、ブラジル、カナダ、ペルー、オーストラリア、ハワイなどに定住しています。\n日系移民の最初の大規模な移民は、19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカに移住した人々です。彼らは、農業や漁業、鉱業、鉄道建設などの労働に従事しました。しかし、彼らは激しい差別や偏見に直面し、第二次世界大戦中には、アメリカ政府によって強制収容所に収容されるなど、苦難の歴史をたどりました。\nブラジルにおいては、日本政府とブラジル政府が協定を結び、日本からブラジルへの移民を促進しました。これによって、20世紀初頭から中盤にかけて、多くの日本人がブラジルに移住しました。彼らは、農業や工場などで働き、ブラジル社会に貢献しました。\n日系移民は、自分たちの文化や伝統を守りつつ、新しい国で生活する方法を学び、多様な社会に適応していく必要がありました。彼らは、努力や忍耐、家族や地域の結束力などを大切にしながら、移住先での生活を築き上げてきました。\n現在では、日系移民の子孫たちが、多様な分野で活躍しています。彼らは、日本文化や言語を伝える役割も果たしており、日本と移民先の国との交流にも貢献しています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E7%A7%BB%E6%B0%91"} {"text": "ここでは、重要用語を載せています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E9%96%A2%E9%80%A3%E7%94%A8%E8%AA%9E%E8%A7%A3%E8%AA%AC"} {"text": "本節は、途上国から見た国際関係理論の特集です。高校生には難しい論点ばかりなので、興味がある人だけ読み進めてください。実際の国際関係論は、このように奥深く、国際関係理論を解説しています。\n国際関係の思想・理論・歴史の大半は、ヨーロッパやアメリカのような「強国」「大国」「先進国」の視点から書かれています。そのため、「強国」「大国」「先進国」の思想・理論・歴史は、ある意味「正しい」と思ってしまいます。しかし、大半の世界各国は弱小国・発展途上国として考えられており、欧米諸国から大半の世界各国を無視・軽視・優遇してきた長い歴史があります。大国と小国の力関係や先進国と発展途上国の力関係は決して変わりません。マルクス主義は、どうして間違っているのかを説明しようとする理論がいくつかあるだけです。20世紀になってから、国際関係を発展途上国の視点から見る考え方が登場しました。この考え方はマルクス主義を手本としているため、ネオ・マルクス主義とも呼ばれています。\nラウル・プレビッシュは、アルゼンチンの経済学者です。国連貿易開発会議の初代事務局長でしたが、デヴィッド・リカードの国際分業相互利益説を否定しています。世界を「中心」と「周辺」に分ける「中心・周辺論」を考えました。先進国が中心で、途上国が外側になります。中心・周辺構造によって、発展途上国ほど鉱業や農産物などの一次産品の生産に専念するようになり、開発の遅れが目立つようになるとしています(一次産品交易悪化説)。ところで、発展途上国がもっと豊かになるためにはどうしたらいいのでしょうか。ラウル・プレビッシュは、この質問に対して、「輸入代替工業化案」を示しました。輸入代替工業化案の内容は、発展途上国は先進国に売るための一次産品の生産をやめて、高く儲かる工業製品を生産するようになります。ラウル・プレビッシュの理論を参考にしながら、南アメリカは輸入代替工業化案を採用しました。しかし、南アメリカの経済に多国籍企業を参入させたので、経済に悪影響を与えてしまいました。\n従属理論とは、途上国(周辺)の経済が、世界資本主義体制に組み込まれて、先進国(中心)に従属するようになった場合を説明する理論です。その結果、途上国は、経済・政治・社会・文化などの分野で先進国に大きく遅れをとり、未開発状態のまま取り残されてしまいます。1960年代、ラテンアメリカの社会学や経済学で、この従属理論が国際関係を考える方法として見直されるようになりました。\nドイツ出身でチリ大学・カリフォルニア大学の経済学者アンドレ・グンダー・フランクは、ラウル・プレビッシュ理論の問題点に対応するために、従属理論を考えました。アンドレ・グンダー・フランクは、ラウル・プレビッシュが使っていた「中心」を「首都(メトロポリス)」、「周辺」を「衛星(サテライト)」と言い換えました。首都は衛星から経済の余剰を奪って、発展する一方で、衛星は従属され、開発されなくなると述べました。また、ラウル・プレビッシュの輸入代替工業化に反対しました。途上国は資本主義と縁を切れば済むと主張しました。そして、中国やキューバのように社会主義革命をして、社会の改善を図りました。しかし、キューバは社会主義革命で景気回復をしていません。\nラウル・プレビッシュからアンドレ・グンダー・フランクまで、ネオ・マルクス主義は大きく4つの流れを持つようになりました。\nヨハン・ガルトゥングの平和論は、新帝国主義論・構造的帝国主義論とも呼ばれています。ヨハン・ガルトゥングの要点は、「暴力」と「平和」に関する独自の考え方です。暴力は2種類、平和も2種類あります。\n直接的暴力と構造的暴力があります。直接的暴力とは、他人を傷つけたり殺したりする場合をいいます。夫の暴力で妻の殺害や精神的苦痛を与えた場合、暴力を振るった人(加害者)と暴力で傷つけられた人(被害者)が誰なのかが分かります。これに対して、構造的暴力とは、男性が女性を無知や服従の立場に閉じ込めておく場合をいいます。例えば、男性中心の伝統が残っていて、妻が奴隷のように夫に従わなければならない地域があてはまります。この場合、実際の人間に暴力が加えられる場合と違って、男性中心社会の仕組みから、女性は暴力の被害者を見つけられない奴隷のような不平等な立場に追い込まれます。\n消極的平和と積極的平和があります。消極的平和とは、直接的暴力がない場合をいいます。積極的平和とは、構造的暴力がない場合をいいます。これを踏まえて、ヨハン・ガルトゥングは、途上国の貧困・抑圧・飢餓・不平等の主な原因は構造的暴力だと指摘しました。その上で、積極的平和を目指すように訴えました。この構造的暴力論は、途上国でも先進国でも問題解決に使えます。東ヨーロッパなど旧社会主義国内の政治的抑圧から、先進国内の人種差別問題や男女差別問題まで対応出来ます。\nイマニュエル・ウォーラースティンの理論を理解する前に、あと2つの考え方を知っておきましょう。第一に、近代ヨーロッパは16世紀の地中海世界から始まったと説明して、政治史や外交史ではなく、社会経済史や民俗史の立場から歴史を見ていく「フランス・アナール学派」の学説です。このアナール学派の最も重要な研究者はフェルナン・ブローデルなどです。第二に、「コンドラチェフの波」と呼ばれる理論です。コンドラチェフの波とは、世界経済は好景気と不景気の繰り返しを50年程度続けるという内容です。\nイマニュエル・ウォーラースティンは、アナール学派、コンドラチェフの波、従属理論などの考えをまとめて、世界システム論を考えました。1974年に出版された『近代世界システム』によると、資本主義システムは、ラウル・プレビッシュが考えていたような「中心・周辺」の二層構造で成り立っていません。「中心・準周辺・周辺」という3層構造で成り立っており、それぞれの中心は25年ごとに、生成・確立・安定・衰退という4つの段階をたどります。人々のお金の持ち方に差があるため、3層構造になっています。準周辺とは、中心と周辺の中間的地帯です。中心は準周辺と周辺を上手く使い分け、準周辺は周辺を上手く使う仕組みになっています。\nイマニュエル・ウォーラースティンから見た「反システム運動」の内容についても理解しておきましょう。世界経済は成長と縮小を繰り返しながら、商品やサービスが商品化する動きを加速させ、商品経済の対象となる地域も増えてきました。この傾向が続くと、商品経済が限界に近づき、各国の違いを活かして稼げなくなります。こうした状況に対して、イマニュエル・ウォーラースティンは、「反システム運動」によって「社会主義世界政府」が実現されると考えています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E9%80%94%E4%B8%8A%E5%9B%BD%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82%E7%90%86%E8%AB%96"} {"text": "人類の祖先(猿人)は、500万年以上前に地球上に誕生しました。その後、人類は原人・旧人へと進化していきました。そして、4万年前から1万年前にかけて、ようやく私達とほとんど同じ骨格をもつ新人が現れたと考えられています。この長く狂ったような時間の中で、人々は食料を集め、狩り、釣りをしていました。文字もなく、残されたものは呪術的な意味を持つ絵画や彫刻だけでした。この時代を先史時代といいます。\n約1万年前、人々はようやく農耕を始め、動物を飼い、村に住むようになりました。ここで、獲得経済から生産経済への大きな変化が、人類の生活の中で起こりました。旧石器時代が終わり、新石器時代の始まりです。西アジアや地中海東部では、初めて農耕や牧畜が行われるようになりました。新石器時代最古の集落として知られるイラクのジャルモ遺跡では、人々は主に小麦を栽培し、ヤギや羊を飼育していました。紀元前5000年頃、小麦の栽培とヤギや羊の飼育が主な活動でした。同じ頃、これらの活動はユーラシア大陸やアフリカ大陸に広がり、それぞれの地域の気候に合うように変化していきました。\n中でもナイル川、ティグリス川、ユーフラテス川、インダス川、黄河、長江の周辺では、灌漑農業の必要性から大規模な集落が形成されるようになりました。青銅器などの金属器の登場は、より多くのものを作れるようになると階級が形成されるようになりました。貴族階級は大きな集落をまとめ、都市をつくりました。都市は部族の神を祀る神殿を中心に構成され、貴族階級は農耕や牧畜をする平民や、強制的に連れて行かれた奴隷を支配しました。この時、いわゆる都市国家が成立しました。各都市国家は寺院の税金や貿易を記録するために文字を思いつきました。金属器の使用、都市国家の成立、そして文字の発明が文明の最初の兆しと考えられています。こうして、人々は文字による記録の時代、すなわち歴史時代に移り、古代文明の盛衰を見ていきます。\n層位法\n下の層から発見されたものは、上の層から発見されたものよりも古いという考え方です。しかし、その年代を知るためには、他の年代がわかっているものと比較する必要があります。\n年輪年代学\n木の年輪は、気象などの経年変化を表しています。カリフォルニアには樹齢7000年の松の木があります。\n放射性炭素(\n\n\nC\n14\n\n\n{\\displaystyle C^{14}}\n)年代測定法\n生物中の放射性炭素と非放射性炭素の量は変わりませんが、放射性炭素は生物が死んだ後、一定の割合で分解されます。この性質を利用して、骨や炭化した木や食べ物に含まれる\n\n\nC\n14\n\n\n{\\displaystyle C^{14}}\nから、死後何年たったかを推定出来ます。1940年代にこの方法が発明されましたが、年齢が高いほど誤差が出やすいという指摘がありました。しかし最近、宇宙線の変化による違いを補正する方法が見つかり、精度が上がってきています。\n熟ルミネッセンス法\n土器に含まれる放射線の量を測定すれば、土器になる前の時期がわかります。このほか、氷河の末端の堆積物を見る氷縞粘土法、岩石の出来方を見る火成岩法(カリウム・アルゴン法)などがあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%A8%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E7%89%B9%E8%B3%AA_%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88"} {"text": "オリエントは人類文明の始まりの場所です。メソポタミアやエジプトでは、大規模な灌漑農業が行われ、高度な都市文明が発達しました。メソポタミアには周辺地域からセム語やインド・ヨーロッパ語を話す人々が次々と侵入し、国家の興亡を何度も繰り返しました。楔形文字、六十進法、太陰暦などが造られました。一方、ナイル川流域のエジプトは、その地理的条件から周辺民族の攻撃を受けにくく、エジプト語系民族の文明が永らく続きました。神聖文字などの象形文字、パピルス(紙)、太陽暦などもその文化の一部として誕生しました。\nセム系のアラム人、フェニキア人、ヘブライ人は、地中海の東岸にあるシリアやパレスチナで、それぞれ異なる活動をしていました。アラム人は自国内で商売をしながら、フェニキア人は地中海を舞台に商売をしていました。ヘブライ人はユダヤ教という一神教を作り、それが後にキリスト教やイスラーム教を生み出しました。紀元前7世紀、アッシリアやアケメネス朝がオリエントを統一して帝国を築きました。\nアレキサンドリア帝国の崩壊後、西アジアではギリシアのセレウコス朝やバクトリアが力を持つようになりました。その後、イラン系のパルティアが成立し、東西貿易に乗じて大成功をおさめました。パルティアを倒した後、イランのササン朝が成立しました。ゾロアスター教を国教とし、イランの伝統文化を復興させようとしました。また、インド、ギリシア、ローマなどの文化の影響を受けながら、高度な国際文化を作り上げました。7世紀以降、この文化はイスラーム文化にも影響を与えるようになりました。\n紀元前2000年頃、地中海世界では強い王を中心としたエーゲ文明の発展が始まりました。これはオリエントの影響があったからです。エーゲ文明が崩壊した後、ギリシア人はポリスと呼ばれる都市国家をつくりました。紀元前5世紀、アテネは民主的な政府を持つ最初の都市国家になりました。ギリシア人は、明るく、論理的で、人々に焦点を当てた文化を作り上げました。これはオリエントの文化とは異なっていました。ギリシアのポリスはやがて民衆の争いで崩壊し、アレクサンドロス大王がオリエントにもたらしたギリシア文化は、ヘレニズム文化と呼ばれるものに発展していきました。紀元前6世紀末、イタリア半島の中部にローマが誕生しました。共和制の支配下で、新天地の征服や植民地化を積極的に進めるとともに、法律や土木建築などの実用的な芸術を発展させました。ローマが地中海をその内海とする大帝国となったのは紀元前1世紀の話です。ローマが世界に与えた最も重要な遺産は、ローマ帝国が作った普遍的な法と4世紀にローマ帝国の公式宗教となったキリスト教です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%A8%E5%9C%B0%E4%B8%AD%E6%B5%B7%E4%B8%96%E7%95%8C_%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88"} {"text": "地球上で動物が進化していく過程で、人間は枝分かれして成長しました。人類は生物学的に見れば霊長類のヒト科動物です。その特徴は、二足歩行し、両手で道具を使い、火を扱い、労働をし、言語に基づいた文化を持っていた点です。人類がいつ出現したかについては、考古学、人類学、古生物学などの研究成果に基づいて、科学者達は様々な考えを持っています。人類は、ある場所で始まったたった一つの種から世界に広がったのか、それともアフリカや中国など違う場所で、同じように類人猿から生まれたのかは、まだはっきりしていません。猿人段階の骨は、ほとんどがアフリカで見つかっています。その後、ユーラシア大陸に移動して、違う場所で変化したのかもしれません。ラマピテクスとシバピテクスは、パキスタンとアナトリアの一部で骨が発見された一種族の類人猿です。彼らは1400万年前に生きており、かつて最初の人類と考えられていました。しかし、最近では、オランウータンの祖先と考えられています。類人猿の進化の過程で、オランウータンになる系統が先に分かれ、ヒトになる系統はずっと後に分かれました。\nつまり、人類は800万年前から500万年前の間に独自の進化の系譜を歩み始めた可能性が高いと思われます。その段階での証拠は見つかっていません。最近、エチオピアでラミダス類人(アルディピテクス・ラミダス)の顎骨が発見されました。この類人猿は他の類人猿と明確な違いがあり、人類最古の猿人と考えられています。また、アウストラロピテクス=アファレンシスは、400万年前以降にエチオピアで生きていたように思えます。これは、完全な骨格で見つかっており、直立して歩行し、腰や足の骨には変化がみられました。同じ系統の猿人4種は全てアフリカで発見されました。この中にはアウストラロピテクス=ボイセイとアウストラロピテクス=口ブストゥスも含まれています。250万年前、アフリカにはもっと進んだ人類もいました。これが最初のホモ・ハビリスです。アウストラロピテクスに比べ、脳が大きく、頭蓋骨が丸く、顔は人間のようで、大腿骨は現代の人類によく似ています。\n地質学的な時間では、原人(ホモ=エレクタス)は更新世(洪積世、180万年前から1万年前)が始まる頃、アフリカに初めて姿を現しました。脳の体積は1000cc以上で、類人猿の2倍です。中国南西部の山中にある洞窟から、170万年前に生きていた人達の骨群が発見されました。そこに住んでいた人々は、火をおこし、石器を使用していました。その後、約50万年前に北京原人(シナントロプス=ペキネンシス)が現れました。1923年以降、北京に最初に住んだ人達の骨が30体発見されましたが、戦争で全て失われ、現在は模型しか残っていません。藍田人も原人の一部です。彼らは後に中国で発見されました。また、1891年にインドネシアのジャワ島サンギランで発見されたジャワ原人(ピテカントロプス=エレクタス)は、130万年前に生きていたといわれています。タイ、ベトナム、朝鮮半島など、東アジアで初期人類の骨が発見されている地域があります。\n原人達は集団で生活し、野生の動物や植物から食料を調達していました。彼らはすでに原始的な石器を使っていました。エチオピアのパダールから出土した最古の石器は、約250万年前のものと考えられています。アウストラロピテクスの群の中には、すでに簡単な石器を使っていました。ホモ・ハビリスは、タンザニアのオルドヴァイ峡谷で発見された礫器や剥片石器を使っていました。礫器は、他の石を叩いたり、削ったり、翡翠を削ったりするのに使われる石器です。石核石器ともよばれます。剥片石器は、石器の破片を他の石で叩いて割ったものです。動物の皮も一緒に剥がされました。原人は、木や樹皮、動物の皮などの加工も行い、男性と女性では違う仕事をしていたと考えられています。アフリカで最初に火を使ったのが100万年以上前という確証はありませんが、もっと以前から使っていた可能性はあります。150万年前くらいから、石器が良くなり、刃を丁寧に加工してまっすぐなものになりました。このアシューレアン石器の中にアックス(手=斧)やグリーザ(斬るのに使う)があります。ジャワ原人が石器を使ったという証拠はありませんが、北京に住んでいた人達は洞窟に住み、火を使って料理や暖をとっていました。また、人々は石器と竹や籐で出来た道具を使っていました。彼らが言葉を喋れたのは間違いなく、死者の脳を食べたという形跡は、何らかの儀式をしていたのでしょう。\n原人は、100万年前過ぎにアフリカからヨーロッパに移動してきたと考えられています。南フランスのアラゴ洞窟、ドイツのハイデルベルク、ハンガリーなどで、原人のものと思われる骨が発見されているためです。彼らは石で道具を作り、40万年前頃から、仕事に応じて様々な種類の石器を作るようになりました(調整石核技法)。こうして、ヨーロッパ原人が進化して、旧人(ホモ・サピエンス)が誕生したと考えられています。ドイツで初めて発見されたネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルタレンシス)がその代表的な例です。北アフリカやアジアでも同様の旧人の骨が見つかっていますが、それぞれの地域で原人から進化したのか、ヨーロッパから旧人が移動してきたのかまではわかっていません。\n12万年前から3万5千年前まで、ネアンデルタール人はヨーロッパと中央アジアの各地に住んでいました。これまでに140体のネアンデルタール人の骨が見つかっています。脳の大きさは現代人(約1300〜1600CC)とほぼ同じで、時にはそれ以上大きい場合もあります。しかし、骨は太く丈夫で、額は丸みを帯び、眼窩の上には大きな隆起がありました。厳しい環境に対応する方法を考え出し、小屋を作り、マンモスのような大きな動物を集団で狩りに行きました。石器は調整石核技法によって、鋭いスクレーパー(掻器)やポイント(尖頭器)を作りました。スクレーパー(掻器)は動物の皮を剥いだり、切ったりするのに使われました。中期旧石器時代の石器は、旧人が作った石器全般を指します。最も一般的な石器はムスティエ石器と呼ばれ、その名前は発見された場所に由来しています。しかし最近、フランス南西部のネアンデルタール人も、現代人がつくったと考えられていた後期旧石器時代の石器を使用していた事実が明らかになりました。また、石器、木材・木器を作る加工場や動物の解体場もありました。小屋には炉や調理場があり、食料の種類も増えました。なお、貝類は、ネアンデルタール人が食べ始めた新しい食べ物の1つです。儀式についても、死者を丁寧に埋葬したり、死者の脳を食べたりしていたのは確かです。イラクのシャニダール洞窟で、足の不自由な老人が花に埋もれているのが発見されました。ネアンデルタール人は、あまりに年老いた人をかわいそうに思っていました。\nホモ・サピエンス・サピエンスと呼ばれる最初の新人は、6万年前から5万年前の間にアフリカに姿を現しました。新人の骨の中には10万年前のものもあり、ジャワ島の骨の中には12万年前のものもあります。ネアンデルタール人と新人は、過去のある時期には何と一緒に暮らしていました。顔の骨や顎などの特徴は、現代人とほとんど同じです。約4万年前から1万年前の更新世末期には、その数が増え、おそらくアフリカからヨーロッパに移動したのでしょう。そして、当時まだネアンデルタール人が住んでいたヨーロッパから、徐々にネアンデルタール人を追い出していきました。ネアンデルタール人は約2万8千年前に絶滅したと考えられています。新人とのつながりはなかったといわれています。パレスチナのカルメル山の洞窟で発見された人間の頭蓋骨は、ある部分はネアンデルタール人のもので、別の部分は新人のものだそうです。これは、ネアンデルタール人から新人への進化の過程を表しているとする学者もいます。このグループの代表が、フランスやスペインに多くの痕跡を残したクロマニョン人です。アジアでは、6万年前から5万年前にかけて中国の周口店上洞人が現れ、ジャワ島にも新人が現れたという証拠があります。最近では、アフリカから新人がやってきて、ヨーロッパやアジアに移動したという説が有力です。\n新人は、石から道具を作るのが非常に上手になり、後期旧石器時代が始まりました。1つの石核から多数の刃物を作る石刃技法が各地で発達し、用途に応じた様々な石器が作られるようになりました。小型石器だけでなく、槍、銛、釣り針、針など、骨や角の鋭い道具もつくられました。骨や角は低温でも丈夫なので、槍や銛、釣り針、針など、鋭い骨角器がつくられました。また、網などの道具を利用して、新しい生活様式も導入されました。新人は集団のために集落や墓地を設けました。石器は徐々に、どこで作られたかを示すようになりました。人々は自分達の集団がいかに似ているかを示していると考え、他の集団との争いに発展しました。また、遠くの集団との交易も始まりました。新人達が各地に広がるにつれ、人種的な違いが現れ始めました。\nまた、新人は原始芸術を残しました。彩色壁画や「石のビーナス」と呼ばれる単純な母神像がヨーロッパ各地で発見されています。原始芸術は全て、彼らの豊穣と繁栄の宗教的儀式の一部だと考えられます。屈葬や副葬品の使用は、埋葬の仕方をより複雑なものにしました。\n新人は、周囲の環境に適応するのが上手で、誰も行っていない場所へも進んで行きました。その中には、中国南部からオーストラリアに移動した人もいます。オーストラリアは1万年前までほとんど陸続きでしたが、地球冷却による海面低下で陸地化しました。また、ベーリング海峡も陸続きだったため、非常に寒冷なシベリアやアメリカ大陸に移動した人もいます。アジア、ヨーロッパ(ユーラシア)、アフリカは旧大陸と呼ばれています。一方、アメリカとオーストラリアは、ヨーロッパ人が最近になって知ったので、新大陸と呼ばれています。この2つの大陸には、人が住んでいませんでした。1万2千年前のアメリカ大陸には、南米の南端から人が住んでいた痕跡が見つかっています。これは、北アメリカから来た新人が、かなり広がっていた証拠です。\n山川出版社「改訂版 詳説世界史研究」木村靖二ほか編著\n※現在市販されている最新版ではありません。1つ前の版となります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%85%A0"} {"text": "1万年前に更新世が終わり、地球が暖かくなって完新世(沖積世)が始まりました。氷河がなくなると、土地は今と同じような姿になりました。植物や動物も大きく変わりました。マンモスやトナカイなどの大きな動物は、寒い北の大地へ移動するか、死んでしまいました。一緒に北へ移動した人達は、暖かい場所を好む猪や鹿を狩るようになりました。植物が育つと、食料を探すのも簡単かつ正確になり、魚介類も豊富で食生活は格段に良くなりました。人々は自然環境の中で生きる術を身につけ、それぞれの地域で独自の生活様式を築いていきました。\nユーラシア大陸北部では、細石器から鏃のついた弓矢が作られ、狼を犬に家畜化して、狩りをしやすくしました。少人数で狩りをする集団もあれば、川や海岸線に定住して漁業や植物採集をする集団もいました。また、あるグループは、アカシカだけを狩るなど、牧畜的な行動をとっていました。ハシバミの実を栽培して、それを採れるようにしている集団も見られました。南部の草原では、主に移動狩猟を行い、岩壁などに狩猟、戦闘、舞踏などの場面を岩絵として残しています。\n西アジアや地中海東部のパレスチナでは、カモシカ、羊、山羊、豚、牛などの野生動物がよく見られます。先祖伝来の小麦、大麦、エンドウ、レンズ豆などがよく自生しており、人々は狩猟や採集をしていました。そこではフリント製のナイフなどの細石器が使われていました。食料が増えると人が増え、土壁や石壁の建つ集落も生まれ、農耕・牧畜の前段階に入りつつありました。\nこの時代、人々は新しい自然環境にあわせて生活を変化させ、適応してきました。石器からみれば、更新世末期の打製石器による素朴な旧石器時代から、細石器を使う中石器時代へと移行していきました。やがて、人類は農耕や 牧畜を通して、変化と成長を始めました。これが新石器時代の始まりで、石器がきれいに磨かれ、より丁寧に作られるようになりました。\nこれまでの人類は、野生の動植物を食べて生活していました。ところが、農業や牧畜が始まり、生産経済の時代に突入しました。これは、人類にとってまさに革命でした。近代産業革命以前の最大のものだったため、人類に大きな影響を与えました。生産経済は、人類に自然とともに働き、自然をある程度管理し、自分達の生活を築いていく方法を与えました。その後、社会と文明は大きく変化しました。農耕と牧畜の生産経済は、現在に至るまで人類の生活と文明の基礎となっています。\n西アジアから地中海にかけての地域、イラン南西部のザグロス山地からアナトリア高原の南部を経て地中海沿岸に至る地域で農耕や牧畜が始まったと考えられています。これらの地では、栽培しやすい穀物や豆類が自生し、野生動物もたくさんいました。おそらく、山羊や羊が家畜として飼われるようになったのは紀元前9千年頃(紀元前9000年から紀元前8001年までの1000年間)です。一方、紀元前7千年頃までには、小麦、エンドウ豆、レンズ豆を栽培し、豚や牛を飼っていました。当時は山羊や羊の乳と動物の肉が使われていました。新石器時代には、黒曜石のような磨製石器が多く作られました。また、土器や織物も作られました。\n新石器時代以降、人々は土器をつくり、料理や食料の保存にとても便利な道具となりました。移動には向かないので、その使用は、誰かが一箇所に住み始めた証拠です。1万2千年前に日本で初めて土器がつくられたといっても、それは農耕を始める前の段階です。西アジアやインドが独自に土器を使い始めたのは、それぞれ紀元前8千年紀、紀元前6千年紀の出来事です。中国はずいぶん遅れていました。まず、練った粘土を糸状に巻いて土器を作ります。そして、型を作って押し付け、最後に轆轤が作られました。直火による低温焼成から粘土による覆土に変わり、窯の使用により硬い土器が出来るようになりました。\nこの西アジアにおける初期の農耕牧畜文化は、徐々に広い範囲に広がっていきました。紀元前5千年頃までには、ユーラシア大陸やアフリカ大陸の各地で農耕・牧畜文化が発達し、それぞれの地域で独自の作物栽培や家畜飼育が行われるようになりました。先進的な西アジアでは、粘土や日干し煉瓦を使った小屋で集落を作っていました。イラク北東部では、ジャルモやテル・サラサットでこの種の新石器時代の遺跡が見つかっています。初期の農業は、雨水を利用した乾地農法や肥料を使わない略奪農法が主流でした。そのため、耕作地はたびたび放棄しなければならず、定住は困難でした。しかし、紀元前7000年頃のアナトリア中部のチャタル・ヒュユクでは、日干し煉瓦の家がたくさん連なり、壊れるとその上にまた建てて丘(ヒュユク)にしていました。新石器時代の遺跡も見つかっています。\n生産技術が向上するにつれて、初期の農村の人々の移動は少なくなり、人口が増加しました。人々を結びつける呪術的な宗教の中心には、儀式がありました。彼らは皆、女性の姿を持ち、豊穣とたくさんの子供を祈る儀式を行っていました。狩猟、採集、農耕において女性は非常に重要であり、初期の農耕民は母系社会の傾向にあったと思われます。また、大地の重要性は他の追随を許さず、女性の像が大地母神像として広く認識されました。\n自給自足の考えから、住居、衣服、収納・調理器具、農具、武器などが作られました。しかし、早くから遠方との交易が始まり、それに伴い文化も伝播していきました。西アジアでは黒曜石の需要が高く、キクラデス諸島、シチリア島、サルデーニャ島などから運ばれてきました。また、北欧の琥珀も貴重な宝石でした。紀元前7世紀には、西アジアにもたらされました。紀元前5世紀には、初めて彩文土器が作られ、簡単な銅器や青銅器も使われるようになりました。紀元前6000年頃、イランからアナトリアにかけて彩色土器が使われており、中国では「彩陶」と呼ばれています。動物や狩猟の絵から、当時の文化がわかります。石器がより繊細になったのもこの頃です。働ける人が増えると、農作業以外の仕事もするようになり、それを専門とする職人も増えていきました。また、死者の埋葬の仕方から、いかに早くから共同体の中で権力が確立していたかがわかります。人権、私有財産、商業などの考え方も、時代とともに発展していきました。西アジアなどで発見された印章は、この事実を示しています。\n紀元前5000年頃にバルカン半島で作られた銅と金の製品は、私達が知る限り最も古い金属加工品です。この2つの金属が最初に使われたのは、地中から簡単に取り出せて広められたからだと思われます。紀元前5千年紀の後半になると、人々は鉱石を溶かして金属を取り出す方法を学びました。最初は陶芸用の窯が使われていました。紀元前3000年頃には、銅と錫を混ぜると青銅がより頑丈なものになると知られていました。錫は西アジアや地中海沿岸では採れないので、イギリスやイベリア半島西部から交易で手に入れる必要がありました。中国も青銅で独自の文化を作っていました。\n初期の農耕文化は広い範囲で発展し、ある地域ではより高度な技術が他の地域にも伝播していったのは確かです。紀元前3000年頃、ユーラシア大陸やアフリカ大陸の沿岸部や大河のほとりの肥沃な土地に農耕・牧畜文化圏が成立しました。そこでは、磨き上げられた石器や、色彩や彫刻が施された土器が並ぶ新石器時代の文化が発展しました。特にナイル川、ティグリス・ユーフラテス川、インダス川、黄河・長江流域は肥沃な土地に恵まれ、農耕牧畜文化の中心地となり、いわゆる世界四大文明が誕生しました。西アジアでは、ティグリス川やユーフラテス川のほとりで、どこよりも早く灌漑農業が始まりました。その結果、小さな農村から神殿を中心とした都市へと発展していきました。\n一方、バルカン半島から、ヨーロッパに農耕技術が広がりました。犬、豚、牛、羊、山羊などが家畜として飼われ、土器も盛んにつくられました。特に、バルト海からシベリアにかけての地域は、寒冷で森林が多く、農耕には不向きな地域です。そこで、骨角器や土器、磨製石器などを多用した新石器文化に似た採集・狩猟・漁労を中心とした生活様式が発達しました。日本の縄文文化は、この地域から生まれたと考えられています。中央アジアから北アフリカにかけてのステップ地帯には、細かい石器を使う原始的な遊牧民の新石器文化が存在しました。これらの遊牧民は、ほとんどの場合、天空の神を崇拝し、その社会は非常に支配的な場合が少なくありません。農耕民族と遊牧民は、しばしば協力して物資の交易や襲撃を行いました。結局、遊牧民は農耕地に入り、そこを占領し、定住する場合がほとんどでした。\nフランス、イベリア半島、ブリテン島の人類は、紀元前3千年紀以降にストーンサークル、メンヒル、ドルメンなどの巨石建造物を多数建設しました。その代表例がブリテン島のストーンヘンジです。リング状の礎石や列柱は天文学と関係があり、広い範囲の儀式が行われる場所だったかもしれません。フランスのブルターニュ地方にあるカルナックには、1167メートルの石が11本の直線で設置されています。\nイギリスのソールズベリには、巨石建造物があります。紀元前2000年頃に建てられました。直径100メートルの柱石の輪と、直径22メートルの立石の輪で構成されています。輪の開口部は夏至の日の出を向いています。このため、天文関係の儀式に利用されていた様子がうかがえます。\nフランスのブルターニュ地方にある新石器時代から青銅器時代にかけての遺跡です。3列の石列からなり、最大のものは11列、1169個の石があり、幅100m、長さ1167mあります。ストーンヘンジと同様、天文学と関係していると考えられています。\n人類が世界中を移動し、それぞれの地域の自然環境に適応していく中で、外見の違いや人種の違いが生まれました。人の皮膚や眼球が見つかっていないため、人種がどのように生まれたかを解明されていません。身長などの特徴でいえば、イタリアのコンブ・カペル型とフランスなどのクロマニョン型では、それぞれ異なります。ところが、アフリカでは、1万年以上前の古い骨格は見つかっていません。一方、周口店上洞人は、現代の中国人やメラネシア人に似た骨を残しています。それとともに、世界中を移動しながら人々の生活や文化が変化・発展し、多くの言語族や民族が形成されました。\n人種とは、身長、頭の形、肌の色、髪の色、目の色、血液型などの身体的特徴によって、人類を集団に分ける方法です。大きく分けて3つのタイプがあります。白色人種(コーカソイド)・黄色人種(モンゴロイド)・黒色人種(ネグロイド)です。人種は文化とは関係なく、また優劣とも関係ありません。しかし、歴史上、ある人種が他の人種に支配され、優劣が主張され、差別の理由に利用される場面がしばしばありました。語族とは本来、言語を分類するためのものですが、歴史家達はこの言葉を、全員が同じ言語を話す人々の集団を表すのにも使っています。民族とは、宗教や社会的規範など、同じ文化的伝統を共有する人々の集まりを指す言葉です。民族を決定する上で最も重要な要素は言語です。人間社会の発展に伴い、多くの人種や民族が互いに接触するようになりました。その結果、ある集団が他の集団を支配したり、混血したり、一つの国が複数の人種や民族を支配したりと、様々な問題が発生しました。\n山川出版社『改訂版 詳説世界史研究』木村端二ほか編著\n※現在市販されている最新版ではありません。前版の書籍になります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%85%A1"} {"text": "オリエントの語源はラテン語のオリエンスで、「日の昇るところ」という意味です。古代ローマ人は、ローマやイタリア半島の東部を指す言葉として使っていました。時代とともに地域が変わっても、歴史的に「中東」という言葉は、現在「中東」、「中近東」と呼ばれている地域を指しています。東はイラン高原の東端、西はエジプト、北はコーカサス山脈、南はアラビア半島に挟まれた地域です。北と東のアナトリアからアルメニア、イランにかけての地域とアラビア半島南西部、紅海を挟んだ地域に台地や山脈が見られます。それ以外の地域は、大部分が平地となっており、大半が砂漠か乾燥地帯です。雨があまり降らない地域がほとんどで、その分高温です。ただし、高地では季節的に雨が降る地域もあります。\nメソポタミアからシリア・パレスチナ地方にかけての細長い緑の帯が「肥沃な三日月地帯」です。そこでは、羊・山羊・駱駝などを放牧して生活していました。また、雨水に頼る乾地農業も行い、海岸沿いや河川敷の平野部、オアシスに広がって小麦や大麦、豆、オリーブ、ナツメヤシなどを栽培していました。ティグリス川、ユーフラテス川、ナイル川の三大河川の流域では、季節的な氾濫を利用した灌漑農業が早くから発達しました。その結果、大規模な集落が形成され、穀物生産を基盤とした高度な文明も発達しました。\nティグリス川とユーフラテス川の流域のメソポタミア(川と川の間の土地)に、民族系統不明のシュメール人が最初の都市文明を築きました。しかし、メソポタミアは開放的な地形なので、アラビア半島やその周辺の台地からセム系やインド・ヨーロッパ系の遊牧民や山岳民族が、豊かさを求めて次々とやってくるようになりました。そのため、長く複雑な歴史を歩みました。一方、エジプトは、ナイル川があるのが幸いしました。東西を砂漠に囲まれ、北は海、南はナイルの急流に囲まれています。ナイル川の中流部には、船が通れない場所が6カ所あります。そのため、他国の敵から攻撃を受ける心配はあまりありません。\nシリア・パレスチナ地方は、両地方を移動するための通り道になっていました。セム語系の人々は地中海の貿易で活躍しました。セム語系やインド・ヨーロッパ語系の民族がオリエント世界で活動しました。しかし、シュメール人、フルリ人、「海の民」のような系統不明の民族も活動しました。\nオリエント社会では、早くから宗教的権威によって人々が支配される神権政治が行われていました。神権政治は、大河を利用して洪水を調節し、作物を栽培する事業に多くの人々を組織し、動員する必要性から発展しました。オリエントでは、様々な種類の神権政治が存在しました。メソポタミアでは、王が神官として人々に神の望みを伝え、エジプトでは、王が神となりました。\n水源地帯の雪解け水によって、ティグリス川やユーフラテス川は毎年増水します。メソポタミアは灌漑や排水設備を整備したため、この水を利用し、多くの作物を育てられました。紀元前4千年紀の中頃から、ティグリス川やユーフラテス川下流の沖積平野に住む人々の数が増えていきました。神殿を中心とした大きな村落が生まれ、銅器や青銅器が広く使われるようになりました。この頃、人々は文字を発明しました。\n紀元前3000年頃、人々が必要とする以上の物資があったため、神官、戦士、職人、商人など、農業や牧畜で直接働かない人々の数が増え、大きな村落が都市へと発展していきました。都市を建設した最初の民族はシュメール人です。紀元前2700年頃までに、シュメール人の都市国家のほとんどが両河川の合流地点の近くにありました。ウル・ウルク・ラガシュはこれらの都市の好例で、紀元前250年頃のウル第1王朝時代に最盛期を迎えていました。各都市は周囲に城壁をめぐらし、その中央に高いジッグラト(聖塔)の形をした守護神の神殿がありました。ジッグラトは、頂上に神殿を持つ人工的な山です。メソポタミア各地の都市に建設されました。3階建ての建物の最上部には、月の神を祀る神殿があります。下から上まで、正面の階段はまっすぐ上に伸びています。バベルの塔は、バビロンのジッグラトにまつわる作り話かもしれません。人々はこの神が都市を支配していると考え、最高神官でもある王が神の名で神権政治として都市を運営していました。理論的には、全ての土地は神のものです。人々は神殿の共同体の一員でした。国庫は神殿の倉庫ですから、神殿の税金が保管されていました。神殿は他国との貿易を全て管理しながら、戦争は神の名で戦いました。しかし、支配者の軍事的責任が大きくなるにつれ、王権は次第に世俗的になり、神殿の目的と対立する王は、時に祭司の権力を制限しようとしました。\n各都市国家は、大規模な治水や灌漑によって農業生産を高めました。交易で必要な物資を手に入れ、儲けたお金で美しい神殿・宮殿・王墓を建設し、より高度な文明社会を築きました。しかし、都市は互いに支配権をめぐって争い続け、また周辺の丘陵部族や遊牧民が襲ってきたため、力を失っていきました。やがて、セム語系のアッカド人が都市を支配するようになりました。\nアラビアからメソポタミアに移動したセム語系諸族には、中部地方に定住したアッカド人がいました。紀元前24世紀のサルゴン1世の時代、彼らはメソポタミアの都市国家群を1つにまとめました。この最初の統一メソポタミア国家は、シリアや小アジアやアラビアも支配しましたが、約1世紀後、東方から山岳民がやってきて滅ぼされました。アッカド語が滅んだ後も、長い間オリエント世界の共通語でした。アッカド語の都市の遺跡はまだ誰も見つけていません。ウル第3王朝のもとで、紀元前3千年紀の末にシュメールの勢力が一時的に戻ってきました。しかし、アムル人と呼ばれるセム語系の遊牧民が大量にシリア砂漠からメソポタミアにやって来ました。セム語系のアムル人が紀元前19世紀にバビロンを首都とするバビロン第1王朝(古バビロニア王国)を樹立しました。紀元前18世紀、メソポタミアは第6代ハンムラビ王のもとで統一され、中央集権国家となりました。ハンムラビ王は多くの運河を建設し、治水・灌漑に取り組みました。また、シュメールの法律をまとめたハンムラビ法典を作り、王国に住む様々な異文化をまとめ、統一しようとしました。20世紀初頭、フランスの研究チームがペルシアの古都スサで、石碑に書かれた原文を発見しました。全282条まで書かれているハンムラビ法典は、神々がハンムラビ王に統治権を与えます。その上で、国家は被害者に代わって司法権を行使して犯罪者を罰して、都市社会の安全を守らなければならないとする内容です。特に、刑法は「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則と被害者の身分によって違う刑罰を受けていました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E2%85%A0"} {"text": "古代オリエント世界Ⅱでは、ヒッタイト王国などの登場とメソポタミアの文化について学びましょう。\nハンムラビ王の時代には、文明が大きく発展していきました。それが周辺の諸民族にも伝わり、やがて富を求めて侵略や移住するようになりました。そのうち、インド・ヨーロッパ語系民族は、紀元前2千年の初め、中央アジアや南ロシアの原住地を中心に移動を開始しました。インド・ヨーロッパ語系民族は頻繁にオリエントへ侵入し、他の民族を引き連れてきました。民族系統不明のフルリ人もこの頃、東方からメソポタミア北部にやってきました。その後、フルリ人は他の地域に移動し、インド・ヨーロッパ語族が築いた王国に住む人々の重要な一部となりました。インド・ヨーロッパ語系民族の軍隊は、馬(オリエントで初登場)が引く戦車で構成されていました。優れた機動力は、先住民を倒し、世界各地に新しい国家を設立するのに役立ちました。これにより、エジプトを含むオリエントの各地方が接触しやすくなり、古代オリエントが一つの世界となる舞台が整いました。\nまず、紀元前19世紀頃、ヒッタイトの一派が小アジアのアナトリア高原に移住して、先住諸民族とともにヒッタイト王国を建国しました。紀元前1650年頃には、ハットゥシャを首都とする強力な帝国に成長しました。ドイツ人のフーゴ・ウィンクラーは、1905年から1906年にかけて、当時オスマン帝国だったアナトリア高原のボアズコイ遺跡を掘りました。彼は、そこにヒッタイト王国の首都ハットゥシャが存在したと判明しました。ヒッタイトの研究は、やがてボアズキョイ遺跡から発見された多くの粘土板を解読し、研究を進めるようになりました。現在、日本からも小アジアに調査団が派遣され、発掘調査を行っています。\n紀元前16世紀初めには、バビロン第1王朝と戦い、これを滅ぼしました。紀元前14世紀、帝国の最盛期には南下し、ミタンニ・エジプトと戦いました。その中で最も有名なのは、紀元前13世紀初頭に起こったカデシュの戦いです。カデシュの戦いでは、北上してきたエジプト新王国時代のラメセス2世と、シリアの支配権をめぐって戦いました。戦いが引き分けに終わった後、両国は平和条約を締結しました。これは、現在も残る2国間の条約としては最も古い条約です。馬や戦車とともに、鉄製武器も使い、軍隊を強くしました。紀元前12世紀初頭、地中海東部を襲った民族大移動の波の中で、バルカン半島から来た民族によって滅ぼされました。しかし、それ以降、ヒッタイトの製鉄技術はオリエント各地に広まりました。\nバビロン第1王朝が滅んだ後、東の山地からカッシート人という別のインド・ヨーロッパ語族がやってきて、バビロン第三王朝という王国を築きました。この王国は約400年にわたりメソポタミア南部を支配しました。フルリ人とともに、別の一派がミタンニ王国を築きました。彼らは、紀元前15世紀から次の世紀の半ばまで、メソポタミア北部とシリア北部に強い勢力を誇っていました。紀元前2千年の中頃、オリエントではエジプトの新王国など、様々な王国が隣り合わせに作られました。紀元前1200年頃、大移動が東地中海地方を襲うと、政治状況はさらに混乱しました。しかし、その混乱の中から新たな勢力が生まれ、オリエントには新しい秩序が生まれ始めました。\nメソポタミアでは、各地や各都市の守護神、自然神を祀る多神教が根付いていました。しかし、優勢な民族がしばしば変わったため、信仰される最高神も変わりました。バビロン第1王朝の時代には、バビロンという都市の神であるマルドゥクが国家神とされました。また、シュメールの優れた宗教文学(神話やギルガメシュ叙事詩)は、セム語系諸民族の間でも広まり、大きな影響を受けました。\nギルガメシュは、ウルク第1王朝時代の本当の王だったと考えられています。考古学的に証明されていなくても、後世の言い伝えで、彼がいかに勇敢で、多くの戦いに勝利した偉大な王なのかを多くの物語として伝えています。『ギルガメシュ叙事詩』は、神と人々の交流や英雄の姿を物語ります。\n彼は友人のエンキドゥと冒険の旅に出かけ、レバノン杉の森を管理していたフンババを、神がするなと言ったにもかかわらず殺しました(森を抜け出し、文明に入るための手段)。また、美の女神イシュタルとの結婚を拒否し、女神が送った雄牛を殺しました。これに怒った神々は、エンキドゥを殺してしまいました。それでもギルガメシュは旅を諦めません。洪水から逃れるために箱舟を作り、永遠に生きるウトナピシュテムに出会い、永遠に生きられるという薬草を手に入れますが、蛇に食べられてしまいます。19世紀後半、アッシリアのニネヴェ図書館にある粘土板に書かれた文章をもとに、『ギルガメシュ叙事詩』の研究が進みました。\nメソポタミアでは様々な技術や文化が作られ、それが後に他の文明の基礎となりました。メソポタミアでは、3000年前から楔形文字が使われています。掘り出した粘土板に、鋭利な葦の茎で作った特殊なペンで押して書きます。粘土板は、保管する必要がある時は燃やされました。保管する必要がない時は、表面を平らにして何度も使用しました。シュメール人が作ったと考えられていますが、やがてアッカド語、バビロニア語、エラム語、ヒッタイト語、アッシリア語、古代ペルシア語など、オリエントのあらゆる言語の文字として使用されるようになりました。楔形文字はやがてアラム文字に置き換わり、オリエントの主要言語となりました。19世紀初頭、ドイツのゲオルク・フリードリヒ・グローテフェントがペルセポリスの碑文から古代ペルシア語の解読に成功しました。また、イギリスのヘンリー・ローリンソンもベヒストゥーンの碑文からアッカド語の解読に成功しました。その後、ニネヴェ図書館の遺跡が発見されると、さらに楔形文字が増え、アッシリア語も読めるようになりました。\nまた、占星術を行い、いつ農作業をすればよいかを知る必要があったため、天文・暦法・数学・農学が発展していきました。月の動き方をもとにした太陰暦は、1年の日数が354日です。これでは、実際の季節と合いません。そこで、閏月を作り、太陰太陽暦に変更しました。メソポタミア文明は、六十進法の時間や方位、7日で1週間を区切るという考え方などを私達に残してくれました。これらの考え方は、現在でも使われています。また、ハンムラビ法典を見ると、法律が体系化されていた点も忘れてはなりません。メソポタミア文化は実用的な分野では成長しましたが、真の科学につながる基礎的・理論的な面ではそれほど変わっていません。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E2%85%A1"} {"text": "古代オリエント世界Ⅲでは、古代エジプト文明について解説します。\nナイル川があったから、エジプト文明は発展出来ました。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、後に「エジプトはナイルの\n賜物\n\n」(『歴史』2巻5章)と述べています。下エジプトはナイル川の河口付近のデルタ地帯、上エジプトはナイル川に沿って南にある渓谷地域です。毎年7月から10月にかけて、ナイル川の源流の一つアビシニア高原に雨が降ると、ナイル川は次第に増水し、定期的に氾濫します。ナイルの穏やかな氾濫は、上流から肥沃な土(ナイル=シルト)を運んでくるので、ナイル川沿岸での農業は豊かな実りを約束されました。ナイル川の定期的な氾濫は、メソポタミアのような災害ではなく、人々を救いました。もともとナイル川沿いの狩猟民族だったエジプト語圏の人々は、自然の灌漑を利用して作物を育てました。これがエジプト文明の経済的基盤になりました。\nナイル川流域のエジプト語系の人々は、早くから村落群を作っていました。この村からノモス(県)[注釈 1]が生まれ、これが後に政治的な単位となりました。上エジプトには22のノモスがあり、下エジプトには20のノモスがありました。それぞれの集団では、同じ地域の人々が協力してナイル川の氾濫を防いでいました。そのためには、彼らをまとめる強力な指導者が必要でした。このように、紀元前4千年紀の終わりには、エジプトはすでに一つの国になりつつあり、国を運営するための政治体制も徐々に整っていきました。\nメネス(ナルメル)王が上下エジプトを統一したのは、紀元前3000年頃と言われています。エジプトは、メソポタミアより先に王(ファラオ)によって統一されました。何度も分裂し、他の地域から来た部族に支配されながらも、長い間、国家の統一を保ちました。その後、紀元前3世紀のマネトという神官が『エジプト史』を著しました。この書物をもとに、古代エジプトの歴史を30~31の王朝に分けました。このうち、古王国・中王国・新王国は最も豊かな時代でした。\n 古代エジプトの王は、ナイル川を支配する絶対的な権力を持っていました。ナイル川の水位を管理し、いつ増水するかを正確に判断出来ました。王は生ける神なので、王が指導する巨大な中央集権的官僚システムが3千年間、極めて安定した神権政治を維持しました。王宮には「宰相」をはじめとする官僚の集団があり、各地の神殿には神官団が置かれました。いずれも代々受け継がれてきた役職です。書記階級は、政府と神職の両方に付属しているので、これも高い身分でした。土地を所有する王は、官僚、神官、書記に土地を与えましたが、そこに住むほとんどの人達は農民(セメデト)で、生産物に租税をかけ、ただ働きしなければならない迷惑な階級でした。\n紀元前27世紀頃、ナイル川下流域のメンフィス[注釈 2]を中心に発展した古王国時代(紀元前2686年頃〜紀元前2181年頃)[注釈 3]の統一国家は安定期を迎え、王達の権力を示す巨大なピラミッドが多数建設されました。特に「ギザの三大ピラミッド」はよく知られています。これらは、第4王朝のクフ王、カフラー王、メンカウラー王がナイル川の西岸ギザに建てました。3つのピラミッドのうち最大のクフ王のピラミッドは、20年の歳月と10万人の労働者を費やして建設されたと言われています。しかし、これは強制労働ではなく、農閑期に農民を働かせるための国家プロジェクトだったという説があります。通常、ピラミッドは王の墓と考えられていますが、王妃やその民の墓も含めた、より大きな葬送構造の一部と捉える必要があります。第5王朝以降、ピラミッドの大きさはどんどん小さくなっていきます。第6王朝以降、各地域のノモスが独立し、一時期統一性が失われました。この時期を第1中間期といいます。\n紀元前2000年頃、上エジプトにあるテーベ[注釈 4][注釈 5]の人達が、エジプトをまとめ上げ、第11王朝を立ち上げました。ここから始まった中王国時代(紀元前2055年頃~紀元前1795年頃[注釈 6])には、首都がテーベに移り、政府の中央集権化、組織化が進みました。しかし、中王国末期の紀元前17世紀、遊牧民のヒクソスがシリアからやってきて、ナイルデルタ周辺を支配しました。これによって、この国は一時期混乱に陥りました。ヒクソスはセム語系の複数の民族ですが、一部インド=ヨーロッパ語系の人々も含まれていました。ヒクソスは、それまで知られていなかったエジプトに馬と戦車を持ち込みました。このヒクソスの時代を第2中間期といいます。\n 第18王朝は、紀元前16世紀にテーベで始まりました。彼らは100年間支配していたヒクソスを追い出し、国全体をまとめ直しました。以降、約500年後の第20王朝までが新王国時代と呼ばれています。新王国時代には、第18王朝と第19王朝が最も勢力を伸ばしました。この時代、エジプトは積極的な外交政策をとっていました。第18王朝のハトシェプスト女王は、南方のプントに船団を派遣して貿易を営んでいました。プントの正確な場所は紅海の南西の海岸からアフリカに少し入ったところとか、ソマリアの少し南のところとか言われていますが、不明です。ここからエジプトは、金や香水、ヒヒなどの珍獣を手に入れました。トトメス3世はエジプト最大の王でした。彼はシリアとナイル川上流のヌビアを占領し、それらを支配する帝国にしました。第19王朝に属し、シリアに進出したラメセス2世は、ヒッタイトと戦い、この地域を支配しました。\n第18王朝時代のアメンホテプ4世は、もうひとつ知られています。この王は首都をテル=エル=アマルナ[注釈 7]に移し、イクナートン[注釈 8]と改名し、従来のアモンを中心とした多神教から唯一神アトン(「アトンを喜ばせるもの」)の信仰に変えました[注釈 9]。新しい宮廷は、エジプトでは珍しいアマルナ美術と呼ばれる芸術様式の中心地でした。しかし、王が亡くなるとこの改革はなくなり、次のツタンカーメン王[注釈 10]は首都をメンフィスに移転しました。そこでは、アモン神の信仰が復活しました。\n続く、第19王朝のラメセス2世は王国の勢力を回復させました。ラメセス2世は、アブ・シンペル神殿などの大規模な建築事業を開始し、カデシュでヒッタイトと戦い、紀元前1275年頃に平和をもたらしました。紀元前12世紀以降、エジプトは徐々に力を失い、西アジアやリビアからの侵入をたびたび受けました。第20王朝には「海の民」がエジプトを支配しそうになりましたが、ラメセス3世がかろうじて食い止めました。しかし、王権は弱体化して、新王国時代は幕を閉じました。第22王朝から第24王朝はリビア人が、第25王朝はヌビアから来たクシュ人がつくりました。\n紀元前7世紀、アッシリア人がやってきて、末期王朝時代のエジプトを占領しました。紀元前525年、アケメネス朝がこれを占領し、自国の州としました。第28王朝と第30王朝によってエジプトの支配が復活しましたが、紀元前343年、アケメネス朝が再びエジプトを占領し、エジプト王朝は終わりを迎えました。\n エジプト人は多神教を信仰しましたが、太陽神ラーはエジプト人にとって最も重要な神でした。その後、首都がテーベに移ると、この都市の守護神アモン[注釈 11]と合体[注釈 12]してアモン=ラーとなりました。この神は、アメンヘテプ4世の時代にアトン信仰が義務づけられた以外は、ほとんどどこでも信仰されました。エジプト人は、霊魂は永遠に生き続けると信じ、死後の世界を支配しているのはオシリス神と信じていました。そのため、遺体をミイラ化し、「死者の書」をはじめ、墓に多くの副葬品を添えて葬りました。このうち、「死者の書」とは、エジプト人が死者の来世での幸福を祈るために、ミイラと一緒に埋めた絵本です。死者が冥界の王オシリスを前に最後の審判を受け、椅子に座って生前の行いを説明する様子が描かれています。\nエジプト人が最初に作った象形文字は、元々表意文字でした。その後、表音文字として使用出来るように変更されました。エジプト文の表意文字と表音文字の使い分けは、日本語の漢字と仮名の使い分けに似ています。書体面でも、文字が簡略化されて使いやすくなっています。そのため、以下の3種類の違いが生まれました。なお、ロゼッタ=ストーンは、ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征の際、アレクサンドリアのロゼッタ(アラビア語でラシード)で見つかりました。上段が神聖文字、中段が民用文字、下段がギリシア文字という3種類の文字で書かれています。フランスのジャン=フランソワ・シャンポリオンは、このギリシア文字の記述から、神聖文字の解読に成功しました[注釈 13]。\n1.  石碑や墓室、石棺などの石器に刻まれ、象形性の強い神聖文字(ヒエログリフ)\n2.  パピルス草からつくった1枚の紙にインクで書かれ、宗教書、公文書、文学作品などに利用される簡略体の神官文字(ヒエラティック)\n3.  日常的に使用される最も簡略化された民用文字(デモティック)\nエジプトやメソポタミアでは、ナイル川がいつ氾濫するか、いつ農作業をするかを知る必要があったため、早くから天文や暦法の研究に取り組んできました。エジプト人は1年を12カ月、365日とする太陽暦を使用していました[注釈 14]。太陽暦は後にローマで使われるようになり、ユリウス暦とよばれるようになりました。洪水後に再び土地を使えるようにするために作られた測地学は、幾何学の原点と考えられています。エジプトにはたくさんの石材があったので、有名なピラミッドやオベリスクだけでなく、石材を使った美しい神殿がたくさん建てられました。また、様々な遺跡で見られる列柱式建築は、クレタ島やギリシアの建築様式に影響を与えたと考えられています。\nテンプレートデータに関する情報\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E2%85%A2"} {"text": "古代オリエント世界Ⅳでは、古代オリエント時代の民族大移動について学習します。\n地中海東岸に位置するシリア・パレスチナ地方は、古くから海路と陸路の交通の要所でした。エジプトとメソポタミアを結ぶ交通路のルートにもなっており、地中海への出入り口でもあります。海と砂漠に囲まれた複雑な地形のため、一つの国家を形成するのは困難でした。そのため、この地域は政治的にも軍事的にも周辺の大国に支配される場合が少なくありませんでした。この地域に住む人々は、古くから交易を行い、多くの重要な文化的遺産を残しました。\n紀元前1500年頃、セム語系のカナーン人がパレスチナ地方で貿易を開始しました。彼らはエジプトの象形文字を利用して、原カナーン文字(アルファベットの原型)を考えたのが知られています。紀元前13世紀頃、地中海東部沿岸の地域に、祖先不明の異なる集団からなる「海の民」と呼ばれる集団が進出してきました。この侵略者はヒッタイト帝国を滅ぼしますが、エジプトの新王国は何とか阻止出来ました。また、クレタ島をはじめとするギリシアのミケーネ文明の終焉も、彼らの侵略が原因だと考えられています。「海の民」の一部はパレスチナの南海岸に移動し、ペリシテ人となりました。ヒッタイト人とエジプト人は、彼らの活動のために去り、シリアとパレスチナは強い政府を持たないままとなりました。アラム人、フェニキア人、ヘブライ人などセム語系民族はこの状況を利用し、活動を開始しました。\n西セム語系のアラム人は、紀元前12世紀末にシリアからパレスチナ、メソポタミアに移動しました。彼らは各地に都市国家を築き、緩やかな同盟関係を築きました。彼らはダマスカスを中心とする内陸都市間の交易に重要な役割を果たしました。紀元前8世紀、アッシリアに独立を奪われた後も、彼らの話すアラム語は、長い間、オリエント全域で商売に使われました。アラム文字のアルファベットもオリエントで多く使われていましたが、より複雑な楔形文字が徐々にその座を奪っていきました。アラム語はアケメネス朝の公用語となっていただけではなく、東方キリスト教の重要な言語となりました。ヘブライ文字・シリア文字・アラビア文字・ソグド文字・ウイグル文字・モンゴル文字・満州文字などのアルファベットは、全てアラム文字を基礎としています。\nフェニキア人はカナーン人の一派と思われ、紀元前1200年頃、地中海の貿易を独占するようになりました。彼らは地中海の東岸にビブロス・シドン・ティルスなどの都市国家を建設してこれを実現しました。フェニキア人は、内陸貿易を行うアラム人とは異なり、海上貿易によって勢力を拡大しました。彼らは造船技術や航海術を得意とし、染料や金属・ガラスを加工する道具なども作っていました。その後、紀元前9世紀には、地中海沿岸に植民地を築き始めました。そのひとつが、北アフリカのカルタゴです。紀元前7世紀にはアッシリア・新バビロニア・アケメネス朝がフェニキア人を支配しましたが、海の上ではまだ活発に活動しており、ペルシア戦争ではフェニキア海軍が大活躍しました。その後、紀元前4世紀末にアレクサンドロス大王がティルスを滅ぼしました。その後、東地中海はギリシアに支配されますが、西地中海でのカルタゴの勢力は、ポエニ戦争でローマに敗れるまで強く保たれました。最盛期には地中海だけでなく、大西洋やインド洋でも商売をしていました。\nフェニキア人は紀元前11世紀頃にフェニキア文字を作りました。これは、原初カナーン文字に基づくシナイ文字を改良した文字です。シナイ文字はアラム文字の基礎となり、それがギリシア人に受け継がれ、現在でも西洋のアルファベットの基礎となっています。これが、フェニキア人が文化史上最も重要な役割を果たしたといわれる理由です。\nヘブライ人の祖先は、ユーフラテス川の上流域に住んでいた遊牧民です。彼らは、紀元前2千年の前半に現在のパレスチナに移動しました。そのうちの何人かは、おそらくヒクソス人と共にエジプトに向かいました。しかし、ヒクソスが敗れた後、彼らは新王国時代の厳しい支配に耐えられなくなりました。紀元前13世紀、モーセはヘブライ人を率いてこの地を脱出します(「出エジプト」)。多くの困難を乗り越え、彼らはパレスチナの旧友と暮らすようになりました。当時、ヘブライ人はまだ遊牧民的な生活をしており、12の部族からなる緩やかな連合体で統治していました。緊急時には「士師」と呼ばれるカリスマ的な指導者に従っても、「王」のような永続的な指導者を求めていませんでした。しかし、周辺の諸民族との争いがひどくなり、特に海岸平野に住む「海の民」であるペリシテ人との争いが激しくなると、強い指導者の必要性が高まってきました。そこに住んでいたペリシテ人の名前がパレスチナという地名になりました。ヘブライ人は、彼らから鉄の作り方を学びました。紀元前11世紀末、ついに王国は君主制となりました。これをヘブライ王国と呼びますが、そこに住む人々は、「ヘブライ人」と呼ばれても、「イスラエル人」と言います。\n第二代目のダヴィデ王はペリシテ人を倒し、パレスチナ全土を手に入れ、イェルサレムを首都とする統一王国を築きました。息子のソロモン王が絶頂期になると、フェニキア人のティルス王と協力して諸外国と貿易を行うようになりました。しかし、その一方で、神殿や宮殿を建てるための大変な土木工事や、軍隊を維持するための重税で、民衆は疲れ果ててしまいました。王が死んだ後、王国は北のイスラエルと南のユダに分かれました。イスラエルもユダも、この地域の他の勢力に苦しめられ、弱体化しました。この頃、多くの預言者が現れ、この苦しみは人々の腐敗と社会悪が原因だと言いました。彼らは、神への正しい信仰を取り戻し、人々を結束させようと呼びかけましたが、上手くいきませんでした。イスラエルは紀元前722年にアッシリアのサルゴン2世に、ユダは紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザル2世に征服され、いずれも多くの住民が移住を強いられました。特に2回目のバビロニアへの連行は、「バビロン捕囚」(紀元前586年〜紀元前538年)として後世に語り継がれます。紀元前538年にアケメネス朝のキュロス2世がバビロニアを支配すると、ユダヤ人は帰国を許されましたが、異民族の支配下で長い間苦しまなければなりませんでした。\nヘブライ人は、古代オリエントで唯一、一神教を信じていました。しかし、出エジプトを経てパレスチナに到着した彼らは、ヤハウェが唯一最高の神だと理解し、ヤハウェ[1]と契約しました。王国時代、彼らは周囲の多神教の影響を受け、預言者達から厳しい批判を受けました。しかし、亡国やバビロン捕囚などの民族的苦難の中でヤハウェへの信仰は強まり、やがて神と契約を結んだユダヤ人だけが救われるという選民思想とそれを実現する救世主(メシア)の到来を待望するようになりました。旧約聖書がまとめられたのもこの頃からです。捕囚から解放され帰国したユダヤ人は、イェルサレムにヤハウェの神殿を再建し、儀式や祭祀の規則を作り、ユダヤ教を確立しました。ペルシアのゾロアスター教は、最後の審判やそこで教えられていた天使や悪魔に関する考え方に影響を与えたといわれています。その後、ユダヤ教が信仰や日常生活の規則である律法を重視するようになると、イエスが現れ、形だけの信仰に新しい命を吹き込みました。これによって、ユダヤ人だけでなく、全ての人が救われるようになりました。ヘブライ人は、神話・伝承、予言者の言葉、神への賛歌などを集めたユダヤ教の聖典を書きました。これが『旧約聖書』となり、イエスの教えや弟子達の行いや手紙を集めた『新約聖書』とともに、キリスト教の聖典となりました。これらの聖書は、ヨーロッパでの思想や芸術の大きな支え(ヘブライズム)となりました。また、『旧約聖書』はイスラーム教の聖典です。ちなみにパウロは、「神との新しい契約」を意味する『新約聖書』に対して、『旧約聖書』では「神との古い契約」を意味すると述べました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E2%85%A3"} {"text": "古代オリエント世界Ⅴでは、アッシリア王国とアケメネス朝について学習します。\n紀元前2千年の初め、セム語系のアッシリア人がメソポタミア北部のティグリス川上流にアッシリア王国を建国しました。アッシリアの名前は、アッシュル(最初の首都や女神)に由来しています。標高500メートルのこの地域は天水農業地帯なので、下流域のように大河がもたらす肥沃な土壌に頼っていては穀物が育ちません。そこで、アッシリア人は内陸中継貿易で儲けようとしました。アナトリアには、アッシリア商人のための交易拠点が数多く設置されました。紀元前19世紀末には、メソポタミア北部一帯を支配する強大な国家を築きました(古アッシリア時代)。紀元前15世紀には、一時ミタンニ王国の属国となりました。その後、独立を回復して、紀元前12世紀には当時衰退しつつあった東地中海地域に勢力を伸ばしました。紀元前8世紀後半、サルゴン2世とともに大規模な軍事遠征を行うようになりました。サルゴン2世の息子の時代には、ニネヴエを新たな首都としました。アッシリアはバビロニアからシリアにかけて多くの民族を支配する強力な軍事国家となりました。アッシリアの軍事的成長を実現させたのは、強力な軍隊でした。鉄製の武器と強力な弓で武装した歩兵隊、騎兵隊、戦車隊が征服活動のために使われました。工兵隊は道路や橋の建設に優れていました。\n紀元前7世紀前半になると、アッシリア人はエジプトも征服しました。こうして、エジプトからペルシア湾までを支配する最初の世界帝国が誕生しました。エジプトを占領したアッシュルバニパル王の時代には、帝国は最盛期を迎えました。彼は、ニネヴェの有名な大図書館を建設しました。\nアッシリア王は強大な専制君主でした。アッシリア王は、広大な領域を支配するために中央集権的官僚体制を設けました。領土を属州に分け、物資や情報を短時間で移動させるために街道に宿駅を設置して[1]、各地に総督を置きました。王は国家の最高神アシュールの代行者と考えられていました。王は政治・軍事・宗教・裁判などを全て管理しました。また、王は、反抗的な周辺諸民族を強制的に別の土地に移住させる強制捕囚政策を実施しました。こうして反乱の芽をつぶし、帝国は政策を実行するために必要な兵士、職人、労働者を獲得していきました。\n一方、重税と圧政は服属民の反発を強めました。アッシリア帝国は、アッシュルバニパル王の治世が終わると同時に、急速に崩壊し始めました。紀元前612年、新バビロニア・メディア連合軍に敗れ、アッシリア帝国は終わりを迎えました。\nアッシリア帝国の滅亡後、オリエントは4つの王国(エジプト、リディア、新バビロニア[2]、メディア)に分かれました。リディアは、紀元前7世紀半ばにインド・ヨーロッパ系のリディア人がアナトリアに建国した王国です。首都サルデスを中心に、他国との交易で上手くいっていました。また、リディアは世界最古の金属貨幣を製造していた場所としても知られています。さらに、セム語系カルデア人が新バビロニアを建国しました。新バビロニアは、ネブカドネザル2世がバビロン捕囚を行った時期に、最も勢力を伸ばしました。バビロンの首都は繁栄して、世界の七不思議の1つにも数えられる「空中庭園(吊り庭)」なども造られました。\nメディアは、イラン高原の南西に位置するファールス地方で、インド・ヨーロッパ語を話すイラン人によって建国されました。紀元前550年に同じイラン人であるペルシア人によって滅ぼされ、この場所でペルシア人はアケメネス朝を建国しました。「イラン」は、イラン高原の初期住民が自称していた「アーリア」という言葉に由来しますが、「ペルシア」はヨーロッパの言葉です。アケメネス朝の開祖キュロス2世は、紀元前547年にリディアを、紀元前539年に新バビロニアを支配しました。彼は誰も殺さずにバビロンに入り、翌年にはユダヤ人を奴隷から解放しました。次の王、カンビュセス2世はエジプトに軍を送り、全てのオリエント統一に成功しました。\nカンビュセス2世の死後、反乱が起こりましたが、第3代の王ダレイオス1世は、帝国を支配するための下準備を整えました。その結果、西はエーゲ海の北岸から東はインダス川まで広がる大帝国を築き上げました。ダレイオス1世は帝国を地方(サトラピー)に分割し、各州に知事(サトラップ)を置きました。これは、アッシリアの制度を引き継いだ形ですが、初めて全土が均等に分割されました。当時の州は、少なくとも20州余りだと言われています。\nダレイオス1世は金貨と銀貨を作らせて、税金を納める方法として、貨幣を中心とした統一的な徴税制度を設けました。また、フェニキア人の海上の交易とアラム人の陸上の交易に目を配りました。この結果、都市の経済が発展しました。陸上では、サルデス・エクバタナ・バビロン・ニネヴェなど重要な場所を結ぶ国道「王の道」を建設しました。また、首都スサを拠点とした駅伝制も設けました。もう一つの王都ペルセポリスも、新たに建設されました。200年間続いたアケメネス朝支配の安定は、行政と財政の中央集権化によってもたらされていたからです。一方、アケメネス朝は、そこに住む異民族に対して寛容な立場を取り、現地の支配階級には自由に社会を運営させました。\nダレイオス1世は自分に降参しないギリシア人に復讐するためにペルシア戦争を始めましたが、彼とその息子クセルクセス1世は共に敗れました。その後、アケメネス朝は宮廷闘争や知事達の反乱などで徐々に崩壊していきました。紀元前330年、アレクサンドロス大王の東方遠征でついに征服されました。\nイラン人は、自分達の領土に住んでいた様々な民族の文化を混ぜ合わせました。彼らは建築や工芸に優れ、ペルシア語の音を楔形文字に置き換えてペルシア文字を作りました。また、ペルシア語、エラム語、バビロニア語とともに、国際商用語(アラム語)を公用語にしました。また、帝国の政治を中央集権化しました。\nイラン人はゾロアスター教(拝火教)という火や光を崇拝対象とする宗教を信仰していました。教祖ゾロアスターが実在したのは分かっていても、彼がいつ生き、いつ活動したのかについては様々な考え方があります。紀元前1300年から1000年の間に生きたという説もあれば、紀元前630年から553年の間に生きたという説もあります。善悪二元論に基づいて、「善(光明)の神アフラ=マズダは悪(暗黒)の神アーリマンと戦いますが、最後は光明神が勝ち、最後の審判で善人の魂が救われます。」と教えています。ユダヤ教やキリスト教は、この二元論的終末論の影響を受けたと言われています。アケメネス朝はゾロアスター教を保護しました。その後、南北朝時代や隋・唐時代に中国に伝わり、祆教といわれるようになりました。また、人々は光の神(ミトラ)や水の女神で大地母神(アナーヒター)を信仰していました。その後、光明神ミトラの信仰はローマ世界に広がり、密教として一般大衆に親しまれるミトラ教に変化していきました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%91%A8%E8%BE%BA%E2%85%A4"} {"text": "インドの東南の気候は、雨季と乾季のある、モンスーン気候である。モンスーン(monsoon)とは季節風のこと。現代のヒンドゥー教の神に雷神インドラがいるのは、つまりインドの気候では雷雨が起こるということである。\nインドの北部と南部で気候が違う。北部は乾燥しており、雨季と乾季の差が、はっきりしている。南部は、年間をつうじて温暖である。\n古代のインドの農業では、インダス川の流域では、乾燥した気候であり、小麦が主要な農産物であった。\nいっぽう、ガンジス川の流域では、湿潤な気候であり、稲やヒエ・アワが主要な農産物であった。\n古代インドの民族も、北インドを中心としたアーリア系と、南インドを中心としたドラヴィダ系とに分かれる。\nインドでは、青銅器をつくれるインダス文明が、紀元前2500〜紀元前2300年ごろに起きた。民族については、ドラヴィダ人がインダス文明を作ったと考えられてるが、まだ学術的には不明である。\n遺跡では、下水道や浴場などの公共施設もそなえ、レンガ造りの建物のある、モエンジョ=ダーロという都市を作っている。遺跡には、モエンジョ=ダーロのほかにも、ハラッパーなどの遺跡がある。\n遺跡には、穀物倉庫や沐浴場(もくよくじょう)などがあった。\nインダス文明の遺跡からは、青銅器や土器が出土している。インダス文字が使われていた。インダス文字は、現代でもまだ解読されていない。\n宗教については、印章や像などから、牛を神性視する信仰があったり、のちのヒンドゥー教のシヴァ神の原型と思われる像があったり、また聖樹や地母神などを崇拝していたと考えられる。\nインダス文明は1800年ごろから衰退した。インダス文明の衰退の原因は不明であるが、森林伐採などの環境破壊説や、洪水説、気候の変化説などがある。\n紀元前1500年に、北方の中央アジアのアーリア人(Aryans)が、カイバル峠を超えてインドに侵入し、インドのパンシャーブ地方を征服した。先住民は奴隷として支配される。アーリア人は、インダス川上流のパンジャーブ地方に定住して、農耕社会を築いた。\n宗教について、アーリア人は、雷や火、太陽などの自然力を神として崇拝していた。それらの宗教知識をまとめた、インド最古の古典が、「ヴェーダ」である。『リグ=ヴェーダ』(Regveda)は、ヴェーダのうちの賛歌集である。\n前1000年ごろ、アーリア人は、ガンジス川に進出する。また、同じく前1000年ごろ、青銅器から鉄器文明へと変わる。\nこの前1000年ごろから、支配者たちは身分制度を作り、神官のバラモンと呼ばれる階級を頂点とする身分制度を作った。この身分制度が、のちにインドの伝統的な身分制度のカーストにつながる。(※ 後世に、いわゆる「バラモン教」といわれるのは、このころの風習など。近代のイギリス人が「バラモン教」(Brahmanism ブラフマニズム)と名づけた。バラモンとは漢語に訳された際の「婆羅門」の日本式の音読で、サンスクリット語での正確な発音はブラフミン。古代インドの神ブラフマンとは異なるので、混同しないように。)\n身分には、バラモン(神官、Brahmana)、クシャトリア(王族や武人、kshatriya)、ヴァイシャ(農民や商人などの平民、vaishya)、シュードラ(奴隷、shudra)の身分があった。\nそして、この4つの身分を中心とした身分制度をヴァルナ(varna)と呼んだ。\nさらに、ヴァルナの4つの身分をもたない、さらに低い身分がおかれ、さわるとけがれる不可触民(ふかしょくみん)とされた。\nバラモンの権力は宗教だけでなく、政治などでも権力を持った。\n前6世紀ごろに、城壁を持った都市を中心とする都市国家が、いくつも生まれた。\nそのような都市国家のなかでも、マガダ国(Magadha)やコーサラ国が有力になった。\nマガダ国が前5世紀にコーサラ国を滅ぼした。\n前600年ごろから、王族や商工業者が力を持ち、バラモンによる支配に不満をもった。\nこのような時代のなか、バラモンの身分的な支配を否定する、ジャイナ教や仏教などの宗教が現れた。\nジャイナ教の開祖であるヴァルダマーナは、禁欲的な苦行や不殺生などによって、解脱できると説いた。仏教の始祖ガウダマ=シッダールタ(Gautama Siddhartha、のちにブッダ、buddha)は、解脱に必要なのは苦行かどうかではなく、正しい方法で修行すること(八正道、「はっしょうどう」)によって、解脱できると説いた。\n「八正道」とは、八つの正しい修行法なので、「八正道」という。\n前326年、アレクサンドロスの遠征軍がインダス川まで到達した。これによってインドの政治が激変した。前317年にマガダ国のチャンドラグプタがマウリヤ朝を起こして、そして北インドを支配した。\nマウリヤ朝3代目のアショーカ王のときに、インドをほぼ統一した(ただしインド南端部を除く)。これがインド史上、初めてのインド統一である。\nアショーカ王は、武断政治を改めたのだろうか、(あるいは反乱を防ぎたいのだろうか、軍隊による暴力を独占したいのか、)仏教に帰依し、仏教を厚遇した。そしてアショーカ王は仏典の結集(けつじゅう、編纂のこと)を支援して、社会倫理を法勅(ほうちょく)としたダルマ(真理、法)を発し、ダルマを刻んだ石柱などを各地に作らせた。またアショーカ王は、病院や道路や貯水池などを作らせた。\nアショーカ王の死後、マウリヤ朝は衰退し、帝国は分裂した。\n仏教はセイロン島(スリランカ)にも前3世紀に伝わり、のちにセイロン島は上座部仏教(じょうざぶ ぶっきょう)の中心地になった。\n前2世紀ごろ、マウリヤ朝は衰退しており、北西インドに、ギリシア人がパクトリア地方から侵入した。\nつづいてイラン系遊牧民が北西インドに侵入した。\n1世紀にイラン系のクシャーン人がクシャーナ朝(Kushana)をたてた。\n2世紀のカニシカ王(Kanishka)の時代が最盛期。\nローマとの交易で儲けた。\n起源1世紀の前後、仏教で、新しい運動が起きた。それまでの仏教は、出家と修行によって、悟りを開くものだったが、新しい仏教は、個人的な行為にすぎない修行よりも、菩薩(ぼさつ)を信じる心と、人々の救済こそが重要であると説き、これを大乗(だいじょう)と呼んだ。「大乗」とは、大きな乗り物という意味である。\nいっぽう、今までの修行を中心とした仏教は、修行者個人の悟りという個人的利益を求めるにすぎないとして、旧来の仏教を批判し、これを「小乗」(しょうじょう)と呼んで、さげすんだ。\nクシャーナ朝のカニシカ王は、大乗仏教を保護した。\nインドでは、はじめ、ブッダを像にすることは恐れ多いと考えられていたが、しかしヘレニズム文化のギリシア彫刻などの影響を受けて、インドで仏像が作られるようになった。仏像が作られる前の時代には、菩提樹(ぼだいじゅ)などを、仏像のかわりに、拝めていた。\n仏像などの美術が、ガンダーラを中心に広がったので、この時代のインド美術をガンダーラ美術という。\n大乗仏教の体系化については、2世紀〜3世紀にナーガールジュナ(龍樹、りゅうじゅ)によって大乗仏教が体系化された。\n南インドでは、サータヴァーハナ朝が成立した。この王朝は、北インドから、多くのバラモンをまねいて、北インドの文化も取り入れた。\n4世紀前半にマガダ地方でチャンドラグプタ1世がグプタ朝をたてた。第3代のチャンドラグプタ2世のときに北インドの大半を支配し、最盛期になった。\nまた、グプタ朝の公用語は、バラモンの言葉であるサンスクリット語(Sanskrit)を公用語とした。\n(サンスクリット文字は、日本や中国では梵語(ぼんご)、梵字(ぼんじ)と言われ、日本では墓の卒塔婆(そとば)などに書かれることが多い。なお、卒塔婆の語源も、インドの言葉の「ストゥーバ」である。)\nこのグプタ朝の時代に、ヒンドゥー教が広まった。ヒンドゥー教は、バラモン教に民間信仰が融合して、バラモン教が再興した宗教であると考えられている。\nヒンドゥー教は多神教である。ヒンドゥー教の神では、破壊と創造の神であるシヴァ神(Siva)や、世界・宇宙を保持する神であるヴィシュヌ神(Visnu)などをまつっている。\nヒンドゥー教は特定の教義や聖典を持たない。\n文学では、この時代に、二大叙事詩『ラーマーヤナ』(Ramayana)『マハーバーラタ』(Mahabharata)がまとめられ、ほぼ現在に近い内容になった。\nラーマーヤナの内容は、王子ラーマと、その妻シーターとの物語。\nまた、ヴァルナの規範について『マヌ法典』がまとめられた。\n自然科学では、数学ではゼロの概念や10進法が、この時代のインドで生み出された。\nこの数字の表記法をもとにインド数字が生み出され、そのインド数字はのちにアラビアのイスラーム世界に伝わり、アラビア数字のもとになり、それがヨーロッパに伝わったのが、今日のアラビア数字のもとである。このような、この時代のインドの数学によって、のちの時代の世界の数学が大きく進歩した。\n詩人カーリダーサ(Kalidasa)により戯曲『シャクンタラー』(Shakuntala)がつくられた。\n勃興するヒンズウー教に理論の深化を迫られた仏教はナーランダー僧院を5世紀に建設した。このナーランダー僧院が、インドでの仏教研究の中心地になった。\nのちの時代に、中国の唐の僧である玄奘(げんじょう)が留学して仏教を学んだ学校が、このナーランダー僧院である。\nグプタ朝は、5世紀には地方勢力を抑えられなくなり始め、異民族エフタルによる西北インドへの侵入などもあり、6世紀にグプタ朝は滅亡した。\n7世紀に、ハルシャ=ヴァルダナ王が北インドを一時的に統一してヴァルダナ朝を築くが、王の死後、王朝は崩壊した。そして8世紀から13世紀まで、インドでは、いくつもの王朝が分立抗争する状態が続いた。\n仏教については、仏教を保護していたグプタ朝が、6世紀からのグプタ朝の衰退と滅亡したことにより、仏教やジャイナ教を攻撃してヒンドゥー教への帰依を説くバクティ運動(bhakti)が6世紀半ばから激しくなった。\nヒンドゥー教の神々は、日本の仏教にも、名前を変えて、伝わっている。\nたとえば七福神の一人である大黒天(だいこくてん)は、ヒンドゥー教の破壊神であるシヴァ神が、黒い姿を取ることからマハー・カーラ(大黒、だいこく)と呼ばれ、それが由来になり、日本では大黒天と呼ばれた。さらに、神道の国津神(くにつかみ)の大国主(おおくにぬし)と、シヴァ神が一体視され、それがこんにちの大黒様(だいこくさま)として、まつられているのである。\n他にも、帝釈天(たいしゃくてん)は、ヒンドゥー教の雷神インドラである。\nまた、七福神の一人である弁財天(べんざいてん)は、日本では芸術と学問の神であるが、これは、ヒンドゥー教の川の神である女神サラスヴァティーである。吉祥天(きっしょうてん)は、主神ヴィシュヌの妻ラクシュミーである。\nなお、日本語の「奈落」(ならく)、「瓦」(かわら)、「刹那」(せつな)の語源はサンスクリット語である。(参考文献: 東京書籍の教科書『世界史B』)\n韋駄天(いだてん)の元ネタも、ヒンドゥー教のようであり、シヴァの息子は足が速かったらしい。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E"} {"text": "中国の古代文明Ⅰでは、東アジアの風土と人々と中国文明の発生について学習します。\n東アジアは、ユーラシア大陸東部にある地域です。現在の中国・モンゴル高原・朝鮮半島・日本列島・ベトナム北部が含まれています。このうち、中国東部・日本・韓国・ベトナムは、暖かく湿度の高いモンスーン気候です。季節風が強く、稲作に適した土地なので、人口や都市が集中しています。しかし、中国東部でも淮河より北の地域は普段から乾燥しているため、雨量が少なく非常に冷え込みます。作物は粟、高粱、小麦、豆類などの黄土畑作が中心で、牧畜も進んでいます。\n中国の地形についてみていきます。西側には大興安嶺山脈・太行山脈・秦嶺山脈などの高い山脈やパミール高原やチベット高原があります。北東側には、モンゴル高原などの高原や盆地が広がっています。東側には平野や丘陵地が広がっています。そのため、多くの大きな川が西から東へ流れ、海へ流れ込みます。海洋部には、大小8000以上の島が浮かんでいます。気候や環境の違いから、中国の東部は大きく4つの地域に分けられます。万里の長城の北側は東北部といいます。万里の長城の南側、淮河の北側を華北といいます。淮河の南側、南嶺山脈の北側を華中といいます。南嶺山脈の南側を華南といいます。これらの地域の気候は日本列島と似ており、夏は暖かく、気温差もあまり感じられません。しかし、冬は寒暖の差が大きく、黒龍江省の最北部は-30℃以下、華中は0℃前後、海南島南部は20℃以上になります。華中や華南では焼畑も行われ、水上生活者もいました。しかし、時代とともに、定住生活を送り、昔ながらの田畑や家屋を守って生活するのが普通になってきました。\n降水量は地域によって大きく変わり、南東部の沿岸部から北西部の内陸部に行くほど減ります。年間降水量が400mm以下の地域を乾燥・半乾燥地域、夏の季節風の影響を受ける東部地域は温暖湿潤地域となります。かつて、秦嶺山脈から淮河に向かう線は、毎年同じように雨が降る地域を通るため、畑作と稲作の境界線と考えられていました。また、降雨量にも大きな差があり、1年のうち50%以上が夏に降り、冬になると10%以下になります。元々降水量の少ない黄土高原では、この降水量の大きな差が、冬は草木の生育を妨げ、夏は表土を洗い流して砂漠化を進め、森林や草原を減らす原因になっています。\n牧畜は、農耕に向かない北の草原や砂漠地帯で行われました。遊牧は北部の草原や砂漠で始まり、人々は良い草や水を求めて家畜とともに移動を繰り返しました。長距離を移動しながら、生活必需品を交易で仕入れていた遊牧民は、「絹の道」や「草原の道」など、ユーラシア大陸の広域に渡って交易路を発展させました。中国の華北や西北部、チベット高原、四川や雲南など、多くの牧畜民が暮らしています。この地域では、牛乳、ヨーグルト、バター、羊の肉などが伝統的な食文化として受け継がれています。中国東北部の森林地帯では狩猟民や採集民が暮らしていて、貂の毛皮を使って草原の遊牧民や中国・朝鮮半島の人々と取引をしていました。\nこのように、東アジアの自然環境は多様なので、これまで様々な言語や習慣、文化を持った多くの民族が暮らしていました。現在、中国に住んでいる人の90%以上は漢民族ですが、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、チワン族、朝鮮族、回族など55の民族がある程度の自由を与えられています。少数民族は全人口の6%程度に過ぎません。しかし、少数民族の自治区は総面積の50〜60%を占め、そのほとんどが軍事、石油、鉱物資源にとって重要な辺境地帯で暮らしています。\n東アジアの歴史では、黄河・長江(揚子江)流域に高度な文明が発達していた点を忘れてはなりません。この文明の発展は、秦や漢といった超大国の誕生につながり、現在の中国文化の基礎を作りました。この文明は独自に発展しながら、世界各地に広がり、それぞれの地域で民族や国家が作られていきました。こうして、諸民族や諸国家は、中国の影響を受けながら交流を深め、それぞれの環境や歴史を踏まえながら、様々な形で文化を発展させてきました。東アジア世界は、黄河や揚子江の流域で始まった古典文明に寄り添いながら社会を発展させてきました。そのため、漢字や儒教、仏教は今でも東アジアの文化の重要な文化として残っています。\n辛亥革命から10年後の1921年秋、スウェーデンの地質学者ヨハン・アンダーソンが河南省湖池県仰韶村で新石器時代の文化遺跡を発掘しました。この発掘が、中国で石器時代の研究を始めるきっかけとなりました。赤褐色の磨き上げられた下地に、赤色・白色・黒色などで幾何学模様や動物を描いた彩陶(彩文土器)は、最も興味を引かれます。陶器に不思議な意味を持つ人面魚が描かれている場合もあります。彩陶に代表される黄河上・中流域の紀元前5世紀から4世紀の新石器文化は、その発見地にちなんで仰韶(ヤンシャオ)文化と呼ばれます。西安郊外にある半坡遺跡は、その代表的な集落遺跡の1つです。そこでは多くの竪穴式住居跡が発見されていて、村の周囲には幅5〜6m、深さ1mの防壁が作られていました。主な作物は粟や黍で、豚や犬などの小動物が飼われていました。また、動物に糸を通すための紡錘車も使われていました。村民は、母系家族で暮らしていました。住居や埋葬に大きな違いはなく、まだ強力な指導者も現れませんでした。同じ頃、長江下流では稲作を中心とした河姆渡文化が発展していました。紀元前4500年から紀元前3000年にかけて、東北部の遼河流域で紅山文化が発展しました。紅山文化の遺跡からは、円形や方形の祭壇を持つ祭祀施設や龍を図案にした玉器などが発見されています。祭祀は、様々な地域の人々を結びつけるのに役立っていました。\n紀元前4世紀から3世紀頃、各地で父系中心の首長制社会が生まれました。良渚文化は、紀元前3300年頃から紀元前2300年頃まで続きました。長江河口部から太湖周辺にかけて、稲作を中心とした文化が発展しました。大きな祭壇や墳丘墓とともに、儀式用の複雑な玉器も作られました。その後の中原の殷王朝や周王朝などは、そこで出土した琮・璧・鉞などの玉器を王権の証として利用していました。長江の中流域でも、環濠集落が築かれました。このうち、黒陶文化に関する遺跡は、1930年に山東省梨城県龍山鎮で発見されたので、龍山文化とも呼ばれます。黒陶文化は河南省、山東省など黄河中・下流域を中心に、遼東半島から長江流域までかなり広い範囲に広がっています。黒陶は、卵の殻のように薄く、無地で黒く光沢のある土器です。高温で焼成して轆轤を使うため、彩陶よりも高度な土器とされており、殷周の青銅器の原型になったとも考えられています。発掘調査では、黒陶も、厚みのある荒々しい灰陶も多く見つかっています。黒陶や灰陶の中には、独特の形をした三足土器が数多く見られました。鼎・鬲のような三足土器は、その形や使い方によって種類が分かれます。棒のような足を持つ鼎は煮炊きに、袋のような足を持つ鬲は穀物を蒸すのに使われていました。\n紀元前3000年後半から紀元前2000年頃にかけて気候が急速に変化すると、それまで栄えていた首長社会の文化は衰え始めました。一方、黄河中流域で栄えていた龍山文化は、大量の武器や戦争犠牲者が埋葬され、支配階級の土塁や巨大な墓がありました。そのため、政治権力の集中が進み、階級間の格差が広がりました。紀元前2000年頃なると、龍山文化は二里頭文化へ発展しました。殷王朝初期の文化は、二里頭文化から発展した二里崗文化です。黄河文明は、この二里崗文化から発展しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E%E2%85%A0"} {"text": "古代の時代では、東アジアの文明は、メソポタミアやエジプトなどオリエント地方よりも、おくれていた。\n中国で青銅器を生産しだしたのは、紀元前1600年より以降だと考えられている。\nなお、メソポタミアで青銅器が作られたのが、だいたい紀元前3500年ごろからである。中国でも紀元前3000年ごろのものと思われる青銅器も見つかっているが、これらはメソポタミアなどの先進文明の地域から交易などによって 中国に持ち込まれたものだろうと考えられている。\n中国で青銅器が使われ始めた時期は、前1700年ごろからであり、それ以前の時代は土器の時代である。\n土器は、中国では前5000年ごろから、使われはじめた。それ以前は、石器時代である。\n石器は、中国では前6000年ごろから使われ始めた。\n農作物の生産の歴史について、中国では前6000年ごろに、黄河の流域ではアワなどの穀物が栽培され、長江の流域で稲が栽培された。\n前5000年ごろ、黄河の中流域を中心に、彩文土器(さいもんどき)が用いられた。(仰韶文化、ぎょうしょうぶんか)という。\nどうも、黄河の下流ではなく、中流域のほうが、当時は栄えていたらしい。\n前2000年代ごろから、土器が薄手の黒陶(こくとう)に進歩した。黒陶は、高温で焼き、表面を研磨してある。同じころ、厚手の灰陶(かいとう)も生産されていた。\n(※ 教科書によっては、前3000年ごろから黒陶が生産されていたとする書籍もある。研究者によって、1000年単位で年数が違うので、あまり細かく覚えなくて良い。)\nこの黒陶が発見された遺跡の名前をとって、これらの文化を竜山(りゅうざん、ロンシャン)文化という。黄河下流域に竜山遺跡があり、竜山文化も黄河下流域を中心に栄えた。\n中国史で、現在存在が証明できた最古の王朝は、殷(いん)である。\n伝説では「夏」(か)という王朝があるが、存在は証明されていない。殷は前1700ごろから成立し、前11世紀ごろには滅んだ。\n20世紀初めに、殷墟(いんきょ)が発掘された。(殷墟の位置は河南省(かなんしょう)安陽(あんよう)市) この殷墟の発掘などによって、殷では文字に甲骨文字が使われ、金属器に青銅器が使われていたことが分かった。甲骨文字は、亀甲や獣骨(肩甲骨など)に刻まれ、占いに用いられていた。骨の割れ目から、占うようである。\n前11世紀ごろ、周(しゅう)が殷を滅ぼした。周の都が鎬京(こうけい)に置かれた。(位置は西安市)\n周は前8世紀ごろ内乱になり、そして東の洛邑(らくゆう)に都が移された。(洛邑は現在の洛陽(らくよう)) これ以前(洛邑遷都の以前)を西周(せいしゅう)といい、これ以降を東周(とうしゅう)という。\nこの東周のころ、周王朝の権威はおとろえており、名目上は周が中国を統一しているが、じっさいは諸侯が勢力争いをする戦乱の時代になっていた。\n東周の前半の前770〜前403年を春秋時代(しゅんじゅう じだい)といい、後半の前403年〜前221年を戦国時代(せんごく じだい)という。この2つの時代をまとめて春秋・戦国時代(しゅんじゅう・せんごくじだい)ともいう。\n戦国時代には、勢力争いで、韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)・斉(せい)・燕(えん)・楚(そ)・秦(しん)の七カ国が大国になった。この七カ国を戦国の七雄(しちゆう)という。\nなお、のちに最終的に、秦が他の諸侯を倒し、周王朝を滅ぼし、秦が中国統一する。\nさて、戦国時代のころに戻る。金属器は、この戦国時代のころに、農業で鉄製農具が普及した。\nなお、貨幣では、西周後半から青銅貨幣が用いられた。\n(※ 高校国語「国語総合」の以下の作品が、春秋戦国時代をあつかった作品である。\n(※ 高校国語「古文B」漢文を読んだほうが早い。 リンク: ウィキブックス『高等学校古典B』)\n法家(ほうか)\n儒家(じゅか)\n墨家(ぼくか)\n道家(どうか)、老荘思想(ろうそう しそう)\n外交策\n韻文(いんぶん)\n春秋戦国の時代に、諸侯たちは、敵国を出し抜くために改革をすすめようとして、諸侯たちは知識人を登用して集めた。\nまた、社会の変化により、新しい様々な思想などが表れた。\nこの春秋戦国時代の、このような知識人たちを諸子百家(しょしひゃっか)という。\n儒教(じゅきょう)を創始して説いた孔子(こうし)は、この春秋戦国の時代の思想家である。\n孔子や、儒者の孟子(もうし)は、周の制度を理想として、道徳や孝行、礼儀、思いやりによる秩序を説いた。孔子の生きた時代は戦争の時代であったので、だからこそ平和の尊さを説く思想家が表れたのであろう。\nなお、孔子の教えが書かれた『論語』をまとめたのは、孔子ではなく、孔子の弟子たちである。\n儒者の孟子は、人間はうまれながらに善人であるとする、性善説を説いた。\nいっぽう、それまでの儒者に反対する荀子(じゅんし)は、社会維持のための教育を重視し、教育を受けなければ善人になれないとして、性善説を否定し、そして荀子は性悪説(せいあくせつ)を説いた。荀子は性悪説の説明のための例え話で、たとえば病にかかった子の命を救うのは、けっして母の愛ではなく、医師である、医学の教育を受けた医師が病人を救うのである、というような例え話を用いるなどして、儒者の説く身内重視の感情を批判し、性善説の無能さ・不十分さを説明し、荀子は性悪説を説明した。\n儒家のほかにも、さまざまな思想が、この春秋戦国の時代にあらわれていた。\n儒家(じゅか)の他に、\n秦は、法家の思想を採用し、厳格な法治によって強兵政策を行い、秦は強国になった。\n思想のほかにも、戦術や兵法を研究して説いた孫子(そんし)などの兵家(へいか)があらわれた。\n外交策を説いた、蘇秦(そしん)や張儀(ちょうぎ)などの縦横家(じゅうおうか)が表れた。\nこのほか、陰陽五行(いんようごぎょう)によって、天体の運行を人間生活と結びつける陰陽家(いんようか、おんようか)が表れた。\n農業の重要性を論じた農家(のうか、※ 思想家の呼び名)も表れた。\n文学などでは、各地の民謡が『詩経』としてまとめられた。また、『楚辞』(そじ)には、楚の屈原(くつげん、人名)の韻文(いんぶん)がまとめられた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%96%87%E6%98%8E%E2%85%A2"} {"text": "1492年、クリストファー・コロンブス一行がアメリカ大陸を発見したわけではありません。最初のアメリカ人は、まだ1万年以上前、新大陸が未開拓だった氷河期にアジア大陸からやってきた先住民です。旧大陸からの移民と交流することなく、その子孫はアメリカ大陸にメソアメリカ文明とアンデス文明の二大文明を独自に作り上げました。しかし、1600年代にヨーロッパ人がやってきた時、この土地はインディアス(インドを含むアジアの総称)にあると勘違いしました。そのため、インディオ(英語ではインディアン)と呼ばれるようになりました。\n世界の栽培種の約6割はアメリカ大陸原産で、私達の暮らしにとても重要な存在です。紀元前8000年頃から、先住民は玉蜀黍、ジャガイモ、薩摩芋、トマト、南瓜、唐辛子など、100種類以上の植物を栽培していました。アメリカ大陸の植物は、世界の歴史を塗りかえてきたといっても構いません。ヨーロッパ人が盗んだ先住民の「贈り物」は、世界中の人々の食生活を変えて、旧大陸の多くの人々を飢餓の危機から救いました。\n現在のアメリカ合衆国の領土に住む先住民諸部族は、長い年月をかけて自然環境に慣れながら、部族社会を作り、狩猟や採集を行ってきました。「部族」という名称は、先住民が望んでいた内容を反映しているとは限りません。大抵の部族は白人との接触や他部族との関係から、ヨーロッパ人によって、作られました。メキシコ高原の定住農耕文化は、アリゾナやコロラド盆地の農耕文化に影響を受けて、プエブロは日干し煉瓦の集合住居群を建設しました。プエブロという名前はスペイン語にちなんで、町や集落という意味です。北アメリカ大陸南西部の先住民族の中で、スペイン人が来る前の生活を続けていた先住民部族です。この地域の先住民は、文字を持たずに、独自の口承文化を発展させました。\nメソアメリカは、メキシコ北部から中央アメリカ(グアテマラ、ベリーズ、エルサルバドルの西半分、ホンジュラスの西半分)にかけて広がる熱帯・亜熱帯地域です。熱帯雨林、熱帯サバンナ、ステップ、砂漠、針葉樹林、標高5000mの雪山など、非常に多様な自然環境に恵まれています。\nメソポタミア文明やエジプト文明は、大きな川の水を利用して大規模に作物を栽培していました。しかし、メソアメリカ文明の発祥に、大きな川は必要ありません。メソアメリカ文明は、水を大きな河川に頼っていません。中小河川、湖沼、湧き水などを利用した灌漑農業、段々畑や家庭菜園など様々な集約農業、焼畑農業の組み合わせを取り入れていました。\nメソアメリカ文明はトウモロコシの農耕で生活の基礎を作っていたので、鉄器、人、重い荷物を運ぶための大きな家畜を必要としませんでした。金や銅製品などの大部分の金属製品は、装飾品や儀式用として使われていました。鉄はアンデス文明と同様、全く使われていませんでした。家畜は七面鳥と犬だけで、牧畜は行なわれませんでした。\n紀元前1200年頃、メキシコ湾岸地方にオルメカ文明が発展しました。オルメカ文明は、絵文字の普及とジャガーを神聖な動物と信仰していました。また、支配者の顔を刻んだ巨石人頭像や土製の神殿ピラミッドなどを造りました。オルメカ文明は紀元前500年頃に崩壊しました。オルメカ文明は、メキシコ高原や中央アメリカの後続文化に大きな影響を与えました。\n1世紀頃、メキシコ高原にテオティワカン文明が発展しました。テオティワカン文明では、太陽のピラミッドや月のピラミッドなど大小様々な神殿が建てられ、商業や貿易が盛んに行われました。5世紀ごろには、数万人から数十万人が暮らす大都市に成長しました。しかし、7世紀頃から徐々に衰退して、南下してきた部族がそれを引き継いで、発展させました(トルテカ文明)。\n16世紀、メキシコ高原の中央に位置するアステカ王国は、最も栄えていました。14世紀、アステカ族はメキシコに移住しました。トルテカ文明を引き継いで、テスココ湖の浮島に首都テノチティトラン(現在のメキシコシティ)を建設して、強力な軍事力でメキシコの広範囲を支配しました。テノチティトランは20〜30万人が住み、巨大な宮殿やピラミッド、神殿などがある美しい都市でした。その後、スペイン人のエルナン・コルテスがこの街を占領して、1521年にアステカ王国を滅ぼし、メキシコ中央高原で栄えた文化も滅ぼしました。\nオルメカ文明は、中央アメリカのユカタン半島にも影響を与えました。マヤ文明はユカタン半島の低地と高地で発展しました。マヤ地域には、ティカル、カラクムル、コパン、チチェン・イッツァなどの大都市を中心に複数の広域王国が築かれた時代と数多くの小王国が築かれた時代がありました。マヤ文明は階段ピラミッドを持つ石造りの都市を多く建設して、マヤ文字という絵文字を使って文字を書きました。マヤ文明は、テオティワカン文明と交流のあった3世紀から9世紀にかけて最盛期を迎えました。高度な天体観測に基づく正確な暦を作り、ゼロの考え方を使用した二十進法による数学も発達させました。マヤの各都市は統一されず、16世紀にスペインに支配されました。\nメキシコ南部の高地、オアハカ盆地の山岳都市モンテ・アルバン周辺では、サポテカ文明が発展していました。マヤ文明以降、サポテカ文明は複雑な文字体系を作り、王の即位や戦争などの王朝史について書き残しました。また、マヤの碑文を書き写しました。\n中央アンデス地帯は南アメリカにあり、ペルーとボリビアの一部で成り立っています。非常に多様な自然環境を持っています。海岸沿いの砂漠地帯、6000m級の雪山がある山岳地帯、アマゾン川の源流部の熱帯雨林地帯が広がっています。アンデス文化は、海岸沿いや山間部で発展してきました。旧大陸の農民は一本の大河で作物を育てていましたが、アンデス海岸地帯では複数の河川を利用して広範囲に作物を育てていました。これらの川の上流では、アンデス山脈の斜面に段々畑が作られて、そこに水を引くために灌漑水路が整備されました。トウモロコシが育たない高地では、ジャガイモが主な食料となります。このジャガイモを使って、長期保存が可能な冷凍乾燥食品チューニョを作ります。山岳地帯では、駱駝科動物のリャマやアルパカの飼育も行われています。リャマは荷物の運搬に使われ、毛は衣服やロープの材料になり、食肉にもなります。\n紀元前3000年頃の形成期には、人々は神殿を建てるようになりました。紀元前1800年頃に土器が作られるようになるまでの長い間でした。紀元前後には、次の社会が成立しています。\n 12世紀頃、チムー王国がペルー北海岸を支配しました。15世紀頃、インカ帝国によって滅ぼされました。首都のチャンチャンには、様々な王が建てた王宮や住居が多数ありました。\nスペイン人が新大陸にやってきた時、インカ帝国は全盛期を迎えていました。インカ帝国は、現在のペルーを中心にエクアドルからチリ北部までのアンデス一帯を支配していました。高度な文明を持つ大帝国でした。インカ帝国が発展した14世紀から15世紀にかけて、600万人から800万人が暮らしていたと考えられています。インカ帝国は文字こそ使用していませんでしたが、ロープの結び目(キープ)を利用して、十進法を完成させました。この方法で記録を残し、人口、兵力、作物、家畜などの統計を取りました。金や銀は鋳型に流し込んで、様々な製法で金属加工品を作っていました。鉄器は当時ありませんでした。青銅は祭祀用具の原料として使用されていましたが、生産用具としては使用されていませんでした。新石器時代の生産技術は、農業に使われていました。インカ帝国では、人々は太陽を信仰しており、王は太陽の息子と考えられていました。マチュピチュは、インカ帝国の第9代国王が住んでいた場所です。首都クスコの北西にあります。インカ帝国は、石造りの建築がとても上手でした。飛脚制度によって、各地に道路や宿駅が作られ、情報網が整備されました。インカ皇帝は太陽神と考えられ、整った政治行政組織を持つ帝国を治めていました。1533年、スペイン人フランシスコ・ピサロがインカ帝国を倒して滅ぼしました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%8D%97%E5%8C%97%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%96%87%E6%98%8E"} {"text": "イラン諸国家の興亡とイラン文明では、パルティアとササン朝、イラン文明について学びます。\nイラン系民族は、ザグロス山脈の東からアフガニスタンにかけての広い地域に住んでいました。この地域はほとんどが高原性台地ですが、砂漠になっている地域もあれば、農耕が出来るほど雨や水の流れがある地域もあります。こうした自然条件に対応しながら、人々は住む場所によって農耕か遊牧で生計を立ててました。マケドニアのアレクサンドロス大王は、バルカン半島北部で勢力を伸ばしました。紀元前334年、彼はアケメネス朝を倒す目的で軍隊を率いて東方遠征へ向かいました。エジプトを占領してアケメネス朝を滅ぼし、インド北西部へ進出しました。そして、バルカン半島からインダス川まで、東西に広がる大帝国を建国しました。大王の死後、彼のアジア領土はセレウコス朝のギリシア人が引き継ぎ、ギリシア人の移住を勧めて、ギリシア風の都市を建設しました。しかし、彼らの力が衰えると、各地で独立のための戦いが始まりました。\n アラル海に注ぐアム川の上流にあるバクトリアという地域は、東西からインドへ行くための交通の要所でした。紀元前250年頃、この地域の知事がバクトリア王国を建国して、セレウコス朝から独立しました。ギリシア王朝のバクトリアは、マウリヤ朝の滅亡に乗じて、インド北部に領土を拡大しました。しかし、王位をめぐる内紛や東方のパルティアの発展によって勢いを失い、紀元前139年、スキタイの遊牧民トハラ人に滅ぼされました。ギリシア人が支配したバクトリアではヘレニズム文化が発展しました。この文化は、後にインドのクシャーナ族のガンダーラ美術に影響を与えました。このように、バクトリア王国は東洋と西洋の文化が融合する大きなきっかけとなりました。\nアルサケス1世は、カスピ海南東部のパルティア地方に住むイラン系遊牧民の族長でした。アケメネス朝パルティアは、バクトリアと同じ時期にセレウコス朝から独立しました。前2世紀中頃、パルティアのミトラダテス1世がイラン全土を統一しました。ミトラダテス1世は、バビロニアに入り、ティグリス川沿いのセレウキアを滅ぼして、対岸のクテシフォンに軍事基地を造りました。その都市クテシフォンは、その後、パルティアの首都になりました。パルティアは、バクトリア、大月氏、クシャーナ朝とユーフラテス川との間の広い地域を支配していました。その中央集権制はアケメネス朝を参考にしていました。しかし、パルティア国家は多くの豪族で構成されている事実を変えられませんでした。そのため、国内の地方勢力の台頭を止められませんでした。一方、遊牧民(征服者・支配者)と先住農耕民(征服される側)は、どんどん一緒に暮らすようになりました。のちほど紹介しますが、遊牧民の文化は、農民の文化によって変わりました。\nパルティアは東西貿易を独占しており、内陸アジアの貿易ルートだけではなく、ペルシア湾(海上ルートの要所)も支配していたため、非常に順調でした。西アジアで初めて中国と交流した国です。中国ではパルティアを、初代君主のアルサケスにちなんで安息と呼んでいます。後漢の漢超はローマ(大秦国)と交流するために甘寧を派遣しましたが、パルティア(安息)は自国の利益を損なわれたくないので邪魔をしました。西方には絹、香水、象牙、宝飾品などを送りました。その代わり、ローマから青銅器やガラス製品、ワイン、オリーブオイル、金などを手に入れました。\n東に進出していたローマはパルティアの最大の敵でした。紀元前1世紀にセレウコス朝を打ち破ったパルティアは、ローマがさらに東進するのを阻止するため、シリアに進出しました。紀元前53年のカルラエの戦いでは、クラッスス(ローマの三大政治家の一人)とその遠征軍を撃破しています。しかし、2世紀初頭、トラヤヌス帝率いるローマ軍はクテシフォンを占領して、ペルシア湾岸の先まで行ってしまいました。その後、両国の争いが増え、パルティアの勢力は徐々に衰えていき、224年にササン朝に滅ぼされました。\nアルダシール1世はパルティアを倒し、クテシフォンを首都としてササン朝を建国しました。ササン朝という名称は、アルダシールの祖父ササンの名前に由来します。ササン家はゾロアスター教の神官でした。ササン朝は、農耕イラン人を中心としていました。その本拠地は、アケメネス朝と同じ、ファールス地方にあるペルセポリスでした。アケメネス朝統治下のペルシア帝国を復活させるために、イラン人の伝統的な宗教ゾロアスター教を国教としました。また、国をまとめ、中央集権制を確立しようとしました。自分を「イラン人と非イラン人の諸王の王」と名乗ったシャープール1世は、中央集権制を達成した人物です。東はクシャーナ朝を滅ぼし、インダス川西岸まで領土を拡大しました。西では、シリアに遠征したローマ軍を破りました。260年のエデッサの戦いでは、ローマ皇帝ウァレリャヌスを捕虜にしました。その後、ササン朝とローマ帝国は、特にアルメニアの所有権や宗教問題をめぐって何度も争っていました。また、ササン朝もローマ帝国も、東西貿易を支配して、その資金を全て手に入れるために、海陸で積極的な政策を取っていました。ギリシア系ローマ人がこの地を離れてから、ペルシア湾からインドへの航路が建設され、ペルシア商人とエチオピアのアクスム商人がインド洋の貿易権をめぐって争いました。3世紀には、アクスム王国の領土はアラビア南西部を含むまでに拡大しました。紅海の制海権を握った王国は、インドへの進出を計画しました。1世紀中頃に書かれたと思われる『エリュトラー海案内記』には、アクスム王国の名が最初に記されています。次の世紀に入ると、貿易の邪魔になるアラブの遊牧民と戦うために、アラビア半島中部に遠征隊が送り込まれました。\n5世紀後半、遊牧民エフタル族が中央アジアに侵攻しました。エフタル族が帝国政治に干渉してきたため、ササン朝は政情不安となりました。中国では、エフタル族を嚈噠や白匈奴と呼んでいました。彼らはトルコ系かイラン系といわれる騎馬遊牧民でした。極端な共産主義がマズダク教によって教えられ、それが流行したため、社会はさらに混乱しました。マズダク教の新宗教はゾロアスター教の異端の一つとも、マニ教に近いとも言われます。極端な禁欲と平等を主張しました。ササン朝最大の英雄ホスロー1世は、この状況を収束させました。ホスロー1世の治世はササン朝の全盛期でした。ホスロー1世はマズダク教団を鎮圧し、社会不安をなくしました。また、税制や軍の運営方法を変えて、政府を円滑に運営するようにしました。ビザンツ皇帝ユスティニアヌスとの戦いを有利に進め、50年間の平和を実現するとともに、トルコ系遊牧民突厥と同盟を結んでエフタル族を滅ぼしました。ササン王朝の黄金時代はホスロー1世から始まり、彼は「不死の霊魂を持つ者」と呼ばれました。\nホスロー1世が亡くなると、ササン朝はしばらく分裂状態になりました。しかし、孫のホスロー2世の勝利によって、ササン朝は小アジアの大部分・口ードス島・パレスチナ・エジプト・アラビア半島南部までを支配する最大規模の帝国となりました。しかし、彼が軍事費に使った資金は高い税金を生み、ティグリス川はこれまでにない水位まで氾濫しました。彼の死後、ササン王朝の権力は急激に低下して、宮廷内では争いが絶えませんでした。7世紀、アラブ軍の侵攻がササン朝を襲いました。最後の王ヤズダギルド3世は642年のニハ=ヴァンドの戦いでイスラーム軍に完敗して、651年に逃亡先のメルヴ付近で殺害されました。こうしてササン朝は終わりを遂げました。\n文化的にもパルティアはヘレニズム世界の一部になっていて、公用語はギリシア語でした。宮廷ではギリシア文化が重視されて、ミトラダテス1世は自分の貨幣に「フィレレン(ギリシアの恋人)」という称号を付けさせました。しかし、支配階級のイラン系遊牧民と征服された農民が融合しながら、1世紀頃から徐々にイランの伝統文化が復活し始めました。王朝末期には、アラム文字で書かれたパフレヴィー語(中世ペルシア語)が公用語となりました。宗教は次第にイラン風となり、ゾロアスター教が信仰されるようになりました。ただし、ミトラダテスというパルティア王の中には、ミトラ神を強く信仰していたような人物もいました。バビロニアでは、セム系とイラン系の宗教も混ざり合っていました。\nササン朝時代には、民間宗教のゾロアスター教が国教となりました。教典『アヴェスター』がまとめられ、多くの言語に翻訳され、ゾロアスター教の神学が成立したのもこの時代です。しかし、王は一般に民間宗教に前向きなので、国内には仏教徒、キリスト教徒、さらには多数のユダヤ教徒がいました。マニが3世紀に始めたのは、マニ教という独自の救済宗教です。マニ教は、ゾロアスター教、キリスト教、仏教を混ぜ合わせた宗教です。シャープール1世は、世界を否定する善悪二元論、禁欲主義、偶像崇拝を基盤とするマニ教を保護しました。しかし、その後、マニ教は国内で禁止されました。その後、マニ教はシリア、エジプト、北アフリカ、そして当時ローマ帝国が支配していたヨーロッパのガリアにも広まりました。幼い頃、カルタゴに住んでいたアウグスティヌスは、マニ教の影響を受けていました。また、アルビジョワ派のように後世のキリスト教異端者にも影響を与えました。キリスト教もしばらくは禁止されていましたが、431年のエフェソスの公会議でネストリウス派が異端とされると、ササン朝は敵国ローマの反体制因子としてネストリウス派を支援するようになりました。このように、ササン朝とローマとの関係は、キリスト教徒の扱いに大きく関わっていました。ネストリウス派はその後、東洋に布教活動を展開しました。その結果、中央アジアを経て唐の時代に中国に伝わり、景教と呼ばれるようになり、ペルシア湾を経てインドに伝わりました。\nササン朝時代には、建築、美術、工芸が大きく発展しました。これは、アケメネス朝時代から続くイランの伝統的な様式に、インドやギリシア、ローマなどの要素を混ぜ合わせた文化です。磨崖の浮き彫りと漆喰を使った建築にも優れた技術を示しましたが、中でもよく知られているのは工芸美術です。工芸美術には、金、銀、銅、硝子を使った皿、杯、水差し、香炉、鳥獣・植物柄の絹織物、彩釉陶器などがあります。イスラーム時代はササン朝美術の様式や技法を取り入れました。西はビザンティン帝国を経て地中海地域に、東は中国の南北朝時代、隋・唐時代、飛鳥・奈良時代を通じて日本に伝えられ、それぞれの地域の文化に影響を与えました。日本では、正倉院の漆胡瓶、白瑠璃椀(カットグラス製)、法隆寺の獅子狩文錦などが挙げられます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E8%88%88%E4%BA%A1%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%B3%E6%96%87%E6%98%8E"} {"text": "ギリシア人の都市国家Ⅰでは、地中海地方の風土とエーゲ文明について学習します。\n地中海とその沿岸を囲むようにヨーロッパ・アジア・アフリカの3つの大陸があります。エーゲ海の島々やバルカン半島で、オリエントの影響を受けたエーゲ文明が現れました。エーゲ文明の滅亡後、ギリシア・ローマの都市文明が発展しました。エーゲ文明は、その後のヨーロッパ社会の直接の祖先です。地中海沿岸の自然はどこも変わりません。ギリシアの年間降水量は400〜500mmで、そのほとんどが秋から冬にかけて降ります。夏は乾燥していて気温も上がります。ナイル川を除けば、大きな川はありません。国土はほとんどが山岳地帯で、平野は小さく、山脈で区切られています。土地は石灰岩や片岩で出来ており、表土は薄く、保水力もあまりありません。したがって、ナイル下流や北イタリアのような穀物栽培に適した地域以外、小麦などの作物は保水力を保つために常に耕し、作業をしなければなりませんでした。しかし、こうした土地は、オリーブ・ブドウ・イチジクなどを果樹栽培するのに向いていたり、牛や豚などの大型動物よりも羊やヤギを飼育するのに向いていたりしました。陸上では移動が困難なため、ほとんどの人は海岸沿いの都市に住み、地中海の海路を利用していました。また、小アジアの高原・バルカン半島北部・イタリアの山岳地帯にも住んでいました。彼らは都市をつくらず、その多くは沿岸部の都市と対立していました。アテネやローマなどの都市では、地方の人々を奴隷として使う場面もありました。地中海世界には、このような中央と周辺の支配関係がありました。いつも旱魃の可能性があったので、オリーブ油を売って穀物を持ち込もうとしたところ、交易が非常に盛んになりました。このように、海上交易によって穀物を手に入れる方法は、古くから地中海の人々にとって最も重要な出来事の一つでした。\n地中海は、ある場所から別の場所へ移動するための重要な手段になっていたため、その周辺の古代世界にはひとつの文化が生まれています。地中海世界には、独特のポリス的文明が生まれました。オリエントの残酷な王に支配された奴隷とは対照的に、ポリス的文明の人々は自給自足で農業に取り組んでいました。この地域では、雨水を利用した小規模な自作農が出来たので、多くの農民がそうやって働き、自立した大人になっていきました。平野が狭く、大規模な農業をしなかったので、王や貴族の所有する土地は、平民の所有する土地よりそれほど大きくなりませんでした。以上の背景からポリス的文明の人々が現れました。\n新石器時代から青銅器時代にかけて、人々は世界中に住んでいました。やがて、セム語系民族は東地中海からアフリカなどへ、インド=ヨーロッパ語系民族は北から南へ移動していきました。その中でもギリシア人と古代イタリア人は重要な存在で、中にはラテン語を話す人もいました。\n古代地中海世界では、西洋文明の母体となる古典古代文明を生み出しました。ギリシア文明以前に、オリエントの影響を受けてエーゲ海周辺に初めて青銅器文明が発展していました。この文明はエーゲ文明と呼ばれています。\n紀元前2700年頃、クレタ島(エーゲ海最大の島)で始まったクレタ文明は、エーゲ文明の中でも最も重要な文明の一つでした。神話上クレタ島の王とされるミノスにちなんで、ミノア文明とも呼ばれています。20世紀初頭にクレタ島の都市クノッソスを発掘したイギリス人アーサー・エヴァンズは、クレタ文明の全体像を初めて明らかにした人物です。紀元前2000年頃、クレタ島では王の権力が強まり、各地に複雑な設計で豪華な宮殿が出現するようになりました。クノッソスに代表されるこの宮殿は、宗教的権威を持ち、大きな権力も持った王の住居でした。クレタ文明を築いた民族がどんな民族なのか、誰にも分かりません。宮殿に防御壁がないため、インド・ヨーロッパ語系の民族ではなく、外部の人間をあまり怖がらない民族だったかもしれません。宮殿の壁に描かれた壁画には、人間と海の生き物が生き生きと描かれています。海洋民族らしい明るく開放的で平和な文明を表現しています。特に、ギリシア神話では、海豚は神々の使いと考えられていました。「パリジェンヌ」と呼ばれる女性達や大きな牛を飛び越える曲芸師の絵などもあります。\n宮殿の広場の周りに設置された巨大な倉庫もクレタ文明で重要な役割を果たしています。支配者は、各地の貯まった物資を再配布する場所として宮殿を利用しました。宮殿を建てた人々は、まだ解読されていない絵文字や線文字Aという音節文字を使って、このような経済システムを運営させるために必要な文字記録を行なっていたように思われます。\nさらに、クレタ人は強力な艦隊を作り、エーゲ海の航行権を握って、エジプトや南イタリアと盛んに交易も行っていました。クレタ島の北にあるテラ島(現在のサン・トリーニ島)にも同様の文化が栄えていました。紀元前1500年頃、火山が噴火し、テラ島の大部分が海中に沈んでしまいました。この出来事が、プラトンなどが語ったアトランティス大陸伝説につながったと考えられています。\n一方、インド・ヨーロッパ語系のギリシア人は、紀元前2000年頃に北方からギリシア本土に移住してきました。彼らがクレタやオリエントと協力しながら、紀元前1600年頃に築いた青銅器社会がミケーネ文明です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E2%85%A0"} {"text": "アラビア半島の大部分は砂漠ですが、南部のイエメン地方のように雨が多く、農耕に適した地域もあります。また、アラビア半島西部のヒジャーズ地方などには、オアシス都市があり、交易によって支えられました。セム語系のアラブ人は昔からアラビア半島に住んで、羊や駱駝を群れで遊牧したり、隊商と交易したり、小麦やナツメヤシを栽培したりして、各地域の自然環境に合わせて生活してきました。しかし、6世紀になると、アラビア半島は新たな歴史的変化を迎え始めます。ササン朝ペルシャとビザンツ帝国は長らく、戦争と和解を重ねてきました。6世紀中頃になると、ホスロー1世とユスティニアヌスが和平条約を結びました。和平条約以降、両国の勢力が衰えたため、東西を結ぶ交易路「オアシスの道」は、両国の境界で途絶えていました。また、紅海貿易では帆船の航行が難しく、危険を伴うため、イエメンからシリアに至るヒジャーズの山間部を通る隊商路が利用されるようになりました。そこで、中国やインドの産品(絹織物・陶磁器・香辛料など)が、「オアシスの道」と「海の道」を通って、アラビア半島西部のヒジャーズ地方に運ばれてきました。この国際的な中継貿易を引き継いだのが、ヒジャーズ地方の交易都市メッカの商人達です。メッカの商人達はそれで大儲けするようになりました。また、メッカは、当時のアラブ人の多くが信仰していた偶像崇拝の多神教が盛んな場所でもありました。\nそして、メッカの人々はアッラーを最も重要な神として信仰していました。イスラーム教の開祖ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、メッカを支配するクライシュ族のハーシム家出身の商人でした。なお、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなった後、次のカリフは通常クライシュ族の子孫から選ばれました。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、幼い頃に両親を亡くして、祖父や叔父達に育てられました。25歳の時、金持ちの未亡人ハディージャ・ビント・フワイリドと結婚して、少しずつ瞑想するようになりました。610年頃、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは自分が唯一の神アッラーの言葉をいただいた預言者だと気付き、唯一の神を信仰する厳しい宗教イスラーム教を広めるようになりました。しかし、偶像崇拝や富の独占に反対していたため、メッカの富裕な商人達からひどい扱いを受けました。部族間の争いに困っていた現地の住民から頼まれて、622年に数人の信者とともにヤスリブ(メディナ)に移住しました。この移住をヒジュラ(聖遷)といいます。このヒジュラ(聖遷)がイスラーム(ムスリム)共同体(ウンマ)の始まりと考えられています。世界中のムスリムは、同じウンマの仲間だと思われています。つまり、ウンマは実在する場所ではなく、ムスリム全員が知っていながら、目に見えない繋がりです。そのため、西暦622年はイスラーム暦(ヒジュラ暦)の元年とされています。ヒジュラ暦は月を基準にした太陰暦で、1年は354〜355日、12カ月です。しかし、太陰暦では暦や季節が合わなくなってしまいます。このため、農業や財務では太陽暦が各地で使われました。現在でも、イスラーム諸国の宗教行事にはヒジュラ暦が使われ、財務や国家行事、国際関係には西暦も使われています。\nムハンマド・イブン=アブドゥッラーフがメディナに移住してから、メディナとメッカの間で戦争がありました。しかし、政治と戦争が得意なムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは、630年に誰も殺さずにメッカを占領しました。多神教を祀るカーバ神殿の偶像を破壊して、そこをイスラーム教で最も重要な場所にしました。メッカを征服後、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフはアラビア半島のほぼ全域を支配するようになりました。アラブ人の諸部族は、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフと契約を結ぶために次々とメディナに使節を送りました。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなるまでに、アラビア半島はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの支配下でゆるやかに統一されていたため、メディナを中心とした初期のイスラーム国家が誕生しました。\n中でも『コーラン』は、イスラーム教で最も重要な聖典です。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなってから、預言者ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフに伝えられた神の言葉を集めた書物と言われています。アラビア語で書かれています。「アッラー以外に神はおらず、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは神の使徒です。」という信仰告白は、この教義がどのような内容なのかを表しています。つまり、一人の神だけだとはっきりと伝えて、イスラームの信者は、主人アッラーの召使いとして従わなければならないと教えられています。そうすると、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは神から遣わされた使者です。しかし、預言者は神の言葉を預かっただけなので、イスラーム教徒はムハンマド・イブン=アブドゥッラーフを「市場を歩いているただの人」にしか見えません。\nイスラーム教はみんなの宗教なので、どんな人種でもイスラーム教徒はみんな兄弟姉妹と考えられています。宗教だけでなく、政治、社会、文化も含めたイスラーム教の教えとして、最も重要な部分は『コーラン』にあると考えられています。したがって、コーランの章や節を解釈して、イスラームの具体的な教義やルールを考えなければなりません。六信五行では、イスラーム教徒の信仰と行動を短くまとめています。六信とは、神への信仰・天使・聖典・預言者・来世・神の予定を指します。五行とは、信仰告白・礼拝・離俗・断食・メッカ巡礼を指します。六信五行の内容は、大多数を占めるスンナ派の場合です。シーア派に関しては、少し事情が違います。\nこのように、イスラーム教は政治、経済、社会、文化などを含む「生活の体系」となっています。コーランと預言者の言葉(スンナ)を中心に、一般常識となるイスラーム法(シャリーア)が9世紀までに定められました。ウラマーと呼ばれる知識人・学者が、法律を作り、法の解釈を行うようになりました。その後、彼らは法学者、裁判官、教師などとして、政治や社会で重要な役割を果たしました。\n632年にムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなると、メディナのイスラーム教徒は、クライシュ族の長老アブー・バクルをイスラーム共同体の指導後継者に選びました。このような共同体の指導後継者をカリフ(ハリーファ)といいます。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフは宗教的権力と政治的権力を持っていましたが、カリフ(ハリーファ)は政治的権力しか引き継いでいません。しかし、アブー・バクルが即位すると、アラブ諸民族は次々とイスラーム共同体から脱退するようになりました。アラブの伝統に従って、契約はムハンマドの個人的な取引と考えられていました。アブー・バクルは、ジハード(信仰のための戦い:聖戦)を通して、イスラーム共同体から脱退したアラブ諸部族と仲直りして、支配下に置きました。また、シリアとイラク・イランを支配するための大作戦を開始しました。そこでアラブ人イスラーム教徒は、カーディシーヤの戦い、ニハーヴァンドの戦いでササン朝軍に勝利すると、シリアのビザンツ軍に対してもヤルムークの戦いで勝利しました。651年、ササン朝は滅亡しました。642年になると、シリアに続いて、エジプトも支配しました。ササン朝が終わり、エジプトやシリアからビザンツ軍が撤退すると、古代オリエントは滅亡して、新しい思想に基づくイスラーム世界に変わりました。\nムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなると、共同体内部で指導者の地位を巡って意見が分かれるようになりました。実際には、共同体は4人のカリフ(アブー・バクル、ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーン、アリー・イブン・アビー・ターリブ)を順番に選びました。しかし、アブー・バクル、ウマル・イブン・ハッターブ、ウスマーン・イブン・アッファーンのカリフの正統性に同意しない派閥がいました。この派閥は、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの従兄弟で娘婿のアリー・イブン・アビー・ターリブこそが神に選ばれた人物なので、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが亡くなってすぐに指導者になっていなければならないと考えていました。この派閥が、シーア派(イスラーム教の少数派)の母体となりました。一方、4人のカリフを認めた人々は、スンナ派(イスラーム教の多数派)の母体となりました。一方、スンナ派は、共同体全体から選ばれ、初代から4代目までのカリフを「正統カリフ」と呼んでいます。しかし、第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンは嫌がる人に殺され、第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブは過激派に暗殺されました。ウマイヤ朝のムアーウィヤは、シリアの総督を務めており、シリアのダマスカスでウマイヤ朝を開くと、ようやく政治的混乱に終止符を打ちました。多くのスンナ派は、カリフ制の継承を悪く思っていました。\n8世紀初めになると、ウマイヤ朝は安定した政権を築いて、より多くの領土を手に入れました。東側では、アム川の東に位置するソグディアナとシンド(インド北西部)を支配しました。その結果、これらの地域にイスラーム教が広まりました。西側では、ベルベル人の抵抗を受けながら、北アフリカを西進しました。711年になると、イベリア半島に進出して、西ゴート王国を滅ぼしました。この時から1492年にグラナダが陥落するまでの約800年間、イベリア半島はイスラーム教に支配されました。その結果、アラブ・イスラーム文明が大きく発展しました。ウマイヤ軍は頻繁にフランク王国に攻撃を仕掛けましたが、トゥール・ポワティエ間の戦いで破れたので、ピレネー山脈を越えた地域の永続的な支配は出来ませんでした。\nアラブ人は、家族を連れて支配地に移住しました。その後、各地に軍営都市(ミスル)を建設して、そこを拠点に他民族を支配しながら、新たな征服を進めていきました。イラクのバスラやクーファ、エジプトのフスタート、北アフリカのケルアンなどは、いずれも新しく建設された軍営都市でした。商人達は「イスラームの平和」を背景に、旧都市や新都市を結ぶ密接なネットワークを築いていき、大きな経済圏を作りました。このため、7世紀終わり頃から『コーラン』の文字が入ったアラブ貨幣(ディナール金貨とディルハム銀貨)が作られるようになりました。\nしかし、ウマイヤ朝時代、アラブ人ムスリム(支配者集団)は多くの特別な権利を持ち、土地を所有していても十分の一税(ウシュル)を支払う人は限られていました。一方、国家財政は地租(バラージュ)と人頭税(ジズヤ)から成り立っているので、征服地の原住民だけが支払っていました。これらの税金は、イスラーム教徒になっても、免除の対象外でした。イスラーム教が唯一神の啓示の書と認める経典を持つキリスト教徒やユダヤ教徒などは、当初からイスラーム教徒と等しい経典の民と考えられていました。このため、税金を納めたら、ズィンミー(イスラームの支配下にある庇護民)として生命・財産の安全や信仰の自由を与えられました。さらに、ゾロアスター教徒なども旧ササン朝で多数を占めていたので、ズィンミーとして信仰の自由を与えられました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%BE%81%E6%9C%8D%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E2%85%A0"} {"text": "アラブの大征服とイスラーム政権の成立Ⅱでは、アッバース朝~ブワイフ朝までの内容を学習します。\n『コーラン』には、信者は誰でも平等と書かれています。そのため、非アラブ人は、イスラーム教に改宗すれば、アラブ人と同じ権利を持てるようになると考えました。これらの非アラブ人をマワーリーといいました。しかし、改宗は権力を持ったアラブ人に頼っていたため、主人とマワーリーの地位には格差が生まれました。また、農民の地租が政府の財源となっていたため、全員が同じ税金を納めるのは難しく、ウマイヤ朝の強権政治を嫌がるアラブ人もいました。次第に、アラブ人ムスリムは、イスラーム共同体を導くのはムハンマド家の一族が相応しいと考えるようになりました。この家系のアッバース家はこの考え方を利用しながら、マワーリーやシーア派ムスリムと協力して、ウマイヤ朝を倒そうと密かに運動を始めました。革命軍は、イラン東部のホラーサーン地方で立ち上がり、ウマイヤ朝の軍隊を追い払って西へ移動しました。749年、彼らはイラクの首都クーファにたどり着き、750年になると、アブー・アル=アッバースを初代カリフとして迎え入れました。以降、アッバース朝がイスラーム帝国として支配を始めました。\nしかし、ウマイヤ派を追い出したアッバース朝も、政権運営を安定させるため、やはりスンナ派(多数派)に従わなければなりませんでした。革命運動に協力したシーア派の期待は裏切られ、多くのシーア派ムスリムの命が奪われました。第2代カリフのマンスールは、アッバース朝国家の基礎を築きました。マンスールは、アラブ人兵士の子孫を中心に成り立ち、王朝を築くために多くの功績を残したホラーサーン軍に頼りました。この軍隊こそが、カリフを支える主要な存在でした。また、租税庁や文書庁などの官庁を設けてイラン人の書記を雇うほか、各官庁をまとめる宰相(ワズィール)という役職を設けて、官僚機構の整備を進めました。また、主要な街道に沿って馬を走らせる駅伝の制度を設けたのも、地方の状況を知るのに有効で、駅伝の制度がやがて中央集権的な体制作りにつながっていきました。\nマンスールも新王朝に見合う首都の建設に力を入れました。彼は、現地をよく見て、ティグリス川の西岸にある小さな町バグダードを新首都にしようと決めました。766年に完成した新首都は「平安の都」(マディーナ=アッサラーム)と名付けられました。三重の城壁に囲まれた内側にカリフの宮殿やモスクが建ち並び、商人や職人は城壁の外で生活しなければならなくなりました。バグダードは東西貿易路の交差点にあり、豊かなイラク平野の中央に位置していたので、建設後、すぐに都市が発達しやすくなりました。ティグリス川の両岸に発展した都市では、イスラーム世界の産物だけでなく、中国の絹織物や陶磁器、インドや南アジアの香辛料、アフリカの金、奴隷などが様々な市場(スーク)に並びました。経済の発展とともに、多くの文人、学者、技術者がバグダッドに移住しました。やがて、人口100万人のバグダッドを中心に、最先端のイスラーム都市文明が生まれていきました。\nアッバース朝では、イラン人が重要な仕事に選ばれるようになり、イスラーム法が成立して、全てのムスリムが平等に扱われるようになったため、アラブ人の特別な権利は次第に失われていきました。アラブ人以外でもイスラーム教に改宗すれば人頭税を払わなくてよくなり、アラブ人でも農作物を作ると地租を払わなければならなくなりました。このような課税の仕方は、その後のイスラーム王朝が全て守らなければならない規則となりました。公用語としてアラビア語が使われ、書物も全てアラビア語で書かれていました。一方、イスラーム社会は、周辺地域のイラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人などを積極的に受け入れました。そして、イラン人・トルコ人・アルメニア人・ベルベル人・インド人の長所を生かしながら使い分けてきました。カリフの政治はイスラーム法に基づきますが、その法律を読み解くウラマー(知識人)は、様々な民族の出身者から成り立っていました。\nこのように、ウマイヤ朝からアッバース朝への移行は、アラブ人が非ムスリム人を支配するという考え方から、民族よりも宗教を重視した仕組みへの移行と考えられます。こうした理由から、ウマイヤ朝の時代を「アラブ帝国」、アッバース朝の時代を「イスラーム帝国」と呼ばれています。\nアッバース朝の成立後、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世は北アフリカに亡命しました。756年、地中海からイベリア半島に渡って、後ウマイヤ朝を建国しました。コルドバを首都として、ペルペル人の反乱を抑えるとともに、政権の基礎を固めました。後ウマイヤ朝とアッバース朝は政治的に対立しましたが、学者達はバグダードやダマスカスへ行き、東方のイスラーム文化を学びました。そして、学んだ成果をイベリア半島に持ち帰りました。アブド・アッラフマーン3世の時代、後ウマイヤ朝は最盛期を迎えて、コルドバは人口50万人の大都市に成長しました。アブド・アッラフマーン3世は、マグリブ(エジプト以西の北アフリカの一部)西部の大部分とイベリア半島を支配しました。アッバース朝に対してカリフの称号も使いました。\n一方、東側のアッバース朝では、東西貿易の発展と灌漑農業の拡大によって、ハールーン=アッラシードの時代に黄金時代がやってきました。9世紀から10世紀にかけて、バグダードは「無敵の都市」と呼ばれるほどの成功を収めました。しかし、ハールーン=アッラシードが亡くなると、イランのホラーサーン地方でターヒル朝がすぐに独立を宣言すると、東部では鍛冶職人(サッファール)出身のヤークーブがサッファール朝を建国しました。中央ユーラシアのアム川の東側では、イラン出身の貴族がサーマーン朝を建国すると、サッファール朝を倒してホラーサーン全域を支配しました。\nこのようにカリフから独立王朝が登場すると、カリフの勢力は徐々に衰退していきました。エジプトでは、トルコ総督がバクダッドへの納税を拒否したため、トゥールーン朝が独立するようになりました。さらに、969年、チュニジアから始まったファーティマ朝がエジプトを支配すると、フスタートの北側に首都カイロを建設しました。ファーティマ朝前期のエジプトは紅海貿易で繁栄しました。しかし、ファーティマ朝後期のエジプトはカリフの統治が悪く、十字軍の侵攻を受けたため、衰退しました。ファーティマ朝は、シーア派の中でも最も過激なイスマーイール派に属していました。統治当初からカリフの称号を使用して、アッバース朝カリフの権力を否定していました。\n地方王朝の独立に続き、後ウマイヤ朝、ファーティマ朝の支配者がカリフの称号を手に入れると、イスラーム世界は二つに分かれました。アッバース朝カリフの勢力は大きく衰退して、10世紀に入るとカリフの勢力はイラクの一州に限られるようになりました。独立王朝の台頭とトルコ人奴隷兵(マムルーク)の活躍が、カリフ制の崩壊を招きました。9世紀以降、アッバース朝のカリフはホラーサーン軍とその子弟に代わって、忠実なマムルークと強力な親衛隊を編成しました。しかし、トルコ人マムルークが力をつけてくると、カリフ制を好きなように変更したり、無くしたりするようになりました。\nこのような混乱の中で、カリフはブワイフ朝(イラン人の軍事政権)にイスラーム法を執行する権限を与えました。ブワイフ朝は穏健なシーア派王朝でしたが、彼らの君主はカリフの統治権と引き換えにスンナ派カリフの保護に協力しました。以後、10世紀半ばから11世紀末にかけて、イスラーム世界は政治制度や人々の暮らしぶりなど、様々な面で新たな変革期を迎えました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%BE%81%E6%9C%8D%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E2%85%A1"} {"text": "本節から2回に分けて、イスラーム文化がどのように成り立ったのかを見ていきます。\nイスラーム世界は、古代オリエントやヘレニズム文明のように、古くから多くの先進文明が栄えた地域で発展しました。イスラーム文明は、アラブ人が他国を征服する際に持ち込んだイスラーム教とアラビア語を中心に、征服した国の人々が祖先から受け継いできた文化遺産が融合した文明です。また、アラブの大征服によって、様々な文化が集まった広い地域が一つの文化世界を作るようになりました。そのため、文化を共有して、発展しやすくなりました。ビザンツ帝国のディナール金貨も、ササン朝時代のディルハム銀貨も、生活を支える通貨制度として使われていました。初期の代表的建築物として、エルサレムの「岩のドーム」が挙げられます。シリアやイランから来た建築家、コンスタンティノープルから来たモザイク職人などの技術を集めて建てられました。同時に、この融合文明はイスラーム教に基づいた普遍的文明でした。イスラーム教は、全ての信者は平等なので、人種による差別は間違っていると教えています。イスラーム教は世界宗教なので、様々な人が信仰しています。こうして、イランのイスラーム文化、トルコのイスラーム文化、インドのイスラーム文化などは、それぞれの地域や民族性を踏まえて作られました。どれもイスラーム教に由来する部分がありますが、独自の特徴も持っています。例えば、モスクの建築を見ると、いずれも礼拝の場所として利用されています。しかし、建築様式や壁面の装飾は、イラン、トルコ、インドなど各地の文化が反映されています。\nビザンツ帝国も西ヨーロッパの人々も、拡大するイスラーム世界を恐れ、非常に嫌っていました。古代ギリシャ・ローマ人はイスラーム教徒を「サラセン人」と呼んで、その存在を貶したり、憎んだりしていました。また、イスラーム教に改宗するか、人頭税を払って元の宗教を維持するか、両方を拒否して戦うかという3つの逃げ道がありました。このような選択を宗教として考えるのは、イスラーム文明がいかに高度化しているかという不安からきています。カール大帝が神の戦士としてサラセン人を懲らしめる『ローランの歌』を見ると、当時のキリスト教徒がいかに高い意識を持っていたかが分かります。近代以前のヨーロッパでは、ムハンマドを性的に不道徳な人物と感じていました。そのため、イスラーム教を誤った宗教と考えている人がほとんどでした。\nそれでもビザンツ帝国とイスラーム世界の貿易は続き、地中海を経由した西ヨーロッパとイスラーム世界の貿易も止まりませんでした。11世紀以降、ヨーロッパのキリスト教徒は、イベリア半島の中部トレドを訪れ、アラビア語を学んで、イスラーム教徒が学んだ哲学や医学を取り入れました。彼らは、古代ギリシアの文献をアラビア語に翻訳して、さらにアラビア語の科学・哲学の著作をラテン語に翻訳しました。これらの著作から学んで、12世紀のルネサンスは発展しました。イスラーム文明が世界史の中で重要な役割を占めたのは、人類の歴史で豊富な実績を残しただけではありません。哲学や科学といったギリシア文明の成果を引き継いで、それを土台にしながら、ヨーロッパ文明へと発展させたからです。\n西アジアのイスラーム世界は、都市を中心に発展しました。農村や遊牧民の集落はやがて都市とつながり、都市は行政・手工業・商業・芸術・教育などの中心地となりました。アッバース朝の首都バグダードやマムルーク朝の首都カイロには、官僚・軍人・商人・職人のほか、ウラマーと呼ばれるイスラーム諸学の知識人が住んでいました。イスラーム都市は城壁で囲まれ、その中に大きなモスク(礼拝堂)、マドラサ(学院)といわれる学校、スークやバザールといわれる市場、キャラバンサライ(隊商宿)といわれる宿泊所などが建てられていました。\n イスラーム都市間の貿易路は、ムスリム商人だけでなく、キリスト教徒・ユダヤ教徒・ヒンドゥー教徒・中国人・ソグド人など、多くの商人が利用しました。その結果、ユーラシアとアフリカに非常に大きな国際貿易網が生まれました。海では、ペルシア湾ルートがアッバース朝の首都バグダードと直接つながっていました。しかし、10世紀にバグダードが政治的に混乱すると、ペルシア湾ルートは紅海ルートに変わり、カイロやアレクサンドリアが貿易網の中心地として発展しました。11世紀頃から、アレクサンドリアと関係のあるイタリアの都市は、東方貿易で大きな利益を上げるようになりました。アッバース朝が衰退すると、陸上貿易のネットワークはセルジューク朝に引き継がれました。13世紀、モンゴル帝国の時代になると、中国とヨーロッパが結ばれました。陸上貿易のネットワークを通じて、新しい発想や生産技術が、遠く離れた場所にも素早く広まりました。ここで、東イラン出身のペルシア語を話す神学者ガザーリーが著した『哲学者の自己矛盾』という本を紹介しましょう。『哲学者の自己矛盾』は、11世紀の終わり頃にバグダッドで書かれた哲学批判書です。アラビア語で書かれているので、イスラーム世界で広く読まれました。これは、哲学者・医師出身のイブン・ルシュドが、1180年以降に、早くもイベリア半島で『自己矛盾の自己矛盾』を著して、最高の批判をしている事実からも分かります。\n紙の生産は、イスラーム文明の発展と繁栄を支えた技術の1つです。それまで使われていたパピルスや羊皮紙は高価で重量感がありました。紙は安くて軽く、そこに書かれた文字の修正も困難でした。紙の普及で、文字を書いたり、記録を残したり、連絡を取ったりしやすくなり、イスラーム文明の発展に大きな影響を与えました。ダラス河畔の戦いで、唐の捕虜がイスラーム教徒に製紙法を教えたといわれています。8世紀中頃にはすでにサマルカンドに製紙工場がありました。バグダードやカイロなど多くの都市で製紙工場があり、様々な種類の紙が作られ、売られていました。13世紀頃、この技術はイベリア半島やシチリア島を経由してヨーロッパに伝わりました。\n10世紀以降、イスラーム社会は、イスラーム法の表面的な運用からくる堅苦しく見た目だけの信仰に満足出来なくなりました。神への愛と独自の修行によって自我を捨て、神と一体になろうとする神秘主義(スーフィズム)が盛んになりました。スーフィーとは、神秘主義を信仰する人々(粗い毛皮をまとった人々)をいいます。12世紀から、神と一体になったと考えられる聖人を中心に、神のために指導し祈りを捧げる役割を期待されるようになりました。このような状況から、多くの神秘主義教団(スーフィー教団)を結成しました。教団員やムスリム商人などが、アフリカ・中国・インド・東南アジアなどに進出して、現地の習慣に合わせてイスラーム教を広めました。カーディリー教団・ナクシュバンディー教団・メヴレヴィー教団が神秘主義的教団として知られました。\nナクシュバンディー教団\n都市に暮らす人々とこうした神秘主義者達が、イスラーム文明を支えてきました。カリフ・スルタン・高官・裕福な商人達は、モスクやマドラサ、病院などの宗教施設や公共施設を建てました。市場や商店から出るお金は、それらを維持運営するための費用として寄付されました。このように提供された財産とそれを提供する寄進制度をワクフといいました。ワクフを上手く活用して、多くのイスラーム都市は社会基盤を整備しながら、順調な発展を遂げました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%BE%81%E6%9C%8D%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E2%85%A2"} {"text": "引き続き、イスラーム文化について学習します。今回はイスラーム時代の作品とかも見ていきます。\nアラビア語言語学や『コーラン』の解釈学、そして神学や法学は、イスラーム教から最初に発展した学問分野です。特に法律は、イスラーム教徒の生活と大きく関わっています。8世紀以降、イスラーム教徒が増え、意見の対立が激しくなると、コーランのみで解決出来なくなりました。こうした変化の中で、マーリクやシャーフィイーなどの法学者は、『コーラン』やムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの言葉に基づいてイスラーム法を整理する作業に力を費やしました。8世紀から9世紀にかけて、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフの言葉や行動に関する多くの伝承(ハディース)を残しました。ある伝承が真実かどうかを確かめるには、誰がそれを伝えたかを調べなければなりません。そのため、イスラーム世界では特に伝記が流行しました。カリフやスルタンの伝記とともに、政治家・軍人・知識人・商人などの大規模な伝記が多く書かれました。歴史学の分野でも伝記は非常に重要です。例えば、11世紀に書かれた『バグダード史』は全14巻で、第2巻以降、全て人物の生涯を描いた内容になっています。彼らには多くの弟子がいて、「四正統法学派」といわれるスンナ派(シャーフィイー派・マーリク派・ハンバル派・ハナフィー派)とその流れをくむシーア派が相次いで誕生しました。やがて、日常生活を規制するイスラーム法が整備されると、全てのイスラーム教徒はいずれかの法学派に所属するようになりました。このように、イスラーム教やアラブの伝統に遡れる学問をイスラーム諸学(固有の学問)といいます。\nイスラーム教徒の子供は、まず『コーラン』を習います。子供達は家庭やモスクで『コーラン』を覚えると、良い先生を見つけるためにマドラサ(学校)に行きます。そして、法学・神学・哲学・歴史などのイスラームの学問を学びました。これが、イスラーム教徒が一流の知識人・学者(ウラマー)になるための唯一の方法でした。例えば、中央ユーラシアのサマルカンドやイベリア半島のコルドバの子供達は、イラクのバグダードやバスラ、シリアのダマスクス、エジプトのカイロやアレキサンドリアにイスラーム教を学びによく行きました。また、これらの機関は寄付金(ワクフ)で支えられていたため、合格した学生は無料で勉強を続け、衣服や食料も支給されました。メッカ巡礼と並んで、遠く離れた都市への「学問の旅」は、人々の知識や情報の共有に役立ちました。また、イスラーム文化の発展にも大きな影響を与えました。\nイスラーム法学は、9世紀までにイスラーム法(シャリーア)を整理するのに役立ちました。政府や権力者がイスラーム法を制定していません。ウラマーが『コーラン』やハディースを研究して、イスラーム教徒としての行動規範をまとめた法律です。主に、礼拝・断食・巡礼などに関する「儀礼的規範」と婚姻・相続・刑罰などに関する「法的規範」から成り立っています。また、税金の仕組みや戦争の規定など、イスラーム教に基づいた政治の基本も語られています。イスラーム法には「やっていい内容」と「やっていけない内容」が数多くあります。しかし、イスラーム教徒が日常生活をどのように送るかについても、非常に配慮されています。例えば、イスラーム教徒はお酒を飲んだり、豚肉を食べたりしてはいけません。\n伝承学から発展した歴史学も、固有の学問の一部でした。タバリーは9世紀から10世紀にかけて生きたイラン人の歴史家です。バグダードでイスラーム語学を学んでから、人類の誕生から始まる年代記形式の世界史『諸使徒と諸王の歴史』を著しました。これがアラブ歴史学の伝統となりました。イブン・ハルドゥーンは14世紀、北アフリカやイベリア半島で様々なスルタンに仕えました。その経験を活かして書いた『歴史序説(世界史序説)』では、都市と遊牧民の交渉を中心として、王朝興亡の歴史に法則性があったと主張しています。また、アル=マクリーズィーはイブン・ハルドゥーンから歴史を学びました。アル=マクリーズィーの主著『エジプト学』は、マムルーク朝時代のエジプト社会を生き生きと伝えています。\n9世紀初頭にギリシア文学がアラビア語に翻訳されるようになると、イスラーム教徒の外来の学問は大きく発展しました。イラン南西部のジュンディシャープール学院では、イスラーム以前からギリシアやインドの学術をシリア語やパフラヴィー語(中世ペルシア語)で研究していました。アラブ人が各地を占領すると、ネストリウス派の学者はこの研究所とその成果の全てを引継ぎました。その結果、ヘレニズム化したギリシアの学術を受け継ぎました。また、アッバース朝のカリフ・マームーンはバグダードに「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」を建てました。ここに学者を集めて、ギリシア語やペルシア語の文献をアラビア語に翻訳させる作業を行いました。ファーティマ朝時代のカイロにも、シーア派の教義を中心に哲学、数学、天文学などを研究する場所として「知恵の館(ダール=アルイルム)」が建てられました。イスラーム教徒は、まずギリシアの医学・天文学・幾何学・光学・地理学などを、これらの翻訳を通じて学びました。そして、臨床・観察・実験を通して、これらの考え方をより良く、より正確にしました。インドの医学・天文学・数学も学ぶようになり、特に、数字(後のアラビア数字)や十進法、ゼロの概念について学びました。そして、この2つの考えを組み合わせて、新しい発想が生まれました。代数学や三角法などは、フワーリズミーらによって生み出されました。フワーリズミーの数学書がラテン語に翻訳されると、「代数学」を意味する「アルジェブラ」という言葉が使われるようになりました。また、光や色の伝わり方、光の曲がり方などを説明したイブン・アル=ハイサム(ラテン語ではアルハーゼン)の『光学書』は、12世紀末に翻訳されました。この本は、ヨーロッパで近代科学が発展する上で大きな影響を与えました。さらに、数学者・天文学者のウマル・ハイヤームは、高次方程式の解法を発見して、非常に正確な太陽暦(ジャラーリー暦)の作成に協力しました。彼は、手書きの「四行詩集(ルバイヤート)」で現在知られています。ソグディアナ(マー=ワラー=アンナフル)出身のイブン・スィーナー(ラテン語でアヴィケンナ)は、医学の分野で活躍した人物です。イブン・スィーナーは、臨床の知識や理論をまとめた『医学典範』を著しました。この書物は、その後、ラテン語に翻訳され、ヨーロッパで何世紀にもわたって教科書として使用されました。\nササン朝時代に書かれたパフラヴィー語の本『千物語』から来ています。インドのお話が大きく影響しており、様々な物語が1つの枠の物語に収められています。8世紀末にバグダードでアラビア語に翻訳され、イスラーム教にしかない物語が加えられました。12世紀に、『千夜一夜物語』と呼ばれるようになりました。バグダードの焼失後、カイロでさらに物語が追加されました。マムルーク朝の滅亡までに、ほとんどの物語が今のような形になりました。多くの書物によって作られ、最初の作者が誰であったかは誰も分かりません。1875年、英訳の複訳を通して、日本で初めて読まれました。\n ギリシア哲学、特に『形而上学』『自然科学』『オルガノン』といったアリストテレスの著作は、イスラーム世界でも深く研究されました。10世紀以降、イスラームの思想界は神秘思想の影響を強く受けるようになりましたが、それでも信仰と理性は上手く両立していました。その理由は、神学者達がギリシア哲学の言語と方法を学んで、信仰に理論的根拠を与える神学体系をまとめたからです。ガザーリーもそうした神学者の一人です。ガザーリーは、神秘主義がイスラーム教信仰の基礎だと考えました。『宗教諸学の再興』という主要な書物もガザーリーが書いています。哲学の分野で重要な人物は、イブン・ルシュド(ラテン語でアヴェロエス)が挙げられます。イブン=ルシュドは、12世紀にイベリア半島で活躍したので、アリストテレスの思想を本来の姿に戻そうとしました。文学では、詩がよく発達していたので、数多くのおとぎ話も書かれました。『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』は、インド・イラン・アラビア・ギリシアの物語を集めて、16世紀初めにカイロで現在の形にまとめられました。現在では、アラビア文学の代表作と考えられています。また、メッカ巡礼の旅を題材にした旅行記も多く、モロッコ人のイブン・バットゥータは、25年間東洋を旅した後、手書きで書き残した『三大陸周遊記』というアラビア語の旅行記を残しています。『三大陸周遊記』には、遠い中国の様子を伝えています。ペルシアの文学作品は、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ(王の書)』、ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』、サアディーの教養・道徳書『薔薇園』、メヴレヴィー教団の創設者ジャラール・ウッディーン・ルーミーの叙事詩形式の『精神的マスナヴィー』、ハーフィズの神秘主義的叙情詩などが10世紀以降によく知られるようになりました。これらの作品は、トルコやモンゴルの支配者達によって守られてきました。『幸福の知恵』は、カラハン朝時代にカシュガルで書かれました。『幸福の知恵』はトルコの文学作品ですが、トルコ語が書き言葉として発展して、多くの文学作品を生み出すようになったのは、15世紀後半になってからです。\n宗教建築の分野では、各地に多くのモスクが建てられ、それぞれに地域的な特色が見られました。モスクには、クトゥブッディーン・アイバクがデリーに建てた大きなクトゥブ・ミナールのように、ミナレット(光塔)があるのが普通でした。そのため、イスラーム世界の街並みはこのような姿になりました。美術・工芸の分野では、本の挿絵として作られた細密画(ミニアチュール)や、他の金属の小さな破片で装飾された金属器などがよく知られています。また、イスラーム教では偶像崇拝が出来ず、人物の絵を宗教建築の装飾にも使えなかったので、唐草文やアラビア文字の入ったアラベスクが装飾文様に使われました。「アラベスク」とは「アラブ風の」という意味ですが、文様としての起源はヘレニズム時代やローマ時代にまで遡ります。その後、中国などにも影響を与えました。建築・本の装飾・織物・陶器・金属器に広く利用されています。\n帰国後、約25年かけて自分の旅を自筆で本にしました。実話に基づかない話もありますが、14世紀前半のイスラーム世界の暮らしぶりがよく伝わってきます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%BE%81%E6%9C%8D%E3%81%A8%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E6%94%BF%E6%A8%A9%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B%E2%85%A3"} {"text": "ルネサンスⅠでは、ルネサンスはなぜ発生したのか、その担い手は誰なのかについて学習します。\n中世後期のヨーロッパは、厳しい時代を迎えていました。黒死病(ペスト)と百年戦争で大勢の人が亡くなりました。教会の大分裂は宗教的緊張をさらに高め、オスマン帝国の支配は脅威でした。しかし、危機の時代だからこそ、人間は死と隣り合わせという意識を強く持っていました。古い価値観にとらわれない新しい生き方や考え方を探し出して、語り合いました。また、イスラーム圏の研究は、自然を相手にする技術に人々の関心を集めました。また、自然もその一部としている人間も積極的に研究され、様々な新しい発見がありました。例えば、中世キリスト教の考え方では、人間は生まれつき罪を持っていて、汚れていて、何の力も持っていないと考えられていました。一方、自然界は神から生み出された一番無価値で、恐怖の対象と考えられていました。このような動きから、文学・科学・芸術などといった分野がより発展していきました。こうした変化の総称がルネサンスです。この学術用語は、フランス語に由来しており、「再生」という意味です。19世紀、フランスの歴史家ジュール・ミシュレが『フランス史』第7巻の標題で、初めて使いました。その後、スイスの歴史家ヤーコプ・ブルクハルトが『イタリア・ルネサンスの文化』の中で使い、世界中に知られるようになりました。ルネサンス時代では、すでにイタリア語やラテン語で「再生」や「復活」という言葉が使われていました。\nイタリアの都市は、ルネサンスが最初に始まった場所です。当時のイタリアは一つの国ではなく、多くの都市国家や小王国から成り立っていました。13世紀、地中海で交易していたヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国・ピサ共和国などの港湾都市は、東地中海に進出すると、ビザンツ帝国やイスラームの商人達と取引を始めました。彼らは香辛料や贅沢品をヨーロッパに運び、大儲けしました。工芸や工業は、フィレンツェやミラノなどの都市を繁栄させました。フィレンツェの主な産業は毛織物ですが、木彫り・嵌め込み細工(象眼)・金細工・絹織物などの工業もありました。ミラノは毛織物と武器製造などの金属加工で知られていました。ジェノヴァは絹織物、ヴェネツィアは硝子・造船・印刷で知られていました。フィレンツェのメディチ家の銀行業と同じように、金融業もヨーロッパ全域で発展しました。15世紀から16世紀にかけて、イタリアはヨーロッパで最も多くの都市を持ち、ナポリに15万人以上、ヴェネツィアに10万人以上、ミラノ・パレルモ・ボローニャ・フィレンツェ・ジェノヴァ・ヴェローナ・ローマに5万人以上が住んでいたと考えられています。\nルネサンスの人々はキリスト教を否定せず、この世界の文化を大切にしました。彼らの理想は、レオナルド・ダ・ヴィンチのような、文芸や自然諸学に詳しい「万能人」でした。ルネサンス時代のフィレンツェなどに住んでいたのは、ほとんどが細民と呼ばれる労働者階級の人達でした。ルネサンスを支えたのは、都市に住むごく少数の人々でした。君主や豪商は文化の保護者(パトロン)となり、専門職は作家や学者となり、職人は芸術家になりました。フィレンツェ共和国の大富豪(メディチ家)・ミラノ公(スフォルツァ家・ヴィスコンティ家)・フェラーラ公(エステ家)・マントヴァ公(ゴンザーガ家)などは、芸術や教育の保護者(パトロン)として知られています。芸術のパトロンには、君主・富裕層・都市の同職ギルド・同信会などの社会的宗教的団体・フィレンツェやヴェネツィアの共和制政府が含まれていました。\nルネサンス時代のイタリアは、都市共和国・小君主国・ローマ教皇領に分かれ、互いに対立していました。都市での権力を巡って各政党が争ったため、外部勢力が介入するようになりました。1494年、フランス王シャルル8世のイタリア遠征・メディチ家の追放・1527年のドイツ皇帝軍によるローマ略奪は、ルネサンス文化の衰退につながりました。このような政治情勢が、ルネサンス文化に様々な影響を与えています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E2%85%A0"} {"text": "イギリスの産業革命は、農業を中心とした社会から、工場を中心とした社会への変化の始まりでした。綿花産業から始まった技術の変化は、生産や人々の生活を大きく変えました。産業革命は、イギリスからヨーロッパ、アメリカへと広がっていきました。機械工場による大量生産は、産業資本の発展をもたらしましたが、同時に都市や労働者の問題など、新たな社会問題を引き起こしました。\nアメリカ革命やフランス革命を「市民革命」と呼びます。産業革命は、これらの市民革命と同時期にイギリスで起こった工業化の過程の名称です。19世紀前半、この2つの革命は大西洋を越えて、ヨーロッパ、アメリカ大陸に次々と広がっていきました。歴史家達は、これを「二重革命」「大西洋革命」という言葉で表現するようになりました。西洋の人々は、この2つの「革命」から生まれた政治や市民社会の考え方、モノの作り方や暮らし方を取り入れ、世界各地に広めていきました。これらの考え方は、現在でも政治や社会、生活をする上で非常に重要です。\n七年戦争後、北米東部の13のイギリス植民地は、税制をめぐって本国と対立していました。植民地の人々の権利と自由を求める急進派は、本国の政策に激しく抵抗しました。ボストン茶会事件で対立はさらに激化し、独立戦争の発端となる最初の武力衝突はボストン近郊で起こりました。大陸議会は独立を訴え、フランスをはじめとするヨーロッパ諸国の援助を得て、1783年、アメリカは自由を手に入れました。独立後につくられたのが、アメリカ合衆国憲法です。その後、修正条項を除き、あまり変わっていません。これはアメリカの政治システムの基礎となっています。\n旧体制の問題が深刻化していたフランスでは、三部会が集まって革命が始まりました。バスティーユの襲撃で地方は衝撃を受け、「大恐怖」が広がりました。国民議会が封建的特権をなくし、人権宣言を採択した時、旧体制は終わりを告げました。王の逃亡や革命に反対する国々との戦争で革命はさらに激しくなり、共和制の誕生、王の処刑、ジャコバン急進派による恐怖政治が行われました。クーデタによりマクシミリアン・ロベスピエールの恐怖政治が終焉を迎えると、ブルジョアジーは革命を復活させようと試みました。ナポレオン・ボナパルトのクーデタは、専制君主制が果たせなかった政治体制の安定をもたらしました。しかし、ナポレオン・ボナパルト政権は、ヨーロッパを戦争の渦に引きずり込みました。彼が政権を取った後、古い体制に戻されましたが、それでも革命の影響は全て払拭されたわけではありません。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AE%E6%88%90%E9%95%B7_%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88"} {"text": "本節では、2回に分けて産業革命についてまとめます。かなり、詳しく執筆しました。\nSFのように、自由に時間を戻せるとしましょう。現在から過去へ順に進んでいった場合、どの時点で現在とは全く違う世界に来たと感じられるでしょうか。もちろん、小さな変化はたくさんありましたが、特に西ヨーロッパで社会が本当に変化するようになったのは、18世紀末頃です。\n1800年代、この国境の向こう側には都市がありましたが、ほとんどの人はまだ大きな工場や鉄道のない地方に住んでいました。ほとんどの場合、家族全員が一緒に働き、一日中一緒に働いていました。学校も職場も、同じ年齢の人が大勢集まる環境はあまりありません。時給制ではないので、好きな時に働いたり休んだり出来ます。町でも村でも、ほとんどの場面で人々はお互いを知り、助け合っていました。お祭りや地元の人との交流が主な楽しみ方でした。\nしかし、この社会は全てが完璧というわけではありません。生産効率は悪く、科学技術もあまり発達しておらず、人々は貧しく、生活はとても苦しくなっています。人々は飢えや病気でよく死に、多くの子供が生まれてもすぐに死んでしまい、生きていても長生きしないので、人口はあまり増えません。病気になったとしても、治療法は迷信に基づくものしかありません。女性や使用人など多くの人々は、政治的にも社会的にも完全な一員として扱われず、投票権や財産を所有出来なかったりします。\nつまり、18世紀末から19世紀初頭にかけて、近代世界の基礎が築かれたともいえます。また、この変化はどこよりもまず、そして最も早くイギリスで起こりました。この大きな変化を産業革命と名付けたのは、1852年から1883年まで生きたイギリスのスラムの改革者、アーノルド・ジョゼフ・トインビーです。19世紀後半に活躍したアーノルド・ジョセフ・トインビーは、産業革命こそが、都市スラムの貧困、病気、犯罪などの社会問題の原因と考えました。\nしかし、産業革命は、国全体の生産性を高め、伝統的な社会が抱えていた貧しさを解消しました。だから、結局、歴史家の中には「産業革命は人間にとってかなりありがたい。」と考えるようになった人もいます。特に、現在、第三世界と呼ばれている国々は、産業革命や工業化と呼べるような経験をした国はありませんから、北の先進国に高い生活水準をもたらしたのは、産業革命だと考えられます。\nつまり、良い意味でも悪い意味でも、産業革命は近代世界の始まりとなりました。\nつまり、産業革命という言葉は、もともと18世紀後半のイギリスで、経済活動に機械や動力を利用し、機械制工場を発展させて行った時代を指しています。これを契機に、経済や社会、人々の生活が大きく変化しました。\n従来の農業社会から工業社会へと発展したため、工業化ともよばれています。それでもなお、工業化は世界中で起こっています。\nつまり、16世紀にはすでに資本主義が形づくられ始めていたにも関わらず、産業革命の間にそれが成長し、少しずつ変化してきたわけです。資本家にとって産業資本主義の時代であり、商人や農業経営者から工場労働者が最も有力な立場になりました。資本主義とは、機械や土地などの生産手段(資本)を所有する「資本家」が、「労働者」に給料を払って、市場に出す商品を作らせるという意味です。また、資本家が労働者に対して支配権を持っているという意味もあります。\nなぜ、イギリスは最初の産業革命が発生したのでしょうか。一つの原因は外からでした。それは、七年戦争によって、イギリスが世界貿易の担い手となり、植民地帝国を築き上げたからです。特にイギリスは、西アフリカ、カリブ海、北アメリカ南部と自国を結ぶ「三角貿易」を仕掛けて、奴隷貿易で大儲けしました。産業革命は、この貿易で儲けたお金で実現しました。\nまた、アフリカには綿布が送られ、カリブ海からは砂糖と綿花が持ち込まれました。そのため、ロンドンとともに奴隷貿易の中心地となっていたリバプールに近いマンチェスター周辺では、綿工業が発展していきました。\n一方、イギリス国内の様子も後押ししました。この時代、イギリスは人口が増加しており、工場労働者が増えました。人口が増えた主な理由は、ノーフォーク農法(近代農業)です。空いていた畑を半分に分け、クローバーや蕪を植えたのです。これらの植物は、動物達の餌となり、特に蕪は寒い冬を越すのに役立ちました。動物が増えれば、「糞尿」も増えました。\nジェントリはこの新しい農法に注目し、「これだけ穀物を育てれば、ビジネスになる」と言いましたが、土地を4つに分けるには多くの農地が必要でした。そこでジェントリは、中小農民の土地と村の共有地をまとめて広い農地を作りました(第2次囲い込み)。羊の飼育のために作られた第1次囲い込みに比べ、第2次囲い込みははるかに大規模でした。イギリスの農地の約2割を集約しました。土壌の関係で農業の改良(農業革命)が困難な北西部では、18世紀半ばから毛織物産業を中心に、手工業(プロト工業)とマニュファクチュア(工場制手工業)の卸売制度で工業生産が行われていました。\nしかし、産業革命が始まって仕事が増え、エドワード・ジェンナーが種痘法を発見するなど医学が進歩すると、人口が大幅に増えました。その結果、イギリスは再び穀物の輸入大国となりました。\nこうしてイギリスは、産業革命に必要な資金と人材を獲得していきました。また、禁欲と勤勉を奨励し、世俗的な仕事に重きを置いたプロテスタント(ピューリタニズム)、自然科学を発展させた科学革命など、知的・精神的な条件も整えられました。その結果、常に定時に出勤する近代的な労働者や合理的な経営を行う企業経営者が台頭してきました。\nイギリスでは、マンチェスター近郊の綿花産業で新しい技術が使われた時から、産業革命が始まりました。ジョン・ケイ(1704年〜1764年頃)は、1733年に毛織物産業用に飛び杼を作りました。その後、綿花産業でも使われるようになり、綿花を織る工程が格段に早く、効率的になりました。そのため、綿糸を十分に確保出来ないので、ジェニー紡績機や水力紡績機といった機械が考え出されました。\nその後、水力紡績機が蒸気機関に接続され、より効率的になりました。また、1779年にミュール紡績機が作られた後は、紡績分野での技術的な進歩は見られなくなりました。1785年には、織物部門のエドモンド・カートライト(1743年~1823年)が力織機を考え出しました。しかし、この部門では機械化がそれほど進まず、依然として多くの手織り機が必要とされました。そのため、1830年代から1840年代にかけてのチャーティスト運動には、多くの手織工が参加しています。\nこの後、こうした技術の変化、特に動力の利用によって、工場の建設に力を入れるようになり、工業都市の出現につながりました。工場制度は、労働者の生活を大きく変えました。\nつまり、綿織物産業で始まった工場制度や技術の進歩は、やがて毛織物工業にも広がりました。とにかく、産業革命が始まった当初は、繊維産業と陶器などを作る軽工業が経済の主役でした。\nしかし、経済や社会全体に最も大きな影響を与えたのは、重工業と交通手段の変化でした。まず、18世紀初頭、エイブラハム・ダービー(1711年〜1763年)がコークスを使った鉄の製造方法を考案しました。これにより、工場で使う燃料が、イギリスで枯渇していた木炭から、大量に作れる石炭に変わりました。これにより、石炭業や鉄工業が発展し、より多くの鉄が作られ、鉄製の機械が広まるようになりました。\n17世紀にトーマス・ニューコメン(1663~1729年)が実際の炭鉱のために作った蒸気機関を、ジェームズ・ワット(1736年~1819年)が改良して以来です。これによって、炭鉱の仕事が上手くいくようになりました。また、紡績機械なども蒸気機関に接続され、生産が効率的に行われるようになりました。\n重い鉄や石炭について費用をかけて移動させるために、交通手段は次々と改良されていきました。人々は最初の道路や運河を利用しました。特に石炭の移動には、マンチェスター周辺の運河が非常に役立ちました。ジョージ・スティーブンソン(1781年~1848年)は、1825年に最初の蒸気機関車を作りました。それは瞬く間に全国に広がり、1850年までに1万マイル以上を走行しました。19世紀後半、イギリスの最も重要な輸出品は鉄道であり、世界各地に建設されました。さらに、1807年、ロバート・フルトン(1765年~1815年)というアメリカ人が蒸気船を実用化しました。世紀の中頃から改良が重ねられ、蒸気船は徐々に帆船と立場を逆転させました。国内外を問わず、鉄道や蒸気船は人と人との出会いを容易にし、都市の発展を促しました。このような現象を交通革命といいます。イギリス人労働者は、工場で朝食をとり、中国やインドのお茶にカリブ海産の砂糖を加えて飲むようになりました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%85%A0"} {"text": "1825年、イギリスは機械を国外に輸出するのを違法とする法律を廃止しました。そこで、産業革命の波は19世紀前半の西ヨーロッパ諸国、そしてアメリカ、ロシア、日本へと広がっていきました。イギリスの製品は非常に安く、またイギリスの軍隊は非常に強かったので、これらの国々は意識的にイギリスの産業革命を真似し、独自の産業革命を起こそうとしました。それは、日本が明治時代に行った「富国強兵」政策に表れています。\nこの目標に向かって最も早く進んでいるのが、ベルギーとフランスです。つまり、両国とも1830年頃から産業革命の中心は繊維産業でした。18世紀、フランスの経済はイギリスにそれほど劣っていませんでした。しかし、英仏通商条約(通称イーデン条約)により、両国の貿易が開放されました。イギリス製品の大量流入とフランス革命による混乱で、フランスは産業革命に大規模に加わるのが難しくなりました。\n同じ頃、ドイツのライン川流域では、産業革命が始まりました。ドイツでは、19世紀後半に重化学工業の発展が特徴的でした。19世紀初頭、アメリカでは綿花産業が発展しました。しかし、本格的な産業革命が起こるのは南北戦争後です。1870年代には、ドイツやアメリカで産業革命が起こり、イギリスはもはや「世界の工場」ではなくなってしまいました。日本でも、日清・日露戦争をきっかけに産業革命的な変化が起こりました。\n産業革命の時代、イギリスを初めとする各国は、アジア、アフリカ、中南米の一部を原材料や食料の市場として利用しました。その結果、これらの地域と産業革命を経た国々との間に経済格差が広がり、現在の南北問題につながりました。イギリスの綿花産業が発展すると、カリブ海やアメリカ南部では、綿花の栽培に奴隷が使われるようになりました。世界でも有数の綿織物産業を持つインドは、原料である綿花の輸出拠点となりました。\nイギリスでは、産業革命によって、ランカシャー州のマンチェスター、イギリス中部のバーミンガム、スコットランドのグラスゴーなど、多くの都市が変わりました。また、リヴァプールのような港湾都市も変わりました。都市に住む人の数は急速に増え、人々の生活様式も変わりました。そのため、失業、貧困、病気など、様々な社会問題が発生しました。\n産業資本主義の台頭に伴い、同じような目的を持った集団として自らを捉える「労働者階級」も台頭してきました。19世紀のイギリス社会は、おおまかにいうと、労働者階級、資本家階級、地主階級(地主貴族)の3つの集団で構成されていました。\n工場を中心とした機械工業によって、産業革命は大量生産をもたらしました。そのため、熟練工が不要になり、給料の安い女性や子供がよく使われるようになりました。工芸品を作って生計を立てていた人達の中には、職を失う人もいました。彼らは、囲い込みで農業を続けられなくなった農民と同じように、都市でも田舎でもお金のために働くしかありませんでした。\n産業革命の時代には、多くの工場労働者がアイルランドから仕事を求めてやってきました。1801年にアイルランドがイギリスの一部となると、この傾向はさらに強くなりました。\n1814年には、徒弟制度がなくなり、誰でも独立開業出来るようになりました。そのため、それまでギルドに守られていた親方職人の存在意義がさらに薄れました。例えば、ロンドンでは仕立て屋は一般的で尊敬される仕事でした。しかし、事業に自由が与えられると、スラム街で縫製の仕事のほとんどを他の貧しい女性に非常に低い賃金で任せる人が増え、社会問題化しました。また、徒弟制度がなくなり、若いうちから工場で給料を貰って働けるようになったため、若いうちに結婚する人が多くなりました。この結果、この時代に人口が急速に増加したと考えられています。\n人口が急増するにつれ、住宅などの生活環境は格段に悪くなりました。この間、労働者の家は狭く、暗く、トイレも下水もありませんでした。ドイツ人のフリードリヒ・エンゲルスは、『イギリスの労働者階級の状態』という本を書きました。その中で、彼は悲しい光景を詳しく語っています。労働時間が長く、食事もろくに取らないので、ペストは流行らなくなりましたが、結核、梅毒、天然痘といった伝染病は残っていました。特に、1830年代前半はコレラの発生が相次ぎました。\n都市部だけでなく、地方の伝統的な農民社会も乗っ取られ、共有地の放牧や木の伐採で小遣い稼ぎをする家族も少なくありません。多くの人が貧しく、その様子は当時の文章によく記されています。ロマン主義は、当時の文学作品、特に詩に大きな影響を与えました。ロマン主義は、産業革命以前の農民の生活を空想し、産業文明を批判する傾向がありました。それ以来、産業革命がイギリス人の生活を良くしたのか悪くしたのかが話題になるようになりました。現代から見れば、産業革命を経た国々の生活水準が高いのは明らかです。しかし、その間に様々な社会問題が発生したため、かつては生活水準が低下したという説も根強くあります。都市部の人々は農村部のようにお互いをよく理解していないので、貧困救済が両地域で大きな問題となりました。18世紀末には、基本的な生活水準を満たすだけの収入が得られない人々を支援するために、補助金制度が設けられました。しかし、この制度はあまりにも高額だったため、1834年、エリザベス1世の時代から続いていた救貧法を全面的に改め、「自助」の精神を重視するようになりました。自助の精神に重きを置く考え方は、ピューリタニズムから生まれ、産業革命が進むにつれて勢力を拡大した中産階級に受け入れられました。この考え方からすると、貧困の原因は個人にあります。サミュエル・スマイルズの『自助論』という本は、自助の精神の必要性を訴え、大ヒットしました。明治時代「西国立志篇」には、中村正義がこの本を日本に持ち込み、大ヒットさせました。\nこれに対して、労働者は団結して労働条件の改善を求めるようになりました。これには政府も神経を尖らせ、団結(結社)禁止法(1799年~1800年)を制定して、これをやめさせようとしました。機械化で職を失った職人達は、古くからの打ち壊し習慣に従い、中部のメリヤス織りを中心とした「機械打ち壊し運動(ラッダイト運動)」に参加しました。「ネッド・ラッド」がリーダーでしたが、本当に存在したのかどうかは定かではありません。この運動も1810年代にピークを迎え、その後消滅しました。機械化は止められない流れになりました。\nもちろん、産業革命で悲劇ばかりが起こったわけではありません。産業革命以前は、女性も子供も懸命に働かなければならず、何の権利も持っていませんでした。夫であり父親である世帯主がすべてを仕切っていました。工場制度が普及すると、家族はバラバラに働き、妻や子供の仕事は、どんなに小さなものでも、はっきりと評価され、報酬が支払われるようになりました。家庭の中では、女性や子供にとって、物事がより良い方向に進んでいるように見えます。\n一方、工場で働くようになった母親は、子供のために洋服などの物を作る時間がありません。そこで、産業革命以前は家族が提供していた多くの商品やサービスが、現金で支払われるようになりました。食料も薪も同じです。人々の暮らしは、より商品らしくなっていきました。\n工場の仕事は、農業のように日払いではなく、時間払いが多いので、労働者は機械の時計に従って時間を守らなければなりませんでした。当時、人々はこのような習慣に馴染みがありませんでしたから、労働時間の問題は上司との間に多くの問題を引き起こしました。そのため、1802年以降に制定された工場法のほとんどは、労働者の労働時間を短縮するための内容でした。\n時給制が一般的だった時代、働く時間と自由な時間は明確に分けられていました。労働時間は自由時間でもあり、多くの労働者はパブに行って酒を飲み、楽しんでいました。これを嫌った工場経営者などは、「時は金なり」といったピューリタニズムのルールを強制する一方で、旅行や読書、音楽といった「上品」な取組みもさせようとし、これまた大変な騒ぎになりました。\n産業革命の時代、人々の読み書き能力は一時的に低下しましたが、すぐに回復し、労働者のための新聞やパンフレットなどの出版物の数も増えました。この結果、労働者の集団としての団結力に大きな差が生まれました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%85%A1"} {"text": "かつて、15世紀末にカボット父子が北米沿岸を探検し、1580年代にはウォルター・ローリーがヴァージニアに植民地を作ろうとしました。それでも、イギリスが本格的に北アメリカ植民地の建設を始めたのは17世紀になってからです。国王から特許を与えられた企業や個人領主が、植民地化事業を担当しました。1607年、ジェームズ1世はロンドン会社に特許状を与え、ジェームズタウンやヴァージニア植民地の建設を開始しました。\n1620年、ピルグリム=ファーザーズと呼ばれるピューリタン(清教徒)の一団がプリマス植民地を立ち上げました。宗教の自由を求めて、ステュアート朝絶対王政下から逃げ出し、メイフラワー号でヴァージニア北部に渡り、植民地建設を始めました。船を降りる前に、彼らはメイフラワー条約に署名し、自分達の政府を設立し、法律を制定し、お互いを尊重し合おうと約束しました。1630年、新教徒ピューリタンはマサチューセッツ植民地を設立し、植民地議会を設置し、植民地の自治を出来るようにしました。プリマスやマサチューセッツを中心に発展したニューイングランド植民地のピューリタニズム(清教主義)、信仰の自由、民主主義などの思想は、徐々にアメリカの精神風土に根付いていきました。マサチューセッツ州、コネチカット州、ロードアイランド州、ニューハンプシャー州、メーン州、ヴァーモント州は、いずれもアメリカ合衆国の北東部に位置しています。\n植民地は特許状の内容によって3種類に分けられました。自治権を持つ植民地では、住民が総督と植民地評議会を選びました。領主植民地では、特許状を持つ領主が知事を選びました。そして王領植民地では、国王が総督を選びました。王立植民地の数は時代とともに増えていきました。しかし、住民代表で構成される植民地議会は、大幅な自治を与えていました。\n1600年代、旧キリスト教徒がメリーランド州に移住しました。また、1644年から1718年まで生きたクエーカー教徒のウィリアム・ペンは、ペンシルバニア州などの植民地を築きました。クエーカー教徒は1600年代にイギリスで始まった新教の一派です。政府からフレンド教会といわれています。宗教的な感動で祈る時に震えるので、人々はクエーカー(震い派)と呼ばれています。平和主義者の立場から、戦争には全く反対で、軍隊に入るのも拒否しています。1732年にはジョージア州が建設され、北アメリカ東海岸に13のイギリス植民地が建設されました。これらの植民地が成立した背景は様々ですが、宗教的自由、政治的独立、経済的自由を求めて母国を離れました。植民地では地域ごとに次の産業が発展しました。\n1588年から1649年まで生きたジョン・ウィンスロップは、マサチューセッツ植民地の初代総督です。彼は裕福な庭師、ケンブリッジ出身の弁護士、ピューリタンの知的エリートの一員でした。マサチューセッツ湾会社が他の植民地の特許会社と違ったのは、ジョン・ウィンスロップがそれを植民地に移したためです。彼らは、植民地を本国の人間に運営させたくはありませんでした。その代わり、ピューリタンが主導する植民地を建設しようとしました。1630年、ピューリタン達はマサチューセッツに移り住み、ジョン・ウィンスロップを植民地の総督と会社の総裁に選びました。彼は、自分に従う500人以上の男、女、子供を、良い使命を持った人間の家族だと考えていました。ジョン・ウィンスロップの厳格なピューリタニズムは、植民地の人々を真面目で勤勉にしましたが、同時に他の宗教を持つ人々を受け入れないようにしました。ピューリタン教会のメンバーだけが投票権を持ち、ピューリタンのグループが町を運営しました。教会に入るには、その信仰や生き方が見られていました。そこで、政教分離を望むロジャー=ウィリアムズと、牧師で完全民主主義を信奉するトマス=フーカーは、マサチューセッツ州を離れ、ロードアイランド州とコネティカット州の植民地を建設しました。\nジョン・ウィンスロップが親切で良い人だったとしても、彼の死後に起こったボストンやセイラムでの魔女狩りは、厳格なピューリタニズムと無関係ではありません。\nフランスがカナダからミシシッピ川流域まで植民地を持っていたため、イギリスの植民地が西へ向かって発展しにくくなっていました。1800年代、イギリスとフランスは植民地をめぐって何度か衝突を繰り返しました。七年戦争(1756年〜1763年)では、イギリスは辺境でフランス人やインディアンと戦いました(フレンチ・インディアン戦争)。結局、イギリスが勝利し、1763年のパリ条約により、イギリスはミシシッピ川以東のカナダを手に入れました。\nイギリスは、自国の産業や貿易を守るために、植民地を原料や市場の供給源として維持する以下の重商主義政策をとっていました。イギリスの貿易や産業だけでなく、イギリス領西インド諸島で作られた商品を守るため、植民地は自由に貿易や物作りを出来ませんでした。\nしかし、七年戦争が終わるまでの間、フランスやインディアンの攻撃から身を守るために、植民地はある程度の自衛力を身につける必要がありました。そこで、この重商主義的規制を忠実に守らない行為は、「有益なる怠慢」とされました。\n七年戦争が終わると、フランスと付き合う必要がなくなったイギリス政府は、植民地に対する締め付けを厳しくするようになりました。だからインディアンとの問題が起きないように、植民地の人達は好き勝手な行動が出来ませんでした。また、お金の問題もあり、戦争や植民地の運営にかかる費用の一部を植民地が負担しなければならなくなり、課税が強化されました。その内容を表にまとめます。\n植民地の人々は、国内でのこれらの政策に非常に不満を持っていました。さらに彼らを苦しめたのが、1765年の印紙法でした。印紙法は、植民地で作られた新聞、パンフレット、トランプ、商取引の証書、裁判所の書類、許可証などに切手を貼って、より多くの税金を取ろうとするものでした。植民地の多くの人々に影響を与える税金なので、パトリック・ヘンリー(1736年~1799年)が関わったヴァージニア州議会の決議のように、各地で反対運動が起きました。\n植民地はイギリス議会に誰も送っていないため、勝手に課税すればイギリス国民の権利や自由に背くと考えていました。「代表なくして課税なし」が、植民地が連合に参加したくない理由でした。印紙税は翌年には撤回されましたが、1767年、議会は新たに硝子、鉛、茶などに課税するタウンゼント諸法を成立させました。これにも、国産品のボイコットなどの反対運動が広がりました。結局、茶税以外は全て廃止されました。しかし、マサチューセッツ州では反対運動が続き、1770年に「ボストン虐殺事件」が起こりました。1770年の「ボストン虐殺事件」は、ボストン市民が集会に集まり、イギリス軍が抵抗運動を抑えようとして起こった事件で、5人が死亡しました。急進派のパンフレットなどは、この事件を利用して、反英運動の推進に貢献しました。\nイギリス議会は1773年に茶法を成立させ、イギリスの東インド会社が税金を払わずにアメリカに茶を出荷出来るようにしました。その結果、東インド会社の茶貿易の独占に反対する運動が高まりました。1773年12月、ボストンでインド人に変装した過激派がボストン港で東インド会社の船を襲い、積荷の茶を海中に投棄する事件が発生しました(ボストン茶会事件)。ボストン茶会事件を受けて、1774年、イギリス政府は厳しい法律を次々と制定しました。ボストン港は封鎖され、マサチューセッツ州の自由は制限され、軍隊が駐屯しその費用が州に課され、オハイオ川以北の地域がケベック州に編入されました。\n1774年、自国での抑圧のため、12植民地のうちジョージアを除く11植民地の人々がフィラデルフィアに集まり、第1回大陸会議を開催しました。この会議では、植民地政府が植民地人の権利と自由を侵害し、イギリスとの貿易を停止しようとする計画に反対する「宣言と決議」を行いました。\n1775年4月18日、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで、イギリスの正規軍と植民地のミニットマンが戦闘を繰り広げました(レキシントン・コンコードの戦い)。植民地では正規軍をレッドコートと呼び、ミニットマンは、民兵の一員で、いざという時に戦えるように準備していた農民です。アメリカ独立戦争はレキシントン・コンコードの戦いから始まりました。コンコードの農民が銃を隠している事実を知ったイギリスのゲージ将軍は、700人の兵士を送り込み、軍事倉庫を破壊しました。レキシントンでは、反撃しようとした植民地主義者の集団と戦闘になり、植民地主義者のミニットマンがコンコードで捜索から戻ってきたイギリス軍に発砲しました。この時、どちらが先に発砲したかはわかりません。しかし、植民地のニュースは、イギリスが戦いを始めたといち早く報じました。植民地の人々は、イギリス軍が行った残酷な行為と、イギリス軍に反撃した人々の「英雄的な戦い」について詳しく聞きました。そのため、彼らは悲しみと怒りを覚えました。ニュースは、植民地の人脈を通じて広がっていきました。すでに各地に「通信連絡委員会」が設置され、植民地宣伝がより多くの人々に届くようになっていました。1775年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議が開催されました。この会議で大陸軍が結成され、ジョージ・ワシントン(1732年〜1799年)が最高司令官に任命されました。\n当初は、植民地の3分の1程度が独立を望む愛国派(パトリオット)でした。この中には、自営業の農民、中小の商人や実業家、そして一部の大農場主が含まれていました。イギリスを支持する忠誠派(口イヤリスト)や平和を願う中立派は、独立への準備が出来ていない人がほとんどでした。しかし、戦争が進むにつれて、人々の平和への願いは薄れ、独立への思いが高まっていきました。トマス・ペイン(1737年-1809年)は1776年1月に小冊子『コモン・センス』を出版しました。君主制の悪いところを指摘し、共和政の導入と独立をわかりやすく主張した内容です。3ヵ月で12万部も売れ、平和を望む人々から独立を望む人々へと、人々の心を変えていきました。\n1776年7月4日、大陸議会で独立宣言が合意されました。トーマス・ジェファーソン(1743年~1826年)が作成し、他の代表者達が目を通しました。独立宣言の最初の部分では、合衆国が自由でなければならない理由が述べられています。ジョン・ロックの政治理論は、自然権や自然法に大きな影響を与えました。生命、財産、幸福追求の権利や、社会契約説に基づく政府の役割、人民主権、革命権などが挙げられます。本書の中盤では、ジョージ3世の政権運営に関する問題点を20以上挙げています。最後に、植民地はアメリカ合衆国として独立すると言っています。\n独立宣言は、植民地の人々に、イギリスとの和解か独立かの選択を迫りました。また、植民地を新しい国家に変えて、イギリスとの対立を内乱から国際戦争に発展させました。\nイギリスでコルセットを作る女性のもとに生まれ、職を転々とした後、ベンジャミン・フランクリンに言われてアメリカに渡りました。彼の著書『人間の権利』も有名です。\n以上でアメリカ独立革命Ⅰの内容は終わりです。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%85%A0"} {"text": "何万人ものイギリス正規軍が、ジョージ・ワシントンが率いる大陸軍と戦い続けた植民地の兵士達は勇敢でしたが、正式な軍事訓練を受けていませんでした。将校達は上手な指導の仕方を知らなかったので、いくつかの戦いに敗れました。しかし、彼らは失敗から学べるほど賢明でした。\n 1777年のサラトガの戦いで、植民地軍はイギリス軍を見事に打ち破りました。他国からの義勇兵として、フランスの青年貴族ラファイエット、ドイツの軍人フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・スチューベン、ポーランドの愛国者タデウス・コシューシコが、装備は貧弱でも義勇兵に加わっていました。フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・スチューベン男爵は、アメリカ兵のために軍事教練の教則書を書き、実戦で戦った訓練されたプロイセン軍将校でした。\n1706年から1790年まで生きたベンジャミン・フランクリンは、フランスとの同盟を結ぶために大陸会議からフランスに派遣されました。彼はフランス人に大人気でした。彼は非常に人気があっただけでなく、フランス政府も七年戦争に負けたイギリスへの仕返しの機会を狙っていました。戦争への参戦をためらいながらも、秘密裏に植民地へ資金や物資を送り続けました。1778年、フランスとアメリカは和親通商条約を締結しました。これによって、フランスはアメリカの独立を認め、軍事同盟に合意し、イギリスとの戦争に臨みました。そこで、フランスからは陸海軍ともに戦争に参加しました。翌年には、フロリダを取り戻したいスペインも、フランスの友好国イギリスと戦争になりました。1780年、ロシアのエカチェリーナ2世は、ヨーロッパ諸国に武装中立同盟を締結しようと提案しました。これは、イギリス海軍が大陸への援助を妨害していたため、イギリスを世界から切り離すものでした。\n1781年、チャールズ・コーンウォリス率いる7000人のイギリス軍は、ヨークタウンで大陸軍、フランス軍、フランス海軍に包囲され、降伏を迫られてしまいました。国内では、強硬派のトーリー内閣から穏健派のホイッグ内閣に交代し、1782年に暫定的な和平条約が結ばれました。国内では、強硬派のトーリー内閣から穏健派のホイッグ内閣に交代し、1782年に暫定的な和平条約が結ばれました。\n1783年、植民地とアメリカ合衆国はパリ条約に調印しました。これによりアメリカは独立し、植民地にはミシシッピ川以東の13植民地の合計より広い土地が与えられました。\n独立戦争中、各植民地は独自の州憲法を作り、独自の邦(州)政府を設立しました。1788年にアメリカ合衆国憲法が制定される前に、1776年と1780年に成文憲法が作られました。自治権を持つ一部の植民地では、伝統的な憲章を主要な法律として使用していました。各植民地の指導者は異なる権限を持ち、議会も異なる人々で構成されていました。合衆国憲法を作るためには、連邦政府と州政府の権限を明確にする必要がありました。邦は、州ではなく国と呼ばなければなりませんでした。連合規約は、1777年に第2回大陸議会で採択され、1781年に各邦(州)によって批准されました。連合規約では、連合会議で構成されるアメリカ政府に対して、各国は1票の投票権を持っていました。各州の代表で構成される連合会議には、中央政府としての力はあまりなく、税金の直接徴収や州外から軍隊を要請出来ませんでした。その上、その財政は各州各邦の醵金で支えられていました。独立後、対外協定の履行や政府の対外・対内債務の支払いなど、全州に影響を与える問題に対処するため、強力な中央政府の必要性が高まっていました。\n1787年、フィラデルフィアで憲法制定会議が開かれました。その会議では、大国と小国の利害が対立するという争いがありました。後に財務長官となるアレクサンダー・ハミルトンと第4代大統領となったジェームズ・マディソン(1751年~1836年)が会議を仕切っていました。ヴァージニアなどの大国は中央政府の権限を大幅に拡大したいと考えていました。しかし、ニュージャージーなどの小国は中央政府に自分達の権限(州)を奪われたくないと考えていました。\nつまり、アメリカが国として成長するためには、移住者に自治権を与え、地方政府と憲法の制定を支援します。その上で、国を作った州と同じ市民として連邦に加盟させる方法でした。\n1787年に合衆国憲法の草案が公表されました。この草案は、各州の批准会議によって検討されました。1788年6月、ニューハンプシャー州が9番目の州として批准し、発効しました。\n合衆国憲法は、連邦政府(中央政府)と州政府に権限を分割して、連邦制を導入しました。連邦政府には、連合規約よりも大きな中央政府がつくられました。連邦政府には、宣戦布告を含む外交権、対外通商と州際通商の管理、課税、常備軍などが与えられました。連邦政府は、三権分立の考えに基づいていました。大統領は行政府の責任者でした。立法府は、各州から人口に比例して選出された議員からなる下院と、各州から2名の議員からなる上院で構成されました。司法府は、連邦最高裁判所とその下の連邦裁判所からなり、違憲審査権を持ちました。三権は、それぞれ他の2つの部分をチェックする力を持っていました。\n批准の過程では、連邦政府に大きな力を持たせたいアレクサンダー・ハミルトン(1755年~1804年)のような「連邦派」と、中央政府に大きな力を持たせたくないトーマス・ジェファーソンのような「反連邦派」との間で争いがありました。アレクサンダー・ハミルトンは、独立戦争で、ジョージ・ワシントンに次ぐ責任者でした。ワシントン大統領の財務長官を務め、現在の政府を立ち上げました。アレクサンダー・ハミルトンは、政敵アーロン・バーとの戦いで亡くなりました。また、合衆国憲法には基本的人権を保障するものがないため、1791年に10の修正条項が加えられました。\n1789年、合衆国憲法に基づく新政府が誕生しました。初代大統領にジョージ・ワシントンが就任し、新首都にコロンビア特別区を選びました。第2代大統領ジョン・アダムズ(1735年~1826年)は1800年に首都をフィラデルフィアからワシントン特別区に移しました。\nアメリカ独立はアメリカ革命とか、アメリカ独立戦争と呼ばれています。アメリカ独立は、本当の意味での「革命」ではないという人がいます。なぜなら、イギリスの政策に対して植民地が得たものを守るための保守的な行動から始まったからです。しかし、それは単にイギリスに対する戦いではなく、植民地の人々の自由を求める戦いでもありました。独立戦争が進むにつれ、英国に賛同しない人々は迫害され、恐怖に怯えました。イギリスに忠実であろうとする人々は母国やカナダに戻り、財産は取り上げられました。独立革命によって、植民地の大富豪や富裕層が減り、中産階級が政治的、社会的権力を得たのは明らかです。\n「市民革命(ブルジョワ革命)」という言葉は、アメリカ革命、1700年代のイギリス革命、1800年代末のフランス革命を指して使われる場合があります。しかし、この3つの革命では、それぞれ「市民」や「ブルジョワジー」の意味が異なっており、様々な階級の人々が主導しました。それを下記の表にまとめます。\n革命の各段階は、社会がどのように変化していくかを示す革命でした。これらの革命を「市民革命」という言葉で理解するには、「市民」と「ブルジョアジー」をその最も極端な形としてとらえなければなりません。\n13州の植民地には、農奴も領主も貴族も、特別な教会もありませんでした。その代わり、約200万人の白人と50万人近い黒人奴隷がいました。独立当時、先住民であるインディアンはまだ白人人口のごく一部でした。大革命でフランスは奴隷制を廃止しましたが、アメリカは南北戦争まで奴隷制を廃止出来ませんでした。南北戦争後もインディアンは白人と同じ権利を持たず、中には殺された人もいました。平等という考え方に関しては、アメリカ革命よりもフランス革命の方が徹底していました。\nアメリカ独立は、1789年のフランス革命からラテンアメリカ諸国の独立、1848年のヨーロッパ革命、大西洋革命へと続く、長い一連の革命の始まりといえます。アメリカ人の多くはヨーロッパからの植民者、その子供達でした。この事実から、アメリカはヨーロッパの出店のようなものといえます。アメリカ革命とヨーロッパの革命の間には、多くの類似点があります。これらの類似点は、革命の歴史や背景というよりも、その目標、理想、理念の中にあります。\nアメリカ独立戦争で、初めて、自由、平等、自然権、人間の民主的権利といった近代政治・社会の基本思想が政治の場で明確に示されました。アメリカ独立戦争では、「全ての人間は平等に創られ」、「生命、自由、幸福の追求」の権利を持つという内容が明らかにされました。政府の仕事はこれらの権利を守り、政府がその仕事を果たせない状況が明らかになれば、国民はその政府を倒して新しい政府を樹立出来ます。アメリカはこのような考えをヨーロッパ文明の共通の歴史から得ました。ギリシャ・ローマの思想、ジョン・ロックの政治思想、啓蒙主義の思想などが挙げられます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%85%A1"} {"text": "フランス革命から200年以上が経ちました。その間、人々は常にフランス革命について問い続けてきました。フランス革命が政治・社会・思想・人々の意識を変えてきたのは、それが問われ続けてきたからです。歴史に対してどのような問いを立てるかは、時代や問いを立てる人によって異なります。問いかけ自体が、その人がどう感じているのかを示しています。\n何より、革命はそれを生き抜いた人々にとって大きな出来事でした。理想と欲望が交錯し、権力闘争や戦争も多発しました。日常的秩序が失われる可能性もありました。生活への不安もありましたが、未来への希望もありました。恐怖もあれば、強い思いもありました。\nフランス革命はなぜ起きたのでしょうか?それが最初に問いたい内容です。革命の間に起こった多くの事件やエピソードの中から、革命の流れを変えた最も重要なものを選び出し、人々がドラマとして最も興味を持ったものを詳しく解説しています。何が起きたかわからないので、フランス革命についてはいろいろと語られています。\nフランス革命は、アメリカ革命や19世紀のどの革命よりも大きく、徹底した社会変動でした。恐怖政治時代による権力の集中、政府と社会の徹底的な再編成、階級間の闘争の激しさ、富と所得の再分配、富裕階級の無産市民に対する恐怖、他国への衝撃的な影響、反革命と戦争の危機、常に反革命への恐怖、暴力と緊急措置など、フランス革命はこれまでにない社会変化を要求されました。\nしかし、出来事を詳しく話しても、人々が革命をよりよく理解出来るとは限りません。出来事の複雑な森に迷い込み、全体像や何が最も重要なのかを見失いやすくなります。\nフランス革命はなぜ起きたのか?これも非常に重要な問題です。歴史家達は様々な点に着目してきました。\nこれらが革命のきっかけとなり、同時期に起こった出来事で説明されます。革命はおこるべくしておこったのか?民衆の思惑はどのように一致したのか?解釈は多様です。\nフランス革命のせいで何が起こったのか?この問いにもまた、様々な答えがあります。様々な出来事の積み重ねによって、旧体制が倒され、資本主義の発展を助け、ブルジョワジーが権力を握りました。フランス革命は「ブルジョワ革命」だったというのが、ひとつの答え(市民革命)です。\n革命は旧制度を終わらせ、王政をなくし、政治をより近代的にし、自由と平等の考えを広めました。革命後、「権利の宣言」の考え方はより重要なものとなりました。\nブルジョアジーは多くの規則から解放され、経済面でもより多くの自由を与えられるようになりました。しかし、貧富の差は大きくなりました。みんなが同じようにお金を持てるようにするための革命は失敗し、革命は終わりませんでした。みんなが同じ権利を持つことを望んだ人たちは「社会主義」に転向しました。\n一方では、恐怖政治によって戦争が起こり、革命のために多くの人が亡くなりました。これらの死は、革命の目標を実現するために行われたのでしょうか。フランス革命から発展したナポレオン・ボナパルトの支配は、フランスに栄光と不幸のどちらをもたらしたのでしょうか。\n革命から帝国の戦争までの間、領土の獲得や喪失はほとんど見られませんでした。ウィーン会議で、ナポレオン・ボナパルトが拡大したフランスの国境はフランス革命以前のものに変えられました。\n革命時の死者は、第一次世界大戦後のフランスを連想させます。1789年から1799年の間に虐殺や戦争で少なくとも60万人、ナポレオン・ボナパルトの時代にはさらに90万人が亡くなっています。この間、フランス人口の約5%が亡くなっています。1914年から1918年の第一次世界大戦では、フランス人口の3.5%が亡くなっています。フランス革命からナポレオン・ボナパルトの時代までは、戦争が多く、フランスは植民地との貿易や海上での貿易が難しくなりました。そのため、イギリスは7つの海を全て支配し、より多くの海上輸送路を作るチャンスを得ました。経済は赤字なのか黒字なのでしょうか?フランス革命は、フランスの経済成長にどんな影響を与えたのでしょうか?歴史に関する疑問が次から次へと湧いてきます。\nさらに、革命はいつ終わったのか、その結果をどう判断しなければならないのか、王政復古からパリ・コミューンにかけての政変は、革命の遺産なのかなどの疑問があります。また、革命後、フランス国民は実際に幸福になったのか、豊かになったのか、政治・社会秩序は安定したのかという素朴で重要な疑問もあります。\n1794年のテルミドール9世のクーデタで革命を終わらせたのでしょうか?彼は恐怖政治が軌道から外れたのを修正し、革命を再び軌道に戻したのでしょうか。それとも、1799年のブルメール18日のクーデタでナポレオン・ボナパルトが宣言したように、革命の本来の目的は達成されたのでしょうか?ナポレオン・ボナパルトの支配が革命の結果だとすれば、革命の失敗は1814年のナポレオン・ボナパルトの退位、1815年のワーテルローの戦いのどちらだったのでしょうか。王政復古は立憲君主制の確立に失敗し、革命を否定したのでしょうか。もしそうなら、革命は1830年まで、1848年まで続いたのものでしょうか。\n歴史は一通りには説明出来ません。視点が変われば、どんなに説得力のある主張も意味を持たなくなります。時代が変われば、疑問に対する答えも変わります。しかし、疑問を持てば持つほど、歴史は面白くなり、その多面性が見えてきます。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%81%A8%E3%83%8A%E3%83%9D%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E2%85%A3"} {"text": "第一次世界大戦とロシア革命Ⅰでは、第1次世界大戦が発生した原因とその結果、第1次世界大戦間の外交について学びます。\n20世紀初め、ヨーロッパでは列強間の緊張が高まり、大きな戦争が起こるかもしれないと言われていました。それは主にバルカン半島に関する出来事でした。オスマン帝国が崩壊したからこそ、この地域は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるくらいに緊張状態になりました。バルカン半島でヨーロッパ各国の利害が直接ぶつかり合う可能性がますます高まってきました。日露戦争に敗れたロシアがバルカン半島に目を向けると、現地の情勢は予想出来なくなりました。以降、オーストリア・ハンガリー、セルビア、ロシアがこの地域で対立するようになりました。オーストリア・ハンガリーは、パン・スラブ主義が自国のスラヴ系諸民族に影響を及ぼし、分離・独立運動が活発化しないかを心配していました。このため、バルカン半島でセルビアをはじめとするスラヴ系諸国が強まるのを抑えようとしました。また、ドイツは世界政策の中で、中欧からバルカン半島まで支配地域を拡大し、ドイツ国民の連帯を呼びかけるパン・ゲルマン主義が推進されました。1908年夏、オスマン帝国で青年トルコ革命が起こって混乱し始めると、オーストリア・ハンガリーは行政管理権を与えられていたボスニア・ヘルツェゴヴィナを大胆に併合してしまいました。ブルガリアもオスマン帝国から独立しました。南スラヴ系の住民がボスニア・ヘルツェゴヴィナに多く住んでいます。セルビアが編入を希望したのは、南スラヴの味方になりたいからでした。オーストリアに反発したセルビアは、スラヴ世界の味方と考えるロシアに助けを求めようとしました。\n1911年、列強が第二次モロッコ戦争に注目していた頃、イタリアは、トリポリ市民の保護を目的に、イタリア=トルコ戦争を始めました。1912年スイスのローザンヌで行われた講和会議の後、イタリアは北アフリカのトリポリ、キレナイカを支配下に治めました。この戦争に動揺したバルカン諸国は、1912年にセルビア、ブルガリア、モンテネグロ、ギリシアがバルカン同盟を結成してオスマン帝国と戦争しました(第1次バルカン戦争)。オーストリアは、セルビアがロシアの助けを借りてアドリア海に進出する計画に大反対しました。このため、ロシアもオーストリアも国境近くに大軍を築きました。いつ危機が起こってもおかしくありませんでした。しかし、イギリスがロシアに圧力をかけ、ドイツがオーストリアを止めたので、危機は起こりませんでした。\nオスマン帝国は、1913年5月のロンドン条約で、イスタンブール周辺を除くバルカン半島の大部分を手放しました。しかし、今度はオスマン帝国から獲得したマケドニア地方の領有権を巡って、セルビアとブルガリアが争い始めました。ギリシア・モンテネグロ・オスマン帝国・ルーマニアはセルビアに味方しました。第2次バルカン戦争に敗れたブルガリアは、1913年8月に締結された条約で、マケドニアなどの土地を手放しました。この敗戦により、ブルガリアとオスマン帝国はドイツと手を組む可能性が高まりました。\n1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の王位継承者フランツ・フェルディナント皇太子とその妻がサラエボでセルビア人に暗殺されました。ドイツの支援を受けたオーストリアは、セルビアに厳しい最終通告を出して、ほとんど主権を奪ってしまいました。要人暗殺事件が当時のヨーロッパで頻発していたため、外交交渉で危機を解決出来ると考える人も大勢いました。第一次バルカン戦争で、イギリスとドイツは、ロシアとオーストリアを戦争に巻き込まないようにしました。\nしかし、ロシアにとってセルビアを諦めると、大国としての信用を失います。国内で議会の力を取り除き、皇帝権力を維持したニコライ2世にとって、大国の信用を失えば、政権危機にもつながる可能性もありました。ロシアが総動員令を出すと、ドイツは宣戦布告しました。こうして1914年8月1日、第一次世界大戦が始まりました。\nドイツはまず西側に兵力の大半を投入して、ロシアとフランスの両方同時に戦わなくても済むように、パリを速やかに陥落させる計画を立てました(シュリーフェン計画)。つまり、中立国ベルギーへの進軍を意味しました。ベルギーへの侵攻は、イギリスが対ドイツ戦争に参戦する理由となりました。ドイツは1914年9月のマルヌの戦いで敗北すると、パリへの進撃は終わりました。それ以来、西部戦線では塹壕戦が中心となりました。1914年8月、パウル・フォン・ヒンデンブルグ率いるドイツ軍は、東プロイセンのタンネンベルクの戦いでロシア軍を破りました。その後、ドイツ軍はポーランドを含むロシアに入り、そこでロシア軍と戦争しました。しかし、ロシアは広大な国土を持ち、輸送手段も悪いため、戦争の結末がどうなるか見通せなくなっていました。そのため、ドイツはロシアとフランスを同時に相手にしなければならず、最悪の結果になりました。\n極東では、1914年8月23日、日英同盟を理由に日本がドイツと戦争に踏み切りました。日本が極東で戦争に参加したのは、第一次世界大戦をヨーロッパだけの戦争ではなく、「世界」の戦争にするための大きな一歩となりました。1917年4月からアメリカが参戦しました。しかし、戦争の中心地は、ヨーロッパ・カフカス周辺・アフリカ周辺でした。\n当初戦争に参加しないと言っていた国も、後に連合国(イギリス・フランス・ロシア)側か同盟国(ドイツ・オーストリア)側に加わりました。長い間ドイツの友好国だったオスマン帝国は、1914年11月に同盟国側へ加わりました。オーストリアとの土地問題で中立を保っていたイタリアは、1915年5月になると三国同盟を破棄して、連合国側に加わりました。ブルガリアは1915年10月に同盟国に加わりました。スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・スペイン・スイス・オランダは、ヨーロッパ諸国の中で唯一、戦争が終わるまでどちらにも入らなかった主要な国でした。\n第一次世界大戦以前の戦争は、プロイセン・フランス戦争のように僅か数箇月の短期戦でした。前線ではなく後方にいる一般市民の生活は、あまり変わりませんでした。第一次世界大戦が始まった当初も、ほとんどの一般人は数箇月で終わると考えていました。しかし、第一次世界大戦は長期間に渡って繰り広げられ、総力戦となりました。結局、一般人の予想ではなく、各国の軍部指導者内の予想が当たりました。\n戦争が長引いた理由の一つに、産業の高度な発展が挙げられます。1870年代に入って、第二次産業革命が起こりました。石油や電気などの新しい動力源が広まるとともに、重化学工業が発展するようになりました。このような状況の中で、ヨーロッパ各国は産業力を最大限に活用出来たので、戦争の継続が非常にやりやすくなりました。\nまた、国家は、産業を総動員出来るように、国民の生活様式を変えていきました。戦前のヨーロッパは「郷に入っては郷に従え」的な考え方(自由放任主義)でした。しかし、開戦後は政府が経済を規制して、国民生活の様々な領域に関与するようになりました。国営企業だけでなく、民間企業も政府の管理下に置いて、原材料の流通や発注の仕方などを統制しました。政府は労働市場も支配しており、労働義務の導入からも明らかでした。イギリス帝国の海軍によって海上封鎖されたドイツでは、深刻な食糧不足に見舞われました。このため、食料をはじめとする生活必需品の価格と配給が厳しく行われました。当時、このように政府が経済のあらゆる面を管理する状況を国家資本主義や戦争社会主義といいました。このような総動員体制は、1916年8月にパウル・フォン・ヒンデンブルグとエーリヒ・ルーデンドルフが軍部独裁体制を敷いたドイツで上手く機能しました。イギリスでも、1917年12月に軍需相のデビッド・ロイド・ジョージが挙国一致内閣の首相になりました。彼は、動員に関わる5人の閣僚からなる戦時内閣を組織しました。他国でも同じような制度がありました。女性は男性のいない仕事を埋めるために、工場、電信交換手、トラクターの運転手、警官など、より幅広い分野で働けました。\n第一次世界大戦の長期化には、塹壕戦の普及も大きく関係しています。機関銃の登場により、肉弾戦が難しくなりました。そこで西部戦線では、塹壕を掘って何度も往復して戦う作戦が中心でした。多数の兵士が負傷しても、すぐに後方から鉄道やトラックで交代出来るので、塹壕戦も実現出来ました。しかし、東部戦線では、地盤が弱かったため、塹壕戦はそれほど広まりませんでした。\n塹壕戦で前線が動かなくなると、その状況を打ち破るために新しい兵器が作られるようになりました。1915年4月、西部戦線のイープルの戦いで、ドイツ軍は毒ガスを使って遠距離から塹壕を攻撃しました。マスタードガスの通称「イペリット」は、この地名に由来しています。また、塹壕に張り巡らされた有刺鉄線を破るために、装甲戦車が作られました。イギリス軍が初めて使用したのは、1916年6月に始まったソンムの戦いです。1916年2月から12月にかけて、ヴェルダン要塞の包囲戦で70万人のフランス・ドイツ兵が戦死しました。\n大砲の射程距離を長くして、偵察や爆撃のための新兵器として飛行機が登場しました。「空中での戦争」は、第一次世界大戦の目新しさを表し、当時、飛行機は戦争画の素材として人気がありました。また、ドイツはイギリス帝国による海上封鎖に対抗するため、潜水艦を投入しました。\n精神医療も塹壕戦がきっかけで発達しました。塹壕にいた兵士は、近くに砲弾が落ちるととても怖がり、雨が降るとずぶ濡れになります。過酷な環境でストレスを受けた兵士の多くは、手足が動かなくなる「戦場ショック」と呼ばれる症状に見舞われました。このような患者が大勢いたため、精神疾患は個人の特性ではなく、環境によって引き起こされると考えられるようになりました。\n第一次世界大戦によって、人も物も大きく移動しました。故郷を離れ、他国に移住すると、人々の価値観は大きく変化しました。戦場となったポーランドなどを離れなければならなかったポーランド人・ユダヤ人・ウクライナ人・ラトヴィア人などの難民が、ロシア内陸部に流れ込みました。1917年1月現在、ロシア帝国の難民登録者数は490万人でしたが、実際はもっと多い可能性もあります。故郷を追われた人々はナショナリズム(民族主義)を強め、ナショナリズムに基づき他の難民の救済事業が行われるようになりました。これが、ロシア革命後に形成された独立国家の基礎となりました。\n第一次世界大戦中、フランスはアフリカやインドシナの植民地から80〜90万人の兵士を戦地や労働のために送り出しました。植民地の人々は戦争に参加しながら、その様子を確かめる中で、これまで教えられてきたような白人は特別な存在ではなく、殺害出来る存在だと知りました。こうして、戦後、植民地の人々が権利の問題をどのように考えるか、その舞台が整えられました。労働者の確保は、複数の国で行われていました。ヨーロッパ諸国は、中国人労働者を雇って、様々な前線で塹壕を掘るなどの仕事をさせました。\n当初、第一次世界大戦の目標ははっきりしていませんでした。そのため、ドイツがベルギーに侵攻した時やオーストリアがセルビアに圧力をかけた時など、「小民族の防衛」が持ち出される場合もありました。しかし、それは建前に過ぎませんでした。実際は、各国が領土拡張と賠償金目当てでした。「小民族」の自決は、決して真剣に検討されませんでした。各国は、他国が困っている時や戦争で協力してもらうために、自治や独立を空約束しただけです。そうした約束と並行して、勢力圏の分け方を変える秘密外交が水面下で進められていました。イタリアが連合国側で戦ったのは、ロンドン秘密条約でオーストリアの「未回収のイタリア」をイタリアへ渡すとされたからです。1916年5月、イギリス・フランス・ロシアはペトログラードで、オスマン帝国をどう分割するかについて話し合いました。彼らはサイクス・ピコ協定に合意して、パレスチナを国際管理地域としました。アルメニアは約束としてロシアに渡しました。1915年、イギリスもフセイン・マクマホン協定で、オスマン帝国内のアラブ人を味方につけるために、アラブ民族運動指導者と独立国家建設を約束しました。また、11月17日には、イギリスのアーサー・バルフォア外相がパレスチナにユダヤ人居住地を建設するのを認めました(バルフォア宣言)。つまり、イギリスは大国の間で、アラブ人とユダヤ人の双方にパレスチナでの国家建設を約束する取引を行いましたが、実現しませんでした。結局、これがパレスチナ問題の直接の原因となりました。\n秘密外交が批判されたのは、旧世界の中心だったヨーロッパではなく、その外側でした。例えば、1917年3月(ロシア暦2月)に革命ロシアが皇帝政権を倒した時、無併合・無金利・民族自決を基本とした民主的平和を呼びかける声が上がりました。もう1つは、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領による計画です。中立国アメリカは、連合国と経済的に密接な関係を保っていましたが、1915年5月にドイツの潜水艦がイギリスの客船ルシタニア号を沈め、乗っていた多くのアメリカ人が亡くなると、アメリカ国内で反ドイツ感情が高まりました。1917年2月、ドイツは潜水艦を派遣し、中立国を無制限に攻撃するようになりました(無制限潜水艦作戦)。1917年4月、ウッドロウ・ヴィルソンは第一次世界大戦の連合国側に参加しました。\n理想主義者のウッドロウ・ウィルソンは、第一次世界大戦の参戦は、戦争を終わらせ、誰にとっても公平な平和を実現しなければならないと考えていました。1918年1月に発表された十四箇条の平和原則は、彼の考えを明確に表していました。秘密外交をやめて、国際的な平和組織をつくり、植民地問題を公平に解決しようと考えました。実際、十四箇条の中には、「民族自決」という言葉は使われていません。ポーランドの独立は支持しましたが、オーストリア・ハンガリー帝国やオスマン帝国の支配下で暮らす人々の「自治」の可能性を語っただけでした。しかし、アメリカを反帝国主義だと思った世界中の植民地や中国などの従属的地域の人々は、十四箇条を非植民地支配と判断したので歓迎しました。\n十四箇条によって最も影響を受けたのはオーストリア=ハンガリー側でした。チェコ人やスロヴァキア人などの非ドイツ系民族は、当初は帝国内での自治を望んでいました。しかし、十四箇条は、より強く独立を求める姿勢を見せるように働きかけました。なぜなら、ウィーン政府がドイツへの依存度を高めるとともに、勝っても負けても、このままだと戦後のドイツが力をつけてしまうと思われたからです。\n1917年11月、ソヴィエト=ロシア(ロシア革命政府)が成立しました。1918年3月、同盟国側は、ソヴィエト・ロシアとの間で、ブレスト=リトフスク講和条約を結んで、東部戦線での戦闘を終わらせました。しかし、東部戦線の兵力を西部戦線に移しても、ドイツは物資不足のため、戦争に勝てませんでした。連合国はアメリカの支援を受けて、8月18日に西部戦線でドイツ軍に猛攻撃を加えました。9月にブルガリア、10月にオスマン帝国が敗北すると、10月末にはオーストリア・ハンガリーも解体されました。ドイツ軍はもはや勝てそうにないので、議会指導者に権力を与えて、アメリカ大統領と休戦交渉を始めました。しかし、大きな戦闘を経験しなかった海軍の首脳陣は、最終的に出動命令を出しました。11月3日、キール軍港で、以前から待遇に不満を持っていた水兵が立ち上がりました。すぐに平和を求めた水兵の反乱は、全国に広がる革命運動へと発展していきました。11月10日、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、同国の君主達はその座を明け渡しました。1918年11月11日、新共和国政府と連合国は、コンビ工-ヌの森で第一次世界大戦を終わらせるための休戦協定に調印しました。\n第一次世界大戦前のヨーロッパは文明の頂点に立ち、そこに住む人々はそれを誇りにしていました。軍事力や経済力だけでなく、政治体制や文化の面でも、ヨーロッパは文明の最先端を行っていると、世界中から思われていました。しかし、4年半もかかった第一次世界大戦は、この考えを完全に破壊してしまいました。戦争の残酷さに耐えられなくなったように見えたヨーロッパ人同士が武器を取り合い、残虐な殺し合いをするようになりました。戦争が終わる頃、文明の頂点という美しいイメージは完全に崩れてしまいました。\n軍事的にも経済的にも、ヨーロッパは戦場となって疲弊しており、それは敗戦国、勝利国のどちらにも当てはまりました。イギリスは相変わらず世界政治で最も重要な国なので、イギリスとフランスは帝国の支配を維持しました。しかし、すでに述べたように、植民地の人々は自らの体験から、ヨーロッパ人が自分達と同じような人間だと知りました。そのため、彼らは自分達の力で独立しようという決意を固めました。\nヨーロッパの地位が低下すると同時期に、国際政治で新しい勢力が重要視されるようになりました。まず、アメリカは債務国から債権国に切り替わり、国土は無傷で力をつけていきます。ソヴィエト=ロシアも戦争、革命、内戦で経済が衰えましたが、資本主義、帝国主義を強く批判する国として生まれ変わりました。日本もアジア太平洋地域で勢力を伸ばし、世界の中で唯一白人でない強国となりました。総じて第一次世界大戦は、ヨーロッパー極支配から多極化支配へと世界を変えました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%85%A0"} {"text": "第一次世界大戦とロシア革命Ⅱでは、第一次世界大戦中のロシア内部の動向について学びます。\n第一次世界大戦が始まると、ボルシェヴィキとメンシェヴィキを除くロシア国会議員が、戦争に勝つために政府とともに行動しました。戦争の前半では、ロシアはタンネンベルクの戦いで敗れました。1915年の春から夏にかけて、ロシアはガリシアとポーランドでも大敗したため、挙国一致体制が大きく揺らいでしまいました。1916年夏、労働運動が再び盛んになると、中央アジアの諸民族が動員への抗議のために立ち上がりました。鉄道などの交通網の整備も不十分で、食糧や燃料を都市部に運べず、ロシア帝国北西端の首都ペトログラードではさらに状況が悪化していました。革命は、自然発生的な大衆運動から始まりました。1917年3月8日、国際婦人デーに、ペトログラードの女性労働者が「パンをよこせ」というデモを始めました。これが全市的なゼネストに発展して、人々は専制政治の廃止と平和を訴えました。これに兵士が加わり、各地で労働者ソビエト、兵士ソビエトが結成されました。ソビエトの動向に危機感を抱いた国会は、自由主義諸党派を中心とした臨時政府を発足させて、皇帝ニコライ2世を追い出しました(二月革命)。臨時政府によって、ロシアは自由な共和国となりました。多数派を占めていたメンシェジキと労兵ソビエトの協力で、政治犯の釈放、言論、集会、結社の自由が認められ、身分、宗教、民族制限もなくなりました。しかし、臨時政府は、帝国主義ではなく、連合国側に就いて第一次世界大戦に勝ちたいと考えていました。一方、労働者や兵士の支持を受けた社会主義者は、ペトログラードなどにソビエト(評議会)を組織しました。この評議会は、工場や部隊の代表として派遣された労働者や兵士で成り立っていました。1905年の革命でも、ソビエトは独自に組織されました。5月になると、社会主義者と自由主義者が集まって、本格的な連立政権をつくりました。その目標は、民主的改革と戦争継続でした。\nしかし、同時に両立は出来ませんでした。仕事が嫌になった労働者は工場経営に関わり、土地を持たなかった農民は土地の買収を争い、戦意喪失に巻き込まれた兵士は大量に戦線離脱していきました。民衆の怒りに最初に反応したのは、社会主義者の急進的集団ボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党)でした。4月にスイスから帰国した指導者ウラジーミル・レーニンは、臨時政府の崩壊と社会主義政権の樹立を求める四月テーゼを発表しました。また、ウラジーミル・レーニンは、「ソビエトに全権を」というスローガンのもと、各地にソビエトを基礎とした人民階級が支配する「ソビエト共和国」の建設を目指しました。ウラジーミル・レーニンは、世界大戦が資本主義の滅亡を示し、ロシアで社会主義革命が起これば、ヨーロッパの先進国の労働者が参加する世界革命が起こると考えていました。\n7月初め、ボルシェヴィキの蜂起は失敗して、ボルシェヴィキの政党は一時的に鎮圧されました。臨時政府は、社会主義革命党のアレクサンドル・ケレンスキーを首相に就任させて、圧政を一層強化しようとしました。しかし、8月末、最高司令官ラーヴル・コルニーロフは、アレクサンドル・ケレンスキーと口論して挙兵しました。その結果、これを無くす過程で、ボルシェヴィキの勢力が再拡大しました。11月7日(ロシア暦10月25日)、ウラジーミル・レーニンやレフ・トロツキーが指導する兵士と労働者が臨時政府を武力で倒し、政権を握りました。11月8日、11月9日の全ロシア=ソビエト会議では、ウラジーミル・レーニンが執筆した「労働者、兵士、農民諸君へ」「平和に関する布告」「土地に関する布告」を採択しました。全ロシア=ソビエト会議は、ボルシェヴィキのほか、社会革命党左派が多数を占めました。「平和に関する布告」は、無併合、無償金、民族自決の原則に基づき、すぐにでも平和を実現するように求めました。また、秘密条約の公表を約束しました。「土地に関する布告」では、地主の土地は金を払わずに奪ってよい、などと書いてありました。このようにして、ソビエト政権は、二月革命以来、国民が解決しようとしてきた平和と土地の問題に対して、解決の糸口を見せました。これが十月革命(十一月革命)です。\nウラジーミル・レーニンは、ヨーロッパで革命が起きると思っていましたが、結局起きませんでした。しかし、ボリシェヴィキは支配権を譲りませんでした。何とかヨーロッパ革命まで政権を維持しようというのが、当時のソビエト政権の計画でした。1918年1月、憲法制定議会が召集されました。当初、臨時政府は二月革命の際に開催する約束をしていました。選挙では、住民の大多数を占める農民が、他のどの政党よりもエスエルに投票しました。憲法制定議会は十月革命に納得しなかったので、ボリシェヴィキは武力で解散させなければなりませんでした。1918年3月、連合国同士がブレスト=リトフスク条約を結び、ソビエト政権は第一次世界大戦から少し遅れながら、勝てなくなったので離脱しました。その代償は、ウクライナを含む多くの領土と多額の賠償金でした。首都もより安全な内陸部のモスクワに移されました。ロシア社会民主労働党(ボリシェヴィキ)は、ヨーロッパの社会民主主義とは違うという意味を込めて、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)と改称しました。当初、ソビエト政府はボリシェヴィキだけが主導権を握っていました。1917年12月、左翼のエスエル派と連立政権が成立しました。一方、左派のエスエルは、ドイツに対する革命戦争を呼びかけ、ブレスト・リトフスク条約に反対していました。1918年3月、エスエルは連立を離脱しました。1918年7月、左派のエスエルがドイツ大使を殺害して、モスクワで反乱を起こしました。これは、ソビエト政権を倒すためではなく、共産党をドイツとの革命戦争に巻き込むためでした。しかし、この反乱は共産党に鎮圧されました。\n1918年春、チェコスロヴァキア軍団の反乱によって、共産党と十月革命を支持しない勢力の間で内戦が始まりました。軍団は最初、オーストリア帝国を離れた兵士で結成されました。彼らはシベリア鉄道でウラジオストクに向かい、西部戦線に向かうはずでした。しかし、彼らはウラル山脈の麓でソビエト当局と戦い、5月に軍団から離れました。チェコスロヴァキア軍団を救うという建前で、日本を含む連合国はロシアに出向き、干渉戦争を始めました。\n共産党は、大きな軍事陣営のような中央集権的体制を整えて、内戦と介入戦争を戦い抜きました。左翼エスエルの反乱を鎮圧する前に、エスエルとメンシェヴィキの両方がソビエトから追い出されました。そうして、内戦中に共産党が国を支配して、一党独裁体制にしました。これは、単に共産党が政権を運営する体制ではありませんでした。党組織が国家機構や社会団体の中心になり、その思想が政府や社会の全てを支配するという、全く独自の体制でした。共産党中央委員会の指示で、反市場経済統制が行われ、チェーカー(非常委員会)が政治的異論や反革命活動を厳しく取り締まり、レフ・トロツキーは赤軍を発足させました。\n1919年春、世界革命を目指す国際共産党組織コミンテルン(第3インターナショナル)が発足しました。同時期、ハンガリーでは共産党のクン・ベーラが政権を握りますが、わずか半年で崩壊しました。1920年、ポーランドがソビエトロシアに侵攻しました。共産党は反撃しましたが、赤軍がワルシャワを占領しようとしたため、失敗に終わりました。\nウラジーミル・レーニンは、1920年代にソビエトロシアで作られた社会主義体制を「戦時共産主義」と名付けました。それは、戦時中のドイツ経済の運営方法から色々学びました。また、1920年代後半からヨシフ・スターリンが作り上げた社会主義体制の第一歩でもありました。統制された権威主義的な体制をとりながらも、民衆層から多くの人材が集められました。こうした総力戦体制が、社会の平準化や民主化のために機能した一つの方法でした。\n1920年の終わり頃までに、共産主義者側がロシア内戦に勝利します。連合国による介入は、国内での抗議行動により中断されました。しかし、共産党は経済支配を緩めませんでした。反対に、市場原理を完全になくすような政策を強化しました。\nその結果、民衆は反乱を起こして、農村で騒動を起こすようになりました。1921年の春、モスクワやペトログラードでも反政府デモが起こり、水兵反乱が軍港クロンシュタットで起こりました。ウラジーミル・レーニンはクロンシュタット蜂起を厳しく抑えました。しかし、第10回共産党大会で、市場原理を部分的に復活させる方針を決定しました。これが新経済政策(NEP)の始まりです。NEPのもとで、市場原理は少しずつ復活して、ネップマンと呼ばれる富裕層も育ちました。\n内戦中、共産党は旧ロシア帝国の各地に出来た民族政権を崩壊させました。しかし、占領した地域をソビエト・ロシアに吸収合併をせずに、理論上、独自の国家を再び作り上げました。これは、共産党が無意味に地方のナショナリズムを煽りたくないからでした。1922年12月、ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースの各ソビエト共和国は、ソビエト=ロシアと同盟を結びました。これが、ソビエト社会主義共和国連邦の始まりです。各国は主権国家として考えられていました。しかし、モスクワの共産党中央委員会が実際に全てを仕切っていました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%A8%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%85%A1"} {"text": "ヴェルサイユ体制下の欧米諸国Ⅰでは、第一次世界大戦の戦後処理について学習します。\n1919年1月に連合国代表(英,仏,米,日,伊)によってパリ講和会議が開かれた。しかし、この講和会議にはドイツなど敗戦国は参加できず、また、ソヴィエトは招かれなかった。\nさてパリ講和会議では、アメリカ大統領ウィルソンの提唱した十四か条の平和原則が、会議の基礎とされた。(しかし、英仏などの戦勝国が自国の植民地の権益を主張したため、国際連盟の設立以外には、あまり成果はなかった。)\nなお、十四か条の平和原則 の主な内容は・・・、\nなどである。\nそして6月にドイツ代表の参加する滞独講和条約であるヴェルサイユ条約が調印され、ドイツはすべての植民地を失い、アルザス・ロレーヌをフランスに返還し、軍備の制限、ラインラントの非武装化、巨額の賠償金などをドイツは課せられた。\nまた、ドイツと同盟を結んでいたオーストリア・ハンガリー・ブルガリア・オスマン帝国などの同盟国も、それぞれ別個に連合国と講和の条約を結び、旧同盟国の諸国は領土を縮小させられたりするなどの結果になった。\nドイツが世界各地に持っていた植民地は放棄させられた。(なお、イギリスなどの戦勝国は、べつに植民地を放棄していないので、植民地の解放運動の思想とは、無関係の要求である。)\nさて、国際連盟の設立が、パリ講和会議およびヴェルサイユ条約で決定した。国際連盟は、全会一致による総会を最高機関とした。(現在の「国際連合」とは違い、常任理事国は最高機関ではない。なお、常任理事国は国際連盟の時代から存在する。国際連盟当初の常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本である。アメリカは参加していない。) \nそして設立した国際連盟には集団安全保障の理念が盛り込まれた。(※ 読者は中学時代に『中学校社会 公民/国際連合・他の国際組織』で集団安全保障とは何かを習っている。)\nアメリカ合衆国では、この集団安全保障の原則が、国家の開戦権を侵害するものだと考え、アメリカ議会上院がヴェルサイユ条約の調印に反対したので、アメリカ合衆国はヴェルサイユ条約を批准しなかった。\nまた、アメリカ合衆国は、国際連盟には加盟しなかった。\nドイツは当初、国際連盟への加盟が認められなかったが、1926年にドイツの加盟が認められ、1926年にドイツは加盟した。\nアメリカ大統領:ハーディング(任:1921~1923)の提唱によって、1921年11月にワシントン会議(Washington Conference [1])が開かれた。\n参加国は先の大戦の戦勝国である9カ国(米・英・日・仏・伊・中・蘭・ベルギー・ポルトガル)である。この会議の主な目的はウィルソンの『十四か条の平和原則』にも挙げられている軍備縮小であり、1922年に行われた海軍軍縮条約では、米・英・日・仏・伊の5カ国の主力艦保有比率が決められた。\nここでの目的として、日本への牽制があった。戦勝国になった後、山東省の権益と南洋群島を獲得した日本は国際的にも脅威となりつつあった。1921年に行われた四カ国条約では、日英同盟が破棄され、また九カ国条約では石井・ランシング協定が破棄された。この流れに不満を覚えた日本はファシズム勢力に傾き、後の第二次世界大戦へと繋がっていく。\n戦後のドイツ(ヴァイマル共和国)は、経済が没落してしまい、賠償金の支払いが遅れてしまった。するとフランスは1923年にルール工業地帯を占領したが、しかし他の戦勝国から批判され、フランスのルール占領は失敗した。\nこのとき、ドイツ経済では激しいインフレがおこり、ますますドイツ経済が混乱した。しかしシュトレーゼマン内閣が通貨改革を行ったため、このインフレは収束していった。\n戦勝国は、ドイツの賠償金の支払い年額の減額や、アメリカからのドイツへの投資をさだめたドーズ案をアメリカの主導で行った。このドーズ案により、賠償金の支払い方法を緩和し、ドイツ経済の回復を早めた。さらに1929年には、賠償額の総額を減額したヤング案が決まった。\n1925年のロカルノ会議ではドイツも集団安全保障体制への参加が認められたので、それまでの諸会議で取り決めされていた様々な条項(ドイツ西部の国境不可侵と現状維持、ラインラントの非武装化、など)をドイツに再確認させ、ドイツは条約を批准した(ロカルノ条約)。\nまた、1926年にはドイツの国際連盟への加盟が認められた。\n1928年には、侵略目的の戦争を違法化するケロッグ・ブリアン条約(「不戦条約」ともいう)が列強各国に批准された。日本もケロッグ・ブリアン条約に調印した。(※ 参考文献: 帝国書院の教科書)\nなお「ケロッグ」とはアメリカ国務長官をしていた人物の名前。「ブリアン」とはフランスの外相の名前。\nさて、ワシントン会議では、各国の主力艦の保有比率の限度が定められたが、しかし補助艦(主力艦以外の、巡洋艦・駆逐艦などのこと)の保有比率は未定だった。\n1930年のロンドン会議では、補助艦の保有量の限度規定がさだめられ、米英日が10:10:7の比率までしか補助艦を保有できないことが定められた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E4%BD%93%E5%88%B6%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E8%AB%B8%E5%9B%BD%E2%85%A0"} {"text": "本章では、世界恐慌~朝鮮戦争までの範囲を学びます。\n1929年、ニューヨークのウォール街で起きた株式市場の大暴落は、世界恐慌を引き起こし、資本主義諸国を大いに苦しめ、国際協調体制を崩壊させました。アメリカは広大な国土を活かしてニューディール政策を進め、イギリスとフランスはブロック経済体制で危機を乗り越えようとしました。一方、ドイツ・イタリア・日本などの後進資本主義国は、大衆を強力に支配する全体主義体制をとり、植民地の再編成を軍事力で解決しようとしました。このため、ヨーロッパでは反ファシズムの抵抗運動が広がり、アジア諸国では独立と自由のための戦いが始まりました。世界は再び緊張に包まれ、1939年、第二次世界大戦が始まりました。第二次世界大戦は連合国がファシズム諸国に勝って終わりました。しかし、ユダヤ人の虐殺、南京虐殺、原爆投下などで、大勢の人が亡くなりました。\n第二次世界大戦後、連合国が中心となって国際連合をつくり、国際通貨基金(International Monetary Fund:IMF)など国際経済・金融協力体制を整えました。以降、各国が協力して平和に暮らせるようになりました。しかし、「冷戦」が発生すると、世界はアメリカとソ連を中心とした二手に分かれました。両者の対立は次第に深まっていきました。人民民主主義国家は、ソ連の勢力圏にあった東ヨーロッパの社会主義国家群から生まれました。アメリカは、マーシャル・プランで西ヨーロッパ諸国の経済を支援しました。その上で、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization)を通じて軍事的な結びつきを強め、「封じ込め政策」をとりました。東西ヨーロッパ間の最も大きな問題は、ベルリン問題でした。しかし、東西ドイツが分かれると、状況は安定するとともに、冷戦の焦点はアジアに移っていきました。すでに、アジアではベトナム独立同盟とフランスとのインドシナ戦争、中国での内戦開始、朝鮮半島の南北分断など、東西対立が起きていました。このうち、朝鮮戦争は最初の直接戦争となりました。朝鮮戦争は、両陣営に軍事ブロックの結成を急がせました。アメリカは中央条約機構(Central Treaty Organization)、東南アジア条約機構(Southeast Asia Treaty Organization)などの反共軍事同盟を作り、ソ連はワルシャワ条約機構(Warsaw Treaty Organization)を作りました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%A8%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A7%A9%E5%BA%8F%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90_%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%88"} {"text": "世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅰでは、世界恐慌・ニューディールとブロック経済について詳しく学びます。\n当時、アメリカは経済成長の時代でしたが、それでも不安材料は数多くありました。第一次世界大戦中の欧州特需で、アメリカ製の農産物も工業製品も飛ぶように売れました。しかし、第一次世界大戦が終わって、ヨーロッパの産業が立ち直ると、アメリカは農産物を海外に送るのを中止しました。1920年代後半になると、ヨーロッパの工業生産は第一次世界大戦前の水準に戻り、ヨーロッパはもはやアメリカ製品に頼らなくても済むようになりました。また、アメリカを含む各国の保護関税政策で、輸出が伸び悩みました。ところが、アメリカ企業は前向きな姿勢を崩さず、生産を続けたため、工業製品の在庫が増加しました。\n工場で働いても労働者の給料は上がらず、人手不足は組み立てラインなどで解消されました。景気後退が明らかなのに、株価は上がり続けました。「株を買えば儲かる!」という投資家達の考え方が投機意欲を高め、実体経済と株価がかけ離れた状況になってしまいました。ついに、1929年10月24日木曜日「今の株価は実体経済に対して高すぎる!」と、投資家達が一斉に株を売って、ウォール街の株価は一気に下がりました。以降、世界恐慌が始まりました。[1]\n株式市場の大幅な落ち込みは、不況をさらに悪化させて、工業生産も急速に縮小しました。1932年になると、工業生産は世界恐慌前の半分程度に縮小しました。自動車産業は、1932年後半に生産が最低になり、1929年前半の7分の1にまで落ち込みました。1920年代の好景気から立ち遅れた農業は、世界恐慌で大きな痛手を負いました。野菜や果物の価格は3年間で40%以下に下がり、倒産した農家の土地はしばしば競売にかけられ、暴動が起きた地域もありました。1930年、世界恐慌は金融恐慌に発展しました。大手銀行の閉鎖や企業の倒産が相次ぎ、預金者はお金を手に入れるために各地の銀行へ押しかけました。同時に、民間銀行に不安を抱く国民は、安全な郵便貯金に資金を移すようになりました。郵便貯金は、1931年からの2年間で3.4倍に増えました。\n企業の閉鎖や倒産・営業時間の短縮などで、失業者や給料減額を迫られる労働者が増えました。1932年末のアメリカは、労働人口の4分の1に当たる約1300万人が失業しました。\nアメリカ市場の重要性とアメリカ資本が世界経済の安定を支えていたため、恐慌の影響はすぐに世界中に広がりました。1932年までに、世界貿易は3分の1以下にまで落ち込みました。アメリカの資本がドイツ経済を助けていたため、ドイツは特に大きな影響を受けました。1931年、オーストリア最大の銀行クレディット=アンジュタルトが破産すると、金融危機はドイツを中心に中央ヨーロッパ諸国にも広まりました。\n1931年6月、アメリカのハーバート・フーヴァー大統領は、賠償金と戦時国債の支払いを1年間停止する宣言(フーヴァー=モラトリアム)を出しました。フーヴァー=モラトリアムを出しても、恐慌の拡大を食い止められなかったので、1931年9月、イギリスも金本位制離脱を決定しました。1932年の6月から7月にかけて、関係国がローザンヌに集まり、賠償金の支払いについて話し合いました。ローザンヌ会議では、賠償金の大部分を免除する合意が成立しましたが、世界恐慌を食い止められず、ドイツの国内政治も安定しませんでした。\n恐慌に立ち向かうために、各国が緊縮財政と物価の引き下げなど、従来通りの政策で対応しました。公務員の人員や給与の削減・新規事業の停止・福祉政策の大幅削減などを行って、各国が危機を乗り切り、経済が自力で回復するのを待ちました。しかし、これが消費意欲をさらに低下させ、恐慌を深刻化・長期化させる原因になりました。また、金本位制からの離脱や保護関税の導入など、国際経済から切り離して自国の経済基盤を守るための政策も広く取り入れられました。ドル・ポンド・フランといった国際的に通用する通貨を持ち、植民地や大きな経済圏を持つような経済基盤の強い国は、自国の経済圏を閉鎖しました。その結果、経済基盤の弱い国はますます苦しくなりました。1933年、アメリカが金本位制を廃止すると、フランスやスイスなど一部の国だけが金本位制を守りました。フランスとスイスの間では、外貨や金を必要としない物々交換が行われ、バーター貿易の発展に繋がりました。\n1933年6月、イギリスのロンドンで65カ国が集まり、ローザンヌ会議後の世界経済会議(通貨や経済に関する国際会議)が開催されました。アメリカやナチスドイツは話し合いに応じなかったので、世界経済会議の話し合いは進みませんでした。それ以降、自国の利益を最優先する一国主義の風潮が強まりました。\n1932年のアメリカ大統領選挙で、民主党のフランクリン・ルーズベルトは、現職のハーバート・フーヴァー共和党大統領に対抗して出馬しました。ハーバート・フーヴァーは、街に大量の失業者が出ていても、長い目で見ると経済は良くなると考えていました。社会保障を充実させるために連邦支出を増やしませんでした。その代わり、1932年2月に復興金融公社を立ち上げ、低利の融資を受けられるようにしました。一方、フランクリン・ルーズベルトは、民主党のホープでした。ウッドロウ・ウィルソン政権で海軍次官補を務め、1920年の選挙では民主党から副大統領に立候補しましたが、子供の頃に身体麻痺を起こし、一時政界から離れなければなりませんでした。1928年、入院生活から退院しました。その後すぐにニューヨーク州知事に当選しました。また、世界恐慌に対して、ニューヨーク州の福祉政策の充実を図りました。このような実績が評価されて、1932年の大統領選挙に当選しました。\n1933年3月、フランクリン・ルーズベルトが大統領に就任すると、緊急銀行法を制定して、銀行の連鎖的倒産を防ぐために、銀行に一時閉鎖を指示しました。また、復興金融公社を通じて銀行の株式を買い取り、銀行の再建を図りました。また、ホワイトハウスからのラジオ番組「炉辺談話」で、経済復興への協力を呼びかけました。さらに、恐慌対策としてニューディール(新規まき直し)と呼ばれる一連の計画を速やかに提案しました。以下、ニューディール(新規まき直し)の具体例を紹介します。\n1933年5月に成立した農業調整法は、農家に補助金を出して、食料の生産量を減らし、物価が下がらないようにしました。また、政府と産業界の協力を受けて、産業部門別の生産調整を行い、物価を上げようとしたのが全国産業復興法です。全国産業復興法は、企業間の公正な競争を促すために行われました。全国産業復興法では、労働者の団結権や団体交渉権を認め、最低賃金を設定するなど、労働者の権利を守る部分も含まれていました。失業者の救済と失業率の低下を目指して、政府は新規事業を計画しました。例えば、若者に対しては、資源保護活動の仕事に就職させました。さらに、公共事業局が学校や道路の建設を推進したり、テネシー川流域開発公社が設立したりされ、大規模な地域開発が行われるようになりました。テネシー川流域開発公社では、ダム建設による発電とダム近隣農村の活性化を図りました。\n上記の復興政策を計画するため、「ブレーン=トラスト」を集めました。「ブレーン=トラスト」では各学者や各専門家から成り立ちました。政府がそのような各利益団体の仲介役となっても、当初の経済復興効果は僅かでした。1933年6月のロンドン世界経済会議で、フランクリン・ルーズベルト政権は国際金本位制の再建協力を断りました。金の裏付けがなくても通貨を作れる管理通貨制度の方が、恐慌に取りやすいと考えたからです。その結果、1930年代に入ると、世界経済はますます複雑になり、それぞれのグループが頻繁に争いました。つまり、ニューディール政策とは、世界経済の立て直しよりも、アメリカ経済の回復を優先させる政策でした。1934年6月に互恵貿易協定法を成立させ、協定国間の関税を引き下げる予定でした。しかし、協定締結国の大半はドル=ブロックの形成に貢献したラテンアメリカ諸国でした。\nしかし、フランクリン・ルーズベルト政権がいち早く恐慌対策に動いたにもかかわらず、その効果は薄く、1934年の春になっても約1000万人の失業者がいました。そのため、富の再分配などを求める社会運動が盛んになり、1935年になると、連邦最高裁判所が全国産業復興法の一部を違憲とする判決を出しました。このような判決を受けて、フランクリン・ルーズベルト政権は改革姿勢を強め、1935年にワグナー法(全国労働関係法)を成立させました。ワグナー法(全国労働関係法)は、「全米産業復興法」にある労働者の団結権、団体交渉権を認め、経営者の組合活動に対する不当労働行為を禁止しました。これが労働運動を活性化させ、労働組合の発展をもたらしました。1935年、熟練労働者を中心に活動していたアメリカ労働総同盟は、産業別労働者組織委員会を立ち上げました。これによって、鉄鋼業や自動車産業での基盤を拡大しました。景気回復の効果はあまり期待出来ないにしても、ファシズム諸国から民主主義を守るために、政府が社会保障法を成立させ、貧困層に幸福をもたらすのは大きな意味を持ちました。産業別組織委員会に加盟していた労働組合がアメリカ労働総同盟指導部から追い出されたので、産業組織委員会は産業別組織会議を結成しました。\n国民はニューディール政策を気に入り、1936年の選挙でフランクリン・ルーズベルトが記録的大勝利を収めました。しかし、1930年代後半に再び不況が深刻化すると、第二次世界大戦が始まるまで景気は完全に回復しませんでした。\n外交面では、1933年にソビエト連邦を承認しました。その後、アメリカはハイチへの占領をやめ、キューバはアメリカからプラット修正条項を取り上げられました。1936年になると、パナマ運河地帯をパナマが単独で所有するようになりました。1934年、高率の保護関税を引き下げ、善隣外交によって、ラテンアメリカ諸国を内政に関与させず、武力行使もせずにドル経済圏に組み込む方針を決定しました。このように、それまでの強引な政策からの転換は、貿易を拡大するために行われました。また、10年間の独立準備期間を経て、フィリピンを独立させる法案を作成しました。また、周辺のファシズム諸国が攻めてきた時も、中立を選択しました。1935年以降、議会は中立法を制定して、戦争をしている国に武器や軍需品を売ったり、融資をしたりする行為を違法としました。しかし、1939年にヨーロッパで戦争が始まると、大規模な軍備増強に乗り出しました。1941年には武器貸与法を制定して、イギリスを含む連合国側の支援を強めていきました。\nこの軍事生産の拡大は、アメリカ経済を数字上でも急成長させただけではありません。航空機・石油化学・原子力・コンピュータなどのハイテク分野での技術進歩にもつながりました。こうして、第二次世界大戦後、アメリカが世界の主要国として活躍するための経済的基盤が整いました。\nアメリカ経済と密接な関係にあるラテンアメリカ諸国では、世界恐慌の影響は非常に深刻でした。社会不安は大きく、独裁政権が誕生した国もありました。ポピュリズム色の強い大胆な政策を実行した政権もありました。ポピュリズムとは、国民の伝統や感情に直接訴え、政治を変え、政策を実現しようとする思想や運動の名称です。第二次世界大戦後、アルゼンチンの大統領になったファン・ペロンは、ラテンアメリカでポピュリズム運動を行った最も重要な政治家でした。例えば、メキシコのラサロ・カルデナス大統領は、土地を持っていない農民に農地を与えたり、労働組合を支援したり、他国が所有していた石油会社を買収したりといった活動を行いました。ブラジルのジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領は、軍事クーデタによって政権を握りました。工業化を進めるとともに、労働者の生活改善にも取り組みました。\nスウェーデンをはじめとする北欧諸国も、世界恐慌で経済が苦しくなりました。特に人口の多くを占める農民の状況は悪く、政治的な不満が高まっていました。しかし、1930年代後半になると、社会民主党や労働党は、自国が恐慌から脱却するための対策を取るようになりました。その中には、公共事業や農民の支援、農産物の輸出を増やすための工夫などが含まれていました。また、これらの政府は労働者の社会保障を充実させ、福祉政策によって誰もが同じだけのお金を得られるようにしようとしました。第二次世界大戦後、1930年代から言われていた政策がようやく実行に移され、北欧諸国にも広がりました。そのおかげで、20世紀初頭には西ヨーロッパの遅れをとっていた北欧諸国が、20世紀後半には世界で最も豊かな場所の一つになりました。\nイギリスでは、1929年の世界恐慌の影響で、1931年には280万人が失業しました。増え続ける失業保険の赤字に対応するため、第2次ラムゼイ・マクドナルド労働党内閣は、失業保険額や公務員給与の削減などの緊縮財政策を提案しました。しかし、政権を握っていた労働党に反対され、ラムゼイ・マクドナルドを追い出しました。そこで、保守党と自由党の協力によって、ラムゼイ・マクドナルドは挙国一致内閣をつくり、下院を解散して総選挙を行い、圧倒的な大差で勝利しました。そして、ラムゼイ・マクドナルドは、金本位制を廃止して、緊縮財政を敷き、保護関税を導入しました。1932年、カナダのオタワでイギリス連邦経済会議(オタワ会議)が開かれました。イギリス連邦内で作られた商品には無税・低関税をかけ、イギリス連邦外で作られた商品には高関税をかける特恵関税制度が作られるようになりました。また、イギリスと経済的に関係の深い国々は、ポンドを決済通貨とするスターリング=ブロック(ポンド=ブロック)を結成しました。そのため、世界経済の崩壊が早まりました。\n世界恐慌の時、政治家の関心は、恐慌をいかに食い止めるかといった国内問題に集中しました。第一次世界大戦後は、戦争に行かせないようにしようという平和論、反戦論も強まりました。1935年の選挙に勝ち、ラムゼイ・マクドナルドの後を継いだ保守党のスタンリー・ボールドウィンと1937年に就任したネヴィル・チェンバレンがともに首相を務めていました。日本・ドイツ・イタリアのファシズム諸国は、譲歩して事態を悪化させないようにする宥和政策をとりました。その結果、ヴェルサイユ体制が破壊され、これらの国による武力攻撃へとつながっていきました。一方、ファシズム諸国の行動に備えておく必要があるという意見もあり、1930年代後半になると、より強力な兵器を手に入れるようになりました。\n1920年代、フランスは金を大量に蓄えていたため、財政的に恵まれていました。そのため、恐慌の影響がフランスに及んだのは、他国が恐慌に見舞われた約2年後でした。また、フランスでは農業がまだ最も重要な産業であったため、他の先進国に比べて失業率が低く抑えられていました。世界恐慌に対するフランスの対応は、1933年にベルギーやオランダなど、まだ金本位制を採用していた国々と金ブロック(フラン=ブロック)を結成しました。また、フランスはデフレ政策として関税の引き上げや支出削減を行いましたが、これらはあまり効果がなく、経済の回復を遅らせました。\nこの間、政権交代や不祥事が相次ぎ、人々は政治に疑問を抱くようになりました。1934年2月、パリでは右翼団体がコンコルド広場で政府に対するデモ行進を行いました。この出来事は、ナチス・ドイツなどのファシズム国家の台頭や国際連盟の力不足への不安とともに、左派がファシズムに対する危機感を抱くようになりました。1934年7月、社会党と共産党は統一行動協定に合意しました。後に社会党・急進社会党・共産党の反ファシズム知識人がこれに加わり、人民連合(人民戦線)綱領となりました。1936年の総選挙では、人民戦線が大差で勝利して、レオン・ブルム人民戦線政府が成立しました。\n選挙に勝利した後、デフレ政策に不満を強めた労働者は、労働条件の改善を求めて大規模なストライキを行いました。これを受けて、レオン・ブルム政権は週40時間労働や有給休暇の増加などの改革を行って、政府による経済統制を強化しました(レオン・ブルムの実験)。この間、フランスとソ連は1935年に仏ソ相互援助条約を締結しました。この間、レオン・ブルム政権もフランス以外の危機に備え、軍備を増強しました。しかし、政府はスペイン内戦に関与しない方針を固めました。フランの切り下げなどに反対したため、人民戦線はさらに分裂して、1937年6月にレオン・ブルム内閣は総辞職しました。\nそのため、フラン・ブロックやドル・ブロックのようなブロック経済が形成され、その間の競争が激しくなりました。主要国は、自国を中心にこうした排他的経済圏を作りました。そのため、世界の様々な地域間の自由貿易を止め、政治的な対立を引き起こしました。ドイツが東南アジアにつくった経済圏、日本が東アジアにつくった円ブロックによって、国家間の経済的緊張はさらにひどくなりました。第二次世界大戦は、このような緊張関係から始まっていきました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E2%85%A0"} {"text": "世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱでは、満州事変~日中戦争までを学びましょう。この節もかなり出題されます。\n第一次世界大戦がもたらした大戦景気で、日本の輸出は急速に伸びました。その結果、債務国から債権国に急転換して、特に重化学工業が発展する基礎を築きました。しかし、戦後、日本は再び輸入超過になり、戦後恐慌を招きました。1923年の関東大震災で日本は立ち直る機会を失い、1927年には大規模な金融恐慌に見舞われました。1930年、政府は金本位制に復帰するための条件として、金の輸出を解禁する方針を決めました。しかし、これが輸出をさらに難しくしたため、日本は深刻な農業不況を伴う昭和恐慌に陥りました。\n1925年、25歳以上のあらゆる男性が投票出来るようになりました(普通選挙法)。当時、立憲政友会・憲政会の二大政党内閣が交互に登場する政治(憲政の常道)でした。そのため、労働運動を始めとする様々な社会運動が盛んになりました。しかし、政府は不況に上手く対応する対策を思いつかず、社会不安が広がりました。ロンドン海軍兵器制限条約などで軍部や右翼勢力が危機感を強めると、政党政治を批判して、直接行動やテロで問題を解決しようとしました。1930年に一部の青年将校が政権を取ろうとした後、1931年2月に右翼が前大蔵大臣らを殺害しました。また、海軍将校が犬養毅首相を殺害しました(五・一五事件)。さらに、1936年2月、クーデタが発生しました。部下の陸軍青年将校が首相官邸などを襲って大蔵大臣などを殺害しました(二・二六事件)。このような事件以降、軍部の政治的影響力が拡大しました。\n日本政府の対中国政策が行き詰まり、陸軍は総力戦体制を整えるため、大陸での支配を拡大しようとしました。彼らは「満蒙」は日本の生命線と国民に訴えていました。1928年、満州の軍閥である張作霖を爆殺しました。しかし、張作霖の後継者張学良が満州を国民党政府に譲ったので、関東軍の計画は失敗に終わりました。1931年9月、関東軍は「満蒙問題」解決のために、奉天(現瀋陽)近郊の柳条湖で満鉄線路を爆破する計画を立てました(柳条湖事件)。これは関東軍に東北軍に対する軍事行動を開始するきっかけとなり、関東軍はこれを口実に東北地方の主要都市を占拠しました(満州事変)。軍部は世界の注目を浴びないために、1932年、上海で中国軍と戦争を始めました(第1次上海事変)。その間、関東軍はさらに領土を広げ、1932年3月、清朝最後の皇帝溥儀が満州国の執政(後の皇帝)に就任しました。\n蒋介石が共産党の掃討を進めていたため、東北軍を率いる張学良は、日本の侵略に対して不抵抗主義をとっていました。そして、国際社会に訴える方法をとりました。国際連盟はこれに応えて、リットン調査団を派遣しました。リットン調査団は、日本の軍事行動は自衛権の行使ではなく、満州国は日本の傀儡国家とする報告書を作成しました。国際連盟臨時総会は、1933年2月にこの報告書を可決しました。1933年3月、日本は国際連盟に対して脱退を表明しました。\n1933年、日本軍は「熱河は満州国領の一部だから、長城線を国境とする」と言って占領しました。国民党政府も事実上これに同意しました(日中軍事停戦協定)。また、1935年、日本は万里の長城線を越えて、隣接する華北地方を支配下に置くために、華北分離工作を開始しました。1935年末、中国軍は河北省東部から撤退して非武装地域となり、日本の傀儡政権として冀東防共自治委員会が設置されました。日本が北京や天津を軍事攻撃したため、中国国民の危機意識はさらに高まりました。\n中国国民党政府は、1929年に成立されました。ナショナリズムを利用して列強と二国間交渉を進めながら、不平等条約の解消に取り組みました。関税自主権を取り戻した後は、国内産業を保護しながら、確実に税金を取れるようにするために関税を引き上げました。同時に、統税(統一貨物税)を設定した上、塩税も変更されたため、中央政府の財政は改善されました。経済面では、経済関連法や経済規則の制定を進めるとともに、化学工業や民間の軽工業の支援、道路や鉄道などのインフラ整備も行いました。\n満州事変当時、国民党政府は、共産党の追い出しを含む国民統合を最優先していました。そして、共産党の本拠地を次々と奪っていきました。共産党軍はこれに対応出来ず、1934年10月に瑞金から撤退を始めました。これが長征の始まりです。国民党軍の追撃を受けながら、共産党軍は内陸部へと進みました。そして、陝西省北部にたどり着き、本拠地を設けます。こうして、毛沢東の権力は徐々に強化されていきました。\n世界恐慌が発生すると、中国は大不況になりました。中国の主要通貨(銀)が国外に流出したからです。1935年1月、政府は政府系銀行が発行する紙幣(法幣)を唯一の統一通貨とする管理通貨体制に切り替えました。アメリカやイギリスの支援を受けて、この紙幣は受け入れられ、国家政府支配地域に広まりました。貨幣の統一と法幣の安定化が進むにつれて、中国経済は上向きになっていきました。一方、日本は満州国を日本経済に取り込み、華北に物資を密輸するなどして、この幣制改革の邪魔をしました。これは国民政府の関税政策に打撃を与えたため、中国と日本の対立はより深刻になりました。\n中国では、経済侵略を含む日本の侵略に対して、反日運動が盛んになりました。しかし、国民政府は反日運動を鎮圧したため、国民の反発を招きました。一方、コミンテルンは統一戦線結成の方針を示しました。1935年8月、共産党は抗日民族統一戦線結成を呼びかける八・一宣言を出しました。しかし、国民政府は共産党攻撃を優先するため、張学良率いる東北軍を陝西省に送り込みました。ところが、故郷を日本軍に奪われた東北軍の兵士達は、共産党への攻撃を嫌がりました。1936年12月、西安にいた張学良は、共産党攻撃を呼びかけた蒋介石を捕まえて、内戦中止と反日を強く求めました(西安事件)。蒋介石はこの要求を受け入れて、解放されました。その結果、中国は、日本に対して全面的な対抗手段を取ろうと動き出しました。第2次国共合作は、日中戦争になってようやく実現しました。\n日本が華北を切り崩そうとする中、1937年7月7日、北平(現在の北京)郊外の盧溝橋で誤発砲事件をきっかけに、日本軍と中国軍が争う盧溝橋事件が起こりました。この地域では停戦協定が結ばれ、日本政府は不拡大方針をとりました。しかし、日本の陸軍はこれをきっかけとして、華北に勢力圏をつくるために、軍を増やし始めました。蒋介石はこれ以上譲歩出来ないので、中央政府軍を北に送りました。両軍は華北で戦い、日本軍は北平と天津を占領しました。8月から上海でも戦争が始まり、中国軍は突撃しました。日本軍も兵士の増員を決定したため、戦火は華中にも広がりました。さらに華北でも戦闘が再開され、日本と中国は全面戦争に入りました(日中戦争)。日本軍は中国軍がすぐに降伏すると思っていましたが、中国軍は反撃し続けました。特に、ドイツで訓練され、装備された中央政府軍が拠点としていた上海付近での戦闘は、日本軍も驚くほどの苦戦を強いられました。上海を攻略するのに10月までかかりました。その後、日本軍は急速に前進して、12月には南京を占領しました。しかし、上海での残酷な戦闘で精神が破壊され、規律が乱れたため、多くの民間人や捕虜が犠牲になりました(南京事件)。\nドイツは南京を占領した後、和平交渉を進めようとしましたが、日本側の要求が大きくなり、失敗に終わりました。1938年1月、近衛文麿首相は「国民政府を相手にして話をするつもりはない。」と述べて、和平交渉の可能性に終止符を打ちました。1938年10月、日本は武漢や広州など沿岸部や長江沿いの主要都市を占領しました。中国側は武漢、そして重慶に政府を移して日本との戦いを続け、日中戦争は長期戦になりました。1938年11月、近衛文麿首相が東亜新秩序声明を発表しました。日本が提案する東亜新秩序に国民党は外せないとして、国民党を利用して自分の要求を通そうとしました。1938年12月、汪兆銘(国民党の中心人物)の重慶脱出を手助けしました。1940年3月、南京に汪兆銘政権を設立して、日本軍占領地を統治させました。しかし、汪兆銘の傀儡政権は中国国民の支持を得られず、日本側の仕掛けも上手く機能しなくなりました。国民政府に対する経済封鎖が強まると、イギリス、アメリカなどが反対してきました。これが日中戦争の国際化につながり、日本とアメリカの対立、そして太平洋戦争へと発展していきました。\n国民政府支配地域は、「大後方」と呼ばれていました。日本軍の侵攻が困難な内陸部でした。その結果、経済が低迷して、工業もほとんど発展しませんでした。そこで、国家政府はアメリカ、イギリス、ソ連からの援助や融資を受け入れ、いち早く国防関連の産業を推進していきました。しかし、重工業の拠点が少ないため、軍需物資が足りず、ソ連、イギリス領ビルマ、フランス領インドシナへの援助ルートの整備を進めました。また、経済の中心地や主要貿易港を失ったため、国民政府も国家収入の大半を失い、農業税に頼るようになりました。しかし、強制的な徴兵制や農民の収入もわからないまま不平等に税金を取っていたため、農民の不満も大きくなっていきました。また、都市の市民もインフレで国民政府の信頼を失いかけていました。\n日中戦争で、共産党は日本軍が占領していた華北・華中の農村地域に進出すると、領土を拡大しました。しかし、1940年の日本軍の攻撃、1941年の国民党政府による封鎖などで状況は悪くなりました。そこで共産党は、思想統制を強化しながら、毛沢東を中心とした体制をより強固にしていきました。また、農村の小作料や金利を引き下げて地主や農民の利害調整を進め、その地域の支持を得ました。日本が太平洋戦線に軍隊を送ると、共産党は華北で拠点を増やしました。戦争中、共産党の軍隊は10倍以上に増え、戦争に大きな影響を与えました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E2%85%A1"} {"text": "ドイツのナチス政権がどのように設立され、どのような政策をとったのかを本節で学習しましょう。\nドイツは、世界恐慌の影響をすぐに受けました。1930年までに300万人以上が失業して、1931年には工業生産が3分の2に落ち込みました。1930年3月、ヘルマン・ミュラーの連立内閣は、拡大する失業保険の赤字を誰が負担しなければならないかについて、労働者と会社側の意見が対立して崩壊しました。その後を引き継いだハインリヒ・ブリューニング内閣は、少数派内閣を組閣しました。彼は、議会で多数派になろうともしませんでした。その代わり、保守派や軍部、保守派のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と協力しました。ハインリッヒ・ブリューニング内閣は、デフレと増税で世界恐慌に対抗しようとしましたが、議会は反対しました。そこで、ハインリッヒ・ブリューニング内閣は国会を解散に追い込んで、新たな選挙を求めました。9月の選挙前までは小政党だったアドルフ・ヒトラーの国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が、いきなり100議席以上を獲得して国会で第2党になりました。同時に、共産党の勢力も拡大しました。ナチ党の歴史的な正式名称は「ナチス党」ですが、かつては同党の政敵が侮辱するために使っていた名称です。ナチや複数形のナチスは、ナチ党員やナチ党と関係のある組織(親衛隊や突撃隊など)の構成員を意味します。国会の過半数にのぼる人々が、共和制は嫌だ、議会制民主主義から抜けたいと言った時点で、国会は機能しなくなりました。共和制を支持する社会民主党は、ハインリッヒ・ブリューニングの内閣に賛成しました。その理由は、その後に来るナチスのような存在よりはましだと考えたからです(「より小さな悪」理論)。その後、「大統領制内閣」と呼ばれる内閣が成立して、政府は必要な法律を大統領緊急令として成立させて、国会はこれを否決しませんでした。大統領緊急令は署名されるとすぐに国会に送られなければならず、国会が同意しなければ効力を失いました。\nアドルフ・ヒトラーは、オーストリアの税関職員の息子でした。当初は芸術家を目指していましたが、ウィーンの美術学校に合格出来ませんでした。アドルフ・ヒトラーは軍隊から逃げ出して、ドイツのバイエルン州の州都ミュンヘンに移住しました。第一次世界大戦が始まると、彼はバイエルン軍に入り、西部戦線で戦争のほとんどを過ごしました。第一次世界大戦後、ミュンヘンに戻って、軍の情報活動を手伝いました。早くから演説が上手と注目され、定職がない分、党活動に専念出来たため、党首に選ばれるようになりました。アドルフ・ヒトラー一揆が失敗した後、アドルフ・ヒトラーは裁判にかけられました。裁判官のほとんどが反共産主義者だったので、判決は甘く、彼は獄中で多くの自由を与えられ、そこで最も有名な著書『わが闘争』を執筆しました。彼の人種差別から生まれる反ユダヤ主義、ロシアの征服は矛盾しませんが、時代や場所によって使い分けをしていました。1920年代後半、党内では、アドルフ・ヒトラーがいかにカリスマ的な存在か気づいていました。レーム事件以降、国民はアドルフ・ヒトラー大統領に期待し、愛するようになりました。\nハインリッヒ・ブリューニングは、グスタフ・シュトレーゼマンよりも積極的に修正主義外交を行おうとしました。彼はオーストリアとの関税同盟を提案しつつ、フランスやポーランドとの関係を悪化させました。その上で、ドイツが破綻している事実を明らかにして、賠償金を免れるために、過激なデフレ政策を開始しました。この政策が不況をさらに悪化させ、1932年には600万人近い失業者が出て、国内の状況はさらに悪化しました。左翼と右翼の政治団体は、特に選挙の時期にはいつも街頭で争って、多くの死者を出す内戦に発展しました。ハインリッヒ・ブリューニングの外交政策は、賠償金の支払いを始め、ヴェルサイユ条約の負担のほとんどを解消する成果をあげました。しかし、その成果は彼の失脚後にもたらされ、こうした状況下では、ドイツ国民の政治路線に何の影響も与えませんでした。\n1932年の大統領選挙でアドルフ・ヒトラーは敗れましたが、彼は多くの期待を集め、パウル・フォン・ヒンデンブルクの最も有名な対抗馬となりました。1932年の夏までに、ナチス党は国民議会を含むほとんどの州議会で第一党になりました。ハインリッヒ・ブリューニングを追い出したパウル・フォン・ヒンデンブルクは、大統領独裁体制をより強力にしようと、より右派のフランツ・フォン・パーペン、そして軍部のクルト・フォン・シュライヒャー将軍を内閣に就任させました。伝統的保守派は、ナチスが大衆運動のように組織され、街頭暴力を使い、「社会主義」だと言うので、ナチスは良くないとまだ思っていました。一方、フランツ・フォン・パーペン内閣やクルト・フォン・シュライヒャー内閣は、国民からの支持が得られませんでした。このため、国民を味方につけるためにナチス党と協力する必要がありました。1933年1月、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領はアドルフ・ヒトラーを首相に指名すると、ナチ党・保守派連立内閣を発足させました。\nナチスの閣僚が少数派になっても、アドルフ・ヒトラーは保守派の反対を押し切って、すぐに国会を解散して総選挙を実施しました。選挙戦の間、ナチ党は初めてラジオを使って政治演説しました。同時に、反対派の選挙運動を妨げるために出来る限り手を尽くしました。1933年2月末、選挙戦の最中にオランダの共産主義者が国会議事堂放火事件を起こしました。国会議事堂放火事件は、ナチスにとってあまりにも都合がよく、当時も「単独行動ではない」「ナチスの陰謀だ」という説が流れましたが、真相はまだ分かりません。ナチスは国会議事堂放事件をドイツ共産党の犯行と受け取り、憲法の基本的権利を停止する緊急令を出しました。また、ドイツ共産党員を含む反対派を多数逮捕しました。当時行われた裁判で共産党関係者が無罪になったのも、彼らが関与していない証拠です。しかし、選挙の結果、ナチスの単独過半数獲得にはつながらず、ナチス党と保守派がやっと過半数を握る程度の票数になりました。国会をまとめると、アドルフ・ヒトラーは全権委任法を成立させて、国会の立法権を政府側に譲りました。その後、ナチスは国民革命と称して、各州や自治体を支配するとともに、他の政党を解党させて、ナチス党の一党独裁体制を敷きました。また、ナチスは既存の労働組合を解体させて、ナチスの組織の一部としました。さらに、様々な社会組織や団体をナチスの組織として合併・再編し、報道機関などのメディアを新しく作られた宣伝省に運営を任せました。また、突撃隊や親衛隊は、暴力やテロを利用して、より大胆に反対意見を抑えました。社会主義者や民主主義者などの反対派を強制収容所に送り、ユダヤ人商店の不買運動を始めました。秘密警察(ゲシュタポ)は、反体制派の動きを見張り続けました。アドルフ・ヒトラー政権が誕生すると、共和派の政治家・ユダヤ人・社会主義者・民主主義者・自由主義作家などが大勢ドイツを離れていきました。その中には、物理学者のアルベルト・アインシュタイン、作家のトーマス・マン、前首相のハインリヒ・ブリューニングもいました。\nナチ党は、第一次世界大戦後の1919年にミュンヘンに集まった反ユダヤ主義者の小集団から始まりました。この団体は、1920年に国家社会主義ドイツ労働者党と名称を変えました。当時、ドイツには右翼や反ユダヤ主義の団体が多く、ナチ党はある地域の小さな集団に過ぎませんでした。1921年、アドルフ・ヒトラーが党首になったのは、人々を興奮させる方法を知っていたからです。アドルフ・ヒトラーは1923年の秋にクーデター(一揆)を起こそうとしましたが、失敗に終わりました。このようになったきっかけは、イタリアのファシズム運動などがあったからです。その後、アドルフ・ヒトラーは全権委任法を利用して、選挙によってより大きな権力を手に入れようとしました。しかし、党の組織網を全国に拡大した以外は、あまり大きな成果を上げられませんでした。1920年代後半、議会政治が機能しなくなり、不況が深刻化します。そこで、ナチ党は、現状維持の完全否定、若さ、アドルフ・ヒトラーを強い指導者として見せる新しい大衆宣伝方式を取り入れました。その結果、現状に不満を持つ農民や都市の中間層から注目と期待を集めるようになりました。しかし、ナチ党には、現状を変えて民族共同体を作りたいだけでした。したがって、ナチ党は、明確な計画も持っていなかったので、その政党に投票する人はいつも変わっていました。\nナチスは、州の自治を廃止して、連邦制に基づく中央集権的な政治体制に切り替えました。以降、突撃隊指導者のエルンスト・レームが反逆を計画するようになりました。1934年6月、多くの突撃隊指導者やクルト・フォン・シュライヒャー元首相など保守派有力者とともに親衛隊に暗殺されました(エルンスト・レーム事件)。エルンスト・レーム事件では、ナチスに反対する急進派や保守派が殺害されました。その結果、アドルフ・ヒムラー指揮下の親衛隊が力をつけていきました。現在、エルンスト・レームらの反逆事件は自作自演と考えられています。1934年にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が亡くなると、アドルフ・ヒトラーもその権力を引き継ぎ、独裁者となりました。ナチスはすぐに自分の国を支配するようになりましたが、他国と同じように武器を持つ権利がありませんでした。その結果、1933年10月に国際連盟を脱退した以外、特に目立った行動をしていません。\nナチスが最初に取り組んだのは、不況対策と失業率の削減でした。アウトバーン建設などの公共事業を支援したり、軍備を増強したり、失業中の若者を労働奉仕組織で働かせたりして、失業率を下げようとしました。アウトバーンとは、ドイツ語で「車のための道路」という意味です。ワイマール共和国時代には、すでに建設計画が立てられ、その中の一部はすでに建設されていました。アドルフ・ヒトラーは、これを最高傑作だと言って話題にしました。1935年以降、その効果が現れ始めました。1936年、ドイツは、ゴム・石油・繊維などの重要戦略物資の自給自足を目指した「四ヵ年計画」を実施しました。四ヵ年計画とは、外国から持ち込まなければならない天然ゴム・石油・繊維を、ドイツが大量に作っている石炭を原料とした合成ゴム・合成石油・合成繊維に置き換える計画です。その結果、経済はさらに活性化され、1937年までにドイツ国内の失業者はほぼいなくなりました。このような合成技術はかなり早くから知られていましたが、天然物に比べて高価なので、生産しませんでした。アウタルキー計画は、成功した例もありました。外国がまだ世界恐慌の影響を受けている中、ドイツはいち早く経済を回復させました。軍拡が主な理由でしたが、そのおかげでナチス政権は世界から良い印象を持たれるようになりました。\n国民共同体の建設というスローガンの中で、ナチスは国民の娯楽も考えました。例えば、イタリアに似たような娯楽団体を設立したり、ラジオを普及させたりしました。また、福祉・社会事業(貧困者救済事業や結婚資金の貸付制度など)を充実させ、1936年のベルリンオリンピックを利用して、国民の自己意識を高めました。こうして、1936年から1937年にかけて、多くの国民がナチス政権に賛成したり、支持したりするようになりました。\n国内体制の整備が整うと、アドルフ・ヒトラーはヴェルサイユ体制の破壊に乗り出しました。1935年初め、ザール地方では、最終的にどこに帰属するのかを決めるための住民投票が行われました。この住民投票は以前から計画されており、圧倒的多数でザール地方はドイツに帰属しました。この成功を受けて、アドルフ・ヒトラーは1935年3月、「徴兵制を復活させて、軍隊を再武装化しましょう。」と言い出しました。そこで、1935年4月、イタリア北部のストレーザで、イギリス・フランス・イタリアの3カ国首脳会談が行われました。イギリス・フランス・イタリアは、ドイツに立ち向かい、ロカルノ体制を維持する方針を決定しました(ストレーザ戦線)。その頃、イギリスとドイツは、海軍の問題について話し合っていました。その結果、1935年6月に英独海軍協定の締結につながりました。英独海軍協定では、ドイツはイギリス海軍の水上艦艇の35%までを持ち、潜水艦はイギリスと同じ数だけ持っても構わないと定められていました。イギリスがドイツの再軍備を英独海軍協定で認めると、ストレーザ戦線は崩壊しました。\nこれを受けて、1935年5月、フランスとソ連は仏ソ相互援助条約を結んで、ドイツに備えることになった。1936年3月に条約が成立すると、アドルフ・ヒトラーは「もうドイツはロカルノ条約に従わなくても構いません。」と言い出した。そして、非武装地帯となっていたラインラント地方に軍隊を入れました。イギリス・フランス・国際連盟は、抗議声明を出すだけで、何も動きませんでした。ヴェルサイユ体制とロカルノの体制は、ほとんど崩壊してしまいました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E2%85%A2"} {"text": "ファシズム国家の攻撃で、世界の政治がどのように変わったのでしょうか。世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅳでは、世界恐慌後のロシアの動きとイタリア・スペインの動きを中心に見ていきます。\n世界恐慌の影響は、イタリアでも農業分野から始まり、貿易分野にまで広がりました。これを受けて、産業復興公社の設立[金融分野]、労使協同体の設立[産業分野]などを行って、政府統制を強めました。失業者を減らすために週40時間労働制もこの時に導入されました。しかし、景気は中々回復しませんでした。このため、海外に植民地を増やして停滞を破りつつ、植民地戦争で各国をファシズム体制に取り込む計画が立てられました。この時、エチオピアは、最初の標的になっていました。その理由を説明します。19世紀末、エチオピアはアドワの戦いで、占領しようとするイタリア軍を倒しました。その結果、イタリアは植民地帝国を築けなくなったからエチオピアが最初に狙われました。また、もし、エチオピアを占領すれば、イタリアのソマリアやエリトリアにも近く、資源も多く手に入れられると考えたからです。\n1934年末、ワルワール事件(イタリア領ソマリアとエチオピアの国境を巡る争い)が発生し、ベニート・ムッソリーニは軍隊を集めるきっかけを作りました。一方、エチオピアはこの事件を連盟に持ち込んで解決を求めました。イギリスもフランスも地中海の情勢が緊張するのを気にしており、イタリアがアフリカの植民地を占領しても大丈夫そうだったので、イタリアに様々な歩み寄り方法を持ちかけて和解を試みました。しかし、イタリアは、1935年9月、和解案を断り、エチオピアに侵攻しました。1935年10月、国際連盟はイタリアに経済制裁を加える方針を決めました。満州事変の時と違って、集団安全保障の原則に基づきます。1935年11月、最初の制裁が行われました。武器やアルミニウム、ゴム、鉄などの戦略物資はイタリアに送れなくなりました。イタリアは、外国から信用を失ったので、石油を除くイタリア製品は持ち込めなくなりました。侵攻開始後も、イギリスとフランスはイタリアとの全面的な衝突を避けました。1935年12月、イギリスのサミュエル・ホーア外相とフランスのピエール・ラヴァル首相兼外相がホーア・ラヴァル案をまとめ、イタリアへの領土割譲とエチオピアの間接支配を事実上認めました。この案が発表されると、イギリス・フランスの国民だけでなく、世界中の人々から「イタリアに有利すぎる」と激しい批判を受けました。サミュエル・ホーアとピエール・ラヴァルは共に辞職して、この提案は白紙に戻されました。しかし、この出来事はファシズム国家の対外侵略を防ぐために、イギリスもフランスも宥和政策をとる計画を持っていると証明しました。1936年5月、イタリアは首都アジスアベバを含むエチオピア全土を占領しました。1936年7月、国際連盟は経済制裁を撤廃しました。その結果、国際連盟の評価は大きく低下しました。その後、国際問題は国際連盟に代わって、大国間の話し合いで解決する方式が採用されるようになりました。国家間問題は、関係者が直接話し合って解決するようになり、自国の利益を優先させる傾向が強まりました。このような傾向は、1936年10月、ベルギーがフランスとの同盟を解消して中立的な立場に逆戻りしたのも、その証拠といえます。\n制裁がそれほど強くなくても、イタリア経済にある程度の影響を与えました。その結果、イタリアは制裁対象外のドイツと経済関係を深め、ドイツに依存するようになりました。ベニート・ムッソリーニは、それまでオーストリアの保護者として、ドイツの影響力を拡大させないようにしてきました。ところが、すでにオーストリアはドイツの勢力圏に入っていたので、方針を変更してドイツと手を組むようになりました。1936年11月、ベニート・ムッソリーニは、「ベルリン=ローマ枢軸は、ヨーロッパの中心的国際関係」と語りました。\nスペインでは、1930年、ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の独裁政権が倒されました。1931年、国王は退位して、スペインはマヌエル・アサーニャ首相を中心とする共和制となりました。その後、左翼と右翼の政治的な争いも増えました。1936年、人民戦線を組織する社会党と共産党が総選挙で勝利すると、人民戦線政府が誕生しました。まだ大きな勢力を持っていた軍部・保守派・カトリック教会は、人民戦線政府が成立した後、より危機感を強めました。こうした中、1936年7月、フランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こしました。この反乱は、スペインを二つに分ける内戦に発展しました。イギリスとフランスは関わらない方針だったので、スペイン政府側を助けませんでした。一方、ドイツやイタリアはフランシスコ・フランコを積極的に支援しました。フランシスコ・フランコはドイツとイタリアに協力を求め、ドイツは武器などの軍需品と志願兵のふりをした正規軍を派遣すると約束しました。結局、地中海を支配したいイタリアは、7万人程の義勇軍を送り込みました。一方、政府側では、欧米の社会主義者や知識人、ドイツ・イタリア=ファシズム諸国からの亡命者が国際義勇軍を結成して、政府に協力するために駆けつけました。その結果、内戦は国際対立の代理戦争となりました。アメリカのアーネスト・ヘミングウェイ、イギリスのジョージ・オーウェル、フランスのアンドレ・マルローはいずれも内戦に参加しながら、内戦について書きました。日本では、アーネスト・ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』、ジョージ・オーウェルの『カタルーニャ賛歌』などが有名です。イギリスとフランスは、紛争をスペイン国内だけで終わらせるために、人民戦線政府側とフランシスコ・フランコ側双方への武器の輸出を禁止しました。また、内戦不干渉を訴える国際機関、不干渉委員会を設立しました。ドイツとイタリアは不干渉委員会に参加しましたが、両国はまだフランコ・フランコを表立って支持していたので、委員会の行動は政府側を苦しめました。結局、ソ連は政府側を援助しましたが、1939年に反乱軍が首都マドリードを占拠したので、フランシスコ・フランコは内戦に勝利しました。ファシズム勢力と人民戦線勢力が内戦を繰り広げ、全世界の注目を浴びました。結局、人民戦線勢力が敗れ、フランシスコ・フランコが独裁者になりました。お隣のポルトガルでは、1932年からアントニオ・サラザール首相を中心とした独裁政権が続いていました。第二次世界大戦中、フランシスコ・フランコが支配したスペインと、アントニオ・サラザールが支配したポルトガルは、どちら側にもつきませんでした。\n1936年、日本とドイツは、国際社会で活躍するソ連と人民戦線を推し進めるコミンテルンの勢力拡大を心配して、日独防共協定を締結しました。1937年にはイタリアも加わり、三国防共協定に発展しました。枢軸国は、自国を「持たない国」と呼ぶ3つの国から成り立っていました。枢軸国はソ連と戦うために作られた国ですが、同時にイギリス、アメリカ、フランスといった「持つ国」とも戦っていました。イタリアは、1937年12月、それまでの日本やドイツと同じように国際連盟を脱退しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%A8%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A6%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E2%85%A3"} {"text": "冷戦によって、東西の関係はどう変わりましたか?\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E5%86%B7%E6%88%A6%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B"} {"text": "1960〜80年代から、韓国・台湾・シンガポール・マレーシアが工業的に発展してきて、これら4か国はNIES(新興工業経済地域、ニーズ)と呼ばれた。\n日本では50〜60年代に高度経済成長と呼ばれる急激な経済発展をとげたが、NIESでは10〜20年ほど遅れて工業化した。\nこうして、アジアが発展してきたぶん、欧米からは雇用が流出しはじめた。イギリスが慢性的な不況におちいって「イギリス病」と言われるようになった時期も、この頃(1960年以降?)の時代である。\nなお韓国では1963年に軍人の朴正煕(パク チョンヒ)がクーデタを起こして独裁的政権をにぎっており、79年まで政権は続いたので(79年にパクチョンヒは暗殺される)、その情勢下で経済発展したことになる。\n日本と韓国の国交回復(1965年)は、パクチョンヒ政権下での出来事である。国交回復の際、韓国が対日賠償請求権を放棄するかわりに、日本は韓国に経済投資を協力することになった。このようにして、韓国に日本などの外資が投資をしていった。\n79年にパクチョンヒは暗殺され、80年に光州(こうしゅう)で民主化運動が起きるが弾圧され(光州事件)、その後も数年ほど独裁政権が続いたが、88年に韓国政府は民主化宣言を行った。また、88年にはソウルオリンピックが開催され、国際的な知名度を高めた。\nそして、91年に韓国は北朝鮮とともに国連に加盟した。\n台湾は、1949年以来、国民党の独裁政権が80年代ごろまで続いたが、アメリカの圧力もあり、87年に戒厳令が解除され、88年に国民党の李登輝が総統に就任して民主化を推進し、2000年までの長期政権を築いた。2000年の選挙では、民進党の陳水扁に平和に政権交代した。\n中国では89年に北京の天安門広場で学生などによる民主化運動が起きたが、政府はこれを弾圧した(天安門事件)。\n60〜80年代の韓国や台湾が、独裁政権下であったにもかかわらず経済発展が急速だったことから、当時は「開発独裁」などと言われた。しかし2000年代に入ったころからは、独裁的な中国も発展したし、独裁的なロシアはいまいち経済発展しないし、民主主義のインドも経済発展いてきた。\nなお、インドネシアでは1965年に軍部のスハルトがクーデタを起こして政権をにぎり、以降、独裁政権が1996年まで続いた。\nフィリピンではマルコスが1965年から独裁をすすめ、20年ほどの長期の独裁をしたが、1986年にフィリピンは民主化。\n中国経済は81年ごろから市場開放的な経済改革(人民公社の解体、生産請負性、など)をしていたが、天安門事件にともない、西側諸国は一時的に経済制裁をしたが、以降も中国は市場開放政策をすすめた。(中国政府は1992年ごろからに「改革・開放」とか「社会主義市場経済」などと言ってたが、べつに90年代から中国が市場開放が始まったわけではない。すでに80年代から中国は市場開放を進めている。)\nこの90年代ごろから、中国への外資の投資が活発になりはじめ、安い賃金を利用して中国経済は低価格向けの輸出製品を増やし、2000年ごろには成果が出始めて、中国は「世界の工場」と言われるほどになった。\n中国とベトナムでは、ソ連が崩壊する前から、市場経済的な政策を部分的に導入していた。ベトナムが86年に行った「ドイモイ」(刷新)政策が、そのような市場経済的な政策である。ドイモイ政策では、外資からの投資も奨励された。\nもっともソ連自身も85年から「ペレストロイカ」(建て直し)や「グラスノスチ」(情報公開)などの改革を進めていた。\n金融業界で1997年に起きたアジア通貨危機も、インターネットの普及が関連していると考えられる。(つまり、ネットの普及により、途上国相手の金融商品の売買をしやすくなった、・・・と考えられる。) アジア通貨危機では、韓国・タイ・インドネシアの通貨が暴落した。\nなお、アジア通貨危機よりも前の1994年にメキシコ通貨危機が起きている。\nこれらの通貨危機では、IMFや世界銀行が融資をしたので、混乱は収束していった。\nなお、インドネシアでスハルトの独裁政権が崩壊したのは1998年であり、これはアジア通貨危機の翌年である。\n心理学者のフロイトが活躍したのが1900年前後。\n社会学者のマクス=ウェーバーが活躍したのも1900年前後。\n(※ 科目『現代社会』や『倫理』で、フロイトやらウェーバーの名前が紹介されるのです。)\n20世紀後半には、フェミニズムという思想が流行った。フェミニズムとは、女性差別を批判する思想。\nなおイスラム教の教義は、女性と男性の扱いが明確に違う。イスラム教の教義では、女性は頭髪やボディラインを隠すべきとされている。なので、イスラム教とフェミニズム思想とは、女性の扱いにおいて、思想的に対立する。\n真空管をつかったコンピューターが第二次大戦中の1940年代に発明されるが、一般市場には、まだ普及していない。\nデバイスが真空管でなく半導体になるのが1970年代ごろからである。\nそして、大企業ユーザーなどでない一般人用のコンピュータであるパソコンが普及し始めるのは、1980年代の後半ごろからである。\nインターネットが普及するのは90年代からである。\n携帯電話は、1980年代から存在していたが、普及したのは1990年代からである。\n生物学でヒトゲノム計画(人間の遺伝子配列のパターンを解析する計画)が始まったのは1991年からである。もちろん、コンピュータが普及したから、こういうゲノム研究が出来るわけである。(なおDNAが発見されたのは1953年である。)\nイギリスが1960年代ごろから不況に陥ったりするが、コンピュータ技術は時期的に関係しないようである。\n飛行機は(1910年代の)第一次世界大戦よりも前にライト兄弟などによって発明されており、第一次世界大戦では兵器として利用された。\nしかしジェット機が発明されたのは(1940年代の)第二次世界大戦からである。\n(ロケット的なものは第二次世界大戦中にあったが、)ロケットの開発が進んだのは、戦後の冷戦中であった。\nまた、ロケット技術と関連して、人工衛星の打ち上げの実験なども行れた。1957年にソ連が人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功したのが、おそらく世界初の人工衛星。\nアメリカは月面着陸を目指したアポロ計画が1969年に成功し、1969年に人類を初めて月面に着陸させた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/%E4%BB%8A%E6%97%A5%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C"} {"text": "本節では2021年以降の世界史をまとめます。\n大きな変化があったイギリス、アメリカ、ウクライナとロシア、ドイツ、イタリア、フランスの内政に絞って解説します。\n他の国については割愛します。\n2021年5月の統一地方選挙では、イングランド地方議会選挙で保守党、スコットランド議会選挙でスコットランド国民党、ウェールズ議会選挙で労働党がそれぞれ勝利しました。2022年5月の統一地方選挙では、保守党は地方議会で多くの議席を失いました。これは、首相官邸でロックダウン規制を破った集会の開催や物価の上昇が原因です。北アイルランド議会では、アイルランドを一つの国にしたいという民族主義団体であるシン・フェイン党が史上初めて議席を獲得しました。\n2021年9月の内閣改造では、国際貿易大臣だったリズ・トラスが外務大臣に就任しました。また、前内閣府長官でランカスター公国のマイケル・ゴーブが、基盤整備・住宅・地域社会担当大臣に就任しました。家庭面では、英国各地での「底上げ」が最も重要です。また、医療・介護の制度も改革しました。2022年2月に内閣改造が行われ、首相官邸のスタッフが入れ替わりました。これは、官邸でロックダウン規制を破った会議があったからです。\n2022年6月、保守党の下院議員による党首確認投票が行われました。ボリス・ジョンソン首相は投票で保守党党首に確定しました。しかし、7月7日、ボリス・ジョンソン首相は、保守党が2回の下院補欠選挙で敗北し、党幹部のスキャンダル、主要閣僚2名と多数の政府関係者が辞任したため、党首辞任を表明しました。保守党党首を決める投票があり、9月5日、リズ・トラス前外相が新党首に選ばれました。エリザベス2世女王陛下は翌日、首相を選びました。新政権は、経済、エネルギー、健康問題に最も注意を払うと約束しました。\n2022年2月、女王エリザベス2世陛下が在位70年を迎えました。これは英国王室史上初めてです。2022年9月8日にエリザベス2世女王陛下が亡くなられた後、チャールズ3世陛下が王位を継承されました。\n2020年、民主党からジョー・バイデン大統領候補がアメリカ大統領選挙で当選しました。\nジョー・バイデン氏は2021年1月、第46代アメリカ大統領に就任しました。新型コロナ対策、経済復興、人種平等、気候変動などの重要課題に注目が集まっています。\n外務省ホームページ\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E6%8E%A2%E7%A9%B6/2021%E3%80%9C2030%E5%B9%B4%E3%81%94%E3%82%8D%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C"} {"text": "①神奈川(後に横浜に変更)・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大阪の開市。\n②日本に関税自主権がなく、関税は協定によって決める。(協定関税制)\n③外国側に領事裁判権を認める。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2A/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E7%AB%A0_%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0"} {"text": "人類は、およそ500万年あたり前に、アフリカで誕生したと、化石人骨などから考えられている。そのころの人類は猿人である。\n今から1万年あたり前をさかいに、さかいの前を更新世(こうしんせい)といい、さかいの後を完新世(かんしんせい)という。\n日本列島は更新世(こうしんせい)の当時、寒冷な氷期(ひょうき)と比較的温かい間氷期(かんひょうき、かんぴょうき)が交互に続いており、更新世はいわゆる氷河時代のことであり、また更新世の当時は日本がユーラシア大陸と陸続きであったため大型動物が多く日本列島にやってきていた。\n更新世のこのとき、日本列島の北からは、マンモスやヘラジカが日本に来て、 南からは、オオツノジカ(大角鹿)やナウマンゾウ(1948年、野尻湖(のじりこ、長野)で発見される)が日本に来ていることが確認されている。\nこのような更新世が、約250万年前から約1万年前まで続いた。\nなお、約5〜1万年前のあいだに、人類は新人(しんじん、ホモ=サピエンス)に進化している。約10万年前には旧人が発生していたと考えられている。\n人類が石器を使い始めた時期は、今からおよそ250万年前のころ(更新世である)と考えられている。\n石器に、打ち欠いてつくっただけの打製石器(だせいせっき)のみを使用していた旧石器時代(きゅうせっきじだい)が、石器時代の中でも最も古い。\nかつて日本には旧石器時代が存在しないと考えられていたが、しかし1946年、群馬県にある岩宿遺跡(いわじゅくいせき)で、更新世に堆積した関東ローム層から打製石器を相沢忠洋(あいざわ ただひろ)が発見する。そして1949年に、学術調査が行われた。これらの調査により、日本にも旧石器時代があったことが証明され、日本史上の定説を覆すこととなった。\nこれを契機に、日本の各地で更新世の地層から石器が発見された。\nここでは名前と用途を紹介するが資料集などで実物の写真を確認していただきたい。\n狩猟に使える石器がこのように存在することから、当時の日本人は、狩猟を行って得た獣の肉を、食料にしていたと考えられている。\n人骨は3種類覚えとけば問題ない。 沖縄県の港川人(みなとがわじん)・山下町洞人(やましたちょうどうじん) 静岡県の浜北人(はまきたじん)である。これらの人骨はいずれも新人段階であり、3万年前までの人骨である。\n港川人は人骨がよく残っており、アジア南部の人種であると考えられている。\n今からおよそ1万数千年前ごろの更新世末期から、地球の気候が温暖化して海面が上昇し、これにより日本列島が形成された。(約1万年前)\n植物は、東日本では落葉広葉樹林が広がり、西日本では照葉樹林が広がった。この森林の変化にともない、ドングリ、クルミ、クリなどの木の実や、ヤマイモなどの根茎類(こんけいるい)が豊富になった。\n人類は 磨製石器(ませいせっき)、土器、弓矢 を手にし生活基板を創り上げていった。この時代の土器の模様には、縄を回転させて土器につけた模様が多く、そのため、この時代の土器のことを縄文土器(じょうもんどき)と言う。また、この時代を縄文時代という。\n動物は、マンモスなどの大型動物はすでに絶滅しており、シカやイノシシやウサギなどの比較的小型で俊敏な動物が多かった。このような俊敏な動物を狩るのに、弓矢が適していた。牧畜は行われていない。また、本格的な農耕は行われていない。\nまた、土器は貯蔵(ちょぞう)の他にも、食物の煮炊き(にたき)にも使われていたようであり、木の実のアク抜きや、獣肉の煮沸などにも使われたようである。\nまた、骨角器(こっかくき)といい動物の骨や角を銛や釣り針に使用していた。\n縄文土器の特徴として  縄目模様  黒褐色(低温で焼いているため) 厚手でもろい  が挙げられる。\n木の実などによる定住して得られる食料が普及したためか、人々は竪穴住居(たてあな じゅうきょ)に住み、円を成して共同生活する環状集落を作った。また貝塚(かいづか)が発見されており、ハマグリやアサリなどの貝が捨てられている。このことから、漁労が発達していたことが、うかがえる。\nまた交易も盛んであったことが分かっている。\n自然現象に霊威を認める呪術(じゅじゅつ)的な思想(いわゆるアニミズム)があったと考えられている。女性をかたどった土偶(どぐう)や、男性の生殖器(いわゆる男根)をかたどった石棒(せきぼう)がある。抜歯(ばっし)が、成人式や婚姻などのときに通過儀礼として歯を抜く風習だった。死者を埋葬するときに死体の手足をかがめる屈葬(くっそう)があった。また環状列石(かんじょうれっせき、秋田県の大湯、「おおゆ」)もアニミズムの一つだと考えられている。\n縄文時代で有名な遺跡は、青森県にある三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)である。\n身分の差は、あまり無かったようである。寿命は短く、30歳くらいまで、だったようである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%91%E3%81%BC%E3%81%AE"} {"text": "弥生時代の特徴としては  \nである。\nこのような弥生文化が、紀元前4世紀ごろから起こった。\n金属器とは、青銅器(せいどうき)と鉄(てつ)のことで、日本の場合は同時に伝来されたとしている。青銅とは、銅と錫(すず)との合金。また機織の技術も伝えられる。\n銅鐸(どうたく)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)などが発見されている。\n発見された銅鐸に刻まれた絵に、臼(うす)や杵(きね)を用いた農作業らしき絵がある。このことからも、弥生時代に稲作が行われていることが分かる。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵がある。\n稲の穂を切り取るための石包丁(いしぼうちょう)など、石器も用いられている。\nこれらの文明が海外から伝達したが、伝達元として複数説あり、朝鮮半島から伝わった説と、中国南部から直接伝わった説がある。有力な説は、朝鮮半島から伝わった説のほうである。石包丁など石器の形が、朝鮮半島と九州北部とで類似することが、朝鮮半島由来説の根拠である。\n一方、沖縄地方では漁労を中心とした貝塚文化が、北海道地方では縄文文化を継続した続縄文文化が作られていた。続縄文文化は次第に擦文文化・オホーツク文化となる。\n水稲耕作が盛んになり数々の遺跡がある\n農耕は初期と後期に別れ方法が全く異なるので注意しておきたい。初期の時代の農耕は、湿田(しつでん)に直接種をまく直播という方法をとっていた。弥生時代の後期には乾田(かんでん)が開発された。\nまた、収穫時には石包丁を使い穂の部分だけとる穂首刈りを行った。遺跡は、登呂遺跡(静岡)や唐古鍵遺跡(奈良)が有名。後期に場合は灌漑を利用していた。百間川遺跡(岡山)が有名。\n弥生時代にはブタの飼育が行われていたらしいことが、近年になって生まれた。かつては、イヌしか飼育されていないと考えられていた。\n当時使われていた木製農具。\n石斧(せきふ)も、樹木の伐採用に用いられた(磨製石斧)。\n農産物の貯蔵は高床倉庫に保管された。\n弥生土器の特徴としては \nである。\nまた種類がいくつかあるので覚える。漢字が難しいが書けるように。\nこれらは東京の本郷(ほんごう)弥生町の向ヶ丘(むこうがおか)貝塚で発見された。\n弥生土器は、かつては「弥生式土器」と呼ばれていたが、現在の日本の学校教育や歴史学などでは、弥生土器と呼ぶのが通例になっている。\n青銅器は \nを覚える。これらは祭器として利用されてきた。\n遺跡は大量の銅剣や矛が出てきた荒神谷遺跡(島根)や一箇所での最大量の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根)が有名である。\nまた灌漑利用などで争いが絶えず、高地性集落と呼ばれる山、丘の頂上に暮らしたり(紫雲出山遺跡(香川)など)や\n集落の周りに濠を作った環濠集落(かんごうしゅうらく)と呼ばれるものを創り上げた。 \nが有名。\nまた地域ごとに格差が生まれた。これは墓を見れば一目瞭然であった。\n縄文時代のころは死者の多くに屈葬を行っていたが、弥生時代になり伸展葬(しんてんそう)を行うことが多くなった。\n『漢書』地理志\nこれは『漢書』地理志(かんじょ、ちりし)(著者:班固)の抜粋を、漢文から日本語に書き下した文である。(原書は漢文)\nつまり、\nということである。\n『後漢書』東夷伝(ごかんじょ、とういでん)\nこれは『後漢書』東夷伝(ごかんじょ、とういでん)の抜粋である(著者:范曄、原書は漢文)。\n内容は・・・\nという話である。\n中国大陸では後漢が220年に滅び、220年ごろには魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3カ国が並び立つ三国時代(さんごく じだい)になっていた。\n中国の歴史書『三国志』(さんごくし)のうちの、魏についての歴史書の『魏志』(ぎし)にある倭人についての記述(倭人伝(わじんでん))によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、30か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。\n邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、銅鏡100枚をもらったことが、倭人伝に記されている。\n卑弥呼は晩年、狗奴国(くなこく)と戦ったとあるが、その直後のころの247年に卑弥呼は亡くなった。人々は、卑弥呼のための大きな墓をつくった。そののち男の王が立ったが、国内が乱れたため、卑弥呼の同族である13歳の壱与(いよ)が女王になって戦乱が収まった。壱与は、魏にかわった晋に対して使者を266年に送った。魏志倭人伝によると、晋の都の洛陽に、倭の女王・壱与からの使者が来た、とうふうなことが書かれてある。\nこの壱与からの使者の記述のあと、しばらく中国の文献には倭についての記述は登場しなくなり、から266年から150年間ほどの倭についての詳細は不明である。\n邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明である。学説では、近畿地方の大和(やまと)にもとめる説と九州説が、有力な説である。\n近畿地方にもとめる説の場合、のちのヤマト王権の母体が邪馬台国だったというような可能性が高く、九州から近畿までの範囲をふくむ連合政権があったことになる。いっぽう、九州説を取った場合、邪馬台国は比較的小規模な地方政権の連合だということになる。\n九州説を取るか、近畿説を取るかで、邪馬台国とヤマト王権についての考え方が、大きく異なる。\nこの時代の日本には、階級が奴隷から王まで、あったことが、倭人伝の記述から分かっている。\n魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれている。(一部省略)\n『魏志』倭人伝(抜粋)\n倭人の国は、多くの国に分かれている。使者が調べたところ、今のところ、30あまりの国である。\n【風習について】\n男たちは、いれずみをしている。服は、幅の広い布をまとっており、ほとんど縫われていない。女は髪を後ろで結い、服は布の中央に穴をあけ、頭を通して着ている。\n稲と紵麻(からむし)を植えている。桑(くわ)と蚕(かいこ)を育てており、糸を紡いで糸を作っている。土地は温暖であり、冬も夏も野菜を食べ、はだしで暮らしている。\n下戸(げこ、民衆)が大人(たいじん、権力者)と出会うと、下戸は草むらに後ずさりして、道をゆずる。また下戸が大人に言葉を伝えたりするときは、ひざまずき、両手を地面につける。\n【卑弥呼について】\n倭国は、もともと男の王が治めていたが、戦乱が長く続いたので、諸国が共同して一人の女子を王にした。その女王の名を卑弥呼という。卑弥呼は、鬼道(「きどう」)で政治を行っている。卑弥呼は成人しているが、夫はおらず、弟が政治を助けている。王位についてからの卑弥呼を見た者は少なく、1000人の召使いをやとっており、宮殿の奥にこもる。卑弥呼の宮殿には、物見やぐら や柵が儲けられており、厳重に守られており、番人が武器を持って守衛している。\n卑弥呼が死んだとき、直径100歩あまりの大きな墓がつくられ、奴隷100人がともに葬られた。\n(※ 『魏志』倭人伝より抜粋して要約。)\n魏志倭人伝は、正式名は『三国志』の『魏書』(ぎしょ)の東夷伝の倭人条。『三国志』は三世紀に普(しん)の陳寿(ちんじゅ)によって編纂(へんさん)された。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "3世紀後半には古墳が造られるようになっていた。特に巨大な古墳が奈良県の大和(やまと)に多く、この奈良を中心にして少なくとも近畿地方一帯を支配する強大な政権があったと考えられ、これをヤマト王権やヤマト政権などと呼ぶ。\n古墳の分布から考えると、4世紀中頃までにヤマト王権による支配領域が、九州北部から東北地方南部にまで広がっていったと考えられている。\n古墳の形には、さまざまな形があるが、特に巨大な古墳には前方後円墳が多い。また、数が多いのは円墳や方墳である。古墳の多くは、表面に石が葺かれ、埴輪(はにわ)なども置かれた。内部には石室(せきしつ)があり、石室には石棺や木棺などの棺がおさめられた。このほか、さまざまな副葬品がおさめられた。副葬品には、古墳時代のはじめごろは銅鏡や銅剣などがおさめられた。有名な銅鏡としては、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などがある。\n最大規模の古墳は、大阪府にある前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の大仙古墳(だいせんこふん)であり、大王陵と考えられている。\n特に大きな古墳が、大和(やまと、奈良県)や河内(かわち、大阪府)を中心に多く作られているので、近畿地方を中心に、有力な豪族たちがいたと思われている。この近畿地方の有力な豪族たちは連合政権を形成しており、この政権を指して、現代ではヤマト王権(ヤマトおうけん)、ヤマト政権などという。\n4世紀〜5世紀には、前方後円墳が、大和地方だけでなく、各地に広がっていく。5世紀の後半には、ヤマト王権は九州から関東までを支配していた。また、各地に前方後円墳があることから、\nこの大和にいた、有力な豪族たちの連合体であるヤマト王権が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷(ちょうてい)になっていく。\n埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王(ワカタケルだいおう、ワカタケルおおきみ)の名が刻まれた文が、刻まれてあります。文を読むと、この地方の王は、ワカタケル大王に使えていたらしいです。\n熊本県の 江田船山(えた ふなやま)古墳 にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀(てっとう)があり、ワカタケル大王の支配する領域が、関東地方から九州までの広い範囲(はんい)に、およんでいたことが、分かります。\n正確に言うと、当時はまだ漢字しか文字がなかったので、稲荷山の鉄剣には115字の漢字が刻まれており、その漢字の中に「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王)という名が、刻まれています。 \nまた江田船山の鉄刀には、刻まれた文が破損しており、「獲□□□鹵大王」(ワ???ル大王 ?)というふうに名前の一部が読めなくなっています。(□が破損部とする。)\n後の日本の神話の書の『古事記』(こじき)や、後の歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)などから「ワカタケル」という人物の存在が知られているので、鉄剣などがワカタケルの存在をうらづける証拠になったのです。日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述があるのです。\nワカタケル大王とは、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)だということが分かっています。\nこの大和にいた、有力な豪族、および、この大和の地域の有力な豪族たちの連合体が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷(ちょうてい)になっていく。\n大和にいた、有力な豪族、および、この大和の地域の有力な豪族たちの連合体のことを、現代の歴史学では「ヤマト政権」とか「ヤマト王権」とかという。べつに当時の人が「ヤマト政権」と呼んでいたわけではない。\nヤマト政権が、のちの時代に朝廷になるといっても、古墳時代の始めや中頃では、まだヤマト政権は各地の豪族のうちの一部にしか、すぎない。のちの時代の天皇も、先祖をたどれば、(おそらく大和地方にいただろう)有力な豪族のうちの一つでしかない。\n古墳時代の始めのうちは、まだ日本の統一がほとんど進んでおらず、ヤマト王権は、まだ、今の日本語で言う「朝廷」と呼べるような段階には至ってない。ヤマト王権が、古墳時代での各地の政権の統一をへて、のちの飛鳥時代の朝廷へと、なっていく。\n5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、ほぼ各地を平定した。\n日本では、ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、大王(おおきみ)と呼んでいた。稲荷山古墳(いなりやま こふん、埼玉県)から出土した鉄剣の銘文で、みずから「大王」と読んでいる。中国では「倭王」(わおう)と呼んでいた階級であろう。大王の一族は、のちの天皇の一族である。たとえば、5世紀の中ごろに近畿地方に作られた大仙(だいせん)古墳は、大王の墓だと思われている。\nそして、各地の豪族たちはヤマト王権に仕えた。\nこのころには、ほぼ政権の権力が安定しており、ヤマト王権の政治組織を整えられるようになった。そして、さまざまな政治の制度が作られた。\nやがて古墳には、鉄製の武具や馬具、農具や土器などの生活用品も、石室におさめられるようになった。つまり、古墳が、死後の生活の場と考えられた。副葬された土器には、土師器(はじき)や須恵器(すえき)などが納められた。須恵器(すえき)は、5世紀に朝鮮半島から伝わった土器であり、灰色で堅い。土師器(はじき)は、須恵器伝来前からある在来の土器であり。弥生土器の系統をひき、赤い。\n須恵器の製法は、丘(おか)などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯(あながま)を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという、のぼり窯(のぼりがま)を用いた方法です。野焼きよりも高温に焼けるので、かたい土器が焼きあがるというわけです。\n縄文土器は、野焼きの土器でした。弥生土器も、のぼり窯は用いていません。\n石室は従来は竪穴式であったが、6世紀になると横穴式石室(よこあなしき せきしつ)が一般化してきた。これは朝鮮半島の風習と近く、日本が朝鮮半島から影響を受けたと思われる。\n豪族は、血縁をもとに、氏(うじ)という集団を作っていた。氏を単位に、ヤマト王権の職務を担っていた。そして、豪族たちの名前に関する制度で、氏(うじ)と姓(かばね)とによる、後に言う氏姓制度(しせい せいど)が、作られた。\n姓は、大王から、その氏の職務に応じて授けられた。\n氏(うじ)とは、主に、血のつながった者どうしの集団である。姓(かばね)とは、政治の地位による称号(しょうごう)で、たとえば「臣」(おみ)や「連」(むらじ)という姓が、あります。\n氏の代表者を氏上(うじのかみ)という。氏の構成員を氏人(うじびと)という。氏とは、その氏上や氏人などから成り立つ、組織であった。\n有力な豪族の氏には、たとえば蘇我氏(そが し)・物部氏(もののべ し)・大伴氏(おおとも し)などが、あります\n政治の仕事を行なう豪族には、さらに姓(かばね)が与えられた。中央の政治の姓には、臣(おみ)、連(むらじ)の姓が与えられ、中でも有力な豪族には大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓が与えられた。\n例えば、蘇我氏には「臣」(おみ)という姓(かばね)が与えられた。大伴や物部には「連」(むらじ)という姓(かばね)が与えられました。\nそして、手工業や軍事などの管理にたずさわる豪族は、それよりも低い地位に置かれ、伴造(とものみやつこ)などの姓が与えられた。そして、その管理者のしたで働く、伴(とも)や部(べ)などの集団を、伴造などが管理した。\n部には、様々な専門職であったらしい品部(しなべ)や、豪族の私有する民の部曲(かきべ)がある。\nこのような改革により、6世紀の半ばごろまでには、ヤマト王権による中央集権的な日本各地の支配が進み、のちの時代で言う「朝廷」のようなものが出来ていったと考えられる。\n終わりごろ、中国では「宋」(そう)という国が、中国の南部を治めていた。この時代、中国は北朝(ほくちょう)である、北魏(ほくぎ)と、南朝(なんちょう)である宋(そう)という、2つの国に分かれていて、南北の王朝が争っていた。\nその宋の歴史書の『宋書』倭国伝(そうじょ わこくでん)では、5世紀に中国の王朝である宋に、日本からの外交で、日本の5人の大王が、それぞれ外交の使者を送ってきたことが、『宋書』に書かれています。\n5人の王の名は、宋書によると、それぞれ讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)という名です。\nこの5人の倭国の王を 倭の五王(わのごおう) といいます。日本は、高句麗との戦争で優位に立ちたいので、宋の支援(しえん)が、ほしかったのです。\nこの5人の王が、どの天皇か、それとも天皇ではない別の勢力なのか、いろんな説がある。\n有力な説では、武(ぶ)は、日本書紀に「幼武天皇」(わかたけ てんのう)という記述のあるワカタケル大王のことだろうと思われています。つまり雄略天皇が武(ぶ)だろうと思われています。\nこの時代の倭王の「武」(ぶ)が、中国に送った手紙には、つぎのようなことが書かれています。\n倭王武の上奏文(抜粋) (『宋書』倭国伝)\n「皇帝から臣下としての地位を受けた我が国は、中国から遠く離れた所を領域としています。\n昔から私の祖先は、みずから よろい・かぶとを身につけ、山や川を踏み越え、休む日もなく、東は毛人(もうじん)の国(毛人=おそらく東北地方の蝦夷(えみし))55か国を平定し、西は衆夷(しゅうい)の国(衆夷=おそらく九州の熊襲(くまそ))66か国を平定しました。さらに海をわたって、海北(かいほく)の(海北 =おそらく朝鮮半島)95か国を平定しました。\nこのような内容が書かれています。この倭王が中国に送った手紙を、一般に、倭王武の上奏文(わおう ぶ の じょうそうぶん)と言います。「上奏」(じょうそう)とは、格下の者が、目上の地位の者に、申し上げることです。\nなお、最終的に中国の南北朝を統一する国は、「隋」(ずい)という国によって6世紀おわりごろに統一されます。南北朝の次の王朝は、隋(ずい)王朝になります。\n4世紀には、朝鮮半島は国が分裂していた。南西部の百済(くだら、ペクチェ)と、東部の新羅(しらぎ、シルラ)と、北部の高句麗(こうくり、コグリョ)と、その他のいくつかの小国があった南部の伽耶(かや、カヤ)地方に分裂していて、おたがいに争っていた。伽耶(かや、カヤ)のことを任那(みまな)、あるいは加羅(から)ともいう。\n伽耶は半島の南部にあり、百済は、南西部にあった。日本は、鉄の資源などをもとめて、南部や南西部の、伽耶や百済と交流があった。\n日本は、伽耶(かや、カヤ)と百済(くだら、ペクチェ)に協力した。\n日本は百済(くだら、ペクチェ)と連合して、敵である新羅(しらぎ、シルラ)および高句麗(こうくり、コグリョ)と戦う。\n朝鮮半島での、広開土王(こうかいどおう)の碑文(ひぶん)によると、倭が高句麗(こうくり)との戦争を4世紀後半にしたことが書かれています。この戦いでは高句麗が勝って、倭の軍をやぶったそうです。広開土王は好太王(こうたいおう)とも言います。\nなお最終的に、朝鮮半島を統一した国は新羅(しらぎ、シルラ)であり、7世紀に新羅が朝鮮半島を統一する。\n6世紀はじめ、九州の北部で、大和朝廷に逆らう、大規模な反乱が527年に起きる。豪族の筑紫国造(つくしのくにのみやつこ)磐井(いわい)が、新羅とむすんで反乱を指揮した。朝鮮半島での、百済をすくうための出兵の負担への反発が、きっかけ。\nこの反乱のことを 磐井の乱(いわい の らん) という。\nヤマト王権は、この反乱(磐井の乱)をおさえるのに、1年あまリ〜2年ほど、かかる。\n6世紀、ヤマト王権に服従した地方豪族は国造(くにのみやつこ)として任命された。\nまた、各地に、ヤマト王権の直轄地が設置され、その直轄地は屯倉(みやけ)という。\nまた、直轄民として従属する部の民を名代(なしろ)、子代(こしろ)とし、地方豪族に従属する民を部曲(かきべ)と呼んだ。\nいっぽう、有力な豪族の私有地を田荘(たどころ)といい、有力な豪族が私有地を持っていた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%81%A8%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E7%8E%8B%E6%A8%A9"} {"text": "※ いくつかの検定教科書では、飛鳥時代から「朝廷」という表現で、日本の中央政治の機構のことを表現しています。(実教出版、山川出版社など)\n6世紀なかば、欽明天皇のときに倭国(日本)は仏教を百済から公式に取り入れたとされる。このときの百済王は、聖明王(せいめいおう)である。日本が取り入れた仏教は、中国・朝鮮などを経由した北方仏教の系統である。\n日本への仏教伝来の年代については2説あり、538年(『上宮聖徳法王帝説』(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)『元興寺縁起』(がんごうじえんぎ)などによる説)に仏教伝来したとする説と、552年(『日本書紀』による説)に仏教伝来したとする説がある。\n当時、百済は高句麗や新羅と対立しており、そのため日本を味方につけようとしたのであろう。\nしかし、この仏教伝来は公式に限定しての話であり、おそらく実際には渡来人によって、それ以前に日本に仏教が伝えられていたと考えられる。\nまた、6世紀には五経博士の渡来により、儒教も日本に伝えられた。\nまた、この6世紀のなかば頃から、ヤマト王権は九州から関東までの広い地域に強力な支配を及ぼし、実質的にヤマト王権が日本を支配する王朝になっていた。現代の日本の歴史学で、古代日本の「朝廷」という場合、この6世紀頃からの日本の中央政治機構のことを意味する。\n6世紀なかば、日本では、物部氏と蘇我氏が対立していた。彼らは外国文化の受容の有無についても対立しており、積極的に外国から仏教などの先進文化を取り入れるべき(崇仏派)とする蘇我氏(蘇我稲目(そがのいなめ))と、伝統を重んじるべき(排仏派)とする物部氏(物部尾輿(もののべのおこし))とが対立していた。\n587年、大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがの うまこ)が、大連(おおむらじ)の物部守屋(もののべの もりや)を滅ぼし、蘇我の血を引く泊瀬部皇子(はっせべのみこ)を大王に即位させた(崇峻天皇(すしゅんてんのう))。しかし、大王は馬子と次第に対立し、馬子は592年に崇峻天皇を殺害して自らの姪に当たる額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)を大王に即けた。日本初の女帝、推古天皇である。そして推古天皇の甥の厩戸王(うまやとおう)(※ 厩戸王は聖徳太子と同一人物?)と大臣蘇我馬子が協力して大王を助ける政治体制が成立した。その体制の下で603年に冠位十二階の制が、翌604年には憲法十七条(けんぽうじゅうしちじょう)が制定された。\n聖徳太子のモデルは厩戸王だろうというのが有力説だが、別人だという説もあり、また聖徳太子は『日本書紀』の編纂時につくられた架空の人物だという説もある。なお、冠位十二階の制や憲法十七条を定めた人が厩戸王であるとは断定できる証拠はないのだが(憲※ 清水書院の教科書でも説明されている)、分かりやすさを重視して、上述のように、あたかも厩戸王と蘇我馬子によって、冠位十二階の制などが定められたかのように説明した。(※ 山川出版社などの教科書でも、あたかも厩戸王が定めたかのように書かれている。)\n憲法十七条(抜粋) (『日本書記』)\n一に言う、和を尊び、争うことのないように心がけよ。・・・\n二に言う、熱心に三宝を敬え。三宝とは仏像、経典、僧侶のことである。・・・\n三に言う、詔( 天皇の命令の一種)を受けたなら、必ず従え。君主こそが天であり、臣は地のようなものだ。\n十二に言う、国司や国造は、人民(=「百姓」とは「多くの民」「人民すべて」などの意味)から税金を勝手にとってはならない。・・・\n十七に言う、ものごとは一人では決めてはいけない。かならず皆と意見を話し合うべきである。・・・\n※ 現代語訳については、教科書や(参考書会社の)史料集ごとに微妙にちがうので、一字一句を覚える必要はない。\n西暦600年から607年にかけ、小野妹子が遣隋使として中国に渡った。\n『隋書』によると600年に遣隋使が日本から派遣されたとされるが、日本書紀によると607年に遣隋使を派遣したとあり、微妙に時期がくいちがっている。\n隋の皇帝・煬帝(ようだい)が受け取った、日本からの国書には、日本が隋に従属しないことが書かれていたので、煬帝は立腹し「無礼」と言ったという。\n遣隋使の派遣(抜粋) (『隋書』倭国伝)\n隋の大業3年、倭国の王多利思比孤(たりしひこ)からの使者が来て、朝貢してきた。\nその国書には「太陽が昇るところの天子が、太陽の没するところの天子に、手紙を送る。おかわりありませんか。・・・」と書かれていた。帝(煬帝)は、この国書を見て不機嫌になり、外交関係の役職(鴻臚卿)の者に言った。「野蛮な書。無礼である。今後は上奏するな」と。\n「鴻臚卿」(こうろけい)とは、外交関係の官のこと。\n※ 「聞する勿れ」の意味が、「上奏するな」か「奏上するな」なのかは教科書や参考書ごとに違う。\n倭の五王の時代とは異なり、倭国は中国に服属しないことを、国書では匂わせていた。これに煬帝は立腹したが、高句麗と中国との戦争を有利にするため、翌608年には中国は使節・裴世清(はいせいせい、 ※ 人名)を倭国に派遣した。\n妹子の遣隋使に同行した高向玄理(たかむこのげんり)・南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・旻(みん、 ※人名)などの留学生が、中国に長期滞在し、そして中国の文化を日本に伝えた。\n「聖徳太子が小野妹子を遣隋使として中国に派遣した」という説があるが、妹子に派遣を命じたのが厩戸王だと断定できる証拠はない。(※ 清水書院の教科書で記載されている。)\n伝来した仏教は倭国の文化に変化をもたらした。それまでの古墳に代わって寺院が、豪族の権威を象徴するようになった。法隆寺はその一例である。大和(やまと)の飛鳥(あすか)を中心に栄えた文化なので、この文化を飛鳥文化と呼ぶ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E6%9C%9D%E5%BB%B7"} {"text": "\n622年に厩戸王(聖徳太子)が、次いで626年に大臣の蘇我馬子が死去すると、子の蘇我蝦夷とその孫である蘇我入鹿がヤマト政権で権勢をふるった。\n当時の倭国は唐の外圧に対処するため中央集権を進める必要に迫られていたが、643年に蘇我入鹿が厩戸王の子である山背大兄王とその一族を滅ぼし、蘇我氏一族への権力集中を図った。このように強権的な蘇我氏に対して、豪族や大王(天皇)中心の国家体制を目指す勢力からの不満が高まっていった。\n中央集権国家を目指す中大兄皇子と、中臣鎌足らが蘇我倉山田石川麻呂らと謀り、645年に蘇我入鹿を殺害した。蝦夷はこの事件を知り自殺して、蘇我宗家は滅んだ。これを乙巳の変という。\n乙巳の変ののち、皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が新たに大王に即位した(孝徳天皇)。なお、当時生前に大王が譲位するのは異例のことで、天皇譲位の初例とされる。皇太子となった中大兄皇子らが政権を主導し、政治改革を次々と行なった。この一連の改革を大化の改新という。645年に初めて元号を「大化」に定めたとされる。\n大王は現在の大阪府にあった難波長柄豊碕宮(難波宮)に遷都し、政治改革が進められた。新政権は右大臣に蘇我倉山田石川麻呂、左大臣に阿部内麻呂、内臣に中臣鎌足をそれぞれ登用した。また、妹子の遣隋使に同行した高向玄理・旻らは国博士として登用された。\n645年、中大兄皇子は有力な大王候補であった古人大兄王を滅ぼし、649年には対立を深めた蘇我倉山田石川麻呂を滅ぼして政権から有力な豪族を排除、中央集権を強めた。\n乙巳の変の翌年の646年に改新の詔が出された。これはいわば新政権の施政方針であり、『日本書紀』にその本文が見られる(ただし、一部後世に付け足したと思われる内容も散見される)。\n公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)などの税制の整備、戸籍・計帳の創設、国司(こくし)の設置等が主な内容であった。\nこれまで豪族や王族たちが持っていた土地や人民は、すべて朝廷のものであるとした。また、朝廷が管理できない土地、人民の存在を禁止した。\n租を徴収するため、人民に田を与えて稲作をさせること。ただし実際に班田収授が行われるのはまだ先のことである。\n7世紀半ばになると、朝鮮半島で戦乱が起こる。新羅(しんら、しらぎ、シルラ)が唐(とう)と連合して、百済(ひゃくさい、くだら、ペクチェ)を侵攻し、660年に百済は滅亡した。\n倭国(わこく)は百済と親交があり、百済滅亡により倭国は朝鮮半島での影響力を失った。倭国のヤマト政権は百済の復活を名目として朝鮮半島での影響力を取り戻すため、663年に中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、倭国軍と新羅軍が軍事衝突して白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそうこうのたたかい) が勃発した。この戦いで倭国軍は新羅と唐の連合軍に敗れた。\n白村江の敗戦を受けて中大兄皇子は、唐と新羅の倭国への直接攻撃に備えるため、九州の防備を強化する。九州北部に九州防衛のための兵士である防人(さきもり)を置き、水城(みずき)という水の満たされた濠(ほり)を持った土塁が築かれた防御地点を各地に築かせた。\n(※ 発展的な話題:)九州で国防の拠点になった太宰府(だざいふ)の背後の山の頂に大野城(おおのじょう)がある。このような山にある城のことを一般に山城(やましろ、やまじろ)という。(※ 中学歴史の日本文教出版、教育出版の教科書で紹介の話題。)\n孝徳天皇が死去すると大王を退位していた宝皇女(たからのひめみこ、皇極天皇)が重祚(ちょうそ、天皇が再び即位すること)し、斉明天皇となった。引き続き中大兄が政権を率いたが、白村江の戦いのさなかに斉明天皇が死去した。中大兄は大王に即位せずにそのまま政務をみた(称制)。667年に、中大兄は都を今の滋賀県近江付近の大津宮(おおつのみや)に移した。この遷都は唐と新羅の連合軍の攻撃に備えてのことだと考えられる。\n668年に中大兄皇子は大津宮で大王に即位し、のちの天智天皇(てんじてんのう)となる。同年、法典である近江令(おうみりょう)が成立したとされる。近江令は天智天皇が中臣鎌足に命じて編纂(へんさん)させたものであった。また天智天皇は、670年に日本最初の全国的な戸籍である庚午年籍(こうごねんじゃく) を作成する。\n671年に天智天皇が死去すると、672年に大王位をめぐって天智天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、 近江朝廷を率いていた天智天皇の子の大友皇子(おおとものおうじ)が争った。この壬申の乱(じんしんのらん)は、大海人皇子が勝利し、敗れた大友皇子は自害した。大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に移り、天武天皇(てんむてんのう)として即位した。天武天皇は684年に天皇を中心とした新しい身分制度である八色の姓(やくさのかばね)を制定し、豪族の身分を再編した。この時代に、日本初の貨幣である富本銭(ふほんせん)が発行されたとされる。\n「倭国」に代わる「日本国」という国号や、「大王」に代わる「天皇」という称号は、このころ使われ始めたという説が有力である。\n(※ 註脚)八色の姓には、真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の8つの姓がある。\n689年には飛鳥清御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し(※ 飛鳥清御原令は史料が現存しておらず内容が不明)、翌年には戸籍である庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成した。\n天武天皇の死後、皇后が天皇として即位した(持統天皇(じとうてんのう))。\n天武天皇が藤原京の建設を始めたが、完成前に死去したため、完成は持統天皇の時代となる。694年に都を飛鳥から現在の奈良の藤原京に遷都させた。藤原京は、道路が碁盤(ごばん)の目のように、格子(こうし)状に区画されており、この都の碁盤目のような区画は、唐の都長安を参考にしている。\n天武・持統朝のころの文化は、宮廷を中心とした仏教調の文化であった。これを白鳳文化(はくほうぶんか)という。\n天武天皇の時代には大官大寺(だいかんだいじ)、薬師寺(やくしじ)が建設された。\n絵画では、法隆寺金堂壁画や、高松塚古墳(たかまつづかこふん) 壁画がある。\n彫刻では、薬師寺の三尊像(さんぞんぞう)や、興福寺(こうふくじ)の仏頭(ぶっとう)がある。\n文学では、漢詩文が流行し、大津皇子(おおつみこ)がすぐれた作品を残した。\nまた、和歌もこの時代に五七調(ごしちちょう)の型式を整えた。歌人でもある額田王(ぬかたのおおきみ)や柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)は、この時代の人物である。\n701年の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。大宝律令は、唐の律令(りつりょう)という法律を参考にしています。\n「律」は罪人をさばくための刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。\nこの大宝律令は、 藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心となって編纂(へんさん)された。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。\n政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。二官には、神々をまつる祭祀を行なう 神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう 太政官(だじょうかん)がおかれた。\n太政官には、 太政大臣 を始めとして、 左大臣 、 右大臣 など、様々な官職が置かれた。\n太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。\n八省は、宮内省(くないしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、民部省(みんぶしょう)、治部省(じぶしょう)、式部省(しきぶしょう)、中務省(なかつかさしょう)である。\nまた、重要な地域には、専門の統治機構をもうけた。\n太宰府(だざいふ)も、そのひとつである。筑紫が国防上の重要地点だったので、筑紫に太宰府を設けたのである。太宰府は、九州全域を統轄した。\n京都には京識(きょうしき)を設け、左京職と右京職の2つの京職があった。\nさらに、摂津(せっつ)は外交上重要なので、摂津に摂津職(せっつしき)を置き、難波(なにわ)を管轄させた。(摂津はいまでいう兵庫県あたりの場所。海(大阪湾など)に面するので、外交上重要だったのだろう。難波(なにわ)は、大坂の地名。)\n官吏を対象とする取り締まりのため、弾正台(だんじょうだい)が置かれた。\n京都の宮殿の警備のため、5つの衛府(えふ)が置かれ、あわせて五衛府(ごえふ)といわれた。また、京都の警備をする者たちは衛士(えじ)と呼ばれた。\nまた、一般の国々の軍事・警察のため諸国には軍団(ぐんだん)を置き、九州の防衛には防人(さきもり)を置いた。\n各官庁の官職は、原則として4等級て構成されており、こうした制度を 四等官(しとうかん)制という。四等官は、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)である。\n官人の階級は、全部で30の階級に分けられた。\n官人の仕事は、原則として、位階に相当する官職に任命された(官位相当制(かんい そうとうせい))。\n五位以上の官人は貴族(きぞく)と呼ばれた。(一位に近いほうが、階級が高い。)\nまた、五位以上の官人の子には、(役所への就職時に)父や祖父の位階に応じた位階を与えられた(蔭位の制(おんいのせい))。(※ 親が一位なら子は五位からスタート、のようなシステム。)\n官人の給与では、位階に応じて、「食封」(じきふ)や「禄」(ろく)が与えられた。食封とは、定められた数の戸から、そこからの租税をもらえる制度。\nまた、位階に応じて「位田」(いでん)や「位封」(いふ、いふう)などの給与が与えられ、官職に応じて「官田」などの給与が与えられた。\nまた、下級官人の子が官人になるためには、「大学寮」や「国学」などに入学して官人になるための教育を受ける必要があった。\n司法制度では、刑罰に、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5つの刑があった。また、国家・天皇・尊属に対する罪は八虐(はちぎゃく)と言われ、とくに重罰とされた。\n政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。\nまず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。\n国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。\n郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。\nまた、地方の役所を図にまとめると、次のようになる。\n中央貴族を国司に任命し、地方豪族を郡司に任命することが多かった。\nまた、地方と都との連絡のために、駅(えき)がつくられた。駅には、馬とその乗り手が配置され、伝令の仕事をした。\n貴族の人数は、全国あわせて200人ほどだと考えられている。(※ 中学の東京書院の教科書で紹介の話題。) なお、朝廷の役人は1万人ほど。平城京の人口は10万人ほど。(※ 中学の自由社の教科書より。)唐の長安の人口は100万人ほど。(※ 中学の自由社の教科書より。)\n日本において、国ごとに置かれた役所のことを国府(こくふ)という。\nこの頃の時代の日本では、役所では、印鑑(いんかん)を文書に押して証明書とする制度が整った。\n大宝律令のころに、班田収授や租庸調(そようちょう)も定められた。\n人々の身分は良(りょう)と賤(せん)に分かれていました。「賤」は奴隷などのことで、いわゆる「奴婢」(ぬひ)です。男の奴隷が奴(ぬ)で、女の奴隷が婢(ひ)です。奴婢は、売買もされたという。\n「良」の人々の多くは、いわゆる農民などのことです。奴婢は全人口の1割ほどで、奴婢以外との結婚を禁じられるなどの差別を受けていました。\n政府は人民を管理するために戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。\nこの当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。\nこの奈良時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。\nこのような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。\n現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。\n詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。\n目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。\n6年ごとに人口を調査します。\n税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも口分田(くぶんでん)が与えられます。\n原則として、6才以上の男女に田を与えます。男(6才以上)には2反(720歩=約24アール)の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2(480歩=約16アール)の田を与えています。5才以下には与えられません。\n死んだ人の分の田は、国に返します。\nこれらの制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)と言い、唐の均田制(きんでんせい)に習った制度である。\n税(ぜい)の種類です。\n租(そ)とは、田の収穫量の、およそ 3%の稲 を国に納めよ(おさめよ)、という税です。\n調とは、絹や地方の特産物を国に納めよ、という税です。\n庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。\n前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。\nこれとは別に、出挙(すいこ)という、国司が強制的に農民に春に稲を貸し付けて、秋に5割の利息を農民から取る制度があり、税のように考えられていました。\nこの他、一般の人々の負担には兵役(へいえき)や労役(ろうえき)などがあり、兵役では防人(さきもり)として3年間ほど九州に送られたり、衛士(えじ)として都の警備を1年間 させられました。\n労役では、雑徭(ぞうよう)として土木工事などの労働を60日以内(1年あたり)させられたり、運脚(うんきゃく)として庸・調を都まで運ばされました。\n農民の負担が重い一方で、貴族は税などを免除されました。\n政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。\nまず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。\n国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。\n郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93"} {"text": "奈良時代の初期には、藤原不比等が権力をにぎった。(なお、大宝律令を制定したのも、彼が中心。また、中臣鎌足の子。)\n藤原不比等は娘の宮子(みやこ)を文武天皇と結婚させた。さらに、文武天皇と宮子の間に生まれた皇太子(のちの聖武天皇)に、娘の光明子(こうみょうし)を嫁がせた。\n(724年、三世一身(さんぜい いっしん)の法(ほう)。)\n(724年、聖武天皇が即位。)\n不比等が死去すると、後続の長屋王(ながやおう)が権力をにぎって、長屋王は左大臣まで登りつめたが、不比等の子の4兄弟の策謀により、729年に長屋王は謀反の疑いをかぶさられ、729年に長屋王は自殺に追い込まれた(長屋王の変)。\nなお、不比等の子の4兄弟はそれぞれ、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合((うまかい)・麻呂(まろ)。\nところが、長屋王の事件後、この4兄弟は全員、病死してしまう。\nその後、皇族の橘諸兄(たちばなの もろえ)が政権をにぎり、唐から戻ってきた僧 玄昉(げんぼう) や吉備真備(きびのまきび)を登用した。\n太宰府に派遣されていた藤原広嗣(ふじわらの ひろつぐ)は、これに不満をつのらせ、740年に九州で反乱を起こしたが、鎮圧された。\nこうした政情不安や、疫病の影響もあってか、この乱が起きてからしばらく、聖武天皇は遷都をして、都を転々とした。遷都先は、恭仁(くに)、難波(なにわ) 、紫香楽(しがらき)である。(745年に平城京に戻る。)\nそして、聖武天皇は仏教によって国を安定させようと思い、741年に国分寺建立の詔 (こくぶんじ こんりゅう の みことのり)を出した。(国ごとに国分寺の建立しようとした。) つづいて743年に大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅう の みことのり)を出した。\n聖武天皇は749年に孝謙天皇(こうけん てんのう)(←女)に譲位してしまう。その後、藤原仲麻呂(ふじわらの なかまろ)が権力をにぎる。そして、橘諸兄(たちばなの もろえ)の子の奈良麻呂(ならまろ)が反乱をくわだてたが、発覚して鎮圧される。\nなお、つぎの淳仁天皇のとき、藤原仲麻呂は「恵美押勝」(えみの おしかつ)と改名する。\n孝謙天皇はまだ生きてるが、758年に淳仁天皇が即位した。そして、この淳仁天皇の時代に、藤原仲麻呂は道鏡(どうきょう)と対立する。(※ 「道鏡」は人名。僧侶。)\nそして、追い詰められた藤原仲麻呂は反乱を起こすが、藤原仲麻呂は敗死する(恵美押勝の乱 (えみのおしかつ の らん) )\nそして、孝謙天皇がふたたび天皇になり、称徳天皇(しょうとく てんのう)として即位する。(つまり、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物。)\n道教は法王の地位まで登りつめたが、孝謙天皇の死後は道鏡は勢力を失い、道教は下野(しもつけ)の薬師寺(やくしじ)に追放された。\nそして、次の天皇には、天智天皇の孫である光仁天皇(こうにん てんのう)がたてられた。(なお、光仁までの天皇は、天武天皇の系統だった。)\n人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。\n722年、政府は「百万町歩の開墾計画」 (ひゃくまんちょうぶ の かいこんけいかく)を出した。(しかし、実際に百万町歩が開墾されたのではないようだ。現代では、単なるスローガンにすぎないと思われている。)\n朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが 三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。\nさらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。\nこの時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。山上憶良(やまのうえの おくら)のよんだ貧窮問答歌(ひんきゅう もんどうか)には、このころの農民の苦しい生活のさまが歌われている。\n*\nまた、人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。\n朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが 三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年の出来事である。\nさらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。\nこれは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。\nまた、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに 荘園(しょうえん) と呼ばれることになる。\n経済では、この奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)という貨幣が708年(和同元年)に発行され、流通していました。\nこれより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%A5%88%E8%89%AF%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "奈良時代の美術では、立体造形が進歩した。\n従来の木像と銅像に加え、さらに塑像(そぞう)と、乾漆像(かんしつぞう)が、加わった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%A4%A9%E5%B9%B3%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。\nのちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、光仁天皇のあとをついだ桓武天皇(かんむ てんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年に都を山背国(やましろこく)の長岡京に移した。\nしかし、新都造営(しんとぞうえい)の中心人物であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されたり、政情不安が続いたので、794年に都を平安京に移した。\n桓武天皇は、国司に対する監督をきびしくするため、勘解由使(かげゆし)という役人を置きました。\n勘解由使に、国司の交代の際には、前任の国司に不正がなかったことを証明するための解由状(げゆじょう)を審査させた。\n桓武天皇の政策として、辺境の他では徴兵をやめ、辺境の他では従来の軍団を廃止して、あらたに郡司の子弟で弓馬にたくみな者からなる健児(こんでい)を設けた。\nまた、このころ、都の造営と、蝦夷との戦いからなる二大事業が、国家財政や民衆の負担だった。\n貴族間で、この事業の存続をめぐる論争が起き、桓武天皇はこの二大事業を中止した。\n桓武天皇は、二大事業の存続の件で、管野真道(すがのまみち)と藤原緒嗣(ふじわらおつぐ)という2人の参議に論争させた(徳政論争)。(菅野が存続派。藤原が打ち切り派。)\n桓武天皇の死後、平城天皇(へいぜいてんのう)、つづいて809年に嵯峨天皇(さがてんのう)になった。\n嵯峨天皇(さがてんのう)のとき、薬子の変(くすこのへん)が起きた。しかし、薬子の変は失敗に終わった。\n薬子の変[1]とは、810年に藤原薬子(ふじわらの くすこ)とその兄 藤原仲成(ふじわらの なかなり)が、平城太上天皇(平城上皇)をふたたび天皇の地位につけようとして失敗した事件。「平城太上天皇の変」ともいう。\n嵯峨天皇は、あらかじめ蔵人所(くらうどのところ)を設置し、機密をあつかった。\n蔵人所の長官を蔵人頭(くらうどのとう)という。蔵人頭(くらうどのかみ)には、藤原冬嗣(ふじわら ふゆつぐ)らが任命された。\nまた、京都の治安維持・警察をつかさどるために検非違使(けびいし)を置いた。\n(※ 参考: )検非違使が創設される前は、京都の治安維持・警察などの仕事は、複数の官庁(衛府(えふ)、刑部省、弾正台、京職など)に分散されて処理がされていた[2]。つまり、検非違使長の創設により、それらの処理がひとつの官庁に一元化された事になる。一説には、いわゆる「縦割り行政」の弊害を解消するという目的もあって京都という地域限定だが検非違使が設けられたのだろう、という説もある。[3]\nこれら新設の官職は令(りょう)には規定がないので、令外官(りょうのげかん)と呼ばれた。\n検非違使も、令の規定によらずに犯罪人の取り締まりができた。(※ 東京書籍の見解)\nまた、これら令外官では、家柄にとらわれずに有能な人材を登用できた。(※ 東京書籍の見解)\nまた、嵯峨天皇は、律令を補足した格(きゃく)と、官庁で施行する際の細則である式(しき)とを整備した。\n嵯峨天皇のもとで、820年ごろ、光仁格式(こうにん〜)が出来た。\nのちの天皇のもとで、「貞観格式」(じょうがん〜)・「延喜格式」(えんぎ〜)が出きた。これら3つ(光仁格式、貞観格式、延喜格式)をあわせて三代格式という。\n(823年に嵯峨天皇は、つぎの天皇に皇位をゆずって退位する。)\n(833年には、)令(りょう)の条文の解釈を統一するための注釈書として『令義解』(りょうのぎげ)がつくられた。\n(842年、嵯峨 元天皇が死没。)\n唐で仏教を学んだ最澄(さいちょう)と空海(くうかい)が日本に帰国して、仏教の知識も日本に持ち帰る。\n空海は、唐では、インドから中国に伝えられたばかりの真言密教(しんごん みっきょう)を学んでいた。\n空海が日本で密教(みっきょう)[4]を広めた。(いっぽう、最澄が広めたのは法華経(ほけきょう)。)\n空海は、高野山(こうやさん)に金剛峰寺(こんごう ぶじ)を建て、密教にもとづく真言宗(しんごんしゅう)をつくった。\nまた、最澄は比叡山(ひえいざい)に延暦寺(えんりゃくじ)をひらき、天台宗(てんだいしゅう)をつくった。\n天台宗・真言宗の寺院の多くは、山中に建てられた。\n天台宗も、しだいに密教の影響を受け、最澄の弟子の円仁(えんにん)・円珍(えんちん)が唐に留学して密教の知識を日本に持ち帰り、天台宗は密教化した。\n真言宗の密教を東密(とうみつ)という。いっぽう天台宗の密教を台密(たいみつ)という。\nまた、従来の宗派でも山岳修行をしていたが、これらが天台・真言宗とむすびつき、修験道(しゅげんどう)が流行した。\n密教の特徴として、加持(かじ)祈祷(きとう)など、呪法(じゅほう)的なお祈りで悟りが開けるとされる。\nこれらの特徴が、現世利益(げんぜりやく)を求める貴族に好まれた。また、密教は、経典よりも山岳修行などの修業を重んじる傾向がある。\nいっぽう、奈良時代の後半から既に、日本古来の神々と仏教とをむすびつける神仏習合(しんぶつ しゅうごう)の考えがあった。\nこのため、神社の境内(けいだい)に神宮寺(じんぐうじ)を建てたり、神前(しんぜん)で読経(どきょう)する風習などがあったが、密教の普及とともに、これらの風習も普及した。\n大和の室生寺(むろうじ)では、伽藍(がらん)も地形に応じて自由に配置された。\n文芸では、漢詩・漢文が流行した。\n勅撰漢詩文集の『凌雲集』(りょううんしゅう)、『文華秀麗集』(ぶんかしゅうれいしゅう)、『経国集』(けいこくしゅう)などが編纂(へんさん)された。\nまた、空海の漢詩文をあつめた『性霊集』(しょうりょうしゅう)もつくられた。\n書道では、唐風の書が好まれ、嵯峨天皇・空海・橘逸勢(たちばなの はやなり)は三筆(さんぴつ)と呼ばれた。\n有力な氏族たちは、一族から優れた官吏(かんり)を出すために、氏ごとの塾・予備校的な寮(りょう)の大学別曹(だいがくべっそう)を建てた。\nまた、空海は、大学や国学に入学できない庶民が仏教・儒教などを学べる綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を開いた。\n大学別曹 和気(わけ)氏の弘文院(こうぶんいん)、藤原氏の勧学院(かんがくいん)、橘(たちばな)氏の学館院(がくかんいん)、在原(ありわら)氏の奨学院(しょうがくいん)、などがある。\n絵画では、密教の世界観をあらわす曼荼羅(まんだら)が描かれた。\n彫刻では、一本の大木を彫って作る一本造(いっぽんづくり)が流行した。\nまた、不動明王(ふどう みょうおう)の絵画や彫刻がつくられた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E9%81%B7%E9%83%BD%E3%81%A8%E6%94%BF%E6%B2%BB%E6%94%B9%E9%9D%A9"} {"text": "藤原北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)は、嵯峨天皇の信任を得て、冬嗣は蔵人頭に任命された。また、冬嗣の娘は、皇太子の妃になった。\n冬嗣の子の藤原良房(よしふさ)が、842年の承和の変で、大伴・橘氏の勢力をそいだ。\n858年に、幼少(9歳)の清和天皇が即位すると、藤原良房が外祖父として実権をにぎり、良房は摂政(せっしょう)になった。\nさらに応天門の変[1]で、伴氏などが失脚し、ますます藤原氏が権力をにぎった。\n応天門の変(おうてんもん の へん)ののち、良房は正式に摂政に就任した。\nついで、良房の甥(おい)から養子になった藤原基経(もとつね)が、幼い陽成天皇(ようぜい〜)の摂政になり、884年には光孝天皇(こうこう〜)を即位させ、また、基経は関白(かんぱく)の地位についた。\n(897年に基経は死亡。)\n基経の死後、宇多天皇は、摂政・関白を置かずに、菅原道真(すがわらの みちざね)を重用した。\nしかし、つづく醍醐天皇のときに、藤原時平(〜ときひら)の策謀により菅原道真は太宰府に左遷(させん)された。\n醍醐・村上の両天皇は、摂政・関白を置かず、天皇みずからの親政を行った。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%8F%B0%E9%A0%AD"} {"text": "国司が任国に代理人である目代を行かせて、国司本人は京に在任する制度も認められた。また、代理人として目代(もくだい)を任国に行かせて、国司本人は在京する場合、このような国司のことを遥任(ようにん)という。または、そのような行為(代理人を任国に行かせて自分は在京する行為)のことも遥任(ようにん)という。\nいっぽう、代理人をつかわずに国司本人が任国に行く場合、このような国司は受領(ずりょう)と呼ばれた。\nまた、浮浪逃亡や偽籍の横行が増えたことで、戸籍や計帳による農民把握が難しくなり、班田が行われなくなり、課税の対象が人から土地へと変わった。\nそして、有力な農民に耕作を請け負わせた。また、耕作を請け負った有力農民のことを田堵(たと)という。\nまた田の管理区分では、田に、この請負人(田堵)の名前をつけて区分して管理したため、その田は「名田」あるいは「名」と呼ばれる\n10世紀後半ごろから、熱心に開墾をする領主があらわれ、11世紀には彼らは開発領主と呼ばれた。\n開発領主のなかには、国司による税の負担をのがれるため、中央の貴族に土地を寄進するものが現れた。このように寄進された土地は荘園(しょうえん)と呼ばれた。(のちの『百錬抄』(ひゃくれんしょう)や『愚管抄』(ぐかんしょう)などで「荘園」という用語がある。)\n寄進をうけた貴族は領家(りょうけ)とよばれた。寄進を受けた貴族が、さらに上級の貴族に寄進する場合もあり、その上級貴族は本家(ほんけ)と呼ばれた。\nいっぽう、寄進をした側の現地の管理者は、荘官(しょうかん)とよばれた。\n荘園は、しだいに、租税をまぬがれる不輸の権(ふゆのけん)を獲得した。\nまた、国司の派遣する検田使(けんでんし)などの役人の立ち入りをさせない不入の権も獲得した。\n9世紀から10世紀ごろ、地方でたびたび反乱が起き、鎮圧のため「押領使」(おうりょうし)や「追捕使」(ついぶし)と呼ばれた軍隊が地方に送られた。軍隊の現場管理者たちのなかには、鎮圧後も京都にかえらず、地方に土着する者もあらわれていった。\nこのような武装集団たちが武士となっていった。\n10世紀の前半、関東の有力武士の平将門(たいらの まさかど)は、下総(しもうさ)を根拠地として、一族と争っているうちに、国司とも対立し、将門は939年に常陸(ひたち)の国府を襲い、将門は反乱を起こした(平将門の乱)。さらに下野(しもつけ)・上野(こうづけ)の国府も襲った。そして、将門みずからを新皇(しんのう)と自称した。しかし940年、平貞盛(たいらのさだもり)と藤原秀郷(ふじわらひでさと)によって、平将門の反乱は鎮圧され、将門は討たれた。\n同じころ、元・伊予(いよ)の国司であった藤原純友(ふじわら すみとも)が939年、瀬戸内海の一帯の地域で反乱を起こし、941年には太宰府を攻め落とした(藤原純友の乱)。しかし、同949年、小野好古・源経基らによって討たれた。\n1028年には関東の房総半島で平忠常(たいらのただつね)が反乱したが、源頼信(みなもとの よりのぶ)が鎮圧した。\nこれ鎮圧の以降、関東で源氏の影響力が高まる。\n1051年、陸奥で豪族の安倍氏が乱を起こす。頼信の子の頼義(よりよし)とその子(つまり頼信の孫)の義家(よしいえ)が、現地に下り、東国の武士をひきいて戦い、豪族の清原(きよはら)氏の援けを得て、安倍の反乱を鎮圧した。(前九年合戦(ぜんくねん がっせん) )\nその後、安倍氏にかわって奥羽で権力を得た清原(きよはら)氏に内紛が起き、義家はこれに介入し、1083年に藤原清衡(〜きよひら)をたすけて、反対派を鎮圧した。(後三年合戦(ごさんねん がっせん) )\nこののち奥羽では、清衡および その子の基衡(もとひら)と孫の秀衡(ひでひら)による奥州藤原氏が、陸奥(むつ)の平泉(ひらいずみ)を拠点にして支配し、約100年にわたって繁栄した。\nまた、これらの合戦の成果により、源氏の東国支配は確固たるものになった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%96%B9%E6%94%BF%E6%B2%BB"} {"text": "この平安のころ、十二単(じゅうにひとえ)とか、竹取物語などの日本文学が流行ったので、平安期の文化のことを、日本風の文化という意味で、歴史用語で「国風文化」ということが多い。\nしかし、この時代、外国由来の仏教や密教なども、ひきつづき、流行していた。\nこの時代、宗教では、「国風」という名前に反して、外来文化である密教や陰陽道(おんみょうどう)も流行していた。\nまた、陰陽道などでの方角に関する考え方により、縁起の悪い方角を避ける「方違え」(かたたがえ)などの風習も生まれた。\nまた、従来からあった神仏習合(しんぶつ しゅうごう)の考えは、この時代、より具体化し、神は仏が姿を変えた仮の姿(権現(ごんげん) )であるとする本地垂迹説(ほんち すいじゃくせつ)となった。\n漢字の草書体をくずした かな文字(平仮名)は、貴族社会では、和歌や文学で用いられた。だが、公文書では、かな は用いられなかった。\nまた、かな の普及により、多くの和歌や文学がつくられるようになった。\n『竹取物語』(たけとり ものがたり)は、いつ誰がつくったのか不明であるが、日本最古の かな物語 であると考えられる。(『竹取物語』の作者は不明なので、検定教科書では紹介してない。)\nまた、前提として、かな文字が普及している必要がある。\n※ なお、紀貫之(きの つらゆき)が、(日本最古の)日記文学として『土佐日記』(とさにっき)を、かな文字をつかって書いている。なので、『竹取物語』も、この頃の時代の作品だろうと考えられている。\nかなが普及したことにより、かな文字の文学が作られていくようになり、かなの和歌を多く含む勅撰の和歌集である『古今和歌集』がつくられた。\n在原業平(ありわらの なりひら)など実在の人物を題材にした歌物語である『伊勢物語』も、書かれた。\nまた、『源氏物語』を書いた紫式部は、藤原道長の娘の中宮彰子(ちゅうぐう しょうし)に仕えた。\nなので、その頃の時代の人である。\n随筆では、清少納言(せい しょうなごん)の『枕草子』(まくらの そうし)がある。\nなお、この時代、日記の使いみちは、文芸のほかにも、貴族の各家庭で子孫のための歴史書としても日記は書かれた。(※ 実教出版などの教科書で紹介。)これらの日記でも、漢字とともに平仮名が活用された。\n「国風文化」という名とは裏腹に、仏教では、釈迦の没後から2000年後と考えられる西暦1052年に世界が乱れるだろうと不安視する末法思想(まっぽう しそう)が流行した。\nこのような思想のなか、死後は、けがれた地上に生まれ変わるのではなく、天国の浄土(じょうど)への生まれ変わり(往生(おうじょう) )を願う浄土教(じょうどきょう)が流行した。\n985年に僧侶の源信(げんしん)は、『往生要集』(おうじょうようしゅう)を著した。\nまた、10世紀、空也(くうや)が京都で念仏を布教した。\nまた、貴族によって、各地に阿弥陀堂(あみだどう)が建てられた。\n京都の宇治(うじ)にある平等院鳳凰堂(びょうどういん ほうおうどう)も、阿弥陀堂のひとつであり、平等院鳳凰堂のなかには阿弥陀如来像がある。\nこの時代の男子は、元服(げんぶく、げんぷく)という儀式を経ることで成人と見なされていた。\n元服は、およそ数え年で12から16歳の時に行われる(時代や階級で前後する)。また、貴族の女子の場合は、裳着(もぎ)という儀式を行うことで成人したものとされた。元服にともない、貴族の男子は官職を得て、朝廷に仕えた。\nまた、この時代、宮中で、元旦や 節会(せちえ)や 新嘗祭(にいなめさい)などの年中行事が発達した。新嘗祭や大祓(おおはらえ)などの神事も、この平安時代の年中行事に含まれる。\n男性貴族の正装は束帯(そくたい)だが、普段着として、束帯を簡素化した直衣(のうし)や、簡単な構造で動きやすい狩衣(かりぎぬ)や布衣(ほい)などの衣服も着用された。\n庶民の男性も、晴れ着(はれぎ)として、水干(すいかん)などを着ることもあった。\n女性の正装は、女房装束(にょうぼうしょうぞく)である(いわゆる十二単(じゅうに ひとえ) )。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "11世紀のなかば、藤原氏を外戚としない後三条天皇(ごさんじょう てんのう)が即位したので、摂関政治が終わった。\n後三条天皇は1069年に延久の荘園整理令(えんきゅう の しょうえん せいりれい)を出し、記録荘園券契所(きろく しょうえん けんけいじょ)を設置し、基準に満たない荘園を停止した。 摂関家も例外なく、多くの荘園を停止された。 \n(後三条天皇は、院政を行ってない。)\nつづいて、後三条の子の白河天皇(しらかわ てんのう)が即位したが、1086年に退位して幼少の堀河天皇(ほりかわ てんのう)に皇位をゆずり、白河みずからは上皇となった。\nそして、上皇みずから、政治を行った。\nこのような、上皇による政治のことを院政という。\n院とは、もともとは上皇の住まいのことだったが、しだいに上皇じしんを指し示すようになった。\n白河上皇、鳥羽(とば)上皇、後白河(ごしらかわ)上皇が、院政を行い、100年ほど院政が続く。\n白河上皇は、院の御所に警備のため北面の武士を設けた。\n歴代の上皇の院政の仕組みでは、上皇は院庁(いんのちょう)を設けた。国政は、上皇が太政官(だじょうかん)に指示して、実行された。\n院政では、上皇の意志を伝える文書である院宣(いんぜん)や、院庁から下される文書である院庁下文(いんちょうの くだしぶみ)が権力をもった。\nこの頃から国司ではない公卿や寺社に、律令国の国司推薦権と税などの収益を得る権限を与える知行国の制度が広まった。背景として、俸禄制度が崩壊して朝廷が公卿への給与を支払うことができなくなったことがあげられる。つまり、知行国からの収益を公卿への給与の代わりとしたのである。また、上皇が院近臣らに、あたかも私領のように知行国を与えることによって奉仕させることも可能になった。\n荘園の制度は、この時代もひきつづき、存続した。ますます、荘園の独立性は高まっていき、中央政府は貴族や寺社の荘園からは租税などを取りづらくなった。\nこの頃、寺社が武装するようになった。寺社は、下級僧侶や領民を武装させて僧兵(そうへい)として組織した。また、僧兵らは、たびたび、貴族など相手に神木(しんぼく)や神輿(みこし)などをかついでデモ行進してくる強訴(ごうそ)を行い、要求を通そうとした。\n朝廷は、僧兵らの圧力に対抗するため、武士を重用したので、中央政界で武士の影響力が高まった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%99%A2%E6%94%BF%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B"} {"text": "鳥羽法皇は源平の武士を組織し、荘園を集積していったことで絶大な権力をえた。しかし、このことは鳥羽法皇の権勢の継承という問題を引き起こすことになる。1156(保元元)年、鳥羽法皇が死去すると、次の治天の君の地位をうかがう崇徳上皇と後白河天皇の対立が表面化する。\nまた、鳥羽法皇の治世末から藤原氏も摂関家の継承をめぐって、関白・藤原忠通と左大臣・藤原頼長が対立していた。\n崇徳上皇は権力を取り戻すために頼長らと手を結び、さらに源為義・為朝父子や平忠正らの武士を招集した。一方の後白河天皇は、鳥羽法皇の側近だった藤原通憲(信西)を参謀として、源義朝・平清盛・源頼政らの有力武士たちを動員し、上皇方に先制攻撃を加えた。兵力に劣る上皇方はすぐに総崩れとなり、崇徳上皇は降伏した。この戦いを保元の乱という。\nこの結果、崇徳上皇は讃岐に流され、為義らは処刑された。この戦後処理では、400年ぶりに上皇が島流しとされたこと、約350年ぶりに死刑が行われたことで当時の貴族たちに大きな衝撃を与えることになった。そして、武士が単なる警護役ではなく政治闘争にも関わるようになったことも貴族層に強く印象付けることになった。後に『愚管抄』を記述する慈円はこの乱によって「武者の世」になったと評した。\n保元の乱ののち、後白河天皇は退位し、院政を開始した。この時に政治の主導権を握ったのが藤原通憲であった。通憲は平清盛と手を結び、荘園整理や悪僧・神人の取り締まりなどを行い、時代の変化に対応した政治を行った。しかし、今度は後白河上皇の近臣同士の対立が激しくなり、権勢をもつ通憲への反発が強まった。\n1159(平治元)年、通憲に反感を持つ藤原信頼は、清盛が熊野詣に出かけた隙をついて源義朝とむすんで挙兵し、通憲を自害に追い込み、後白河上皇と二条天皇を幽閉した。しかし、帰京した清盛が六波羅の自邸にもどり、二条天皇を脱出させて信頼・義朝討伐の宣旨(命令)を得ることに成功する。そのため、清盛は多くの武士をまとめることに成功し、信頼・義朝らを倒した。信頼は処刑され、義朝は再起を図るために東国に向かう最中に殺害された。そして、義朝の子の頼朝は伊豆に流された。これが平治の乱である。\n保元・平治の乱の結果、藤原氏の力はさらに落ち込み、源氏をはじめとする多くの武士も没落・滅亡した。一方で、平清盛の地位は、唯一の武家の棟梁として急速に高まっていった。\n平氏は清盛の父・忠盛の頃から日宋貿易に力を入れていた。11世紀後半から日本・宋・高麗との間での商船の往来は活発化しており、貿易の利益は清盛にとって重要な経済基盤となっていた。\nこうした豊かな財力を背景にした後白河上皇への奉仕と軍事力は清盛の権勢を大いに高め、1167(仁安2)年には武士として初めて太政大臣に就任する。清盛本人だけではなく、嫡子・重盛をはじめとした一族も高位高官にのぼり、最盛期には10数名の公卿、殿上人30数名を輩出することになる。\n清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れる。徳子と高倉天皇の間に皇子が誕生し、安徳天皇として即位すると清盛は外戚として権勢を誇るようになる。\nその間に荘園は500余りを所有するようになった。こうした清盛を中心とした政権を平氏政権、あるいは六波羅政権という(六波羅は清盛の邸宅の場所)。\n平氏政権は従来の朝廷の組織にのっとったもので、平家一門が官職を独占して政権を運営していた。一方で、清盛らとの縁の薄い貴族や他の武家は政権から排除されていたため、徐々に平氏政権に対する不満が高まっていった。また、後白河法皇と清盛との関係も微妙なものとなっていた。そうした中、1176年に後白河法皇の妃で清盛の妻の姉妹であった建春門院滋子が病没し、清盛と法皇・近臣との対立が深まっていった。\n1177年、後白河の近臣である藤原成親や信西の弟子であった西光、僧の俊寛らが京都郊外の鹿ケ谷で平氏打倒の計画をするが失敗した(鹿ケ谷の陰謀 。\nそして1179年、清盛の嫡男であり法皇と清盛の調整役であった平重盛が死去するなどの出来事が積み重なると対立は決定的なものとなる。同年11月、清盛はクーデターを起こして関白をはじめとした多くの貴族たちを左遷または官職を剥奪し、後白河を幽閉した。受領も平氏または平氏に近い者に交代させられ、一門の知行国は32か国に急増した。\nこうして、平氏は独裁的な強権を手に入れた。しかしこのことがかえって平家一門への反感を強め、反平氏の勢力を結集させることになる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%83%BB%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1"} {"text": "この時代、歴史への関心が高まり、『大鏡』(おおかがみ)や『今鏡』(いまかがみ)などの歴史物語がつくられた。また、藤原道長の逸話を書いた『栄花物語』(えいがものがたり)も書かれた。いっぽう、『大鏡』は、藤原氏に批判的な視点で書かれている。\nまた、『大鏡』や『栄花物語』の文体は、仮名(かな)書きである。\nまた、新興勢力である武士への関心が高まったことから、軍記物への関心も高まり、平将門の乱を書いた『将門記』(しょうもんき)や、前九年の役を書いた『陸奥話紀』(むつわき)も書かれた。\nまた、絵巻物(えまきもの)がつくられ、『源氏物語絵巻』や『伴大納言絵巻』(ばんだいなごん えまき)、『鳥獣戯画』(ちょうじゅうぎが)もつくられた。\n当時の民間の流行の歌謡のひとつに今様(いまよう)というのが、あった。後白河は今様を好み、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)を編纂した。\nこのほか、民間では、田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)などの芸能も流行していた。\nこれらの歌謡は芸能は、貴族のあいだでも流行していた、という。\nインド・中国(チャイナ)・日本の仏教説話をあつめた『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)もつくられた。\n建築物では、この時代に奥州藤原氏によって、中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)が平泉(ひらいずみ)に建てられた。\nこのほか、各地の豪族により、陸奥に白水阿弥陀堂(しらみずあみだどう)、九州に富貴寺大堂(ふきじ おおどう)などが建てられた。\n(これらの建築物の分布からも推測できるように、)この時代には、日本全国の各地に仏教や浄土教が普及していった、と考えらている。\nまた、平家が厳島神社(いつくしまじんじゃ)に納経した『平家納経』にも、絵画が描かれている。\n『扇面古写経』に、絵画あり。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%99%A2%E6%94%BF%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "1179年に平清盛は後白河法皇を幽閉し、平氏の専制体制を作り上げた。このことは他の有力貴族や寺社の不満を高めることとなった。1180年に清盛が、娘の徳子の産んだ安徳天皇を即位させると、後白河法皇の第2皇子の以仁王が源頼政とともに挙兵した。これに清盛は速やかに対応し、以仁王らを攻撃した。頼政は宇治で戦死し、以仁王も奈良に逃亡する最中に討ち取られた。\nこうした中、同年6月に清盛は都を摂津の福原に移した。この遷都は瀬戸内海の支配を確保し、平家の指導力を高めるための拠点移動であった。だが、貴族の反対に加え、南都北嶺の僧兵や畿内の源氏の活動が活発になったために半年で京に都を戻した。\n以仁王は敗死したが、挙兵と同時に諸国の武士に平氏討伐の令旨を出しており、各地でこれに呼応した各地の武士(在地領主)が立ち上がった。こうして全国に反平家勢力が挙兵したことによって起きた内乱を治承・寿永の乱と呼ぶ。反平家勢力の中でも有力だったのが、平治の乱で敗れて伊豆に流されていた源頼朝、および信濃国木曽の源義仲であった。\n源頼朝は、叔父の源行家によって伝えられた以仁王の令旨に応じ、1180年8月に妻・政子の父である北条時政らと挙兵して伊豆国目代の館を奇襲した。目代への襲撃は成功するものの、頼朝挙兵の報を受けた平家方の大庭景親が3000騎の大軍を率いて頼朝討伐を開始した。兵力の乏しい頼朝軍は石橋山(神奈川県)で迎撃するも大敗する(石橋山の戦い)。頼朝は安房国(千葉県南部)へと逃れ、再起をはかった。安房で北条氏とともに挙兵した三浦氏とも合流し、源氏に仕えていた武士たちも頼朝の下に集まりはじめた。そして、千葉常胤や上総広常などの有力な豪族が頼朝に従うと形勢は頼朝の方へ一気に傾いた。そして、同年10月には平家方の大庭らの平家方豪族を倒して源氏ゆかりの地である鎌倉に入った。\n清盛は孫の平維盛を大将とした討伐軍を派遣するが、平家軍は駿河国富士川での頼朝軍との合戦(富士川の戦い)に敗北する[1]。しかし、勝利した頼朝は御家人の意見を取り入れてそれ以上の進軍を行わず、鎌倉に帰還して東国経営に専念する。\n大敗した平家も立て直しを図り、以仁王に味方した大寺社を焼討し、畿内の源氏勢力を討伐した。特に、1180年12月には反平家の動きを見せた興福寺を、清盛が息子の平重衡に命じて攻撃した南都焼打ちは興福寺と東大寺の堂塔伽藍を焼失させ、奈良の街にも大きな被害をもたらした。しかし、翌1181年2月に清盛が死去する。加えて、畿内・西国を中心とした飢饉(養和の飢饉)は、西国を拠点とする平家に深刻な打撃を与えることとなった。\n頼朝のいとこにあたる源義仲は拠点である信濃国で挙兵した。義仲は1181年6月に平家方の豪族を倒すと、北陸道の反平家勢力をまとめ上げて勢力を急拡大する。1183年、平家が再び維盛を大将とした義仲討伐軍を派遣するも、加賀国と越中国の国境にある倶利伽羅峠の戦いで義仲軍に大敗してしまう。勢いに乗った義仲軍は平家方を追撃し、同年7月には京都に進軍してきた。畿内の反平家勢力もこれに呼応するように進撃をはじめた。防衛が難しいと判断した平家は京都を放棄し、安徳天皇を連れて拠点である西国に撤退する(平氏都落ち)。その際、平家方は後白河法皇も西国へと連れ出すことを企図していたが、法皇はいち早く比叡山に脱出しており、失敗した。\n入京した義仲は、当初こそ後白河法皇から軍功を称賛されたものの、安徳天皇の次の皇位をめぐる問題から法皇・朝廷との関係が急速に悪化する。さらに飢饉によって疲弊していた京都の市街では義仲軍だけでなく他の反平家勢力も混在していたこともあり、義仲の統制が十分にはなされなかった。そのため、都の治安が急速に悪化し、兵たちによる略奪が横行した。こうした失態を挽回するべく義仲は同年9月に西国へと出陣した。\nしかし、義仲が京都を発つ頃には後白河法皇と頼朝とが交渉を始めていた。同年(1183年・寿永2年)10月、交渉の末、頼朝による東海・東山両道の支配権を承認された(寿永二年十月宣旨)。これにより、頼朝は公式に赦免された。\nそして、頼朝は弟の源範頼および源義経を将とする軍勢を京に派遣する[2]。源義仲は防戦するも、もはや義仲に付く武士は少なかった。1184年1月、義仲は近江国粟津にて討死した。\n義仲と頼朝が争っている間に平家は福原まで進出し、京都奪還をうかがうまでに勢力を回復した。後白河法皇は義仲が討たれると、すぐさま平家討伐の院宣を頼朝に下す。1184年2月、源氏勢は摂津国一の谷での決戦に勝利する。こののち、頼朝勢は義仲の残党や平家に与する勢力を掃討または臣従させ、平家の拠点たる九州・四国まで勢力を伸ばすことに成功する。1185年2月には讃岐国屋島を急襲して平氏を破る(屋島の戦い)。そして、同年3月には長門国の壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡し、安徳天皇も海中に没した。\n治承・寿永の内乱は源平合戦とも言われ、源氏と平氏の勢力争いのように描かれることが多い。軍記物では「源平の宿命的な対立」も強調されがちである。しかし、実のところ全ての源氏が頼朝に、全ての平氏が平家[3]の下についたわけではない。例えば、頼朝とともに挙兵した北条氏・三浦氏は平氏であった。一方、古くからの源氏の家人は当初、頼朝の挙兵には否定的な者も少なくなかった。また、同じ清和源氏である常陸(茨城県)の佐竹氏は平家に近かったため、頼朝から討伐された。\n治承・寿永の内乱の背景には、平家による権力の独占に対する反発に加えて、所領の拡大を目指す在地領主と国司・荘園領主との対立があった。自らの知行国を増加させて荘園の集積も行った平家一門は、地方政治の矛盾を一手に引き受けてしまった上に有効な手を打てなかったのである。そのことが平家への反発を強めることになったのだ。そして、在地領主はあくまで自らの要求に最も応える可能性のあるものに従ったのであり、「源氏の棟梁」という理由で頼朝に従ったわけではない。\nそのため、頼朝以外にも武家の棟梁となりうる者もいた。平家一門を都落ちさせた源義仲、以仁王の令旨を届け、交渉力に長けた源行家、甲斐源氏の棟梁であり富士川の戦いで頼朝の勝利に貢献した武田(源)信義、さらには清盛の後継者である平宗盛にも棟梁となるチャンスはあった。しかし、在地領主や荘園の荘官、諸国の在庁官人たちの要求に最もよく応えられた頼朝だけが彼らを御家人としてまとめ上げ、武家の棟梁となることに成功したのだった。\n鎌倉は東海道の要衝であり、三方を山で囲まれ、南は海に面した天然の要害であった。さらに、頼朝の五代前の先祖である頼義が鶴岡八幡宮を建立したこともあり、鎌倉は源氏ゆかりの地でもある。こうしたことから、頼朝は鎌倉を拠点として関東統治のための機構をつくりあげる。頼朝は鎌倉を動かず、合戦はもっぱら弟の源範頼と源義経に任せていた。\n1180年、富士川の戦いの後、頼朝は有力武士たちとの主従関係を明確なものとし、頼朝に直属する武士たちは御家人と呼ばれるようになり、頼朝は後に鎌倉殿と呼ばれるようになった。そして、御家人たちを統括する部署として侍所が設けられた。その別当(長官)に任じられたのが関東の有力豪族であった三浦一族の和田義盛であった。\n1184年には政務や財務を取りしきる公文所と裁判事務を担当する問注所が開かれた。公文所は後に整備が進み政所となる。公文所(政所)別当には元々朝廷の下級官吏であった大江広元が、問注所執事(長官)には下級官吏出身の三善康信が招かれた。\n1185年、後白河法皇は、平家滅亡後に頼朝の勢力をそごうとして義経と叔父の行家に西国の武士の指揮権を与えて頼朝追討を命じる。だが、武士たちは義経らにつくことはなく、孤立してしまう。そして、頼朝は軍勢を京に送って後白河にせまり、追討令を撤回させる。加えて、御家人を守護[4]として各国に置く権利を獲得する。また、荘園や国衙領にも地頭を置いて兵糧米を徴収する権利も獲得した(文治勅許)。すでに東国は頼朝の支配下にあったので、実質的には、頼朝は西国の支配権を手に入れたことになる。\n同年、京都に京都守護を置き、京都の警備と在京御家人の統率を命じた。九州には鎮西奉行を置き、地方の御家人を統率させた(1189年に奥州藤原氏が滅亡すると、奥州には奥州総奉行が置かれる)。一方、朝廷でも頼朝の後援を受けた九条(藤原)兼実が内覧、ついで摂政の地位に就く。兼実は貴族の合議を重視したため、後白河法皇の権力を牽制することになる。また、兼実は頼朝との協調路線をとっていった。\nかくして頼朝が実質的に全国支配をする体制が出来上がった。そのため、1185年を鎌倉幕府成立とすることが通説となっている。\nこうして頼朝は日本のほとんどの支配権を確立したが、未だ奥州には奥州藤原氏が残っていた。頼朝と対立した義経をかくまった藤原秀衡が没し、跡を継いだ藤原泰衡は頼朝との協調を目指して義経を自害に追い込む。だが、1189年、頼朝は大軍を率いて奥州へと攻め込み、奥州藤原氏を滅亡させる。これによって、頼朝に対抗する武家勢力は全て滅亡または従属して御家人となった。\n後顧の憂いのなくなった頼朝は、1190年に上京し、右近衛大将に任ぜられた[5]。1192年の後白河法皇の死後、源頼朝は征夷大将軍に任命された。こうして、名実ともに鎌倉幕府が成立した。\n今(2022年)の40歳代以上の年代に鎌倉幕府の成立年を聞けば、たいていの場合「いい国つくろう鎌倉幕府」の言葉とともに1192年という答えが返ってくるだろう。\nしかし、現在では1192年を鎌倉幕府成立とする教科書・テキストはない。現行の小中高の日本史教科書では1185年を鎌倉幕府成立としていることが多いが、これは頼朝が「日本国惣追捕使(守護)」「日本国惣地頭」の地位を獲得し、守護・地頭の任命権を持ったことを根拠とする。しかし、中世史研究者の間では以下の6説が提示されている。\n古くからの説は5と6であるが、これは「幕府」という言葉が近衛大将や将軍の館の意味に由来したことに基づく説である。すなわち、「頼朝が近衛大将・将軍となったこと」に注目したものと言える。現在、この2説に人気がないのは、既に頼朝が統治のための機構を作り上げつつあったことよりも「将軍」という形式にのみ注目しているからといえる。\n一方、1~4は「鎌倉幕府」が軍事政権としての実体を持つようになった時期、つまり「どの段階で頼朝が政権を握った」と言えるか注目したものである。現在有力視されている4は頼朝の権力を全国に広げる契機に着目した説である。だが、鎌倉幕府の「頼朝による東国の支配権の確立」という性格に着目すれば2ないし3の説が、さらにその実効支配までさかのぼるならば1の説も主張される。\nこうした見解の相違は、結局のところ「武家政権=幕府なのか」「将軍がいなくとも幕府と言えるか」「そもそも武家政権の権限はどこまで有効だったのか」などといった「幕府とは何か」という根本的な問いに由来する。\n平安後期以降、武士は上皇・女院・摂関家・有力貴族と主従関係を結んでいた。この関係は後年に比べると非常に緩やかで、複数の有力者を主人とすることはごく当たり前のことであった。争いの中で、武士は自らの利益となる集団を選んだため、合戦の前後で主人を変えることも普通に行われた。\n頼朝が挙兵し、鎌倉に入ると関東の武士たちは頼朝を主人と仰ぐようになる。それは頼朝が源氏の血筋だったからではなく、自分たちの権益を庇護する存在とみなしたからであった。頼朝の権力が公認されて勢力を拡大させていくと、関東以外の武士も頼朝に仕えるようになる。こうして、頼朝とその下に服属した武士は当時としては非常に強固な主従関係を結ぶ。\n頼朝は鎌倉殿と呼ばれる一方で、彼に服属した武士は御家人と呼ばれた。頼朝は御家人に対して、先祖伝来の土地や新たに開発した私領を本領として確認し、その支配を承認した。これを本領安堵という。これは土地所有をめぐって国衙や他の勢力との争いが頻発していた中で、特に重要なことであった。また、新たに軍功などの功績があれば、それに応じて新たに領地を与えられたり、守護や地頭職に任ぜられたりすることもあった。これは新恩給与という。他に朝廷への官職推挙も行われた。こうした頼朝(鎌倉殿)から御家人に対して行われた恩恵を御恩という。\n一方で御家人は主君たる鎌倉殿に奉仕する、奉公が義務付けられた。奉公の内容は、第一に戦時に一族郎党を率いて出陣する軍役であった。いわゆる「いざ鎌倉」とよばれる非常時には真っ先に鎌倉に駆けつけるのである。平時には、京都に滞在して内裏などを警護する京都大番役、鎌倉の将軍御所を警護する鎌倉番役が課せられた[6]。\n御家人は戦時には将軍・幕府のために命がけで戦った。平時の番役も自弁であり、御家人の負担は重いものだった。しかし、それでも幕府・将軍に仕えたのも、土地の給与を媒介とした主従関係ができたからであった。こうした関係を封建関係といい、これが政治的・軍事的制度となったのが封建制度である。そして、鎌倉幕府は封建制度に基づく、最初の政治体制だった。\n一方で、この時代はまだ朝廷や荘園領主たる有力貴族や大寺社の権威と権力は強く残っていた。守護・地頭の任命権は幕府にあったものの、その設置には朝廷の承認を必要とした。また、平安時代に引き続いて朝廷が国司を任命し、国政全般を朝廷が担うという形式そのものは維持された。\n経済的にも荘園公領制を前提としており、有力貴族や大寺社は荘園や公領からの収益の多くを得ていた。つまり、政治経済両面において、幕府と朝廷、幕府と荘園領主という二元的な支配体制が敷かれたのである。これを公武二元支配という。こうした二元支配は地方政治や土地制度だけでなく、御家人の主従関係にもおよんだ。御家人は鎌倉殿たる頼朝と主従関係を結んでいたわけだが、以前からの朝廷・有力貴族・寺社との関係も維持することもあった。\n公武二元体制に対して、朝廷・寺社・幕府は相互補完的な関係であり、この三者によって国政が進められたとする説がある。この説に基づく政治体制を権門体制という。この説によれば、朝廷は王家[7]・摂関家を戴き法令発布・官職任免・儀礼を担当し、大寺社は宗教権威を有し、幕府が軍事・警察を担当し、ゆるやかに国家を構成したとされる[8]。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B"} {"text": "鎌倉時代、商業や工業も発展していった。\n手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶(かじ)職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになった。衣料品などの手工業者もあらわれた。\n農工業の発達もあって商業も発達した。定期的に市場(いちば)をひらく定期市(ていきいち)が、寺社などの近くで、毎月3回ほど決まった日に市が開かれはじめるようになった。この毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。\n商業には貨幣が必要なので、中国大陸から宋銭(そうせん)が多く、日本に輸入された。また、貨幣の流通とともに、銭を貸す高利貸し(こうりがし)もあらわれた。\n上述のように、鎌倉時代のころ、宋銭が日本全国的に貨幣として普及したと考えられている。つまり、貨幣経済が鎌倉時代ごろに日本全国的に普及したという事。つまり、鎌倉時代以前の地方の経済は、いまでいう「物々交換」や「現物交換」の経済が主体だった事である。\n裏を返すと、鎌倉時代以前の古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)や富本銭(ふほんせん)は、京都および京都の周辺など一部の地域でしか普及しなかった事[1][2]が、歴史学的には分かっている。貨幣の流通しなかった地方では、麻や布、稲などが貨幣の代わりとして役割をはたした[3][4]。\n平安時代のころ、地方でためしに和同開珎などが使われていた時期もあったが、しかし地方経済に混乱が見られたようで、そのせいもあってか中央政府(京都の朝廷)の命令により、和同開珎などを京都・奈良など畿内に回収する命令が地方に出されている[5]。\n高校教科書で習うが、708年ごろの和同開珎の鋳造のあとに、さらに 蓄銭叙位令(ちくせん じょいれい)を出して貨幣の流通を目指した。しかし上述するように、蓄銭叙位令にかかわらず、最終的に古代(平安時代の終わりまでが「古代」)日本では貨幣は、京都・奈良といった畿内とその周辺でしか普及しなかった。\nなお、日本で発行された通貨は、10世紀なかばまでに合計12~13種類の通過が発行されている。(けっして、和同開珎と富本銭だけが古代の通貨だったわけではない。和同開珎や富本銭は、初期に発行された貨幣だから中学教科書では紹介されているだけである。つまり、和同開珎のあとも、日本産の貨幣は数種類も発行されている[6])。\n平安時代には貨幣の鋳造が行われたが、しかし鎌倉時代になって、貨幣の鋳造が行われなくなった[7]。\nさて、鎌倉時代、通貨が普及してきたので、地方でも、年貢も銭で納税されることが増えてきた(「代銭納」[9]という)。地方の荘園などで、宋銭による年貢の代納が行われた事例[10]のある事も分かっている。\nまた、鎌倉時代、定期市の他にも、都市に限定だが、常設の小売店である見世棚(みせだな)という商売も登場してきた。\nさて、のちにモンゴル襲来などによって経済難になった武士が金融業者からカネを借りて借金苦になるわけだが、前提として金融業者が日本各地に普及しているわけであり、つまり、鎌倉時代には金融業者が登場しており、その鎌倉時代の金融業者は借上(かしあげ)といわれた。\nなお、鎌倉時代の後半ごろですが、武家における相続の風習が変わり、武士の世界では、\n上記の説明の前提ですが、鎌倉時代の前半は、まだ、分割相続の方式が主流です[11][12]。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88"} {"text": "北条泰時の後押しを受けて即位した後嵯峨天皇は、1246年に後深草天皇に譲位して院政をしいた。しかし、1259年には後嵯峨上皇の指示で後深草天皇の皇子ではなく、弟が即位して亀山天皇となった。1268年に後嵯峨法皇は死去するが、そのときに次の治天の君を定めなかった。そのため、天皇家は後深草上皇系の皇統持明院統と亀山天皇系の皇統大覚寺統に分裂した。両統は皇位継承や院政権、皇室荘園領の相続などをめぐって対立した[1]。両統とも鎌倉幕府に働きかけて次代の天皇を自統から出そうとした。幕府は両統が交代して皇位を継承する両統迭立を提案し、1317年には幕府の提起によって両統の協議がなされた(文保の和談)。そして、幕府はそれ以降、皇位継承には関与しないとした。\n文保の和談の後に、大覚寺統から即位した後醍醐天皇は父の後宇多上皇の院政を排して親政を敷いた。後醍醐天皇は平安時代の延喜・天暦の時代を天皇による親政が行われた理想的な時代と考えていた。そして、当時の最新学説であった宋学(朱子学)が君臣の別を説いていた(大義名分論)こともあって、天皇は幕府政治に不満を抱いていた。\n元寇や貨幣経済の浸透は御家人たちの窮乏を加速させた。これに対して、幕府は得宗専制を強化して幕府の指導力を高めることで対処しようとした。しかし、これによって御家人たちは幕政から排除されてしまった。\nまた、若くして死去する得宗が相次ぎ[2]、若年で得宗になる者も多くなった。そのため、得宗被官にすぎなかった御内人が幕府政務の処理にも大きくかかわるようになる。また、得宗家以外の北条一族の発言力も大きくなり、得宗の地位さえも形骸化しつつあった。\n9代目得宗(14代執権)の北条高時の頃には、政治を内管領の長崎高資とその父・長崎高綱(円喜)が担っていた。長崎親子を中心とする御内人の権勢は絶大なものとなり、御家人らの不満が高まっていた。\n幕府は御家人たちの支持を失いつつあった上、新たな流通や産業を基盤とした新興武士らを中心とした悪党の活動も活発化していた。幕府は悪党への対応にも追われ、ますます混乱していった。\nこうした状況を見て、後醍醐天皇は討幕の動きを進める。1324年には天皇と側近の日野資朝・俊基らが、畿内の武士と僧兵を味方につけて六波羅探題を襲撃する計画を謀議するものの、この計画は露見してしまう(正中の変)。しかし、このときの幕府の対応は日野資朝を佐渡への流罪に処しただけで、俊基は許され後醍醐天皇も責任を問われなかった。\nしかし、後醍醐天皇は討幕をあきらめてはいなかった。護良親王・宗良親王を比叡山の長である天台座主とし、僧兵の力を取り込もうとした。また、正中の変で許された日野俊基は山伏に変装し、畿内の武士をまとめようと試みた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1"} {"text": "日本が鎌倉幕府滅亡・南北朝の戦乱・室町幕府の成立と権力の形成という大きな政治的変動に揺れていたころ、東アジア世界全体の情勢が大きく変動しつつあり、それに伴って新たな国際関係がつくられつつあった。\n日本と元との間に正式な国交はなかったが、私的な貿易は盛んにおこなわれていた。その中でも代表的なものは、鎌倉幕府が地震によって被災した建長寺の再建費用を得ることを名目として1325年に派遣された建長寺船、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立を計画した、天龍寺の造営費を捻出するために1342年に派遣された天龍寺船である。\nこのころ、倭寇と呼ばれる海賊集団が東シナ海一帯で活発な活動を行っていた。規模は2・3艘ほどの小規模なものから数百艘にもなる大規模かつ組織的なものまであった。倭寇は朝鮮半島全域および中国沿岸部を荒らしまわり、捕らえた人々を売買したり、略奪を行ったりしていた。\nこのころの倭寇の拠点は壱岐・対馬・肥前松浦地方などであった。倭寇の構成員もこれらの地方出身者が中心であったが、朝鮮半島沿岸を襲撃した者は高麗人、中国沿岸部を襲った者は中国沿岸民もいたと推定され、多様な人々が関わっていたと考えられている。\nこうした14世紀に活動していた倭寇を特に前期倭寇という。明の要請を受けた足利義満が本格的に取り締まりを行ったこと、日明貿易や日朝貿易が始まったことで、前期倭寇の活動は下火になっていった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B"} {"text": "3代将軍 義満の子の足利義持(よしもち)は義満から将軍職を任命された。4代将軍 足利義持は、父 義満の没後に、外交において、明への朝貢という形式を嫌い、明と断交した。(しかし、のちに6代将軍 義教(よしのり)の代に貿易および国交を再会した。義教は、幕府の財政安定のためと、自身の権威確立(明から日本の将軍は「日本国王」とみなされた)のため、貿易を再会した。)\n6代将軍はクジ引きで選ばれ、足利義教(あしかが よしのり)が6代将軍になった。義教は、将軍権力の強化をねらって、1438年に関東に大軍を派遣して、長年対立してきた鎌倉公方(かまくらくぼう)足利持氏(あしかが もちうじ)を滅ぼした(永享の乱)。\nしかし、1441年に有力守護の一人である播磨(はりま)守護の赤松満祐(あかまつ みつすけ)によって義教は謀殺された( 嘉吉の変(かきつのへん))。まもなく、赤松氏は、幕府軍によって討伐された。\n義教の死後、将軍の権力は失墜し、以降の足利将軍は、強力な指導力を持てなかった。\n関東では、1460年代後半の応仁の乱よりも速く、すでに1440年代には持氏の死後の主導権あらそいによって、戦国の世に入っていた。\n1454年の享徳の乱により、関東は、持氏の子の成氏(しげうじ)による古河公方(こがくぼう)と、伊豆の堀越(ほりごえ)を拠点とする政知(まさとも)の堀越公方(ほりごえ〜)とが対立した。\nこうして、1450年代後半には、関東は戦国に突入した。(なお、戦国時代の関東南部の大名の北条氏は、15世紀末に、この堀越公方の領地をうばって大名になった。)\nのちに、1460年代後半の応仁の乱によって、(日本の)全国各地で戦乱が広まる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E8%A1%B0%E9%80%80%E3%81%A8%E4%B8%8B%E5%89%8B%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "詳しくは日本史探究「戦国大名の分国経営」2回分を参照して下さい。(現在執筆中)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E5%90%8D%E3%81%AE%E5%8F%B0%E9%A0%AD"} {"text": "戦国時代の織田信長の時代に、茶の湯(いわゆる茶道のようなもの)が武士のあいだに普及する。\nだが、茶の湯そのものは、けっして信長の時代に始まったわけではない。\n落ちついた感じの茶道が始まったのは、室町時代の後半(東山文化)であり、そのころの村田珠光(むらた じゅこう)が 侘び茶(わびちゃ) を始めた。\nなお東山文化(ひがしやま ぶんか)とは、銀閣を8代将軍 足利義政(よしまさ)が建てたころの文化のことである。\nそもそも、東山文化の特徴が、おちついた感じの文化である。(※ 銀閣も東山文化。読者は、頭の中で関連づけよう。)\nなお、村田珠光は、茶道の説明のさいに、禅(ぜん)にたとえて茶道を説明した。\n村田より以前は、茶道というよりも、茶の品種を当てるクイズのような 闘茶(とうちゃ) というジャンルだった。\n絵画では、戦国時代に狩野永徳(かのう えいとく)が活躍するが、狩野派も、けっして狩野永徳が始めたわけではない。\n狩野派は、室町時代の後半に、狩野正信(まさのぶ)・元信(もとのぶ)の父子が、始めたのである。\nただし、正信のころの狩野派の画風は、水墨画に近い。水墨画を基調として、それに着色をした、独自の画風を、正信らは、あみだした。\nこの画風は、当時っぽい用語で言えば、水墨画に大和絵の手法を取り入れたわけである。\nこの水墨画じたい、(日本の小学校では)雪舟(せっしゅう)が有名だが、じつは日本で水墨画を始めたのは雪舟ではない。\n雪舟の以前は、水墨画は、禅を説明するための補助的な美術であり、寺社の僧によって水墨画が作られていた。だが、雪舟は、水墨画を禅とは独立した美術として作品を作り出した。\n雪舟は、明(ミン)に渡って水墨画の知識を日本に持ち帰った。だが、べつに日本初ではない。\n雪舟は、西日本を中心に何度か引っ越し、日本の自然を水墨画で描いた。 (※ なんだか、江戸時代の松尾芭蕉(まつお ばしょう)と、やってることが似ていますね。)\n上述のように、ところどころ「禅」(ぜん)が出てくる。\nこれは、室町時代の前半には、禅が流行したからである。\nそして、室町時代の後半の文化は、茶道や美術などのそれぞれの文化で、禅の制約から脱却する文化という段階に移る。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "元々織田家は尾張守護代の家柄であった。その守護代の家臣であった織田信秀は勢力を伸ばし、三河の松平氏・美濃の斎藤道三・駿河の今川義元と争うようになった。信秀の跡を継いだ織田信長は、1555年に尾張守護代を滅ぼして清州城を奪い、やがて尾張を統一する。1560年に桶狭間の戦いにて、尾張に侵攻してきた今川義元をやぶり、今川家から独立した松平元康(後の徳川家康)と同盟を結んだ。\n信長は、1567年には美濃の大名・斎藤氏を滅ぼす。こうして、濃尾平野を手にした信長は居城を美濃の稲葉山城に移し、岐阜城と改称した。このころから、信長は「天下布武」(天下に武を布く)の印判を使用しはじめる。\n1568年、信長は、室町幕府の13代将軍 故・足利義輝(よしてる)の弟の足利義昭(よしあき)を奉じて信長は京都に入った。そして信長は、足利義昭を15代将軍につかせた。\nしかし足利義昭は、しだいに信長と対立した。そして義昭は、越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくら よしかげ)、近江の浅井長政(あさい ながまさ)、信濃(しなの)の武田信玄(たけだ しんげん)、などの有力な大名や、本願寺(ほんがんじ)と結び、信長に対抗した。\nこれに対し信長は、1570年、姉川(あねがわ)の戦いで、浅井・朝倉の連合軍を破った。\n翌年には信長は、比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちした。\nそして1573年、信長は、足利義昭を京都から追放して、室町幕府は滅んだ。\nそして1575年、長篠の戦いで、織田・徳川の連合軍は大量の鉄砲を活用し、騎馬隊を中心とした武田軍に圧勝した。このとき、武田信玄は既に死亡しており、武田勝頼(たけだ かつより)が武田の大名である。\nこのころ、信長の領地は、一向一揆に悩まされていた。\n1574年、織田は、伊勢長島の一向一揆を滅ぼした。\n翌年には、越前の一向一揆を滅ぼした。\nそして1580年、ついに、大坂の石山本願寺を屈服させた。\n1582年には、信長は、天目山(てんもくざん)の戦いで武田氏を滅ぼした。\n信長は、つづいて毛利氏を倒そうと、京都の本能寺に泊まっている途中、家臣の明智光秀(あけち みつひで)に裏切られ、信長は自害した(本能寺の変)。\nこうして信長は、日本統一をせずに死亡した。\n最初に楽市を始めた人物は、じつは信長ではない可能性がある。(信長以前にも「楽市」という用語があったが、当時はその語句は注目されておらず、信長以前の「楽市」政策の実態がまだ解明されてない。)\n1549年に近江(おうみ、現在の滋賀県あたり)の大名の六角氏が、戦国時代でおそらく最初に「楽市」を始めたとも思われている。\nそのほか、駿河では今川義元や子の今川氏真が、領地で楽市のような政策をしていたとも、思われている。\nいっぽう、「楽座」という用語を最初に始めたのが、おそらく信長だと思われている。要するに、楽座のない「楽市」だけの経済政策をする大名なら、信長の前にも、そこそこ、いたようだ。\nすでに楽市という用語があって、信長はさらに「楽座」という用語を付けくわえたわけだから、今迄の楽市よりも、いっそう信長は、規制緩和をすすめたと考えるのが、妥当だろう。\n「座」(ざ)というのは、同業者組合のこと。「楽座」の以前は、商人は加入料や営業税を(地元の領主や、座の責任者などに)払って、その業種の「座」に入らないと、営業を行えない場合があった。信長は、その「座」による規制を緩和したということ。\n信長の楽市楽座は、安土城の城下町で行われた政策である。\nまた信長は、領地で関所を廃止した。\n信長の狙いは不明だが、関所撤廃などの結果、それまで関所の通行料などの収入を得ていた寺社や公家は、信長の政策で、資金源のいくつかを断たれた。(※ 参考文献: 東京書籍の検定教科書。) ※ これにより、荘園もまた資金源を絶たれた。\n本能寺の変による信長の死後は、権力をにぎった秀吉が、関所の廃止や楽市楽座の政策を行った。\n信長は、「天下布武」(てんか ふぶ)の印を使ったが、天下統一はしていない。\n信長のキリスト教保護政策については、信長の出会った宣教師はルイス=フロイスである。\n1582年、本能寺の変が起きて信長が自害した。\n。\n秀吉は、毛利と和睦して、京都方面に引き返し、山崎の戦い で明智光秀を滅ぼした。\n信長の家臣だった柴田勝家が、秀吉と対立した。\n1583年、賤ヶ岳の戦い(しずがだけ の たたかい)で、秀吉は柴田勝家をやぶる。勝家自害。(この戦いのあと、中国地方の毛利は秀吉に従う。)\n同1583年、秀吉は、石山本願寺の跡地に大阪城を建てる。\n1584年、小牧・長久手の戦い(こまきながくて の 〜)で、信長の次男 織田信雄(おだのぶかつ)と徳川家康の連合軍と戦い、勝負がつかないまま和睦に終わる。\n1585年、秀吉は朝廷から関白に命じられ、翌1586年には秀吉は太政大臣(だいじょう だいじん)に任命され豊臣(とよとみ)の姓をたまわる。\n1588年には秀吉は、京都に新築した 聚楽艇(じゅらくてい) に後陽成天皇(ごようぜい てんのう)を招いた。\nいっぽう戦史では1585年、秀吉は、四国の長宗我部元親をたおし、四国を平定する。(なお中国地方の毛利は、すでに1583年から秀吉に従っている。)\nそして翌1586年に太政大臣になった秀吉は、天皇の命令であるとして、諸国の大名に戦争をやめるように提唱した。\nその後、この停戦命令にしたがわないとして、秀吉は、1587年に九州の島津義久(しまづ よしひさ)を攻めて降伏させた。(義久は生きのこる。)\n1590年には、小田原の北条氏政(ほうじょう うじまさ)を攻めて、北条氏を滅ぼした。(このとき北条氏政は死亡。)\n同1590年、伊達政宗(だて まさむね)など東北の諸大名も降伏し、秀吉は日本統一をした。\n豊臣政権は秀吉の独裁色が著しく、また政権を握っていた時期が比較的短いこともあって、鎌倉・室町幕府のような政権組織の整備が十分にはなされなかった。秀次事件の後に、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家(うきた ひでいえ)・上杉景勝・小早川隆景の6人の有力大名が大老(年寄衆)とされるようになった。\n秀吉は死を前にして、秀頼が成人するまでの間、小早川隆景(1597年死去)をのぞく先ほどの五人の有力大名(五大老)と秀吉の腹心の浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の五人(五奉行)との合議制をしくように遺言した。これがいわゆる五大老・五奉行である。\n1587年には秀吉は、バテレン追放令を出した。この追放令では、宣教師の追放のほか、大名がキリスト教徒になることも禁止した。また、大名が信者を強制的にキリスト教徒にすることや、寺社を破壊することも禁止した。\nキリシタン大名の高山右近(たかやま うこん)は、改宗を拒否して領知没収になった。\nこの追放令では、民衆が個人的にキリスト教徒になるのは、自由とされた。\n秀吉は、1596年のサン=フェリペ号事件をきっかけに、そして日本は、フランシスコ会の宣教師・信者の26名を処刑した。\nフィリピンを出港したスペインのサン=フェリペ号の乗船員が、土佐に漂着したとき、乗船員が、スペインが各国を侵略する際に宣教師の布教のあとに侵略して植民地化をすると話したため、それが秀吉に報告された。\n背景として、イエズス会とフランシスコ会との対立もある、と考えられている。\n秀吉は、1588年には海賊停止令を出し、倭寇(わこう)などの海賊を取り締まった。\n豊臣政権の財政的基盤は石高にして約220万石もの蔵入地であった。秀吉は、京都・大坂・伏見・堺・博多・長崎など重要都市、生野銀山・佐渡相川金山などの鉱山を直接支配した。さらに畿内や北九州をはじめとした地域から年貢を徴収し、直臣団への扶持米や戦時の兵粮米とした。\nさらに、秀吉は褒賞や軍事費の調達を目的として、1588年に金貨である天正大判を発行する。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%83%BB%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89"} {"text": "建築では、城郭建築では、戦国時代の後半に戦が収まってくると、高層の天守閣と、巨大な石垣が、建築された。また、平地に城がつくられる場合が多かった。(※ 城下町などとの関係?)\n(※ なお、現在の大阪城の天守閣は、第二次世界大戦後の昭和になってから復興されたものである。また、安土城は消失している。姫路城以外の現存する古城は、例えば江戸時代に増築・改築されたりしていて、桃山時代の特徴が減っている。)\nこの時代、美術では、こういう(ページ右のような)屏風絵(びょうぶえ)や襖絵(ふすまえ)が流行した。\n金箔の背景に、青や赤や緑で色をつける手法のことを、濃絵(だみえ)という。(これとは画風は違うが、平安時代から「だみえ」という美術用語があったらしい。※ 参考文献 : コトバンク『濃絵』ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 )\nつまり、狩野永徳の屏風絵などに濃絵(だみえ)の作品が多い。\nなお、屏風絵や襖絵をまとめて、現代では「障壁画」(しょうへきが)という。\n茶道では、信長が恩賞として家臣に茶道具などを与えたこと等により、織田配下の武将のあいだで茶の湯の人気が高まった。\nつづく秀吉も、茶の湯を重視した。\n信長・秀吉の時代、堺の町衆(ちょうしゅう、まちしゅう)出身の千利休(せんの りきゅう)がそれまでの日本の侘び茶(わびちゃ)の文化をひきつづき普及させ、利休は茶人として活躍した。(わび茶の創設者は、千利休ではない。室町時代の村田珠光(むらた じゅこう)という、別の人が侘び茶(わびちゃ)を創設した。)\nいっぽう、秀吉は、大阪城内に黄金の茶室をつくった。\n文学では、イソップ童話が日本語に翻訳され、『伊曾保物語』(いそほ ものがたり)として日本に輸入された。しかし、これらの欧文和訳の翻訳文学は、その後の江戸時代の鎖国政策のため、短命に終わった。\nいっぽう、日本発の文学は、この時代の文芸は、特に知られてない。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E6%A1%83%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "\n大名による幕府への負担は、参勤交代のほかにも、河川改修などの土木工事などを命じられる手伝普請(てつだいぶしん)があった。江戸城や大阪城の改修などを手伝普請として命じられた藩もある。\n朝廷と幕府との間の連絡役として、公家のなかから2名を選んで武家伝奏(ぶけでんそう)とし、京都所司代と連絡をとりながら、幕府の意見を朝廷に伝えた。\n1629年におこった紫衣事件(しえ じけん)により、幕府はさらに朝廷への統制をつよめた。\n仏教に対しては寺院法度(じいんはっと)を出し、宗派ごとに本山から末寺にいたるまでを組織させた(本末制度(ほんまつ せいど))。\n1665年、神社・神職に対しても神社禰宜神主法度(じんじゃ ねぎ かんぬ しはっと)を制定して統制を行った。\n(※ いちぶの検定教科書(明成社など)で紹介されている。また、参考書などに書いてあるので。)\n徳川家康(とくがわ いえやす)は1603年に将軍職をもらってから、わずか2年で息子の徳川秀忠(とくがわ ひでただ)に将軍職をゆずり(つまり1605年に秀忠に将軍職をゆずった)、将軍職が徳川家の世襲であることを示した。\n家康自身は「大御所」(おおごしょ)と言う肩書きの職につき、家康が幕政の実権をにぎり、家康は駿府(すんぷ、いまの静岡県あたり)を拠点に幕政を指揮していた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B"} {"text": "日本では、藤原惺窩(ふじわら せいか)が朱子学を啓蒙した。\n徳川家康は、惺窩の門人の林羅山(はやし らざん)を登用した。\n建築では、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)と桂離宮(かつらりきゅう)が、寛永時代の建物である。\n日光東照宮の建築様式は権現造(ごんげんづくり)。\n桂離宮は京都にある。桂離宮の建築様式は数寄屋造(すきやづくり)。\n絵画では、狩野派から狩野探幽(かのう たんゆう)が出て、幕府の御用絵師となった。\n京都では、俵屋宗達(たわらや そうたつ)が出て、装飾画を 。\n京都の町人である本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)は、多才であり、蒔絵(まきえ)や陶器(とうき)など、さまざまな作品を残した。また、本阿弥光悦は、家康から京都鷹ヶ峯(たかがみね)の地を与えられた。\n陶器では、有田焼(ありたやき)の分野で、酒井田柿右衛門(さかいだ かきえもん)が赤絵(あかえ)の技法を完成させた。\n文芸では、教訓・道徳を題材にした仮名草子(かなぞうし)があらわれた。\n連歌から俳諧(はいかい)が独立し、京都の松永貞徳(まつなが ていとく)の俳諧が流行した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%AF%9B%E6%B0%B8%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "1651年、3代将軍 家光が死去し、子の家綱が幼少(当時は11歳)にして4代将軍になった。\n同1651年、将軍が幼少なのに乗じて、軍学者の由井正雪(ゆい しょうせつ)が、幕府を転覆しようと、反乱を企てたが、事前に露見して失敗した(慶安の変)。\nこの事件の背景として、牢人が多いという社会問題があったので、同1651年、幕府は、末期養子の禁(まつごようしのきん)を緩和した。\n1657年、明暦の大火により、江戸の町が壊滅する。幕府は、復興のため、財政難になった。\n1663年、武家諸法度を改訂した。\n同1663年、殉死(じゅんし)を禁止した。( 殉死(じゅんし)とは、主君が死んだ時に、家臣が一緒に死ぬこと。)また、主君が死んだら、家臣は前の主君の跡継ぎに仕えることを、義務化した。\n翌年、一斉検地を行った。\nいくつかの藩は、儒学や歴史学などを奨励した。水戸藩では藩主 徳川光圀(とくがわみつくに)らが、歴史書『大日本史』の編纂にとりかかった。岡山では池田光政、加賀藩では前田綱紀(まえだ つなのり)が、朱子学を奨励した。\n1680年、家綱が死去し、弟の綱吉が5代将軍になった。\n綱吉は、堀田正俊(ほった まさとし)を大老にしたが、掘田は暗殺された。その後、綱吉は側用人(そばようにん)を江戸時代で初めて設置し、柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)を側用人にした。なお、側用人の仕事内容は、将軍と老中とのあいだの連絡役。\n1685年に生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)の発した。この生類憐みの令では、動物の保護だけでなく、(人間の)捨て子の禁止も行っている。\n1684年には、近親者が死んだ時に喪に服す日数などを定める服忌令(ぷっきれい)をさだめた。\n綱吉は学問(おもに儒学)を奨励し、江戸の湯島に孔子をまつる聖堂(湯島聖堂)を建て、林信篤(はやし のぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任命した。\n綱吉の時代の幕府は、財政難であった。勘定吟味役(かんじょうぎんみやく、※ のちの勘定奉行)の荻原重秀(おぎわら しげひで)は、金銀の含有率を低めた質の悪い元禄金銀(げんろく きんぎん)を発行したので、物価が上がった。\n綱吉の時代の1701〜1702年に赤穂事件(あこう じけん)が起きた。\n1707年(宝永4年)には富士山が噴火し(宝永大噴火)、駿河・相模などが降灰の被害を受けた。\nなお綱吉は1683年に武家諸法度を改訂し、第一条を「文武弓馬(きゅうば)の道、専ら(もあっぱら)相嗜む(あいたしなむ)べき事」から「文武忠孝(ちゅうこう)を励まし、礼儀を正すべき事」に改訂している。\n1709年に6代将軍 家宣(いえのぶ)が就任し、(儒学の)持講(じこう)の新井白石(あらい はくせき) および 側用人には間部詮房(まなべ あきふさ) を任用したが、わずか3年で家宣は死去した。\n7代将軍 家継(いえつぐ)は、まだ3歳の将軍で、新井白石らが政治を行った。\nこの時代(6代将軍・7代将軍)の政治を正徳の治(しょうとくのち)という。\n白石らの政治では、まず、生類憐みの令を実質的に廃止した。\n幕府の権威を高めるために、朝廷との結び付きを深め、新しい宮家の創設費用を出費した。(閑院宮家(かんいんのみやけ))\n朝鮮通信使に対しては、対応を簡素化した。また、朝鮮から日本の将軍当ての国書にそれまで「日本国大君殿下」(〜たいくんでんか)とあったのを「日本国王」に改めさせた。\n白石らは、「大君」は「国王」よりも低い意味をもつと考えた。(なお8代将軍 吉宗(よしむね)以降は、もとの「大君」に戻した。)\n経済政策では、貨幣の品質をもとに戻した。しかし、経済は混乱した。\nまた、長崎貿易では、金銀の海外流出を防ぐため、貿易額を制限する海舶互市新例(かいはく ごし しんれい)を出し、年間の貿易量をオランダ船2隻(せき)で銀3000貫(かん)、中国は船30隻で銀6000貫に制限した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%B9%95%E8%97%A9%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B"} {"text": "農学では、宮崎安貞が『農業全書』を著した。\n本草学とは、もともとは医薬になる植物などを研究する学問だったが、しだいに博物学的に植物・動物などを研究する学問になっていった。\nこの分野では朱子学者の貝原益軒が植物の分類の研究を行い『大和本草』を著した。また、稲生若水は『庶物類纂』を著し、本草学の範囲を大きく広げた。\n天文学では、渋川春海(安井算哲)が、従来の宣明暦の誤差を修正した貞享暦をつくった。この功績により、当時の将軍綱吉は幕府に天文方を創設し、渋川春海を天文方に任命した。\n数学では、土木工事などの計算の必要から日本独自の和算が発達した。中でも、関孝和は、筆算の研究、円周率、連立一次方程式の理論などを研究した。\n地理学では、長崎で通訳をしていた西川如見が、オランダ人との接触によって得られた外国事情に関する知識を基にして、本格的な世界地理のテキストである『華夷通商考』を著した。\n幕政が安定すると、幕府は歴史に関心を持ち始めた。\nまた、歴史学や和歌などでは、教育方法が従来は師匠から弟子への秘伝として閉鎖的な教育方法で伝えられてきたが、それを改めようとする風潮が起きてきた。\n林羅山・林鵞峰の父子は、幕府に歴史書の編纂を命じられて、編年体の歴史書である『本朝通鑑』を著した。\nいっぽう、水戸藩主の徳川光圀は、多数の学者を集めて紀伝体の歴史書『大日本史』の編集に着手した。\n新井白石は、独自の歴史観にたち『読史余論』および『古史通』を著した。\n契沖は、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の手法を批判し、文献学的な方法で万葉集を研究して『万葉代匠記』を著した。\n北村季吟は、綱吉の代に幕府の歌学方として登用され、将軍らに和歌を教えるかたわら、『源氏物語』や『枕草子』など古典の研究を行い、注釈書を著した。\n戸田茂睡は、和歌で、中世以来の制約にとらわれるべきではないと、和歌の革新を説いた。\n朱子学からは、神道を儒教流に解釈する垂加神道(すいか しんとう)を唱える山崎闇斎(やまざき あんさい)が出た。\n中江藤樹(なかえとうじゅ)は(儒学のひとつである)陽明学(ようめいがく)を学んだ。中江の門人の熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、幕政を批判したため、幽閉された。\nいっぽう、『論語』や『孟子』など古代中国の古典を、直接、原典にあたって研究しようという古学(こがく)が起きた\n古学では、京都の町人出身の学者 伊藤仁斎(いとう じんさい)とその子 東涯(とうがい)父子は、京都の堀川(ほりかわ)に私塾 古義堂(こぎどう)を開き、古学にもとづく儒学の講義を行った。\n江戸では、(伊藤仁斎よりも40歳ほど若い)荻生徂徠(おぎゅう そらい)が中国語の研究を通じて古学の研究を行った。\n荻生徂徠は、柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)・将軍吉宗(よしむね)の政治顧問として用いられ、幕政にも関わった。また、徂徠は江戸に私塾 蘐園塾(けんえんじゅく)を開いた。\n俳句では、「わび」「さび」と言った落ちついた作風の松尾芭蕉(まつお ばしょう)は、もともと、強調表現や派手な表現を得意とした談林派(だんりんは)の出身である。\n※ では、経緯を見ていこう。\nそもそも、俳句(はいく)のもとになった俳諧(はいかい)は、もともと連歌の一部の発句(はっく)であった。\n江戸時代の初めごろ、連歌から分かれた俳諧(はいかい)が人気になった。\nまず始めに、西山宗因(にしやま そういん)が軽妙な俳諧で人気になった。\n松尾芭蕉も、西山の一門に学んだ。\nしかし、松尾芭蕉はやがて西山の派から脱け、独自の作風を確立する。(芭蕉のような作風のことを「蕉風」(しょうふう)という。)\nまた、松尾芭蕉は紀行文『奥の細道』を残した。\nなお、のちに小説家として知られる井原西鶴(いはら さいかく)も、西山宗因の俳諧に学んだ。\n小説では、井原西鶴(いはら さいかく)が、小説の題材として、金銭ざたや色恋ざたなど、町人や庶民の風俗を題材にした小説を書いた。\n井原の書いたようなジャンルの小説は、浮世草子(うきよぞうし)と言われる。(従来の「仮名草子」(かな ぞうし)に対して、浮世草子と言った。)\n井原の代表作に『好色一代男』(こうしょく いちだいおとこ)、『日本永代蔵』(にほん えいたいぐら)、『武道伝来記』(ぶどうでんらいき)などがある。\n人形浄瑠璃では、大坂で竹本義太夫(たけもと ぎだゆう)が竹本座を創設し、義太夫節(ぎだゆうぶし)の浄瑠璃の語りで人気になった。同じ頃、脚本家の近松門左衛門の脚本が、浄瑠璃で多く使われ、竹本座でも近松の作品が語られた。\n歌舞伎(かぶき)は、もともとは女性の踊り(おどり)などをみせる女歌舞伎(おんな かぶき)だったが、風俗を乱すとして禁止され、つづいて少年の演じる若衆歌舞伎(わかしゅ かぶき)になったが、これも風俗を乱すとして禁止され、最終的に成年男子の演じる野郎歌舞伎(やろう かぶき)になって認められた。\n歌舞伎の内容も、しだいに演劇になっていった。そして、役者が人気になっていった。\n江戸では、初代 市川団十郎が、力づよい演技である荒事(あらごと)で人気の俳優になった。\nいっぽう、上方(かみかた)では、色男の役である和事(わごと)の坂田藤十郎(さかた とうじゅうろう)や、女役である女形(おやま)の芳沢あやめ(よしざわ あやめ) が人気の俳優になった。\n絵画では、狩野派がひきつづき幕府の御用絵師として活躍したが、狩野派は様式の踏襲にとどまった。\nいっぽう、上方(かみがた)を中心に、美術や工芸では新規の作風が育ってきた。\n上方では、大和絵(やまとえ)の系譜(けいふ)である土佐派(とさは)の土佐光起(とさ みつおき)が朝廷の御用絵師になった。\nそして、土佐派から分かれた住吉如慶(すみよし じょけい)と住吉具慶(〜ぐけい)の父子も、幕府の御用絵師となった(住吉派)。\n江戸では、浮世絵(うきよえ)があらわれ、安房(あわ)出身の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)などが作品を残した。菱川師宣の絵の制作方法は、はじめ肉筆だったが、やがて版画を始めた。版画だと、安価に絵を入手できることもあって、菱川の絵は人気になった。菱川師宣は、美人画などを残した。\n陶器では、京都の野々村仁清(ののむら にんさい)が色絵(いろえ)の技法を完成させて京焼(きょうやき)の祖(そ)となった。\nまた、屏風(びょうぶ)絵では、京都の尾形光琳(おがた こうりん)は俵屋宗達の影響をうけて、尾形光琳が『燕子花図屏風』(かきつばた ずびょうぶ)などの作品をつくった。\n染物でも、京都の宮崎友禅(みやざき ゆうぜん)が、友禅染(ゆうぜんぞめ)を始めた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%85%83%E7%A6%84%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E5%AD%A6%E5%95%8F%E3%81%AE%E7%99%BA%E5%B1%95"} {"text": "教科書に書いてないが、江戸時代の人口は、中盤以降、約3000万人の水準がつづき、幕末まで人口はそのままの水準で停滞するのである。\nもし人口が4000万人くらいになろうとすると、飢饉などが起きて、3000万人の水準にもどるのが史実である。\n江戸時代の財政難や飢饉などの根本的な原因のひとつは、日本の国土での米などの食用農作物の生産量に対して、人口が多すぎることである。しかし幕府の歴代の政権は人口問題にまったく手をつけない。\nおそらく幕府にとっては、農民たちが子供をたくさん産んでくれたほうが、将来の労働力が増えて好都合なので、産児制限をしないのだろう。\n歴代の政権は、その場しのぎで、様々な改革をする。\n1716年に7代将軍 家継(いえつぐ)が幼くして(8歳で)死去し、徳川本家の血統が絶えると、三家のひとつの紀州藩主の徳川吉宗(よしむね)が8代将軍になった。\n吉宗は綱吉以来の側用人による政治をやめ、有能な人材をとりたてた。吉宗の在職期間の29年間の改革のことを享保の改革(きょうほうのかいかく)という。\n吉宗は財政の再建のため、武士には倹約令を出し、また、増税的な手法や、統制経済的な手法を行った。\nまず、諸大名に石高1万石につき米100石を納めさせる上米の制(あげまいのせい)を定め、かわりに参勤交代の期間を半減した。(しかし1730年に上米制を廃止し、参勤交代も元の制度に戻した。)\nまた、年貢をそれまでは豊作/凶作に応じて代官らが調節していたが(検見法(けみほう) )、吉宗は年貢を豊凶に無関係に一定にする定免法(じょうめんほう)を実施し、また年貢を引き上げた。\nさらに、米の収穫量そのものを増やすために、新田開発も推進した。江戸の日本橋には高札を立てられた。享保年間には町人請負新田として、越後の紫雲寺潟新田や河内の鴻池新田が作られた。\n統制を行う一方、1730年に大阪の堂島の米市場(堂島米市場)を公認し、米価の統制を行った(公認する=幕府が口出しできる)。\nこのように米の問題に積極的に吉宗は取りくんだため、吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)「米公方」(こめくぼう)といわれた。\nまた、(おそらく裁判にかかる行政費用を削減するためか、)金銭貸借に関しては幕府に訴えさえず当事者間で済ませる相対済し令(あいたい すましれい)を出し、幕府は金銭貸借の争訟を放置した。\n株仲間をつくることを認めるかわりに、運上金(うんじょうきん)や冥加金(みょうがきん)などの営業税を納めさせた。\nまた、旗本の大岡忠相を取りたてて町奉行にするなど、人材の登用も積極的に行った。\nさらに(大岡忠相など有力な奉行(3奉行)の成果か)裁判の判例などを紹介した公事方御定書(くじがた おさだめがき)を制定するなどの改革をして、司法を合理化した。公事方御定書は上下二巻からなっていて、下巻のことを「御定書百箇条」という。\n江戸の都市改革にも力を入れた。\nそして、江戸の防災として、防火に力を入れた。火災時の延焼をふせぐための空き地である火除け地を江戸の各地に設定した。\nさらに、それまでの定火消(じょうひけし)のほかに、町火消(まちひけし)を設置させた。なお、町奉行として大岡忠相を登用したのも都市改革のひとつ。\nさらに、評定所に目安箱(めやすばこ)を設置し、庶民の意見を聞いた。そして、医者小川笙船の目安箱への投書にもとづき、貧しい人のための病院である小石川養生所(こいしかわ ようじょうじょ)を設置した。\nまた、青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)にオランダ語を学ばせ、蘭学を学ばせた。また、キリスト教に関係のない、中国語に翻訳された洋書(漢訳洋書(かんやく ようしょ))の輸入を許可した。\nさらに、青木昆陽の奨励のもと、甘藷(かんしょ)の栽培を推進した。(甘藷とは、サツマイモのこと)\nその他、さとうきび、櫨(はぜ)、朝鮮人参の栽培を奨励した(ハゼからは、蝋燭(ろうそく)の原料がとれる。)\nしかし1732年、享保の大飢饉が起き、翌年、江戸で米問屋に対する打ちこわしが起きた。\n10代将軍家治のとき、1772年に田沼意次(たぬま おきつぐ)が側用人から老中になった。\nこの頃、ロシアがオホーツク海の近隣に進出しており、ロシアはアイヌとも交易をしていた。\n仙台の医師の工藤平助は、そのような状況について書籍を書いて『赤蝦夷風説考』(あかえぞ ふうせつこう)を著した。\n工藤の研究成果が幕府の耳にも入り、田沼は最上徳内らに蝦夷地の調査を命じた。また、田沼は、ロシアとの交易も企画したが、最終的に失敗に終わった。\n経済政策では、田沼は、年貢に頼る財政では限界があると考え、商業の経済力を活用して財政再建をしようとする政策を目指した。\n田沼は、銅座や人参座や真鍮座(しんちゅうざ)など、扱う商品ごとに株仲間を認め、営業税として運上金や冥加金を取って、税の増収をした。\nなお、田沼意次は、大阪の商人資本を活用して下総(しもうさ、現在の千葉県あたり)の印旛沼(いんばぬま)および手賀沼(てがぬま)の干拓工事を試みたが、(利根川の)洪水で、1786年に中止になった。\n長崎貿易では、金銀の獲得のため、銅の輸出を目指すとともに、海産物(ふかひれ、いりこ、ほしあわび、等)の「俵物」(たわらもの)の輸出を目指した。\nいっぽう、幕府役人のあいだで、賄賂(わいろ)による人事が横行するなど、問題になった。\nまた、1782〜83年ごろに凶作が起き(冷害が原因だと言われる)、さらに1783年に浅間山の噴火が起き、天命の大飢饉(てんめいの だいききん)となり、東北地方で多くの餓死者を出した。それに加え田沼意次の息子の田沼意知が1784年に佐野政言に江戸城で殺される事件が起こった。\nこのため、全国で百姓一揆や打ちこわしが起こった。将軍家治が死去すると、田沼は老中を罷免(ひめん)され、失脚した。\n8代吉宗が将軍になる前の1695年、天文学者の西川如見は、長崎にあつまる世界地理の情報をもとに『華夷通商考』を表した。\nその後、1716年ごろに吉宗が将軍になり、漢訳洋書の輸入を許可して、洋学が発達した。\nそして、吉宗は、青木昆陽(あおきこんよう)や野呂玄上(のろ げんじょう)にオランダ語を学ばせた。\n医学では、洋学よりも先に、山脇東洋(やまわき とうよう)が1754年に、実際の解剖観察にもとづく知見をまとめた『蔵志』(ぞうし)を発表し、大まかな解剖図ではあるが、人体の内臓の大まかな様子が分かった。また、これらの研究により、解剖観察による実証的な解剖学への関心が高まった。\nその後、医師の前野良沢(まえの りょうたく)は、目にした西洋の医学書にある精密な解剖図などの図におどろき、前野はオランダ語の医学書を翻訳しようと思い立ち、晩年の青木昆陽からオランダ語を習った。\nそして、前野良沢は杉田玄白(すぎた げんぱく)とともに、オランダ語の解剖書を翻訳し、1774年に『解体新書』として発表した。この『解体新書』には、かなり正確な人体解剖図があり、人々をおどろかせた。\n前野・杉田らは自分らの学問を「蘭学」と読んだため、オランダ語の翻訳によって輸入された学問は、以降「蘭学」と呼ばれるようになった。\nついで、良沢の門人である大槻玄沢が入門書『蘭学階梯』(らんがくかいてい)を出した。また、宇田川玄随(うたがわ げんずい)は、西洋医学の内科書の翻訳書を出した。\nまた、大槻玄沢の門人である稲村三伯(いなむら さんぱく)が、日本最初の蘭日辞典である『ハルマ和解』(はるまわげ)を1796年に出した。\nいっぽう、田沼意次よりも9歳ほど若い平賀源内(ひらが げんない)は、長崎で学んだ科学知識をもとに、摩擦発電機や寒暖計などを作成したり、西洋画法を日本に伝えたりした。\nこのような洋学の普及により、西洋のさまざまな自然科学が輸入された。\n日本の古典を実証的に研究する国学(こくがく)は、元禄時代に契沖(けいちゅう)による『万葉集』の研究によって始められた。\nその後を継いで、荷田春満(かだの あずままろ)や賀茂真淵(かもの まぶち)が、日本の古代思想を研究した。\n特に真淵は、仏教や儒学が伝わる前の日本の古代思想を研究する必要性を主張した。\n賀茂真淵より約40歳ほど若い本居宣長は、国学の研究を目指して賀茂真淵の弟子になって学んだ。\nそして本居宣長は、35年間もの歳月をかけて古事記を研究し、『古事記伝』をあらわし、\nまた宣長は、『源氏物語』なども研究し、日本のこころの本質は「もののあはれ」であると、宣長は主張した。\n真淵に学んだ盲目の塙保己一(はなわ ほきいち)は、幕府の援助を受けて、和学講談所を設立し、古典の収集・保存・分類を行い、『群書類従』(ぐんしょ るいじゅう)を出した。\n田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として松平定信(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になり、定信は11代将軍家斉(いえなり)に仕えた。定信はもともと奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主。\nちょうど、その1787年のころ、江戸で天明の打ちこわしがあった。\n定信は、吉宗の時代の政治を理想と考え、緊縮的な政策を行った。松平定信の行った改革のことを 寛政の改革(かんせいの かいかく) という。\n飢饉(ききん)により、まず、食料生産を増やさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす政策を取る。\n定信は、農民による江戸への出稼ぎを制限し、江戸に出稼ぎに来ている農民を農村に帰らせた(旧里帰農令(きゅうり きのうれい))。また、各地に食糧を貯蓄するための社倉(しゃそう)や義倉(ぎそう)を立てさせた(囲米(かこいまい))。\n武士相手に米の売却業と金融業をする職である札差(ふださし)による6年以前の武士への借金を放棄させた(棄捐令(きえんれい))。かわりに、幕府は札差に低利で融資を行った。\nまた、江戸の町々に町費(町入用)を節約させ、節約金の7割を積み立てさせ(七分積金(しちぶ つみきん))、災害や飢饉のさいの資金源にしようとした。\n江戸の石川島に人足寄場(じんそく よせば)をつくり、無宿人を強制的に収容し、職業訓練(や手工業などの強制労働)などの教育をして定職につかせようとした。\nまた、人足寄場は、無宿人のほかにも、軽犯罪者に(社会復帰のための)職業訓練や、懲役のような労働をさせるための施設でもある。\nこの政策のおかげで江戸の治安は良くなっていった。\n湯島の学問所(のちの昌平坂学問所)では、朱子学以外(異学)の学問を禁止した(寛政異学の禁)。(儒学の派には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。)\n朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、(陽明学などの)他の派の儒学は異学(いがく)とされた。\n民間に対しては、出版統制を行い、政治への風刺や批判を取り締まった。\nそして、林子平(はやし しへい)が1791年に発刊した『海国兵談』(かいこく へいだん)などで海防の必要性をとなえたことが、幕府批判と捕らえられ、処罰をされた。\nそのほか、幕府は洒落本(しゃれぼん)の出版を禁止した。このため、『仕縣文庫』の作者で有名な洒落本作家の山東京伝(さんとう きょうでん)などが弾圧された。\n松平定信が老中の時代の1789年、光格天皇が実父(閑院宮典仁親王)に与える称号について、朝廷は幕府に同意を求めてきたが、定信はこれを拒否した(「尊号一件」 (「そんごういっけん」))。\nこの尊号一件の是非をめぐって、定信は将軍家斉と意見が対立し、1793年、定信は老中の座から しりぞいた。\n松平定信の退任後も、しばらくの間、寛政の改革と似たような政策が続いた(松平信明ら率いる寛政の遺老と言われる定信の盟友らが政治を引っ張った為)。\n寛政の改革のころ、それぞれの藩も、改革を行い、倹約や農業育成などにつとめた。\n藩の財政収入を増やすため、特産品の生産と専売に力を入れる藩もあった。\nまた、藩校を設立して、教育に力を入れる藩もあった。\n米沢藩の上杉治憲(はるのり)、秋田藩の佐竹義和(さたけ よしまさ)が、この時代の藩の名君だと言われる。\n狂歌には、\nと、うたわれた。\n「蚊ほど」は、「これほど」の意味の「かほど」と かけている。「ぶんぶ」は、蚊の羽音のぶんぶんと、文武をかけてる。\n「白河」とは、元・白河藩主の松平への皮肉。「田沼」とは、田沼意次と かけている。\n1789年、クナシリ・メナシでアイヌの蜂起が起きた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%B9%95%E8%97%A9%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E5%8B%95%E6%8F%BA"} {"text": "1789年、クナシリ・メナシでアイヌの蜂起が起きた。\n1792年に根室(ねむろ、北海道)にロシア使節 ラクスマンが来た。ラクスマンは、ロシアに漂流した大黒屋光太夫(だいこくだ こうだゆう)を日本に送り返し、また、日本に通商を求めた。\n幕府は、外交交渉は長崎で行なうとして、ラクスマンに長崎入港の許可証(信牌)を与えた。また幕府は、通商の要求を断った。\n1804年に、その入港許可証をもったロシア使節レザノフが長崎に来て通商の要求をするが、しかし幕府は通商を拒否する。\nそれからロシアは、(幕府に対する報復だろうか)しばしば蝦夷地や樺太や択捉を攻撃した。\nそれから幕府は、蝦夷地の防備を固めて、1807年に蝦夷地を一時期、直轄地とした。\n1811年には、日本とロシアとの間で、ゴローニン事件も起きた。\nラクスマンからゴローニンの一連の事件のあいだ、幕府は北方の探検を行った。\nまず、ラクスマンの来日から数年後の1798年、幕府は近藤重蔵(こんどう じゅうぞう)・最上徳内(もがみ とくない)らに、国後・択捉を探検させ、「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)の標柱を立てた。\nまた1800年、伊能忠敬は日本全国の測量を行った。\nレザノフの来日後で(1807年に松前藩を直轄地にした翌年の)1808年、間宮林蔵に樺太とその沿岸を探検させた。\n1811年、ロシアに軍人ゴローニンが国後(くなしり)島で測量してたところ、幕府の役人がゴローニンを捕らえた(ゴローニン事件)。これに対してロシアは翌年、日本の船を捕らえ、その船に乗っていた交易商人の高田屋嘉兵衛(たかだや かへえ)が捕らえられた。\n最終的に、1813年に嘉兵衛が日本に送られ、嘉兵衛がゴローニン釈放を奉行所(松前奉行所)に依頼し、嘉兵衛じしんが日露交渉の仲介も精力的に行い、日露両国のゴローニン釈放交渉は成功し、幕府はゴローニンを釈放した。\nそして、幕府は蝦夷地を松前藩に返還した。\nさて、ロシアと紛争をしていた頃の1808年に、イギリス軍艦フェートン号が、当時敵国だったオランダ戦の だ捕(だほ、拿捕)をねらって長崎に侵入し、商館員をとらえ、薪水・食糧をうばい、やがて退去した(フェートン号事件)。\n1824年、イギリス捕鯨船が来航し、日本に上陸した。薩摩国宝島では牛などを強奪する事件が起こった(宝島事件)。\n翌1825年、幕府は、異国船打払令を出し、清・オランダ以外の異国船はすべて打ち払うことを命じた。\n1837年、アメリカの商船モリソン号が、漂流民の返還をしにきて、通商を求めたが、打ち払い令による攻撃を受けた(モリソン号事件)。\nこの出来事に対し、蘭学者の渡辺崋山や高野長英は、それぞれ別の著書で打ち払いを批判したため、1839年に渡辺・高野は幕府によって弾圧された(蛮社の獄(ばんしゃのごく) )。\n1793年ごろに松平定信が老中を退いたあと、しばらくは緊縮的な政策が続いたが、しだいに緩んだ。\n11代将軍家斉(いえなり)は、1818年ごろまでは、寛政の改革の方針で政治をつづけたが、1818年以降は、政策を変えた。\n(寛政の改革の方針をつづけてたと思われる期間の)1805年、幕府は、飢饉の影響などで荒廃した農村の秩序を保つために、関東取締出役(かんとうとりしまり しゅつやく)を置いて、犯罪者を取り締まった。\n(寛政改革の撤廃後の)1818年以降、幕府が、質の悪い貨幣を発行すると、物価は上がったが、幕府財政はうるおった。また、家斉はぜいたくな暮らしをして、大奥の生活も華美になった。\n都市の商業活動が活性化したが、農村が疲弊した。\nこのころ、なんらかの原因で、農民が農村から流出して、農村が管理されなくなり荒廃し、農村の治安が悪化した。その対策のため、1827年には、幕領・私領の違いを超えて近隣の村々をまとめて治安の取り締まりを委ねる寄場組合(よせば くみあい)をつくった。\n1837年に家斉が将軍職を家慶(いえよし)にゆずった後も、家斉は大御所(おおごしょ)として実権を握りつづけた(大御所政治)。家斉は1841年に亡くなった。\n家斉の時代、商業がさかんになったため、浮世絵・歌舞伎など芸術・芸能などの文化が発達した(化政文化)。家斉の時代の元号の「文化」「文政」(1804〜1830年)にもとづき、家斉のころの芸術などの文化を「化政文化」という。\n(※ これらの元号の名前は、この時代の天皇が決めている。)\n徳川家斉(いえなり)が生存中の1832〜1833年、天保の飢饉(てんぽうのききん)が起きた。\nこの天保の飢饉は、きびしい飢饉であり、全国的な飢饉であった。\n各地で、百姓一揆や打ちこわしが続発した。\n1836年にも、飢饉が起き、もとから米が不足していた状況で飢饉が起きたので、ひどい状況になり、甲斐の郡内地方や三河の加茂郡で一揆が起きた。\n1836年ごろ、大阪でも飢饉の影響で餓死者が出ていたが、大阪の役所は対策をとれず、それどころか米を江戸に回送していたた。\n町奉行所の元・与力(よりき)で陽明学者の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)は、1837年に、貧民の救済のために門弟とともに民衆に呼びかけ武装して、富裕な商人などを襲撃する反乱を起こしたが、わずか半日で鎮圧された(大塩の乱)。\n幕府の元役人が反乱を起こしたという事実に、幕府や諸藩は大きな衝撃を受けた\nその後の同年、越後では国学者 生田万(いくだ よろず)が大塩の門弟と称して陣屋を襲撃した(生田万の乱)。このほか各地で、一揆が続発した。\n1841年に大御所 家斉が死ぬと、12代将軍家慶(いえよし)のもとで、同1841年に老中に水野忠邦(みずの ただくに)がつき、政治改革を行った(天保の改革)。\n※ 天保の改革の経済政策的な内容については、中学で習ったとおり。\n水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための人返しの令(ひとがえしのれい)を出した。事実上の、武士への借金帳消しをする棄捐令(きえんれい)も出した。\nまた、出版や芸能などを取り締まり、寄席の数も大幅に減らし、人情本作家の為永俊水(ためなが しゅんすい)らを処罰した。\n物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させたが、かえって商品の流通を混乱させた。\nしかし、貨幣の質を落とした。\nこのころ、アヘン戦争で清国がイギリスに負けると、幕府は(欧米との戦争をふせぐため)1842年に異国船打払令を撤回し、薪水給与令を復活させた。\nまた、日本の軍事力を強化するため、長崎から西洋砲術を学んだ高島秋帆(たかしも しゅうはん)を呼び寄せ、実射訓練をさせた。\n1843年には、江戸・大阪の周辺を幕府の直轄地にしようと上地令(あげちれい)を出したが、諸大名や旗本(はたもと)などに反対され、実施できなかった。\n※ 水野忠邦は、馬鹿である。どうせ儒学の暗記勉強ができるだけの、実務能力のない馬鹿である。\n馬鹿の水野は、(現実を無視して)松平定信の寛政の改革を手本にした。\n株仲間を解散させることで、商人は自由に取引をできるようになるが、しかし、風俗や出版などを取りしまったので、それらの業界では自由に営業できない。つくづく、水野のやってることは矛盾しており、こいつ馬鹿。\n馬鹿の水野は、財政再建をしたいはずなのに、幕府の権威の復興のため、諸大名を動員して日光社参を何度も参拝するという費用のかかることをする。(つくづく、水野、馬鹿だろ。)\n国防の強化をしたが、だったら大名をひきつれての日光参拝みたいな出費の掛かる行事を減らすべきだし、つくづく水野は馬鹿。\nまた、出版も統制されてるので、民間人から国防のための優秀な意見も出にくくなる。つくづく水野は馬鹿。\n水野は馬鹿で役立たずなので、老中を解任させられた。\n天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、かえって幕府そのものの権威は低下した。\n諸藩のなかには、経済改革や人材改革などを行い、改革に成功する藩も出てきた。\nのちの明治維新では薩摩・長州・土佐・肥前(佐賀)の4つの雄藩(ゆうはん)が活躍するが、この4藩は、この1820〜30年代の藩政改革に成功している。\nまず1827年に薩摩藩は、下級武士の出身の調所広郷(ずしょ ひろさと)を登用し、藩の借金を無利子返済にさせた。そして薩摩は、琉球を通じた清との密貿易や、奄美諸島(あまみしょとう)産の黒砂糖の専売などで、利益をあげた。\nさつま藩主の島津斉彬(しまづ なりあきら)も開明的な政策をおこない、鹿児島に反射炉(はんしゃろ)を築き、さらに造船所をつくり、藩の工業技術を向上をさせた。\nなお、水戸藩は、1829年に就任した藩主 徳川斉明(なりあき)が率先して改革をおこない、造船所を設置した。\n佐賀藩も、藩主 鍋島直正(なべしま なおまさ)の積極的な改革により、反射炉を築き、さらに大砲を製造した。また佐賀藩は、陶磁器(有田焼、伊万里焼)の専売でも儲けた。\nそのほか佐賀藩では、地主の土地の一部を小作人(土地をもってない農民)に与えさせ、本百姓(土地をもってて自分で耕す農民のこと)を増やした(均田制)。\n土佐藩は、支出を切りつめるのに成功し、財政再建をした。\n長州藩では、村田清風(むらた せいふう)が藩の借金を整理させ、紙・蝋(ろう)の専売を強化した。さらに、下関に寄港する廻船(かいせん)の積荷をあつかう腰荷方(こしにかた)で、倉庫業と金融業で利益をあげた。(※ 「倉庫業」という表現については、東京書籍の見解。他社の検定教科書によると、腰荷方のビジネスでは、資金の貸し付けや、委託販売などのビジネスを行ってたらしい。)\n幕府も、やや送れるが、代官 江川太郎左衛門(えがわ たろうざえもん)に命じて、伊豆(いず)の韮山(にらやま)で反射炉を築いた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%B9%95%E8%97%A9%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E5%81%9C%E6%BB%9E%E3%81%A8%E8%AB%B8%E8%97%A9%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9"} {"text": "寺子屋が、吉宗〜田沼あたりの時代に大きく普及し、農村などにも寺子屋がつくられるようになった。\n田沼意次のころから、文化の中心が上方(かみがた)から江戸に移った。\n(「上方」(かみがた)とは、関西の大阪・京都の付近のこと。)\n徳川家斉(いえなり)の時代、商業がさかんになったため、浮世絵・歌舞伎など芸術・芸能などの文化が発達した。\n家斉の時代の元号の「文化」「文政」(1804〜1830年)にもとづき、家斉のころの芸術などの文化を「化政文化」という。\n(※ これらの元号の名前は、この時代の天皇が決めている。)\nまた、この「文化」「文政」のころの時代を化政時代という。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%B8%AD%E3%83%BB%E5%BE%8C%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "アヘン戦争で清国がイギリスに負けた情報が幕府にも伝わり、1842年に幕府は異国船打ち払い令を緩和して薪水供与令(しんすい きょうよれい)を発し、外国船には燃料・食料を与えることとした。\nしかし、1844年にオランダ国王が幕府に親書を送り開国を勧告しても、幕府は鎖国体制を守ろうとした。\nこのころアメリカは、清国貿易船や捕鯨船のための寄港地として日本に開国を望んでいた。\n1846年、アメリカ東艦隊司令官ビッドルが浦賀に来航して、開港や通商を要求したが、幕府は拒否した。\n1853年にアメリカ東インド艦隊司令官ペリー(Perry)が4隻の軍艦をひきいて日本に来航して開国を求め、フィルモア大統領からの国書を幕府に差し出した。\n幕府は国書を受け取り、1年後の返答を約束して、ひとまずペリーを帰らせた。\n同年7月には、ロシアのプチャーチンも長崎に来航した。\n老中首座(しゅざ)の阿部正弘(あべの まさひろ)は、これらの事態を朝廷に報告し、諸大名にも意見をたずねた。\nそして翌1854年に、ペリーがふたたび日本に来航すると、幕府は貿易自由化はしなかったものの、かわりに幕府は日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)をアメリカと結んだ。\nこの日米和親条約の内容は、\nのほか\nなどである。\nついで幕府は、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を締結し、こうして日本の鎖国は終了し、日本は開国した。\nつづいて、下田に着任した初代アメリカ総領事ハリスは、日米間の自由貿易のための通商条約の締結を幕府に強く要求した。\n(日米和親条約は自由貿易については規定していない。)\n老中 堀田正睦(ほった まさよし)は、イギリスの脅威を説くハリスの圧力におされて通商条約の許可(勅許)を朝廷に求めたが(※イギリスの脅威うんぬんは第一学習社『日本史A』の見解)、しかし攘夷主義者の多い朝廷は反対し、調停からの許可(勅許)は下りなかった。\nこのころ、1858年にアロー戦争(第二次アヘン戦争)で清国がイギリス・フランス連合軍に敗退し、ますます日本の周辺では欧米の影響力が強まった。\n1858年4月に大老になった井伊直弼(いい なおすけ)は、勅許(ちょっきょ)を得ないまま、同年6月に日米修好通商条約に調印した。ついで幕府は、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ(安政の五か国条約)。\n日米通商条約では、日本の関税自主権を認めておらず、領事裁判権(治外法権)の承認など、日本が不利な点も多い。\nしかし、アヘンの輸入禁止、外国人の日本国内の自由な旅行の禁止などを、認めており、アヘン戦争で敗退した清国がヨーロッパ列強と結ばされた条約と比べると、日本に有利な点もある。\n日米修好通商条約の内容は、\nなどである。\n(※ 高校の範囲: 参考)なお、日米通商条約の第4条では、日本へのアヘンの輸入を禁止している。同じく第4条にある別の規定により日本は関税自主権を失った(※ 帝国書院の高校「歴史総合」で紹介あり)。一見すると、関税自主権の喪失だけを見れば第4条は日本に損な条文をアメリカが押し付けたかのように見えるが、しかしアヘンの禁止の規定も同じ第4条であることなどまで合わせて考えると、解釈はそう簡単ではない。歴史にはこのように色々な側面もある。\n通商条約にもとづき、開港がされ、開港場には外国人の居留地がもうけられ、外国人商人と日本人商人との間で貿易が行われた(居留地貿易)。\n最大の貿易港は横浜であり、最大の貿易相手国はイギリスであった。\n主要な(日本からの)輸出品目は、生糸(きいと)や蚕卵紙(さんらんし)、茶であった。\n輸入では、毛織物・絹織物や、武器や艦船などの軍需品であった。\n当初は、輸出が輸入を上回った。\n国内経済では、流通魍が大きく変わることとなり、それまでの江戸を中心とした流通システムは解体されていき、生糸などの輸出品は横浜に商品が集まるようになった。\n幕府は、江戸中心の流通システムを保護をするため、1860年に五品江戸廻送令(かいそうれい)を出して生糸・雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服は江戸の問屋を必ず通すように定めたが、外国と地方商人からの反対により、効果は出なかった。\nまた、金銀の交換比率の日本と列国との違いから、金(きん)が海外に流出した。幕府は金流出をふせぐため小判の改鋳を行い、新小判での金の含有量を下げた(万延改鋳)。改鋳により貨幣価値が下がったためもあり、物価は上昇した。\nハリスと通商条約の交渉をしていた頃、幕府内では、13代将軍・徳川家定(いえさだ)に子がなく、いわゆる将軍継嗣問題が起きていた。越前藩主松平慶永(よしなが)、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)ら親藩や雄藩は賢明な人物を求めて徳川斉明(なりあき)の子である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推し(一橋派)、譜代大名らは、より徳川将軍家に血統が近い紀伊藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ)を推した(南紀派)。大老に就任した井伊直弼は、慶福を支持し、慶福を将軍継嗣とした(のちの14代将軍・徳川家茂(いえもち))。\nしかし、強引な将軍継嗣決定や通商条約の無勅許調印に不満を抱く一橋派や尊王・攘夷派は井伊を批判したため、井伊は一橋派や尊皇・攘夷派を弾圧した(安政の大獄)。これにより、一橋慶喜および一橋派の徳川斉昭・松平慶永は謹慎を命じられた。また、越前藩士で思想家の橋本佐内(はしもとさない)や長州藩士の吉田松陰(よしだしょういん)が処刑された。\n1860年、このような強硬な弾圧に憤激した水戸脱藩浪士たちにより、井伊直弼は江戸城桜田門外で登城中のところを襲われ、暗殺された(桜田門外の変)。現職大老が殺害されたことにより、幕府の権威はまたもや失墜した。\n桜田門外の変ののち、幕政の中心となった老中安藤信政(あんどうのぶまさ)は、幕府の権威を回復するために、朝廷(公)と幕府(武)の融和を図った(公武合体(こうぶがったい) )。幕府は孝明天皇の妹である和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)を将軍徳川家茂の妻として迎え入れた。しかし、尊王攘夷派はこれに反発し、安藤は江戸城坂下門外で水戸藩の浪士に襲撃されて傷を負い、こののち老中を退いた(坂下門外の変)。\n薩摩藩では、藩主の父である島津久光が公武合体論を支持し、1862年には上洛して藩内の急進的な尊皇攘夷派を弾圧した(寺田屋事件)。そして勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)を奉じて江戸に下り、幕府に対して政治改革を要求した。幕府はこれに応じて、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を政治総裁職に任命し、参勤交代を緩和した(文久の改革)。この帰途、薩摩藩の行列をイギリス人が横切り、薩摩藩士がそのイギリス人を殺傷する事件が起こっている(生麦事件)。\n島津久光が去ったあとの朝廷は、長州藩が主導権を握り、将軍を上洛させて孝明天皇の攘夷祈願のための賀茂社行幸に従わせ、幕府に対して攘夷を実行するように強く要求した。将軍家茂は1863年5月10日に攘夷を決行することを天皇に伝え、また全国の藩にこれを命じ、長州藩は攘夷決行の日に、下関の海峡を通過した外国船を砲撃した(下関事件)。\nこれら尊皇攘夷派の動きに対して、1863年8月18日、薩摩藩と会津藩は、公武合体派の公家と協力して長州藩と三条実美(さねとみ)ら7名の公家を京都から追放した(八月十八日の政変、文久の政変)。\n翌1864年7月、新撰組(しんせんぐみ)が京都の旅館池田屋で尊皇攘夷派の浪士を殺傷する池田屋事件が起きると、長州藩は京に兵を進めて勢力回復を図ったが、御所外郭門の蛤御門(はまぐりごもん)で会津藩・薩摩藩・桑名藩によって撃退された(禁門の変、蛤御門の変)。\nこれを理由に、幕府は長州藩征討の詔を奉じて1984年7月に軍を起こした(第一次長州征討、第一次長州征伐)。この頃、長州への報復の機をうかがってたイギリス・フランス・オランダ・アメリカなどの列国が連合艦隊を編制して下関を砲撃して、下関側の砲台を占領した(四国艦隊下関砲台占領事件)。この結果、長州藩は尊攘派にかわって幕府恭順派が主導権をにぎり、戦闘が起こる前に、長州藩は幕府に降伏した。外国からの攻撃を受けて長州藩は攘夷が不可能であることを悟り、以降開国論が主流となった。\n一方、薩摩藩はこれより前の1863年に、生麦事件の報復として1863年にイギリス軍艦に攻撃され、敗北していた(薩英戦争)。薩摩も、こうして攘夷の無理を悟り、開国派に転じた。さらにイギリスは、これを契機に薩摩藩に接近し、幕府にかわる雄藩連合政権の可能性を探るようになった。\n1864年、長州藩の高杉晋作(たかすぎ しんさく)が奇兵隊(きへいたい)をひきいて挙兵して、長州藩は内戦となり、高杉が勝利して藩内の保守派から実権をうばう。( 奇兵隊は、1863年に高杉らによって組織された軍隊。奇兵隊は、身分にとらわれずに百姓や町人も兵士として含む、志願制の部隊だった。)\nそして長州では、高杉晋作や木戸孝允(きど かたよし)が藩政を指揮したため、長州藩の方針は開国倒幕になった。\nそして長州は大村益次郎(おおむら ますじろう)を登用し、洋式の軍制にもとづく軍事改革を行った。\nいっぽう薩摩藩では、西郷隆盛(さいごう たかもり)や大久保利通(おおくぼ としみち)が実権をにぎるようになり、イギリスから武器を輸入するなどして、薩摩は軍備の増強につとめた。\n幕府は1865年、長州追討の令を出した(第二次長州追討令)。しかし、1866年1月、ひそかに薩摩藩と長州藩は、土佐藩脱藩浪士の坂本竜馬(さかもと りょうま)や中岡慎太郎(なかおか しんたろう)の仲介のもと同盟を結んだ(薩長同盟)。\nそして同1866年4月に幕府と長州との戦闘が始まるが、西洋式軍備の長州軍に幕府は各地で敗北を重ね、将軍家茂の急死もあり、休戦になった(第二次長州戦争)。\nこのころ、「世直し」をとなえた農民一揆が、全国各地で起きていた。また、大坂や江戸で、打ちこわしが起きた。また、1867年には「ええじゃないか」と民衆が熱狂する騒ぎが起きた。\n15代将軍になった慶喜は、1867年、フランスの援助を受けて、軍備の西洋化を行った。\nいっぽう、薩摩藩は幕府に、政治改革を要求し、諸般の大名どうしで会議して国政を決める大名会議のようなものを作るべきだと要求したが、幕府に拒否された。(参考文献: 清水書院の教科書) また、長州藩の処遇をめぐっても、幕府と薩摩は対立した。\nすると薩摩は長州とともに倒幕を決意し、また朝廷は倒幕の密勅を下した。\nしかし土佐藩は公武合体の立場をとり、坂本竜馬たちの活動により、前藩主 山内豊信(やまうち とよしげ)を通して将軍徳川慶喜に、討幕の機先を制して政権を朝廷に返還することを進めた。\nそして慶喜もこの策を受け入れ、10月14日に幕府は大政奉還を朝廷に申し出た。\nそして同じ14日に、薩摩と長州が倒幕の密勅を入手した。\n機先を制された薩長は、12月9日に朝廷を武力で制圧して宮中クーデターを起こし(※ 山川出版や清水書院の見解)、王政復古の大号令を発して、(徳川慶喜ぬきの)天皇による新政府樹立を宣言した。\n新政府は将軍の廃止はもちろん、摂政・関白も廃止し、新たに天皇のもとに総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職を置いた。\nさらに同9日、小御所会議(こごしょ かいぎ)で、慶喜の内大臣辞任と領地の一部返上が決定された。この決定に怒った慶喜(よしのぶ)は、京都から大阪城に引きあげ、新政府と軍事的に対決するため、1868年1月に京都に(徳川)軍をすすめ、鳥羽・伏見の戦いとなったが、新政府軍が勝利した。\n慶喜は海路で江戸に帰ると、新政府が慶喜を朝敵として追討軍を派遣し、追討軍は江戸城に迫った。\nだが、慶喜の命を受けた勝海舟(かつ かいしゅう)と追討軍指揮官の西郷隆盛との交渉により、江戸城は無血開城された。\nしかし、江戸城の開城後も、東北の諸侯は奥羽列藩同盟を結成して新政府に服従しなかったため、新政府軍は北上して東北諸侯と戦い、1868年には新政府軍は会津城を攻め落し、翌1869年5月には函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)に立てこもった旧幕臣の榎本武揚(えのもと たけあき)を降伏させた。\nこれらの1年ちかくの内戦のことを戊辰戦争(ぼしん せんそう)という。\n相良総三(さがら そうぞう)の赤報隊(せきほうたい)は、民衆の支持を得られるように年貢半減を掲げて進撃した。しかし、財政難に苦しむ新政府は、相良らを「偽官軍」(にせ かんぐん)として処刑した。\n(※ 一部(山川出版)の教科書でしか紹介してない。)\n反射炉が 〜\n勝海舟が、〜\n咸臨丸(かんりんまる)が\n(ばんしょしらべどころ)\nへボンが 〜\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%96%8B%E5%9B%BD"} {"text": "\n戊辰戦争のころ、1868年3月に新政府は五箇条の誓文(ごかじょう の せいもん)を出した。\nこれは、公儀世論(こうぎよろん)の尊重や開国和親など新政府の政治方針を、示したものである。\n五箇条の御誓文(抜粋)\n(※ この「我国未曾有」(以下略)の部分の訳は、扱った教科書もなく、高校教育界では、あまり訳が定まってない。)\nこのため、『五カ条の誓文』は天皇が神々に誓う型式で公布されたものと思われる。(※ 検定教科書で「神々」に「誓約」など記載されてるのは、上記のような文の加わった古い文献があるため。)\nいっぽう民衆に対しては同日と思われる3月15日に、五傍の掲示で、江戸幕府と同様にキリスト教の禁止などの方針を示した。\n1868年閏(うるう)4月には、政府組織を定める政体書(せいたいしょ)が出され、その主な内容は「太政官」(だじょうかん)と呼ぶ中央組織の設置と「太政官」への権力の集中、立法・行政・司法の三権分立制、官の4年任期、などである。\nこれらの(政体書に定められた)制度は、欧米を手本にしたものである。なお、完全には実施されなかった。\n同年7月には江戸を東京と改め、9月には元号を発し「明治」とするとともに「一世一元の制」を定めた。\n政府は1869年1月に、薩摩・長州・土佐・肥前(ひぜん)の4藩に版籍奉還(はんせきほうかん)を上表させた。つづいて6月、すべての藩に版籍奉還を命じた。\nそして旧藩主を知判事として任命し、旧藩主には藩内の石高の10分の1にあたる家禄を与える事にした。\nしかし版籍奉還のあとも、徴税と軍事の権限は旧藩主が保有した。\n版籍奉還後の中央組織の再編で、祭政一致の理念から神祇官を太政官から独立させた。また、太政官の下に、外務省・大蔵省などの各省を置く組織となった。\n新政府の直轄地は一部の地域に限られていた。新政府は、かぎられた直轄地から、税をきびしく徴収したため、税負担の軽減を期待していた民衆の期待は裏切られ、一揆が多発した。\n1871年、薩摩・長州・土佐の3藩の兵を東京に集め、その武力を背景に同年7月、廃藩置県を断行した。\nすべての知藩事は解任され、旧藩主は東京在住を命じられ、かわって中央政府から府知事・県令が派遣された。\n廃藩置県の直後に政府組織も改編され、太政官は正院(せいいん)となり、さらに右院(ういん)と左院(さいん)がもうけられ、正院・右院・左院の三院制となった。そして正院の下に各省が置かれた。\nこれら一連の改革を通して、政府内では薩摩の西郷隆盛(さいごう たかもり)や長州の木戸孝允(きど たかよし)など、薩長土肥の出身者が権力をにぎるようになった。また、公家の岩倉具視(いわくら ともみ)など少数の公家が権力を握るようになった。特定の藩出身者などの特定勢力出身者が権力をにぎっていったので、のちに藩閥政治といわれるようになった。\nなどが、権力をにぎった。\n版籍奉還後、明治政府は「四民平等」の理念にもとづき、江戸時代の身分制度を廃止した。このため、公家や大名は華族(かぞく)とし、大名や幕臣は士族(しぞく)とし、下級武士は卒(そつ)とし、農民や町民は平民(へいみん)とした。(卒は1872年に廃止された。)\nそして1870年までには、平民も、苗字を持てるようになった。また婚姻では、平民も華族や士族と法律上は結婚できるようになった。また関所も1869年に廃止されており(※ 参考文献: 清水書院の教科書)、人々は移転や職業選択も自由になった。\nまた1871年には、身分の解放令(かいほうれい)が布告され、えた・非人(ひにん)などの称は廃止されて、そのような差別をされていた人たちも平民として扱われる事となった。 \nそして1872年には、新たな族籍(ぞくせき)にもとづく戸籍が作られた(壬申戸籍(じんしん こせき))。\n武士の切り捨て御免の特権も廃止された。ちょんまげは、まず、まげをしなくてもいいと許可が出され、やがてちょんまげは禁止された。また、帯刀も禁止された(廃刀令)。\nこのような、明治時代に、江戸時代の封建的な身分を廃止したことを、一般に「四民平等」という。\nなお、農業政策では、1871年に田畑勝手づくりを許可し、翌72年には田畑永代売買禁止を解除した。\n士族や華族には廃藩置県後も禄(ろく)が与えられていたが、これが新政府の財政の30%ほどを占めていて財政圧迫をしていた。そのため、まず新政府は、家禄奉還の希望者をつのり、家禄を受けとる権利を政府に返す代わりに約6年ぶんの現金と公債を与えた。\nそして1876年には金六公債証書を発行し、これにより家禄の支給をすべて廃止した(秩禄処分(ちつろくしょぶん) )。\n同76年、廃刀令も実施され、旧(一般)武士の特権は、制度上はすべて無くなった。\n結果、下級士族は仕事をさがす必要が生じたが、巡査や教員や職業軍人など公務員になって成功したものを除くと、ほとんどの下級武士が没落した。\n政府は、士族に開墾や新規事業の奨励のための資金貸付けの士族授産を行ったが、あまり効果は無かった。\n軍隊の管理については兵部省が管轄することになった。\n政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年(明治6年)に徴兵令(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。\n江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。\nただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金(代人料270円)を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。\n徴兵制の導入のとき、政府が「血税」という表現を使ったので、本物の生き血をとられると勘違いした人々のデマが生じて、これに特権をうばわれる士族による不満が重なり、一揆が各地で起こった(血税一揆)。\nなお、警察制度については、1873年に新説された内務省(ないむしょう)が担当することとなり、内務省は地方行政や殖産興業を担当する省庁であるが、警察行政も担当した。翌1874年には東京に警視庁が創設された。\n1871年、政府は、田畑の勝手作りを許可した。\n翌1872年には、田畑の永代売買の禁令を解除し、地主に地券(ちけん)を与えて土地所有権を確定した。\nついで1873年、政府は地租改正(ちそかいせい)を行った。地租改正は1873年から行われ、1881年までにほぼ完了した。\n地租の納税者は土地所有者であり、金納である。地租の金額は当初、地価の3%とされた。地価の決定のさい、政府は高めに地価を設定したので、不満をもつ農民たちによる一揆が各地で起きた(地租改正反対一揆)。\nのちの1877年には、地租の税率(ぜいりつ)が引き下げられ、3%から2.5%へと税率が引き下げられました。\nなお、一連の地租改正では、山林や原野などの共有地や入会地(いりあいち)は官有となった。\n明治政府は、戊辰戦争などの戦費を調達するために太政官札(だじょうかんさつ)や民部省札(みんぶしょうさつ)などの紙幣を発行していたが、これらは不換紙幣(ふかん しへい)だったので信用されなかった。(不換紙幣(ふかんしへい)とは、金銀との交換が保証されてない紙幣のこと。なお、金銀との交換を保証された紙幣のことは、兌換紙幣(だかん しへい)という。 )\nこれらの紙幣にくわえて、旧来の藩札や貨幣も流通しており、貨幣の状況が複雑であった。\nこのため、政府は通貨統一の必要にせまれれ、1871年(明治4年)に新貨条例(しんか じょうれい)を公布し、円(えん)・銭(せん)・厘(りん)を基本単位とする金本位制で十進法の新貨幣の制度を採用した。\nしかし、これらの改革の結果にかかわらず、アジア地域では貿易に銀が使われたため、日本の貿易でも銀が使われたため、制度上は日本は金本位だったが、事実上は金本位と銀本位との金銀複本位だった。貿易では銀貨が流通していた。\nさて政府は翌1872年に新紙幣を発行して、これを太政官札と引き換えることにより太政官札を回収し、旧紙幣回収に成功した。なお、この新紙幣は不換紙幣である。\nまた政府は、(アメリカのナショナル=バンク制度を参考に、)1872年、渋沢栄一(しぶさわ えいいち)が中心となって国立銀行条例を公布し、兌換銀行(だかんぎんこう)を普及させようとした。\n1873年には日本で初めての銀行である第一国立銀行が出来た。(第一国立銀行は「国立」といっても制度上は民間銀行である。)\nしかし、民間には兌換義務は負担が重く、この頃に設立された銀行は4行と少なかった。そこで政府は1876年に、兌換義務のない銀行の設立を許可すると、いっきに多くの銀行が設立され、1879年までには153行の銀行が設立されていた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0"} {"text": "1870年に設立された工部省が、鉄道・鉱山・製鉄などの官営事業を担当した。\n1873年に設立された内務省が、製糸・紡績などの軽工業の振興を担当した。\nまた、内務省は、群馬県に富岡製紙場を設置するなど、各地に軽工業の官営模範工場を設置した。\n工業には、交通手段として鉄道も必要だし、また通信の普及も必要である。\n(通信機のほうが設置が簡単だったようで、(電源のほかには、せいぜい通信ケーブルをひくくらいで済むからか))\n鉄道よりも先にまず1869年に日本初とみられる本格的な電信線が東京・横浜間に設置された。\n鉄道の設置には莫大な費用が必要なので、イギリスから費用を借入れした。\nつづいて鉄道が工部省の担当のもと1872年、新橋・横浜間に設置された。ついで1874年、大阪・神戸間の鉄道が設置された。\nまた、電信は1874年ごろまでに北海道から長崎まで、つながった。\n郵便は、1871年に前島密(まえじま ひそか)の意見によって官営の郵便事業が東京および大阪で発足された。\n海運では、有事のさいの輸送を確立するために、政府は岩崎弥太郎(いわさき やたろう)の三菱会社(みつびしかいしゃ)に手厚い保護を与えた。\nそのほか、さまざまな事業で、三井(みつい)・三菱などの特定の民間の大企業が、優遇・保護された。このように、政府とむすびついた商人たちのことを政商(せいしょう)という。\n宗教政策では新政府は、王政復古の祭政一致の理念により、神仏習合を禁じて1868年に神仏分離令(しんぶつ ぶんりれい)を出した。そのため、全国にわたって廃仏毀釈(はいぶつ きしゃく)の運動が起き、各地で仏像や寺院が破壊された。\nいっぽう、政府は神道(しんとう)の国教化を目指し、1870年に大教宣布の詔(だいきょうせんぷ の みことのり)を出し、神社制度や、皇室行事にもとづく祝祭日を設定した。\nキリスト教については、新政府は当初、旧幕府のキリスト教の禁止を継続し、長崎の浦上のキリシタンが弾圧を受けていたが、列国の強い抗議により、1873年にキリスト教禁止の高札(こうさつ)が撤去され、キリスト教の信仰が黙認されるようになった。これを機に多くの外国人宣教師が来日し、布教活動を行った。\n靖国神社の前進となる東京招魂社(とうきょう しょうこんしゃ)は、このころ(1869年)作られた。\n招魂社では、戊辰戦争以来の国事に協力して死没した者をまつった。\n(※ 教科書に無い話題: )戊辰戦争前に死んだ吉田松陰など、のちに新政府側に都合のいい思想家も、まつられている。いっぽう、戊辰戦争で政府軍の敵側である白虎隊や、西南戦争で反乱軍だった西郷隆盛は、まつられてない。\n1871年に文部省が設置された。そして、すべての日本国民の子どもの男女に教育をさずけるべきとの理念のもと、1872年に小学校から大学までの制度や学区などについての学制を定めた。(※ いくつかの検定教科書では、フランスの学制を参考にしたのだろうと分析されている。山川出版や清水署員など)\nしかし、学校建設費や授業料の負担が地域や保護者に課せられたため、反発運動が高まり、政府は1879年に学制にかえて教育令を出した。\n高等教育については、1877年に旧幕府の開成所や医学所などを統合して東京大学(現在の東京大学の前身)をつくった。そして、多くの外国人教師が招かれた。\nそのほか政府によって、教員養成のための師範学校や、女子教育のための学校、産業教育のための専門学校もつくられた。\nいっぽう政府とは別に、福沢諭吉の慶応義塾、新島襄(にいじま じょう)の同志社(どうししゃ)英学校、大隈重信の東京専門学校(のちの早稲田大学)などの私立の学校が設立された。\n日本は明治維新により近代化が必要になったが、産業・経済の近代化では工場が必要だが、工場労働者は時刻にもとづいて労働中は計画的に時間を管理される必要があるので、前提として人々に時間をもとにした行動習慣を教育する必要があった。だから学校教育でも時間割に基づいて行動したり、授業中は私語をつつしむ事や実技以外の座学の授業では原則として着席するなどの何気ない習慣も、工場労働者を育てるための規律の教育という意図があると、よく教育評論では昔から言われている。\nさて、検定教科書では深入りしてない話題なのだが、教育学の用語で1970年代の古くから「隠れたカリキュラム」という欧米人の提唱した概念があり、その分析法を明治日本にあてはめるなら、「隠れたカリキュラム」とは、けっして表向きの「国語」「数学」や「体育」などの授業ではなく、まさに上述の時間割という習慣をつけさせることや、そのほか産業革命時代の労働者として都合のいい機械的な単純反復作業によって達成できる労働や勉学の奨励、そのほか国家の政策に都合のいいような思想に染めていくことなどが、「隠れたカリキュラム」の代表例・典型例としてよく言われる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E3%81%AE%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9"} {"text": "幕末から、外国新聞を幕府は翻訳していた。\n1869年には本木晶造が鉛活字の鋳造に成功したので日本で活版印刷が実用化し、1870年には最初の日刊新聞である『東京毎日新聞』が創刊された。\n1873年(明治6年)には、森有礼(もり ありのり)・福沢諭吉・中村正直(まさなお)・西周(にし あまね)・加藤弘之(かとう ひろゆき)・西村茂樹(にしむら しげき)らの洋学者が明六社(めいろくしゃ)を結成して翌年から『明六雑誌』(めいろくざっし)を発行して、雑誌内で啓蒙主義的な論説を提唱したり、近代思想の紹介をするなどして、近代思想の普及につとめた。\n福沢諭吉は『西洋事情』『学問のすすめ』『文明論の概略』を著した。\n中村はスマイルスの著作の訳で『西国立志編』を著した。\n彼らとは別に、(幕末ではフランス語の翻訳仕事をしていた)中江兆民(なかえ ちょうみん)が、明治維新後には中江はフランス留学させてもらい、明治7年ごろにルソーの翻訳を紹介するなどして社会契約論(しゃかいけいやくろん)の紹介をした。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%88%9D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96"} {"text": "征韓論にやぶれて政府を去っていた者のうち、板垣退助(いたがき たいすけ)・後藤象二郎・江藤新平は、1874年1月に民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出した。\nそして板垣退助は1874年4月には故郷の土佐に帰って片岡健吉(かたおか けんきち)とともに立志社(りっししゃ)を創設した。\nそして翌1875年には、板垣のよびかけで各地の民権派士族が大阪にあつまり、民権派士族の全国組織である愛国社(あいこくしゃ)が結成された。\nいっぽう、政府側の大久保利通は、板垣退助と、台湾出兵に反対して参議を辞職していた木戸孝允(きど たかよし)と大阪で会談し(大阪会議)、板垣・木戸の両名に参議に復帰するように大久保は頼み、また、復帰の条件として立憲制のための政治改革を約束した。\n同1875年4月に 漸次立憲政体樹立の詔(ぜんじ ~ みことのり)が出され、この結果、\nいっぽう、政府は同1875年、讒謗律(ざんぼうりつ)と新聞紙条例を制定し、反政府的な言論を取り締まった。\n征韓論争でやぶれた江藤新平は、故郷の佐賀に帰っていた。士族反乱は、西南戦争よりも「佐賀の乱」や「神風連の乱」(じんぷうれんのらん)が先。\n1876年に熊本で「神風連の乱」が起きた。翌1877年に西南戦争が起きた。\n経緯は以下のとおり。\n1874年、江藤新平が 佐賀の乱(さがのらん) を起こした。\nその後も、1876年に廃刀令が出され、それに不満をもつ士族の敬神党(神風連)が同1876年に熊本で反乱を起こした(神風連の乱)。\nこれに呼応して、福岡では秋月の乱(あきづきのらん)が起き、山口県では前原一誠(まえばら いっせい)らによる萩の乱(はぎのらん)が起きた。\nこのように、西日本で反乱があいついだ。\nそして翌1877年、西郷隆盛が鹿児島の不平士族を中心に反乱を起こし、西南戦争に発展した。この西南戦争は今までに起きた士族反乱のなかで、最大の規模のものであった。\n政府軍は約7ヵ月で西郷軍を鎮圧した。やぶれた西郷は自害した。\n西南戦争後、1876年ごろから、激しいインフレが起きた。\n原因として考えられているのは、不換紙幣(ふかんしへい)の大量発行である。不換紙幣というのは、金や銀と交換しなくてよい紙幣のこと。\nなぜ、そのような紙幣を大量発行したかというと、西南戦争の戦費や、明治維新の諸改革などで、出費が かさんだ からである。\nともかく、インフレが激しくなったので、政府は財政改革の必要にせまられた。\nそして松方正義(まつかた まさよし)が大蔵卿(おおくらきょう)に就任し、増税および歳出削減を行った。\n1882年には日本銀行が設立され、1885年には兌換銀行券(だかんぎんこうけん)を発行した。兌換銀行券とは、銀や金と交換できる紙幣のこと。\n兌換紙幣の交換先の金属を、金(Au)を中心とした場合の制度を金本位制といい、銀(Ag)を中心とした場合の制度を銀本位制という。\n当時の日本銀行券は、銀本位制である。\nこのようにしてインフレはおさまっていくが、今度は日本がデフレによる不況が起きた(松方デフレ)。\n米、繭(まゆ)などの農産物価値が下落し、地租改正などの増税の負担も加わったので(しかも地租は定額金納であった)農民の生活は苦しくなり、土地を手放して小作人になる農民も急増した。\nいっぽう、富める地主たちは、没落した農民が手放した土地を買ったりしたので、土地は地主に集中した。\n土地を失った農民たちのなかには、都市に貧民として流入することもあった。\nじつは松方正義が大蔵卿になる前は、大隈重信が大蔵卿だった。\n西南戦争の最中の1877年、立志社の片岡健吉らは政府の国会開設などをもとめる建白書を天皇に提出しようとしたが(立志社建白)、このときは政府によって拒否された。\n1880年(明治13年)に、各地の自由民権運動の代表が大阪に集まり、国会期成同盟(こっかい きせい どうめい)をつくり、署名を集めて、政府に対して国会開設を要求した。いっぽう、大隈重信(おおくま しげのぶ)は、イギリスにならった憲法をつくるべきと主張し、ただちに国会を開こうとして、岩倉や伊藤らと対立した。\n1881年に政府が北海道開拓使の施設を安く、商社に払い下げようとして問題になった(開拓使官有物払い下げ事件)。\nこのため、民間からの政府への批判が高まり、政府への国会開設の要求が、さらに高まった。政府は払い下げを中止した。\nまた、政府はこの世論に大隈重信が関係しているとして、大隈を罷免した。\nまた、政府は国会開設の勅諭(ちょくゆ)を出して、10年後の1890年に国会開設とすると約束した。(数え年での10年後なので、1881年の10年後が1890年になる。)\nしかし、1881年のときには、まだ、国会をひらくために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がなかった。国会の決まり事をきめた法律すら、まだ出来てないので、まだ民撰議院をひらくことも出来ない。\n国会の開設の時期や憲法の方針をめぐって、政府では意見がわかれた。岩倉は、ドイツにならった憲法を時間をかけて作ろうとした。\n板垣退助は1881年にフランス流の急進的な政策を主張する自由党を結成した。いっぽう、政府から追放されていた大隈重信は1882年に、イギリス流の政策を主張する立憲改進党(りっけん かいしんとう)を結成した。\nこのような理由もあり、政府は、すぐには民撰議院を開かず、10年以内に国会(こっかい)を開くことを国民に約束した 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) を1881年にだしました。実際に、10年後の1890年に国会が開かれます。\n1881年以前からも、民間人による私擬憲法案(しぎけんぽうあん)は、いろいろな人物により、さまざまな草案が出されていた。\n1881年、いよいよ将来的に憲法制定が本格化しそうだと話題になると、1881年に福沢諭吉系の交詢社(こうじゅんしゃ)が「私擬憲法案」を出したのがきっかけに、他社や民間人も憲法案を出した。\n植木枝盛(うえき えもり)による憲法草案は『東洋大日本国国憲按』(とうよう だいにっぽんこく こっけんあん)は、それより後。\n植木の草案は有名だが、べつに、こいつが最初ではない。単に、植木の草案の『東洋大日本国国憲按』は内容が急進的だったので、有名なだけ。(「国憲按」は「こっけんあん」と読む。)\n千葉卓三郎(ちば たくさぶろう)が書いたと思われる「五日市憲法」(いつかいち けんぽう)という私擬憲法案もある。「五日市憲法」は人権規定が詳細という特徴がある(※ そのため、歴史学的には、のちの日本国憲法との関係などの観点でも「五日市憲法」が注目されている)。\nこのほか、自由党系(つまり板垣退助系)の立志社の『日本憲法見込案』(~みこみあん)という私擬憲法案もある。\n1882年に政府は、自由党の板垣退助にも欧米視察をさせようとして、政府は板垣の洋行を援助した。\nだが、それを立憲改心党が問題視した。\n改進党の批判によると、板垣は三井財閥から洋行を支援してもらっていたが、それは実は政府がひそかに三井を支援していたというのである。\nいっぽう、批判された側の自由党も、改進党と三菱財閥との関係をあばいた。\nいっぽう、増税などによる不満により、1882年には、福島で県令の三島通庸(みちつね)による道路建設工事に対する運動が起き、三島に反対をした河野広中ら自由党員が反乱をくわだてたとして逮捕された(福島事件)。ついで関東でも反乱が起きた。\n1884年には、関東の秩父で、約3000人の農民による武装蜂起が起き、高利貸・警察・郡役所などを襲撃したので、政府は鎮圧のために軍隊を出動する結果になった(秩父事件)。そして秩父での農民反乱は鎮圧された。\nこうした事件への不安から、自由党は支持を失っていき、やがて自由党は解散した。\nいっぽう、立憲改進党では大隈重信が離党した。\nこのように、民権運動家の活動は停滞していった。\nなお、1884年に朝鮮で、日本の明治維新にみならった改革を強行的に進めようとする金玉均ら(※ 範囲外: 「開化党」・「独立党などという」)一部の青年官僚によるクーデタ未遂事件(※ 範囲外: 『甲申政変』(こうしんせいへん)という)が起きたが、清国がクーデター鎮圧の援軍を挑戦に送ったのでクーデターは失敗したので(※ 範囲外:)金玉均は日本に亡命し、その金玉均を福沢諭吉らが支援した(※ 1882年『時事新報』、福沢諭吉『金玉均の全貌』[3])。板垣も金玉均を支援した。(なお、クーデターの直前、清国はベトナム領有をめぐってフランスと争った清仏戦争(初期)を1883年に終わらせており、清国はフランスに敗北している。)\n甲申政変(こうしんせいへん)をうけてか、1885年、日本にいる自由党の大井憲太郎(おおい けんたろう)が朝鮮でクーデタ(保守政権を倒す)を起こそうとして朝鮮に渡ろうとしたが、未然に日本の大坂で検挙された(「大阪事件」)。\n民権運動はいったん停滞したが、しかし、国会開設が近づくにつれ民権運動はもりあがり、1886年に民権派は再結集をしようとして、後藤象二郎が中心人物になり、大同団結(だいどうだんけつ)をとなえた。\n翌1887年、井上馨(いのうえ かおる)外相の条約改正交渉が失敗すると、民権派は、地租軽減・ 言論と集会の自由 ・ 外交の挽回(対等条約の締結) をとなえる三大事件建白運動を展開した。\nすると、政府は保安条例を発し、民権派を都内から追放した(正確には皇居から約12km(三里)よりも外に追放)。追放された民権運動家のなかには中江兆民(なかえ ちょうみん)や星享(ほし とおる)などが含まれ、合計で約570名が都内から追放された。\n政府は1882年に軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)を出し、軍人勅諭では軍人は天皇に忠誠をちかうべきあるとし、また、政治に関与すべきではないとされた。\n明治政府は、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らを、ヨーロッパの憲法を調べさせるためヨーロッパに送った。そして伊藤は、イギリスの法学者スペンサーやドイツの法学者グナイストから学び、またオーストリアの法学者シュタインから憲法学のほか軍事学・教育学・統計学・衛生学などなど様々な学問を学んだ。\nスペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えた。\nまた、伊藤の帰国後の1884年に華族令が出され、華族の構成範囲が拡大し、華族には従来の公家や藩主に加え、さらに国家の功労者が華族になれるようになった。また、華族は侯爵・公爵・伯爵・子爵・男爵に5分類された。(華族はのちに貴族院の構成員になる。)\n(※ おそらく、将来的な二院制を見越しての改革だろう。)\n1885年(明治18年)に、立憲制の開始にそなえて内閣制度がつくられ、伊藤は初代の内閣総理大臣に就任した。内閣制度の制定にともない、太政官制(だじょうかんせい)は廃止された。\n地方制度については、ドイツ人顧問モッセの助言により、山県有朋が中心になって改正作業をすすめ、1888年に市制・町村制が、(憲法発布後の)1890年に府県制・郡制が公布され、政府の統制のもとであるが地方自治が制度的には確立した。\n憲法の草案作成では、ドイツ人の法学者ロエスレルの助言のもと、憲法草案を、伊藤を中心に井上毅(こわし)・伊藤巳代治(みよじ)・金子堅太郎らによって憲法草案が作成された。\nそして、この憲法草案が宮中にある枢密院(すうみついん)で天皇臨席のもとで議論され、1889年に大日本帝国憲法(明治憲法)として公布された。\n帝国議員は、衆議院と華族院の二院制で構成された。\n憲法の公布と同日に皇室典範と衆議院議員選挙法と貴族院令も制定された。\n大日本帝国憲法(抜粋)\n現在(21世紀)の日本と比べると、大日本帝国憲法は国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての憲法となった。当時の明治の日本としては、江戸時代から比べると、大日本帝国憲法は民主的に進歩した憲法だった。\nそして、明治の日本は憲法を持ち憲法にもとづいた議会政治を行う、アジアでは初めての立憲国家(りっけんこっか)となった。\n新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。\nイギリスのある新聞では新憲法は高く評価され、「東洋の地で、周到な準備の末に議会制の憲法が成立したのは何か夢のような話だ。これは偉大な試みだ」と報じられた。\n大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。\nつまり、日本を統治するのは、藩閥ではなく、華族でもなく、天皇である、ということである。ただし天皇の独裁ではなく、議会の助言をもとに天皇が政治を行うとした。大日本帝国憲法では、予算や法案の成立には、議会の同意が必要だった。(表向きには天皇が日本を統治すると定められているが、じつは議会の承認がないと天皇は法律も予算も成立できないので、天皇だけでは国政を動かせず、じつは明治の日本の政治は表向きとは違い、天皇による親政ではなく)事実上の立憲君主制(りっけん くんしゅせい)である。\n司法・立法・行政などの最終的な決定権は、天皇が持つ事になった。\n外交や軍事の、最終的な決定権は天皇がにぎる事とされた。憲法では、軍隊は天皇(てんのう)が統率(とうそつ)するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。\nつまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。\nこのように軍隊を統率する権限を 統帥権(とうすいけん) と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。\n外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。\n国民は、天皇の「臣民」(しんみん)とされた。\n国民の権利は、法律の範囲内という条件つきで、言論の自由や結社・集会の自由、心境の自由などの権利が保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利とくらべたら、当時の権利は国民にとっては制限の多いものであった。\n国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。\nなお、右の図中にもある「枢密院」(すうみついん)とは、有力な政治家をあつめて、天皇の相談にこたえる機関である。\n憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための総選挙が行われた。つづいて国会である帝国議会(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。(第1回帝国議会)\n帝国議会の議院は対等の権限をもつ衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)とからなる二院制であった。\nこの1890年のときの選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。いっぽうの貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。\n衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(年間15円以上。)が必要で、満25才以上の男子に選挙権が限られた。実際に選挙が出来たのは全人口の約1.1%ほど(約45万人)に過ぎなかった。\n憲法発布の翌年の1890年には教育勅語(きょういく ちょくご)が出された。教育勅語では、「忠君愛国」(ちゅうくんあいこく)の道徳が示され、また、親孝行などを中心とする道徳も示された。\n憲法の交付に続いて、刑法(けいほう)・民法(みんぽう)・商法(しょうほう)などの法律も整備する必要があった。公布されていった。\n日本政府はフランス人の法学者ボアソナードをまねいて、1880年に刑法と治罪法(刑事訴訟法)を制定してもらった。\nつづいて1889年までにボアソナードの協力のもと、民法・商法・民事訴訟法も制定された。そして1890年に民法も公布されるが、しかし日本の法学者から反対意見が出て(家族制度を破壊するものであると)論争となった(民法典論争)。\n帝国大学(東京大学)の法学者の穂積八束(ほづみ やつか)は「民法いでて、忠孝ほろぶ」(民法出デテ、忠孝亡ブ)と題した論文を書き、ボアソナードの民法を批判した。\n結果的に議会で民法は修正されて、家族制度について家長(父親)や男性の権限が強いものに変わった。(一夫一妻制が制度化されたことにより、女性の地位は安定し、江戸時代よりかは少しはマシになったものの、あいかわらず女性の地位は低かった。)\n議会開会前の、憲法発布の翌日に黒田清隆(くろだ きよたか)首相は、政府は政党の意向に左右されてはならないという超然主義(ちょうぜん しゅぎ)の立場を表明していた。\nしかし1890年の第1回帝国議会(第一議会)の衆議院総選挙では、立憲改進党や立憲自由党など民権派政党(民党)が大勝し、衆議院の過半数の議席を獲得した。(いっぽう、政府師事の派閥は「吏党」(りとう)と呼ばれた。)\n第1回帝国議会が開かれると、山県有朋内閣は軍備の拡張を主張し、いっぽう民党は「政費削減」(意味: 行政費の削減)と「民力休養」(意味: 地租の軽減、地価の修正)を主張し、対立した。最終的に山県内閣は予算を成立させた。\nつづく第2回議会では、松方正義内閣が、民党と対立し、衆議院を解散した。\nつづく第2回総選挙では、内務大臣である品川弥二郎(しながわ やじろう)が選挙干渉をおこなったが、しかし選挙では民党が圧勝した。\nそして松方内閣は選挙干渉の責任を問われて辞職したので、つぎは第2次伊藤博文内閣が成立した。\n伊藤内閣では海軍予算について、民党と対立したが、最終的に予算を成立させた。\n旧幕府が欧米と結んだ不平等条約の改正は、新政府の外交の重要課題のひとつであった。特に、領事裁判権の撤廃と関税自主権の回復が、重要課題であった。\n1887年、井上馨(いのうえ かおる)外務卿(がいむきょう)は、列国と外国人を居留地でなく内地雑居(内地の開放)を認める条件と、外国人を被告とする裁判では判事を半数以上は外国人判事とするという条件のもと、領事裁判権を廃止するという案で、合意した。\nしかし政府内では、外国人判事の義務化は、日本の主権の侵害であるとして、政府内での反対意見が強かった。また、井上が改正交渉を有利にしようとして進めた欧化政策が民権派などから批判された。結局、列国との改正交渉は中止になり、井上馨は外相を辞任した。\nなお、東京日比谷に鹿鳴館(ろくめいかん)が、欧化政策のために建設されており、そこでは西欧風の舞踏会がよく開かれた。\nついで外相となった大隈重信(おおくま しげのぶ)は、条約改正に好意的な国から個別に交渉を始めていた。そして、アメリカ・ロシア・ドイツとの改正調印にした。しかし、大審院の裁判官にかぎり外国人判事を任用するという条件つきであるという事が外部にもれると、政府内外に強い反対運動が起きた。\nそして大隈重信は、対外硬派団体の玄洋社(げんようしゃ)の青年に爆弾で襲われるというテロ事件で負傷したが、しかし大隈重信は一命を取りとめた。そして改正交渉は中止になった。\n条約改正に消極的だったイギリスは、ロシアが南下政策をすすめようとシベリア鉄道の建設を始めると、イギリスはロシアの南下政策を警戒し、日本との条約改正の交渉に好意的になった。\nそして大隈のあとの青木周蔵(あおき しゅうぞう)外相が条約改正をめざして交渉に入ったが、1891年の大津事件で外相を辞任した。\nその後、第2次伊藤内閣の陸奥宗光(むつ むねみつ)外相は、青木周蔵をイギリスに派遣して交渉させ、日清戦争直前の1894年に、領事裁判権の撤廃および関税の引き上げ、および相互対等の最恵国待遇の内容である日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく)が結ばれた。(まだ日本の関税自主権は取り戻せていない。関税は引き上がったほうが日本経済に有利なので、イギリスが日本に譲歩してくれた。)\nついで、他の欧米諸国とも同様の改正条約を調印し、1899年から施行された。\n関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年に小村寿太郎(こむら じゅたろう)外相による条約改正で実現した。こうして日本は、条約の上では欧米列国と対等な国家になった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E7%AB%8B%E6%86%B2%E4%BD%93%E5%88%B6%E3%81%AE%E7%A2%BA%E7%AB%8B"} {"text": "日清戦争は1895年に終わる。\n(中学校で説明したので、説明を省略。)\nなお、当時の清国の艦隊のことを「北洋艦隊」(ほくよう かんたい)と言う。(高校の検定教科書にも書いてあるよ。)\n(日露戦争のときのロシアのバルチック艦隊の名前は小中の検定教科書に書いてあるのに、北洋艦隊は高校でしか習わない。)\n戦争前の金玉均の例のクーデター未遂も、高校の検定教科書にも書いてある。\n中国が周辺諸国を支配する体制のことを「冊封」(さくほう)と言うのだが、日清戦争による日本の勝利により、朝鮮が冊封から脱することになったというのが、検定教科書の解釈である[1]、のだろうと考えられている。(※ 参考文献『ここまで変わった日本史教科書』の著者たちが文科省の教科書調査官)\n日本の議会では、日清戦争後、政党の力が強くなった。\n1898年の伊藤内閣(第3次)のころ、民権派の大隈重信(おおくま しげのぶ)と板垣退助(いたがき たいすけ)が憲政党(けんせいとう)を結成し、その結果、伊藤内閣は退陣し、同1898年に大隈重信を首相とする日本で最初の政党内閣が生まれた( 「隈板内閣」(わいはんないかく)という)。\nしかし、尾崎行雄(おざきゆきお)の共和事件によって憲政党内の対立は深刻化し、党は分裂して「憲政党」(旧・自由党系)と憲政本党(旧・進歩党系)に分裂する。\nこうして隈板内閣はわずか4ヵ月あまりで退陣し、1898年11月から(第二次)山県有朋(やまがた ありとも)内閣になる。山県内閣は憲政党の支持をあつめ、地租増税を成立させた。\nつづいて山県内閣は1899年に政党勢力が官僚に入り込めないように文官任用令(にんようれい)を制定した。\nまた1900年に山県有朋は、政党の影響が軍部や官僚に及ぶのをおそれ、軍部大臣現役武官制を制定した。\nさらに同1900年、治安警察法を制定し、労働運動などを取り締まった。\nこのような山県の政党への制限に、憲政党は不満をもった。なので憲政党は、山県と対立する伊藤博文(いとう ひろぶみ)に接近していった。\nそして山県内閣が終わり、1900年には伊藤博文(いとう ひろぶみ)が、伊藤みずからを総裁(そうさい)とする立憲政友会(りっけん せいゆうかい)の結成が9月に予定されていたので、憲政党はこれに合流し、そして立憲政友会が予定どおりに9月に結成され、1900年10月から立憲政友会による第四次伊藤内閣になった。\n※ 憲政党と立憲政友会は対立していない。議会で対立したのは、山県系の勢力と、政党系の勢力である。\nつまり順序は、\nである。\nなお、伊藤内閣は貴族院の反対によって退陣させられ、1901年に政権が桂太郎(かつら たろう)内閣に変わる。桂は、山県系の人物だと考えられている。\n※ 政党名がたくさん出てくるが、まず覚えるべき政党は、「憲政党」「立憲政友会」の二つであり、覚えるべき人物については憲政党の大隈重信と板垣退助、および立憲政友会の伊藤博文である。他の政党を覚えるよりも、それなら「山県有朋」をさらに覚えたほうが、政争の背景が分かりやすくなるだろう。\n三国干渉で日本に譲歩をせまったヨーロッパ国は、ドイツ・フランス・ロシアの3か国である(中学でも、そうならっている)。\n三国干渉の当時、ロシアとフランスは同盟(露仏同盟)を結んでいる。(なので、あとはドイツさえ覚えればいい。) ※s世界史Bでは『高等学校世界史B/欧米列強の内部情勢』などで露仏同盟を習う。\nただし、日清戦争の時点では、フランスは清国と数年前にベトナムの領有権をめぐり戦争(清仏戦争:1883年8月・1885年)をしている。(※ 清仏戦争については高等学校世界史B/東南アジアの植民地化) このため、三国干渉でのフランスの意図はおそらくだが、清国の味方をする意図ではなく、(日本の同盟国である)イギリスの活躍を嫌ったものだろう。\nまた、露仏同盟によってロシアが先進国フランスの金融市場から巨額の資金を調達できるようになった事もあり、シベリア鉄道の建設が1891年から本格的に開始する[2]。\n1898年、アメリカはハワイを併合した。 (同年、アメリカはスペインをやぶってフィリピンを植民地化。)\nアメリカは中国進出におくれ、中国に植民地をもっていなかった。いっぽう、アメリカ以外の列強が、中国で独占的な経済範囲を設定していった(事実上の植民地の拡大)。のような動きを中国分割という。\nしかし、中国領内に権益をもたないアメリカにとっては、列強の中国分割は旨み(うまみ)がない。\n1899年、アメリカ国務長官ジョン=ヘイが、中国分割に反対して、門戸開放宣言を出した。(くわしくは世界史B『高等学校世界史B/1900年前後のアジア情勢』で)\n(中国分割)\nこのように、アメリカが中国に進出しようとしてきた。\n?読者のきみたちは、小学校で、日露戦争の講和条約はポーツマス条約って習ったよね?\nポーツマス条約のとき、小村寿太郎が交渉した相手のロシア全権はウィッテ(人名)である。(※ 範囲外: ロシアの政治の実権を握っていただろう人物が、このウィッテだろうと思われている。また、シベリア鉄道の建設を推進した人物も、このウィッテである[3]。)\n日露戦争は1904年に始まり、1905年に終わる。\nほかの知識として、日露戦争の戦費の多くが外債で調達されたことが検定教科書でよく紹介されている。(ロシアを除く)欧米の銀行[4]から、日露戦争の戦費を日本は調達した。\n※ 中学校社会科の歴史分野では「債権」や「債務」をまだ習っておらず(中3の公民で習う。実は中学の国語でも二字熟語として少し習う)、そのため「外債」も中学では扱わないので、高校でないと日露戦争の「外債」は紹介が難しいだろう。\n日露戦争中、日本は韓国に日韓協約を強制的に結ばせ、日本は韓国内での軍事行動の自由を得た。\n日露戦争終戦時の1905年、日本はアメリカとの間で非公式に桂・タフト協定(かつら タフト きょうてい)を結んだ。桂タフト協定の内容は、日本がアメリカのフィリピン統治を承認し、アメリカは日本の朝鮮支配を承認するという\nまた、イギリスとも日英同盟が更新され(第2次日英同盟)、日本はイギリスのインド支配を承認し、イギリスは日本の朝鮮支配を承認することとなった。\nこれを背景に、同時期に日本は第2次日韓協約をむすんで韓国の外交権をうばい、統監府(とうかんふ)を置いて伊藤博文が初代の統監になった。\nこれに対し韓国は、1907年にオランダのハーグで開かれた万国平和会議に密使を送り、日本の韓国支配について抗議したが、しかし、列強は無視した(ハーグ密使事件)。\n日本はこの密使事件を理由にして韓国皇帝高宗を退位させ、第3次日韓協約をむすんで韓国の内政権をうばい、さらに韓国軍を解散させた。\n関東都督府\n満州では1906年、日本単独で南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。この鉄道は、ロシアから譲り受けた鉄道を母体にしたものである。\n当初、この鉄道会社は、日本とアメリカの資本家ハリマンとで共同経営する予定だったが(桂ハリマン協定)、小村寿太郎の反対により、日本単独で満鉄が設立された。\n(※ 一説には、かわりにアメリカの大財閥であるモルガン財閥からの融資を満鉄は受けたという説もあるが、しかし真偽はハッキリしない。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E6%97%A5%E6%B8%85%E3%83%BB%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89"} {"text": "第1次桂内閣は、1905年に退陣し、立憲政友会の総裁である西園寺公望(さいおんじ きんもち)に政権をゆずった。\nそして1906年に西園寺内閣(第1次)が組織された。西園寺内閣は、日本国内の鉄道建設を大いに行った。\n1906年以降から1913年まで、西園寺と桂が数年おきに交互に政権を交代する結果になったので、最初の桂内閣の1901年から1913年までの期間のことを桂園時代(けいえんじだい)という。\nいっぽう、伊藤博文や山県有朋たちは第一線をしりぞき、元老(げんろう)と言われるようになり、元老は背後から国政に影響を与えた。\nさて、第1次西園寺内閣は1907年、恐慌が起き、翌1908年の選挙では勝利したが責任を感じて、桂太郎に政権をゆずった。\nそして1908年に桂内閣になり、(財政の建て直しのためだろうか)国民に質素倹約や勤労をとく戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布(はっぷ)して、地方改良運動を推進した。\nまた桂内閣は、1910年に大逆事件(たいぎゃく じけん)が起きると、社会主義者を弾圧した。\nいっぽう、翌1911年に桂内閣は、労働環境の改善をさだめた工場法を制定するなど、多少の配慮も見せた。(しかし工場法の公布は5年後である。)\nそして桂内閣は韓国併合を強行したのち、1911年にふたたび西園寺に内閣をゆずった。\nそして1911年、西園寺内閣がふたたび組閣された。\n辛亥革命(しんがい かくめい)などへの対策を理由に、日本では陸軍が二個師団の増設を要求して併合後の韓国に置こうとしたが、西園寺内閣は財政難を理由(日露戦争の費用を外債などで賄っていたため)に、陸軍の要求を拒否した。いっぽう、西園寺内閣は海軍の建艦を優先した。\nすると、陸軍大臣の上原勇作(うえはら ゆうさく)が辞表を天皇に提出し、陸軍が後任の人員を出さなかったので、軍部大臣現役武官制により西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。\n西園寺退陣後の後任の首相には、陸軍出身で長州閥であり内大臣兼侍従長であった桂太郎(かつら たろう)がついた(第3次桂内閣)。しかし世論は、西園寺内閣の退陣が桂によるものと見て、桂を批判し、また宮中にいた(侍従長)人物が政府の要職につくことは政府と宮中の境界を乱すものだとして、(世論は桂を)批判した。\nそして、「閥族打破・憲政擁護」(ばつぞくだは、けんせいようご)というスローガンの倒閣運動が起こり、批判勢力の政界の中心人物は野党勢力の立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)や立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)であった。\nこの批判運動に新聞記者・雑誌などのマスコミに、弁護士、商工業者や民衆などが加わり、全国的な倒閣運動になった(第一次護憲運動、だいいちじ ごけん うんどう)。\n結果的に、桂内閣は在職50日あまりで退陣するはめになり、1913年2月に桂内閣は倒れた(大正政変、たいしょうせいへん)。\nこの出来事の前、民衆が議会を取り込んで、政府系の新聞社や交番などを襲撃する事件が起きた。\nなお桂は護憲運動のさなかの政権時に、桂は新党を結成しようとしており、のちの加藤高明が総裁の立憲同志会の母体になる。\n大正政変後、桂のあとの内閣には、薩摩出身の海軍大将の山本権兵衛(やまもと ごんべえ)が政友会を与党として内閣を組閣した。\n山本内閣は行財政改革を行い、\n軍部大臣現役武官制をゆるめる改正をして、現役規定を削除し、予備役・後備役の軍人でも陸海軍大臣につけるように陸海軍大臣の資格を拡大する改革をした。\nまた、文官任用令(ぶんかんぶんようれい)を再改正して、政党員でも高級官僚につけるようにした。\n(軍部大臣現役武官制は、過去に西園寺内閣の辞職の原因になったので、山本内閣の時点で、すでにこの制度に問題点があること自体は気づかれていた。)\nしかしドイツのやイギリスのなど外国からの軍艦の購入にからむ、日本の海軍高官がからむ汚職事件のジーメンス事件(シーメンス事件)が1914年に起きた。このジーメンス事件により、山本内閣は国民から批判され、退陣に追い込まれた。\nなお、そもそも軍部大臣現役武官制を最初に明確化したのは山県有朋(やまがた ありとも)の内閣であり、山県が軍部大臣現役武官制を制定した年は1900年のできごとである。そして、文官任用令をさだめて政党人が官僚になるのを制限した人物も、山県有朋であり、1899年のできごとである。つまり、山本権兵衛は、山県の政策を修正したのである。山県有朋は、陸軍出身である。さらに、治安警察法をつくって政治運動や労働運動を制限した人物も、1900年ごろの山県有朋である。\nのちの昭和の日中戦争の前の時代ころに、治安警察法が治安維持法に発展して、日本の言論活動を統制することになる。この治安警察法・治安維持法による統制が、戦前・戦中の昭和前半の当時の日本が「ファシズム」「軍国主義」などと言われる状態になった原因の一つと考えられる。日中戦争の直接的な原因は、おそらく満州事変とそれ以降の対中強行路線であろうが、その遠因には、このようなこともある。\nまた、同じく日中戦争前の昭和前半の時代ころに、軍部大臣現役武官制のせいで、軍部の強行路線が政府に影響力を持つようになった。(広田弘毅内閣が組閣したあたりから)そして、戦前昭和の政党が軍部の意向に従わないといけなくなった結果、議会では、日中戦争と太平洋戦争へと向かう日本政府の強行路線を止める議会勢力が機能しなくなった。もちろん、議会の機能低下のより直接的な原因には、満州事変のときに政府が、軍部に同情的な世論に応じてしまい、政府が事件関係者を処罰できなかったため、そののち軍部の暴走を許すような雰囲気を政治や民意につくってしまったという、議会の不手際ももあるだろう。しかし、そのような軍部の暴走の後押しをしかねないような軍部大臣現役武官制という制度が、そもそも存在していたのである。\nそして日中戦争が拡大していき、アメリカの貿易封鎖などの圧力に日本が反発して日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日中戦争から太平洋戦争へと拡大する。同時期の前後にヨーロッパで起きたドイツと周辺国との戦争とあわせて、第二次世界大戦へと組み込まれることになる。そして、その第二次世界大戦に日本は敗戦して、日本は憲法を改正することになり、日本国憲法が制定されることになる。そして、その日本国絹憲法の内閣の関する事項では軍部大臣現役武官制が否定され、また言論の自由や政治結社の自由、信教の自由などが制定されることになる。\n官僚機構の一種として軍部を解釈してみよう。選抜方法などは軍部と一般の省庁とでは違うが、とりあえず、「軍部 = 官僚機構の一種」として、軍事をあつかう官僚機構の一種として、軍部をとらえてみる。\n以下の考察は、仮説であり、学生は暗記する必要は無いし、鵜呑み(うのみ)にしてはならない。(ただし、政治学者の丸山眞男(まるやま まさお)の学説などに基づいている。丸山眞男は、戦後昭和の日本の代表的な政治学者である。)\nさて、明治・大正に現役武官制や文官任用令などを導入した意図は、おそらく、三権分立のように、権力を立法府だけでなく行政にも分散するのと同様に、軍部にも権力を与えようとしたのだろう。こうして行政権や軍部の権限を強めて、政党の影響力をうすめることで、政党の暴走をふせごうとしたのだろうと、一部の評論家などには考えられている。(※ 「評論家」とは、誰によって? 要出典. ←BSフジのプライムニュースで見ました。あと、小室直樹とか宮台シンジが似たような事を昔から言ってます。元ネタは丸山眞男です。)\nもっとも、明治憲法(大日本国帝国憲法)では、天皇に軍の統帥権(とうすいけん)があるので、もし議会と軍が対立したら、いざとなったら天皇に判断してもらおうとでも、もしかしたら明治時代の当時の政治家は考えたのかもしれない。(※ 要出典.)\nだから、軍部大臣が口をだせるのは軍事だけに限定させよう、という意図で、軍部大臣だけは現役武官でなければならない、と明治大正期には限定していただけだろう。\nところが結果的には、昭和10年代の時代のように、内閣の組閣そのものに軍部の賛同が絶対に必要な制度となってしまい、そのため結果的に軍部以外の省庁すらも軍部の意向に従わざるをえなくなってしまった。こうして、権力の分散どころか、権力が、軍部と議会とに二分化されるという結果になってしまった。そして、政治家には選挙があるので身分が不安定であるが、しかし軍部には選挙がないので、実質的には権力の二分化どころか、軍部への権力集中となってしまった。\n現役武官制のこのような欠陥のため、軍部の暴走をふせぐような手段が弱まってしまった。\n日本軍暴走の原因の考察の細部は諸説あるが、ともかく戦前の日本軍の暴走の原因としては、(けっしてヒトラー的な独裁者によるものではなく、)官僚主義の弊害・形骸化によるものである、とするとみたほうが妥当であろうとする仮説があり、丸山眞男(まるやま まさお)はこのような日本軍の現象を「無責任の体系」と称した[1]。\n教訓としては、内閣の組閣の権限は、国政選挙で選ばれた国会議員の代表者である内閣総理大臣だけが組閣できるという、内閣総理大臣の専権事項でなければならない、ということだ。そして、その目的を達するためには、内閣の組閣には、けっして官僚機構や軍部や司法など他機関の承認・許認可などを必要としてはならない、ということだ。\n「政治を、みんなで話し合って決めよう」というのは、一見すると、平和的に聞こえるかもしれない。だがしかし内閣の組閣に関するかぎり、「内閣以外のみんなとも話し合って、決めなければならない」というのは、国政選挙で選ばれた議員の権力を侵害することであり、よって「内閣以外のみんなとも話し合って、決めなければならない」は悪事なのである。\n明治大正期の「軍事政策については、軍部とも話し合って、なかよく決めよう」として軍部大臣現役武官制を導入したのが、そもそもの失敗のキッカケであった。\n聖徳太子のような「和をもって とうとし となす」という考えは、内閣の組閣に関しては悪事なのである。\n政策の最終的な決定権は、立法府および立法府だけが選抜できる内閣総理大臣に、なければならない。そして、軍部大臣現役武官制は、軍部が内閣のもつべき人事権(じんじけん)を侵害してしまったため、結果的に、軍部が政策の決定権を侵害してしまったことが、欠陥なのである。\nなにも内閣の人事にかぎらず、一般の組織運営では、役職を決める人事権は、これほどまでに、とても大切な権利なのである。たとえば現代の株式会社では、代表取締役をきめる人事権は、株主がもつ。このため、大株主や筆頭株主(ひっとう かぶぬし)が、その会社の実質的な支配者となっている。\nこんにちの日本国憲法では、立法・行政・司法の三権のなかでも、立法だけが残りの2権よりも、やや強いのであるが(※ 高校『政治経済』科目で、このことを習うので、覚えておこう)、そのことには理由があり、おそらくは、過去の軍部大臣現役武官制のような失敗を繰り返さないとするための工夫であろう。また、内閣の中でも、他の国務大臣よりも内閣総理大臣の権限が明確に強いのも、軍部大臣現役武官制のような失敗をふせぐためであろう。(※ 中学「公民」および高校「政治経済」で習う)\nまた、その内閣総理大臣そのものが、もし官僚や軍部などの選挙で選ばれない人物であっては、意味がないから、現在の日本国憲法では「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。」(67条)と規定している。\n政党は選挙で多数決で選ばれるわけであるが、官僚や軍部は多数決で選ばれない。\nこの節で見たように、大正時代にも山本権兵衛内閣のように、軍部大臣現役武官制を修正しようという動きがあったのである。しかし、それだけでは、結果的には、のちの軍部の暴走を解決できなかった。\n\nそして元老は、民衆のあいだで人気の高い大隈重信(おおくま しげのぶ)を、山本権兵衛の後継の首相に任命した(第2次大隈内閣)。第2次大隈内閣は立憲同志会を与党として出発した。\nそしてこの第2次大隈内閣の時代に、第一次世界大戦が1914年に勃発する。第二次大隈内閣は日英同盟を理由にイギリス側の陣営として、外相加藤高明(かとう たかあき)の主導により第一次世界大戦に参戦した。\nまた、大隈内閣は1915年の総選挙で勝利し、与党の立憲同志会を勝利に導き、懸案の2個師団増設を実現した。\n第二次大隈内閣のときに、日英同盟を理由に、第一次世界大戦に参戦した。参戦当時の日本の外相は加藤高明(かとう たかあき)である。\nそして日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの勢力範囲として中国にもっていた山東省の青島(チンタオ)を占領し、またドイツ領だった南洋諸島を占領した。\n日本は対中外交では、加藤外相ひきいる日本政府は1915年1月、中国の袁世凱政権に二十一カ条の要求をした(※ 中学校でも二十一か条の要求の存在については習っている)。二十一カ条の要求で日本は中国に要求として、\nからなる第1号〜第4号と、\n要求した。\nアメリカが第5条に抗議を行い、第5条は削除されたが、日本は5月に最後通牒を中国につきつけ、袁世凱政権に要求の大部分を承諾させた。\nこの21カ条の要求に対して、中国国内では反発が高まり、中国政府が要求を受けいれた5月9日は「国恥記念日」(こくち きねんび)として記憶された。\n大隈内閣のあとは寺内内閣である。1916年、陸軍出身の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣は外交政策を一変し、中国のホップポウ軍閥の段祺瑞(だんきずい)政権を支援し、巨額の対中借款を行って(西原借款、にしはら しゃっかん)権益を確保した。(なお、この西原借款は、のちに焦げついた。)\n1917年、中国進出をねらっていたアメリカは、おなじく中国進出をねらっていた日本と利害調整をするため、寺内内閣の特派大使 石井菊次郎(いしい きくじろう)と国務長官ランシングとのあいだで、石井・ランシング協定(いしいランシングきょうてい)が結ばれた。この協定により、日本が中国にもつ特殊権益の大部分は、アメリカに認められた。また、アメリカの主張する、中国の領土保全や門戸開放の原則が決められた。\n(※ 『高等学校世界史B/第一次世界大戦』)\nロシアでは第一次世界大戦中の1917年に、革命が起きた(ロシア革命)。1917年3月にはロシアのロマノフ王朝が倒され、ロシアの帝政は滅んだ。そして11月にはレーニンひきいるボリシェビキが政権を取って(11月革命)、ソヴィエト政権が誕生した。こうして、ロシアで世界で初めての社会主義国家が生まれた。\nソヴィエト政権は翌1918年、ドイツ・オーストリアと単独講和し(ブレスト=リトフスク条約)、第一次世界大戦から離脱した。\nこのため、英仏などの連合国にとっては東部戦線が崩壊し、革命への武力干渉を行った。シベリアにいたチェコスロバキア軍の救出を名目に、連合軍は革命に武力干渉した(シベリア出兵)。日本の寺内内閣も1918年(大正7年)8月、シベリアに出兵した。\n大戦終了後の1920年には連合国の欧米はシベリアから撤退したが、日本は1922年まで駐兵して欧米からの不信感を高めた。\n在華紡(ざいかぼう)\nシベリア出兵にともない、1918年、日本では米の買占めによる米価の高騰が起き(米騒動)、社会が混乱し、各地で暴動が起きて警官隊と衝突したため、政府は軍隊を出動させて鎮圧する事態になった。この騒動のため、当時の寺内内閣は辞職し、代わって同1918年に衆議院第一党の立憲政友会 総裁の原敬(はら たかし)内閣が組閣された。\n原が首相に選ばれた理由は、元老からの推薦によるものである。\n原内閣は、最初の本格的な政党内閣であり、軍部大臣と外務大臣以外はすべて政友会党員であった。\n原首相は華族でもなく藩閥でもなかったので「平民宰相」(へいみんさいしょう)と呼ばれ、大衆からの人気が高かった。\n原内閣は、教育の充実に力を入れ、高等教育(※ 現代で「高等教育」とは大学教育のこと)の充実を行った。早稲田大学や中央大学などの私立大学は、この頃に正式な大学として認可された。また、旧制高校の数を増やしていった。\n当時、男性普通選挙を求める運動が広がっていたが、原首相は時期尚早(しょうそう)と考えて普通選挙は導入しなかったが、代わりに選挙資格に必要な納税額を引下げ、選挙資格に必要な納税額は「3円以上」になり、また小選挙区制を導入した。\nまた、艦隊の増強や、鉄道の建設、などの積極財政を行った。\nしかし1921年、原は東京で一青年によって暗殺された。\n原の死後、原内閣の大蔵大臣であった高橋是清が首相となって高橋是清内閣が成立したが、国民からの人気は出ず、短期政権となり、高橋内閣は倒れ、かわって、つぎの加藤友三郎(かとう ともざぶろう)内閣ではシベリア撤兵が実現し、つぎの第二次山本権兵衛内閣の時代に関東大震災のあとに起きた虎の門事件(とらのもん じけん)で政権が倒れ、つぎの清浦奎吾(きようら けいご)内閣となった。\n加藤・山本・清浦の3人とも、非政党人である。\nこのような非政党の活躍に政党は反発したので、1924年、憲政会・政友会・革新倶楽部(かくしんクラブ)の3政党が護憲三派(ごけんさんぱ)を結成し、第二次護憲運動を展開した。\nそして同年の総選挙で護憲三派が圧勝したので、清浦内閣は総辞職した。\n清浦内閣が倒れ、つぎの内閣は、護憲三派の3党の連立内閣となり、第一党となった憲政会の総裁 加藤高明が首相になり、政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅(いぬかい つよし)をくわえた護憲三派内閣が誕生した。\nこれ以降、1932年に五・一五事件で犬養毅内閣が倒れるまで、政党の総裁が首相をつとめる事が慣例になり、その慣例が「憲政の常道」と呼ばれるようになった。\nさて、1925年の加藤内閣では、いわゆる普通選挙法が実現し、25歳以上の男子に選挙権(衆議院)が認められた。(現代の「普通選挙」とは違い、女性選挙権は無い。)\nこれにより、有権者の数は、従来の約300万人から増加し、有権者は1200万人ほどになった。\nしかし、1925年の加藤内閣で治安維持法が成立した。(つまり、実質的に普通選挙法と治安維持法との抱き合わせ。交換条件。)\n治安維持法の当初の目的と内容は、共産主義者の取り締まりであった。その理由は、日ソ国交樹立の年が同1925年であったので、日本はロシア革命の波及をおそれたからであった。\n第一次大戦中において日本が中国「進出」を行ったり、ソヴィエト連邦がロシア革命の結果世界で最初の社会主義政権を作り上げたり、中国で民族運動が活発化していくなか、東アジアにおけるこのような情勢に対応する必要が生まれた。そこでアメリカはワシントン会議を開催した。アメリカの主な目的は、建艦競争を終わらせて財政負担を終わらせること、日本をけん制することにあった。欧米列強の主な目的は、(列強の中国権益を保持するため)、戦争再発の防止と、列強間の協調を通じてアジア・太平洋地域の「平和的な」国際秩序を形成することにあった。\n締結された条約とその内容\n1923年、関東地方の東京を中心にマグニチュード7.9の大地震が起き、地震のあと大火災も生じて、東京が壊滅した(関東大震災)。\n全焼家屋20万戸、死者・行方不明者が10万人にのぼる、大災害となった。\nこのような中、人々はパニックになり、デマが飛びかい、朝鮮人が井戸に毒を入れたとかで、多くの朝鮮人(やそれに間違われた日本人・中国人)などが反乱を疑われて、自警団を組織した民衆や警官などの手によって殺害された。\n殺害された人数について定説は存在せず、人数は定まっていない。司法省の発表によれば、230名あまりの朝鮮人が殺害されたという。その他の説についても、数百人〜数千人まで様々である。\nまた、無政府主義者大杉栄(おおすぎ さかえ)が、憲兵大尉 甘粕正彦(あまかす まさひこ)によって殺害される事件が起きた(甘粕事件)。 \nまた、警官によって警察署(東京・亀戸(かめいど)署)で労働運動の指導者10名が殺害された(亀戸事件)。(※ 検定教科書では、地域差別の防止のためか、亀戸の地名を隠す教科書も多い。)\n朝鮮人の容疑がデマだと分かると、政府は朝鮮人の保護のため、朝鮮人を日本国内で移送して隔離した。(参考文献: 東京書籍の教科書)\n(無政府主義者が甘粕事件に憤ってか、)年末には無政府主義者の青年の難波大介(なんば だいすけ)が、摂政をつとめていた裕仁親王(ひろひと(のちの昭和天皇))を狙撃する 虎の門事件(とらのもん じけん) が起きた。(のちに難波は大逆罪により死刑となり、処刑された。)\n山本権兵衛内閣は、これらの事件の責任をとる形となり、年末に総辞職した。つづいて、清浦奎吾(きようら けいご)内閣が成立した。\n社会的に差別されている女性の解放をうたう婦人運動もさかんになり、平塚らいてう(らいちょう) によって、文学団体の青踏社(せいとうしゃ)が結成され、文学活動と同時に女性の地位向上をめざす運動をした。\nつづいて、平塚らいてうは市川房江(いちかわ ふさえ)と協力して、1920年に新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。\nこれらの婦人運動によって、それまで女性の政治集会を禁止していた治安警察法第5条が1922年に改正され、女性も政治集会を行えるようになった。 \n未記述\nこの頃にデパートが都心に出現していた。\n東京都心では、企業のキャッチフレーズか何かで「今日は三越(みつこし)、あすは帝劇(ていげき)」などと言われた。(三越(みつこし)とは、三越デパートのこと。帝劇とは、演劇などを公演していた帝国劇場のこと。)\n関西地方でも、阪急電鉄(はんきゅう でんてつ)のターミナルの梅田(うめだ)に阪急デパートが登場していた。(なお、阪急電鉄が経営する劇場・劇団は宝塚(たからづか)歌劇団。)\n洋服は日本ではもともと男性向けの衣服として普及したのが先だが、大正のころになると、女性むけを含むオシャレ用の衣服にもなり、洋服を着ている男女はそれぞれ「モボ」(モダンボーイ、男)、「モガ」(モダンガール、女)と言われた。\nまた、一部の女学校の制服に、大正末期ごろから、セーラー服が採用された。(※ もっとも、これはオシャレというよりも、水兵の衣装を学校の制服として採用したのである。)しかし、この時代の多くの女性の衣装の普段着は、和装であった。\nこの頃、新聞や雑誌の発行部数が急激に伸びた。『東京朝日新聞』や『大阪毎日新聞』の(年間)発行部数は100万部を越えた。\nまた、雑誌の創刊も盛んになり、週刊誌『週刊朝日』や週刊誌『サンデー毎日』もこの頃に創刊された。\n新聞には小説が連載されており(現代でいう「新聞小説」)、中里介山(なかざと かいざん)・直木三十五(なおき さんじゅうご)・吉川英治(よしかわ えいじ)などの大衆文学作家が確立した。\nまた、総合雑誌『中央公論』『改造』なども創刊された。\n大衆雑誌『キング』もこの時代に講談社によって創刊され、100万部以上の大人気になった。\nその他、『現代文学全集』などの1冊1円の円本(えんぽん)といわれた低価格本も流行した。同じ頃、岩波文庫(いわなみ ぶんこ)も登場した。\nラジオ放送も1925年に始まり、新聞・雑誌ともにメディアの中心となった。\nこの頃、高校野球や大学野球が人気になった。1924年に阪神甲子園(こうしえん)球場ができると、高校野球大会がここで開かれるようになった。\n映画は、大正時代の映画は、音声なしの無声映画で弁士(べんし)をともなう方式だったが、昭和初期に有声映画(トーキー)がでてきた。\n理科系の分野では、本田光太郎のKS磁石鋼、野口英世の医学研究、などの優れた発見があった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC"} {"text": "第一次大戦中、日本は一時期、好景気になり(大戦景気)、生産量が増えた。\nしかし1919年に第一次世界大戦が終わり、しだいにヨーロッパ経済が回復すると、日本は生産過剰になり、日本は不況におちいり、1920年に日本の株式市場が暴落したことをきっかけに多くの日本企業が倒産した(戦後恐慌)。\nそのうえ、1923年に関東大震災がおきた。\nこの被害により、多くの企業は、振り出した手形の決済ができなくなったので(震災手形)、政府は日本銀行に約4億3000万円の特別融資をして、事態をしのごうとした。\n1926年に若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内閣が成立した。\nしかし1927年、議会にて震災手形を処理する審議で、経営難におちいっている銀行名が出されたことから、取り付け騒ぎ(預金の引き出しが あいついで、銀行が資金難におちいる事)が起こり、金融恐慌が始まった。\nさらに、大戦景気で急成長した鈴木商店が破産したため、鈴木商店に巨額の融資をしていた台湾銀行が巨額の不良債権をかかえた。こうして、金融恐慌が深刻化したため、若槻内閣は辞職に追い込まれた。\nついで、立憲政友会の田中義一(たなか ぎいち)内閣が成立し、田中内閣は三週間の支払い猶予(モラトリアム)を発して、恐慌をひとまず落ちつかせた。\n(なお、田中内閣は、共産主義運動をとりしまり(三・一五事件 および 四・一六事件)、また特別高等警察(特高警察)を設置した。)\nこのような一連の恐慌により、預金が大銀行に集中したたため、三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行による金融支配が強まった。\n中国では、辛亥革命のあと、各地で、「自分こそが中華民国の正当な支配者である」などというようなことを主張する多くの軍閥が、おたがいに、あらそっていた\n満州を支配していた中国人は、張作霖(ちょう さくりん)という満州地方で軍閥をひきいていた人物だった。張作霖は、満州および北京を支配していた。\n満州の軍閥の張作霖は、日本と協力することで日本を利用して、満州を実質的に支配していた。\nいっぽう、中国大陸の南部では、国民党の蒋介石が南京を中心地に支配していた。蒋介石は、アメリカ・イギリスとの外交を重視した。\n蒋介石は、中国の統一を目指し、張作霖ひきる北京政府を倒す戦いを始めた。この蒋介石のたたかいを 北伐(ほくばつ) と言う。\n田中首相は、満州における日本の権益を守るため、満州軍閥の張作霖を支援し、また、満州の居留民の保護という名目で3度にわたる出兵をした(山東出兵)。\n第2次出兵の際には、日本軍が北伐軍と武力衝突した(済南事件(さいなんじけん) )。\n日本の関東軍(かんとうぐん)は、張作霖が反日的な態度をとるようになってきたので、関東軍は張作霖を殺害しようと企てる。\n蒋介石ひきいる北伐軍が北京にせまってきたので、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は関東軍の陰謀により爆殺される。現代では、この爆殺事件を「張作霖爆殺事件」(ちょうさくりん ばくさつじけん)などと言う。しかし、当時は真相は国民には知らされず、関係者のあいだで「満州某重大事件」(まんしゅう ぼう じゅうだいじけん)と呼ばれた。\n田中首相ひきいる日本政府は、犯人の軍人たちを、きびしく処罰できなかった。首謀者とみられる参謀 河本大作(こうもと だいさく) など一部の関係者を処罰しただけだった。\nこの事件で、田中首相は天皇に叱責され、1929年に田中内閣は総辞職した。辞職した田中内閣にひきつづいて、立憲民政党の浜口内閣が組閣された。\nいっぽう中国では、関東軍の陰謀は裏目に出る。張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本に反発し、蒋介石ひきいる国民党に合流することになる。\n1929年、浜口内閣は、大蔵大臣に井上準之助(いのうえ じゅんのすけ)を起用し、物価を安定させるため、緊縮財政を行った。\nまた、大戦後に欧米が金本位制に復帰したのにならい、浜口内閣は生前、1930年に、国際競争力をつける目的で、金輸出解禁を行った。(日本は1917年から金の輸出を禁止していた。) (金輸出の禁止状態は実質的に変動相場制であったので、「金解禁をすれば為替相場が安定するだろう」という意図もあった、とも考えられている。)\nしかし1929年にアメリカ国ニューヨークでの株価暴落による世界恐慌が起きていて世界経済が急変していたため、日本が値付けた円と金の交換比率の価値が実態にあっておらず、金解禁のあとの円はかなりの円高になっていたこともあり、世界恐慌そのものによる不況に加えて円高による輸出不況の二つの不況を日本は受けてしまい、日本は深刻な不況におちいった(昭和恐慌)。\nこのような不況の影響を農民は強く受け、米価は下落した。\nもともと植民地産の安価な米が輸入されていて米価をはじめ各種の農産物価格が低かったことに加えて、昭和恐慌によって、さらに農産物の価格は下落した。\nさらに、アメリカが生糸の輸入を減らしたため、繭(まゆ)価は下落した。\n(米価は下がったが、どうも食糧事情などが改善したわけではないようで)1930年は豊作だったが「豊作貧乏」と呼ばれ、翌1931年に東北・北海道で凶作になると、東北を中心に欠食児童や女子の身売りが続出した。\nこのようにして国民生活は困窮していき、労働争議や小作争議が増加・激化した。\n浜口内閣は、外相に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)を起用し、協調外交の観点からロンドン海軍軍縮条約を締結した。\nしかし軍部は、この条約締結を、統帥権の干犯(とうすいけんのかんぱん)だとして浜口内閣を批判した。\n1930年、浜口首相は東京駅で右翼青年に狙撃されて重傷を負い、翌年に死亡した。\n同1930年、浜口内閣のあとをついで同じ立憲民政党の第2次若槻礼次郎内閣が成立した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BE%B5%E7%95%A5"} {"text": "詳しい内容は、「世界史探究」の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅰ」を見てください。本歴史総合では、簡単に記述します。\n「黄金の20年代」と呼ばれた繁栄の時代、1929年10月、ニューヨークのウォール街で株式市場が大暴落しました。世界恐慌の原因となったこの出来事は、世の中にどのような影響を与えたのでしょうか。\nロカルノ条約、パリ講和条約と、1920年代後半は国際協調が進みやすい時代でした。日本の経済成長は、こうした問題から必ずしも順調ではありませんでした。第一次世界大戦中とその終結直後は、経済が急速に成長しました。しかし、戦後ヨーロッパ経済が立ち直ると、輸出が減少して不況になりました。1927年には関東大震災による混乱から金融恐慌が起こり、多くの銀行が閉鎖・倒産しました。また、昭和恐慌と呼ばれた1929年のアメリカの世界恐慌は、1930年の日本経済にも大きな影響を与えました。\n1929年の世界恐慌は、全世界に大きな影響を与えました。経済の中心となっていたニューヨークの株式市場の大暴落から始まりました。第一次世界大戦後、工場の過剰生産と行き過ぎた投機のために不安定な経済になる中、世界恐慌が起こりました。世界恐慌は瞬く間に全世界に広がりました。多くの国で、銀行の倒産や工場の閉鎖によって、大勢の失業者が出ました。特に、アメリカ資本の支援によって回復していたドイツ経済が破綻しました。ドイツから賠償金をもらっていた他のヨーロッパ諸国も危機の影響を受けました。一方、ヨシフ・スターリンが支配していたソ連は、資本主義国との貿易が少なく、世界恐慌の痛手はそれほど受けませんでした。\nアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトは、ニューディールと呼ばれる計画を実行に移しました。大統領の強い指導を受けて、政府が経済に介入して、経済をよくしていこうとしました。\nイギリスとフランスは、自国の経済を守るために、自治領や植民地を支配下に置いて排他的経済圏を作り、他の地域の商品には高い関税をかけて、貿易をさせないようにしました(ブロック経済圏)。しかし、この政策は広大な植民地を持っている国にしか使えない方法でした。ドイツ、イタリア、日本など、天然資源が少なく経済基盤の弱い国は、低迷から抜け出せませんでした。また、経済状況の悪化は、政治状況や国民の不満も悪化させ、政局はさらに不安定になりました。これらの国々は、国際協力に反発して、他国を攻撃してでも自分達の要求を実現しようとしました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C%E3%81%A8%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E7%B5%8C%E6%B8%88"} {"text": "詳しい内容は、高等学校世界史探究の「世界恐慌とヴェルサイユ体制の破壊Ⅱ」に記述されていますので、そちらをご参照ください。ここでは、簡単に記述します。\n満州事変により、日本は世界から孤立しました。当時、世界は国際協調の流れの中にありましたが、この満州事変はそれに逆行するものでした。また、国際連盟からの脱退や日中戦争も行われ、それらがなぜ支持され、また元に戻れなくなってしまったのか、その理由は何でしょうか。\n1931年、中国東北部に駐留していた日本の関東軍は、中国東北部の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破しました。この爆破を中国軍の犯行に見せかけて軍事行動を開始しました。関東軍は、パリ不戦条約が自衛権を否定していないと主張し、満州鉄道の爆破は自衛のための軍事行動であるとしました。この主張を受け入れた日本政府は軍事行動を活発化させました。こうして「満州事変」が始まりました。1932年、満州の現地住民は中国政府から離脱し、今後の方針を自分たちで決められるようになりました。こうして「満州国」が建国されました。中国政府は国際連盟に救済を求めたため、国際連盟はリットン調査団を派遣しました。調査団の報告は以下の通りです。\nしかし、この報告に対して、日本は強硬な態度をとって、国際連盟を脱退しました。\nこうした日本の動きは、第一次世界大戦後に高まった国際協調の世界的な流れに逆らいながらも、日本では支持されました。その背景には、不況が長引く中で、日本のマスコミや世論が「満州は帝国の生命線」などと主張し、政府の立場に共感していた側面もあります。また、政党政治への不満や社会不安から、国家改造の思想を伝えた人もいました。この思想に賛成した陸軍の青年将校が 二・二六事件 を引き起こしました。\n正式な宣戦布告なく、1937年7月、北京郊外の盧溝橋で中国軍と日本軍が交戦する形で、日中戦争は始まりました。蒋介石は南京に中国国民党(国民党)政権を立ち上げました。彼は、敵対する中国共産党との内戦を休止し、抗日民族統一戦線(国共合作)を結成して、日本軍相手に抵抗しました。1937年12月になると南京が陥落し、戦争の結果に対する日本国民の怒りを無視できなくなった日本政府は、国民政府との和平交渉を打ち切りました。これで戦争は継続されました。日本も調印したパリ不戦条約は、日本が中国での軍事活動を活発化した時点で破棄されました。これは、中国の主権と領土保全という九カ国条約への挑戦でした。アメリカとイギリスが蒋介石を支援したのは、日本の軍事力の増強に脅威を感じていたからです。そのため、戦争の結末を予測しにくくなりました。\n満州事変以来、人々は大陸の情勢に関心を持つようになり、新聞やラジオが普及しました。夫や息子が軍隊に入った家庭では、日常生活に戦況の理解も欠かせなくなりました。命を懸けて戦争に協力し、貧しい生活を送っていた人々は、戦争が上手くいくように、より大きな期待を持っていました。メディアが世論を形成するやり方も、戦争が継続される理由と大いに関係がありました。対日戦争を続けるために、国民政府は重慶に拠点を移しました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89"} {"text": "満州事変後の1933年5月に日中間で停戦協定がいったん結ばれた(塘沽(タンクー)停戦協定)。中国では華北を中国の支配から切り離そうとする華北分離工作がすすめられ、関東軍は河北省東部に冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)を樹立した。\nいっぽう、1936年12月に、共産軍討伐をしていた張学良は、督励のために西安(せいあん、シーアン)に訪れた蒋介石を監禁し、共産党との戦闘停止と抗日を蒋介石にせまり同意させた(西安事件)。そして1937年には国共合作が実現した。(「国共合作」とは、国民党と共産党との同盟のようなもの。)\n広田内閣は1937年1月に総辞職した。\nかわりに、組閣の大命が、穏健派の陸相の宇垣一成(うがき かずしげ)にくだった。しかし、反対する陸軍が陸相を出さなかったので宇垣は組閣できなかった。\nなので1937年2月、陸軍大将の林銑十郎(はやし せんじゅうろう)が首相となって組閣したが、4月の選挙で大敗し、総辞職した。\nかわりに1937年5月、国民からの人気も高くて華族出身の近衛文麿が首相となり、組閣した(第1次近衛内閣)。(なお、近衛文麿は以前は貴族院議長もつとめていた。)\n第1次近衛文麿内閣の時代の1937年7月7日と8日に、北京(ペキン)郊外にある盧溝橋(ろこうきょう)で訓練中の日本軍に、何者からか、数発の銃弾(じゅうだん)が日本軍へと打ち込まれた事件があった(盧溝橋事件(ろこうきょう じけん) )。\nこれを日本軍は中国軍の発砲(はっぽう)だと考えたので、戦闘準備を始めるが、まだ攻撃の許可をもらっていないので中国軍への攻撃は中止した。このとき、中国軍が日本軍の戦争開始と誤解して、日本軍を攻撃したので、日本軍と中国軍とが戦闘した事件。当時、この戦闘を 「北支事変」(ほくしじへん) と言った。\nはたして誰が発砲したかについては、いまだに不明(2014年の今でも。)である。\n現地では、ひとまず7月11日に日中の現地軍どうしで、ひとまず停戦協定が結ばれた[2]。\nだが、25日には中国軍が日本軍を攻撃する廊坊事件(ろうぼう じけん)が起こり、26日にも中国軍が日本軍を攻撃する広安門事件(こうあんもん じけん)が起きたので、日本政府は中国が停戦協定をやぶったと考え、ついに7月28日に日本軍による攻撃が始まり、本格的な戦争になっていく。(小学・中学・高校では覚えなくて良い。)\nこの7月28日ごろを日中戦争の開始時期と考える学説もある。\nもし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカからの輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。中国側も同様の理由で「事変」という語を用いなかった。\n事変とはいうものの、北支事変は事実上の戦争なので、この北支事変の戦闘をもって、日中戦争(にっちゅうせんそう)の始まりと考える日本の学説や教科書もある。\n日本軍は1937年8月に上海に海軍陸戦隊を派兵して戦闘する。この戦闘を 第二次上海事変(だいにじ シャンハイじへん) と言う。あるいは、上海戦(シャンハイせん)とも言う。\n宣戦布告をしてないので「事変」というが、じっさいには、戦争の開始と同じなので、現代では、この上海事変をきっかけに、日中戦争(にっちゅうせんそう)が始まったと考える学説もある。いっぽう盧溝橋事件を日中戦争の始めと考える学説もある。\nもし日本が宣戦布告をすると、日本は、中立国のアメリカから石油などの物資の輸入をできなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語をもちいている。\n上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。(おそらく日本は首都の南京をおとせば蒋介石が降伏するだろう、と考えたのだろう。)\n国民党の支配者の蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は、つづいた。\nこのときの 1937年12月から1938年はじめの南京で起きたとされる大量殺害事件のことを 南京事件(ナンキンじけん) と言う。いわゆる南京大虐殺(なんきん だいぎゃくさつ)のことである。\n首都の南京を日本が陥落(かんらく)しても、中華民国は首都を漢口(かんこう)、ついで重慶(じゅうけい)などにうつし、抗戦をつづけたので、日中戦争はつづいた。\nドイツ国はドイツ中華大使トラウトマンを通して日中両国に和平を斡旋(あっせん)したが(トラウトマン工作)、和平交渉は失敗し、近衛内閣は1938年1月「国民政府を相手とせず」と声明を発表した(第1次近衛声明)。\n同1938年11月には、東亜新秩序の声明を出し、日本・中華・満州の3国の協力による国際政治を中国に呼びかけた(実質的には国民党に、共産党との提携をやめて日本側に協力してほしいと呼びかけた宣言)、国民党が応じず、失敗した。(※ 参考文献: 明成社の検定教科書)\n日本は、国民党の幹部(副総裁)の汪兆銘(おう ちょうめい)をひそかに重慶から脱出させ南京に招き、1940年に親日的な新政府を樹立を宣言した。(なお第二次大戦後、この汪兆銘政権は傀儡政権だと批判される。)\nしかし、国民党・共産党軍との戦闘は止まらず、日中戦争は長期化した。\n事変の長期化にともない、日本では、戦争遂行の協力体制の確立のため、1937年から「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」(きょこくいっち・じんちゅうほうこく・けんにんじきゅう)のスローガンとする国民精神騒動運動が開始された。\nつづいて、総力戦体制を確立するために、日本で1938年に、議会の承認なしに物資・人員の動員・統制のできる国家総動員法が制定された。また、国家総動員法にともなう類似の法として、1939年には賃金統制令・国民徴用令・価格統制令などを発布した。価格統制令によって、公定価格が導入された。国民徴用令によって、一般国民が軍需工場などに動員された。\n電力も、電力国家管理法によって、各地にあった民間のいくつもの電力会社が、単一の国策会社に統合させられた。\nまた、1938年ごろから企業では、労使一体となって戦争遂行に協力する産業報国会の結成がすすめられた。\nその後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1940年にぜいたく品の製造・販売が禁止され、また、米(こめ)の強制買い上げ制度(供出性)が実施され、1941年からは米や日用品などは配給制(はいきゅうせい)や切符制になった。(※ 正確には、砂糖・マッチ・木炭・綿製品が切符制。米は配給性。)\nなお1940年には、近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣のもと、「挙国一致」の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、大政翼賛会(たいせいよくさんかい)に合流した。\nまた、大政翼賛会の下部組織として、隣組・町内会・部落会などが結成された。庶民たちは、10戸ごとにまとめられ、「隣組」(となりぐみ)とさせられ、協力しあう事とされたとともに、おたがいに監視させられた。\n1941年に小学校は「国民学校」に改称させられ、国家主義的な教育が増えた。 (※ 範囲外:)「国民学校」とは、おそらくドイツ語の フォルクス・シューレ の直訳。フォルクスの意味は「国民」とか「民衆」とかの意味。自動車のフォルクスワーゲンのフォルクスと同じ意味。シューレは「学校」の意味であり、英語の「スクール」と同じ意味。\n1930年代の文学では、戦時統制とは あまり関係のない文学的な理由で、島崎藤村(しまざき とうそん)の作品が流行した。\nいっぽう、思想弾圧によりプロレタリア文学が壊滅した。いっぽう、戦争を描写した戦争文学がさかんになった。火野葦平(ひの あしへい)は自らの従軍経験をもとに『麦と兵隊』を書き、人気を博した。いっぽう、石川達三(いしかわ たつぞう)の『生きている兵隊』は発売禁止になった。\n歴史学者の津田左右吉(つだ そうきち)は、日本書紀などは歴史的事実ではないと主張していたため、1940年に津田左右吉の著書の『神代史の研究』ほか3冊は発禁処分となった。\n美術の分野では、従軍画家などとして戦地に派遣された画家によって、戦争画が描かれた。\n朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える創氏改名(そうし かいめい)が行われた。また、この創氏改名の際、夫婦同性が強制された。(それまで朝鮮半島では、夫婦が別姓だった。)\n創氏改名の実態については、2つの学説がある。強制説と、非強制説である。\n満州のハルビンを拠点としている(日本軍の)「731部隊」が、中国人捕虜などをつかった人体実験で、細菌兵器の実験をしたといわれる。\n国際条約で使用禁止のされている毒ガスを、日本軍は中国戦線で使用したという容疑が言われている。\n日本軍は、抗日ゲリラの拠点と考えられる村で、掃討作戦を行った。\n中国側は、これを住民に対する大虐殺として、中国側はこれを「三光作戦」(さんこう さくせん)と呼んで非難している。\n三光の意味は「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」という意味らしい。\n(※ 範囲外: )なお、「三光」の呼び名の元ネタは、おそらく、義和団事件のときにドイツ人居留民を多数殺害されたドイツ皇帝が怒り、ドイツ兵に対する命令で、義和団および義和団に協力した現地中国軍を「焼き尽くせ、殺し尽くせ、奪い尽くせ」と、ドイツ軍に三箇条で命令したことが、おそらく元ネタ。\n1938年は第二次世界大戦の勃発よりも前である。\n1938年の時点、日本とドイツは既に防共協定を結んでいたが、まだ軍事同盟は結んでいない状態である。防共協定は軍事同盟ではない。なので、軍事同盟を組もうという議論があった。\n1938年、ノモンハン事件で日本は大敗。(ノモンハンは地名で、満州とモンゴルの国境にノモンハンがある。)\n1939年に日本で平沼騏一郎(ひらぬま きいちろう)内閣が組閣した。\n1939年8月に独ソ不可侵条約が結ばれると、日本の平沼騏一郎内閣は、「欧州の情勢は複雑怪奇」と声明して総辞職した。まだ、ドイツと日本の軍事同盟は結ばれてない。\nなお、1939年9月にドイツがポーランドに攻め込み、第二次世界大戦が勃発する。\n平沼内閣のあとの(陸軍大将)阿部信行(あべのぶゆき)内閣、(海軍大将)米内光政(よないみつまさ)内閣の両内閣も、ドイツとの軍事同盟には消極的であり、当初の日本は世界大戦には介入しない方針だった。\n1939年、アメリカは日米通商航海条約を延長しないと日本に通告した。日本は資源をアメリカからの輸入に頼っていたので、日本は資源不足の不安のある状況になった。このような事情もあり、日本では南進論が高まった。\n7月、陸軍の圧力で米内光政内閣が倒れ、(第2次)近衛文麿内閣が成立した。すると、近衛内閣は、日独伊三国同盟を締結した。\n近衛文麿は、ただちに「大東亜共栄圏」構想を提唱し、南方での資源確保に関心を示した。(※ のちの東条内閣で大東亜戦争(太平洋戦争)に発展するが、当初の近衛の構想では、経済的な構想だった可能性もある。インドネシアに植民地をもつオランダとも、日本は交渉をしている(しかし、条件がおりあわず、失敗する)。構想の真相は不明?)\n同じ頃、援蒋ルートを断ち切るために、ドイツに降伏したフランスの植民地のひとつであるフランス領インドシナの北部に進駐した。これによって、アメリカは態度を硬化させ、日本への石油・くず鉄などの輸出を制限した(まだ禁止はしてない。禁止するのは数年後)。アメリカの姿勢にイギリスも同調した。\n日本国内では、近衛内閣は、ナチスのような一国一党の大政翼賛会を結成した。そして、社会大衆党、立憲政友会、立憲民政党などの諸政党が大政翼賛会として合流した。しかし、当初予定をしていた大戦翼賛会の政党としての機能は、天皇の統治権を侵害するという議論が起きたため(※ 参考文献: 東京書籍の検定教科書)、大政翼賛会に政党としての機能は無くなり、かわりに全国各地の町内会などを支配して国策を民衆に伝えるための上意下達の機関になった。このため大政翼賛会は、首相を総裁とし、都道府県知事を支部長とし、部落会・町内会・隣組などを下部組織とする全国組織になった。\n大政翼賛会の初代総裁は、近衛文麿である。\nいっぽう企業などでは、1938年には労使一体の機関として、産業報国会の結成が奨励された。1940年には、これらの全国組織として大日本産業報国会が結成された。\nそして大戦翼賛会に、大日本産業報国会や大日本婦人会や大日本青少年団なども統合された。\nその一方で外相松岡洋右(まつおか ようすけ)により、1941年4月に日ソ中立条約が結ばれた。\n日ソ中立条約には、軍事面の安全を得ようという思惑のほかにも、(日本の味方を増やすことで)対アメリカとの交渉を有利にすすめようとの思惑もあった。(※ 思惑の参考文献: 山川出版や東京書籍などの検定教科書に書かれてる。)\nしかし6月にドイツとソ連が開戦した。\n日本は、北方では満州 ー ソ連国境に大軍を集中させるとともに、南方ではフランス領インドシナ南部に進駐した。\nアメリカは、在米日本資産を凍結し、8月には石油輸出を禁止した。アメリカに、イギリス・オランダも追随した。\n日本は、これを相手国の頭文字をとって「ABCD包囲網」と呼んだ。(アメリカのA、ブリテン(イギリス)のB、チャイナ(中国)のC、ダッチ(オランダ)のD。)\n近衛内閣のもと、9月6日の御前会議では、日米交渉がまとまらない場合にはアメリカとの開戦をすることが決定された(帝国国策遂行要領)。(ていこく こくさく すいこう ようりょう)\nしかし交渉は10月まで続いた。そして、対米交渉がまとまらないまま、10月に近衛内閣が総辞職し、木戸幸一(きどこういち)内大臣の推挙で(現代では対米強行派と言われている)東条英機(とうじょうひでき)内閣が成立した。\n東条内閣は11月まで対米交渉を継続した。しかし、結局、対米交渉がまとまらず、アメリカは、日本に満州事変以前の状態への復帰を要求した覚書(ハル=ノート)を突きつけてきた。\n日本は、これを最後通牒として受け取り、本格的に開戦の意志を固め、12月1日の御前会議で開戦を決定した。\nそして12月8日、日本陸軍がマレー半島に奇襲上陸するとともに、日本海軍がハワイ真珠湾に奇襲攻撃をしかけ、日本が米英に宣戦布告し、日米戦争が開戦した(太平洋戦争)。\n三国同盟にしたがって、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦した。\n真珠湾への奇襲攻撃により、アメリカの太平洋艦隊に大損害を与えた。\nまた、マレー沖では、日本軍は航空兵器を活用してイギリス東洋艦隊を壊滅させた。\n日本軍は1941年12月中に香港を占領し、つづけて翌1942年1月にフィリピンを占領、2月にマレー半島およびシンガポールを占領し、つぎつぎと占領地を増やしていき、東南アジアのほとんどと周辺地域を占領した。\n日本はこの戦争を「大東亜戦争」と名付け、戦争目的を、欧米の植民地となっていたアジアの解放であると(戦争目的を)設定した。\nこのため、一部の占領地域では、占領地域の原住民たちは日本軍に協力した。\nいっぽう、べつの一部の地域では、抗日運動が起きた。\nさて1942年6月、太平洋のミッドウェー島沖で日本海軍は、主力空母4隻および多数の艦載機(かんさいき)を失うという大敗をしてしまい(ミッドウェー海戦)、以降、日本の戦況は悪化する。\nまた、ガダルカナル島では、1942年8月からアメリカ軍が上陸をして攻撃を開始し、現地の日本軍は食料不足におちいり、おびただしい数の(日本兵の)餓死者を出した。翌1943年2月、日本軍はガダルカナル島から撤退した。\n1943年に日本は、ビルマとフィリピンの独立を承認した。またインドでは、自由インド仮政府が樹立した。\n1943年11月、登場内閣は、占領地域の日本協力者の指導者をあつめ、東京で大東亜会議を開いた。\nこの大東亜会議には、タイ・フィリピン・ビルマ・中国(汪兆銘)・満州国・インド(自由インド仮政府)・日本が参加した(台湾や韓国の代表者は、いない。)。\nこの大東亜会議では、「アジアの解放」や「共存共栄」、「自主独立」などがうたわれた。\nタイとビルマの間では、現地の住民を徴発して泰緬鉄道(たいめんてつどう)が建設された。\n日本軍にかぎらず、各国の軍隊は、外部に対する給料の支払いなどで、軍票(ぐんぴょう)という特殊な紙幣を発行し、それを支払った。しかし、日本の軍票は、日本の敗戦とともに、価値が無くなった。\nインドネシアの住民も日本具のために重労働をさせられ、現在ではこれを「ロームシャ」(労務者が由来か?)と教えている。\n1943年には、大学生の徴兵猶予をなくし、文科系の大学生を中心に軍に徴兵をする学徒出陣が行われた。(理科系と教員養成系が除外され、徴兵されなかった。)\n徴兵をまぬがれた学生や若者も、軍需工場などに動員された(勤労動員)。\n25歳未満の独身・未婚の女子は、女子挺身隊として工場などに動員された。\n兵力不足や労働力不足をおぎなうため、朝鮮や台湾からも徴兵が行われたり、朝鮮や台湾などの労働者が日本へ連れてこられたりもした。なお、この施策は国民徴用令を植民地にも適用したものであり、(いいか悪いかはともかく)朝鮮・台湾を特別あつかいしたわけではない。(※ 参考文献: 東京書籍の教科書)\n表現規制も厳しくなり、野球の英語用語なども禁止されるようになったり、ジャズなどの西洋的な流行音楽も禁止されるよになった。だが、これは裏を返すと、1930年代ごろには日本でアメリカ産の娯楽が流行していた事のあらわれでもある。(※ 実教出版の教科書の見解。) (※ ジャズはアメリカで流行しはじめて、世界的なブームになっていった。)\n教育では、1941年に小学校が国民学校に改称され、教育内容でも軍国主義的なものが増えた。\n本土空襲がせまった1944年からは、主要都市では学童疎開(がくどう そかい)が行われるようになった。\n軍需工場も、空襲などの被害をのがれるため、軍需工場が地方移転をする事例も出てきた。\n1944年7月には、サイパン島などマリアナ諸島を占領していた日本軍が(アメリカの攻撃によって)全滅し、アメリカ軍がマリアナ諸島を占領した。\n東条内閣は、サイパン陥落の責任をとるため退陣し、陸軍大将の小磯國昭(こいそ くにあき)内閣が成立した。\nアメリカ軍がマリアナ諸島を確保したことにより、日本の本土はアメリカ空軍の空襲の距離内に入った。1947年7月からは、アメリカ空軍はマリアナ諸島を基地として、B29爆撃機が焼夷弾(しょういだん)をつかって東京を標的の中心として無差別的に空襲をした。特に1945年3月の空襲は大規模かつ無差別的であり、一夜にして約10万人が焼死した(東京大空襲)。\n「無差別」的な空襲という事の意味は、けっして基地だけ軍事施設だけを狙うのではなく(※ 「精密爆撃」ではなく)、住宅街なども狙うという意味。\nつづいて、(京都を除いて)名古屋・大坂・神戸などにも空襲が行われた。\n(1945年3月にアメリカ軍が硫黄島を占領。)\n1945年4月からは沖縄本島にアメリカ軍が上陸し、島民をまきこむ戦闘が3ヵ月つづき、1945年7月にアメリカ軍によって沖縄は占領された。\n沖縄戦敗退の責任のため小磯國昭内閣は退陣し、(天皇の)侍従長の鈴木貫太郎(すずき かんたろう)内閣が成立した。(※ 鈴木貫太郎は海軍出身者でもある。)\n鈴木貫太郎は、敗戦やむなしと考え、表向きには戦争続行をのぞむ軍部に同調したように振舞いながらも、ひそかに鈴木はソ連を仲介に終戦交渉をすすめたが、交渉はまとまらず失敗した。\n沖縄戦では、男子学生が鉄血勤皇隊や通信隊に編制されたり、女学生が女子学徒隊などに編制され、動員された。\n通信隊は、形式的には通信・伝令などの任務とされていたが、実際には戦闘にも参加したという。\n従軍看護婦の「ひめゆり学徒隊」や「白梅(しらうめ)学徒隊」は、女子学徒隊の一種である。女子学徒隊は、野戦病院で看護に従事した。\n1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下される。\n8月8日、ソ連は日ソ中立条約をやぶって日本に宣戦布告し、満州・北朝鮮に侵入した。\n8月9日、長崎に原子爆弾が投下された。\n1945年8月14日、昭和天皇の出席する御前会議で鈴木内閣と軍部は、ポツダム宣言の受諾を決定。同14日、日本政府は連合国にポツダム宣言受諾を通告。\n15日正午、昭和天皇がラジオ放送で国民に「終戦の詔勅(しょうちょく)」として終戦を発表(玉音放送)。\n玉音放送の直後、鈴木貫太郎内閣が総辞職したが、後任の内閣が定まるまで鈴木は首相としての仕事をつづけ、1945年8月17日に東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや なるひこ)内閣が組閣された。\n東久邇宮内閣のもと1945年9月2日、降伏文書の調印が、東京湾内のアメリカ戦艦ミズーリ号上で行われ、重光葵(しげみつ まもる)外相と梅津美治郎(うめづ よしじろう)参謀総長が降伏文書に調印した。\nこうして、日本は連合国の占領下に入り、太平洋戦争は終結した。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC"} {"text": "ポツダム宣言を受諾するとともに、鈴木貫太郎内閣は総辞職し、かわりに皇族で西欧留学経験をもつ東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が組閣した。そして1945年8月後半に進駐軍の受け入れが行われ、9月2日には日本はミズーリ号上において降伏文書に調印し、正式に戦争が終結した。\n日本は、ポツダム宣言受諾後、アメリカ軍を主力とする連合国軍により占領される。初期の占領政策は、日本を武装解除し、国際社会にとって再び脅威となることを防ぐため、民主化などの政治改革に重点が置かれていた。また、アメリカ軍によって日本は占領されていたので、占領政策はアメリカの都合を反映したものであった。連合国軍の指令機関である連合国軍最高司令官司令部(GHQ)が東京都に設置され、連合国軍総司令官(SCAP)にはアメリカ軍元帥・ダグラス=マッカーサーが就任した。\nGHQは、自ら直接占領統治はせず、日本政府に対して占領政策の指令・勧告を出し、日本政府がそれを実行するという、間接統治の方法をとった。このため、日本本土ではアメリカ軍による軍政は敷かれなかった。しかし、沖縄・奄美・小笠原は、アメリカの軍政下に入った。\n首相の東久邇宮稔彦は「国体護持」、「一億総懺悔」などを掲げてGHQと対立した。1945年10月にGHQは日本政府に対して治安維持法の廃止・特別高等警察(特高)の廃止・共産党員ら政治犯の釈放などを指令した(人権指令)ことをきっかけに、10月に東久邇宮内閣は総辞職した。次いで協調外交で国際的によく知られていた幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)が組閣した。このころまでに日本軍は解体された。\nGHQは幣原に対し、「憲法の自由主義化」、「婦人参政権の付与」、「労働組合の結成奨励」、「教育の自由主義化」、「秘密警察(特高など)の廃止」、「経済の民主化」を内容とする五大改革指令を口頭で指令した。加えて1945年12月には、日本国民の精神的指導に大きな役割を果たした国家神道を解体するため、神道指令を出した(神道と国家の分離)。この頃、GHQの指令により、戦争指導者とみなされた軍人幹部、政治家、右翼活動家などが次々に逮捕された。\n翌1946年1月、昭和天皇は詔書において、天皇を「現御神(あきつみかみ)」であるとするのは架空の概念であるとし、天皇の神格を否定した(いわゆる人間宣言)。同じく1月、日本軍の軍人や国家主義者などと見なされた者たち約21万名が公的な地位から追放された(公職追放)。(追放者の中には、自由主義者の石橋湛山もいた。石橋がGHQに反発したことが原因とみられる。)(鳩山一郎は、戦時中の翼賛選挙では翼賛体制の推薦を受けずに立候補して当選した非推薦議員であるにもかかわらず、鳩山一郎も公職追放された。) (※ どうやらGHQが、あまり日本国内の政治史を分かってないようだ。)\n戦争犯罪に関しては、1945年9月から、戦争指導者とみられる軍人や政治家が逮捕され、うち28名はA級戦犯として起訴されて、1946年5月から極東軍事裁判(東京裁判)で審理された。A級戦犯については1948年11月に判決が下され、翌12月に東条英機・広田弘毅・板垣征四郎ら7人には死刑が執行された。\nGHQは、天皇を占領統治に利用するため、あえて天皇の戦争責任について追及せず、戦犯指定もしなかった。また、極東軍事裁判では天皇は不起訴である。\nB級・C級の戦犯は、捕虜虐待などの通常の戦争犯罪の容疑者のことである。B・C級戦犯では、約5700人が訴追され、約1000人が処刑された。だが現代では、処刑されたB・C級戦犯には、実際には冤罪(えんざい)も多かったと考えられている。日本人がB・C級戦犯に含まれているのは当然として、さらに兵士として動員された朝鮮人や台湾人も、B級戦犯またはC級戦犯には含まれていた。\nなお、このA/B/Cの分類とはけっして日本の戦犯をさばくための独自の方式ではなく、ヨーロッパ方面においても勝利した連合国がドイツの戦犯をさばくためのニュルンベルク軍事裁判との共通の分類法である。(※ なおB級が主に捕虜虐待で、C級が非人道的行為である。)\n国家の指導者が、戦争犯罪人として裁かれるのは、第二次世界大戦以前には例がなく、反対意見もあった。当時からインド人判事パルやオランダ人のレーリンクらが反対意見を書いた。\nまた、このような軍事裁判は、事後法による裁判であり、公平性などに問題があるとの批判や、日本国民が裁判に参加しなかったことで、国民自身の植民地・占領地への戦争被害に対する責任感を薄れさせたのではないかとの批判がある。\n敗戦ののち、政党が次々と結成され、政界は再編された。まず、GHQによる政治犯釈放によって釈放された徳田球一らが、合法政党としての日本共産党を結成した。1945年11月には、旧無産政党を中心に合流した日本社会党が結成された。同月、鳩山一郎ら翼賛選挙の非推薦議員らが中心となって日本自由党を結成した。また同月、翼賛選挙で推薦議員であり、旧立憲民政党系の議員らが中心になって、日本進歩党が結成された。この11月の時点での与党は、日本進歩党であった。\n12月には衆議院議員選挙法が改正され、女性にも参政権が与えられ、男女の選挙権年齢が満20歳以上に引き下げられた。また、GHQが政治介入し、旧翼賛選挙で推薦議員だった議員が多く公職追放された。鳩山一郎は翼賛選挙の非推薦議員だったにもかかわらず、なぜか公職追放された。\n1946年4月、戦後初の衆議院総選挙が実施され、日本自由党が第一党となった。第二党は日本進歩党となった。しかし、衆議院第一党の日本自由党総裁の鳩山一郎は公職追放されていたため組閣できず、5月、外交官出身の日本自由党議員の吉田茂(よしだ しげる)が新総裁に就任し、第二党の日本進歩党の協力を得て第一次吉田茂内閣を組織した。なお、この総選挙では、日本史上初の女性議員が39人当選している。\n1945年後半、GHQは幣原内閣に憲法改正を指示した。日本政府は「憲法の自由主義化」のもとで憲法調査会を設置し、憲法草案を作らせたが、それは依然として保守的(=GHQからすれば「全然反省していない」という風に見えるということ)なものであったため、GHQが独自の改正案を作成した。\nそして、その改正案をもとに、日本政府は民間の憲法草案や外国の憲法を参考に、憲法草案を作成した。そして1946年4月に、憲法改正草案として公表した。\n日本国民は、この憲法草案を賞賛し、帝国議会はこの草案をもとに正式な憲法をめざして審議に入り、1946年11月3日に日本国憲法として公布され、翌1947年5月3日から施行された。\n刑法では、大逆罪や不敬罪や姦通罪(かんつうざい)が廃止された。\n民法では、新憲法の男女同権の趣旨にしたがって、父親や長男中心の戸主制度や家督制度が無くなった。\n中国大陸において発生していた国共内戦で共産党が優勢になると、GHQは占領方針を転換し、日本を西側陣営に組み込もうとした。\n都心部では、空襲で住居を失った人も多く、彼らは防空壕や仮設小屋に住んだ。\nまた、失業者が増えた。原因として、軍需工場が閉鎖された事と、軍隊から復員(ふくいん)や、海外からの引き揚げ(ひきあげ)をしてきた人が、大量にいたため。\n(復員(ふくいん)とは、軍隊を除隊して、もとの家に戻ること。)\n配給の米も不足し、人々は農村への買い出しや、闇市(やみいち)での購入、サツマイモなどの代用食の栽培でしのいだ。\nまた、インフレーションが発生した。このため日本政府は金融緊急措置令を出して預金の封鎖と新円を発行したが、効果は弱かった。\n第二次大戦後の日本経済の民主化政策の一つとして、GHQは1945年に、三井・三菱・住友などの15財閥の資産凍結・解体を指令した。\n翌46年8月には、持株会社整理委員会が発足し、指定した持株会社・財閥家族は強制的に株式を売却させられ、それらの株式は一般に売りに出された\nさらに1947年、持株会社やカルテル、トラストなどを禁止する内容をふくむ独占禁止法が制定された。\nまた、既存の独占的大企業を分割するため、過度経済力集中排除法が制定された。\n(325社が分割指定されたが、実際に分割されたのは11社だけだった。日本製鉄会社や三菱重工などが分割された。また、銀行は対象外だったので、旧財閥系の銀行が残りつづけた。)\nこのような施策のことを財閥解体という。\n農地改革は、1946年から翌年に2度にわたり、行われた。1度目の農地改革は政府が主体となって行われたが不徹底で、GHQがさらなる農地改革を勧告し、2度目の農地改革が行われた。\n2度目の農地改革では、地主制じたいは認められたが、土地の所有面積に制限につき、在村地主の小作地を1町歩まで(北海道では4町歩まで)とした。(1町歩(ちょうぶ)は、ほぼ1ヘクタール。)\nそれを超えるぶんは政府が買い上げ、小作人に売り渡された。\nまた、農地の近隣に居住しない地主は不在地主として扱われ、いっさい権利は認められなかった。\nこれらの施策のため、日本全国で小作地は1割程度にまで減少した。\nなお、2度目の農地改革は法的根拠として、1946年10月に制定された改正農地調整法と、同10月に制定された自作農創設特別措置法(じさくのう そうせつ とくべつそちほう)にもとづく。\nこのような施策のことを農地改革という。\n(※ 参考書の範囲: )農地改革により、自作農は増えたが、一方で農業が零細化して多くの零細農家を生み出し、戦後農業の生産性の低下につながり、戦後の新たな農業問題の原因になったという側面もある[2]。\n※ 中学で「労働基準法」などについて習ったとおり。\nまた、1947年に片山内閣のもとで労働省が設置された。\n戦後は、戦災によって物資が不足してることもあり、政府は1947年、石炭や鉄鋼などの基幹産業に重点的に資材や資金を投資する傾斜生産方式(けいしゃ せいさんほうしき)を採用した。 \nさて、労働運動が高揚すると、労働者たち大衆の多くは社会党を支持した。\nまた、官公庁労働者を中心とする全国官庁共同闘争委員会は、吉田内閣打倒をスローガンとするストライキ(二・一ゼネスト)を計画したが、GHQの指令によって中止された。\n新憲法公布後の1947年4月に行われた総選挙では、社会党が躍進して第一党になり、社会党が連立内閣で民主党(進歩党から再編)と国民共同党を連立し、社会党の片山哲(かたやま てつ)が組閣したが、翌年2月に連立政権内の対立で総辞職した。\nついで民主党総裁の芦田均(あしだ ひとし)が同じ3党の連立政権で組閣したが、疑獄事件(昭和電工事件)で10月に退陣した。\nその後、民主自由党の吉田茂内閣(第2次)が成立し、長期に渡り政権を担当した。\nGHQの指示により、修身・日本史・地理の授業が一時、中止された。\nアメリカの教育使節団の勧告にもとづいて教育の民主化が行われることになり、1947年の教育基本法では、民主化の理念をうたうとともに、義務教育期間を6年間から9年間に延長し、原則的に男女共学になった。\nまた、学校教育法により、6・3・3・4制になった。(小学校の6年間、中学の3年間、高校の3年間、大学の4年間)\n1948年には、都道府県・市町村ごとに地方公選制による教育委員会が設置された。\n日本はあたかも第二次大戦中に軍国主義的な教育が多かったように思われがちだが、最近の教育史研究によると、実は日露戦争の終わったころから学校教科書には戦争を題材にした教材が多かったことが分かっている(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。\nまた、今まで何となく国が軍国教育を強制したかのように思われていたが、どうも通説とは違う側面があるらしい。\nというのも戦前、社会科以外のある教科書では、唐突に戦争を題材として扱っているのに、一方で同じ教科の別会社の出版している教科書を調べてみると戦争を扱っていなかったりと、割と不統一でチグハグである(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。\nまた、よく誤解されるが文部省の指導要領は(戦前は「指導要領」ではなく別の呼び方だが)、そもそも題材を具体的には指定していない(※江戸川春夫『英語教科書は<戦争>をどう教えてきたか』)。\n戦前の日本では、軍隊の学校は学費が安いなどの理由もあり志望者も多かった。\n逆に、東大や京大などは、戦前は学費が高かった。国立大の学費が安かったのは、実は戦後の昭和の一時期だけである。\nこのため、軍隊の学校に合格するにも、受験対策が多く必要であった。また、軍の学校は、入試の国語・数学・英語などの文章題や応用問題などの題材に、当時としては当然ながら、仕事に関係のある戦争に関する題材を扱って出題することも多かった。\nこのためか、どうやら軍学校の世間の親子にとっての人気を反映して、教科書会社が割と自発的に戦争の題材を入れた側面もあるらしい。\nそういう背景が分かってくると、終戦直後の墨塗り教科書の解釈も、少し変わってくる。\nつまり、「戦時中の軍国教育を排除した」と言うよりも、「軍国主義の排除のために、戦前から続いてきた軍事教育を排除した」と再解釈したほうが良さそうだ、という事になる。\n民主化改革のひとつとして、地方自治の推進が行われ、1947年には地方自治法が公布され、首長を選ぶのは住民による直接選挙になった。\nまた、戦前に地方自治や警察行政を担当していた内務省は廃止された。なお、警察制度では、1947年の警察法により、国家地方警察とともに自治体警察が置かれた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%8D%A0%E9%A0%98%E3%81%A8%E6%94%B9%E9%9D%A9"} {"text": "第二次世界大戦後、東ヨーロッパ諸国の多くにはソ連が進駐し、まもなく東ヨーロッパに社会主義国が多く誕生した。\nアメリカ・イギリスは、このような東ヨーロッパの状況を、ソ連の侵略としてとらえて警戒した。この米ソの対立を冷戦という。アメリカは1947年に共産主義国を封じ込める目的でトルーマン-ドクトリンを発表した。\n第二次世界大戦の終戦直後、日本は、はげしいインフレになった。 このインフレを解決するため、1948年、GHQは経済安定9原則を指令し、また、アメリカ国務省顧問の銀行家ドッジが日本に派遣され、翌1949年にはドッジ=ラインと呼ばれる財政引き締め政策が日本で行われ、その結果、復興債の発行禁止、1ドル=360円の単一為替レート、などの政策が行われた。\nつづいて1949年、アメリカからシャウプ博士(Shoup)を団長とする税制使節団(シャウプ使節団)が来日し、日本の税制の大幅な改革を勧告され(いわゆる「シャウプ税制」「シャウプ韓国」)、日本の税制が、所得税などの直接税を中心にした税制に改められた。\nこれらの経済・税制政策の結果、インフレは収まったものの、今度は逆に、デフレによる不況(安定不況)が到来した。\n大企業は復活したが、中小企業の倒産があいつぎ、失業者が増加した。これに行政整理もともない、失業者が増加した。その結果、労働運動が激化した。\n同じ頃、国鉄(現JR)の労働争議をめぐって1949年に下山事件(しもやまじけん)・三鷹事件(みたかじけん)・松川事件(まつかわじけん)などの怪事件が発生した。\n下山事件とは、1949年7月に、国鉄の人員整理を行ってた総裁の下山定則(しもやま さだのり)が行方不明となり、轢死体(れきしたい)で発見された事件。(轢死(れきし)とは、車などに、ひかれて死ぬこと。)\n三鷹事件とは、1949年8月に中央本線三鷹駅での無人電車が暴走し、死傷者を出した事故。\n松川事件とは、東北本線松川駅で、列車転覆事故があり乗務員3名が死亡し、容疑を疑われた国鉄労働組合や東芝松川労働組合の組合員20名が逮捕された。1963年の最高裁で、起訴された者は全員、無罪になった。\n言論の分野では、占領軍に対する批判は規制され、発表できなかった(プレスコード(press code))。\n映画では、戦時中に公開の禁止されていた洋画が公開された。\nいっぽう、演劇では、『忠臣蔵』や『水戸黄門』などの時代劇が、封建的であるとして、GHQの指令によって公開を禁止された。\n1951年にラジオの民間放送が始まった。1953年には、テレビの本放送が開始した。\n1949年に法隆寺金堂の壁画の焼損したことなどから、翌1950年には文化財保護法が定められた。\n1949年に湯川秀樹が日本人ではじめてノーベル賞を受賞した。\nマルクス主義思想も解禁され、経済学や歴史学などに影響を与えた。また、丸山眞男(まるやま まさお)の政治学や大塚久雄(おおつか ひさお)の経済史学が、社会科学の分野で知識人などに大きな影響をあたえた。\n文学では、1940年代後半に坂口安吾が『白痴』を発表、太宰治が『斜陽』を発表。\nその他、この時代、多くの雑誌が創刊した。\n(※ 範囲外: )創刊した雑誌のなかには、売れ行きの悪いものもあり、そのような雑誌は粗悪な酒に例えられてカストリと呼ばれ、廃刊していった雑誌も多い(カストリ雑誌)。\n文化的な作品は多くあり、すべてを教科書では紹介することは出来ないし、入試にも出ないだろう。\n本コラムでは、誤解しやすい作品について、いくつか紹介する。\n終戦直後の時代(1945年)に流行した歌謡曲のひとつ『リンゴの唄』を発売時に歌った歌手は、並木路子(なみき みちこ)である。美空ひばり(昭和中期の歌手)ではない。美空ひばりは、1946年のNHK『素人のど自慢』に当時9歳で出場したときに、この歌を上手に歌ったことで注目されるようになった(将来の)歌手である。\n漫画家の手塚治虫(てづか おさむ)は占領期に既にプロデビューしていたが、作品がヒットしたのは、占領後の時代。\nこのため検定教科書では、占領期の作家としては、手塚を紹介していない。高度経済成長期の作家として、検定教科書では手塚が紹介されることが多い。\n\n朝鮮戦争でアメリカは日本の価値を再認識し、日本を自由主義陣営に組み込もうとする動きを加速させた。このため、日本との講和条約の締結を急がせた。\n1951年9月8日にサンフランシスコ講和会議が開かれ、日本と48か国との間でサンフランシスコ平和条約が締結された。また、同日に日米安全保障条約(安保条約)が調印され、日本独立後もひきつづきアメリカ軍が日本に駐留することになった。\n同条約は翌1952年4月8日に発効し、アメリカによる日本占領は終わり、日本は独立国としての主権を回復した。\nサンフランシスコ平和条約と同日に調印された安保条約にもとづき、1952年2月に日米行政協定が締結され、日本は駐留アメリカ軍に基地を提供することと、駐留経費を分担することが定められた。\n吉田茂内閣は、平和条約の発効する1952年4月に海上警備隊を新設し、また、警察予備隊は保安隊に改称された。\n1954年にMSA協定(日米相互防衛援助協定)で、アメリカからの援助(軍事や農産物)を受けるかわりに、日本は防衛力強化を義務づけられた。\n同1954年7月、保安庁を改組して防衛庁とし、保安隊と海上警備隊を統合して、陸・海・空の3隊からなる自衛隊が発足した。\nまた、吉田内閣は、「血のメーデー事件」を契機に、1952年7月、吉田内閣は破壊活動防止法を制定した。そのほか、1954年の新警察法では、自治体警察を廃止し、警察庁の指揮下の都道府県警察に一本化する制度にあらためた。(※ それまでは、警察が2種類あった。)\n吉田内閣は、1954年には、公立学校教員の政治活動を禁止する教育二法が成立した。(なお1956年の鳩山内閣で、教育委員はそれまで公選制だったが、自治体の首長による任命制にかわった。)\n1954年12月、造船疑獄事件で吉田内閣は総辞職し、日本民主党の鳩山一郎内閣が成立した。\n鳩山内閣は憲法改正をとなえると、それまで日本社会党は右派と左派に分裂していたが、改憲を阻止するために社会党の両派は合流して統一し、社会党は改憲阻止に必要な議席の3分の1を確保した。\nこれに対抗し、民主党と自由党も合流して自由民主党が結成された(保守合同)。これ以降38年にわたり、自由民主党の政権が続いた(55年体制)。\n1956年10月、鳩山内閣は、ソ連との領土問題を棚上げして、日ソ共同宣言に調印し、国交が回復した。\nこれにともない、日本の国連加盟を拒否していた常任理事国ソ連が加盟賛成にまわったので、同1956年12月に日本は国連に加盟した。\n1954年のアメリカが水爆実験を太平洋ビキニ環礁で実験し、日本の漁船の第五福竜丸が被爆(ひばく)した。これをきっかけに、日本国内で原水爆禁止運動が広がり、翌1955年には広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。 \n1952年にはアメリカ軍拡張に反対した石川県住民らによる内灘事件(うちなだじけん)が起き、つづいて1950年代に東京都で砂川事件(すながわじけん)などの基地反対闘争が起きた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%86%B7%E6%88%A6%E3%81%AE%E9%96%8B%E5%A7%8B%E3%81%A8%E8%AC%9B%E5%92%8C"} {"text": "岸内閣は1960年1月に訪米して、日米相互協力および安全保障条約(新安保条約)をアメリカと結んだ。この条約で、アメリカの日本防衛義務が明文化され、軍事行動の前には事前協議が規定された。また、この条約の期限は10年間とされた。\nいっぽう社会党・共産党などの革新勢力は、この新安保のせいで日本がアメリカの戦争に巻き込まれる危険があるなどと主張して、反対運動を行った。\nしかし自民党は議会の手続きどおりに1960年5月に採決を行った。「強行採決」などと批判された。(※ 革新勢力は、自分たちの気に入らない法案の採決のことを、よく「強行採決」という。しかし保守政党は単に、議会で国会法などの手続きどおりに採決しているだけである。)\n国会での新安保の採決により、反対運動が盛り上がり、安保反対勢力は「民主主義の擁護(ようご)」などのスローガンをかかげて1960年5月〜6月にかけて連日、国会周辺で大きなデモが起きた(安保闘争)。\nこのデモには、全日本学生自治総会(全学連)の学生や、市民や労働者をあわせて、数万人が参加した。\n新安保条約は参議院での賛成を得られないまま6月に自然成立し、岸内閣は新安保条約が発効するまでは内閣を続けて、条約が発効したのち、岸内閣は総辞職した。\n総辞職した岸内閣にかわって1960年に池田勇人(いけだ はやと)内閣が成立した。\n池田内閣は、国交の無い中華人民共和国とも、貿易協定(LT協定)を締結した。\n東京オリンピック後の1964年、池田内閣は総辞職した。\nついで成立した佐藤栄作(さとう えいさく)内閣は、大韓民国の朴正煕(パクチョンヒ)政権と国交正常化交渉をすすめ、日本は1965年に日韓基本条約を結び、韓国との国交を正常化した。\nこのとき、日本は、韓国を朝鮮半島で唯一の正式な政府と認めた。(つまり、日本は北朝鮮を認めてない。)\nついで佐藤内閣は、非核三原則「(核兵器を)持たず、つくらず、持ち込ませず」を公言した。\nさらに1971年に沖縄返還協定が調印され、翌72年には沖縄が日本に復帰した。\nしかし、沖縄にある広大なアメリカ軍基地はそのまま維持された。(また、核兵器がアメリカ軍艦に搭載されたまま日本に寄港していた可能性のあることが、2010年に推定された。)\n東アジア外交において、佐藤内閣はアメリカの意向どおりに親台湾の方針をとった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3"} {"text": "1950年、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍を中心とする連合軍からの特需(とくじゅ)が発生し、日本は不況を脱した。\n1951年には、国民総生産(GNP)が戦前の水準を取り戻した。\n1950年代に日本はIMF(国際通貨基金)とGATT(ガット、関税および貿易に関する一般協定)に加盟した。\nまた、1955年以降には米(こめ)の大豊作がつづき、食糧難も解消していった。\nそして1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述されるまでに景気回復した。\nなお、1955年には、労働運動において、総評が中心となって、各産業の労働組合がいっせいに賃上げ要求をする「春闘」(しゅんとう)方式が始まり、しだいに一般的になった。(※ 毎年、春に賃上げ要求をするので、「春闘」という。)\n一般に、1956年の『経済白書』で「もはや戦後ではない」と記述された頃が、高度経済成長の開始の時期とされる。 \n1955〜57年の当時は「神武景気」と言われていた。その後も好景気が続いたので、1958〜61年の好景気を「岩戸景気」といった。\n1960年に池田勇人(いけだ はやと)内閣が成立した。\n池田内閣では、親米政策のもと、革新勢力(社会党・共産党などの事)との対立を避け、(その意味か)「寛容と忍耐」をとなえ、また、すでに始まっていた高度経済成長による「所得倍増」をスローガンにかかげた。\n1955(昭和30)年から1973年まで、経済成長率が年平均10%ほどという高い率で、景気後退年でも5%ていど以上という高い水準だった。\nそのため、1955年から1973年ごろまでを「高度経済成長」という。\n1968年には日本のGNPが旧・西ドイツを抜き、アメリカについで日本が世界の資本主義国でGNP第2位になった。\n高度経済成長期の好景気としては1955〜57年の神武景気、1959〜61年の岩戸景気、1963〜64のオリンピック景気などがある。\nまた、1949年に設定された1ドル=360円の固定レートが外国にとっては日本円が割安であり、そのことが日本からの輸出に有利だった。\nまた、高度成長期に、企業による設備投資が進み、工業化が進んだ。\nそのような企業の設備投資の資金源には、銀行から貸し出された資金が使われた。\nこの高度成長のころから、太平洋ベルトに工場が集積していった。「投資が投資を呼ぶ」と言われるほど、設備投資が盛んだった(※ 現代社会の検定教科書に、「投資が投資を呼ぶ」の記述あり)。\nまた、農村出身の若者が、集団就職で、都会に移住した。通説では、高度成長の原因のひとつは、教育の普及により勤勉で良質な労働力が供給されたことが理由だろう、と言われている。\n一方、しだいに都市部で住宅不足などが起こりはじめ、渋滞や過密化などが起こるようになった。\nなお、この当時の就職しはじめの20代前後の若者とは、戦後のベビーブームの時期(1947〜1949年)に生まれた「団塊(だんかい)の世代」である。この当時は、大学進学率が低く、中卒や高卒で就職するのが一般的であり、この世代の中卒・高卒の労働者は「金の卵」と言われた。\nさて、戦前は日本の製品は品質が低いと国際的には見なされていたが、高度成長のころから、日本企業が国際的な競争力をつけていった。\nなお、石炭から石油へのエネルギー革命が、日本では、この高度成長期に起きた。\n1960年代、日本では貿易の自由化を求める声が高まり、それまでの輸入は政府の許可制だったが、1963年にGATT11条国(ガットじゅういちじょうこく、意味: 国際収支の悪化を理由には輸入数量の制限ができない国)になり1964年にIMF8条国(意味: 国際収支を理由には為替制限ができない)になった。(なお1964年は、東京オリンピック開催の年でもある)\nこのようにして、日本はIMFーGATT体制に入り、また、日本では貿易がしだいに自由化されていく。\n戦時中に制定された食糧管理制度による所得保障による農家保護が、戦後もつづき、さらに米価も値上げしたので、農家は裕福になっていった。なので、戦前のような貧しい農業の問題は、ほぼ解決した。(なお、政府は1961年に農業基本法を制定した。)\nしかし、それでも人々の多くは農業に就職するより製造業などに就職することを目指し、都市に人口が流入していき、一部の農村は過疎化をしていった。また、兼業農家も増加していった。\nいっぽう、都市では、人口の流入によって過密化していき、都市郊外にニュータウンや団地が造成されていった(スプロール化)。また、家族形態では核家族が一般的になった。\n都市では、渋滞や大気汚染、騒音などで、生活環境が悪化した。\nこの頃、公害の問題が深刻化した。\n地方自治では、大都市では革新系政党(社会党など)の首長(革新首長)が増えていった。いっぽう、農村では、保守系政党(自民党)が支持されることが多かった。\n東京都では社会党や共産党が推薦する美濃部亮吉(みのべ りょうきり)が1967年に都知事に就任した。\n1970年代には、京都や大坂でも革新系の首長が誕生した。\nなお、革新系の首長をもつ自治体のことを、革新自治体という。(たとえば、1967年以降の東京はしばらく革新自治体である。)\nこの頃までに、エネルギー源が石炭から石油にほぼ変わっていった(エネルギー革命)。\n1960年代には小売業でスーパーマーケットが普及した。\n1954年には日本で100軒だったスーパーマーケットが、1959年には1000軒をこえた。(参考文献: 山川出版社『もう一度読む 山川 戦後日本史』、2016年1版、115ページ、)\nなお、のちの1970年代前半に、スーパーのダイエーが売上高(うりあげだか)で百貨店の三越(みつこし)を抜いて、ダイエーが小売業界で売上高で日本一になる。\nすでに戦前の1930年代には、中小の商店を保護するための法である百貨店法(※ 内容は、デパートなどの大型商店を規制する法律)が存在している。けっして戦後のダイエーの躍進で、大型商店の規制が法制定されたわけではない。1974年には、百貨店法が廃止され、かわりに規制強化をした大規模小売店舗法が制定された。(大規模小売店法は一般に「大店法」(だいてんほう)と略される)\n現在では「大規模小売店舗立地法」によって(※ 法律名に「立地」が加わってる。本書では区別のため「大店立地法」とする)、スーパーやデパートなどの大規模な商業施設は、法規制を受ける。\nこの「大規模小売店舗立地法」は、1998年6月に制定され、2000年6月から施行された。それにともない、かつての大規模小売店舗法(旧・大店法)は2000年に廃止された。(※ よく、勘違いで「(2001年からの)小泉純一郎内閣が、大店法を規制緩和した」などの誤解がある。しかし、けっして、それは勘違いであり、1998年6月の内閣は橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう)内閣である。2001年からの小泉内閣では、大店立地法の改正は行っていない。)\n旧・大店法では、デパート等を出店したい大企業は地元商店街の意見などを聞く必要があり、そのため大企業などから政府に法改正を求められていたり、90年代にはアメリカ政府から大店法は外資参入をさまたげる規制でありWTO違反だと日本政府が批判されたりしたので、2001年に廃止になり、かわりに「大規模小売店舗立地法」が制定された。\n\n高校への進学熱も高まり、\nまた、大学では、「学園紛争」と呼ばれる、デモ行為が起き始めた。\nこのような高度経済成長によって、多くの人々は自分たちが経済的に豊かになったと感じ、もはや自分は貧乏人ではないと考えて、中流意識をもつようになった。\nテレビの本放送が1953年に始まると、1950年代後半には洗濯機・冷蔵庫・テレビなどの「三種の神器」といわれた家電も普及していった。\n1953年にはテレビの本放送も始まった。\nスポーツでは、野球が流行した。また、テレビ中継などを通して、野球のほかにもプロレスなども流行した。\nこの結果、長嶋茂雄(ながしま しげお)や力道山(りきどうざん、プロレス選手)が、人気のスポーツ選手になった。\nテレビの影響もあって、(※ 読売巨人の)長嶋茂雄や王貞治(おう さだはる)が人気選手となった。\nまた、マンガも流行し、長谷川町子(はせがわ まちこ、『サザエさん』原作者)や手塚治虫(てづか おさむ、『鉄腕アトム』原作者)などが人気となった。\nこの頃、子供向けのマンガ週刊誌が誕生した(1959年の『少年サンデー』など)。\n週刊漫画でなくても良いなら、サンデー以前からも漫画雑誌は存在する。講談社の月刊少女漫画雑誌『なかよし』(1954年創刊)のほうが、1959年創刊の週刊『少年サンデー』よりも古い。『なかよし』は21世紀まで現存した雑誌の中では最古であるとされる。なお、20世紀中に廃刊してしまった雑誌も含めれば『少年画報』(少年画報社)の1948年創刊のほうが、さらに古い。少年画報社とは、現在では『ヤングキング』などの雑誌を出版してる会社。)\nサンデーは、べつに漫画雑誌の創刊そのものの行為は日本初ではないので、勘違いしないように。あくまで、週刊ペースの漫画雑誌として、サンデーは日本初なだけである。\n1950年代には特撮怪獣映画の『ゴジラ』が1954年に映画公開され、話題になった(※ 2018年度センター日本史Aの問題文。)。 この作品のできた背景は、太平洋戦争中の広島・長崎の原爆投下や、1946年の太平洋ビキニ沖原水爆実験である。(アメリカなどの原水爆実験がビキニ沖で50年代にあった事は、背景ではない。なぜなら、アメリカによるビキニ沖原水爆実験の年度(1954年3月1日)や、その結果の第五福竜丸の被爆事故の年(1954年3月1日)と、ゴジラ放映は同じ年である。アメリカは40年代にもビキニ沖で原水爆実験を行っており、そちらのほうが『ゴジラ』の背景。)\nまた、1960年代にはアニメーション版『鉄腕アトム』などが放映され、人気となった。(※ なお、アニメ版『鉄腕アトム』は、国産では日本初の長編テレビアニメ番組であると考えられている。1963年に『鉄腕アトム』が初放映された。CMアニメなどの短編アニメや非テレビの映画アニメなら、鉄腕アトム以前からある。詳しくは『中学校社会 歴史/検定教科書で紹介されているコラム的話題など』を参照。)\nアトムのテレビアニメ放映の年代(1960年代)よりも、特撮映画であるゴジラの映画公開の年代(1950年代)のほうが、先である。つまり、テレビアニメの制作は、それだけ難しかったようだ(アニメそのものの制作の難しさや、テレビ受像機の普及の問題などがあろう)。\n文学では、純文学では大江健三郎(おおえ けんざぶろう)が有名になった。\nまた、大衆小説では、推理小説などで松本清張(まつもと せいちょう)が人気になり、歴史小説で司馬遼太郎(しば りょうたろう)が人気になった。\n音楽では、ポピュラー音楽では1960年代にフォークソングやロック音楽が日本でも流行しはじめた。(※ 範囲外: 当時は「ロックは不良の音楽」とか言われてたらしい。)(ビートルズ来日は1966年の出来事であり、60年代の出来事である。)\n民主社会党が1960年に結成された。なお結成の経緯は、社会党が分裂して、出ていった側の政治家が結成したのが民主社会党である。(民主社会党は、のちの1969年に「民社党」に改名する。)\nほか、公明党(こうめいとう)が1964年に結成された。なお公明党は、宗教法人の創価学会(そうかがっかい)を基盤とする政党である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC"} {"text": "1960年代後半、アメリカ経済は国際収支が悪化しており、時のニクソン政権は、ドル防衛の必要にせまられてた。そして1971年8月に、アメリカ合衆国が金とドルとの交換を停止した(ニクソン-ショック)。 (ニクソン大統領の政策なので、ニクソン-ショック(Nixon shock [1])という。)\nこの結果、1971年12月の10か国蔵相国際会議で日本は円とドルとの交換レートの切り上げをせまられ、1ドル=308円になった。当初、日本は固定相場制を維持しようとしたが、1973年に変動相場制に移行した。\n1972年に田中角栄(たなか かくえい)が総理大臣に就任した。\n田中内閣では、田中首相が北京に訪れ、毛沢東と交渉し、日中共同声明を発して日中国交正常化が行われ、中華人民共和校と日本との国交が樹立した。(これにともない、日本と中華民国(台湾)とは断交した。) (※ まだ日中平和友好条約は締結されていない。のちの福田赳夫(ふくだたけお)内閣の時代に、日中平和友好条約は締結される。)\n(なお、アメリカ合衆国のニクソン大統領は1972年に訪中して、ひとまず米中和解を実現した。しかし、1972年の時点では米中の国交は正常化しなかった。米中国交正常化の年度は1979年からである。)(なお1976年に毛沢東が死去している。)\n日本経済では、1972年に田中角栄が、太平洋に集中している工業地帯を、(東北や北陸、山陰や四国などの)各地の拠点都市に分散して、その間を高速道路や新幹線でつなごうとする「日本列島改造計画」を唱え、公共事業を推進した。この結果、土地投機をまねいて地価が上昇した。\n1973年10月以降の第1次石油危機(the first oil crisis [2])は、田中内閣の時代の出来事である。\n第1次石油危機の原因は、1973年10月の第4次中東戦争が原因である。\nこの結果、日本でGNP成長率が戦後初めてマイナスに転落し、戦後日本の高度成長は終焉した。なお、日本では物価は上昇し(激しいインフレ)、「狂乱物価」と言われた。\n石油危機の不安により、日本の消費者たちは「物が無くなる」という不安のために、洗剤やトイレットペーパーなどの買いだめに走り、品不足が起きた。\n(しかし、その後の日本経済は先端技術への投資により不況を乗り切り、その結果、しだいにコンピュータや産業用オートメーションの導入が進んでいく。)\nまた、石油危機などをきっかけに世界的に、インフレ状況下での不況であるスタグフレーションがおとずれ、その対策のため先進各国は1975年、アメリカ・日本・西ドイツ・イギリス・フランス・イタリア6か国の首脳による先進国首脳会議が開かれ、対応に各国が協力しあう事となった。\n(なお田中角栄は1974年に金脈問題などにより総辞職し、三木武夫(みき たけお)内閣に変わった。)\n1970年代後半、アメリカ財政が「双子の赤字」と呼ばれた(アメリカの)財政赤字と(アメリカの)貿易赤字に苦しみ、アメリカはその打開策として日本に、貿易自由化をもとめてきた。\nこのため、アメリカは日本に、農産物の輸入自由化などを求めてきた。\n田中角栄は1974年に金脈問題などにより総辞職し、後継として「クリーン政治」をかかげる三木武夫(みき たけお)内閣に変わった。\nしかし、1975年に田中元首相が米国ロッキード社との(航空機の売り込みをめぐる)収賄容疑で(田中角栄が)逮捕され(ロッキード事件)、その影響で総選挙で自民党が大敗したので、三木内閣は総辞職した。\n退陣した三木内閣にかわって、福田赳夫(ふくだ たけお)内閣が組閣された。\n福田内閣は、経済政策では貿易黒字・円高不況の解消のため内需拡大を掲げた。外交面では福田内閣は1978年に日中平和友好条約を締結した。\nしかし、じつは、財政再建が国政で重要問題になったのは、中曽根のころからではなく、1970年代後半の大平正芳(おおひら まさよし)内閣のころからである。そして、いちぶの国営事業の民営化の方針が決まったのは、大平内閣のつぎの1980年からの鈴木善幸(すずき ぜんこう)内閣のときである。\n戦後日本は1965年度に赤字国債を1度発行したが、しばらく赤字国債を発行せずに済んだが、しかし1975年以降はそれまでしばらく発行していなかった赤字国債を毎年発行しつづけざるを得ない財政状況になった( 前年の1974年は戦後初のマイナス成長の年)。このため大平内閣のころまでには財政問題が注目され、大平内閣は財政問題に着手した。(※ そもそも大平は、過去の内閣では大蔵大臣(いまでいう財務大臣)をやっていた。財政問題が深刻化しはじめたので、大平が首相に選ばれたのだろう。)\n大平内閣は財政問題の対処のため、当初、増税をしようとしたが、しかし世論の反発により、増税をあきらめた。\nつぎの鈴木内閣で、増税でなく公務員削減などの行財政改革によって歳出を削減する方針となった。1981年には、行政改革を目的とする第2次臨時行政調査会を発足させ、「増税なき財政再建」が目標にされた。しかし、鈴木内閣では行財政改革は実行されず、つぎの中曽根(なかそね)内閣で行財政改革が実行される事になる。\n福田内閣の後継の大平正芳(おおひら まさよし)内閣は、第二次石油危機に対処するなどしたが、1980年の選挙運動中に急死した。\n1980年の選挙では自民党が圧勝し、鈴木善幸(すずき ぜんこう)内閣が成立した。\n地方自治では、革新自治体が財政的に行きづまり、革新自治体は減っていった。\n大平正芳内閣、鈴木善幸内閣のつぎに、1982年に中曽根康弘(なかそね やすひろ)内閣が成立した。\n中曽根は財政改革として、官営(かんえい)事業だった電電公社(現NTT)、国鉄(現JR)、専売公社(現JT)の民営化をした。\n中曽根は首相として初めて靖国(やすくに)神社に参拝した。\nまた、防衛費について、過去の三木内閣の設定したGNP1%枠とする目安を、中曽根政権の当時、突破し、当時は話題になった。\n1987年に中曽根は、後継に竹下登(たけした のぼる)を指名して退陣した。\nつづいて1987年11月に竹下登内閣が成立した。\n1989年、竹下内閣のもとで消費税が成立して実施された。\nしかし政治資金の疑惑により(リクルート事件)、退陣した。\n上述の中曽根内閣の説明でみたように、国営事業・公営事業を民営化する方針は、中曽根政権のころには既に存在した政策である。\nけっして、小泉純一郎が初めて民営化政策を考えたのではない。\n1980年代末の不動産バブルを時代の基準に考えると、80年代前半の中曽根政権はバブル崩壊前だし、2001年からの小泉政権はバブル崩壊から かなり後である。\nけっして、不動産バブル崩壊によって急に民営化政策が考えられたのではなく、まして小泉が急に民営化を考えたのではなく、すでにバブル崩壊前から、財政問題の解決策として、さまざまな事業の民営化が考えられてたのである。\n1980年代、貿易摩擦やアメリカの財政赤字の問題もあり、1985年のG5会議によりドル安を誘導するための円高および(ドイツ通貨の)マルク高が合意した(プラザ合意)。そして日本では実際に円高になった。\nこのため日本の製造業など輸出産業はやや不況になったが、輸入品の価格が下がったこともあり、日本では内需が拡大した。\nこの頃、一般企業でもパソコンなどのコンピュータが普及しはじめた。(※ たとえばNEC社のPC88シリーズなど)(※ 80年代の時点では、インターネットは、まだ普及してない。携帯電話も、まだ普及してない。) \nまた、小売業ではコンビニが全国各地に普及しはじめた。外食産業も、増え始めた。\nそして、この頃から、経済界では、今後の予想として従来の建設業や鉄鋼業や自動車などの「ハード」産業にかわり、コンピュータやレジャー産業などの第三次産業や各種のサービス業などの「ソフト」産業がきっと今後は重要になるだろうと思われた。\nいっぽう、日本の金融市場は好景気になった(ほぼ、20世紀中の日本では戦後最大の好景気と思われる)。\nそして、地価や株価が高騰し、80年代後半の日本の景気は、いわゆる「バブル景気」となった。(※ 当時から「バブル」と言われてた。)\nしかし、その後、1990年の前後に、日本のバブル景気が終わる(いわゆる「バブル崩壊」)。\nバブル崩壊の原因は諸説あるが(日銀による1989年の公定歩合の引きあげ、などの説)、1990年に株価が下がり、1991年には景気は後退しはじめ、92年には地価も下がった。\nその結果、土地を担保に融資をしていた金融機関には、巨額の不良債権が残った。\nこのため、金融機関じたいが、破産の危機にあい、実際にバブル崩壊後の90年代後半には、いくつかの金融機関が破産していく。\n(※ 範囲外: )また、バブル崩壊までは積極的に企業に融資していた銀行などの金融機関が、中小企業などへの融資が消極的になり、当時のニュース報道では、(銀行の)「貸し渋り(かししぶり)」などの流行語が話題になり、資金繰りの悪化した中小企業が倒産していったり、大企業も事業の見直しを迫られるようになっていく。\n政府は、(上述のような)連鎖的な景気悪化をふせぐために、政府は金融機関に巨額の公的資金を投入し、公共事業を行ったが、しかし景気は回復しなかった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E9%AB%98%E5%BA%A6%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89"} {"text": "ベルリンの壁が崩壊したこと、ソビエト連邦経済が停滞したことにより、冷戦が1989年ごろに終結する。\n1989年、竹下内閣のもとで消費税が成立して実施された。\nしかし政治資金の疑惑により(リクルート事件)、退陣した。\nつづいて、宇野宗佑(うの そうすけ)内閣では、(リクルート事件の影響もあってか)1989年7月の参議院選挙で自民党が大敗し(社会党が躍進)、宇野内閣はわずか2か月で退陣した。(衆議院でなく参議院での大敗なの、自民党政権のまま。)\n宇野内閣の次の、海部俊樹(かいふ としき)内閣では、湾岸戦争への国際貢献の対応に追われた。\nつづいて宮沢喜一(みやざわ きいち)内閣では、国連平和維持活動協力法(PKO法)を成立させた。\nしかし、1992年に佐川急便事件やゼネコン汚職などの大企業との癒着(ゆちゃく)が明るみに出て、国民の政治不信が高まった。\nそして、1993年6月には自民党内が小選挙区制をめぐって分裂し、1(社会党などの野党から)内閣不信任案が出され衆議院で可決し、7月の総選挙で自民党が敗北し、自民党は野党になった(55年体制の終わり)。\nそして、非自民8党の連立政権が与党となり、日本新党の細川護熙(ほそかわ もりひろ)を首相にした。\nなお、このときの非自民8党派は、社会党・新生党・公明党・日本新党・民社党・新党さきがけ・社会民主連合・民主改革連合、の8つ。\n細川内閣は、選挙制度改革をして小選挙区比例代表並立制を成立させた。\n後継の新生党の羽田孜(はた つとむ)内閣は、短命に終わった。\nそして、社会党と自民党が連立し、1994年6月に社会党委員長 村山富市(むらやま とみいち)を首相とする村山内閣が成立する。\nそして社会党は、自衛隊・日米安保の容認をするなど、従来の党の方針を大幅に転換させた。\n(1995年1月17日に阪神淡路大震災が起き、6000人以上の死者が出た。)\n1996年に村山内閣は退陣し、自民党総歳の橋本龍太郎(はしもと りゅうたろう)が連立政権を引き継いだ。\n社会党は党名を社会民主党に変更した。\n橋本内閣は、財政改革のため、消費税を5%に引きあげたが、アジア通貨危機の時期と重なり、景気は後退した。\nそして、1997年、都市銀行のひとつの北海道拓殖銀行が破綻し、大手証券会社のひとつの山一證券も破綻した。\nこれらの結果、日本の不況が深刻化した。\n(湾岸戦争や、1995年1月に阪神大震災、1995年3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件などが発生し、日本は安全保障をみなおす必要にせまられた。)\n「サリン」とは、猛毒物質の一種である。\n宗教団体のひとつであるオウム真理教は、1995年3月20日、サリンを東京都内の地下鉄に散布するというテロを実行した。このテロの被害によって、11人の死者と、5000人を超える重軽傷者を出した。\nなお、サリンは第二次大戦中にドイツが開発していた物質でもあり、海外からは、日本で化学兵器を用いたテロが起きたとして注目された。\n橋本龍太郎、1996年、クリントン大統領が来日して日米安保共同宣言\n小渕恵三(おぶち けいぞう) 周辺事態法、国旗国家法、通信傍受法\n2000年に小渕は病死し、後継の森喜朗(もり よしろう)内閣が成立したが(自民党・公明党・保守党の連立政権)、しかし国民の支持が得られず支持率が低迷し、2001年に森内閣は総辞職した。\n森内閣の後継で小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣が2001年4月に成立した。\n検定教科書では、「地上げ」とか紹介。なお、「地上げ」とは、不動産業者が強引な方法で住民を立ち退かせ、更地にして転売すること[1]。\n毎日新聞社の撮影した、地上げされた土地の写真が有名で(周りが空き地になった中、一軒だけ古い家屋のある写真)、検定教科書にもその毎日新聞の写真がよくあるのだが、本wikiでは権利の都合で省略。\nディスコの写真もあったり(いわゆる「ジュリアナ東京」)。 ※ ジュリアナは店舗名なので覚えなくていい\n※ その他、1985年のプラザ合意などは、本wikiでは『政治経済』科目のほうで説明してある・・・はず。電電公社→NTT といった民営化についても、検定教科書では日本史でも触れているが、本wikiでは『政治経済』で扱う。\n90年代の円ドル為替は円高の傾向であり、1995年には1ドル80円台に達した。\nこのような理由もあって製造業などの大企業は、生産拠点を海外に移した。このため、しだいに国内産業の空洞化が、危惧(きぐ)されるようになった。\n80年代ごろから日米の貿易問題が深刻になり、何度か日米間で会議が開かれた。\nアメリカは1988年には包括通商法を改正して、不公平な貿易相手国に輸入制限や高関税などの報復措置(ほうふく そち)をとれるようにするスーパー301条を制定した。\nこのため日本は、市場開放に前向きにならざるをえなくなった。そして、1989年には日米構造協議が開かれ、1993年には日米包括協議が開かれた。\n89年の会議では、日本の市場開放、および、そのための規制緩和の方針が求められた。そして1993年の協議では、より具体的なことが決定し、「大規模小売店舗法」(大店法)の規制緩和の方針が決まった。(のちの橋本龍太郎内閣で、大店法の規制緩和の方針の改正法案が成立した。)\n1991年には、アメリカからの強い要望で、牛肉・オレンジの輸入自由化が決まった。\nそれとは別に、1994年からアメリカ政府は日本政府に年次改革要望書を提出し、この要望書で、さまざまな要求をした。2009年の民主党の鳩山内閣で年次改革要望書が廃止されるまで、さまざまな要望がアメリカから出された。\nウィキペディア日本語版の記事によると、年次改革要望書によって実現した政策は、\nと多い。\n1995年の村山政権では、日本による過去の(アジアへの)侵略と植民地支配を謝罪する内容の村山談話(むらやま だんわ)が発表された。\n2001年4月に成立した小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣は、自民党・公明党・保守党の連立政権であった。\n小泉政権は「聖域なき構造改革」をスローガンに、経済政策や行財政では新自由主義を採用し、郵政民営化や、労働の規制緩和を行った。\n小泉は自民党総裁の任期満了にともない、2006年に小泉は首相を辞職し、後継の内閣は安倍晋三(あべ しんぞう)内閣になった。\n小泉政権のころから自民党は、公共事業を削減したり、地方交付税を削減したため、地方格差が目立つようになった。\nまた、非正規労働者は、この頃から急増したと思われる。\n「郵政解散」の用語は無い。当然、「小泉劇場」とかのフレーズも無い。\nしかし、いちぶの検定強化書で、解散総選挙をしたことは書かれている。\n2005年の8月の参議院で郵政民営化法案が否決されたとき、小泉は衆議院を解散して総選挙を行って、選挙に圧勝し、民営化が民意に支持されてることを主張した。\nそして選挙後の10月、郵政民営化法案が可決された。\nまた、郵政民営化をめぐって対立した政治家の亀井静香(かめい しずか)や、亀井の創設した国民新党の説明も無い。\n小泉の民営化改革は、郵政民営化のほかにも、道路関係四公団の民営化がある。\nまた、実質的な地方交付税の削減である、地方への財源移譲の改革もある。(東京のように富める自治体は、ますます富むが、地方の貧しい自治体は、ますます貧しくなる。)\n現在(2018年に記述)の政治評論などでは、よく、小泉政権が、民営化路線や規制緩和路線の政策の代表例として挙げられることが多い。\nしかし、1980年代の中曽根内閣のころから、民営化も規制緩和も、実行されていた。中曽根内閣のころにも、電信電話公社(現在のNTT)や国鉄(現在のJR)や専売公社(現在のJT)が民営化された。\n労働者の「派遣」社員制度の規制緩和についても同様に、けっして小泉政権が元ネタではなく、中曽根政権が元ネタである。小泉政権時代の2004年にも規制緩和が進んだが、しかし1986年の中曽根内閣のころから既に「派遣法」があって派遣制度は存在し、その後も規制緩和の方針での法改正が1993年・1996年とつづいたのである。けっして小泉が最初に派遣の規制緩和を考えたわけではない。\nさらに中曽根政権の前の鈴木内閣で既に、いちぶの行政の民営化の方針が決められていたのであり、その後の中曽根政権はその民営化方針を実行したにすぎない。\n\n軍事学ですが、戦術論では、中国の兵法書『六韜』(りくとう)で、仮想敵国を滅ぼすための外交戦略として、\nという格言があります。\nつまり、敵意を隠して、敵対勢力の中にある不合理なものを自分の気持ちにウソをついて褒めることにより、そのウソを真に受けた敵集団の中での不合理なものの割合を増大させることができるので、効率的に侵略できる、という戦術です。\n実際、平成の日本国内の国政でも、国会の政局論争でも、失言などによって政党支持率を低下させた党首ほど、なぜか対立野党が褒め称えるという現象がありました。自民党の森政権の時代、2001年の『えひめまる沈没事故』やゆとり教育などに関して、自民党が日本国民から嫌われて自民の支持率が下がったとき、野党(民主党など)は当初は政権を攻撃していましたが、\nしかし自民党が総理・党首を変えようとすると(のちに小泉潤一郎が総理になる)、野党の民主党党首の鳩山由紀夫は、\n「なぜ変えるのか? 総理を変える必要はない」と言った感じのことを国会論戦で言いました。これは普通にテレビ報道されているシーンです。\n野党からすれば、国民から嫌われた自民党党首のままで居てくれたほうが、次回の選挙がラクになるので、だから将来の選挙を見越して、その前の国会の会期中にはあえて対立政党の問題点を批判しないでむしろ選挙前のテレビ番組出演の可能期間までに取っておくために国会では対立政党の弱点を褒めておくという国会戦術すら存在するくらいなのです。\nただし、具体的な問題点(および問題の無い点)を明示する批評にしか、価値はありません。世の中には、曖昧な言葉でケチつけて、具体的な問題点を指摘しないことにより、達者ぶりたがることが好きなヘンな人がいます。それやってる人間は一片たりとも信用しないのが良いでしょう。\nまた、別の注意点として、政治の世界だと、この現象(「教えてくれる人が偉い」)を逆手にとって悪用して、大して情報価値の無い些細な事をまるで押し売り的に敵対勢力の若者・新人などに教えて、「教える側の自分が、さも相手より上位である」かのように周囲に印象づけようとする姑息(こそく)な手口もあります。\nアメリカ同時多発テロが2001年9月11日に起き、アメリカのブッシュ大統領が対テロ戦争(the war on terror)の方針を打ち出すなどすると(そしてアメリカ軍は、テロ首謀者の潜伏しているとみられるアフガニスタンの一地域を空爆などによって攻撃し、テロ組織を支援しているとみられるタリバン政権を打倒した。)、日本の小泉政権は積極的にアメリカの方針を支持した。そして2001年10月に日本ではテロ対策特別措置法が成立した。\nそして日本は、多国籍軍支援のため、海上自衛隊をインド洋に給油活動のため派遣した。\nその後の2003年3月にアメリカのブッシュ政権がイラク戦争を開戦すると、アメリカはただちにフセイン政権を打倒し、アメリカ軍はイラク占領に入った。(このイラク占領では、中東アジア系勢力によるものと見られるテロが多発し、アメリカ軍は苦しめられる事になる。)\nそして日本は同年7月にイラク復興支援特別措置法を成立させ、イラク復興活動として自衛隊をイラクに派遣した。(2009年2月まで、イラクに自衛隊が派遣されていた。)\n(なお、アメリカ軍は2011年12月にイラクから撤退する。)\n小泉政権は、その圧倒的な支持率により、それまでタブーとされてきた「日米同盟」など表現を国民に提唱した。\n小泉以前の日本では、憲法によって、日本は「戦力」をもたないというタテマエのため、自衛隊を軍隊とみなす発言はタブー(禁句)的な扱いであり、そのような事情もあり、マスコミも公文書も小中高の教科書も 日米安全保障 のことを「日米同盟」とは呼ばなかったが、しかし小泉は積極的に「日米同盟」という用語を使った。\nもっとも、自衛隊にイラクなどに派遣する際には、派遣先の地域については「非戦闘地域」であるという表現を、小泉政権は使った。\nまた、小泉は、A級戦犯をまつっているとされる靖国(やすくに)神社に首相として公式参拝した。\n2002年に小泉純一郎首相は北朝鮮を訪問して北朝鮮の金正日朝鮮労働党総書記と会談して、日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤン宣言)を結び、これによって北朝鮮による拉致(らち)被害者の一部の帰国が実現した。\nしかし、日朝の国交は(2018年の)いまだに正常化していない。\n小泉純一郎の辞職後、約1年で首相が交代する期間が2009年まで続いた。\nこの2006〜2009の期間の自民党内閣は、安倍晋三・福田康夫・麻生太郎の内閣である。\n2006年の安倍政権の時の、中華人民共和国での反日デモの激化。\n2008年にアメリカで起きた金融恐慌の影響を麻生内閣は受け、自民党の支持率は大幅に下がった。そして2009年の選挙では民主党が圧勝して第一党となり、民主党の鳩山由紀夫(はとやま ゆきお)内閣が成立した。\nこのときの民主党政権は、民主党・社民党・国民新党の連立政権である。\n鳩山内閣は、子ども手当ての支給などの政策を行った。\nしかし、沖縄のアメリカ軍の普天間(ふてんま)基地の移設問題で、行きづまり、鳩山は首相を辞職し、2010年、おなじ民主党の菅直人(かん なおと)に内閣を交代をした。\n菅直人内閣の時代には、尖閣諸島の周辺で中国漁船が領海侵犯した事件により(尖閣諸島不審船事件)、日中関係が悪化した。\n菅直人内閣の時代の2011年3月11日、東北沖を中心とする大地震が起き、東北地方を中心に大津波により壊滅的な被害を受けた。震災・津波による死者は約2万人となった。\nそして、東京電力福島第一原子力発電所では、津波などの被害により、大量の放射性物質もれをする深刻な事故になり、多数の近隣住民が避難する事態となった。\nこれらの事故の対応で民主党は批判をあび、2011年に菅直人は政権を同じ民主党の野田佳彦(のだ よしひこ)にゆずった。\n2012年の衆議院選挙で民主党は大敗し、自民党政権となり、自民党の安倍晋三(あべ しんぞう)内閣(第2次)が成立した。\n(※ 日本の国会について、検定教科書で教えられてるのは、ここらへんまで。第二次安倍政権の内容について、経済政策を簡潔に説明している教科書もある。)\n文化については、1970年代から、もう検定教科書で、あまり紹介していない。このため、1980年代に流行したファミコンなどの家庭用ゲーム機も、教科書では、まったく触れられないのが通常である。\nファミコン以前にも、家庭用ゲーム機は販売されていた。しかし、ファミコンは売れ行きがケタ違いに高かった(世間では、ときどき、てっきり、ファミコンが日本初の家庭用ゲーム機だと誤解している人がいる)。なので、小中高の教育の段階では、ファミコンを優先的に紹介するのは意義がある。\nなお、世界初の家庭用ゲーム機は欧米産のオデッセイ。\n日本初の家庭用ゲーム機はエポック社のテレビテニス。\nファミコンと上記のゲーム機との差異についての説明は、省略する。小中高の公教育のレベルを超えるので。\n中学高校の音楽の教科書や副教材などで、過去に、ドラゴンクエストのテーマ曲が紹介されてたりしたこともあった。ときどき、ファイナルファンタジー シリーズの曲も掲載される(FF4やFF10の曲などが過去に学校教材に掲載されたことがあった)。\n高校の美術の教科書で、『ゼルダの伝説』が紹介されたこともあった。\nまた音楽の教科でも、ゼルダを出してる企業の任天堂(にんてんどう)の出しているゲームの『Mother』(マザー)シリーズの曲が学校教材に掲載されたことがあった。\nドラクエとゼルダ、ともに西洋風の中世風ファンタジーを題材にした作品であることも興味ぶかい。ファイナルファンタジーのシリーズも、シリーズ当初は西洋風の中世風ファンタジーを題材にした作品であった。\nなおゲーム以外にも、それぞれの時代の歌謡曲など、いくつか学校音楽の教材に掲載されたこともあるし、いまでも、たびたび、一昔前に流行した歌謡曲が掲載される。アニメの主題歌なども、いくつか掲載されたこともあった。\nところで文芸のほうでも世界史では、西洋風の中世風ファンタジーをトールキンという作家が20世紀中期に『指輪物語』という長編小説を書いている。(世界史Bのほうで、帝国書院の世界史Bの教科書でトールキンと『指輪物語』が紹介されている。トールキンは第二次世界大戦の前に書いていたが、発表が戦後になり、影響も戦後になって出てきたこともあり、教科書では戦後史として紹介されている。)\nこの指輪物語が、その後の日本のファンタジー作家にも大きな影響を与えたと考えられている。\n\n90年代からのインターネットなどの技術が文化に及ぼした影響についても、歴史科目では多くの教科書では、あまり触れられてない。(しかし、『情報』教科のほうで、インターネットについては触れられる可能性はある。)\n第一学習社の日本史Aの教科書で、歌声合成ソフトの『初音ミク』(はつねみく)が2010年ごろに流行したことを紹介している。\n帝国書院の世界史Bの教科書で、本文中ではなく図表だが、20世紀後半の文化として、音楽ではビートルズとか取り上げてる一方、マンガやアニメではともに日本人の作品の『ドラゴンボオール』と『AKIRA』を取り上げている。\n20世紀後半の1990年代から、21世紀の始めのほうの2001年の頃にもなると、日本のマンガやアニメの評価が世界的に高まり、娯楽性だけでなく芸術性も評価されるようになり(※ 東京書籍がそう言ってる)、アニメ監督の宮崎駿(みやざき はやお)の作ったアニメが国際的な賞を受賞した。(※ 東京書籍の日本史Bの教科書がそう言ってる。\nまず、文化のうち、商業を無視した文化で、比較的に権威のあるとされる文化がメインカルチャーです。「メイン」とは「主流」とかの意味です(清水書院「公共」の見解)。\nなにがメインカルチャーかは教科書では紹介されていないですが(そもそもメインカルチャーの用語自体、紹介されていない)、たとえば古典芸能やクラシック音楽などがメインカルチャーでしょう。\n一方、ファッションやアニメやゲームなどは、商業が主体なので、サブカルチャーです(清水書院「公共」の見解)。少なくとも、一般的な社会科学的な分類ではそうです。\n「サブ」とは「副次的」とかの意味です(清水書院「公共」の見解)。\nサブはメインの対義語です。\nなお、若者文化のことは「ユース カルチャー」youth culture といいます(※ 清水書院の検定教科書に書いてある)。\n日本史Bの検定教科書で、明成社(という教科書会社がある)の検定教科書で、2010年における日本の畜産農業での口蹄疫(こうていえき)の感染拡大について記述されている。\n2010年のこの口蹄疫の感染拡大の出来事じたいは、単なる病原菌の感染拡大という生物学的な現象であるが、しかし当初、この問題は、テレビの地方局や地方新聞などを除いて、全国規模のテレビ放送局や全国規模の新聞などでは報道されなかった。\n現代では、民主主義を成り立たせるための前提として、国民がマスメディアを活用して情報収集する必要があるが、ともすれば行政は国民を見下し、「パニックを防ぐ」などの名目で情報は隠されやすい。\n同じような 行政による情報を隠す行為は、2011年の原発事故のときにもあった。\n災害が起きているにもかかわらず、行政はただひたすら「安心してください」と根拠も述べずに、国民を無知なものと見下して命令するだけであった。(のちに全国的に報道され、批判されるようになった。)\n他にも、民主党政権時代での、尖閣諸島の中国不審船の侵入事件などでも、当初、行政は、証拠とされるビデオ映像などを非公開としており、情報を隠していた。\nそして行政だけでなく、本来はそれを監視する立場であるはずのマスメディアですら、取材をラクにしたいなどの理由だろうからか、取材先にあたる機関などの意向にしたがった報道をする事態もたびたび発生している。(上記の口蹄疫の問題がそうであろう。)\nしかも残念なことに、日本国内についての出来事の報道でなく、国際問題などの報道についても、マスコミ各社が取材をラクにするための理由などで、本来なら独裁国家などであると報道しなければならないような外国ほど、マスコミは好意的に報道するという事態も、過去に何度か発生した。\n実例として、21世紀の今では独裁国家だと言われている北朝鮮ですら、昭和の戦後の時代の日本のマスコミ報道では「地上の楽園」であるとして大手のマスメディアなどで報道されていた時代もあった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2B/%E5%86%B7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC"} {"text": "熱帯は降水量が多く、雨により養分が流されたため、アルミニウムと鉄が残るため、赤色の土壌になるが、この熱帯の赤色の土壌をラトソルという。\nラトソルは養分が少ない。アルミニウムの鉱石であるボーキサイトの産地は、このラトソルのある地域に多い。\n熱帯では、突発的に激しい風が吹くスコールという気象現象があり、しばしば強い降水を伴う。\nスコールに伴う降雨で土壌の養分が流されてアルミニウムと鉄が残るため赤色度のラトソルになる。そしてラトソルの地域にボーキサイト産地が多い。\nアメリカ合衆国では、各地に半導体産業がある。てっきり、西海岸の「シリコンバレー」のIT産業地域の近くに半導体産業の地域が多そうと思いがちだが、そうではない。じっさいにはアメリカ各地に半導体産業の地域がある。ただし、北部はすでに鉄鋼業など重工業の開発が進んでいるため、中部や南部に半導体産業の工業地域が多い。もちろん、シリコンバレーの近くにも、半導体工場の多い地域がある。\n潮境(しおさかい)とは暖流と寒流がぶつかりあう場所であるが、地理学的には、潮目が良い漁場であることが重要。なぜ、良い漁場なのかというと、海水がかき回されることで海底に沈んでたプランクトン(水中の微生物)が巻き上げられるのだが、このプランクトンが魚のエサとなるため、魚にとって栄養豊富な場所になり、そのため魚が集まるからである。また、暖流に住む魚と、寒流に住む魚の両方が穫れる。\n1960年代、「緑の革命」(Green Revolution [1][2])とよばれる農産物の品種改良で、農業生産性や収量が向上した。\nこれら「緑の革命」の品種には、化学肥料や豊富な水などが必要だが、そのかわりに収量の高い品種である。\nこの「緑の革命」により、先進国で収量が増えたのはもちろん、東南アジアや南アメリカでも灌漑設備などの普及・発達もあり、生産量が増えた。\n東南アジアでは、米(こめ)を中心に、品種改良が行われた。\n農家にとっては、「緑の革命」の恩恵を受けるには、灌漑のためのポンプや、化学肥料や農薬などの投資が必要なので、それらの投資額をまかなえる富裕な農家には有利だが、いっぽう、その投資をできない小規模で貧しい農家には不利である。このため「緑の革命」は、農家間の格差を広げたとも考えられている。\n日本では製鉄所の多くは、世界からは例外的に海岸沿いに製鉄所が立地している。だが、世界的には製鉄所の立地は、輸送コストを減らすため、鉄鉱石の原産地の近くに製鉄所をつくり、粗鋼などを精錬する場合が多い。鉄鉱石には不純物も含まれており、不純物をわざわざ輸送するのは無駄だからである。\n世界的には鉄鋼業やセメント工業や重化学工業では、原料(鉱石、原油など)の原産地の近くに生産工場が立地しやすい。\nビール工業は、水の輸送の手間を減らすため、消費地のちかくで生産するのが一般的。\n日本では、海に面した工業地帯・工業地域の海岸沿いに製鉄所が多い。これは、鉱石が海外から輸入されてくるので、輸送のコストを減らすために海岸沿いに製鉄所が立地するのである。\n人が住めるところの集合をエクメーネという。\n人が住めないところの集合をアネクメーネという。具体的には、たとえば南極など極地域、あるいは砂漠、あるいは標高の高すぎる高山の山頂付近など。\n穀物の栽培限界と近いが、必ずしも一致するとは限らない。\nまた、低緯度地方では、標高の高い場所のほうが涼しくて住みやすい場合もあるので、低緯度地方では標高が高い場所だからといってもアネクメーネとは限らない。\n地球上のおもな人種は、肌の色などの身体的特徴による分類法により、つぎの3通りに分類される。\nという、3つの人種である。\n居住地ではなく、肌の色などの身体的特徴により分類する。\nなお、おもな居住地をついでに説明すると、\nである。\nじっさいには混血などにより、さらに人種は細かく分類されるが、とりあえず、この3つを覚えよう。\nテストに出やすいのは、\nなお、オーストラリアの先住民のアボリジニなどをオーストラロイドとして、コーカソイド・モンゴロイド・ネグロイドとは独立した人種とする場合もある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E7%B3%BB%E7%B5%B1%E5%9C%B0%E7%90%86"} {"text": "アメリカ・ソ連が朝鮮半島を分割占領。\n2016年現在、朝鮮半島には、大韓民国(通称・韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(通称・北朝鮮またはDPRK)という2つの国がある。\n20世紀初頭は朝鮮国(日清戦争後は大韓帝国)という国だったが、日清戦争・日露戦争後に、朝鮮は日本に併合され(韓国併合)、植民地になった。このとき、日本本土と同様に近代化政策が朝鮮半島でも進められた。\n1945年の日本の敗戦により、名目上は朝鮮民族の独立国として、1948年に韓国と北朝鮮が独立した。しかし、終戦直後からしばらく、韓国はアメリカ合衆国の属国、北朝鮮はソビエト連邦の属国だった。\n韓国と北朝鮮の戦争である朝鮮戦争が1950年に起きたが、現在は停戦中である。北緯38度線をさかいに2つの国に分かれており、38度線の北側が北朝鮮であり、38度線の南側が韓国である。\n1990年に韓国と北朝鮮は同時に国連に加盟した。\n2016年の現在、北朝鮮と日本とは国交が無い。近年、北朝鮮は核実験を成功させ、たびたびミサイル実験を行っている。\n韓国の経済では最近は、工業の発展が目覚ましい。とくに電子機器や半導体など電子機械の分野では、世界的にも競争力が高い。自動車産業や造船業もさかんである。\n韓国の民族衣装では、女性用の民族衣装であるチマ・チョゴリが有名である(センター試験などにも「チマチョゴリ」は出やすいようだ。センター対策の参考書にも紹介されている。ほかにも男性用の民族衣装などもあるのだが、あまり有名でなく、入試に出ないだろう)。\n現在、日本と韓国は国交がある。1965年の日韓基本条約で、国交を回復したのである[1]。\n韓国の経済では、財閥と呼ばれる、ごく少数の大企業が、経済に大きな影響力をもっている。\n1997年のアジア通貨危機では、韓国も大きな打撃を受け、韓国の通貨ウォンは暴落し、韓国は一時的にIMF(国際通貨基金)に経済をゆだねることになった。\nその後、韓国経済は回復し、今日の繁栄に至る。\n教育については、韓国はかなりの学歴社会であり、近年では大学など高等教育機関への進学率がほぼ80%を超えて世界最高の水準である。なお、大学の学費は、韓国では有料である。\n韓国は国土面積が小さいわりに、人口が4800万人と多いので、人口密度が高い。しかも、首都ソウルに人口が集中してるので、ソウルが過密である。このため、韓国は日本と同様に食料自給率も低く、韓国の食料自給率は約50%である(なお日本の食料自給率は約40%である)。\n朝鮮半島の国土は、安定陸塊であり、地震がほとんど無い。\n韓国の南部の沿岸は、リアス式海岸になっている。\n韓国の気候は、夏は韓国も太平洋の気団の影響を受けて暑くなるが、冬にはシベリア気団の影響で寒くなる。そのため、同緯度の日本や中国の各都市と比べて、韓国は1年の温度差が大きい。\n「オンドル」という、伝統的な床暖房のためのカマドがあるのも、そもそも韓国の冬が寒いからである。\n韓国の文字をハングルという。漢字ではなくハングルが、韓国では国語の文字として用いられている。\nハングルは15世紀に朝鮮王朝が制定した表意文字である。15世紀の当時は、支配層は漢字を用いていたが、平民は識字率が低く、そのため平民にハングルを普及させて識字率を高めようとしたのである。\n近現代になってハングルが普及する前は、韓国の政府などでは漢字を多く用いていたので、漢字に由来する言葉が韓国にも多い。\n現在の韓国では、民族固有の文字を重視する政策のため、漢字は日常語としては用いられていない。\n儒教の影響が強い。そのため、父親の権力が強い・女性は結婚しても女性の父方の姓を名乗るなど、儒教による制度の名残が今も残っている。\nまた、韓国ではアジアの中ではキリスト教徒が多い国の一つで、全人口の30%ちかくはキリスト教徒とされる。\n1960年代までは、韓国は農業国、または繊維産業などの軽工業の国だった。\n1960年代後半からは工業化が進んでいき、1970年代に鉄鋼や造船や石油化学など重工業も発達し、「漢江の奇跡」と言われた。「漢江」(ハンガン)とは、ソウル市内を流れる川の名前。\n工業団地が、首都ソウルを中心につくられた。ソウルでは、機械工業が盛んである。また外港のインチョン(仁川)で、造船が盛んである。なお、インチョンには国際空港もある。\nまた、日本海側の沿岸部のウルサンやポハンで、工業団地が作られ、その工業団地で工業が発達した。ポハンは鉄鋼、ウルハンは鉄鋼および石油化学である。資源を輸入するのに、臨海部のほうが有利だからである。このように、ポハンとウルサンが、臨海型の工業地域を形成している。\nまた、このような発展により、アジアNIESと呼ばれる新興国として1970年代ごろから国際的に認知されていった[1]。\n1990年代ごろから、韓国では電子機械工業や自動車工業が発達した。\n1996年に、韓国は、おもに先進国からなるOECD(経済協力開発機構)に加盟した。\n一方、韓国に進出していた外国企業が、韓国の賃金の上昇により、韓国から撤退していき、外国企業は中国や東南アジアなどに工場を移していった。\nまた、都市を中心に工業化が進んだことから、韓国では都市と農村との経済格差が出て来た。農村から、多くの労働者が、仕事を求めるなどの理由で、都市に流入していった。2016年の現在、総人口の約5分の1にあたる1000万人以上がソウルに居住している。\n韓国ではインターネットやブロードバンドの普及率が高い。\n2011年2月に韓国は、アメリカ合衆国とのFTA(自由貿易協定)に調印。\n近年では、プサン(釜山)が韓国最大の貿易港であり、世界的にも規模の大きい貿易港である。\n1970年代から、韓国では、農村の所得の低さを解消する目的のために、農地の整備などを掲げたセマウル運動が行われ、灌漑の導入、農業機械の導入などが行われ、韓国農業は生産性が向上した。\n韓国は輸出を基盤とした経済のため、農産物の貿易については、米以外の農産物の輸入を自由化しており、そのため中国産の低価格の野菜との競走では、韓国の野菜農家は不利である。\n1980年代まで、韓国は、日本文化の流入を規制してきた。しかし、1990年ごろから、日本の文化の流入を開放した。\n2002年には、日韓共催サッカーワールドカップが開かれ、両国の関心をあつめた。\nまた、2000〜2005年頃、韓国製ドラマが、「韓流ドラマ」として、日本の放送局などでも取り上げられ、日本のテレビ視聴者層で話題になった。\nこれにはアジア通貨危機の際に、国家的経済危機に陥った韓国が経済回復のために、IT・コンテンツ産業を振興させたという背景がある。そのため韓国のインターネット普及率は日本のそれ以上である。\nまた2010年ごろに日本で第一次K-POPブームが巻き起こったのには韓国国内で違法ダウンロードなどが増え国内の市場が縮小したことが要因の1つになっている。\n首都はピョンヤン。\n政治は社会主義であり、金日成とその子孫による独裁政治がつづいている。\n国名は、朝鮮民主主義人民共和国。\n北朝鮮は、ソ連や中国を手本とした計画経済の国であった。しかし、指導者が、農業など産業の知識が乏しいのに口出しをするという(たとえば、農地を広めるために山の森林を大量伐採して、洪水を引き起こすなど)ずさんな経済政策や、軍事費の過大な負担などのため、飢饉や洪水などが、たびたび発生した。\n資源が比較的多く、戦前・戦中に日本企業の導入した工場設備なども比較的に多かったこともあり、北朝鮮では重工業化が戦後の早くから進んだ。しかし、経済政策の失敗から、1970年代以降の経済力・工業力は韓国に追い抜かれている。\n外交問題として、日本とは国交がない。そして、北朝鮮の工作員に日本人がさらわれたという、拉致問題がある。2002年に、日朝ピョンヤン宣言で、北朝鮮は拉致問題をみとめた。しかし、その後はほとんど進展がない。\nなお、北朝鮮は核開発をしているので、アメリカを中心とした多くの国から経済制裁を受けている。核兵器を持っていることが公式に認められている国は、アメリカ・ロシア・中華人民共和国・フランス・イギリス・インド・パキスタンである。北朝鮮は、この核兵器開発をみとめない諸国の姿勢を、アメリカ中心の姿勢だとして批判している。\n中国西部は、山脈や高原などの高地である。\nいっぽう、中国東部は平原などの低地である。\n人口は、東部に集中している。\n黄河(こうが)の中流の周囲に、黄土と呼ばれる黄色〜茶褐色の砂の平原がある。黄土は英語で「レス」という。\n黄河と長江のあいだあたりに、ホワイ川がある。このホワイ川は、1月の平均気温0℃と年間降水量1000mあたりの線に近く、地理学では大切であるので、チンリン=ホワイ線という。チンリンとは、チンリン山脈のこと。\nつまり、農業では、チンリン=ホワイ線よりも北が小麦などの畑作地帯である。チンリン=ホワイ線よりも南側が稲作地帯である。\n中国(中華人民共和国)は、人口が約13億人であり、世界でもっとも人口が多く、世界の人口の約5分の1をしめている。\n第二次大戦が終わると、国民党と共産党との内戦が起きた。そして、毛沢東ひきいる共産党が勝利した。国民党は、台湾に逃げのびた。\nこうして、中国は、毛沢東ひきいる共産党の主導のもと、1948年に中華人民共和国として建国され、社会主義の国となった。そして、中華人民共和国の建国の初期に、多くの企業が国有化された。\nそして、1958年から大躍進政策とよばれる農業・工業の大増産を行うが、中国の実情を無視した計画により、逆に飢饉が発生するなどして大失敗に終わる。さらに、1966年から毛沢東が死去する1976年まで文化大革命が行われ、中国の政治・経済はさらに混乱した。その後、アメリカ・日本などと国交を回復するとともに、経済面においては改革開放路線を敷き、自由主義経済を取り入れたことにより、急速な経済発展を遂げつつある。\n中国は、1組の夫婦の子供の数は1人だけとする 一人っ子政策 を1979年から行っている。ただし少数民族は、一人っ子政策の適用外である。おもに、漢民族が、一人っ子政策の対象である。\nこのため、現在、人口の増加は抑えられている。かわりに、高齢者の割合がふえる高齢化が予測されており、心配されている。(いっぽう、インドも人口が10億をこえるが、インドでは人口の増加が予測されている。将来的にインドの人口が中国の人口を抜く可能性が予測されている。)\nしかし、法律に逆らって、2人目の子どもを産んで、出生届を出さない事態も起きている。出世届けが出されないため、その子には戸籍がない。このように戸籍を持たない子どもは、「闇っ子」のような意味でヘイハイズ(黒孩子)と呼ばれる。都市よりも農村で、無戸籍の闇っ子が多く見られる。\nまた、中国人は、あと継ぎや労働力として男子が欲しいようで、女の子が産まれても処分するようであり、そのため人口比が男に片寄り始めている。\nそういった弊害もあって、一人っ子政策の見直しがされている。両親とも一人っ子の場合には第二子が認められたり、また、第一子が女子の場合には第二子が認められる場合もある。\n中国の人口のうち、9割の民族は漢民族(かんみんぞく)である。漢民族は、おもに中国東部に住んでいる。\nある国で、多数派でない民族は、少数民族という。中国は50以上の少数民族を持つ多民族国家である。おもな民族は、漢民族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、ミャオ(苗)族、朝鮮族、ホイ(回)族、チョワン(壮)族、などである。\n中国は第2次世界大戦のあとにチベットとウイグル地方を侵略し併合したので、チベット人とウイグル人は、中国の少数民族になっており、チベット民族やウイグル民族として扱われている。\n中国政府は、少数民族の自治区をもうけており、チベット自治区などをもうけており、伝統文化などを保護しているが、少数民族の中国からの独立などは認めていない。そのため、中国の支配に対する抵抗運動などがチベットやウイグルなどで、たびたび起きている。こうした独立運動に対して中国政府が厳しい弾圧を加えていること、漢民族との政治的・経済的格差が生まれていることから、人権問題として批判されることが多い。\nチベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世(14th Dalai Lama)は、1959年にインドに亡命した。\n政治制度に関しては、社会主義であり、民主主義では無い。共産党が政治の決定権をにぎっており、事実上は、中国共産党による独裁政治の国である。たとえば政治指導者は、中国共産党内部で決定され、国民からの直接の選挙では選ばれていない。1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。この天安門での抗議運動に関する事件を天安門事件と言う。\n中国は農業の大国である。中国のおもな農産物は、米、トウモロコシ、小麦である。\n農業は、華南(「かなん」、意味:中国の南部のこと)や華中(かちゅう、意味:北部と南部のあいだ)では、雨が多いため、米の生産が多い。また、これら南部では、茶の生産も盛んである。\nつまり、中国の南部では、米と茶の生産が盛んである。\n東南アジアに近いハイナン(海南)島のあたりでは、年に2回、米を作る二期作も行われる。\n華北(「かほく」、意味:中国の東北部)では、雨が少ないため、小麦・大豆などの畑作が多く、また、コウリャンという雑穀の一種を生産している。なお、近年では、日本などから寒さに強い品種改良された稲を導入するなどして、中国北部でも米の生産もするようになった。\n西部は、乾燥しており、あまり農業にはむかず、遊牧などの牧畜が中心である。\n中国は、小麦の生産量が世界1位である。(2位インド、3位アメリカ。)\n中国北部やインド内陸部などの乾燥地帯の農業では、小麦など乾燥に強い作物の畑作がさかん。\n2000年頃から、中国人の食生活の変化により、肉類の需要が増えたため、飼料用作物としてトウモロコシや大豆の消費が増えた。\nこのため、アメリカなどからのトウモロコシや大豆の輸入が増え、中国は近年(2016年に記述)では大豆の輸入国に転じている。\n農産物の品質管理能力が低い企業も多いようで、2000年ごろから中国産の農産物に有害な物質が混ざるなどして、消費者に健康被害が出る問題が発生・発覚している。\n中華料理の地域料理は農作物の分布に対応している。南部では稲作が有利なため、ビーフンなどの米を使った地域料理が多い。いっぽう北部の地域料理には、小麦を使ったものが多い。こうした農作物の分布の違いに加えて、文化や風土の差異から様々な料理が生まれた。日本では北京・上海・広東・四川料理が知られる。\n北京料理は、北京が明・清時代に首都であったことから北京ダックなどのように宮廷料理をルーツとしているものがある。また、畑作や牧畜が中心のため、米よりも小麦を使ったものが多く、魚よりも肉がよく使われる。日本でなじみ深い麺類(ラーメン)や餃子や饅頭などが、北部の地域料理である。\n上海料理は、現在の上海の地域が中国の穀倉地帯であったこと、長江流域に属することから米と豊かな魚介類を使った料理がメインである。日本では小籠包や上海ガニがよく知られている。\n広東料理は、広東省一帯が古くから貿易で盛んだったことから様々な食材が使われてきた。くわえて、海に面しているため、魚介類を中心とした素材のうま味を生かした薄味の料理が多い。日本では飲茶やふかひれスープなどがよく知られる。\n四川料理は、四川省一帯の料理である。長江流域の内陸のため、湿度は一年中高いが、気温は夏冬の差が激しい。そのため、体調をととのえるとされる香辛料をふんだんに使った料理が多い。食材には肉や川魚がよく使われる。日本でよく知られているのは麻婆豆腐や担々麺である。また、茶の原産地であり、茶を飲む習慣もここから始まった。\nなお、少数民族の自治区では、その民族独時の文化や風土にねざした料理もある。\n(※ 中国の地域料理の出題が、入試に出やすい。地域料理の分布の傾向には例外もあるだろうが、そのような瑣末な例外的知識は一般の高校生には不要なので、そういう瑣末な知識を問う大学は、相手にしないほうが良いだろう。)\n工業は、人件費の安さを利用している。そのため、世界の多くの国に中国の製品が輸出されており、中国は「世界の工場」とも言われている。\n南部の沿岸部の地域などに経済特区が多く、そのため工業地帯も南部の沿岸部に多い。南部の香港(ホンコン)の近くにあるシェンチェン(しんせん、深圳)市が経済特区であり、シェンチェンなどを中心に工業が発展している。\n南部とは別にも、中国東北部には第2次大戦の前から日本の旧・満州国への投資などで発達していた工業地帯があり、戦後も東北部の工業地帯が重工業の地帯になっている。(※ 検定教科書にも、旧・満州国の設備が、第二次大戦後の中国での重工業に役だったということが普通に書いてある。)\n東北部では、アンシャンに鉄山があり鉄鉱石の産地であることもあり、第二次大戦後には東北部で重化学工業が発達した。\nなお、華中のウーハン(武漢、ぶかん)にも鉄鋼コンビナートがある。\n第二次大戦後、アンシャン、パオトウ、ウーハンで、工業化が進められた。\nなお、東北部のターチン油田で、石油が産出する。\nそのほか、鉱産資源としてレアメタルがレアアースの産地が中国になる。\n第2次大戦後、中国の経済は、市場経済を禁止して、政府が経済を管理する、計画経済の経済政策を取った。\nまた、農村の集団化のため、人民公社(じんみんこうしゃ)を設立した。\nしかし、計画経済がうまくいかず、中国は経済発展が遅れた。1980年ごろから、経済のおくれを取り戻すため、鄧小平(とう しょうへい)の指導により、市場経済を部分的に取り入れていく改革・開放政策に転じ、また、経済特区 をシェンチェン(しんせん、深圳)市やアモイ(廈門)市など一部の地域に導入した。また、この頃、人民公社を廃止・解体した。\n(なお現在、経済特区に指定されている都市は、アモイ、スワトウ、シンチェン(しんせん、深圳)、チューハイ、ハイナン島であり、いずれも華南の沿岸部。)\n農村でも、自治体が企業として生産活動をする郷鎮企業(ごうちん きぎょう)が設立された。\nまた、生産請負性が導入された。生産請負性とは、国に一定量の請け負い分の農作物を納めたら、それ以上の農作物は自由に販売してもいいという制度である。\n2001年には、中国はWTO(世界貿易機関)に加盟した。近年の中国は貿易黒字であり、その結果、外貨準備高は世界最大である。\n欧米や日本などの工場も、人件費の安さや、人口の多さによる消費者の多さを当てにして、おそくとも2000年ころからは、多くの外国企業の工場などが中国各地に進出した。ただし、すでに1970年代から、中国の経済特区には外国企業が進出していた。\n2000年代の頃の中国の工場では、液晶テレビ・エアコン・冷蔵庫なども生産できるようになった。そのため、中国は、テレビ・エアコン・冷蔵庫など家電の一大生産国になった。\nこうして2000年〜2010年代、中国は、経済の規模がアメリカや日本につぐ経済大国になり、中国のGDP(国内総生産)も世界2位になった。(なお、GDP世界1位はアメリカ合衆国。GDP世界3位は日本。)\n2010年の時点では、中国のGDPは世界2位であり、2015年までは中国がGDP世界2位のままである。(なお、日本のGDPは、2010年〜2015年では世界3位である。)\nGDPは、所得の水準ではない。所得の水準では、中国は、日本やアメリカと比べ、所得が低い。\n仮に、日本やアメリカが平均的に高所得の国だとしたら、中国は中所得の国だろうし、インドやベトナムは低所得だろう。\nつまり、中国経済は、中所得の国ではあるが、人口が多いため、GDPが世界2位である。\n中国は、BRICs(ブリックス)のうちの一国として、各国の投資家などが経済発展を期待している。BRICsとはブラジル(Brazil)、ロシア(\n(Russia)、インド(India )、中国(China) のこと[1]。 BRICsは国土と人口と資源の多いから、経済発展するだろうと期待された4国のことである。\nしかし、近年では、中国でも人件費が上昇しつつあり、外国企業は、より人件費の安いベトナムなどの東南アジア諸国に工場を移している。\nなお、中国に進出する外国企業については、地元中国と共同で設立された合弁企業とする中国政府の決めた法律などがあるので、中国進出した外国企業の工場・会社などは合弁企業である。\n中国では、貧富の格差もとても大きい。\nとくに、内陸部の農村部は貧しい。そのため、農村部から出稼ぎなどで、沿岸部などの都市部に働きに出る。農村部から出稼ぎに来る人たちを 「農民工」(のうみんこう)あるいは「民工」(みんこう)と言う[1]。\nまた、中国では、農村から都市へ人口が流入している。このような、中国での農村から都市部への人工流入の現象を民工潮(みんこうちょう)という。\n中国の経済は、その貧富の格差によって、人件費を低くおさえているという面もある。\n中国では、戸籍の変更が困難であり、原則的に農村で生まれたら、農村の戸籍のままである。\nしたがって出稼ぎ労働者は、戸籍は農村戸籍のまま、都市に出稼ぎにきている人が多い。農村出身者は、たとえ都市に住居を構えても、戸籍は農村戸籍のままである。\n中国の法律・制度などによる出稼ぎのありかたでは、都市に住居が確保されてる場合などにかぎり、都市に出稼ぎしてよいのであるが、じっさいには都市に住居を確保しないまま違法に出稼ぎしている場合も多い。\n2008年には北京オリンピックが開催された。2010年には、上海国際博覧会(上海万博)が開かれた。\nインターネットや携帯電話やテレビなどは、都市部を中心に普及している。しかし検閲などの言論統制が厳しく、インターネットやテレビや雑誌などでの自由な議論などは出来ない。\n中国人は、中国の本国とは別の場所にも多く移住している。世界中のいろんな国に中国人は移住しており、それら外国にいる中国人を華人(華僑)という。特に東南アジアやアメリカに多い。\n2000年頃から、「西部大開発」として、開発の遅れていた内陸部や西部の開発が進んでいる。理由は、主に経済格差を解消するためや、あるいは、すでに沿岸部の開発が進んで沿岸部は開発の余地が減ったこと等だろう。\n西部大開発により、道路や鉄道の基盤が整備され、ガスや電気が整備されている。\n重慶(じゅうけい、チョンチン)やチベットなどが、開発されている。\n2009年に、内陸部の湖北(こほく、フーペイ)省で、長江(ちょうこう、揚子江(ようすこう)とも言う。)ぞいに、サンシヤ(三峡、さんきょう)ダムが完成した。ダムの建設により、長江の水の流れがせき止められるので、生態系への影響が各国の環境保護団体により心配されている。\n鉄道の建設も、各地で進んでいる。西部のチベット自治区では、青蔵(せいぞう)鉄道が2006年に開通した。\n工業地帯や都市を中心に、大気汚染が深刻である。理由は主に、燃料の石炭などが大量に燃やされているため。\n大気の汚染にともない、酸性雨の被害も発生している。\n耕地を広げたり、工業地域や商業地域の開発などのための無理な森林開拓により、森林破壊も起きている。\n工場などから出る排水などによる、水質汚染も各地で深刻である。川の魚が大量に死んだりする事例も多く発生している。\n中国の国民1人あたりのエネルギー消費量は世界の平均と比べて低く、経済発展によるエネルギー消費量の上昇にともない、これから、まだまだ環境破壊が進むおそれもある。\n中国は周辺国との領土をめぐる争いが多い。東南アジア諸国と中国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと争っている。ブータンとは国境問題がある。さらにインド、パキスタンとはカシミールをめぐる領土問題がある。\n日本とは、尖閣諸島をめぐる争いが起きている。日本の固有の領土であるが、中国も領有権を主張している。2010年には、中国の漁船が日本の海上保安庁の漁船に衝突する事件が起きるなど、小規模なトラブルが多く発生している。\n韓国・北朝鮮とも白頭山(中国名:長白山)や黄海上の島々の領有をめぐる領土問題がある。\nホンコン(香港)は、1997年にイギリスから中国に返還された。一国二制度によって、例外的にホンコンでは資本主義制度をはじめとしたイギリス領時代の制度が認められている。\n第二次大戦後は軽工業や機械工業が盛んだったが、近年ではホンコンは金融の中心地にもなっている。\nマカオはポルトガルから1999年に返還された。マカオもホンコンと同じように一国二制度の対象となっている地域である。こちらは伝統的にカジノで有名な島である。\n中国には、中国大陸を中心とした政府を持つ『中華人民共和国』と、もうひとつ、台湾に『中華民国』という政府がある。\n(※ この記事では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。)\n日本とは、1978年にむすばれた日中平和友好条約によって、中華人民共和国と国交があるが、その時から日本政府は台湾と断交している。民間レベルでの日本と台湾の経済交流はつづいている。\n台湾の政治は民主主義であり、普通選挙が行われている。親日的である。\n台湾を中心とした政権である。首都は台北。工業国である。\n台湾は南方にあることもあって、農業では稲作が多い。\n台湾の工業では、コンピュータ部品などの産業が、さかんである。大陸側の人件費の安い労働力などを利用するため、台湾の企業が大陸側に工場をもうけたりしている。\n1970年代ごろは、アジアNIESのひとつとして、韓国とともに台湾は数えられていた。\n第二次大戦の前や戦中では、中国は中華民国という国であり、国民党という政党が支配をしていて、蒋介石という人物が国の支配者だった。しかし第二次大戦後、ソビエト連邦の支援を受けた中国共産党が、国民党と戦闘し、中国は内戦になった。そして共産党が勝利して、中国は、1949年に 中華人民共和国という国になった。 共産党の支配者は毛沢東という人物で、毛沢東が中国大陸の支配者になった。\nいっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾にのがれた。\nこのため、台湾は中華民国になった。このころから、中国は「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。\nしかし、日本をふくめ世界の多くの国は、台湾は中国の一部という立場にたっている。また、現在の国際連合では、中華人民共和国を中国の代表として認めており、台湾は国連に加盟できない。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2"} {"text": "マレーシアの民族は、大きく分けると、マレー系、インド系、中国系の3つに分けられ、このほか山岳などに少数民族がいる。マレー系住民が国民の6割、中国系住民が国民の3割、インド系住民が国民の1割である。\n東南アジアの中国系移民は、移民1世ではなく何代も前から現地に住んでいる。そのため、最近では「仮住まいの中国系移民」という意味を含む華僑ではなく華人という。\nマレーシア語の公用語はマレー語だが、中国系住民は中国語を日常的に話し、インド系住民はタミル語を日常的に話す。\n宗教は、マレー系住民はイスラム教を信仰。中国系住民は仏教を信仰。インド系住民はヒンドゥー教を信仰。\nマレーシアは植民地時代は、イギリスによって支配されていた。植民地時代の影響もあり、マレーシアでは先住民のマレー系住民よりも、華人の経済的な影響力が大きい。そこで、格差を是正するための政策として、マレーシアでは雇用や公立大学入学などでマレー系住民を優遇するブミプトラ政策[1]が取られている。\n中国系住民は都市に多く住んでおり、いっぽうマレー系住民は農村に住んでいる。マレーシアの中国系やインド系住民は、イギリスによる植民地時代に連れてこられた人などの子孫である。\nイギリス植民地時代のマレーシアは、天然ゴムの主要な産地だった。天然ゴムは植物のゴムノキの樹液から作る。この天然ゴムのプランテーションが、マレーシアの一帯に多くあった。\n第二次大戦後、合成ゴムが世界的に普及していくと、天然ゴムが売れなくなってきた。そのため、油やし の栽培へと転換した。油やしからはパーム油という油がとれ、食用油や洗剤などの原料になっている。その結果、マレーシアでの天然ゴムの生産量は減っていき、今ではタイとインドネシアが天然ゴムの主要な生産国である。\nまた、マレーシアの森林からは、合板などになるラワン材が得られる。\n工業では1980年代、マハティール首相がルックイースト政策を打ち出し、西洋ではなく、日本や韓国・台湾などアジアの工業国を見習って工業化を目指す政策を掲げ、また日本など先進工業国からの工場を誘致した。そのため、マレーシアで工場が増えていき、現在では、マレーシアは、タイとならぶ東南アジアの工業国である。\n日系家電メーカーの工場が1980年代からマレーシアに進出したため、マレーシアの工業では現在、電気機械工業などが発達している。\nシンガポールの国土はシンガポール島とその周辺の小島からなる。もとはマレーシアの一部であり、第二次大戦後にマレーシアの一部としてイギリスから独立したが、中国系住民がマレーシアでのマレー系住民の優遇策に反発して、1965年にマレーシアから分離独立した国である。\nシンガポールでは人口の80%ちかくが中国系である。\n(※ 歴史総合の範囲:)シンガポールの第一公用語は英語です。民族数では中国系が最多ですが、しかし中国語はマレー語などと同様に第二外国語どまりです。\n英語が第一外国語になったのは、建国時の政策による面もあります。シンガポールはマレー系や中国系やタミール系など多民族の国家ですが、しかし民族間の紛争を防ぐため、どの民族の言語でもない外国語である英語を公用語にした経緯があります。また英語はビジネスや科学技術の世界での国際公用語です。このような理念は、シンガポール建国の政治家リー・クアンユーが述べています(「リー・クアンユー回顧録」などで確認できる)。※ 清水書院の「歴史総合」教科書に記載あり。\nシンガポールは積極的に外国資本を導入したため経済発展しており、かつてNIES(ニーズ、新興工業経済地域)のひとつになっていた。なおNIESは韓国、シンガポール、香港、台湾の4地域。現在では他の地域も発展してきたため、「NIES」という呼び方の重要性は下がっている。\nシンガポールでは電子工業が現在では発達している。独立後に早くから輸出志向型の経済政策を行い、加工貿易によって経済力を高めた。ジュロン工業地区が輸出加工区に指定されている。\nマラッカ海峡の近くに位置するため、古くは中継貿易もシンガポールは行っていた。\nシンガポールでは金融も発達している。東南アジアでは早くから経済発展していることや、英語が公用語なことなどが、金融の発達した理由と考えられている。現在では東南アジアに進出する企業によってシンガポールの金融が利用されており、シンガポールが世界の金融センターのひとつにもなっている。\n国民一人あたりの所得は世界の中でも高い。 \nインドネシアはスマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島などからなる多島国である。\n人口が約2.6億人であり、人口が世界4位の規模である。\n人口のほとんどがジャワ島に集中している。インドネシアの首都であるジャカルタはジャワ島にある。\n宗教はイスラム教が信仰されている。\n第二次大戦前は、オランダの植民地にさせられていた。\nインドネシアは、カリマンタン島などに原油や天然ガスの産地がある。\nインドネシアには熱帯雨林がある。第二次大戦後のインドネシアはかつて日本に木材を輸出していたが、自国(インドネシア)の産業保護のため、1980年代に丸太の輸出を禁止した。合板など木材に加工すれば輸出が可能である。インドネシアの森林からは、家具材などになるチーク材が得られる。\nマレーシアやタイが日本などの外国資本を積極的に導入したのに対して、インドネシアは当初は外国資本には厳しかった。また、インドネシア国内の政治情勢の混乱などの問題などもあり、インドネシアは工業化が遅れ、経済発展が遅れた。\nだが、現在ではインドネシアも工業国になっている。\n公用語は、マレー語を母体としたインドネシア語である。\n民族や地域によって格差が大きい。\n16世紀にスペインの植民地になった。そのため宗教ではカトリック教徒がフィリピンでは多い。\nただし南部のミンダナオ島には、イスラム教徒であるモロ族が多く、そのためミンダナオ島で武力衝突や反政府運動がある。\nスペインの支配が300年間つづき、その後はアメリカ合衆国の領土になり、第二次大戦中の一時期は日本に占領され、戦後は独立した。\nフィリピンの公用語は、英語と、タガログ語を母体としたマレー系のフィリピノ語。\n農業ではバナナの栽培が盛ん。日本のバナナ輸入元の外国は、フィリピンが1位。フィリピンから見ても、バナナの輸出先国の大部分は日本である。\nこのフィリピンのバナナ産業には日本企業やアメリカ企業などの多国籍企業が携わってる。アメリカ企業は、けっしてアメリカ向けのバナナ輸出ではなく、アメリカのバナナ企業は日本向けにバナナ輸出をしてるわけである。\nフィリピンの首都はマニラ。マニラはルソン島にある。\n貧富の格差がとても大きく、そのためスラムがマニラなどの都市で見られる。\n「スラム」とは、貧しい人などが、かってに路上などに住んだり、河川敷などの公共用地に勝手に住んだりして形成された、不法占拠の住宅街のこと。\nフィリピンは統計上では、製造業が盛んであり、日本への輸出の貿易総額に占める割合では、統計上では製造業がフィリピンの最大産業となっている( あくまで、統計上では。)。\n2010年以降の近年、フィリピンの日本への輸出のうち、輸出総額のうち多くの割合をしめるのは製造業であり、40%ほどが製造業である(※ 2017年センター試験に出題)。\n※ フィリピンでは、タイやインドネシアほど製造業が盛んでないイメージがあるが、なぜかフィリピンで製造業の占める金額が高いのは、下記の理由(ネット調べ)。\n第二次大戦前はフィリピンはアメリカ合衆国の植民地だったこともあり、そのため冷戦中には、アメリカの大企業の工場がフィリピンに進出していた時代もあった。\nまた、1980〜90年代に日本企業の大手電気メーカの工場がフィリピンに進出しはじめた。このため、フィリピンでは、相対的に機械部品の金額の割合が高くなっている。これが、フィリピンで事実上は製造業が最大産業になっている原因のようだ。\n(しかし、フィリピンは、このような日米からの投資にめぐまれた環境にあったにもかかわらず、「フィリピンは貧富の差が大きい」と言われ、「国民の多くは貧しい」と言われ、「治安も悪い」と言われる。どうやら、海外企業の工場を誘致するだけでは、一部の投資家や大企業だけが豊かになっても、国民の多くは豊かにならないようだ。)\n※ また、一般に電気機械工業は、組立てなどの工程で、(あまり熟練を必要としないが)多数の人間の手作業が必要になる場合もある。なので、電気機械工業そのものは高度な技術を必要とするにもかかわらず、人件費などの費用を安く抑えるために、発展途上国のような貧しい国に、欧米日の電気機械工業の大手メーカーの工場が進出する場合も多い。\n第二次大戦前はフランスの植民地だった。第二次大戦後に独立したが北ベトナムと南ベトナムに別れて、1960年代には南北のベトナムが戦争をした(ベトナム戦争)。\n北ベトナムは社会主義であり、ソビエト連邦の支援を受けた。いっぽう南ベトナムはアメリカ合衆国の支援を受けた。\nベトナム戦争では最終的に北ベトナムが勝ち、こうしてベトナムは社会主義国となった。\nしかし経済的には、社会主義の計画経済が、しだいにソビエト連邦・中国など世界各国の社会主義国で失敗して財政が苦しくなっていき、ソビエト連邦や中国などの工業化も遅れていき、だんだんと社会主義の欠陥が明らかになった。\nベトナムでも計画経済が失敗したため、ベトナムは1986年からは経済政策を改め、政治の統制という意味では社会主義を残しつつ、経済では市場原理を取り入れる「ドイモイ」という政策(いわゆる「ドイモイ政策」)をベトナムは実施した。「ドイモイ」とは「刷新」(さっしん)という意味である。\nやがて冷戦が終わり、1995年にはアメリカとの国交が回復し、ASEANにも1995年に加盟した。」\n現在では、ベトナム経済は、発展が遅れたこともありベトナムの労働者は低賃金であるが、しかし、ベトナム企業はそれを逆手にとり、人件費の安さによって、輸出用の衣類や繊維などを生産する産業が盛んである。\nまた農業では、ドイモイ政策後、輸出用として米(こめ)やコーヒーの生産が盛んになり、現在ではベトナム農業では、米とコーヒー豆が、世界でも有数の輸出国となっている。\nベトナムは、コーヒー豆の生産量が世界2位。\n(2017年度センター地理B追試験の統計によると、2012年次統計として、コーヒー豆の世界での生産量順位と割合は) \n(「FAOSTATにより作成」とのこと) \nコーヒー生産量の2位と3位が、なんと東南アジアである。東南アジアがいつのまにか、コーヒー豆の一大産地になっている。\nさて、近年、油田がベトナムの近海で開発されている。\nタイの工業は、現在では、工業がそこそこ発達している。日本の自動車メーカーの工場も進出しており、自動車部品なども生産している。\nタイで信仰されている仏教は上座部仏教である。\n首都はバンコク。\n第二次大戦前は、緩衝国(かんしょうこく)だった。イギリス領とフランス領が接触しないようにするための緩衝国である。\nこのため、タイでは王制が残っており、現在でも国王がいる。\n治安は比較的良い国である。\n都市地域と地方地域によって国民の所得格差はかなり大きい。\n(※ タイは民主政治を原則としているが、ときどきクーデタが起きる。)2014年、軍隊によるクーデタが起きたが、2019年に民政に復帰した。(※ 第一学習社『政治経済』の教科書に書いてある。)\nタイでは仏教が盛んである。タイの仏教は上座部仏教という宗派である。また、ミャンマー、ラオス、カンボジアも上座部仏教である。\nベトナムでは、大乗仏教が信仰されている。\nインドネシアではイスラム教が信仰されている。ただしインドネシアのバリ島ではヒンドゥー教が信仰されている\nフィリピンではキリスト教のカトリックが信仰されている。\n1980年代以降、タイやマレーシアは、シンガポールの輸出志向型の工業化の成功にも見習い、輸出で儲けるため、タイやマレーシアも各地に輸出加工区を設置した。\nカンボジア、ラオス、ミャンマーは、過去の政治の混乱などのために、工業化が遅れている。\n多雨な地域で、天然ゴム・油ヤシが生産されている。\n天然ゴムの生産量では、現在では、インドネシアとタイが天然ゴムの主な生産国である。\n油ヤシの生産量では、マレーシアとインドネシアが油ヤシの主な生産国である。\n米の生産量ではインドネシアが東南アジアでは第1位だが、そのほとんどは国内消費用であり、輸出用ではない。米の輸出量ではタイが世界1位である。\nなお、中国は米の生産量が世界1位、インドが米の生産量の世界2位である。\n日本向けの えび の養殖が東南アジアでは盛ん。\nインドネシア、タイ、ベトナムなどが、日本などへの輸出に向けての えび の養殖をしている。\nえびの養殖場を沿岸部につくるさい、マングローブ林が伐採されるので、自然保護の観点からは問題視もされてる。\n雨が多いため、稲作も各地で行われている。\nインドネシアのジャワ島や、フィリピンのルソン島などでは、平地が少なく丘陵地が多いため棚田(たなだ)によって米(こめ)が作られている。\nその国の産業が、たとえば農業だけに依存してて、プランテーションで特定の農産物ばかり作らされるなど、ほぼひとつの産業に依存してる状態をモノカルチャーという。\nたとえばマレーシアは、イギリスの植民地時代のかつて、天然ゴムのモノカルチャーだった。\nアフリカや東南アジアや南アメリカなど、かつてヨーロッパに植民地にされたり支配されたりしていた場所では、宗主国の貿易の都合のため、植民地にされた国では、輸出用に特定の産物だけを生産するようにさせられていた。そのため、アフリカや東南アジアなど、それらの国の産業は、植民地時代からモノカルチャーだった。\n第二次大戦後の独立後も、いきなりは工業化できないし、農園もいきなりは他の作物には転換できないので、独立したばかりの多くの国でモノカルチャーだった。\nモノカルチャーでは輸出用の農産物や原料ばかりを作らされた。いっぽう、穀物や、その国の一般人が生活で必要とする日常品は、あまり作らせなかったので、その国の一般大衆の生活は豊かにならなかった。\nたとえば、天然ゴムは、食べられないことに注目しよう。\nインドの植民地時代では、綿花や茶を大量に栽培させられていたが、綿花も食べられない。茶は食べられるが、あまり空腹を満たせない事に注目しよう。\n東南アジア以外でも、アフリカでもエチオピアでコーヒー豆を大量に栽培させられるのも、やはり、空腹を満たせない。\nこのように植民地の農業では、いわゆる「商品作物」「換金作物」ばかりをプランテーション(大農園)で栽培させられたのである。\nだが東南アジア各国では現在、モノカルチャーからの脱却に成功している。また、モノカルチャー時代の農産物も、現在では主要な農産物として活用している国も多い。\n1997年に東南アジアなどの通貨が暴落するアジア通貨危機が起き、深刻な経済危機におちいった。このアジア通貨危機は、タイの通貨バーツが下落したのがキッカケである。\nしかし、これを先進各国の貿易企業は逆手にとり(欧米だけでなく日本もふくむ)、通貨の安さにもとづく賃金の安さを見こんで、先進国の企業がどんどん東南アジアに進出した。\nベトナム戦争が起きると、インドネシア・マレーシア・シンガポール・フィリピン・タイの5ヶ国により、経済などの協力をめざすASEAN(東南アジア諸国連合)が結成された。その後にブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジアが加入して現在に至る。元々は社会主義勢力に対抗するための組織だったが、ベトナムも加盟していることからわかるように、現在は政治経済分野での共同体となっている。\nまた、日本・中国・韓国は、ASEAN諸国に積極的に投資しているので、ASEAN加盟国に日本・中国・韓国の3国をくわえた枠組み\nもあり、それを「ASEAN + 3」という。\nASEAN域内では現在、関税の引下げをしており、そのためのASEAN自由貿易地域(AFTA、アフタ、ASEAN Free trade Area)が締結されている。これらの政策によって、自動車産業などではASEAN域内での部品ごとの分業が発達している。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E6%9D%B1%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2"} {"text": "インド半島は、中部から南部が(デカン高原に相当する地域が)、大陸移動説でいう旧ゴンドワナランドに相当し、安定陸塊(あんていりくかい)である。\nヒマラヤ山脈は、プレートテクトニクスでいうところの、インド=オーストラリアプレートと、ユーラシアプレートが衝突してできた。\n気候は、モンスーンの影響によって、雨季と乾季がある。\n夏が雨季である。冬は乾季である。\n夏(4月〜10月)は海洋から吹く南西からの風の影響により、夏が雨季である。\n冬(11月〜3月)は大陸から吹く乾燥した風の影響により、冬が乾季である。\nしかし、いくつかの地域では、地形の事情により、年中、雨の少ない、乾燥帯となる。\nさて、デカン高原の土は、玄武岩が風化してできたレグール(regur)という土である。\nインド地方のデカン高原の地域の多くで綿花が栽培されている理由も、おそらくはレグールの特性を利用した産業によるもので、このレグール土は黒色で保水力が大きく、また綿花の栽培に適しているから、綿花の栽培が盛んになったのだろうと地理学では考えられている。\nインド半島の東がわにある大きな川がガンジス川。西がわにある大きな川がインダス川。\nガンジス川下流に広大なデルタ(三角州)が広がり、農業などに利用されている。\n第二次大戦前はイギリスの植民地であったが、1947年にヒンドゥー教の多いインドと、イスラム教の多いパキスタンが、イギリスから別々に独立した。1948年にスリランカが独立した(当時の国名はセイロン)。\nまた、バングラディシュは、パキスタンから分離独立した。\nインド、ネパールはヒンドゥー教が盛ん。インドは、特定の宗教を国教にしていない。\n(まとめ)\nスリランカを通して東アジアへ伝わった仏教を大乗仏教という。\nヒンドゥー教は、ビシュヌ神やシヴァ神などを信仰する多神教である。(※ 神様の名前は、地理の範囲外なので、おぼえなくて良い。ただし、「倫理」科目や「世界史」科目では、シヴァ神は有名な神なので、私大や国立文系2次では問われる可能性もある。)\nヒンドゥー教では、牛(うし)を神聖な動物と見なす。牛そのものが神様のひとつだったり、牛が神様の乗り物だったりする。\nなので、ヒンドゥー教では牛肉を食べない。しかし、牛乳を飲むのは構わない、とされる。\nガンジス川を神聖な川としており、ガンジス川での沐浴(もくよく)で、現世での宗教的な汚れを落とせる、とヒンドゥー教では考えている。\n輪廻転生(りんね てんせい)を信じている。\nカースト制と呼ばれる身分についての慣習があり、これが身分差別につながることから、現在では憲法によってカースト制は禁止されている。だが、あいかわらず、身分についての差別が強い、と日本では一般的に言われている。\nイスラム教と混同しないように。\nイスラム教は一神教である。イスラムの神は、アラーの神だけである。イスラム教では、ブタを汚れた動物と見なす。なのでイスラム教では、ブタを食べない。\nイスラム教の経典は、コーラン(クルアーン)である。\n2011年の時点で、インドの人口は12億人ほどである。\nなお、第二次大戦直後の独立のころのインドの人口は約3億人である。\nこのように近年のインドの人口が多いため、世界の投資家などの予想で「インドは生産者・消費者の人口も多いから、きっと経済発展するだろう」的なことを、各国から考えられ、各国からインドに投資されている。\n第二次大戦直後ごろのインドは、多い人口に食料生産が追い付かず、慢性的に食糧不足の国だった。しかし、1960年代からの「緑の革命」による農業改良によって、農業の生産量が向上した。\nそして1980年代には、インドは食料の自給が可能になった。\n一方で、農家によっては高収量品種や大量の化学肥料を導入できない場合もあるため、貧富の差が拡大する傾向がある。\n近年のインドで、ミルクや乳製品の生産量が増えたことを「白い革命」という。\nインドの経済発展により、ミルクなどの需要が増えたため、ミルクなどの生産量も増えた。\nちなみに近年、宗教的な禁忌の少ない鶏肉の消費や生産が増えたことを「ピンク革命」という論者もいる。(帝国書院「地理総合」がピンク革命を紹介。)\nカシミール問題とは、インドとパキスタン、さらに中国が、カシミール地方の領有をめぐって対立している領土問題のことである。\n「緑の革命」「白い革命」にくわえて、以下のことが重要である。\nインドでは、アッサム地方が世界的な茶の産地。なぜならアッサム地方には傾斜地が多く、また、茶は水はけのよい場所で栽培しやすいので。\n※ インドの茶は「チャイ」と呼ばれる。\nそのほか、ダージリン地方が紅茶の産地。ダージリンは、アッサム地方の西にある。\n麻袋などの原料になる植物のジュートの栽培が、ガンジス川下流のデルタ地帯で行われている。\n稲作が、ガンジス川の中流〜下流の各地で行われている。\n小麦の栽培が、インド北西部のパンシャブ地方や、ガンジス川上流を中心に行われている。これら(パンジャブ地方、ガンジス川上流)は、降水量が少ない、インド北部の内陸部である。\n※ インドのパンのような料理で「ナン」というものがある。このようにインドでは小麦が主食。こういうのと関連づけて覚えよう。\nインドはバナナの生産量が、世界一である。(2017年度センター地理B追試験。なお、知らなくてもセンター問題は解けるようになってる。)\n日本ではフィリピン産のバナナが有名だが、なんとフィリピンのバナナ生産量は世界3位でしかない。バナナ生産量の世界2位は中国である。\n(2017年度センター地理B追試験の統計によると、2012年次統計として、)\n(「FAOSTATにより作成」とのこと)\nインドの牛肉輸出量は世界一(2017年)。(※ 高校の帝国書院「地理総合」)\nヒンドゥー教では牛は神聖な動物なのでヒンドゥー教徒が牛を食べることは、普通、ない。\nしかし、インドの人口すべてがヒンドゥー教徒なわけではなく、インド内にいるムスリムは牛肉を食べることや、またインドではミルクなどの生産のため牛を飼っている事もあり、大量の牛がいるので、ミルクを出せなくなった牛が外国に食肉として輸出されたりするのが現実であるとのことである。\nなお、インドの茶であるチャイにもよくミルクを入れるとのこと。\nインドではIT産業が発達している。インド南部にあるバンガロールにIT産業の工業団地があり、IT産業が発達している。このためバンガロールが「インドのシリコンバレー」と呼ばれている。\nインドでは英語が補助公用語になっている。\nこのため、アメリカと貿易をしやすく、アメリカ企業からインドのIT産業に投資されている。インドとアメリカの時差が約12時間である。このため、アメリのIT企業がインドのIT企業に注文をだすと、アメリカでの夜中のあいだにインドは昼間なので仕事が進むので、アメリカの翌朝までにインドからアメリカにインターネットで成果が届き、アメリカからすれば翌朝には仕事が片付いているので、便利である。\n東部のダモダル川の下流域が、第二次大戦後に工業地域として開発され、周辺の炭田(石炭)や鉱山(鉄鉱石、ボーキサイトなど)も開発され、この地域では重化学工業などが発達している。\nまた、インドでは近年、自動車の生産が、デリーやムンバイなどで、増えている。\nインドの首都であるデリーはインド北部にある。デリーでは自動車工業と綿工業が盛ん。\nインド西部の沿岸部にあるムンバイでは、自動車工業と綿工業が盛ん。\nその他、零細(れいさい)な繊維(せんい)工業が、それらの原料である綿花やジュートの産地の近くの地域で盛んであり、家内工業で紡績などをしている。\n第二次大戦後、インドは工業の国産化を重視したため、重化学工業を公営企業化した。第二次大戦後、軽工業など重化学工業以外の工業は民営化したが、外国からの参入などを規制して、国内産業を保護した。\nしかし、経済競走がとぼしく、そのためインドの経済力が落ちた。\nよって、経済改革をするため、1980年代から部分的に経済統制をゆるめていき、そして1991年には経済開放によって経済をほぼ全面的に自由化した。この1991年の改革によって、外国との取り引きや、外国企業の参入なども、規制緩和された。\n農村と都市との非常な貧富の格差がある。\nインドではヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教では牛(うし)は神聖な動物として扱われるため、インドでは牛が神聖な動物として扱われる。\nインドの公用語はヒンディー語。だがじっさいには、準公用後の英語がインドでは普及している。\nインドは核保有国である。(※ 高校「地理」の教科書・参考書にはインドの核保有について書いてないが、たぶん「政治経済」「世界史」あたりの教科書・参考書に書いてあるはず。)かつてアメリカ合衆国など核不拡散を主張する国々により、経済制裁をインドはされたが、現在はその制裁が解かれている。\nインドの女性の民族衣装としてサリーがある。\nインドは、BRICs(ブリックス)のひとつ。BRICsとは、ひとむかし前に経済発展の予想された4つの大国(領土が広く、人口が多いという意味での大国)であるブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)のことで、頭文字をあわせている。\nインドのおもな宗教はヒンドゥー教だが、じつはイスラム教徒も少しはいる。またシーク教徒やキリスト教徒も、インドにいる。\nインドからの移民が、欧米などにいる。インドでは英語が準公用語なので、欧米で働くのに有利であり、IT業界のインド人技術者などでは、アメリカ合衆国やイギリスなどに移住していく人も多い。\nちなみに、インドからの世界各地への移民のことを「印僑」(いんきょう)と、日本語では言う。\nパキスタンの位置は、インドから見て、西側にある。つまり、アラブ地方側に近い位置にある。\nつまり、インドから見て、インダス川の方向に、パキスタンはある。\n宗教はイスラム教が盛ん。\n領土問題で、インドとのあいだにカシミール地方の領有をめぐる領土問題がある(カシミール問題)。\nウルドゥー語を国語とし、英語を公用語とする。\nインドとは、友好的ではなく、しばしば国境沿いで武力衝突などが起こる。\n農業は、綿花や小麦が盛んである。(インド西部のインダス川方面の農業に近い。インド西部の農業と関連づけて覚えよう。)\nパキスタンは核保有国である。(※ 高校「地理」の教科書・参考書にはパキスタンの核保有について書いてないが、たぶん「政治経済」「世界史」あたりの教科書・参考書に書いてあるはず。)\n国民の多くは貧困層でテロが起きるなどして治安が悪い。\nバングラデシュの位置は、インドから見て、東側にある。つまり、東南アジアに近い側にある。宗教はイスラム教である。\nバングラデシュの位置は、ガンジス側の下流のデルタ地域の近くにある。\nこのため、農業が、インドのガンジス川の中下流あたりの農業に近い。バングラデシュの農業は、米(こめ)とジュートが盛ん。(インド東部の農業と関連づけて覚えよう。)\n雨季に、洪水の被害を受けやすい。また、サイクロンの被害を受けやすい。\nバングラデシュの公用語はベンガル語。そもそも国名の「バングラデシュ」は「ベンガル人の国」という意味。\nバングラデシュは、1971年にパキスタンから分離独立した。\n国の経済はとても貧しい。国民の多くは貧困層である。\nスリランカは、インド洋にあり、島国である。茶の栽培が盛ん。\n夏に雨が多く、高温。また、傾斜地が多い。茶の栽培をしやすい場所とは、降水量が多く、高温で、水はけの良い場所である。スリランカは、このような特徴を満たしている。\nつまり、スリランカは、気候が夏には降水量が多く、高温であり、また地形は傾斜地が多い。\n宗教は仏教が盛んである。\nネパールはヒマラヤ山中にある国であり、内陸国(ないりくこく)である。宗教では、ヒンドゥー教徒が多い。ネパール人の8割はヒンドゥー教徒。釈迦の生誕の地とされ仏教も信仰されている。\n(※ 地理的なイメージから、ブータンと混同しやすいので、注意。)\nブータンはヒマラヤ山中にある国であり、内陸国である。ブータンの国境は仏教(チベット仏教)。\nインド洋に浮かぶ島国。漁業と観光が産業。国教はイスラム教。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2"} {"text": "西アジア・中央アジアと日本は、他のアジアの地域ほど強い繋がりを持っていませんでした。しかし、西アジアは石油、中央アジアは天然ガスやレアメタルの重要な供給源です。いろいろな見方をしてみましょう。\n西アジアとは、アフガニスタンから地中海までの地域をいいます。中央アジアは、カフカス諸国(アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア)から北のパミール高原、天山山脈までの地域です。面積はカザフスタンが最も大きく約270万㎢、サウジアラビアが2番目に大きく約220万㎢です。最も人口が多いのはイランとトルコで、それぞれ約8000万人です。次いでイラクとアフガニスタンがそれぞれ約3000万人です。西アジア・中央アジアは砂漠や山が多いため、人口密度は1㎢あたり38人程度とそれほど高くありません。しかし、人口増加率は比較的高く、今後も増加していく見込みです。\n砂漠の多い西アジアや中央アジアでは、人は限られた場所にしか住めません。そのため、オアシスのような水のある場所に都市が作られました。遊牧と灌漑農業が盛んな西アジアや中央アジアの人々は、古くから交易や商業の場として都市を発達させました。これらの多くの都市は、中国とヨーロッパを結ぶシルクロードを初めとする陸上・海上の東西交易路の要所として重要な地位を占めました。19世紀末頃、西アジア諸国はイギリスとフランスに政治・経済的に支配されるようになりました。独立後も、石油資源は欧米企業が独占していました。\n人々の生活習慣や価値観から、都市が交易を中心に発展してきた様子が伝わってきます。バザールはアラビア語でスークとも呼ばれ、衣服や食器、農具、食料、香水などを販売する伝統的な市場です。バザールでは、商品の売買や情報交換が活発に行われています。街角にはイスラム教のモスクがあり、金曜日にはイスラム教徒が店を閉めてそこへお祈りに行きます。多くの外国人が行き交う街なので、そこに住む人々は異文化を受け入れて、おもてなしを大切にする文化があります。\n西アジアでは、河川やオアシスの周辺に大都市が発達しました。例えば、バグダッドはティグリス川やユーフラテス川のような大きな川の流域で発展しました。また、ダマスカスはレバノン山脈から流れ出る川の流域で発展しました。このように、都市を中心とした文明は、古代から中世にかけて支配したイスラム王朝の時代にも発展しました。\n中央アジアでも、ブハラやサマルカンドといった都市がシルクロードの拠点として発展しました。また、イスラム文化の中心地となり、現在も多くのモスク(イスラムの礼拝堂)やマドラサなどが残っています。さらに、カザフスタンの首都ヌルスルタンは、1990年代にソ連から独立して建設された都市です。ソ連が統治していた時代には、政治の中心は全て中央アジア諸国の首都に置かれていました。独立後は、自分達の都市を作り、ロシアの影響から離れようという動きが出てきています。しかし、古い都市基盤を維持するために多額の費用がかかるなど、問題も少なくありません。\nアラビアプレートは紅海とペルシャ湾の間にあります。アラビアプレートの北側でユーラシアプレートと合流しています。西アジアの新期造山帯がイランからトルコ、イランからアフガニスタンまで広がっています。ザグロス山脈はアルプス・ヒマラヤ造山帯の一部になっています。ザグロス山脈以外にも標高5000m以上の高山は、上記地域内にあります。そのため、環太平洋造山帯に含まれる日本と同じように、地震多発地域でもあります。\nアラビア半島は、世界最大のルブアルハリ砂漠を中心とした安定陸塊です。アラビア半島の紅海に接した側は、ペルシャ湾に接した側よりも高い位置にあります。半島北部では、ティグリス川とユーフラテス川が農耕に適した肥沃な沖積平野を作っています。古生代から中生代にかけて、ペルシャ湾周辺の広い海域に溜まった厚さ数千mの地層があります。ペルシャ湾岸は、微生物の遺骸が集まった地層と微生物が作る石油を集める地層があるため、世界でも有数の石油資源が豊富な場所となっています。\n一方、中央アジアは、そのほとんどが古期造山帯や安定陸塊に含まれています。中央アジア北部は、-28mの高さにあるカスピ海からパミール高原や天山山脈の間にあります。パミール高原はインド半島の衝突時に隆起しました。\n西アジアも中央アジアも乾燥地域です。アラビア半島はほとんど砂漠で、亜熱帯の高気圧に覆われています。イラン北部が乾燥しているのは、内陸にあり、海からの湿った風があまり当たらないからです。また、イラン北部は山脈の風下にあるため、カヴィール砂漠やトルクメニスタンのカラクーム砂漠のような大きな砂漠があります。カザフスタン北部の気候はステップ気候で、カザフステップは肥沃なチェルノゼムのある草原です。地中海沿岸から南部のカスピ海、天山山脈北嶺までは地中海性気候です。\n乾燥地域では、死海のような塩湖が多く、そこに流れ込む川はありません。また、アラビア半島にはワジと呼ばれる涸れた川がたくさんあり、ラクダの商人や自動車の道路として利用されています。\n乾燥地帯の多い西アジアや中央アジアでは、水は農耕のための貴重な資源です。砂漠でもオアシスと呼ばれる場所では、湧き水を利用して小麦・ナツメヤシ・西瓜・メロン・葡萄などを栽培しています。イランやアフガニスタンなどの砂漠地帯では、オアシス農業が行われています。山の麓にある地下水脈から水を汲み上げ、水を供給するためにカナートやカレーズが利用されています。カナートやカレーズは、水が蒸発しないように、山脈など地下水の多い場所から集落や農地まで掘られた地下水路です。地下水路は、緩やかに傾斜した横穴でつながっています。ほとんどの場合、土地を所有する投資家が、水も所有します。地下水路の掘削や管理には費用がかかるため、水の利用方法には厳しく決められており、小麦や綿花が栽培されています。イラクのメソポタミア平原では、外来河川ティグリス・ユーフラテス川を農作物の水源として利用されています。\n遊牧は、水不足で農耕が困難な地域で行われます。自然の草や水を求めて、住居や家畜を移動させる生活様式です。場所を変えながら飼育させると、草や木の芽を食べ尽くさずに済みます。\n乾燥した地域では、乾燥に強い駱駝が飼われます。駱駝は荷物の運搬や乗り物として使われます。このほか、羊は草原で飼育されています。駱駝や羊の家畜から出る生乳が遊牧民の主食となります。余った生乳は塩を加えてチーズやバターにします。肉を食べると動物の数が減るので、休日やお祝い事など特別な日にしか食べません。木が育たず、燃やす木がないため、家畜の排泄物を燃料として利用します。家畜の毛や皮は、衣服やテントの材料として使われます。\n遊牧民は開かれたオアシスの町に行き、乳製品や皮、動物などを小麦やナツメヤシと交換して農民と交易を行ってきました。近年は国の定住政策によって、遊牧民も自動車を使い、新しい仕事を求めて都市に移動しています。\nペルシャ湾の産油国は、石油を売って得たお金(オイルマネー)で、砂漠でも地下水を利用した農業や牧畜業に投資しています。1970年代、サウジアラビアでは、地下水を汲み上げてスプリンクラーで散水するセンターピボットを導入して小麦や野菜を栽培していました。1980年代には、小麦は国外に出荷されていました。しかし、1990年代以降、節水や補助金の打ち切りにより生産量は減りました。今では、国内消費分しか栽培していません。また、牛乳は空調で一定温度に保たれた室内牧場で作られています。\n中央アジアでは、外来河川のシルダリア川やアムダリア川の水を、昔から農作物の水やりに使ってきました。また、山岳の多い東部では、地下水路も農作業に利用されてきました。\nソ連時代、中央アジアの乾燥した土地は、自然改造計画によって農地化されました。肥沃な土壌のチェルノゼムからなるカザフステップでは、企業的穀物農業地域に変わりました。さらに、トルクメニスタン南部の砂漠地帯には、アムダリア川から水を得るために世界最大の灌漑用運河であるカラクーム運河が建設されました。カラクーム運河は、アムダリア川とカスピ海を結ぶために建設された運河です。現在、トルクメニスタンのアシガバードの北西まで開通しています。その結果、広大な農地が生まれ、カザフスタンを中心に小麦の生産が増え、ウズベキスタンなどでは綿花の生産が伸びました。しかし、カザフステップでは、草地になっていたために保護されていた肥沃な表土が農地化によって流され、収穫量が落ちた場所もあります。塩害により、シルダリア川やアムダリア川流域の灌漑農地では作物が育たなくなりました。一方、アラル海の上流では無計画な灌漑によって、湖に入る水量が減り、ほとんどが干上がってしまいました。その結果、沿岸での漁業が出来なくなりました。湖水から出る塩分も乾いて近くの農地にまで広がりました。塩分を含んだ砂嵐は、そこに住む住民の健康被害をもたらしました。\nイスラム教は、アラビア半島で始まりました。現在、西アジア、中央アジア、東南アジア、北アフリカ、東南アジアで見られます。信仰がどの程度日常生活に浸透しているかは、地域によって異なります。しかし、イスラム教は世界中に広がり、ペルシャ(イラン)やトルコなどアラブではない国にも広がりました。その理由は、どんな人種や階級でも、イスラム教徒として平等だと感じられるようにしたからです。イスラム教の教義の平等性やイスラム文化の先進性など、イスラム教の発展を支えた要素があります。交易は、西アジアを中心とした当時の世界の貿易網を通じて広がっていきました。例えば、東西交易はシルクロードを通り、サハラ交易はサハラ砂漠を通り、インド洋交易はインド洋を通りました。こうしてみると、ムスラム商人が大きな役割を果たしていました。\n西アジアには様々な言語や宗教があり、様々な文化が存在しています。アラビア語は最初、アラビア半島の一部で話されていました。イスラム教が広まるにつれて、イラクから北アフリカへ広がりました。\nトルコではトルコ語を話し、政治と宗教が分離した時に、アラビア文字がラテン文字に置き換わりました。イランはペルシア語が話されている国で、ほとんどの人がシーア派イスラム教徒です。アラビア語とペルシア語は同じ書き方ですが、文法は大きく異なります。イラクの人口のほとんどはアラブ人ですが、クルド人など非アラブ人が20%ほどを占めています。イスラエルは国民のほとんどがユダヤ人で、言語も古代ヘブライ語がベースになっている国です。レバノンではキリスト教徒、イスラム教のスンナ派、シーア派が対立し、それぞれの人数に応じた国会議員の数が決められています。シリアではアラブ人が大半を占めますが、キリスト教のアルメニア人もいます。\nクルド人は、自分の国を持たない世界最大の民族です。彼らはトルコ、イラク、イランに住んでいます。アフガニスタンのように、様々な人種の人々が全員イスラム教を信仰している国もあります。このように、西アジアには様々な宗教と言語があります。\nイスラム教を信じ、アラビア語を話す人々は、これまで異民族や非イスラム教徒に支配されてきました。それを取り戻すために、アラブ人を一つの集団にまとめようとするアラブ民族主義運動が行われてきました。他の宗教でも、宗教を本来の理想的な姿に戻そうとする運動があります。中東では、イスラム政党が、貧富の差の拡大を食い止め、政府の腐敗を止める努力と政治活動を両立させ、大きな成果を上げています。1945年、アラブ系の人々の多いアラブ諸国が集まり、アラブ連盟を結成しました。その目的は、各国の独立を守り、絆を深めようとしたからです。一方、イスラム原理主義と呼ばれる過激派勢力を強めている地域もあります。シリアやイラクでは、政府と過激派組織イスラム国や反体制派との戦闘により、大勢の人々が故郷を離れています。これは国際問題になっています。\n西アジアと中央アジアの人々は、どのように行動し、生活するかについて、イスラム教のルールに従わなければなりません。コーランは、アッラーが預言者ムハンマド(マホメット)に告げた内容を要約した聖典です。コーラン(クルアーン)は、アラビア語で書かれている場合だけ認められます。イスラム教は一神教なので、万能の神アッラーだけを信じています。アッラーは見えないので、偶像を崇拝してはいけません。また、イスラム教を始めた預言者ムハンマド(マホメット)は、信仰の対象になりません。\nイスラム教徒はただ神を信じるだけでなく、毎日、実際の方法で信仰を示さなければなりません。次の義務(五行)を守らなければなりません。\n毎年、世界中からイスラム教徒が巡礼に訪れ、街はイスラム教徒で溢れかえっています。富裕層も貧困層も同じ白いローブを着て、カーバ神殿に巡礼に行きます。これは、人種や民族が信者を隔てない姿勢を示す大規模な宗教行事になっています。\n また、酒や豚肉の飲食禁止、汚いとされる左手での食事禁止、屋外に出る女性のみ肌の露出禁止など、日常生活にも厳しい制限があります。\n1990年代前半、中央アジアの国々はそれぞれ独立しました。中央アジアは、ペルシア語を話すタジキスタンを除き、ほとんどの国がトルコ語系言語を話します。しかし、これらの国の多くは、かつてソビエト連邦(ソ連)の一部となっていたため、今でもロシア語やキリル文字を使っています。\n国民の大多数はイスラム教徒ですが、正教のキリスト教徒もいます。トルコ系やイラン系の民族は羊を中心とした肉や乳製品を売っています。朝鮮民族はキムチを売っており、この地域の文化の多様性が感じられます。多くの人が信仰しているイスラム教ですが、ソ連時代では禁止されました。そのため、新たにマドラサ(イスラム神学校)を立ち上げてイスラム教育を推進しようという動きも見られます。\nこのように、中央アジアの街並みは、イスラム風のオアシス都市とヨーロッパに建設されたような旧ソ連時代の都市とが共存しています。ソ連時代に農業の集団化(コルホーズ、ソフホーズ)が進んだ結果、農村部には遊牧民が定住し、かつての遊牧生活はほとんど見かけなくなりました。ウズベキスタンの首都タシケントは、中央アジア最大の都市として、長い歴史を持っています。当初はオアシス都市として発展しました。しかし、1966年の大地震の後、旧ソビエト連邦によって都市が再設計され、ヨーロッパ的な雰囲気を色濃く残す都市となりました。\nパレスチナ紛争(アラブ・イスラエル紛争)の歴史は古く、ユダヤ人が紀元前1500年頃にパレスチナに定住して国家を樹立した時から続いています。その後、ユダヤ人国家は滅亡して、ユダヤ人は各地に移住させられました(ディアスポラ)。19世紀後半、パレスチナにユダヤ人国家を再建しようとするシオニズム運動が活発になりました。その結果、より多くのユダヤ人がパレスチナに移り住むようになりました。第一次世界大戦中、イギリスはアラブ人とユダヤ人の協力を求め、アラブ人はトルコからの独立、ユダヤ人はユダヤ人国家を約束しました(バルフォア宣言)。この二重外交のため、パレスチナの主権をめぐる両者の主張が対立して、紛争に発展しました。\n第二次世界大戦後、国連はパレスチナ分割決議を採択して、パレスチナをアラブ国家とユダヤ人国家に分割しました。これを受けて、ユダヤ人はイスラエル国を建国しました。100万人以上のアラブ人がパレスチナから追い出されて難民となり、イスラエル建国に反対するアラブ諸国は互いに争うようになりました(第一次中東戦争)。さらに、パレスチナを奪還しようとするパレスチナ解放機構(Palestine Liberation Organization)が結成され、それに対するイスラエルへの攻撃は激しくなりました。1993年、パレスチナ人は、対話による紛争終結への第一歩として、暫定自治に合意しました。しかし、紛争は解消されていません。現在、イスラエル側の和平推進派と対パレスチナ過激派、パレスチナ側の穏健派ファタハと過激派ハマスが、紛争の終結方法を巡って対立しています。国内にユダヤ人が住んでいるアメリカなどが仲介役となって和平への道を探ろうとしています。\nクルド人は世界全体で約3000万人暮らしています。そのほとんどがスンニ派で、タルト語を話します。中世以降、オスマン帝国(オスマントルコ)がタルト人を支配していました。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れた後、イギリスとフランスがオスマン帝国を分割して、クルディスタンと呼ばれる居住地は中東諸国に広がりました。それ以来、タルト人と各国が独自の国家建設を目指す争いが増えました。全人口の5分の1にあたる1200万〜1500万人のタルト人が住むトルコでは、独立のための武装活動が活発になっています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E8%A5%BF%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2"} {"text": "テレビ番組でも、アフリカを紹介する時、よく自然や動物が取り上げられます。一方で、支援先・市場先・レアメタルなどの資源開発地として、日本とアフリカの関係はますます深まっています。アフリカの多様な様子を学んでいきましょう。\nアフリカ大陸の面積は3000万平方キロメートル以上あり、その大きさはアジアに次いで2番目に大きい大陸です。東西の最長距離は西経17度から東経51度まで約7400kmあり、おおむねヨーロッパの最西端からカスピ海までです。南北の最長距離は北緯37度から南緯35度まで約8000kmあり、大陸のほとんどは南北回帰線より低緯度に位置しています。赤道に沿って、ギニア湾南部・コンゴ盆地・ケニア中央部などが広がっています。中でも、マダガスカル島はアフリカ大陸の南東に位置していて、日本の約1.5倍の大きさです。\n様々な民族がアフリカに暮らしており、約1000種類の言語を使い分けているようです。その分布はサハラ砂漠を境界に、北は北アフリカ、南は中南アフリカに分かれています。この項目では、中南アフリカについてしか説明していません。次の節で、北アフリカについて説明します。\n各民族がそれぞれの言語を持ち、現在でも中南アフリカの各地域は旧宗主国と経済的・文化的に繋がっています。そのため、宗主国の言語(英語やフランス語など)が公用語となっています。植民地時代にはキリスト教が広がりました。また、イスラームがサハラ砂漠南部のサヘル地域、アフリカ東海岸のソマリアやタンザニアで広まりました。また、東海岸のムスリム商人がインド洋で貿易を盛んに行っています。その結果、今でもムスリムが多く、アラビア語由来のスワヒリ語やアムハラ語などが使われています。4世紀中頃、エジプトはエチオピアにキリスト教を伝えました。エチオピア正教は、現在もエチオピアの主要な宗教です。今でも精霊信仰(アニミズム)やアフリカの伝統的な祖先崇拝を大切にしている地域もあります。\n人種隔離政策(アパルトヘイト)時代の南アフリカは世界から孤立していました。人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃後、南アフリカは急速に世界経済とつながり、経済成長を遂げました。\n古代エジプト文明が四大文明の一つとして紀元前30世紀頃から栄えていました。その頃から、北アフリカはサハラ砂漠を横断する豊かな交易地域として、長い間イスラームの影響を受けました。7世紀にアラブ人がやって来ると、先住民族のベルベル人は、現在のマグレブ諸国で暮らしていました。マグレブ諸国とは、アラビア語で「太陽の沈む国」を意味します。エジプトを除く北アフリカにある国々(チュニジア・アルジェリア・モロッコなど)で、複数の小さな国から成り立っています。アラビア語とイスラームはアラブ民族の住むアラビア半島から伝わり、マグレブ諸島にも伝えられました。\n15世紀中頃から大航海時代が始まり、アフリカと交易しました。その後、ヨーロッパ諸国はインドまでの海洋航路を求めて、アフリカ沿岸部に港をつくりました。インド洋の東沿岸でもムスリム商人が賑わっていました。16世紀になって、奴隷がアフリカから新大陸の植民地に送られ、インディオの代わりに働かされました。17世紀に入って、南北アメリカ大陸でプランテーション農業が発達すると、三角貿易で奴隷も次々と送られるようになりました。三角貿易で、奴隷がアフリカからアメリカ大陸に輸出されました。雑貨・銃はヨーロッパからアフリカに輸出されました。砂糖・煙草・珈琲はアメリカ大陸からヨーロッパに輸出されました。ヨーロッパの豊かな富が、産業革命を実現させました。一方で、奴隷はアフリカから1000万人以上連れ去られたと考えられています。\n19世紀になって、デイヴィッド・リヴィングストンやヘンリー・モートン・スタンリーが奥地へ足を踏み入れました。その後、アフリカが農作物や資源の宝庫として注目されるようになり、次々と探検が行われるようになりました。ヘンリー・モートン・スタンリーは中央アフリカの横断に成功しました。また、デイヴィッド・リヴィングストンは南部アフリカの横断に成功したり、ナイル河源流の一つを見つけました。その後、金やダイヤモンドの鉱山が発見されると、列強の植民地支配は進みました。ヨーロッパ諸国は内陸部の開拓と開発を競いました。産業革命がヨーロッパで始まると、住民に聞かず、勝手に農園(プランテーション)・鉱山が開発されました。19世紀後半、コンゴ地域の支配権を巡って争っていたため、ベルリン会議が開かれました。ベルリン会議後、ヨーロッパ各国(イギリス・フランス・ドイツ・ベルギー・ポルトガルなど)がアフリカの大半を植民地化するようになりました。ヨーロッパ列強は、植民地を上手く運営するために、現地の統治者を中心とした間接支配体制を整えました。間接支配体制を維持するために、民族間の対立を利用する場合もありました。\n第二次世界大戦後の南アフリカは人種隔離政策(アパルトヘイト)をとりました。この政策によって、少数派の白人は強い権利を与えられ、黒人・有色人種・アジア人は差別されてきました。国民は、白人・黒人・有色人種(白色人種と他人種の混血)・アジア人に分かれました。人種隔離政策に基づいて、居住地域が分けられ、違う人種の結婚も禁止されました。当時、日本は重要な貿易相手国だったので、「名誉白人」と呼ばれていました。冷戦時代、南アフリカはソ連に代わる勢力として西側諸国から注目されていました。また、南アフリカは豊富な天然資源を持つと西側諸国から考えられていました。これらの理由から人種隔離政策(アパルトヘイト)は1991年まで続きました。冷戦体制が終わると、人種隔離政策(アパルトヘイト)の撤廃を求める声も高まりました。1994年、初めて総選挙でどの人種か関係なく誰でも同じように投票出来るようになりました。その結果、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれました。ネルソン・マンデラ大統領は、人種隔離政策(アパルトヘイト)をなくすため、撤廃運動を長年続けてきた人物です。\n第二次世界大戦終了後、アフリカの独立国は4カ国(エジプト・エチオピア・リベリア・南アフリカ共和国)だけでした。第二次世界大戦後の独立運動の主役は、宗主国で教育を受けたエリート層でした。1950年代後半から1960年代にかけて、次々と独立国が誕生しました。1960年は、17カ国が独立した年なので、「アフリカの年」と呼ばれています。現在、アフリカの独立国は54カ国です。\n第二次世界大戦後のアフリカは、次第にナショナリズムが高まり、独立運動が起きました。これを受けて、ヨーロッパ諸国は、植民地の独立を認めつつ、経済利益を守りました。しかし、新しい国々は植民地時代の人為的国境をそのまま引き継ぎ、複数の民族が集まり、民族の繋がりも弱い多民族国家になりました。このような多民族国家は民族紛争を招きました。鉱物資源の豊富な国は、紛争の激しい地域によく見られます。\n本項目では、ルワンダについてみていきましょう。第一次世界大戦まで、農耕民(多数派のフツ族)と牧畜民(少数派のツチ族)は穏やかに暮らしてきました。しかし、第一次世界大戦後、ベルギーの支配下に入り、ツチ族がフツ族を支配する上下関係がさらに強まりました。そのため、両民族の関係はますます悪化しました。両民族に人種的違いは少なくても、植民地時代を通じて、少数派のツチ族は多数派のフツ族よりも好待遇でした。1990年から1994年にかけて、ルワンダ共和国は、ツチ族中心の反政府勢力(ルワンダ愛国戦線)とフツ族中心のルワンダ政府軍で内戦を繰り広げました。1994年、大統領の殺害後、フツ族過激派が大量虐殺を始め、大量虐殺の犠牲者も80万人から100万人になりました。その後、武装集団のツチ族が攻撃したため、約200万人が故郷を離れました。多民族が一つの政治体制の中で一緒に暮らしていけないため、民族間の対立から内戦や国家間の争いに発展する場合も珍しくありません。ルワンダ虐殺をテーマにした映画『ホテル・ルワンダ』は、日本だけでなく世界中で話題になりました。\nその後、ツチ族中心の政権が発足すると、治安の維持や雇用の創出に力を入れるようになりました。また、ツチ族中心の政権は、珈琲や紅茶の栽培だけでなく、ソフトウェア開発などのICT分野にも力を入れました。その理由を説明すると、ルワンダ虐殺を逃れて外国に渡った人々が、世界各地で生活する中で身につけた知識や技術を持ち帰ったからです。現在、ルワンダは「アフリカの奇跡」と呼ばれ、急速な経済成長を続けています。\nナイジェリアはアフリカ最大の都市です。200以上の異民族が暮らしていますが、大きく分けて、北部にイスラーム信仰のハウサ族、南西部に伝統宗教信仰のヨルバ族、南東部にキリスト教徒信仰のイボ族に分けられます。石油資源を巡るビアフラ戦争が終わってから、民族はより自由になろうと努力していますが、問題は解決していません。こうした問題は、国連やアフリカ連合で解決する必要があります。アフリカの独立国と西サハラは全てアフリカ連合に加盟しています。\nアフリカ統一機構は、アフリカ諸国が平和維持のために1963年発足しました。その後、2002年になると、アフリカ統一機構がヨーロッパ連合を倣った国家統合体(アフリカ連合)に変わりました。アフリカ統一機構は、内政問題に部外者が関与してはならない考えで発足したため、紛争解決に消極的でした。その反省もあり、アフリカ連合は域内の紛争解消も目的に掲げています。パン・アフリカ主義とは、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達を中心にアフリカの独立と統一を望む運動です。19世紀後半に、中央アメリカカリブ海諸国の黒人達がアメリカで教育を受けました。第二次世界大戦後、パン・アフリカ主義もアフリカのナショナリズムと結びつきました。\nまた、武装集団がアンゴラ・シエラレオネ・リベリアなどで資金源としてダイヤモンドなどの資源を採掘した結果、内戦も長引きました。1990年代以降、冷戦体制が崩壊すると、被軍事援助国の政権も不安定になりました。その結果、ソマリア内戦などが発生しました。国連平和維持軍はこのような内戦に介入しましたが、失敗に終わりました。\n北アフリカ諸国の長期政権が、2010年から2011年にかけて崩壊しました。その原因は、チュニジア・リビア・エジプトなどで始まった民主化運動です(アラブの春)。「アラブの春」のきっかけとして、チュニジアのジャスミン革命が挙げられます。ジャスミン革命で、インターネットにアクセス出来る若者などが街中に溢れました。エジプトでは、30年間続いた独裁政権が終わり、代わりにイスラーム主義勢力中心の政権が誕生しました。しかし、反政府活動が高まり、軍のクーデタによって政権も移りました。民主化を求める動きは、他のアラブ諸国でも政情不安の波を引き起こしました。\n政情不安から、そのような場所で反政府勢力やイスラーム原理主義組織が活動を強めています。2011年に南スーダンが独立するまで、スーダン南部のナイル・サハラ語系住民と北部のアラブ系住民の間で内戦が続いていました。\n近代的農業は灌漑設備・農薬・化学肥料などを取り入れました。アフリカの一部地域で近代的農業を取り入れています。アフリカの場合、焼畑農業が中心ですが、半農半牧を行う地域もあり、駱駝の放牧も見られます。これまで、多くの作物を一緒に栽培する混作が頻繁に行われてきました。アフリカの伝統的定着農業では、もろこしや隠元豆(ささげ)などを同じ畑で数種類栽培します。小規模な自給的農業とはいえ、自然と上手く付き合いながら植物を育てる方法なので、旱魃でもある程度の収穫量は望めます。最後に、主食についてみていくと、次の通りです。\n北アフリカの砂漠地域では、オアシスや外来河川の近くで、ナツメヤシ・小麦・野菜などを育てて食糧としています。ナツメヤシの果実は食用になり、葉は縄や籠の材料になり、幹は建築に利用されます。また、灌漑農業も行われており、地下水路(フォガラ)を作り、貴重な地下水を枯らさないようにしています。\n 諺「エジプトはナイルの賜物」があるように、ナイル川の氾濫で豊かな土壌も生まれました。それを利用して、古くから農業を行っていました。現在も、エジプトの外来河川(ナイル川)に沿って広がる土地で、小麦・コメ・綿花が栽培されています。日本の政府開発援助を受けて、技術と灌漑設備が整備されるようになりました。整備後、ナイル川流域でもジャポニカ米が栽培されるようになりました。ソ連の援助を受けて、ナイル川上流のアスワンハイダムが1970年に完成しました。こうして、大洪水がなくなり、水力発電によって産業が発展するようになり、暮らしも豊かになりました。しかし、ダムの建設で、上流から豊かな土壌が増水時に下流まで届かないため、化学肥料の使用も増えました。このほか、旱魃で灌漑農地が塩害を受けたり、ナイル川デルタの海岸線も縮小したり、ナイル川河口付近のプランクトンも減って不漁になるなど、ダム建設の悪影響もあります。\n昔ながらの遊牧は、サバナ気候やステップ気候で見られます。牛は主にサバナ地域で飼育されています。一方、羊・山羊は湿潤地域で飼われます。そして、駱駝はサハラ砂漠南部からソマリア・ケニア北部までのステップ地域で飼われています。ここ最近、遊牧民が都市に移住してそこで暮らすようになりました。\n当時のアフリカはヨーロッパ諸国にほとんど支配されていたので、1種類だけ大量に商品作物を栽培して、先進国に輸出しました(モノカルチャー)。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは、19世紀中頃からヨーロッパに輸出されるようになりました。セネガルの落花生やナイジェリアのアブラヤシは機械の潤滑油・石鹸・食用油の原料として利用されました。現在でも、両商品は重要な輸出品となっています。また、ガーナやコートジボワールは、カカオ豆(ココア・チョコレートの原料作物)を大量に栽培しています。カカオ豆は、一年中気温と湿度が高く、風もほとんど吹かない熱帯雨林気候地域の中で最もよく育ちます。しかし、カカオの樹木は、大規模なプランテーションでは上手く育たないため、家族だけで栽培しています。\nイギリス人は、赤道直下のケニアを植民地にしました。標高1500~2500mの高地に住み、茶や珈琲のプランテーション農業を行なっていました。ケニアが茶の栽培を始めたのは、20世紀に入ってからです。赤道直下の高山気候なので、高品質の茶葉が一年中栽培出来ます。そのため、茶葉を摘んでから1~2週間後に、次の茶摘みを行えるようになります。この地域は、白人が農場や牧場を経営していたため、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)と呼ばれるようになりました。独立後、白人占有農牧地(ホワイトハイランド)はケニア人に譲ったので、現在も茶と珈琲はケニアの2大輸出品となっています。また、珈琲原産地のエチオピアは現在でも珈琲を中心に輸出しています。\n一方、地中海に近いモロッコ・アルジェリア・チュニジアなどの北アフリカ諸国では、商業的な農業が発達しています。温暖な地中海性気候を活かしてオレンジや檸檬、オリーブ、葡萄などを栽培しています。地中海性気候のため、南アフリカ共和国の南西部では、葡萄などを大量に栽培しています。また、南アフリカ共和国の東部高地草原はかつてヨーロッパ人によって開発されました。その後、南アフリカ共和国に譲られ、トウモロコシの栽培や企業的牧畜が行われています。しかし、伝統的な農産物輸出の大半は、1980年代以降、減少しています。その背景に近隣地域の生産量増加が挙げられます。一方、ケニア・エチオピアでヨーロッパ市場向け花卉生産などの新しい輸出農産物が登場しました。こうした商品作物の生産によって、国内の買い取り価格は低く抑えられ、生産者はあまり儲かっていません。\n1950年、アフリカの人口は約2億3000人でした。2023年現在、アフリカの人口は約15億人です。アフリカの人口はこの73年間で約6.5倍になり、アジアに次いで2番目に多くなっています。医療や公衆衛生の整備で死亡率が下がっても、出生率が高いので、自然成長率は2.7%程度です。年少人口が多いため、2050年になると、アフリカの人口は24億人を超えると考えられています。\n人口増加に見合う量の食料を作れないため、複数の国で外国から食料を輸入しています。そのため、アフリカは食料自給率の向上につながっていません。アフリカの食料自給率を高めるために、通貨流出や穀物価格の上昇に伴う物価の高騰を防ぎ、経済を安定させなければなりません。また、アフリカで食料需要が増えると、世界でも食料不足になるため、国際社会でも食料自給体制の整備を急がなければなりません。\n農業生産性の低さが食料自給率の悪化につながっています。植民地支配が終わってから、アフリカは輸出用の作物を中心に栽培するようになり、主食用の穀物はほんの少ししか栽培しなくなりました。農業機械の導入が遅く、化学肥料の価格も高いため、多くの農地が利用されていません。そのため、大量に食料を作れません。\n現在、アフリカでも都市化が進み、経済も成長しています。しかし、都市と農村部の経済連携は進んでいません。農産物を都市に効率よく届けるようになると、農村地域も都市の経済発展の恩恵を受けられるかもしれません。例えば、マラウイ・ザンビアの国内市場向けに、芋類が出荷されます。ここで、300人の農家が働いています。そのために、農業生産性を高め、農産物の生産・集荷・輸送・貯蔵・販売の仕組みを作っていかなければなりません。穀物だけでなく、野菜を栽培する園芸農業の整備も求められています。\nまた、その土地に合った農業技術を広めていかなければなりません。国連開発計画や日本の国際協力機構などの支援を受けて、病気や乾燥に強く、豊産を見込める陸稲ネリカを開発して、世界中に広めています。農業技術を広めていけば、主食の量産体制を整備出来るでしょう。\n持続的な開発を行うため、アフリカは様々な社会制度や食糧供給の安定を図らなければなりません。2003年のアフリカ連合首脳会談で、「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」が採択されました。「アフリカ開発に関する新パートナーシップ」では、外国からの支援に頼らず、自助努力で開発を目指そうとしました。政治家の汚職を防止する法整備、紛争を解決するための仕組みの強化、教育・保健・社会基盤・産業振興など、各国間の連携が大切です。\nアフリカは、石油・石炭・ウランなどのエネルギー資源に恵まれています。また、鉄鉱石・ボーキサイト・金・銅・レアメタルなどの金属資源も豊富です。植民地支配から逃れても、内戦や独裁政権がアフリカ諸国で長続きしていました。そのため、政治状況も不安定になり、鉱山開発が遅れていました。近年、外国からの投資や需要の増加によって、各国間の資源開発競争も激しくなっています。鉱山開発は、資源確保と重機メーカーの市場拡大につながっています。例えば、ギニアはボーキサイト、ザンビアは銅、ニジェールはウラン、モロッコとリベリアは鉄鉱石の最大輸出国になっています。しかし、資源分布の偏りは、資源を輸出出来る国と資源を輸出出来ない国の間に経済格差を生みます(南南問題)。また、資源の輸出後に儲けたお金を一部の人が独占しているため、貧富の差も大きくなっています。\nナイジェリアはアフリカ最大の産油国です。ビアフラ地方を中心に石油が埋蔵されています。輸出の8割以上が石油と石油製品で、そのほとんどをアメリカに輸出しています。アンゴラはアフリカ第2位の産油国です。2002年の内戦終結後、油田開発に力を入れ、石油の約半分を中国に送っています。アルジェリアの石油は、国全体の輸出の約4割を占めています。また、天然ガスも多く埋蔵しており、地中海横断パイプラインを通してヨーロッパ諸国へ送られています。今世紀に入って国際連合がリビアの独裁政権に対して経済制裁を緩めてから、リビアでも急速に油田開発を進めています。さらに、エジプトは石油製品や原油を大量に輸出しています。このように、アフリカ各国は原油や天然瓦斯を産出して、欧米諸国へ送っています。\nカッパーベルトは、コンゴ民主共和国とザンビア共和国の国境にあります。銅鉱石がカッパーベルトで採掘され、タンザン鉄道を経由して出荷されます。タンザン鉄道は、タンザニアのダルエスサラームとザンビアのカピリ・ムポシを結んでいます。中国からの支援も受けて、1975年に完成しました。かつてコンゴ民主共和国とアンゴラを結んでいたベンゲラ鉄道は、アンゴラの内戦で破壊され、現在修復を行っています。南アフリカは、石炭(トランスヴァール炭田)・金・クロム・プラチナ・バナジウム・チタンなどに恵まれています。ボツワナ共和国・コンゴ民主共和国・アンゴラ共和国は、ダイヤモンドを豊富に産出しています。南アフリカ共和国は、レアメタルも豊富に産出されています。また、コンゴ民主共和国は、他国よりもコバルトを大量に産出しています。\nアフリカの工業化は遅れています。植民地時代は、鉱産資源の採掘・販売を制限して、アフリカを工業製品の市場として販売しました。その影響で、独立後も内戦や不安定な政治が続き、所得水準も低かったため、国内市場が弱く、工業の発展も遅れました。今でも、電力供給・鉄道・港湾・金融制度・就学者数などは、決して恵まれているようには思えません。\n対外債務の増加・モノカルチャー経済への依存・工業化資金の不足などが原因で、何カ国も破綻しました。こうした中、国際通貨基金と世界銀行は、構造調整政策に取り組むように求めました。構造調整政策によって、アフリカ諸国も計画経済から自由市場へと移行しなければ新たな融資を行えなくなりました。複数の国がこれを受け入れて市場経済化を進めると、一部の国で国内総生産が増加しました。しかし、貧富の差はさらに広がりました。リベリア・シエラレオネ・スーダン・コンゴ民主共和国などでは、内戦の影響で経済成長も遅れました。また、内陸国も経済成長に影響を与えるかもしれません。アフリカ南部の国々は、周辺諸国と経済協力しているので経済も成長しています。\n1980年代以降、内戦や旱魃などの影響でアフリカ経済は伸び悩んでいました。しかし、2000年代に入るとアフリカ経済は回復に向かいました。この場合、鉱産資源の価格は国際市場で上がっています。ボツワナなどの一部の国で、輸出指向型の工業化を進めて、モノカルチャー経済から抜け出し、一人当たりの国内総生産を増やしました。\n鉱産資源の豊富な国は、原料地指向型の工業化が進んでいます。リビア・アルジェリア・ナイジェリアなどの産油国では、石油精製業や石油化学工業が発達しています。ザンビアは銅鉱石を多く産出するため、ザンベジ川のカリバダムによって銅の精製業が発展しました。一方、南アフリカ共和国は、サハラ以南のアフリカで圧倒的な地域大国となり、工業製品の輸出を中心に取引されるようになってきています。鉱業や醸造業などの世界的な企業を数多く持ちます。ヨハネスブルグにはアフリカ最大の証券取引所もあり、アフリカと世界経済を結ぶ役割を果たしています。元々BRICsは4カ国を表していました。これに、南アフリカ共和国も加わり、BRICsのSが大文字に変わりました。鉄鋼・機械工業・自動車工業などで、周辺国から出稼ぎ労働者が集まって働いています。また、チュニジアとモロッコは、石油・天然瓦斯・様々な工業製品をヨーロッパにほとんど輸出しています。北アフリカのチュニジア・モロッコ・エジプトは元々人件費も安いので、衣料・皮革・食品工業などの軽工業が主要な産業となっています。さらに、電気・機械の部品をヨーロッパへ輸出しています。\nこれまで、アフリカの複数の国では、工業製品を輸入して、一次産品を輸出する貿易を行っていました。一次産品とは、自然から育てられ、採取され、そのまま利用される産品をいいます。例えば、農畜産物・林産物・水産物・鉱産物などが一次産品にあたります。一部の農産物や鉱物資源の輸出が行われる限り、モノカルチャー経済(単一経済)も続きます。そのため、世界経済の変化に弱く、高付加価値産業の育成や産業の多角化にも問題が出てきています。ガーナは、カカオ豆のモノカルチャーから抜け出すため、アコソンボダムの水力発電を使ってアルミニウムの製造を盛んに行いました。ヴォルタ川のアコソンボダムは、1965年に建設されました。貯水量が少ない乾季になると、発電量も減少します。しかし、旱魃に伴う電力不足や、他国との競争が激しくなるなどの問題が発生します。一方、第三次産業は非常に素晴らしい成長を遂げています。\nカカオ・珈琲・タコ・白身魚・グレープフルーツ・薔薇など、多くの農水産物がアフリカから日本に輸出され、日本人の生活に役立っています。また、スマートフォンやハイブリッド車の生産に、アフリカ産のレアメタルが必要です。日本はこのような一次産品を中心にアフリカから輸入しています。一方、アフリカ諸国の経済が発展すると、自動車需用も増えます。このため、日本は新車・中古車・トラック・自動車部品などをアフリカに大量に輸出しています。\n日本はアフリカから多くの農水産物や鉱物資源を輸入しています。しかし、アフリカ諸国は貧困や内戦などの問題を抱えています。そこで、日本政府は政府開発援助や非政府組織を通じて、教育・医療・輸送インフラの整備・貧困削減・平和構築・環境保全などの支援を続けています。このように、「人間の安全保障」の考え方から、人間の生存を重視します。その背景から、日本人はタンザニアの農村開発やニジェールの学校建設や教育制度の整備を進めています。また、今後のアフリカ社会を引っ張っていく人材も育成しています。\n製造業や資源関連産業を中心に日系企業のアフリカ進出が進んでいます。例えば、南アフリカ共和国では、日本企業の自動車製造や鉱山開発などが行われています。しかし、2000年代以降、消費市場の高まりから、化粧品・家電製品・調味料・缶詰などの分野でも日系企業のアフリカ進出が進んでいます。近年、発展途上国の低所得者にも、BOPビジネスの支援が行われています。蚊帳・乳幼児向け栄養食品・アルコール消毒液など、日本企業の技術協力によって、発展途上国の低所得者に届けられています。経済的貧困者(Base of the Economic Pyramid:BOP)とは、世界で最も所得の低い人々を指す言葉です。BOPビジネスは、世界人口の7割を占める経済的貧困層を対象にしています。水や生活必需品の提供、貧困の削減など、現地の様々な課題を解決出来るでしょう。BOPビジネスの具体例として、ウガンダ産のサトウキビが挙げられます。ウガンダ産のサトウキビを材料にして、アルコール消毒液を日本の技術や品質管理の手法で生産しています。このアルコール消毒液は、医療機関の衛生環境改善・院内感染の防止に役立ちます。\n21世紀から、農作物も鉱産資源も値上がりしたので、アフリカの経済が潤っています。このような理由から、近年、アフリカの人口も首位都市に集中しています。農村の出稼ぎ労働者は、同郷の出身者同士で就職の支援を受けたり、生活の面倒を見たりしています。そのため、民族集団が違えば、職業も変わります。そうした職業の多くは路上販売者のようなインフォーマルセクターです。ナイジェリアやアンゴラなどの石油資源国でも、都市部を中心に高層ビルやショッピングモールが建設されています。各国で、携帯電話の利用者や自動車・家電などの耐久消費財の購入者が急速に増えています。外資系企業の進出も進み、内戦や紛争などの危険はあっても、さらなる市場の拡大や地域の成長が期待されています。\n北アフリカ諸国は豊富な石油資源に恵まれているので、軽工業が発達しています。また、地中海の温暖な気候を求めて、北アフリカ諸国に向かう観光客も増えています。例えば、アフリカ主要都市とヨーロッパまでを地中海経由で結ぶ直行便が複数あります。このような理由から、外国人向けの観光業がエジプト・ケニア・タンザニアで重要な産業になっています。また、北アフリカからヨーロッパまでパイプラインが通っており、天然瓦斯を運んでいるので、貿易も盛んに行われています。パリやロンドンでは、アフリカ諸国からの移民も数多く住んでいます。\nサハラ以南のアフリカ諸国は、海外からの債務を抱えており、自力で経済を回せません。国内の貧富の差も大きく、マラリア・ヒト免疫不全ウイルス・エボラ出血熱・COVID-19などの感染症も問題になっています。このような背景から、観光産業・情報通信技術産業を発展させて、豊かな自然や文化を生かし、経済の多様化を図ろうとしています。また、先進国からの支援を受けて、自立を目指しています。近年、中国は資源を手に入れるためにアフリカへ進出しており、経済・政治の両面で関係を深めています。\n中国は、銅の輸出をしやすくするために、内陸国のザンビアからタンザニアを結ぶタンザン鉄道の建設に協力しながら、それまでの友好関係をさらに深めています。中国は銅やレアメタルを輸入したいと考えています。しかし、中国製格安輸入品の増加によって、ザンビアやタンザニアで工業発展の遅れや中国人労働者に雇用を奪われるなどの問題も起きています。\nアフリカ大陸は全体が台地になっており、アフリカプレート上の安定陸塊です。マダガスカルも安定陸地なので、固有種も数多く生息しています。その理由は、長い間、本土から切り離されたため、動植物も独自の進化を遂げたからです。標高200m以下の低地は全体の1割程度なので、海岸線に広い平野はあまり見られません。紅海・エチオピアからヴィクトリア湖・ザンベジ川河口まで、標高2000m以上のエチオピア高原、アフリカ最高峰のキリマンジャロ山などの火山、タンガニーカ湖やマラウイ湖などの断層湖が広がっています。アフリカ大地溝帯(グレートリフトヴァレー)は、最も広い箇所で幅100km、全体で7000kmもある大きな断層帯です。また、火山地帯なので、地震もよく起こります。地球の内部からマントルがアフリカの大地溝帯で出てきます。上昇流が周辺の地殻を押し上げているので、プレートが東西に割れています。将来、大地溝帯がアフリカを東西に分断すると考えられています。アフリカ大地溝帯では、現世人類の化石がたくさん見つかっているので、人類進化の舞台になりました。\n北アフリカからコンゴ盆地にかけて、標高200~1000mの比較的低い台地が続いています。その東部をナイル川が流れ、その河口に大きな三角州を形成しています。一方、北西部には新期造山帯のアトラス山脈があり、険しい山が連なっています。全長6695kmのナイル川は、世界で一番長い川です。南スーダンからハルツームまでの本流(白ナイル)は、赤道地帯から流れています。白ナイルはハルツームから南スーダンに流れています。ハルツームで、水量豊富な青ナイル(エチオピアのタナ湖源流)に合流します。\nギニア湾中央沿岸地域は、海岸から急に高度を上げますが、サハラ砂漠に向かうにつれて、標高の大幅な減少が見られます。そのため、ニジェール川の上流部はサハラ砂漠に向かって流れますが、途中で南東に変わり、ギニア湾に注いでいます。コンゴ川中流のコンゴ盆地は、キサンガニからキンシャサまで河川交通は賑やかですが、コンゴ川の下流は急流なので河川交通も閑散としています。\nコンゴ盆地南部からアフリカ大陸最南端まで、標高1000m以上の高い台地が続きます。南アフリカ共和国のメサで先カンブリア時代の硬い岩盤層の台地(テーブルマウンテン)が見られます。古期造山帯のドラケンスバーグ山脈は、南アフリカ共和国の南東部にあり、石炭の産出地になっています。\nアフリカの気候区分は、赤道から高緯度にかけて帯状に近い形で変化します。その理由として、アフリカ大陸に天候を大きく左右する山脈があまり見られないからです。したがって、アフリカ大陸に亜寒帯気候や寒帯気候がありません。気候区分は、熱帯気候(約4割)・乾燥気候(約5割)・温帯気候(約1割)になります。\nコンゴ盆地周辺とギニア湾沿岸は、熱帯モンスーン気候です。コンゴ盆地は赤道を通っているので、熱帯雨林気候です。これらの地域は、エボラ出血熱やマラリアの流行地域としても知られています。熱帯雨林気候の北と南は、サバナ気候です。まばらな草原が広がり、乾燥していてもバオバブの樹木などは耐えられます。一方、北東部のエチオピア高原は高山気候です。日中は暖かく乾燥していて過ごしやすく、標高5000m以上の高地(ケニア山やキリマンジャロ山など)では万年雪が見られます。\nサバナ気候の高緯度側にステップ気候が広がり、さらに進むと砂漠気候に変わります。アフリカ北部では、亜熱帯高圧帯の真ん中に北回帰線があります。北回帰線の周辺に世界最大のサハラ砂漠が広がっています。また、ソマリア半島も砂漠気候になります。高緯度のアトラス山脈より北側は、温暖な地中海性気候です。人が暮らせるオアシスやワジも見られます。サハラ砂漠の東部に、世界最長の外来河川(ナイル川)が南から北へ流れています。サハラ砂漠の面積は860万㎡で、西側に岩石砂漠(ハマダ)が数多く広がり、東側に砂砂漠(エルグ)が広がっています。ワジにオアシス集落が広がり、交易に駱駝が使われてきました。\nベンゲラ海流が寒流を北上させるため、アフリカ南部の西海岸にあまり雨が降らず、ナミブ砂漠のような海岸砂漠も残ります。一方、暖流のモザンビーク海流は、アフリカ南部の東海岸に暖かく湿った空気を運びます。そのため、低緯度側で南北方向にサバナ気候が広がり、高緯度側で温帯湿潤気候が広がります。アフリカ大陸の南端は地中海性気候ですが、内陸部はステップ気候や温帯冬季少雨気候が広がっています。南半球の温帯冬季少雨気候は4月から9月まであまり雨が降りません。一方、南半球の地中海性気候は11月から3月まであまり雨が降りません。マダガスカルは南東貿易風帯にあります。このため、東側は上昇気流の影響で雨量も増えます。1月から3月になると、サイクロンの影響も受けます。一方、国土の南西部は下降気流になるので、乾燥気候になります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB"} {"text": "予備知識として、まず、EU域内の農産物の移動には、関税が掛からない、ということを知っておこう。\nさて、EU域内で食料を自給しようという目的で、つぎの共通農業政策が1960年代から実施された(当時は「EU」でなく「EC」などだが、細かいことは気にしなくてよい)。\n共通農業政策の内容は、EU域内で農産物にごとに統一価格を定め、生産性の低い国にあわせて、市場価格よりも高い価格で買い取ることである。つまり、市場価格よりも高い値段でしか生産できない農家からEUが農産物を買い取る場合に、市場価格との差額がEU財政の負担になる。\nアメリカなど域外からの安い農産物の輸入については、域内価額との差額を課徴金(かちょうきん)として取ることで、EU域内の農家を保護する。\nまた、EU域外に輸出するときは、国際市場価格との差額を農家に補助金として与えて価格を下げさせる。\nこの共通農業政策はEU域内の農家に有利なので、結果的にEU内の農家の生産意欲が上がり、生産量も上がった。だが、EU財政の負担になったので、小麦など一部の農産物で買い取り価格の低下をしたり、生産調整をしたりなども起きている。\nヨーロッパ州はユーラシア大陸の西の端にある。\nヨーロッパの西の大西洋にある、暖流の北大西洋海流(きた たいせいよう かいりゅう)から、ヨーロッパに温かい風が来るという 偏西風(へんせいふう) という現象により、ヨーロッパ北部は緯度のわりに温暖である。また、偏西風が水分をふくんでいるので、雨も多く、水不足にはなりにくい。このような気候を西岸海洋性気候(せいがん かいようせい きこう)という。\nヨーロッパ南部にはアルプス山脈があり、南部は山がちである。南部からヨーロッパ北部に向かうに連れて、すずしくなってくる。\nアルプス山脈の南側の、ヨーロッパ南部の地中海沿岸の気候は、夏は暑く雨が少なく乾燥しており、冬は雨が多く温暖である。地中海式農業(ちちゅうかいしき のうぎょう)と呼ばれる農業が行われており、夏にはぶどう や オリーブやオレンジ類などが乾燥に強いので栽培されており、冬には小麦が栽培されている。羊や山羊などの放牧による飼育もおこなわれている。\nイタリアでスパゲティなどのパスタ料理が有名なのも、これらの農産物を活かした料理である。パスタには小麦が使われている。オリーブオイルなどが調味料に使われたりしている。\n北西部や東部では、小麦やライ麦などの穀物の栽培と、豚や牛などの飼育と、トウモロコシやジャガイモなどの飼料作物、根菜(かぶ、てんさい)の栽培などが、組み合わされて行われている。このような農業と家畜の飼育を組み合わせた農業を混合農業(こんごう のうぎょう)と言い、ヨーロッパ州の北部で、このような混合農業がさかんである。\nイギリスやデンマークやオランダなどの北海・バルト海沿岸のヨーロッパ北部や、スイスなどのアルプス山脈の地帯は、冷涼であるので、あまり穀物の栽培には向かないので、かわりに酪農(らくのう)がさかんである。\n一般に、畑作では地力が低下しやすい。このため、毎年、畑で同じ作物を栽培しつづけると、生産量が低下する。いわゆる連作障害である。なので、1年ごとなどに作物を変える輪作(りんさく)をしたり、あるいは定期的に休閑(きゅうかん)させることが必要である。なお米をつくる稲作は、連作障害に強い。\nヨーロッパは、気候的に、あまり稲作には向かない地域である。稲作には、高温多湿な季節があって、降水量が多いことが必要だが、ヨーロッパは、その条件を満たしていない。\n地中海付近は高温だが、降水量が少ない。いっぽう、ヨーロッパ北部などは降水量はあるが、気温が低い。\n中世のヨーロッパ北西部では、三圃式農業(さんぽしき のうぎょう)が行われた。これは、地力の低下をふせぐために、耕地を3つに区分して、夏作物(大麦、えんばく)の耕地、冬作物の耕地、休閑地(きゅうかんち)として、1年ごとにローテーションさせることで輪作(りんさく)する栽培する方法である。\n休閑地には、地力回復の効果のあるクローバーを植えることもあった。\nなお、古代のヨーロッパでは、耕地を2つに区分して、耕地と休閑地とをローテーションさせることで輪作(りんさく)する二圃式農業(にほしき のうぎょう)が行われた。地中海沿岸では、中世にも二圃式農業が行われた。\nなお現在のヨーロッパで主流である混合農業は、三圃式農業が発展したものである。\n、混合農業はたとえば耕地を4つに区分して、夏作物、牧草、冬作物、根菜(かぶ、てんさい)を栽培し、さらに豚や肉牛などの家畜の飼育を合わせたようなものである。\nまた、家畜の排泄物を肥料として利用する。\n都市近郊の農業では、都市近郊では地価が高く、また現金が必要なので、販売価格の高い作物である野菜や花卉(かき)などの園芸作物の栽培が盛んになったが、このような園芸作物の農業を園芸農業(えんげい のうぎょう)という。\n近年では交通機関の発達により、都市から離れた地域でも園芸農業が行われているが、これを輸送園芸(ゆそう えんげい)という。\n現代のヨーロッパで行われてる農業は、\nである。\n三圃式農業は中世の農業であり、現代の主流ではない。\nヨーロッパ北部のノルウェーなどの海岸ぞいのギザギザした地形は氷河によって削り取られた地形である。このようなギザギザした地形をフィヨルドと言う。ノルウェーでは、この地形を活かし、漁業などの水産業がさかんである。\nヨーロッパには40カ国以上の国がある。国の多くは、国土の面積が、日本よりも小さい国が多い。\nヨーロッパの言語は、およそ3種に分類される。ヨーロッパ北西部の英語やドイツ語などのゲルマン語派と、南部のフランス語やイタリア語などのラテン語派と、東部のロシア語やチェコ語などのスラブ語派の3つの系統である。\n南部が中心。イタリア語、スペイン語、フランス語、ポルトガル語\n北西部が中心。イギリス語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語\n東部が中心。ポーランド語、チェコ語\nゲルマン語派、ラテン語派、スラブ語派ともにインド・ヨーロッパ語族である。\nなおフィンランド語、ハンガリー語はウラル語族。\nスイスでは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4言語を公用語として定めている。\nベルギーでは、ワロン語とフラマン語がある。\nヨーロッパの民族も、とても多くあるが、おおまかにはゲルマン民族、ラテン民族、スラブ民族の3つに分けることが出来る。\nヨーロッパではキリスト教が中心に信仰されている。キリスト教の宗派は、おおまかに3つの宗派に分かれる。古代からの教えを重んじるカトリックと、近世以降に宗教を改革したプロテスタントと、ルーマニアなどヨーロッパ東部でさかんな東方正教(とうほう せいきょう)である。\nカトリックはイタリアなど南部のラテン系の国家でさかん。\nプロテスタントはイギリスを中心にさかん。\n東方正教は、ヨーロッパ東部に多い。\nこのほか、アルバニア、ボスニア、コソボなどヨーロッパ南東部でイスラム教も信仰されている。\nこのほか、20世紀後半から、西アジアなどイスラム圏からの移民を受けいれたため、ヨーロッパ各国でイスラム教徒が増えている。\nイタリアの首都ローマの中にある国であり、世界最小の国であり、独立国でもある。ローマ教皇(ローマきょうこう)が住んでいる国である。キリスト教のカトリック宗派の中心地になっている。 \nヨーロッパ連合とは、ヨーロッパでの経済の統合など、ヨーロッパの国どうしで協力しあっている国家どうしの連合である。ヨーロッパ連合のことを EU(イーユー) という。\nEUの本部はベルギーの首都ブリュッセルにある。\nもともとは第二次大戦後に、ヨーロッパの資源の共同管理をすることで、資源をめぐる戦争をなくそうという平和目的として1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC,イーシーエスシー、European Coal and Steel Community)の設立が、戦争であらそったドイツとフランスを中心に設立された。結果的にドイツ・フランスにイタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルクを加えた6カ国で1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が設立された。\n似たような国際機関で、1958年にはヨーロッパどうしの経済協力を目的にヨーロッパ経済共同体(EEC イーイーシー、European Economic Community)が設立した。また1958年に原子力の共同管理のためのヨーロッパ原子力共同体(EURATOM 、 ユーラトム European Atomic Energy Community)が設立された。\nこのECSCとEECとEURATOMの3つが統合して、1967年にEC(ヨーロッパ共同体 European Community)が設立された。\nECの原加盟国はフランス、西ドイツ、イタリア、ベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の6カ国である。\nその後、ECは加盟国が増えていった。\n1992年のマーストリヒト条約で、経済協力だけでなく政治統合に向けても協力しあうことが合意された。オランダのマーストリヒトで調印されたので、マーストリヒト条約という。\n1993年にはECからEU(ヨーロッパ連合、European Union)に発展した。\nECが市場の統合を目指していたのにくらべ、EUはさらに通貨の統合や外交政策の共通化など、より踏み込んだ目標を目指している。\n2002年からEUの共通通貨のユーロ(Euro)が加盟国の多くで使われている。このため、それまで加盟国にあった通貨(たとえばドイツのマルク通貨やフランスのフラン通貨など)は回収された。\nEU域内で国境管理を廃止して、通行を自由化するシェンゲン協定(Schengen Agreement)が1995年に発効し、現在も実施されてる。このためEU域内では、パスポートなしで国境を通過できる。この協定は、ルクセンブルクのシェンゲンで調印された。\nただし、イギリス・アイルランドは、シェンゲン協定を実施していない。(北アイルランド問題などが理由だろう。)\nまた、EU非加盟であるスイス・ノルウェーはシェンゲン協定を実施している。\nフランスのストラスブールにヨーロッパ議会。\nベルギーのブリュッセルにEU本部に相当するヨーロッパ理事会およびヨーロッパ委員会。\nルクセンブルクにEU裁判所。\nドイツのフランクフルトにヨーロッパ中央銀行(ECB)。\n2000年〜2010年ごろ、旧ソ連圏の東欧諸国などがEUに加盟した。\nなお、近年、財政危機が言われているギリシアが加盟した年は1981年である。\nまたなお、トルコはEUに未加盟である。\n2010年ごろ、ギリシャの財政赤字によるギリシャ財政危機や、スペインの財政不安などが発生し、その結果、ユーロが急落し、財政の健全な他の加盟国も影響を受け、EUの金融政策にも弱点があることが明らかになった。\n一方で、ユーロの下落により、EU諸国の輸出産業には有利に働いたという側面もある。\nイギリスに属する北アイルランドでは、多数派のイギリス系住民(宗教はプロテスタント)と、少数派のケルト系住民(宗教はカトリック)が対立している。少数派のケルト系住民はアイルランドへの帰属を主張している。\n政治や経済ではイギリス系住民が優位に立っている。\n1998年に和平合意ができ、解決に向かっている。\nそもそもイギリス(グレートブリテンおよび北部アイルランド連合)とは、イングランド王国が、ウェールズ王国・スコットランド王国・北部アイルランドを併合して出来た国である。\n1945年〜1946年に結成された旧ユーゴスラビアは、社会主義で、多民族国家で、6つの共和国からなる連邦国家であった。\nセルビア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、スロベニア、マケドニア、モンテネグロの6ヶ国からなる。\n冷戦の終結時、民族運動が高まり、そして1991年にスロベニアとクロアチアが独立した。その後、ボスニア=ヘルツェゴビナやモンテネグロも独立。\n宗教は、ギリシャ正教、カトリック、イスラム教が混在している。ボスニアにはイスラム教徒が多い。\n各国の独立のさい、各国内で、民族対立や宗教対立が起きた。\nボスニア=ヘルツェゴビナでは民族・宗教対立から内戦になった。\nまたセルビアでは、2008年にコソボが独立を宣言したが、セルビア政府はこれを認めていない。\n旧ユーゴスラビアは指導者チトーによって率いられていた国で、「7つの隣国、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国」と言われた。\nイギリスとフランスとのあいだのドーバー海峡(ドーバーかいきょう)の海底に、海底トンネルのユーロトンネルがある。\n1994年にユーロトンネルが開通した。\nまた、そのユーロトンネルをつかった高速鉄道のユーロスターが、ロンドン〜パリ間を走る。\n産業革命のころ、製鉄や蒸気機関などの燃料には、石炭を用いていた。\nこのため、炭田のちかくに工業地帯が作られていった。\nしかし、第二次大戦後、石炭から石油にエネルギー資源が変化したこともあり(エネルギー革命)、炭鉱・炭田のちかくに立地する必要性がうすれたこともあり、むしろ沿岸部のほうが外国からの石油の輸入に便利なので、第二次大戦後は沿岸部に工業地帯があたらしく作られた。(例:イギリスのカーディフ フランスのダンケルク)\nまた、都市部の周辺に、電気機械などの工業地帯が作られるようになった。\nなお、ヨーロッパのかつての炭鉱などは閉鎖され、一部は観光施設などとして活用されている。\nフランスでは、航空機の産業が有力である。\n産業革命がヨーロッパのイギリスやフランスを中心にして起きた。古くからヨーロッパで近代工業が起こったことにより、ヨーロッパでは工業がイギリス、フランス、ドイツなどを発達した。\n今でこそ中国が(一昔前は日本が)「世界の工場」と言われているが、元はイギリスが「世界の工場」と言われていた。\n現在でも、イギリス、フランス、ドイツなどの工業の技術力も高い。\n第2次大戦後はアメリカや日本の工業が発達してきたので、ヨーロッパの国々は日米に対抗するため、ヨーロッパの企業どうしで協力しあっていることが多い。\nたとえば航空機の生産では、イギリス、ドイツ、フランス、スペイン、ベルギーの企業が、航空機の部品を分担して共同生産をしている。\nEUの4カ国(フランス、ドイツ、イギリス、スペイン)が出資したエアバス社により、各国で部品を作り、最終組み立て工場のラインがあるフランスのトゥールーズで組み立てている。\nヨーロッパ州は工業が古くから発達したことで、大気汚染などの公害や環境問題などにも直面した過去があり、そのため公害などへの規制がきびしい。人々の環境問題への意識も高く、リサイクルも普及している。また、太陽光発電や風力発電などの普及にヨーロッパ諸国は積極的である。\n東ヨーロッパは、工業がおくれており、賃金も安い。そのため、外国の企業が安い賃金の労働力を求めて、工場などを進出させている。日本の企業の工場やアメリカの企業の工場も、東ヨーロッパのチェコやポーランドやハンガリーに進出している。\nどのあたりを東ヨーロッパというかは、ポーランド、チェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどが東ヨーロッパである。\nチェコとポーランドとハンガリーの3カ国で工業がさかんである。とくにチェコは昔からの工業国である。冷戦中はソビエト連邦の主導する社会主義の陣営にチェコやポーランドやハンガリーなどは組み込まれたが、その中でもチェコは工業力の高い国であった。現在でも東ヨーロッパの中でチェコは工業がさかんである。\nいっぽう、ポーランドは東欧の中でも人口と国土が多い。ポーランドの国土の広さは、スペインと同じくらいである。(チェコとハンガリーの国土面積は、北海道と同じくらい。)そのため、今後の発展が期待されており、西ヨーロッパやアメリカなど外国の企業もポーランドに進出している。\n近代、グレートブリテン島の中央付近にあるペニン山脈から石炭が産出されたので、この石炭を産業革命のころは利用していた。\n18世紀にイギリスのマンチェスターを中心とするランカシャー地方で産業革命が起きた。ペニン山脈の西側の沿岸部にマンチェスターがある。産業革命時のマンチェスターでは綿工業が発達した。いっぽう、ペニン山脈の東側にあるヨークシャー地方では羊毛工業が発達した。\nこの東西での綿工業と羊毛工業の違いは、降水量のちがいによる、空気の乾燥のちがいであると考えられている。\n偏西風のためヨーロッパでは、山脈の東側と西側とでは、降水量がちがう。\nペニン山脈の西側は湿潤なため、綿工業の加工に適していたと考えられている。\nまた産業革命により、ペニン山脈の南側にあるミッドランド工業地帯が鉄鋼業などで栄えた。\n近代にはイギリスは「世界の工場」と言われるほどに製造業が盛んだった。近代には、その工業力を背景に、軍備も強大化し、世界の各地を占領し、世界各地に植民地を持っていた。\nしかし、第二次大戦後、植民地だった国が独立した。\nまた、1960年代、主要産業であった造船、自動車工業、機械工業など重工業が国際競争力をうしない、イギリスの経済が低迷し、イギリスの景気も悪化し、「イギリス病」と言われた。\nこのような景気の低迷を打破しようと、1980年代には改革がされ、国営企業の民営化や、各種の規制緩和が行われた。1980年代のイギリスでは、サッチャー首相(女性である)などの政治家が、このような規制緩和の政策をすすめた。\n近年のロンドンの工業地帯では、エレクトロニクス産業が盛んである。\n世界標準時の基準になってるグリニッジ天文台はロンドン郊外にある。\nイギリスの正式名称は、「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合」。イングランド、スコットランド、ウェールズ、北部アイルランド連合からなる。\n北海油田(ほっかい ゆでん)の開発によって、イギリスとノルウェーは産油国となった。\n現代でもイギリスには王室があり、また、貴族などの階級制度の残る国である。\n公用語は英語。宗教はおもにキリスト教のプロテスタントで、宗派はイギリス国教会。\nイギリスは国際連合の5つの常任理事国のうちのひとつ。(イギリス、フランス、ロシア(当時はソ連)、アメリカ、中国、の5つの国が国際連合の常任理事国である。)\nイギリスは核兵器の保有国でもある。\n高緯度であるが、周辺の海の暖流の影響により、緯度のわりには寒くない(西岸海洋性気候)。\n現代のドイツはヨーロッパでは最大の工業国である。\n自動車産業や電子工業や重化学工業がさかん。ライン川ぞいにあるルール工業地帯は、かつては石炭の産出地でもあり、鉄鋼業や重化学工業が、さかんであった。\nドイツのルール工業地帯はルール炭田の近くにあり、伝統的な工業地帯であるが、しかし第二次大戦後の石炭から石油へのエネルギー革命や、機械工業からエレクトロニクス産業への産業構造の変化などにより、ルール工業地帯は伸び悩んでいる。\n第二次大戦後のドイツでは、臨海部や消費地周辺に新たな工業地帯が作られていった。\n大都市周辺であるミュンヘンに、自動車工業やエレクトロニクスの工業地帯がある。\nドイツで話されている言語はドイツ語であり、英語では無い。\nおもな宗教はキリスト教でプロテスタントが信仰されている。\n冷戦時は東西ドイツに分裂していた。なお東ドイツがソ連など共産主義・社会主義の陣営で、西ドイツがアメリカ・イギリスなど資本主義・民主主義の陣営である。\n冷戦の終了によって1989年にベルリンの壁が崩壊し、1990年には西ドイツが東ドイツを吸収する形で東西ドイツが統一した。\n第二次大戦後、ドイツは、労働力不足をおぎなうため、移民を多く受け入れた。トルコなど地中海付近の国から多くの移民を受け入れた。\nまた、ポーランドなど東ヨーロッパ諸国からの移民も、ドイツには多い。\nライ麦、じゃがいもの栽培、酪農や、豚の飼育(豚肉の生産のため)などを組み合わせた混合農業が盛ん。(ソーセージなどは豚肉料理)\nイタリア北西部に重化学工業が多い。\n工業は、ミラノ、トリノ、ジェノヴァを中心に発達。\n南部は農業地帯。\nこれらに対し、ボローニャ、フィレンツェ、ヴェネツィアなどが服飾・皮革・家具製造などの企業が多くて盛んな地域であり、このようなイタリアの服飾・皮革・家具製造などの企業が多くて盛んな地域(ボローニャ、フィレンツェ、ヴェネツィアなど)を「第3のイタリア」(third itary ,「サードイタリー」)という。イタリアのこれら(服飾・皮革・家具製造など)の産業は世界的なブランドになっている。\nイタリアの宗教はカトリックが主に信仰されている。\n南部の農業は地中海性農業。\n北部の農業は混合農業。\n経済格差が南北のあいだにあり、北側が裕福で、南側が貧しい。\nフランスは、ヨーロッパを代表する農業国であり、小麦の生産がさかんである。フランスは農産物の輸出も多い。農業がさかんなため、食料自給率は100%を超えており、外国に農産物を輸出している。\n北部にあるパリ盆地で、小麦の生産が盛んである。\n地中海沿岸では ぶどう も生産しており、ワインの産業が有名である。\nフランスは工業国でもある。 航空機産業や自動車産業が、さかん。\n石油などのエネルギー資源にめぐまれず、そのため原子力発電を重視しており、原子力発電が全電力の7割を越えている。\n(※ 地理の範囲外 :)フランスは核保有国でもある。 (※ 『地理』科目では核問題は通常、範囲外なので。ただし『政治経済』科目では核問題を扱うので、問われる可能性あり。)\nかつては内陸部にあるロレーヌ地方で鉄鉱石が産出したので、ロレーヌ地方が工業地帯であった。だが現代では、フランス南北の沿岸部に工業地帯が立地している。北海沿岸のダンケルクや、地中海沿岸のフォスに、鉄鋼業などの重化学工業地帯が立地している。\nフランスの首都はパリ。芸術の文化がさかん。首都のパリは観光地でもある。 \n工業では、パリ周辺にも工業地帯があり、衣類・化粧品の工業や、自動車工業や機械工業などの工業地帯がパリ周辺にある。\nフランスは移民を入れているが、旧植民地であったアルジェリアなどの北アフリカ諸国からの移民も多い。\nまた、イスラム系の移民やその子孫もフランスに暮らしているが、フランスでは公立学校や官公庁などの公共機関では政教分離を徹底するので、公共機関での宗教的なシンボルの着用を禁止している。イスラム教徒にも政教分離を徹底させるため、フランスの公立学校では、イスラム教徒の女子学生・女子生徒などの髪をおおうためのスカーフやベールの着用を禁止している。\n国土の4分の1が(つまり25%が)、海面よりもひくい干拓地(かんたくち)であり、その干拓地はポルダーと呼ばれる。\nポルダーは塩分が多いので耕作に向かず、酪農が主に行われている。\nチューリップの栽培などの園芸農業や、バター・チーズなどの酪農がさかん。\nオランダの首都はアムステルダム。\n沿岸部のロッテルダムにヨーロッパ最大の貿易港になっているユーロポートを持つ。\nまた、ロッテルダムでは製油所や石油化学工場が多く、石油化学工業が発達している。(一般に石油化学の大工場は、輸入に便利な沿岸部に立地しやすい。日本でも同様。)\nスイスは、どこの国とも軍事同盟を結ばない永世中立国である。そのため、スイスはEUに加盟していない。\n中立の政策が、経済にも影響している。\nチューリッヒが、国際的な金融の中心地のひとつになっている。\n工業もさかんで、時計などの精密機械が盛ん。\n農業では、アルプス山脈中での涼しい気候をいかした、酪農(らくのう)が盛ん。\nスイスの公用語については、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4言語を公用語として定めている。「スイス語」という言語は無い。\n宗教も、カトリックとプロテスタントの両方である。スイスは、中立国ということから、国際会議などの開催の場所になることも多い。スイスには国際機関の本部も多く、たとえば世界保健機関の本部がある。フランスやドイツなどが加盟しているヨーロッパ連合(EU)には、スイスは加盟していない。\n永世中立というスイスの立場のため、第2次大戦後、ながらく国際連合にはスイスは加盟しなかったが、2002年にスイスは国際連合に加盟した。スイスは、その中立を維持するために、軍事力を高めている国である。スイスには徴兵制(ちょうへいせい)がある。\n水力発電が盛んで、アルミ二ウム工業が盛ん。\n北海油田から原油が産出されるので、イギリスとノルウェーは産油国である。\n高福祉国家としても知られる。\n社会保障の制度が充実していることで有名。しかし、福祉が充実しているぶん、税金も高い国としても有名。\n製紙工業が、さかん。\n首都はストックホルム。\nスウェーデンでは鉄鉱石が産出され、ドイツなどに輸出されている。\n自動車工業が発達している。\n育児を支援する制度が1980年代から充実し、出生率を上昇させた。\nスウェーデンは緯度が高く、気候が寒冷なことから、農業(畑、田)には適さない土地が多い。森林は耕地にはせず、森林のまま、森林資源として用いている。\nスウェーデンは1995年にEU加盟したEU加盟国である。だがスウェーデンは、EUの共通通貨ユーロを導入していない。\n中立国である。軍事に関していうが、日本では あまり知られてないが、スウェーデンは徴兵制(ちょうへいせい)を2010年まで行っていた。スウェーデンの徴兵制は、2010年に廃止された。\n酪農、養豚などの畜産、漁業がさかん。世界有数の酪農国。豚肉などの輸出国になっている。水産物の輸出国でもある。高福祉国家としても知られる。\n農業は、ライ麦・ジャガイモなどの栽培。\nシロンスク地方で石炭が産出される。\n住民のほとんどはスラブ系で、宗教はカトリック。\nプラハで工業が発達している。\n冷戦中はチェコスロバキアという国だったが、1993年にチェコとスロバキアという2つの国に分離。\nチェコ、スロバキアは両国とも、住民のほとんどはスラブ系で、宗教はカトリック。\nチェコの首都はプラハ。\n住民はウラル語族のマジャール人で、宗教はカトリック。\nドナウ川が流れる。\n首都はブダペスト。\nハンガリーの農業では、小麦の栽培、あるいは肉牛や豚などの飼育を組み合わせた混合農業が盛ん。\n住民の大半がラテン系で、宗教は東方正教。国名のルーマニアとは「ローマ人の土地」という意味。\nカルパティア山脈などから石油・天然ガスが産出する。\nルーマニアの農業は小麦が盛ん。あるいは混合農業。\nドイツの出生率は2010年の時点で約1.4であり、日本の出生率と近い。\nいっぽう、同時期(2010年前後)のフランスの出生率は1.8〜2.0であり、アメリカ合衆国の出生率と近い。\nまた、福祉の充実しているスウェーデンやデンマークの出生率も、じつは1.8〜2.0であり、アメリカ・フランスと、あまり差が無い。\nフランスは、北欧と違って高福祉・高負担というわけでもないのに、フランスでの出生率がアメリカ・北欧なみに高いことから、近年、各国の少子化対策政策においてフランスが注目されている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91"} {"text": "日本の隣国といえる国は何処でしょうか?ロシアは世界で一番大きな国です。ヨーロッパとアジアの両方にあり、地下にはたくさんの資源が眠っています。日本の重要な隣国でもあります。領土問題が解決していないため、「近くて遠い国」と呼ばれるロシアについて、私達はあまり知りません。ソビエト連邦が国としてロシアになった後の様子を学んでみましょう。\nロシア連邦はユーラシア大陸の北半分に位置し、そのほとんどが日本より高緯度です。アジアからヨーロッパにまたがる世界最大の国土を持ちます。ロシア連邦の大きさは、日本の約45倍(東西1万1000km)にもなります。そのため、11の標準時帯に分かれ、東端と西端では昼と夜がほぼ入れ替わっています。\n行政的に、国全体は8つの連邦管区と83の連邦構成主体に分かれています。連邦構成主体のうち26は少数民族を中心とした共和国、自治区、自治管区です。このうち、2大都市モスクワとサンクトペテルブルクは、連邦政府が直接管轄しています。\nロシアの地形は、大きく分けて次の通りです。\n東ヨーロッパ平原\n[ヨーロッパロシア]\n西シベリア低地と中央シベリア高原\n[シベリア]\nかつてシベリアは、ウラル山脈より東の地域の名称でした。現在、この地域のうちサハ共和国とアムール州以東の地域を極東ロシアに分類しています。\n特に、東シベリアから極東ロシアまでの冬はシベリア高気圧に覆われ、オイミャコン周辺は北半球で観測史上最も寒い場所とされています。\n春から夏にかけて、北極海に注ぐオビ川、エニセイ川、レナ川などの上流では雪が解け始めても下流では凍ったままなので、しばしば氾濫します。また、路面の凍土層が解けて路面が柔らかくなると、通行出来なくなる場合もあります。そのため、シベリア北部の鉱業都市では、ほとんどの人が飛行機を使って他の地域と行き来しています。さらに、永久凍土が多い地域では、高床式の建物も見かけます。これは、床と地面の間に空間を作り、暖房で永久凍土が柔らかくなって、建物が沈んだり傾いたりしないようにするためです。\nロシアは、ユーラシア大陸の北部のほとんどを占めています。シベリアを含むロシアのほとんどは、冷涼な寒帯や亜寒帯気候です。国土の約30%で、1月の平均気温が-30℃を下回り、半年以上寒さが続きます。海の影響を受けないので、そのほとんどが大陸性気候です。そのため、一年を通して寒い時期と暖かい時期の差が大きく、春と秋の季節がとても短く感じます。\n厳しい気候のため、北極海沿いのツンドラ気候の地域を除き、国土のほとんどがタイガと呼ばれる針葉樹林に覆われています。東ヨーロッパ平原の南部だけがわずかに耕作出来る土地を持ち、そのほとんどが寒さと旱魃から守らなければなりません。チェルノーゼムが分布するステップ気候地帯や気候が比較的穏やかな混合林が広がる地域は、ロシアの南西部や南部の国境付近の地域に限られています。ここに多くの人が住んでいます。特に、黒海とカスピ海に挟まれた地域は、世界でも有数の保養地として知られています。\n資源や産業の面では、国内にある石炭や鉄鉱石を利用して重化学工業が成り立っていました。しかし、原油や天然ガスは自国で十分に確保出来ないため、ロシアから輸入する必要がありました。しかし、ここ数年、ロシアが天然ガスの値上げを計画し、それに対してウクライナが天然ガスの輸送を停止するなど、天然資源をめぐる問題が起きていました。\n2014年、親ロシア派の住民と西側諸国を支持するウクライナ政府との間で争いが発生しました。この内戦はウクライナ東部からクリミア半島に広がり、そこにロシア軍が介入して内戦[1]が発生しました。ロシアはクリミア半島の領有を一方的に宣言し、世界から強く反発されました。\n2022年には、ロシアがウクライナに大規模な侵攻を開始し、戦争になりました。現在(2023年8月)も戦争が続いています[2]。\nそしてこの侵攻により、ロシアは、Euやアメリカなどからの国際社会から経済制裁を受けた[3]。\nウクライナは穀物輸出国でもあるため、ウクライナ侵攻により、世界の穀物の貿易に大きな影響を与えた[4]。\nウクライナに関する地名の表記を、日本政府は2022年以降から、従来のロシア語表記に代わり、新しくウクライナ語に合わせた表記に変更している。\nつまり、\nキエフ(古い) → キーウ (新しい)\nオデッサ → オデーサ\n \nドニエプル川 → ドニプロ川\nなど[5]。\nハリコフ → ハルキウ\nなお、キーウ(キエフ)はウクライナの首都。ハルキウはウクライナの都市のひとつ[6]。\nロシアは20世紀初頭まで皇帝が統治していました。しかし、1917年のロシア革命の後、1922年、ロシアの共産党は世界最初の社会主義国を作りました。これが、ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国)です。ソビエト連邦では、ロシア帝国の広大な国土のほとんどを手に入れました。第二次世界大戦後は、その軍事力の強さから、世界の超大国としてアメリカと対立していました。これが冷戦の始まりです。しかし、経済の停滞や民族間の対立から、1991年にソ連は15の国に分裂してしまいました。以降の、ロシアはソビエト連邦の一部だった頃に比べ、世界での政治的・経済的な力関係が大きく低下しています。ロシアは最も人口が多く、国土も最も広い国です。カザフスタンなどの中央アジア諸国やアゼルバイジャンなどのカフカス地域諸国はソ連を離れ、完全な独立国家となりました。\nソ連がロシアに変わってから、土地も国境もずいぶん変わりました。ヨーロッパの海の玄関口であるバルト海や黒海では、海に面した国土がずいぶん減りました。また、多くの国がソ連を脱退したため、中央アジアの国境が変わりました。そのため、ウクライナやカザフスタンなど、かつてソ連に属していた国からロシアに移住してきたロシア系民族もいます。しかし、それらの国に留まる者も多く、民族紛争の火種を残しました。2014年には、ロシア人が多く住む地域をめぐって、ロシアとウクライナの間で対立が起きました。その後、2022年からロシアが一方的にウクライナに侵攻しました。\nソ連解体後、ロシアは出来るだけ多くの共和国と仲良くしようとしました。そこで、旧ソ連構成国と一緒になって独立国家共同体(Common wealth of Independent States)を作り、政治的・経済的に協力し合う緩やかな独立国家の集まりとしました。独自の議会や憲法を持たず、首脳会議や閣僚会議も必要な時にしか開かれません。しかし、ソ連の一部だったバルト三国やトルクメニスタンは参加せず、後にロシアと大喧嘩したジョージアも脱退しました。カザフスタンとベラルーシは、今加盟している9カ国のうちの2カ国です。この共同体が出来た最大の理由は、世界各地に設置されたソ連時代の核兵器や軍事基地を処理するためでした。これらの基地は全てロシアが管理するようになっていたため、CISは軍事・安全保障面での協力が中心で、経済面での協力はあまり行われていません。このように、CISは緩やかなつながりのある国の集まりなので、EUやアメリカに近づこうとする国もあります。\nロシアは多民族国家ですが、そのうち約8割がスラブ系のロシア人です。\nトルコ系やモンゴル系など大小100以上の民族からなります。このうち、人口50万人を超える民族は15もあります。また、北極海周辺には、アジア系少数民族の住む大きな共和国や自治管区があります。さらに、カフカス地域やヴォルガ川流域には、チェチェン人やタタール人の住む共和国が多く見られます。\n総人口の多くを占めるロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は、インド・ヨーロッパ語族のスラブ語派に分類される言語を話しています。また、アルタイ語族やウラル語族の言語を話す人々もいます。公用語はロシア語で、キリル文字が使われており、様々な民族語が話されています。宗教は東方正教(ロシア正教)が最も一般的ですが、イスラム教徒、ユダヤ教徒、仏教徒もいます。\nロシアの国境付近では、民族や土地をめぐる紛争が絶えず、外国人投資家の悩みの種となっています。特に、カスピ海と黒海に挟まれたカフカス地域は異民族が多く、ロシアのチェチェン共和国のように政治的に不安定な場所も少なくありません。2008年には、ソビエト連邦の解体により独立したロシアとグルジアの国境で、軍事衝突がありました。民族間の対立が大きな原因となりました。日本は極東にある北方領土の返還を求めていますが、まだ解決していません。\nソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)では、共産党が計画経済を運営していました。計画経済とは、生産、流通、販売の全てを中央の計画機関によって支配する経済体制をいいます。ソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)が崩壊して民間企業による市場経済に転換した時、ロシア国民の生活は大きく変わりました。資本主義の発展とともに、経済の効率化が最も重視されるようになりました。この結果、非効率的な国営企業は閉鎖され、多くの人々が職を失いました。計画経済から市場経済への転換が早すぎたため、ロシア経済は他の東欧諸国の経済よりも混乱しました。ロシアの国内総生産(GDP)は6年連続で減少し、世界恐慌時のアメリカよりも悪くなっています。\nソビエト連邦時代、国民は教育、医療、社会保障を無料で受けていました。しかし、ソビエト連邦の崩壊後、これらを無料で受けられず、それに代わる制度も完全に整備されていません。しかし、物価が上がり、新たな富裕層が生まれても、失業者や退職者など弱者の生活は苦しく、貧富の差は大きくなる一方です。また、外国資本が急成長しているヨーロッパロシアとそれ以外の地域では、所得に大きな差があります。したがって、このような差を解消しなければなりません。ロシアでは自殺者やアルコール中毒者が増えているだけでなく、出生率が下がっているため、人口が減り続けています。\n市場経済への転換による混乱で、食料品や日用品の不足は深刻でした。当時、小売店に並ぶのはロシアの風物詩とさえいわれました。しかし、今は経済が良くなり、消費財も増え、買い物も以前ほど苦労しなくなりました。日用品が充実し、耐久消費財の需要が高まり、自家用車が急速に普及するなど、人々の暮らしがどんどん良くなってきています。\n大きな変化の中で、変わらないものもあります。都市部ではほとんどの人がマンションに住み、田舎ではほとんどの人が小さな家に住んでいます。大都市では約半数の家が郊外に簡素な木造の別荘ダーチャを持ち、週末や夏休みを過ごしています。庭では農作業を楽しみ、手に入りにくい野菜や果物を採って生計を立てています。スポーツも自由な時間の過ごし方として人気があり、バレエや演劇、コンサートを好む人も少なくありません。\n政治体制が変わった後、経済危機が起こり、人々は就職先があるかどうかわからなくなりました。そのため、経済基盤の弱い農村部や地方の小都市から大都市や地方都市に人々が移動するようになりました。ウクライナや中央アジア、バルト三国を離れた多くのロシア人が大都市に移り住んでいます。\n首都モスクワは、人口1000万人を超えるヨーロッパ最大の都市です。1990年代以降、急速に発展を遂げましたが、その成長の多くは金融などの第三次産業で起こっています。高層ビルが立ち並び、郊外には大型ショッピングモールが立ち並ぶ副都心のオフィス街は、市場経済への転換で生まれた新しいロシアの姿を表しています。モスクワが世界で最も物価の高い都市と言われるのは、それだけ多くの人が住み、移動が容易だからです。その他、サンクトペテルブルクやニジニノヴゴロド(旧ゴーリキー)など、ヨーロッパロシアの大都市も中心都市として大きく発展してきました。\n農業分野でも、ロシアの市場経済化の影響を感じさせます。ソ連時代は、コルホーズ(集団農場)とソフホーズ(国営農場)によって大規模な生産と販売が行われていました。しかし、市場経済に移行すると、土地の個人所有が認められ、多くのコルホーズやソフホーズが民間企業に再編され、運営されるようになりました。また、生産性の高い企業的な農業への転換が容易でなく、農業法人の成長も遅れています。極東では、農産物を近隣のアジア諸国から購入する傾向が強まっています。さらに、家族経営の農家はあまり増えていません。そのため、穀物やテンサイ、油脂用の向日葵などは、ほとんどが個人所有の大農場で栽培されています。一方、ソ連時代から認められている農場では、野菜や果物、肉などを栽培し、定期市や路上で販売されています。\n【現代ロシアの農業形態】\nロシアの自然環境は南北で異なり、東西に伸びる農業地帯も少なくありません。チェルノーゼムのある黒土地帯では、小麦を中心とした穀物栽培が盛んです。ヨーロッパロシアではライ麦やジャガイモの栽培が盛んで、豚や牛を飼育する混合農業が見られます。沿岸部では漁業が盛んで、日本向けの水産物製造が主な産業となっています。\nこのように、ロシアの主要作物は、小麦、大麦中心の穀物栽培とジャガイモ、テンサイなどといった耐寒性作物です。中でも、小麦はロシアの主要輸出品目です。ロシアは作物を栽培出来る土地が豊富ですが、単位面積あたりの生産性はヨーロッパに比べると下がります。\n商業・サービス業の成長に比べ、工業の再生は各部門で大きく異なっています。ソビエト連邦時代には、ウラル山脈の南部やクズネツク炭田といった場所が、様々な種類の資源を結びつけてコンビナート方式の重工業地帯となりました。コンビナートとは、鉄鉱石や石炭などの資源とそれを利用する産業を結びつけて、計画的に設置された工業地帯をいいます。ソビエト連邦崩壊後、経済の混乱でこれらの重工業は大きな打撃を受け、低迷していましたが、少しずつ回復してきています。\nここ数年、ロシアの製造業が世界的に注目されています。ロシア連邦に加盟して以来、サンクトペテルブルクの港湾や交通網は急速に発展してきました。また、自動車や家電などの産業が大きく変化し、製造業の中心地となろうとしています。2005年には経済特区を設け、外国資本を導入し、欧米や韓国、日本などの企業も入ってきました。2005年には、研究開発のための技術導入区と工場生産のための工業生産区が設置されました。一方、繊維産業を始めとする軽工業は、安価で高品質な外国製品に押され、不振が続いています。\n市場経済への転換により、特に第三次産業が成長しました。生産活動が民営化され、価格の自由度が高まったからです。特に携帯電話やインターネットの普及で、通信・情報部門の成長は驚くばかりです。また、商業・サービス業も急成長しました。スーパーマーケットをはじめとする商業施設は、ロシア各地で見られます。\n現在のロシアでは、鉱物資源の開発が産業・経済の大部分を占めており、原油や天然ガスの輸出量は世界でも上位に位置しています。西シベリアは、石油や天然瓦斯が多く作られている場所です。以前は、永久凍土から原油や天然ガスを取り出すのに高い費用がかかるため、人々はそれを実行に移せませんでした。しかし、今では、それを実現しようとする動きが加速しています。また、金や鉄鉱石の埋蔵量も世界有数です。\nシベリアには、プラチナ、金、銅の鉱山があります。極東には、ダイヤモンド鉱山があります。ヨーロッパロシアでは、沿海州とウラル地方に最も多くの原油と天然ガスが埋蔵されています。チュメニには国内最大の油田があります。エニセイ川やヴォルガ川では、大きな水力発電所が同時に建設されています。\nロシアの対外貿易を見ると、これらの鉱物資源の輸出が外貨獲得の大半を占めているため、資源を加工して付加価値をつける産業が十分に育っていません。また、すでにある油田やガス田の有効利用よりも、新たな鉱脈や鉱床の開発が重視されてきました。そのため、乱開発や自然環境の破壊といった問題が発生しています。\nロシアは天然資源が豊富ですが、国土が広いため、なかなか国が発展しません。首都モスクワと日本海に面したウラジオストクの間には7時間の時差があります。また、地形的に物資の運搬や通信が困難です。エニセイ川以東は山が多く、人も少ないので資源開発が進んでいません。鉄鉱石を除き、ロシアの鉱物・エネルギー資源の多くは、東部と北部に偏って分布しています。そこで、シベリア鉄道やバム鉄道、パイプラインなどの長距離輸送路を整備し、これらの資源を輸出して国内で利用出来るようにしました。\n北極を中心に描かれた地図を見ると、カナダ、アメリカ、日本、中国、EUが、世界最大の国であるロシア(EU)に寄り添っています。つまり、ロシアは世界経済に大きな影響を与える国々に囲まれているため、地理的・経済的に有利な立場にあります。\nロシアは、資源大国です。シベリアや北極海沿岸には石油や天然瓦斯などの地下資源がたくさんあり、石油や天然ガスを中国や日本に送るパイプラインの建設も計画されています。しかし、現時点、エネルギーの結びつきはEU諸国が中心です。サハリン(樺太)の石油や天然ガス、極東ロシアの石炭、海産物、木材などが日本への重要な輸出品となっています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%A8%E5%91%A8%E8%BE%BA"} {"text": "北東部にはカナダ楯状地が広がる。\nカナダ楯状地の南側あたりに、中央平原が広がる。\n中央平原は、構造平野である。\nカナダ楯状地のラブラドル高原からは鉄鉱石が産出される。\n西部のロッキー山脈は新期造山帯のため、周辺では地震が発生する。また、ロッキー山脈は環太平洋造山帯の一部である。また、カリフォルニア州あたりにあるサンアンドレアス断層は、プレートのずれる境界にあたり、地震が多い。\nまた、ロッキー山脈は比較的に険しい山脈である。\n東部のアパラチア山脈は古期造山帯であり、比較的なだらかである。一般的に古期造山帯では石炭が取れやすい。アパラチア山脈でも石炭が取れる。\n西海岸のIT産業地域「シリコンバレー」が有名であるため、てっきり「シリコンバレー」の近くに半導体産業の地域が多そうだと思いがちだが、実態は、ちがう。実際にはアメリカ合衆国各地に半導体産業の地域がある。ただし、北部はすでに鉄鋼業など重工業の開発が進んでいるため、中部や南部に半導体産業の工業地域が多い。もちろん、シリコンバレーの近くにも、半導体工場の多い地域がある。\n1950年代ごろまでの古くからの工業地帯はアメリカ合衆国の北部に多く、この一帯をスノーベルトと言う。\nいっぽう、新しい工業地帯は南部に立地した。アメリカ合衆国の北緯37度以南をサンベルトという。\nサンベルトに、1970年代ごろから、エレクトロニクスなどの新しい工業地帯が立地した。それ以前の第二次大戦前の昔は、綿工業くらいしか、南部には、おもな工業が無かった。\nカリフォルニア州、フロリダ州、テキサス州が、サンベルトである。\nアメリカ北東部のボストン周辺に エレクトロニクスハイウェー と言われるエレクトロニクスの工業地帯がある。\nまた、この北東部のボストンのあたりは、歴史的にはヨーロッパから移住してきた白人たちの初期の入植地であり、ニューイングランドと言われる。\nなお、ボストン周辺にマサチューセッツ工科大学やハーバード大学がある。\nまた、ボルティモアやフィラデルフィアでは、輸入鉄鉱を利用した鉄鉱業が発達しており、製鉄所が立地している。\n\nテキサス州のダラス周辺に、シリコンプレーン と言われるエレクトロニクスの工業地帯がある。\n日本ではあまり知られていない企業だが、「テキサス・インスツルメンツ」という、エレクトロニクス部品の世界的な大企業が、テキサス州のダラスに位置している。\nまた、南部の海岸沿いにあるヒューストンでは、NASA(アメリカ航空宇宙局)の宇宙センターがあり、また、航空機産業が発達している。\nまた、メキシコ湾岸に油田がある。\nメキシコ湾岸沿いにあるヒューストンやニューオリンズで、石油化学産業が発達している。\nメサビの鉱山で、鉄鉱石が産出されていた。アパラチアで石炭が産出されていた。これらメサビとアパラチアを五大湖の水運で結び付けて、鉄鋼業などの重化学工業が発達した。\nピッツバーグやクリーブランドで鉄鋼業が発達した。\nデトロイトで自動車工業が発達した。\nシカゴは周辺に農業地域があるため、農業機械の産業や食品加工産業が発達している。\nかつて、五大湖沿岸の鉄鋼業が、アメリカでも最大だったが、近年、メサビ鉄山の枯渇などにより、輸入鉄鉱をもちいる大西洋岸のボルティモアなどの臨海部の工業地域に押され、五大湖沿岸の鉄鋼業の役割は低下している。\nカリフォルニア州のサンフランシスコ郊外にシリコンバレーがあり、電子機器工業、ソフトウェア工業などが発達している。\nまた、シアトルやロサンゼルスで航空機工業が発達している。航空機の世界的大企業のひとつであるボーイング社の本社は、シアトルにある。\nカリフォルニアには油田がある。\nアメリカ合衆国は50州からなる連邦国家。\nもともとは先住民として北アメリカ大陸にはモンゴロイドのインディアン(あるいはネイティブ・アメリカンとも言う。)やイヌイットなどが住んでいた。\n15世紀のおわりごろの1492年に、コロンブス(英: Columbus、イタリア語: Colombo)がヨーロッパ人としては始めてアメリカ大陸を発見した。\nそれから、17世紀にはイギリス人やフランス人やスペイン人などのヨーロッパ人がアメリカ北東部から移住を始めて、アメリカ大陸を侵略した。\nヨーロッパからの移民は、原住民から土地を奪った。住む場所を奪われた先住民たちは人口が減っていった。そのようなヨーロッパ人による侵略を、ヨーロッパ人は、「開拓」「入植」などと言った。\nイギリスはおもに東海岸沿いを侵略して領有し、フランスはおもにミシシッピ川沿いを侵略して領有した。\nアメリカ合衆国の白人の多くは、先祖がヨーロッパから移住した移民でありアメリカに住み着いたものである。イギリス系の白人がもっとも多い。アメリカ合衆国の政治を握る人種は、長い間、白人のアングロサクソン系のプロテスタントが政権をにぎってきた。これらの人種をWASP(「ワスプ」と読む)と言う。WASPとは、 White(ホワイト) ・ Anglo-Saxon(アングロサクソン) ・ Protestant(プロテスタント) の頭文字をとった略語である。\nここで言う「アングロサクソン」とは、先祖がイギリス系の民族や人種のこと。\nアメリカ大陸では、17世紀から18世紀にかけて、労働力を確保するためにアフリカ大陸から黒人が奴隷として多く連れられてきた。\nとくにアメリカ合衆国の南部では、綿花などのプランテーション(plantation [1])のための労働力として、アフリカから黒人が多く連れられてきた。\nこのため、現在の黒人は、南部の綿花地帯(コットンベルト)に多く住んでいる。\n1862年には、開拓民が5年間定住した開墾したら、無償で約65haの公有地を与えるホームステッド法(Homestead Act)が実施された。\nまた、第二次大戦後ごろから、ヒスパニック(Hispanic)が増えた。ヒスパニックとは、メキシコなど中米、南米からの移民のことである。\n「ヒスパニック」という単語はもともと、スペイン系の何かをあらわす形容詞である。メキシコなど中南米の国にはスペイン語を公用語とする国が多いので、メキシコやキューバやプエルトリコなどからの移民をヒスパニックという。\nカリフォルニア州やテキサス州などのメキシコに近い南西部の州にヒスパニックの住民が多い。\nなお、メキシコやキューバなどと、ブラジルやアルゼンチンなどには、スペインやポルトガルなどのラテン系ヨーロッパ人が入植して侵略して開拓していったので、これらメキシコ、キューバなどカリブ海諸国と、南アメリカ大陸の諸国をあわせて、ラテンアメリカという。\nアメリカ合衆国は多民族国家であり、「人種のサラダボウル」(じんしゅのサラダボウル)(salad bowl)と言われる。\nアメリカの人口の中では、白人がもっとも多く、他には先住民や、黒人や、南アメリカからの「ヒスパニック」とよばれる移民や、アジア系の民族などがいる。\n昔は「人種の るつぼ」(melting pot)と呼ばれていた。「るつぼ」(melting pot)とは、合金をつくるときなどに溶かした金属を入れるための容器のことである。合金がまじり合って、新しい別の性質を持った金属になるように、ことなる人種の文化が交じり合って新しいアメリカ文化になる、というふうな考えかたである。しかし、近年になり呼び方が変わり、それぞれの民族の独自性を尊重するという考えから、「人種のサラダボウル」(salad bowl)という表現に変わって、「人種のるつぼ」とは言われなくなった。\nアメリカ合衆国は、とうもろこし、大豆、綿花、小麦の、世界有数の生産国になっており、輸出も盛んである。\n大手の穀物商社である穀物メジャー(major grain companies)という、ごく一部の商社たちが、穀物の価格決定に大きな影響を与えている。穀物メジャーは、「エレベーター」と呼ばれる巨大貯蔵施設をもっている。\n農産物の生産だけでなく、農産物の加工や流通、農業機械の生産や販売、農産物の販売、農薬、肥料など、農業に関するさまざまな産業をまとめて、アグリビジネス(agribusiness)という。\n大規模農場で様々な機械を用いた、企業的な大量生産が行われている。そのため、土地生産性は低いが、労働生産性は非常に高い。\nその他、遺伝子組み換え作物(GMO、genetically modified organism)なども、アメリカの農業では積極的に導入している。\n五大湖沿岸からニューイングランドにかけての農業では、酪農が盛んである。\n五大湖周辺は、気候が冷涼であり、また土地が痩せているので、あまり農地には向かない。いっぽうで、五大湖周辺は大都市に近く、また冷涼な気候が、酪農に有利である。\n北東部の大西洋岸では、都市に向けた野菜などの園芸農業が盛んである。\n五大湖の南にあるアイオワ州とイリノイ州ではトウモロコシの生産が盛んであるので、アイオワ州とイリノイ州はコーンベルト(corn belt)と言われる。また、アイオワとイリノイでは、大豆の生産も盛んである。さらに、肉牛の飼育や養豚を行う混合農業が盛んである。\n家畜の飼料のトウモロコシなどが安価で豊富なので、出荷前の肉牛を太らせるのに、フィードロットといわれる施設が利用される。\nアメリカ中部にあるカンザス州では、冬小麦の栽培が行われる。この地域は、比較的に雨が少ない。世界で生産される小麦の多くは、冬小麦である。\n緯度の高いノースダコタやサウスダコタでは、春小麦の栽培が行われる。春小麦は、春に種をまき、夏から秋に収穫するので、小麦が冬をこせない地域でも収穫できる。このため、寒冷なノースダコタなどの農業では、春小麦を生産している。\n南部のジョージア州からテキサス州にかけて、かつては綿花の栽培が盛んな地域であり、コットンベルトと言われる。近年では、産業構造などの変化により、大豆やとうもろこしなども生産していたり、牧畜などの混合農業もしていたりする。\nまた近年では、カリフォルニア州など西方に綿花栽培地帯が拡大している。\n奴隷制があった時代、黒人奴隷を南部のプランテーションの農場で多く働かせていたので、これら南部の地域には黒人が多い。\nロッキー山脈東側のグレートプレーンズでは、肉牛などの牧畜が見られる。この地域は、雨が少なく、かつては農業には向かなかったので、牧畜が発達した。しかし近年では、灌漑が発達し、センターピボットによる灌漑が行われている農場もある。\nカリフォルニアの気候は地中海性気候である。カリフォルニアの農業では、オレンジ、ブドウ、野菜などをつくっている。農場の労働者に、メキシコ系(ヒスパニック)の労働者が多い。\nカナダは小麦の世界2位の輸出国。カナダの小麦は、春小麦である。一般に寒冷な国で小麦を栽培する場合には、冬の前に収穫できる春小麦を栽培する。\nカナダは寒冷なため、国土のほとんどは、農地に向いてない。カナダの南部で、農業を行っている。\nカナダは森林資源にも恵まれていて、カナダは木材やパルプの世界的な輸出国である。\nアメリカとカナダとメキシコの3国は、北米自由貿易協定(NAFTA、ナフタ)を結んでいる。NAFTAは1994年に発効した。NAFTAによって、域内関税を撤廃している。\nNAFTAの3国合計のGNPの規模は、EUに匹敵する。(なお、2018年以降、NAFTAはUSMCAに更新されている。[2])\nカナダとアメリカのあいだには、フェンスや壁などはなく、自由に通行できる。\nいっぽう、アメリカとメキシコのあいだは、フェンスや壁などがある。\n五大湖の周辺で、工業がさかん。スノーベルトに含まれる。\nカナダでは水資源が豊富なため、水力発電がさかん。また、水力発電の電力をいかして、カナダではアルミニウム産業が盛んである。\nロッキー山脈の東部あたりで石油が産出される。\n先住民はインディアンとイヌイットである。ヨーロッパ人でカナダに最初に入植した民族はフランス人だが、のちにイギリス人が入植し、イギリス領になった。\nこのため、歴史的に、イギリス系とカナダ系との対立がある。\nその後、カナダはイギリスから独立した。\n現在、イギリス系住民がカナダ国民の大半を占める。しかしケベック州ではフランス系住民が多い。\n首都のオタワは、イギリス系住民の多いトロントと、フランス系住民の多いモントリオールとの、中間にある。\n近年、イヌイットが多数を占めるヌナブト準州が成立した。\n(※ 範囲外: )治安は世界の中でも良い国である。人種差別や不平等も少ない。 [要出典]\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB"} {"text": "※後日、本文を大幅加筆する予定です。\n参照:中学校社会 地理/南アメリカ州\n工業化される以前のブラジルは、単一作物による農業国でした。輸出の約7割がコーヒーでした。現在も世界最大のコーヒー輸出国ですが、ブラジルの全輸出量のうちコーヒーは3%程度に過ぎません。\nブラジルは1960年代末から1970年代初めにかけて、年率10%以上の経済成長を遂げました。これはブラジルの奇跡と呼ばれました。外国資本の援助と輸入代替工業化政策を取って、工業を近代化したからこそ実現出来ました。ブラジルは、安価な労働力を利用して産業構造を変え、重化学工業を発展させました。その結果、それまで多くの重化学工業製品を輸入していたブラジルは、自国で製造を開始しました。\nブラジルの経済は急成長しました。しかし、物価が年間25〜30%上昇し、累積債務問題、金融危機もあったため、不況も経験しました。その都度、政府は輸入を自由化し、国有企業を売却しました。これによって物価の上昇が止まり、経済が再び成長するようになりました。また、1995年にはMERCOSUR(南米南部共同市場)が設立され、ラテンアメリカの経済が立ち直れるようになりました。その後も経済成長に大きく貢献しています。MERCOSUR(南米南部共同市場)は、経済を改善するための地域経済統合です。アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ブラジル、ベネズエラ、ボリビアが加盟しています。ブラジルはMERCOSURで重要な役割を果たす一方、ロシア、インド、中国、南アフリカ共和国とともにBRICsに加盟し、世界経済への影響力を強めています。\n赤道付近を流れるアマゾン川の流域の気候は熱帯雨林気候である。なお、アマゾン川流域の熱帯雨林や、ラテンアメリカの熱帯雨林のことをセルバという。\nアマゾン川流域の地域の農業では、キャッサバなど熱帯の作物を栽培するのが盛んである。\n(※ アフリカの熱帯でのキャッサバ栽培と類似。)\n焼畑農業が主流。(※ アフリカの熱帯と、類似。)\nそして、ラテンアメリカの熱帯雨林の周辺にあるブラジル高原(カンポ)やオリノコ川流域(リャノ)の気候は、サバナ気候である。(※ アフリカの熱帯の周辺にもサバナ気候がある。類似。)\nブラジル高原あたりをカンポという。\nオリノコ川流域をリャノという。\n1960年以前のブラジルではコーヒー豆の生産が有名だった。しかしブラジルでは1970年代ごろから、サトウキビや大豆の生産が盛んである。とはいえ、ブラジルのコーヒー豆の生産量は世界1位である。(コーヒー豆生産の2位はベトナム、3位はコロンビア)\nブラジルは大豆の生産量で世界2位。(大豆生産の世界1位はアメリカ合衆国、3位はアルゼンチン)\nブラジルの大豆生産地は、赤道からは、やや外れた、ブラジル高原南部にある。\nバナナは、ブラジルが世界でも有数の生産量。(バナナ生産量はエクアドルが世界1位。)\nこのように、ブラジルの農業は多角化が進んでいる。\nアルゼンチンでは、ラプラタ川流域に、パンパと呼ばれる草原地帯がある。パンパでは肥沃な黒色土(パンパ土)が分布している。\nまた、ラプラタ川流域で、大豆の生産が盛ん。\nパンパには、降水量の比較的多い湿潤パンパと、降水量の少ない乾燥パンパがある。乾燥パンパは農業に向かず、羊などの放牧などに利用される。\n湿潤パンパが農業に利用される。湿潤パンパで、小麦やトウモロコシやアルファルファなどが栽培される。\n大土地所有制のエスタンシアが残っている。\nなお、アルゼンチンの住民には、ヨーロッパ系白人が多い。\nチリ沖合は寒流であるペルー海流が流れるため、上昇気流が生じにくく、降水量は少ない。\nそのために北部は砂漠気候でありアタカマ砂漠が分布するが、南部は偏西風域内にあるためその影響が強く、西岸海洋性気候である。\nなお、アルゼンチン南部のパタゴニアにも砂漠があるが、これは、偏西風の、山脈の風下側にあるため。(チリ北部の砂漠と、アルゼンチン南部の砂漠は、発生原因が違う。)\n降水量の少ないチリ中部では、ブドウの栽培が盛ん。(ブドウは降水量が少なくても育ちやすい。日本の甲府盆地などを思い出そう。)\nペルーなど、アンデスの山岳地帯での農業は、低地ではトウモロコシや周辺諸国の農産物と同じような作物を栽培しているが、しかし標高が高くなるにつれて小麦やジャガイモやトウモロコシなどが栽培される。\nさらに標高が上がり、さらに寒冷になると、耕作限界をこえるので、リャマやアルパカなどの家畜を放牧する。\nなお、ペルーの住民には先住民のインディオが多い。\n(※ 定期試験レベルの基礎知識)\nラテンアメリカの先住民のインディオはモンゴロイド(黄色人種)。\nラテンアメリカには混血人種が多い。白人(コーカソイド)とインディオとの混血をメスティソという。白人と黒人との混血をムラートという\nラテンアメリカの黒人の先祖は、アフリカから奴隷として連れてこられた黒人(ネグロイド)である。\nつまり、ラテンアメリカの黒人は、アフリカ系黒人である。\nラテンアメリカには、白人とインディオとの混血であるメスティソや、白人と黒人との混血であるムラートも多い。\n西インド諸島のハイチやジャマイカに、黒人が多い。この理由は、サトウキビなどのプランテーションの労働力として、黒人がハイチやジャマイカなどに移住させられたからである。\n(※ 入試で問われやすい)\nキューバは白人の割合が高い国であり、キューバでは全人口のうち65%が白人である(スペイン系の移民が多かったので)。また、キューバの人口の残り35%のほとんどは、黒人よびムラートである。つまりキューバにインディオおよびメスチソは、ほぼゼロ%である。\n(キューバの黒人は、日本ではマスコミ報道などで比較的にキューバ白人よりも話題にはなりやすいかもしれないが、じつはあまりキューバ黒人の人口比は多くない。)\nキューバなどのカリブ海諸国を除くと、ラテンアメリカの大陸側の国(ブラジルやペルー、アルゼンチンなど)は、じつは黒人はあまり多くなく、白人以外の人種は、先住民およびメスチソ(先住民との混血)がほとんどである。\n例外的に(大陸側では)コロンビアは、黒人およびムラートが合計20%ほどである。日本人の視点からはコロンビアが地理的にアメリカ合衆国に近いので目立つので、ついつい「ラテンアメリカは黒人も多いかも?」と錯覚いがちだが、じつはコロンビアが例外的に黒人が多いのである。\nブラジルは人口の40%ちかくが混血であるが、白人系の混血なのか黒人系の混血なのか、ハッキリしない。\nアルゼンチン、ブラジルは、白人の割合が高い。(統計の取り方によっては、チリも白人の割合が高い国に含める場合もある。)\n特にアルゼンチンは白人の割合が高く、全人口の97%ほどを占める(2010年統計)。\n同じくアルゼンチンの隣国のブラジルは、白人の割合が高く、48%である。\n隣国のチリはメスチソの割合が高いが、このメスチソも白人と先住民との混血のことであり、チリのメスチソおよび白人の割合は、ほぼ95%である。\nまた、アルゼンチン、ブラジルは先住民・インディオが少ない国でもある。(ただしブラジルはメスチソが多い。つまり、混血が進んでしまっており、純度の高い先住民は残ってない。)\nアルゼンチン、ブラジル、チリとも、先住民の人口は10%未満である。\nまとめると、\nいっぽう、(アルゼンチンの北隣にある)ボリビアや(ボリビアの隣の)ペルーは、先住民・インディオの割合が高い国であり、人口の50%ほどがインディオ系である。\nラテンアメリカでアルゼンチン、ブラジル、チリ以外の国は、白人の割合が少なく、白人は全人口の10〜20%ほどである。\nたとえばボリビア・ペルーで、その国の全人口のうち白人の占める割合が15%ほどである。エクアドルやコロンビアも同様に、全人口のうち白人の占める割合が10%〜20%ほどである。\n漁獲高が高い。アンチョビ(かたくちいわし)を、魚粉(フィッシュミール)にしてから輸出する。\n住民の多数がインディオ。インカ帝国があった場所はペルーのあたり。\nペルーの首都はリマ。\nペルーは銅の産地。\nペルー海流の影響で、太平洋側が砂漠気候。しかしペルー東部には森林などが広がる。\nペルー中央に、アンデス山脈が走る。\nブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合がやや多い。ペルーでは、日系人のフジモリが大統領になったこともある。\n(※ 範囲外 :)治安はあまり良くない。貧富の格差は大変大きい。\nボリビアの首都のラパスは標高4000m以上。ラパスは世界一標高の高い首都といわれている。ボリビアは内陸国。スズの産出地。住民の多数がインディオ。\nボリビアのウユニ塩原の地下に、大量のリチウムが存在している事が分かっており、開発などが進められている。\n国民の多くは貧しく、経済的格差は世界の中でも大きい。 \n(※ 範囲外 :)治安も良くない。\nチリの国土は南北に細長い。南北で気候が違う。\nチリ北部は砂漠気候。チリ南部は、偏西風の影響を受けるため、西岸海洋性気候。そのあいだのチリ中部は地中海性気候であり、ブドウの栽培が盛ん。\n政治や経済は良い状態にある。\n(※ 範囲外 :)治安もラテンアメリカの中では良い国。但し貧富の差は大きい。\nベネズエラは産油国であり、OPEC加盟国。\n貧富の格差は非常に大きい。\nエクアドルは赤道直下に位置する。バナナの輸出国。また、エクアドルからは原油も算出し、産油国であり、OPEC加盟国である。\nエクアドルの首都キトは標高2000m以上の高山都市。\nコーヒーの輸出国。\nコロンビアの首都ボゴタは標高2000m以上の高山都市。\nコロンビアはエメラルドの世界的な産地である。\n(※ 範囲外: )反政府ゲリラがはびこり、殺人や誘拐が多く大変治安が悪い。コカインの産地でもある。貧富の格差も相当大きく、失業率も高い。\nブラジルの公用語はポルトガル語である。(スペイン語ではない。)\n第二次大戦後に、開発のおくれた内陸部を開発させるため、1960年にブラジルは首都をそれまでのリオデジャネイロから、内陸部のブラジリアに移転させた。つまり、現在のブラジルの首都はブラジリアである。\nさらにアマゾンの熱帯雨林を開発するため、1970年代にアマゾン横断道路(トランスアマゾニアンハイウェー)を建設した。\nブラジル高原南部の土壌は、玄武岩が風化してできたテラローシャである。テラローシャは肥沃であり、コーヒー栽培に適している。\nテラローシャは、赤紫色。ポルトガル語で「テラローシャ」とは「紫の土」という意味。\nいっぽう、ブラジルの熱帯雨林地帯では、雨が強すぎて養分を流してしまうので、ブラジルの熱帯の土壌のラトソルは養分がすくない。\n近年の農業では、サトウキビの生産が盛んであり、またバイオエタノールの生産も盛ん。バイオエタノールの原料は、サトウキビやトウモロコシなどである。\nバイオエタノールは、エタノール車の燃料。\nメルコスールは、域内の関税撤廃と、域外との共通関税をしている。\nブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合が多い。ブラジルは世界で一番日系人が多い。\n(※ 範囲外: )治安はとても悪く世界的に見ても犯罪が多い国である。貧富の格差は極端である。\n白人はイタリア移民の子孫が多い。\nブラジル南東部のサンパウロとリオデジャネイロで工業が盛ん。\n機械類、自動車、鉄鉱の生産が、ブラジルの工業では盛ん。\nブラジルは鉄鉱石の産地。カラジャス鉄山やイタビラ鉄山で、鉄鉱石が産出。\nまた、ブラジルはボーキサイトの産地でもある。一般に、ボーキサイトは熱帯雨林の地帯で産出することが多い。熱帯のつよい雨が、ボーキサイト以外のさまざまな成分を流してしまうが、ボーキサイトは流されずに、残るからである。\nマンガンも産出する。\n白人が多く特にイタリア系が多い。首都はブエノスアイレス。\n草原のパンパには、温暖湿潤気候の湿潤パンパと、ステップ気候の乾燥パンパがある。年間降水量500mmの境界線が目安。\nパンパ東部は、湿潤パンパ。\nパンパ西部は、乾燥パンパ。\n農業については、湿潤パンパでは小麦、大豆、とうもろこし、アルファルファなどを生産。乾燥パンパでは、羊の放牧が行われている。\nパタゴニアは砂漠気候。パタゴニアが乾燥する理由は、偏西風がアンデス山脈にさえぎられて、パタゴニアは(偏西風の)風下側になるため。\n1950年代まで裕福な先進国だった過去を持つ。\n住民のほとんどが白人。小麦や大豆や肉類などを生産する農業国。政治や経済はチリに次ぐ水準である。\n(※ 範囲外 :)治安も比較的良い。かつては南米のスイスと言われ福祉制度が充実していた時期がある。\n1908年頃からブラジルに、日本人が農場などの労働者のための移民として、移住した。そのため、ブラジルには日系移民が多い。ペルーでは、日系人のフジモリが大統領になったこともある。\nブラジルやペルーは、他のラテンアメリカ諸国と比べ、日系人の割合がやや多い。\nキューバやジャマイカなどと、南アメリカ大陸とのあいだの海を、カリブ海という。\nいっぽう、キューバやジャマイカなどと、メキシコと、アメリカ合衆国の南部とのあいだの海は、メキシコ湾である。\nキューバやジャマイカなどを「カリブ海諸国」という。\n住民にメスチソが多いが、インディオも多い。\nなお、メスチソとは、白人とインディオとの混血のこと。(つまり、キューバなどカリブ海諸国と比べたら、メキシコでは黒人系(ムラートなど)の人口の割合は少ない。)\n(※ 入試で問われるのは、どの人種が多いかだけでなく、どの人種が少ないか、が問われやすい。)\n首都はメキシコシティ。メキシコシティは、人口2000万人を超える大都市で、世界有数のプライメートシティである。\nメキシコシティでは、人口の増加や流入などに、政治が追い付かず、不法占拠によるスラムが拡大している。このスラム街は都心から離れた山の斜面や、大都市の郊外に形成されている。ちなみに発展途上国のスラム街は郊外、先進国のスラム街は都心部に形成される傾向がある。\nまた、メキシコシティは、周辺を山に囲まれた、盆地状の地形である。\nメキシコシティ自体も、標高2000m以上の場所にある。\nメキシコシティで、自動車の排気ガスなどによる大気汚染が悪化してる。原因として、盆地状の地形であるため、空気が滞留(たいりゅう)しやすいことも一因だろうと考えられている。\nメキシコの経済については、1994年に、NAFTA(読み:ナフタ、北米自由貿易協定)を、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコの3か国が結成した。\nメキシコ湾岸から原油が産出されるため、メキシコは産油国。ただし、OPECには、メキシコは加盟していない。\n輸出品は、機械類、自動車、原油。\n(※ 範囲外 :)国の治安は大変悪い。世界的に見ても犯罪の多い国である。\n貧富の格差も大きいとされる。\n1959年にキューバ革命が成功し、それ以降から社会主義国。現在も社会主義国のまま。\nまた、このキューバ革命により、それまで企業や地主などが所有していたサトウキビ農園が、国有化された。\nまた、このキューバ革命により、ソビエト連邦の勢力圏に入り、いっぽうでアメリカ合衆国との関係は悪化。\n人口は、黒人系の混血(ムラート)の人口が多い。(つまり、メスチソ(先住民と白人との混血)は少ない。)\n現在も、アメリカとの関係は悪い。\n2015年1月アメリカ合衆国と国交回復交渉 同年7月国交回復\nキューバやバハマは観光地として有名であり、地理的近接性も相まってグレナダなど周辺国よりも観光客は多い。(※ 範囲外:)キューバは治安が良いとされる。貧富の差も少ない。\nフロリダ半島から離れるほど、観光客が減少するという統計的な傾向が知られている。(2017年度センター試験で、カリブ海諸国の観光客の2010年度の統計がある。)\n(※英語教科書) 日本のある英語教科書でキューバが紹介されたことがある。医療費の安さ(ほぼ無料)、医師の人口が比較的に多い、大学などの教育費の安さ、などの特徴があった(掲載当時。掲載時期は未確認)。キューバの公用語はスペイン語。\n1804年にフランスから独立。黒人が多い。公用語はフランス語。近代最初の、黒人による独立国。\n国民の80%は貧困層である。\nブルーマウンテン山などの場所で、ブランド名も「ブルーマウンテン」で、コーヒー栽培が盛ん。\n黒人が多い。ボーキサイトの産地。公用語は英語。\n(※ 範囲外: )国の治安は世界の中でも最も悪い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E3%83%A9%E3%83%86%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB"} {"text": "オーストラリアから見て南東の洋上に、ニュージーランドがある。\nニュージーランドは国土の大部分が、環太平洋造山帯に属する新期造山帯のため、火山が多い。\nニュージーランドは主に北島と南島に大別される。\nニュージーランドの南島に、南北方向につらなるサザンアルプス山脈があるため、気候が南島の東西で異なる。\nニュージーランドには偏西風が吹いており南島の西側は降水量が多いが、あまり農業に利用されていない。\n南島の東側は、雨が少なくて農地に向かないこともあり、羊の放牧や羊毛の生産に利用されている。(オーストラリアでも、雨が少なく、農地に向かないため、羊を放牧している。オーストラリアとニュージーランドを関連づけて覚えること。)\nなおニュージーランド南島の南東部の北側の沿岸にはフィヨルドがある。\nフィヨルドの形成された理由として、偏西風の影響により、山地に雪が大量に発生し、その影響だと考えられている。(※参考文献:山川出版社『もういちど読む山川地理』)\n北島は、偏西風をさえぎるものがないこともあり、降水量が多くて温暖であり、酪農が行われている。(オーストラリアでも、南東部で酪農が行われている。ニュージーランドの位置は、オーストラリアから見て、南東方向にある。つまり、このあたりの地域(オーストラリア南東部〜ニュージーランド北島 のうち、陸地の部分)で、酪農がさかん。関連づけて覚えること。)\nニュージーランドは、チーズやバターの輸出で有名。日本にも、ニュージーランド産のチーズが輸出されている。戦前は、ヨーロッパにチーズ・バターを輸出する時代もあった。\nニュージーランドは、偏西風の影響や緯度などにより、夏と冬との気温差が少なく、年中とおして雨が平均的に多いので、ニュージーランドの気候は、ほぼ全土が西岸海洋性気候である。(南島の東側は、山脈で偏西風がさえぎられるため降水量が少ないが、しかし東側の気候も「西岸海洋性気候」と見なして構わない。参考書でも、そう見なしている。)\nニュージーランドの先住民はマオリ人。\nニュージーランドの公用語は、英語とマオリ語。\nオーストラリアとは違い、ニュージーランドでは先住民の言葉であるマオリ語も公用語になっている。\nニュージーランドは、北島に火山が多いことをいかして、北島には地熱発電所も作られている。なお、(ニュージーランドの)南島では水力発電が電力エネルギー源。\nニュージーランドの治安は世界的に見ても良い。\n第二次大戦前のかつて、オーストラリアやニュージーランドの農産物は、ヨーロッパに多く輸出されていた。しかし戦後、ヨーロッパがEC、EU域内の農産物を重視したので、オーストラリアやニュージーランドの農産物は、あまりヨーロッパには売れなくなった。\nちょうど戦後のそのころ、日本を始めとするアジア諸国が経済発展しだしたので、オーストラリアやニュージーランドの農産物の生産者が、日本などへの輸出を目ざし、そしてオーストラリアやニュージーランドの農産物は日本向けになっていった、という経緯がある。\nニュージーランドの先住民はマオリ人。オーストラリアの先住民はアボリジニ。\n移民制限法。(白豪主義)\n北東部の沿岸にグレートバリアリーフというサンゴ礁がある。\nオーストラリア大陸の東部のグレートディバイディング山脈は、古期造山帯である。\nこのように、オセアニア地方の島じまは、火山島か、あるいはサンゴ礁島である。\nオーストラリア北部は南緯10°ほどの低緯度帯にあり、熱帯に属する。\nオーストラリア大陸の北部沿岸は、サバナ気候である。\nなお、オーストラリアの雨季と乾期に関して、南半球にあるため、季節が日本とは反対なので、注意すること。\nオーストラリアでは1月前後は夏で多雨であり、7月前後は冬で小雨である。\nオーストラリアの内陸部は、亜熱帯高圧帯の影響下にあり、年降水量500mm以下の砂漠気候が多い。\nなお、すべての大陸の中で、オーストラリアは、砂漠の割合がもっとも高い。\n大陸の東側の沿岸部は、西岸海洋性気候。\nAPEC(アジア太平洋協力会議)を最初に提唱した国は、オーストラリアである。だからAPEC第1回の開催地はキャンベラ。\nオーストラリアにはボーキサイトや石炭など様々な資源が産出し、重要な産業となっている。\nボーキサイトが、北部の熱帯・サバナ気候のゴヴやウェイバなどの地域から産出する。\n一般に熱帯では降雨によりボーキサイト以外の塩分が流されやすいためボーキサイトが産出しやすい。\n例外的に、オーストラリアでは南西部のパースでもボーキサイトが産出する。\n古期造山帯であるグレートディバイディング山脈では石炭が産出する。\n一般に、古期造山帯からは石炭が産出しやすく、いっぽう、新期造山帯からは石油が産出しやすい。オーストラリアでも、石炭は、そのパターンどおりに産出している。\nオーストラリア北西部のピルバラ地区からは、鉄鉱石が産出する。\n※ 『高等学校生物/生物II‐生物の進化』で「ストロマトライト」について調べると、鉄鉱石が産出する理由が説明されてるはず。\nかいつまんで言うと、地球の始めごろの大昔に、まだ光合成生物がいなかったころ、海中で鉄イオン濃度が高く、さらに海中の酸素が少ない時代があった。\nその後、光合成生物が海中で誕生したら、光合成により酸素が発生するので、鉄イオンと酸素が反応して、酸化鉄が大量に出来た。\n酸化鉄は、比重が水より重いので沈殿するので、海底に酸化鉄がしずむ。\nのちの時代に、古代にそういう酸化鉄の沈殿現象の現象の起きてた場所が、地層になったりしたとき、安定陸塊では、その地層が地表ちかくにある事が多い。\nよって、安定陸塊は、鉄鉱石の産地になりやすい。\n地理学では、「安定陸塊で鉄鉱石が産出しやすい」とよく言われるが、つまり酸化鉄が沈殿したまま、そこに固まったということ。\nオーストラリアは、内陸部に行くほど乾燥していく。沿岸から離れた地域は農地には向かなくなる。\nオーストラリア東部の沿岸から、オーストラリア南西部では、乾燥のため農地に向かないこともあり、羊の放牧をして羊毛を生産する産業が発達した。\nさらに内陸にいって東部の中心部ちかくになると、乾燥しすぎて、牧羊すらも行われない非農業地域になる。\nまた、オーストラリアで飼育されてる羊の品種の多くは、毛の長いメリノ種である。なお、ニュージーランドで飼育されている羊では、コリデール種や、肉用にもなるロムニー種が多い。\n第二次大戦前のかつて、オーストラリアは、イギリスに羊毛を輸出していた。\nグレートアーテジアン盆地やマリーダーリング盆地で、羊毛の生産が盛ん。(「盆地は雨が少ない」と小学校から習ってるのを思い出そう。)\n羊の飲み水は、井戸水を使っている。\nオーストラリア産の牛肉であるオージービーフが有名なのも、もとをただせば、気候的な理由も一因だろう。なお、近年では、肉牛をフィードロットで肥育している。\n(※ フィードロットについては、中学校社会 地理/北アメリカ州などを参照せよ。)\n肉牛の生産地は、オーストラリア北部に多いので、結果的にサバナ気候の場所にオージービーフ肉牛生産地が多いことになる。\nもし降水量が少なくて乾燥している地域で、無理やり灌漑して農業をしても、蒸発によって塩害が起きてしまい、なかなか上手くいかない。実際に、農地の無理な拡大により、オーストラリアでは塩害の発生が広まっている。\nかつて、オーストラリア南東部にあるマレーダーリング盆地で農業しようと、スノーウィーマウンテンズ計画や地下水などで灌漑したが、塩害が発生するという結果になってしまった。「スノーウィーマウンテンズ計画」とは、オーストラリアアルプス山脈の東側にある川の上流から、水を引っ張ってくる計画。(「オーストラリアアルプス山脈」とは、グレートディバイディング山脈の南端の山脈。)\n塩害という皮肉な結果に終わったが、しかし、それでもオーストラリア人は、ひきつづきマレーダーリング盆地で灌漑をつづけて、農業をしている。\nオーストラリア南東部のメルボルン周辺や、グレートディバイディング山脈東側のブリスベン周辺では、地形の影響もあり、降水量が比較的多いため、酪農もしている。\n※ 「アボリジニー」とか「白豪主義」とかも高校の出題範囲なので、勉強するように。 中学校社会 地理/オセアニア州 。\nなお、ニュージーランドの先住民はマオリ族。\nオーストラリアでは19世紀のゴールドラッシュなど鉱産資源の開発のときに、中国人が低賃金の鉱山労働者として移民してきたので、オーストラリアで中国人が増えた。(※ けっして、近年になってから中国人が増えたわけではない。)\nそもそも、このゴールドラッシュによる中国人移民の増加こそが、オーストラリアでの白豪主義の原因である。\nアジア系移民の流入を制限するなどの政策の、白豪主義が取られた。\n第二次大戦前は、イギリスの影響が強く、オーストラリアの貿易相手国もイギリスが輸出相手1位だった。\nしかし、戦後、日本との貿易が大きくなり、1970年代に白豪主義を撤廃し、オーストラリアはAPEC(アジア太平洋協力会議)を提唱して、1989年ごろにAPEC(アジア太平洋協力会議)が設立された。\n1985年(日本の不動産バブル前後)では、日本が、オーストラリアの最大の輸出相手国だった。なお、このころはアメリカ合衆国は、じつはオーストラリアの第2位の輸出相手国。\nAPECの加盟国も、オーストラリア、日本、中国、アメリカ合衆国などである。オーストラリアの1980年代の貿易相手と、APEC加盟国が、とっても近しい関係である。\nなお現在(2016年に記述)、オーストラリアの最大の貿易相手国は中国である。また一方で近年、アメリカとの貿易が、オーストラリアは大幅に減っている。\nオーストラリアの治安は良好である。\nTPP(環太平洋戦略的経済連携協定、Trans-Pacific Partnershi)はもともと、APEC加盟国であるシンガポール・ブルネイ・ニュージーランド・チリが2006年頃から交渉していた(4ヶ国とも、APECに加盟している)。\nTPPの交渉当初は、APECなどの経済協定を発展させるのを目指し、関税の原則撤廃などを目指して、より積極的な貿易自由化をめざした経済協定であった。\nその後、アメリカ合衆国や日本やオーストラリアなどもTPPの交渉に参加してきた。TPPは2016年の現在も交渉中である。\nフィジーの位置は、ニュージーランドの北東の洋上で、オーストラリア中部から東方にあり、日付変更線の手前。\nフィジーでは、サトウキビのプランテーションが、おもな産業。\n第二次大戦前は、イギリスの植民地だった。イギリスの植民地時代に、インド人がプランテーションなどのための労働力として連れてこられたので、フィジーにはインド系住民も多い。また、インド系住民がいるため、ヒンドゥー教徒も多い。\nフィジーのおもな宗教はキリスト教だが(キリスト教徒が多いのは、イギリスの影響による)、インド系住民にはヒンドゥー教徒もいる。\nオーストラリアから見て北にある、赤道より少し南の、けっこう大きい島が、ニューギニア島。\nそして、ニューギニア島のほぼ東半分がパプアニューギニア。\nなお、ニューギニア島の西半分はインドネシア領。\nパプアニューギニアでは銅鉱や石油などの資源を産出し、輸出している。(東南アジアに位置的に近く、産出する資源にも石油があることが、東南アジアと似ている。)\n木材も輸出している。(東南アジアと似ていることに注目。)\n国民の平均年収は3万円程。\n国の治安は良くはない。\nナウルは、ほぼ赤道直下にある。\nナウルでは、むかしはリン鉱石の輸出がおもな産業だったが、現在ではリン鉱石の枯渇が心配されている。\nトンガはカボチャ輸出のモノカルチャー経済。日本では輸入量は減少している。(参考:http://kainouken.web.fc2.com/tokouki/zemi/2009/kabotya/4.html)\n地球温暖化などによる海面上昇によって、土地の水没が起き始めている。\nツバルはサンゴ礁島であるので、標高が低い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9C%B0%E7%90%86B/%E5%9C%B0%E8%AA%8C_%E3%82%AA%E3%82%BB%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2"}