{"text": "高等学校倫理>はじめに>倫理を学ぶ目的 \n現在、日本の高等学校では公民科目の高等学校現代社会または高等学校政治経済・高等学校倫理が必修科目として学習指導要領により定められています。\n現代社会と選択余地があるものの、必修科目であることは高等学校で倫理を学ぶことが強く薦められていることに他なりません。\nなぜ、私たちは倫理を学ぶことを促されているのでしょうか。この学習指導要領には倫理の指導者、高校教諭にこのような目標を設定しています。\n生きるとは、どういうことなのだろうか。また、どう生きればよいのか。「私」や「他人」とは何であるのか。そして、どのような「私」になればいいのか。どのように「他人」と接すればよいのか。\nこのような疑問は青年期に差しかかった私たちが直面するであろう解決しがたい問題となります。その解決の糸口としてこの倫理が示されているのです。\nこのような疑問は、現代に生きる私たちだけに限ったことではなく、遠い昔の人たちも同じように経験したことであると思われます。その中でもこの疑問を解決することに一生の多くを割いたであろう先哲、過去の偉人たちが残した言葉は現代にも生きています。その言葉を頼りに私たちそれぞれの疑問を解決する糸口を探し出そう。これが学習指導要領の定める倫理なのです。\n指導者に示された目標であると同時にこれは私たち一人一人にも投げかけられた目標でもあるのです。先哲の言葉、思想、作品に触れることで彼らの一生をかけた悩み、苦しみ、情熱などが垣間見えることでしょう。彼らの思いを道しるべにして、倫理の学習を始めてみませんか。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%80%AB%E7%90%86/%E5%80%AB%E7%90%86%E3%82%92%E5%AD%A6%E3%81%B6%E7%9B%AE%E7%9A%84"} {"text": "人間とは何でしょうか。古代から人類はこの問いを深く考え、様々な答えが出てきました。遺伝子科学の発展から生物としての「ヒト」について詳しく分かるようになっても、人間とは何かについての議論は続いています。また、青年期の私達も他の人と〈私〉がどのように違うのかは、人間とは何かを考える上で大切です。先人達の考え方を手掛かりに、このような基本的な問題を自分で調べてみましょう。\n人間は他の動物や物質と違います。様々な原子から人間の身体を作っており、物質と変わりません。遺伝情報(生命の設計図)から、生命の誕生から死ぬまで人間の身体を保ちます。これは、全ての生物(植物・動物・菌類)に当てはまります。人間は動物の中で霊長類に分類され、ゴリラやチンパンジーと並んでヒト科に分類されます。チンパンジーと人間は98%以上の遺伝子を分け合っています。\n人間は日常生活の中で「人間とは何か」をあまり考えようとしません。自分以外の人間(他の人)の関係で何かあったら、人間について深く考えるようになります。\nコミュニケーションに問題ある人を除きますが、普通の私達は他の人と関わっているため、とても心配したり不安に感じたりします。他の人と比べつつ社会の中で自分がどのように生きていくのかから、人間関係(家族・友人・恋人など)・学校の個人成績・将来の進路も不安になります。自分の容姿に自信がなかったり、スポーツが苦手だったりすると、自分が悪く感じてしまいます。これは他の人に気に入られたい気持ちと関係しているかもしれません。\nこれからの人生をどのように生きていけば、意味をもつようになりますか?人間らしく生きるとはどういう意味ですか?\n「人間性」「人間らしさ」とは、人間だけが生まれながら持っている性質をいいます。\nもちろん、人間は失敗したり、忘れたり、他の人に嘘をついたり、他の人を傷つけたりしてしまいます。一方、人間は動物のようにいきなり行動しません。私達は相手の優しい行為を見て深く感動し、自分も同じように行動しようとします。このように、「人間性」「人間らしさ」はこれからの人生で目指さなければなりません。\n「人間らしさとはいったい何か」を考えるのは簡単ではありません。先程述べたように、私達はもっと人間らしくなろうと努力しなければなりませんが、具体的な目標をすぐに答えられる人はあまりいません。\nしかし、青年期の私達はそれを知らなければ、社会の中で人間として生きていけません。私達は社会の中で自分の可能性を引き出すために必要な知識や品性を身に付けていきましょう。また、社会の中で礼儀正しく振る舞うのも大切です。そのためには、この問題について考え、自分なりの答えを出さなければなりません。\n簡単な問いではなくても、私達はそのための手がかりを知っています。古くから、東洋も西洋も様々な人間がこの問いについて考え、その答えを見つけようとしました。\n「倫理」は、「人間らしさとは何か」を問いかけ、その疑問の過去を振り返り、そこから結論を導き出します。言い換えると、「人間性」の問題が倫理の出発点になっています。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%80%AB%E7%90%86/%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B"} {"text": "古代ギリシア人は当初、古代エジプト文明の影響を受けて文化を発達させてきた。やがて、古代ギリシア人は独自の文化を作り上げ、建築や彫刻などの美術の世界にすぐれた創造力を発揮しただけでなく、今なお読み次がれる文学を生み出し、哲学を生み出した。また、ポリス(都市国家)という共同体の中で民主的な社会制度を作り上げていった。\nギリシア文化がその後の西洋思想や様々な学問に与えた影響は計り知れない。特に理性的にものごとを考察しようとする合理的精神や人間のあるべき姿を追求する理想主義の生き方は古代ギリシアが後世に伝えたすぐれた遺産である。\n古代ギリシアの文化を生み出し、育んだのがポリスの生活である。それぞれのポリスには国家の守護神を祭る神殿のほか、アゴラ(公共広場)や野外劇場などがあり、市民たちはそこでの生活を通じて所属するポリスへの愛着や他のポリスへの競争心を育てていった。\nポリスごとに政治体制などの違いがあり、絶えずポリス間の抗争はあったが、言語・宗教・デルフィの神託・オリンピックの元になったオリンピアの祭典などによって、一民族としての意識は持ち続けていた。また、古代ギリシア社会は多数の奴隷による労働によって支えられた奴隷制社会であり、市民だけが自由であった。市民たちにとっては、労働とは奴隷のすることとみなされた。市民は政治に参加したり、軍務に着いたり、学問や芸術についてアゴラで対話したりすることの方が大切だとされた。このようなポリスでの生活と文化がその後のギリシア哲学の形成に大きな影響を与えることになる。\nギリシアで哲学が生まれたのは紀元前6世紀ごろである。人々は「人間とは何か」「世界はどうしてできているのか」といったことを考えるようになった。はじめ、人々はこれらを神々の働きを中心とした神話(ミュトス)によって説明しようとした(神話的世界観)。しかし、古代ギリシアの植民都市であったミレトスを中心として、自然を合理的に説明することで、世界や人間存在などの万物の根源(アルケー)について探求する動きが生まれた。そこで重視されたのが、人間固有の能力である理性(ロゴス、logos)に基づいた合理的な考え方である。\nそうした中、エジプトで数学を学んだタレスは「万物の根源は水である」と主張し、「水」によって自然界の生成変化を説明しようとした。タレスによる説明の特徴は、ある一つのものを基準としてとらえること(一元論)、経験・観察に基づいていること、世界を感覚可能な自然物によって説明しようとしたことにある。\nタレス以降、さまざまな哲学者があらわれ、タレスとは異なるアルケーを主張した。たとえばヘラクレイトスは世界を動的にとらえたため、「万物は流転する」ととなえ、アルケーを「火」とした。\nまた、ピタゴラスは数学の比例などに注目し、アルケーは「数」であるとした。ピタゴラスは数学上の発見も多い。\nデモクリトスはアルケーを分割不可能な「原子(アトム、アトモン)」であるとした。\nこのような哲学者たちが、ギリシアおよび周辺のイタリアやエーゲ海東岸の小アジアなどの植民都市に登場し、世界や人間についての自由で大胆な問いを発した。「哲学」はこのように、われわれをとりまく自然界の根源をさぐるいとなみ(自然哲学)として出発したのだ。\n彼らの著作は長い歴史の中で様々な不運が積み重なって、現代ではまとまったものとして残ってはいない。しかし、その後の西洋哲学の基礎を作り上げたという事実に変わりはない。また、ピタゴラスやデモクリトスなどは数学や自然科学にも多大な影響を与え、近代科学の発展を準備することになった。\nピタゴラスは(直角三角形の)「三平方の定理」の発見者でもあるとされる。海外では、直角三角形のこの定理は「ピタゴラスの定理」(に相当する訳語)と言われるのが普通である。ピタゴラスのほかタレスも、幾何学の研究をしていた。このように古代ギリシアでは、数学が重視されていた。\n歴史学では一般に、古代ギリシアでこのように数学が論理思考の手段として尊重されるようになった背景として、半島国家であるギリシアは異民族(地中海周辺の異民族)との貿易などのために世界共通の知識土台が必要となったこと、統一された「ギリシア」という国家が存在せず、ポリスごとに文化や社会制度が異なっていたことがあげられる。どこでも共通に必要とされることの多い計算法や作図手法などが、論理的な説明の手段として尊重されるようになっていき数学として論理的に体系化されただろう、と考える通説が、歴史学などではよく言われる。そして、数学と同様に、土などの物質や風などの自然現象も、民族にかかわらず共通であろう。このような背景のもと、自然哲学が古代ギリシアで盛んになっていったと思われる。\n当時、エジプトなどギリシア以外の外国でも計算術や作図法はあったが、しかし、それら外国の計算法・作図法では、ギリシアほど論理的な厳密化はなされなかったようだ。そのため、論理的な証明を重んじる数学の発祥の有力な地として、古代ギリシアが発祥地だろうと考えられている。ギリシアで数学が論理的に整備された背景として、民主主義が言われる。民主制では、自らの意見を的確かつ誰でもわかるように説明することが求められたため論理学・数学が発展したのだろうと考えられている。\nしかし、古代ギリシアの自然哲学は、自然の観察と経験を元にした考察が重視された反面、実験による検証法は確立していなかった。こうした制限があったため、後述するように、弁論をもてあそぶソフィストの流行を迎えることになる。\n紀元前5世紀ごろになると、古代ギリシア社会がさらに発展し、特にアテネにて民主制が成立すると、人々の関心は自然から人間や社会へと移っていった。そうした中で活躍したのがソフィストとよばれる人々である。彼らは数学や自然哲学、政治、法律などを修め、市民たちに様々な学問を教えるようになった。かれらはポリスからポリスへと渡り歩いていたため、法律や道徳がポリスごとにちがうことをよく知っており、善悪や正邪の基準も決して絶対的ではないと論じた。特にプロタゴラスは「人間は万物の尺度である」という言葉を残した。物事の真偽をはかるものさし(尺度)は絶対的な何かではなく、ひとりひとりの人間の考え方や感じ方にあるというのである(人間中心主義)。\n特にかれらが重視したのが弁論術である。ソフィストは人々を説得し、自分の主張を伝えるための方法を発達させていった。特にアテネのような民主政のポリスでは、民会や法廷で自分の考えを的確に伝え、説得する技術は非常に重要だったからである。しかし、ソフィストたちの議論はやがてわざと論理を誤用する詭弁を用いたり、巧妙な説得の技術を用いて人々の注目を集めるだけのものとなった。もともとソフィストたちには「真理とは何か」と問う気持ちは強くなかったのが原因である。\nかれらの新しい思想は古いしきたりや権威から自由なものの考え方を広めるのに貢献した。その一方で、普遍的・客観的な真理を追究しようという姿勢は軽視された。\nタレスは「万物の根源は水である」と主張した。エンペドクレスは「万物の根源は、火、水、空気、土の4つが万物の構成要素である」とした。もちろん現代の我々からしてみれば、この主張は化学的に間違っている事を知っている。また、デモクリトスは「万物の根源は原子(アトム)だ」と主張した。しかし、デモクリトスのいう「原子」は理科(化学)で習う「原子」とは大きく異なる。\nでは、どうして、古代ギリシアの自然哲学者たちについて学ぶのだろうか。「大昔はいまほど科学が発達してなかった」ことを確認するためだろうか。それならば、わざわざ彼らの考えたことを見るまでもないだろう。\n古代ギリシアのあらゆる学問をまとめたアリストテレスによれば、「哲学する」ということは、この世界のありように驚きをもって接し、それが「何であるのか」「何ゆえか」というものごとの原理・原因・根拠への問いを行い、それを根気強く探求する営みだという。このことから言えることは、古代ギリシアの自然哲学者が何を考えたのかについて知ることは重要ではなく、どのように考えたのかが重要だということである。彼らは自然界の営みを「当たり前のこと」とせず、神話による説明にも止まらず、自然を観察することによって自然を理解しようとした。これはこの世界がどのようなものであるのかを探り、世界観を確立する試みの例である。それは神の意思や運命といった自然を越えたものから自由になろうとする試みでもあり、究極的には自分はどう生きるのかという問いかけにもつながっていく。\nこのことは、あとでソクラテス、プラトン、アリストテレスやルネサンス以降の思想家たちについて見ていくときにも思い起こしてほしい。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%80%AB%E7%90%86/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%80%95%E2%80%95%E8%87%AA%E7%84%B6%E5%93%B2%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88"} {"text": "紀元前469年ごろ生~紀元前399年没。古代ギリシャのポリスの一つであるアテネで生まれた。父は石工で母は助産師であったと伝えられる。ソクラテスの生きた時代はアテネの黄金期と没落の時代であり、彼もw:ペロポネソス戦争にも従軍した。アテネがペロポネソス戦争に敗北したことをきっかけとしてw:衆愚政治におちいる中、ポリスの市民に正しい生き方を説いた。そのため、ソクラテスは倫理学の創始者とされる。\nしかし、ソクラテスの活動は少なくない人々の反感を買う。しかも、民主政治をめぐる対立に巻き込まれ、ソクラテスは「国家の神々を認めず、青年を堕落させた」と告発されて公開裁判にかけられた。そこで妥協しなかったソクラテスには死刑判決が出された。弟子たちや友人が逃亡を勧めるが、それを拒否して毒杯による死刑を受け入れた。\n彼は生涯著作を書くことはなかった。彼の言行は弟子であるw:クセノポンやプラトンによって伝えられた。特にプラトンの『饗宴』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』にて、ソクラテスの思想がよく伝えられている。\nソクラテスの友人がw:デルフォイのアポロン神殿に出向き、「ソクラテスよりも知恵のあるものはいるか」と問うた。それに対しての神託は「ソクラテスよりも賢い者はいない」というものだった。これに、ソクラテスは驚いた。なぜなら、彼は自分がそれほど知恵のある人物だとは思っていなかったからだった。\n彼は神託の真意を求めて、賢者・知者と言われる各地の政治家や思想家たちを訪ねた。そして、人間にとって大切なことなどについて問うた。だが、彼を満足させるような答えを述べられたものは一人もいなかった。そこでソクラテスが気づいたのは、人間が生きるのに必要な「善」や「美」などについてだれも知らないということであった。\nむしろ、世の中で賢者とか知者と呼ばれる人は知らないことに気付かず、知っていると思い込んでいるにすぎない。しかし、ソクラテスは自分が知らないと思っている。つまり、自らの無知を自覚している(無知の知)。\nまた、アポロン神殿には「汝自身を知れ」という格言が刻まれていた。これは本来、不死の神に対して、いつかは死ぬ人間が傲慢に陥ることなく、自らの分をわきまえるよううながすものであった。しかし、ソクラテスはこの言葉を自らへの神託と結びつけ、自らの無知の自覚を出発点として、善く美しい人の在り方について探求しようとした。\nソクラテスが真実の知の探究の方法としたのが問答法である。また、問答にあたって、ソクラテスは自らが無知であるかのようにふるまい、そこから相手の意見の矛盾点を導き出し、相手の無知を暴いた。この方法をエイロネイア(皮肉)という。この方法は相手を論破したりからかうのではない。無知の自覚をうながすことによって、相手の思考を相手自身に吟味させる方法である。\nソクラテスは知を直接教え込むことは出来ないと考えていた。そのため、彼はあくまで問答によって真理にたどり着くための手助けしかできないと考えていた。そのため、問答法は産婆法(術)ともよばれる[1]。\n『世にも優れた人よ。あなたは、知恵においても力においてももっとも偉大で最も評判の高いこのポリス・アテナイの人でありながら、恥ずかしくないのですか。金銭ができるだけ多くなるようにと配慮し、評判や名誉に配慮しながら、思惟や真理や、魂というものができるだけ良くなるように配慮せず、考慮もしないとは』と。\n――プラトン著(納富信留訳)『ソクラテスの弁明』p.44(光文社古典新訳文庫、2012年)\nギリシャ人は、あるゆるものに固有の役割があると考えた。そのための資質や能力をアテレー(卓越性)とよんだ。ソクラテスは人間にとってのアテレーを徳であると考えた。そして、徳とは人格や精神といった魂(プシュケー)をより優れたものにしていくことであり、それが魂への配慮であるという。ソクラテスは人間が日々の生活の中で、「よい」という言葉は「効率が良い」「自分の利益になる」などの貧弱な意味しか持たなくなることを指摘する。そして、「魂をできるだけ良い方向に導く」ための配慮について語るのである。\nさて、「魂の配慮」に必要なものは何だろうか。まず、日常生活の中で意識されない本当の自分自身=魂に目を向けることが求められる。そして、正しいことや美しいことへの正しい知を必要とする。\n当時のアテネはペロポネソス戦争後の戦後処理をめぐり、激しい権力闘争がくり広げられていた。こうした社会情勢でのソクラテスの言動は当時の人々の価値観について厳しい批判を含むものであり、多くの知識人や政治家を敵に回すものであった。\nやがて、ソクラテスは「国家の認める神々を認めず、新しい神を信じ、青年たちを腐敗・堕落させた者」として告発された[2]。裁判でもソクラテスは自らの信念を曲げることはなく、祖国を愛するからこそ厳しく批判するのだと訴えた。だが、評決は死刑であった。\n刑の執行までに時間があったため、友人たちはソクラテスに国外逃亡を勧めた。しかし、「よく生きること」を目標としていたソクラテスにとって、ポリスのおきてを破ることは不正であり、それをよしとはしなかった。こうして、ソクラテスは毒杯をあおいだ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%80%AB%E7%90%86/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9"} {"text": "中国思想において、宇宙を支配する者が天である。古代思想の基となった書の一つである『書経』の時代には天は天帝として擬人化され、一種の神のような存在とされた。\n戦国時代には再び抽象的な存在として認識されるようになり、人間と天との関連を説く天人相関、天人合一の考え方が生まれるようになった。\nさて、天(天帝)は人間世界の望ましいあり方を天命として人間に命じる。そして、天命を受けて人々を導く存在が天子である。天子は周代には(周)王であったが、始皇帝による統一の後には皇帝が天子とみなされるようになった。\n天子は社会の指導者であり、天命にしたがって人々に役割を与え、それを十分に果たせば人々は幸福に暮らせる。しかし、天子が天命に背く行いをすれば、人々はひどい政治だけでなく、災害や戦争などによって苦しめられる。そうなれば、天は別の人物に天命を下し、新たな天子となる。これが易姓革命である[1]。\nそのため、指導者が天命を知ることは社会秩序を正し、人々の生活を平和にするために必要不可欠なことであった。\nこうした天の思想が確立したのが周王朝の時代であった。周の支配のベースとなったのは血族内の祭祀から生まれた慣習的ルールであった礼であった。天子たる周王は天の祭祀もつかさどっていた。\nまた、周は血族や盟約によって結ばれた氏族を諸侯に封じて土地や人民を世襲される封建制度を確立する。こうした制度は単なる社会制度にとどまらず、祭礼や共同体内の扶助とも結びついていた。\nしかし、紀元前8世紀ごろになると周王朝の勢力が衰えてゆき、かわって諸侯が強い力を持つようになった。諸侯は富国強兵策をとり、領地の内外から優秀な人材を求めた。それに呼応した様々な思想家たちを諸子百家という。\n現在の諸子百家の分類は『漢書』芸文志に準拠している。それによれば、次のように分類されている。\nただし、この中から小説家を省き、九流百家ともいう[2]。また、兵家を入れて十流とすることもある。\n儒家、道家、法家、墨家については別ページに譲ることとする。ここでは前述の4派以外の学派について紹介しよう。\n陰陽家の思想家として、鄒衍が挙げられる。彼の著作は残っていないが、『史記』などに概略が残されている。それによれば、世の栄枯盛衰と瑞祥との対応を検討する。その際に鄒衍は火・水・木・金・土の5つの徳の転移を見出す(五行思想)。\n名家は論理学あるいは言語哲学の学派といえる。思想家には恵施と公孫龍が挙げられる。特に公孫龍は言葉と物の関係を考察し、分類分けを行った。その中でも有名なものが白馬非馬論である。これは、形に命名した「馬」と色彩に命名した「白」とは別のものであり、これらが複合した白馬は馬とは別のものであるという論である。公孫龍の説は現代哲学とも通底するテーマを持っていたが、難解であることやその後の発展が進まなかったこともあって単なる詭弁術と見なされた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%80%AB%E7%90%86/%E8%AB%B8%E5%AD%90%E7%99%BE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E6%80%9D%E6%83%B3"} {"text": "古代インドではアーリア人が侵入してきて、先住民を支配していった。彼らは紀元前10世紀頃にはガンジス川中流の肥沃な地域に達し、現地の文化を吸収しながら、独自の文化を作り上げていった。その精神的な中核になったのがバラモン教であり、社会制度の基本になったのが人々をバラモン(司祭)、クシャトリア(貴族・戦士)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(奴隷)の四つの階層に分けるカースト制度である。\nはじめはかれらは、自然の変化を支配し、人間の幸・不幸を決定するのは自然の神々だと考え、バラモンによる神々を祭る儀式や呪術を重視した。しかし、人生についての思索が深められると、人間の行為(業、Karman)に対する省察が進んだ。それによれば、人間は善い行為(善業)によって自ら幸福を招き、悪い行為(悪業)によって自ら災いを招くというのである(自業自得)。しかも、業は死によっても消えることはなく、死後もその業にふさわしい姿となって生まれ変わり、それが無限に続くのだという。たとえば、善い行いを積み重ねたものは死後に生まれ変わってバラモンやクシャトリアになれる。しかし、生まれ変わってから悪業を積んでしまうと、今度はシュードラや別の動物になってしまう。このような考えを輪廻転生という。\n人々は悲惨な状態に生まれ変わるのではないかという不安をいだいた。そして、死後に良い者に生まれ変わることを望むのではなく、輪廻転生の運命から抜け出す解脱の道を求めた。\n紀元前7世紀頃から紀元前4世紀頃、バラモン教の教えを理論的に深めたウパニシャッド(Upanishad)哲学が形成された。それによると、すべての生物は自己の根源にアートマン(atman我)を持つ。一方、宇宙のあらゆる根源としてブラフマン(brahman梵)という絶対的な原理がある。アートマンはさまざまな動植物に宿って輪廻転生を繰り返す。だが、みずからの内のアートマンがブラフマンから生まれたものであり、ブラフマンと一体であることを悟る(梵我一如)ことによって、魂は輪廻転生から抜け出し、一切の苦悩からまぬがれるのだという。\n梵我一如にいたるには、感覚にとらわれず、心を集中させる必要があるとされた。そのために精神を統一する瞑想が重んじられた。さらに断食などの厳しい修行(苦行)も、この瞑想を助けるものとして重視された。\n紀元前5世紀頃、インドでは商工業が盛んになり、都市が発展した。それにともなって、ヴァイシャの力が強まった。彼らはバラモン教の伝統にとらわれない、自由で合理的なものの考え方を求め、全く新しい思想の流れが生まれてきた。その代表者がブッダ(仏陀)[1]であり、彼の説いた教えが、後に仏教となる。なお、ほぼ同じころ、ジャイナ教を開いたヴァルダマーナ(マハーヴィーラ)たち6人の自由思想家が登場した。仏教では、彼ら6人のことを仏教以外の教えを説く者として、六師外道とよんでいる。\nまず、ブッダの生涯からみてみよう。ブッダは本名をガウダマ=シッダールタといい、インドの北部・ヒマラヤ山脈のふもとにあったシャカ族の国・カピラヴァッツの王子として生まれた。カピラヴァッツは小国だったものの、シッダールタは物質的には大変恵まれた生活を送っていた。しかし、心はいつも満たされなかった。人生のあらゆる問題に苦悩したシッダールタは29歳のとき、ついに何もかもを投げ捨てて出家し、修行の道に入った。はじめは優れた教えを説く人々に弟子入りし、はげしい苦行もおこなった。それでも、心にかなうものは得られなかった。\n35歳のとき、ブッダガヤの菩提樹の下に座り、深い瞑想に入った。数日間の瞑想の後、苦悩の原因である煩悩を断ち切り、究極的な理法(ダルマdharma)を悟り、ブッダとよばれるようになった。ブッダとは、「真理に目覚めた人」という意味であり、「覚者」ともいう。その後、悟ったものをみずから伝えるため、インド北部のガンジス川流域を中心とした各地を訪ねた。そして、80歳のときにクシナガラでこの世を去ったという。\nなお、ブッダの生涯に関する地図は次のサイトにある。http://kamishiba1.exblog.jp/17092883/\nブッダは、老若男女・身分の貴賎に関わらず、人生に必ずともなう苦しみを直視した。人は、生きていきたいと願いながらも、やがて老い、病気になり、死んでいく。これがいわゆる生老病死であり、四苦という。その上、愛する人ともいつかは分かれる愛別離苦、逆に憎い相手とも会わねばならない怨憎会苦、求めるものが得られない求不得苦、身体・感覚・概念・心で決めたこと・記憶に執着することによる苦しみである五蘊盛苦(五陰盛苦とも)にとりつかれている。こうした生老病死の四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四つを加えた八苦によって、現実の人間の生は苦しみに満ちている(一切皆苦)。これらの苦しみはどこから生まれてくるのか。\n全てのものごとは永遠に続くものはなく、変化し、やがて衰えて消滅する(諸行無常)。そして、絶対に変わることのない本体(実体)も存在しない(諸法無我)。こうした、世界のあらゆるものが移り変わり、不変なものは存在しないというのがブッダの世界観である。では、なぜ世界の全てが移り変わっていくのか。ブッダは、存在するものすべてはバラバラに切りはなされているのではなく、さまざまな原因や条件と結びついて成り立っている(因縁)からだと考えた。\nたとえば、「名門高校に通うAくん」という存在は、Aくんの両親・Aくんを教えた先生・勉強時間・勉強内容や方法というさまざまな原因がからみあってできている。もし、これらの要因が一つでも欠けていれば「平凡な高校に通うAくん」という別の存在になっていたかもしれないし、そもそもAくんがこの世にいなかったかもしれない。\nこのように原因や条件が寄り集まってものごとが存在するようになり、逆に原因・条件が分かれていくことでものごとが消えていくという考えを縁起という。\nブッダによれば、人の苦しみというのは、縁起の理法にそむき、自分一人だけで生きられると思いこんだり、財産・地位・名誉・命が永遠に続くことを願ったりすることから生じるのだという。特に自分の命や所有物が永遠であることを願うのは、人間の根本的な無知であり、この無知のことを無明とよんだ。そして、自分自身に対する執着(我執)にとらわれるようになり、苦しみを招く。たとえば、強い者は、その強さを「わがもの」と思いこみ、その強さが永遠に続くと思い、傲慢にふるまう。しかし、その強さもやがて衰えていく。そうなると「強かった自分」にすがりついていばってみせたり、さらなる衰えにおびえるようになる。逆に弱い者は弱さにとらわれ、いじけて、ますますバカにされて、自分をさらに汚していく。\nこのような物事に執着する心は、心身を悩ませて、煩わせることから煩悩という。ブッダは特に、貪り(貪欲)・怒り(瞋恚)・無益な思いや愚かさ(愚癡)の三つの煩悩を三毒とよんだ。\nこうした欲望やとらわれから自由になることで悟りの境地(涅槃、nirvana)にいたる。そうなると、いつもゆったりとした心の平安がおとずれ、心の統一を失わなくなる(涅槃寂静[2])。\nしかし、人間は欲望なしに生きることはできない。ブッダは欲望を一切封じるようなきびしい禁欲生活や苦行も精神をもうろうとさせるだけだとしてしりぞける。欲望にとらわれて快楽のみを求めるのでも、苦行でもない、ほどよい生き方(中道)を理想とした。そのための実践をまとめたのが四諦と八正道である。\n四諦とは、四つの真理という意味である。悟りにいたらない人(凡夫)は四苦八苦の苦悩を免れない(苦諦)。その苦悩の原因が欲望や執着が集まった煩悩である(集諦)。しかし、煩悩をしりぞけた人は苦しみを滅ぼしている(滅諦)。そのためには正しい修行の道が必要である(道諦)。正しい修行の方法が八正道である。\nブッダは、縁起の教えを学び、中道の生活と考え方を通し、八正道の修業を行えば、誰でも真理に目覚めるのだという。この教えは、生まれの身分によって、貴賎や解脱できるかどうかも決まるというカースト制度への批判でもあり、庶民(ヴァイシャ)や奴隷(シュードラ)、その他の差別されてきた人々に特に受け入れられていった。\nそして、ブッダは全ての命あるものに対しての慈しみ(慈悲)も説いた。無常の世界での命ははかない。だからこそ、切実に生きようとするものすべてが平和と幸福のうちに生きられる道を願った。そのために、ブッダは迷信や呪術に頼るのではない、合理的な考え方と生き方にたどりついたのであろう。\nブッダは、現実の世界を越えた神の存在については何も語らなかった。あくまで、ブッダは現実世界に生きる人間が自分をよりどころとしながら、努力することで苦しみから抜け出すことをといた。そのため、キリスト教やイスラム教のように人間世界を越えたところにいる神の存在を説く宗教の立場からは、ブッダの説は神を否定する無神論とみなされることもある。しかし、ブッダが没したのち、ブッダの説、さらにブッダ自身が崇拝の対象となり、神格化されて宗教になっていった。それが仏教である。\nブッダの教えには、世俗とは距離を置いて、戒律にしたがって修行することで悟りを完成させるという面と、世俗の中で悟りに基づいて万人のためにはたらくという面がある。どちらを重視するかで、仏教は二つに分かれていった。修行を重視したグループは保守派の長老を中心とした上座部となり、万人のためにはたらきかける者たちは在家信者に支持されて大衆部となった。その後、さらに20の部派に別れた(部派仏教)が、ブッダの死から数百年たったころには上座部仏教と大乗仏教という二つの大きな流れとなり、それぞれがブッダの精神を引き継いでいった。\n上座部仏教はインドからセイロン島からミャンマー・タイ・インドネシアの南方に伝えられた。そのため、南伝仏教ともいう。上座部仏教はブッダの自力救済の精神を受け継ぎ、厳しい修行と戒律によって、阿羅漢とよばれる悟りを完成させた聖者になることを目指すものである。\n大乗仏教は紀元前1世紀から紀元2世紀頃にかけての、在家信者による仏教の改革運動から生まれた。大乗仏教は、初めて仏像が作られたガンダーラからシルクロードを経て中国に入り、そこからベトナム・朝鮮に伝わり、朝鮮(百済)から日本に伝えられた。そのため、北伝仏教ともいう。また、のちにチベットに伝わった仏教は8世紀に成立したインド密教の流れなどを取り入れたチベット仏教として、独自の地位を占めている。\n大乗とは「大きな乗り物(マハーヤーナ)」という意味で、全ての生きとし生けるもの(一切衆生)を救済するという教えを乗り物にたとえたものである[4]。\n大乗仏教の理論を確立したのが、龍(竜)樹(ナーガールジュナ)である。\n龍樹は縁起説を空の立場から解明した。そのため、大乗仏教の根本的な思想は空の理法を悟ることとされている。空とは、単なる無や否定ではない。この世の全ての物質的な存在は因縁が和合したものであり、固定された本体(実体)は存在しない。しかし、様々なものが縁起によって組み合わさっているからこそ、豊かな世界が成り立っている[5]。この空の真理を悟る知恵を般若という。空を悟れば、外見や先入観に惑わされることなく、ものの真相をあるがままに見つめ、つまらない思いに執着する(小我)のではない、安らかな気持ちで真実(大我)に生きるのだという。\n唯識思想を大成したのが、無着(アサンガ)、世親(ヴァスバンドゥ)である。\n唯識思想とは、あらゆる事物は実在していないが、それらが存在すると思われるのはただ「識」、すなわち「心の働き」の所産である、とする思想。「空」の思想(前述)やヨーガの実践から生み出された。空の思想と並び、現代でも多くの仏教者・研究者の関心を集めている。\n空を悟ろうとする者は自分の世界に閉じこもるのではなく、全ての生きとし生けるものを救済しようとする。こうした慈悲の実践者を菩薩(ボディーサットヴァ)とよぶ。菩薩にとって、悟りを求めて自己を生かそうとする(自利)ことと他者を生かそうとする(利他)こととは、対立するものではない。なぜなら、みずから真理に目覚めた者は、他者も自然と真実に目覚めさせるようになるからだ。そして、大乗仏教において悟りを求める者が実践すべき教えとして、六波羅蜜[6]の教えが説かれている。\n仏教が東・東南アジアの思想的な源流の一つになったのに対して、ヨーロッパの思想の源流になったのが古代ギリシャの哲学とキリスト教である。\nキリスト教はイスラエル民族固有の宗教であるユダヤ教を母体としている。砂漠の民であったイスラエル民族がパレスチナ地方に入ったのは紀元前1500年頃といわれる。厳しい自然環境に加えて、周囲にはエジプトをはじめとした強大な古代国家による圧迫に常にさらされ続けていた。そんな中で、イスラエル民族は唯一神ヤハウェ(ヤーウェ)に対する強い信仰を育てていった。\n彼らの聖典である『旧約聖書[1]』によれば、ヤハウェは宇宙の万物を創った創造主であり、唯一絶対の神である(一神教)。そして、イスラエルの民はヤハウェから選ばれた民(選民)であり、神との特別な契約によって、将来の繁栄と栄光を約束された。その契約が神の命令である律法(トーラ)である。そして、ヤハウェは律法を守れば祝福を、律法を破れば厳しい罰を与える裁きの神、正義の神でもある。\n紀元前13世紀頃、エジプトで奴隷のように扱われていたイスラエル民族を脱出させたモーセは、パレスチナへと向かった。その途中、シナイ山にてモーセはヤハウェの声を聴き、10の掟を与えられた。これが十戒であり、神は厳しく守ることを求めた。\n「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。\nあなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。\nあなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。\nあなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。\n安息日を覚えて、これを聖とせよ。\nあなたの父と母を敬え。\nあなたは殺してはならない。\nあなたは姦淫してはならない。\nあなたは盗んではならない。\nあなたは隣人について、偽証してはならない。\nあなたは隣人の家をむさぼってはならない。」\n――『旧約聖書』「出エジプト記 第20章(一部省略)」\n十戒をはじめとした律法にそむくことは神にそむくことであり、神の保護から見放されることでもあった。神の正義と恵みに応えるために、人々は律法をまもり、日々の生活の中で正義を実現することが求められる。そのために、神と人とを仲立ちする者が登場する。それが、預言者である[2]。\n(のちの聖書などの文献による言い伝えでは)出エジプトの後、パレスチナの地にイスラエル人の王国が作られ、紀元前10世紀頃にはダビデ王・ソロモン王が登場したといわれ、最盛期を迎える。しかし、その後に南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂し、他の民族に攻められて両方とも滅亡した。再び国を失ったイスラエル民族にはさらに厳しい運命が待っていた。紀元前6世紀頃には老人と子どもを除くすべてのイスラエル人が、奴隷としてバビロニアに連れ去られた(バビロン虜囚)。このころにイザヤやエレミアなどの預言者たちが活発に活動し、イスラエル民族が信仰の道から外れようとするのを防ぐとともに、民族の団結と信仰へのはげましを与え続けた。イスラエル人たちの宗教がユダヤ教として成立したのもこの頃だといわれている。\n預言者たちはイスラエルの民が律法を守らなかったから、神が国を滅亡させたのだと説いた。だが、人々が律法を正しく守れば、神はイスラエルの民を苦難から救い出す救世主(メシアMessiah[3])をこの世に送るであろうと、預言した。イスラエルの民はメシアの到来を望み、苦難に耐えた。\nバビロン虜囚が終わっても様々な強大国の支配下に置かれる厳しい状態には変化がなく、約束されたはずのメシアの到来も空しい期待にすぎなかった。やがて、律法を守ることが宗教のすべてだとするパリサイ(ファリサイ)派が勢力を増した。パリサイ派は律法を文字通りに解釈し、安息日の労働を完全に禁止したり、断食を厳しく守ったりしていた。一方で、律法をよく理解できない庶民や取税人・遊女などの差別されてきた人々に対しては厳しい非難を加えていた。\n西暦1年より少し前ごろ、パレスチナのベツレヘムに、大工であったヨゼフの許嫁・マリアの子としてイエスは生まれた(西暦とは、イエスが生まれたと考えられた年を西暦1年とした、キリスト教の暦である)。イエスは30歳ごろに洗礼者ヨハネから洗礼を受け、四十日の断食の後に、福音(神からのよい知らせ)を伝える活動を始めた。後で述べるように、イエスはユダヤ教の主流となっていたパリサイ派を強く批判すると同時に、分かりやすいたとえを使いながら新しい教えを説いた。\nだが、イエスから批判されたユダヤ教の指導者はイエスと弟子たちに迫害を加えた。また、現実的な救いよりも内面の清らかさを重んじる教えに失望する人も少なくなかった。イエスは反対者によって反逆者として告発され、ローマ帝国によって十字架にはりつけにされる刑を受けて死んだ。イエスが活動した期間は2年数か月ほどであったという。\nパリサイ派は細かいおきてや形式を極端に重んじたため、宗教が人々の心の救いになるとは言い難いものになっていた。イエスは福音(神からのよい知らせ)を人々に伝えた。人々に分かりやすいたとえで罪のゆるしと救いを説いた。愛あふれる父である神を愛し、兄弟や仲間、隣人を愛し、敵をも愛すること、真の平和と幸福、神の国、世の終わり、さばきについて教え、本当のおきてを示し、多くの人々が信じて弟子となっていった。\n一方で、イエスはパリサイ派には厳しい批判を行った。例えば、「あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。」とパリサイ派にいった。イエスは心のうちにひそむ欲望や悪と向き合わずに律法さえ守ればよいというパリサイ派の行いを偽善とよんだのだった。\nイエスはキリストと信じられるようになり(「キリスト」とは、ユダヤ教の「メシヤ」からきたことばで、救世主をさす)、その弟子たちはのちにクリスチャン(キリスト者)とよばれるようになった。そしてかれらの信仰はキリスト教として今日までに世界でもっとも多くの人々に広まることになる。\n1世紀ごろから弟子たちは、イエスやその教えに関する文書・手紙類(新約聖書)を書き写し、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)ととともに信仰のみちびきとしていた。\n特に、もともとユダヤ教パリサイ派の法学者であったパウロは、旅の途中で神の啓示を受け、キリスト教に回心し、異邦人(ユダヤ人以外の民族。ここでは特にローマ人)への積極的な布教を行った。このとき、彼が地中海世界の共通語であったコイネーを話すことができたのは、布教の際の大きな助けになったと知られている。\nユダヤ教はユダヤ人のための民族宗教であって、ユダヤ民族とそれ以外の民族には格差があり、人は平等ではなかったが、イエスの弟子たちは、ユダヤ人も、ユダヤ人からみた異邦人も、キリストを信じて救われたという。そうしてキリスト教は、ローマ帝国の領内で広まっていった。4世紀になると、ローマ帝国が方針をあらため、キリスト教を国教として保護する。\nキリスト教は、ユダヤ教を完成させたものであるといい、ユダヤ教と似ている部分もある。ユダヤ教は聖書にある唯一の神ヤハウェ(エホバ)を信じる一神教であり、キリスト教は同じく聖書の神を三位一体と信じる一神教である。\n7世紀の始めごろ、アラビア半島では、商業がさかんであり、商人が力を持っていた。アラビア半島の都市メッカでは、商業が発達していた。\n7世紀はじめごろに、メッカの地に、商人の家に生まれたムハンマドが現れ、40歳の頃にムハンマドは神の啓示を受けたとして、40歳の頃からメッカの地で、イスラム教を唱えた。\nイスラムの教えでは、神は唯一アッラーのみであるとしており、偶像崇拝を禁止した。\nこのため、イスラム教では、神の像は無い。\n※「アッラー」とは、「神」という一般名詞である。アッラーという名を持つ神がいるわけではない。\nまた、神の前に、人々は平等であると説いた。イスラームの聖典は『クルアーン』と言う。\nムハンマドの教えは、メッカの支配層によって迫害された。ムハンマドは、迫害を逃れるため、メディナに移住した。ムハンマドは、教えを広めるため、軍を組織した。そして、ムハンマドは軍事力で(無血のうちに)メッカを奪い返した。\nその後、ムハンマドと弟子たちの征服活動によって、アラビア半島の諸国は統一されていき、イスラム教はアラビア半島と北アフリカなどの周辺の地に広まっていった。\nコーランは、生活を厳しく律しており、豚肉を食べることの禁止や、飲酒の禁止、1日5回の礼拝や、断食や巡礼など、日常生活の多くの決まり事を記している。\n「イスラーム」という語は、自身の重要な所有物を他者の手に引き渡すという意味を持つaslamaという動詞の名詞形であり、ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。\n※「イスラーム」という語は、それ自体に「宗教」というニュアンスが含まれるため、現在では(専門的には)「イスラム教」とは表記しない。\nイスラームにおける聖典は、実は『クルアーン』だけではない。ユダヤ教の『旧約聖書』、キリスト教の『新約聖書』もすべて聖典の一つとされる。なぜなら、これらの宗教は同一の神を信仰するからである。しかし、アラビア人であり最後の預言者であるムハンマドに対してアラビア語で与えられた『クルアーン』こそ、もっとも正しく神の言葉を伝えるものとされているのである。\n中東のパレスチナという地方にある エルサレム という場所に、キリスト教、イスラーム、ユダヤ教の聖地がある。\nなぜ同じ地方にこれら3つの宗教の聖地があるかというと、これらの宗教は同一の神を信仰するからである。(キリスト教の「主」、イスラームの「アッラー」、ユダヤ教の「ヤハウェ」はすべて同じ神を意味する。)\n現代(西暦2014に記述)の話になるが、\nこのエルサレムと周辺の地域で、第二次大戦後にイスラエルが建国を強行した。このことにより、以前にこれらの地に住んでいたパレスチナ人たちが住む場所をうしない、パレスチナ人が難民になった。\nパレスチナ人はイスラム教の多い民族であり、イスラエル人はユダヤ教の民族である。\nこのことが、アラブ諸国のあいだで、イスラエルに対しての反発の理由の一つになっている。\nイスラエルがユダヤ教の国なので、アラブ諸国ではユダヤ教への反発が強い。\nまた、アメリカ合衆国がイスラエルと同盟を結んでおり、アメリカはキリスト教の多い国なので、そのようなこともあり、アラブ諸国ではキリスト教への反発につながっている。\nこのようなパレスチナ周辺の政治問題をパレスチナ問題と言う。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%80%AB%E7%90%86/%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A"} {"text": "古代ギリシャから中世に至るまで、ヨーロッパにおける自然観を支配していたのはアリストテレスの自然学であった。これは古代ギリシャの頃から判明していた様々な自然現象を統一的に説明するために体系化されたものであった。のちにキリスト教の神学がアリストテレスの哲学と結びついていくと、アリストテレス自然学は神学と合致する自然観とされるようになった。また、プトレマイオスの天動説はトマス=アクィナスによって認められたことから教会公認の学説として権威づけられた。\nしかし、ルネサンスや宗教改革は、人々を神を中心とする価値観から解放した。そして、人間の現実的な欲望は肯定され、壮大な理想のもとに行動し、個人の自由な考え方や生き方が求められるようになった。それにともない、自然への見方もまた、従来のアリストテレス自然学を元にしたものからの転換が求められたのである。\nアリストテレスの自然学の特徴は「目的」を重視したことにある。アリストテレスによれば、あらゆる自然物は自分の中になんらかの本性を持っており、その本性を実現することを目的としている。例えば、石が地面に落ちるのは、土から生まれた石が本来の場所である土に帰ろうとする「目的」があるから、つぼみが花開くのは、花こそが本性でありそれを目指そうとするからである。そのため、アリストテレスの方法では現象や物事の目的を探ることが重視される。このような方法にもとづく自然観を目的論的自然観という。\nしかし、ルネサンスによってソクラテス以前のギリシャ哲学も見直されるようになると、目的論と対立する方法や自然観が注目されるようになる。特にデモクリトスの原子論は自然現象から目的や神の意志といったものを排除し、それぞれの要素が機械的に運動することによって現象を説明する機械論的自然観に大きな影響を与えた。\n機械論的自然観は力学と天文学の発達によって確立されたといえる。ポーランドの天文学者であったコペルニクスは、従来の天動説では説明が困難な現象を説明するため、推理と計算を根拠として地球が太陽の周りをまわっているという地動説を提唱した。そして、自ら制作した望遠鏡の観測によってガリレオ=ガリレイは地動説が正しいことを実証した。\nガリレイの業績は、物体を力・時間・距離・速度などの数的な要素に分解し、それらの間に成り立つ関係を数学的に表したことである。彼が「自然は数学の言葉で書かれた書物である」と述べているのはそういうことである。そして、自然法則を仮説とし、観察と実験で検証・証明する方法を作り上げた。ここには、アリストテレスが想定したような目的は一切考慮されていない。\nしかし、近代科学的精神の成立は容易だったわけではない。原子論は、つきつめれば魂や神も原子からなるとすることから神を否定する無神論とみなされた。そして、地球を中心とする宇宙の体系はキリスト教神学と密接に結びついていたため、地動説は天文学だけでなく、思想のあり方も世界観も変革を求められたのである。当然にも、この動きは教会の聖職者たちから激しい非難が加えられ、ときには厳しい弾圧を受けた。例えば、コペルニクスの影響を受けて地動説を支持したジョルダーノ=ブルーノは異端との判決を受けて処刑された。\nガリレイは1633年に宗教裁判にかけられて地動説を撤回させられる。そののちに「それでも地球は回っている」と言ったとされている。これは後世の創作とされているが、宗教の権威をもってしても科学的真理を否定することはできないという、彼の科学的信念をあらわすものとして有名である。\n事実、科学的探究はその後も歩みをとどめることはなかった。ニュートンによって万有引力の法則が発見され、天体の運動も地上の物体の運動も統一的に説明できる古典力学が確立したことは、この時代の探究の精華であるとともに新たな世界観の基礎となった。\nこうした新しい学問を推進したものは、理性や感覚といった人間の認識能力への全面的な信頼だった。しかし、一方では権威から自由に思考し、推論を重ねることによって確実な真理へと向かう流れを、もう一方は観察や実験という方法によって真理を探ろうとする流れを作っていった。\nやがてこれらの流れは、知識は実際に物事を見たり聞いたりする経験を通じて得られるという経験論と、人間はあらかじめ持っている考える能力、すなわち理性を重んじ、理性こそが知識の根源であるという合理論へと発達していった。\n経験論はイギリスにおいて発達したため、イギリス経験論とよばれることがある。ここでは、先駆者であるフランシス・ベーコンの思想を中心に経験論の考え方を見てみよう。\nなお、検定教科書ではホッブズとロックは社会契約論の重要な論者としてあつかわれるが、経験論の思想家でもあることはあまり紹介されていない。また、バークリとヒュームの説明も少ないため、経験論と合理論を総合するものとしてのカント哲学という流れをつかみにくい。一方で、ベーコンの業績は過大にクローズアップされがちなところがある。本稿では哲学史の流れに沿ってベーコンからヒュームまでのイギリス経験論の流れを説明していくことにするが、とりあえず大学入試だけを考えるならば、ベーコンの節だけを読んでもらえれば十分である。\n1561年生~1626年没。法律を学び、国会議員となる。法務次長などをへて最終的に大法官(首相に相当)にまで出世するが、収賄罪に問われて失脚する。その後は新しい学問の方法の確立に専念し、われわれの経験から一般的な規則を発見するための方法を探究した。鶏に雪を詰め込んで冷凍の実験を行った際に肺炎にかかり、亡くなったという逸話がある。主著は『新機関(ノヴム=オルガヌス)』『ニュー・アトランティス』。\nベーコンが生まれ育った時代は、ちょうどイギリスのルネサンス期とよばれるエリザベス朝にあたる。シェイクスピアに代表される文芸が花開き、ルネサンスの三大発明とよばれた羅針盤・活版印刷・火薬をはじめとした様々な科学技術の成果はさらに改良が進められて、より高度なものへと発展していった。こうした雰囲気の中で、ベーコンは主著の『ノヴム=オルガヌス』にて、学問の目的を人類の幸福と生活の改善であると述べた。そのために彼が注目したのが、自然科学である。\n――『ノヴム=オルガヌス』第一巻・3(『世界の大思想6 ベーコン』(河出書房新社,1969年))」\n自然はある原因があって、そこから結果が生じるという因果関係に従って動いている。この関係を知ることが自然に「服従する」ということである。それによって得られた知識を自然を支配する技術として応用し、人間の生活を改善していこうというのが、ベーコンの姿勢である。これが「知は力である」という格言にまとめられている。\nでは、自然を知るためにはどうすればよいか。ベーコンは、まず知識の獲得をさまたげる偏見や先入観を取り除こうとした。ベーコンは偏見・先入観の種類を4つに分類し、それらを「偶像、幻」という意味のイドラ(idola)と呼んだ。\n第一に人間という種族が共通して持っている「種族のイドラ」である。これは錯覚に惑わされたりすること、自分の考えと異なる説を拒否してしまうことといった、人間の本性にもとづくものである。\n第二に「洞窟のイドラ」である。人々はそれぞれに異なる好み・教育・経験などを持つ。そうした個人の体験や立場に固執することを、狭い洞窟の中からものを見ることにたとえたものである。\n第三に「市場のイドラ」である。多くの人が集まる市場ではたくさんの言葉が行き交う。しかし、その言葉の内容を確かめもしないで用いることで混乱におちいってしまう。\n第四が「劇場のイドラ」である。劇場で演じられる芝居や手品をまるで本当のことであるかのように信じこんでしまうように、学者や専門家といった権威のある人の演説や伝統的な説を無批判に信じてしまう。\nこれまでの学問、とくにスコラ学はこうした幻影に惑わされて、自然を勝手にゆがめて解釈してきたゆえに不毛なものになってしまったという。ベーコンはこれらの偏見を取り除き、自然をありのままに観察し、そこから自然の法則を明らかにしようとした。そのための方法が帰納法である。\n帰納法とは個々の経験や実験・観測による事実から共通するものをとりだして一般的な法則を見出す方法である。帰納法そのものはすでにアリストテレス以来認められていたが、自説に都合のいい事実をピックアップしたり、膨大な事実をただ集めるだけで終わってしまうことが多かった。\nまた、スコラ学者のような人々は現実に即していない空理空論を振り回すだけだとベーコンは考えた。\nベーコンはこれまでの帰納法もスコラ学も批判する。経験派(従来の帰納法を使う人々や当時の科学者)はアリのように物事を集めるだけであり、独断派(スコラ学者およびアリストテレスなど)はクモのように頭の中で空論や独断を紡ぎだす。しかし、新しい哲学は、あたかもハチが材料を花から集めながらハチミツを作りだすように、自然の観察や実験によって見出された材料をもとにして知性によって自然の法則を見出す。\nとはいうものの、自然は簡単にはその真の姿を見せてくれない。ベーコンは「自然の秘密もまた(中略)技術によって苦しめられるときいっそうよくその正体をあらわすのである」(『ノヴム・オルガヌム』第一巻・98)という[1]。自然をただ観察するだけでは肝心なことは見えてこないのだから、いろいろな道具や技術を用い、都合のいい状態を人工的に作りだす。つまり実験を通じてデータを集め、一般的な法則を見出すという現代科学の方法を確立したのである。\n17世紀以降の科学的な諸発見は哲学の世界にも大きな変化を加えようとしていた。コペルニクスによる地動説の復興、ガリレオによって明らかにされた運動のすがた、ハーヴェーの血液循環説によって確立された生理学。これらを受けて、哲学の二大潮流である観念論と唯物論の対立は新たな局面を迎えようとしていた。\n観念論とは、あらゆるものが精神や心などのような霊(魂)に結びつけられるという思想である。他方、唯物論はあらゆる現象は物質の変化や運動に還元できるという思想である。科学上の発見は唯物論の足場を着々と固めていった。そんな中でガリレオの影響下で数学と物理学を学び、一時ベーコンの秘書もつとめたホッブズが登場する。\nホッブズは当時の最新の科学的な知見を基に、世界に存在するのは物質とその運動だけであり、すべては機械的な運動によって決まると考えた。それは物体の運動、変化のような自然現象にとどまらず、人間の意識・魂・心も、身体の器官に何らかの運動が起きたことによって生じたものであるとした。さらに社会や国家といった、生物でもなく形あるものでもないものも、自然の物質と同じように機械的に決まるのだという。それが、社会契約という発想につながっていくのだが、彼の社会契約論についての説明は高等学校倫理/民主主義社会の倫理と思想にゆずることにしよう。\nホッブズが当時の学問に与えた衝撃は大きく、イギリスの哲学や神学はホッブズやデカルトによって開拓された思想の継承と批判を通じて合理化を図った。そうした中で登場するのがロックである。\nロックはまず、人間の心の表象(観念)はどこから来たのかを考えた。彼は、デカルトが示した人間が生まれつき持っている観念(生得観念)を否定し、観念はかつて感覚した物事が反映したものだとした。私たちは何も感じなければ、意識は白紙(タブラ・ラサ)のままだという。\n――『人間知性論』第2巻第一章(『世界の名著27 ロック ヒューム』中央公論社,1968年)」\nまっさらな状態の人間は、感覚[2]を用いた活動(周りを見たり、音を聞いたり、物に触ったり、味わってみたりすること)を通じて、あるいは考えたり疑ったり信じたりという心の動き(内省)によって、単純観念(「白い」「固い」「甘い」「嬉しい」「悲しい」など)が出来上がる。人間の意志は単純観念へ能動的に働きかけて、美・感謝・人間・宇宙・自由などといった複雑観念を作り上げる。こうして新しい複雑観念ができる場合、もはや観察に限定されず、経験の枠を超えたものを作り上げることができる。\n例えば、ヘビという生き物を知らずにヘビを見たとき、私たちは「細長く」「にょろにょろと動く」「緑色の」生物であると感じる。そこから何度も同じような生き物を見たり教えてもらったりする経験を通じてそれがヘビという生き物であることを知る。さらに、私たちはヘビと気象・他の動物・様々な言い伝えをさらに組み合わせて龍という観念を作り上げて絵や物語を作っていく。私たちは龍を実際に見たことはない(=「見る」などの感覚的な経験をしていない)が、そのイメージをすることはできるようになる。\nこのように、経験から観念や価値判断が生まれてくる理論を打ち立てたことから、ロックは経験論の完成者とみなされている。\nロックの経験論の不十分さを衝いたのがバークリーだった。彼の有名な言葉が「存在するとは知覚されること」である。バークリーはロックが前提にしていた、外的な事物が存在することを否定する。バークリーによれば、物事の認識は心によって知覚されることによって行われる。そして、現実は知覚される限りにおいて存在するのであり、心がなくなれば外の世界も存在しないとした。こうしたバークリーに代表される心のみが実在するという思想を唯心論という。\n経験論が感覚や知覚に基づく経験を重視したのに対して、人間が生まれつき持っている思考の力を重視したのが合理論[1]である。合理論はフランスやその周辺で発達したことから大陸合理論ともよばれる。\nここでは、近代的学問の方法として理性のはたらきを重んじたルネ・デカルトの思想と、それと関連するスピノザとライプニッツにも少し触れたい。\n1596年生~1650年没。はじめはスコラ哲学を学んでいたが、それに満足せず「私自身」か「世界という大きな書物」の中に見つかる学問以外は探さないと決心する。そして、旅や軍務に服しながら諸国を渡り歩く。そうして、多くの人々と交流するが、1628年にオランダに移住し、20年間の思索の生活に入る。その間に刊行された『方法序説』『省察』によって世に知られるようになる。53歳のときにスウェーデン女王クリスティーナに招かれて専属の哲学講師となるが、生活環境の変化から翌年に風邪をこじらせて肺炎にかかり死去した。\nデカルトは数学や自然科学にも大きな功績を残した。方程式で未知数をxで表すなどの表記法や座標の考え方を発明し、幾何学と代数学を統合するきっかけをうみだしたのもデカルトである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%80%AB%E7%90%86/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%90%88%E7%90%86%E7%9A%84%E3%83%BB%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%9A%84%E3%81%AA%E6%80%9D%E8%80%83%E3%81%A8%E6%96%B9%E6%B3%95"} {"text": "ここでは資料として、「倫理」で扱った先人たちの言葉を紹介する。\n以下は『初期ギリシア哲学者断片集』(山本光雄訳, 岩波書店)による\n以下の引用は全て『世界の大思想6 ベーコン』(河出書房新社,1969年)より。\n以下の引用は全て『リヴァイアサン(1)』『リヴァイアサン(2)』(岩波文庫,1992年改訳版)より\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%80%AB%E7%90%86/%E5%85%88%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89"} {"text": "16世紀ごろのヨーロッパでは、君主が中央集権的に強大な権力を行使して国民を支配する絶対王政の時代に突入していた。絶対王政は、君主が特権を持った大商人らと結びつき、強力な統治を行うために常備軍と官僚制を整備したことに特徴付けられる。この絶対王政を理論的に支えていたのが「王権神授説」であった。王権神授説とは、君主の統治権(王権)は神が与えたものなのだから、王権は絶対であるという考え方である。\nしかし、17世紀ごろから商業活動が世界規模に拡大したこともあり、商工業者が力をつけてきた。そして、裕福な商工業者が経済面において君主と次第に対立するようになり、自由と平等と政治に参加する権利を求める市民革命(ピューリタン革命や名誉革命など)を起こしていくこととなる。この時代に、市民たちの理論的な支えになったのが、国家権力とは、神が君主に与えたものではなく、国民(市民)による権利の委託の結果であるという社会契約説である。\n社会契約説を説いた人々は、説明のために国家も法律も存在しない世界(これを「自然状態」という)を仮定した。\n社会契約説を主張した人物でも特にホッブズ、ロック、ルソーの3人が有名である。\n社会契約説は、まずホッブズによって主張された。\nイギリスの ホッブズ Hobbesは著書『リバイアサン』(リヴァイアサンとも書く、出版年:1651年)で、王権神授説を否定し、政府とは人民が自分たちの安全のために作り上げたものだと主張した。リバイアサンとは、旧約聖書に登場する怪物のことである。ホッブズは、国家をある種の怪物に例えたのである。\nホッブズによると、まず、すべての人間には、自らの生命を守る権利があるとした。しかし、ホッブスは、そういった権利があるだけでは、各々が自分自身を守ろうとするがために、他人を敵だと疑って傷つけてしまいかねず、社会の平穏が脅かされてしまうと考えた。ホッブスは、こういった状態のことを「万人の万人に対する闘争」と定義した。\nホッブズは、このような人民どうしの闘争を防ぐためには、国家を形成して、市民が国家に従うことで、市民同士が相手を味方であるとみなせるようになることが必要だと考えた。そのため、ホッブスは、人が生まれながらにして持っている権利(自然権)のうち、一部の権利を国家の主権者に委ねるべきだと主張して、絶対王政を擁護した。\nホッブズによれば、このように国民どうしの契約(社会契約)によって、王権は国民から君主に与えられたものであるので、当然に王権神授説を否定している。つまり、権力を君主に与えたのは、神ではなく国民であるとホッブズは主張した。つまり、ホッブズの理論にもとづくなら、神を仮定しなくても、王権の必要性は説明できるのである。\nつまり、ホッブズによると、\nということであり、その根拠が「万人の万人に対する闘い」を解消するための、絶対的な権力の必要性についての考察である。\nなお、自然権の思想では、もし神の存在を仮定するなら、権利を神から与えられた者とは王ではなく人々である。人々が神から与えられた侵すことのできない最低限の権利こそが、自然権である。(※ 参考文献: 山川出版の検定教科書『詳説 政治経済』、2013年検定版、10ページ脚注、)\nロック Lockeは『市民政府二論(統治二論)』を著し、圧政を行う君主への抵抗権(革命権)を主張し、名誉革命を正当化する理論となった。\nその主張の論法は、つぎのような論理である。\n人権とは、君主の意志とは無関係に、自然に与えられる権利だから、もしその人権を侵す君主がいれば、この君主を革命で倒すべきだという内容である。ロックは、自由・生命・財産の権利が、自然に与えられる権利(自然権)だと考えた。\nロックの理論によれば、そもそも君主とは、本来は、人々の自然権を確実なものとするために、人民から信託を受けて、代理として選ばれただけの者に過ぎない。つまり、君主の存在は目的ではなく、単なる手段である。もし人権を侵害する君主がいれば、その君主は、本来の責務を破っているのだ。だから、人権侵害をする君主がいれば、人民から見れば、その君主は単なる裏切り者である。裏切り者を革命によって打倒することは、道義的にも正義である、という発想がロックの理論である。\nつまりロックは、王権神授説などにもとづく君主の独裁を否定している。\nそして、ロックのこのような理論により、抵抗権が正当化された。\nまた、ロックは、人民は政府を作るべきと考え、その人民の政府の根拠は、人民どうしの契約にもとづくべきであると考えた。\n国家や法律は必要であるが、それらは、人民の合意に配慮しなければならない、というようなことをルソーは著書『社会契約論』などで主張した(ルソーだけでなくホッブズもロックもそれぞれ独自の「社会契約」の考え自体は用いているが、しかし、書籍『社会契約論』を著したのはルソーである。この点、混同しやすいので注意)。\nルソーの発想は、そもそも法律の強制力の根拠とは、その法律が、その国の人民どうしの契約にもとづく場合だけである。ならば、人民どうしの契約にもとづいていない法律なんぞ、無効であるべきだ、・・・的な発想である。\nルソーは人民どうしの契約にもとづかない法律の無効を唱えたいっぽう、けっして全ての法律の無効化を主張したのではなく、人民どうしの契約にもとづく法律は有効だと考えているのであり、けっしてルソーは無政府主義者ではない。\nルソーは、(人民どうしの契約にもとづいている、という意味での)有効な法律への前提になる、政治についての人民の総意のことを「一般意志」(いっぱんいし)と呼んだ。\nともかくルソーは、一般意志にもとづく法律だけが有効な法律である・・・みたいなことを主張した。\nルソーの考えは、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言に影響を与えた。\n司法・立法・行政の三権分立の考えのように、権力を分散させて、独裁をふせぐ発想を、権力分立という。この権力分立を言い出した人はロックなどであるが、さらにこの考えを司法・立法・行政の三権分立に発展させた人がフランスの思想家モンテスキューである。モンテスキューは著書『法の精神』で、三権分立の考えを述べた。\nなお、権力を分立させる理由は、万が一、三権の内いずれかの権力が暴走したとき、他の権力によってその暴走を止められるように、権力同士を互いに監視させるためである。こうした権力分立の機能を抑制と均衡(チェック・アンド・バランス)という。\nなお、ロックの考えた時点での権力分立は、立法権と執行権(行政権)のふたつの権力に二分する権力分立だった。\n現代でも、多くの国の憲法で、三権分立の考え方、またはそれに近い考え方が、民主主義を実現させるためのアイデアの一つとして採用されている。\n「法の支配」(rule of law)とは、実質的には、人権思想による支配・・・かもしれない。\nどういうことかというと、「法の支配」でいう「法」とは、自然法のことである。「自然法」とは、君主が勝手に定めた法などではなく、今でいう基本的人権に相当する法・権利を、人には生まれつき(つまり自然に)認めるべき、という意味である。つまり、自然法とは、基本的人権を生まれつき認めるべき、という考えである。\n17世紀のはじめのイギリスの市民革命期に、国王ジェームズ1世の絶対王政などに反発する裁判官のクック(コーク、Coke、エドワード=クック)が、国王と市民階級が対立した事件での裁判の判決で「国王といえども神と法のもとにある」という中世の哲学者プラクトンの言葉を引用して、法の支配(rule of law)を主張した。\nこのような歴史的背景から、「法の支配」には、「王といえども法に従うべき」という規範がある。これはつまり、(上記にもよく見れば書いてあるが、)絶対王政の否定でもある。また、その法を制定するのはもちろん、議会または人民の代表者である。\n法治主義(Rule by Law)というのは、19世紀のドイツで発達した概念で、行政権について想定したものであり、行政は法にもとづかなければならない、とする思想である。法治主義は、べつに、人権の保護を目的とした概念ではないので、「法の支配」とは異なる。\n「法治主義」と「法の支配」とも、法にもとづいて国家権力を行使するという点での共通性はあるものの、その他の部分や目的が異なる。\n「悪法といえども法なり」という格言のように、たとえ人権思想の正義に反していようが、なるべく法律を優先すべきだという考えが、第二次世界大戦前のドイツや日本で強かった。このような考えを 形式的法治主義 という。このような思想の下の国家は、国家の存在意義や法律の趣旨を軽視した法律万能主義に陥り、国民の人権やその他の権利を侵害するおそれがある。\nいっぽう、人権思想に反する法律の有効性は認めずに、なるべく法治主義を目指そうとする思想を 実質的法治主義 という。第二次世界大戦後のドイツや日本は、実質的法治主義を目指している国といえる。\n資本主義の発達につれて、貧富の格差の拡大が問題になった。貧富の格差を是正するため、社会保障などが必要になった。\n第一次世界大戦後のドイツで1919年に制定されたワイマール憲法は、世界で初めて、社会権を明文化した憲法である。\n第二次世界大戦後(ただし終戦直後は除く)の昭和~平成の日本の国会議員を選ぶ国政選挙のように、けっして人民が直接的に国会などで発言したりするのではないが、しかし投票などを通じて人民を権力の源泉として人民が政治に参加している仕組みのことを(少なくとも建前上は)仕組みのことを間接民主制と言う。\nいっぽう、古代ギリシアの都市国家のポリスなどでは、市民全員が直接的に政治参加していたが、これを直接民主制と言う。(※ 詳しくは高校の『世界史』系の科目で習うので、政治経済科目では省略する)\n現代でもスイスの州では直接民主制は行われている。だが、現代のような国家では、人口の多さなどの理由から、直接民主制は基本的には不可能である。\nなお、「議会制民主主義」や「代議制」などの用語も、その意味は間接民主制とおおむね同じである(NHk教育「第3回 現代の民主政治」の見解)。\nなお、「議院内閣制」とは大統領ではなく内閣総理大臣が行政の最高権力者の仕組みのことなので、上記とは意味が異なる。混同しないように注意。\n20世紀のナチスドイツのヒトラーを生み出したのも大衆民主主義(NHk教育「第3回 現代の民主政治」の見解)。民主主義だからといって平和主義や国際協調とは限らないのである。\n民主主義でも、社会や経済が不安定になると国民がファシズムを選択してしまったりする事例もある(NHk教育「第3回 現代の民主政治」の見解)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E6%B0%91%E4%B8%BB%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2"} {"text": "議院内閣制は、議会が内閣総理大臣(首相)を選ぶ仕組み。(イギリスなどが議院内閣制)\nなお、大統領制では、国民が直接的に選ぶ。(アメリカなどが大統領制)\nともかく、議院内閣制では、各省庁の大臣などから構成される内閣が組織され、(議会ではなく)内閣が行政権を担う。\nなお、「首相」とは、内閣総理大臣のこと。\n議会と内閣とは、別組織である。ただし、基本的に連帯責任を負う。\n\nイギリスは国王のいる国である。\nイギリスは、議院内閣制であり、立法は議会が行う。\nイギリスには今でも貴族の制度がある。\nイギリス議会は上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制である。\n上院(貴族院)には貴族や聖職者が選ばれる。\n下院の権限が優越している。下院は、国民が直接選ぶので、より民意に近いと考えられているので、下院が優越しているのである。\n首相は、慣例的に、下院の多数党(与党)の党首がなる。そして内閣は、その首相が組織し、普通は与党などから閣僚が選ばれる。この首相を任命するのは国王であるのだが、そもそも名目上の主権を持つのは国王なので、国王が首相を任命するという慣習になっている。\nイギリスでは、野党も、慣習的に、内閣のような議員の組織を作っている。野党のつくる、この組織を「影の内閣」(Shadow Cabinet)といい、つぎの政権交代に備えている。\n内閣は議会(下院)に対して連帯して責任を負う。\n内閣が議会からの信任がなくなった場合、内閣は総辞職または解散総選挙をしなければならない。解散総選挙をするのは、国民に信を問うためである。\nイギリスの主な政党は保守党と労働党であり、二大政党制であるが、近年では第三の政党として自由民主党も勢力を強めている。\nアメリカは大統領制の国である。アメリカでは大統領は行政府の長であり、国家元首である。\nアメリカの大統領制について語る。\n大統領は、議会からの信任を必要としない。大統領を選ぶための選挙では、選挙人といわれる者たちが、大統領を選挙で選び、この選挙人に誰をするかを国民が投票する。つまり、間接選挙で大統領が選ばれる。\nこのように、行政府の長である大統領が、立法府からの信任を必要とはしないので、アメリカでは行政府と立法府との分離が、ほかの国よりも明確である。\nそして、大統領と議会とが、相手が暴走しないように、おたがいに抑止(抑制均衡:チェック・アンド・バランス)しあうことが期待される制度になっている。つぎのような制度になっている。\n大統領には、議会の可決した法案への拒否権がある。大統領には、議会へ、大統領の考える政策を意見する教書(Presidential Massage)を送って示す権限がある。\nアメリカでは議会が大統領を支持するとは限らないが、大統領もまた議会の法案を支持するとは限らないのである。\n大統領によって拒否された法案でも、両院の三分のニ以上の多数の賛成があれば、大統領の書名を経ずに、その法案が可決して法律となる。\n大統領には、議会に法案を提出する権限は無い。また、議会に解散を命じる権利を、大統領は持たない。\nなお、大統領の任期は一期あたり4年であり、二期までしか続けて大統領になれず、大統領の三選は禁止されている。つまり 2期×4年=8年 で、最長で8年までしか大統領を続けられない。\nアメリカでは地方分権を尊重しているので、連邦政府の権限は主に外交や防衛などに限られる。\n(※ アメリカは制度的には二大政党を規定していなが、アメリカも事実上の二大政党制の国である。なお、世界では、国会で二大政党の実現している国は少なく、二大政党が長期に実現している国はアメリカとイギリスのみである(※ 参考文献: 清水書院『ニュース解説室へようこそ 2018-19』)。)\n社会主義とは、私有財産こそが貧困などの経済格差の原因と考えて、私有財産制を否定して、また労働者による政治の支配をしようとする政治理念である。マルクスとエンゲルスが社会主義の思想を提唱した。\n1917年のロシア革命によって成立したソビエト連邦が、社会主義の思想を制度に取り入れた国である。商工業の投資の計画などは、政府が独占的に立案するとして、計画経済がソビエト連邦で導入された。\n冷戦時代の中華人民共和国や、今は崩壊してしまったがソビエト連邦と、ソ連の勢力下の東欧の国々などが、このようなマルクス的な理念の社会主義国であった。\n冷戦時代の社会主義国の議会の特徴として、一党独裁である。(国によっては、形式的には複数政党が存在している場合もあるが、実質的に一党独裁制である場合ばかりだったので、本wikiでは便宜上の都合で「一党独裁」として扱う。)この独裁政党は、社会主義の理念を持つ政党である。ソ連では「共産党」という政党が独裁していた。中国では現在でも共産党が独裁している。ソ連や中国の権力は、この共産党に集中しているので、権力集中制という。\nしかし、計画経済を導入していたソビエト連邦や中国などでは計画経済が思うように上手く行かず、冷戦の後半には、計画経済をだんだん廃止していった。\n現代では、中国でも市場経済のシステムを取り入れたりとしてるように、今では「社会主義国」とは単に一党独裁またはそれに近い制度の国のことであろう。\n現在(2015年)、社会主義国を維持している国は、中国・ベトナム・キューバ・北朝鮮などである。なお、現在の中国は形式的には、一党独裁ではないが、実質的に中国共産党が独裁的に支配している。\n中国では1989年に、学生などが民主化を求めるデモを起こしたが、中国政府によって弾圧された。この1989年の弾圧を天安門事件という。\n現代のロシアは、名目上は民主主義国であり、社会主義国ではない。東欧の多くの国は、民主主義国である。\n中国の立法府は全国人民代表大会であり(全人代)、これが中国の最高機関である。また、中国の立法府は一院制である。\n全人代は毎年一回、開催される。全人代に解散は無い。全人代の議員の任期は5年である。\n中国の行政府は国務院といい、全人代よりも低い権力の組織である。司法についても、中国の最高司法機関である最高人民法院は、全人代よりも低い権力である。\n経済政策については、現在の中国では市場経済(「社会主義市場経済」)が取り入れられており、私有財産は、ほぼ認められている。\n中国の政治は「社会主義」とは言うものの、マルクスやエンゲルスの考えた「社会主義」とは、中国の「社会主義」は違っている。\n第二次大戦後、欧米などによる植民地支配を打倒して、多くの独立国が誕生した。これらの多くの新たに誕生した独立国の多くは、民主主義または社会主義の制度を取り入れた。\n民主主義を取り入れた新興国の中には、貧困などのため、なかなか民主主義の確立がうまく行かず、国内の民族対立などで混乱した国もあった。\n冷戦下の韓国は、経済開発を民主化よりも優先して目指す国が現れ、そのための独裁をした。これを開発独裁という。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%82%82%E3%81%AA%E6%94%BF%E6%B2%BB%E4%BD%93%E5%88%B6"} {"text": "日本では、明治憲法も日本国憲法も、憲法の改正が、とてもしづらい仕組みになっている。\nこのように、通常の法律の改正と比べて、憲法の改正がしづらい仕組みの憲法を硬性憲法(こうせい けんぽう)という。\n日本国憲法は、第二次世界大戦の終戦直後に制定されたから、それ以来、現在(2015年に記述)まで一度も改正されたことがない。\nいっぽう、硬性憲法に対して、通常の法律の改正手続きとほぼ同じように比較的簡単に憲法を改正できる国の場合、そのような改正しやすい憲法のことを軟性憲法(なんせい けんぽう)という。\n日本の憲法は、明治憲法も日本国憲法も、条文が存在している。このように条文として存在している憲法を成文憲法(せいぶん けんぽう)などという。\nしかし、イギリスでは、憲法の条文が存在しておらず、イギリスではマグナ・カルタや名誉革命のときに出された権利章典などが憲法の条文の代わりとして、一般の法律を決める際の方針になっている。\nイギリスのように、憲法の条文を制定していない場合を不文憲法(ふぶん けんぽう)などという。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E5%8E%9F%E7%90%86"} {"text": "今でこそ各国は自国の主権を明確に意識しているが、古代・中世では、そうではなかった。\n主権国家の概念が出てきたのは、絶対王政などが背景にある。\nウェストフェリア条約(1648年)で、主権国家の概念が出てきた。このウェストフェリア条約とは、ドイツ三十年戦争を終了させるためにウィストフェリア地方で開催された国際会議での条約である。\n近代の欧米では、もし各国の軍事力が釣り合っていれば、どの国が他国に侵略をしかけても可能性が少ないので、戦争が減らせるだろうというバランス・オブ・パワー(勢力均衡)(balance of power)の発想を、当時の人は考えた。\n国家間の条約や、国際慣習が、国際法(こくさいほう)である。公海自由の原則も国際法である。\n17世紀、オランダのグロティウスが、国家間の調停にも、自然法にもとづく法が存在するべきだと主張して、『戦争と平和の法』で、(現代でいう)国際法の考えを述べた。こののため、グロティウスは「国際法の父」と呼ばれる。\n国際法では条文は必ずしも存在するとは限らず、グロティウスの当時は「公海自由の原則」は条文がない国際慣習であった。(公海自由の原則は、現在では国連海洋法条約などで成文化され条約化されている。)\n戦争における捕虜(ほりょ)の取り扱いについてのルールも、国際法は定めている。このような、戦争に適用される国際法を戦時国際法(せんじ こくさいほう)という。\n現在の国際社会では、大国よりも強い権力を持った国際機関は無く、国際機関は、大国が参加しないかぎり、あまり大きな影響力を持たないのが現状である。\n国際法も同様に、大国には、あまり大きな強制力を持たない。\n国際連合では国際法として普及している国際慣習を条文化する作業をしているが、国連には国際法を制定する権限は無く、あくまで国際法は条約や国際慣習などにもとづく。\nただし、国連も、国際慣習の一部ではあるので、国連および国連の整備した国際法についての条文は、国際法に比較的大きな影響をもたらす。\n国際法に限らず、法律において、まだ立法化されていないが、慣習にもとづいて多くの国に守られている(事実上の)法のことを、「慣習法」という。(※ 普通科高校の範囲内。)\nある国際慣習が、まだ条約になってなくても、その国際慣習が多くの国に守られていれば、国際法であると見なされる。このような、国際慣習の状態の国際法のことを「国際慣習法」という。(※ 検定教科書の範囲内) 国際法では、このような国際慣習法も多い。\n「公海自由の原則」も、グロティウスの時代では(今で言う)国際慣習法であった。\nいっぽう、国際法のうち、条約などによって成文化された法律のことを、成文国際法(せいぶん こくさいほう)という。\n国際法に限らず、国会などで立法化された法律のように、条文として文書化された法律のことを成文法という。(※ 普通科高校の範囲内。)\n(※ 参考: 『高等学校商業 経済活動と法/法の分類』に、「慣習法」、「成文法」などの法律の分類についての説明がある。)\n成分国際法は、必ずしも名前が「○○条約」のような名とは限らず、「○○宣言」とか「〇〇議定書」などの場合もあるので、内容と締結の相手で判断する必要がある。国家と国家の条約でなくとも、国家と国際機関との条約または協定などであっても、国際法になる。(※ NHK教育 『高校講座 政治経済』「第14回 国際関係と国際法 放送日:7月8日 」の見解)\n国内法を思い起こせば、国内法については、各国の国民が、その国の国内法に違反した場合は、その国の警察などから取り締まりを受ける。\nしかし、国際法については、ある国が国際法に違反しても、その違反国を取り締まるような警察や世界政府のような組織が、けっして、どこかに用意されているわけではない。なので、国際法は、その実効性に限界がある。\nまた、ある国が、そもそも、ある国際条約を批准してなければ、その国際条約は、その(未批准の)国には拘束力を持たない。このように、国際法は、その拘束力に限界がある。(※ 清水書院の検定教科書に、このような記述がある。)\nしかし、たとえ国際法の実効性・強制力などに限界があっても、多数の国が設立した国際機関が、国際法に違反した国や個人について、裁判をすること自体は可能である。\nそのような国際法違反を裁く裁判所は、第一次世界大戦後の国際連盟の時代から常設仲裁裁判所として存在していた。\n国際連合は、これに代わるものとして、1946年に国際司法裁判所(ICJ、International Court of Justice )をオランダのハーグに設置した。これは、国家間の紛争や対立を裁くための裁判所である。\nしかし、国際司法裁判所の裁判を開くには当事国双方の合意が必要なので、強制力が不十分である。\n(1990年代に起きたルワンダ内戦がキッカケとなり、)\n2003年には国際刑事裁判所(ICC、International Criminak Court)がハーグに設置された。\n集団的な殺害(ジェノサイド)、人道に対する罪、戦争犯罪、侵略に対する罪など、を裁く。\nこのICCの規定に、日本は2007年に加盟した。アメリカ・ロシア・中国・インドは、ICC条約には未批准である。\n国際連盟や国際連合は、紛争の解決手段の一つとして集団安全保障(collective security)という概念を採用している。\n集団安全保障とは、対立関係にある国もふくめて、国際紛争を平和的に国際会議などで解決しなければならなとする社会を目指すものである。\n集団安全保障にもとづいて国際平和を達成する国際機構というアイデアは18世紀にすでにあり、ドイツの哲学者カントの著作『永久平和のために』に表れている。\n実際に、このような国際平和の機構が作られたのは、第一次世界大戦を終了させるためにアメリカ大統領のウィルソンが提案して設立された国際連盟(League of Nations )であった。\nしかし、国際連盟の集団安全保障は、しばしば加盟国どうしが対立するなどのため、実効性が乏しく、また全会一致を原則としていたため加盟国が対立すると決定を下せず、このような理由などもあり、国際連盟は第二次世界大戦を防げなかった。\n\nもし、国連など国際機関での国際法の通説と、日本国内などある国での国内法が食い違っているとき、どちらを優先すべきなのでしょうか?\nこのような場合について、日本の法体系では、特に、法的なルールは定まっていません。\n日本国憲法98条には「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」とあります。\n日本では、よく評論家などが、条約は通常の法律に優先する、などと主張する場合もありますが、しかし、そのような主張の評論には、憲法的な根拠はありません。\n日本国憲法では、いっさい、条約を国内の通常の法律よりも優先せよ、などとは、定めていないのです。\nさて、多くの先進国では、国際条約にもとづいて、通常の国内法を立法していく事があります。\nまるで、国際条約が、憲法であるかのように、通常の法律を立法する事例が、多くあります。\n日本でも、日本の批准(ひじゅん)した様々な国際条約にもとづいて、国内法を立法する場合があります。\nこのような政治慣習をもとに、「条約は通常の国内法よりも優先する」(?)と主張する評論家なども、多くいます。\nしかし、このような国際条約を反映した立法は、けっして何かのルールに定められたものではないのです。なので、条約を批准したにもかかわらず、その条約を批准している諸外国のような立法をしない場合も、日本では、実際に、あります。\nじっさい、労働関係の法律でも、教育関係の法律でも、同じような条約を批准しあっている国々どうしでも、それぞれの国で、その労働分野や教育分野の法律の内容が大きく違います。\nそもそも、憲法で条約を「遵守」しなさいと言われてても、その「遵守」とやらの基準は憲法には存在していないので、条約を批准しただけでは、せいぜい理想を確認しただけぐらいの意味合いしか持たない場合もあります。\n日本では、このように、条約と通常の国内法との優先関係は、あいまいになっています。\nよく、右翼や左翼が、自分たちの都合のいい条約を、政策の根拠に主張することがあります。(※ 右翼、左翼については『高等学校政治経済/政治/右翼と左翼、保守と革新』を参照せよ。)\nたとえば右翼なら、日米安全保障条約を根拠に、自衛隊の増強などの政策の正当性を主張したりします。いっぽう左翼なら、国連憲章などを根拠に、平和主義的な政策の正当性を主張したりします。\nこの際、あたかも条約に絶対にしたがわなければならないかのように、右翼や左翼が、主張したりすることも、よくあります。\nですが、そもそも条約どうし、理念が矛盾的に存在している場合もあります。例えば戦時における戦争の参加を前提にした日米安保と、戦争の違法化を目指した国連憲章は、そもそも原理的に理念そのものが矛盾的な状況にあります。\nなので、そもそも、すべての条約に絶対にしたがうのは、条約どうしが矛盾している状況もあり、原理的にも無理な話です。\nおそらく、実際に条約批准をした各国政府が可能なことは、せいぜい「条約を尊重する」という努力をすることぐらいです。\nなお、そもそも法学的には、ある複数の法について、そのうちのある法の優先順位が高いことと、それが憲法のように上位規範の法律であるかどうかとは、いっさい別々のことです。\nたとえば、国内法では、「特別法は一般法に優先する」という原則があります。(「特別法」とは何かについては『高等学校商業 経済活動と法/法の分類』を参照せよ。「民法の特別法として、民事訴訟法や商法がある。」のような言い方をする。)\n右翼や左翼で、自分に都合のよい条約だけを根拠に選んで主張をするような人には、こういう「特別法」という概念をあまり知らないでいる無知な人も、きっと多くいるでしょう。つまり、商業高校でも習うような、特別法という法学的な概念すらしらずに、国際政治をかたりたがる、あたまの悪い評論家も、日本には、たくさん、います。\nなので、あまり、評論家の無責任な言説を、あまり信用してはいけません。\nなお、法学者などが「条約を守るべきだ」などと言っても、これはせいぜい、法学者が「憲法を守るべきだ」というのと同様のことでしか、ないでしょう。\nそして、その憲法は、実際9条は、実際には解釈改憲によって形骸化しており、守られてません。\nもちろん理想的には、憲法と条約と通常の国内法とのあいだに、矛盾がないのが、望ましいことは、言うまでもありません。そんなことは、いちいち法学者に、言われるまでも、ありません。\nしかし、現実として、さまざまな政治的な事情により、憲法と条約と国内法とのあいだに、矛盾が生じることがあります。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B3%95%E3%81%A8%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%A4%BE%E4%BC%9A"} {"text": "大日本帝国憲法(明治憲法)は、当時のドイツの憲法を手本に作られた。\n今でいうドイツにあたるプロイセン(当時)の憲法は、君主に強い権利を与えていた。そのプロイセン憲法を手本に、大日本帝国憲法は作られた。\n明治憲法で定められた日本の主権者は天皇であり、日本国民ではない。そのいっぽうで天皇にも憲法を遵守するべきという立憲制のような義務を明治憲法では定めてある。\nそして明治憲法は、主権者である天皇が、国民に対して憲法を授けるという欽定憲法(きんてい けんぽう)というものであった。\n(欽定憲法とは、君主主権の憲法のこと。いっぽう、民衆が制定し、民衆の主権の憲法を民定憲法(みんてい けんぽう)という。)\nまた、人民の基本的人権については、「法律ノ範囲内」とするというものであり「法律の留保」という条件が付いていた。今日の日本国憲法での、人権基本的人権は永久・不可侵という権利という考え方とは、違っている。\nまた、政治による軍隊の指揮権に関しては、明治憲法では天皇が軍を統治するというものであり、議会による軍の統治ではなかった。\nこのように明治憲法では、軍隊の指揮権が議会から独立しているので、これを統帥権の独立といい、統帥権は天皇大権(てんのう たいけん)とされた。\nしかし日清戦争や日露戦争では、実質的には、議会と関わりの深い内閣の総理大臣が最終的には軍を指揮していたので、実態は明治憲法の名目とは異なる。しかし、満州事変の以降、軍部は、議会の国際協調路線に反発し、議会が軍部を抑えようとすると、軍部は天皇大権である統帥権の独立を根拠にして、議会による制御は統帥権を侵害するものだと主張して、軍部は議会に反発し、軍部は議会に従わずに暴走していった。\n内閣については、名目上は内閣は天皇の補助にすぎなかった。このことを、内閣は天皇の「輔弼」(ほひつ)である,などという。\n司法についても、名目上は、天皇を補助する機関にすぎない。議会についても、名目上は、天皇を補助する機関にすぎない。\nこのように、明治憲法では、天皇が、司法・立法・行政をすべて統治権(とうちけん)を持っていた。\nもちろん、実際に裁判所で司法の実務を行ったりするのは裁判官であるし、役所などでの行政の実務を行うのは、その役所の公務員などである。\n第二次世界大戦の終戦後に日本を占領したアメリカ軍の連合国軍総司令部(GHQ、General HeadQuarters)の司令官マッカーサーが、占領政策のための大日本帝国憲法の改憲案として憲法草案要綱を元に作られたマッカーサー草案が、現代の日本国憲法の、もとになっている。このマッカーサー草案を元に、日本国政府が新憲法の草案(そうあん)を作った。\n日本国憲法は、大日本帝国憲法の改憲として帝国議会に提出され、帝国議会で草案は可決され、こうして日本国憲法は制定され1946年に公布された。\n日本国憲法は、「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」を3大原則とする。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95"} {"text": "日本国憲法第11条、97条には「人権の永久不可侵性」がうたわれている。実際に条文をみてみよう。\n基本的人権は「国家に先立つもの」として、すなわち「人間が生まれながらにして持っている権利」であることを示していることに注意しよう。こうした思想は自然権思想と呼ばれる。\n小林多喜二を読みかえすまでもなく、国家権力は国民を苦しめてしまう。そのために必要とされたのが憲法である。そのため、人権規定が非常に重要なのである。\nさて、本節ではこうした人権規定を見ていくが、憲法条文だけでは必ずしもその意味が伝わりやすいとはいえない。よって、重要条文については、憲法のさまざまな判例[1]を見ていくことによって、その真意を理解していくことにする。\n基本的人権のそもそもの根拠条文は第13条である。\nこの条文を見ると、我々は個人として尊重され、幸福追求に対する国民の権利は、最大限尊重されるということがわかる。憲法第13条は個々の権利の根源に個人の尊重と幸福追求権があることを示している。\nなお、幸福追求権は、後述する新しい人権の根拠にもなっている。\nしかし、そうした自由や権利は、国民が努力して守っていかなければならないことが12条に書かれている。我々は権利をしっかり理解して、それを保持していく必要がある。\nさて、ここで、憲法に書かれている権利を主張するAとBがいたとしよう。どちらも、憲法に書かれている権利であるため、それを行使することは認められている。しかし、その権利が相反するものであったとしたら、どうだろうか。\n例えば、プライバシーの権利を主張する有名人と、表現の自由を主張する週刊誌との間で、揉め事が起こったとする。プライバシーの権利も、表現の自由も、どちらも憲法に書かれている権利である。さて、この場合、両者が100%自己主張することは難しいわけで、調整が必要な場合が出てくる。その調整が「公共の福祉」である。\n「公共の福祉」とは、社会全体の利益と解される。社会全体の利益を考えて憲法を解釈する必要があるということが、「公共の福祉」という言葉に表れている。なお、具体的な運用については、薬事法訴訟などの判例で触れることとする。\n法の下の平等の根拠条文は、第14条である。\n法の下の平等にかんする判例は、以下のようなものがある。\nまず、概要を確認しよう。\n尊属殺人の刑が死刑・無期懲役のみのため、執行猶予(懲役3年以下)をつけることができないことが、尊属という身分を不当に保護するものであり、平等権に反するとして争われた事例である。最高裁判所は原告の訴えを認め、当該規定を違憲とした。\nそもそも、「尊属」というのは、「父母と同列以上にある、目上の血族」のことを言う。換言すれば、父母や祖父母などである。これらの人々に対する殺人が、尊属殺である。\nまず、殺人罪は199条で規定されている。「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」というものである。現在は、殺人罪については199条のみであるが、以前は200条において、尊属殺についての規定があった。それが、「自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス」である。199条と200条の違いは、199条においては、懲役刑が適用される可能性があるが、200条においては、死刑か無期である。\nさて、この事件の被告は非常に不幸であった。彼女は、実の父親に幼いころから不倫の関係を強いられ、5人の子どもまで生まされた。しかし、すべてを理解して「結婚しよう」という青年が現れ、被告がそのことを打ち明けると狂った父親は彼女を軟禁したのである。そしてある日、酒を飲んで泥酔している父親を、彼女は絞殺してしまった。\n前述の通り、尊属殺人罪には、選択刑が死刑か無期懲役しかない。執行猶予は4年以下の罪にしか適用できないから、被告は100%実刑となってしまう。しかし、このような「他人よりもひどい父親」を、法律で保護する必要などあるのだろうか。そもそも、尊属とその他で刑罰を変えることは平等権に違反しているのではないか、ということが問題となった。\n最高裁は、尊属殺と普通殺を区別して処罰することじたいにはあながち不合理であるとはいえないとした。すなわち、刑を重くすることじたいは平等権に反しないとした。しかし、尊属殺の刑罰が死刑または無期懲役に限られるのはあまりにも厳しいとして、合理的な差別とはいえない、とした。\nよって、最高裁はこの規定を憲法違反と判断し、平成7年には刑法が改正され、尊属殺は刑法から削除された。\nこちらも、まずは概要を確認しよう。\n1972年の衆議院選挙の一票の格差が4.99倍に達していたことが、選挙権の平等に反するとして争われた事例。最高裁判所は、投票価値の格差が不合理な程度に達し、合理的期間内に是正がなされない場合は違憲となるとした上で、当時の選挙は違憲であると判断した。\nさて、1972年の衆議院選挙では、選挙区間の一票の格差が、最大4.99倍であった。\nすなわち、ある選挙区の候補者が当選するには、ある選挙区の候補者の4.99倍の票を取らなければならない、という状況を示す。\nこれは、逆に見れば、ある選挙区の有権者(Aとする)の票は、ある選挙区の有権者(Bとする)の1/4.99ということであり、これはある意味、「Aの権利はBの1/4.99しかない」ということになる。これは平等権に反するとして訴訟になった。\n最高裁の判決は違憲判決[2]であった。これにより、「おおよそ1:3以上は違憲になる」という原則が確立したとされる。\nなお、衆議院においては、違憲判決が出たことは上記含め、過去2回あるが、参議院については、違憲判決は一度も出たことはない。\n自由とは何からの自由なのか。国家からの自由である。例えば、国家に拘束をされないことや、国家から特定の思想を持つように植え付けられないことなどが国家からの自由にあたる。\n国家によって縛られない権利ということである。この自由権は、「精神の自由」「身体の自由」「経済の自由」の3つに分類される。それぞれを見ていこう。\n精神の自由の根拠条文は、19条、20条、21条、22条、23条である。\nこれは、思うことや考えることは、当人の自由であるということで、国家によってどのような思想を強制することもあってはならないというものである。\nたとえ、誰かを殺したいと思ったとしても、あるいは、日本に革命を起こしたいと思ったとしても、それを実行にうつさなければ、すなわち、思うだけならば、何ら処罰されたりすることはないのである。\n思想及び良心の自由にかんする判例は、以下のようなものがある。\n東北大学を卒業後、三菱樹脂株式会社に就職した原告が、入社試験時に学生運動歴を隠していたことが虚偽の報告にあたるとして、3ヶ月の試用期間後に解雇された事件\nこの争点は、学生運動をしていたということが、解雇の理由になるかどうか、というところである。\n学生運動とは、安保闘争に代表されるような、反戦運動、学費値上げ反対運動といったような活動をさす。誤解を恐れずにいうならば、左翼的な政治運動であった。\nこうした運動が、企業にとって不都合であることは言うまでもない。しかし、個人がどういった思想を持つかは、各人の自由に任されていることは憲法に規定されている通りである。こうした思想・信条による差別が許されるかどうか、と言う点が問題となる。\nこれだけを聞くと、どう考えても、憲法が優先されるように見える。しかし、憲法は国と国民(人民)との間の法律であったはずである。企業は国ではないから、公私で言えば、私に属する。憲法の規定は、私人間に適用されるか否かが争点となった。\nさて、最高裁は、原告が敗訴となり、憲法の規定は私人間には適用されないとした。\nしかし、一方で、企業と個人では明らかに企業の方が力を持っている。こうした不均衡の状態で、差別が横行して良いのだろうか。そこで、民法の規定[3]をもちいて、憲法の規定が、私人間に間接的に適用されるとする間接適用説を採用したのである。\nなお、当事者間で和解が成立し、原告は職場復帰を果たした。\nこれは単に、どの宗教を信じてもよいという意味である。\n重要な点は、②、③にあるように、国家などが、強制することはダメだという点である。これを政教分離の原則とよび、世界でも一定の基準となっている[4]。\n政教分離にかんする判例は、以下のようなものがある。それぞれの判決が、どのような論理でなされているかを理解したい。\n三重県津市が地鎮祭を挙行したさいの費用を市の公金から支出した。これが、政教分離に違反しているとして争われた事件である。\n地鎮祭とは、新築工事などを行う際に、土地の神に感謝し、工事の無事完成を祈る祭事のことである。こうした地鎮祭は、さまざまなところで行われており、宗教的行事と言うよりは、もはや習俗的な行事となっている。たいてい、家を建てる時などには、神主を呼んで、地鎮祭を行うのである。\nよって、最高裁は上告を棄却し、地鎮祭を習俗的行事として合憲と判断した。\nなお、こうした、行為の目的やその効果に基づいて判断する考え方を、目的・効果基準論と呼ぶ。\n愛媛県知事が、靖国神社に対して玉串料の名目で県の公金から支出した。これが、政教分離に違反しているとして争われた事件である。\n玉串料とは、祭儀の際に神前に捧げる、榊の枝に白い紙をつけたものである。\nこうした玉串料は、習俗的行事なのか、それとも宗教的性質を帯びるものであるのか、が争われた。\n最高裁判決では、愛媛県が、靖国神社に対して公金を支出することにより、神道への援助となると判断した。その行為の目的や効果が、特定宗教への援助になると判断したのである。\nよって、この公金支出については違憲とした。\n表現の自由は、他の自由権とは性質を異にすることに注意したい。他の自由権は、内心の自由が中心であるのに対し、表現の自由は、内心の自由を表に出す自由であるからである。\nここで問題となるのは、他者の人権と衝突する可能性があることである。調整が必要な場合が出てくるが、この問題が'''公共の福祉'''の問題である。\nさて、21条には見慣れない言葉が出てくるため、語句の説明をしておくことにする。\n「集会」とは人が集まって何らかのアピールをするものを指す。「デモ行進」なども「動く集会」として憲法で保障される。\n「結社」とは、何らかの団体をつくることであるが、「政党」をイメージすればよい。なお、「政党」の文字は日本国憲法にはない。\n「その他一切の表現」には、テレビや映画はもちろん、インターネットでの表現も含まれる。なお、「身体的表現」などもこれに入る。\n「検閲」とは、行政権(主に警察)が表現物を事前に調べ、必要とあらば発表を禁止することを指す。戦前にやられていた「発禁処分」はこれにあたる。\n「通信の秘密」は昔は手紙が盗み見されない権利を指す。今ではメールにも当てはまるとされる。\n表現の自由をめぐっては、さまざまな訴訟が提起されてきたが、ここでは以下の判例に簡単に触れることとする。\n小説『チャタレー夫人の恋人』は、DH・ローレンスという人が書いたもので、ヨーロッパでも猥褻本として発禁本になったものである。\nこの本を伊藤整という人が翻訳し、ある出版社を通じて発行したところ、刑法の猥褻文書頒布罪(刑法175条)にあたるとして起訴されたものであった。\nこの訴訟の争点は「表現の自由とわいせつ罪との関係」であった。\n最高裁判所は人権とその制限に関する細かい判断をせずに、「表現の自由といえども公共の福祉によって制限される」という論法で、わいせつ罪は合憲と判断した。[5]\n歴史学者の家永三郎教授はその著『新日本史』の発行にあたり、何百カ所にもわたる「検定意見」を付された。この検定制度が憲法で禁止された検閲にあたるとして提訴した事件。\nそもそも、現在学校で使用されている教科書は、「文部科学省検定済教科書」と書いてあるはずである。実は教科書は、生徒の手に渡る前に文科省が検定を行い、それを通過したもののみが教科書として使用可能となる、ということになっている。こうした「検定」は「検閲」であるかどうかが争点となった。\nさて、最高裁は、教科書検定は検閲にはあたらず、合憲であると判断した[6]。\n教科書検定で不合格となってしまっても、教科書として使われることがないだけであり、(売れるかどうかは別として、)一般書として流通は可能である。すなわち、検定は検閲にはあたらないのである。\n学問の自由の根拠条文は、23条である。\n学問をするところは大学であるとされるから、学問の自由は、大学の自治と深い関連がある。学問研究の過程に国家権力等の妨害が入ってはならないということが規定されている。\n戦前には、学問の自由に対する弾圧事件として、滝川事件と天皇機関説事件が有名である。これについては詳述しないが、こうした歴史的背景のもと、憲法では学問の自由を規定しているともいえる。\nこの事件は、東大校内で人形劇団ポポロが、政治的な事件(松川事件)に取材した劇を上演していたところ、警備情報活動のため潜入していた警察官を発見し、彼らに暴行を加えたというものである。\n公務執行妨害で逮捕された東大生は、そもそも大学内に警察官(国家権力)が入ることは憲法に違反していると主張した。\nこの事件に関し、最高裁判所の出した結論は、大学の自治を認めるとは言いながら、実質上それを否定するものであった。すなわち、大学の自治は教授等の研究者の自治であって、学生はその対象者ではない、というものである[7]。\nしかし、本来「大学の自治」とは、大学校内に権力が介入するのを禁ずる概念である。\nしかし、この最高裁の論法では、研究者の自治、すなわち、何を研究するかは保障されるものの、大学への権力の介入が可能となってしまう。その意味で、実質上この概念は否定されたとも言える。\n身体の自由とは、国家権力による奴隷的拘束や、拷問などを禁ずる規定である。\nなお、憲法の中で最も条文を割かれているものが身体の自由である。\nこうした規定が重要である分野は、言うまでもなく刑事司法である。\nよって、憲法上での論点はほぼないため、項を変えて、条文の解釈に留めることにする。\n①「奴隷的拘束及び苦役からの自由」(18条)\n旧日本軍への徴兵や軍需工場などへの徴用を禁止する趣旨である。従って、日本で徴兵制を採用することは出来ない。\n②「法定手続の保障」(31条)\n犯罪の被疑者を逮捕し、処罰する際には「適正な」実体法と手続法を必要とする旨を定めている。\n③「令状主義」(33条)\n不当な逮捕を抑止しようとするものである。\n逮捕が権力者の恣意にながれるとしたら、身体の自由は確保されないため、逮捕は裁判官の許可、すなわち令状がなければ出来ないと規定している。なお、令状は裁判所が発行する。\nただし、例外も存在する。それが「現行犯逮捕」である。例えば、万引きなどを見たときに、令状を待っていれば逃げられてしまう。そのために、例外を認めている。\n④「抑留・拘禁の要件」(34条)\n逮捕された人には弁護人を依頼する権利がある。弁護人を依頼するお金がない時も、国選弁護人と呼ばれる弁護士をつけることができる。\nまた、公開法廷で逮捕理由の開示を求めることもできる。これらの権利の存在を被疑者に告げなかったときには、抑留・拘禁は違法になる。\n⑤「住居の不可侵」(35条)\n警察による被疑者の住居の捜索・押収にも令状は必要である。\n⑥「拷問・残虐刑の禁止」(36条)\n拷問や、残虐な刑を禁止している。なお、残虐な刑とは、磔の刑や、釜茹での刑が当たる。\n⑦「被告人の権利」(37条)\n「迅速な裁判を受ける権利」「証人審問権」「弁護人依頼権」である。\n⑧「自白法則」(38条)\n自己に不利益な供述を強要されない権利、拷問等に基づく自白は証拠として採用されない権利、本人の自白以外に証拠がない場合には有罪とならない権利を規定している。\n⑨「遡及処罰の禁止・一事不再理」(39条)\n行為時に合法であった行為を、事後法により処罰することは出来ないと言うのが、訴求処罰の禁止である。\n一度無罪とされた行為や罪を償った行為についても、重ねて刑事責任を追及することは出来ないと言うのが、一時不再理である。\n経済の自由が規定されているのは、第22条、第29条である。\nなぜ、①で居住・移転の自由を規定しているのかといえば、この自由がなければ、経済活動を行うことが難しくなるからである。自由に動くことができてはじめて、経済活動が可能となるために、居住・移転の自由が経済の自由として規定されている。\nさて、歴史的経緯は省くが、ワイマール憲法において、「所有権は義務を伴う」(153条)とされているように、経済活動は上述の2つの自由権と比べて、制限されるべき権利とされている。\nもちろん、人権の一つであるから、守られなければならないものの、人権同士が衝突した場合、折れやすいのは経済の自由である。\n22条、29条にあるように、「公共の福祉」というのがそれを示している。ただし、そもそも「公共の福祉」は、憲法12条にも書かれているものであるから、全ての人権にかかわるということが大前提である。\nところが、経済の自由に関係する条文には「公共の福祉」が何度も登場している。そして、経済的自由権は社会的相互関連性が強い。すなわち、経済的人権は精神的自由権などよりも比較的強度の規制をされやすいということを示している。\nこのような運用を「二重の基準」と呼び、憲法解釈のさいには、経済的人権を制限する形で調整を図る。\n上記の経済の自由が問題になった事例が薬事法訴訟である。この判例は、かつて薬事法という法律で半径100mの範囲内で薬局を新設できないと定められていたことに対し、「営業の自由に反する」として訴訟になったものである。\n日本の国には規制が多いとも言われる。例えば、塩、タバコ、米、酒などは一部の公社しか販売できなかった。これを専売制と呼ぶが、薬局にも、こうした規制として、距離制限があったのである。この距離制限は違憲であるとしたのが、この薬事法訴訟である。\nしかし、なぜ薬局には距離制限があったのだろうか。\nここを理解するためには、前述の「二重の基準」が重要となってくる。\nさて、「人権」と「法律」の優先関係は、原則、「人権」>「法律」であることは理解できよう。\nさらに、人権を細分化すると「精神・身体の自由」>「経済の自由」であった。\nということは、「精神・身体の自由」>「経済の自由」>「法律」となるはずである。\nところが、これは原則であって、例外が存在する。経済の自由よりも優先される法律が存在するのである。それが、「弱者のための法律」である。\nというのも、経済の自由を優先しすぎて、貧困層と富裕層の格差が非常に大きくなってしまうという歴史があった。こうした大きすぎる格差は好ましくないため、経済の自由よりも、弱者を保護するための法律を優先する必要が出てくるのである。\nすなわち、法律も細分化され、「精神・身体の自由」>「弱者のための法律」>「経済の自由」>「一般の法律」と解釈する場合が存在するのである。\n薬事法訴訟においては、その法律が、「弱者のための法律」であれば、経済の自由より優先されるため、違憲とは言えない。例えば、薬局が濫立することにより、価格競争がおきてしまうことにより、薬の質が下がり、弱者の健康が害されることが予想されるならば、それは「弱者のための法律」である。\nしかし、当時の薬事法の規制は、そうしたことを目的としていない。薬局がないか、きわめて少ない地域を解消することが目的であった。\nすなわち、「精神・身体の自由」>「経済の自由」>「法律」という原則に戻り、無薬局地域をなくすためという目的で、距離制限を設けることは、国民の営業の自由を不当に侵害しているものであり違憲であると判断された。\nこののち、薬事法は改正され、距離制限規定が撤廃された。\n知的財産権とは、形の有無にかかわらない、価値に関する権利である。例えば、デザインやアイデアなどであり、こういったものを知的財産という。\n知的財産を保護しなければ、ある人が考えたアイデアを他者が自分が考えたかのように報告する(剽窃と呼ぶ)ことも可能となってしまう。\nこうした動きを受けて、2005年に知的財産高等裁判所[9]が設置された。\n知的財産権は、大きく2つの権利に分かれる。\n①産業財産権\n開発、発明などの権利である特許権、デザインの権利である意匠権、マークなどの商標権がある。なお、これらは出願や登録が必要な権利である。\n②著作権\n著作物についての権利である。著作物とは、形の有無にかかわらず、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属する表現物であれば発生する。\nまた、著作者が傷つけられないように保護するための著作者人格権も付随する。\n①と異なり、著作権は創作された時点で著作権が発生する。\nただし、著作権における例外、すなわち著作物を使用できる場合も存在する。\n高校生〜大学生でよく触れる例外は、「引用」であろうため、引用について簡単に説明する。\n例えば、レポートなどを書くときは、他者の意見を載せる必要が生ずる。しかし、他者の意見はその時点で著作権が発生しており、無断で使用すると著作権の侵害となる。\nそこで、引用を行うわけだが、引用は、以下の点に留意する必要がある。[10]\n①明瞭区別性\n引用の部分と自分の文章が明確に区別されていることが必要。多くの場合、引用は「」で示す。\n②主従関係\n自分の文章が主であり、引用が従であることが必要。引用は自分の文章の補完としてのみ使用できる。\n自由権が「国家からの自由」を意味するとすれば、社会権は、「国家への自由」とも呼ばれる権利である。19世紀に貧富の差が拡大し、社会問題化したため、それを解決するために政府が積極的に支援策を講じる根拠である。\n憲法においては、「生存権」「教育を受ける権利」「勤労権」「労働三権」を規定している。ただし、後述するように、実質的な権利としては、「労働三権」のみである。\n生存権の根拠条文は25条である。\n漫画、ドラマ等で有名になった条文である。国が、健康で文化的な最低限度の生活を保障する規定である。この健康で文化的な最低限度の生活とはどのような生活なのかが、論点となる。\n生活保護の月額600円が安すぎるために提起された。国の定める生活保護の基準が低く、憲法25条に違反しているとして、訴訟が起こされた。\nこの問題に対し、最高裁判所は「憲法25条は具体的な国民の権利を定めたものではなく、国の努力目標を書いたものにすぎない」という判断をした。これをプログラム規定説と言う。\nプログラム規定説とは、日本国憲法の生存権(第25条)は、国の努力目標(= プログラム)を書いたものに過ぎず、具体的な施策を義務化したものではないとして、よって生活保護での具体的な施策の内容の決定については、国会や内閣の裁量に任されており、財政状況や世論などにもとづいて国会・内閣が決める、とする説である。\nこの論理によれば、25条に基づいて訴訟を提起しても必ず敗訴することになる。その意味で、25条は権利ではないとも言える。なお、この訴訟ののち、生活保護法の改正により、生活保護額は増加した。\n目が見えず、女手一つで子どもを育てていた人が、障害福祉年金と児童扶養手当の併給禁止を定める当時の法律が25条に反するとして訴えたものである。\n最高裁判所はやはりプログラム規定説により、訴えを退けた。\nしかし、その後立法の手当てがなされ、併給禁止規定は削除された。\n教育を受ける権利が規定されているのは26条である。\n論点は特にはないものの、これもプログラム規定とされている。\nまた、②を見ると、主語は親であって、生徒ではないことに注意したい。\n勤労の権利が規定されているのは27条である。\n国民が国に対し仕事を要求できるという権利である。これもプログラム規定とされる。国が、国民に仕事を与える、最大限の努力をすればよいということになる。\nなお、①には、「義務を負ふ」と書かれているものの、プログラム規定であるため、あまり意味を持たないと言える。働かないからといって、逮捕されることはない。\n勤労の権利が規定されているのは28条である。\n労働者の権利を不当に侵害する使用者に対して、労働者を守ろうとするものである。この権利はプログラム規定ではなく、侵害された場合は裁判所に訴えることができる。\n「団結権」は文字どおり団結できる権利であり、労働者が労働同組合をつくる権利である。使用者は労働者が労働組合をつくろうとしたときに妨害してはならないとされる。\n「団体交渉権」は使用者側に対し、労働組合が交渉を求めることができる権利である。\n「団体行動権」は、争議行為、すなわちストライキなどの実行を許容する権利である。\n使用者と労働者は労働契約を締結しており、労働者は働く義務がある。その義務を放棄することは、契約違反であり、民法上の契約不履行に当たるため、違法である。そうであれば、使用者は労働者に損害賠償を請求できることになるが、これを認めると、労働者を守ることはできない。\nそこで憲法は、労働者のストライキなどに際し、損害賠償をしなくてもいいようにしたのである。\nただし、公務員法で公務員の争議行為は禁止している。しかし、憲法が明確に定めた人権を法律で奪うことはできないはずであり、この点が裁判で争われた。\n憲法は1946年に公布されたが、その後改正されていない。そのため、憲法が制定された当時は考えられなかった人権が主張されてきた。既存の人権規定をもちいて、新しい人権を主張する動きがあり、これらを総称して新しい人権と呼ぶ。後述するように、基本的には認められていない権利であるが、今後の判例次第では認められる可能性もある人権である。\n新しい人権は、根拠条文と、判例が非常に重要であるので、その点をしっかりと理解したい。\n根拠条文は、13条の幸福追求権と、25条の生存権である。\n名前そのまま、「良い環境を享受する権利」である。\nこの権利は、大阪空港の夜間飛行差し止め請求の中で提唱された。判例を理解しよう。\n大阪空港は住民の居住地が空港のすぐ近くにある。住民は航空機のもたらす騒音に日夜悩まされ続けており、住民は「せめて夜間だけでも飛行機の発着を止めてくれ」と言って提訴した。\nしかし、この訴訟で住民の主張は認められなかった。最高裁は住民福祉よりも経済的合理性の方を優先した。また、環境権についても最高裁は認めなかった。これについては現在でも状況は変わっていない。\nと言うのも、環境権は所有権と相性がわるく、憲法に規定されている所有権を優先せざるを得ないからである。\n環境権に付随して、日照権、静穏権、入浜権、眺望権、嫌煙権などが主張されたものの、嫌煙権を除いて認められていない。なお、嫌煙権はタバコの煙が嫌だと主張する権利であり、煙の影響を考えれば、権利として認められやすいのである。\nただし、環境は重要であり、一切を認めないことは、不都合である。そこで提唱されたのが環境アセスメントである。事前に環境に大きな影響を及ぼす開発について、その影響を調査・予測し、必要であれば開発許可を下さない、とする制度である。地方自治体にはこれを義務付けたところもあり、こうした動きから1997年に環境影響評価法が制定された。\n根拠条文は、13条の幸福追求権である。\nプライバシーの権利は、第一の意味としては、「私生活をのぞき見されない権利」と定義される。\nこれを示した初めての判例が「宴のあと」事件である。ただし、下級審判例であり、この裁判では最高裁は判断を下していない。\n現在では積極面がプラスされ、「自己情報のコントロール権」と定義するのが通説。インターネットの発達により、メディアに参加できる人物が大幅に増えた影響で、情報の正確性は非常に問題がある。\nそこで、間違いであれば訂正を求めることができる、コントロール権が主張された。\n消極面としての「私生活をのぞき見されない権利」というのは変わらないが、これに「自己情報を公開し、訂正を求めることができる権利」という積極的な側面が加えられたのである。\n個人情報についても、プライバシーの権利と密接な関係がある。2003年には個人情報保護関連5法が制定された。これは、個人情報保護法と、行政機関の保有する個人情報保護にかんする法律からなる。\nその一方で、通信傍受法、マイナンバー制度など、国民のプライバシーの権利と対立するような法律も制定されており、この辺りの権利の侵害の問題も注視する必要がある。\n最高裁判例で、プライバシーの定義について定めたものはない。\n三島由紀夫作の「宴のあと」と言う小説が問題となった事件である。\nこの小説は外務大臣だった原告の私生活をえがいたものであり、「プライバシー侵害」として訴えた。三島は東京地裁で和解して訴訟を終結させたため、最高裁の判決を待たずに東京地裁でプライバシー権が認められた判例である。\n柳美里作の「石に泳ぐ魚」と言う小説が問題となった事件である。身体的特徴を持つ原告が、「プライバシー侵害」として訴えた。最高裁でも原告が勝訴し、最高裁でもプライバシー権が認められた。\n根拠条文は21条の表現の自由である。\nそもそも、政府は国民の代表であり、国民は政府をコントロールしなければならない。\nその上で重要なのが、知る権利である。\n権力は放っておけば必ず腐るのは歴史が証明している。従って常に「批判」していかなければならない。適切な批判のためにはさまざまな情報が必要であり、それが知る権利である。\n国は、情報公開法に基づいて情報を公開しなければならず、こうした権利を行使していく必要が国民には存在していると言える。\n一方で、2013年に外交や防衛などの「特定秘密」を漏洩したものには重罰を科すと言う特定秘密保護法が制定されたが、こうした法律と、国民の知る権利の関係が問題となっている。\n根拠条文は21条の表現の自由である。\n簡単に言えば、マスメディアの誤った報道などについて、被害を受けた人が主張や反論をできるという権利である。\n尤も、わが国の判例では認められていない。\n根拠条文は、13条の幸福追求権である。\n人によって生き方の幸福は異なるため、自分の生命のあり方などについて自分で決定すると言う権利である。\n例えば、尊厳死や安楽死などといった死に方を選べる権利などがあげられるが、日本では尊厳死、安楽死ともに認められていない。\n人権を実現するための、さまざまな権利がある。\n裁判を受ける権利、損害賠償請求権、刑事補償請求権、参政権、請願権、憲法改正のための国民投票、最高裁判所裁判官の国民審査、特別法の住民投票などがある。\n憲法の性質からして、義務を制定することは好ましくない[11]。そこで、義務規定はあるものの、権利に比べて非常に少ない規定となっている。それが、国民の三大義務と呼ばれるものである。\n教育の義務(26条2項)・勤労の義務(27条1項)・納税の義務(30条)である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%81%A8%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E4%BF%9D%E9%9A%9C"} {"text": "憲法9条と自衛隊との関係の議論について、政府に見解は、政府は憲法を改憲することなく、憲法条文の解釈や運用を社会情勢にあわせて変えてきて、政府は自衛隊の存在を正当化してきた。このことを解釈改憲(かいしゃくかいけん)という。また、政府の見解は、ときとともに変わるので、その憲法9条の政府解釈も変わってきた。\n1952年の吉田茂(よしだしげる)内閣の以降から2015年の今日までの政府の憲法9条解釈の内容は、おおむね、憲法9条で否定した「戦力」とは、外国の領土を侵略するための軍事力だけであると解釈し、9条では日本の自衛の権利は認めておると解釈し、よって自衛のための最小限度の軍事力は「戦力」に当たらないとするので「自衛隊」は合憲である、というような解釈が一般的である。\n自国(= 日本)に対する武力攻撃については、(日本が)反撃できるとする権利を個別的自衛権(こべつてき じえいけん)という。いっぽう、自国ではなく同盟国(= アメリカ)などに対する武力攻撃について自国が反撃する権利を集団的自衛権(しゅうだんてき じえけん)という。\n憲法9条では、個別的自衛権は認めている、と日本政府は解釈している。\n集団的自衛権については、過去の、戦後昭和期の日本政府は、集団的自衛権は違憲であるとする判断を下してきた。1970年代、当時の与党の自民党政権が、集団的自衛権を持たないとする判断をくだし、その判断が冷戦の終了までしばらく続いてきた。\nなお、この集団的自衛権の違憲判断を下したのは、裁判所の判断ではなく、あくまで政府の判断である。(なお、2017年現代では、日本の政府見解では、集団的自衛権を違憲とするかどうかは、不明瞭である。)\nいっぽう、国際法では、国家は集団的自衛権を持つと考えられている。国連憲章の第51条で、集団的自衛権を加盟国に認めてると考えられている。\nよって、日本国は、国際法によって集団的自衛権を持っているが、日本国憲法によってその集団的自衛の行為を禁止しているということになるだろう。\nこのため、日本政府は「専守防衛」(せんしゅ ぼうえい)の原則をかかげている。この原則のため、相手から攻撃を受けてから、自衛隊は反撃できると考えられている。また、その反撃は、自衛のために必要最小限であるべき、と考えられている。\nまた、自衛隊の保有している兵器などの実力は、「戦力」ではなく「防衛力」「自衛力」であると、過去の日本政府は主張していた。\nいっぽう、民間人の起こした裁判で、自衛隊基地や米軍基地などは憲法違反ではないか、というような内容の裁判が、何度か起こされた。\n自衛隊については、長沼ナイキ訴訟(ながぬま ナイキ そしょう)や百里基地訴訟(ひゃくりきち そしょう)が起こされた。日米安保についての訴訟では砂川事件(すながわ じけん)がある。\nしかし、最高裁は、憲法9条についての判断は、司法の範囲外だとした。高裁の主張では、憲法9条の判断については最高度な政治性を要するので、その憲法判断は国会が下すべきだとし、憲法判断にはなじまないとして、自衛隊の合憲・違憲の判断を最高裁は出さないまま、最高裁は訴訟の原告の訴えを棄却した。このような、憲法9条の合憲・違憲の判断は、司法にはなじまないとする、最高裁の判断を統治行為論(とうちこういろん)という。\n1968年、北海道の長沼町で、航空自衛隊の地対空ミサイル(ナイキミサイル)の基地建設があった。この建設のため、農林省は保安林の解除をした。これに対して、地元住民が、保安林取り消しは違法だと訴えた訴訟である。1973年、札幌地裁では、自衛隊が憲法違反とした。1976年、札幌高裁は、統治行為論を用いて、憲法9条の判断は司法審査になじまないとし、地裁の違憲判決を取り消し、また合憲か違憲かの憲法判断を回避した。1982年、最高裁は、憲法9条の判断については司法の範囲外であるとし、憲法判断を回避し、上告を棄却した。\n茨城県の航空自衛隊の百里基地の建設をめぐる、国による基地予定地となる土地の、国と土地所有者との売買について、基地反対派が起こした訴訟。\n地裁は、土地売買は、土地の売買そのものは国が行う場合であっても私的行為に類するとして、憲法9条とは無関係であるとし、合憲・違憲かは無関係とした。\n1989年、最高裁は、この土地売買は私的行為であるとして、上告を棄却。この最高裁判決では、統治行為論は使われていない、と考えられている。\n日米安保条約についての訴訟で、東京都立川市にある、在日米軍の立川基地に、基地拡張反対派の住民が突入した事件(砂川事件、1957年)についての訴訟。\n在日米軍は憲法に違反してるかどうかが話題になったが、最高裁は統治行為論によって、高度の政治性を有するため司法審査の範囲外とした。\n戦後、後述するように、日米安全保障条約の改正がたびたび行われ、そのたびに、自衛隊の在日米軍の支援範囲は、拡大してきた。このため、従来の政府見解とは矛盾をするという批判が、革新勢力(いわゆる「左翼」)からの批判によって、政府が批判されてきた。\nまず、1951年におおもとの最初の日米安全保障条約(旧安保)が制定された。この旧安保にもとづき、米軍は日本駐留をした。\nその後の1960年(昭和35年)、岸信介(きし のぶすけ)内閣により、日米安全保障条約の改訂(新安保)が行われた。\nこの1960年の安保改訂では、ひきつづき米軍が日本に駐留する事が明記され、また、日本から米軍への支援が、より双方的になった。\n一方、アメリカは、この1960年の安保改訂にもとづき、日本を防衛する義務を負うことになった。\nこうして、1960年の新安保条約によって、日米両国では、日本の共同防衛が義務になったのである。\nなお、この安保改訂に反対する運動が盛り上がり、安保改訂への反対運動は安保闘争(あんぽとうそう)だと言われた。\nしかし結果的に、日本政府は、安保条約を1960年に改訂し、上述のように、米軍が日本防衛の義務を負うことになり、日本は米軍への協力を強化することになったのである。\nなお、1960年の新安保は、名称こそ「安全保障条約」とは言うものの、実質的には、軍事同盟である。(※ 清水書籍の検定教科書でも、そのように解説している。)\n日本によるアメリカへの軍事協力に歯止めをかけるため、日本がアメリカに重大な軍事強力をするさいには、日米政府による事前協議が必要になっている。\n安保条約は1970年以降、自動延長され、そして現在に至っている。\n1970年代に沖縄が日本に変換された。\nまた、同じく1970年代、日本は、集団的自衛権を違憲とする判断をくだした。\nまた、1970年代、「日中国交正常化」により、日本は中華人民共和国と国交を樹立し、一方で、台湾(中華民国)との国交を断絶した。\nまた、1971年に非核三原則である「もたず、つくらず、もちこませず」の宣言も、衆議院で決議された。\nなお、1976年に、日本の防衛費をGNP(国民総生産)比で1%未満とする原則が、三木武夫(みき たけお)内閣により出された。しかし、1987年に、中曽根康弘(なかそね やすひろ)内閣により、このGNP1%制限は撤廃されている。\nしかし、1990年前後に冷戦も終わり、1990年代前半ごろから世界各地で紛争やテロが起き始めた。\nまず、1990年に、イラクがクウェートに侵攻する湾岸戦争が発生した。湾岸戦争では、日本は自衛隊を海外に派遣していない。湾岸戦争では、自衛隊派遣のかわりに、日本は多額の援助資金により、アメリカ軍を中心とする多国籍軍への支援を行った。\nこのような事もあり、日本も、アメリカを中心とする国際社会から、世界で紛争などが起きたさいに、なんらかの支援や貢献を求められ、日本は自衛隊などを紛争地帯の警備や停戦後の復興支援などに出動するかどうかを検討せざるを得なくなり、集団的自衛権の見直しを求められるようになっていく。\nまた、冷戦終了が原因ではないが、1992年には、カンボジアの復興支援のための国連PKO(平和維持活動)として、自衛隊がカンボジアに派遣された。1992年に国連平和維持活動(PKO)協力法が成立している。\nなお、このカンボジアの荒廃の原因は、カンボジアの以前の独裁者ポルポトによる同カンボジア人への大量虐殺および、そのポルポト独裁政権を打倒するためのカンボジア内部での紛争などが原因である。\n日本にとっては、このカンボジアのPKO派遣が、日本にとっての初めての自衛隊の海外へのPKO派遣になった。\nその後、自衛隊によるPKOは、モザンビーク、ゴラン高原、東ティモール、ネパールなどにも、派遣された。\n日本は、PKOの参加のための、軍事協力への歯止めとして、以下のような条件からなる「PKO参加5原則」を出した。\nとする、5つの条件である。\n日本は、1990年代の当初、自衛隊の海外派遣と集団的自衛権の関係のあつかいについては、「国連の平和維持部隊は軍隊でない」的に扱う事として、あいまいにする方針だったが、しかし2001年にアメリカ同時多発テロが発生した(※ 米国にある世界貿易センタービルなどに、ハイジャックされた旅客機を衝突させて、大量殺戮をした。)。なお、この同時多発テロのあと、アメリカは、テロの主犯格(テロ組織 アルカイダ )をかくまっていたアフガニスタンに対し、報復のためにアフガニスタンのタリバン政権を攻撃した。\nまた、アメリカはイラクとの戦争を行い、アメリカがイラクに勝利し、アメリカ軍はイラクを占領した。(※ 同時多発テロを行った勢力は、イラクではない。)\nその後、日本はアメリカからイラクへの復興支援のための自衛隊派遣を求められたため、2003年にはイラク復興支援特別措置法(2009年失効)が制定され、そして実際に自衛隊がイラク南部の都市サマーワに派遣され、自衛隊は給水などの復興支援をした。このサマーワへの自衛隊派遣について、当時の日本国内の世論からは、憲法の定める専守防衛の原則から逸脱している、との批判も起きた。\nまた、2001年のアメリカ同時多発テロの後、日本はテロ対策のために軍事関連の法案を見直さざるを得なくなり、テロ対策特別措置法(2001年)などの、さまざまな法案が制定された。\nまた、2003年に有事関連法制三法案(自衛隊法改正、武力攻撃事態対処法、改正安全保障会議設置法)が成立した。\nさらに2004年には、有事のさいに一般国民の避難や救護などを可能とするための国民協力の義務化とその方法をさだめた国民保護法が制定されるなどして、有事関連法案が追加されていき、有事関連法制は合計で七つとなり、有事関連法制七法案になった。\nなお、1996年の時点で、もしも日本の周辺で紛争が起きたさいに、日本の自衛隊がアメリカ軍の支援を可能とする日米安全保障宣言が出されており、また、1999年には、そのための(日本の周辺で紛争が起きたさいの、自衛隊による米軍支援のための)法律である周辺事態法が制定されていた。\nまた、この周辺事態法は、日米両国の軍事協力の指針を定めている『新ガイドライン』にもとづくものである。\nなおなお、上記のはなしを、年代順に並べなおすと、・・・\nのような順番である。\n2000〜2010年代、北朝鮮のミサイル開発問題や、ロシアのミサイル配備の問題などもあり、日本やアメリカではミサイル防衛網が整備・開発されている。\nなお、2007年、防衛庁は防衛省に昇格し、権限も強化された。また、それまでは自衛隊の付随的任務とされていたPKO活動が、防衛省への昇格のさいに、自衛隊の本来任務のひとつになった。\n2009年に成立した海賊対処法にもとづき、アフリカのソマリア沖に出現する海賊から、合法の船舶を護衛するために、日本の自衛隊および、その護衛艦が派遣された。\n軍隊の本来の任務は、テロリストや敵国兵士などを倒すための戦闘こそが、本来の軍隊の任務である。大地震などの災害復興は、軍隊の本来の任務ではない。\nしかし日本では近年、2011年の東日本大震災などのような大型地震などの災害時には、自衛隊がその機動力などを活用して復興支援などを行うことが多い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E3%81%A8%E6%86%B2%E6%B3%95%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "当政治経済では、国会について簡単に記述する。より、詳しい内容は後日執筆する公共の項目を参照してほしい。\n国会(立法権)、内閣(行政権)、裁判所(司法権)を三権とよぶ。この三権が抑制と均衡の関係を持っていることを三権分立と呼ぶ。本節では、国会について記述する。\n法律を作ることを立法と呼ぶが、日本の立法機関は国会であり、これは唯一である。このことは憲法41条に書かれている。条文を読んでみよう。\n「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」(第41条)\nここで、国権の最高機関とは、三権のうちで最も重要であるということである。けっして、内閣(行政組織)、裁判所(司法組織)よりも強大な権限を持っているということではない。(※範囲外)なおこれを「政治的美称説」という。\nさらに、唯一の立法機関とは、法律を制定することができるのは国会のみであるということである。しかし国会議員しか(法律ではなく、その法の)法案を作れないという意味ではなく、官僚など国会議員以外が法案を考えることは可能である。なお、誰に法案を作ってもらっても、強制力のある法として制定するには、国会議員がまずその法案を国会に提出して、国会でその法が可決されなければいけない。内閣も総理大臣も国会議員であるので、内閣が国会に法案を提出しても良い。\nまた、もちろん、政令や省令、地方自治における条例など、国会以外も広い意味での法を作ることができるが、しかし狭義の法律、たとえば、公職選挙法などは、国会しか作ることができない。\n上述のように、国会の権限としては、まず第一に立法である。そのほか、予算、条約の締結など、さまざまな権限を持っている。具体的には、以下の7つである。\n1) 法律案の議決\n2) 予算の議決\n3) 条約の承認\n4) 内閣総理大臣の指名\n5) 国政調査権\n6) 弾劾裁判所の設置\n7) 憲法改正の発議\n議員との全員が集まって行う会議を本会議と呼ぶ。有名なものとして、通常国会などがある。本会議の種類を以下にまとめる。\n以上のように、全員が集まって行う会議もあるが、日本の国会は、委員会制を採用しており、実質的な議論は委員会を中心に勧められる。委員会の議決を経て、本会議に上程され、最終的に議決されるという流れになっている。\nまた、委員会には常任委員会と特別委員会が存在する。常任委員会の例としては、たとえば、予算委員会や、懲罰委員会などがある。特別委員会の例としては、災害対策特別委員会などがあり、名称は法令に規定されていない。なお、特別委員会から常任委員会に昇格する例もある。\n日本の国会では、衆議院と参議院の両議院からなる二院制を採用しており、任期や選挙方法などに違いがある。\nなお、衆議院において、2022年11月に小選挙区を10増やし、10減らす、いわゆる「10増10減」を反映した改正公職選挙法が成立している。このように、公職選挙法の改正によって、定数などは変更されやすいので、注意が必要である。\n上記の図を見ると、衆議院の方が任期が短い、かつ、解散があることにより、民意をより反映できそうである。これを理由として、衆議院を参議院よりも優先する場合がある。これを衆議院の優越と呼び、衆議院と参議院の決定の一致がなされなかった場合などに衆議院の決定を優先する。なお、以下は憲法に規定されているものの一覧である。\n1) 法律の再議決\n2) 予算の議決\n3) 内閣総理大臣の指名\n1) 内閣不信任決議\n2) 予算の先議権\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E5%9B%BD%E4%BC%9A"} {"text": "政党とは、共通の政治的目的を持つ者たちによって組織される政治集団のことである。政党は、政権を獲得し、自分たちの政策の実現をめざす。例えば、自由民主党(自民党)は、憲法を改正することを目的の一つとすることでまとまっている。\n制度的に定められたものではないが、日本の議会制民主主義においては、衆議院で最多数の議席を得た政党が与党となって政権を担うのが通例である。\nまた内閣総理大臣は国会議員の選挙で選ばれる仕組みなので、慣例では必然的に与党の議員のなかから内閣総理大臣が選ばれるのが普通である(なお、与党の「党首」や「総裁」などと言われる党の代表者が内閣総理大臣になるのが慣例)。つまり、慣例では与党のリーダーが内閣総理大臣になるのが普通。\n政権とは、行政権における権力のことで、原理的には、政権を獲得すれば、自党の目的を達成することができる。\n一方で、政権を獲得できなかった政党のうち、与党と対立する政策の党は野党と呼ばれ、その役割は与党の政権運営を監視することである。\n与党はべつに一つの政党である必要はなく、政策の共通性の多い複数の党が協力しあって与党になっても構わず、これを「連立政権」などと言う。\nこのように複数の政党が政策実現を競い合い、多数の政党が政権を担う政治のことを政党政治と呼ぶ。\n第二次大戦中は、政党の活動が制限されていたが、第二次大戦終結の1945年から、政党政治の自由が復活した。そして、さまざまな政党が誕生した。\n1955年には、左右に分裂していた日本社会党が統一され結成された。これに対抗し、同1955年に保守勢力の保守合同により自由民主党が結成された。そして、それから1995年まで、自民党と社会党という2つの大政党の対立を中心として、日本の国政が展開された。\nしかし、実際には自民党のほうが有権者の支持が強く、自民党がほぼ40年間、与党で居続けた。この自民党優位の体制を、二大政党制と比較して、「1と2分の1政党制(1か2分の1政党制)」と呼ぶ。\n1960年代には、自民党にも社会党にも不満をもつ人々をすくい上げるための政党がつぎつぎに誕生し、野党の多党化が進んだ。\n自民党が政権を担う期間が長期になっていくにつれ、金によって政治が動かされる金権政治の面が出てきた(後述)。それによって、金権汚職事件が発生することになった。\n例えば、元内閣総理大臣の田中角栄が逮捕されたロッキード事件はその最たる例である。\nこうした汚職事件の原因は、当時の選挙制度である中選挙区制であるとして、一部の自民党議員は、選挙制度を改正し、小選挙区比例代表並立制の導入を求めた。\n時の総理大臣は宮沢喜一であったが、自民党内の反対もあり、今国会での成立を断念し、次国会に先送りした。これに野党が反発し、内閣不信任決議案を提出。羽田孜などの一部自民党議員が造反し、実に13年ぶりに内閣不信任決議は可決。衆議院は解散された。\nその結果、自民党は第一党を守ったものの、過半数に届かない大敗。1993年、細川護煕を首班とする非自民党(反共産党)による連立政権が樹立(細川内閣)。自民党による長期政権は終焉を迎えた。これをきっかけに日本の政党政治は、(自民党)単独政権から連立政権へとうつった。\n細川内閣は紆余曲折ありながらも、1994年に公職選挙法を改正。衆議院の選挙制度を小選挙区比例代表並立制に変更した。なお、この時に政党助成金制度も導入されている。\n「死票」とは、落選者に投じられた票のこと。\n衆議院の比例代表制では、政党の得票数を「ドント式」と呼ばれる方法にしたがい議員に議席を比例配分する。そして、各政党の候補者名簿の順位の高い議員から、当選していく。その仕組みにより、死票が原理的に少ない。死票が少ないので、小政党でも当選の可能性が高まる。なので、説によっては、比例代表制で、民意をより反映した政治が行われやすいと考える説もある。ただし、そのせいで小政党が乱立して政治が不安定になるという説もある。どちらにせよ、比例代表制は小政党が比較的に当選しやすい方式である。\nこのように、小選挙区比例代表制は、小選挙区と比例代表制の欠点をおぎなう仕組みになっていると言えよう。\nこの点については、日本の選挙制度も参照されたい。\nその後、細川護熙自身の金銭問題(佐川急便借入金)も絡み、突然の辞任。後任には羽田孜を首班とする羽田内閣が成立したが、こちらも短命であった。その後、イデオロギーで長年対立関係にあった自民党と社会党が手を組み、連立政権を樹立(自民党、社会党、さきがけによる連立)。社会党の村山富市を首班とする村山内閣が発足。自民党は与党に復帰した。自民党は野党に転落してから、わずか11ヶ月で与党に復帰した。\n以後、2009年(麻生内閣)まで自民党は与党として政権を担った一方、社会党(1996年に社会民主党と党名変更)は、1997年の総選挙で議席を大きく減らし、第二次橋本内閣橋本内閣では、野に下った(閣外協力)。\n以上のように、戦後日本の政党政治は自民党を中心に行われていた。ではなぜ自民党は長期にわたって政権を握り続けることができたのか。以下の2つの要因が考えられる。\n自民党は、利益誘導型の政治によって広範な業界団体や利益集団(圧力団体)の支持を集めた。例えば、経団連や、日本医師会などは自民党を応援している利益集団である。自民党は、こうしたさまざまな政策立案を行うことにより、利益集団に利益をもたらす。つまり、自民党はさまざまな利益を代表した政党であると言うことができる。\n一方で、政策を実行するためには予算が必要である。予算は限りがあるため、党内での予算の分配が重要となってくる(政策の調整が行われるのが政務調査会である)。そこで重要なのが族議員の存在である。族議員とは、ある分野に明るく、利益団体の利益のために省庁の政策決定に影響力を及ぼすことのできる議員のことである。例えば、工事関係の利益集団から応援され、公共事業などの政策に明るい議員は、国土交通省に影響力を及ぼすことができる(道路族)。小泉純一郎は、郵政民営化の際に反対した議員を「抵抗勢力」と呼んだが、それらの抵抗勢力は、いわゆる郵政族に分類することができよう。\n派閥とは、党内の政党のようなものである。同じ自民党の議員でも、大きな枠組みは共通しているが、細かな点でスタンスが異なると言う場合がある。その際に、自民党の中で、考えが共鳴する人々が集まってできているのが派閥である。派閥を大きくすることによって、党内の影響力が強まり、総理大臣や国務大臣の席が近くなると言う利点があると言われる。\nまた、中選挙区制においては、各選挙区で2名以上が当選するため、自民党公認の候補者が複数名立候補することになる。いわば身内の争いをしなければならない。選挙には金がかかるが、それは自民党からの資金だけでは足りず、自民党の大物議員(派閥の領袖)からの資金が重要となってくる。これによって、派閥内の結束を強め、団結した行動をとることができる利点がある。\nしかし、こうした派閥中心の政治を維持していくためには多額の政治資金が必要であり、違法な政治献金が横行してしまうと言う欠点がある(金権政治)。こうした問題から、汚職事件が発生することとなった。\n上述のように、日本の政党政治は、単独政権から連立政権へとうつった。単独で政権を担当した政党は、宮澤内閣以降では、第二次橋本内閣、第一次小渕内閣のみである。村山内閣以降、→橋本→小渕→森→小泉→安倍→福田→麻生と、自民党の総裁が総理となっていった。\n2000年代に入ると、自民党は公明党との連立を軸に政権を運営した。特筆すべきは、小泉純一郎を首班とした小泉内閣である。当時、1990年代の経済低迷(「失われた10年」)と少子高齢化により、行政のムダを減らすための行政改革が断行されていった。\nこうした動きの中で、小泉は路線郵政公社を民営化するなど、聖域なき「構造改革」路線を打ち出した。\n小泉内閣の路線は、これまでの自民党の政治が、利益誘導型の政治であったのに対し、「小さな政府」を志向とする政治へと変化した分岐点とも言える。小泉純一郎自体は国民に人気があった総理であったが、急激な改革によって、格差の拡大をまねくなどの批判は自民党への逆風となった。小泉内閣以降、自民党の内閣は1年ほどの短命政権が続いた。\nそして、2009年衆議院議員選挙の結果、民主党を中心とした鳩山内閣が成立し、政権交代が実現した。しかし、マニフェストの実行断念や、東日本大震災への対応[1]\n等に対して批判が相次ぎ、鳩山→菅→野田と短命政権が続いた。野田内閣時、2014年からの消費税引き上げを自民党・公明党と協力して決定したが、2012年衆議院議員選挙で民主党は惨敗し、再び政権交代が起こり、自民党と公明党連立による第二次安倍内閣が成立した。現在は「一強多弱」といわれるほど野党の勢力が弱く、自民党内でも首相官邸の権力が強くなり、集権化が進んだ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%85%9A%E6%94%BF%E6%B2%BB"} {"text": "近代以降の選挙制度においては、民主的な選挙が遂行される必要がある。そのために、以下の4つの原則がある。\n一定の年齢に達すれば、全ての国民に選挙権、被選挙権を与える選挙制度。反意語は制限選挙。\nある一人の投票の価値をすべて平等に取り扱う選挙制度。反意語は等級選挙。\n誰が誰に投票したかを秘密にする選挙方法。反意語は公開選挙。\n直接代表者を選ぶ選挙制度。反意語は間接選挙。\n大きく2つに分けることができる。選挙区代表制度と比例代表制度である。また、選挙区代表制度は、大きく小選挙区制度と大選挙区制度に分けることができる。\n代表者を選出するための区域を選挙区といい、それに基づいて当選者を選出する方法を選挙区制度と呼ぶ。例えば、東京都を人口等により30に区分し、その区域内で選挙を行う。選挙区制度は、大きく小選挙区と大選挙区に分けられる。\n1つの選挙区から1人が当選する選挙制度。日本においては衆議院がこの制度を採用している。一つの選挙区から1人しか当選しないので、選挙区自体は比較的狭くなる。\n選挙区が比較的狭いので、選挙費用が安くすむ点が、メリットとしてあげられる。日本の選挙改革の際に小選挙区制度が代替案に上がったのはこのメリットを重視したためである。詳しくは日本の政党政治を参照のこと。\nまた、小選挙区制度では1人しか当選することができず、2位以下は落選するため、トップを取ることができる政党、すなわち大政党(自民党など)が当選しやすく、政権が安定することもメリットとして挙げられる。\nただし、この点については、少数政党の意見が国会に反映されにくいというデメリットと表裏一体である。\nこの時問題となるのは、他の制度と比較して死票が多くなる傾向があるという点である。死票とは、落選者に投じられた票のことである。選挙という形態のため、死票は必ず生まれてしまうが、ただの多数決ではなく、民主主義にのっとって考えた場合、死票はできる限り少なくすることが望ましい。\n1つの選挙区から2人以上が当選する選挙制度。日本においては参議院がこの制度を採用している。一つの選挙区から2人以上当選するので、選挙区は比較的広い。\n原理上2位でも当選することができるので、少数政党でも当選することが期待できる。また、死票が他の制度と比較して少ないことがメリットとしてあげられる。\n一方で、政権運営が難しくなったり、選挙区が比較的広いので、選挙にかかる費用は高くなってしまうというデメリットもある。\n比例代表制度とは、各政党が獲得した投票数に比例して候補者に議席を配分する選挙制度である。多くの場合、選挙区代表制度と比例代表制度を組み合わせた選挙制度になっている。\nこの制度の主語は政党であるから、基本的に有権者は政党に投票し、政党は、その得票数に応じて議席を獲得する。議席の分配方法については、日本においてはドント式を採用している。\nドント式とは、比例代表制において政党の獲得議席を割り出すため計算方法のことである。各政党の総得票数を自然数で割り、その商の大きい順に当選する。具体的には、以下の表を参照のこと。\n上のように、自然数で割っていくと、多い順に、A党÷1、B党÷1、C党÷1、A党÷2、B党÷2、A党÷3・・・と続いていく。なお、この表では省略しているが、「定数まで自然数で割る」としている教科書もある。\nここでは、日本の国政選挙における選挙制度を学習していく。地方自治における選挙制度については、地方自治の頁を確認してほしい(未執筆)。なお、選挙制度に関しては、公職選挙法が根拠法となっている。\n衆議院では、小選挙区比例代表並立制を採用している。その名の通り、小選挙区制と比例代表制を組み合わせる選挙制度である。\nまず、有権者には2枚の投票用紙が配られる。小選挙区用の投票用紙と、比例代表用の投票用紙である。それぞれに分けて解説する。\n小選挙区では、各選挙区で立候補した候補者名を書いて投票する。小選挙区制であるから、前述のように、得票数1位の候補のみが当選することとなる。なお、小選挙区のみの立候補もできるが、小選挙区と比例代表の双方に立候補することも可能。双方に立候補することを重複立候補という。\n比例代表では、政党名のみを書いて投票する。個人名を書いた場合は無効票の扱いとなる。当選者は、政党があらかじめ候補者名簿を作成し、その名簿順位順に当選する。この方法を、拘束名簿式比例代表制という。比例代表のみに立候補することも可能。\n名簿は、以下のような形となっている。\nX党の比例獲得議席が2議席だったとしよう。この時当選するのは、 まず名簿順1位のA であるが、次に当選するのは誰だろうか。名簿順2位のBは小選挙区で当選しているため比例代表では当選しない。名簿順3位はは、C、D、Eの3人いる。Eは小選挙区で当選しているため除外。C、Dのうち、同時に行われた小選挙区の、当該選挙区における最多得票数に対する当該候補者の得票数の割合(惜敗率)が高い方が当選者となる。\n例えば、Cは小選挙区において90万票を獲得したが、当選者は100万票を獲得していたとする。この時の惜敗率は90%である。一方でDは、98万票を獲得したが、当選者は100万票を獲得していた。この時の惜敗率は98%である。よって、惜敗率がより高いDが当選することになる。\n若者の政治的無関心(後述)の改善のため、2015年6月に公職選挙法が改正されたことに伴い、2016年6月から選挙権年齢が18歳以上に引き下げられた(18歳選挙権)。\n一票の格差(後述)の是正のため、2022年に公職選挙法が改正されたことに伴い、次回衆議院選挙(第50回)から、小選挙区の定数は10増10減(東京で5増、神奈川で2増、埼玉、愛知、千葉で1増。広島、宮城、新潟、福島、岡山、滋賀、山口、愛媛、長崎、和歌山で1減)、比例代表は3増3減(東京ブロックで2増、南関東ブロックで1増。東北、北陸信越、中国ブロックで1減)となる。この際に使用された定数配分の計算方法をアダムズ方式という。\n参議院においても、選挙区制と、比例代表制を組み合わせる選挙制度となっている。有権者には2枚の投票用紙が配られる。選挙区用の投票用紙と、比例代表用の投票用紙である。それぞれに分けて解説する。\n選挙区では、原則として都道府県を一つの選挙区としている。各選挙区で立候補した候補者名を書いて投票する。選挙区制であるから、2名以上が当選する。例えば、東京選挙区の当選人数(定数)は12名である。\n一方で、参議院の場合、1度の選挙で半数を選挙する形式となっているので、一度の選挙で選ばれる改選議席は6となる。同様に、例えば青森選挙区は定数2名であるが、改選議席は1となる。このような選挙区を一人区と呼ぶこともある。\nなお、選挙区と比例代表の双方に立候補することはできない。\n参議院の比例代表では、政党名あるいは個人名を書いて投票する。衆議院のように政党が、当選順を記した名簿を作成するのではなく、比例代表に立候補する候補者のみの名簿(順位は記さない)を作成する。その上で、以下のように当選者を決定する。\nまず、政党名で書かれた票と、その政党に所属する個人名票を合算し、合計を政党が獲得した票とする。その上で、ドント式によって獲得議席を割り出す。当選順は、個人名票が多い順に当選する。この方法を、非拘束名簿式比例代表制という。\n例えば、X党は以下のように得票したとする。この時のX党の合計得票数は、50万+10万+30万+20万で110万票となる。\nこれをドント式により議席を割り出し、X党の獲得議席は2議席となったとする。この時当選するのは、個人名票がより多いAとCとなり、Bは落選する。\n2016年の参議院議員通常選挙より一票の格差是正のため(後述)、徳島県・高知県ならびに鳥取県・島根県の2つの合同選挙区(いわゆる合区)が設置された。一度の選挙で「徳島県・高知県」という選挙区から一人の当選者を選出するという制度である(鳥取県・島根県も同様)。\nこれにより、各県の代表を一人も参議院に選出することができなくなる可能性が生じ、実際に鳥取県ではそうした事態が起こった。\nよって、優先的に当選人となるべき候補者を当選させるため、2019年の参議院通常選挙より、参議院比例区においても、優先的に当選させたい候補を上位に指定する拘束名簿式の要素を加えた。これを特定枠という。なお、特定枠の人数に制限はない。\n本稿では、選挙における近年の問題を記述する。\n一票の格差とは、同一の選挙において、選挙区ごとの有権者数が異なることから、1票の価値が異なるという問題である。\n例えば、A選挙区では、有権者が10万人いるのにたいし、B選挙区では有権者が100万人いるとする。どちらも当選者が1名だった場合、A選挙区における有権者票の価値を1とすれば、B選挙区におけるそれは0.1となってしまう。これは平等選挙の原則に反しているため、是正が必要なのである。\n過去、衆議院では裁判所が2度、違憲判決を出した例がある(1972年、1983年の総選挙)。ただし、選挙結果は有効としている(これを事情判決という)。その一方で、参議院では違憲状態であるとする判決は出ているものの、違憲判決は出ていない。\n2024年においても、政治家とカネの問題が生じている。このような問題は、実は今に始まった問題ではない。詳しくは日本の政党政治で解説しているが、特に55年体制以降、自民党の政治は、金によって政治が動かされるという金権政治の面が大きかった。\nこれを受けて非自民政権である細川内閣は政治改革に着手し、政治改革四法とよばれる政治改革法案を成立させた。それぞれを簡単にみていこう。\n以前までの中選挙区制(1選挙区に2〜4人が当選する。大選挙区制と同義であるが、日本独自の選挙区制度ということで、中選挙区制と呼ばれた)から、小選挙区比例代表並立制へと変更された。また、選挙運動の際に買収行為があった場合、その候補者がそれを知らない場合でも処罰の対象となる連座制が強化された。\n一票の格差の是正のため、小選挙区の区分けを審議する、衆議院議員選挙区画定審議会という審議会が設置された。\n政治家個人への政治資金の寄付を、個人、企業・団体問わず、原則禁止とした。ただし、企業・団体から、政党や、政治資金団体への寄付制限はない。このように、政治資金規正法は、政治資金の規制(禁止)ではなくあくまで規正(ただす)目的を持つものである。\n政治献金などは、一部の個人・団体から資金を寄付される。寄付を受けた政治家は、その人・団体の政治のためを行うと予想できる。\n政治は国民全体のものであるという考え方から、国民全員から政治資金を平等に徴収し、それを政治資金とする旨を定めたのが政党助成法である。国会議員が5名以上いるか、国会議員が1名以上かつ、直近の選挙で2%以上の得票率を得た政党に対し、政党交付金(国民一人当たり250円とされる)が支払われている。\n直近の衆議院選挙である第49回衆議院議員総選挙(R3年10月)の投票率は 約56%であった。また、令和4年7月に行われた第26回参議院議員通常選挙では約52%となっている(国政選挙の投票率)。このように、約半数が投票をしておらず、問題となっている。\nさらに、国政選挙の年代別投票率は、第49回衆議院議員総選挙では、10歳代が43.23%、20歳代が36.50%、第26回参議院議員通常選挙では、10歳代が35.42%、20歳代が33.99%、30歳代が44.80%である(国政選挙の年代別投票率)。このように、若者の投票率が低いという点も問題となっている。なお、一般に、高齢者ほど投票率が高いため、高齢者に有利な政策が実現しやすいといわれている(シルバーデモクラシー)。\nこのような問題を解決するため、各政党は政策目標であるマニフェスト(選挙公約)を公表していたり、インターネットでの選挙運動の解禁(2013年)などを行なっているが、効果が出ているとは言い難い。\nそもそも、投票率が低い理由の一つには、政治的無関心があるとされる。有権者の政党への期待感が薄まり、政党支持がない層(無党派層)が急増しており、政党や政治への信頼の回復は急務である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8C%99%E5%88%B6%E5%BA%A6"} {"text": "第2次世界大戦の終盤、米英ソの3国首脳は戦後の国際体制について会談した(ヤルタ会談)。しかし、戦後、ソ連が進駐していた東ヨーロッパには、ソ連の支援を受けて社会主義国が多く誕生した。\nアメリカ・イギリスは、このような東ヨーロッパの状況を、ソ連の侵略としてとらえて警戒した。この米ソの対立を冷戦という。イギリスの前首相チャーチルは冷戦について、1946年、ソ連がバルト海からアドリア海まで「鉄のカーテン」を降ろしてヨーロッパを分断しているとして、ソ連を批判した。\nアメリカは1947年に共産主義国を封じ込める目的でトルーマン-ドクトリンを発表した。また、西側諸国を経済援助する計画のマーシャル-プランを発表し実施した。さらに、英米を中心とする西側諸国の軍事同盟的な国際機構として、北大西洋条約機構(NATO、)を設立した。\nいっぽう、ソ連も対抗して、1947年にヨーロッパの共産党の連携組織であるコミンフォルム(国際共産党情報局)、1955年に軍事同盟であるワルシャワ条約機構(WTO。1991年解体)、COMECON(東欧経済相互援助会議。1991年解散)などを設立した。\n1949年にはソ連も核実験に成功し、核兵器開発と軍拡競争に突入していく。一方、米ソは世界の覇権をかけて争い、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争、その他アフリカでの民族紛争に両国は介入していった。この間、米ソは直接戦争をすることはなかったが、戦争の当事国が米ソの後ろ盾を得ていたため、この当時の戦争は両国の代理戦争とよばれた。\n1962年にソ連がキューバにミサイル基地を建設したことからキューバ危機が起こる。米ソの直接戦争さらに核戦争への危惧が起きたが、両国が自制したため、危機は回避された。\n1960年になると、社会主義どうしでも、ソ連と中国は国境紛争などで対立した。\n1991年、ソ連は崩壊し、冷戦は終了した。\n冷戦中の米ソは核兵器を増やした。\n米ソは核兵器の保有を正当化するため、核兵器を持つことで、核兵器を持たない他国などは核保有国からの報復を恐れるので、戦争を防止できるという核抑止論を主張した[1]。しかし、この核抑止論は、米ソの核兵器の軍拡競争を引き起こすことになった。\nなお、米ソはこのような軍拡競争により、冷戦の末期には軍事費の財政負担が大きくなっていった。\nさて、冷戦期には、米ソなどで核軍拡が進んだが、それらを批判する核軍縮の世論も国際的に高まった。1950年代、科学者のアインシュタインたちは、原子力の平和利用および核兵器の廃絶などを訴えるラッセル・アインシュタイン宣言を出した。この宣言を受け、科学者たちによって、反・核兵器を訴えるパグウォッシュ会議が結成された。\n1954年に第五福竜丸がアメリカの水爆実験で被爆(ビキニ事件)し、船員1名が放射線障害により半年後に死亡した。これを受けて、翌年に広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれた。\n1968年には核兵器拡散防止条約(NPT、Treaty of the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)が調印され締結した。NPTにより現在、アメリカ・イギリス・ソ連・フランス・中国の5カ国以外は、核兵器を持たないことになっている[2]。当初のNPTは、フランスや中国が、米ソ中心の条約だとして反発していたが1992年にフランスと中国はNPTに加盟した。\n一方、 1974年にインドが核実験を、1998年にパキスタンが核実験を行った。北朝鮮が2006年に核実験を行った。また、イスラエルには核保有の疑いがある。こうした国々は2022年現在、NPTを締結していない。\n1963年にはアメリカ・ソ連・イギリスの3カ国が部分的核実験禁止条約(PTBT、Partial Test Ban Treaty)に調印。地下核実験を除く、大気圏内、大気圏外、および水中での核実験をPTBTは禁止した。\nまた、非・核保有国に対して、国際社会が原子力発電などのような原子力の平和利用を認める条件として、核物質の軍事転用を防止するために、国際機関による査察として、国際原子力機関(IAEA、International Atomic Energy Agency)による査察の制度が導入された。\nまた、1970年代に米ソのあいだで、軍備管理の戦略兵器制限交渉(SALT、読み:ソルト、Strategy Arms Limitation Talks)が進められた。SALTは、兵器の数を制限したり、兵器の運搬手段を限定したするものであり、けっして核廃棄を目的としてはいない。\nこのSALTのような、軍備の廃棄や削減を目的としていない場合、「軍備管理」といい、軍縮とは区別するのが一般的な用法である(※ 検定教科書では、そうしている)。\nなお、SALTは2回あり、SALT 1 が1969〜72年、SALT 2 が1972〜79年である。\n80年代に入り、米ソのあいだでも核軍縮が進む。\n1987年にアメリカとソ連のあいだで中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)が調印された。(※ 時事: 2019年2月、今後、ロシアがINF全廃条約から離脱するかもしれない。) \n冷戦終了後の90年代には米ソ(米ロ)のあいだで戦略兵器削減条約(START、読み:スタート,Strategic Arms Reduction Treatys)が調印された。\nなお、1995年に、核拡散防止条約(NPT)が無期限延長された。\n地下核実験については1996年に包括的核実験禁止条約(CTBT)は国連で採択されたが、未発効である。\nインド・パキスタン・北朝鮮はCTBTに未署名。アメリカ・中国・イスラエル・イランなどはCTBTに未批准。\nなお、核爆発をともなわない未臨界(臨界前)核実験は、CTBTでの禁止の対象外といわれている。\n核兵器以外にも、国際的に禁止・規制されている兵器がある。\n細菌兵器などの生物兵器や、毒ガスなどの化学兵器が、1928年のジュネーブ条約で禁止されていた。\nこれらの生物化学兵器の禁止の条約を発展させたものとして、1975年に生物兵器禁止条約が発効し、1993年には化学兵器禁止条約が採択された。\n近年では、1999年に対人地雷禁止条約(オタワ条約)が発効し、2010年にはクラスター爆弾禁止条約が発効した。\nなお、クラスター爆弾とは、小さな子爆弾がいくつも入った親容器を投下するという方式の兵器である。クラスター爆弾は不発弾が出来やすく、また広範囲に被害が及ぶので、使用が問題視されていた。\n1990年代には戦略兵器削減条約(START、Starategic Arms Reduction Treaty)が制定。2010年にはアメリカとロシアの間で新START条約が調印され2011年に発効した。\nアメリカ・中国・日本などが、北朝鮮の核実験やミサイル発射を問題視し、2003年には六カ国協議が開かれ、参加国として米国・ロシア・中国・韓国・日本・北朝鮮の6カ国の代表者が協議したが、とくに進展しなかった。\n2017年に国連総会は核兵器禁止条約を採択した。だが、核保有国および日本は批准していない。核兵器禁止条約は、核兵器の使用および保有を禁止する条約である。\nいくつかの国で、非核地帯をも受けようという動きもある。ラテンアメリカのトラテルコ条約(1967年)、東南アジアASEANの東南アジア非核地帯条約(調印1995年、発効1997年)などがある。東南アジア非核地帯条約の通称は「バンコク条約」[4]。\n東南アジア非核地帯条約では、核実験を禁止している。東南アジア非核地帯条約には、ASEANの全10か国( インドネシア、シンガポール、タイ、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジア)が加盟している。\nラテンアメリカ、南太平洋、アフリカ、東南アジアに、非核地帯が広がっている。\n停戦監視団、選挙監視団。平和維持軍(PKF)などが派遣されている。\n国連憲章で定められている「国連軍」とは、PKFは別の組織。\n国連憲章にもとづく正式な国連軍は、まだ一度も編成されていない。朝鮮戦争のときのアメリカ軍を中心とした「国連軍」は、国連憲章で定められた「国連軍」編成の正式な手続きには基づいていない。よって、国連憲章にもとづく正式な国連軍は、まだ一度も編成されていない。\n\n中東および北アフリカでは2011年にチェニジアやエジプトやリビアで長期独裁政権が倒れ、「アラブの春」といわれた。しかしシリアは内戦におちいった(多数の死者が出て、「春」とは到底言いがたい)。\nイラクやアフガニスタンでは、イスラーム過激派勢力が台頭する傾向にある。イラクやシリアなどで台頭しているイスラム過激勢力が、この数年後から「イスラーム国」(IS)を名乗っており、彼らは自分たちを宗教「国家」だと自称している。\nアメリカは(中東よりも)東アジアへの関与を強めようとしている傾向である。(第一学習社『世界史A』の見解。「中東よりも」とは言ってないが、東アジアとは言ってるので。アメリカ国の予算や兵員にも限りがあるので、相対的に中東への関与はうすまることになる。)\n2014年、ロシアによるクリミア併合により、NATO諸国とロシアとの対立が深まった(実教出版の2022年時点での旧課程「政治経済」の見解)。\nなおロシアは、2008年にもグルジア(ジョージア)に侵攻している。\n2014年のクリミア併合の背景としては、ロシアがNATOやEUの東欧への拡大をおそれており、前々からNATOなどの東欧への拡大にロシアが反発していた。(※ 第一学習社『世界史A』が紹介。)\n(※ 将来の記述の準備: )2022年、ロシアがウクライナに攻め込んで、・・・(将来の教科書が出てから書く)\n「人間の安全保障」などの、従来の軍事に片寄った安全保障とは違った新しい概念の提唱など、学問は発達した。しかし実際の紛争やら深刻な人権侵害などが起きた際の問題解決のための枠組み作りは、(国連なども放置はしてないが、しかし)なかなか進んでいないのが現状である。(※ 第一学習社『世界史A』の見解をもとに、wiki側でやや補足) \nこのため、おそらくだが2010~20年代の国際秩序は、第二次大戦直後・冷戦的な古い秩序から新しい国際システムへの移行期にあるのだろうと考えられる。(※ 第一学習社の『世界史A』時代の見解をもとに、後知恵だが2022年のウクライナ戦争など後世の知見を合わせて本文を書いている。)\n日本は、武器輸出三原則として、自国の武器輸出に規制をしていたが、2014年に安部政権によって一部を改正した「防衛装備移転装備三原則」になった。この武器輸出三原則および防衛移転装備三原則は、非核三原則とは別の規制である。\n「思いやり予算」によって、1970年代から、在日米軍の費用の一部を日本が肩代わりしている。日米安保条約では、「思いやり予算」は義務づけられていない。\n1987年まで、防衛費の年間予算をGNPの1%をこえないとする、GNP1%枠があった。1987年の中曽根内閣が1%枠を撤廃。\n冷戦の終結して、日米安保の役割りが見直され、1996年には日米安保共同宣言が出された。\n2001年にはアメリカで同時多発テロが起きたことをきっかけに、日本ではテロ対策特別措置法(2001年成立、2007年失効)が制定された。\n2003年にはイラク復興支援特別措置法(2003年成立、2009年失効)が制定され、自衛隊がイラクの復興支援のため、イラクに派遣された。\n外国から日本が武力攻撃を受けた場合の「有事」(ゆうじ)の対応を定めた法律として、2003年に有事関連3法が制定され、2004年に有事関連7法が制定された。\n2009年には、ソマリア沖での海賊の攻撃による被害から船舶を護衛するために自衛隊を派遣するため、海賊対処法が制定され、自衛隊が派遣された。\nなお、2007年に防衛庁(ぼうえいちょう)が防衛省(ぼうえいしょう)に昇格した。\n2014年、安部政権は防衛移転装備三原則を閣議決定により定めた。\n在日米軍基地の総面積の75%は沖縄県にある。沖縄県民の意見には、県内の米軍基地の縮小や県外移設などを求める声が強く、沖縄の負担を減らすために日米地位協定の見直しを求めている。\n第二次世界大戦の戦時中に日本による侵略などによって被害を与えられたとされる韓国や中国・東南アジア諸国などへの賠償について、日本政府はサンフランシスコ条約や二国間条約(日韓基本条約など)などで賠償済みだという立場をとっているが、その日本の解釈を批判する外国(主に韓国や中国)があり、おもに韓国などの世論が、日本国を批判している。韓国の世論は、戦時中の日本が朝鮮人に与えた被害について、日本に謝罪や賠償を要求している。\n戦時中、朝鮮半島などの労働者(男も含む)が、戦時中に日本に強制的に移住させられて(たとえば炭鉱など)働かされたが、韓国などはこれが人権侵害であるとして問題だと主張している。\nこれを、近年のマスコミ報道などでは「徴用工」問題という(2022年に本文を記述)。過去、これを「強制連行」問題とも言った。(※ 2022年、報道された教科書写真では、まだ用語の名前が決まっていないようである。)\n※ 2022年度の教科書検定の前から、この問題は紹介されている。\n※ ただし、自民党政権は、2021年4月には「徴用」・「動員」などが適切だという閣議決定を出している。\n日韓の賠償問題には慰安婦(いあんふ、いあんぷ)問題という外交問題がある。「従軍慰安婦」(じゅうぐん いあんぷ/いあんふ)問題ともいう。\n慰安婦問題とは、どういう問題かというと、戦時中に日本軍などは戦場ちかくの基地などで兵士の性欲処理のための売春婦を雇っていたのだが、韓国の世論などが言うには、この朝鮮人婦女が日本軍によって強制連行され奴隷的に性行為をされたのではないか、という韓国の疑念があり、韓国の世論などが、朝鮮人の慰安婦は強制連行された性奴隷(せいどれい、英:sex slave)だと主張している。\n戦時中、朝鮮半島や台湾は日本領だったので、日本人の売春婦と同様に、朝鮮人や台湾人の慰安婦も存在しているというわけである。\nよく慰安婦の「強制連行」の話題を韓国などは主張するが、しかし軍や官憲による慰安婦の強制連行を立証できるような証拠は見つかっていないと文科省は検定意見をつけている。(※ 近年の教科書検定では、こういう検定意見がついている。2019年に本文を追記)。\nしかし、過去に政権与党である自民党は、1993年に「河野談話」(こうのだんわ)によって、慰安婦が慰安所で働かされたことをお詫びする文面の声明を出している。(※ 2022年度の教科書検定で、河野談話を紹介した教科書が検定を通ったことが報道されている。)なお、当時の河野洋平 内閣官房長官の発表した談話であるので「河野談話」という。\n日韓基本条約などで日本の賠償をしないことが決まったことと慰安婦問題の兼ね合いについて、この賠償放棄とは日韓両政府の国家間の賠償のみに限定するべきだという主張が内外の一部にあり、日本国から被害を受けたとされる韓国人個人への賠償としての個人補償(こじんほしょう)、または当時関わった日本企業などから韓国人個人への個人補償を求める意見がある。\n韓国の世論は、韓国政府には個人補償の費用を請求せず、日本の政府が補償の費用を払うべきだと主張している。\n(※ 範囲外? :) 2015年の日韓合意で慰安婦問題について日本の外務大臣は、戦時中の慰安所の「軍の関与」について「お詫びと反省の気持ち」を表明した。\nしかし強制連行については、日本政府は(日本が慰安婦を強制連行したとは)認めていない。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%94%BF%E6%B2%BB"} {"text": "法律には、条文として表されている成文法(せいぶんほう)と、条文にはなっていない不文法(ふぶんほう)がある。\n中学校までに習ってきた日本国憲法は条文があるので成文法である。そのほか、日本国の民法や刑法も成文法である。\nしかし、実際の裁判などでは、公序良俗にもとづく慣習なども重視する。このように、裁判などに影響を与える慣習もあり、公序良俗にもとづくなどの正当な慣習が場合によっては法律と同等の効力を持つ場合がある。このように法律と同等の効力をもつ慣習を不文法(ふぶんほう)という。\n不文法のうち、その正当性の根拠が世間一般での慣習によるものを慣習法(かんしゅうほう)という。\n一方、裁判においては過去の判決が今後の判決を予想する際の参考になる。過去の裁判の判決が先例になったものを判例(はんれい)という。ある種類の事件の裁判において、似たような結果の判決が繰り返され、今後の同様の事件の裁判でも同じような判決が出るだろう、と予測されるものは判例が(当然ながら)しだいに同じ内容に定まってくる。このようにして、あたかも法律的な効力をもつにいたったものを判例法(はんれいほう)という。\nとはいえ、成文法と判例法となら、一般的に日本の裁判では成文法が優先される。なぜなら、日本国憲法にあるように裁判官は憲法と法律にのみ拘束(こうそく)されるからである。(憲法76条)\nなお、ドイツとフランスが成文法を重視する国である。(※参考文献: 有斐閣『法律学入門 第3版増補訂』、佐藤幸治ほか、166ページ、)いっぽう、イギリスは判例法を重視する国である。(※参考文献: 慶應義塾大学出版会『法学概論』、編: 霞信彦、72ページ、)なお、ドイツとフランス以外にも成文法を重視する国家は存在するし、イギリス以外にも判例法を重視する国家も存在する。\nまた、ある事件の一審と二審において、仮に一審と二審が同じ内容の判決を下しても、最高裁判所では一審・二審とは異なる判決を下しても構わない。\nなお、刑法では罪刑法定主義(ざいけい ほうていしゅぎ)の原則があるため、ほかの法律よりも不文法の影響力が弱いとされる。(※参考文献: 慶應義塾大学出版会『法学概論』、編: 霞信彦、72ページ、)(しかし、刑事訴訟での判例は今後の刑事訴訟に影響を及ぼすので、その点では慣習法(判例法も慣習法であり不文法である)の影響を受けているだろう(推測) )\nいっぽう、民法や商法では慣習もまた重視される。たとえば、民法第92条では、「法令中の公の秩序に関しない規定と異なる慣習がある場合において、法律行為の当事者がその慣習による意思を有しているものと認められるときは、その慣習に従う。」(民法第92条)と規定されている。つまり、民法では慣習が成文法と異なる場合でも、契約の当事者がその慣習に従って判断し契約した、と思われるのが妥当であれば慣習が成文法に優先するのである。また、商法第1条2項でも、「商事に関し、この法律に定めがない事項については商慣習に従い、商慣習がないときは、民法 (明治二十九年法律第八十九号)の定めるところによる。」と規定されている。前半部の「この法律に定めがない事項については商慣習に従い、」にあるように商慣習が成文法に優先する。\n民法・商法以外のその他の法律では一般的に成文法が慣習に優先する。(法の適用に関する通則法 3)\n日本の法律では、個人どうしの契約や貸し借りなどについては民法が扱う。いっぽう、商法は商事に関する契約や貸し借りなどを扱っている。つまり、商法と民法の対象は部分的に重なっている。\nもし、同じことがらについて民法と商法とでは違った結果になる内容が書かれている場合、商事に関しては商法が適用される。\n商法は適用対象が商事に限定されてる分、その適用対象(すなわち商事)に関しては商法が優先されるのである。\n商事に関しては、民法は一般法というものに分類される。いっぽう商法は特別法というものに分類される。\nそして、特別法と一般法に同じ規定があるとき、特別法は一般法に優先する。(「特別法優先主義」という。)\nアパートを借りる時は一般法である民法の規定に対して、特別法である「借地借家法」(しゃくちしゃくやほう)の規定が優先する。\nある法律Aがその分野の別のある法律Bに対して、一般法であるか特別法であるかは、どちらの法律の条文を読んでも書かれていない場合がほとんどである。たとえば、民法の条文を読んでも、民事保全法(みんじ ほぜんほう)や民事執行法(みんじ しっこうほう)との関係は民法には書かれてない。けっして、(次のような内容の条文は無い →)「この民法は、強制執行に関する特別法として民事執行法(みんじ しっこうほう)および民事保全法(みんじ ほぜんほう)をもち、」(←このような条文は無い)とかなんて、いっさい書かれてないのである。\n同様に、特別法の側の条文を読んでも、条文にはまったくその(特別法の側の)法律がどの一般法に対しての特別法であるかは、いっさい書かれていない場合が多い。\n実際に、民事執行法の条文の第1章の『総則』(そうそく)である第1条から第21条を読んでも、2017年の時点ではけっして(次のような条文は無い →)「この民事執行法は、一般法として民法をもつ」(←このような条文は無い)とかなんて、いっさい書かれてないのである。\nなので、どの法律がある法律Aに対して特別法であるか一般法であるかは、覚える必要がある。しかし、丸暗記をする必要はなく、たいていは民事法の教科書を読めば、文脈から分かるようになっており、読んでいるうちに自然に覚えられるようになっている。\n(※ まとめ:) 民法の特別法となる法律として、主なものに、次のような法律(特別法)がある。\n法律といっても、当事者の意志が尊重される法律もあれば、尊重されない法律もある。\nたとえば刑法などの処罰対象である犯罪では、加害者の意志は尊重されない。刑法のように、公の秩序に関する法律では、当事者の意志は尊重されない。\n当事者の意志が尊重されない法律のことを強行法規(きょうこうほうき)という。つまり、刑法のような法律は強行法規である。\nいっぽう、当事者の意志が尊重される法規のことを任意法規(にんい ほうき)という。\nさて、民法でも、所有権などの物権(ぶっけん)、親族や家族に関する事柄は強行法規である。一方、民法でも売買など債権(さいけん)に関することがらは任意法規である。\n売買・貸借や、親子・夫婦などのように、個人・法人どうしの関係を規律する法律を私法(しほう)という。\n民法や商法、会社法(かいしゃほう)、借地借家法(しゃくち しゃくやほう)などは、私法である。\nなお、個人や法人をまとめて「私人」(しじん)と言う。この言葉を使うなら、「私法とは、私人どうしの関係を定めた法の総称である」ともいえる。あるいは、私人と別の私人のあいだのことを「私人間」(しじんかん)と言うので、「私法とは、私人間の関係を定めた法律」などとも言える。\n民法は、私法全体の一般原則を定めた法律である[1]。\nいっぽう、刑罰や納税などのように、国家・地方公共団体と、個人との関係を規律する法律を公法(こうほう)という。\n憲法や刑法や公職選挙法、民事訴訟法や刑事訴訟法は、公法である。\n労働基準法などは、私人間である、企業と被雇用者との関係の法律であるが、それに労働基準監督署などの公的機関が積極的に介入しているので、労働基準法などは公私混合法といわれる。\n労働基準法などの労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法 の3つの法律のこと)、そのほか、独占禁止法などが、公私混合法である。\n民事訴訟法は、民事訴訟(中学校で習った「民事裁判」のこと)の手続きについて定めた法律である。民事訴訟法そのものでは、どんな行為が民法に違反するかは、とくに定めていない。\n同様に、刑事訴訟法は、刑事訴訟(中学校で習った「刑事裁判」のこと)の手続きについて定めた法律である。刑事訴訟法そのものでは、どんな行為が刑法に違反するかは、とくに定めていない。\n民事訴訟法や刑事訴訟法などのように、裁判の手続きを定めた法律のことを手続法(てつづきほう)という。行政事件訴訟法、民事訴訟法、刑事訴訟法などが、手続法である。いっぽう、民法や刑法などのように、どんな権利や義務があるかを定めた法律は、実体法(じったいほう)という。\nなお、実際の法律では、\n民事訴訟法や刑事訴訟法などの手続法の条文の中にも、裁判に関する権利、つまり上告や控訴などの権利が書かれていたりする。\n実体法と手続法の関係については、たとえば法学書などでは「実体法が定めた権利・義務などを実現するための、裁判などの具体的な手続きを定めたのが手続法である。」のように説明されている場合が多い。(※ 検定教科書の東京法令出版『経済活動と法』も、このように実体法と手続法の関係を説明している。)(※ 三省堂『現代法入門』も、このように実体法と手続法の関係を説明している。)\n六法(ろっぽう)とは、日本国憲法、刑法、刑事訴訟法、民法、民事訴訟法、商法という6つの法律のことです。\n現代では、「六法」とは、単に、「多くの法令、多くの法典」というぐらいの意味でしかない。\n「四方八方」とか「四民平等」とかの「四」「八」などの数字と同じで、実情は「多く。たくさん」という意味で「六」を使っているだけにすぎない。\n市販の書店または地域図書館などにある「六法全書」(ろっぽうぜんしょ)という書籍に収録されている法律も、普通は、けっして6個の法律だけではなく、数百個~数千もの法律が市販の「六法全書」に掲載されているのが普通である。さらに持ち運びやすいサイズに小型化した「小六法」(しょうろっぽう)と言われているものでも、書籍にもよるが、やはり数十個~百・二百個ていどの法律と、書籍編集者が重要と思った判例が「小六法」に掲載されている。\nまた、分野に関連する法律を集めた法律分野のことを「〇〇(←分野名)六法」という場合もおおい。たとえば、鉄道に関連する法律を集めた法律書なら「鉄道六法」(てつどうろっぽう)となるし、教育に関する法律を集めた法律書なら「教育六法」(きょういくろっぽう)となる。\n書店などにある、教育六法などの「〇〇六法」とは、その分野の法律の条文の掲載を中心に、書籍によっては重要と思われる判例(はんれい)などを追加したものである。\n(※ 範囲外: )また、現代では、この「六法」という分類には、実務的にも、あまり利点が無く、たとえば21世紀現代の「会社法」は、20世紀の昔は商法の一部だった。現代では、「商法」とは別に「会社法」がある。\nまた、現代の「民事保全法」の一部は、昔は「民事訴訟法」または最高裁判所の定める民事訴訟規則の一部だった。\nこのように、法の条文が法改正により別の法にたびたび移動しているので、あまり分類を鵜呑みにしないほうがいい。\n「刑事法」とは、刑法や軽犯罪法や破壊活動防止法や刑事訴訟法などのように、主に警察関係の仕事の人が、関わることになる法律について総称した分野名です。\nいっぽう、「民事法」とは、民法や民事訴訟法などのような、民間人の人が、主に関わることになる法律についての分野名です。商法や会社法などを「民事法」に含める場合も、多くあります。\n現実には、警察や検察だって、民法や会社法などを無視はできませんが、しかし分類上では「刑事法」には民法・商法・会社法などは含めません。\n「刑事法」とは分野名にすぎないので、つまり「刑事法」という名前の1個の法律は、ありません(2017年の現在では)。\n同様に「民事法」という名前の1個の法律も、ありません。\n「労働法」とは、労働基準法や労働組合法などの、労働関係の法律をまとめて呼ぶときの分野名です。\n「社会保障法」とは、健康保険法や国民年金法など、社会保障関係の法律をまとめて呼ぶときの分野名です。\n「経済法」とは、主に、独占禁止法などの法律をまとめた分野名です。\n「行政法」とは、内閣法や国家公務員法など、主に公務員が中心的に関わる法律をまとめた分野名です。\n実際には、行政機構や公務員は、日本のほぼ全ての法律に関わることになるでしょうが、しかし分類上では、「労働法」や「社会法」や「経済法」などに分類されるような法律は、「行政法」には含めません。\n手続法には、いろいろとありますが、それらは更に「民事手続法」および「行政手続法」および「刑事手続法」などに分類されます。\n「民事手続法」とは、民事訴訟法のような法律をまとめた分野名です。\n「行政手続法」とは、行政事件訴訟法などのような法律をまとめた分野名です。\n※ 検定教科書では、「行政法」と「行政手続法」は、それぞれ別の分野として扱っています。つまり検定教科書では、行政事件訴訟法は、「行政法」には含めていません。\n「刑事手続法」とは、刑事訴訟法などのような法律をまとめた分野名です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%95%86%E6%A5%AD_%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%A8%E6%B3%95/%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%88%86%E9%A1%9E"} {"text": "・ 売買(ばいばい) - 「売買」とは、日常語の「売り買い」とほぼ同じ意味だが、特に民法でいう売買とは、当事者の一方(売り主)がある財産権を相手方(買い主)に移転することを約束して、相手方(買い主)がその代金を支払うことを約束することによって、その効力を生ずる契約のこと。(民555)\nなお、さまざまな種類のある契約のうち、当事者双方が義務を実行する必要のある契約を双務契約(そうむ けいやく)という。\n売買は、双務契約である。なぜなら売買の契約が成立すれば、買い手は代金を支払う義務があるし、売り手は商品を渡す義務があるから。\n・ 貸借(たいしゃく) - 貸し借り (かしかり)の事。\n民法でいう「意思表示」(いしひょうじ)も、通常の国語とほぼ同じ意味で、なんらかの意思を表示するという意味だが、くわえて民法では、さらなる意味もある。特に民法でいう「意思表示」とは、契約における「買います」「売ります」「貸します」「借ります」などのような意思を表示する場合に使われるのが普通である。\nつまり、売買や貸借などの契約の意思の表示のように、法的な効果を発生させる法律行為をつくるための意思を表示する事である。\n「買います」という相手に対して「売ります」と表示することは承諾(しょうだく)。\n「売ります」という相手に対して「買います」と表示することも承諾。\nこのように、ある意思表示に対して、それに賛成して、契約の相手方になる事の宣言のことが承諾(しょうだく)である。\n以上のような、売買や貸借などの際の契約も、法律的な効果を発生させる「法律行為」である。(有斐閣『民法入門 第7版』、川井健) (※ 法律行為については『高等学校商業 経済活動と法/自然人の行為能力と制限行為能力者制度』などの単元を参照のこと。)\n原則的に、どのような契約を結ぶかは、当事者の自由。また、当事者双方のそれぞれの個人の自由。したがって、当事者の双方が合致(がっち)した場合のみ、その契約が実行される事になる。\nただし、法律の範囲内の契約であること。また、公序良俗の範囲内の契約であること。\nたとえば、賭博(とばく)や麻薬売買などの契約は違法であるので無効であり、裁判者などに訴えても、契約を守らせる事はできない。\n\nいくつかの業界では、契約を交わす者同士が料金などを自由に決めることは、法律などで規制されている。たとえば水道や電気、バス、鉄道などの公共料金では、多数の消費者が使用する事もあり、生活の基本的な重要なサービスなので、あらかじめ国などが料金の算出方法を審査したうえで、消費者の払う料金が決められている。保険、銀行の預金なども、当事者は勝手には利率などを決められない。\n消費者が公共料金サービスや銀行などと契約する際に、契約を迅速に行うため、あらかじめ事業者によって定型的な契約内容(約款(「やっかん」)。普通取引約款)がつくられている。\n消費者は、その約款の内容をもとに、その事業者と契約するかどうかを決められる。購入者には契約を結ぶかどうかの自由はあるが、しかし購入者には契約の内容を変更する自由は無い。\n2017年の日本の国会による民法改正案の可決により、いまでいう、公共料金サービスや銀行などでの通常の「約款」のほとんどに当てはまる規定が、改正施行後の2020年からの民法の条文(改正後の民法548条)にて「定型約款」(ていけい やっかん)の規定として、すでに加わっています。\n2020年以前は、民法に『約款』の定義は無かったのです。しかし2020年以降、民法に『定型取引』を扱う『定型約款』の定義が加わり、民間の実務の実態に対応する法整備がなされてきました。\n2021/2 現在、民法の「第五款 定型約款」第五百四十八条の二~第五百四十八条の四、(定型約款の合意)、(定型約款の内容の表示)、(定型約款の変更)の条文で、定型約款に関する規定が定められています。\nなお、このように約款にもとづいて行われる契約のことを付合契約(ふごう けいやく)という。\nたとえば労使契約では、普通は経営者などに相当する使用者の側が立場が強く、いっぽう、従業員などの労働者の側は立場は弱い。そのため、このような労使契約の場合に、もし契約自由の原則をつらぬいてしまうと、従業員を酷使したりするような不当な契約が結ばれる危険もあるだろう。\nこのような事への恐れもあり、労働基準法などの労働法によって、労使契約は規制されている。なので、労使契約では、完全には契約自由ではない。\n労使契約における労働基準法などのように、民法のほかにも特別法による規制がある。\n他の場合でも、アパートの貸し借りの契約なら、借地借家法(しゃくちしゃくや ほう)という特別法による規制がある。\n金融機関などとのお金の貸し借りなら、利息制限法(りそく せいげんほう)という特別法による規制がある。\nこのように、民法の他にも、特別法による規制がある。\nちなみに、歴史的に労使契約で労働者保護が重視されるようになったのは、1919年のドイツのワイマール憲法の時代からである。労働者の団結の自由などが、ワイマール憲法によって認められた。(※ 商業科目の範囲外だが、普通科「政治経済」科目の範囲なので、高校生なら覚えておけ。『高等学校政治経済/政治/近代民主政治の歴史』。なお、中学でも、いちおうワイマール憲法は習う。)(※ 法学の入門書にも、ワイマール憲法は良く書いてある。例えば、参考文献: 有斐閣『法律学入門』佐藤幸治ほか)\nそれ以前の欧米では、たとえば建国当初のアメリカ合衆国では、契約自由の原則により、労働者を保護しないことこそが自由であるとの思想にもとづいており、そのため、貧富の格差や、重労働などが問題になった。\n現代の日本でも、民法や商法などの私法といえども、「私」だからといって、けっして完全には自由でなく、労働基準法や独占禁止法などといった公私混合法などによって、経済活動などを規制している。(※ 公法、私法、公私混合法の分類については『高等学校商業 経済活動と法/法の分類』を参照せよ。)\nある物を、本音では売る気がないのに、冗談で「これを売ろう」と言った場合、その契約は有効だろうか。\n「これを売ろう」を聞いた相手が冗談を信じた場合、この契約は有効になってしまう。そもそも冗談を言うほうがウソつきなわけだし、そんなウソつき人間の本音を、わざわざ国家権力が保護する必要が無い。\nいっぽう、もし相手が冗談だと買うさいに気づいていたら、その契約は法的には無効である。\nこれだと、相手が頭のよい人で、ウソを見抜ける人であると、冗談っぽい売主との契約に関して、保護されなくなてしまい、かえって権利が減ってしまってるが、現実的にそういう法律になってるんだから、仕方ない。\nなお、冗談で「これを売ろう」と言うように、発言者自身がウソや冗談だと分かってて、意思表示をすることを心裡留保(しんり りゅうほ)という。「裡」の字に注意。「理」ではない。\nまたなお、酒に酔って「100万円あげよう」などという発言は、ふつうの相手なら明らかに冗談だと分かるので、この発言は無効である。(※ 実教出版の教科書にある事例。)\n教訓としては、売る気のないものについては、たとい冗談のつもりだろうが、けっして「これを売ろう」などとは言わないのが最善だろう。なお、教科書では売る場合の説明のみだが、買う気がない場合でも当然、けっして冗談のつもりで「買います」などとは言わないほうが安全だろう。たとい、お世辞(おせじ) とか シャレ とかのつもりだろうが、もし冗談をついてしまうと、法的には契約の意思表示をしたと見なされ、その契約が有効になってしまう場合があるので、商談では冗談は禁物だろう。\n要するに、お世辞やシャレのつもりだろうが、ビジネスの契約内容に冗談をもちこむ連中は、仕事の邪魔者である。テレビ番組や漫画などでは、冗談が持てはやされる事も多いかもしれないが、そんなのはフィクションの物語の世界だけである。法律は、いちいちフィクション愛好家の冗談趣味などに付き合ってるヒマが無い。\n「真意でない意思表示」とは、つまり、\nである。\n虚偽表示(きょぎ ひょうじ)とは、いわゆる「グル」という事例である。\n相手側と相談した上で、真意とは違う意思表示をする事を。「虚偽表示」(きょぎ ひょうじ)あるいは「通謀虚偽表示」という。\n問題点は、第三者の権利である。\nたとえば、AとBが共謀して虚偽表示をして、AがBに売ったと見せかけた物を、第三者Cが、Bから買うと契約してしまった場合、法律では、どうなるか。\n簡単な事例から解説するため、ひとまず第三者のことは忘れて、ウソつき人物Aとウソつき人物Bの2人しかいないとしよう。\n多額の借金をかかえていたAが、債権者からの家屋の差し押さえを逃れるために、AとBが協力して、AがBに家屋を売ったとして、家屋の名義もBに書き替えた場合、どうなるか。\n法律では、まだBが誰にも売ってなくて、Bが持っているままなら、この契約は無効である。(民94)(※ 参考文献: 有斐閣『民法入門 第7版』川合健)\nしかし、もしBが、事情を知らないCにこの家屋を売ってしまった場合、Cは法的に保護されるので、AはCに家屋を返還請求できない。\nちなみに、法律用語では、事情を知らない事を「善意」(ぜんい)という。\nさきほどの例では、Cは「善意の第三者」である。\nいっぽう、事情を知っている事を「悪意」(あくい)という。さきほどの例では、AとBは「悪意」の人物である。\n日常語の「善意」「悪意」とは、法律用語の「善意」「悪意」とは、意味が異なるので、注意のこと。\n買い主が、ある物を10万円で買うつもりで、契約書に買い値を書くときに、まちがって100万円で買うと書いてしまったとする。このように、真意と表示に違いがあり、そして表意者がその違いに気づいてない場合を錯誤(さくご)という。\n別の例をあげれば、買い主が、ある商品Aを買うつもりで、勘違いで、B商品を買うと言ってしまった場合も、錯誤である。\nこのように、思いちがいや言い違いなどによって、真意と表示に違いがあり、そして表意者がその違いに気づいてない場合が、錯誤(さくご)である。\n心裡留保や虚偽表示と異なり、錯誤の場合では、表意者は、真意と表示のくい違いには気づいてない。\n表意者にだって「だまそう」という意思はないので保護する必要もあるが、いっぽう、相手方だって、なんのマチガイもしてないのだから、相手方も保護する必要がある。\nそこで民法では、つぎのように、一見すると矛盾するような2つの規定を置いている。\nというような規定を民法では置いている。\n詐欺や強迫をされて物を売ってしまうなど、詐欺や強迫によって行わた意思表示は、取り消すことができる。(民法96(1) )\nなお、詐欺とは「だますこと」である。強迫とは「おどすこと」である。\n詐欺や強迫をされて表示してしまった意思表示のことを瑕疵ある意思表示 (かしある いしひょうじ)という。\nしかし、加害者が、事情をしらない第三者(善意の第三者)に売ってしまった場合、詐欺や強迫にあった被害者は、はたして、取り消しを請求できるだろうか、というのが、ポイントである。\n民法では、詐欺の場合、被害者よりも、事情を知らない第三者を優先して保護するので、取り消しの請求ができない。(民法96(3) )\nいっぽう、強迫の場合、被害者は、第三者に、取り消しの請求をできる。\nなお、詐欺の場合、被害者のした契約の、真意と表示は一致している。しかし、被害者には錯誤があり、しかもその錯誤の原因が加害者が意図的にダマした事が原因である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%95%86%E6%A5%AD_%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%A8%E6%B3%95/%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%81%A8%E6%84%8F%E6%80%9D%E8%A1%A8%E7%A4%BA"} {"text": "日本は台二次大戦の終戦による行政改革で地方自治が強められたが、しかし戦後の20世紀の日本の地方自治の歴史は、21世紀の今ほど地方の権限は強くなかった。\n中央政府から地方自治体に委任(いにん)される事務を「機関委任事務」(きかんいにんじむ)というのだが、しかし実質的には機関委任事務は中央政府の考えた製作を地方自治体に代行させているだけだと思われていた。\n地方分権にむけた改革は、1990年代から進められてきた。(実教出版の見解)\nだから、たとえば1999年に地方自治法など地方分権にかかわる法律が制定されている(地方分権一括法)。そしてこれら地方分権一括法の結果、機関委任事務は廃止され、代わりに「自治事務」と「法廷受託事務」の制度が地方自治では設けられた。\nのちの2000年代のその他の規制緩和とも関連して、地方の権限にもとづき、特定の規制をある程度の最良だが緩和した特区(とっく)なども設けることができるようになった。\nまたこの時期は日本では1990年代バブル崩壊の不況の影響による地方財政の悪化などが問題視された時期でもあり、2000~2010年ごろには財政改善などのため自治体合併を行う自治体もいくつも出現した。\nまた、この時代、中央から自治体への補助金も削減されている。補助金の削減、地方への権限の移譲、地方交付税の見直しの3つを「三位一体(さんみいったい)の改革」と言った。\n政治機構には、主に立法機関、行政機関、司法機関で構成されている。日本では、立法機関として国会が、行政機関として内閣などが、司法機関として裁判所がある。\n国会は、法律を制定する機関である。ほかにも内閣総理大臣の指名などを行う。\n内閣は、法律を執行するための機関である。\n裁判所は、裁判を行う機関である。\nこのほかにも会計検査院などがある。\n大きくは、平等権(平等則)、自由権、社会権、基本的人権を守るための権利などがあり、日本国憲法などによって定められている。\n日本国民には、納税の義務、勤労の義務、子女に教育を受けさせる義務が定められている。また、この場合の日本国民とは20歳以上の男女を指す。\n政党とは同じ考えを持った政治家が集まり結成した団体のことで、事実上、衆議院総選挙において過半数をとった政党が日本の第1党となる。\n政党政治とは政党ごとに与党・野党と分かれ、与党が政権を組織し、野党がそれを監視・批判するといった政治の仕組みのことでる。\nまた政党内閣を本格的にはじめたのは元総理大臣の原敬(はら たかし)であり、自らの立憲政友会を陸軍大臣・外務大臣以外に登用したことが始まりである。\n現在は連立政権と言って第1党および提携をしている政党をともに「与党」と呼び、その与党すべての党で内閣を組織するということが増えてきている。\n年々、投票率の低下が増え社会問題になりつつある。自らが日本国民なのだという自覚を持ち、その権利をきちんと果たすことが大事である。また、主権者として自分の意見を政治に反映させるためにも参政権を大事にしていかねばならない。\nなお、いわゆるシビリアン・コントロール(文民統制)は、主権者たる国民の参政の一態様と考えることができる。シビリアン・コントロールとは、国民が、選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて、軍隊をコントロールすることである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB"} {"text": "産業革命のころ、イギリスでのイギリスの経済学者アダム=スミス(Adam Smith)は、かれの著書『国富論』(こくふろん、『諸国民の富』、しょこくみん の とみ)を著作し、市場には、価格を自動的に調節する「見えざる手」(みえざるて、invisible hand)が存在するため、個々人が自己の利益のためだけに売買を自由にするだけでも、全体が幸福になると、アダム=スミスは主張した。\nこのような、政府はなるべく、民間の経済活動については、自由放任(じゆうほうにん、レッセ=フェール、laissez-faire)として、政府は経済に関わらないとする考えを「安価な政府」(cheap government、小さな政府)という。\nアダム・スミスは、現代では「経済学の父」と呼ばれ、アダム・スミスは古典派経済学の祖(そ)とされている。アダム=スミスを中心とする彼の時代の経済学は、古典派経済学と言われる。\nなお、後世のドイツのラッサールは、このような「安価な政府」の考え方を批判の意味合いで、「夜警国家」(やけい こっか)と呼んだ。\nアダムスミスは、富の源泉は労働にあるとする労働価値説を発表した。\nだが労働価値説は、現代の経済学では否定されている。\n※ 労働価値説は現代経済学では否定されている理論なので、暗記の優先度は低い。\n現実の近代世界での経済の歴史は、アダム・スミスによる予想とは違い、自由な経済活動が増えるにつれ、貧富の格差がひらいたり、景気の変動がはげしくなったりしていった。\nマルクス(カール=マルクス、Karl Marx)などは、市場経済を批判し、市場経済にもとづく資本主義から、市場経済にもとづかない経済である社会主義へと移行するべきだと主張した。マルクスは著書『資本論』『共産党宣言』を著し、資本主義を批判した。\n1929年のアメリカから始まった世界恐慌により、各国の株式市場などの金融市場が不安定になり、安価な政府の考えでは、不況が解決できなくなった。\nそのため、「安価な政府」とは別の考え方の、政府が積極的に経済活動を行う政策が行われた。\nアメリカでは、ダム開発などの公共投資などを積極的に行うニューディール政策が、フランクリン=ローズベルト大統領によって進められた。\n同じころ、イギリスの経済学者ケインズ(Keynes)は、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年刊行)で、政府は有効需要(ゆうこう じゅよう)を増やすべきだと主張した。\n有効需要とは、貨幣の支出をともなう需要のことである。\nケインズの考えによると、私企業や家計が経済活動を行うように、政府も景気安定などのための経済活動を行うべきだとする(ケインズのこういう考えを一般的に「ケインズ思想」と言います。)\nアメリカのニューディール政策は、ケインズ思想にもとづく政策である、と分類するのが一般的です。(※ 実教出版『公共』教科書の見解)\nこのニューディール政策やケインズの理論などのように、自由放任ではなく、原則的に市場はなるべく自由にしつつも、政府は経済投資などで市場に積極的に関わるべきだとする経済思想のことを混合経済(こんごう けいざい)または修正資本主義(しゅうせい しほんしゅぎ)という。\nなお、この、ケインズのような政策では、政府の支出が増えるため、インフレーションや財政赤字が起きやすいという性質がある。\n中学で「小さな政府」と「大きな政府」を習ったと思いますが、ケインズ思想を重視する政策は基本的に、「大きな政府」になる傾向があります。なぜなら、政府は雇用の安定化などのために、民間では不採算な部門にも、積極的に政府が市場介入するからです。(※ 実教出版『公共』教科書をもとにwiki側でやや脚色。教科書では、歴史的な流れを書いてるが、実質的には、まあ、ケインズ政策が「大きな政府」だと言っているので)\n当然、財政赤字などが膨らみやすいという欠点が、ケインズ思想にはあります(政治家は選挙対策などのため、普通は税金をそんなに上げたがらないので)。※ 財政赤字うんぬんも、まあ実教の教科書の構成がそんな感じである。直接は言ってないが。\n「大きな政府」でも「小さな政府」でも、それぞれ長所と欠点があります。\n中学では、「大きな政府」は「税金が高い」という傾向を習ったと思います。\n高校では、それに加えて、実は「大きな政府」は「財政赤字になりやすい」傾向もあるという事も習います。\n「小さな政府」はその逆であり、つまり「財政赤字になりにくい」傾向があるし、もちろん税金は安いのです。\n原理的には、「税金が高いけど財政の健全な国」などの可能性もあるでしょうが、しかし実際には政治家の選挙対策などの都合により、増税は有権者ウケが悪いので、往々にして政治家による「大きな政府」的な政策の主張は、財源の税金を軽視したり有権者の関心に入らないようにしたりして、財政の悪化につながりやすい傾向があるし、事実、20世紀後半の日米の財政がそういう歴史の実例です。\n\n1970年代から80年代になると、政府の財政赤字などを理由に、経済政策を「小さな政府」にする国が出てきた。\nイギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根康弘(なかそね やすひろ)政権などが、このような経済政策である。\n冷戦の後半になると、ソビエト連邦の経済や財政が行き詰まった。ソ連はペレストロイカで、部分的に自由競争をみとめる経済改革をして、それなりに効果もあがったが、ソビエト連邦は計画経済をやめ、またそれにともないソ連を解体し、ソ連解体にともない東ヨーロッパ諸国も民主化し、こうして冷戦は終結した。\n現在、東ヨーロッパ諸国やロシアは、資本主義の経済政策である。\n零戦後半のころ、中国でも改革開放(かいかくかいほう)政策がとられ、経済の自由競争が導入されていった。\n同じころ、ベトナムでもドイモイ(=刷新)政策で、市場経済が導入されていった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%80%9D%E6%83%B3"} {"text": "不景気の場合は、失業者が増えるなどして、国から国民への雇用保険の給付が増える。\n好景気の場合は、失業者が減るなどして、国から国民への雇用保険の給付が減る。\n雇用保険は、べつに景気の刺激を目指したものではないが、雇用保険が給付された人にとっては、結果的に使用できるお金が増えたので、給付を受けた人は、そのぶん消費の意欲が高まる。\nなので、不景気で国からの雇用保険の給付が増えた場合、結果的に、消費が刺激されることになるので、不景気を抑制する効果を持つ。\n逆に、好景気の場合は、雇用保険の給付が減るので、そのぶん消費の刺激の効果は弱まり、景気を抑制することになる。\nこのため、雇用保険には、景気を安定化させる効果がある。このように、財政制度によって自動的に景気を安定化させる作用をビルト・イン・スタビライザー(built-in stabilizer)という。ビルト・イン・スタビライザーは「自動安定装置」などと訳される。\n雇用保険や生活保護などの社会保障のほか、累進課税制度にも、ビルト・イン・スタビライザーの効果があるというのが定説である。\nビルト・イン・スタビライザーとは別に、政府が意識的に、不況時に公共事業や減税などの財政政策を行って景気を刺激させたり、いっぽう好況時には財政支出を減らしたり増税を行ったりして景気の加熱を防いだりと、政府が意識的に景気を安定化させるために財政政策を裁量的に行うことがあり、この裁量的な財政政策をフィスカル・ポリシー(fiscal policy)という。\n財政は、1年を会計年度としてる。\n予算には、一般会計予算と特別会計予算がある。\n一般会計予算とは、文字通り、一般的な行政をするための会計予算である(高校の段階では、そういう認識で良い。検定教科書でも、そう説明している)。\n特別会計予算は、特定の事業の実施など、特別な目的のために設ける会計予算である。\n国の予算案は、毎年、内閣が作成・編集し(実質的には官僚が作成するが)、国会に予算案が提出され、国会で予算案が審議・議決される。\nこのほか、政府関係機関予算も、同時に国会に提出される。\nまた、災害などの事情により、当初の予算どおりには行かなくなり、追加の予算が必要になったときなどには、国会の議決を経て、補正予算(ほせい よさん)が追加される。\nなお、一会計年度の歳入と歳出の実績を表す決算は、会計検査院の検査を受けたあと、内閣が国会に提出する。\nかつて、郵便貯金や簡易保険や年金積立金などの資金が、特殊法人や公団・公庫などに融資され、その活動資金や投資資金などになっていたが、このような融資を財政投融資といい、「第二の予算」とも言われていた。\n原資が郵便貯金など、国民から預かっているお金なので、特殊法人や公団・公庫などには返済の義務がある。\n投資された公団や公庫が、民間や国民をあいてに融資することで、最終的に投資で利益を得られて、返済できるだろうという見込みであった。\nしかし、非効率な融資や不透明な融資などが問題視され、2001年の財政改革によって、郵便貯金・年金積立金を財政投融資に投資するのが禁止され、郵便貯金・年金積立金は自主運用されるようになった。\n現在の財政投融資は、政府の保証がつかない財投機関債の発行(特殊法人が発行する)によって資金調達され、金融機関や金融公庫などに投資されている。\n租税は、法律によって定めなければならないことが、日本国憲法第84条に記述されている(租税法定主義)。\nビルト・イン・スタビライザーのように、税によって、自動的に景気を安定化させる機能のことを、景気の調整という。\n所得税(しょとくぜい、英:income tax [1])は、所得の増加に応じて、税率も増加する。所得税など、収入にかかる租税では、収入が大きくなるほど税率が増える負担のさせ方をするのが通常で、このように収入に応じて税率をあげる課税を「累進課税」(るいしん かぜい)という。このような累進課税のため、結果的に、所得税は所得格差を減らす方向に作用する。所得税の累進課税制度のように、税の機能のうち、この貧富の格差を減らす機能のことを、所得の再分配という。\n税金の本来の目的は、国道や公道などの公共財を供給したり、警察や消防などの公共サービスを供給することである。\n税金による公共財・公共サービスの提供の機能のことを、資源配分の機能という。\n戦前(第二次世界大戦前)の日本では、税収は酒税などの間接税が中心だった。\n直接税と間接税の比率を、直間比率(ちょっかん ひりつ)という。\n1949年、アメリカのシャウプ博士(Shoup)を団長とする税制使節団(シャウプ使節団)による勧告(いわゆる「シャウプ勧告」)で、日本の税制について勧告され、日本の税制が、所得税などの直接税を中心にした税制に改められた。(このような、シャウプ勧告後の日本での直接税中心の税制を「シャウプ税制」という。)\nその後、高度経済成長により、税収は順調だった。\nしかし、1973年に石油危機が訪れ、不景気になり税収が悪化し、それ以降も、経済成長の伸びが鈍り、所得税・法人税などの直接税の税収が伸び悩んだ。\nその後も、少子高齢化が進み始め、福祉のための財源が必要になり、財源が不足してきた。\nシャウプ税制のままでは、財源が不足することから、税制を見直す必要が生じ、直間比率(ちょっかん ひりつ)を見なおした。\n1989年には、間接税である消費税が導入された。1989年の時点での消費税の税率は、価格の3%であった。その後、1997年には消費税率が5%に引き上げられ、2014年には消費税率は8%に引き上げられた。そして、2019年には消費税率が10%に引き上げられると同時に、一部の消費活動に対しては軽減税率(8%)が適用された。\n近年(2015年に記述)、日本での税収の直間比率は、約6割〜7割が直接税である。残りの4〜3割が間接税である。\n消費税は、すべての消費者に対して、一定の税率が課せられているという意味では公平である。このような、一定の税率という意味での公平性を「水平的公平」という。\n一方、消費税は、所得にかかわらず税率が一定なので、低所得者にとっては、所得に対する税負担の割合が大きいという逆進性(ぎゃくしん せい, regressive)があると言われる。消費税の逆進性を弊害(へいがい)だとして、「逆進性」を問題視する批判・意見もある。\n一方、累進課税のように、最終的に得られる所得が同じ程度になるという意味での公平性を「垂直的公平」という。\n法人税率や所得税を高い水準にすることは、国際競争の観点からは、競争に不利だと考えられている。そのような意見もあり、日本では1989年ごろから、所得税や法人税の税率が引き下げられている。\n業種によって、税務署などによる、所得の捕捉率がちがう。\n自営業や農業では、捕捉率が低い。\n一方、一般企業の会社員のような給与所得者は、給与の捕捉率が高い。\n捕捉率が給与所得者10割、自営業者5割、農業3割という意味で「トーゴーサン」とか、あるいは、給与所得者9割、自営業者6割、農業4割という意味で「クロヨン」とか言われている。\n上述のトーゴーサンやクロヨンとかのように税金の捕捉率が悪いとの批判もあり、捕捉率を改善するなどの目的もあって、マイナンバー制度(社会保障・税番号制度)が創設されており、すでにマイナンバー制度は実用化されている。\n公共事業に使う国債を建設国債(けんせつ こくさい)という。公務員の人件費などの、普通の経費に使う国債を赤字国債(あかじ こくさい)という。\n財政法(ざいせいほう)では、国債の発行を原則的に認めないが、例外的に建設国債は認められている。だが、財政法では、赤字国債の発行を認めていない。\nしかし、石油危機後の不況による税収不足のため、1975年、特例法として赤字国債が発行された。\nこのため赤字国債のことを特例国債(とくれい こくさい)ともいう。\nその後も、ほぼ毎年、赤字国債が発行されたが、80年代の後半にバブル経済の好景気によって赤字国債の発行が一時的にゼロになった。しかし、バブル崩壊後の景気の低迷により、また赤字国債が発行されるようになり、(2015年に記述)現在までも赤字国債は発行されつづけている。\nなお財政法(第5条)は、日本銀行が国債を引き受けることを原則として禁止している(市中消化の原則)。その理由は、通貨の増発によるインフレを恐れてのことである。\n国の国債の借金による歳入出を除いての、歳入出がプライマリーバランス(prmary balance)である。\n式で書けば、\n具体的にいうと、\nのようになる。\n式中の「国債の元利払い費と償還費」には、過去の国債の元利払い費と償還費(返却日の来た国債を額面どおりに返す費用)であり、今年度の国債を返す費用は含まれない。(そもそも今年発行したばかりの国債なら、まだ利子が発生してないし、償還の期日も来てない。もし今年度に国債の償還の期日がきたら、そもそも借金としての意味を持たない。)\nつまり、今年度の歳出のうち、どんだけが、今年の国債発行に頼らずに、資金調達できてるかを見るときに、プライマリーバランスが便利である。\n日本では、1990年代はプライマリーバランスは黒字であったが、2000~2010年のあいだ、プライマリーバランスは赤字であり、2010年度以降も同様に赤字の傾向である。\n日本政府は、財政改革によってプライマリーバランスを黒字化させることを目指している。\nプライマリーバランスが赤字だと、今年の歳出を、今年の国債で調達していることになる。\nその国債は、いつかは借金を国が返却しないといけない。なので、プラマリーバランスの赤字は、将来世代の誰かに、借金を押し付けてることになり、借金が先送りされていることになる。\n詳しく言うと、国債発行による歳入と国債の返却以外の歳出とを除いて、つまり、国債の歳入・歳出を一切除いた歳入と歳出とが、どうなってるかを考えたのが、プライマリーバランスである。\n近年、日本では、「国債は国の借金ではない。なぜならば〜〜」とか、「いや、国の借金である。なぜならば〜〜」などの議論が活発である。\nこれは、いったい、どういう議論なのかというと、下記のとおり。\nまず、2018年現状の日本国債は、「日本円で返済する」という内容である。\nこのような事情が、けっして18世紀〜19世紀のような従来の、金属のゴールドで返済するような昔の国債の事例とは、大幅に違うのである。むかしは多くの国で金本位制だったので、通貨をいくら発行しても、国の金の保有量が増えないかぎり、国債を返却できなかった。\n(なお、金本位制の時代にも、アメリカ合衆国が世界最大レベルの債務国になった時代もあるので、かならずしも債務国だからといって、経済破綻するわけでもない。\nというか、アメリカが第二次大戦後、金本位制をやめた(ニクソン・ショック)理由は、債務が多くなりすぎて、ゴールドを返せなくなったからである。)\n(じつは現代のアメリカ合衆国も財政が債務国であるので、べつに日本だけが特別なワケではない。そして、アメリカが外国に貸してるぶんの国債の買い手の国は、ほとんどが中国と日本である。)\nまた日本の債務は、けっして米国ドルやユーロなどの、外国貨幣で日本国債を返済するわけでもない。\n日本国は自身の判断で日本通貨や日本銀行券といった日本の貨幣を生産できるので、もし現状の政府や中央銀行の保有する日本円が不足しても、追加で日本円の貨幣を生産すればいいのである。\nもちろん、無制限に貨幣を発行しすぎるとインフレになってしまい、貨幣価値が低下してしまう。なので、なるべく日本の財務省は、国債の残高を増やさないようにしようといているようである。\nなお、近年の日本経済は「デフレを原因とする不況」と言われてる(その仮説が事実かどうかはともかく)。なので軽度なインフレには、もしかしたら(2018年近年の日本の)消費者心理を改善する効果があるかもしれない。「インフレ ターゲット」などと言われる政策案は、この軽度なインフレによる好景気を狙った政策である。\n第二次安倍政権の経済政策(日本マスコミは「アベノミクス」と呼んでいる)も、おそらく、「インフレターゲット」を意図した経済政策であろう、と通説では考えられている。日本では既に2013年から、安部政権下で日銀の黒田総裁がインフレ・ターゲットを目指していることを明言している。(※ 清水出版の高校生用のニュース解説資料集でも紹介されている時事である。)\nだからといって、もしインフレを限度なく進行させてもハイパーインフレになってしまい経済が混乱してしまうだろう。なので結局は、ハイパーインフレにならないようにインフレを抑える必要があるので、なんらかの財政規律も必要である。\n(なお、2013年に日銀から提言された日銀黒田のインフレ・ターゲットのインフレ率の目標値は2%だが、2018年の現時点では、まだ目標の2%のインフレ率は達成できてない。)\n借金というのは、貸し手 と 借り手 が存在する。\n2018年現在の日本国債の場合、貸し手はもちろん日本国であるが、借り手 のほとんども日本国内の銀行などの金融機関であり、貸し手も借り手も、実質的に日本人である、という特殊な事情である。\nこれが、歴史的な従来の、外国から資金を借りるような「国債」の事例とは、大幅に違うのである。\nただし、あくまで現状では、日本国債では借り手の大半が日本人という事、という現時点での限定事項である。\n将来的に日本国債の借り手の割合がどうなるかは、不明である。\n外国人による日本国債の購入は、禁止されていない。(そもそも歴史的には、外国から資金を調達する手段として、世界各国で国債が活用されてきた。)\n普通の民間企業が、企業に融資する際は、もしその企業が返済できなかった場合に、企業の保有していた土地や設備などを譲り受ける契約をする「担保」(たんぽ)という契約をする。\nしかし、日本国債の場合、担保(たんぽ)の契約などは、日本国債では行われていないようである。\n現状の日本国債の場合、そのような担保の話は、聞かない。もし、日本国が国債を返済できなかった場合に、日本国はどのような弁償をするのか、そもそも弁償があるのかどうかすら、不明であろう。\nしかし、国債は「国の借金」である。なぜなら、国債とはべつに、地方自治体に金を貸し与える債券(2文字目に注意)である「地方債」という債券があって、この地方債のことを通常、「地方の借金」という。(※ しかし、中学校の教科書では、「国の借金」という言い方はしていない。)(中学校でも地方債を習ってる。 分からない人は不勉強なので、今ここで復習しよう。)\n同様に、国に金を貸し与える債券のことを「国債」と呼ぶわけである。\nさて、たびたび一部のマスコミなどの評論で「国債の権利者は、国民だ」などと評論されることがあるが、しかし、これは不正確であり、ハッキリ言うと、まちがいであろう。\nなぜなら、国債にかぎらず一般に金融における債券の権利者は、その債券の購入者が権利者であるので、債券を購入してない一般国民はなんの権利者でもない(※ 中学校の教科書でも、国債や地方債について、そう説明している)。(あなたや周囲の人は国債を購入したことありますか? ほとんどの人は、ないでしょ?)日本では銀行が国債を多く購入しているので、国債の権利者は事実上は銀行である。\nまた、基本的に返済計画は、数十年かけて将来的に国債・地方債を政府・地方自治体などは返済しようとするので、実質的に恩恵を受けるのは今の世代の国民・住民で、負担をするのは数十年後の国民・住民である。なので、国民どうし・住民どうしの、若者と老人のあいだの金の貸し借りのような世代間の金の貸し借りでもあるといえる。\nまとめると\n原理的には、公共事業を増やす際、増税をしなくても、景気が改善すれば、その好景気によって歳入が増加するので、原理的には増税せずとも公共事業を増やすのは理論上はありうる話だし、理論上では増税なしでの財政の再建は(あくまで理論上は)可能である。ただし、実際にはそれは、なかなか難しい。事実、近年に財政を再建するのに再建したカナダやスウェーデンでも増税をしている。(※ 実教出版「公共」の見解)\n「国債」とは、その国の政府機関の活動などに不足している分の資金を、税収ではなく「国債」という債権の発行によって補っているわけである。日本国債の借り手が日本の民間銀行にせよ、それとも外国人にせよ、そもそも、税収に対して、歳出が大過ぎ、という問題点がある。(なお、日本銀行が日本国債を購入するという手は、法律(財政法)によって禁止されている。)\n評論家によっては、「日本は財政赤字でも、自国通貨(日本円)建ての赤字なので問題ない」という人もいるが、しかし経済学の通説や政治学の通説では、財政赤字を放置することは、その国の貨幣価値の信用をそこない、インフレなどをコントロールしにくくなりハイパーインフレが発生しやすくなる、等のように言われている。\nまた、財政赤字は、政府などがハイパーインフレなどをおそれるために、緩和的な政策が行えないので、財政の硬直化をまねくとされる[2]。\n日本は国債残高が多い。しかし、日本の財務省などは、けっして国債残高を放置しているわけではない。日本の政治家は、たぶたび消費増税などの増税を行ったり、各種の補助金を減らしたりして、国債残高を抑えようとしている。つまり、財政に規律はある。しかし、あいかわらず、国債残高の金額も大きいままである。\nこのような場合、経済にどういう影響を与えるのか、まだ政治学・経済学では不明であろう。\n従来の政治学・経済学で言われてた、国債残高の大きさを放置する国の事例というのは、その国の財政にも規律がなく、その国の政治家が、国債残高の大きさを放置してきて、財務省はその政治家に負けて、財政規律の無くなったような事例ばかりであった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E8%B2%A1%E6%94%BF%E3%81%A8%E7%A8%8E"} {"text": "需要供給曲線のグラフを描く時、一般に縦軸に価格を取り、横軸に数量を取るので、需要曲線は右下がりであり、供給曲線は右上がりとなる。\n需要と供給の数量により市場価格が決定される。価格の変化で均衡がもたらされることを、価格の自動調節機能という。\nしかし、このような調節機構が働く場合とは、市場で自由競争が行われている場合である。\nくわしく言うと、今の経済学でいう「完全競争市場」(かんぜん きょうそう しじょう)というのが、価格の自動調節機能の前提である。\n完全競争市場とは、売り手と買い手には充分な人数が存在していて、価格の情報について売り手も買い手も同じ情報を持っている、などの条件を満たす市場である。箇条書きで書けば、完全競争市場とは、\nという条件を見たすような市場である。今でいう「完全競争市場」を、アダム・スミスなどの理論は前提にしていた。\n※ 完全競争市場の上記4つの条件のうち、どれか一つでも満たされてない市場のことを「不完全競争市場」という。(後述の『独占』などの単元で不完全競争市場について説明する)\n※ 高校の「公共」教科書には、コラムのページで、需要曲線の「シフト」などの話題もある(清水書院の教科書で確認)。※ 当wikiでは図を書くのが面倒なので省略。誰か書いて。\n市場で、売り手となる企業・生産者が、一社の場合であり、その一社の企業が市場を支配してる場合を独占(どくせん、monopoly)という。独占された市場の場合は、この市場は完全競争市場ではないので、独占の状態では価格調節の機能が働かない。\n同様に、売り手となる生産者・企業が、少ない会社数の場合を、寡占(かせん、oligopoly)といい、この場合も価格調節の機能が働きにくくなる。\nこのように、独占や寡占などのみられる市場を不完全競争市場(imperfect market)という。\nそのうち、寡占市場で、有力企業がプライス・リーダーとなって一定の利益を確保できる価格を設定し、他の企業がこれに倣うときの価格を管理価格(かんり かかく)という。この管理価格では、不況でも価格が下がりにくい。一般の市場よりも価格が下がりにくい性質を、価格の下方硬直性(かほう こうちょくせい)という。管理価格では、価格の下方硬直性がみられる。\nもし独占や寡占などが起きると、消費者に不便であり、また産業の発展が阻害されてしまう。なので、多くの国では、独占を法規制している。日本でも、独占禁止法(どくせんきんしほう)がある。\nこのような価格の硬直した寡占市場では、企業どうしの競争で、価格競争は起こりにくい。価格以外の宣伝広告やブランドや意匠(いしょう)などで、企業どうしが競争することになる。このように、価格以外の面で競争することを非価格競争という。寡占市場では非価格競争がみられやすい。\nある産業に参入している企業の数が複数であっても、その業種の参入企業どうしが、価格について協定をしあったりすれば、価格競争は起きないので、実質的に独占や寡占と同じである。あるいは株式の持ち合いなどをしていたりすれば、価格競争は起きにくい場合がある。\n企業の集中には、つぎのカルテル(企業連合)、トラスト(企業合同)、コンツェルン(企業連携)という3つの形態がある。\nカルテル(Kartell)とは、価格などについて協定をすることである。日本では、独占禁止法により、カルテルが原則的には禁止されている。\nトラスト(trust)とは、同一業種の企業どうしが合併や統合をして、ひとつの企業になることである。合併は原則的に自由であるが、市場を独占・寡占するおそれの場合には、独占禁止法によって禁止される。\nコンツェルン(Konzern)とは、一つの持株会社(もちかぶ がいしゃ)が、さまざまな業種の企業を傘下(さんか)におくことである。日本では戦前の財閥が、コンツェルンの状態である。\nかつて独占禁止法の例外として、不況時の不況カルテルが、1953年の法改正から認められていたが、1999年の法改正により不況カルテルは禁止された。合理化カルテルも、1953年から認められていたが、1999年の法改正で禁止された。合理化カルテルとは、品質向上を目的としたカルテルである。\n日本では、市場の独占・寡占を行う企業などを取り締まる行政委員会として、公正取引委員会が設置されている。\n商品によっては、生産量を増やすほど、商品1個あたりの費用を削減できるものがある。\nこのような商品を生産している産業の場合、生産量の多い大企業ほど、商品1個あたりの費用を下げることができるので、さらに売れ行きがあがり、利益を増やせ、その大企業の市場でのシェアが上がっていく。このような利益を、規模の利益(きぼのりえき、scale merit スケールメリット )という。\nこのような、規模の利益の発生する産業では、政府が関与せず自然にまかせておくと、大企業による市場の独占や寡占が発生しやすい。\n石油化学コンビナートや、電力の発電・送電、ガスの生産なども、このような規模の利益が発生しやすい産業である。\n電力産業やガス産業では、例外的に、政府は、その地域に一社に独占をみとめるかわりに、公共料金で規制をかけている。\n生産者・販売者が、採算を度外視して価格を無理に下げることを不当廉売(ふとう れんばい、ダンピング dumping)といい、独占禁止法などによりダンピングは禁止されている。\nなぜ、採算を度外視して価格を下げることが独占につながるのかというと、市場価格を低価格化させるので、競合他社の撤退などにつながったり、あるいは、競合他社を倒産・破産させかねないから、などの理由である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E5%B8%82%E5%A0%B4%E3%81%AE%E6%A9%9F%E8%83%BD%E3%81%A8%E9%99%90%E7%95%8C"} {"text": "物価のうち、企業間で取引きされる卸売の段階での物価を企業物価という。\n一方、物価のうち、一般の最終消費者が商品を購入するときの物価を消費者物価という。\nこの企業物価を算出する方法は、企業間の取引きで、よく取引きされる商品についてウェイトをつける計算方法で、企業物価指数を算出する必要がある。\nいっぽう、消費者物価を算出するには、最終消費者がよく消費する商品についてウェイトをつける計算方法で、消費者物価指数を算出する必要がある。\n消費者物価指数および企業物価指数とも、基準年を100とした指数である。\n物価の持続的な上昇はインフレーション(inflation)と呼ばれる。\nインフレの原因は一般的に、ある商品を買いたい人の多さに対して(つまり、需要に対して)、商品不足である(つまり供給不足)。\n市場メカニズムを考えれば、その原因が思いつくだろう。\nつまり、商品が少ないからこそ、あるお店で値上げをすれば、他のお店で買うこともできないだろうし(もしくは他のお店を探すのがメンドクサイ)、どうしても買う必要のある人がいれば(需要があれば)、たとえ値段が上昇しても、ガマンできる金額であれば(その金額の高さというデメリットよりも、「買いたい」という需要が強ければ)、消費者はそのお店でその商品を買うわけである。\nこのような仕組みを経済用語でまとめると、インフレの原因は一般的に、その物価水準において供給よりも需要が大きい時に、インフレが発生しやすい。\n数式っぽく不等号で表せば、インフレが起きやすい場合とは、\nである。\n需要の増加によって、需要が供給より大きくなって発生するインフレーションをディマンド・プル・インフレ(demandーpull inflation)という。\nいっぽう、供給側の生産コストの上昇によって起きるインフレーションをコストプッシュ・インフレ(costーpush inflation)という。\nインフレになると、インフレの原因がなんであれ、通貨の価値が下がったことになる。ひとつの物を買うのに、より多くの額面の金銭が必要んなるので、たとえば日本のインフレだとしたら、つまり貨幣1円あたりの価値が下がったことになる。\nインフレ現象を、物を基準に見ると、通貨の価値が下がったことになる、\n一方、通貨を基準にインフレをみると、インフレによって、物の金銭価値が上がることになる。\nインフレによって、貯金の価値は下がる。\nまた、借金の負担も、インフレによって、下がる。たとえば10万円の借金をしていても、インフレによって物価が10倍になれば、昔は1万円だった物をインフレ後に1つ売れば、それで借金が返せることになる。10倍インフレ前なら、1万円のものを10個売らなければならなかったわけだから。(じっさいのインフレでは、国の深刻な財政破綻などでないかぎり、このような急激なインフレは起きないのが普通。あくまで、わかりやすくする目的のため、急激なインフレで説明している。)\nこのように、インフレは、借金の借り手にとっては有利である。\n裏をかえすと、借金の貸し手のとってはインフレは不利である。\nなお、インフレによって、これから、名目上の利子率、利息率が上がる。\nすると、これから借りる借金の利子も上がるので、これから借りる人にとっては、不利になる。しかし、すでに借りている人にとっては、その借金の契約条件での利子率が(例外として物価連動などの条件を利子率につけてないかぎり、)昔の利子率のままなので、これから借りる人よりも、昔に借りた人は利子率が低いことになる。\nいっぽう、持続的な物価の下落はデフレーション(deflation)と呼ばれる。\nデフレの原因は、一般的に、供給が余ってることである。\n市場メカニズムとの関係を考えてみよう。\nお店の都合からすれば、何らかの原因で、今までどおりの価格のままでは商品が売れないからこそ、しかたなく値段を下げる必要があるので、物価が下がるのである。\nたとえば、もし消費者が、あまりその商品に需要がないのに、もし、その商品の値段が高ければ、そんな高額商品は買いたくないのが当然だろう。\nでも、もし、その商品の値段がすごく下がれば、「こんぐらい安ければ、買ってもいいだろう」と思う消費者も増えるだろう。\nつまり、値段が下がることで、需要が増える。もちろん、販売店の売上(うりあげ)は下がるが、まったく売れないよりかはマシである。お店の商品は、保管するだけでも、倉庫代などが掛かるのである。いわゆる「在庫品」(ざいこひん)には、費用が掛かるのである。\nお店が商品の値段を下げたら、消費者の需要がこうして上がるが、一方、市場メカニズムにおける供給はどうなるのだろうか。値段を下げたところで、その瞬間には、その商品を保有しているお客さんの人数は変わらないので、値段(つまり物価)を下げても、べつに供給は増えない。\n結局、値段を下げると、とりあえず、その瞬間には、需要だけが増加して、供給はそのまま不変である。\nともかく、需要不足だとデフレになりやすい。\n読者は「不足」の基準を何にするかという疑問があるだろうが、とりあえず経済学では、インフレの場合の「 需要 > 供給」の条件で供給を基準にしたように、デフレも供給を基準に考えよう。\n数式っぽく不等号で表せば、デフレが起きやすい場合とは、\nである。(デフレの条件式の不等号の向きは、インフレの場合と逆向きである。)\n先ほどの節の説明のとおり、市場での商品不足は、インフレを引き起こしやすい。\n一方、商品不足なら、もし商品を販売すれば、ほぼ確実に売れるだろうから、好景気を引き起こしやすい。\nよって、このように商品不足の場合、インフレと好景気が連動する場合もある。\nしかし例外もあるだろう。たとえば、インフレの原因が、たとえば国家財政における財政不安・財政危機などによって通貨の信用が暴落した場合や、あるいは戦争・大災害などにより工業地帯などが破壊されて商品不足などが起きた場合などには、消費者は将来不安のために生活必需品以外の消費を控える可能性もあるので、かならずしもインフレだからといって好景気になるとは限らない。\nなお、不況とインフレ(物価高)が同時に進行する現象をスタグフレーション(stagflation)という。(停滞(スタグネーション)とインフレーションをあわせた用語)\n1973年の石油危機は、「狂乱物価」(きょうらん ぶっか)と呼ばれる物価上昇(インフレ)をもたらし、スタグフレーションをもたらした。\n(※ 第一学習社の検定教科書『高等学校 政治・経済』が、石油危機をスタグフレーションと認定している。)\nなお、この1973年の石油危機のとき、トイレットペーパーが品薄になるというウワサが流れ、スーパーなどの日用品売場にトイレットペーパーを買い求める消費者が殺到した。\nさて、インフレになると、場合によっては、金銭をもっていても価値が下がっていくので、貯金をするよりも、物を買って、物資として資産をたくわえようという意識が働く結果、消費が活発になり景気が良くなる場合もある。\n一方、商品が欲しくない、つまり需要不足( 需要 < 供給)なら、デフレが起きやすいのであった。\n消費者がある商品が欲しくないってことは、その商品を扱ってる販売店や生産者からすれば、販売や生産を扱ってる商品が売れないので、その商品の販売会社・生産メーカーなどは倒産しかねないってことである。もし、多くの会社が潰れれば、不況になってしまう。\nこういうデフレの場合、デフレと不景気が連動する場合もある。もちろん、例外もあるだろう。\nある会社がつぶれても、その会社の競争相手の別会社にとっては好都合かもしれない。あるいは技術改善によって価格の減少が起きる場合もある。\nさて、インフレと不況が同時進行することを「スタグフレーション」と呼ぶのであった。\n一方、不況とデフレが同時進行している場合を考えてみよう。\nまず、なんらかの不況または景気不安によって、生産者・販売者らが生き残りのためのコスト・ダウンをして、デフレになったとしよう。\nすると、そのコスト・ダウンによって、競合他社も値下げさぜるを得ず、さらに価格競争が起きる。すると、さらに、最初に値下げした業者も、競合他社に対抗するため、またまた値下げする。すると、どんどん販売価格が下がる。\nそして、販売価格が少ないので、せっかく商品を売っても、利潤が少ない。この結果、デフレによって所得が、名目だけでなく実質的にも低下したことになる。\nそして、労働者の所得が低下すれば、当然、消費に使える金銭が減るので、消費が不活発になり、さらに不況になるだろう。\nこのように、なんらかの原因で、不況とデフレが同時進行することをデフレ・スパイラルという。(「スパイラル」とは、「らせん」という意味。「スパイラル」という単語自体には、その循環が、良い循環か、わるい循環かの、決まりはない。つまり、「デフレ・スパイラル」とは、けっして文字通りの単なる「デフレの循環」意味ではなく、「デフレが不況を深刻化させる」という価値判断を「デフレ・スパイラル」という単語は含んでいる。)\nこのデフレ・スパイラルが悪循環となって、景気を低迷させ続けかねない、というのが、近年の定説である。(検定教科書でも、そういう立場である。)\n2002年に政府から「総合デフレ対策」が出るのは、おそらく上記のようなデフレ・スパイラルの不安があったのだろう。\n経済史としては、実際にデフレ・スパイラルという現象が起きているかはともかく、1999年ごろから日本政府はそう認識したようであり、2002年以前から既にデフレを止めようとする政策は行われていた。\n歴史的に実際、1999年以降の一時期、ゼロ金利政策(1999年)、量的緩和政策(2001年)などといったインフレ誘導的な政策が行われた[1]。\n「デフレ・スパイラル」の検定教科書で説明しているような意味は、本当はウソかもしれず、単に2002年の「総合デフレ対策」のための政府見解なだけでしかないかもしれない。\n2000年以降、世間での通説では「デフレを放置しつづけると不況が深刻化」みたいなのがデフレ・スパイラルの定義とされ、その実例が平成の長期不況だといわれるが、しかしそもそも令和の2020年代から振り返ると、平成の日本経済は、デフレ(物価下落)というよりかはディスインフレ(物価が上昇してない)というのが統計的な事実であった。\n実際、内閣府の統計で西暦2000年を基準とした内閣府の消費者物価指数の統計を見ると、1992年以降から2010年まで100%±2%の程度を推移しつづけているのが実態である[2]。\nこういう分析は別にwikiのオリジナルではなく、たとえば大学1年レベルの普通の経済学の教科書でも(たとえば有斐閣(ゆうひかく)アルマの経済学シリーズ)、統計などをもとに、そもそも平成の日本経済が言われてるほどデフレでないことは普通に周知されている。(物価の基準を西暦何年に取るかによって物価指数の値は変わってしまうので一概には「デフレでないとは」言えない。)\n内閣府のサイトを信用するなら昭和の好況だといわれた1980年代(物価は80~95%)よりも、むしろ平成の100%台のほうが物価は高い。\nもちろん、第二次世界大戦の終わった戦後の復興期の日本でのインフレと比べれば平成には物価上昇率が低下またはゼロ付近になったが、しかし平成のそれは正確には「物価下落」(デフレ)ではなく「ディスインフレ」(非インフレ)というべきである。\nつまり、仮に平成の不況の原因が物価だとしても、それは「ディス・インフレによる不況」にすぎず、けっしてデフレ不況ではない。\nその他、ITメディアの経済記事でも似た分析があり、引用すると下記のように、\nと分析している。\nそして2013年になれば、日本は自民党の安部政権でインフレ誘導をし始めたので、もう2013年以降からの日本の不況はデフレとはあまり関係ない。\n平成の1990~2010年のこの時期、欧米の諸外国では物価指数がプラス気味でインフレ傾向だったので、もしかしたら「欧米先進国と比べて物価指数が低ければ不況になるのでは」という仮説はあるかもしれないが、しかしそれは「デフレ・スパイラル」の定義とされる物価の下落がさらなる次の物価下落と不況を呼ぶという理論とは何の関係もない。\nこのように、「デフレ・スパイラル」はあまり現実の長期統計を説明できていない。\n1990年以前、経済学においてインフレ不況の理論はあったが、デフレ不況の理論は乏しかった。なので、学問の改革をしようと経済学者たちはデフレ不況の理論を1990年代に精力的に研究して構築した。それ自体は素晴らしい研究業績である。戦前の日本での松方デフレやらの研究などもこの時代に進んだようであり、多くの学問的な業績が出ただろう。\nしかしそれは、けっしてその研究当時の平成が長期デフレであったことの証拠にはならない。\nたとえば明治時代の日本では文明開化によって欧米の考古学を導入したので古代日本の研究が進んだが、しかし明治時代は縄文時代ではない。犯罪心理学の研究者は犯罪者ではないし、推理小説の作家も犯罪者ではない。そもそも、江戸時代に国学者の本居宣長(もとおり のりなが)は平安時代の文学を研究したが、しかし江戸時代は平安時代でもない。\nなのに、なぜ平成の経済学者がデフレ研究をすると、それだけで「平成時代はデフレ」という証拠として採用するのか、意味不明な思考回路である。\n2002年に日本政府は(日本は)「デフレ・スパイラルに陥っている」と発表したといわれ、不況打開のための「総合デフレ対策」を発表した[4]。しかし、前提となるその政府の分析は上述コラムのように、2020年代の現代から見ると少し疑問がある。\nたしかに1997年から見れば、デフレ傾向ではある。1997年から2002年まで、物価指数は減少を続けているし、97年の拓銀の破綻や98年の長銀の破綻で日本経済は不況ムードになった。\nリーマンショック後の2009年の民主党政権の誕生時、民主党政府は日本経済が「デフレ」状況にあると宣言した。\n当時、一部のマスコミ報道では、あたかも対立政党の自民党は日本経済がデフレであることをかたくなに認めなかったように一部では報道されたが、しかしそれは上述の2002年の「総合デフレ対策」を考えれば分かるように、まちがった報道であろう。\nまた、内閣府の統計を見ると、(リーマンショック後の時期である)2008年と2009年は物価指数が100%以上である(つまり、基準年よりもインフレ)。\nそもそも本来、経済学的には「デフレ・スパイラル」という言葉じたいには、不況か好況かは関係なく(どちらでもいい)、現在のデフレによって未来のデフレの程度が強化される現象のことが「デフレ・スパイラル」の本来の意味である可能性すらある。(※ 参考文献: 『小室直樹の経済原論』、初版は1998年11月、)。ただし、『小室直樹の経済原論』が出た当時、日本が不況だったので、小室はその原因をデフレに求めているが。\n実際、小室の書籍で「インフレ・スパイラル」という表現も使われている。経済現象では、しばしば、賃金と物価がともに上昇しつづける現象がよく起こる。小室はそれを、典型的な「インフレ・スパイラル」の例だと述べている。[5]。\nなお、日本だけでなく米国でも、インフレ・スパイラル inflationary spiral と言う用語がスタグフレーションなどの議論で使われるツイッター Paul Krugman@paulkrugman の引用先の経済学者ブラッドフォード・デロング(カリフォルニア大学バークレー校教授)のツイート発言 。なお出典のひとつのクルーグマンは2008年のノーベル経済学者。どうもインフレ・スパイラルを無視してデフレ・スパイラルを語る論法は、日本でしか通用しないガラパゴスな経済認識のようだ。\n物価が上がるから賃金が上がるのか、それとも賃金が上がるから物価が上がるのか、よく分からないが、つまり、どっちが先に上がったのかは不明だが、ともかく、\nというような現象がよくあり、こういうのを小室は「インフレ・スパイラル」の一例とした。\nデフレ・スパイラルは、上述のようなインフレ・スパイラルを逆にしたものにすぎない。\nさて、さきほどの\nを見ても、物価の変動と賃金の変動のどちらが先かが不明である。このため、物価と賃金のどちらが原因なのか、どちらが結果なのか、不明である。\nつまり、物価と賃金のように相互作用するものは、「→」のような矢印を使って論理関係を記述するのが困難である。\nしかし、経済学は、このような現象であっても、普通に各種の数値を計算することができることが知られている。\n数学的には不正確な推論だが、\n小室は、たとえば経済学の公式で\nという昔からよく使われる公式を例に、下記のように説明している。\nこの公式は単なる一次方程式であるのにかかわらず、この数式を見るだけで、なんと国民所得と消費の関係について、仮に投資Iを一定値だとすれば、\n数学的には「消費が1上がると、それから国民所得も1上がる」または「国民所得が1上がると消費が1上がる」の片方でしかないが、しかしこれを小室は拡張して、数値的には不正確だが、スパイラル「消費が上がると国民所得も上がり、それによってまた消費も上がる」ことのモデルとした。\n数学的にはまったく不正確な計算だが、しかし実際の20世紀のケインズ政策的な公共投資がこれと似たような考え方で行われてきたので(ただし消費Cではなく投資Iが駆動源だが)、まったくのデタラメな推論とは言えないし、歴史的にはニューディール政策など多くのケインズ的な政策に実例すらある。(※ どうしても数学的な厳密性にこだわるなら、記号をイコール「=」ではなく別の記号に変えるなどの工夫が必要かもしれない。ただし、小室はそのような工夫はしてない。本ページでも説明の単純化のため、小室と同様の一次方程式の記法で表現する事とする。)\n小室の著作では紹介されていないが、経済学では下記の式が昔から知られている。\nすでに経済学者サムエルソンが、所得Yと消費Cを数列の方程式にして、計算を行っている。\nサムエルソンなどにより、式\nただし、\nが提唱されている。これは数列の連立方程式である。計算は頑張れば高校レベルでも計算可能だが(数列の式なので)、高校生には時間の節約のため計算の説明は省略する(詳しくはwikipedia『w:乗数・加速度モデル』を参照)。これをサムエルソンの「乗数・加速度モデル」という。\n小室はおそらくサムエルソンの式を参考にしたのだろう。しかし、スパイラルの説明では、小室はサムエルソンの式を紹介していない。\n代わりに小室は、 単純な一次方程式\nを使い、近似的な記法とみなした推論が必要だが、単純な方程式を使うことで、なんと相互関係も記述できてしまうとした[6]。(※ ただし、数値の具体的な算出には役立たない。)\n小室によれば、国民所得の上昇を好景気だとすれば、\n「Y=C+I」という式だけで、\nというスパイラルを表せたことになる[7]としている。\nところで、我々は物価を考察しているのであった。小室は特に物価の公式は例示してはいないが、本wikiで説明のために物価の式を非常に大雑把だが近似式であらわせば、\nとでもなるだろう(だと仮定する。実際はもっと複雑だが)。\nすると、これは一次方程式だから、上述の議論と同様に、スパイラルが起きることになる。\n小室は物価と賃金のあいだにもスパイラルがあるとして、それを「物価・賃金スパイラル」と呼んでいる[8]。\nさきほどの議論では、物価がインフレかデフレかの議論はしていないことに注目せよ。(なお、小室の参考文献の該当ページ P.369 ではインフレを例に説明している。)\nさて、日本の1980年代あたりまでのバブル経済では、\n物価の上昇と(インフレ)、国民所得の上昇がおおむね連動していた。つまり\nというスパイラルである。\nなので、つまりデフレが起きれば、インフレの場合の逆の結果が起きるだろうという予想が、(バブル崩壊後の1990年代では)自然であろう。\nすると、つまりバブル崩壊後の経済予想として、\nという予想が自然である。これがデフレ・スパイラルの一例である。\n小室は、参考文献として1992年の評論家・宮崎義一(みやざき よしかず)の『複合不況』をあげているが、しかし宮崎は「複合不況」という表現を用いている。(「デフレ・スパイラル」ではない)\nなお、小室は経済学はフィードバックを伴うから実験できないと述べているが[9]、しかし、それは間違いだろう。なぜなら、たとえば工業高校の電気系学科で習うフィードバック回路など、普通に実験ができるので、この理由は間違いだろう。\n小室は述べていないが、量子力学では実験そのものが原理的に誤差を引きおこす現象が知られているが(「不確定性原理」)、しかし量子力学のそれはフィードバックとは呼ばずに普通は「擾乱」(じょうらん)などと言う。ただし量子力学の擾乱は、原子や電子などの微細なもの(物理学におけるミクロ)に対する現象であるから、マクロ経済のようなマクロ解析に量子論の「擾乱」を当てはめるのも間違いだろう。\nどちらにせよ、小室の「フィードバック」を原因とする説明は間違いであろう。\nさて、話題をスパイラルに戻すと、ともかく、デフレ・スパイラルの対義語として「インフレ・スパイラル」という用語も1990年代の過去に小室の書籍などで提唱されており、このインフレ・スパイラルによって、1989年の不動産バブル崩壊までの物価上昇を説明する言説なども1990年代には あった。たとえば、\nとか\nのような現象を「インフレ・スパイラル」と呼んでいたわけだ。\nなお、小室の書籍では、バブルの物価高については、地価ではなく一般的に「価格」という表現を用いて、\nと表現している[10]。\nデフレ・スパイラルの本来の意味は、上記の土地と不動産屋の例の逆のような現象が起きるだろうという予想であり、つまり、\nというような予想が、本来の「デフレ・スパイラル」の意味であった。\nこの本来の「インフレ・スパイラル」や「デフレ・スパイラル」の意味のほうが、経済学的には、不況かどうかの主観的な判断もなく客観的であり、そのため数式にもしやすく、本来の意味のほうが数理的にも経済学的にも望ましいかもしれない。\nしかし、デフレ・スパイラルの用語が流行した1990年代、日本で不況が深刻化したので、当時の経済評論で、不況と本来の意味の「デフレ・スパイラル」を関連させる言説が流行していくうちに、いつしか世間では、「デフレ・スパイラル」の意味が変わり、不況とデフレが同時進行することに意味が変わっていった。\nなので、検定教科書などにある「デフレ・スパイラル」の意味は、経済数学などでは、あまり意味も無い。\nサムエルソンの「乗数・加速度モデル」と、小室の著作にかかれた「インフレ・スパイラル」と「デフレ・スパイラル」の関係を知っていれば、つまりデフレ・スパイラル論は、インフレなどの研究に活用された「乗数・加速度モデル」の手法および成果を近似的に用いてデフレを研究・制御・記述などをしようという手法であろう。\n日本では1990年代には経済学者の小室直樹などがデフレ・スパイラルとインフレ・スパイラルを本来の意味で使っていたが、小室の痛烈なマスコミ批判によって小室はテレビなどでは取り上げられず不遇であり、テレビの経済番組やその手下たちの経済評論では、表面的に「デフレ・スパイラル」の経済学的な原理を知らない評論家たちによって流行語として取り上げられるようになっていたのである。また、世間の大衆は、サムエルソンの公式のような数学の連立の数列方程式などを理解しないので、本来の意味では理解できない。\n世間の大衆は、1990年代当時の経済学者の書いた本など読まないので「デフレ・スパイラル」の本来の意味など確認しようともしないので、意味が修正されずに、現在まで続いている。\n日本のセンター試験や大学入試などに出てくるような経済史の暗記などは、本来の経済学とは全くの別物である。本来の経済学は、微分積分などを使って、経済を数式で表すことにより、政策などのために、投資額や予算などの具体的な金額を算出するための理論体系が経済学である。\nさて、デフレになると、商品が安く買えるので、貯金のある人にとっては有利である。(なお、インフレは、貯金の価値を減らすのであった。このように、インフレとデフレは、貯金の価値に対して、逆に作用する。)\nさて、貯金のない人にとっては、これからオカネを稼がないといけないが、デフレになると、せっかくオカネを稼ぐために働いても、すでに貯金のある人と同じ金額を貯めるまでに、より長い期間が必要である。\nたとえば、かりに、日本のサラリーマン平均年収1000万円のインフレ時代があったとして、その後、デフレによって、平均年収100万円になったとしよう。(じっさいには、このような急激なデフレは起きないのが普通。あくまで、わかりやすくする目的のため、急激な例で説明している。)\nこの条件の場合、むかしは、1000万円を1年で稼げたことになる。しかし、デフレ後だと10年間、働き続けないといけない。\nデフレが起きても、けっして、それまでの貯金が消失するわけではない。なので、年収1000万円時代の人の貯金が消えるわけではない。\nこのように、貯金の無い人にとって、デフレは不利である。(なお、インフレなら、貯金のない人には有利なのである。)\n(※ 範囲外:)ケインズ経済学の元ネタでもある経済学者ケインズは、緩やかなインフレを、金利生活者にとっての「安楽死」と表現した[11]。結局、インフレでもデフレでも、誰かが不利益をこうむる(少なくとも一時的には)。2010年以降、インフレを求める意見は市井(しせい)に多いが、しかしケインズ経済学を根拠にインフレ誘導政策を要求するなら、それは「安楽死」である自覚ぐらいはもってもらいたいものである。さて、ケインズ自身は高齢者社会保障にはあまり関心は無かっただろうが、じつは年金受給者は「金利生活者」のようなものでもある[12]。あるいは、仮に年金自身は物価に対して中立的だと仮定しても(つまり、年金を「金利」とみなすべきではないとしても)、それでも一般的に高齢者は若者に比べて貯蓄が多いの実際であり、なのでよく経済評論ではインフレは高齢者に不利だとも言われる。いちおう、日本の年金は「マクロ経済スライド」といって、インフレの場合は年金給付額もそのぶん多くなるのだが、その負担は若者に行っているわけである。ともかく、誰も負担しない物価政策など、ありえない。ケインズ風に言うなら、どの政策でも誰かを「安楽死」させるわけだ。\n一般に、金利生活者や年金生活者、あるいは貨幣として多額の貯蓄を持った生活者は、インフレは望まない傾向があるとされる[13]。一方、企業者や経営者はデフレやそれに伴う不況を嫌う傾向があるとされ\n1973年の第一次石油危機にインフレになり、また1979年の第二次石油危機のときもインフレになり、1980年代後半から80年代末ごろまでインフレになっただ。しかし、1990年頃のバブル崩壊後からは、ずっとデフレ傾向が続いている。\n2016年の現在、日本では、デフレが不況を深刻化・長期化させる原因だろうと考えられており、そのため政府は、財政政策などによって、物価上昇率2%ていどの、ゆるやかな物価上昇率のインフレを目指してると思われている。(※ 清水書院の検定教科書『高等学校 新政治・経済』など、いくつかの教科書出版社の検定教科書に、そういう見解がある。)\nこのように、政策によって、望ましいインフレ率を実現しようということをインフレ・ターゲットという。\n日本では、デフレからの脱却という意味でインフレ・ターゲットという意味が使われるが、一方、発展途上国では、急激なインフレによる経済不安のため、インフレ率を抑えようという意味でも、「インフレ・ターゲット」という単語が用いられる。\n第二次大戦前のドイツで起きたような急激なインフレのように、短期間で物価が大幅に上昇する急激なインフレをハイパー・インフレ(hyper inflation)という。\nいっぽう、年率数パーセントていどの持続的なインフレをクリーピング・インフレ(creeping inflation)という。クリーピングとは、「しのびよる」という意味。\n物価政策による景気刺激策は、国民の経済への「勘違い」を利用しています。\nケインズ経済学に「貨幣錯覚」という概念があります。これは、多くの消費者は、実質値ではなく名目値で判断するという、経済学の経験則です。\n20世紀の第二次世界大戦後の時代、欧米の多くの国で、工業化などによる物価の上昇にもかかわらず、土木公共事業などによってり仕事を強制的につくる事で、景気を刺激して向上させる事により(いわゆる「ケインズ政策」 )、結果的に、物価上昇と景気上昇とを20世紀後半は連動させてきた。\nそのため21世紀の現代にも、物価と景気を混同する勘違いをしている者が、どこの国にも一定の割合でいる。\nしかし、このように物価上昇と景気を連動させるような経済政策の欠陥として、\nという問題点がある。\nなお、「工業化」などによる発展という理念が、土木公共事業などの公共投資を正当化するための口実であった。そして、工業化による経済発展による税収増加が、公共投資したぶんの金額を回収するための手段でもあった。\nなので、もし、その国が、工業化のための公共投資を行ったのに、政府が期待したほどには税収が増えなかった場合に、もはや公共事業などの景気刺激策を政府が続けるのが困難になり、不景気に陥りかねない。\nそれでも景気刺激などのための公共事業や補助金政策などを減らさずに景気刺激策を続けようとする場合、政府は、その景気刺激策のための資金をあつめる必要があり、税金を増やすか、国債を追加発行する必要がある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%89%A9%E4%BE%A1%E3%81%AE%E5%8B%95%E3%81%8D"} {"text": "国内総生産(GDP)や国民総生産(GNP)では、市場(労働市場も含む)で商取引していないものの価値は、測れないのである。\n人間関係とか人脈とかの価値は、一般に、GDP・GNPなどでは測れない。親子愛とか家族愛とかも、GDPなどでは測りづらい。また、ボランティアの価値も、GDPなどでは、測りづらい。家事労働や家庭菜園などの価値も、GDPなどでは測れない。\n家事労働は、確実に労働であるが、しかし市場化してないのでGDP・GNPでは家事労働のぶんを算出できないのである。\nまた、土地の価値も、その年はその土地を保有し続けて、土地を売買してなければ、土地の価値もGDPなどでは測りづらい。\n人間関係とか家族愛とかを数値的に算出するのは困難であるし、じっさいに経済学的には算出されていない。\nしかし、土地の価値を経済的に算出することは、不動産市場などでの土地価格などを参考にすればよいので、経済学的には、土地の価格の算出は比較的簡単である。\nGDPのように、その期間の商取引によって測れる経済価値をフロー(flow)という。「フロー」とは「流れ」という意味。\n一方、土地の価格のように、その期間は商取引されてなくても、明らかに経済的価値が存在してる資産の経済価値をストック(stock)という。ストックとは、「蓄え」(たくわえ)という意味。\n工場設備などの生産設備も、ストックとして見なされる。\nまた、ある国の保有する土地、道路、設備など、その国のストックを国富(こくふ、national wealth[1])という。\n国内総生産(GDP)は、一国内で一定期間(通常は1年)内に生産された総生産額(サービス業なども含む精算額)から、原材料費や半製品(はんせいひん)などの中間投入額(中間生産物の価額)を差し引いて算出されたものである。\n海外にいる日本国民の生産労働の価額は、日本のGDPには含まれない。なぜなら、海外は「国内」ではないから。\nまた、日本国内にいる外国人の生産労働の価額は、日本のGDPに含まれる。\n国民総生産(GNP)は、ある一国の国民全員の、一定期間(通常は1年)内に生産された総生産額(サービス業なども含む精算額)から、原材料費や半製品(はんせいひん)などの中間投入額(中間生産物の価額)を差し引いて算出されたものである。\n海外にいる日本国民の生産労働の価額も、日本のGNPに含まれる。\n一方、国内にいる外国人の労働の価額は、GNPに含まれない。\n機械設備など設備は、しだいに老朽化していく。しかし、その設備を売買しないかぎり、GDPやGNPには計上されない。\nGDP・GNPだけだと、老朽化した設備による損失を考えておらず、一国の経済力を過剰に算出してしまい、不合理である。\nなので、老朽化した設備の、老朽のていどの価額を、差し引く必要がある。\n機械設備など設備のことを「固定資本」という。そして、設備の老朽化の価額を、固定資本減耗(こていしほん げんもう)または減価償却費(げんかしょうきゃくひ)という。\n国民総所得(GNP)から固定資本減耗を差し引いたものを、国民純生産(NNP, net national product)という。\n同様に、国内総所得(GDP)から固定資本減耗を差し引いたものを国内純生産(NDP, net domestic product)という。\n国民所得(NI, national income)は、国民純生産から間接税を引き、国民への補助金を加える。\n国民所得には、生産国民所得、分配国民所得、支出国民所得という三つの面がある。これら3つの面は、同じ対象を、ことなった側面から見ただけにすぎない。\n第一次産業による国民所得、第二次産業による国民所得、第三次産業による国民所得の合計が、生産国民所得である(話を簡単化するため、海外所得は考えないでおく)。\n雇用者報酬、財産所得、企業所得の3つの合計が、分配国民所得である。\n経常海外余剰、消費、投資の3つの合計が、支出国民所得である。\n国民所得の計算のおおもとに必要なのはGDPであった。GDPは、産業分類の立場から計算しようが、国内の労働者の給料の合計から計算しようが、企業など日本中の組織からの出入りの金額の合計から計算しようが、結果的にGDPの計算結果は同じである。\nなので、国民所得も、\nである(この等式を三面等価の原則という)。\nある期間での経済規模の拡大の大きさのことを経済成長という。\n経済成長の計り方は、通常、国内総生産(GDP)を経済成長と見なす。\nそして、国内総生産(GDP)の一定期間(通常は1年)での変動率を経済成長率という。\nつまり、経済成長率とは、次の式によって定義(ていぎ)される。\nなお、上の式で、\nさて、もしインフレによって物価が年率10%上昇すれば、何の生産ノウハウの改善が無くても、経済成長率が10%上昇してしまう事になりかねない。それでは「経済成長」としては不合理なので、経済成長率の算出のさい、物価の変動分は修正する必要がある。\nそこで、経済成長の計算でGDPを使うさい、物価の上昇ぶんを差し引いた実質GDPを用いる。\n実質GDPを用いて、実質経済成長率を計算する。\n一方、物価変動ぶんを考慮しないで単純計算で算出しただけのGDPを「名目GDP」(めいもくジーディーピー)といい、物価変動を考慮せずに名目GDPで算出しただけの経済成長率(単純計算で算出しただけの経済成長率)を「名目経済成長率」という。\n名目GDPと実質GDPの比率をGDPデフレーターという(※ 検定教科書の範囲内。第一学習者の教科書に記述あり)。通常、\nで、これらの関係式は定義される(※「/」は分数。「分子/分母」の意味)。\n係数の「100」は、基準値を100とするため。\nGDPでは家事労働やら家族愛やらボランティアなどを測れない。\nそこで、家事労働をプラス要因として、環境汚染などをマイナス要因として、GDPに加えて「国民純福祉」(net national welfare)なるものが考えられているが、具体的な金額の算出が困難であり、定着していない。\n同様に、GDPまたはGNPから、公害など環境汚染などの費用を差し引いたものとして「グリーンGDP」などが考えられてるが、算出が困難なため、定着していない。\n景気循環は需給の不均衡によって起こる。景気変動には、好況、後退、不況、回復という四つの局面がある。\n景気循環のパターンとして、つぎの4種類の循環が有名である。以下のそれぞれの循環パターンは、循環の年月の長さが異なる。\n周期が約40ヶ月、企業の在庫投資の変動が原因\n周期が7年〜10年、企業の設備投資の変動が原因\n15年〜25年ていど、建築投資の変動が原因\n50年〜60年ていど、大規模な技術革新による循環\nこのうち、とくに企業の設備投資の影響が、景気への影響が大きいので、つまりジュグラー循環は景気への影響が大きい。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%88%90%E9%95%B7%E3%81%A8%E6%99%AF%E6%B0%97%E5%A4%89%E5%8B%95"} {"text": "ある銀行Aに、預金者が預金を預けたとしよう。\n銀行は、その預金をもとに、預金の一部を、企業などに貸出しなどを行って、利息を得て、銀行が儲けるのが、銀行の仕事である。\nさて、銀行Aが貸出しなどをする際にも、貸出し相手が預金の口座をもってる銀行Bに、お金を振り込むことになる。\nすると、その銀行Bも、また預金者の口座にお金が振り込まれるので、その振り込まれたお金を使って、貸出しの業務を行うことができる。\nなので、今度は、銀行Bが、預金の一部を使って、べつの銀行Cにお金を貸せることになる。\n同様に、銀行Cが預金の一部を使って銀行Dにお金を貸せて、さらに銀行Dが預金の一部を使って銀行Eにお金を貸せる。\nこうして、最終的に社会では、最初に預金者があずけた金額の何倍ものお金が動くことになる。\nこれを信用創造(しんよう そうぞう)という。\n信用創造の金額は、預金準備率から計算できる。預金準備率とは、銀行が預金者からの引き出しに備えるため、預金の一部を民間には貸し出さずに日本銀行に預けておかなければならない割合いのこと。\n1円玉や10円玉のように、金属として存在しているお金を硬貨(こうか)という。一方、千円札や1万円札のように、紙として存在しているお金を貨幣(かへい)という。\nなお、紙幣は日本銀行が発行しており、硬貨は政府が発行している。\n硬貨と貨幣を合わせて、現金通貨という。つまり通貨とは、実際に、現物として存在しているお金である。\nしかし、銀行の普通預金を用いた振込み決済のように、預金も、お金のような決済機能があるので、銀行預金を預金通貨という。\n普通預金のほか、小切手などの決済に用いる当座預金(とうざ よきん、英: current deposit[1])も、預金通貨に含める。\n当座預金とは、小切手の振り出しのさいに引き落される預金口座であり、おもに企業などが用いる。なお、当座預金には利子がつかない。\n定期預金は、一定期間は取り引きできないため、定期預金は預金通貨には含めない。\n小切手は、それを受け取った直後から、銀行で、その額面の金額を換金できる。\n一方、手形(てがた)は、原則として期日が来るまで、換金できない。どうしても期日前に手形を換金する場合は、期日までの利子のぶんを割り引いた金額で、その手形を銀行に買い取ってもらうことになる(これを手形割引(てがた わりびき)という)。\nつまり、銀行の業務には、手形割引という業務もある。\n手形や小切手を取り引きする口座には、当座預金の口座が用いられる。\n日本銀行の通常の仕事は、大きく分けると、次の3つ。\n日本国における日本銀行のように、ある国家で、その国の金融の中枢になる特別な銀行のことを中央銀行という。\n日本銀行は、物価などが安定するように、金融市場に流通する金銭の量を調節したりすることで、金融を調節している。\n日本銀行は金融市場で国債や手形を売買することで、短期金融市場における資金の総量を調節している(これを公開市場操作(open market operaton, オープン・マーケット・オペレーション)という)。\n(なお、短期金融市場とは、1年以内の期間の資金を取引する市場のことであり、具体的にはコール市場や手形市場など。コール市場とは、市中銀行どうしが資金を融通しあう市場。なお「コールレート」とは、そのコール市場の利率のこと。一方、1年以上の資金を取引する市場は、長期金融市場という。)\n金融市場に資金を増やしたい場合は、一般の金融機関から国債などを日銀が購入する(資金供給オペレーション、買いオペレーション、通称:買いオペ)ことで、金融機関が日銀にもつ預金口座の残高を増加させることで、金融市場に資金を増やす。\nこうして市場に資金が増えた結果、金融機関が資金を運用しようと市場に貸し出すので、金融機関が企業などに貸し出すさいの金利は低下しやすい。金利が下れば、そのぶん、これからする借金の利息の負担が軽くなる。\nのような、流れになる。\n同様に、金融市場に国債などを売却すると(資金吸収オペレーション、売りオペレーション、通称:売りオペ)、金利は上昇しやすい。\nまとめると、\nである。\n近年の日本では、日本銀行の金融政策は、原則として公開市場操作によることが通例になっており、一方、預金準備率の操作や公定歩合操作は行われなくなっている。\n市中銀行は、その預金の一定割合(預金準備率)を、日本銀行に預け入れることになっている。\nそこで、日本銀行が預金準備率を変更すれば、結果的に市中銀行に影響を与えることができ、市場の資金に影響を与えられる。\nただし、1991年以来、日本では預金準備率は変更されていない。\nちなみに、預金準備率を上げると、市中金融機関が企業などに貸し出せる資金量が減るので、景気を沈静化させる。\nなので、好況のときに、預金準備率を上げるのが通説だった。\n一方、預金準備率を下げると、市中銀行はより多くの資金を企業などに貸し出せるので、景気を底上げする。\nなので、不況のときは、預金準備率を下げるのが通説だった。\n公定歩合(こうていぶあい)とは、市中の金融機関が日銀から資金を借りるときの金利のこと。\nかつて、市中銀行の預金金利が公定歩合に連動していたが、規制改革により1994年に金利が自由化され、公定歩合操作の市場への影響力は落ちた。\nまた、2006年より、公定歩合の名称が「基準割引率および基準貸付利率」に変更されている。\n高度経済成長期ごろまで、日本の金融機関は、金利や業務が、大蔵省などにより細かく規制されていた。\nまた、銀行・証券会社・保険会社の業務が、独占禁止法などにより、明確に分離されていた。\nこのような金融規制が競争を制限しているとされ、「護送船団方式」と言われた。(第二次大戦のころ、海軍などの船団の中で、もっとも速度の遅い船舶の速度にあわせて、他の船団の速度を下げる手法があった。それになぞらえて、金融行政などにおいて競争を避ける政策を、こう呼んだ。)\nしかし、1996年に、政府(橋本内閣)から、金融の規制緩和の構想「日本版金融ビッグバン」が打ち出され、「フリー、フェア、グローバル」という改革方針のスローガンが主張された。日本版金融ビッグバンは、イギリスが1980年代のサッチャー政権で行った制度改革が手本になっている。\nそして1997年の独占禁止法の改正により、ほかの会社の株式を所有することを主要業務とする持ち株会社(もちかぶかいしゃ)が可能になり、さらに銀行・証券・保険を総合的に行える金融持ち株会社(きんゆう もちかぶ かいしゃ)が可能になった。その結果、銀行でも保険商品や投資信託などが扱えるようになった。\nまた、大蔵省から金融管理の部門が分離し、金融監督庁が設置され、2000年に金融庁になった。\nまた、このような規制緩和により、2000〜2010年の一時期、アメリカなどの銀行が日本に参入した。\n少なくとも2000年なかば頃から、インターネットなどで証券の売買ができるようになっている。\n銀行ビジネスに、電機メーカーのSONYや(ソニー銀行)、コンビニのセブンイレブンが(セブン銀行)、参入した。\nかりに銀行が破綻したとしても、かつて預金の全額が保護される制度だったが、近年では1000万円までしか保護されなくなった。このことをペイオフ(pay off)という。\nペイオフが解禁・解除されてる状態では、預金が1000万円とその利息までしか保護されない。ペイオフが凍結されてる状態だと、一般に、鍍金が全額保護される。\n2005年からペイオフの凍結が解除されており、現在もペイオフ解禁中である。つまり、2005年からは、預金が1000万円までしか保護されない。\nこのため、預金者は自己責任で、預金先の金融機関の経営状況を判断する必要がある。\n2010年に、日本振興銀行(にほんしんこうぎんこう)が破綻し、日本で初めてペイオフが発動した。(※ 現代社会の教科書に、日本振興銀行の破綻の件が書いてある。)\n金銭の貸し借りにおいて、利息をつけて返すように契約する事は合法だが、利息制限法や出資取締法(しゅっし とりしまりほう)などにより、利率の上限が法的に規制されている。経済的に弱い立場にあるだろう借り主に、高利貸しが暴利で貸すことを規制するため、利息制限法や出資取締法などで規制している。\nまた、利息制限法では、金銭の貸借において、借り主が払う元本以外の礼金・手数料などの名目の金銭は、すべて利息と見なされる、というように規制している。さらに利息制限法では、返済がおくれたときの違約金についても、1.46倍を限度とする制限をおいている。(※ 数値は覚えなくてよい。)\n利息制限法は、貸し主がそれに違反しても、刑事罰をともなわない、民事の法律である。いっぽう、出資取締法は、貸し主がそれに違反すると、刑事罰を受ける。\nなお、2006年まで出資取締法では、利率の上限を29.2%としていた。(※ 数値は覚えなくてよい。)\nこのため、利息制限法と出資取締法の上限金利が大きく違っており、そのあいだの金利は民法では違法だが出資取締法では合法であることから、利息制限法と出資取締法のあいだの金利のことを世間一般的にグレーゾーン金利などと言った。\nこのため、利息制限法をこえた部分の利息を貸し主が借り主に請求することが野放しになっていた。そのため、利息制限法をこえた利率の支払いをしてしまったら、その弁済は有効とみなされ、借り主は返還を貸し主に請求できないでいた。\nしかし、2006年に出資取締法が改正され、出資取締法の上限が20%に引き下げられた。(利息制限法の10万円未満の場合の最高利率と同じ数値) また、借り主は最高利率をこえた利息の支払いを拒絶できるように法改正が行われた。\nまた、貸金業法が2006年に改正され、貸金業者からの借入総額を年収の3分の1までに規制する総量規制も行われるようになり、消費者はそれ以上(= 年収の3分の1以上)の借り入れができなくなった(2010年に全面実施)。\n参考: \n日本銀行は上場しており、東証ジャスダック上場銘柄である。(東証1部銘柄ではない。) ただし政府が日本銀行の株式の55%を取得しているため、民間企業が日銀を独占できないようになっている。(※ 2017年センター試験に出題。知らなくても解けるようになっている。)\nアメリカの中央銀行はFRB(連邦準備制度理事会)である。\nEUの中央銀行はECB(ヨーロッパ中央銀行)である。\nイギリスの中央銀行はイングランド銀行である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E3%81%A8%E9%87%91%E8%9E%8D"} {"text": "第二次大戦後の日本経済の民主化政策の一つとして、1945年から1947年にかけて財閥(ざいばつ)が解体された。\nこの財閥解体にともない、持株会社が禁止された。\n戦後の日本経済の民主化政策では、\n農地改革、\n財閥解体、\n労働三法の制定、\nなどの経済民主化が行なわれた。\n戦後は、戦災によって物資が不足してることもあり、政府は、石炭や鉄鋼などの基幹産業に重点的に投資する傾斜生産方式(けいしゃ せいさんほうしき)を採用した。\nまた、アメリカ合衆国が日本の復興のための資金援助として、ガリオア・エロアという資金援助を行った。\nまた、復興金融公庫が復金債を発行した。しかし、この復金債は、今でいうところの、いわゆる「赤字国債」である。\n復金債は、日銀が引き受けた。\n第二次世界大戦の終戦直後、日本は、はげしいインフレになった。\nこの終戦直後のインフレの原因について、直接の原因は、復金債を日銀が引き受けたことによる市場への通貨増発が原因だろうと考えられている。\nインフレを解決するため、1948年、GHQは経済安定9原則を指令し、また、アメリカの銀行家ドッジが日本に派遣され、翌1949年にはドッジ=ラインと呼ばれる財政引き締め政策が日本で行われ、その結果、復興債の発行禁止、1ドル=360円の単一為替レート、などの政策が行われた。\nそのドッジラインの結果、インフレは収まったものの、今度は逆に、デフレによる不況(安定不況)が到来した。物価が安定するなかでの恐慌という意味で、このドッジラインによる不況は「安定恐慌」と言われる。\n(なお、1949年以降、シャウプ勧告によって、税制が直接税中心になった。)\nしかし1950年、朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ軍を中心とする連合軍からの特需(とくじゅ)が発生し、日本は不況を脱した。\nそして1956年の『経済白書』には「もはや戦後ではない」と記述されるまでに景気回復した。\n\n1954(昭和29)年から1973(昭和48)年まで、経済成長率が年平均10%ほどという高い率で、景気後退年でも5%ていど以上という高い水準だった。\nそのため、1954年から1973年ごろまでを「高度経済成長期」という。\n1968年には日本のGNPが旧・西ドイツを抜き、アメリカについで日本が世界の資本主義国でGNP第2位になった。\n高度経済成長期の好景気としては1954〜57年の神武景気、1958〜61年の岩戸景気、1962〜64年のオリンピック景気、1965〜70年の、いざなぎ景気、1972〜73年の列島改造ブームなどがある。\n神武景気、岩戸景気、オリンピック景気などの高度経済成長前半期の好景気のころ、外国からの輸入が増加した。そのため、国際収支が悪化した(つまり、ドル不足になった)。\nそして、政府が国際収支を回復させるために、やむなく景気を抑制しなければならない、という事態になった。\nこのように国際収支が、景気を制限する要因となり、「国際収支の天井(てんじょう)」と言われた。\nなお、その後、経済成長が進展するにつれて、輸出が増えていき、しだいに国際収支は改善されていった。\nまた、1ドル=360円の固定レートが外国にとっては日本円が割安であり、そのことが日本からの輸出に有利だったのだろうと、通説では考えられている。\nまた、高度成長期に、企業による設備投資が進み、工業化が進んだ。\nそのような企業の設備投資の資金源には、銀行から貸し出された資金が使われた。\nこの高度成長のころから、太平洋ベルトに工場が集積していった。「投資が投資を呼ぶ」と言われるほど、設備投資が盛んだった(※ 現代社会の検定教科書に、「投資が投資を呼ぶ」の記述あり)。\nまた、農村出身の若者が、集団就職で、都会に移住した。通説では、高度成長の原因のひとつは、教育の普及により勤勉で良質な労働力が供給されたことが理由だろう、と言われている。\n一方、しだいに都市部で住宅不足などが起こりはじめ、渋滞や過密化などが起こるようになった。\nなお、この当時の就職しはじめの20代前後の若者とは、戦後のベビーブームの時期(1947〜1949年)に生まれた「団塊(だんかい)の世代」である。この当時は、大学進学率が低く、中卒や高卒で就職するのが一般的であり、この世代の中卒・高卒の労働者は「金の卵」と言われた。\nさて、戦前は日本の製品は品質が低いと国際的には見なされていたが、高度成長のころから、日本企業が国際的な競争力をつけていった。\n一方、公害の問題が深刻化した。\nなお、石炭から石油へのエネルギー革命が、日本では、この高度成長期に起きた。\n1960年代、日本では貿易の自由化を求める声が高まり、それまでの輸入は政府の許可制だったが、1963年にGATT11条国(ガットじゅういちじょうこく、意味: 国際収支の悪化を理由には輸入数量の制限ができない国)になり1964年にIMF8条国(意味: 国際収支を理由には為替制限ができない)になった。(なお1964年は、東京オリンピック開催の年でもある)\nこのようにして、日本はIMFーGATT体制に入り、また、日本では貿易が自由化されていった。\n池田勇人(いけだ はやと)内閣が1960年に国民所得倍増計画を打ち出し、10年以内に所得を倍増するという目標を立てたが、10年を待たずに1967年に所得倍増が実現した(※ 第一学習社の政経の検定教科書、および各社の現代社会の検定教科書に「国民所得倍増計画」の記述あり)。\nまた、1972の田中角栄内閣の「日本列島改造論」により、日本全国に新幹線や高速道路などをはりめぐらせることが、さらに推進された。また都市の過密と地方の過疎を解決するためなどの理由もあり、郊外に大工場を移転するなど「国土の均衡ある発展」が目指された。\n第四次中東戦争にともない、1973年、アラブ諸国が石油を輸出制限し、また、OPEC(石油輸出国機構)が原油価格を大幅に引き上げ、それによって世界的に不況になった(これを第一次石油危機という)。(いわゆる「オイルショック」)\nそして、原油価格の上昇にともない、各国では物価が上がった。こうして世界の多くの国は、インフレーションと同時に不況が進展するというスタグフレーションになった。\n日本でも、石油危機により、「狂乱物価」といわれるほどに物価が上昇し、また、不況になった。\nそして1974年に、日本は戦後初めてのマイナス成長になった。\nこうして、日本での高度経済成長は終わり、日本は年率4〜6%成長ていどの安定成長期(中成長期)に入った。\nまた、1979年には(イラン革命により)第二次石油危機が起きた。(『高等学校世界史B/アメリカの覇権と冷戦の展開』)\nこのような資源問題もあり、日本では「省エネ」(省エネルギーのこと)、「省資源」が重視されるようになった。\n1980年代、日本の製造業では自動車や電気機械や半導体などが海外に多く輸出され、欧米諸国との貿易摩擦を引き起こした。(※範囲外: 日本からの「集中豪雨型輸出」などと呼ばれた。)\n貿易摩擦を起こすということは、裏を返すと、それだけ日本製品が欧米で普及してきたという事でもある。\n欧米では、日本製品は、この当時、高品質という認識になっていた。「メイド イン ジャパン」の製品は、欧米では、第二次大戦前は粗悪品の扱いだったが、1980年代には日本製の高品質製品の呼び名になっていた。\n1985年にG5(先進5カ国財務省・中央銀行総裁会議)はニューヨークのプラザホテルでの会合で、アメリカのドル高を是正するため、G5の米・英・仏・西独・日本は、協調して為替介入してドル高を是正することに合意した(これをプラザ合意という)。\n(※ レーガノミクスによる、双子の赤字による金利上昇が、ドル高の原因。ウィキブックス教科書『高等学校政治経済/経済/国際経済』を参照せよ。)\nこのプラザ合意により、円高・ドル安が急激に進み、そして日本は一時、円高不況になった。そして、日本の日本銀行・政府などは、円高不況で苦しむ大手製造業などの輸出産業を救済するために低金利政策などの金融緩和策(公定歩合の引き下げ)を行い、そして民間の資金が株式や土地購入などに使われ、1980年代末には、それら株・土地の市場価格が急上昇するバブルが起き「バブル経済」(bubble economy [1] )と呼ばれた(平成バブル)。(株の市場価格のことを株価(かぶか)という。土地の市場価格を地価という。つまり、1980年代末に、株価と地価が急上昇してバブル経済になった。)\nなお、この1980年代の頃、別荘地やスキー場、テーマパークなどのリゾート開発が盛んになった。一般の企業でも、80年代当時は、企業の設備投資が活発であり、消費者の消費意欲も旺盛であった(※ 過去のセンター試験で、こういう知識が問われている)。\nしかし1989年に、金融引き締め(日本銀行の段階的に数回にわたる公定歩合の引き上げ)や、土地取引の規制(大蔵省が不動産向け融資の総量規制をしたこと)などを切っ掛けに、1990年代に入るとバブル経済は崩壊した。\nそして株価や地価は50%ちかくも大きく下落した。その結果、土地を担保に融資してたりした銀行や、不動産投資を行っていた銀行は、多額の不良債権(bad debt [2] )を抱え込み、銀行の経営が悪化した。\nしかし1990年代前半の当時は、この不況が、まだ世間には、それほど深刻には受け止められていなかった。だが、1997年ごろに、いくつかの大銀行や大手証券会社が破綻した。(日本長期信用銀行、北海道拓殖銀行、および山一證券などの破綻)\nそして、2000年代、日本では金融以外でも不況の影響があらわに見え始め、企業も人員削減(いわゆる「リストラ」)を大幅に進めていき、消費も低迷していき、気が付いたら日本は平成不況になっていた。どうやら1990年始めごろから、平成不況が始まってたようである。そして以降、日本では、現在までずっと(2016年に記述)、一時的な好況はあっても好況時の経済成長率も低く、ほぼ慢性的な不況が続いている。\n1991年の平成不況から、デフレ傾向が続き、また不況が続いている。企業の設備投資も、この1991年ごろから、落ち込みつづけている。(なお2009年の民主党政権になる前まで、日本の歴代の自民党政権は日本がデフレではないと言いつづけていた。)\n1998年には、実質経済成長率がマイナスになった。\n2000年頃から、金融関連の規制改革もあり、大手金融機関どうしの経営統合などの再編が進んだ。また、大企業の人員削減や事業撤退などのリストラも進んだ。\n一方、2001年に小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣が誕生すると、平成不況の原因のひとつが規制だろうと解釈され、政治改革や規制緩和が行われ、小泉政権下で郵政民営化などの「構造改革」が行われた。\n2002(平成14)年には不況がいったん底をつき、アメリカ経済の好調による日本からの輸出増加などに支えられ、日本の景気が回復し、2007年まで好景気が続いた(景気拡大期間が、それまで最長であった「いざなぎ景気」の期間をこえたことから、この2002年〜2007年の景気拡大の期間を「いざなぎ越え」(いざなぎ ごえ)という)。\nしかし、アメリカの大手証券会社のリーマンブラザーズの破綻(リーマン=ショック)や、アメリカのサブプライム・ローンの破綻などをきっかけにした、2008年の世界的な金融危機により、日本からの欧米向けの自動車などの輸出が激減し、日本の輸出産業は大きな打撃を受け、日本は不況になった。\n2008年の経済成長率はマイナス3.7%にまで低下した。\n一方、2000〜2010年ごろ、中国などの新興国の輸出が成長してきたこともあり、アジア諸国からの低価格の製品が日本市場に流入して、日本では価格破壊が進み、日本ではデフレが進行した。\n2016年の現在、日本は不況で、かつデフレである。日本では、少子高齢化が、需要を減らす要因だろうとして懸念されている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%86%E3%81%BF"} {"text": "一般に、ある国の経済が発展するにつれて、その国の業種別の労働者人口が、第一次産業(農林水産業)から第二次産業(製造業、建設業、)に移り、また第二次産業から第三次産業(サービス業)へと労働人口が移っていく(これをペティ・クラークの法則という)。\nこのようにして、産業構造が高度化していくと、通説では考えられている。\n日本では、高度経済成長期に、第一次産業から第二次産業への変化が急速に進んだ。そのため、第一次産業で働く人口が大幅に減少した。\nまた、第二次産業の内部でも、高度経済成長期の日本では、第二次大戦前の繊維産業から、機械工業や鉄鋼などへと業種の変化が進んだ。\n日本の戦後の工業化では、まず高度成長期には、鉄鋼業や石油化学などの素材産業が発達して、「重厚長大」型と言われた。\nその後、石油危機などによって、これらの素材産業が停滞し、1970年代ごろから、自動車や電気機器、工作機械などの「軽薄短小」型へと、産業が移っていった。\n石油危機によってエネルギー意識が高まったこともあり、これらの製品では「省資源」「省エネ」などの宣伝文句がうたわれた。\nまた、日本では、1970年代ごろから、サービス業の労働人口が大幅に増え始め、経済のサービス化が進んだ。\n1980年代に、「ME」(マイクロ=エレクトロニクス)化により、工場では、コンピューターで自動制御された新型の工作機械や、産業用ロボットなどが導入され、工場のオートメーション化が進んだ(ファクトリー=オートメーション、略称: FA、factory automation)。同じく1980年代に、オフィスではパソコンが普及し始めた(オフィス=オートメーション、略称: OA、office automation)。\nさらに1990年代ごろから日本では、コンピューターソフト産業・IT産業・インターネット通信業界などで働く人が増え始め、経済のソフト化が進んだ。\nなお、1980年代から、コンビニが日本で普及し始めた。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%94%A3%E6%A5%AD%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%81%AE%E5%A4%89%E5%8C%96"} {"text": "「中小企業」の定義にもよるが、日本では一般に、「中小企業」とは何かについては、中小企業基本法による定義が使われる。\n製造業か小売業かで法律による定義が違う。製造業は、資本金3億円以下、または従業員300人以下の企業が、中小企業である。\n日本企業の事業所のうち、中小企業は事業所数の約99%である。つまり、日本企業のほとんどは中小企業である。\n製造業では、高度経済成長期に、中小企業の多くが、大企業を頂点とするピラミッド型の企業グループ構造の系列(けいれつ)として組み込まれ、中小企業は大企業から注文を受けて部品などを製造する下請け(したうけ)となっていった。自動車や電気機械産業で、このような系列化が典型的に見られる。\n製造業にかぎらず、商店街などの小さな商店も、中小企業である。\n下請け企業は、大企業から大量の注文を継続的に取りやすかったり、大企業から技術援助などを受けやすい一方、取引が大企業有利で対等ではなく、また賃金格差が大企業と中小企業との間にあり(大企業のほうが賃金が高い)、不況時にはコスト削減の対象にされやすい、という問題点もある。\n大企業と中小企業の、賃金などの格差は、日本経済の「二重構造」と言われている。\n1963年に中小企業基本法が制定され、中小企業の保護が行われた。\n高度経済成長期の好況や労働力不足により、大企業と中小企業の格差は、ある程度は改善した。\n1999年には、中小企業基本法が改正され、それまでの保護政策から、自助努力をうながす政策へと転換した。\n独自の新技術などにより、新しく産業を起こした企業をベンチャー企業といい、また、そのような新興の産業などをベンチャー=ビジネス(venture business)という。\n検定教科書を読むと、中小規模のベンチャー企業を称賛するような記述が多い。どうやら日本政府は、ベンチャービジネスを奨励してるようである。新興の産業などに進出することが多い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E4%B8%AD%E5%B0%8F%E4%BC%81%E6%A5%AD%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "第二次大戦前の農業は、地主が小作人を雇って耕作させるのが一般的だった。\nしかし、戦後の農地改革によって、地主制が廃止され、多くの耕作者が自分の農地を持つ自作農になった。\nまた、1952年には地主制の復活をふせぐために農地法が制定された。\nしかし、日本の農業は、農家の規模が零細(れいさい)で小規模なことなどから、農産物の価格がアメリカや中国などと比べて高くて、国際競争力が低い。\nまた、日本の農家は全体的に所得が低く、工業と農業との所得格差があった。\nさらに、高度経済成長期から、農業と工業の所得格差が深刻になり、工業・サービス業へと転出する人口が増え、また、若年労働者は都市へと流出した。こうして、農業従事者数は、年々、減っていった。\n一方、農家のなかでも、機械化などのより時間に余剰が生じたこともあり、兼業農家が増えていった。\n戦時中につくられた食糧管理制度により、米(こめ)の生産費を政府が補償して、農家から米を買い上げたので、農家は米ばかりを生産するようになった。その一方、消費者の食生活の変化により、米の需要が減少したので、米の供給が過剰となった。そこで1970年から、米の作付け面積を制限する減反政策(げんたん せいさく)が始まった。\n現在、コメ以外の多くの農産物は、輸入に頼っている。小麦、大豆、トウモロコシ(飼料用としてのトウモロコシの需要がある)などは輸入に頼ってる。\n日本の食料自給率(self-sufficiently rate[1])は、カロリーベースでは1960年代では60%以上あったが、近年ではカロリーベースで40%ちかくという低い水準である\n(なお、先進工業国のなかでは、日本(食糧自給率40%)と韓国(食料自給率50%)が、近年の食料自給率が、かなり低い。イギリスの食料自給率は65%程度である。ドイツでも80%近い自給率である。フランスの食料自給率は120%の程度、アメリカの食料自給率は130%である。)。\nまた、農村の過疎化も進行しており、農家の高齢化も進行している。すでに高度経済成長期のころから、日本の農家を評して、「じいちゃん、ばあちゃん、かあちゃん」ばかりの農業などという意味で「三ちゃん農業」(さんちゃん農業)と呼ばれている。\n一方、これらの農業関連の制度変更にともない、戦前からの食糧管理制度は1995年に廃止され、1995年からは新食糧法が施行(しこう)された。\nこの新食糧法により、それまでは一部の例外(自主流通米)を除いて、「ヤミ米」などとして原則的に規制されていた市場価格によるコメ流通が、「計画外流通米」として、大幅に規制緩和されて、流通が認められるようになった。\nまた、農業基本法に代わり、1999年から食料・農業・農村基本法が制定された。\nさらに2005年には農地法が改正されて、株式会社の農業参入が認められるようになった。\n2010年には農家に対する個別所得補償制度が、\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E3%81%A8%E9%A3%9F%E6%96%99%E8%87%AA%E7%B5%A6%E7%8E%87%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "欧米で産業革命以降資本主義が進行してくると、しだいに資本家は価格競争のため低賃金で労働者を働かせるようになり、児童労働や長時間労働などの問題が発生していった。\nイギリスでは、労働者が、団結して資本家と交渉しようとしたが、イギリス政府が資本家の味方にたち、労働者の団結が、契約の自由や営業の自由などの自由競争を阻害するという主張もなされ、1799年に団結禁止法を制定し、労働者の組合や団結交渉などを禁止した。\nこのような労働運動の弾圧に対して、労働者の側は、初期は、イギリスのラダイト運動のような機械打ち壊し運動で対抗した。そして労働運動が進展していき、イギリスでは1824年に団結禁止法が廃止され、労働者は、しだいに組合を作って団結して資本家に対抗するようになった。\n日本では、日清戦争ごろから労働運動が起きるようになっていたが、労働組合は公認されなかった。そして、しばしば運動は弾圧された。 日本では1897年に労働組合期成会が結成され、鉄鋼組合などが結成されたが、しだいに消滅した。\n1911年、工場法の制定によって労働時間が制限されたが、一方で治安警察法(1900年〜)や治安維持法(1925年〜)などによって労働運動・労働組合は取り締まりを受けた。\n第二次大戦後、GHQの意向もあったし、日本の経済民主化政策として、労働組合・労働運動は公認され、1945〜47年に労働三法(労働基準法・労働組合法・労働関係調整法)が制定された。\n法律ではないが、毎年、春に、産業ごとに労働組合が賃上げ要求をする「春闘」(しゅんとう)という運動が、日本では定着している。春闘の習慣は、1950年代から始まった。\n労働基準法は、つぎのことを定めている。\n最低賃金、労働者の選挙権などの公民権をさまたげないこと、強制労働の禁止、労働時間、男女同一賃金など。\n法定労働時間は1日8時間、週40時間以内。しかし、労働組合との書面の協定(三六協定、さぶろくきょうてい)があれば、第36条にもとづき、時間外労働も可能。\n日本では、公務員は、すべての業種で、ストライキなどの争議権が禁止されている。\nまた、警察・消防・自衛隊・刑務官・海上保安庁では、労働組合の設立すら認められてなく、労働運動の団体交渉の権利も認められていない。公共の重要な利益にかかわる職種だからだろう。\nその他の一般の公務員では、労働組合は認められているが、団体交渉権が認められてない。\nこのように、公務員では、労働運動に関係する権利がいくつか規制されている。\nかわりに人事院が、公務員の労働条件の改善のための勧告を出している。\nなお、公立高校教員には団結権が保障されている(※ 過去のセンター試験では、この問題に関して出題、あるいは記述されている)。\n労働者側は、ストライキ(同盟罷業(ひぎょう))、サボタージュ(消極的怠業(たいぎょう))ができる。\n一方、使用者側は、対抗措置としてロックアウト(作業所閉鎖)ができる。\n労働委員会は、斡旋(あっせん)・調停・仲裁(ちゅうさい)の3種類の方法を通して、労働争議の調整にあたることが、労働関係調整法により定められている。\nまた、労働委員会は、使用者代表・労働者代表・公益代表という3者の委員から構成されることが定められている。\nまた、電力・ガスなどの公益事業での争議や、規模が大きくて国民の生活を害する恐れのある争議では、内閣総理大臣が緊急調整として50日間だけ争議行為を禁止できる。\n斡旋とは、労働委員会が選んだ斡旋員が労使双方の言い分を聞いて、話し合いの場を提供するなどして、労使双方に争議の自主的解決を促すこと。\n調停とは、労働委員会に設けられた調停委員会が調停案を作成し、労使双方に受諾を勧告する。\n仲裁とは、仲裁委員会が、法的に拘束力のある仲裁裁定を下す。\n労働組合法は、ストライキなどの争議行為を行う権利を認めている。また、労働組合を結成する権利も認めている。\nまた、使用者は、労働者が労働組合を結成することを認めなければならないと定めている。使用者が、労働組合の活動を妨げたり団体交渉を拒否することを、不当労働行為として禁止している。組合に加入しないことを条件に雇用する黄犬契約(おうけんけいやく)は、不当労働行為として禁止されている。\n労働運動により損害が発生しても、その労働運動が適法な活動であるかぎり、労働者は刑事上および民事上の責任を問われない(刑事免責・民事免責)。\nなお、使用者が労働組合に経済援助をすることは不当労働行為に当たり、禁止されている(※ 過去のセンター試験では、この話題に関して出題、あるいは記述されている)。労働組合の運営は、労働者が自主的に行わなければならない。\nまた、使用者側が、不況などの理由によって賃金引下げを提案する事自体は、使用者の正当な権利である(※ 過去のセンター試験に記述あり)。\n2004年より、労働審判法による労働審判制度が開始している。この手続きは、裁判によらない、迅速な労働問題の解決を目指している。\n裁判官による審判官と、専門家からなる審判員からなる労働審判委員会による審理であり、地方裁判所で行われる。\n国勢調査のデータによると、日本の全就業者のうち女性の割合は、 1970年、 1980年、 1990年、 2000年、 2010年、 2015年で、それぞれ 39.187%、 37.921%、 39.617%、 40.854%、 42.814%、 43.859% で、増加傾向がみられる。\n1970年以降この国では、男女ともに高学歴化が進んでいった。このデータに関して、女性の高学歴化による職場進出の進展とみる考え方もある。一方日本式の終身雇用のシステムが崩壊していった結果、共働きの夫婦が増えていることを示している、ようにも見える。\nまた、同じく国勢調査で日本の女性人口のうち就業者の割合は、 1970年、年代別で、それぞれ 15歳から 19歳が 35.129%、 20歳から 24歳が 69.220%、 25歳から 29歳が 44.300%、 30歳から 34歳が46.799%、 35歳から 39歳が 55.952%、 40歳から 44歳が 63.319%、 45歳から49歳が 64.332%、 50歳 から 54歳が 60.560%、 55歳から 59歳が 53.420%、 60歳から 64歳が 43.103%、 65歳以上で 19.610%。\n1970年のこのデータでは、女性の年齢別就業者の割合は、20代前半では70%ちかく、25歳頃から結婚退職などにより、25歳〜35歳くらいの期間の就業人口の率が大きく減って45%ほどになり、40歳ごろからは再就職によって、また女性の就職者の率が60%超えるという、「M字カーブ」と言われる現象が見られる。\n2015年になると、 15歳から 19歳が 12.879%、 20歳から 24歳が 58.573%、 25歳から 29歳が 68.244%、 30歳から 34歳が63.301%、 35歳から 39歳が 64.108%、 40歳から 44歳が 67.935%、 45歳から49歳が 70.347%、 50歳 から 54歳が 70.317%、 55歳から 59歳が 65.049%、 60歳から 64歳が 49.122%、 65歳以上で 15.890% になっている。\n近年、M字の落ち込みは30歳〜40歳の60%ちかくと、落ち込みが緩やかになっている。と、言うか、落ち込みがほとんど目立たなくなっている。また、若年層と高齢者の就職者が少なくなっている上、中間年齢層の就職者は増えている傾向が読み取れる。\n独立行政法人労働政策研究・研修機構のまとめによると、 1984年の女性の雇用者のうち、非正規の職員・従業員の割合は29.0%、 2019年では 56.0 %になっている。この数字は、役員を除く女性の雇用者のうち、非正規の職員、従業員(パート、アルバイト、派遣社員、契約社員、嘱託、そのほか非正規と見なせる形態)を示したものである。\n1972 (昭和47)年の勤労婦人福祉法に起源をもつ男女雇用機会均等法が平成 9年(1997) に改正、平成 11年に施行され、募集・採用、配置・昇進、教育訓練、福利厚生、定年・退職・解雇において、男女差をつけることが禁止された。1997年の労働基準法の改正と連動して、女性に対する深夜労働・残業や休日労働の制限(女子保護規定)が撤廃される。\nこの法律は現在(2021/5 執筆時点)令和1年(2019)改正法が施行されているが、職場におけるセクシャルハラスメント(英語:sexual harassment、性的嫌がらせ)防止の義務が、事業者に課せられている。\nまた、1991年に成立した育児休業法が、1995年に育児介護休業法に改正された。しかしどちらも略称・通称で、記憶する必要はないだろうが、「育児休業等に関する法律」→「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」と、変遷している。\n日本では、求人の条件に年齢制限があり、中高年の再就職は難しいのが現状である。\n企業や公務員の定年制は、 1994年の高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の改正で60歳未満定年制が禁止( 1998年施行)されたので、それ以降は 60歳が日本の定年の標準となっている。日本の企業の正社員と公務員の多くは定年制を導入しているが、企業の態度として、定年を定めない、この規則を採用しないという選択も可能だ。\nそしてこの法律の 2020改正 2021施行法では、定年の延長を意図して定年が64 以下の企業に対して以下の 3つの対応のうちの一つを講ずることを義務づけている。\n今現在この国では、出生率の低下と平均寿命の増大が同時に進行していて、少子高齢化が問題になっている。この現象が進行しているときに、一般的に定年が固定され、その後年金が支払われるなら、社会全体の労働力は低くなるうえ社会維持のコストは大きくなっていく。このバランスを取り戻すために、定年の延長、高齢者の就職の推進、年金支給年齢の引き上げ、などの政策がとられていくことになるだろう。\n老齢厚生年金の定額部分(国民年金)の支給はすでに 60歳から 65歳に引き上げられているし、報酬比例部分の支給も、 2025年までに段階的に 65歳に引き上げられることになっている。\n労働政策研究・研修機構の「データブック国際労働比較2019」によると、1990年の日本の就業者の1人当たり平均年間総実労働時間は2031時間、一方2018年は、1680時間、最近になって労働時間は減少しているように見える。\n一日に8時間、週に5日勤務して、50週過ごすと2000時間だ。365日で52週と1日、2000時間を一日8時間労働の指標と見ることはできるだろう。そこから2031は8時間7.44分、1680は6時間43.2分、と、数字が出てくる。\n今回の元資料では海外各国の労働時間も同様に示されている。そしてそこでは「データは一国の時系列比較のために作成されており,データ源及び計算方法の違いから特定年の平均年間労働時間水準の各国間比較には適さない。フルタイム労働者, パートタイム労働者を含む。」と注釈が書かれている。\nそこでその注意書きを考慮しつつあくまでもただの参考として、海外のデータを引用すると、まずアメリカでは1990年が1833時間、2018年が1786時間である。フランスでは1990年が1645時間、2018年が1520時間。\nでは同じ資料の中に、各国間比較に適したデータがないかと見てみると、週労働時間に関する数字が記述されている。ここには前述のような注釈は書かれていないが、真っさらな意味で国別比較が意味を成すかどうかは断言出来ない、が、このデータを示してみよう。\n一日8時間、週に5日働いたとして40時間、この数字が基準になるだろう。\n2017年の数字で、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、日本の5か国を比べると、時間の長さもこの順になっていて、アメリカ42.3時間、イギリス41.2時間、ドイツ40.9時間、フランス39.0時間、日本38.9時間。\nこの数字、データは、フルタイム労働者だけのデータと、パートタイムなどの非常勤労働者を含む場合とでは数値が違ってくるだろう。\nちなみに今回示した統計数値は、年労働時間のほうはパートタイム含む、週労働時間のほうはフルタイム労働者のみを対象にしている。\n長時間労働の問題に関しては、サービス残業という、そもそも労働時間の統計の意味自体を棄損させるような慣行もあるし、現編集者の実感としても、ここで示した数字が現実の状況を妥当に示しているようには思えない。\n職場の長時間労働は過労死といった社会問題にもつながっているし、そもそも時間の問題だけではなく、職場、労働環境の質自体が、現実には多くの場所で、かなり劣悪なものになっているだろう。\n日本では、外国人の単純労働は原則として禁止されている。在留期間を越えての就労はできない。\nしかしこのことに関して記述する前にいくつか、より基本的な議論、解説が必要だろう。\nまず端的に外国人という場合、どういう人のことを言うのだろうか?\n我々が、日本人、外国人という言葉を考えるときは、まず人種的特徴や民族、地域集団としての生活様式を考えるだろう。しかし法律の議論では、日本人とは日本国の国籍を持っている人物のことだろう。\n出入国管理及び難民認定法により、日本に滞在する外国人には、個別の在留資格が与えられている。在留期間中は、その在留資格の種類によって日本国内の活動の内容が制限されている。特に収入を伴う労働活動に関しては、様々な限定、指定がある。\nしかし一方様々な労働活動に関して、労働基準法や最低賃金法は、日本人と同様、外国人にも適用される。\n経済が地球レベルで動くようになった現在、世界普遍的な貨幣の価値を考えた場合、特定の国の特定の地域の労働対価より、日本での収入のほうがはるかに多い場合も多い。そのため、不法入国や(単純労働などの)不法就労をする外国人は多い。そのような不法就労の外国人は、不当な低賃金で働かされる事もあるが、それでも、日本で就労することに大きな価値があるとみなされている。\n一方、合法的に日本で就労する外国人労働者の数も、近年は増加している。\n(・_・)この内容は公務員試験の社会事情と社会政策(労働事情)で登場する内容ですが、覚えておいて損はありません。高校生にもわかるように記述を分かりやすくまとめています。\n就職氷河期世代支援プログラムは、就職氷河期世代でも正規雇用で活躍出来るような安定した職場を提供します。そのためには、相談、教育訓練から就職まで切れ目のない支援、一人一人の状況に合わせた、より丁寧な寄り添い支援が必要です。社会人の再教育、採用企業側の環境整備なども掲げられています。これらの取り組みにより、5年以内に、30万人を正規雇用に転換するように目指すとしました。\nその理由は、公的年金保険料を十分に収められない人が就職氷河期世代に多数集中しているためです。また、若年者雇用対策では、対象年齢を過ぎていて救えないからです。このため、将来の社会保障支出に大きく影響を受ける背景から「就職氷河期世代支援プログラム」が取りまとめられました。\n1993~2004年に高等学校・大学を卒業した世代は、就職活動をしても、希望する就職に就けませんでした。この中に第二次ベビーブーム世代(団塊ジュニア世代)も含まれており、少ない正社員の椅子を取り合いました。結果、多くの人が非正規雇用労働者などの長期不安定雇用者や長期無業者にどうしてもなってしまいました。『就職ジャーナル』でも、多数の人が一般的な就職のレールから長期間外れてしまったので「就職氷河期」と名付けられました。\nさらに、転職期もリーマンショック崩壊でますます企業が正社員採用を抑制しました。この結果、実社会での経験不足に陥りました。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%A8%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%B8%82%E5%A0%B4"} {"text": "世界の社会保障の公的扶助の起源は、1601年のエリザベス救貧法だと言われている。\n1883年にドイツで世界でさいしょの社会保険制度がビスマルクによって創設されたが、この政策は社会主義者鎮圧法と同時につくられた政策だったため、この政策は「アメとムチ」と呼ばれた。\nアメリカではニューディール政策の一貫として、失業保険と老齢遺族年金などを含む社会保障法が制定された。このニューディール政策の法律で、「社会保障」 social security という言葉がはじめて用いられた。\nイギリスでは1942年にべバリッジ報告(Beveridge Report)が出され、この報告は、政府が国民の最低限度の生活(ナショナル=ミニマム、natinal minimum)を保障するように提言し、労働党内閣が「ゆりかごから墓場まで」をスローガンにして、国の責任による社会保障制度が整備された。\n1944年に国連の国際労働機関(ILO)がフィラデルフィア宣言を発表し、社会保障の最低基準を示した。\n世界の社会保障を分類すると、大きく分けて、イギリスを含む北欧型、ドイツ・フランスなどの大陸型、アメリカ型の3通りになる。\n北欧型は、「公助」とも言われ、税を財源に、保険料は均一で、大きな社会保障をするのが特徴である。\nアメリカ型は「自助」とも言われ、最低限の公的介入のみをするのが特徴である。\nかつてアメリカは公的な全年齢対象の医療保険がなく(老齢医療保険は存在していた)、社会保障は年金と失業保険が中心だった。しかし2010年、オバマ大統領の医療保健改革法の成立により、アメリカは国民皆保険になった。\n大陸型は、「共助」とも言われ、大まかなイメージを言えば公助と自助との中間であり、所得に応じた保険料負担と、その負担額に応じた(年金などの)給付をするのが特徴である。\n北欧型の社会保障は、いわゆる「大きな政府」の考え方。一方、アメリカは、いわゆる「小さな政府」の考え方。\n日本では1958年の国民保険法の改正により、1961年にすべての国民が医療保険に加入する国民皆保険が実現した。\n同様に、1959年の国民年金法の改正で、1961年に日本は国民皆年金になった。\n1986年から、国民年金が全国民共通の基礎年金となり、その上に民間企業の被用者はさらに厚生年金を、公務員はさらに共済年金に加入するという制度になった。\n一方、自営業者は国民年金しか給付されない。\n現在の日本の社会保険には、医療保険・年金保険・雇用保険・労災保険・介護保険の5つがある。\n医療保険は、仕事以外での病気やケガに保険料が給付される制度。1961年から日本では、国民すべてが医療保険に入っている「国民皆保険」である。\n雇用保険は、解雇によって失業したときに、給付を受けられる。\n労災保険は、仕事が原因でケガや病気になったとき(このようなケガ・病気を「労働災害」といい、「労災」と略す)、給付を受けられる。\n労災保険は、事業主のみが負担する。\n20歳以上60歳未満のすべての日本国民は「国民年金」に加入する。学生(大学生など)であっても、20歳以上なら、国民年金に加入する。\nその上で、会社員は上乗せとして厚生年金に加入し、また、公務員は上乗せとして共済年金に加入する。つまり会社員なら、国民年金と厚生年金の2つに加入することになる。なお、自営業者は、厚生年金や共済年金には加入できず、国民年金のみの加入となる。\nまた、公務員なら、国民年金と共済年金の2つに加入することになる。\n厚生年金と共済年金による給付額は、国民年金の給付額に上乗せされて給付される。\n厚生年金と共済年金の保険料は、所得に応じて、負担料が違い、また、負担料が高いほど給費額も高くなるので、「報酬比例」と言われる。\n一方、国民年金は、「基礎年金」とも言われる。\n日本の年金負担のありかたは、現在の負担者が、現在の高齢者の年金額を負担するという賦課方式(ふか ほうしき)にもとづいた、「修正賦課方式」である。\n修正「賦課方式」というものの、実際には、若い世代が、高齢者の年金を払っている。実質的に、日本では、自分の将来の年金を負担するという積立方式(つみたて ほうしき)ではない(※ 中学高校の検定教科書でも、日本の年金制度は実質的に賦課方式であるという見解である)。\n日本の年金は賦課方式なので、少子高齢化になると若者の負担が増える。\n医療保険でも、国民健康保険や、公務員のみの共済組合、など業種別などによって分かれており、複雑である。\n1973年に、いったん、70歳以上の老人の医療費が無料化したが、医療費が急増して国の財政が悪化した。\nこのため見直され、1983年から、老人は医療費を一部、負担することになった。\n2008年には、75歳以上を対象にした後期高齢者医療制度がスタートした。\nなお、日本で1973年は「福祉元年」と言われた(※ センター試験で過去に出題)。当時の内閣(田中角栄)が、「福祉元年」をスローガンに掲げた。\n「公的介護保険制度」は、高齢者を対象にした介護保険の制度である。\n1997年に介護保険法が制定されて、2000年から公的介護保険制度がスタートした。\n公的介護保険制度には、40歳以上の日本国民が保険料を払う。\n要介護と市町村に認定された人が、原則として利用料は1割負担で、利用できる(※ 第一学習社の教科書に記述あり)(※ センター試験で過去に出題)。\n運営は市町村が行っている(※ 「現代社会」科目の教科書に記述あり)(※ センター試験で過去に出題)。\n生活保護の費用は、全額、公費でまかなわれる(※ センター試験で過去に出題)。\n生活保護は、1946年制定の生活保護法にもとづいて行われ、生活・教育・住宅・医療・出産・生業(せいぎょう)・葬祭(そうさい)・介護(かいご)の8つの扶助(ふじょ)がある。\n生活保護は、社会保障制度のうちの公的扶助(こうてき ふじょ)に分類される。\nなお、1950年に生活保護法が全面改定されている。\n1971年に児童手当法が制定された。\n2010年に民主党の鳩山由紀夫内閣で「子ども手当」になったが、財源の目ぼしが付かなかったことなどから、その後、2012年から制度を変更した新しい「児童手当」に変わり、「子ども手当」は廃止された。\n2012年からの新しい児童手当では、所得制限が付いている。\n児童福祉法、身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、老人福祉法、母子及び(および)寡婦(かふ)福祉法、生活保護法の6つをまとめて福祉六法という。\n日本の社会保障は、社会保険・公的扶助(こうてき ふじょ)・社会福祉・公衆衛生の4つにもとづいている(※ 過去にセンター試験に出題)。\n社会保障の「公衆衛生」とは、保健所などの、感染症や食中毒の予防と治療の活動と、上下水道の整備、および、国民の生活習慣病予防などの健康増進対策のための活動。\n会社員が加入する厚生年金は、不況による企業の倒産などで、財政が悪化している。\nまた、自営業者や無職などが対象の国民年金は、年金制度への不信などから、未加入者が増えており、悪化している。\n2007年ごろ、公的年金の行政上の記録漏れが見つかった。\n国民年金と、それ以外の厚生年金・共済年金とのあいだに、給付額の格差があり、問題になっている。\n高齢者や障害者を施設などに隔離(かくり)せず、たとえ障害者や高齢者でも、なるべく自宅で普通に生活できるようにすることこそが社会福祉の目指すべき方向性である、という考え方のことをノーマライゼーション(normalization)という。\nまた、ノーマライゼーションのための手段として、歩道などを車いすの身体障害者でも移動しやすいように整備をしたりする必要がある。\nたとえば、道に大きな段差があると、その場所は車いすの人が通行できない。同様に公共機関の入り口に大きな段差があると、その施設には車いすの人が入れなくなる。\n一般に建物の床は、平地よりも、やや高い場所にあるのが普通なので、スロープ(なだらかな斜面)などが無いと、車いすの人は、その建物の入り口には入れなくなる。なので、公共施設などの入り口には、スロープなどがあるのが一般である。\nこのように、公道や公共施設などの整備をして、障害者が使えない施設をなくすことをバリア フリー(Barrier free)という。\n言葉の「バリア」の意味は、物をさえぎるバリアーのことで、入り口の段差が車いすの障害者にとっては、障害者を遠ざけるバリアーになっている、という意味である。\n説明のために車いすの利用者に例えたが、べつに車いす利用者だけに限らず、ノーマライゼーションやバリアフリーは取り組まれている。\n製品を設計する際に、利用者に障害者なども含み、身体に不自由のある人でも使えるように設計することをユニバーサルデザイン(universal design)という。べつに、利用対象を障害者に限定していない。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C"} {"text": "1962年にアメリカの大統領 J・F・ケネディの主張した 消費者の4つの権利(Consumer Bill of Rights) がある。\n日本の戦後の高度経済成長の時代において、経済の発展にともない消費者問題も取り上げられるようになり、1968年(昭和43年)に消費者を保護するための 消費者保護基本法(しょうひしゃ ほご きほんほう) が施行(しこう)され、企業には商品の情報表示の適正化や情報の開示が求められた。(2004年に消費者基本法として改められた。商品情報の提供の義務がますます強化された。)\n消費者は製品の情報を生産者ほどは持てないので(「情報の非・対称性」という)、そのため消費者の立場は弱く、その情報差をなるべく埋めるために上記の法律で、情報の公開を企業にさせる事をさせた。\n1970年には国の相談センターである国民生活センターと、各地の地方公共団体に消費生活センターが設置された。\n2004年(平成16年)には改正され 消費者基本法(しょうひしゃ きほんほう) となった。消費者基本法では、消費者の権利、事業主の責任、政府(国や地方公共団体など)の責任などを規定している。\n1995年(平成7年)に 製造物責任法(せいぞうぶつ せきにんほう、PL法、Product liability) が定められた。\n欠陥品による被害には、たとえ企業に過失が無くても、生産者が責任を負うことを定め(企業の無過失責任)、企業は損害賠償に応じなければならないとした法律。消費者が損害賠償をしやすくなった。\n損害賠償を求めることの出来る期間は出荷後10年までである。\n2001年に 消費者契約法(しょうひしゃ けいやくほう) が定められた。消費者契約法は、商品の説明が事実と異なる場合や、強引に加入されて契約した場合は、一定期間内であれば契約を取り消しできる法律である。\nまた、2006年には消費者契約法の改正で、消費者の救済のための追加の制度として、国の認定を受けた消費者団体が被害者個人に代わって訴訟を起こせる消費者団体訴訟制度が導入された。(※ センター試験2016年『政治・経済』追試験で出題。)\n2009年には 消費者庁(しょうひしゃ ちょう) が発足した。これは、それまで各省庁に分散していた消費者行政を一元化したものである。\n訪問販売や電話勧誘で商品を購入した場合は、一定の期間内(基本的には8日以内)であれば、無条件で契約を取り消せる制度があり、この制度をクーリング・オフ(cooling-off)という。特定商取引法に定められている。「契約自由の原則」の例外である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%B6%88%E8%B2%BB%E8%80%85%E5%95%8F%E9%A1%8C"} {"text": "温室効果ガス削減を目指す京都議定書の期限は2020年まで。2015年にパリで開催されたCOP21で採択されたパリ条約が、温室効果ガス問題についての後継の条約。(2017年センター試験に出題。知らなくても解ける。)\n日本でも、かつて、大きな公害をおこしたことがある。公害は第二次大戦よりも前の昔からあるが(明治時代の足尾銅山の鉱毒事件なども公害であろう)、第二次大戦以降は以下の4つの公害および公害による病気が、とくに被害が大きい公害として有名である。\nこの4つの公害を四大公害(よんだいこうがい)と言う。\n上記の4つの公害が、1950年〜1960年ごろの高度経済成長に重化学工業が成長たが、環境対策が遅れたことが、この4大公害の原因の一つだろう。\n四大公害の裁判は別々に行われたが、判決は4つとも患者側の全面勝訴である。(※ 検定教科書に被告企業名が記載されてる。)\n四大公害などの発生を受け、公害対策の気運が高まる。\nこれらの、環境関連の法制化などによって、企業が汚染を発生させた場合は、その程度の大小に関わらず、その企業自身が負担するべきという汚染者負担の原則(PPP, polluter pays principle)が確立された。このPPPの考え方は、1972年にOECD(経済協力開発機構)が加盟国に勧告したもの。\nまた、排出する汚染物の濃度を規制する濃度規制だけでなく、汚染物の排出の総量も規制する総量規制も行われるようになった。\nまた企業側に故意や過失がなくても、企業が汚染させたり被害を発生させたりした場合は、企業に負担させる無過失責任が確立された。大気汚染防止法や水質汚濁防止法で、汚染者の無過失責任が明文化された。(なお、製造物責任法(PL法)でも、無過失責任の方式が採用されている。)\n近年では、焼却処理施設などから出るダイオキシン(dioxin)など、新たな公害問題が社会問題になった。ダイオキシンには発がん性がある。\n2000年、ダイオキシン類特別対策法が施行された(制定は前年の1999年)。\nIC産業では、回路の洗浄に、発がん性の高いトリクロロエチレンなどの有機溶剤が洗浄剤に使われているが、きちんと処理されないと、地下水汚染などの水質汚染になる。\n企業の活動による健康被害だが、工場の中の従業員だけに健康被害がある場合については、「公害」と呼ぶ場合もあるが、ふつうは「職業病」(しょくぎょうびょう)などと呼ぶ。\n近年では、「アスベスト」(石綿, いしわた、せきめん)という素材をあつかう労働者の健康被害が問題になった(※ 高校の「政治経済」の教科書でも記述あり)。アスベストは、断熱材などとして長いあいだ使われていたが、2009年に禁止になった。\nアスベストは、肺がん など肺病の原因になる。\n製造業などの国際規格の ISO では、ISO 14000シリーズで環境に配慮する事項も含まれている。\n国際的な活動をしている企業は、必要に応じて、ISOの認証を受けたりする。\n2000年に、循環型社会形成推進基本法が制定された。\n1995年に容器包装リサイクル法が制定され、分別収集などが義務化された。\n2001年に家電リサイクル法が施行され、消費者が家電リサイクルの費用を負担することになった。\n2005年に自動車リサイクル法が完全施行され、自動車所有者が自動車リサイクルの費用を負担することになった。\n都市では、自動車の排気ガスによる大気汚染や、光化学スモッグなどが発生している。また、ヒートアイランド現象も、都市に多い。\n公害ではないが、ゴミ問題も、都市では大変である。\n環境ホルモンが、各地の河川や地下水などで、たびたび検出される。\n環境ホルモンとは、生体中のホルモンに似た化学構造を持つために、体内のホルモン作用をかく乱し、生殖機能などの異常をもたらす。\n環境ホルモンのことを「内分泌かく乱物質」(ないぶんぴつ かくらんぶっしつ)ともいう。\n環境基本法では、以下の7つの種類の公害を、典型七公害(てんけい ななこうがい)としている。(※ 中学公民で教育済み。高校の検定教科書では深入りしてないが、高校の「政治経済」の参考書には紹介されてるので、参考に。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E5%85%AC%E5%AE%B3%E3%81%A8%E7%92%B0%E5%A2%83%E4%BF%9D%E5%85%A8"} {"text": "仮に、生き物でない石コロなどに、権利や義務を与えても、法律的になんにも役立たない。つまり、石コロは、権利をもつ資格が無く、義務を負う資格も無い。\n権利をもったり、義務を負ったりする資格をもつ者のことを「権利・義務の主体」という。そして、権利・義務の主体になることのできる資格を「権利能力」という。(※ いちおう、山川出版の検定教科書(『詳説政治経済』ページ115)に、脚注でイイワケ程度に「権利・義務の主体」という用語が書かれているが、ろくに解説されてない。)\n私たちのような実在の生きている人間の個人個人は、権利義務の主体になりうる。\n私達のような実在の人間の他にも、会社や協同組合・学校などの組織も、権利・義務の主体になってもいいというのが、日本の法律である。\n一方、イヌやネコは権利能力をもてないし、権利・義務の主体にもなれない。\n会社や協同組合などを、契約などの権利・義務の概念から見た場合、法人(ほうじん)という。\n一方、生きている人間の個人個人のことを自然人(しぜんじん)という。\n日本の法律で単に「人」と言った場合、自然人と法人との両方を含む場合もあるが、単に自然人のみを言う場合もあるので、どちらの意味で用いているかの注意が必要である。\nなお外国人に対しても、権利能力は原則として認められている。\nなお、法人には、選挙権や相続権は無い。(※ 石原豊昭『法律トラブルを解決するなら この一冊』、自由国民社、2013年 第3版、126ページ)選挙権を持てるのは自然人だけであり、さらに法律の定める有権者としての資格を満す必要がある。\n株式会社は、法人である。法人は、「権利・義務の主体」である。なので、株式会社は「権利・義務の主体」である。\nこのため、株式会社は、その株式会社じしんの名義で、裁判を起こしたり、不動産や設備を所有できる。株式会社の代表者の名義で裁判を起こすという事ではなく(代表者の個人的な名義で裁判を起こしても構わないが)、株式会社じしんの名義によっても裁判を起こせるという意味である。\nこのように、株式会社などの会社には、大きな権利が与えられているので、会社設立の手続きは、会社法(かいしゃほう)などによって厳格に定められている。(※ 検定教科書の範囲内、第一学習社の教科書に会社法について説明あり)\nなお、会社法は2006年から施行されている。会社法とは、それまで商法など複数の法律にまたがっていた会社についての法律をまとめた法律である。\nまた、会社設立のための資本金の、法律上の下限が引き下げられ、法律上は資本金1円でも会社設立できるようになった。(とはいえ、実際には各種の手続きの費用のため、30万円くらいの費用が会社設立の際には最低でも掛かる。)\n商法または会社法でいう「社員」とは、株主のことである。「社員」といっても、従業員のことではない。\n「株主」とは、「株券」や「株式」などと言われる物を買って、会社に出資している出資者である。\n株主は、どんなに、その会社がダメな経営をしていても、株主は、けっして賠償責任などの責任を負わない。せいぜい、会社の信用が無くなり、その会社の株の価値が減ったりして損するだけであり、株主は出資額以上は金銭を失わない。会社が巨額の金銭的な債務を負っても、株主には、その債務を弁済する義務は無い。このようなことを、株主の有限責任という。\nいっぽう、経営者には、法的にも、その会社の経営に責任がある。たとえば、もしも会社が違法な経営をしており、それによって消費者や取引先などに損害を与えれば、経営者に対する賠償請求などの訴訟などを起こされる場合もある。\n※ なお、合名会社と合資会社は、有限責任でなく、無限責任なので、要注意。\n(※ 東京書籍のウェブサイトの検定教科書デジタルパンフレット(平成28年用)で、「合名会社」などの記述を確認。)\n(※ 東京書籍のウェブサイトの検定教科書デジタルパンフレット(平成28年用)で、「公開会社」の記述を確認。)\n株式には「この株を、会社(その株を発行してる会社自身)の許可なく第三者に譲渡してはいけない」という規則をつけることが出来る。このような株を譲渡制限株式(じょうとせいげん かぶしき)という。ある会社のすべての株式が、譲渡制限株式の場合、そういう会社を非公開会社という。\n中小企業では、ヤクザや詐欺師などに株が渡らないようにするため、あるいは大企業や競合他社などに買収されないようにするため、つまり会社にとって好ましくない者に株が渡らないようにするため、株式を譲渡制限にしてる場合もあり、自社を非公開会社にしてる会社も多い。\n譲渡制限などの規則は、「定款」(ていかん)で定める必要がある。\n定款(ていかん)とは、その法人(つまり、その会社)のルールを定めた文書であり、会社設立の際などには定款を作成しないといけない。\nさて、ある会社の株式が、定款上、ひとつでも株式に譲渡制限がついてなければ、(つまり、定款上、自由に譲渡できる株式が少なくとも一つの種類さえあれば)そのような会社のことを公開会社という。\nなお、上場企業(東京証券取引所などの証券取引所には上場してる会社)は必然的に公開会社である。もちろん、設立時に公開会社にしたからといって、けっして、それだけで証券取引所に上場できるわけではない。\n株の譲渡について、会社法では、定款に特に定めがないかぎり、自由に譲渡してよいものとされている。\n2023年の現在、東京証券取引所に、マザーズ市場とJASDAQ市場は無く、それらの市場は現在では「グロース市場」というものに当たります[1]。\n現在、東京証券取引所の市場は、プライム市場、スタンダード市場、グロース市場の3市場が設けられている[2]。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E7%A8%AE%E9%A1%9E%E3%81%A8%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E4%BC%9A%E7%A4%BE"} {"text": "世界恐慌の後、欧米主要国はブロック経済を推し進めた。そのようなブロック経済が国家間の対立を生んで戦争の一因になったという反省にもとづき、第二次大戦期の終盤ごろから、戦後の国際経済のありかたが国際会議で話し合われた。\n1944年にアメリカのブレトンウッズでの国際会議が話し合われ(ブレトンウッズ会議、ブレトンウッズ合意、Bretton Woods Agreement)、それらの会議などにより、自由貿易が推進され、また国際的な経済の安定化のため国際通貨基金(IMF、1947年〜、International Monetary Fund)や国際復興開発銀行(IBRD、1946年〜、International Bank for Raconstructuion)が設立された。\nまた、関税及び貿易に関する一般協定(GATT、「ガット」、1948年発効、General Agreement on Tariffs and Trade)では関税の引き下げなどの自由貿易が目指された。このような第二次大戦の経済秩序をブレトン・ウッズ体制またはIMF=GATT体制という。\n第二次大戦後、外国為替相場は金(きん)に裏付けされた金本位制だった。金1オンス=35ドル の交換をアメリカ合衆国が保証し、また、各国は自国通貨を一定額のドルと交換する固定相場制だった(戦後当初の日本は、1ドル=360円)。\nしかし、しだいにアメリカ合衆国から金が流出していき、そのため、ついに1971年にアメリカのニクソン大統領(Nixon)が金とドルとの交換を停止すると発表した(ニクソン・ショック)。\nこれにより、固定相場が崩れた。\nそのあと、ドルの切り下げ(1オンス=38ドル、1ドル=308円とするなど)で、固定相場制の維持を目指すスミソニアン協定がなされたが、しかし固定相場を維持できず、最終的に先進国は1973年から変動相場制に移行した。(つまり、スミソニアン協定は失敗した)\n1976年にIMFが変動相場制を正式に追認した(キングストン合意、Kingston System)。(つまり実質的に、スミソニアン協定の失敗をキングストン合意で認めた事になる)\n1980年代、レーガン大統領のレーガノミクス(Reganomics)と言われる政策により、財政赤字と貿易赤字の双子の赤字(ふたご の あかじ)が発生した。ドル高の是正(ぜせい)のため(つまり、これからドル安にするため)、1985年には、各国が協調してドル安にするために為替介入するという合意(プラザ合意)がなされ、ドル安が進んだ。\nプラザ合意の成果が行き過ぎ、急激なドル安になったので、こんどは1987年の先進国首脳会談(G7会議、サミット)で、ドル安を抑えようという合意(ルーブル合意、Louvre Accord)がなされた。\n2019年現在、国際貿易の枠組みとしてWTO(世界貿易機関)があるが、これは1980年代後半〜1990年代前半の貿易交渉であるウルグアイ・ラウンドという交渉がもとになったものである。(ウルグアイラウンドは交渉の名前。 協定の名前ではないので、勘違いしないように。)\nWTOより前の国際貿易の枠組みは、GATT(ガット)という協定だった。\n第二次大戦後の日本は当初、国際貿易はWTOによる加盟国内での差別のない貿易を中心としており、二国間貿易のFTA(自由貿易協定)には消極的だった。しかし、(1990年ごろには方針が転換され、)2002年にシンガポールと日本のEPAを皮切りに、以降は日本はFTAにも積極的に乗り出すようになった[1]。\n第二次大戦前のブロック経済が国家間対立を生んだという反省もあり、1948年の関税及び貿易に関する一般協定(GATT、「ガット」、General Agreement on Tariffs and Trade)では関税の引き下げなどの自由貿易が目指された。\nGATTの特徴として、すべての加盟国を平等に扱う( 無差別・最恵国(さいけいこく)待遇 )という仕組みがあり、GATTは「自由・無差別・多角」の3原則を掲げてスタートした。\nそして、GATTは発足以来、さまざまな多角的貿易交渉(ラウンド、Round)を行い、それを通じて、加盟国の関税の引下げなどを実現してきた。\n1963年のケネディ・ラウンド(Kennedy Round)では、一括して工業製品の関税を平均35%引き下げた。\n1993年代のウルグアイ・ラウンドで(Uruguay Round)は、農産物も例外無しとして議論が及び、また、サービス貿易や知的財産権(特許権、著作権、商標権などのこと)の国際ルールについても、議論が及んだ。 \n(なお、1973年〜79年には、東京ラウンドが開催されている。)\nそして、1995年には、ウルグアイ・ラウンドでの合意にもとづき、GATTを発展させた世界貿易機関(WTO、World Trade Organization)が設立された。そして当初のWTOはウルグアイ・ラウンドの合意内容を実施していった。\n近年では2001年に中国がWTOに加盟した。\nまた、2001年からカタールのドーハでドーハ・ラウンドが開かれ、交渉が続いている。ドーハ・ラウンドの交渉は難航しており、停滞している。\nドーハ・ラウンドの難航もあり、各国は、ラウンドによる一括的な貿易自由化ではなく、2国間の自由貿易協定(FTA)などで貿易の自由化を進め、国際競争に勝とうとしている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%A4%A7%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2"} {"text": "貿易では、その国が、相手の外国よりも安い値段で高品質に作れる製品を作ったほうが、両方の国にとって得である。\nまた、もし、ある国が、2種類以上の商品を相手国よりも安く作れるとしたら、相対的により安いほうの商品の生産に集中して輸出するほうが、さらに利益をあげられる。この、相対的に安い商品の生産・輸出に特化したほうが利益をあげられるという説を、比較生産費説(ひかくせいさんひ せつ)という。\n比較生産費説は、19世紀初めのイギリスの経済学者リカード(D.Rocardo)が初めて理論的に示した。\nこのような理論が、自由貿易を推進する立場の者たちの、理論的根拠となっている。\n特価前は、ポルトガルは80人でぶどう酒1単位を生産でき、90人で毛織物1単位を生産できる。これらの産業のポルトガルの生産者の合計は170人。\nイギリスは120人でぶどう酒を1単位生産でき、100人で毛織物を1単位生産できる。これらの産業のイギリスの生産者の合計は220人。\n特価前は、イギリス・ポルトガルの両国の合計で、ぶどう酒を2単位生産でき、毛織物を2単位生産できる。\n特価後は、ポルトガルは、ぶどう酒を 170人 ÷ 80 = 2.125 単位を生産できる。\nイギリスは、毛織物を 220÷100 = 2.2単位を生産できる。\nぶどう酒、毛織物の両方とも、特価前の2単位よりも生産量が増えている。\nこのような比較貿易の理論などにより、分業の理論が国際的な範囲にまで広がり、国際分業の理論ができていった。\nまた、アダム=スミスなどの自由経済の理論が、リカードらの比較貿易の理論によって、国際貿易の自由経済化の理論にまで発展したことになる。\n一方、現実の貿易は、けっして完全な自由貿易ではなく、実際には、何らかの規制を加えている。\n自由貿易論に反対して、19世紀の当時、工業が発展途上であったドイツの経済学者リスト(F.List)は、自国の幼稚産業(ようちさんぎょう、infant industry)を保護するための保護貿易が必要であると主張した。\n現代での保護貿易の手段としては、関税をかけたり、輸入数量に制限を設けたるなどの非関税障壁がある。輸入品の検査の厳格化も、非関税障壁となる場合もある。\n現代では先進工業国においても、自国の農業を保護するための保護貿易的な措置を行っている。\n日本でも、食料安全保障の主張などにもとづき、農業を貿易では保護している。\n国際分業には、おもに発展途上国が単純な部品や原材料を供給して先進工業国が複雑な加工などをおこなう垂直的分業と、一方、おもに先進工業国どうしが完成品や高度な部品を貿易しあっている水平的分業がある。\n21世紀の現代、モノの輸出入以外にも、外資系企業のサービスを受けることも「貿易」に含め、これをサービス貿易と言います。たとえば、マクドナルドで食事をすることも、サービス貿易です。外資系ホテルのハイアットやヒルトンなどに宿泊することもサービス貿易です。\nWTOでは、すでに1995年にWTO設立の際のマラケシュ協定で、サービス貿易の自由化についても協定があります。(なお、これらの国際会議はウルグアイラウンドの一部でもあるので、書籍によってはマラケシュ協定ではなくウルグアイラウンドで紹介されるかもしれません。)\n外国との商取引には、通常、ドルが基準に使われている(※ これは、中学校でも習っただろう)。このような通貨を、基軸通貨(きじくつうか、key currency キーカレンシー、国際通貨)という。\n外国との商取引では、現金ではなく、双方の国で、それぞれ為替手形(かわせ てがた)が使われており(外国為替手形)、決済は、日本の銀行と相手国の銀行を通して、決済を行ってる。\n顧客自身は、手形の取引を行わない。手形の直接的な売買を行うのは、銀行どうしである。顧客は、銀行の窓口で、外貨を入手できる。\n相場が「1ドル=110円」とかのように、相場が日々、変動するが、この相場の価格で、各国の外国為替手形が各国の通貨と取引されてるのである。\nなお、この「1ドル=110円」のような外国為替の交換比率の相場のことを、「外国為替相場」とか「為替レート」(かわせレート)とかいう。\nまた、この「1ドル=110円」などの相場は、日本と相手国との銀行間の相場である。\nなお、実際の銀行の窓口での外貨交換には、手数料が掛かる。\nいわゆる「為替介入」(かわせ かいにゅう)とは、ある国の通貨当局や中央銀行が、時刻に有利な相場を誘導するために、外国為替相場で通貨などを売買すること。しかし、外国の絡むことなので、自国だけでは操作しきれず、介入が失敗することもある。\nなお、一般に、金利が高い国の通貨には、金利の安い国の通貨から金利の高い国の通貨に交換することで利益をあげられる見込みがある。そのため、高金利の通貨の国ほど、相場での通貨が高くなる傾向があるので、政府や中央銀行が金利を操作することで、為替にある程度の介入をすることもある。\nつまり、日本での高金利は、円高の要因。\n日本で、もし輸入が大幅に増加すると、外貨(ドルが一般)が必要なので、円を売って外貨に変える必要があるため、円安になる傾向がある。\nということになる。(※ 参考文献: 清水書院『現代社会ライブラリーにようこそ 2018-19』)\n一国の一定期間(普通は1年間)にわたる、外国との、取引き金額の差引きの勘定をまとめたものを国際収支(こくさい しゅうし)という。\n国際収支を大きく分類すると、投資による資本のやり取りを示す資本収支と、モノやサービスの取引きの経常収支(けいじょう しゅうし)とに分類される。\nなお、経常収支は一般に、その期間内で取引きが完結する収支でもある。一方、資本収支は、一般に、次の期間にも影響の出る収支である。\n資本収支は、投資収支と、その他資本収支からなる。\n投資収支は、海外に工場を建てたり、相手国で直接工場を経営したりする直接収支と、外国の株式を購入する証券投資などに分かれる。\nその他資本収支は、円借款(えんしゃっかん)や、特許権の収支である。\n経常収支はさらに、貿易収支とサービス収支、所得収支、経常移転収支に分けられる。\nサービス収支は輸送の運賃や、旅行、その他サービスの収支からなる。\n貿易収支は、商品の輸出入の金額の収支である。\n貿易収支とサービス収支とを合わせて貿易・サービス収支という。\n第一次所得収支は、利子や配当金についての、外国との取引きでの収支である。\n第二次所得収支は、政府援助や、国際機関への分担金などである。\n経常移転収支は、食料・医療品などの無償援助である。\n1980年以降、日本の貿易収支は黒字が続いてきたが、2011年、東日本大震災による原発停止などで原油などエネルギー源の輸入が増加したことなどにより、2011年に日本は貿易収支が赤字になった。\n経常収支は、1980年以降、現代まで黒字である(2016年に記述)。\n近年の日本の資本収支は、投資収支が赤字である。これは、日本企業が、海外に積極的に工場を建てたり、外国の株式を購入しているからである。\n(「投資が赤字」ではなく、単に、海外に多くの工場を建てると、投資収支は赤字になるのである。逆に、もし外国企業が日本国内に工場をどんどん建てたとしたら、日本の投資収支が黒字になっていく事になるだろう。)\n日本は、その海外投資での収益を、経常収支の第一次所得収支として獲得しているため、日本は投資収支が赤字な一方で、経常収支が黒字になっている。\nなお、日本の国際収支において無償援助や国際機関への拠出をしているため、経常移転収支は赤字である。\n高度経済成長時代の「国際収支の天井(てんじょう)」は、1970年代には国際収支が黒字になり、解決された。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E7%B5%8C%E6%B8%88%E3%81%AE%E3%81%97%E3%81%8F%E3%81%BF"} {"text": "(※ EUは経済統合だけでなく外交や安全保障などの連携も目指した国際機関であるが、本ページでは主にEUの経済統合について説明する。)\nヨーロッパでは、1967年には、ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が統合され、EC(ヨーロッパ共同体、European Communities)が成立した。\nヨーロッパでは、ECが1992年のマーストリヒト条約により、1993年にEU(欧州連合)となった。また、EU化にともない、1999年からは金融分野の共通通貨としてユーロ(Euro)が導入され、2002年からは現金通貨としてユーロが流通するようになった。\nまた、2007年にリスボン条約が調印され(2009年にリスボン条約が発効)、EU大統領(欧州理事会常任議長)やEU外相(外務・安全保障政策上級代表)が置かれるようになった。\nギリシャでは2010年〜2011年に財政危機が発生した。\nそのため、EUでは欧州安定メカニズム(ESM)が2012年に設置された。\nなお、ギリシャ財政危機により、ユーロが対ドル、対円(日本円)に対して下落した。\nなお、イギリスはユーロに加盟していない。\nEUに加盟をしていても、ユーロに加盟していない国がある。\nイギリス・デンマーク・スウェーデンは、ユーロに加盟してない。\nなお、そのイギリスは2020年、EUを脱退した。イギリスのEU脱退のことを俗(ぞく)に「ブレグジット」という。(※ 東京書籍の「地理総合」で記述を確認)\n他地域での経済統合では、APEC(アジア太平洋協力会議、発音:エイペック)、NAFTA(北米自由貿易協定、発音:ナフタ)などがある。\n北アメリカでは、1992年にNAFTA(北米自由貿易協定、発音:ナフタ)が、アメリカ・カナダ・メキシコにより、結成された。\nまた、アメリカは2018年、原産地規則を強化したUSMCA(アメリカ・メキシコ・カナダ協定)を締結した。(※二宮書店の「地理総合」で記載を確認)\nアメリカはTPPからの離脱を表明した。\nいっぽう、南米では、1995年にブラジル・アルゼンチンなどにより南米南部共同市場(メルコスール、MERCOSUR)が結成された。\nなお、近年、南北アメリカ共通の経済統合の「米州自由貿易地域」(FTAA、Free Trade Area of America)を結成しようという動きがあるが、まだ実現していない。\n東南アジアでは、ベトナム戦争を背景に、自由主義勢力が社会主義勢力に対抗するため、1967年にインドネシア・マレーシア・フィリピン・シンガポール・タイの5ヶ国からなる東南アジア諸国連合(ASEAN)が発足した。ベトナム戦争の終結などもあり、ASEANは地域間の経済・外交協力などをする機構へと変遷していった。そして、ベトナムも95年にASEANに加盟した。\nアジア・太平洋地域では、1989年からオーストラリアの提唱でAPEC(アジア太平洋協力会議、発音:エイペック、Asia Pacific Ecomic Cooperation)が結成され、オーストラリアや日本・中国・韓国や北アメリカなどの国が加盟しており、域内の貿易・投資の自由化などを目指している。\n近年、環太平洋経済連携協定(TPP、Trans Pacific Partnership)について議論されており、アメリカ(のちに離脱を表明)やオーストラリアなどが交渉に参加しており、日本も交渉に参加しており、原則的に加盟国間ですべての関税の撤廃を目指すようだが、内容にはまだ未定・不明な事項がある。\nTPPはもともと2006年にシンガポール・ニュージーランド・ブルネイ・チリの4ヶ国が結んだ経済協定である。\nこの4ヶ国の経済協定に、アメリカ合衆国やオーストラリアが参加を表明し、日本の貿易相手として重要なアメリカ・オーストラリアなどの国が加わったこともあり、日本もTPPを意識せざるを得なくなった。\nアジア通貨危機は1997年にタイで起こり始め、タイの通貨バーツが暴落し、暴落は各国に及び、韓国などにも及んだ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E7%9A%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E7%B5%B1%E5%90%88"} {"text": "産業の中心が、一次産業から二次産業、二次産業から三次産業へと移ることをぺティ・クラークの法則という。そして日本では経済のソフト化が進んでいる。\n北と南の国際的な格差問題を南北問題(North South problem [1])という。発展途上国が宗主国の影響でモノカルチャー経済に陥っていることが原因である。工業化を目指し資金を借り入れた国では累積債務問題が発生し、支払いのリスケジューリングなどの対策がとられた。逆に工業化に成功した国々はNIEsといわれた。工業化がなされていない国は後発発展途上国と呼ばれている。先進国側ではDACが置かれた。途上国側では、第1回国連貿易開発会議にてプレビッシュ報告がなされて、70年代にはNIEOが宣言された。\n先進国政府の援助はODAとよばれ、グランド・エレメントという指標がある。日本の二国間ODAの特徴として、アジアからアフリカへと配分が変わってきている。\n日本とアメリカの間では貿易摩擦や経済摩擦が起こったので、日米構造協議や日米包括経済協議といわれる交渉が行われた。\n2015年ごろ「相対的貧困率」という用語が流行した(2017年度センター試験にも出題された)。「相対的貧困」の内容は、単なる所得格差のことである。なので、所得格差の高い国ほど、相対的貧困率が高くなる。\nよって、アメリカ合衆国は相対的貧困率が高い。\nなお、2000年度の各国の相対的貧困率は、(2017年度センター試験によると)\nである。\n左翼運動化はよく「ドイツに見習え。欧州に見習え」というが、日本と比べてドイツの相対的貧困率は、それほど低いわけでもない。\nシビリアン・コントロールとは、\n(誰が?)→(どうする?)→(何を?)→(どうやって?)\n国民が → コントロールする → 軍隊を → 選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて\nということです。\nつまり、「国民が、選挙で選ばれた国民の代表(政治家)を通じて、軍隊を、コントロールする。」ということです。\nシビリアン・コントロールのよりくわしい内容については、ウィキペディア文民統制を参照ください。\n高校の公民(「政治経済」や「公共」など)だと、教科書の章末や巻末などで、2つの対立概念を提示していて、それぞれの立場からの議論を手短かに展開しています。で、その章末などの議論の例では、2つの対立する意見を紹介しています。たとえば、「政府は日本は農業を保護するべきか」\nみたいなのです。\n他にも、男女平等をどうするのかとか、国際化と日本文化との問題をどうするかとか、科目と時代によって色々と教科書に議論が載っているでしょう。\n政治の問題などは、個人が一人で進めるわけにはいかないので、少なくとも政治家や知識人などが議論をせざるを得ません。\nある程度の検証をされている対立意見に耳を傾けて(時間に限りはありますが)、さらにそれを自分らでも検証したりするのが、本当の議論です。\n農業問題など政治問題の、議論の典型的な主張の内容を覚えるのも大切ですが、それと同じくらい、政治経済についての議論のマナーを身に着けるのも大切です。\n教科書巻末などの「議論」は、おおむね、下記に述べるような手法で、議論が展開されているだろうと思います。読者が将来的に議論をしたり読んだりする際の参考にしてください。\n高校の公共などの科目で、「エコー・チェンバー」と言う用語を習います。エコーチェンバーとは何かについては『中学校社会_公民/世論とマスメディア#※_中学の範囲外:_情報の片寄り』を参照してください。\nさて、対立意見を両方の立場でそれぞれ読んだりすることで、読者はエコーチェンバーを自動的に防げます。\nだから教科書の巻末・章末の議論にある対立意見も、かならず両方の意見にきちんと目を通しましょう。\nさて、教科書以外の読書のさい、決して、やみくもに書籍をたくさん読んでも、もし自分とまったく同じ意見の人の本ばかり読んでいてはエコーチェンバーになってしまい意味がありません。だから教科書以外の読書では、時々でよいので、自分の価値観とは反対の主張がされている本も読みましょう。\nたとえば自分が「農業をもっと保護すべき」だと思うのなら、その逆の「農業をもっと自由化・規制緩和・補助金削減しろ」みたいな論者の主張の書籍をときどきは読むべきなのです。\n議論のための前提として、正しい反対意見によって間違った学説を淘汰(反証)して修正できる仕組みが確保されていなければいけません。このような仕組みのことを、科学哲学(かがくてつがく)という学問でも「反証可能性」と言います。科学哲学者カール=ポパーの提唱した概念です。\n人は誰しも、「自分の意見こそが正しい」と先入観を思いがちですので、だから対立意見にも耳を傾けて、自分の考えを現実を説明できる正しい考えへと修正するのが大事なのです。もっとも、人生の時間には限りがあるので、なんでもかんでも文句を聞き入れるのではなく、的確な統計などのまとまった優れた対立意見だけを聞くことになるでしょうが。\nたとえば理科なら実験や観測で間違った学説を淘汰できるし、数学なら証明や計算で間違った学説を淘汰して修正できますので、反証可能性があります。\n社会科・政治経済でも、統計などで、政策や法律などの効果を、ある程度は検証して修正できますので、数学ほどではないですが反証可能性のようなものは存在しているでしょう。\n本ページでは修正と言ってますが、マチガイがあっても、間違った部分だけを限定的に取り除いて、正しい情報に交換すればいいのです。学説全体を無くす必要はありません。少なくとも学問の世界ではそうです。\nよほどマチガイの割合が多い学説なら、ゼロから学説を作り直したほうが早いですが、しかし市販の書籍などに紹介されるような学説やら政策などの場合なら、マトモな出版社から出ている教科書や書籍なら、ゼロから学説・主張を作り直すのは時間の無駄です。そもそも学問というのは、アイデアを共有する知的な営み(いとなみ)でもあります。\n文学や芸術や哲学など、統計などによる検証が難しいかもしれない学問もあるかもしれませんが(そのため科学哲学の「反証可能性」がなじまない分野もあるかもしれませんが)、少なくとも政治学と経済学は、統計などによる反証可能性が必要ですし、実際に統計などによる反証による学問の発展が可能です。\nしかし、仮に文学そのもに反証可能性が仮に無いとしても、文芸小説などを売っている出版社には利益というお金が必要であり、社会でのお金の流れは経済などの影響を受け、そして経済学には反証可能性があります。だから出版人は、経済の反証可能性を無視することはできません。少なくとも最終的・長期的には、文学人などと言えでも経済などの反証可能性のようなものを無視できません。\nさて、もし、ある仮説において、反証可能性が確保されていないと、少なくとも「科学」 science とはみなされません。まあ、哲学も法学も「科学」 science ではないのですが。もっとも、法律でも、裁判の原告と被告の法廷闘争を思い起こせば分かるように、対立意見どうしを裁判官が聞いています。\n芸術など一部の分野では例外があるでしょうが、多くの学問の分野で、反証可能性は尊重されているだろうと思います。というか、日本の大学研究者への補助金の科研費(科学研究費)は、少なくとも建前上では科学的でないと予算がおりません。「科学研究費」「という、その名の通り。\n高校の「政治経済」や「公共」などの公民科目の検定教科書を作るような人たちは当然ですが、「反証可能性」などの概念を知っているだろうから、だから巻末などの議論でわざわざ対立する主張を提示しているのです。\nなぜ、わざわざこういう事を言うのかと言うと、世間の教育評論家のなかには、これが出来ていない人が多くあります。世間では、知的なレベルの低い人でも教育評論をしています。世の中には、こういう反証の基本的な検証作業のできないオトナもいて、高校生以下の知力のオトナもいます。困ったことに、そういった人でも大卒などの学歴を手にしてしまっている場合もあります。\n反証可能性の確立のためには検証が必要ですので、政治経済の議論の場合なら、統計などの具体的で数値的な情報が必要です。もしくは、「西暦〇〇年に□□が起きた」みたいに実際に歴史上に起きた事例などです。\nおそらく、政治経済の巻末にある議論の例でも、数値などが提示されているか、もしくはインターネットを使えば省庁や学会などの調査した統計にアクセスできるような具体的な情報が提示されているかと思います。\nこういった政治学・経済学のような議論の際には、けっして、あいまいな表現や主観的な表現を、議論での主張の根拠にしてはいけません。\nたとえばダメな例として、「私は農家が好き」とか「農業って面白そう」とか「農家は偉い」とか、あなたがどう思っても、そういうのは日本の農業政策をどうすべきかとは関係ありません。農業に限らず在日外国人の議論でも男女平等の議論でも何でも同様、あなたの思いは、とりあえず社会の議論としては検証には関係ありません。\nもっとも、「日本国民の〇〇パーセントは農業について好意的印象を持っている」と言ったような大規模アンケートなどの結果なら、議論の根拠にする意味はあるかもしれません。しかし、少なくとも、あなたの好き嫌いは議論の検証結果には関係ありません。\n自分に都合よく自分勝手に解釈できてしまい内容を都合よく変更できてしまう表現をしていては、議論が深まりませんし、相手や第三者からすれば信用もされません。\n他のダメそうな例として、「善」・「悪」というのも、政治経済の議論としては要注意の表現です。往々にして個人的な「好き」をもっともらしく言い換えただけのゴマカシの表現が「善」だったりする場合もあります。\n窃盗(せっとう)などの明らかな犯罪ならともかく、あるいはウソツキなど議論の妨害行為ならともかく、法律違反でもウソツキでもないのに何かを「悪」と断じる人には(たとえば「日本の農業政策の〇〇は悪である」みたいな)、議論では注意が必要かもしれません。\nなにより問題なのは、善悪を理由にして、対立意見を悪だと断定して、そして対立意見を耳に入れようとせずに現実を無視する人が、世間には時々います。\nしかし、自分に近い意見だけを耳にしていては、エコーチェンバーにおちいってしまいます。どんなに人数だけは多くの人の意見を聞こうが、書籍数だけは多くの書籍を読もうが、自分と同じ意見だけの本を読んでいてはエコーチェンバーになるので、政治経済の勉強としては無駄になってしまいます。\nさて、最近(2023年に記述)は少なくなりましたが、2005年あたりまでは、左翼マスコミや左翼政党などの左翼主張を並べ立てて対立陣営を批判するだけの行為を「議論」だと勘違いしている、ヘンな人もいました。\n大物の左翼政治家だろうが右翼政治家だろうが、それは何の統計でもなく、だから政治経済の議論においては、まったく証明の根拠の主流にはなりません。他に統計などがある場合の傍証(ぼうしょう)にはなるかもしれませんが、しかし証明の主流の手段にはならないのです。\n例として、2005年くらいの「つくる会」の歴史教科書運動のとき、以前の教科書の中立性などが疑問視されたのですが(ロシアや中国など旧・共産圏に好意的すぎないか、など)、ネットの意見やら一部の評論家などから、「以前の(つくる会以外の)教科書は中立的で正しいに決まっている。なぜなら、中高の教科書を見ても書いてある話題を紹介しているだけだからだ」という言説がありました。\nしかし、そもそも、当時の議論していた問題こそ、その根拠として提示されている中高の教科書の記述内容の妥当性です。\nこのように、なにかの議論で妥当性を検証する際は、根拠には、検証しようとする対象以外のものを根拠にしないといけません。\nたとえば、中高の歴史教科書の記述の妥当性を検証しようとする場合なら、大学レベルの学術書をいくつも読んだり(歴史学の学術書を読むのは当然、歴史学の公平性そのものを検証するために他の学問の書籍も多く調べる必要があるかもしれません)、論文を読んだり、そのほか、多くの歴史評論なども読む必要もあります。とても大変な活動です。\nこのように多くのものを読まないといけないのに、しかし世間では、そういう読書をサボって、検証対象になっている書籍だけしか読まずに、にもかかわらず、なにかを検証したつもりになっている頭のわるい人が、世間には少なくないのです。\n「先生の言っていることは正しいと思いま~す。なぜなら、先生がそう言ってたからで~す!」みたいな理屈は、なんの証明にもなっていません。\nこういうのを循環論(じゅんかんろん)と言います。循環論とは、証明しようとする対象そのものを根拠として理屈を展開してしまう、論理展開のミスことです。\n教育問題以外でも、循環論はよくありました。たとえば新聞の信頼性の議論で、「朝日新聞・毎日新聞などの主張は正しいか」という議論なのに、その根拠として朝日新聞・毎日新聞などにありそうな言説を根拠にする人もいたのです。同様、「産経新聞の主張は正しいか。正しい。なぜなら産経新聞に書いてあった内容と一致するから」みたいな困った言説もよくありました。\n朝日新聞とテレビ朝日の関係のように大手新聞社はテレビ局を持っていたり、雑誌も「週刊朝日」とかありますので、新聞の信頼性を証明する際に根拠とする情報は、新聞・テレビ以外のものでないといけませんし、系列の出版社以外の情報源でないといけません。\n他にも要注意の表現として、「大きいので」とか「小さいので」などの表現も要注意です。「何と比べて大きい/小さい から」なのか、大小の基準をなるべくハッキリさせましょう。他の例として「強いので」・「弱いので」も同様、基準の必要な表現です。\n議論でマチガイを突っ込まれると、基準を都合よく後から操作する人がいます。\n素直に間違いを認めればいいのに、たとえばマチガイに気づいた時点で議論相手に「私のマチガイでした。なので、基準を変えますね。では、新しい基準で議論を続けて、議論を深めましょう」とか言えばいいのに、\nしかし自分のマチガイを認めたくないばかりに(なぜなら「自分がバカだった」と認めたくないので)、だから基準を最初から提示しない人がいるのです。\nしかし、そういった態度では、議論が深まりません。\nマチガイを認めないことこそ、本当のマチガイです。古代中国の孔子(こうし)も「過ちて(あやまちて)改めざる。 これを過ち(あやまち)という」と述べています。\nさて、仮に事実が一つだとすると、対立する2つの政策意見のうち、少なくともどちらか一つの主張は、思考法などのどこかが間違っているわけです。\nしかし、マチガイのない人間はいません。仮に人間が間違えたとしても、それでも実用的な政策などを決めるために、議論をするのです。人間の集団がイキイキと生きていくためには、今後のことをどうするかを主体的に決めなければいけません。\nマチガイを恐れて何も主張しなければ、何も決定に影響を与えられません。そのせいで何も決定できなければ、何も事態が改善されません。たとえば大地震でも大災害でも何でもいいですが、そういった事が起きたとき、マチガイを恐れて何もしないで被災者を放置することが、一番のマチガイです。\n政治ではないですが、裁判での原告と被告との法廷闘争も似たようなものでしょう。\n人間が死んでないかぎり、間違っても、やり直せばいいだけです。\n反証可能性とはあまり関係ない話題ですが、議論のマナーとして、議論開始前に事前に提示された論点をずらしてはいけません。\nよくあるマナー違反が、新たな視点にて論点を追加した際に、どさくさに紛れて不都合な論点を消そうとする、迷惑な人です。\nたとえば、先に2022年の自民党政権のときの物価高を問題視する議論で、「じゃあ2010年代前半の民主党政権のときのデフレ不況はどうだったんだよ!」と意見を出してきたりして、議論を2022年の話から2010年代前半の話に変えようとするような行為です。しかしこれは議論ではありません。\nなぜなら、2010年代の不況の原因がデフレであろうがなかろうが、2022年代が物価高であった事実は統計などから明白だからです。\nしかし世間には、論点を追加することで、不都合な以前の論点をうすめようとしたり消そうとしたりする人がいます。\nもちろん、かならずしも論点を追加する人が悪意とは限らず、純粋に視野の広い人が善意で論点を追加する場合もあるので、いちがいに批判はできません。しかし、そういう善意の人のふりをして、論点を追加することで、不都合な論点をすりかえようとする悪意の人もいます。\nこのような卑怯な論点のすりかえに対抗するため、もし論点があらたに議論中に追加された場合は、追加されたほうの論点は議論の後回しに分けて、時間が余った時などにだけ議論するのが良いでしょう。もしくは、1~2分など短時間にだけ新規の論点について説明してもらうのが限度でしょうか。\n事前に計画された古い論点から、(自分が)逃げない、(相手を)逃さないようにしましょう。最悪、そのような議論のルールを守れない人は、議論から追い出す必要があるかもしれません。\nもし古い論点そのものに問題がある場合でも、それは議論を開始する前に指摘しておきましょう。もし議論開始後の議論中に新規に追加を主張された論点があっても、新規追加されたほうの論点は後回しにされなければなりません。\nなお暗黙の前提として、こういった論点のスケジュール管理をできるようにするため、論点は箇条書きに分けましょう。また、箇条書きにされた一つ一つの論点は、なるべく短めの文章にすることです。\n中学高校あたりの国語や社会科での議論やディベートの実習だと、先生がこういった論点の管理をしてくれますが、しかし学校以外では自分たちで論点をきちんと管理するしかありません。\n逆に言うと、もし論争相手から論点の変更が主張されていなければ、論争相手から不都合な統計などを出されたりしたら、その統計に不備が見つけられない限り、少なくともその統計を認めなければいけません。\n大学などでは、もしアナタが政治的・経済的な思想を主張したいなら、ふだんの読書のさい、入門レベルの分かりやすい本でも良いので、最低でも3冊はアナタの主張と対立する意見の根拠が書かれている本を読むのが良いとされています。知識人のように、政治・経済について主張したいなら、そうすべきでしょう。\nその根拠として、\nなので、これらを組み合わせると、もし読書で議論のように考えを深めたいなら、自分の考えとちがった対立意見の本を最低でも3冊は読むことになるでしょう。\n高校の在学中は時間的に難しいかもしれませんが、大学や就職後などの読書では、次第にこういった読書法も身に着けることになるでしょうか。\nたとえば、アナタが左翼思想の持ち主なら、最低でも3冊は右翼思想の本を読む。逆に、アナタが右翼思想の持ち主なら、最低でも3冊は左翼思想の本を読む。・・・といった具合に、です。\nもちろん、自分の考えと近い内容の本については、もっと多くの十冊以上とか読むわけです。\nもし、親書やら文庫のたった3冊すら読めないレベルの読書週間なら、あるいは対立意見の本を読むのに精神的に耐えられないなら、そもそも思想とかに深入りするのをヤメたほうが安全です。\nたった3冊すらも対立意見の本を読めない程度の精神力の弱さなら、スポーツや芸能などのよほどの天才でもない限り、世間の常識にしたがって普通の仕事に就職して、普通に上司に従ったりなどして生きていくほうが安全でしょう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%AB%B8%E8%AA%B2%E9%A1%8C"} {"text": "国家は、国民にさまざまな義務を課すが、近代立憲主義思想において、憲法などによって国民に課される義務の正当性の根拠とは、国民どうしの人権の衝突を防ぐなどの理由である。(※ べつに私の持論ではなく、清水書院の検定教科書などに、こういう理屈が書いてある。)\nただし、以上のハナシはあくまで、国家と国民との間での、「権利と義務」の関係である。\nそれよりも、これから大人になる高校生読者にとって重要なハナシは、国民どうしにおける個人間での権利と義務の関係は、国家・国民間の権利義務の関係とは、すこし異なる、ということである。 (※ ココらへんの話題も、検定教科書の範囲内です。 うたがうなら、清水書院などの検定教科書を読もう。)\nもちろん、(国家対個人の場合と、個人間の場合とで、権利・義務の関係が)まったく異なるというわけではない。\nさて、次の節で述べるように、個人と個人との間での契約において、両者とも原則的に契約を守る義務がある。\n憲法などで規定される「自由権」の内容は、基本的には、「国家は、国民に対して不当な束縛をしてはいけないという」ような内容です。なので、自由権の内容は 国家からの自由とも言われます。[1]\nそのため、必ずしも現代の民主主義国に住む私たちは、国家以外から自由にはなれません。\nたとえば、契約などは守る義務があります。その契約が違法でないかぎり、契約をやぶる自由なんてありません。\nべつにwiki編集者の歴史観や政治観などが統制主義的とかそういう事ではなく、そもそも政治学の通説で、自由権とは「国家からの自由」という意味です。\nまた、けっして『公共の福祉』などの例外規定のことを言っているのではない。そもそも自由権とは、国家からの自由しか扱っていないので、公共の福祉とは関係なく民間どうしの契約などにもとづく義務からは自由になれない。\n検定教科書に書かれていないのは、単に検定教科書では(教科書検定では極度の客観性を要求しているので)通説を書けないからでしょう。NHK教育の政治経済でも「国家からの自由」は普通に紹介されている通説です[2]。\n個人と個人との間での契約において、両者とも原則的に契約を守る義務がある。\n買い物などにおける、権利と義務の発生について、考えれば分かるでしょう。\nたとえば、売買契約が成立すれば、買い主は、代金を払う義務があります。(この場合、代金を支払うことは「債務」(さいむ)に分類される。債務については後述する。)\n一方、売り主には、買い主に代金を支払うように請求できる権利があります。(この場合、買い主に代金を支払うように請求できる権利が、「債権」(さいけん)である。債権については後述する。)\nこのように、個人間では、契約によって、権利と義務が同時に発生します。 (※ 検定教科書の範囲内です)\n契約によって発生する義務のことを債務(さいむ)という。同様に、契約によって発生する権利のことを債権(さいけん)という。(※ 「債権」「債務」は検定教科書の範囲。第一学習社の政治経済の教科書パンフレット(公式サイトより)で確認。)\nつまり、契約によって、債権と債務が同時に発生します。\nさて、一方、売り主は、代金が支払われれば、商品をすみやかに渡す義務があります。(「代金が支払われれば、商品をすみやかに渡す」という債務)\nまた、買い主は、代金を支払ったあとなら、売り主に商品を引き渡すように請求できる権利があります。(「代金を支払ったあとなら、売り主に商品を引き渡すように請求できる権利」という債権)\nこのように、代金の支払いによっても、権利と義務が同時に発生しています。 (※ 検定教科書の範囲内です)\nつまり、代金の支払いによっても、債権と債務が同時に発生しています。\nこのように、契約によって、権利だけでなく義務も発生しますので、契約をする際には、契約内容をきちんと調べるなどして、注意をしましょう。(※ 中学高校の検定教科書の範囲内です)\nさらに「契約自由の原則」といって、基本的に、国家権力は個人間の契約については、あまり規制をしないのが原則です。(※ 検定教科書の範囲内です) 通常の買い物などでは、個人と企業間の契約も、国家権力はあまり規制をしません。\nそのため、もしアナタが契約内容を理解してないと、自分に不利な契約をしてしまう場合もある。\nなお、個人と個人との関係や、個人と企業(株式会社など民間企業)などのような、民間どうしの関係を、私人間(しじんかん)と言う。\nつまり、「契約自由の原則」により国家権力は、私人間の契約を、あまり規制しない。\nこのように個人間の契約においては、自由には責任が ともないます。\nもっとも、なんでもかんでも契約なら自由というわけではなく、たとえば労働契約では、労働基準法に定められた最低賃金を下回る給料での労働契約は無効である、・・・などのように「契約自由の原則」には例外もある。\nまた、契約内容がウソの内容である「詐欺」(さぎ)などの場合、契約を取り消しできる場合もある。(高校の「現代社会」の教科書などで習う。)脅迫をされて、むりやり契約をさせられた場合も、契約を取り消せることが、民法などに定められている。\nしかし、詐欺や脅迫である事を証明するのが難しい場合が多いのが実情である。(高校の「現代社会」の教科書などで習う。)\n労働基準法違反や詐欺や脅迫などのような例外的な場合をのぞけば、原則として「契約自由の原則」により、個人間の契約においては、自由には責任がともなうので、原則的に契約を守る義務を、(司法を含む)社会から要求される。\nたとえば、「借りたカネを返さない」などのように、もしも借金の契約に違反すると、場合によっては、裁判(借金の裁判は、普通は民事裁判であろう)にかけられてしまい、そして判決では、財産を取り上げられるなどの強制執行の判決が出る場合もあります。(※ 「強制執行」は、中学公民の検定教科書の範囲内です)\n民事裁判において、裁判官はどのような考えにもとづいて判決を出さなければならないかは、民法などの法律に書いてある。(中学公民および高校「現代社会」「政治経済」の範囲内。)\n民法では、個人と個人どうしの契約についての法が、定められている。なお民法では、契約についての定めの他にも、婚姻や親子関係、相続、損害賠償などについても民法で定められている。(※ 検定教科書の範囲。帝国書院などの現代社会の教科書パンフレット(公式サイトより)で確認。)\nなお、所有物は、原則的に、法律の範囲内なら、どう使用しようが自由であり、この原則を「所有権絶対の原則」という。(東京書籍の「現代社会」科目の教科書パンフレット(web)などで記載を確認。)\nなお、当然のことだが、親は子を育てる義務を負う。なお、このような、家族間で生活を援助する義務のことを「扶養義務」(ふよう ぎむ)という。未成年の子は、親の保護監督に従う義務がある。(※ 「現代社会」科目の範囲(東京書籍の教科書などで確認)。常識として、「扶養義務」などは知っておこう。)\n親には、子供を保護・教育の方法などを、親がある程度自由に決められる権利があり、また子供の財産などを管理できる権利があるが、これらの親の子に対する権利を親権(しんけん)という。(※ 「現代社会」科目の範囲(東京書籍の教科書などで確認)。「親権」は常識的な知識。)\n結婚している夫婦は、同居義務があり、扶養義務がある。\nさて、成年者は原則的に、自由に契約ができる。(契約自由の原則) \nしかし、精神障害・身体障害などの重度の障害の場合や、または老齢などで、法的な判断が困難な場合もある。法的な判断が困難な場合に、成年後見制度(せいねんこうけんせいど)によって法的な判断の権利を後見人に預けたり、または後見人に法的な判断を助けさせたりすることができる。(※ 「現代社会」科目の範囲(東京書籍の教科書などで確認)である。)\n民法などに、親子の法的義務、夫婦の義務、相続、成年後見制度などの規定が定められている。\n相手方が債務どおりに実行しない事態(債務不履行(さいむ ふりこう))のように、契約違反によって(主に金銭的な)損害を負わされたりした場合、契約違反をした者に対して損害賠償を請求できる、という内容の規定が民法にある。また、事故などの過失によって損害を負わされた場合も、その事故を起こした者に対し、損害賠償を請求できる場合がある。(※ 第一学習社などの検定教科書に記述あり。) ただし、事故を起こした者(加害者)が、事前に(法律的に)充分な注意をしていた場合で、それでも事故が起きてしまった場合は、損害賠償をまぬがれるのが原則である。つまり、法的に充分な注意をせずに事故を起こした場合に(なお、このような場合を「過失」(かしつ)という)、加害者は損害賠償の責任を負う。\nつまり、加害者に過失がある場合に、加害者は賠償責任を負う。\nなお、債務不履行とは、文字通り「債務が実行されない」というような意味である。\nたとえば、「貸したカネを、返してもらえない。」「借りたカネを、自分の所持金が足りないので、(カネを)返せない。」とか、または「商品の代金を支払ったのに、商品が引き渡されない。」などの事態も、債務不履行である。\nさて、国家や地方公共団体が不法な行為をした場合には、国家や地方公共団体に対しても損害賠償をするように請求でき、このように請求できる権利を国家賠償請求権という。\n国家や地方公共団体に対する損害賠償の法律として、国家賠償法がある。(※ 「現代社会」の教科書などで、国家賠償法を紹介している教科書会社もある。山川出版社など。) 憲法17条の「国及び地方公共団体の賠償責任」をもとづき、国家賠償請求権がある。\n(※ 政治経済の検定教科書にも、右表のような「公共の福祉」の一覧表があり、高校「政治経済」の範囲内です。)\nという事は、裏を返せば、他者の権利を守るためなら、権利は制限されるという事である。\n生存権のような基本的人権を除けば、もはや他の権利は、あまり基本的ではなく、特別な理由があれば、制限されるのである。\n中学校で習ったように、・・・\nなどのように、自由権が制限される場合もある。\n一般に日本の法律などでは、(日本国憲法の定める)「公共の福祉」などの概念によって、最小限の権利制限であるならば、「権利」というものは制限可能である、・・・と考えられている。\n「公共の福祉」とは、自分の人権と、他人の人権がぶつかったときに、それを調整・解決するための原理である[3]。人々どうしの、それぞれの権利と権利が衝突したときの解決の原理が、公共の福祉である。\nつまり、人権は、他者の人権とも衝突することがある。これを「人権の衝突」と言う[4]。\nだからといって、「他人の権利を守るため」などの名目で、なんでもかんでも言動を禁止していいわけではない。\nたとえば、広場などでのデモなどの「集会の自由」だって、その広場で別のことをしたい別の人の自由の権利との衝突をしているのである。なお実務的な解決法としては、デモは、時間を限定して許可される[5]。これも「公共の福祉」の運用の例である。\nあるいは、(憲法では規定されていないが)プライバシーの権利は、表現の自由との衝突をしているのである。\nこのように、権利は他者の別の権利と衝突することがあるので、権利の濫用(らんよう)は出来ないのが実態である[6]。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%A8%E7%BE%A9%E5%8B%99"} {"text": "これは、高校の日本史科目や政治経済史における、主に20世紀の、昭和の戦後史およびその前後の歴史(戦前史や平成初期史)を解説する際に必要になる「右翼」「左翼」、「保守」「革新」の用語の意味の把握のためのページです。\nしたがって、令和における「保守」「革新」などの意味とは違います。\n(※ 編集者への注意) 昭和と現代とで「保守」「革新」などの用語の意味の違いがあっても、直さないでください。このページは主に昭和史・20世紀史のためのページです。よって、現代における言葉の意味とは異なる場合もあります。決して、時事の政治評論における意見対立の紹介のページではありません(書籍『日本の論点』のようなページではありません。)。\n第二次大戦後の「保守」政党としては、\n板垣退助の自由党の人脈の流れを継承しているという。日本の自由民主党は、憲法改正によって自衛隊を軍隊として憲法で正式に認めさせることに、他党よりも比較的、積極的である。そもそも、第二次大戦後の自民党の結党の目的のひとつが自衛隊を軍隊として追認させるために憲法改正することであり、現在も改憲を目指している。なお、自民党は1955年に結成された。また、自民党は、日米安保およびアメリカを同盟国とすることに積極的である。 \nまず、第二次大戦後のころの日本には「社会党」(しゃかいとう)という、けっこう規模の大きな政党があった。正式名称は「日本社会党」である(「社会党」は略称)。(2016年の時点では、「社会党」「日本社会党」という名称の政党は、日本には存在しない。)\nなお、日本社会党は1945年に結成されたが、母体となった戦前の政党の対立関係から一時分裂する。1955年に分裂が解消された。\nこの日本社会党は、自衛隊を国防軍のようにする憲法改正には反対であった。自衛隊反対の根拠は、w:非武装中立論である。\nまた、アメリカの同盟国となることも、軍事的な連携にも消極的・批判的であった。よって、自民党とは、自衛隊のあり方については、日本社会党は反対の立場であった。\nなお、現在の「社会民主党」は、その日本社会党の系統の政党である。また、2009年に政権与党にもなった民主党(2016年に「民進党」と改名)には、それ以前に社会党から民主党に移った議員も多かった。\n日本語では、自国や自民族が持っている元来の文化、伝統、風習、思想等を重視した政治思想とその支持者のことを右翼(うよく)とよぶ。一方、現在の政治・経済のあり方に批判的で、特に国王・貴族・特権層による専制政治や資本主義のあり方に対して変革を求める政治思想とその支持者を左翼(さよく)とよぶ。\n語源は、一般的な説では、フランス革命のときの国民議会の用語らしく、議会の陣営についての用語である。フランス革命のときの議会で、王党派・貴族派といった伝統勢力の議席が、議長から見た方向で議事堂の右側に多く、いっぽう、革新派の議席が議事堂の左側に多かったのが、由来である。\nなお、英語でも、右翼思想のことを「right」(ライト)または right wing という。みぎ方向をあらわす英単語 right と同じスペルである。左翼思想のことは「left」(レフト)または left wing という。ひだり方向をあらわす英単語 left と同じスペルである。 \n右より、左より、左右の立場、などの言い方もされ、多くの人が何だかんだで政治について語るときになじみの深い言葉だろう。\n第二次世界大戦前では、「右翼」は反・欧米である。(戦後とは違うので注意。)\n戦前の「右翼」は日本政府の欧米協調路線に反対して、中華民国や東南アジアの革命家などとの連帯を主張、ともに欧米と戦おうという「アジア主義」を唱えていた時代もあります。これは、現代の中国、韓国にたいする接し方とは違います。\n明治維新前後の時代は、富国強兵を唱える政治家が、それ以前の江戸時代の伝統を、不合理で近代化にとって益のないものだと見なして批判して廃棄する動きもありました。\n(※ 範囲外:) 明治時代〜大正の政治について一般評論での「右翼」「左翼」は、たいていの場合、征韓論争の結果湧き上がった自由民権運動で有名な板垣退助の政党やその流れを組む門派・頭山満などを「中道」とみなし[1]、それに対立したとされる政党(伊藤博文などの政党)を右翼的であると見なす場合が多い。\n冷戦当時の日本では、軍事力をあまり保持しない事こそが平和主義であり左翼思想であるとされ、そのような平和主義は、平等を唱える社会主義との組み合わせが良いとされた。\nなお、実際の冷戦中のソビエト連邦では、軍事力の強化こそが、世界の社会主義革命に必要だとされていた。(ソビエト連邦本国の方針ではないので、混同しないように。)\nまた、日本の戦後(第二次大戦後)の右翼はアメリカと協調的であるが、しかしアメリカ文化を日本に取り入れることで、そのぶん、日本の旧来の文化や伝統を、日本人が目にする機会も少なくなっただろう。\n第二次大戦中を思い起こせば、アメリカは「鬼畜米英」などと言われ、当事の日本で右翼とされる政治運動から見れば、アメリカが敵だった時代もある。\nその他、日本の戦時中の政治体制は治安維持法による言論の抑圧などから、ふつう軍国主義(「右翼」)とされる。しかし、経済政策はソ連の五か年計画の影響を強く受けていた(参考:w:革新官僚)。\n※ 追記することは特になし\n20世紀以前では、海外の話だが、「左翼」の外交方針は、必ずしも戦争回避ではない。フランス革命などを考えれば、革命派である左翼こそが、周辺の王権主義の国家との戦争を躊躇(ちゅうちょ)しなかった、そういう時代もある。また、冷戦中は、社会主義が左翼とされたが、しかし外国のいくつかの国で、社会主義を実現するためには武力的な革命すらも躊躇しない(キューバなどの社会主義国の革命)、という考えや運動もあった。\nまた、その社会主義国のソ連は、同じく社会主義国の中華人民共和国と国境紛争などの戦争をしていた時代もある(1969年の中ソ国境紛争)。\n「右翼」の場合、自国の民族の伝統や歴史を重視し、それらを守っていこうというのが、現代の立場である。そして、個人は民族的な文化と伝統によって育まれ、価値観や人生観も民族の独自のものが作られていることを重視する考え方をもつ。そのため、一人一人の個性よりも、民族や国民が持つ大まかな特徴を重視する。\nこうした民族観は民族自決・植民地からの独立運動をうながしていった一方、自民族が他民族に対して優越すると考える極端な思想も作り出した。\n「左翼」の場合、戦後の昭和・平成では、ナショナリズムが戦争につながっていったことに対する反省から、自国の民族を中心に考えるよりも互いに尊重しようという立場をとることが、多い。また、民族もまた変化するものであり、個人ごとの差があることを重視するため、「Aという民族はBである」というようなw:ステレオタイプな民族観には自民族のものも含めて否定的である。\n日本では、第二次大戦後の昭和では、自民党のような政策が、保守主義、あるいは「保守」(ほしゅ)的な政策と言われた。いっぽう、社会党のような政策が「革新」(かくしん)的な政策と言われた。これは、日本においては資本主義や天皇制についての態度が原因の一つとなっている。つまり、資本主義の経済体制と天皇制を維持するという意味で「保守」であり、資本主義と天皇制に批判的で、転換を求めるという意味で「革新」と呼ばれてきた。 \nそのため、昭和・平成の日本では、一般に右翼思想は保守に含まれ、左翼思想は「革新」に含まれる。\nまた、第二次大戦後、冷戦が始まり、アメリカ寄りの立場が「右翼」、「保守」とされ、いっぽうソ連寄りの立場が「左翼」、「革新」とされた。\n第二次大戦後の20世紀後半の日本では、マスコミなどの表現では、自民党が「保守政党」とされ、社会党や共産党が「革新政党」とされた。県議会や都議会などの地方議会では、知事が社会党や共産党の系列の議員である自治体(都道府県)なら「革新自治体」とよく呼ばれた。\nソビエト連邦が社会主義を政策に掲げたこともあり、左翼・革新的な政策としては、経済政策による低所得者への保護や、積極的な福祉施策などが左翼的な政策である、とされた。(じっさいには、アメリカ陣営の国でも、スウェーデンのように資本主義であるが福祉政策に積極的な国もある。しかし戦後の日本では、福祉政策が「左翼」、「革新」として扱われた。) \n民間の評論家などの中には、少数勢力だが「憲法改正による自衛隊の追認には賛成だが、アメリカ追従の政治体制には反対」という例外的な勢力もあったが(例えば三島由紀夫(みしま ゆきお)など)、しかし、20世紀後半の歴史では、そのような反米かつ自衛隊賛成の勢力は少数勢力だった。\n「右翼」、「左翼」、という言葉とは別に、ある1つの政党が2つの派閥に内部分裂したとき、マスコミなどが便宜上、どちらかの派閥を「右派」(うは)と呼んで、もう一方を「左派」(さは)と呼ぶ場合もある。 第二次大戦後、日本の社会党で政策をめぐって、党内で2大勢力に分裂するときが何度かあったが、このような場合に片方の勢力がマスコミや批評家によって「社会党右派」と呼ばれ、もう片方が「社会党左派」といわれた。 \nなお、平成の中盤以降では、ほとんどの政党は、明確には右翼・保守、左翼・革新政策を打ち出さず、「中道」(ちゅうどう)を掲げる。\n(※ ほぼ範囲外)宗教については、これはソ連や中国など共産圏(きょうさんけん)での政治思想であるマルクス主義などでは、(実際にマルクス本人がどう言ったかはともかく)宗教が共産革命を妨害する勢力だとマルクス主義者などから見なされたことから、評論などでは宗教を「保守」と分類する場合も多くありました。\nカルト宗教や新興宗教などを連想してしまうと混乱するかもしれませんが、「保守」として「宗教」が取り扱われる場合、とりあえず古典的なキリスト教や仏教やイスラム教やそれにもとづく風習などを想像してください。(なお、キリスト教ですらキリストが生きていた時代では新興宗教ですが、そういう話題はキリが無いので、本ページでは考えないことにします。キリないので、本ページでは20世紀のことしか考えない。)\n「中道」、「タカ派」、「ハト派」などの言葉は、政治に関する議論ではよく出てきますが、高校検定教科書ではほとんど使われることのない表現です。\nこの章では、主に平成および昭和末期における「中道」、「タカ」「ハト」の言葉の意味を上げます。(令和になって意味が変わるかもしれないが、しかし本章は時事の章ではないので、令和は除外。)\n保守でも革新でもないことを政治理念とした政策を掲げる場合、中道(ちゅうどう)といわれる。あるいは、右側でも左側でもないことを政治理念とした政策のことも、中道といってもいい。しかし、たとえば、どちらかといえば右翼寄りな実態の場合なら「中道右派」(ちゅうどう うは) という。一方、左翼寄りな実態の場合なら「中道左派」(ちゅうどう さは)という。 \n「中道」は、建前(たてまえ)では、他党の極端な政策に対しては、現実に応じた緩やかな政策を示すとされる。または他党の保守・革新に対しては、資本主義体制を維持しつつも、格差の是正にも配慮するというような態度を取る。そのため、保守・革新両方の支持層からも一定程度支持されることも多いかもしれない。 \n「中道」の政治姿勢は支持層は広いが、特定の支持団体による固定票は持たないので、無党派層(特定の支持政党を持たない人々)の動きに左右されやすく、選挙の上では不安定な立場だとも言われる。\n主に強硬な姿勢を取り、自己主張の強い態度というイメージで、鳥のタカから連想して「タカ派」と言われています。軍事に対しては、武力解決を主張することが多い勢力でした。\nハト派はそれとは反対で、穏健な問題解決を目指す態度を取ります。ハト派は一般的に言う「平和主義」を信条としていました。\n経済政策に関する態度でもこの言葉が使われましたが、意味が異なります。おおむね、スウェーデン的な民主主義国家における福祉国家的な経済政策なら「ハト」かもしれませんが、例外もあるかもしれませんので、深入りしません。たとえば冷戦時代におけるソ連や毛沢東時代の中国のような強権的な国の福祉は、タカなのかハトなのか判断に迷います。\n右翼思想の中でも、例えば「わが国は、外国人をひとりのこらず、国外に排除すべきだ」とか、あるいは例えば「わが国は、今すぐ周辺諸国に進出し領土をどんどん拡大していくべきで、大帝国を築くべきだ。また、そのために、国民全体を徴兵して、国家予算のほとんどを軍事費につぎ込め」などのように、特に極端な内容の右翼的な主張をしている勢力および、そのような主張の思想を「極右」(きょくう、far right)と言う。\n同様に、左翼思想の中でも、たとえば「武力闘争により、共産主義革命・社会主義革命を起こし、政府を打倒するのだ」のような、極端な左翼の主張をする勢力および思想のことを「極左」(きょくさ、far left)と言う。\n2017年時点で、ヨーロッパの政治では、少数政党だが反・移民の思想を持つ政党がしだいに勢力を伸ばしており、移民流入などを規制する主張の党が支持者増・活発化してきている。欧米のマスメディアは、このような最近のヨーロッパの反移民の立場の政党は、「極右」(far right)と呼んでいる。\n文学者でも、一般に、右寄りの思想を持っている人物と、左寄りと見なされている作家がいます。\n日本文学になじみのある人にとって常識的な判断として、w:三島由紀夫(みしま ゆきお)は右翼的、w:大江健三郎(おおえ けんざぶろう)は、左翼的、と、受け取られています。\n実際、文学者たちは政治や社会問題について発言することも多く、小説だけではなく、社会評論、政治評論にも多くの作家が手を染めているでしょう。\n政治思想をもつ者たちの中には、自らの考えを実現しようとして、テロなどの過激な行動に走るものも多い。\n日本の歴史のなかにも、そのような事件はある。\n教科書に載っている事件としては、昭和に活動していた「連合赤軍」(れんごうせきぐん)は、過激化した左翼思想の元、テロ事件を起こした。 \nいっぽう、教科書には些末すぎるので載ってないが、右翼思想をもつ者が暴走し暴力事件に至ることも度々あったのが史実である。\nもとになった政治思想がどのようなものであれ、現代の日本では、刑事事件は警察の検挙、逮捕の対象になる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E6%94%BF%E6%B2%BB/%E4%BF%9D%E5%AE%88%E3%81%A8%E9%9D%A9%E6%96%B0%E3%80%81%E5%8F%B3%E7%BF%BC%E3%81%A8%E5%B7%A6%E7%BF%BC"} {"text": "政治資金規正法は、企業や団体による政治献金を認めている。(※ 2016年センター政治経済の追試験で出題)\n政治資金規正法は、政治献金そのものを禁止してはない。政治資金規正法では、政治家個人および政治家個人の資金管理団体への献金が禁止されているのであり、政党への献金は認められている。\n「管理通貨制度」という用語の意味は、実質的には、「金本位制でない」という意味である。(※ センター過去問。) 歴史的経緯として、第二次大戦後に、アメリカなどで金本位制が廃止されて、諸国が「管理通貨制度」に移行したので、そういう意味になっている。\n「ノンバンク」、「コール市場」とか、センター試験 2010年『政治・経済』本試験で出題。\n憲法などの保障する「通信の秘密」には、郵便などの信書の秘密だけでなく、電信・電話の秘密も入る、というのが定説になっている。(※ センター 2009年、本試験)\n帝国書院「公共」の教科書にて、「共有地の悲劇」の説明で、「ただ乗り」の批判。公共財や環境問題などを例に説明。\n「共有地の悲劇」のほか、「囚人のジレンマ」や「思考実験」も帝国書院の見本サイトで発見[1]。\n帝国書院「公共」にエンゲル係数の説明あり。機会費用の説明あり。\n帝国書院および第一学習社の教科書では、トレードオフと関係づけて「機会費用」の概念も教えている[2]。\n商業高校の教科書だがビジネス基礎では、「機会費用」と「トレードオフ」を関連づけて教えている。\n実教出版『ビジネス基礎』の教科書では\nとのこと[3]。\n後半の「より良い選択をするように努めなければなりません」はビジネス上の都合であるので従う必要は無いかもしれない。\nとりあえず、前半部の「どちらか」~「機会費用と言います」までは普通科高校でも通用するだろう。\n実教出版の公共の教科書で、傍注で「連座制」の解説がある[4]。\n「公判前整理手続」とか「法テラス」とか、「裁判外紛争解決手続」(ADR)とか、第一学習社の検定教科書のコラムにある。\n※ 法テラスについて、NHK教育の政治経済では、社会権などと関連づけて紹介されている[5]。\n※ なお、新科目「公共」のwiki教科書で、すでに法テラスは紹介済み。\n※ 過去、ADRの教科書を高校生むけに書いたような記憶があるが、検索しても見つからない。記憶違いか、それとも誰かが削除したのか・・・。\nなお、公判前整理手続きは刑事事件における制度。\n公判前整理手続きがあることで、裁判員の負担が軽くなる。(NHK教育の政治経済「第10回 裁判所と司法」の見解)\n最高裁判所『公判前整理手続について』 \nQ\nこの公判前整理手続とは,どのような手\n続ですか。\nA\n最初の公判期日の前に,裁判所,検察官,\n弁護人が,争点を明確にした上,これを判\n断するための証拠を厳選し,審理計画を立\nてることを目的とする手続です。\nこれまでの刑事裁判,特に争点が複雑な\n事件などでは,大量の書類を証拠として採\n用したり,また,証人に対しても長時間に\nわたり詳細な尋問を行った上,裁判官がこ\nれらの書類や証人尋問の記録(調書)を読\nみ込んで判断をするという審理が少なくあ\nりませんでした。\nしかし,裁判員の負担を考えると,大量\nの証拠を読んでもらうことや,長時間にわ\nたる詳細な証人尋問を行うことは現実的で\nはありません。 そこで, 裁判員裁判では,\n法廷での審理を見聞きするだけで争点に対\nする判断ができるような審理をすることに\nなります。そのためには,争点を判決する\nに当たって真に必要なものとした上で,こ\nを証明するための証拠を最良のものに厳\n選することが必要です。このような考えか\nら,裁判員裁判ではすべての事件で公判前\n整理手続を行わなければならないとされて\nいます。\nまた,公判前整理手続の中であらかじめ\n訴訟の準備を行うことができるため,公判\nが始まってからは,連日的に開廷すること\nが可能になり,多くの裁判員裁判は数日で\n終わると見込まれています。\n連帯保証人の制度とか、現代社会の教科書で紹介されていたことがある。\nなお、(現社の教科書では説明していないですが、)もし専門書で保証人の制度について詳しく調べたい場合、おもに民法の専門書を調べることになります。もし将来に必要になった場合、ご参考に。\n2022年、企業の「貸借対照表」(たいしゃく たいしょうひょう)や「損益計算書」(そんえき けいさんしょ)の紹介などが、帝国書院の「公共」教科書にある。(さすがに「公共」では用語の紹介と見本のみ。断じて商業高校みたいに通年で簿記を練習するわけではない。)第一学習社の教科書にも、貸借対照表がある。\n帝国書院の検定教科書には無い用語ですが、貸借対照表や損益計算書などをまとめて「複式簿記」(ふくしき ぼき)あるいは単に「簿記」(ぼき)と言います。もし将来的に専門書で貸借対照表などについて調べる必要のある場合、「複式簿記」などの題名の書籍を買えばいいわけです。\nなお、貸借対照表の左側は資産の運用先が書かれ、右側にはその資産の調達方法が書かれる。「自己資本比率」などいくつかの会計指標も、この貸借対照表あるいはその他の簿記の帳簿などを基に算出することができる。たとえば「自己資本比率」の場合なら、 自己資本比率=純資産÷総資産 なので、つまり貸借対照表にある「純資産」の金額を、同じく貸借対照表にある「総資産」で割り算すれば簡単に求められる。\n小切手や約束手形の写真が、第一学習社『政治経済』の教科書にある。\nちなみに銀行を使って小切手や手形の支払いをするときは、(普通預金ではなく)当座預金で支払いをする。(※ 第一学習社の『現代社会』の教科書で、そこまで説明している。)\nポピュリズム\nポピュリズム(大衆迎合主義、「迎合」は「げいごう」と読む)とは、一般に、大衆を扇動して、既存の支配層を権力から追い落とそうとするような政治手法のことである。\n日本の高校参考書では(文英堂シグマベスト政治経済、清水書院『現代社会ライブラリーにようこそ 2017-18』)、よく小泉純一郎を例に、ポピュリズムを説明する。\n政治的無関心者のこと\n第18回 資本主義体制の成立と発展』放送日:9月2日、 3:00 あたり ]\n(※高校の範囲) \nたとえば、空気は通常、取引されません。これは、普通の場所には、空気がほぼ無尽蔵にあふれているからです(NHK教育の見解)。\n経済学では、基本的には、人間たちの欲求の量に対して、資源の量が限られているという、「資源の希少性」(しげんのきしょうせい)(※経済用語)という事実が、経済学の大きな原理のひとつだと考えられています[9]。なお、「資源の希少性」での「資源」とは石油とか水とかだけではなく、土地や労働なども含みます。お金を含める場合もあります。要するに、人間が経済活動を行うのに必要なものすべてです。\n「希少」とは、稀(まれ)で「少ない」というような意味です。たとえば「希少価値」(きしょうかち)という言葉は、数が少ないものほど珍しいので価値が高くなる、というような意味です。\n(※ 中学の範囲)なお、世間一般では水よりダイヤモンドのほうが貴重ですが、しかし砂漠の真ん中でのどが渇いてに死にそうなときは水のほうが大事なように、時と場合によって希少性は変わります。(東京書籍)\n「需要と供給」との違いとして、「希少性」は、「求める量」と「実際の量」との関係です(※ 中学の東京書籍)。\n(文脈は違いますが)日本文教出版が、「税収には希少性が」あると言っており、そのため「際限なく歳出を増やすことはできない」と言ってます[10]。(なお、少数意見の尊重の文脈で、そう言っている。少数意見の尊重とは、少数派の意見に従うという意味ではなく、少数派の意見にも耳を傾けことで、より良い提案を考えることだと、日本文教出版は述べている)\n税金で買う対象の物質やサービスに希少性があるので、結局は税収にも「希少性」が生じてしまいます。これが現実です。\nむかし、ソフトウェアは1度買えば、壊れないかぎりは、ずっと使い続けることができる販売の形態が主流でした。\nしかし近年、ネットサービスなどの多くは、利用期間の長さに応じてお金を払う定額制になっています。月額料金など、期間限定でまとめて料金を払う仕組みであり、これを「サブスクリプション」と言います[11]。\nそのほか、AI(人工知能)[12]。なども、現代の情報化社会では話題です。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%94%BF%E6%B2%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96"} {"text": "小学校・中学校・高等学校の学習 > 高等学校の学習 > 高等学校現代社会 \n高等学校「公民」の科目の一つ。現代的な課題に答えるものとして登場し、当初は必修科目だった[2022年まで]。現在は「倫理」「政治経済」との選択必修。2022年以降教科書ではこの科目の名称が「公共」に変更になっています。\n(※ 検定教科書にて記述があることを確認)\nバブル関係\nデフレ対策\n\n\n地球環境問題は一般に知られているよりはるかに深刻である。オゾン層破壊による皮膚がんの急激な増加や、作物の紫外線障害が始まっている。[要出典] 40年後には、世界から森林がなくなり砂漠化するといわれている。[要出典] 台風が凶暴化し[要出典]、地球温暖化の影響も実際に感じられるようになった。 21世紀中に地球の平均気温が5~6度上昇し[要出典]生態系に壊滅的な被害を与える。「かけがえのない地球」のテーマの元、国連人間環境会議が開催され、人間環境宣言をしたり、UNEP(国連環境計画)が設立されたりした。これを引き継ぎ「持続可能な発展」の元、地球サミットが開かれた。約8000ものNGOが参加し、気候変動枠組条約、アジェンダ21が採択された。環境NGOによって自然保護運動やナショナルトラスト運動もおこなわれている。その結果は世界遺産条約やラムサール条約に登録されることによってあらわれている。\n石油の確認埋蔵量から、石油はあと20年でなくなる。[要出典] 第1次石油危機や第2次石油危機は石油メジャーとOPEC(オペック),OAPEC(オアペック)との対立によって起こった。\nなお、OPECとは石油輸出国機構(Organization of the Petroleum Exporting Countries)の略称。OAPECとはアラブ石油輸出国機構(Organization of Arab Petroleum Exporting Countries)の略称。\n原子力は、スリーマイル島での原子力発電所の事故や、チェルノブイリ原子力発電所での事故、福島第一原子力発電所事故、また使用済み核燃料の最終処分地の問題、原子炉の点検時の放射線被ばくを伴う作業、原子爆弾の原材料となるプルトニウムが生成される問題など、様々な問題点があり利用に批判的な意見がある。\nドイツは、2000年6月に政府と電力会社がすべての原子力発電所を廃止することを合意し、2011年に脱原発を決定した。\nスイスは、2011年5月に「脱原発」を2034年までに実現することを決定した。\nイタリアは、原子力発電所を設置していない。\n日本、中国、アメリカは世界の流れに逆行している。ソフトエネルギーやコージェネレーションが注目されているが、開発に化石燃料やその他資源が多量に使われていることから、大きな問題になっている。[要出典]\nインターネットやハイテクが定着した。医学の発達によって死の定義が心臓死、脳幹死、脳死の3つになったり、臓器移植が問題になっている。\n中東におけるユダヤ民族のあいだでは、ヤハウェを最高神とするユダヤ教が信じられていた。\nユダヤ人であったイエス・キリストは隣人愛と全世界の救いをとき、弟子たちによってひろめられた。キリスト教の宗派にはカトリック、プロテスタント、正教会などがある。社会学者のウェーバーはプロテスタンティズムと職業倫理とを結びつけた。\nイスラム教はムハンマドが創始し、アラーへの絶対帰依(きえ)を説いた。\n仏教はガウタマ・シッダールタが始め、慈悲をすることによって仏陀(ブッダ)になれると説いた。\n儒教(じゅきょう)は孔子が始め、仁義(じんぎ)を唱えた。神道(しんとう)はアニミズムと祖霊崇拝からなる。文学は無常観、能は幽玄、茶道はわびをあらわしている。\n社会保障はニューディール政策における社会保障法や、ベバリッジの「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家政策が有名である。日本の社会保障は、社会保険、公的扶助、社会福祉、公衆衛生の4本柱から成り立っている。社会保険は、健康保険・年金・介護保険などからなる。健康保険は基礎年金が問題になっている。\n映像文化が発達し、マスコミが感情に訴えかける社会を大衆社会という。社会学者のリースマンは孤独な群集の中で近代以前は地域社会の中で生活する伝統指向型だったが、近代では宗教や思想をもとに主体的な行動する内部指向型、現代はマスコミに動かされる他人指向型になったと大衆化を分析した。\n国際社会の相互依存により、サミットが開かれたり、知的所有権の国際的な対応や、国内産業の海外流出による産業の空洞化の問題が起こっている。\n古代ギリシアの哲学者アリストテレスは愛知と述べている。ホモサピエンスは知恵の人という意味である。古代中国の思想家孔子は学ぶことは道であり、タオは真理そのものだと唱えた。フランス革命に影響を与えた思想家のルソーは青年期は第二の誕生であると唱えた。日本の青年は境界人であり葛藤を抱えている。マージナル・マンともいわれる。文化人類学者のミードはサモアでは子供から大人への移行は通過儀礼によっておこなわれていて葛藤は見られなかったとの調査をしている。心理学者のエリクソンは青年期の状態を心理社会的モラトリアムと名づけた。欲求不満のことをフラストレーションという。これを解消することを適応行動といい、心理学者のフロイトは防衛機制と呼んだ。青年期は自我が目覚める。個性には能力、気質、性格の3つの要素がある。アイデンティティが形成されないと拒食症や過食症、ステューデント・アパシーになることがある。アメリカの教育学者ハヴィガーストは青年期の発達課題を挙げている。\n女性差別撤廃条約を受けて、日本では男女雇用機会均等法や育児休業法が成立した。\n日本人は、北方系、朝鮮系、中国系、東南アジア系、ポリネシア系の5つの民族によって構成されている。\n日本はそれぞれの文化の終着点で雑種文化と呼ばれる。\n決して1つの民族、1つの文化ではない。外来文化と伝統文化のサイクルは1200年である。日本の伝統的な食生活は一汁一菜である。\n中世以降の民家は竪穴住居と高床住居の合体である。\n現代の和服である晴れ着は江戸時代になって定着した。集団のまとまりは制服になって現れている。\nハレの日とケの日は伝統文化を支えている。ハレの日とケの日の区別は年中行事や通過儀礼になって現れる。地方や農村のことをヒナといい、都市のことをミヤコという。都市の伝統のことを ミヤコぶり といい、京都ではみやびの世界が展開されている。\n江戸時代の国学者の賀茂真淵(かもの まぶち)は、清き明き心と誠を強調した。\n日本人の社会行動において、うちでは本音で接し、外ではたてまえで接する。農家が労働力を提供しあうことを ゆい という。\n文化人類学者のベネディクトは草食獣はゆいによって対人関係を気にする恥の文化が形成され、肉食獣は縄張りによって宗教を心のよりどころとする罪の文化が形成されたと論じた。\n社会人類学者の中根千枝は、農耕民族は天候など先代の知恵や経験を大切にするのでたて社会が形成され、狩猟民族は技術が次々に革新され先代はおいていかれるのでよこ社会が形成されたと論じた。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは人生でもっとも大切なことはよく生きることだと述べた。日本の代表的なキリスト教徒であり思想家の内村鑑三は後世への最大の遺物は「勇ましい高尚な生涯」であると述べた。\nエレクトロニクスはIC、LSI、超LSIと技術革新が進んでいる。ハイテクノロジーやバイオテクノロジーが発達した。日本の工業は、製鉄などの重厚長大(じゅうこう ちょうだい)から、半導体などの軽薄短小(けいはく たんしょう)型の産業に切り替わり、産業構造のハイテク化を起こした。これは経済のソフト化、サービス化とも呼ばれている。\n企業には株式会社などがある。株式会社の出資者の責任は有限責任である。所有と経営の分離がなされている。\n政府の経済活動のことを財政という。\n財政には資源配分機能、所得再配分機能、経済安定化機能がある。\n政府が家計や企業に積極的に介入することは混合経済や修正資本主義と呼ばれる。\n租税には所得が同じ人に対する水平的公平(すいへいてき こうへい)と、所得が違う人に対する垂直的公平(すいちょくてき こうへい)が求められている。\n税は直接税と間接税に分けることができる。直接税には所得税や法人税などがあり、間接税には消費税や酒税などがある。\n直接税と間接税の割合のことを直間比率(ちょっかん ひりつ)といい、間接税のほうが大きくなると垂直的公平が崩れ、逆進性の問題が起こる。\n株式会社が株式や社債を発行して証券市場で資金を調達することを直接金融という。\n銀行で資金を借りることを間接金融という。銀行が資金を貸し出し、その会社が他の会社に支払い、他の会社が他の銀行に資金を預け入れることによって預金創造がおこなわれる。\n日本の中央銀行は日本銀行である。日本銀行は銀行の銀行、政府の銀行、発券銀行とも呼ばれる。日銀の金融政策には公定歩合操作、預金準備率操作、公開市場操作がある。\n金融の自由化以降バブル経済化が起こり財テクが流行った。バブル崩壊以降は住専(じゅうせん)などの不良債権が問題となった。\n雇用調整によって派遣社員、パートタイマー、アルバイト、外国人労働者が増加した。過労死や裁量労働制も問題になっている。労働基本権には労働権と労働三権がある。労働三権には団結権、団体交渉権、争議権がある。労働三法には労働基準法、労働組合法、労働関係調整法がある。\n明治期には足尾鉱毒事件が問題になった。四台公害訴訟には水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくがある。国は公害対策基本法を成立させ、環境庁を設立した。PPP(汚染者負担の原則)や総量規制といった政策がとられている。近年では環境基本法や環境アセスメント法が成立した。\n基本的人権では公共の福祉、私人間における人権保障、国民の三大義務、個人の尊重、法の下の平等、自由権、社会権が掲げられている。自由権には適正手続き主義や罪刑法定主義などの身体の自由と経済活動の自由がある。また国およびその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならないと政教分離の原則を詳細に定めている。社会権はワイマール憲法で明記された。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利のことを生存権といい、朝日訴訟や堀木訴訟で話題になった。最高裁は生存権はプログラム規定だとの判断をしている。教育を受ける権利は義務教育の無償を定めている。新しい人権には環境権、知る権利、プライバシーの権利がある。情報公開制度には情報公開条例や情報公開法がある。\n国民主権を代表民主制という形にしているのが国会である。国会は国権の最高機関であるとともに唯一の立法機関である。二院制や衆議院の優越が採用されている。また、委員会制度や国政調査権を持っている。日本は議院内閣制を採用している。行政委員会などがある。現代においては行政権優位の現象が見られ、官僚機構への情報公開制度やオンブズマン制度が求められている。国民は裁判を受ける権利を有している。司法権の独立には裁判官の職権の独立、裁判官の身分保障、弾劾裁判所、規則制定権などがある。三審制の最後に位置するのが最高裁判所であり、憲法の番人と呼ばれている。\n不戦条約や国際連合憲章で平和主義があらわれてきた。日本国憲法は戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を定めている平和主義の憲法である。戦力の不保持を定めている憲法は日本国憲法とコスタリカ憲法だけである。自衛隊には文民統制の制度がとられていて、内閣総理大臣が自衛隊の最高指揮官であり、重要事項は安全保障会議が決定することになっている。\n世論はマスメディアによって操作される。圧力団体も政治に大きな影響を及ぼしている。制限選挙に対して普通選挙がある。これには機密選挙と平等選挙が含まれていて、平等選挙には議員定数不均衡の問題がある。選挙制度には比例代表制、小選挙区制、大選挙区制などがある。日本では小選挙区比例代表並立制が採用されている。小選挙区制には死票がでやすいという欠点がある。政党政治には二大政党制と多党制などがある。日本は55年体制という政権交代がない政治が続いた。近年は政治的無関心や無党派層が広まっている。\nフランスの哲学者サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と表現した。自由には抑圧からの自由と人格としての自由がある。ドイツの哲学者カントは人格の尊厳を示した。アメリカの社会学者リースマンは他人指向型はファシズムにつながると警告した。ドイツの社会学者アドルノは権威主義的パーソナリティを提唱したが、民主主義的パーソナリティをめざす必要があるだろう。\n国連では世界人権宣言が採択された。国際人権規約のもと規約人権委員会が設立されアパルトヘイトの廃止に貢献した。\n主権国家は外交や国際政治をおこなう。国際世論も無視できない。\n第1次国連海洋法会議で大陸棚制度が定められた。第3次国連海洋法会議では排他的経済水域が定められた。\n遺伝的に共通の特徴を持つ人々の集団のことを人種といい、文化を共有する人々の集団のことを民族という。国際先住民年が延長され世界先住民国際10か年になった。\n第五福竜丸以降、パグウォッシュ会議、部分的核実験禁止条約、NPT、SALT、INF全廃条約、START、STARTⅡ、CTBTなどが採択された。\n勢力均衡政策は集団安全保障になった。サンフランシスコ平和条約と同時に日米安全保障条約が締結された。このとき警察予備隊は保安隊になった。その後安保反対闘争を押し切って日米相互協力および安全保障条約になった。そして安保再定義のもと日米安保共同宣言になり、新ガイドライン法になり、周辺事態法になった。\n資本主義が肉食獣の経済で、社会主義が草食獣の経済である。核抑止力による恐怖の均衡がもたらされた。キューバ危機以降、平和共存政策、多極化の流れのなかマルタ会談によって冷戦が終結した。ゴルバチョフ政権はペレストロイカをおこなった。中国は改革・開放政策をおこない、社会主義市場経済になった。\nMOSS協議、G5、プラザ合意、日米構造協議と交渉がおこなわれている。\n近年では2002年にシンガポールとFTA(自由貿易協定)を結んだ。\n北半球に多い先進国と、南半球に多い発展途上国との経済格差のことを、南北問題という。南半球の国では累積債務問題やモノカルチャー、一次産品などの問題を抱えていることが多い。こうした南半球の国の中でも、さらに石油を産出できるかどうかという経済格差があり、南半球どうしの経済格差である南南問題がある。\n日本ニュース時事能力検定協会\n", 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