{"text": "誰かに何かを伝えるための文章は、書いた内容を相手が理解出来てこそ意味があります。読み手に「読みにくい」「意味がわからない」と思われないように、何を意識してわかりやすい文章を作るかが重要です。\n長い文章を読むのは大変です。文は出来るだけ短く、主語と述語を近づけると分かりやすくなります。文の長さについては、厳密な決まりはありません。文章の内容次第です。多くの場合、文章は60文字以内に収めるとよいでしょう。\nまた、「が」で結ばれた長い文章は読みにくくなってしまいます。「が、」を見たら、間に句読点を入れたほうがいいかもしれません。これを専門用語では、冗長表現といいます。\n冗長表現は、このほか「という」「こと」「することが出来る」とかがあります。\n読点「、」は意味の変化を表し、文章を分かりやすくします。文中の「、」はどこに入れるべきか、明確な決まりはありません。文のリズムやテンポ、話し手の好みによって、「、」の位置は様々です。しかし、一般的には次のような使い分けをすればよいでしょう。\n〈基本的な読点の打ち方〉\n彼女は黙ってコーヒーを飲む恋人の口元を見つめていました。\n上の文章は、2通りの読み方が出来ます。それぞれどのような意味だと考えられますか?\nいろいろな意味に取れるような文章は、読者に意味が伝わらないので避けましょう。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E7%8F%BE/%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%84%E6%96%87%E3%82%92%E6%9B%B8%E3%81%8F"} {"text": "言いたい内容を書きます。書かれたものを読めば、自分の言いたい内容が理解出来ます。これが、誰かと話すために書く時の基本です。ここでは、絵や写真を使って、相手に伝わるように書く練習をしてみましょう。\n重要な部分を省かずに文章を書く場合、読み手の立場に立って、確実に伝えたい内容を書きましょう。\n説明する順番を考えるのも大切です。説明する時は、以下のルールに気をつけましょう。\n部分→全体(詳細)→抽象的→現実\n形について話すのに、「円」や「四角」といった名前を使ったり、それらがどのように組み合わされているかを説明したりする必要はありません。また、比喩を使うのも良いでしょう。「ソフトクリームのような」「鉛筆のような」などがその例です。\nこの方法は、あまり正確ではありませんが、全体の感じを分かりやすく表現するにはよい方法です。また、比喩を使って全体像を示し、その後で細部をより詳しく説明すると良いでしょう。\n実際に書き始める前に、書きたい内容と書かなきゃいけない内容をざっとまとめておきましょう。5W1H(いつ、どこで、誰が、なぜ、何を、どのように)などの重要な情報を整理します。重要な情報を漏らさないようにするためには、箇条書きで素早く書くとよいでしょう。\n例えば、上の写真をもとに文章を書こうと思ったら、次のような内容を考えてみるとよいでしょう。\n【メモの項目例】\n文書が長い場合、読者が理解しやすいように段落を分けて書くとよいでしょう。各段落が1つのトピックをカバーするように書くとよいでしょう。\n上の写真を参考に文章を書く場合、次のような段落構成にするとよいでしょう。\n第1段落:どのような写真ですか?\n第2段落:感想\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E7%8F%BE/%E7%B5%B5%E3%82%84%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%A6%E6%9B%B8%E3%81%8F"} {"text": "何を思い、何を感じ、何を好み、何を好まないのかを記入するのは感想です。賛成なのか反対なのか、問いかけに対してどのように答えるのかなど、理由がはっきりすれば意見となります。\n小論文を書く時、自分の意見を上手く伝えなければなりません。\n★構成メモ\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E8%A1%A8%E7%8F%BE/%E5%B0%8F%E8%AB%96%E6%96%87%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B"} {"text": "『土佐日記』(とさにっき)とは、紀貫之(きの つらゆき)によって平安時代に書かれた日記。\nこの時代、平仮名(ひらがな)や万葉仮名などの仮名(かな)は女が使うものとされていたが、作者の紀貫之は男だが、女のふりをして『土佐日記』を書いた。\n日記の内容は私的な感想などであり、べつに公的な報告・記録などでは無い。\n『土佐日記』は日本初の仮名文日記である。\n紀貫之は公務で、土佐(とさ、現在の高知県)に 地方官として、国司(こくし)として 赴任(ふにん)しており、土佐守(とさのかみ)としての仕事をしていた。その任が終わり、その帰り道での旅の、五十五日間の日記である。\nこの時代の公文書などは漢文で書かれており、男も漢文を使うものとされていた。そして日記は、男が、公務などについての、その日の記録を、漢文で書いたのが日記だとされていた。\nしかし、土佐日記では、その慣例をやぶり、ひらがなで、著者が女を装い、私的な感情を書いた。このように日記で私的な感情を表現するのは、当時としては異例である。\nこの『土佐日記』によって、私的な日記によって文学的な表現活動をするという文化が起こり、のちの時代の日記文学および女流文学に、大きな影響を与えた。そして今で言う「日記文学」というようなジャンルが、土佐日記によって起こり始めた。\n(『土佐日記』はタイトルには「日記」とつくが、しかし現代の観点で見れば、『土佐日記』は後日に日記風の文体で書いた紀行文であろう。しかし、ふつう古典文学の『土佐日記』や『蜻蛉日記』(かげろうにっき)、『和泉式部日記』(いずみしきぶにっき)、『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)、『更級日記』(さらしなにっき)など、古典での「○○日記」などは、日記文学として扱うのが普通である。)\nとくに冒頭の「門出」(かどで)が重要である。\n「忘れ貝」と「帰京」は、その次ぐらいに重要である。とりあえず読者は、順番どおりに読めば、問題ないだろう。\n著者の紀貫之は男だが、女のふりをして冒頭文を書いた。船旅になるが、まだ初日の12月21日は船に乗ってない。\n女である私も日記を書いてみよう。\nある人(紀貫之)が国司の任期を終え、後任の者への引継ぎも終わり、ある人(紀貫之)は帰りの旅立ちのために土佐の官舎を発った日が12月21日の夜だった。そして。ある人は船着場へ移り、見送りの人たちによる送別のため、皆で大騒ぎをしているうちに夜が更けた。\n(まだ船には乗ってない。)\n男もすなる日記(にき)といふ(イウ)ものを、女もしてみむ(ミン)とて、するなり。\nそれの年の十二月(しはす、シワス)の二十日余り一日(ひとひ)の日の戌(いぬ)の刻(とき)に、門出す。そのよし、いささかに物に書きつく。\nある人、県(あがた)の四年(よとせ)五年(いつとせ)果てて、例の事(こと)どもみなし終へて(オエテ)、解由(げゆ)など取りて、住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこれ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ(ナン)、別れ難く思ひて(オモイテ)、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更けぬ。\n男もするという日記というものを、女も書いてみようとして書くのである。\nある年の十二月の二十一日の午後八時頃に、(土佐から)出発する。その時の様子を、少しばかり、もの(=紙)に書き付ける。\nある人が(=紀貫之)、国司の(任期の)4年・5年間を終えて、(国司交代などの)通例の事務なども終えて、解由状(げゆじょう)などを(新任者から紀貫之が)受け取って、住んでいた官舎(かんしゃ)から(紀貫之は)出て、(紀貫之は)船に乗る予定の所へ移る。\n(見送りの人は)あの人この人、知っている人知らない人、(などが、私を)見送ってくれる。\n長年、親しく交際してきた人が、ことさら別れがつらく思って、一日中、あれこれと世話をして、大騒ぎしているうちに、夜が更けてしまった。\n※ 男もすなる日記(にき)といふものを、女もしてみむとて、するなり。 - とても有名な冒頭文なので、読者は、そのまま覚えてしまっても良い。\n単語\n「わたる」(「住む館(たち)より出でて、船に乗るべき所へ渡る」の文):「わたる」(渡る)はここでは「行く」の意味。古語の「わたる」には、「行く」のほかにも「時間をすごす」や「生計を立てる」、(草花や霧などが)「一面に広がる」など、さまざまな意味がある。\n「よし」(「よし」の漢字は「由」): 多義語であり、1.方法、 2.由緒、 3.様子・旨、 といった意味がある。この場面では旨の意味。もとの文の意味は「その旨を、少しばかりものに書きつける。」の意味。\nなお関連語として、形容詞「よしなし」は、「理由がない」「方法がない」、「つまらない」という意味である。\n「果てて」(はてて): ここでは、「果てて」とは「終わって」の意味。なお、単語集で調べるときは「果つ」(はつ)で調べる。\n※ なお、枕草子の「春はあけぼの」の「日入り果てて、風の音、草の音など、はた言うべきにもあらず」の果てての意味は、「すっかり」の意味。上記の「終わる」とは、やや意味が違う。つまり、「日入り果てて」は「日がすっかり沈んでしまって」という意味。\n※ 「果つ」を掲載している単語集が少ない。三省堂『古文単語300PLUS』なら掲載されている。\n22日、船旅の安全を祈る儀式をする。この日、「藤原のときざね」(人名?)が送別の宴(うたげ)を開いてくれた。\n23日、「八木のやすのり」が餞別をくれた。\nこの人たちのおかげで人情の厚さを思い知らさた。いっぽう、関係が深かったのに送別も餞別もしない人たちの人情の薄さを思い知らされた。\n24日、国分寺の僧侶も送別をしてくれた。宴で、身分に関わらず酔い、子供までも酔いしれた。\n二十二日(はつかあまりふつか)に、和泉(いづみ、イズミ)の国までと、平らかに願(ぐわん、ガン)立つ。藤原(ふぢはら、フジワラ)のときざね、船路(ふなぢ、フナジ)なれど、馬(むま)のはなむけす。上中下(かみなかしも)、酔(ゑ)ひ飽きて(エイアキテ)、いとあやしく、潮海(しほうみ、シオウミ)のほとりにて、あざれ合へり(アザレアエリ)。\n二十三日(はつかあまりみか)。八木(やぎ)のやすのりといふ人あり。この人、国に必ずしも言ひ(いい)使ふ(つかう)者にもあらざなり。これぞ、たがはしきやうにて、馬(むま)のはなむけしたる。守柄(かみがら)にやあらむ、国人(くにひと)の心の常として「今は。」とて見えざなるを、心ある者(もの)は、恥ぢずきになむ来(き)ける。これは、物によりて褒むる(ひむる)にしもあらず。\n二十四日(はつかあまりよか)。講師(かうじ)、馬(むま)のはなむけしに出でませり。ありとある上下(かみしも)、童(わらは、ワラワ)まで酔ひ痴しれて(しれて)、一文字(いちもんじ)をだに知らぬ者(もの)、しが足は十文字(ともじ、じゅうもんじ)に踏みてぞ遊ぶ。\n二十二日に、和泉(いづみ)の国まで無事であるようにと、祈願する。藤原のときざねが、船旅だけれど、馬のはなむけ(=送別の宴)をする。身分の高い者も低い者も、(皆、)酔っ払って、不思議なことに、潮海のそばで、ふざけあっている。\n二十三日。「八木(やぎ)のやすのり」という人がいる。この人は国司の役所で、必ずしも召し使っている者ではないようだ。(なんと、)この人が(=八木)、立派なようすで、餞別(せんべつ)をしてくれた。(この出来事の理由は、)国司(=紀貫之)の人柄(の良さ)であろうか。(そのとおり、紀貫之の人柄のおかげである。)\n任国の人の人情の常としては、「今は(関係ない)。」と思って見送りに来ないようだが、(しかし、八木のように)人情や道理をわきまえている者は人目を気にせず、やってくることだよ。これは、(けっして)贈り物を貰ったから褒めるのではない。\n二十四日。国分寺の僧侶が、餞別をしに、おいでになった。そこに居合わせた人々は、身分の高い者・低い者だけでなく、子供までも酔っぱらって、(漢字の)「一」の文字さえ知らない(無学の)者が、(ふらついて、)その足を「十」の字に踏んで遊んでいる。\n男 も(係助詞) す(サ変・終止) なる(助動詞・伝聞・連体) 日記 と(格助詞) いふ(四段・連体) もの を(格助詞)、女 も(係助) し て(接続助詞) み(上一段・未然) む(助動詞・意志・終止) とて(格助)、 する(サ変・連体) なり(助動・断定・終止)。\nそれ の(格助) 年 の(格助) 十二月 の(格助) 二十日余り一日 の(格助) 日 の(格助) 戌の刻 に(格助) 、 門出す(サ変・終止。 そ(代名詞) の(格助) よし、いささかに(ナリ・連用) 物 に(格助) 書きつく(下二段・終止)。\nある(連体詞) 人、 県 の(格助) 四年五年 果て(下二段・連用) て(接助)、例 の(格助) 事ども みな(副詞) し終へ(下二段・連用) て(接続助詞)、解由 など(副助詞) 取り(四段・連用) て(接続助詞)、 住む(四段・連体) 館 より(格助) 出で(下二段・連用) て(接続助詞)、 船 に(格助) 乗る(四段・終止) べき(助動詞・当然・連体) 所 へ(格助) 渡る(四段・終止)。 かれこれ(連語)、 知る(四・連体) 知ら(四・未然) ぬ(助動詞「ず」・打消し・連体)、 送りす(サ変・終止)。 年ごろ、 よく(ク活用・連用) くらべ(下二段・連用) つる(助動詞・完了・連体) 人々 なむ(係助詞)、 別れ難く(ク活用・連用) 思ひ(四段・連用) て(接続助詞)、日 しきりに(副詞) とかく(副詞) し(サ変・連用) つつ(接続助詞)、 ののしる(四段・連体) うち に(格助)、 夜 更け(下二段) ぬ(助動詞・完了・終止)。\n二十二日(はつかあまりふつか) に(格助)、 和泉の国 まで(副助詞) と(格助詞)、 平らかに(ナリ・連用) 願 立つ(下二段・終止)。 藤原(ふぢはら、フジワラ)のときざね、 船路 なれ(助動詞・断定・已然) ど(接続助詞)、 馬(むま)のはなむけ す(サ変・終止)。 上中下(かみなかしも)、酔ひ飽き(四段・連用) て(接助)、いと(副) あやしく(シク・連用)、 潮海 の(格助) ほとり にて(格助)、 あざれ合へ(四段・已然) り(助動詞・完了・已然) 。\n二十三日。 八木(やぎ)のやすのり と(格助) いふ(四段・連体) 人 あり(ラ変・終止) 。 こ(代名詞) の(格助) 人、 国 に(格助) 必ずしも(副詞) 言ひ使ふ(四段・連体) 者 に(助動詞・断定・連用) も(係り助詞) あら(ラ変・未然) ざ(助動・打消・体、音便) なり(助動・推量・終止)。 これ(代名詞) ぞ(係り助詞、係り) 、たがはしき(シク・連体) やう に(助動・断定・用) て(接助)、 馬(むま)のはなむけ し(サ変・連用) たる(助動・完了・連体、結び)。 守柄(かみがら) に(助動・断定・連用) や(係助詞、係り) あら(補助動詞・ラ変・未然) む(助動・推量・連体、結び)、 国人(くにひと) の(格助) 心 の(格助) 常 と(格助) して(接助) 「今 は(係助詞)。」 とて(格助) 見え(下二段・未然) ざ(助動詞・打消し・連体、音便) なる(助動詞・推定・連体) を(格助) 、 心 ある(ラ変・連体) 者 は(係り助詞) 、恥ぢ(紙二段・未然) ず(助動詞・打消し・連用) に(格助) なむ(係り助詞・係り) 来(カ変・連用) ける(助動詞・詠嘆・連体、結び)。 これ(代名詞) は(係り助詞)、 物 に(格助) より(四段・連用) て(接助) 褒むる(下二段・未然) に(助動詞・断定・連用) しも(副助詞) あら(補助動詞・ラ変・未然) ず(助動詞・打消し・終止)。\n二十四日(はつかあまりよか)。 講師(かうじ)、 馬(むま)のはなむけ し(サ変・連用) に(格助) 出で(下二・連用) ませ(補助尊敬・四段・已然) り(助動詞・完了・終止)。 あり(ラ変・連用) と(格助詞) ある(ラ変・連用) 上下(かみしも)、童(わらは、ワラワ) まで(副助詞) 酔ひ痴しれ(下二段・連用) て(接助) 、一文字(いちもんじ) を(格助) だに(副助詞) 知ら(四段・未然) ぬ(助動詞「ず」・打消し・連体)  者、しが足 は(係り助詞) 十文字 に(格助) 踏み て(接助) ぞ(係り助詞、係り) 遊ぶ(四段・連体、結び) 。\n四日(よか)。楫取り(かぢとり)、「今日、風雲(かぜくも)の気色(けしき)はなはだ悪し(あし)。」と言ひて、船出ださず(ふねいださず)なりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。この楫取りは、日もえ測らぬ(はからぬ)かたゐなりけり。\n四日。船頭が、「今日、風と雲の様子が、ひどく悪い。」と言って、船を出さずになった。であるけれど、一日中、波風が立たなかった。この船頭は天気も予測できない愚か者であったよ。\nこの泊(とまり)の浜には、くさぐさのうるはしき貝・石など多かり。かかれば、ただ昔の人をのみ恋ひつつ、船なる人の詠(よ)める、\nと言へれば、ある人の耐へずして、船の心やりに詠める、\nとなむ言へる。女子(おんなご)のためには、親幼くなりぬべし。「玉ならずもありけむを。」と、人言はむや。されども、「死じ子、顔よかりき。」と言ふやうもあり。\nこの泊(とまり)の浜には、いろいろな美しい貝・石などが多くある。こうなので、ただ亡くなった人(紀貫之の娘)ばかりを恋しがって、船の中にいる人(紀貫之の妻)が歌を詠んだ、\nと言ったところ、ある人(紀貫之)がこらえられなくなって、船旅の気晴らしに詠んだ、\nと言ったのだった。(亡くなった)女の子のためには、親は幼子のように(おろかに)なってしまうのにちがいない。「玉というほどでは、ないだろう。」と人は言うだろうか。けれども、「死んだ子は顔立ちが良かった。」と言うこともある。\nなほ同じ所に日を経ることを嘆きて、ある女の詠める歌、\nやはり、同じ場所で日を過ごすことを嘆いて、ある女の詠んだ歌、\nこの「忘れ貝」の章で「船なる人」と「ある人」との和歌のやり取りがあるが、他の章などの記述では「ある人」の正体が紀貫之だという場合が多く、そのため、この「忘れ貝」の章に登場する「ある人」も紀貫之だろうと考えられている。もっとも、あくまで現代の学者たちの仮説なので、もしかしたら妻と夫は逆かもしれないし、あるいは両方の和歌とも紀貫之の和歌かもしれない。\nとりあえず読者の高校生は、作中での「船なる人」と「ある人」とは夫婦であって、そして、この夫婦は任地の土佐で娘を亡くしていることを理解すればよい。\n夜ふけて来れば、所々(ところどころ)も見えず。京に入り(いり)立ちてうれし。家に至りて、門(かど)に入るに、月明かければ(あかければ)、いとよくありさま見ゆ。聞きしよりもまして、言ふ効(かひ)なくぞ毀れ(こぼれ)破れたる。家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。さるは、便りごとに物も絶えず得させたり。今宵(こよひ、コヨイ)、「かかること。」と、声高(こわだか)にものも言はせず。いとは辛く(つらく)見ゆれど、心ざしはせむとす。\n夜がふけてきたので、あちらこちらも見えない。京に入っていくので、うれしい。(私の)家に着いて、門に入ると、月があかるいので、とてもよく様子が見える。(うわさに)聞いていたよりもさらに、話にならないほど、(家が)壊れ痛んでいる。家(の管理)を預けていた(隣の家の)人の心も、すさんでいるのであったよ。(私の家と隣の家との間に)中垣こそあるけれど、一軒家のようなので(と言って)、(相手の隣家のほうから)望んで預かったのだ。(なのに、ひどい管理であったよ。)そうではあるが、ついでがあるたびに(= 誰かが京に行くついでに隣家へ贈り物を届けさせた)、(土佐からの)贈り物を(送って、相手に)受け取らせた。(しかし、けっして)今夜は「こんな(=荒れて、ひどい)こと。」とは(家来などには)大声で言わせない。たいそう、(預かった人が)ひどいとは思うけど、お礼はしようと思う。\n読解\n「たより」(頼り、便り):古語の「たより」は、多義語であり、「1.信頼できるもの 2.ついで・機会 3.音信・手紙」現代語と同じような意味の「信頼できるもの」というような用法もあるが、しかしこの場面では別の意味。この場面では、「機会」「ついで」の意味。\n「言う効(かい)なし」: ここでの「言う効なし」は「言う甲斐なし」のような意味で、「言いようがない」のような意味。\nだが、江戸時代の本居宣長の随筆『玉勝間』では、「つまらない」「価値がない」のような意味で「言うかいなし」と使っている用法もある。『玉勝間』では「よきあしきをいはず、ひたぶらにふるきをまもるは、学問の道には、いふかひなきわざなり」とある。「良し悪しを言わず、ひたすら古い説を守るのは、学問の道としては、つまらないものである」のような意味。\n荒れはてた庭に新しい小松が育ち始めている。出迎えの子供の様子を見て、土佐で無くなった娘を思い出し、自分の心を分かってくれる人とひそかに歌を交わした。\n忘れがたいことが多く、とても日記には書き尽くすことは出来ない。ともかく、こんな紙は早く破り捨ててしまおう。\nさて、池めいて窪まり(くぼまり)、水つける所あり。ほとりに松もありき。五年(いつとせ)六年(むとせ)のうちに、千年(ちとせ)や過ぎにけむ、片方(かたへ)はなくなりにけり。いま生ひたるぞ(おいたるぞ)交じれる。大方(おおかた)のみな荒れにたれば、「あはれ。」とぞ人々言ふ。思ひ出でぬ(いでぬ)ことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子(おむなご)の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。船人(ふなびと)も、皆(みな)、子たかりてののしる。かかるうちに、なほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、\nとぞ言へる。なほ飽かずやあらむ、また、かくなむ。\n \n忘れがたく、口惜しき(くちをしき)こと多かれど、え尽くさず。とまれかうまれ、疾く(とく)破りてむ(やりてむ)。 \nさて、池のようにくぼんで、水がたまっている所がある。そばに松もあった。(土佐に赴任してた)五年・六年の間に、(まるで)千年も過ぎてしまったのだろうか、(松の)半分は無くなっていた。(← 皮肉。松の寿命は千年と言われてた。)\n新しく生えたのが混じっている。\nだいたいが、すっかり荒れてしまっているので、「ああ(ひどい)。」と人々が言う。思い出さないことは無く(= つまり、思い出すことがある)、恋しく思うことの中でも、(とくに)この家で生まれた女の子(= 土佐で亡くした娘)が、土佐から一緒には帰らないので、どんなに悲しいことか。(=とても悲しい。)\n(一緒に帰京した)乗船者は、みんな、子供が集まって大騒ぎしている。こうしているうちに、(やはり?、なおさら?、※ 訳に諸説あり)悲しいのに耐えられず、ひっそりと気心の知れた仲間(= 紀貫之の妻か?)と言った歌、\nと言った。\nそれでも/やはり(※ 訳に諸説あり)、満足できないのであろうか、またこのように(歌を詠んだ)。\n忘れがたく、残念なことが多いけど、書きつくすことが出来ない。ともかく、(こんな日記は)すぐに破ってしまおう。\n「もがな」: 土佐日記には、上記とは他の文章だが「いかで疾く(とく)京へもがな。」という文章がある。「どのようにかして、早く京都に帰りたいなあ。」という意味である。「もがな」は「したいなあ」「が欲しいなあ」の意味の終助詞である。\n徒然草にも、「心あらむ友もがなと、都恋しうおぼゆれ。 」とあり、「情趣を解する友人がいたらなあ、と都が恋しく思われる。 」のように訳す。\nまた、「いかで」~「もがな」や「いかにも」~「もがな」のように、「もがな」は「いかで」などに呼応する。\n『更級(さらしな)日記』に、「幼き人々を、いかにもいかにも、わがあらむ世に見置くこともがな。」とある。「幼い子供たちを、何とかして何とかして、自分が生きているうちに見届けておきたいものだなあ。」のような意味。\nさて、百人一首に「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな」という和歌がある(後撰和歌集)。この歌の後半部の「人に知られで くるよしもがな」も、「人に知られないで来る方法があればいいのになあ。」という意味である。\n夜ふけて来れば、所々も見えず。京 に(格助) 入り立ち(四・用) て(接助) うれし(シク・終)。 家 に(格助) 至り(四・用) て(接助)、 門 に(格助) 入る(四・体) に(接助)、 月 明かけれ(ク・已然) ば(接助)、 いと(副詞) よく(ク・用) ありさま 見ゆ(下二段・終)。 聞き(四段・用) し(助動詞・過・体) より も(係助) まし(四・用) て(接助)、 言ふ効なく(ク・用) ぞ(係助、係り) 毀れ(下二・用) 破れ(下二・用) たる(助動・完・連体、結び)。 家 に(格助) 預け(下二・用) たり(助動・完了・用) つる(助動・完・体) 人 の(格助) 心 も(係助) 、 荒れ(下二・用) たる(助動・完・体) なり(助動・断定・用) けり(助動・詠嘆・終)。 中垣 こそ(係助、係り) あれ(ラ変・已然、結び)、一つ家 の(格助) やうなれ(助動・比況・已然) ば(接助)、望み(四・用) て(接助) 預かれ(四・已然) る(助動・完了・体) なり助動・断定・終)。 さるは(接続詞)、便りごと に(格助) 物 も(係助) 絶えず(副詞) 得(下二段・未然) させ(助動・使役・用) たり(助動・完了・終止)。 今宵、「かかる(ラ変・体) こと。」 と(格助)、声高に(ナリ・用) もの も(係助) 言は(四・未) せ(助動・使役・未) ず(助動・打消し・終)。 いと(副詞) は(係助) つらく(ク・用) 見ゆれ(下二・已然) ど(接助)、心ざし は(係助) せ(サ変・未然) む(助動・意志・終) と(格助) す(サ変・終止)。\nさて(接続詞) 、池めい(四段・用、音便) て(接助) 窪まり(四段・用)、水つけ(四・已然) る(助動・存続・体) 所 あり(ラ変・終止)。 ほとり に(格助) 松 も(係助) あり(ラ変・用) き(助動・過・終)。 五年六年 の(格助) うち に(格助)、千年 や(係助、係り) 過ぎ(上二段・用) に(助動・完了・連用) けむ(助動・過去推量・連体)、かたへ は(係助) なく(ク・用) なり(四・用) に(助動・完・用) けり(助動・過・終)。 いま(副詞) 生ひ(上二段・用意) たる(助動・完・体) ぞ(係助、係り) 交じれ(四段・已然) る(助動・存続・体、結び)。 大方 の(格助) みな(副詞) 荒れ(下二段・用) に(助動・完了・用) たれ(助動・完了・已然) ば(接助)、「あはれ(感嘆詞)。」 と(格助) ぞ(係助、係り) 人々 言ふ(四段・連体、結び)。 思ひ出で(下二・未然) ぬ(助動・打消し・体) こと なく(ク・用)、 思ひ恋しき(シク・体) が(格助) うち に(格助)、 こ(代) の(格助) 家 にて(格助) 生まれ(下二段・用) し(助動詞・過去・連体) 女子 の(格助) 、もろともに(副詞) 帰らね() ば(接助) 、 いかが(副詞) は(係助) 悲しき(シク・体)。 船人 も(係助) 、皆、 子 たかり() て(接助) ののしる()。 かかる(ラ変・連体) うち に(格助)、 なほ(副詞) 悲しき(シク・連体) に(格助) 堪へ(下二段・未然) ず(助動・未) して(接助)、 ひそかに(ナリ・用) 心 知れ(四・已) る(助動・存続・連体) 人 と(格助) 言へ(四・已) り(助動・完了・用) ける(助動・過去・連体) 歌、\nと(格助) ぞ(係助、係り) 言へ(四段・已然) る(助動・完了・体、結び)。 なほ(副) 飽か(四段・未然) ず(助動詞・打消し・用) や(係助、係り) あら(ラ変・未然) む(助動・推量・連体、結び)、 また(副詞)、 かく(副詞) なむ(係助)。\n \n忘れがたく(ク・用)、 口惜しき(シク・体) こと 多かれ(ク・已然) ど(接助) 、え(副詞) 尽くさ() ず(助動・打消し・終止)。 とまれかうまれ(連語、音便) 、とく(ク・用) 破り(四・用) て(助動詞・完了・未然) む(助動詞・意志・終止)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98"} {"text": "鎌倉時代の作品。成立年は、おそらく1212年~1221年ごろと思われている。作者は不明。\n仏教の説話が多い。芸能や盗賊の説話もある。この作品での仏教のようすは、鎌倉時代の仏教が元になっている。\n昔、比叡山に、一人の児がいた。僧たちが、ぼた餅(ぼたもち)を作っていたので、児はうれしいが、寝ずに待っているのを みっともないと思い、児は寝たふりをして待っていたところ、ぼた餅が出来上がった。\n僧が児を起こそうと声をかけてくれたが、児は思ったのは、一回の呼びかけで起きるのも、あたかも寝たふりを児がしていたかのようで、みっともないだろうと思った。なので、児が思ったのは、もう一度だけ、僧が声をかけてくれたら起きようかと思っていたら、僧たちは児が完全に寝入ってしまったと思い、二度目の声をかけなくなった。なので、ぼた餅が、僧たちに、どんどん食べられてしまい、児は「しまった」と思い、それでも食べたいので、あとになってから、僧の呼びかけへの返事をして「はい」と答えた。僧たちは面白くて大笑いだった。\n今は昔、比叡(ひえ)の山に 児(ちご) ありけり。 僧たち、宵(よひ。ヨイ)の つれづれに、 「いざ、かいもちひ せむ。」と言ひけるを、 この児、心寄せに聞きけり。 さりとて、し出ださむ(しいださむ)を待ちて寝ざらむも、わろかり なむ と 思ひて、片方(かたかた)に 寄りて、寝たる 由(よし) にて、出で(いで)来るを 待ちける に、すでに し出だし(いだし)たる さま にて、ひしめき 合ひたり。\n今となっては昔のことだが、比叡山の延暦寺に(一人の)児童がいたという。僧たちが、日が暮れて間もないころ(=宵)、退屈しのぎに\n(=つれづれに)、「さあ、ぼたもちを作ろう。」と言ったのを、この児は期待して聞いた。そうかといって、作りあがるのを待って寝ないでいるのも、みっともないだろうと思って、(部屋の)片隅によって寝たふりで(ぼたもちが)出来上がるのを待っていたところ、(僧たちが)もう作りあげた様子で騒ぎあっている。\nこの児、定めて 驚かさむ ず らむ と 待ちゐたる に、僧の、 「もの申しさぶらはむ。 驚かせたまへ。」と言ふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへむも、 待ちけるかと もぞ 思ふとて、いま一声(ひとこゑ、ヒトコエ)呼ばれていらへむと、念じて寝たるほどに、 「や、な 起こし奉り(たてまつり)そ。をさなき人は 寝入りたまひに けり。」と言ふ声のしければ、あな わびし と 思ひて、いま一度起こせかしと、思ひ寝に聞けば、 ひしひしと ただ食ひに食ふ音のしければ、ずちなくて、 無期(むご) の のち に、 「えい。」と いらへ たり ければ、僧たち 笑ふこと 限りなし(かぎりなし)。\nこの児は、きっと僧たちが起こしてくれるだろうと待っていたところ、僧が「もしもし、起きてください。」というのを、(児は)うれしいと思ったが、ただ一度(の呼びかけ)で返事をするのも、(ぼたもちを)待っていたかと(僧たちに)思われるのもいけないと考えて、もう一度呼ばれてから返事をしようと我慢して(=「念じて」に対応。)寝ているうちに、(僧が言うには)「これ、お起こし申しあげるな。幼い(おさない)人は 寝入ってしまいなさった。」と言う声がしたので、(児が、)ああ、情けない(=「あな わびし」に対応。)と思って、もう一度起こしてくれよと思いながら寝て聞くと、むしゃむしゃと、ひたすら(ぼたもちを)食べる音がしたので、どうしようもなくなり(=「ずちなくて」に対応。)、長い時間のあとに(児が)「はい」と(返事を)言ったので、僧たちの笑うこと、この上ない。\n今(名詞) は(格助詞) 昔、比叡の山 に(格助詞) 児 あり(ラ行変格動詞・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 僧たち、宵(よい) の(格助) つれづれ に(格助)、 「いざ(感嘆詞)、かいもちひ せ(サ変格・未然) む(助動詞・意思・終止)。」 と(格助) 言ひ(四段・連用) ける(助動詞・過去・連体) を(格助)、 こ(代名詞) の(格助) 児、心寄せ に(格助) 聞き(四段・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 さりとて(接続詞)、 し出ださ(四段・未然) む を(格助) 待ち(四段・連用) て(接続助詞) 寝(下二段・未然) ざら(助動・打消・未然) む(助動詞・婉曲・連体) も(係助詞)、 わろかり(形容詞・ク活用・連用) な(助動・強・未) む(助動・推・終) と(格助) 思ひ(四段・連用) て(接続助詞)、 片方 に(格助) 寄り(四段・連用) て(接続助詞)、 寝(動詞・下二段・連用) たる(助動・存在・連体) よし にて(格助)、 出で来る(いでくる)(動詞・カ行変格・連体)  を(格助) 待ち(四段・連用) ける(助動詞・過去・連体) に(接続助詞)、 すでに(副詞) し出だし(しいだし)(四段・連用) たる(助動・完了・連体) さま にて(格助)、 ひしめき合ひ(四段・連用) たり(助動詞・存在・終止)。\nこ(代名詞) の(格助詞) 児、定めて(副詞) 驚かさ むず(助動・推・終止) らむ(助動・現推・終止) と(格助) 待ちゐ たる に(接助)、 僧 の(格助)、 「もの申しさぶらはむ。 驚かせたまへ。」 と(格助) 言ふ を 、 うれし と は 思へ ども(接助)、ただ(副詞) 一度 に(格助) いらへ む も(係助)、 待ちける か(係助) と(格助) も(係助) ぞ 思ふ と(格助) て(接助)、 いま 一声 呼ばれて いらへ む と(格助)、念じ て(接助) 寝たる ほど に(格助)、 「や、な起こしたてまつりそ。 をさなき人は寝入りたまひにけり。」と言ふ声のしければ、あな(感嘆詞) わびし(形容詞・シク活用・終止) と(格助) 思ひ(四段・連用) て(接助)、 いま(副詞) 一度 起こせ(四段・命令) かし(終助詞) と(格助)、 思ひ寝 に(格助) 聞け(四段・已然) ば(接助)、 ひしひしと(副詞) ただ(副詞) 食ひ(四段・連用) に(格助) 食ふ(四段・連体) 音 の(格助) し(サ変・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、ずちなく(ク・用) て(接助)、 無期 の(格助) のち に(格助)、 「えい。」(感)  と(格助) いらへ(下二・用) たり(助動・完了・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 僧たち 笑ふ(四・体) こと 限りなし。(ク・終)\n昔、絵仏師の良秀がいた。ある日、隣家からの家事で自宅が火事になって、自分だけ逃げ出せた。妻子はまだ家の中に取り残されている。良秀は、家の向かい側に立っている。\n良秀は燃える家を見て、彼は炎の燃え方が理解できたので、家なんかよりも絵の理解のほうが彼には大切なので、炎を理解できたことを「得をした」などと言って、笑っていたりした。良秀の心を理解できない周囲の人は、「(良秀に)霊でも取りついたのか」と言ったりして心配したが、良秀に話しかけた周囲の人に、良秀は自慢のような説明をして、たとえ家が燃えて財産を失おうが絵などの仕事の才能さえあれば、家など、また建てられる金が稼げることを説明し、今回の火事の件で炎の燃え方が理解できたので、自分は炎が上手く書けるから、今後も金儲けが出来るので、家を建てられることを説明した。さらに、良秀の説明・自慢は続き、そして世間の一般の人々は才能が無いから物を大事にするのだと、良秀は あざわらう。\nけっきょく、良秀は、その後も絵描きとして成功し、『よじり不動』という絵が有名になって、世間の人々に褒められている。\n良秀は、あまり、妻子の安否を気にしてない。まだ妻子が火事の家の中にいるを知らないのではなく、知っているが気にしてない。\nこれも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火 出で来て(いできて)、風おしおほひてせめければ、逃げ出でて(いでて)大路(おほち)へ出でにけり。 人の描かする仏もおはしけり。 また、衣(きぬ)着ぬ妻子(めこ)なども、さながら内にありけり。それも知らず、ただ逃げ出でたる(いでたる)をことにして、向かひのつらに立てり。\nこれも今となっては昔のことだが、絵仏師の良秀という者がいた。(良秀の)家の隣から出火して、風がおおいかぶさって(火が)迫って(「せまって」)きたので、逃げ出して大通りに出てきてしまった。(家の中には、)人が(注文して)描かせていた(仏画の)仏も、いらっしゃった。また、着物も着ないでいる妻子なども、そのまま家にいた。(良秀は)それも気にせず、ただ自分が逃げ出せたのを良いことにして、(家・道の)向かい側に立っていた。\n見れば、すでにわが家に移りて、煙(けぶり)・炎くゆりけるまで、おほかた(オオカタ)、向かひのつらに立ちてながめければ、 \n「あさましきこと。」 \nとて、人ども来とぶらひけれど、騒がず。 \n「いかに。」 \nと人言ひければ、向かひに立ちて、家の焼くるを見て、うちうなづきて、ときどき笑ひけり。 \n「あはれ、しつる せうとくかな。年ごろはわろくかきけるものかな。」 \nと言ふ時に、とぶらひに来たる者ども、 \n「こはいかに、かくては立ちたまへるぞ。あさましきことかな。物(もの)のつきたまへるか。」 \nと言ひければ、 \n「なんでふ物(もの)のつくべきぞ。年ごろ不動尊の火炎(くわえん)を悪しく(あしく)かきけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得(こころう)つるなり。これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらんには、仏だによくかきたてまつらば、百千の家もいできなん。わ党(たう)たちこそ、させる能もおはせねば、物(もの)をも惜しみたまへ。」\nと言ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。そののちにや、良秀がよぢり不動とて、今に人々、めで合へり。 \n見ると、炎は既に自分の家に燃え移って、煙や炎がくすぶり出したころまで、(良秀は)向かいに立って眺めていたので、(周囲の人が)「大変なことでしたね」と見舞い(みまい)に来たが、(まったく良秀は)騒がない。\n(周囲の人が)「どうしたのですか」と(良秀に)尋ねたところ、(良秀は)向かいに立って、家の焼けるのを見て、うなずいて、ときどき笑った。(良秀は)「ああ、得が大きいなあ。長年にわたって、不動尊の炎を下手に描いていたなあ。」と言い、見舞いに来た者どもは(言い)「これは一体、なんで、このように(平然と笑ったりして)立っているのか。あきれたものだなあ。霊の類でも、(良秀に)取りついたのか」と言うと、\n(良秀は答えて)「どうして霊が取り付いていようか。(笑っていた理由は、取りつかれているのではなく、)長年、不動尊の火炎を下手に描いていた、それが今見た火事の炎によって、炎はこういうふうに燃えるのかという事が(私は)理解できたのだ。これこそ、もうけものだ。(たとえ家が燃えようが、才能さえあれば、金を稼げる。)\nこの絵仏師の道を専門に世に生きていくには、仏様さえ上手にお描き申し上げれば、たとえ百軒や千軒の家ですら、(金儲けをして)建てられる。\n(いっぽう、)あなたたちは、(あまり)これといった才能が無いから、物を惜しんで大切にするのでしょう。」 ( ← 皮肉 )(  あなたたち才能の無い人々は、せいぜい物でも惜しんで大切にしてください。) と言って、(人々を)あざ笑って立っていた。\nその後(のち)の事であろうか、(良秀の絵は、)良秀の よじり不動 といわれて、今でも人々が、ほめ合っている。\n後の時代だが、この作品が、近代の芥川龍之介の作品「地獄変」の題材にもなっている。\nこれ(代名詞) も(格助詞) 今 は(係り助詞) 昔、 絵仏師 良秀 と(格助) いふ(動詞・四段・連用) あり(動詞・ラ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 家 の(格助) 隣 より(格助) 火 出で来(動詞・カ変・連用) て(接続助詞)、 風 おしおほひ(動詞・四段・連用) て(接助) せめ(動詞・下二段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 逃げいで(動詞・下二段・連用) て(接助) 大路 へ(格助) 出で(動詞・下二段・連用) に(助動詞・完了・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 人 の(格助) 描か(動詞・四段・未然) する(助動詞・使役・連体) 仏 も(係助) おはし(サ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 また(接続詞)、 衣 着(動詞・上一段・未然) ぬ(助動詞・打消・連体) 妻子 など(副助詞) も(係助)、 さながら(副詞) 内 に(格助) あり(ラ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 それ(代名詞) も(格助) 知ら(四段・未然) ず(助動詞・打消・連用) 、 ただ(副詞) 逃げ出で(下二段・連用) たる(助動詞・完了・連体) を(格助) こと に(格助) し(サ変・用) て(接助)、 向かひ の(格助) つら に(格助) 立て(四段・已然) り(助動詞・完了・終止)。\n \n見れ ば(接助)、 すでに(副詞) わ(代名詞) が(格助詞) 家 に(格助) 移り て(接助)、 煙(けぶり)・炎 くゆり ける まで(副助詞)、 おほかた(副詞)、 向かひ の(格助) つら に(格助) 立ち て(接助) ながめ けれ ば(接助)、 \n「あさましき(形容詞・シク・連体) こと。」 \nと(格助) て(接助)、 人ども 来とぶらひ けれ(助動詞・過去・已然) ど(接助)、 騒が(四段・未然) ず(助動詞・打消・終止)。 \n「いかに(副詞)。」 \nと(格助) 人 言ひ(四段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 向かひ に(格助) 立ち(四段・連用) て(接助)、 家 の(格助) 焼くる(下二段・連体) を(格助) 見 て(接助) 、 うちうなづき て(接助)、 ときどき(副詞) 笑ひ(四段・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 \n「あはれ(感嘆詞)、 し(サ変・連用) つる(助動詞・完了・連体) せうとく かな(終助詞)。 年ごろ は(係助) わろく(ク活用・連用) 書き(四段・連用) ける(助動詞・詠嘆・連体) もの かな(終助詞)。」 \nと(格助) 言ふ(四段・連体) 時 に(格助)、 とぶらひ に(格助) 来(カ変・連用) たる(助動詞・完了・連体) 者ども、 \n「こ(代名詞) は(係助) いかに(副詞)、 かくて(副詞) は(係り助詞) 立ち たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然/命令) る(助動詞・存続・連体) ぞ(係り助詞)。 あさましき こと かな(終助詞)。 物(もの) の つき たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然/命令) る(助動詞・完了・連体)  か(係助)。」 \nと(格助) 言ひ(四段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 \n「なんでふ(副詞) 物 の(格助) つく べき(助動詞・当然・連体) ぞ(係助)。 年ごろ 不動尊 の(格助) 火炎 を(格助) 悪しく かきける なり。 今 見れ ば(接助)、 かう(副詞) こそ(係り助詞、係り) 燃え けれ(助動詞・過去・已然・結び)  と(格助)、 心得 つる(助動詞・完了・連体) なり(助動詞・断定・終止)。 これ こそ(係り助詞) せうとく よ(終助詞)。 こ(代名詞) の(格助) 道 を(格助) 立て(下二段・連用) て(接助)  世 に(格助) あら(ラ変・未然) む(助動詞・仮定・連体) に(格助) は(係助)、 仏 だに(副詞) よく(ク活用・連用) 書き(四段・連用) たてまつら(補助動詞・尊敬・四段・未然) ば(接助)、 百千 の(格助) 家 も(係助) 出で来(カ変・連用) な(助動詞「ぬ」・強意・未然) む(助動詞・推量・終止)。 わ党たち こそ(係り助詞、係り)、 させる(連体詞) 能 も(係り助詞) おはせ(サ変・未然) ね(助動詞・打消・已然) ば(接助)、 物 を(格助) も(係り助詞) 惜しみ(四段・連用) たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然結び)。」\nと(格助詞) 言ひ(四段・連用) て(接助)、 あざ笑ひ(四段・連用) て(接助) こそ(係り助詞、係り) 立て(四段・已然) り(助動詞・存続・連用) けれ(助動詞・過去・已然・結び)。 そ(代名詞) の(格助) のち に(助動詞・断定・連用) や(係り助詞)、 良秀 が(格助) よぢり不動 と(格助) て(接助)、 今に(副詞) 人々、 めで合へ(四段・已然/命令) り(助動詞・存続・終止)。\n鎌倉時代初期に成立した説話集。編者は不明。輪数は約二百話からなる。(百九十七話) 仏教に関した話が多い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%8B%BE%E9%81%BA%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "伊勢物語とは、\n歌物語(うたものがたり)。作者不詳。平安時代に成立だが、くわしい成立年は不詳。主人公は、在原業平(ありわらの なりひら)らしい人物であり、伊勢物語全体として業平の一代記のような構成になっている。業平は皇族出身なので、高貴な出自だが、いろんな女性に手をだしすぎて、評判が悪くなり、都にいづらくなり、地方にくだっていった。業平は、今で言うところの、いわゆるプレイボーイである。\n伊勢物語の全体として、恋愛にちなんだ話が多い。\n伊勢物語の段数は約百二十五段からなり、和歌を約二百首ふくむ。各章段が和歌を中心とした、独立した短い物語になっている。\n『古今和歌集』の成立(905年)の以前に『伊勢物語』の原型は成立したが、『古今和歌集』以降にも追記されている。\n在原業平は『古今和歌集』での代表的な歌人の一人になっている。\n「東下り」(あずまくだり)・「芥川」(あくたがわ)などは、業平をもとにしていると考えられる。だが「筒井筒」(つついづつ)は、べつの庶民をもとにしたと考えられている。\n※ 教科書では、とくに「東下り」が代表的な作品である。「東下り」は、詠まれた歌も多いので歌物語としての伊勢物語の教材に適切だし、業平のエピソードだし、当時の京都以外の様子も分かり、なかなか教育的である。\n業平の官位が「五位の中将」(ごいのちゅうじょう)なので、ほかの古典作品では業平のことを「在中将」(ざいのちゅうじょう)とか「在五中将」(ざいごちゅうじょう)とかと言い、伊勢物語のことを「在五物語」(ざいごものがたり)などと言う。\nこの話は、在原業平(ありわらの なりひら)が京を追われた史実を参考にした物語だろうと考えられている。\n昔、京に住んでいた男が、いろいろあって、京から出て行く気になったので、東国に移り住もうと旅をした。主人公の男は、べつに京が嫌いなのではなく、京には友人やら恋人などもいて恋しいが、なにか京には居づらい事が男にあったようだ。主人公の男は、旅のため、古くからの友人の一人か二人とともに、旅に出て、東国に下って行った。\n旅のなか、主人公の男は、いくつかの和歌を詠んだ。和歌の内容は、たいていは、京の都に残してきた妻・恋人を恋いしんだ和歌であるが、ときどき旅の途中で見た目づらしい物を和歌に読み込んだ和歌を作る場合もある。\n和歌の出来は良かったし、一行の者どもは京や恋人が恋しいので、一行の心にひびいたので、それぞれの和歌を詠んだあとの場面で、旅の一行は感動したり涙したりした。\n昔、京に住んでいた男が、いろいろあって、京から出て行く気になったので、東国に移り住もうと旅をした。古くからの友人の一人か二人とともに旅に出た。\n三河の国の八橋で、かきつばたの花が咲いていたので、折句(おりく、技法の一つ)で「か・き・つ・ば・た」を句頭に読み込んだ和歌を主人公の男が詠んだ。\n和歌の内容は、都に残してきた妻を恋しく思う和歌である。\n一行は感動し、涙を流すほどであり、ちょうどそのとき食べていた乾飯が、涙でふやけてしまうほどの素晴らしい出来の和歌だったという。\n昔、男ありけり。その男、身を要(えう)なきものに思ひなして、「京にはあらじ、東の方(かた)に住むべき国求めに。」とて行きけり。もとより友とする人、一人、二人して行きけり。道知れる人もなくて惑ひ(まどい)行きけり。三河(みかは、ミカワ)の国八橋(やつはし)といふ所に至りぬ。そこを八橋と言ひけるは、水ゆく川の蜘蛛手(くもで)なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。\nその沢のほとりの木の陰に下りゐて、乾飯(かれいひ、カレイイ)食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。\nそれを見て ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字(いつもじ)を句の上(かみ)に据ゑて 旅の心をよめ。」\nと 言ひければ、よめる。\nとよめりければ、みな人、乾飯の上に涙落としてほとびにけり。\n昔、(ある)男がいた。その男は、わが身を役に立たないものと思い込んで、「京には、おるまい、東国のほうに住める国を探しに(行こう)。」と思って出かけた。以前から友人とする者一人二人といっしょに出かけた。(一行の中には)道を知ってる人もいなくて、迷いながら行った。\n三河(みかわ)の国の八橋(やつはし)という所についた。そこを八橋といったのは(=「八橋」という理由は)、水の流れているのがクモの足のように八方に分かれているので、橋を八つ渡してあるので八橋といった(のである)。(一行は、)その沢のほとりの木陰に、(馬から)下りて座って、乾飯(かれいい)を食べた。\nその沢に、かきつばたがたいそう美しく(=または「趣深く」と訳す)咲いていた。ある人が言うには、「かきつばたという五文字を和歌の句の上に置いて、旅の心を詠め。」と言ったので、(主人公の)男が詠んだ。\nと詠んだので、一行は皆、乾飯の上に涙を落として、(乾飯が涙で)ふやけてしまった。\n「唐衣(からころも) きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ」は、このように重要であり、また有名なので、読者は、この句をまるごと全部、覚えてしまっても良い。\n駿河の国の宇津で、顔見知りの修行僧に出会ったので、手紙をことづけた。都にいる恋人への手紙である。\n和歌を合計で二つ作った。\n一つ目の和歌の内容は、宇津にちなんで、現(うつつ)と夢について、妻が夢ですら会えないことを、さびしんだ歌である。\n二つ目の和歌は、富士山を見ると、もう五月の下旬だというのに、まだ雪が残ってることに男はおどろき、その富士の雪についての和歌を詠んだ。二つ目の和歌では妻のことなどは詠んでいない。\n行き行きて、駿河(するが)の国にいたりぬ。\n宇津(うつ)の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗きに、蔦(つた)・楓(かへで、カエデ)は茂り、もの心細く すずろなる目を見ることと思ふに修行者(すぎょうざ)会ひたり。\n「かかる道はいかでかいまする。」と言ふを見れば、見し人なりけり。\n京に、その人の御(おほん、オオン)もとにとて、文(ふみ)書きてつく。\n富士の山を見れば、五月(さつき)のつごもりに、雪いと白う降れり。\nその山は、ここにたとへば、比叡(ひえ)の山を二十(はたち)ばかり重ね上げたらむほどして、なりは塩尻(しおじり)のやうになむありける。\nさらにどんどんと行き続けて、駿河の国に、たどり着いた。宇津の山に着いて、自分が(これから)分け入ろうとする道は、(木々が茂っているので)たいそう暗く(道も)狭い上に、蔦(つた)・楓(かえで)は茂り、\nなんとなく心細く、思いがけない(つらい)目を見ることだろうと思っていると、(一行は)修行者に出会った。\n「このような道に、どうして、おいでですか。」という人を見れば、(以前に京で)見知った人であった。\n(なので、)京に(いる)、その人(=主人公の恋人、唐衣の句の妻)の所にと、手紙を書いて、ことづけた。\n富士の山を見ると、五月の下旬(げじゅん)なのに、雪がたいそう白く降りつもっている。\nその(富士)山は、ここ(京)にたとえれば、比叡山を二十ほど重ね上げたようなくらい(の高さ)で、形は塩尻のようであった。\n武蔵・下総の国のあたりにつき、一行は、すみだ川を舟で渡ろうとするとき、見かけない鳥を見たので、渡し主に聞いたところ「都鳥」(みやこどり)だというらしい。\n男は和歌を詠んだ。\n一行は京が恋しいし恋人も恋しいので、一行は涙を流して、一行は皆泣いた。\nなほ行き行きて、武蔵(むさし)の国と下総(しもつふさ)の国との中に、いと大きなる川あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりに群れゐて、「思ひやれば、限りなく遠くも来(き)にけるかな。」とわび合へるに、渡し守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」と言ふに、乗りて渡らむとするに、\nみな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折りしも(おりしも)、白き鳥の、嘴(はし)と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを、イオ)を喰ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、\nと詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。\nさらにどんどんと行って、武蔵の国と下総の国との中に、大きな川がある。その川を隅田川(すみだがわ)という。その川のほとりに一行が集まって座って、「(都のことを)思えば、とても遠くに来たものだなあ。」と互いに嘆きあっていると、渡し守が「早く舟に乗れ。日も暮れてしまう。」というので、(舟に)乗って(川を)渡ろうとするが、(一行の者は)みな何となくさびしくて、(というのも)都に(恋しく)思う人がいないわけでもない。(=都に恋しい人がいる。)\nちょうどその時、(都鳥があらわれ、)白い鳥でくちばしと脚とが赤い、鴫ほどの大きさである鳥が、水の上で気ままに動きながら魚を(捕って)食べている。京では見かけない鳥なので、(渡し守を除いて)一行の人は誰も知らない。渡し守に(この鳥のことを)尋ねると、「これこそが(有名な)都鳥(だよ)。」と言うのを(一行は)聞いて、\nと詠んだので、舟の上の一行は皆(感極まり)泣いてしまった。\n(第九段)\n「限りなく」: 市販の単語集によっては「この上なく」のような意味だと解説されている。だが教科書ガイドではもっとシンプルに「とても」などと訳している書籍もある。けっして「限界がない」という意味ではない。単語集によっては「限りなく」を紹介してない場合もあるので、あまり気にする必要はない。「限界がない」わけではないという常識的な読解と、強調表現であることがわかれば、それで十分だろう。\n昔、男 あり(ラ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 そ(代名詞) の(格助詞) 男、 身 を(格助詞) 要なき(ク活用・連体) もの に(格助) 思ひなし(四段・連用) て(接続助詞) 、「京 に(格助) は(係助) あら(ラ変・未然) じ(助動詞・打消し・終止) 、東 の(格助) 方 に(格助) 住む(四段・終止) べき(助動詞・適当・連体) 国 求め(下二段・連用) に(格助)。」と(格助) て(接続助詞) 行き(四・用) けり(助動・過・終)。 もとより(副詞) 友 と(格助) する(サ変・体) 人、 一人 、二人 して(格助) 行き(四・用) けり(助動・過・終)。 道 知れ(四・已然) る(助動・存続・連体) 人 も(係助詞) なく(ク・用) て(接助) 惑ひ行き(四・用) けり(助動・過・終)。 三河の国 八橋 と(格助) いふ(四・体) 所 に(格助) 至り(四・用) ぬ(助動・完了・終止)。 そこ(代名詞) を(格助) 八橋 と(格助) 言ひ(四・用) ける(助動・過・体) は(係助詞)、 水 ゆく(四・体) 川 の(格助) 蜘蛛手 なれ(助動・断定・已然) ば(接助)、 橋 を(格助) 八つ 渡せ(四・已然) る(助動・存続・体) に(格助) より(四・用) て(接助) なむ(係助詞、係り) 八橋 と(格助) いひ(四・用) ける(助動・過・体)。\nそ(代名詞) の(格助) 沢 の(格助) ほとり の(格助) 木 の(格助) 陰 に(格助) 下りゐ(上一段・連用) て(接助)、 乾飯 食ひ(四・用) けり(助動・過・終)。 そ(代名詞) の(格助) 沢 に(格助) かきつばた いと(副詞) おもしろく(ク・用) 咲き(四・用) たり(助動・存続・終)。\nそれ(代名詞) を(格助) 見(上一段・連用) て(接助) ある(連体詞) 人 の(格助) いはく(連語)、「かきつばた と(格助) いふ(四・体) 五文字 を(格助) 句 の(格助) 上 に(格助) 据ゑ(下二段・連用) て(接助) 旅 の(格助) 心 を(格助) よめ(四段・命令)。」\nと(格助) 言ひ(四・用) けれ(助動・過去・已然) ば(接助)、よめ(四・已然) る(助動・完了・連体)。\nと(格助) よめ(四・已然) り(助動・完了・用) けれ(助動・過去・已然) ば(接助)、 みな人、 乾飯 の(格助) 上 に(格助) 涙 落とし(四・用) て(接助) ほとび(上二段・用) に(助動・完了・用) けり(助動・過去・終止)。\nこの話は、在原業平ではなく、べつの無名の商人などの庶民や地方官などの恋愛話だと思われている。\nある夫婦の、夫が、ほかの新しい女と結婚した。(当時は一夫多妻制だったので合法。なので、べつに浮気や不倫ではない。) しかし、最終的に、もとの妻と夫とが夫婦のヨリを戻した。この元の妻との夫婦愛を、伊勢物語の作者が夫の過去の心変わりを棚に上げて、もとの妻の一途さを美談に仕立て上げただけである。\n当然、新しい女のほうの一途は思いは、夫には無視をされている。\nそもそも、夫が他の女と結婚したことが発端なのだが、夫は、そういうことは気にしてないようだ。\n伊勢物語の作者は、いちおう、新しい女のほうが詠んだ和歌なども紹介している。\nある一組の男女がいて、結婚した。\n結婚後、妻の親が死んで、妻の家が貧乏になった。夫は貧乏が嫌なので、べつの女のところへ通うようになった。\n(当時は女の実家の親が、男の経済的な収入の世話をしていた。また、当時は一夫多妻制なので、複数の女との結婚は合法。なので、べつに不倫ではない。なので、女の親が死んで、夫の生活が貧しくなるのである。)\nしかし、妻が不快なそぶりを見せないので、夫は浮気を疑った。なので、妻の本音を見ようと、出かけたふりをして庭の植え込みに隠れて妻の様子を見た。\n妻は和歌を詠み、隠れて聞いていた夫は感動したので、この妻を大切にしようと思い、もう新しい女のところへは通わなくなった。\nいっぽう、べつの場所の新しい女のほうは、男からは見捨てられ、さんざんである。だが伊勢物語の作者から言わせれば、ぜんぜん新しいほうの女に同情していない。作者が言うには、新しい女の振る舞いが奥ゆかしくないからだとか、たしなみが足りないだとか、新しい女は、さんざんの言われようである。\n小さいころから仲の良かった男女がいたが、ついに結婚をした。先にプロポーズ(求婚のこと)したのは男の側(がわ)。\nこの章では、プロポーズの意味の和歌が書かれている。\nプロポーズの和歌をやりとりの後、すぐに結婚できたかどうかは定かではないが、ともかく、この男女は最終的に結婚した。\n昔、田舎(いなか)わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて(いでて)遊びけるを、大人(おとな)になりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をと思ひつつ、親のあはすれども、聞かで なむありける。さて、この隣の男のもとより、かくなむ、\n女、返し、\nなど言ひ言ひて、つひに本意(ほい)のごとくあひにけり。\n昔、田舎で暮らしていた人の子供たちが、井戸の周りで遊んでいたが、大人になったので男も女も互いに(たがいに)恥かしがったが、男はこの女をぜひ妻にしようと思い、女はこの男を(ぜひ夫にしよう)と思いながら(暮らしていて)、親が(他の人と)結婚させようとするけれど聞き入れないでいた。\nそして、この隣に住む男のところから、このように(歌を言ってきた)。\n女の返歌は、\nなどと言い合って、(それから、)ついに(二人は)本来の望みどおりに 結婚をした。\nこの作品の主人公の家についての説には、 1:商人で田舎で行商をしている。  2:地方官   などの説がある。\n夫婦の女の親が死んで、女が貧乏になったので、男は別の女のところへと通うようになった。\nもとの女(妻)が不快な様子も見せないので、男は、もとの女の浮気を疑い、出かけたふりをして植え込みに隠れて、もとの女の様子を見た。\nもとの女は気づかず、男を恋しく思い和歌を詠んだ。\n男は感動した。\nさて、年ごろ経る(ふる)ほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内(かふち)の国高安(たかやす)の郡(こほり、コオリ)に、行き通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、「悪し。」(あし)と思へる気色(けしき)もなくて、いだしやりければ、男、「異心(ことごころ)ありてかかるにやあらむ。」と思ひ疑ひて、前栽(せんざい)の中に隠れゐて、河内へ往ぬる顔にて見れば、この女、いとよう化粧(けさう、ケショウ)じて、うち眺めて(ながめて)、\nと詠み(よみ)けるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へも行かずなりにけり。\nさて、それから数年がたつうちに、女の親が死んで、女は生活のよりどころ(=財産など)がなくなり、(男が思ったのは)夫婦いっしょに貧しくいられようか(、いやおられない、)と(男は)思い、(男は別の女に通ってしまようになり、)河内の国の高安の郡に行き通う所が出来てしまった。\nそうでありながら、もとの女は不快に思ってる様子が無いので、男はこのもとの女が浮気をしてるのではと疑わしく思ったので、(男は)庭の植え込みの中に隠れて、河内に行ったふりをして、女の様子を見ると、女はたいそう美しい化粧をして物思いにぼんやりと外を眺めて(和歌を詠み)\nと詠んだのを(男は)聞いて、(男は)このうえもなく(女を)いとしいと思い、河内(の女の所)へも行かなくなった。\n新しい女のほうは、はじめのころこそ奥ゆかしかったが、仲が慣れていくうちに気をゆるして、女は、たしなみが無くなり、なので男は幻滅した。\n新しい女のほうも和歌を詠んだり手紙をよこしたりしたが、もう、男は通わなかった。\nまれまれかの高安に来てみれば、初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(いひがひ、イイガイ)取りて、笥子(けこ)のうつはものに盛りけるを見て、心憂がりて(うがりて)行かずなりにけり。さりければ、かの女、大和の方(かた)を見やりて、\nと言ひて見出だす(みいだす)に、からうじて、大和人(やまとびと)、「来む。」(こむ)と言へり。喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、\n  \nと言ひけれど、男住まず(すまず)なりにけり。 \nごく稀(まれ)に、あの高安(の女の所)に来てみると、女は始めのころは奥ゆかしく取り繕っていたけれども、今では気を許して、(食事のときには、女が)自分の手でしゃもじを取ってご飯を食器に盛ったのを(男は)見て、嫌気がさして(高安の女の所に)行かなくなってしまった。\nそうなったので、あの(高安の)女は、大和のほうを見やって、\nと歌を詠んで外を見やると、やっとのこと、大和の人(男)が「行こう」と言った。\n(高安の女は)喜んで待つが、(しかし、男は訪れず、女は使いをよこすが、男は)何度も来ないで、(月日が)過ぎてしまった。\nと言ったが(=歌を詠んだけれども)、男は(河内の女の所には)行かなくなってしまった。\n(第二十三段)\n業平が藤原高子に手を出した話をもとにしてると思われる。\n平安時代の昔、ある男が、高貴な女に恋をして、その女を盗みだしてきて、芥川のほとりまで逃げてきた。夜もふけ雷雨になり、男は荒れた蔵に女を押し込んだ。男は戸口で見張りをしている。\nしかし、女は鬼に食われてしまう。男は悲しんだ。\n本当は、盗み出した女を、女の兄たちが取り返しにきたのを、鬼と言い換えている。\n男は歌を詠んだ。その歌の内容は、逃げていた途中に、女が露を見て、あれは何か、真珠かとたずねていたが、このときに自分も露のように消えてしまえば良かったのに、という歌である。\nこの歌では、女は高貴なため箱入り娘なので、露を知らない。\n昔、男ありけり。女の、え得(う)まじかりけるを、年を経て(としをへて)よばひ(イ)わたりけるを、辛うじて(かろうじて)盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ川を率て行きければ、草の上に置きたりける露を、\n「かれは何ぞ。」\nとなむ男に問ひける。行く先遠く、夜も更けにければ、鬼ある所(ところ)とも知らで、神(かみ)さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、男、弓・胡簶(やなぐひ)を負ひて、戸口に居り(をり)。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に喰ひてけり。\n「あなや」\nと言ひけれど、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、みれば、率て(いて)来し(こし)女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。\n昔、男がいた。女で、妻にすることができそうもなかった(高貴な)女を、長年にわたって求婚してきたが、やっとのことで(その女を)盗み出して、たいそう暗い夜(の中)を(逃げて)きた。芥川という川(のほとりを)女を連れて行ったところ、草の上におりていた露を(女が)見て、「(光っている)あれは何か」と、男に尋ねた。\nこれから行く先(の道のり)も遠く、夜も更けてしまったので、(蔵に)鬼がいるとも'知らないで、雷'までも たいそう激しく鳴って、雨もひどく降ったので、荒れ果てた蔵(の中)に、女を奥に押し込んで、男は(見張りのため)弓と 胡簶(やなぐひ) を持って戸口におり、「早く夜も明けてほしい。」と思いながら座っていたところ、鬼がたちまち(女を)一口に食べてしまった。\n(女は)「あれえ。」と悲鳴を上げたけれど、雷が鳴る騒がしい音のために(男は悲鳴を)聞くことが出来なかった。(なので、男は、女がいないことに、まだ気づいていない。)\nしだいに夜も明けてゆき、(男が蔵の中を)見れば、連れてきた女もいない。男は地だんだ(じだんだ)を踏んで泣いたが、どうしようもない。\nこれは、二条の后(きさき)の、いとこの女御(にょうご)の御(おおん)もとに、仕う(つこう)まつるやうにて居(い)給へりけるを、\n容貌(かたち)のいとめでたくおはしければ、盗みて負ひ(おひ)て出で(いで)たりけるを、\n御兄人(せうと)、堀川の大臣(おとど)、太郎国経(たろうくにつね)の大納言、まだ下臈(げろう)にて内裏(うち)へ参り給ふに、\nいみじう泣く人あるを聞きつけて、とどめて取り返し給うてけり。\nそれをかく鬼とは言ふなり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とや。\nこれは(=この話は)、二条の后が、いとこの女御のお側(そば)に、お仕えするような形で、おいでになったのを、容貌がたいそう素晴らしくていらっしゃったので、(男が)盗んで背負って逃げたのであるが、(后の)兄上の堀川の大臣や、長男の国経の大納言が、まだ官位の低いときにいらっしゃたころに宮中に参上なさるときに、ひどく泣く人がいるので、(男を)引きとどめて(后を)取り返しなさったのであった。それをこのように鬼と言い伝えているのであった。まだ(后が)たいそう若く、后が入内(じゅだい)なさる前の、(まだ后になってない)普通の身分でいらっしゃった時のことだとか(いうことです)。\n(第六段)\nおそらく伊勢物語の作者が想像して書いた話であり、べつに在原業平などの特定の人物を参考にはしてないだろうと思われている。\nこの話での「あづさ弓」は和歌の単なる枕詞や序言葉であり、べつに弓術などとは話が関係ない。\n女と仲の良かった男が、宮仕えに行った。三年後、男が宮仕えから帰ってきたが、女は新しい別の男と結婚の約束をしてしまっていた。ちょうど、最初の男が帰ってきた日が、新しい男と結婚するために枕をともにする日だった。\n女が和歌で、もとの男に説明したので、もとの男も和歌を返して、そして男は帰ろうとした。さらに女は和歌を返したが、もとの男は帰っていってしまった。\n女は追いかけたが、追いつけず、倒れてしまい、岩場に指の血で、悲しみをあらわす和歌を書き、自分の身が消えそうなぐらい悲しいことを和歌で書いた。\nそして、女は本当に死んでしまった。\n女と仲の良かった男が、宮仕えに行った。三年後、男が宮仕えから帰ってきたが、女は新しい別の男と結婚の約束をしてしまっていた。ちょうど、最初の男が帰ってきた日が、新しい男と結婚するために新枕(にいまくら)する日だった。\nもとの男が家の門をたたくが、女は門を開けず、女はかわりに和歌を詠んだ。\n昔、男、片田舎に住みけり。男、「宮仕えしに。」とて、別れ惜しみて行きにけるままに、三年(みとせ)来ざりければ、待ちわびたりけるに、いとねむごろに(ねんごろに)言ひける人に、「今宵(こよひ、コヨイ)あはむ。」と契りたりけるに、この男来たりけり。「この戸開け給へ」とたたきけれど、開けで、歌をなむよみて出だしたりける。\n昔、(ある一人の)男が片田舎に住んでいた。男は宮仕えをするといって、女と別れを惜しんで、(男は)行ったまま、三年間戻ってこなかったので、女は待ちわびていたが、(そのころ)たいそう熱心に(女に)言い寄った人(=別の男)に、「結婚しましょう。」と約束してしまったところ、最初の男が(宮仕えから)帰ってきた。\n(最初の男が)「この戸をあけてくれ」とたたくくけど、(女は)開けないで、歌を詠んで差し出した。\n女は和歌で説明し、「今夜は、べつの男と結婚するために新枕する日なのですよ。」と説明した。\nもとの男は和歌を返して、「新しい夫を愛しなさい。」と女に返した。\n女は、和歌で「昔からあなたを愛しておりました。」と返すが、もとの男は帰っていってしまった。\n女は追いかけたが、追いつけず、倒れてしまい、岩場に指の血で、悲しみをあらわす和歌を書き、自分の身が消えそうなぐらい悲しいことを和歌で書いた。\nそして、女は本当に死んでしまった。\nと言ひ出だしたりければ、\nと言ひて、去なむとしければ、女、\nと言ひけれど、男、帰りにけり。女、いとかなしくて、後に立ちて追ひ行けど、え追ひつかで、清水のある所に伏しにけり。そこなりける岩に、指(および)の血して書きつけける。\nと書きて、そこにいたづらになりにけり。 \nと(女は)言うと、(男は歌を返し)\nと男は言って、帰ろうとしたら、女は(歌を返し)、\nと(女は)言ったけれども、男は帰ってしまった。\n女は、とても悲しくて、(去ってしまった男の)あとを追いかけたけれども、追いつくことができず、清水のある所に倒れ付してしまった。\nそこにあった岩に、指(ゆび)の血で(和歌を)書きつけた。\nと書いて、その場所で(女は)死んでしまった。 \n恋愛の話ではなく、母と子の家族愛についての話である。\n「さらぬ別れ」とは死別のこと。べつに、まだ、この親子は死んでないし、作中でも親子は死なない。\n男とは在原業平のことであり、母とは伊登内親王(いとないしんのう)。\n昔、男がいた。母は皇女だった。大人になった男は、あまり母に会えなかった。年老いた母から手紙が来て、死ぬ前に会いたいという歌が書いてあった。\n男も、母に長生きしてほしいという歌を詠んだ。\n昔、男ありけり。身は賤し(いやし)ながら、母なむ宮なりける。その母、長岡(ながおか)といふ所に住み給ひけり。子は京に宮仕へしければ、まうづ(もうず)としけれど、しばしばえまうでず。ひとつ子さへありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、十二月(しはす)ばかりに、とみの事とて、御文(ふみ)あり。おどろきて見れば、歌(うた)あり。\n \nかの子、いたううち泣きて詠める。\n \n昔、男がいた。(男の)官位は低かったが、母は皇女であった。その母は長岡という所に住んでいらっしゃた。\n子は京で宮仕えをしていたので、母のもとに参上しようとしたけれど、たびたびは参上できない。(男は、母の)一人っ子でさえあったので、たいへんかわいがっていらっしゃった。\nそうしているうちに十二月ごろに、急な用事だといって、(母からの)お手紙があった。(男が)驚いて(手紙を)見ると、歌がある。\nこの子(=男)は、たいそう泣いて、歌を呼んだ。\n(第八十四段)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "小式部内侍(こしきぶのないし)は女性貴族で、歌人。\n小式部内侍の母親は、和泉式部(いずみしきぶ)。和泉式部は、この時代のとても有名な歌人。\nこの作品で描かれる場面まで、小式部内侍は代作を疑われていた。母親の和泉式部に和歌を作ってもらっているのでは、と疑われていた。\nその疑惑のことで、定頼中納言(さだよりのちゅうなごん)にからかわれたので、小式部内侍は即興で和歌を作った。\nその和歌が、\nである。\n大江山とか「いくの」(生野)は、母親のいる丹後の国に関わる地名。\n「大江山・・・」の和歌を詠んだ人物は小式部内侍(こしきぶのないし)である。本作品には歌人が多く出てくるので、読者は間違えないようにしよう。\nさて、和歌を詠まれた相手は、べつの和歌を読んで返歌するのが礼儀だった。\nしかし定頼は返歌できなかった。急に小式部内侍に和歌を読まれたことと、和歌があまりにも見事だったからであろう。定頼も歌人なので、歌人ともあろうものが、返歌を出来なかったのである。しかも、先に相手をからっかたのは、そもそも定頼のほうである。\nそして返歌できなかった定頼は、その場から、あわてて立ち去るはめになった。\nこの話は、『十訓抄』(じっきんしょう)の「人倫を侮るべからず」(じんりんをあなどるべからず、意味:人を、あなどってはいけない。)の節に書かれている逸話。\n和泉式部(いづみしきぶ)、保昌(やすまさ)が妻(め)にて、丹後(たんご)に下りけるほどに、京に歌合(うたあはせ)ありけるに、小式部内侍(こしきぶのないし)、歌詠みにとられて、歌を詠みけるに、定頼中納言(さだよりのちゆうなごん)戯れて(たはぶれて)、小式部内侍、局にありけるに、「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなく 思す(おぼす)らむ。」と言ひて、局(つぼね)の前を過ぎられけるを、御簾(みす)より半ら(なから)ばかり出でて、わづかに直衣(なほし)の袖を控へて\n  \nと詠みかけけり。思はずにあさましくて、「こはいかに、かかるやうやはある。」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて逃げられけり。\n小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。\nこれはうちまかせて理運のことなれども、かの卿(きやう)の心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知らざりけるにや。 \n(小式部内侍の母の)和泉式部が、(藤原)保昌の妻として、丹後の国に下っていたころ、京で歌合せがあったが、小式部内侍が(歌合せの)詠み手に選ばれて、(和歌を)詠んだのだが、定頼中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いたときに、「(母君のいる)丹後へ出した使いの者は、帰ってまいりましたか。どんなにか待ち遠しくお思いでしょう。」と言って、局の前を通り過ぎなさるのを、(小式部内侍が)御簾から半分ほど(身を)乗り出して、少しだけ(中納言の)直衣の袖を引っ張って、(小式部は和歌を読み、)\nと詠んだ。\n(定頼中納言は)思いがけなかったのか、驚いて、「これはどうしたことだ。こんなことがあろうか。(ありえないほどに素晴らしい和歌である。)」と言って、返歌もできずに、(引っ張られていた)袖を引き払って、お逃げになった。\n小式部は、この時から、歌人の世界での評判が上がった。(※別訳あり: 歌人としての評判が世間で上がった。)\nこれは、普通の、理にかなったことなのだが、あの(中納言)卿の心には、(小式部が)これほどの歌をとっさに読み出すことができるとは、思ってもいらっしゃらなかったのだろうか。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%8D%81%E8%A8%93%E6%8A%84"} {"text": "", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E8%91%97%E8%81%9E%E9%9B%86"} {"text": "今は昔、阿蘇のなにがしといふ史(さくわん)ありけり。たけ短(ひき)なりけれども、魂はいみじき盗人にてぞありける。家は西の京にありければ、公事(くじ)ありて内(うち)に参りて、夜ふけて家に帰りけるに、東(ひむがし)の中の御門(mかど)より出でて車に乗りて、大宮下り(おほみやくだり)にやらせて行きけるに、着たる装束(さうぞく)を皆解きて、片端より皆たたみて、車の畳の下にうるはしく置きて、その上に畳を敷きて、史は冠(かむり)をし、襪(したうづ)をはきて、裸になりて車の内に居たり。\nさて二條より西様(にしざま)にやらせて行くに、美福門(びふくもん)のほどを過ぐる間に、盗人、傍らよりはらはらと出で来ぬ。車の轅(ながえ)につきて、牛飼ひ童(わらは)を打てば、童は牛を棄てて(すてて)逃げぬ。車の後(しり)に雑色(ざふしき)二、三人ありけるも、皆逃げて去り去りにけり。盗人寄り来たりて、車の簾(すだれ)を引開けて見るに、裸にて史居たれば、盗人、「あさまし。」と思ひて、「こはいかに。」と問へば、史、「東の大宮にて、かくの如くなりつる。君達(きんだち)寄り来て己が装束をば皆召しつ。」と、笏(しゃく)を取りて、よき人に物申すやうにかしこまりて答へければ、盗人笑ひて棄てて去りにけり。その後、史、声をあげて牛飼童をも呼びければ、皆出で来にけり。それよりなむ家に帰りにける。\nさて妻にこの由を語りければ、妻のいはく、「その盗人にもまさりたりける心にておはしける。」と言ひてぞ笑ひける。まことにいとおそろしき心なり。装束を皆解きて隠し置きて、しか云はむと思ひける心ばせ、さらに人の思ひ寄るべき事にあらず。\nこの史は、極めたる物云ひにてなむありければ、かくも云ふなりけりとなむ語り伝へたるとや。 \n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "作者の兼好法師は、鎌倉時代の人物。\n本名は、卜部兼良(うらべ かねよし)。\nはじめは、卜部家が代々、朝廷に神職として仕えていたので、兼好法師も後二条天皇に仕えていたが、のちに兼好法師は出家した。\n京都の「吉田」という場所に住んでいたので、吉田兼好(よしだけんこう)ともいう。\n花や月は、花の咲いている頃や、夜空に曇りの無い月など、その時期が見所とされている。それ自体は、当然な感想であり、べつに悪くは無いけれど、いっぽうの咲いてない花や曇りや雨の夜空にも、また、見所がある。しかし、情趣を解しない人は、咲いている花だけしか楽しもうとしないようだ。\n花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。\n歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書けるは、\n「花を見て。」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」などは言ふめる。\n(はたして、)桜の花は咲いているときだけを見るべきだろうか、月は曇りないときだけを見るべきなのだろうか。(いや、そうではない。)\n 雨に向かって月を見るのも、(家の中で、すだれを)垂れ込めて春の行方を知らないのも、やはり、しみじみとして趣深い。今にも咲きそうな梢(こずえ)や、(既に)散ってしまった庭も、見所が多いだろう。\n歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に参ったところ、とっくに散り去ってしまったので。」とか、「都合の悪いことがあってまいりませんで。」などと書いてあるのは、「花を見て。」と言ってるのに(比べて)劣っていることだろうか。(いや、そうではない。) 花が散り、月が傾くのを慕う風習は当然なことだけど、(しかし、)特に情趣の無い人は、「この枝も、あの枝も、散ってしまった。今は見どころが無い。」などと言うようだ。\nどんなことも始めと終わりにこそ趣があるものだ。恋愛も、男女が会うばかりが趣ではない。会えずにいても、一人で相手のことを思いながらしみじみとするのも、恋の情趣であろう。\nよろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。 男女(をとこをんな)の情けも、ひとへに 逢ひ(あひ、アイ)見るをば言ふものかは。逢はで(あはで)止み(やみ)にし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさぢ)が宿に昔をしのぶこそ、色好むとはいはめ。\nどんなことも、(盛りよりも)始めと終わりにこそ趣がある。男女の恋愛も、(はたして)ひたすら逢って契りを結ぶのを(「恋」と)言うのだろうか。(いや、そうではない。) \n会わないで終わってしまったつらさを思い、(約束の果たされなかった)はかない約束を嘆き、長い夜を一人で明かし、遠い大空の下にいる恋人を思いうかべて、茅が茂る荒れはてた住まいで昔(の恋人)をしみじみと思うことこそ、恋の情趣を理解しているのだろう。\n月見についても、満月よりも、他の月を見ほうが趣深いだろう。\n望月の隈(くま)なきを、千里の外まで眺めたる(ながめたる)よりも、暁近くなりて待ち出で(いで)たるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴(しひしば)・白樫(しらかば)などの、ぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都恋しうおぼゆれ。\n(月見についても、)満月でかげりや曇りなく照っているのを、(はるか遠く)千里のかなたまで眺めているのよりも、(むしろ)明け方近くになって、待ちこがれた(末に出た)月が、たいそう趣深く、青味を帯びているようで、深い山の木々の梢(ごし)に見えているのや、木の間(ごし)の(月の)光や、さっと時雨(しぐれ)を降らせた一群の雲に(月が)隠れている様子は、この上なく趣深い。\n椎柴(しいしば)・白樫(しらかば)などの、濡れているような葉の上に(月の光が)きらめいているのは、心にしみて、情趣を解する友人がいたらなあ、と都が恋しく思われる。\n月見や花見は、直接に目で見るのを楽しむべきではなく、心で楽しむことこそ、趣深いことだ。だから、情趣のある人の楽しみ方は、あっさりしている。情趣の無い人は、なにごとも、物質的に、視覚的に、直接に楽しむ。\nすべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒のみ、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見る事なし。 \n総じて、月や(桜の)花を、そのように目でばかり見るものだろうか。(いや、そうではない。) 春は(べつに、桜の花見のために)家から外に出なくても、月の夜は寝室の中にいるままでも、(桜や月を)思っていることこそ、たいへん期待ができて、趣深いことである。\n情趣のある人は、むやみに好みにふけっている様子にも見えず、楽しむ様子もあっさりしている。(無教養な)片田舎の人にかぎって、しつこく、なんでも(直接的に)楽しむ。\n(たとえば春の)花の下では、寄って近づきよそ見もしないでじっと見つめて、酒を飲んで連歌して、しまいには大きな枝を思慮分別なく折り取ってしまう。\n(夏には、田舎者は)泉に手足をつけて(楽しみ)、(冬には)雪には下りたって足跡をつけるなどして、どんなものも、離れたままで見ることが(田舎者には)ない。 \n(第一三七段)\n「猫また」と言う怪獣が出るという、うわさを聞いていた連歌法師が、ある日の夜、動物に飛び掛られたので、てっきり猫またに襲われていると思って、おどろいて川に飛び込んだ。\n実は、法師の飼い犬がじゃれて飛びついただけだった。\n「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる。」と人の言ひけるに、\n「山ならねども、これらにも、猫の経上りて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを。」\nと言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌(れんが)しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)のほとりにありけるが聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜更くる(ふくる)まで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどを食はんとす。肝心(きもごころ)も失せて(うせて)、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、\n「助けよや、猫また。よや、よや。」\nと叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。\n「こはいかに。」\nとて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇(おふぎ)・小箱など懐(ひところ)に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ(はふはふ)家に入りけり。\n飼ひける犬の、暗けれど、主(ぬし)を知りて、飛び付きたりけるとぞ。 \n山奥に猫またというもの(=化け物、妖怪)がいて、人を食うそうだ、とある人が言った。\n「(ここは)山ではないけれど、このあたりにも、猫が年を取って変化して、猫またになって、人をとって食らうことがあるというのだよ。」\nと言う者がいたので、なんとか阿弥陀仏とかいう連歌を(仕事または趣味などに)している法師で、行願寺の付近に住んでいた者がこれを聞いて、一人歩きをする者は用心すべきことであるな思った頃、ある所で夜が更けるまで連歌をして、たった一人で帰るときに、小川のほとりで、うわさに聞いていた猫また、(猫またの)狙いたがわずに首のあたりに食いつこうとする。\n(法師は)正気も失って、防ごうとするが力も出ず、(腰が抜けて)足も立たず、小川へ転がりこんで、\n「助けてくれ。猫まただ。おーい。」\nと叫ぶので、\n(近くの)家々から、(人々が) 松明(たいまつ)をともして走り寄ってみると、(助けを求めてる人は)このあたりで顔見知りの僧だった。\n(人々は)「これは、どうしたことか。」\nと言って、川の中から抱き起こしたところ、連歌で受け取っていた賞品の扇・小箱など、懐に入れていたのも、水につかってしまった。\n(僧の態度は)かろうじて助かったという様子で、這うようにして家に入っていった。\n(第八十九段)\nこの時点では、連歌法師は、まだ「猫また」だと思ってた動物が飼い犬だと気づいていないか、あるいは、まだ腰を抜かした様子が直ってないのだろう。\nおそらく作者の気持ちでは、笑い話、と思ってるのだろう。\n作者の兼好法師も、職業が同じく「法師」なので、作者は色々と思うところがあっただろう。\n後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)が亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に大井川(おおいがわ)の水を引き入れようとして、地元の大井の住人に水車を造らせて、水車は組みあがったが、思うように回ってくれず、水を御池に組み入れることができない。\nそこで、水車作りの名所である宇治から人を呼び寄せて、水車を作らせたところ、今度の水車は、思いどおりに回ってくれて、御池に川の水を汲み入れることができた。\n何事につけても、その道の専門家は、貴重なものである。\n亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に、大井川(おほゐがは、オオイガワ)の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて(おほせて)、水車(みづぐるま)を造らせられけり。多くの銭(あし)を賜ひて(たまひて)、数日(すじつ)に営み出(い)だして、掛けたりけるに、おほかた廻(めぐ)らざりければ、とかく直しけれども、つひに回らで、いたづらに立てりけり。さて、宇治(うぢ)の里人(さとびと)を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み(くみ)入るること、めでたかりけり。\n万(よろづ)に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。\n(後嵯峨上皇は)亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に、大井川(オオイガワ)の水を引き入れようとして、大井の住民にお命じになって、水車(みづぐるま)を造らせなさった。多くの銭をお与えになって、数日で造り上げて、(川に)掛けたが、まったく回らなかったので、あれこれと直したけれども、とうとう回らないで、(水車は)何の役にも立たずに立っていた。\nそこで、(水車づくりの名所である)宇治(うぢ)の里の人をお呼びになって、(水車を)お造らせになると、容易に組み上げてさしあげた水車が、思いどおりに回って、水を汲み(くみ)入れる事が、みごとであった。\n何事につけても、その(専門の)道に詳しい者は、貴重なものである。\n(第五一段)\n木登りの名人が、他人を木に登らせるとき、登っているときには注意しないで、下りてきてから気をつけるように注意していた。筆者の兼好法師が、わけを尋ねたところ、「人間は、自分が危険な高い場所にいる時には、本人も用心するので、私は注意しないのです。ですが、降りるときは安心してしまうので、用心しなくなってしまいがちなので、用心させるように注意するのです。失敗は、むしろ安全そうな時にこそ、起こりやすいのです。」と言うようなことを言った。\n木登り名人の意見は、身分の低い者の意見だが、聖人の教えにも匹敵するような、立派な教訓であろう。\n高名(かうみやう)の木登りと言ひし男、人を掟てて(おきてて)、高き木に登せて梢(こずゑ)を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、 「過ちすな。心して降りよ。」 とことばをかけ侍りしを、 「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」 と申し侍りしかば、 「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ち(あやまち)は、安き(やすき)ところになりて、必ず仕まつる(つかまつる)ことに候ふ。」 と言ふ。\nあやしき下臈(げらふ)なれども、聖人(せいじん)の戒めにかなへり。鞠(まり)も、難きところを蹴(け)いだしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。    \n有名な木登り(の名人だ、)と(世間が)言う男が、人を指図して、高い木に登らせて梢を切らせる時に、とても危険に見えるときには(注意を)言わないで、下りようとする時に、軒の高さほどになってから、「失敗をするな。注意して降りろ。」と言葉をかけましたので、(私は不思議に思って、わけを尋ねたました。そして私は言った。)「これくらいになっては、飛び降りても下りられるだろう。どうして、このように言うのか。」と申しましたところ、(木登りの名人は答えた、)「そのことでございます(か)。(高い所で)目がくらくらして、枝が危ないくらいの(高さの)時は、本人(=登ってる人)が怖い(こわい)と思い(用心し)ますので、(注意を)申しません。過ちは安心できそうなところになって(こそ)、きっと、いたすものでございます。」と言う。\n(木登り名人の意見は、)身分の低い者の意見だが、聖人の教えにも匹敵する。蹴鞠(けまり)も、難しいところを蹴り出した後、安心だと思うと、必ず地面に落ちると(いう教えが)あるようです。\n(第一〇九段)\n京都の丹波にある神社は、出雲大社から神霊を分けてもらっている。つまり、複数の神社で、同じ神がまつられている。\n出雲大社の主神は大国主(オオクニヌシ)。\n丹波の国にある出雲神社を、聖海上人(しょうかいしょうにん)が大勢の人たちといっしょに参拝した。\n社殿の前にある像の、狛犬(こまいぬ)の像と獅子(しし)の像とが背中合わせになっているのを見て、聖海上人は早合点をして、きっと深い理由があるのだろうと思い込み、しまいには上人は感動のあまり、上人は涙まで流し始めた。\nそして、出雲大社の神官に像の向きの理由を尋ねたところ、子供のいたずらだと言われ、神官は像の向きを元通りに直してた。\n上人の涙は無駄になってしまった。\n丹波に出雲といふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人(しやうかいしやうにん)、その他も人あまた誘ひて、「いざ給へ(たまへ)、出雲拝みに。掻餅(かいもちひ)召させん。」とて具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。 \n御前(おまへ)なる獅子(しし)・狛犬(こまいぬ)、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。無下(むげ)なり。」と言へば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、さだめて習ひある事に侍らん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ(さふらふ)。さがなき童(わらはべ)どもの仕り(つかまつり)ける、奇怪に候うことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往に(いに)ければ、上人の感涙いたづらになりにけり。 \n丹波の国に出雲という所がある。出雲大社(の神霊)を移して、立派に造ってある。しだの何とかと言う人の治めている所なので、秋の頃に、(しだの何とかが誘って)聖海上人や、その他の人たちも大勢誘って、「さあ、行きましょう。出雲の神社を参拝に。ぼた餅をごちそうしましょう。」と言って(一行を)連れて行って、皆がそれぞれ拝んで、たいそう信仰心を起こした。\n社殿の御前にある獅子と狛犬が、背中合わせに向いていて、後ろ向きに立っていたので、上人は(早合点して)とても感動して、「ああ、すばらしい。この獅子の立ち方は、とても珍しい。(きっと)深い理由があるのだろう。」と涙ぐんで、\n「なんと、皆さん。この素晴らしいことをご覧になって、気にならないのですか。(そうだとしたら)ひどすぎます。」と言ったので、皆もそれぞれ不思議がって、「本当に他とは違っているなあ。都への土産話として話そう。」などと言い、上人は、さらに(いわれを)知りたがって、年配で物をわきまえていそうな顔をしている神官を呼んで、(上人は尋ね)「この神社の獅子の立てられ方、きっといわれのある事なのでしょう。ちょっと承りたい。(=お聞きしたい)」と言いなさったので、(神官は)「そのことでございすか。いたずらな子供たちのしたことです、けしからぬことです。」と言って、(像に)近寄って置き直して、行ってしまったので、上人の感涙は無駄になってしまった。 \n(第二三六段)\n九月二十日のころ、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入りたまひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。\nよきほどにて出でたまひぬれど、なほ、事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらしまかば、口をしからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。 \nこれも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残とて、おのおの遊ぶことありけるに、酔ひて(ゑひて)興に入るあまり、傍らなる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおし平めて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入ること限りなし。\nしばしかなでて後(のち)、抜かんとするに、おほかた抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。とかくすれば、首のまはり欠けて、血垂り、ただ腫れ(はれ)に腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三つ足なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうちかけて、手を引き杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり率て行きける道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。\n医師のもとにさし入りて、向かひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやう)なりけめ。ものを言ふも、くぐもり声に響きて聞こえず。「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし。」と言へば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。\nかかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引きたまへ。」とて、藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。 \n静かに思へば、よろづに過ぎにし方の恋しさのみぞ、せん方(かた)なき。\n人静まりて後(のち)、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵描きすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなる ぞかし。手なれし具足なども、心もなくて変はらず久しき、いとかなし。 \n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89"} {"text": "本記事では、高校教育の重要度の順に、「木曾の最後」を先に記述している。\n原著での掲載順は 祇園精舎 → 富士川 → 木曾の最後 。\n平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。\n作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。\n作者は不明。\n平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。\n平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。\nなお、平家がほろび、源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。\n『平家物語』の文体は、漢文ではなく和文であるが、漢文の書き下しっぽい言い回しの多い文体であり、このような文体を和漢混淆文(わかんこんこうぶん)という。\nなお、日本最古の和漢混淆文は、平安末期の作品の『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)だと言われている。(『平家物語』は最古ではないので、気をつけよう。)平家物語が書かれた時代は鎌倉時代である。おなじく鎌倉時代の作品である『徒然草』(つれづれぐさ)や『方丈記』(ほうじょうき)も和漢混淆文と言われている。(要するに、鎌倉時代には和漢混淆文が流行した。)\n現代では、戦争を描写した古典物語のことを「軍記物語」(ぐんきものがたり)と一般に言う。 日本の古典における軍記物語の代表例として、平家物語が紹介されることも多い。略して「軍記物」(ぐんきもの)という事も覆い。\nじつは、日本最古の軍記モノは平家物語ではないかもしれず、鎌倉初期の『保元物語』(ほうげんものがたり)や『平治物語』(へいじものがたり)という作品が知られており現代にも文章が伝えられているが、しかし成立の時期についてはあまり解明されてない。\n『平家物語』『保元物語』『平時物語』の成立の順序は不明である。\n軍記物の『太平記』や『保元物語』などの多くの軍記物な文芸作品でも、和漢混淆文が多く採用された。\n下記の文中に出てくる人物「巴」(ともえ)は、歴史上は実在しなかった、架空の人物の可能性がある。そのため読者は、中学高校の歴史教科書では、巴を実在人物としては習わないだろう。\n木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、敵の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らの軍勢と戦争をしていた。\n木曾方が劣勢であった。\nどんどんと木曾方の兵は討ち取られ、ついに木曾方の数は、木曽義仲と今井四朗(いまいのしろう)だけの二騎になってしまった。\n今井四朗は、義仲に、敵兵の雑兵(ぞうひょう)に討ち取られるよりも自害こそが武士の名誉だと薦めて(すすめて)、義仲も自害をすることに同意する。\n義仲の自害が終わるまで、四朗が敵を防ぐはずだった。\nだが、四朗の防戦中に、義仲が自害するよりも前に、敵兵に討ち取られてしまった。もはや今井四朗には、戦う理由も目的も無くなったので、今井四朗は自害した。\n木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、敵の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らの軍勢と戦争をしていた。木曾方が劣勢であった。\nどんどんと木曾方の兵は討ち取られ、ついに木曾方の数は、木曽義仲と今井四朗(いまいのしろう)だけの二騎になってしまった。\n今井四朗は、義仲に、敵兵の雑兵(ぞうひょう)に討ち取られるよりも自害こそが武士の名誉だと薦めて(すすめて)、義仲も自害をすることに同意する。\n予定では、義仲は粟津(あわづ)の松原で自害をする予定だった。\n義仲の自害が終わるまで、四朗が敵を防ぐために戦う予定だった。\n敵勢が五十騎ほど現れた。\n木曾は粟津の松原へと駆けつけた。\n今井四郎(いまゐのしらう、イマイノシロウ)、木曾殿(きそどの)、主従二騎になつて、のたまひ(イ)けるは、「日ごろは何ともおぼえぬ鎧(よろひ、ヨロイ)が、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせ給わず(タマワズ)。御馬(おんま)も弱り候はず(さうらはず、ソウロワズ)。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うは思しめし(おぼしめし)候ふ(ウ)べき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候は(ワ)ねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余(よ)の武者千騎(せんぎ)とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き(ふせき)矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ、アワヅ)の松原(まつばら)と申す。あの松の中で御自害(おんじがい)候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者、五十騎ばかり出で来たり。\n「君はあの松原へ入らせ(いらせ)たまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひ(イ)けるは、「義仲(よしなか)、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ、ナンジ)と一所で(いつしょで)死なんと思ふためなり。所々で(ところどころで)討たれんよりも、一所で(ひとところ)こそ討死(うちじに)をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゅ)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみょう、コウミョウ)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、いふかひなき(イウカイナキ)人の郎等(らうどう、ロウドウ)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国(にっぽんごく)に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ口惜しう(くちをしう、クチオシュウ)候へ。ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、木曾、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ(タモウ)。\n今井四郎と、木曾殿は、(ついに)主従二騎になって、(木曾殿が)おっしゃったことは、「ふだんは何とも感じない鎧が、今日は重く(感じられるように)なったぞ。」\n(木曾殿の発言に対して、)今井四郎が申し上げたことには、「お体も、いまだお疲れになっていませんし、お馬も弱っていません。どうして、一着の鎧を重く思いになるはずがございましょうか。それは、見方に軍勢がございませんので、気落ちして、そのようにお思いになるのです。(残った味方は、この私、今井四郎)兼平ひとり(だけ)でございますが、他の武者の千騎だとお思いください。(残った)矢が七、八本ありますので、しばらく(私が)防戦しましょう。あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松の中で自害ください。」と言って、(馬を)走らせて(進んで)いくうちに、また新手の(敵の)武者が、五十騎ほどが出てきた。(今井四郎は木曾殿に言った、)「殿は、あの松原へお入りください。兼平は、この敵を防ぎましょう。」と申したところ、木曾殿がおっしゃったことは、「(この私、木曽)義仲は、都でどのようにも(= 討ち死に)なるはずであったが、ここまで逃げてこられたのは、おまえ(=今井四郎)と同じ所で死のうと思うからだ。別々の所で討たれるよりも、同じ所で討ち死にしよう。」と言って、(木曾殿は馬の向きを敵のほうへ変え、兼平の敵方向へと向かう馬と)馬の鼻を並べて駆けようとしなさるので、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申し上げたことには、「武士は、(たとえ)常日頃どんなに功績がありましても、(人生の)最期のときに失敗をしますと、(末代まで続く)長い不名誉でございます。(あなたの)お体は、お疲れになっております。(味方には、もう、あとに)続く軍勢はございません。(もし二人で敵と戦って、)敵に押し隔てられて(離れ離れになってしまって)、取るに足りない(敵の)人の(身分の低い)家来によって(あなたが)組み落とされて、お討たれになられましたら、(世間は)『あれほど日本国で有名でいらっしゃった木曾殿を、誰それの家来が討ち申しあげた。』などと申すようなことが残念でございます。ただ、(とにかく殿は、)あの松原へお入りください。」と申し上げたので、木曾は、「それならば。」と言って、粟津の松原へ(馬を)走らせなさる。\n今井四朗は、たったの一騎で、敵50騎と戦うために敵50騎の中に駆け入り、四朗は名乗りを上げて、四朗は弓矢や刀で戦う。敵も応戦し、今井四朗を殺そうと包囲して矢を射るが、今井四朗の鎧(よろい)に防がれ傷を負わすことが出来なかった。\n今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏ん張り立ち上がり、大音声(だいおんじやう)あげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の御 乳母子(めのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ。」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ(はせ)合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕り(ぶんどり)あまたしたりけり。ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。\n今井四郎はたったの一騎で、五十騎ばかりの(敵の)中へ駆け入り、鐙(あぶみ)に踏ん張って立ち上がり、大声を上げて(敵に)名乗ったことは、「日ごろは、うわさで聞いていたであろうが、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子(である)、今井四郎兼平、年齢は三十三歳になり申す。そういう者がいることは、鎌倉殿(=源頼朝)までご存知であろうぞ。(この私、)兼平を討ち取って(鎌倉殿に)お目にかけよ。」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、次々に射る。(射られた敵の)生死のほどは分からないが、たちまち敵の八騎を射落とす。それから、刀を抜いて、あちらに(馬を)走らせ(戦い)、こちらに走らせ(戦い)、(敵を)切り回るので、面と向かって立ち向かう者もいない。(多くの敵を殺して、首や武器など)多くを奪った。(敵は、)ただ「射殺せよ。」と言って、(兼平を殺そうと包囲して、敵陣の)中に取り込み、(いっせいに矢を放ち、まるで矢を)雨が降るように(大量に)射たけれど、(兼平は無事であり、兼平の)鎧(よろい)が良いので裏まで矢が通らず、(敵の矢は)よろいの隙間を射ないので(兼平は)傷も負わない。\n今井四郎が防戦していたそのころ、義仲は自害の準備のため、粟津(あわづ)の松原に駆け込んでいた。\nしかし、義仲の自害の前に、義仲は敵に射られてしまい、そして義仲は討ち取られてしまった。\nもはや今井四郎が戦いつづける理由は無く、そのため、今井四郎は自害のため、自らの首を貫き、今井四郎は自害した。\n木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり、深田(ふかた)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手(いたで)なれば、真向(まつかう、真甲)を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人(ににん)落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日ごろ日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、いくさしけるがこれを聞き、「今は、誰(たれ)をかばはんとてかいくさをばすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛(かう)の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せ(うせ)にける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。\n木曾殿はたったの一騎で、粟津の松原へ駆けなさるが、(その日は)正月二十一日、夕暮れ時のことであるので、\n(田に)薄氷が張っていたが(気づかず)、深い田があるとも知らずに、(田に)馬をざっと乗り入れてしまったので、馬の頭も見えなくなってしまった。(あぶみでは馬の腹をけって)あおっても、あおっても、(むちを)打っても打っても、(馬は)動かない。(義仲は)今井の行方が気がかりになり、振り返りなさった(とき)、(敵の矢が)甲(かぶと)の内側を(射て)、(その矢は)三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)が追いかかって、十分に(弓を)引いて、ピューと射る(矢である)。(木曾殿は)深い傷を負ったので、甲の正面を馬の頭に当ててうつぶせになさったところ石田の家来が二人来合わせて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。\n太刀の先に(義仲の首を)貫き、高く差し上げ、大声を挙げて「このごろ、日本国に名声の知れ渡っている木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取り申し上げたぞ。」と名乗ったので、今井四郎は、戦っていたが、これを聞き、(今井四郎は言った、)\n「今は、誰をかばおうとして、戦いをする必要があるか。これを(=私を)ご覧になされ、東国の方々。日本一の勇猛な者が自害する手本を。」と言って、(今井は自害のため)太刀の先を口に含み、馬上から逆さまに飛び落り、(首を)貫いて死んだのである。そのようないきさつで、粟津の戦いは終わった。\n(巻九)\n木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、源義経の軍勢と戦っていた。\n義仲の軍勢は、この時点の最初は300騎ほどだったが、次々と仲間を討たれてしまい、ついに主従あわせて、たったの5騎になってしまう。\n義仲は、ともに戦ってきた女武者の巴(ともえ)に、落ちのびるように説得した。\n巴は最後の戦いとして、近くに来た敵の首を討ち取り、ねじ切った。そして巴は東国へと落ちのびていった。\n木曾左馬頭(さまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒(を)しめ、厳物(いかもの)作り(づくり)の大太刀(おほだち)はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々のこったるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、滋籐(しげどう)の弓もって、聞こゆる(きこゆる)木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太う(ふとう)たくましいに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)踏んばり立ちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曾の冠者(くわんじや)、今は見るらむ、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐(かひ)の一条次郎(いちじやうのじらう)とこそ聞け。互ひ(たがひ)によき敵(かたき)ぞ。義仲討つて(うつて)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に見せよや。」とて、をめいて駆く。一条の次郎、「ただ今名のるのは大将軍(たいしやうぐん)ぞ。あますな者ども、もらすな若党、討てや(うてや)。」とて、大勢の中にとりこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。木曾三百余騎、六千余騎が中を。縦様(たてさま)・横様(よこさま)・蜘蛛手(くもで)・十文字に駆け割つて(かけわつて)、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎(とひのじらう)実平(さねひら)、二千余騎でささへたり。それをも破つて(やぶつて)行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで巴(ともゑ)は討たざれけり。木曾殿、「おのれは、疾う疾う(とうとう)、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉つて、「あっぱれ、よからう敵(かたき)がな。最後のいくさして見せ奉らん。」とて、控へたる(ひかえたる)ところに、武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田八郎師重(おんだのはちらうもろしげ)、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪(まへわ)に押し付けて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。そののち、物具(もののぐ)脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかのたらう)討ち死にす。手塚別当(べつたう)落ちにけり。\n木曾左馬頭(=義仲)は、その日の装束は、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)を着て、鍬形(くわがた)の飾りを打ちつけた甲(かぶと)の緒(を)しめ、いかめしい作りの大太刀(おおだち)を(腰に)着けて、石打ちの矢で、その日の戦いに射て少し残ったのを、頭の上に出るように高く背負って、滋籐(しげどう)の弓を持って、有名な「木曾の鬼葦毛」(きそのおにあしげ)という馬の、たいそう太くたくましい馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)を置いて乗っていた。鐙(あぶみ)を踏んばって立ちあがり、大声をあげて名乗ったことは、「以前は(うわさに)聞いていたであろう、木曾の冠者を、今は(眼前に)見るだろう、(自分は)左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲であるぞ。(おまえは)甲斐(かい)の一条次郎(いちじょうのじろう)だと聞く。お互いによき敵だ。(この自分、)義仲を討ってみて、兵衛佐(ひょうえのすけ)(=源頼朝)に見せてみろ。」と言って、叫んで馬を走らせる。一条の次郎は、「ただいま、名乗るのは(敵の)大将軍ぞ。討ち残すな者ども、討ち漏らすな若党、討ってしまえ。」と言って、大勢で(包囲しようと)中にとりこめようと、われこそが討ち取ってやろうと進んでいった。木曾の三百余騎、(敵の)六千余騎の中を(方位から抜け出ようと馬で駆け回り)、縦に、横に、八方に、十文字にと駆け走って、(敵の)後ろへつっと(抜け)出たところ、(木曾の自軍の残りは)五十騎ほどになってしまっていた。そこ(の敵)を破って行くほどに、(敵の)土肥次郎(とひのじらう)実平(さねひら)が、二千余騎で防戦していた。そこ(の敵)をも破ってゆくほどに、(木曾の兵数は討たれて減っていき)あそこでは四~五百騎、ここでは二~三百騎、百四十~五十騎、百騎ばかりが(敵勢の)中を駆け走り駆け走りしてゆくほどに、(ついに)木曾と家来あわせて五騎になってしまった。五騎の内、(まだ)巴(ともえ)は討たれていなかった。木曾殿は(巴に言った)、「おまえ(=巴)は、さっさと、(巴は)女なのだから、どこへでも逃げて行け。自分は(この戦いで)討ち死にしようと思っている。もし敵の手にかかるならば、自害をするつもりだから、木曾殿の最後のいくさに、女を連れていたなどと言われる事も、よくない。」とおっしゃるのが、それでもなお(巴は)落ちのびようと行かなかったが、(木曾殿は)あまりに(強く)言はれなさり、「ああ、(武功として)よき敵がいればなあ。最後の戦いをお見せ申し上げたい。」と言って、(敵兵を)待機していたところに、(敵勢が現れ)武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)の御田八郎師重(おんだのはちろうもろしげ)の軍勢三十騎ほどが出で来た。巴は、その中へ(自分の馬ごと)駆け入り、御田八郎の馬と並んで、むずと(御田を)掴んで引き落とし、鞍の前輪に押し付けて、ちょっとも身動きさせず、(御田の)首をねじ気って捨ててしまった。そのから(巴は)武具を脱ぎ捨てて、東国の方へと落ちのびていった。(義仲の味方の)手塚太郎(てづかのたろう)は討ち死にした。手塚の別当は逃げてしまった。\n開戦の予定の前日である10月23日、平家は戦場予定地の富士川で、付近の農民たちの炊事の煙を見て源氏の軍勢の火と勘違いし、さらに水鳥の羽音を源氏の襲撃の音と勘違いして、平家は大慌てで逃げ出した。\n翌10月24日、源氏が富士川にやってきて、鬨(とき)を上げた。\n(※ 鬨: 戦いの始めに、自軍の士気をあげるために叫ぶ、掛け声。)\nさるほどに十月二十三日にもなりぬ。明日は、源平富士川にて矢合(やあはせ)と定めたりけるに、夜に入つて平家の方より、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河(するが)の人民(にんみん)百姓等が戦におそれて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗って、海川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、「あなおびただし源氏の陣の遠火(とほひ)の多さよ。げにもまことに野も山も海も川も、みな敵(かたき)でありけり。いかがせん。」とぞ慌てける。その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤(さいとう)別当が申しつるやうに、定めてからめ手もまはるらむ。取り込められてはかなふまじ。ここをば引いて、尾張(おはり)川、洲俣(すのまた)を防げや。」とて、取る物もとりあへず、われ先にとぞ落ちゆきける。あまりに慌て騒いで、弓取るものは矢を知らず、矢取るものは弓を知らず。人の馬には我乗り、わが馬をば人に乗らる。あるいはつないだる馬に乗って馳(は)すれば、杭(くひ)をめぐること限りなし。近き宿々より迎へとつて遊びける遊君遊女ども、あるいは頭(かしら)蹴割られ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり。\n明くる二十四日卯(う)の刻に、源氏大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺るぐほどに、鬨(とき)をぞ三が度、作りける。\nそうしているうちに、十月二十三日になった。明日は、源氏と平氏が富士川で開戦の合図をすると決めていたが、夜になって、平家のほうから源氏の陣を見渡すと、伊豆、駿河の人民や百姓たちが戦いを恐れて、ある者は野に逃げこみ山に隠れ、(また)ある者は船に乗って(逃げ)、海や川に浮かんでいたが、炊事などの火が見えたのを、平家の兵たちが、「ああ、とても多い数の源氏の陣営の火の多さっであることよ。なんと本当に野も山も生みも川も、皆敵である。どうしよう。」と慌てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさん群がっていた水鳥たちが、何かに驚いたのであろうか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、(まるで)大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵たちは、「ああっ、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斉藤別当が申したように、きっと(源氏軍は、平家軍の)背後にも回りこもうとしているだろう。もし(源氏に)包囲されたら(平家に)勝ち目は無いだろう。ここは退却して、尾張川、洲俣で防戦するぞ。」と言って、取る物も取りあえず、われ先にと落ちていった。あまりに慌てていたので、弓を持つ者は矢を忘れて、矢を持つ者は弓を忘れる。 \n他人の馬には自分が乗っており、自分の馬は他人に乗られている。ある者は、つないである馬に乗って走らせたので、杭の回りをぐるぐると回りつづける。近くの宿から遊女などを迎えて遊んでいたが、ある者は頭を(馬に)蹴折られ、腰を踏み折られて、わめき叫ぶ者が多かった。\n翌日の二十四日の(朝の)午前六時ごろに、源氏の大軍勢の二十万騎が、富士川に押し寄せて、天が響き大地も揺れるほどに、鬨(とき)を三度あげた。 \n(書き出しの部分)\n祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声、諸行無常の響きあり。\n娑羅双樹(しやらそうじゆ)の花の色、盛者必衰(じやうしや ひつすい)のことわり(理)をあらはす。\nおごれる人もひさしからず、ただ春の夜(よ)の夢のごとし。たけき(猛き)者も、つひ(ツイ)にはほろびぬ\nひとへに(ヒトエニ)風の前のちりに同じ。\n(インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。\n沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという道理をあらわしている(ように見える)。\nおごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。\nまるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。\n遠く異朝(いてう、イチョウ)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(ちやうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りやう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、諌め(いさめ)をも思ひ(オモイ)入れず、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。\n近く本朝(ほんてう、ホンチョウ)をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これらはおごれる心もたけき事も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、\n間近くは(まぢかくは)、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう、ニュウドウ)前(さきの)太政大臣平朝臣(たひらのあつそん)清盛公と申しし人のありさま、伝へ(ツタエ)承る(うけたまはる、ウケタマワル)こそ、心も詞(ことば)も及ばれね(およばれね)。\n遠く外国の(例を)さがせば、(中国では、)(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に)忠告されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに滅んでしまった者たちである。\n(いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。\nその先祖を尋ぬれば、桓武(くわんむ)天皇第五の皇子(わうじ)、一品(いつぽん)式部卿(しきぶのきやう)葛原親王(かづらはらのしんわう)九代の後胤(くだいのこういん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(そん)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛朝臣(ただもりあつそん)の嫡男(ちやくなん)なり。かの親王(しんわう)の御子(みこ)高視の王(たかみのわう)、無官無位にして失せ(うせ)たまひぬ。その御子(おんこ)高望王(たかもちのわう)の時、初めて平(たひら)の姓(しやう)を賜はつて、上総介(かずさのすけ)になりたまひしより、たちまちに王氏(わうし)を出でて人臣(じんしん)に連なる。その子鎮守府将軍(ちんじゆふのしやうぐん)良望(よしもち)、のちには国香(くにか)と改む。国香より正盛に至るまで、六代は諸国の受領(じゆりやう)たりしかども、殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき)をばいまだ許されず。\nその(平清盛公の)先祖を調べてみると、(清盛は忠盛朝臣の長男であり)、桓武天皇の第五の皇子である一品式部卿葛原親王の九代目の子孫である讃岐守正盛の孫、忠盛朝臣の長男であり、刑部卿忠盛朝臣の長男である。\nその(葛原)親王の御子である高視王(たかみのおう)は、無官無位のままで亡くなってしまった。その(高視王の)御子の高望王(たかもちのおう)の時に、初めて平(たいら)の姓を(朝廷から)賜わり、上総介の国司におなりになったときから、急に皇族のご身分を離れて臣下(の身分)に(ご自身の名を)連なた。その(高望王の)子の鎮守府の将軍(ちんじゅふのしょうぐん)良望(よしもち)は、のちには国香(くにか)と(名を)改めた。国香より正盛に至るまでの六代は、諸国の国守(くにのかみ)であったけど、(まだ)殿上(てんじょう)に昇殿することは、まだ許されなかった。\n木曾義仲は、京の都で平家を打倒し、制圧した。しかし、木曾軍は都で乱暴をはたらき、さらに後白河法皇と木曾義仲とは対立し、そのため法王は源頼朝に木曾義仲の討伐を下した。\n源頼朝は弟の範頼と義経に、木曾義仲を討伐することを命じた。\nそのため、範頼・義経の軍と、対する木曾方の軍とが宇治川を挟んで対峙していた。\n範頼・義経方の武将の、梶原と佐々木は、先陣争いをしていた。\n富士川の渡河の先陣争いでは、佐々木が先に川を渡り終え、先陣を切った。遅れて、梶原が川を渡った。\n平等院の丑寅(うしとら)、橘の小島が崎より武者二騎、引つ駆け引つ駆け出で来たり。\n一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ)、一騎は佐々木(ささき)四郎高綱(たかつな)なり。人目には何とも見えざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段(いつたん)ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ。」と言はれて、梶原さもあるらんとや思ひけん、左右(さう)の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱(たづな)を馬のゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ(はせ)抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、たばかられぬとや思ひけん、やがて続いてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名(かうみやう)せうどて不覚したまふな。水の底には大綱(おほづな)あるらん。」と言ひければ、佐々木太刀(たち)を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりける摺墨(するすみ)は、川中(かはなか)より篦撓(のため)形(がた)に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。\n佐々木、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「宇多(うだ)天皇より九代(くだい)の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義(ひでよし)が四男(しなん)、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや。」とて、をめいて駆く。 \n平等院の北東の方向にある、橘の小島が崎から、2騎の武者が、馬で駆けて駆けてやってきた。(そのうちの)一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだ かげすえ)、(もう一方の)一騎は佐々木四郎高綱(ささきしろう たかつな)である。他人の目には何とも(事情がありそうには)見えなかったけど、心の内では、(二人とも、われこそが)先陣を切ろうと期していたので、(その結果、)梶原景季は佐々木高綱よりも一段(=約11メートル)ほど前に進んでいる。\n(おくれてしまった)佐々木四郎が、\n「この川は、西国一の大河ですぞ。腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなされ。」\nと言い、梶原は、そんなこともありえるのだろうと思ったのか、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに投げかけて、腹帯を解いて締めなおした。その間に、佐々木は、(梶原を)さっと追い抜いて、川へ、ざっと(馬で)乗り入れた。梶原は、だまされたと思ったのか、すぐに続いて(馬を川に)乗り入れた。\n(梶原は)「やあ佐々木殿、手柄を立てようとして、失敗をなさるなよ。川の底には大網が張ってあるだろう。」と言ったので、\nと言ったので、佐々木は太刀を抜いて、馬の足に引っかかっていた大網をぷっぷっと切って(進み)、(佐々木は)生食(「いけずき」)という日本一の名馬に乗っていたので、(いかに)宇治川(の流れ)が速いといっても(馬は物ともせず)、川を一直線にざっと渡って、向こう岸に上がった。\n(いっぽう、)梶原の乗っていた摺墨(「するすみ」)は、川の中ほどから斜め方向に押し流されて、ずっと下流から向こう岸に上がった。\n佐々木は、鐙を踏ん場って立ち上がり、大声を上げて、名乗ったことは、\n「宇多天皇から9代目の末裔、佐々木三郎秀義(ひでよし)の四男、佐々木四郎高綱である。宇治川での先陣だぞ。我こそ(先陣だ)と思う者がいれば、(この)高綱と組み合ってみよ。」\nと言って、大声を上げ、(敵陣へと)駆けていく。\n畠山重忠(はたけやましげただ)は馬を射られた。そのため馬を下りて、水中にもぐりつつ、対岸へと渡っていった。渡河の途中、味方の大串次郎重親(おおくしじろうしげちか)が畠山につかまってきた。\n畠山らが向こう岸にたどり着いて、畠山重忠が大串次郎を岸に投げ上げてやると、大串は「自分こそが徒歩での先陣だぞ。」などということを名乗りを上げたので、敵も味方も笑った。\n畠山(はたけやま)、五百余騎で、やがて渡す。向かへの岸より山田次郎(やまだじらう)が放つ矢に、畠山馬の額(ひたひ)を篦深(のぶか)に射させて、弱れば、川中より弓杖(ゆんづゑ)を突いて降り立つたり。岩浪(いはなみ)、甲(かぶと)の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに者こそむずと控へたれ。\n「誰そ(たそ)。」\nと問へば、\n「重親(しげちか)。」\nと答ふ。\n「いかに大串(おほぐし)か。」\n「さん候ふ。」\n大串次郎は畠山には烏帽子子(えぼしご)にてぞありける。\n「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ。」\nと言ひければ、\n「いつもわ殿原は、重忠(しげただ)がやうなる者にこそ助けられむずれ。」\nと言ふままに、大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただなほつて、\n「武蔵(むさし)の国の住人、大串次郎重親(しげちか)、宇治川の先陣ぞや。」\nとぞ名のつたる。敵(かたき)も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。 \n畠山は五百余騎で、すぐに渡る。向こう岸から(敵の平家軍の)山田次郎が放った矢に、畠山は馬の額を深く射られて、(馬が)弱ったので、川の中から弓を杖のかわりにして、(馬から)降り立った。(水流が)岩に当たって生じる波が、甲の吹き返しの前のほうにざぶっと吹きかかってきたけど、そんな事は気にしないで、水の底をくぐって、向こう岸に着いた。(岸に)上がろうとすると、背後で何かがぐっと引っ張っている。\n(畠山が)「誰だ。」\nと聞くと、\n(相手は)「(大串次郎)重親。」\nと答える。\n「なんだ、大串か。」\n「そうでございます。」\n大串次郎は、畠山にとっては烏帽子子であった。\n「あまりに水の流れが速くて、馬は押し流されてしまいました。(それで)しかたがないので、(あなたに)おつき申します。」\nと言ったので、\n「いつもお前らは、(この)重忠のような者に助けられるのだろう。」\nと言うやいなや、大串を引っさげて、岸の上へと投げ上げた。\n(大串は岸に)投げ上げられ、すぐに立ち上がって、\n「武蔵の国の住人、大串の次郎重親、宇治川の徒歩での先陣だぞ。」(馬では、なくて。)\nと名乗った。\n敵も味方もこれを聞いて、一度にどっと笑った。\n(第九巻)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき)にして、ことに清閑(せいかん)の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによつて、尾花沢(をばなざわ)よりとつて返し、その間(あひ)七里ばかりなり。日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。岩に巌(いわほ)を重ねて山とし、松柏(しようはく)年旧り(ふり)、土石老いて苔(こけ)なめらかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ(覚ゆ)。\n閑かさ(しづかささ)や岩にしみ入る蝉の声\n山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師(じかくだいし)が開かれた寺であり、とりわけ清らかで静かな場所である。一度は見るのが良いとのこと、(そのように)人々が勧めるので、(私・芭蕉は)尾花沢(おばなざわ)から引き返し(立石寺に行った)、その間は七里ほどである。日はまだ暮れていない。ふもとの宿坊に宿を借りておいて、山の上にある堂に登る。岩の上に岩が重なってて山になっており、松や檜などの常緑樹は年を経ており、土や石も古くなって苔(こけ)がなめらかに生えており、岩の上にある堂の扉は閉まっていて、物の音が(まったく)聞こえない。(私は)崖をまわり、岩を這うようにして、寺院を参拝し、よい景色は、ひっそりと静まり返っていて、心が澄んでいくように思われた。\n意味: 静かなことよ。 この落ち着きの中で鳴く蝉の声は、岩にしみ入るようである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%A5%A5%E3%81%AE%E7%B4%B0%E9%81%93"} {"text": "中宮定子(ちゅうぐうていし)は、清少納言(せいしょうなごん)の知識を試そうとして、雪の日に、白居易(はくきょい)の詩を引用して、「香炉峰(かうろほう)の雪は、どうなってるか。」と問いかけた。清少納言は白居易の詩句のとおりに、簾(すだれ)を高く巻き上げて、中宮を満足させた。\n中宮定子は、女性。藤原 定子(ふじわら の ていし)。清少納言は、中宮定子に仕えていた。\n雪のいと高う降りたるを例ならず御格子(みかうし)まゐりて(参りて)、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集まりさぶらうに、「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪いかならむ。」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この官の人にはさべきなめり。」と言ふ。\n雪がたいそう高く降り積もっているのに、いつもと違って、御格子(みこうし)をお下ろしして、角火鉢に火を起こして、(私たち女房が)話をしながら、(中宮様のもとに)集まりお使えしていると、(中宮様が私に呼びかけ、)「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪は、どうなってるかね。」とおっしゃるので、御格子を(ほかの女房に)上げさせて、御簾(みす)を高く(巻き)上げたところ、(中宮様は満足して)お笑いになる\n(他の女房の言うには)「(私たちも)そのようなこと(=白居易の詩のこと)は知っており、歌などにまでも詠むけれど、(とっさには)思いつきませんでしたよ。(あなたは)やはり、中宮様にお仕えする人として、ふさわしいようだ。」と言う。\n(第二八〇段)\n品詞分解\n雪(名詞)の(格助詞)いと(副詞)高う(形容詞・ク活用・連用形のウ音便)降り(ラ行四段活用・連用形)たる(存続の助動詞・連用形)を(接続助詞)、例(名詞)なら(断定の助動詞・未然形)ず(打消の助動詞・連用形)御格子(名詞)まゐり(ラ行四段活用・連用形)て(接続助詞)、炭びつ(名詞)に(格助詞)火(名詞)おこし(サ行四段活用・連用形)て(接続助詞)、物語(名詞)など(副助詞)し(サ行変格活用・連用形)て(接続助詞)集まり(ラ行四段活用・連用形)さぶらう(ハ行四段活用・連体形)に(接続助詞)、「少納言(名詞)よ(終助詞)。香炉峰(名詞)の(格助詞)雪(名詞)いかなら(形容動詞「いかなり」の未然形)む(推量の助動詞「む」の終止形)。」と(格助詞)仰せ(サ行下二段活用・未然形)らるれ(尊敬の助動詞・已然形)ば(接続助詞)、御格子(名詞)上げ(ガ行下二段活用・未然形)させ(使役の助動詞・連用形)て(接続助詞)、御簾(名詞)を(格助詞)高く(形容詞・ク活用・連用形)上げ(ガ行下二段活用・連用形)たれ(完了の助動詞・已然形)ば(接続助詞)、笑は(ハ行四段活用・未然形)せ(尊敬の助動詞・連用形)たまふ(尊敬の補助動詞・ハ行四段活用・終止形)。\n人々(名詞)も(係助詞)「さる(ラ行変格活用・連体形―連体詞)こと(名詞)は(係助詞)知り(ラ行四段活用・連用形)、歌(名詞)など(副助詞)に(格助詞)さへ(副助詞)歌へ(ハ行四段活用・已然形)ど(接続助詞)、思ひ(ハ行四段活用・連用形)こそ(係助詞)よら(ラ行四段活用・未然形)ざり(打消の助動詞・連用形)つれ(完了の助動詞・已然形)。なほ(副詞)、こ(代名詞)の(格助詞)宮(名詞)の(格助詞)人(名詞)に(格助詞)は(係助詞)、さ(副詞またはラ行変格活用「さり」の連体形「さる」の撥音便無表記)べき(当然または適当の助動詞「べし」の連体形)な(断定の助動詞「なり」の連体形の撥音便無表記)めり(推定の助動詞・終止形)。」と(格助詞)言ふ(ハ行四段活用・終止形)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90"} {"text": "今は昔、阿蘇のなにがしといふ史(さくわん)ありけり。たけ短(ひき)なりけれども、魂はいみじき盗人にてぞありける。家は西の京にありければ、公事(くじ)ありて内(うち)に参りて、夜ふけて家に帰りけるに、東(ひむがし)の中の御門(mかど)より出でて車に乗りて、大宮下り(おほみやくだり)にやらせて行きけるに、着たる装束(さうぞく)を皆解きて、片端より皆たたみて、車の畳の下にうるはしく置きて、その上に畳を敷きて、史は冠(かむり)をし、襪(したうづ)をはきて、裸になりて車の内に居たり。\nさて二條より西様(にしざま)にやらせて行くに、美福門(びふくもん)のほどを過ぐる間に、盗人、傍らよりはらはらと出で来ぬ。車の轅(ながえ)につきて、牛飼ひ童(わらは)を打てば、童は牛を棄てて(すてて)逃げぬ。車の後(しり)に雑色(ざふしき)二、三人ありけるも、皆逃げて去り去りにけり。盗人寄り来たりて、車の簾(すだれ)を引開けて見るに、裸にて史居たれば、盗人、「あさまし。」と思ひて、「こはいかに。」と問へば、史、「東の大宮にて、かくの如くなりつる。君達(きんだち)寄り来て己が装束をば皆召しつ。」と、笏(しゃく)を取りて、よき人に物申すやうにかしこまりて答へければ、盗人笑ひて棄てて去りにけり。その後、史、声をあげて牛飼童をも呼びければ、皆出で来にけり。それよりなむ家に帰りにける。\nさて妻にこの由を語りければ、妻のいはく、「その盗人にもまさりたりける心にておはしける。」と言ひてぞ笑ひける。まことにいとおそろしき心なり。装束を皆解きて隠し置きて、しか云はむと思ひける心ばせ、さらに人の思ひ寄るべき事にあらず。\nこの史は、極めたる物云ひにてなむありければ、かくも云ふなりけりとなむ語り伝へたるとや。 \n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "作者の兼好法師は、鎌倉時代の人物。\n本名は、卜部兼良(うらべ かねよし)。\nはじめは、卜部家が代々、朝廷に神職として仕えていたので、兼好法師も後二条天皇に仕えていたが、のちに兼好法師は出家した。\n京都の「吉田」という場所に住んでいたので、吉田兼好(よしだけんこう)ともいう。\n花や月は、花の咲いている頃や、夜空に曇りの無い月など、その時期が見所とされている。それ自体は、当然な感想であり、べつに悪くは無いけれど、いっぽうの咲いてない花や曇りや雨の夜空にも、また、見所がある。しかし、情趣を解しない人は、咲いている花だけしか楽しもうとしないようだ。\n花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは。雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。\n歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかれりけるに、早く散り過ぎにければ。」とも、「障ることありてまからで。」なども書けるは、\n「花を見て。」と言へるに劣れることかは。花の散り、月の傾くを慕ふならひはさることなれど、ことにかたくななる人ぞ、「この枝かの枝、散りにけり。今は見どころなし。」などは言ふめる。\n(はたして、)桜の花は咲いているときだけを見るべきだろうか、月は曇りないときだけを見るべきなのだろうか。(いや、そうではない。)\n 雨に向かって月を見るのも、(家の中で、すだれを)垂れ込めて春の行方を知らないのも、やはり、しみじみとして趣深い。今にも咲きそうな梢(こずえ)や、(既に)散ってしまった庭も、見所が多いだろう。\n歌の詞書(ことばがき)にも、「花見に参ったところ、とっくに散り去ってしまったので。」とか、「都合の悪いことがあってまいりませんで。」などと書いてあるのは、「花を見て。」と言ってるのに(比べて)劣っていることだろうか。(いや、そうではない。) 花が散り、月が傾くのを慕う風習は当然なことだけど、(しかし、)特に情趣の無い人は、「この枝も、あの枝も、散ってしまった。今は見どころが無い。」などと言うようだ。\nどんなことも始めと終わりにこそ趣があるものだ。恋愛も、男女が会うばかりが趣ではない。会えずにいても、一人で相手のことを思いながらしみじみとするのも、恋の情趣であろう。\nよろづのことも、始め終はりこそをかしけれ。 男女(をとこをんな)の情けも、ひとへに 逢ひ(あひ、アイ)見るをば言ふものかは。逢はで(あはで)止み(やみ)にし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲井を思ひやり、浅茅(あさぢ)が宿に昔をしのぶこそ、色好むとはいはめ。\nどんなことも、(盛りよりも)始めと終わりにこそ趣がある。男女の恋愛も、(はたして)ひたすら逢って契りを結ぶのを(「恋」と)言うのだろうか。(いや、そうではない。) \n会わないで終わってしまったつらさを思い、(約束の果たされなかった)はかない約束を嘆き、長い夜を一人で明かし、遠い大空の下にいる恋人を思いうかべて、茅が茂る荒れはてた住まいで昔(の恋人)をしみじみと思うことこそ、恋の情趣を理解しているのだろう。\n月見についても、満月よりも、他の月を見ほうが趣深いだろう。\n望月の隈(くま)なきを、千里の外まで眺めたる(ながめたる)よりも、暁近くなりて待ち出で(いで)たるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあはれなり。椎柴(しひしば)・白樫(しらかば)などの、ぬれたるやうなる葉の上にきらめきたるこそ、身にしみて、心あらむ友もがなと、都恋しうおぼゆれ。\n(月見についても、)満月でかげりや曇りなく照っているのを、(はるか遠く)千里のかなたまで眺めているのよりも、(むしろ)明け方近くになって、待ちこがれた(末に出た)月が、たいそう趣深く、青味を帯びているようで、深い山の木々の梢(ごし)に見えているのや、木の間(ごし)の(月の)光や、さっと時雨(しぐれ)を降らせた一群の雲に(月が)隠れている様子は、この上なく趣深い。\n椎柴(しいしば)・白樫(しらかば)などの、濡れているような葉の上に(月の光が)きらめいているのは、心にしみて、情趣を解する友人がいたらなあ、と都が恋しく思われる。\n月見や花見は、直接に目で見るのを楽しむべきではなく、心で楽しむことこそ、趣深いことだ。だから、情趣のある人の楽しみ方は、あっさりしている。情趣の無い人は、なにごとも、物質的に、視覚的に、直接に楽しむ。\nすべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)のうちながらも思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。花のもとには、ねぢ寄り立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒のみ、連歌して、はては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手・足さしひたして、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見る事なし。 \n総じて、月や(桜の)花を、そのように目でばかり見るものだろうか。(いや、そうではない。) 春は(べつに、桜の花見のために)家から外に出なくても、月の夜は寝室の中にいるままでも、(桜や月を)思っていることこそ、たいへん期待ができて、趣深いことである。\n情趣のある人は、むやみに好みにふけっている様子にも見えず、楽しむ様子もあっさりしている。(無教養な)片田舎の人にかぎって、しつこく、なんでも(直接的に)楽しむ。\n(たとえば春の)花の下では、寄って近づきよそ見もしないでじっと見つめて、酒を飲んで連歌して、しまいには大きな枝を思慮分別なく折り取ってしまう。\n(夏には、田舎者は)泉に手足をつけて(楽しみ)、(冬には)雪には下りたって足跡をつけるなどして、どんなものも、離れたままで見ることが(田舎者には)ない。 \n(第一三七段)\n「猫また」と言う怪獣が出るという、うわさを聞いていた連歌法師が、ある日の夜、動物に飛び掛られたので、てっきり猫またに襲われていると思って、おどろいて川に飛び込んだ。\n実は、法師の飼い犬がじゃれて飛びついただけだった。\n「奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる。」と人の言ひけるに、\n「山ならねども、これらにも、猫の経上りて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを。」\nと言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏(なにあみだぶつ)とかや、連歌(れんが)しける法師の、行願寺(ぎやうぐわんじ)のほとりにありけるが聞きて、ひとりありかん身は心すべきことにこそと思ひけるころしも、ある所にて夜更くる(ふくる)まで連歌して、ただひとり帰りけるに、小川の端にて、音に聞きし猫また、あやまたず、足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頸(くび)のほどを食はんとす。肝心(きもごころ)も失せて(うせて)、防かんとするに力もなく、足も立たず、小川へ転び入りて、\n「助けよや、猫また。よや、よや。」\nと叫べば、家々より、松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり。\n「こはいかに。」\nとて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物(かけもの)取りて、扇(おふぎ)・小箱など懐(ひところ)に持ちたりけるも、水に入りぬ。希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ(はふはふ)家に入りけり。\n飼ひける犬の、暗けれど、主(ぬし)を知りて、飛び付きたりけるとぞ。 \n山奥に猫またというもの(=化け物、妖怪)がいて、人を食うそうだ、とある人が言った。\n「(ここは)山ではないけれど、このあたりにも、猫が年を取って変化して、猫またになって、人をとって食らうことがあるというのだよ。」\nと言う者がいたので、なんとか阿弥陀仏とかいう連歌を(仕事または趣味などに)している法師で、行願寺の付近に住んでいた者がこれを聞いて、一人歩きをする者は用心すべきことであるな思った頃、ある所で夜が更けるまで連歌をして、たった一人で帰るときに、小川のほとりで、うわさに聞いていた猫また、(猫またの)狙いたがわずに首のあたりに食いつこうとする。\n(法師は)正気も失って、防ごうとするが力も出ず、(腰が抜けて)足も立たず、小川へ転がりこんで、\n「助けてくれ。猫まただ。おーい。」\nと叫ぶので、\n(近くの)家々から、(人々が) 松明(たいまつ)をともして走り寄ってみると、(助けを求めてる人は)このあたりで顔見知りの僧だった。\n(人々は)「これは、どうしたことか。」\nと言って、川の中から抱き起こしたところ、連歌で受け取っていた賞品の扇・小箱など、懐に入れていたのも、水につかってしまった。\n(僧の態度は)かろうじて助かったという様子で、這うようにして家に入っていった。\n(第八十九段)\nこの時点では、連歌法師は、まだ「猫また」だと思ってた動物が飼い犬だと気づいていないか、あるいは、まだ腰を抜かした様子が直ってないのだろう。\nおそらく作者の気持ちでは、笑い話、と思ってるのだろう。\n作者の兼好法師も、職業が同じく「法師」なので、作者は色々と思うところがあっただろう。\n後嵯峨上皇(ごさがじょうこう)が亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に大井川(おおいがわ)の水を引き入れようとして、地元の大井の住人に水車を造らせて、水車は組みあがったが、思うように回ってくれず、水を御池に組み入れることができない。\nそこで、水車作りの名所である宇治から人を呼び寄せて、水車を作らせたところ、今度の水車は、思いどおりに回ってくれて、御池に川の水を汲み入れることができた。\n何事につけても、その道の専門家は、貴重なものである。\n亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に、大井川(おほゐがは、オオイガワ)の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて(おほせて)、水車(みづぐるま)を造らせられけり。多くの銭(あし)を賜ひて(たまひて)、数日(すじつ)に営み出(い)だして、掛けたりけるに、おほかた廻(めぐ)らざりければ、とかく直しけれども、つひに回らで、いたづらに立てりけり。さて、宇治(うぢ)の里人(さとびと)を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み(くみ)入るること、めでたかりけり。\n万(よろづ)に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。\n(後嵯峨上皇は)亀山殿(かめやまどの)の御池(みいけ)に、大井川(オオイガワ)の水を引き入れようとして、大井の住民にお命じになって、水車(みづぐるま)を造らせなさった。多くの銭をお与えになって、数日で造り上げて、(川に)掛けたが、まったく回らなかったので、あれこれと直したけれども、とうとう回らないで、(水車は)何の役にも立たずに立っていた。\nそこで、(水車づくりの名所である)宇治(うぢ)の里の人をお呼びになって、(水車を)お造らせになると、容易に組み上げてさしあげた水車が、思いどおりに回って、水を汲み(くみ)入れる事が、みごとであった。\n何事につけても、その(専門の)道に詳しい者は、貴重なものである。\n(第五一段)\n木登りの名人が、他人を木に登らせるとき、登っているときには注意しないで、下りてきてから気をつけるように注意していた。筆者の兼好法師が、わけを尋ねたところ、「人間は、自分が危険な高い場所にいる時には、本人も用心するので、私は注意しないのです。ですが、降りるときは安心してしまうので、用心しなくなってしまいがちなので、用心させるように注意するのです。失敗は、むしろ安全そうな時にこそ、起こりやすいのです。」と言うようなことを言った。\n木登り名人の意見は、身分の低い者の意見だが、聖人の教えにも匹敵するような、立派な教訓であろう。\n高名(かうみやう)の木登りと言ひし男、人を掟てて(おきてて)、高き木に登せて梢(こずゑ)を切らせしに、いと危ふく見えしほどは言ふこともなくて、降るるときに軒たけばかりになりて、 「過ちすな。心して降りよ。」 とことばをかけ侍りしを、 「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。いかにかく言ふぞ。」 と申し侍りしかば、 「そのことに候ふ。目くるめき、枝危ふきほどは、己が恐れ侍れば申さず。過ち(あやまち)は、安き(やすき)ところになりて、必ず仕まつる(つかまつる)ことに候ふ。」 と言ふ。\nあやしき下臈(げらふ)なれども、聖人(せいじん)の戒めにかなへり。鞠(まり)も、難きところを蹴(け)いだしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。    \n有名な木登り(の名人だ、)と(世間が)言う男が、人を指図して、高い木に登らせて梢を切らせる時に、とても危険に見えるときには(注意を)言わないで、下りようとする時に、軒の高さほどになってから、「失敗をするな。注意して降りろ。」と言葉をかけましたので、(私は不思議に思って、わけを尋ねたました。そして私は言った。)「これくらいになっては、飛び降りても下りられるだろう。どうして、このように言うのか。」と申しましたところ、(木登りの名人は答えた、)「そのことでございます(か)。(高い所で)目がくらくらして、枝が危ないくらいの(高さの)時は、本人(=登ってる人)が怖い(こわい)と思い(用心し)ますので、(注意を)申しません。過ちは安心できそうなところになって(こそ)、きっと、いたすものでございます。」と言う。\n(木登り名人の意見は、)身分の低い者の意見だが、聖人の教えにも匹敵する。蹴鞠(けまり)も、難しいところを蹴り出した後、安心だと思うと、必ず地面に落ちると(いう教えが)あるようです。\n(第一〇九段)\n京都の丹波にある神社は、出雲大社から神霊を分けてもらっている。つまり、複数の神社で、同じ神がまつられている。\n出雲大社の主神は大国主(オオクニヌシ)。\n丹波の国にある出雲神社を、聖海上人(しょうかいしょうにん)が大勢の人たちといっしょに参拝した。\n社殿の前にある像の、狛犬(こまいぬ)の像と獅子(しし)の像とが背中合わせになっているのを見て、聖海上人は早合点をして、きっと深い理由があるのだろうと思い込み、しまいには上人は感動のあまり、上人は涙まで流し始めた。\nそして、出雲大社の神官に像の向きの理由を尋ねたところ、子供のいたずらだと言われ、神官は像の向きを元通りに直してた。\n上人の涙は無駄になってしまった。\n丹波に出雲といふ所あり。大社(おほやしろ)を移して、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋のころ、聖海上人(しやうかいしやうにん)、その他も人あまた誘ひて、「いざ給へ(たまへ)、出雲拝みに。掻餅(かいもちひ)召させん。」とて具しもて行きたるに、おのおの拝みて、ゆゆしく信おこしたり。 \n御前(おまへ)なる獅子(しし)・狛犬(こまいぬ)、背きて、後さまに立ちたりければ、上人、いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ち様、いとめづらし。深き故あらん。」と涙ぐみて、「いかに殿ばら、殊勝のことは御覧じとがめずや。無下(むげ)なり。」と言へば、おのおのあやしみて、「まことに他に異なりけり。都のつとに語らん。」など言ふに、上人、なほゆかしがりて、おとなしく、物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社(みやしろ)の獅子の立てられやう、さだめて習ひある事に侍らん。ちと承らばや。」と言はれければ、「そのことに候ふ(さふらふ)。さがなき童(わらはべ)どもの仕り(つかまつり)ける、奇怪に候うことなり。」とて、さし寄りて、据ゑ直して、往に(いに)ければ、上人の感涙いたづらになりにけり。 \n丹波の国に出雲という所がある。出雲大社(の神霊)を移して、立派に造ってある。しだの何とかと言う人の治めている所なので、秋の頃に、(しだの何とかが誘って)聖海上人や、その他の人たちも大勢誘って、「さあ、行きましょう。出雲の神社を参拝に。ぼた餅をごちそうしましょう。」と言って(一行を)連れて行って、皆がそれぞれ拝んで、たいそう信仰心を起こした。\n社殿の御前にある獅子と狛犬が、背中合わせに向いていて、後ろ向きに立っていたので、上人は(早合点して)とても感動して、「ああ、すばらしい。この獅子の立ち方は、とても珍しい。(きっと)深い理由があるのだろう。」と涙ぐんで、\n「なんと、皆さん。この素晴らしいことをご覧になって、気にならないのですか。(そうだとしたら)ひどすぎます。」と言ったので、皆もそれぞれ不思議がって、「本当に他とは違っているなあ。都への土産話として話そう。」などと言い、上人は、さらに(いわれを)知りたがって、年配で物をわきまえていそうな顔をしている神官を呼んで、(上人は尋ね)「この神社の獅子の立てられ方、きっといわれのある事なのでしょう。ちょっと承りたい。(=お聞きしたい)」と言いなさったので、(神官は)「そのことでございすか。いたずらな子供たちのしたことです、けしからぬことです。」と言って、(像に)近寄って置き直して、行ってしまったので、上人の感涙は無駄になってしまった。 \n(第二三六段)\n九月二十日のころ、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見ありく事侍りしに、思し出づる所ありて、案内せさせて、入りたまひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとならぬにほひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひ、いとものあはれなり。\nよきほどにて出でたまひぬれど、なほ、事ざまの優におぼえて、物のかくれよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらしまかば、口をしからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし。その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。 \nこれも仁和寺の法師、童(わらは)の法師にならんとする名残とて、おのおの遊ぶことありけるに、酔ひて(ゑひて)興に入るあまり、傍らなる足鼎(あしがなへ)を取りて、頭(かしら)にかづきたれば、つまるやうにするを、鼻をおし平めて、顔をさし入れて舞ひ出でたるに、満座興に入ること限りなし。\nしばしかなでて後(のち)、抜かんとするに、おほかた抜かれず。酒宴ことさめて、いかがはせんと惑ひけり。とかくすれば、首のまはり欠けて、血垂り、ただ腫れ(はれ)に腫れみちて、息もつまりければ、打ち割らんとすれど、たやすく割れず、響きて堪へがたかりければ、かなはで、すべきやうなくて、三つ足なる角(つの)の上に帷子(かたびら)をうちかけて、手を引き杖をつかせて、京なる医師(くすし)のがり率て行きける道すがら、人のあやしみ見ること限りなし。\n医師のもとにさし入りて、向かひゐたりけんありさま、さこそ異様(ことやう)なりけめ。ものを言ふも、くぐもり声に響きて聞こえず。「かかることは、文にも見えず、伝へたる教へもなし。」と言へば、また仁和寺へ帰りて、親しき者、老いたる母など、枕上に寄りゐて泣き悲しめども、聞くらんともおぼえず。\nかかるほどに、ある者の言ふやう、「たとひ耳鼻こそ切れ失すとも、命ばかりはなどか生きざらん。ただ力を立てて引きたまへ。」とて、藁のしべをまはりにさし入れて、かねを隔てて、首もちぎるばかり引きたるに、耳鼻欠けうげながら抜けにけり。からき命まうけて、久しく病みゐたりけり。 \n静かに思へば、よろづに過ぎにし方の恋しさのみぞ、せん方(かた)なき。\n人静まりて後(のち)、長き夜のすさびに、何となき具足とりしたため、残し置かじと思ふ反古など破り棄つる中に、亡き人の手習ひ、絵描きすさびたる、見出でたるこそ、ただ、その折の心地すれ。このごろある人の文だに、久しくなりて、いかなる折、いつの年なりけんと思ふは、あはれなる ぞかし。手なれし具足なども、心もなくて変はらず久しき、いとかなし。 \n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89"} {"text": "山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき)にして、ことに清閑(せいかん)の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによつて、尾花沢(をばなざわ)よりとつて返し、その間(あひ)七里ばかりなり。日いまだ暮れず。ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。岩に巌(いわほ)を重ねて山とし、松柏(しようはく)年旧り(ふり)、土石老いて苔(こけ)なめらかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り岩をはひて、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心澄みゆくのみおぼゆ(覚ゆ)。\n閑かさ(しづかささ)や岩にしみ入る蝉の声\n山形領に立石寺という山寺がある。慈覚大師(じかくだいし)が開かれた寺であり、とりわけ清らかで静かな場所である。一度は見るのが良いとのこと、(そのように)人々が勧めるので、(私・芭蕉は)尾花沢(おばなざわ)から引き返し(立石寺に行った)、その間は七里ほどである。日はまだ暮れていない。ふもとの宿坊に宿を借りておいて、山の上にある堂に登る。岩の上に岩が重なってて山になっており、松や檜などの常緑樹は年を経ており、土や石も古くなって苔(こけ)がなめらかに生えており、岩の上にある堂の扉は閉まっていて、物の音が(まったく)聞こえない。(私は)崖をまわり、岩を這うようにして、寺院を参拝し、よい景色は、ひっそりと静まり返っていて、心が澄んでいくように思われた。\n意味: 静かなことよ。 この落ち着きの中で鳴く蝉の声は、岩にしみ入るようである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%A5%A5%E3%81%AE%E7%B4%B0%E9%81%93"} {"text": "", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E7%AB%B9%E5%8F%96%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "中宮定子(ちゅうぐうていし)は、清少納言(せいしょうなごん)の知識を試そうとして、雪の日に、白居易(はくきょい)の詩を引用して、「香炉峰(かうろほう)の雪は、どうなってるか。」と問いかけた。清少納言は白居易の詩句のとおりに、簾(すだれ)を高く巻き上げて、中宮を満足させた。\n中宮定子は、女性。藤原 定子(ふじわら の ていし)。清少納言は、中宮定子に仕えていた。\n雪のいと高う降りたるを例ならず御格子(みかうし)まゐりて(参りて)、炭櫃(すびつ)に火おこして、物語などして集まりさぶらうに、「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪いかならむ。」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾(みす)を高く上げたれば、笑はせたまふ。人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそよらざりつれ。なほ、この官の人にはさべきなめり。」と言ふ。\n雪がたいそう高く降り積もっているのに、いつもと違って、御格子(みこうし)をお下ろしして、角火鉢に火を起こして、(私たち女房が)話をしながら、(中宮様のもとに)集まりお使えしていると、(中宮様が私に呼びかけ、)「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪は、どうなってるかね。」とおっしゃるので、御格子を(ほかの女房に)上げさせて、御簾(みす)を高く(巻き)上げたところ、(中宮様は満足して)お笑いになる\n(他の女房の言うには)「(私たちも)そのようなこと(=白居易の詩のこと)は知っており、歌などにまでも詠むけれど、(とっさには)思いつきませんでしたよ。(あなたは)やはり、中宮様にお仕えする人として、ふさわしいようだ。」と言う。\n(第二八〇段)\n品詞分解\n雪(名詞)の(格助詞)いと(副詞)高う(形容詞・ク活用・連用形のウ音便)降り(ラ行四段活用・連用形)たる(存続の助動詞・連用形)を(接続助詞)、例(名詞)なら(断定の助動詞・未然形)ず(打消の助動詞・連用形)御格子(名詞)まゐり(ラ行四段活用・連用形)て(接続助詞)、炭びつ(名詞)に(格助詞)火(名詞)おこし(サ行四段活用・連用形)て(接続助詞)、物語(名詞)など(副助詞)し(サ行変格活用・連用形)て(接続助詞)集まり(ラ行四段活用・連用形)さぶらう(ハ行四段活用・連体形)に(接続助詞)、「少納言(名詞)よ(終助詞)。香炉峰(名詞)の(格助詞)雪(名詞)いかなら(形容動詞「いかなり」の未然形)む(推量の助動詞「む」の終止形)。」と(格助詞)仰せ(サ行下二段活用・未然形)らるれ(尊敬の助動詞・已然形)ば(接続助詞)、御格子(名詞)上げ(ガ行下二段活用・未然形)させ(使役の助動詞・連用形)て(接続助詞)、御簾(名詞)を(格助詞)高く(形容詞・ク活用・連用形)上げ(ガ行下二段活用・連用形)たれ(完了の助動詞・已然形)ば(接続助詞)、笑は(ハ行四段活用・未然形)せ(尊敬の助動詞・連用形)たまふ(尊敬の補助動詞・ハ行四段活用・終止形)。\n人々(名詞)も(係助詞)「さる(ラ行変格活用・連体形―連体詞)こと(名詞)は(係助詞)知り(ラ行四段活用・連用形)、歌(名詞)など(副助詞)に(格助詞)さへ(副助詞)歌へ(ハ行四段活用・已然形)ど(接続助詞)、思ひ(ハ行四段活用・連用形)こそ(係助詞)よら(ラ行四段活用・未然形)ざり(打消の助動詞・連用形)つれ(完了の助動詞・已然形)。なほ(副詞)、こ(代名詞)の(格助詞)宮(名詞)の(格助詞)人(名詞)に(格助詞)は(係助詞)、さ(副詞またはラ行変格活用「さり」の連体形「さる」の撥音便無表記)べき(当然または適当の助動詞「べし」の連体形)な(断定の助動詞「なり」の連体形の撥音便無表記)めり(推定の助動詞・終止形)。」と(格助詞)言ふ(ハ行四段活用・終止形)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%9E%95%E8%8D%89%E5%AD%90"} {"text": "", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%B2%99%E7%9F%B3%E9%9B%86"} {"text": "", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%B8%89%E5%86%8A%E5%AD%90"} {"text": "小式部内侍(こしきぶのないし)は女性貴族で、歌人。\n小式部内侍の母親は、和泉式部(いずみしきぶ)。和泉式部は、この時代のとても有名な歌人。\nこの作品で描かれる場面まで、小式部内侍は代作を疑われていた。母親の和泉式部に和歌を作ってもらっているのでは、と疑われていた。\nその疑惑のことで、定頼中納言(さだよりのちゅうなごん)にからかわれたので、小式部内侍は即興で和歌を作った。\nその和歌が、\nである。\n大江山とか「いくの」(生野)は、母親のいる丹後の国に関わる地名。\n「大江山・・・」の和歌を詠んだ人物は小式部内侍(こしきぶのないし)である。本作品には歌人が多く出てくるので、読者は間違えないようにしよう。\nさて、和歌を詠まれた相手は、べつの和歌を読んで返歌するのが礼儀だった。\nしかし定頼は返歌できなかった。急に小式部内侍に和歌を読まれたことと、和歌があまりにも見事だったからであろう。定頼も歌人なので、歌人ともあろうものが、返歌を出来なかったのである。しかも、先に相手をからっかたのは、そもそも定頼のほうである。\nそして返歌できなかった定頼は、その場から、あわてて立ち去るはめになった。\nこの話は、『十訓抄』(じっきんしょう)の「人倫を侮るべからず」(じんりんをあなどるべからず、意味:人を、あなどってはいけない。)の節に書かれている逸話。\n和泉式部(いづみしきぶ)、保昌(やすまさ)が妻(め)にて、丹後(たんご)に下りけるほどに、京に歌合(うたあはせ)ありけるに、小式部内侍(こしきぶのないし)、歌詠みにとられて、歌を詠みけるに、定頼中納言(さだよりのちゆうなごん)戯れて(たはぶれて)、小式部内侍、局にありけるに、「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなく 思す(おぼす)らむ。」と言ひて、局(つぼね)の前を過ぎられけるを、御簾(みす)より半ら(なから)ばかり出でて、わづかに直衣(なほし)の袖を控へて\n  \nと詠みかけけり。思はずにあさましくて、「こはいかに、かかるやうやはある。」とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて逃げられけり。\n小式部、これより、歌詠みの世におぼえ出で来にけり。\nこれはうちまかせて理運のことなれども、かの卿(きやう)の心には、これほどの歌、ただいま詠み出だすべしとは、知らざりけるにや。 \n(小式部内侍の母の)和泉式部が、(藤原)保昌の妻として、丹後の国に下っていたころ、京で歌合せがあったが、小式部内侍が(歌合せの)詠み手に選ばれて、(和歌を)詠んだのだが、定頼中納言がふざけて、小式部内侍が(局に)いたときに、「(母君のいる)丹後へ出した使いの者は、帰ってまいりましたか。どんなにか待ち遠しくお思いでしょう。」と言って、局の前を通り過ぎなさるのを、(小式部内侍が)御簾から半分ほど(身を)乗り出して、少しだけ(中納言の)直衣の袖を引っ張って、(小式部は和歌を読み、)\nと詠んだ。\n(定頼中納言は)思いがけなかったのか、驚いて、「これはどうしたことだ。こんなことがあろうか。(ありえないほどに素晴らしい和歌である。)」と言って、返歌もできずに、(引っ張られていた)袖を引き払って、お逃げになった。\n小式部は、この時から、歌人の世界での評判が上がった。(※別訳あり: 歌人としての評判が世間で上がった。)\nこれは、普通の、理にかなったことなのだが、あの(中納言)卿の心には、(小式部が)これほどの歌をとっさに読み出すことができるとは、思ってもいらっしゃらなかったのだろうか。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%8D%81%E8%A8%93%E6%8A%84"} {"text": "本記事では、高校教育の重要度の順に、「木曾の最後」を先に記述している。\n原著での掲載順は 祇園精舎 → 富士川 → 木曾の最後 。\n平家物語の作者は不明だが、琵琶法師などによって語りつがれた。\n作中で出てくる平清盛(たいらのきよもり)も、源義経(みなもとのよしつね)も、実在した人物。作中で書かれる「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)などの合戦(かっせん)も、実際の歴史上の出来事。\n作者は不明。\n平家(へいけ)という武士(ぶし)の日本を支配(しはい)した一族が、源氏(げんじ)という新たに勢力の強まった新興の武士に、ほろぼされる歴史という実際の出来事をもとにした、物語。\n平安時代から鎌倉時代に時代が変わるときの、源氏(げんじ)と平氏(へいし)との戦争をもとにした物語。\nなお、平家がほろび、源氏の源頼朝(みなもとのよりとも)が政権をうばいとって、鎌倉時代が始まる。\n『平家物語』の文体は、漢文ではなく和文であるが、漢文の書き下しっぽい言い回しの多い文体であり、このような文体を和漢混淆文(わかんこんこうぶん)という。\nなお、日本最古の和漢混淆文は、平安末期の作品の『今昔物語』(こんじゃく ものがたり)だと言われている。(『平家物語』は最古ではないので、気をつけよう。)平家物語が書かれた時代は鎌倉時代である。おなじく鎌倉時代の作品である『徒然草』(つれづれぐさ)や『方丈記』(ほうじょうき)も和漢混淆文と言われている。(要するに、鎌倉時代には和漢混淆文が流行した。)\n現代では、戦争を描写した古典物語のことを「軍記物語」(ぐんきものがたり)と一般に言う。 日本の古典における軍記物語の代表例として、平家物語が紹介されることも多い。略して「軍記物」(ぐんきもの)という事も覆い。\nじつは、日本最古の軍記モノは平家物語ではないかもしれず、鎌倉初期の『保元物語』(ほうげんものがたり)や『平治物語』(へいじものがたり)という作品が知られており現代にも文章が伝えられているが、しかし成立の時期についてはあまり解明されてない。\n『平家物語』『保元物語』『平時物語』の成立の順序は不明である。\n軍記物の『太平記』や『保元物語』などの多くの軍記物な文芸作品でも、和漢混淆文が多く採用された。\n下記の文中に出てくる人物「巴」(ともえ)は、歴史上は実在しなかった、架空の人物の可能性がある。そのため読者は、中学高校の歴史教科書では、巴を実在人物としては習わないだろう。\n木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、敵の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らの軍勢と戦争をしていた。\n木曾方が劣勢であった。\nどんどんと木曾方の兵は討ち取られ、ついに木曾方の数は、木曽義仲と今井四朗(いまいのしろう)だけの二騎になってしまった。\n今井四朗は、義仲に、敵兵の雑兵(ぞうひょう)に討ち取られるよりも自害こそが武士の名誉だと薦めて(すすめて)、義仲も自害をすることに同意する。\n義仲の自害が終わるまで、四朗が敵を防ぐはずだった。\nだが、四朗の防戦中に、義仲が自害するよりも前に、敵兵に討ち取られてしまった。もはや今井四朗には、戦う理由も目的も無くなったので、今井四朗は自害した。\n木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、敵の源範頼(のりより)・源義経(よしつね)らの軍勢と戦争をしていた。木曾方が劣勢であった。\nどんどんと木曾方の兵は討ち取られ、ついに木曾方の数は、木曽義仲と今井四朗(いまいのしろう)だけの二騎になってしまった。\n今井四朗は、義仲に、敵兵の雑兵(ぞうひょう)に討ち取られるよりも自害こそが武士の名誉だと薦めて(すすめて)、義仲も自害をすることに同意する。\n予定では、義仲は粟津(あわづ)の松原で自害をする予定だった。\n義仲の自害が終わるまで、四朗が敵を防ぐために戦う予定だった。\n敵勢が五十騎ほど現れた。\n木曾は粟津の松原へと駆けつけた。\n今井四郎(いまゐのしらう、イマイノシロウ)、木曾殿(きそどの)、主従二騎になつて、のたまひ(イ)けるは、「日ごろは何ともおぼえぬ鎧(よろひ、ヨロイ)が、今日は重うなつたるぞや。」今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせ給わず(タマワズ)。御馬(おんま)も弱り候はず(さうらはず、ソウロワズ)。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うは思しめし(おぼしめし)候ふ(ウ)べき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候は(ワ)ねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余(よ)の武者千騎(せんぎ)とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き(ふせき)矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ、アワヅ)の松原(まつばら)と申す。あの松の中で御自害(おんじがい)候へ。」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者、五十騎ばかり出で来たり。\n「君はあの松原へ入らせ(いらせ)たまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん。」と申しければ、木曾殿のたまひ(イ)けるは、「義仲(よしなか)、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ、ナンジ)と一所で(いつしょで)死なんと思ふためなり。所々で(ところどころで)討たれんよりも、一所で(ひとところ)こそ討死(うちじに)をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゅ)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみょう、コウミョウ)候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、いふかひなき(イウカイナキ)人の郎等(らうどう、ロウドウ)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国(にっぽんごく)に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる。』なんど申さんことこそ口惜しう(くちをしう、クチオシュウ)候へ。ただあの松原へ入らせたまへ。」と申しければ、木曾、「さらば。」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ(タモウ)。\n今井四郎と、木曾殿は、(ついに)主従二騎になって、(木曾殿が)おっしゃったことは、「ふだんは何とも感じない鎧が、今日は重く(感じられるように)なったぞ。」\n(木曾殿の発言に対して、)今井四郎が申し上げたことには、「お体も、いまだお疲れになっていませんし、お馬も弱っていません。どうして、一着の鎧を重く思いになるはずがございましょうか。それは、見方に軍勢がございませんので、気落ちして、そのようにお思いになるのです。(残った味方は、この私、今井四郎)兼平ひとり(だけ)でございますが、他の武者の千騎だとお思いください。(残った)矢が七、八本ありますので、しばらく(私が)防戦しましょう。あそこに見えますのは、粟津の松原と申します。あの松の中で自害ください。」と言って、(馬を)走らせて(進んで)いくうちに、また新手の(敵の)武者が、五十騎ほどが出てきた。(今井四郎は木曾殿に言った、)「殿は、あの松原へお入りください。兼平は、この敵を防ぎましょう。」と申したところ、木曾殿がおっしゃったことは、「(この私、木曽)義仲は、都でどのようにも(= 討ち死に)なるはずであったが、ここまで逃げてこられたのは、おまえ(=今井四郎)と同じ所で死のうと思うからだ。別々の所で討たれるよりも、同じ所で討ち死にしよう。」と言って、(木曾殿は馬の向きを敵のほうへ変え、兼平の敵方向へと向かう馬と)馬の鼻を並べて駆けようとしなさるので、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申し上げたことには、「武士は、(たとえ)常日頃どんなに功績がありましても、(人生の)最期のときに失敗をしますと、(末代まで続く)長い不名誉でございます。(あなたの)お体は、お疲れになっております。(味方には、もう、あとに)続く軍勢はございません。(もし二人で敵と戦って、)敵に押し隔てられて(離れ離れになってしまって)、取るに足りない(敵の)人の(身分の低い)家来によって(あなたが)組み落とされて、お討たれになられましたら、(世間は)『あれほど日本国で有名でいらっしゃった木曾殿を、誰それの家来が討ち申しあげた。』などと申すようなことが残念でございます。ただ、(とにかく殿は、)あの松原へお入りください。」と申し上げたので、木曾は、「それならば。」と言って、粟津の松原へ(馬を)走らせなさる。\n今井四朗は、たったの一騎で、敵50騎と戦うために敵50騎の中に駆け入り、四朗は名乗りを上げて、四朗は弓矢や刀で戦う。敵も応戦し、今井四朗を殺そうと包囲して矢を射るが、今井四朗の鎧(よろい)に防がれ傷を負わすことが出来なかった。\n今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏ん張り立ち上がり、大音声(だいおんじやう)あげて名乗りけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。木曾殿の御 乳母子(めのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ。」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ(はせ)合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕り(ぶんどり)あまたしたりけり。ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。\n今井四郎はたったの一騎で、五十騎ばかりの(敵の)中へ駆け入り、鐙(あぶみ)に踏ん張って立ち上がり、大声を上げて(敵に)名乗ったことは、「日ごろは、うわさで聞いていたであろうが、今は目で見なされ。木曾殿の御乳母子(である)、今井四郎兼平、年齢は三十三歳になり申す。そういう者がいることは、鎌倉殿(=源頼朝)までご存知であろうぞ。(この私、)兼平を討ち取って(鎌倉殿に)お目にかけよ。」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、次々に射る。(射られた敵の)生死のほどは分からないが、たちまち敵の八騎を射落とす。それから、刀を抜いて、あちらに(馬を)走らせ(戦い)、こちらに走らせ(戦い)、(敵を)切り回るので、面と向かって立ち向かう者もいない。(多くの敵を殺して、首や武器など)多くを奪った。(敵は、)ただ「射殺せよ。」と言って、(兼平を殺そうと包囲して、敵陣の)中に取り込み、(いっせいに矢を放ち、まるで矢を)雨が降るように(大量に)射たけれど、(兼平は無事であり、兼平の)鎧(よろい)が良いので裏まで矢が通らず、(敵の矢は)よろいの隙間を射ないので(兼平は)傷も負わない。\n今井四郎が防戦していたそのころ、義仲は自害の準備のため、粟津(あわづ)の松原に駆け込んでいた。\nしかし、義仲の自害の前に、義仲は敵に射られてしまい、そして義仲は討ち取られてしまった。\nもはや今井四郎が戦いつづける理由は無く、そのため、今井四郎は自害のため、自らの首を貫き、今井四郎は自害した。\n木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆け給ふが、正月二十一日、入相(いりあひ)ばかりのことなるに、薄氷(うすごほり)張つたりけり、深田(ふかた)ありとも知らずして、馬をざつと打ち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず。今井が行方の覚束なさに振り仰ぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)、追つかかつて、よつ引いて、ひやうふつと射る。痛手(いたで)なれば、真向(まつかう、真甲)を馬の頭に当てて俯し給へる処に、石田が郎等二人(ににん)落ち合うて、つひに木曾殿の首をば取つてんげり。太刀の先に貫き、高く差し上げ、大音声を挙げて「この日ごろ日本国に聞こえさせ給つる木曽殿を、三浦の石田次郎為久が討ち奉りたるぞや。」と名乗りければ、今井四郎、いくさしけるがこれを聞き、「今は、誰(たれ)をかばはんとてかいくさをばすべき。これを見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛(かう)の者の自害する手本。」とて、太刀の先を口に含み、馬より逆さまに飛び落ち、貫かつてぞ失せ(うせ)にける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。\n木曾殿はたったの一騎で、粟津の松原へ駆けなさるが、(その日は)正月二十一日、夕暮れ時のことであるので、\n(田に)薄氷が張っていたが(気づかず)、深い田があるとも知らずに、(田に)馬をざっと乗り入れてしまったので、馬の頭も見えなくなってしまった。(あぶみでは馬の腹をけって)あおっても、あおっても、(むちを)打っても打っても、(馬は)動かない。(義仲は)今井の行方が気がかりになり、振り返りなさった(とき)、(敵の矢が)甲(かぶと)の内側を(射て)、(その矢は)三浦(みうら)の石田次郎為久(いしだじらうためひさ)が追いかかって、十分に(弓を)引いて、ピューと射る(矢である)。(木曾殿は)深い傷を負ったので、甲の正面を馬の頭に当ててうつぶせになさったところ石田の家来が二人来合わせて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。\n太刀の先に(義仲の首を)貫き、高く差し上げ、大声を挙げて「このごろ、日本国に名声の知れ渡っている木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ち取り申し上げたぞ。」と名乗ったので、今井四郎は、戦っていたが、これを聞き、(今井四郎は言った、)\n「今は、誰をかばおうとして、戦いをする必要があるか。これを(=私を)ご覧になされ、東国の方々。日本一の勇猛な者が自害する手本を。」と言って、(今井は自害のため)太刀の先を口に含み、馬上から逆さまに飛び落り、(首を)貫いて死んだのである。そのようないきさつで、粟津の戦いは終わった。\n(巻九)\n木曾義仲(きそよしなか)の軍勢は、源義経の軍勢と戦っていた。\n義仲の軍勢は、この時点の最初は300騎ほどだったが、次々と仲間を討たれてしまい、ついに主従あわせて、たったの5騎になってしまう。\n義仲は、ともに戦ってきた女武者の巴(ともえ)に、落ちのびるように説得した。\n巴は最後の戦いとして、近くに来た敵の首を討ち取り、ねじ切った。そして巴は東国へと落ちのびていった。\n木曾左馬頭(さまのかみ)、その日の装束には、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)着て、鍬形(くはがた)打つたる甲(かぶと)の緒(を)しめ、厳物(いかもの)作り(づくり)の大太刀(おほだち)はき、石打ちの矢の、その日のいくさに射て少々のこったるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、滋籐(しげどう)の弓もって、聞こゆる(きこゆる)木曾の鬼葦毛(おにあしげ)といふ馬の、きはめて太う(ふとう)たくましいに、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。鐙(あぶみ)踏んばり立ちあがり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曾の冠者(くわんじや)、今は見るらむ、左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐(かひ)の一条次郎(いちじやうのじらう)とこそ聞け。互ひ(たがひ)によき敵(かたき)ぞ。義仲討つて(うつて)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に見せよや。」とて、をめいて駆く。一条の次郎、「ただ今名のるのは大将軍(たいしやうぐん)ぞ。あますな者ども、もらすな若党、討てや(うてや)。」とて、大勢の中にとりこめて、われ討つ取らんとぞ進みける。木曾三百余騎、六千余騎が中を。縦様(たてさま)・横様(よこさま)・蜘蛛手(くもで)・十文字に駆け割つて(かけわつて)、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つて行くほどに、土肥次郎(とひのじらう)実平(さねひら)、二千余騎でささへたり。それをも破つて(やぶつて)行くほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中を駆け割り駆け割りゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで巴(ともゑ)は討たざれけり。木曾殿、「おのれは、疾う疾う(とうとう)、女なれば、いづちへも行け。我は討ち死にせんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど、いはれん事もしかるべからず。」とのたまひけれども、なほ落ちも行かざりけるが、あまりに言はれ奉つて、「あっぱれ、よからう敵(かたき)がな。最後のいくさして見せ奉らん。」とて、控へたる(ひかえたる)ところに、武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)、御田八郎師重(おんだのはちらうもろしげ)、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田八郎に押し並べ、むずと取つて引き落とし、わが乗つたる鞍の前輪(まへわ)に押し付けて、ちつともはたらかさず、首ねぢ切つて捨ててんげり。そののち、物具(もののぐ)脱ぎ捨て、東国の方へ落ちぞ行く。手塚太郎(てづかのたらう)討ち死にす。手塚別当(べつたう)落ちにけり。\n木曾左馬頭(=義仲)は、その日の装束は、赤地の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)を着て、鍬形(くわがた)の飾りを打ちつけた甲(かぶと)の緒(を)しめ、いかめしい作りの大太刀(おおだち)を(腰に)着けて、石打ちの矢で、その日の戦いに射て少し残ったのを、頭の上に出るように高く背負って、滋籐(しげどう)の弓を持って、有名な「木曾の鬼葦毛」(きそのおにあしげ)という馬の、たいそう太くたくましい馬に、金覆輪(きんぷくりん)の鞍(くら)を置いて乗っていた。鐙(あぶみ)を踏んばって立ちあがり、大声をあげて名乗ったことは、「以前は(うわさに)聞いていたであろう、木曾の冠者を、今は(眼前に)見るだろう、(自分は)左馬頭兼伊予守(いよのかみ)、朝日の将軍源義仲であるぞ。(おまえは)甲斐(かい)の一条次郎(いちじょうのじろう)だと聞く。お互いによき敵だ。(この自分、)義仲を討ってみて、兵衛佐(ひょうえのすけ)(=源頼朝)に見せてみろ。」と言って、叫んで馬を走らせる。一条の次郎は、「ただいま、名乗るのは(敵の)大将軍ぞ。討ち残すな者ども、討ち漏らすな若党、討ってしまえ。」と言って、大勢で(包囲しようと)中にとりこめようと、われこそが討ち取ってやろうと進んでいった。木曾の三百余騎、(敵の)六千余騎の中を(方位から抜け出ようと馬で駆け回り)、縦に、横に、八方に、十文字にと駆け走って、(敵の)後ろへつっと(抜け)出たところ、(木曾の自軍の残りは)五十騎ほどになってしまっていた。そこ(の敵)を破って行くほどに、(敵の)土肥次郎(とひのじらう)実平(さねひら)が、二千余騎で防戦していた。そこ(の敵)をも破ってゆくほどに、(木曾の兵数は討たれて減っていき)あそこでは四~五百騎、ここでは二~三百騎、百四十~五十騎、百騎ばかりが(敵勢の)中を駆け走り駆け走りしてゆくほどに、(ついに)木曾と家来あわせて五騎になってしまった。五騎の内、(まだ)巴(ともえ)は討たれていなかった。木曾殿は(巴に言った)、「おまえ(=巴)は、さっさと、(巴は)女なのだから、どこへでも逃げて行け。自分は(この戦いで)討ち死にしようと思っている。もし敵の手にかかるならば、自害をするつもりだから、木曾殿の最後のいくさに、女を連れていたなどと言われる事も、よくない。」とおっしゃるのが、それでもなお(巴は)落ちのびようと行かなかったが、(木曾殿は)あまりに(強く)言はれなさり、「ああ、(武功として)よき敵がいればなあ。最後の戦いをお見せ申し上げたい。」と言って、(敵兵を)待機していたところに、(敵勢が現れ)武蔵(むさし)の国に聞こえたる大力(だいぢから)の御田八郎師重(おんだのはちろうもろしげ)の軍勢三十騎ほどが出で来た。巴は、その中へ(自分の馬ごと)駆け入り、御田八郎の馬と並んで、むずと(御田を)掴んで引き落とし、鞍の前輪に押し付けて、ちょっとも身動きさせず、(御田の)首をねじ気って捨ててしまった。そのから(巴は)武具を脱ぎ捨てて、東国の方へと落ちのびていった。(義仲の味方の)手塚太郎(てづかのたろう)は討ち死にした。手塚の別当は逃げてしまった。\n開戦の予定の前日である10月23日、平家は戦場予定地の富士川で、付近の農民たちの炊事の煙を見て源氏の軍勢の火と勘違いし、さらに水鳥の羽音を源氏の襲撃の音と勘違いして、平家は大慌てで逃げ出した。\n翌10月24日、源氏が富士川にやってきて、鬨(とき)を上げた。\n(※ 鬨: 戦いの始めに、自軍の士気をあげるために叫ぶ、掛け声。)\nさるほどに十月二十三日にもなりぬ。明日は、源平富士川にて矢合(やあはせ)と定めたりけるに、夜に入つて平家の方より、源氏の陣を見渡せば、伊豆、駿河(するが)の人民(にんみん)百姓等が戦におそれて、あるいは野に入り山に隠れ、あるいは舟にとり乗って、海川に浮かび、営みの火のみえけるを、平家の兵ども、「あなおびただし源氏の陣の遠火(とほひ)の多さよ。げにもまことに野も山も海も川も、みな敵(かたき)でありけり。いかがせん。」とぞ慌てける。その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風いかづちなんどのやうに聞こえければ、平家の兵ども、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤(さいとう)別当が申しつるやうに、定めてからめ手もまはるらむ。取り込められてはかなふまじ。ここをば引いて、尾張(おはり)川、洲俣(すのまた)を防げや。」とて、取る物もとりあへず、われ先にとぞ落ちゆきける。あまりに慌て騒いで、弓取るものは矢を知らず、矢取るものは弓を知らず。人の馬には我乗り、わが馬をば人に乗らる。あるいはつないだる馬に乗って馳(は)すれば、杭(くひ)をめぐること限りなし。近き宿々より迎へとつて遊びける遊君遊女ども、あるいは頭(かしら)蹴割られ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり。\n明くる二十四日卯(う)の刻に、源氏大勢二十万騎、富士川に押し寄せて、天も響き大地も揺るぐほどに、鬨(とき)をぞ三が度、作りける。\nそうしているうちに、十月二十三日になった。明日は、源氏と平氏が富士川で開戦の合図をすると決めていたが、夜になって、平家のほうから源氏の陣を見渡すと、伊豆、駿河の人民や百姓たちが戦いを恐れて、ある者は野に逃げこみ山に隠れ、(また)ある者は船に乗って(逃げ)、海や川に浮かんでいたが、炊事などの火が見えたのを、平家の兵たちが、「ああ、とても多い数の源氏の陣営の火の多さっであることよ。なんと本当に野も山も生みも川も、皆敵である。どうしよう。」と慌てた。その夜の夜半ごろ、富士の沼にたくさん群がっていた水鳥たちが、何かに驚いたのであろうか、ただ一度にばっと飛び立った羽音が、(まるで)大風や雷などのように聞こえたので、平家の兵たちは、「ああっ、源氏の大軍が攻め寄せてきたぞ。斉藤別当が申したように、きっと(源氏軍は、平家軍の)背後にも回りこもうとしているだろう。もし(源氏に)包囲されたら(平家に)勝ち目は無いだろう。ここは退却して、尾張川、洲俣で防戦するぞ。」と言って、取る物も取りあえず、われ先にと落ちていった。あまりに慌てていたので、弓を持つ者は矢を忘れて、矢を持つ者は弓を忘れる。 \n他人の馬には自分が乗っており、自分の馬は他人に乗られている。ある者は、つないである馬に乗って走らせたので、杭の回りをぐるぐると回りつづける。近くの宿から遊女などを迎えて遊んでいたが、ある者は頭を(馬に)蹴折られ、腰を踏み折られて、わめき叫ぶ者が多かった。\n翌日の二十四日の(朝の)午前六時ごろに、源氏の大軍勢の二十万騎が、富士川に押し寄せて、天が響き大地も揺れるほどに、鬨(とき)を三度あげた。 \n(書き出しの部分)\n祇園精舎(ぎをんしやうじや)の鐘(かね)の声、諸行無常の響きあり。\n娑羅双樹(しやらそうじゆ)の花の色、盛者必衰(じやうしや ひつすい)のことわり(理)をあらはす。\nおごれる人もひさしからず、ただ春の夜(よ)の夢のごとし。たけき(猛き)者も、つひ(ツイ)にはほろびぬ\nひとへに(ヒトエニ)風の前のちりに同じ。\n(インドにある)祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の音には、「すべてのものは、(けっして、そのままでは、いられず)かわりゆく。」ということを知らせる響きがある(ように聞こえる)。\n沙羅双樹(しゃらそうじゅ)の花の色には、どんなに勢い(いきおい)のさかんな者でも、いつかはほろびゆくという道理をあらわしている(ように見える)。\nおごりたかぶっている者も、その地位には、長くは、いられない。ただ、春の夜の夢のように、はかない。強い者も、最終的には、ほろんでしまう。\nまるで、風に吹き飛ばされる塵(ちり)と同じようだ。\n遠く異朝(いてう、イチョウ)をとぶらへば、秦(しん)の趙高(ちやうこう)、漢(かん)の王莽(おうまう、オウモウ)、梁(りやう、リョウ)の朱伊(しうい、シュウイ)、唐(たう、トウ)の禄山(ろくざん)、これらは皆(みな)、旧主先皇(せんくわう、センコウ)の政(まつりごと)にも従はず(したがはず)、楽しみを極め(きはめ)、諌め(いさめ)をも思ひ(オモイ)入れず、天下の乱れむ事を悟らず(さとらず)して、民間の愁ふる(ウレウル)ところを知らざりしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。\n近く本朝(ほんてう、ホンチョウ)をうかがふに、承平(しようへい)の将門(まさかど)、天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)、康和(かうわ)の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これらはおごれる心もたけき事も、皆(みな)とりどりにこそありしかども、\n間近くは(まぢかくは)、六波羅(ろくはら)の入道(にふだう、ニュウドウ)前(さきの)太政大臣平朝臣(たひらのあつそん)清盛公と申しし人のありさま、伝へ(ツタエ)承る(うけたまはる、ウケタマワル)こそ、心も詞(ことば)も及ばれね(およばれね)。\n遠く外国の(例を)さがせば、(中国では、)(盛者必衰の例としては)秦(しん、王朝の名)の趙高(ちょうこう、人名)、漢(かん)の王莽(おうもう、人名)、梁(りょう)の朱伊(しゅい、人名)、唐(とう)の禄山(ろくざん、人名)(などの者がおり)、これら(人)は皆、もとの主君や皇帝の政治に従うこともせず、栄華をつくし、(他人に)忠告されても深く考えず、(その結果、民衆の苦しみなどで)世の中の(政治が)乱れていくことも気づかず、民衆が嘆き訴えることを気づかず、(権力も)長く続かずに滅んでしまった者たちである。\n(いっぽう、)身近に、わが国(=日本)(の例)では、承平の将門(まさかど)、天慶の純友(すみとも)、康和の義親(ぎしん)、平治の信頼(のぶより)、これら(の者ども)は、おごった心も、勢いの盛んさも、皆それぞれに(大したものであり、)、(こまかな違いはあったので、)まったく同じではなかったが、最近(の例)では、六波羅の入道の平清盛公と申した人の有様(ありさま)は、(とても、かつての権勢はさかんであったので、)(有様を想像する)心も、(言い表す)言葉も、不十分なほどである。\nその先祖を尋ぬれば、桓武(くわんむ)天皇第五の皇子(わうじ)、一品(いつぽん)式部卿(しきぶのきやう)葛原親王(かづらはらのしんわう)九代の後胤(くだいのこういん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)が孫(そん)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛朝臣(ただもりあつそん)の嫡男(ちやくなん)なり。かの親王(しんわう)の御子(みこ)高視の王(たかみのわう)、無官無位にして失せ(うせ)たまひぬ。その御子(おんこ)高望王(たかもちのわう)の時、初めて平(たひら)の姓(しやう)を賜はつて、上総介(かずさのすけ)になりたまひしより、たちまちに王氏(わうし)を出でて人臣(じんしん)に連なる。その子鎮守府将軍(ちんじゆふのしやうぐん)良望(よしもち)、のちには国香(くにか)と改む。国香より正盛に至るまで、六代は諸国の受領(じゆりやう)たりしかども、殿上(てんじやう)の仙籍(せんせき)をばいまだ許されず。\nその(平清盛公の)先祖を調べてみると、(清盛は忠盛朝臣の長男であり)、桓武天皇の第五の皇子である一品式部卿葛原親王の九代目の子孫である讃岐守正盛の孫、忠盛朝臣の長男であり、刑部卿忠盛朝臣の長男である。\nその(葛原)親王の御子である高視王(たかみのおう)は、無官無位のままで亡くなってしまった。その(高視王の)御子の高望王(たかもちのおう)の時に、初めて平(たいら)の姓を(朝廷から)賜わり、上総介の国司におなりになったときから、急に皇族のご身分を離れて臣下(の身分)に(ご自身の名を)連なた。その(高望王の)子の鎮守府の将軍(ちんじゅふのしょうぐん)良望(よしもち)は、のちには国香(くにか)と(名を)改めた。国香より正盛に至るまでの六代は、諸国の国守(くにのかみ)であったけど、(まだ)殿上(てんじょう)に昇殿することは、まだ許されなかった。\n木曾義仲は、京の都で平家を打倒し、制圧した。しかし、木曾軍は都で乱暴をはたらき、さらに後白河法皇と木曾義仲とは対立し、そのため法王は源頼朝に木曾義仲の討伐を下した。\n源頼朝は弟の範頼と義経に、木曾義仲を討伐することを命じた。\nそのため、範頼・義経の軍と、対する木曾方の軍とが宇治川を挟んで対峙していた。\n範頼・義経方の武将の、梶原と佐々木は、先陣争いをしていた。\n富士川の渡河の先陣争いでは、佐々木が先に川を渡り終え、先陣を切った。遅れて、梶原が川を渡った。\n平等院の丑寅(うしとら)、橘の小島が崎より武者二騎、引つ駆け引つ駆け出で来たり。\n一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだかげすゑ)、一騎は佐々木(ささき)四郎高綱(たかつな)なり。人目には何とも見えざりけれども、内々(ないない)は先(さき)に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段(いつたん)ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河(だいが)ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ。」と言はれて、梶原さもあるらんとや思ひけん、左右(さう)の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱(たづな)を馬のゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ(はせ)抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、たばかられぬとや思ひけん、やがて続いてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名(かうみやう)せうどて不覚したまふな。水の底には大綱(おほづな)あるらん。」と言ひければ、佐々木太刀(たち)を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食(いけずき)といふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりける摺墨(するすみ)は、川中(かはなか)より篦撓(のため)形(がた)に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。\n佐々木、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声(だいおんじやう)をあげて名のりけるは、「宇多(うだ)天皇より九代(くだい)の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義(ひでよし)が四男(しなん)、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや。」とて、をめいて駆く。 \n平等院の北東の方向にある、橘の小島が崎から、2騎の武者が、馬で駆けて駆けてやってきた。(そのうちの)一騎は梶原源太景季(かぢはらげんだ かげすえ)、(もう一方の)一騎は佐々木四郎高綱(ささきしろう たかつな)である。他人の目には何とも(事情がありそうには)見えなかったけど、心の内では、(二人とも、われこそが)先陣を切ろうと期していたので、(その結果、)梶原景季は佐々木高綱よりも一段(=約11メートル)ほど前に進んでいる。\n(おくれてしまった)佐々木四郎が、\n「この川は、西国一の大河ですぞ。腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなされ。」\nと言い、梶原は、そんなこともありえるのだろうと思ったのか、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに投げかけて、腹帯を解いて締めなおした。その間に、佐々木は、(梶原を)さっと追い抜いて、川へ、ざっと(馬で)乗り入れた。梶原は、だまされたと思ったのか、すぐに続いて(馬を川に)乗り入れた。\n(梶原は)「やあ佐々木殿、手柄を立てようとして、失敗をなさるなよ。川の底には大網が張ってあるだろう。」と言ったので、\nと言ったので、佐々木は太刀を抜いて、馬の足に引っかかっていた大網をぷっぷっと切って(進み)、(佐々木は)生食(「いけずき」)という日本一の名馬に乗っていたので、(いかに)宇治川(の流れ)が速いといっても(馬は物ともせず)、川を一直線にざっと渡って、向こう岸に上がった。\n(いっぽう、)梶原の乗っていた摺墨(「するすみ」)は、川の中ほどから斜め方向に押し流されて、ずっと下流から向こう岸に上がった。\n佐々木は、鐙を踏ん場って立ち上がり、大声を上げて、名乗ったことは、\n「宇多天皇から9代目の末裔、佐々木三郎秀義(ひでよし)の四男、佐々木四郎高綱である。宇治川での先陣だぞ。我こそ(先陣だ)と思う者がいれば、(この)高綱と組み合ってみよ。」\nと言って、大声を上げ、(敵陣へと)駆けていく。\n畠山重忠(はたけやましげただ)は馬を射られた。そのため馬を下りて、水中にもぐりつつ、対岸へと渡っていった。渡河の途中、味方の大串次郎重親(おおくしじろうしげちか)が畠山につかまってきた。\n畠山らが向こう岸にたどり着いて、畠山重忠が大串次郎を岸に投げ上げてやると、大串は「自分こそが徒歩での先陣だぞ。」などということを名乗りを上げたので、敵も味方も笑った。\n畠山(はたけやま)、五百余騎で、やがて渡す。向かへの岸より山田次郎(やまだじらう)が放つ矢に、畠山馬の額(ひたひ)を篦深(のぶか)に射させて、弱れば、川中より弓杖(ゆんづゑ)を突いて降り立つたり。岩浪(いはなみ)、甲(かぶと)の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに者こそむずと控へたれ。\n「誰そ(たそ)。」\nと問へば、\n「重親(しげちか)。」\nと答ふ。\n「いかに大串(おほぐし)か。」\n「さん候ふ。」\n大串次郎は畠山には烏帽子子(えぼしご)にてぞありける。\n「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ。」\nと言ひければ、\n「いつもわ殿原は、重忠(しげただ)がやうなる者にこそ助けられむずれ。」\nと言ふままに、大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただなほつて、\n「武蔵(むさし)の国の住人、大串次郎重親(しげちか)、宇治川の先陣ぞや。」\nとぞ名のつたる。敵(かたき)も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。 \n畠山は五百余騎で、すぐに渡る。向こう岸から(敵の平家軍の)山田次郎が放った矢に、畠山は馬の額を深く射られて、(馬が)弱ったので、川の中から弓を杖のかわりにして、(馬から)降り立った。(水流が)岩に当たって生じる波が、甲の吹き返しの前のほうにざぶっと吹きかかってきたけど、そんな事は気にしないで、水の底をくぐって、向こう岸に着いた。(岸に)上がろうとすると、背後で何かがぐっと引っ張っている。\n(畠山が)「誰だ。」\nと聞くと、\n(相手は)「(大串次郎)重親。」\nと答える。\n「なんだ、大串か。」\n「そうでございます。」\n大串次郎は、畠山にとっては烏帽子子であった。\n「あまりに水の流れが速くて、馬は押し流されてしまいました。(それで)しかたがないので、(あなたに)おつき申します。」\nと言ったので、\n「いつもお前らは、(この)重忠のような者に助けられるのだろう。」\nと言うやいなや、大串を引っさげて、岸の上へと投げ上げた。\n(大串は岸に)投げ上げられ、すぐに立ち上がって、\n「武蔵の国の住人、大串の次郎重親、宇治川の徒歩での先陣だぞ。」(馬では、なくて。)\nと名乗った。\n敵も味方もこれを聞いて、一度にどっと笑った。\n(第九巻)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%BB%8A%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "鎌倉時代の作品。成立年は、おそらく1212年~1221年ごろと思われている。作者は不明。\n仏教の説話が多い。芸能や盗賊の説話もある。この作品での仏教のようすは、鎌倉時代の仏教が元になっている。\n昔、比叡山に、一人の児がいた。僧たちが、ぼた餅(ぼたもち)を作っていたので、児はうれしいが、寝ずに待っているのを みっともないと思い、児は寝たふりをして待っていたところ、ぼた餅が出来上がった。\n僧が児を起こそうと声をかけてくれたが、児は思ったのは、一回の呼びかけで起きるのも、あたかも寝たふりを児がしていたかのようで、みっともないだろうと思った。なので、児が思ったのは、もう一度だけ、僧が声をかけてくれたら起きようかと思っていたら、僧たちは児が完全に寝入ってしまったと思い、二度目の声をかけなくなった。なので、ぼた餅が、僧たちに、どんどん食べられてしまい、児は「しまった」と思い、それでも食べたいので、あとになってから、僧の呼びかけへの返事をして「はい」と答えた。僧たちは面白くて大笑いだった。\n今は昔、比叡(ひえ)の山に 児(ちご) ありけり。 僧たち、宵(よひ。ヨイ)の つれづれに、 「いざ、かいもちひ せむ。」と言ひけるを、 この児、心寄せに聞きけり。 さりとて、し出ださむ(しいださむ)を待ちて寝ざらむも、わろかり なむ と 思ひて、片方(かたかた)に 寄りて、寝たる 由(よし) にて、出で(いで)来るを 待ちける に、すでに し出だし(いだし)たる さま にて、ひしめき 合ひたり。\n今となっては昔のことだが、比叡山の延暦寺に(一人の)児童がいたという。僧たちが、日が暮れて間もないころ(=宵)、退屈しのぎに\n(=つれづれに)、「さあ、ぼたもちを作ろう。」と言ったのを、この児は期待して聞いた。そうかといって、作りあがるのを待って寝ないでいるのも、みっともないだろうと思って、(部屋の)片隅によって寝たふりで(ぼたもちが)出来上がるのを待っていたところ、(僧たちが)もう作りあげた様子で騒ぎあっている。\nこの児、定めて 驚かさむ ず らむ と 待ちゐたる に、僧の、 「もの申しさぶらはむ。 驚かせたまへ。」と言ふを、うれしとは思へども、ただ一度にいらへむも、 待ちけるかと もぞ 思ふとて、いま一声(ひとこゑ、ヒトコエ)呼ばれていらへむと、念じて寝たるほどに、 「や、な 起こし奉り(たてまつり)そ。をさなき人は 寝入りたまひに けり。」と言ふ声のしければ、あな わびし と 思ひて、いま一度起こせかしと、思ひ寝に聞けば、 ひしひしと ただ食ひに食ふ音のしければ、ずちなくて、 無期(むご) の のち に、 「えい。」と いらへ たり ければ、僧たち 笑ふこと 限りなし(かぎりなし)。\nこの児は、きっと僧たちが起こしてくれるだろうと待っていたところ、僧が「もしもし、起きてください。」というのを、(児は)うれしいと思ったが、ただ一度(の呼びかけ)で返事をするのも、(ぼたもちを)待っていたかと(僧たちに)思われるのもいけないと考えて、もう一度呼ばれてから返事をしようと我慢して(=「念じて」に対応。)寝ているうちに、(僧が言うには)「これ、お起こし申しあげるな。幼い(おさない)人は 寝入ってしまいなさった。」と言う声がしたので、(児が、)ああ、情けない(=「あな わびし」に対応。)と思って、もう一度起こしてくれよと思いながら寝て聞くと、むしゃむしゃと、ひたすら(ぼたもちを)食べる音がしたので、どうしようもなくなり(=「ずちなくて」に対応。)、長い時間のあとに(児が)「はい」と(返事を)言ったので、僧たちの笑うこと、この上ない。\n今(名詞) は(格助詞) 昔、比叡の山 に(格助詞) 児 あり(ラ行変格動詞・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 僧たち、宵(よい) の(格助) つれづれ に(格助)、 「いざ(感嘆詞)、かいもちひ せ(サ変格・未然) む(助動詞・意思・終止)。」 と(格助) 言ひ(四段・連用) ける(助動詞・過去・連体) を(格助)、 こ(代名詞) の(格助) 児、心寄せ に(格助) 聞き(四段・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 さりとて(接続詞)、 し出ださ(四段・未然) む を(格助) 待ち(四段・連用) て(接続助詞) 寝(下二段・未然) ざら(助動・打消・未然) む(助動詞・婉曲・連体) も(係助詞)、 わろかり(形容詞・ク活用・連用) な(助動・強・未) む(助動・推・終) と(格助) 思ひ(四段・連用) て(接続助詞)、 片方 に(格助) 寄り(四段・連用) て(接続助詞)、 寝(動詞・下二段・連用) たる(助動・存在・連体) よし にて(格助)、 出で来る(いでくる)(動詞・カ行変格・連体)  を(格助) 待ち(四段・連用) ける(助動詞・過去・連体) に(接続助詞)、 すでに(副詞) し出だし(しいだし)(四段・連用) たる(助動・完了・連体) さま にて(格助)、 ひしめき合ひ(四段・連用) たり(助動詞・存在・終止)。\nこ(代名詞) の(格助詞) 児、定めて(副詞) 驚かさ むず(助動・推・終止) らむ(助動・現推・終止) と(格助) 待ちゐ たる に(接助)、 僧 の(格助)、 「もの申しさぶらはむ。 驚かせたまへ。」 と(格助) 言ふ を 、 うれし と は 思へ ども(接助)、ただ(副詞) 一度 に(格助) いらへ む も(係助)、 待ちける か(係助) と(格助) も(係助) ぞ 思ふ と(格助) て(接助)、 いま 一声 呼ばれて いらへ む と(格助)、念じ て(接助) 寝たる ほど に(格助)、 「や、な起こしたてまつりそ。 をさなき人は寝入りたまひにけり。」と言ふ声のしければ、あな(感嘆詞) わびし(形容詞・シク活用・終止) と(格助) 思ひ(四段・連用) て(接助)、 いま(副詞) 一度 起こせ(四段・命令) かし(終助詞) と(格助)、 思ひ寝 に(格助) 聞け(四段・已然) ば(接助)、 ひしひしと(副詞) ただ(副詞) 食ひ(四段・連用) に(格助) 食ふ(四段・連体) 音 の(格助) し(サ変・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、ずちなく(ク・用) て(接助)、 無期 の(格助) のち に(格助)、 「えい。」(感)  と(格助) いらへ(下二・用) たり(助動・完了・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 僧たち 笑ふ(四・体) こと 限りなし。(ク・終)\n昔、絵仏師の良秀がいた。ある日、隣家からの家事で自宅が火事になって、自分だけ逃げ出せた。妻子はまだ家の中に取り残されている。良秀は、家の向かい側に立っている。\n良秀は燃える家を見て、彼は炎の燃え方が理解できたので、家なんかよりも絵の理解のほうが彼には大切なので、炎を理解できたことを「得をした」などと言って、笑っていたりした。良秀の心を理解できない周囲の人は、「(良秀に)霊でも取りついたのか」と言ったりして心配したが、良秀に話しかけた周囲の人に、良秀は自慢のような説明をして、たとえ家が燃えて財産を失おうが絵などの仕事の才能さえあれば、家など、また建てられる金が稼げることを説明し、今回の火事の件で炎の燃え方が理解できたので、自分は炎が上手く書けるから、今後も金儲けが出来るので、家を建てられることを説明した。さらに、良秀の説明・自慢は続き、そして世間の一般の人々は才能が無いから物を大事にするのだと、良秀は あざわらう。\nけっきょく、良秀は、その後も絵描きとして成功し、『よじり不動』という絵が有名になって、世間の人々に褒められている。\n良秀は、あまり、妻子の安否を気にしてない。まだ妻子が火事の家の中にいるを知らないのではなく、知っているが気にしてない。\nこれも今は昔、絵仏師良秀といふありけり。家の隣より火 出で来て(いできて)、風おしおほひてせめければ、逃げ出でて(いでて)大路(おほち)へ出でにけり。 人の描かする仏もおはしけり。 また、衣(きぬ)着ぬ妻子(めこ)なども、さながら内にありけり。それも知らず、ただ逃げ出でたる(いでたる)をことにして、向かひのつらに立てり。\nこれも今となっては昔のことだが、絵仏師の良秀という者がいた。(良秀の)家の隣から出火して、風がおおいかぶさって(火が)迫って(「せまって」)きたので、逃げ出して大通りに出てきてしまった。(家の中には、)人が(注文して)描かせていた(仏画の)仏も、いらっしゃった。また、着物も着ないでいる妻子なども、そのまま家にいた。(良秀は)それも気にせず、ただ自分が逃げ出せたのを良いことにして、(家・道の)向かい側に立っていた。\n見れば、すでにわが家に移りて、煙(けぶり)・炎くゆりけるまで、おほかた(オオカタ)、向かひのつらに立ちてながめければ、 \n「あさましきこと。」 \nとて、人ども来とぶらひけれど、騒がず。 \n「いかに。」 \nと人言ひければ、向かひに立ちて、家の焼くるを見て、うちうなづきて、ときどき笑ひけり。 \n「あはれ、しつる せうとくかな。年ごろはわろくかきけるものかな。」 \nと言ふ時に、とぶらひに来たる者ども、 \n「こはいかに、かくては立ちたまへるぞ。あさましきことかな。物(もの)のつきたまへるか。」 \nと言ひければ、 \n「なんでふ物(もの)のつくべきぞ。年ごろ不動尊の火炎(くわえん)を悪しく(あしく)かきけるなり。今見れば、かうこそ燃えけれと、心得(こころう)つるなり。これこそせうとくよ。この道を立てて世にあらんには、仏だによくかきたてまつらば、百千の家もいできなん。わ党(たう)たちこそ、させる能もおはせねば、物(もの)をも惜しみたまへ。」\nと言ひて、あざ笑ひてこそ立てりけれ。そののちにや、良秀がよぢり不動とて、今に人々、めで合へり。 \n見ると、炎は既に自分の家に燃え移って、煙や炎がくすぶり出したころまで、(良秀は)向かいに立って眺めていたので、(周囲の人が)「大変なことでしたね」と見舞い(みまい)に来たが、(まったく良秀は)騒がない。\n(周囲の人が)「どうしたのですか」と(良秀に)尋ねたところ、(良秀は)向かいに立って、家の焼けるのを見て、うなずいて、ときどき笑った。(良秀は)「ああ、得が大きいなあ。長年にわたって、不動尊の炎を下手に描いていたなあ。」と言い、見舞いに来た者どもは(言い)「これは一体、なんで、このように(平然と笑ったりして)立っているのか。あきれたものだなあ。霊の類でも、(良秀に)取りついたのか」と言うと、\n(良秀は答えて)「どうして霊が取り付いていようか。(笑っていた理由は、取りつかれているのではなく、)長年、不動尊の火炎を下手に描いていた、それが今見た火事の炎によって、炎はこういうふうに燃えるのかという事が(私は)理解できたのだ。これこそ、もうけものだ。(たとえ家が燃えようが、才能さえあれば、金を稼げる。)\nこの絵仏師の道を専門に世に生きていくには、仏様さえ上手にお描き申し上げれば、たとえ百軒や千軒の家ですら、(金儲けをして)建てられる。\n(いっぽう、)あなたたちは、(あまり)これといった才能が無いから、物を惜しんで大切にするのでしょう。」 ( ← 皮肉 )(  あなたたち才能の無い人々は、せいぜい物でも惜しんで大切にしてください。) と言って、(人々を)あざ笑って立っていた。\nその後(のち)の事であろうか、(良秀の絵は、)良秀の よじり不動 といわれて、今でも人々が、ほめ合っている。\n後の時代だが、この作品が、近代の芥川龍之介の作品「地獄変」の題材にもなっている。\nこれ(代名詞) も(格助詞) 今 は(係り助詞) 昔、 絵仏師 良秀 と(格助) いふ(動詞・四段・連用) あり(動詞・ラ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 家 の(格助) 隣 より(格助) 火 出で来(動詞・カ変・連用) て(接続助詞)、 風 おしおほひ(動詞・四段・連用) て(接助) せめ(動詞・下二段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 逃げいで(動詞・下二段・連用) て(接助) 大路 へ(格助) 出で(動詞・下二段・連用) に(助動詞・完了・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 人 の(格助) 描か(動詞・四段・未然) する(助動詞・使役・連体) 仏 も(係助) おはし(サ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 また(接続詞)、 衣 着(動詞・上一段・未然) ぬ(助動詞・打消・連体) 妻子 など(副助詞) も(係助)、 さながら(副詞) 内 に(格助) あり(ラ変・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 それ(代名詞) も(格助) 知ら(四段・未然) ず(助動詞・打消・連用) 、 ただ(副詞) 逃げ出で(下二段・連用) たる(助動詞・完了・連体) を(格助) こと に(格助) し(サ変・用) て(接助)、 向かひ の(格助) つら に(格助) 立て(四段・已然) り(助動詞・完了・終止)。\n \n見れ ば(接助)、 すでに(副詞) わ(代名詞) が(格助詞) 家 に(格助) 移り て(接助)、 煙(けぶり)・炎 くゆり ける まで(副助詞)、 おほかた(副詞)、 向かひ の(格助) つら に(格助) 立ち て(接助) ながめ けれ ば(接助)、 \n「あさましき(形容詞・シク・連体) こと。」 \nと(格助) て(接助)、 人ども 来とぶらひ けれ(助動詞・過去・已然) ど(接助)、 騒が(四段・未然) ず(助動詞・打消・終止)。 \n「いかに(副詞)。」 \nと(格助) 人 言ひ(四段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 向かひ に(格助) 立ち(四段・連用) て(接助)、 家 の(格助) 焼くる(下二段・連体) を(格助) 見 て(接助) 、 うちうなづき て(接助)、 ときどき(副詞) 笑ひ(四段・連用) けり(助動詞・過去・終止)。 \n「あはれ(感嘆詞)、 し(サ変・連用) つる(助動詞・完了・連体) せうとく かな(終助詞)。 年ごろ は(係助) わろく(ク活用・連用) 書き(四段・連用) ける(助動詞・詠嘆・連体) もの かな(終助詞)。」 \nと(格助) 言ふ(四段・連体) 時 に(格助)、 とぶらひ に(格助) 来(カ変・連用) たる(助動詞・完了・連体) 者ども、 \n「こ(代名詞) は(係助) いかに(副詞)、 かくて(副詞) は(係り助詞) 立ち たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然/命令) る(助動詞・存続・連体) ぞ(係り助詞)。 あさましき こと かな(終助詞)。 物(もの) の つき たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然/命令) る(助動詞・完了・連体)  か(係助)。」 \nと(格助) 言ひ(四段・連用) けれ(助動詞・過去・已然) ば(接助)、 \n「なんでふ(副詞) 物 の(格助) つく べき(助動詞・当然・連体) ぞ(係助)。 年ごろ 不動尊 の(格助) 火炎 を(格助) 悪しく かきける なり。 今 見れ ば(接助)、 かう(副詞) こそ(係り助詞、係り) 燃え けれ(助動詞・過去・已然・結び)  と(格助)、 心得 つる(助動詞・完了・連体) なり(助動詞・断定・終止)。 これ こそ(係り助詞) せうとく よ(終助詞)。 こ(代名詞) の(格助) 道 を(格助) 立て(下二段・連用) て(接助)  世 に(格助) あら(ラ変・未然) む(助動詞・仮定・連体) に(格助) は(係助)、 仏 だに(副詞) よく(ク活用・連用) 書き(四段・連用) たてまつら(補助動詞・尊敬・四段・未然) ば(接助)、 百千 の(格助) 家 も(係助) 出で来(カ変・連用) な(助動詞「ぬ」・強意・未然) む(助動詞・推量・終止)。 わ党たち こそ(係り助詞、係り)、 させる(連体詞) 能 も(係り助詞) おはせ(サ変・未然) ね(助動詞・打消・已然) ば(接助)、 物 を(格助) も(係り助詞) 惜しみ(四段・連用) たまへ(補助動詞・尊敬・四段・已然結び)。」\nと(格助詞) 言ひ(四段・連用) て(接助)、 あざ笑ひ(四段・連用) て(接助) こそ(係り助詞、係り) 立て(四段・已然) り(助動詞・存続・連用) けれ(助動詞・過去・已然・結び)。 そ(代名詞) の(格助) のち に(助動詞・断定・連用) や(係り助詞)、 良秀 が(格助) よぢり不動 と(格助) て(接助)、 今に(副詞) 人々、 めで合へ(四段・已然/命令) り(助動詞・存続・終止)。\n鎌倉時代初期に成立した説話集。編者は不明。輪数は約二百話からなる。(百九十七話) 仏教に関した話が多い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E5%AE%87%E6%B2%BB%E6%8B%BE%E9%81%BA%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E4%BF%8A%E9%A0%BC%E9%AB%84%E8%84%B3"} {"text": "", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%AD%A3%E5%BE%B9%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "ゆく河(かわ)の流れ(ながれ)は絶えず(たえず)して、しかも、もとの水(みず)に あらず。 よどみに 浮かぶ(うかぶ) うたかたは、かつ消え(きえ) かつ結びて(むすびて)、久しく(ひさしく)とどまりたる ためしなし。 世(よ)の中(なか)に ある 人(ひと)と すみかと、また かくのごとし。\n流れゆく川の流れは絶えることなくて、それでいて、もとの水ではない。よどみに浮かぶ水の泡は、一方では消え、一方では出来て、長い間とどまっている例はない。世の中にある人と住みかとは、また、このようである。\n世の中のものはすべて、いつかは死んで滅びる。一見すると、長年変わりのないように見える物でも、たとえば川の流れのように、古いものが消えては、新しいものが来ているという結果、外から見ると川の形が変わらずに見えているだけに過ぎないように、じつは川の中身が変わっており、川の昔の水は流されてしまうように、決して、ある人が永久に繁栄しつづけることは出来ない。\n「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」\n「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」\nにおいて、それぞれ対句は、\nなどのように対句になっている。参考書によって区切り方が微妙に違うので、あまり厳密には、こだわらなくて良いだろう。\n次の文の\n「世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」にも対句がある。\nが対句になっている。\nゆく(動詞・四段・連体) 河(名詞) の(格助詞) 流れ(名詞) は(係助詞) 絶え(動詞・下二段・未然) ず(助動詞・打消・連用) して(接続助詞)、 しかも(接続詞)、 もと(名詞) の(格助詞) 水 に(格助) あら(補助動詞・ラ変・未然) ず(助動・打消・終止)。 よどみ(名) に(格助) 浮かぶ(四段・連体) うたかた(名) は(係助)、 かつ(副詞) 消え(下二・用) かつ(副詞) 結び(四・用) て(接助)、 久しく(形容詞・シク・用) とどまり(四段・用) たる(助動・存続・体) ためし(名) なし(形・ク・終)。 世の中(名) に(格助) ある(動・ラ変・体) 人(名) と(格助) すみか(名) と(格助)、 また(副詞) かく(副詞) の(格助) ごとし(助動・比況・終止)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%96%B9%E4%B8%88%E8%A8%98"} {"text": "『源氏物語』 作者:紫式部\nいづれの御時(おほんとき、オオントキ)にか、女御(にようご、ニョウゴ)、更衣(かうい、コウイ)あまた候ひ(さぶらひ、サブライ)給ひ(タマイ)けるなかに、いとやむごとなき際(きは、キワ)にはあらぬが、すぐれて時めき(ときめき)給ふ(タマウ)ありけり\nどの帝の御代(みよ)であっただろうか、女御(にょうご)や更衣(こうい)がたくさんお仕え申し上げていた中に、それほど高貴な身分ではないが、格別に帝のご寵愛(ちょうあい)を受けておられる方があった。\n物語。作者は紫式部。平安時代の作品。五十四帖(じょう)からなる。\n藤原為時(ためとき)の娘。生没年未詳。 ( 九七○年? ~ 一○一九年? ) 宮仕え先は中宮彰子(ちゅうぐう しょうし)に仕え、女房として仕えた。中宮彰子は、一条(いちじょう)天皇の中宮である。\n恋物語。光源氏が女ったらしな男性貴族なので、いろんな女との恋愛をする。光源氏はモテるという設定である。容姿は素晴らしいという設定である。そもそも呼び名の「光源氏」の「光」が、その美貌を元に付けられた呼び名である。よって「光」は、べつに本名ではない。光源氏は、教養も知性も高いという設定である。\n作中には、ほぼ、まったく政治や行政などの実務的な話は出ず、ほとんどが恋愛に関する内容である。\n『源氏物語』の主人公は光源氏(ひかるげんじ)という男である。冒頭の章の内容は、光源氏が生まれる前の話で、母親を紹介する話である。父親は帝で桐壺帝(きりつぼてい)である。光源氏の母親は「桐壺の更衣」(きりつぼのこうい)などと呼ばれる。\n光源氏は、天皇の子である。よって、光源氏の身分は、地位のそこそこ高い貴族である。\n作中の時代背景は、はっきりとは書いていないが、おおむね平安時代のような記述である。そもそも『源氏物語』は平安時代に書かれた作品である。\nいづれ(代名詞) の(格助詞) 御時(名詞) に(助動詞・断定・用意) か(係助詞)、女御(名詞)、更衣(名詞) あまた(副詞) 候ひ(動詞・四段・連用) 給ひ(補助動詞・四段・連用) ける(助動詞・過去・連体) なか(名詞) に(格助詞)、いと(副詞) やむごとなき(形容詞・ク・連体) 際(名詞) に(助動詞・断定・用) は(係助詞) あら(補動・ラ変・未) ぬ(助動詞・打消・体) が(格助詞)、 すぐれて(副詞) 時めき(動詞・四・用) 給ふ(補動・四・体) あり(動・ラ変・用) けり(助動詞・過去・終止)。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E"} {"text": "孔子過泰山側。有婦人哭於墓者而哀。夫子式而聴之、使子路問之曰、子之哭也、壱似重有憂者。而曰、然。昔者吾舅死於虎、吾夫又死焉、今吾子又死焉。夫子曰、何為不去也。曰、無苛政。夫子曰、小子識之、苛政猛於虎也。\n孔子泰山の側を過ぐ。婦人墓に哭する者有りて哀しげなり。夫子1式2して之を聴き、子路3をして之に問はしめて曰く、子の哭するや、壱に重ねて憂ひ有る者に似たり、と。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫又焉に死し、今吾が子又焉に死せり、と。夫子曰く、何為れぞ去らざるやと。曰く、苛政4無ければなり、と。夫子曰く、小子5之を識せ、苛政は虎よりも猛なりと。\n(原典:『礼記』)\n孔子が泰山のそばを通った。墓のところで声を上げて泣く婦人がいて、(その様子は)悲しげだった。先生は車の横木に手をついて丁寧に礼をしてその声を聴いて、子路に(伝言して)そのわけを質問させた。(質問内容は以下の通り)「あなたが声を上げて泣く様子は重ね重ねの悲しみがおありのようです。」そうしたら(その婦人は)言った。「そうです。昔、私の舅が虎によって死に、私の夫もまた(虎によって)死に、今度は私の子が(虎によって)死にました。」先生は「どうして(危険なこの場所を)立ち去らないのですか」と言った。(婦人は)「ひどい政治がないからです」と言った。先生は「おまえたち、このことをよく覚えておきなさい。ひどい政治は虎よりも恐ろしいのだ」と言った。\n中国において虎は最強の動物とされてきた。そんな虎よりも獰猛(または恐ろしい)のが厳しい政治だという話である。\n宋有狙公者。愛狙養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。俄而匱焉。将限其食、恐衆狙之不馴於己也。先誑之曰、与若芧、朝三而暮四、足乎。衆狙皆起而怒。俄而曰、与若芧、朝四而暮三、足乎。衆狙皆伏而喜。 \n宋1に狙公2なる者(もの)有り(あり)。狙を愛し之(これ)を養ひて群(むれ)を成す(なす)。\n能く(よく)狙(さる)の意(い)を解(かい)し、狙(さる)も亦た(また)公(こう)の心(こころ)を得たり(えたり)。其の(その)家口3を損(そん)して、狙(さる)の欲(よく)を充(じゅう)たせり。俄かにして匱し。将に(まさに)其の(その)食(しょく)を限らん(かぎらん)とし、衆狙の己(おのれ)に馴れ(なれ)ざらんことを恐る(おそる)。 先ず(まず)之(これ)を誑きて曰はく(いはく)、若に芧4を与ふる(あたふる)に、朝(あした)に三(さん)にして暮れ(くれ)に四(よん)にせん、足るか(たるか)と。衆狙(しゅうそ)皆(みな)起ちて(たちて)怒る(いかる)。俄(にわか)にして曰はく(いわく)、若(なんじ)に芧(しょ)を与ふる(あたふる)に、朝に四にして暮に三にせん、足るかと。衆狙(しゅうそ)皆(みな)伏して(ふして)喜べり(よろこべり)。\n(原典:『列子』)\n宋(そう)に狙公(そこう)という者がいた。(彼は)サルを愛して養い(増えていき)群れをなしていた。(狙公は)よくサルの心がわかり、サルもまた狙公の気持ちがわかった。(狙公は)自分の家族の食事を減らしても、サルの食欲を満足させた。(ところが)突然、貧乏になった。(そこで)サルの食事を減らそうとしたが、サルたちが自分になじまなくなることを恐れた。まず、サルをだまそうとして言った。「お前たちにトチの実を与えるのに、朝は三つ、夕方に四つにしよう。足りるか。」サルたちはみんな立ち上がって怒った。(そこで彼は)急に(言葉を変えて)言った。「(では) お前たちにトチの実を与えるのに、朝は四つ、夕方に三つにしよう。足りるか。」サルたちはみんなひれ伏して喜んだ。\nこの故事成語「朝三暮四」だが、狙公の立場とサルの立場とで意味が異なる。\n狙公の立場なら前者、サルの立場なら後者の意味で取れる。どちらも用法は正しい。\n朝少ないと損をした気分になるが、朝を増やして夜を減らせば一緒である。このことに気がつかないのが、猿知恵といえよう。\n学校教科書では、たとえ話の部分が出るが、参考書では、たとえの前後の楚(そ)の宣王の話も出るので、時間があれば、そこも勉強しておくこと。\n借虎威\n荊宣王問群臣曰、「吾聞北方之畏昭奚恤也。果誠何如。」群臣莫対。\n江乙対曰、「虎求百獣而食之、得狐。狐曰、『子無敢食我也。天帝使我長百獣。今、子食我、是逆天帝命也。子以我為不信、吾為子先行。子隨我後観。百獣之見我、而敢不走乎。』虎以為然。故遂与之行。獣見之皆走。虎不知獣畏己而走也。以為『畏狐也。』今、王之地、方五千里、帯甲百万、而専属之昭奚恤。故北方之畏奚恤也、其実畏王之甲兵也、猶百獣之畏虎也。」\n虎の威を借る\n荊1の宣王、群臣に問ひて曰く、「吾、北方2の昭奚恤3を畏るるを聞くなり。果たして誠か何如」と。群臣対ふる莫し。 \n江乙4対へて曰く、「虎、百獣を求めて之を食らひ(くらい)、狐を得たり。 狐曰はく(いわく)『子 敢へて(あえて)我を(われを)食らふこと無かれ。 天帝5、我をして百獣に長たらしむ。 今、子、我を食らはば、是れ(これ)天帝の命に逆らふなり。 子 我を以て(もって)信ならずと為さば、吾 子の為に先行せん。 子 我が後ろに随ひて(したがいて)観よ。 百獣の我を見るや敢へて(あえて)走らざらんや』と。 虎 以て(もって)然りと為す(なす)。 故に遂に之と行く。 獣 之を見て皆走る。 虎 獣の己を畏れて走るを知らざるなり。 以為へらく(おもえらく)『狐を畏るるなり』 と。 今、王の地、方五千里にして帯甲6百万ありて、専ら之を昭奚恤に属す。故に北方の奚恤を畏るるは、其の実、王の甲兵7を畏るること、猶ほ百獣の虎を畏るるがごときなり」と。\n(原典: 『戦国策』)\n本文は混同しやすい句法も多いため、重要句法をよく確認しておきたいところである。\n「与」は「故に 遂に之と行く」の「之と」の「と」の部分。「与」で「と」と読む。「与之」で「これと」。この文章での「之」とは狐(きつね)のこと。「遂に 之 と 行く」→意味「そのまま狐と一緒に行く。」\n楚(そ)の宣王(せんおう)が家臣たちに「私は北方の国々が昭奚恤(しょうけいじゅつ)を恐れていると聞いた。(これは)はたして本当なのかどうなのか」と聞いた。家臣たちは答えなかった。江乙(こういつ)がこう答えて言った。「虎がたくさんの動物を探して食べていたところ、狐を捕まえました。狐は『君は決して私を食べてはいけない。天帝(てんてい、意味:神様のこと)は私を全ての動物の長官とした。今、君が私を食べたなら、それは天帝の命令に逆らうことになるのだ。(もし)君が私の言ったことを信じないのならば、私は君のために先に立って行こう。君は私の後ろに従って見てみなさい。全ての動物は私を見ると必ず逃げ出す』と言いました。虎はそれをもっともだと思いました。ですから、結局、狐と(一緒に)歩きました。動物たちは狐と虎を見るとみんな逃げました。虎は動物が自分を恐れて逃げるのを知りませんでした。『狐を恐れているのだ』と思いました。(さて、)今、王様の領地は五千里四方で兵士は百万人おりますが、それをすっかり昭奚恤に任せております。ですから、北方の国々は奚恤を恐れていますが、実のところ王様の兵隊を恐れているのです。が、(それは先ほどの話の中で)全ての動物が虎を恐れていたのと同じなのです。」\n「虎の威を借る狐」の語源となった話。これから「勢力や権力者の影響力を利用していばる人物」の意味となった。なお、この話は権力を持つ者への警告ともとれる。\n虎に例えられている人物は、宣王(せんおう)。狐に例えられている人物は、昭奚恤(しょうけいじゅつ)である。この喩え話を考えて話した人物は、江乙(こういつ)である。\nつまり、江乙(こういつ)は、遠回しに、昭奚恤(しょうけいじゅつ)を批判している。\n「百獣」は、楚(そ)の周辺諸国の例え。つまり、秦(しん)・魏(ぎ)・斉(せい)の国が、百獣。\n現在、「虎の威を借る」の意味は、「実力の低い小人物が、権力を持つ他人にとり行って、その権力ある他人の力に頼って、小人物が威張り散らすこと。」のような意味で使われる。「虎の威を借る狐」とは、そのような小人物のこと。\nこの用法では、「虎」が、権力・権威のある人物として、扱われている。\n趙且伐燕。\n蘇代為燕謂恵王曰、「今日臣来過易水。蚌方出曝。而鷸啄其肉。蚌合而箝其喙。鷸曰『今日不雨、明日不雨、即有死蚌。』蚌亦謂鷸曰、『今日不出、明日不出、即有死鷸。』両者不肯相舎。漁者得而幷擒之。今趙且伐燕。燕趙久相支、以敝大衆。臣恐強秦之為漁父也。願王之熟計之也。」\n恵王曰、「善。」乃止。\n趙且に燕を伐たんとす。\n蘇代1、燕の為に恵王に謂いて曰く「今日臣2来たり、易水3を過ぐ。蚌4方に出でて曝す5。而して鷸6其の肉を啄む。蚌合して其の喙を箝む。鷸曰く『今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌有らん』と。蚌も亦た鷸に謂ひて曰く『今日出ださず、明日も出ださずんば、即ち死鷸有らん』と。両者、相舎つるを肯んぜず。漁者、得て之を幷せ擒ふ。今、趙且に燕を伐たんとす。燕趙久しく相支えて、以て大衆を敝らん。臣強秦の漁父と為らんことを恐るるなり。願はくは王之を熟計せよ」と。\n恵王曰く「善し」と。乃ち止む。\n(原典: 『戦国策』)\n趙がいまにも燕を攻撃しようとした。蘇代は燕のために(趙の)恵王にこう言った。「今日、わたくしがここに来るところ、易水を通りました。どぶ貝がちょうど出てきてひなたぼっこをしていました。するとシギがどぶ貝の肉をつつきました。どぶ貝は(貝殻を)閉じてシギのくちばしを挟みました。シギは『今日雨が降らず、明日も雨が降らなければ、たちまち死んだどぶ貝ができるぞ』と言いました。どぶ貝もまたシギに向かって『今日、(くちばしが)抜けず、明日も抜けなければ、たちまち死んだシギができあがるぞ』と言いました。両方とも相手を放すことを承知しません。(そうしたところ、やってきた)漁師が両方一度に捕まえてしまいました。(さて、)今、趙はいまにも燕を攻撃しようとしています。燕と趙が長く互いに争っていると民衆は疲れるでしょう。わたくしは強大な秦が(先ほどの話の)漁師になることを恐れるのです。王様はこのことを良くお考えください。」恵王は「そのとおりだ」と言った。そして(燕を攻撃することを)やめた。\n元々は原文から「漁父(ぎょほ)の利」と言われたが今では「漁夫の利」と書く。「鷸蚌の争い」とも呼ばれる。ただし意味の変化はなく、いずれも意味は「争っている隙に第三者が利益を得る」である。\nさて、ここに出てくる蘇代のような遊説家は言葉次第で地位を高めることもできるが、失敗すれば最悪の場合、命の危険にさらされる。だからこそ、彼らはたくみなたとえ話を用いて自説を説く必要があった。この「漁夫の利」は優れたたとえ話の一つに数えられるだろう。\n楚有祠者。賜其舎人巵酒。舎人相謂曰、「数人飲之不足、一人飲之有余。請画地為蛇、先成者飲酒。」一人蛇先成。引酒且飲之。乃左手持巵、右手画蛇曰、「吾能為之足。」未成。一人之蛇成。奪其巵曰、「蛇固無足。子安能為之足。」遂飲其酒。為蛇足者、終亡其酒。 \n楚に祠る1者有り。其の舎人2に巵酒3を賜ふ。舎人相謂ひて曰く、「数人之を飲めば足らず、一人之を飲まば余り有り。請う4地に画きて蛇を為り、先ず成る者酒を飲まん」と。一人の蛇先ず成る。酒を引き且に之を飲まんとす。乃ち左手もて巵を持し、右手もて蛇を画きて曰く「吾能く之が足を為る」と。未だ成らず。一人の蛇成る。其の巵を奪ひて曰く、「蛇固より足無し。子安んぞ能く之が足を為らん」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者、終に其の酒を亡ふ。\n(原典: 『戦国策』)\n楚に神官がいた。その食客に大杯一杯の酒を与えた。食客たちは相談して言った。「数人でこれを飲めば足りないし、一人で飲めばあまるほどある。地面に蛇を描いて、一番先にできた者が酒を飲むようにしよう。」一人の蛇がまず描き上がった。酒を引き寄せて、いまにも飲もうとした。そして、左手で杯をもって、右手で蛇を書き足して、「私は蛇の足を描くことができる」と言った。(しかし、その足は)まだできなかった。(そのうち別の)一人の蛇が完成した。最初に蛇を描いた者の杯をうばって「蛇にはもともと足はない。君はどうして蛇の足を描けるのだ(いや、描けはしない)。」と言った。結局、(二番目に蛇を描いた者が)その酒を飲んだ。蛇の足を描いた者は、とうとう酒を飲みそこなった。\n速く書きあがった者は余裕を見せたつもりだったが、「蛇には足がない」とつっこまれて結局、酒を飲み損ねた。この話から、「蛇足」は「よけいなつけたし」「無用の長物」の意味を持つ。「画蛇添足」ということもある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%95%85%E4%BA%8B%E3%83%BB%E5%AF%93%E8%A9%B1#%E8%99%8E%E3%81%AE%E5%A8%81%E3%82%92%E5%80%9F%E3%82%8B%E7%8B%90"} {"text": "孔子過泰山側。有婦人哭於墓者而哀。夫子式而聴之、使子路問之曰、子之哭也、壱似重有憂者。而曰、然。昔者吾舅死於虎、吾夫又死焉、今吾子又死焉。夫子曰、何為不去也。曰、無苛政。夫子曰、小子識之、苛政猛於虎也。\n孔子泰山の側を過ぐ。婦人墓に哭する者有りて哀しげなり。夫子1式2して之を聴き、子路3をして之に問はしめて曰く、子の哭するや、壱に重ねて憂ひ有る者に似たり、と。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫又焉に死し、今吾が子又焉に死せり、と。夫子曰く、何為れぞ去らざるやと。曰く、苛政4無ければなり、と。夫子曰く、小子5之を識せ、苛政は虎よりも猛なりと。\n(原典:『礼記』)\n孔子が泰山のそばを通った。墓のところで声を上げて泣く婦人がいて、(その様子は)悲しげだった。先生は車の横木に手をついて丁寧に礼をしてその声を聴いて、子路に(伝言して)そのわけを質問させた。(質問内容は以下の通り)「あなたが声を上げて泣く様子は重ね重ねの悲しみがおありのようです。」そうしたら(その婦人は)言った。「そうです。昔、私の舅が虎によって死に、私の夫もまた(虎によって)死に、今度は私の子が(虎によって)死にました。」先生は「どうして(危険なこの場所を)立ち去らないのですか」と言った。(婦人は)「ひどい政治がないからです」と言った。先生は「おまえたち、このことをよく覚えておきなさい。ひどい政治は虎よりも恐ろしいのだ」と言った。\n中国において虎は最強の動物とされてきた。そんな虎よりも獰猛(または恐ろしい)のが厳しい政治だという話である。\n宋有狙公者。愛狙養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。俄而匱焉。将限其食、恐衆狙之不馴於己也。先誑之曰、与若芧、朝三而暮四、足乎。衆狙皆起而怒。俄而曰、与若芧、朝四而暮三、足乎。衆狙皆伏而喜。 \n宋1に狙公2なる者(もの)有り(あり)。狙を愛し之(これ)を養ひて群(むれ)を成す(なす)。\n能く(よく)狙(さる)の意(い)を解(かい)し、狙(さる)も亦た(また)公(こう)の心(こころ)を得たり(えたり)。其の(その)家口3を損(そん)して、狙(さる)の欲(よく)を充(じゅう)たせり。俄かにして匱し。将に(まさに)其の(その)食(しょく)を限らん(かぎらん)とし、衆狙の己(おのれ)に馴れ(なれ)ざらんことを恐る(おそる)。 先ず(まず)之(これ)を誑きて曰はく(いはく)、若に芧4を与ふる(あたふる)に、朝(あした)に三(さん)にして暮れ(くれ)に四(よん)にせん、足るか(たるか)と。衆狙(しゅうそ)皆(みな)起ちて(たちて)怒る(いかる)。俄(にわか)にして曰はく(いわく)、若(なんじ)に芧(しょ)を与ふる(あたふる)に、朝に四にして暮に三にせん、足るかと。衆狙(しゅうそ)皆(みな)伏して(ふして)喜べり(よろこべり)。\n(原典:『列子』)\n宋(そう)に狙公(そこう)という者がいた。(彼は)サルを愛して養い(増えていき)群れをなしていた。(狙公は)よくサルの心がわかり、サルもまた狙公の気持ちがわかった。(狙公は)自分の家族の食事を減らしても、サルの食欲を満足させた。(ところが)突然、貧乏になった。(そこで)サルの食事を減らそうとしたが、サルたちが自分になじまなくなることを恐れた。まず、サルをだまそうとして言った。「お前たちにトチの実を与えるのに、朝は三つ、夕方に四つにしよう。足りるか。」サルたちはみんな立ち上がって怒った。(そこで彼は)急に(言葉を変えて)言った。「(では) お前たちにトチの実を与えるのに、朝は四つ、夕方に三つにしよう。足りるか。」サルたちはみんなひれ伏して喜んだ。\nこの故事成語「朝三暮四」だが、狙公の立場とサルの立場とで意味が異なる。\n狙公の立場なら前者、サルの立場なら後者の意味で取れる。どちらも用法は正しい。\n朝少ないと損をした気分になるが、朝を増やして夜を減らせば一緒である。このことに気がつかないのが、猿知恵といえよう。\n学校教科書では、たとえ話の部分が出るが、参考書では、たとえの前後の楚(そ)の宣王の話も出るので、時間があれば、そこも勉強しておくこと。\n借虎威\n荊宣王問群臣曰、「吾聞北方之畏昭奚恤也。果誠何如。」群臣莫対。\n江乙対曰、「虎求百獣而食之、得狐。狐曰、『子無敢食我也。天帝使我長百獣。今、子食我、是逆天帝命也。子以我為不信、吾為子先行。子隨我後観。百獣之見我、而敢不走乎。』虎以為然。故遂与之行。獣見之皆走。虎不知獣畏己而走也。以為『畏狐也。』今、王之地、方五千里、帯甲百万、而専属之昭奚恤。故北方之畏奚恤也、其実畏王之甲兵也、猶百獣之畏虎也。」\n虎の威を借る\n荊1の宣王、群臣に問ひて曰く、「吾、北方2の昭奚恤3を畏るるを聞くなり。果たして誠か何如」と。群臣対ふる莫し。 \n江乙4対へて曰く、「虎、百獣を求めて之を食らひ(くらい)、狐を得たり。 狐曰はく(いわく)『子 敢へて(あえて)我を(われを)食らふこと無かれ。 天帝5、我をして百獣に長たらしむ。 今、子、我を食らはば、是れ(これ)天帝の命に逆らふなり。 子 我を以て(もって)信ならずと為さば、吾 子の為に先行せん。 子 我が後ろに随ひて(したがいて)観よ。 百獣の我を見るや敢へて(あえて)走らざらんや』と。 虎 以て(もって)然りと為す(なす)。 故に遂に之と行く。 獣 之を見て皆走る。 虎 獣の己を畏れて走るを知らざるなり。 以為へらく(おもえらく)『狐を畏るるなり』 と。 今、王の地、方五千里にして帯甲6百万ありて、専ら之を昭奚恤に属す。故に北方の奚恤を畏るるは、其の実、王の甲兵7を畏るること、猶ほ百獣の虎を畏るるがごときなり」と。\n(原典: 『戦国策』)\n本文は混同しやすい句法も多いため、重要句法をよく確認しておきたいところである。\n「与」は「故に 遂に之と行く」の「之と」の「と」の部分。「与」で「と」と読む。「与之」で「これと」。この文章での「之」とは狐(きつね)のこと。「遂に 之 と 行く」→意味「そのまま狐と一緒に行く。」\n楚(そ)の宣王(せんおう)が家臣たちに「私は北方の国々が昭奚恤(しょうけいじゅつ)を恐れていると聞いた。(これは)はたして本当なのかどうなのか」と聞いた。家臣たちは答えなかった。江乙(こういつ)がこう答えて言った。「虎がたくさんの動物を探して食べていたところ、狐を捕まえました。狐は『君は決して私を食べてはいけない。天帝(てんてい、意味:神様のこと)は私を全ての動物の長官とした。今、君が私を食べたなら、それは天帝の命令に逆らうことになるのだ。(もし)君が私の言ったことを信じないのならば、私は君のために先に立って行こう。君は私の後ろに従って見てみなさい。全ての動物は私を見ると必ず逃げ出す』と言いました。虎はそれをもっともだと思いました。ですから、結局、狐と(一緒に)歩きました。動物たちは狐と虎を見るとみんな逃げました。虎は動物が自分を恐れて逃げるのを知りませんでした。『狐を恐れているのだ』と思いました。(さて、)今、王様の領地は五千里四方で兵士は百万人おりますが、それをすっかり昭奚恤に任せております。ですから、北方の国々は奚恤を恐れていますが、実のところ王様の兵隊を恐れているのです。が、(それは先ほどの話の中で)全ての動物が虎を恐れていたのと同じなのです。」\n「虎の威を借る狐」の語源となった話。これから「勢力や権力者の影響力を利用していばる人物」の意味となった。なお、この話は権力を持つ者への警告ともとれる。\n虎に例えられている人物は、宣王(せんおう)。狐に例えられている人物は、昭奚恤(しょうけいじゅつ)である。この喩え話を考えて話した人物は、江乙(こういつ)である。\nつまり、江乙(こういつ)は、遠回しに、昭奚恤(しょうけいじゅつ)を批判している。\n「百獣」は、楚(そ)の周辺諸国の例え。つまり、秦(しん)・魏(ぎ)・斉(せい)の国が、百獣。\n現在、「虎の威を借る」の意味は、「実力の低い小人物が、権力を持つ他人にとり行って、その権力ある他人の力に頼って、小人物が威張り散らすこと。」のような意味で使われる。「虎の威を借る狐」とは、そのような小人物のこと。\nこの用法では、「虎」が、権力・権威のある人物として、扱われている。\n趙且伐燕。\n蘇代為燕謂恵王曰、「今日臣来過易水。蚌方出曝。而鷸啄其肉。蚌合而箝其喙。鷸曰『今日不雨、明日不雨、即有死蚌。』蚌亦謂鷸曰、『今日不出、明日不出、即有死鷸。』両者不肯相舎。漁者得而幷擒之。今趙且伐燕。燕趙久相支、以敝大衆。臣恐強秦之為漁父也。願王之熟計之也。」\n恵王曰、「善。」乃止。\n趙且に燕を伐たんとす。\n蘇代1、燕の為に恵王に謂いて曰く「今日臣2来たり、易水3を過ぐ。蚌4方に出でて曝す5。而して鷸6其の肉を啄む。蚌合して其の喙を箝む。鷸曰く『今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌有らん』と。蚌も亦た鷸に謂ひて曰く『今日出ださず、明日も出ださずんば、即ち死鷸有らん』と。両者、相舎つるを肯んぜず。漁者、得て之を幷せ擒ふ。今、趙且に燕を伐たんとす。燕趙久しく相支えて、以て大衆を敝らん。臣強秦の漁父と為らんことを恐るるなり。願はくは王之を熟計せよ」と。\n恵王曰く「善し」と。乃ち止む。\n(原典: 『戦国策』)\n趙がいまにも燕を攻撃しようとした。蘇代は燕のために(趙の)恵王にこう言った。「今日、わたくしがここに来るところ、易水を通りました。どぶ貝がちょうど出てきてひなたぼっこをしていました。するとシギがどぶ貝の肉をつつきました。どぶ貝は(貝殻を)閉じてシギのくちばしを挟みました。シギは『今日雨が降らず、明日も雨が降らなければ、たちまち死んだどぶ貝ができるぞ』と言いました。どぶ貝もまたシギに向かって『今日、(くちばしが)抜けず、明日も抜けなければ、たちまち死んだシギができあがるぞ』と言いました。両方とも相手を放すことを承知しません。(そうしたところ、やってきた)漁師が両方一度に捕まえてしまいました。(さて、)今、趙はいまにも燕を攻撃しようとしています。燕と趙が長く互いに争っていると民衆は疲れるでしょう。わたくしは強大な秦が(先ほどの話の)漁師になることを恐れるのです。王様はこのことを良くお考えください。」恵王は「そのとおりだ」と言った。そして(燕を攻撃することを)やめた。\n元々は原文から「漁父(ぎょほ)の利」と言われたが今では「漁夫の利」と書く。「鷸蚌の争い」とも呼ばれる。ただし意味の変化はなく、いずれも意味は「争っている隙に第三者が利益を得る」である。\nさて、ここに出てくる蘇代のような遊説家は言葉次第で地位を高めることもできるが、失敗すれば最悪の場合、命の危険にさらされる。だからこそ、彼らはたくみなたとえ話を用いて自説を説く必要があった。この「漁夫の利」は優れたたとえ話の一つに数えられるだろう。\n楚有祠者。賜其舎人巵酒。舎人相謂曰、「数人飲之不足、一人飲之有余。請画地為蛇、先成者飲酒。」一人蛇先成。引酒且飲之。乃左手持巵、右手画蛇曰、「吾能為之足。」未成。一人之蛇成。奪其巵曰、「蛇固無足。子安能為之足。」遂飲其酒。為蛇足者、終亡其酒。 \n楚に祠る1者有り。其の舎人2に巵酒3を賜ふ。舎人相謂ひて曰く、「数人之を飲めば足らず、一人之を飲まば余り有り。請う4地に画きて蛇を為り、先ず成る者酒を飲まん」と。一人の蛇先ず成る。酒を引き且に之を飲まんとす。乃ち左手もて巵を持し、右手もて蛇を画きて曰く「吾能く之が足を為る」と。未だ成らず。一人の蛇成る。其の巵を奪ひて曰く、「蛇固より足無し。子安んぞ能く之が足を為らん」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者、終に其の酒を亡ふ。\n(原典: 『戦国策』)\n楚に神官がいた。その食客に大杯一杯の酒を与えた。食客たちは相談して言った。「数人でこれを飲めば足りないし、一人で飲めばあまるほどある。地面に蛇を描いて、一番先にできた者が酒を飲むようにしよう。」一人の蛇がまず描き上がった。酒を引き寄せて、いまにも飲もうとした。そして、左手で杯をもって、右手で蛇を書き足して、「私は蛇の足を描くことができる」と言った。(しかし、その足は)まだできなかった。(そのうち別の)一人の蛇が完成した。最初に蛇を描いた者の杯をうばって「蛇にはもともと足はない。君はどうして蛇の足を描けるのだ(いや、描けはしない)。」と言った。結局、(二番目に蛇を描いた者が)その酒を飲んだ。蛇の足を描いた者は、とうとう酒を飲みそこなった。\n速く書きあがった者は余裕を見せたつもりだったが、「蛇には足がない」とつっこまれて結局、酒を飲み損ねた。この話から、「蛇足」は「よけいなつけたし」「無用の長物」の意味を持つ。「画蛇添足」ということもある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%95%85%E4%BA%8B%E3%83%BB%E5%AF%93%E8%A9%B1#%E6%BC%81%E5%A4%AB%E3%81%AE%E5%88%A9"} {"text": 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先ず(まず)之(これ)を誑きて曰はく(いはく)、若に芧4を与ふる(あたふる)に、朝(あした)に三(さん)にして暮れ(くれ)に四(よん)にせん、足るか(たるか)と。衆狙(しゅうそ)皆(みな)起ちて(たちて)怒る(いかる)。俄(にわか)にして曰はく(いわく)、若(なんじ)に芧(しょ)を与ふる(あたふる)に、朝に四にして暮に三にせん、足るかと。衆狙(しゅうそ)皆(みな)伏して(ふして)喜べり(よろこべり)。\n(原典:『列子』)\n宋(そう)に狙公(そこう)という者がいた。(彼は)サルを愛して養い(増えていき)群れをなしていた。(狙公は)よくサルの心がわかり、サルもまた狙公の気持ちがわかった。(狙公は)自分の家族の食事を減らしても、サルの食欲を満足させた。(ところが)突然、貧乏になった。(そこで)サルの食事を減らそうとしたが、サルたちが自分になじまなくなることを恐れた。まず、サルをだまそうとして言った。「お前たちにトチの実を与えるのに、朝は三つ、夕方に四つにしよう。足りるか。」サルたちはみんな立ち上がって怒った。(そこで彼は)急に(言葉を変えて)言った。「(では) お前たちにトチの実を与えるのに、朝は四つ、夕方に三つにしよう。足りるか。」サルたちはみんなひれ伏して喜んだ。\nこの故事成語「朝三暮四」だが、狙公の立場とサルの立場とで意味が異なる。\n狙公の立場なら前者、サルの立場なら後者の意味で取れる。どちらも用法は正しい。\n朝少ないと損をした気分になるが、朝を増やして夜を減らせば一緒である。このことに気がつかないのが、猿知恵といえよう。\n学校教科書では、たとえ話の部分が出るが、参考書では、たとえの前後の楚(そ)の宣王の話も出るので、時間があれば、そこも勉強しておくこと。\n借虎威\n荊宣王問群臣曰、「吾聞北方之畏昭奚恤也。果誠何如。」群臣莫対。\n江乙対曰、「虎求百獣而食之、得狐。狐曰、『子無敢食我也。天帝使我長百獣。今、子食我、是逆天帝命也。子以我為不信、吾為子先行。子隨我後観。百獣之見我、而敢不走乎。』虎以為然。故遂与之行。獣見之皆走。虎不知獣畏己而走也。以為『畏狐也。』今、王之地、方五千里、帯甲百万、而専属之昭奚恤。故北方之畏奚恤也、其実畏王之甲兵也、猶百獣之畏虎也。」\n虎の威を借る\n荊1の宣王、群臣に問ひて曰く、「吾、北方2の昭奚恤3を畏るるを聞くなり。果たして誠か何如」と。群臣対ふる莫し。 \n江乙4対へて曰く、「虎、百獣を求めて之を食らひ(くらい)、狐を得たり。 狐曰はく(いわく)『子 敢へて(あえて)我を(われを)食らふこと無かれ。 天帝5、我をして百獣に長たらしむ。 今、子、我を食らはば、是れ(これ)天帝の命に逆らふなり。 子 我を以て(もって)信ならずと為さば、吾 子の為に先行せん。 子 我が後ろに随ひて(したがいて)観よ。 百獣の我を見るや敢へて(あえて)走らざらんや』と。 虎 以て(もって)然りと為す(なす)。 故に遂に之と行く。 獣 之を見て皆走る。 虎 獣の己を畏れて走るを知らざるなり。 以為へらく(おもえらく)『狐を畏るるなり』 と。 今、王の地、方五千里にして帯甲6百万ありて、専ら之を昭奚恤に属す。故に北方の奚恤を畏るるは、其の実、王の甲兵7を畏るること、猶ほ百獣の虎を畏るるがごときなり」と。\n(原典: 『戦国策』)\n本文は混同しやすい句法も多いため、重要句法をよく確認しておきたいところである。\n「与」は「故に 遂に之と行く」の「之と」の「と」の部分。「与」で「と」と読む。「与之」で「これと」。この文章での「之」とは狐(きつね)のこと。「遂に 之 と 行く」→意味「そのまま狐と一緒に行く。」\n楚(そ)の宣王(せんおう)が家臣たちに「私は北方の国々が昭奚恤(しょうけいじゅつ)を恐れていると聞いた。(これは)はたして本当なのかどうなのか」と聞いた。家臣たちは答えなかった。江乙(こういつ)がこう答えて言った。「虎がたくさんの動物を探して食べていたところ、狐を捕まえました。狐は『君は決して私を食べてはいけない。天帝(てんてい、意味:神様のこと)は私を全ての動物の長官とした。今、君が私を食べたなら、それは天帝の命令に逆らうことになるのだ。(もし)君が私の言ったことを信じないのならば、私は君のために先に立って行こう。君は私の後ろに従って見てみなさい。全ての動物は私を見ると必ず逃げ出す』と言いました。虎はそれをもっともだと思いました。ですから、結局、狐と(一緒に)歩きました。動物たちは狐と虎を見るとみんな逃げました。虎は動物が自分を恐れて逃げるのを知りませんでした。『狐を恐れているのだ』と思いました。(さて、)今、王様の領地は五千里四方で兵士は百万人おりますが、それをすっかり昭奚恤に任せております。ですから、北方の国々は奚恤を恐れていますが、実のところ王様の兵隊を恐れているのです。が、(それは先ほどの話の中で)全ての動物が虎を恐れていたのと同じなのです。」\n「虎の威を借る狐」の語源となった話。これから「勢力や権力者の影響力を利用していばる人物」の意味となった。なお、この話は権力を持つ者への警告ともとれる。\n虎に例えられている人物は、宣王(せんおう)。狐に例えられている人物は、昭奚恤(しょうけいじゅつ)である。この喩え話を考えて話した人物は、江乙(こういつ)である。\nつまり、江乙(こういつ)は、遠回しに、昭奚恤(しょうけいじゅつ)を批判している。\n「百獣」は、楚(そ)の周辺諸国の例え。つまり、秦(しん)・魏(ぎ)・斉(せい)の国が、百獣。\n現在、「虎の威を借る」の意味は、「実力の低い小人物が、権力を持つ他人にとり行って、その権力ある他人の力に頼って、小人物が威張り散らすこと。」のような意味で使われる。「虎の威を借る狐」とは、そのような小人物のこと。\nこの用法では、「虎」が、権力・権威のある人物として、扱われている。\n趙且伐燕。\n蘇代為燕謂恵王曰、「今日臣来過易水。蚌方出曝。而鷸啄其肉。蚌合而箝其喙。鷸曰『今日不雨、明日不雨、即有死蚌。』蚌亦謂鷸曰、『今日不出、明日不出、即有死鷸。』両者不肯相舎。漁者得而幷擒之。今趙且伐燕。燕趙久相支、以敝大衆。臣恐強秦之為漁父也。願王之熟計之也。」\n恵王曰、「善。」乃止。\n趙且に燕を伐たんとす。\n蘇代1、燕の為に恵王に謂いて曰く「今日臣2来たり、易水3を過ぐ。蚌4方に出でて曝す5。而して鷸6其の肉を啄む。蚌合して其の喙を箝む。鷸曰く『今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌有らん』と。蚌も亦た鷸に謂ひて曰く『今日出ださず、明日も出ださずんば、即ち死鷸有らん』と。両者、相舎つるを肯んぜず。漁者、得て之を幷せ擒ふ。今、趙且に燕を伐たんとす。燕趙久しく相支えて、以て大衆を敝らん。臣強秦の漁父と為らんことを恐るるなり。願はくは王之を熟計せよ」と。\n恵王曰く「善し」と。乃ち止む。\n(原典: 『戦国策』)\n趙がいまにも燕を攻撃しようとした。蘇代は燕のために(趙の)恵王にこう言った。「今日、わたくしがここに来るところ、易水を通りました。どぶ貝がちょうど出てきてひなたぼっこをしていました。するとシギがどぶ貝の肉をつつきました。どぶ貝は(貝殻を)閉じてシギのくちばしを挟みました。シギは『今日雨が降らず、明日も雨が降らなければ、たちまち死んだどぶ貝ができるぞ』と言いました。どぶ貝もまたシギに向かって『今日、(くちばしが)抜けず、明日も抜けなければ、たちまち死んだシギができあがるぞ』と言いました。両方とも相手を放すことを承知しません。(そうしたところ、やってきた)漁師が両方一度に捕まえてしまいました。(さて、)今、趙はいまにも燕を攻撃しようとしています。燕と趙が長く互いに争っていると民衆は疲れるでしょう。わたくしは強大な秦が(先ほどの話の)漁師になることを恐れるのです。王様はこのことを良くお考えください。」恵王は「そのとおりだ」と言った。そして(燕を攻撃することを)やめた。\n元々は原文から「漁父(ぎょほ)の利」と言われたが今では「漁夫の利」と書く。「鷸蚌の争い」とも呼ばれる。ただし意味の変化はなく、いずれも意味は「争っている隙に第三者が利益を得る」である。\nさて、ここに出てくる蘇代のような遊説家は言葉次第で地位を高めることもできるが、失敗すれば最悪の場合、命の危険にさらされる。だからこそ、彼らはたくみなたとえ話を用いて自説を説く必要があった。この「漁夫の利」は優れたたとえ話の一つに数えられるだろう。\n楚有祠者。賜其舎人巵酒。舎人相謂曰、「数人飲之不足、一人飲之有余。請画地為蛇、先成者飲酒。」一人蛇先成。引酒且飲之。乃左手持巵、右手画蛇曰、「吾能為之足。」未成。一人之蛇成。奪其巵曰、「蛇固無足。子安能為之足。」遂飲其酒。為蛇足者、終亡其酒。 \n楚に祠る1者有り。其の舎人2に巵酒3を賜ふ。舎人相謂ひて曰く、「数人之を飲めば足らず、一人之を飲まば余り有り。請う4地に画きて蛇を為り、先ず成る者酒を飲まん」と。一人の蛇先ず成る。酒を引き且に之を飲まんとす。乃ち左手もて巵を持し、右手もて蛇を画きて曰く「吾能く之が足を為る」と。未だ成らず。一人の蛇成る。其の巵を奪ひて曰く、「蛇固より足無し。子安んぞ能く之が足を為らん」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者、終に其の酒を亡ふ。\n(原典: 『戦国策』)\n楚に神官がいた。その食客に大杯一杯の酒を与えた。食客たちは相談して言った。「数人でこれを飲めば足りないし、一人で飲めばあまるほどある。地面に蛇を描いて、一番先にできた者が酒を飲むようにしよう。」一人の蛇がまず描き上がった。酒を引き寄せて、いまにも飲もうとした。そして、左手で杯をもって、右手で蛇を書き足して、「私は蛇の足を描くことができる」と言った。(しかし、その足は)まだできなかった。(そのうち別の)一人の蛇が完成した。最初に蛇を描いた者の杯をうばって「蛇にはもともと足はない。君はどうして蛇の足を描けるのだ(いや、描けはしない)。」と言った。結局、(二番目に蛇を描いた者が)その酒を飲んだ。蛇の足を描いた者は、とうとう酒を飲みそこなった。\n速く書きあがった者は余裕を見せたつもりだったが、「蛇には足がない」とつっこまれて結局、酒を飲み損ねた。この話から、「蛇足」は「よけいなつけたし」「無用の長物」の意味を持つ。「画蛇添足」ということもある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%95%85%E4%BA%8B%E3%83%BB%E5%AF%93%E8%A9%B1#%E6%9C%9D%E4%B8%89%E6%9A%AE%E5%9B%9B"} {"text": "中学校国語 漢文 > 矛盾\nここでは故事成語「矛盾」のもとになった話を解説する。なお、原文の難解な漢字はひらがなに直している。\n楚人1に盾と矛2とを鬻ぐ3者有り。これを誉めて曰く「わが盾の堅きこと、よくとほすもの莫きなり」と。また、その矛を誉めて曰く「わが矛の利なる4こと、物においてとほさざる無きなり」と。ある人曰く「子5の矛をもって、子の盾をとほさばいかん」と。その人こたふることあたはざるなり。\n楚人有鬻楯與矛者。譽之曰、吾楯之堅、莫能陷也。又譽其矛曰、吾矛之利、於物無不陷也。或曰、以子之矛、陷子之楯何如。其人弗能應也。\n(『韓非子』(かんぴし)より)\n楚の国の人で盾と矛を売る者がいた。この人はこれを誉めて「私の盾は頑丈で、これを貫けるものはない」と言った。また、矛を誉めて「私の矛は鋭くて、物において貫けないものはない」と言った。ある人が「あなたの矛であなたの盾を貫いたらどうなるのですか」といった。商人は答えることができなかった\n「何でも突き通す矛」と「どんな攻撃も防ぐ盾」の2つがあるというのはおかしい。なぜなら、「何でも突き通す矛」が本当ならば「どんな攻撃も防ぐ盾」はウソになるし、その逆の場合は矛のほうがウソになるからである。このように、つじつまの合わないことを「矛盾」(むじゅん)と言うようになったのはこの話による。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E7%9F%9B%E7%9B%BE"} {"text": "孔子過泰山側。有婦人哭於墓者而哀。夫子式而聴之、使子路問之曰、子之哭也、壱似重有憂者。而曰、然。昔者吾舅死於虎、吾夫又死焉、今吾子又死焉。夫子曰、何為不去也。曰、無苛政。夫子曰、小子識之、苛政猛於虎也。\n孔子泰山の側を過ぐ。婦人墓に哭する者有りて哀しげなり。夫子1式2して之を聴き、子路3をして之に問はしめて曰く、子の哭するや、壱に重ねて憂ひ有る者に似たり、と。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫又焉に死し、今吾が子又焉に死せり、と。夫子曰く、何為れぞ去らざるやと。曰く、苛政4無ければなり、と。夫子曰く、小子5之を識せ、苛政は虎よりも猛なりと。\n(『礼記』より)\n孔子が泰山のそばを通った。墓のところで声を上げて泣く婦人がいて、(その様子は)悲しげだった。先生は車の横木に手をついて丁寧に礼をしてその声を聴いて、子路に(伝言して)そのわけを質問させた。(質問内容は以下の通り)「あなたが声を上げて泣く様子は重ね重ねの悲しみがおありのようです。」そうしたら(その婦人は)言った。「そうです。昔、私の舅が虎によって死に、私の夫もまた(虎によって)死に、今度は私の子が(虎によって)死にました。」先生は「どうして(危険なこの場所を)立ち去らないのですか」と言った。(婦人は)「ひどい政治がないからです」と言った。先生は「おまえたち、このことをよく覚えておきなさい。ひどい政治は虎よりも恐ろしいのだ」と言った。\n中国において虎は最強の動物とされてきた。そんな虎よりも獰猛(または恐ろしい)のが厳しい政治だという話である。\n宋有狙公者。愛狙養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。俄而匱焉。将限其食、恐衆狙之不馴於己也。先誑之曰、与若芧、朝三而暮四、足乎。衆狙皆起而怒。俄而曰、与若芧、朝四而暮三、足乎。衆狙皆伏而喜。 \n宋1に狙公2なる者有り。狙を愛し之を養ひて群を成す。能く狙の意を解し、狙も亦た公の心を得たり。其の家口3を損して、狙の欲を充たせり。俄かにして匱し。将に其の食を限らんとし、衆狙の己に馴れざらんことを恐る。 先ず之を誑きて曰く、若に芧4を与ふるに、朝に三にして暮に四にせん、足るかと。衆狙皆起ちて怒る。俄かにして曰く、若に芧を与ふるに、朝に四にして暮に三にせん、足るかと。衆狙皆伏して喜べり。\n(『列子より』)\n宋に狙公という者がいた。(彼は)サルを愛して養い(増えていき)群れをなしていた。(狙公は)よくサルの心がわかり、サルもまた狙公の気持ちがわかった。(狙公は)自分の家族の食事を減らしても、サルの食欲を満足させた。(ところが)突然、貧乏になった。(そこで)サルの食事を減らそうとしたが、サルたちが自分になじまなくなることを恐れた。まず、サルをだまそうとして言った。「お前たちにトチの実を与えるのに、朝は三つ、夕方に四つにしよう。足りるか。」サルたちはみんな立ち上がって怒った。(そこで彼は)急に(言葉を変えて)言った。「(では) お前たちにトチの実を与えるのに、朝は四つ、夕方に三つにしよう。足りるか。」サルたちはみんなひれ伏して喜んだ。\n朝少ないと損をした気分になるが、朝を増やして夜を減らせば一緒である。このことに気がつかないのが、猿知恵といえよう。さて、この故事成語「朝三暮四」だが、狙公の立場とサルの立場とで意味が異なる。\n狙公の立場なら前者、サルの立場なら後者の意味で取れる。どちらも用法は正しい。\n楚人有渉江者。其剣自舟中墜於水。遽刻其舟曰、是吾剣之所従墜也。舟止。従其所契者、入水求之。舟已行矣。而剣不行。求剣若此、不亦惑乎。\n楚人に江1を渉る者有り。其の剣、舟中より水に墜つ。遽かに其の舟に刻みて曰く、是れ吾が剣の従りて墜ちし所なり、と。舟止まる。其の契みし所の者従り、水に入りて之を求む。舟は已に行けり。而るに剣は行かず。剣を求むること此くの若し。亦た惑いならずや。\n(『呂氏春秋』より)\n楚の国の人で長江を渡る人がいた。彼の剣が舟から水中に落ちた。(その人は)急いで船に目印の傷をつけて、「ここが私の剣が落ちたところである」と言った。船が止まった。舟に目印を刻んだところから水の中に入って剣を探した。船はもう行ってしまった。しかるに剣は動かない。剣を探すのにこんなことをする。なんと道理のわからぬ(間抜けな)ことではないか。\nこの話は古いものにしがみつき、時代の変化を理解しない者への皮肉である。舟にたとえられているのは時代である。『韓非子』と同様に、古代の政治を理想とし、手本とする儒家を批判した側面もある。\n近塞上之人、有善術者。馬無故亡而入胡。人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居数月、其馬将胡駿馬而帰。人皆賀之。其父曰、此何遽不能為禍乎。家富良馬(又作“家有良馬”),其子好騎、墮而折其髀。人皆弔之。其父曰、此何遽不為福乎。居一年、胡人大入塞。丁壮者引弦而戦、近塞之人、死者十九。此独以跛之故、父子相保。故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。\n塞上1に近きの人に、術を善くする者有り。馬、故無くして亡げて胡2に入る。人皆之を弔ふ。其の父3曰く、此れ何遽ぞ福と為らざらんやと。居ること数月、其の馬、胡の駿馬を将いて帰る。人皆之を賀す。其の父曰く、此れ何遽ぞ禍と為る能わざらんやと。家良馬に富む。其の子、騎を好み、堕(お)ちて其の髀4を折る。人皆之を弔う。其の父曰く、此れ何遽ぞ福と為らざらんやと。居ること一年、胡人大いに塞に入る。丁壮なる者は弦5を引きて戦ひ、塞に近きの人、死する者十に九。此れ独り跛6の故を以て、父子相保つ。故に福の禍と為り、禍の福と為るは、化7極8む可からず、深9測10る可からざるなり。\n(『淮南子』より)\nとりでの近くに占いの上手な人がいた。(その人の)馬がなぜか逃げ出して北の蛮地へ入ってしまった。人々はこのひとをなぐさめた。(しかし)その老人は「これがどうして福にならないだろうか」と言った。数ヵ月後、その馬は蛮地の良い馬を連れて帰ってきた。人々はこの人にお祝いを言った。(しかし)その老人は「これがどうして災いにならないだろうか」と言った。老人の子は乗馬を好み(にしていたが)、転落して足の骨を折った。人々はこのひとをなぐさめた。(しかし)その老人は「これがどうして福にならないだろうか」と言った。それから一年たって、北方の蛮族の大軍がとりでに攻め込んだ。若者たちは弓を持って戦い、とりでに近い(若い)人で死んだ者は十人の内九人であった(つまり若者の90%が死んだ)。この息子だけは足が不自由だったため親子ともに無事だった。こうしたことから福が災いとなり、災いが福になるのを見極めることはできず、(変化の)奥深さを推測することはできないのだ。\nここに出る老人は目先の幸不幸に惑わされない。常に幸福が不幸に、不幸が幸福に変化するという世の中の不思議さに注目していたからだろうか。\nなお、ここから生まれた故事成語「塞翁が馬」は「人間万事塞翁が馬」ということもある。人生ではどのようなことで幸福と不幸が入れ替わるかわからないということである。ただ、特に悪いことが良いことに変わるときに使うことが多いようである。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%95%A3%E6%96%87%E3%83%BB%E8%AA%AC%E8%A9%B1/%E6%95%85%E4%BA%8B%E6%88%90%E8%AA%9E#%E5%A1%9E%E7%BF%81%E3%81%8C%E9%A6%AC"} {"text": "ここでは故事成語「五十歩百歩」の基になった文を見ていきたい。\n今から約2300年ほど前、中国の中心部の近くに魏(梁)という国があり、そこに恵王(けいおう)という王がいた。恵王は戦争好きで、国を強くするために先生として招いていた孟子に、こう相談した。「私は政治に心を尽くしています。ある地方で作物が取れないときは、そこの民衆を別の地方に移し、穀物を移します。となりの国の政治をよく観察してみても、私のように民衆のために心を砕いている者はいません。それなのに、となりの国の人口が減らず、私の国の人口が増えないのは、なぜですか」と。\nこの恵王の質問に、孟子はどう答えたのだろうか。\n孟子対へていはく、「王戦ひを好む。請ふ戦ひをもってたとへん。填然として、これに鼓し、兵刃既に接す。甲を棄て兵をひきて走る、あるいは百歩にして後止まり、あるいは五十歩にして後止まる。五十歩をもって百歩を笑はば、すなわちいかん」と。 \nいはく、「不可なり。ただ百歩ならざるのみ。これもまた走るなり。」と。\n孟子は答えて言った。「王様は戦争がお好きです。戦争でたとえさせてください。ドンドンと進軍の太鼓が鳴り、武器はぶつかって火花を散らしています。そうしたら、よろいを捨てて武器を引きずって逃げ出した者がおりました。一方は百歩で立ち止まり、もう一方は五十歩で立ち止まりました。五十歩逃げた者が百歩逃げた者をおくびょうだと言って笑ったならば、どうでしょうか。」\n王は言った。「それはダメだ。ただ百歩でないというだけで、逃げたことには変わりない。」\n孟子は、恵王への答えに、こう言う。「それがおわかりでしたら、人口が多くなることを期待してはなりません」と。孟子からすれば、恵王の政治も、となりの国の政治も、大きな差がない―五十歩百歩なのである。\n孟子対曰、「王好戦。請以戦喩。填然、鼓之、兵刃既接。棄甲曳兵而走、或百歩而後止、或五十歩而後止。以五十歩笑百歩、則何如。」 \n曰、「不可。直不百歩耳。是亦走也。」 \nもともとは少し長めの文章だが、故事成語のもとになったところだけをピックアップした。\nさて、すでにすこし触れたが「大きな差がない」ことを「五十歩百歩」という。これはすでに紹介したように「五十歩逃げた者が百歩逃げた者を馬鹿にして笑うことは意味がない」ことからきている。似たような言葉に「どんぐりの背比べ」「目くそ鼻くそを笑う」がある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E4%BA%94%E5%8D%81%E6%AD%A9%E7%99%BE%E6%AD%A9"} {"text": "孔子過泰山側。有婦人哭於墓者而哀。夫子式而聴之、使子路問之曰、子之哭也、壱似重有憂者。而曰、然。昔者吾舅死於虎、吾夫又死焉、今吾子又死焉。夫子曰、何為不去也。曰、無苛政。夫子曰、小子識之、苛政猛於虎也。\n孔子泰山の側を過ぐ。婦人墓に哭する者有りて哀しげなり。夫子1式2して之を聴き、子路3をして之に問はしめて曰く、子の哭するや、壱に重ねて憂ひ有る者に似たり、と。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫又焉に死し、今吾が子又焉に死せり、と。夫子曰く、何為れぞ去らざるやと。曰く、苛政4無ければなり、と。夫子曰く、小子5之を識せ、苛政は虎よりも猛なりと。\n(原典:『礼記』)\n孔子が泰山のそばを通った。墓のところで声を上げて泣く婦人がいて、(その様子は)悲しげだった。先生は車の横木に手をついて丁寧に礼をしてその声を聴いて、子路に(伝言して)そのわけを質問させた。(質問内容は以下の通り)「あなたが声を上げて泣く様子は重ね重ねの悲しみがおありのようです。」そうしたら(その婦人は)言った。「そうです。昔、私の舅が虎によって死に、私の夫もまた(虎によって)死に、今度は私の子が(虎によって)死にました。」先生は「どうして(危険なこの場所を)立ち去らないのですか」と言った。(婦人は)「ひどい政治がないからです」と言った。先生は「おまえたち、このことをよく覚えておきなさい。ひどい政治は虎よりも恐ろしいのだ」と言った。\n中国において虎は最強の動物とされてきた。そんな虎よりも獰猛(または恐ろしい)のが厳しい政治だという話である。\n宋有狙公者。愛狙養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。俄而匱焉。将限其食、恐衆狙之不馴於己也。先誑之曰、与若芧、朝三而暮四、足乎。衆狙皆起而怒。俄而曰、与若芧、朝四而暮三、足乎。衆狙皆伏而喜。 \n宋1に狙公2なる者(もの)有り(あり)。狙を愛し之(これ)を養ひて群(むれ)を成す(なす)。\n能く(よく)狙(さる)の意(い)を解(かい)し、狙(さる)も亦た(また)公(こう)の心(こころ)を得たり(えたり)。其の(その)家口3を損(そん)して、狙(さる)の欲(よく)を充(じゅう)たせり。俄かにして匱し。将に(まさに)其の(その)食(しょく)を限らん(かぎらん)とし、衆狙の己(おのれ)に馴れ(なれ)ざらんことを恐る(おそる)。 先ず(まず)之(これ)を誑きて曰はく(いはく)、若に芧4を与ふる(あたふる)に、朝(あした)に三(さん)にして暮れ(くれ)に四(よん)にせん、足るか(たるか)と。衆狙(しゅうそ)皆(みな)起ちて(たちて)怒る(いかる)。俄(にわか)にして曰はく(いわく)、若(なんじ)に芧(しょ)を与ふる(あたふる)に、朝に四にして暮に三にせん、足るかと。衆狙(しゅうそ)皆(みな)伏して(ふして)喜べり(よろこべり)。\n(原典:『列子』)\n宋(そう)に狙公(そこう)という者がいた。(彼は)サルを愛して養い(増えていき)群れをなしていた。(狙公は)よくサルの心がわかり、サルもまた狙公の気持ちがわかった。(狙公は)自分の家族の食事を減らしても、サルの食欲を満足させた。(ところが)突然、貧乏になった。(そこで)サルの食事を減らそうとしたが、サルたちが自分になじまなくなることを恐れた。まず、サルをだまそうとして言った。「お前たちにトチの実を与えるのに、朝は三つ、夕方に四つにしよう。足りるか。」サルたちはみんな立ち上がって怒った。(そこで彼は)急に(言葉を変えて)言った。「(では) お前たちにトチの実を与えるのに、朝は四つ、夕方に三つにしよう。足りるか。」サルたちはみんなひれ伏して喜んだ。\nこの故事成語「朝三暮四」だが、狙公の立場とサルの立場とで意味が異なる。\n狙公の立場なら前者、サルの立場なら後者の意味で取れる。どちらも用法は正しい。\n朝少ないと損をした気分になるが、朝を増やして夜を減らせば一緒である。このことに気がつかないのが、猿知恵といえよう。\n学校教科書では、たとえ話の部分が出るが、参考書では、たとえの前後の楚(そ)の宣王の話も出るので、時間があれば、そこも勉強しておくこと。\n借虎威\n荊宣王問群臣曰、「吾聞北方之畏昭奚恤也。果誠何如。」群臣莫対。\n江乙対曰、「虎求百獣而食之、得狐。狐曰、『子無敢食我也。天帝使我長百獣。今、子食我、是逆天帝命也。子以我為不信、吾為子先行。子隨我後観。百獣之見我、而敢不走乎。』虎以為然。故遂与之行。獣見之皆走。虎不知獣畏己而走也。以為『畏狐也。』今、王之地、方五千里、帯甲百万、而専属之昭奚恤。故北方之畏奚恤也、其実畏王之甲兵也、猶百獣之畏虎也。」\n虎の威を借る\n荊1の宣王、群臣に問ひて曰く、「吾、北方2の昭奚恤3を畏るるを聞くなり。果たして誠か何如」と。群臣対ふる莫し。 \n江乙4対へて曰く、「虎、百獣を求めて之を食らひ(くらい)、狐を得たり。 狐曰はく(いわく)『子 敢へて(あえて)我を(われを)食らふこと無かれ。 天帝5、我をして百獣に長たらしむ。 今、子、我を食らはば、是れ(これ)天帝の命に逆らふなり。 子 我を以て(もって)信ならずと為さば、吾 子の為に先行せん。 子 我が後ろに随ひて(したがいて)観よ。 百獣の我を見るや敢へて(あえて)走らざらんや』と。 虎 以て(もって)然りと為す(なす)。 故に遂に之と行く。 獣 之を見て皆走る。 虎 獣の己を畏れて走るを知らざるなり。 以為へらく(おもえらく)『狐を畏るるなり』 と。 今、王の地、方五千里にして帯甲6百万ありて、専ら之を昭奚恤に属す。故に北方の奚恤を畏るるは、其の実、王の甲兵7を畏るること、猶ほ百獣の虎を畏るるがごときなり」と。\n(原典: 『戦国策』)\n本文は混同しやすい句法も多いため、重要句法をよく確認しておきたいところである。\n「与」は「故に 遂に之と行く」の「之と」の「と」の部分。「与」で「と」と読む。「与之」で「これと」。この文章での「之」とは狐(きつね)のこと。「遂に 之 と 行く」→意味「そのまま狐と一緒に行く。」\n楚(そ)の宣王(せんおう)が家臣たちに「私は北方の国々が昭奚恤(しょうけいじゅつ)を恐れていると聞いた。(これは)はたして本当なのかどうなのか」と聞いた。家臣たちは答えなかった。江乙(こういつ)がこう答えて言った。「虎がたくさんの動物を探して食べていたところ、狐を捕まえました。狐は『君は決して私を食べてはいけない。天帝(てんてい、意味:神様のこと)は私を全ての動物の長官とした。今、君が私を食べたなら、それは天帝の命令に逆らうことになるのだ。(もし)君が私の言ったことを信じないのならば、私は君のために先に立って行こう。君は私の後ろに従って見てみなさい。全ての動物は私を見ると必ず逃げ出す』と言いました。虎はそれをもっともだと思いました。ですから、結局、狐と(一緒に)歩きました。動物たちは狐と虎を見るとみんな逃げました。虎は動物が自分を恐れて逃げるのを知りませんでした。『狐を恐れているのだ』と思いました。(さて、)今、王様の領地は五千里四方で兵士は百万人おりますが、それをすっかり昭奚恤に任せております。ですから、北方の国々は奚恤を恐れていますが、実のところ王様の兵隊を恐れているのです。が、(それは先ほどの話の中で)全ての動物が虎を恐れていたのと同じなのです。」\n「虎の威を借る狐」の語源となった話。これから「勢力や権力者の影響力を利用していばる人物」の意味となった。なお、この話は権力を持つ者への警告ともとれる。\n虎に例えられている人物は、宣王(せんおう)。狐に例えられている人物は、昭奚恤(しょうけいじゅつ)である。この喩え話を考えて話した人物は、江乙(こういつ)である。\nつまり、江乙(こういつ)は、遠回しに、昭奚恤(しょうけいじゅつ)を批判している。\n「百獣」は、楚(そ)の周辺諸国の例え。つまり、秦(しん)・魏(ぎ)・斉(せい)の国が、百獣。\n現在、「虎の威を借る」の意味は、「実力の低い小人物が、権力を持つ他人にとり行って、その権力ある他人の力に頼って、小人物が威張り散らすこと。」のような意味で使われる。「虎の威を借る狐」とは、そのような小人物のこと。\nこの用法では、「虎」が、権力・権威のある人物として、扱われている。\n趙且伐燕。\n蘇代為燕謂恵王曰、「今日臣来過易水。蚌方出曝。而鷸啄其肉。蚌合而箝其喙。鷸曰『今日不雨、明日不雨、即有死蚌。』蚌亦謂鷸曰、『今日不出、明日不出、即有死鷸。』両者不肯相舎。漁者得而幷擒之。今趙且伐燕。燕趙久相支、以敝大衆。臣恐強秦之為漁父也。願王之熟計之也。」\n恵王曰、「善。」乃止。\n趙且に燕を伐たんとす。\n蘇代1、燕の為に恵王に謂いて曰く「今日臣2来たり、易水3を過ぐ。蚌4方に出でて曝す5。而して鷸6其の肉を啄む。蚌合して其の喙を箝む。鷸曰く『今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌有らん』と。蚌も亦た鷸に謂ひて曰く『今日出ださず、明日も出ださずんば、即ち死鷸有らん』と。両者、相舎つるを肯んぜず。漁者、得て之を幷せ擒ふ。今、趙且に燕を伐たんとす。燕趙久しく相支えて、以て大衆を敝らん。臣強秦の漁父と為らんことを恐るるなり。願はくは王之を熟計せよ」と。\n恵王曰く「善し」と。乃ち止む。\n(原典: 『戦国策』)\n趙がいまにも燕を攻撃しようとした。蘇代は燕のために(趙の)恵王にこう言った。「今日、わたくしがここに来るところ、易水を通りました。どぶ貝がちょうど出てきてひなたぼっこをしていました。するとシギがどぶ貝の肉をつつきました。どぶ貝は(貝殻を)閉じてシギのくちばしを挟みました。シギは『今日雨が降らず、明日も雨が降らなければ、たちまち死んだどぶ貝ができるぞ』と言いました。どぶ貝もまたシギに向かって『今日、(くちばしが)抜けず、明日も抜けなければ、たちまち死んだシギができあがるぞ』と言いました。両方とも相手を放すことを承知しません。(そうしたところ、やってきた)漁師が両方一度に捕まえてしまいました。(さて、)今、趙はいまにも燕を攻撃しようとしています。燕と趙が長く互いに争っていると民衆は疲れるでしょう。わたくしは強大な秦が(先ほどの話の)漁師になることを恐れるのです。王様はこのことを良くお考えください。」恵王は「そのとおりだ」と言った。そして(燕を攻撃することを)やめた。\n元々は原文から「漁父(ぎょほ)の利」と言われたが今では「漁夫の利」と書く。「鷸蚌の争い」とも呼ばれる。ただし意味の変化はなく、いずれも意味は「争っている隙に第三者が利益を得る」である。\nさて、ここに出てくる蘇代のような遊説家は言葉次第で地位を高めることもできるが、失敗すれば最悪の場合、命の危険にさらされる。だからこそ、彼らはたくみなたとえ話を用いて自説を説く必要があった。この「漁夫の利」は優れたたとえ話の一つに数えられるだろう。\n楚有祠者。賜其舎人巵酒。舎人相謂曰、「数人飲之不足、一人飲之有余。請画地為蛇、先成者飲酒。」一人蛇先成。引酒且飲之。乃左手持巵、右手画蛇曰、「吾能為之足。」未成。一人之蛇成。奪其巵曰、「蛇固無足。子安能為之足。」遂飲其酒。為蛇足者、終亡其酒。 \n楚に祠る1者有り。其の舎人2に巵酒3を賜ふ。舎人相謂ひて曰く、「数人之を飲めば足らず、一人之を飲まば余り有り。請う4地に画きて蛇を為り、先ず成る者酒を飲まん」と。一人の蛇先ず成る。酒を引き且に之を飲まんとす。乃ち左手もて巵を持し、右手もて蛇を画きて曰く「吾能く之が足を為る」と。未だ成らず。一人の蛇成る。其の巵を奪ひて曰く、「蛇固より足無し。子安んぞ能く之が足を為らん」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者、終に其の酒を亡ふ。\n(原典: 『戦国策』)\n楚に神官がいた。その食客に大杯一杯の酒を与えた。食客たちは相談して言った。「数人でこれを飲めば足りないし、一人で飲めばあまるほどある。地面に蛇を描いて、一番先にできた者が酒を飲むようにしよう。」一人の蛇がまず描き上がった。酒を引き寄せて、いまにも飲もうとした。そして、左手で杯をもって、右手で蛇を書き足して、「私は蛇の足を描くことができる」と言った。(しかし、その足は)まだできなかった。(そのうち別の)一人の蛇が完成した。最初に蛇を描いた者の杯をうばって「蛇にはもともと足はない。君はどうして蛇の足を描けるのだ(いや、描けはしない)。」と言った。結局、(二番目に蛇を描いた者が)その酒を飲んだ。蛇の足を描いた者は、とうとう酒を飲みそこなった。\n速く書きあがった者は余裕を見せたつもりだったが、「蛇には足がない」とつっこまれて結局、酒を飲み損ねた。この話から、「蛇足」は「よけいなつけたし」「無用の長物」の意味を持つ。「画蛇添足」ということもある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%95%85%E4%BA%8B%E3%83%BB%E5%AF%93%E8%A9%B1#%E8%9B%87%E8%B6%B3"} {"text": "管鮑(かんぽう)の交わり(まじわり)\n登場人物の管仲(かんちゅう)は、この文中の昔話の当時は商人であり、当時は政治家ではない。\n管仲(かんちゅう)は、のちに斉(せい)の国の宰相(さいしょう)になったが、当時は商人である。文中に戦という文字が何度かあるが、最初の「戦」は、商売のことであり、実際の戦争ではない。\n鮑叔(ほうしゅく)は、管仲(かんちゅう)の友人であり、商売でも協力者。\n春秋時代の話。\n出典は『十八史略』。\n管仲(かんちゅう)という人物がいた、字(あざな)は夷吾(いご)という。\n以前、鮑叔(ほうしゅく)と一緒に商売をしていたことがある。\n管仲(かんちゅう)は分け前を、自分に多く(= 管仲に多く)、取っていた。\n(しかし、)鮑叔(ほうしゅく)は、このことで管仲(かんちゅう)を欲張りとは思わなかった。\nなぜなら、管仲(かんちゅう)が、貧乏なことを知っていたからである。\n以前に(管仲は)、何度か(商売の)事業を立ち上げて、(その事業はすべて失敗して)かえって貧乏になってしまった。\n鮑叔(ほうしゅく)は、(管仲を)愚かだとは思わなかった。\n時勢(じせい)によって、ものごとが上手く行く時もあるし、上手く行かないときもあることを知っていたからである。\n以前に(管仲は)、何度か戦いにでて、その度ごとに逃げた。\n鮑叔(ほうしゅく)は、(管仲を)臆病だとは思わなかった。\n管仲には、(彼が面倒を見なければならない)老いた母がいたことを知っていたからである。\n(そんな鮑叔のことについて、)管仲は言った、「私を生んだのは父母であるが、私を理解してくれるのは鮑叔さんである。」\n管仲(かんちゅう) 字(あざな)は夷吾(いご)。 \n嘗て(かつて)鮑叔(ほうしゅく)と賈す(こす)。 \n利(り)を分かつ(わかつ)に多く(おほく)自らに(みづからに)与ふ(あたふ)。 \n鮑叔(ほうしゅく)以つて(もつて)貪(たん)と為さず。 \n仲(ちゆう)の貧しき(ひんしき)を知れば(しれば)なり。 \n嘗て(かつて)事(こと)を謀りて(はかりて)窮困(きゅうこん)す。\n鮑叔(ほうしゅく)以つて(もつて)愚(ぐ)と為さず(なさず)。 \n時に(ときに)利(り)と不利(ふり)と有る(ある)を知ればなり。 \n嘗て(かつて)三たび(みたび)戦ひて(たたかひて)三たび(みたび)走る(はしる)。 \n鮑叔(ほうしゅく)以つて(もつて)怯(けふ)と為さず(なさず)。 \n仲(ちゅう)に老母有るを知ればなり。\n仲(ちゅう)曰はく(いはく)、「我(われ)を生む(うむ)者(もの)は父母(ふぼ)、我を知る(しる)者(もの)は鮑子(ほうし)なり。」と。 \n桓公(かんこう)諸侯(しょこう)を九-合(きゅうごう)し、天下を一-匡(いっきょう)せしは、皆(みな)仲(ちゅう)の謀なり(はかごとなり)。一にも則ち(すなわち)仲父(ちゅうほ)、二にも則ち(すなわち)仲父といへり(ちゅうほといへり)。\n・菅仲 ー 春秋時代、斉(せい)の桓公に仕えた名宰相。\n・字 ー 成人した時につけた名。\n・嘗て(かつて) - 以前に。過去のことについて説明するときの表現。\n・与(と) - 「鮑叔(ほうしゅく)と賈す(こす) 」の「と」の部分。「与」は原文中にある語句。「与 A 」で「Aと一緒に」の意味。書き下し文では「と」と訓読する。\n・鮑叔 ー 斉の大夫(たいふ)の職に就いていた重臣。\n・賈 ー 商売をする。\n・多自与 ー 自分の方に多く取る。\n・貪 ー 欲ばかり。\n・窮困 ー 行き詰まって苦しむ。\n・走 ー 逃げる。\n・怯 ー 臆病。\n・三 - 回数が多いことを表す場合に、漢文でよく用いられる比喩的な表現。実際の回数とは、限らない。\n・九合 ー 一つに集めまとめる。「九」は「糾」に通じる。\n・一匡 ー 乱を治めて、天下を統一する。「匡」は、正す。\n・不以為貪 - 「A以B為C」で「AがBをCだと思う」の意味。「A以為C」はBを省略した形である。「鮑叔不以為貪」は「鮑叔不以管仲為貪」の省略形。貪欲かどうかが、この文の話題になってる相手は管仲であり、鮑叔ではない。「不」があるので否定形であり、最終的に「鮑叔不以為貪」は「鮑叔が管仲を貪欲だとは評価しない。」の意味。\n※ なお、「貪」は「たん」と読む。\n「刎頸の交わり」(ふんけい の まじわり)が、よく例として挙げられる。\nこの他にも、「知音」、「水魚の交わり」、「竹馬の友」(晋書)など、似た意味の語は多い。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E7%AE%A1%E9%AE%91%E4%B9%8B%E4%BA%A4"} {"text": "先従隗始(先づ隗より始めよ)とは、故事成語の一つ。\n元々は『戦国策』「燕策」の一つである。\n本文は『十八史略(原作者曾先之』より。\n燕(えん)の国の人々は太子の平を立てて王とした。これが昭王(しょうおう)である。戦死者を弔い(とむらい)、生存者を見舞い、へりくだった言葉遣いをし、多くの礼物を用意して、賢者を招聘(しょうへい)しようとした。昭王は郭隗にたずねて、「斉はわが国の混乱につけこんで、燕を攻め破った。私は燕が小国で、報復できないことをよく承知している。(そこで)ぜひとも賢者を味方に得て、その人物と共に政治を行い、先代の王の恥をすすぐことが、私の願いである。先生、それにふさわしい人物を推薦していただきたい。私自身その人物を師としてお仕えしたい」と言った。\n郭隗(かくかい)は、「昔の王で、涓人(けんじん)に千金(せんきん)を持たせて、一日(いちにち)に千里(せんり)走る名馬(めいば)を買いに行かせた者(もの)がおりました。(ところが、涓人は)死んだ馬の骨を五百金で買って帰って来ました。王は怒りました。涓人は言いました『(名馬であれば)死んだ馬の骨でさえ(大金を出して)買ったのです。まして生きている馬だったらなおさら(高く買うに違いないと世間の人は思うことでしょう)。千里の馬はすぐにやって来ます』と。一年もたたないうちに、千里の馬が三頭もやって来ました。今、王がぜひとも賢者を招き寄せたいとお考えならば、まずこの隗(かい)からお始めください。(そうしたら)私より賢い人は、どうして千里の道を遠いと思いましょうか。(いや、遠いと思わずにやって来るでしょう。)」と答えた。\nそこで昭王は郭隗のために新たに邸宅を造って郭隗に師事(しじ)した。その結果、賢者たちは先を争って燕に駆けつけた。\n「隗より始めよ」(かいより はじめよ)という故事成語の基になった話である。もともとこの話からわかるように「私からまず使ってください」という自薦の言葉だったのが、だんだん意味が変化して「物事にとりかかろうとする時は、まずは、なるべく身近な課題から解決しなさい。」「まずは言い出した本人から、始めなさい。」というような意味で使われることが多くなっている。\n気をつけたいのは郭隗のたとえ話である。「死んだ馬」といっても、けっして、なんでもよい訳ではない。名馬だからこそ死んでも価値があり、まして生きた名馬ならもっと価値がある、ということである。「どこぞの馬の骨」でも良いわけではない。ここに郭隗の(いくらか謙遜の混じった)自己推薦が見えてくるようである。\nさて、ここでは省略したが、この郭隗の策は大当たりして、後に戦国時代の名将とされる楽毅(がくき、がっき)が燕にやってくる。そして昭王の望んだとおり燕は斉に猛反撃を行い、楽毅の活躍によって斉の70あまりの城を奪ったという。\n燕人立太子平為君。是為昭王。弔死問生、卑辞厚幣、以招賢者。問郭隗曰、「斉因孤之国乱、而襲破燕。孤極知燕小不足以報。誠得賢士与共国以雪先王之恥、孤之願也。先生視可者。得身事之。」\n隗曰、「古之君有以千金使涓人求千里馬者。買死馬骨五百金而返。君怒。涓人曰、『死馬且買之。況生者乎馬今至矣。』不期年、千里馬至者三。今王必欲致士、先従隗始。況賢於隗者、豈遠千里哉。」\n於是昭王為隗改築宮、師事之。於是士争趨燕。\n燕人太子(たいし)平(へい)を立てて君(きみ)と為す(なす)。是れ(これ)を昭王(しょうおう)と為す(なす)。死(し)を弔ひ(とぶらひ)生(せい)を問ひ(とい)、辞(じ)を卑くし幣1(へい)を厚く(あつく)して、以つて(もって)賢者(けんじゃ)を招く(まねく)。郭隗に問ひて(といて)曰はく(いわく)、「斉(せい)は孤2(こ)の国(くに)の乱るる(みだるる)に因りて(よりて)、襲ひて(おそひて)燕(えん)を破る(やぶる)。孤(こ)極めて(きわめて)燕(えん)の小(しょう)にして以つて(もって)報ずる(ほうずる)に足らざる(たらざる)を知る(しる)。誠(まこと)に賢士(けんし)を得て(えて)与に(ともに)国(くに)を共(とも)にし、以つて先王(せんおう)の恥(はじ)を雪がんことは、孤(こ)の願ひ(ねがひ)なり。先生(せんせい)可なる(かなる)者(もの)を視せ。身(み)之(これ)に事ふることを得ん(えん)。」と。\n隗(かひ)曰はく(いわく)、「古の君(きみ)に千金(せんきん)を以つて(もって)涓人3をして千里(せんり)の馬(うま)4を求めしむる(もとめしむる)者(もの)有り(あり)。死馬(しば)の骨(ほね)を五百金(ごひゃくきん)に買ひて(かいて)返る(かえる)。君(きみ)怒る(いかる)。涓人(けんじん)曰はく(いわく)、『死馬すら(しば すら)且つ(かつ)之(これ)を買ふ(かう)。況んや生ける(いける)者(もの)をや。馬(うま)今(いま)に至らん(いたらん)』と。期年(きねん)5ならずして、千里(せんり)の馬(うま)至る(いたる)者(もの)三(さん)有り(あり)。今(いま)、王(おう)必ず(かならず)士(し)を致さん(いたさん)と欲せば(ほっせば)、先づ隗(かい)より始めよ(はじめよ)。況んや(いわんや)隗(かい)より賢(けん)なる者(もの)、豈に(あに)千里(せんり)を遠し(とおし)とせんや。」と。\n是(ここ)に於いて(おいて)昭王(しょうおう)隗(かい)の為に(ために)改めて(あらためて)宮(きゅう)を築き(きずき)、之(これ)に師事(しじ)す。是(ここ)に於いて(おいて)士6(し)争ひて(あらそいて)燕(えん)に趨く。\n(原典: 十八史略)\nこの「死馬且〜」の場合、「死馬ですら、これを買うのだから、まして生きている名馬なら、なおさら高く買うだろう。」のような意味。\nなお、文中の「之」とは、死んだ名馬のこと。\nこのような句法(A 且 B 、況 C)を、抑揚(よくよう)という。\n「豈に」(あに)で、'反語'(はんご)の意味である。訳すときは、「どうして〜〜か。いや、そうではない。」などのように訳す。\nまた、文末の「哉」(や)は、感動を表す助字。\n「従」は「より」と読む助字であり、「〜から」と訳す。\nまず、この隗から、始めてください。\nここでは、比較を表す。(いろんな意味がある助字。)\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E5%85%88%E5%BE%93%E9%9A%97%E5%A7%8B"} {"text": "故事成語ともなった「臥薪嘗胆」の、もともとの話である。\n古代中国(紀元前500年ごろ)の春秋戦国時代の、呉(ご)の国と、越(えつ)の国との、戦いの話である。\n春秋戦国時代そのものは、紀元前8世紀から紀元前5世紀ごろまで続いた。\n(呉王の)闔廬(こうりょ)は、伍員(ごうん)を重用(ちょうよう)して、国の政治を相談していた。伍員(ごうん)の字(あざな)は子胥(ししょ)といい、楚(そ)の国の人の伍奢(ごしゃ)の子(こ)である。 \n伍奢(ごしゃ)が(楚の王に罪を責められ)殺されたので、(子の伍員(ごうん)は)呉に逃れた。\n(伍員(ごうん)は)呉の軍隊を率いて、楚(そ)に攻め込み、(楚の首都である)郢(えい)を占領した。\n(その後、)呉(ご)は越(えつ)を攻撃した。(そのときの戦いで、)(呉王である)闔廬(こうりょ)が負傷して死んだ。(闔廬の)子の夫差(ふさ)が王位についた。(先代の王である闔廬(こうりょ)に仕えていた)子胥(ししょ)は、(闔廬に仕えたころと)同様に、夫差に仕えた。\n夫差は、父(=闔廬(こうりょ))の仇(かたき)を討つ(うつ)ことを、心に誓った(ちかった)。\n(夫差は、)(「父のかたきを取る」という、恨みを忘れないようにするため、)朝晩(あさばん)は薪(たきぎ)の上に寝て(ねて)、\n(家臣が)出入りするたびに家臣に、叫ばせた内容は、「夫差よ、おまえは越(えつ)の連中が、おまえの父を殺したのを忘れたのか?」と。\n周の敬王の(治世の)二十六年に、夫差は越(えつ)を夫椒(ふしょう)で破った。\n越王の勾践(こうせん)は、残った兵(=敗残兵)を引き連れて会稽山(かいけいざん)にこもり、(本音では越王は復讐をたくらんでいるが、ひとまず当面を生き延びるため、復讐心を隠して、越王は呉王に許しをこい、命乞いを願い出た。その願い出た内容は、越王みずから呉王の)臣下になり、(越王の)妻は呉王に侍女(じじょ)として差し出すことを願い出た。\n子胥(ししょ)は、「だめです。(=越王・勾践を許してはいけない。勾践は殺されるべき。)」と(呉王に?)言った。\nところが、宰相(さいしょう)の伯嚭(はくひ)が、越からの賄賂を受け取り、夫差を説得して越王を許させて(越王を釈放させて)しまった。\n勾践は、国(=越)に戻り、(復讐心を忘れないようにするため、苦い味の肝(きも)を嘗め(なめ)られるように、獣の)肝を寝起きする場所に吊るしておき、(寝起きする)そのたびに肝を見上げて嘗めて(なめて)言うには、「おまえは会稽で受けた恥を忘れたのか?」と(自分自身に、越王・勾践は、寝起きのたびに)言った。\n(王自身は軍事に専念できるように、経済・司法などの)国内の(非・軍事の)政治はすべて大夫(=役職名、大臣みたいなもの)の文種に任せて、(越王自身は)范蠡(はんれい)と一緒に軍隊を訓練したりして、呉を攻略するための計画(=軍備増強や、作戦づくり、など)に専念した。\n(呉の)宰相(さいしょう)の伯嚭(はくひ)(=賄賂(ワイロ)を越から、受け取ったとされている人)は、(夫差に)子胥(ししょ)が自分の計略が採用されなかったことで(夫差を)うらんでいると、(うその)進言をした。\n夫差は(その訴えを信じてしまい、)子胥(ししょ)に(自殺を命じて)属鏤(しょくる)の剣を与えた。\n子胥は(自殺を命じた呉王をうらんで)、(子胥の)家族に(遺言として)伝えたのは「必ず、私の墓(のそば)に、ひさぎ の木を植えよ。ひさぎの木は(棺桶(かんおけ)の)材料にすることができる。(呉王の棺桶だ。)そして、私の目をえぐりだして、(都の)東の門に、かけてくれ。越の軍隊が(攻め込んできて)呉を滅ぼすのを見てやろう。」と。\nそこで、(子胥は、自殺のため、自分の)首をはねて死んだ。\n夫差は(怒り、)(子胥の)死体を(埋葬させずに)取り上げて、馬の皮で作られた袋に入れて、長江(=揚子江)に投げ入れた。\n呉の人々は、子胥(ししょ)をあわれみ、川べりに祠(ほこら)を立てて、胥山(しょざん)と名付けた。\n(それからのち、)(肝を嘗めた勾践の国である)越は(富国強兵のため)十年をかけて(富国のため)人口を増やし国の財貨を増やし(経済力などを高め)、(さらに、強兵のため、その後の)十年をかけて人民を教育し訓練した。(合計で20年の期間。) \n周の元王の4年、越は呉を攻撃した。呉は三度戦い、三度とも(呉が)敗退した。(肝を嘗めた勾践の越が勝った。)\n夫差は講和のため、姑蘇(こそ)に上り、越に請い願った。\n(しかし、)范蠡(はんれい)は(講和を)聞き入れなかった。\n夫差が言うには、「私は、(死んだあと、あの世で)子胥に会わせる顔がない。」と。\n(なので、そこで、)死者の顔をおおうための四角い布を作り、(顔を覆って(おおって)隠して(かくして)、)死んだ(=自殺)。\n「臥薪」(がしん)した人と、「嘗胆」(しょうたん)した人は別人であり、おたがいに敵国どうしで、敵。\n「臥薪」とは、硬い薪(たきぎ)の上で寝ること。痛い、と考えられてる。この痛みで、復讐心を思い出すため,である。\n「闔廬」(こうりょ)は夫差の父であり、呉の、夫差の前の時代の王。そもそも夫差は、この「闔廬」を失った仇(かたき)のために、「臥薪」したのであった。\n「嘗胆」とは、肝(きも)を嘗める(なめる)こと。味が苦く、この苦味で、復讐心を思い出すため、である。\n最終的に、「嘗胆」した勾践は、「臥薪」した夫差を滅ぼした。\n呉越各国で並べると、・・・\n楚と呉は戦争をしているが、この戦争の戦前・戦後では両国とも、「臥薪」も「嘗胆」もしていない。子胥(ししょ)も、楚を倒そうという復讐心を持っているが、子胥は「臥薪」も「嘗胆」もしていない。\n「臥薪」または「嘗胆」をした人物は、二人とも、王である。\nこのあと、しばらくしてから、越の臣下だった范蠡(はんれい)が,越王の部下を辞めて、そして越から外国に抜け出す。\n范蠡(はんれい)は、越王に失望したのである。一説には、呉の子胥(ししょ)が自殺を命じられたようにのように、越王から疎んじられて自殺などに追い込まれることを恐れたのという説を主張する、参考書もある。\nまた、越の大臣である文種は、越王に疎んじられて、自殺を命じられてしまう。\n范蠡(はんれい)は斉(せい)の国に移り、商人になり、財産を築いた。\n「臥薪嘗胆」のもともとの意味は、この物語のように、「かたき討ちや、復讐のために、つらいことでも我慢すること」のような意味の、ぶっそうな内容だった。\n現在の(21世紀の)日本での学校教育では、「臥薪嘗胆」から、ぶっそうな意味合いはほとんどなくなり、「目的達成のために、つらいことでも我慢すること」のような意味で使われる。\n闔廬(かふりょ)伍員(ごうん)を挙げて(あげて)、国事(こくじ)を謀らしむ(はからしむ)。 \n員(うん) 字(あざな)は子胥(ししょ)、楚人(そひと)伍奢(ごしゃ)の子(こ)なり。 \n奢(しゃ)誅(ちゅう)せられて呉(ご)に奔る(はしる)。 \n呉(ご)の兵(へい)を以ゐて(ひきいて)郢(えい)に入る(いる)。\n呉(ご) 越(えつ)を伐つ(うつ)。 \n闔廬(かふりょ)傷(きず)つきて死す(しす)。 \n子(こ)の夫差(ふさ)立つ(たつ)。 \n子胥(ししょ)復た(また)之(これ)に事ふ(つかふ)。 \n夫差(ふさ)讎(あだ)を復(ふく)せんと志す(こころざす)。 \n朝夕(てうせき)薪中(しんちゅう)に臥し(ふし)、出入(しゆつにふ)するに人(ひと)をして呼ばしめて(よばしめて)曰はく(いわく)、\n「夫差(ふさ)、而(なんぢ)越人(えつひと)の而(なんぢ)の父(ちち)を殺せし(ころせし)を忘れたる(わすれたる)か。」と。\n周(しう)の敬王(けいおう)の二十六年(にじふろくねん)、夫差(ふさ)越(えつ)を夫椒(ふせう)に敗る(やぶる)。 \n越王(えつおう)勾践(こうせん)、 余兵(よへい)を以ゐて(ひきいて)会稽山(くわいけいざん)に棲み(すみ)、臣(しん)と為り(なり)妻(つま)は妾(せふ)と為らん(ならん)ことを請ふ(こふ)。\n子胥(ししょ)言ふ(いふ)、「不可(ふか)なり。」と。\n太宰(たいさい)伯嚭(はくひ) 越(えつ)の賂ひ(まひなひ)を受け(うけ)、夫差(ふさ)に説きて(ときて)越(ゑつ)を赦さしむ(ゆるさしむ)。 \n勾践(こうせん)国(くに)に反り(かへり)、胆(きも)を坐臥(ざぐわ)に懸け(かけ)、即ち(すなはち)胆(きも)を仰ぎ(あふぎ)之(これ)を嘗めて(なめて)曰はく(いわく)、\n「女(なんぢ)会稽(くわいけい)の恥(はぢ)を忘れ(わすれ)たるか。」と。\n国政(こくせい)を挙げて(あげて)大夫種(たいふしょう)に属(しよく)し、而して(しかうして)范蠡(はんれい)と兵(へい)を 治め(をさめ)、呉(ご)を謀る(はかる)を事(こと)とす。\n太宰嚭(たいさいひ)、子胥(ししよ)謀(はかりごと)の用ゐ(もちゐ)られざるを恥ぢて怨望(ゑんばう)すと譖(しん)す。夫差(ふさ)乃ち(すなはち)子胥(ししよ)に属鏤(しよくる)の剣(けん)を賜ふ(たまふ)。\n子胥(ししよ)其の(その)家人(かじん)に告げて(つげて)曰はく(いはく)、\n「必ず(かならず)吾が(わが)墓(はか)に檟(か)を樹ゑよ(うえよ)。檟(か)は材(ざい)とすべきなり。\n吾が(わが)目(め)を抉りて(ゑぐりて)、東門(とうもん)に懸けよ(かけよ)。\n以て(もつて)越兵(ゑつへい)の呉(ご)を滅ぼす(ほろぼす)を観ん(みん)。」と。乃ち(すなはち)自剄(じけい)す。\n夫差(ふさ)其の(その)尸(しかばね)を取り(とり)、盛るに(もるに)鴟夷(しい)を以て(もつて)し、之(これ)を江(かう)に投ず(とうず)。\n呉人(ごひと)之(これ)を憐れみ(あはれみ)、祠(し)を江上(かふじやう)に立て(たて)、命けて(なづけて)胥山(しょざん)と曰ふ(いふ)。\n越(えつ)十年(じふねん)生聚(せいしゆう)し、十年(じふねん)教訓(けふくん)す。周(しう)の元王(げんわう)の四年(よねん)、越呉(ゑつご)を伐つ(うつ)。\n呉(ご)三たび(みたび)戦ひて(たたかひて)三たび(みたび)北ぐ(にぐ)。\n夫差(ふさ)姑蘇(こそ)に上り(のぼり)、亦た(また)成(たひらぎ)を越(ゑつ)に請ふ(こふ)。\n范蠡(はんれい)可かず(きかず)。\n夫差(ふさ)曰はく(いはく)、\n「吾(われ)以て(もつて)子胥(ししよ)を見る(みる)無し(なし)。」と。\n幎冒(べきぼう)を為りて(つくりて)乃ち(すなはち)死す(しす)。\n呉王闔廬、挙伍員謀国事。員、字子胥、楚人伍奢之子。奢誅而奔呉、以呉兵入郢。\n呉伐越、闔廬傷而死。子不差立。子胥復事之。夫差志復讎、朝夕臥薪中、出入使人呼曰、\n「夫差而忘越人之殺而父邪。」\n周敬王二十六年、夫差敗越于夫椒。越王勾践以余兵棲会稽山、請為臣妻為妾。\n子胥言、「不可。」\n太宰伯嚭受越賂、説夫差赦越。勾践反国、懸胆於坐、臥即仰胆、嘗之曰、\n「汝、忘会稽之恥邪。」\n挙国政属大夫種、而与范蠡治兵、事謀呉。\n太宰嚭、譖「子胥恥謀不用怨望。」\n夫差乃賜子胥属鏤之剣。子胥告其家人曰、\n「必樹吾墓檟。檟可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」\n乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。呉人憐之、立祠江上、命曰胥山。\n越十年生聚、十年教訓。周元王四年、越伐呉。呉三戦三北。夫差上姑蘇、亦請成於越。范蠡不可。\n夫差曰、「吾無以見子胥。」\n為幎冒乃死。\nつまり、「而忘越人之殺而父邪」は、「おまえは、越人がおまえの父を殺したのを、忘れたのか。」の意味。\nまた、「北」は敗北、敗退のこと。この「北」を、単に「負ける」などと訳してもよい。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E8%87%A5%E8%96%AA%E5%98%97%E8%83%86"} {"text": "\n戦国四君と呼ばれた孟嘗君(もうしょうくん)のエピソードである。\n秦(しん)の昭王(しょうおう)が、他国である斉(せい)の国の孟嘗君(もうしょうくん)の優れた知見の評判を聞いたので、敵国に優秀な人物がいては秦が困るから、いっそ殺してしまおうと考えて、昭王は孟嘗君(もうしょうくん)をだまして秦に訪問させ、そして、孟嘗君が秦に到着するやいなや、秦の兵士らは孟嘗君を抑留(よくりゅう)し、孟嘗君(もうしょうくん)の命が狙われたのである。\n(※ 「抑留」とは、相手を捕まえるなどして、その場所に置き留めること。)\n最終的に、脱出するが、そのとき、孟嘗君の部下であり同行してた二人の人物が活躍した。物を盗むのがうまい人物と、鶏の鳴き真似がうまい人物という、二人が、特に活躍した。\nまず抑留された祭、抑留を話してもらえるように、\n靖郭君田嬰(せいかくくん でんえい)という人は、斉(せい)の宣王(せんおう)の異母弟である。薛(せつ)に領地をもらって領主となった。子どもがいて(その名を)文(ぶん)という。食客(しょくかく)は数千人いた。その名声は諸侯に伝わっていた。孟嘗君(もうしょうくん)と呼ばれた。秦の昭王(しょうおう)がその賢明さを聞いて、人質を入れて会見を求めた。(昭王は孟嘗君が)到着するとその地にとどめて、捕らえて殺そうとした。\n孟嘗君は配下に命じて、昭王の寵愛(ちょうあい)している姫へ行かせて解放するように頼ませた。寵姫は「孟嘗君の狐白裘(こはくきゅう)がほしい」と言った。実は孟嘗君は狐白裘を昭王に献上していて、狐白裘はなかった。食客の中にこそ泥の上手い者がいた。秦の蔵の中に入って狐白裘を奪って寵姫に献上した。寵姫は(孟嘗君の)ために口ぞえをして釈放された。すぐに逃げ去って、氏名を変えて夜ふけに函谷関(かんこくかん)についた。\n関所の法では、鶏(にわとり)が鳴いたら旅人を通すことになっていた。秦王が後で(孟嘗君を釈放したのを)後悔して追いかけてくることを恐れた。食客に鶏の鳴きまねの上手い者がいた。(彼が鶏の鳴きまねをすると)鶏はすべて鳴いた。とうとう旅客を出発させた。出てからまもなく、(孟嘗君が不安に思ってたとおりに)やはり追う者がやってきたが、追いつくことはできなかった。\n孟嘗君は帰国すると秦をうらんで、韓(かん)・魏(ぎ)とともに秦を攻めて函谷関の内側に入った。秦は町を割譲して和平を結んだ。\n靖郭君田嬰者、斉宣王之庶弟也。封於薛。有子曰文。食客数千人。名声聞於諸侯。号為孟嘗君。秦昭王、聞其賢、乃先納質於斉、以求見。至則止、囚欲殺之。孟嘗君使人抵昭王幸姫求解。姫曰、「願得君狐白裘。」蓋孟嘗君、嘗以献昭王、無他裘矣。客有能為狗盗者。入秦蔵中、取裘以献姫。姫為言得釈。即馳去、変姓名、夜半至函谷関。関法、鶏鳴方出客。恐秦王後悔追之。客有能為鶏鳴者。鶏尽鳴。遂発伝。出食頃、追者果至、而不及。孟嘗君、帰怨秦、与韓魏伐之、入函谷関。秦割城以和。\n靖郭君田嬰なる者は、斉の宣王の庶弟1(しょてい)なり。\n薛2(せつ)に封ぜらる。子(こ)有り(あり)文(ぶん)と曰ふ(いう)。\n食客(しょくかく)数千人(すうせんにん)。\n名声(めいせい)諸侯(しょこう)に聞こゆ(きこゆ)。\n号(ごう)して孟嘗君と為す(なす)。\n秦(しん)の昭王(しょうおう)、其の(その)賢(けん)を聞き(きき)、乃ち先づ(まづ)質(ち)を斉(せい)に納れ(いれ)、以て見んことを求む(もとむ)。\n至れば(いたれば)則ち(すなわち)止め(とどめ)、囚へて之(これ)を殺さん(ころさん)と欲す(ほっす)。\n孟嘗君(もうしょうくん)人(ひと)をして昭王(しょうおう)の幸姫(こうき)3に抵り解かん(とかん)ことを求め(もとめ)しむ。\n姫(き)曰はく(いはく)、「願はくは(ねがはくは)君(きみ)の狐白裘4を得ん(えん)」と。\n蓋し孟嘗君(もうしょうくん)、嘗てもって昭王(しょうおう)に献じ(けんじ)、他(た)の裘(きゅう)無し(なし)。\n客(かく)に能く狗盗(くとう)を為す(なす)者(もの)有り(あり)。\n秦(しん)の蔵中(ぞうちゅう)に入り(いり)、裘(きゅう)を取りて(とりて)姫(き)に献ず(けんず)。\n姫(き)為に(ために)言ひて(いいて)釈さるるを得(え)たり。\n即ち(すなわち)馳せ(はせ)去り(さり)、姓名(せいめい)を変じ(へんじ)夜半(やはん)に函谷関5(かんこくかん)に至る(いたる)。\n関(かん)の法(ほう)、鶏(にわとり)鳴きて(なきて)方に(まさに)客(かく)を出だす(いだす)。秦王(しんおう)の後に(のちに)悔いて(くいて)之(これ)を追はん(おわん)ことを恐る(おそる)。\n客(かく)に能く(よく)鶏鳴(けいめい)を為す(なす)者(もの)有り(あり)。\n鶏(にわとり)尽く鳴く(なく)。遂に(ついに)伝(でん)を発す(はっす)。出でて(いでて)食頃にして、追う者(もの)果たして(はたして)至る(いたる)も及ばず(およばず)。孟嘗君(もうしょうくん)、帰りて秦を怨み(うらみ)、韓魏(かんぎ)と之(これ)を伐ち(うち)函谷関に入る(いる)。秦(しん)城(しろ)を割きて(さきて)以て(もって)和す(わす)。\n(原典: 十八史略)\n「すなわち」と読む「則」「乃」「即」には、意味が色々とあり、作品や文脈によって異なるので、作品ごとに個別に覚えたほうがよい。\n(※ 「抑留」(よくりゅう)とは、相手を捕まえるなどして、その場所に置き留めること。)\n\n「(孟嘗君は配下に)命じて、昭王の寵愛(ちょうあい)している姫へ行かせて解放するように頼ませた」の意味。\n現在では「鶏鳴狗盗」(けいめい くとう)という故事が、「取るに足らない技芸の持ち主。または、その技芸。」「つまらない技芸の持ち主。」などの意味で用いられる。また、「取るに足らないつまらない技芸でも、何かの役に立つ場合もある。」というような意味でも用いられる場合もある。\n・「鶏鳴」(けいめい)・・・にわとりの鳴きマネをして、函谷関を開かせる。函谷関では、規則として、朝に鶏が鳴いたら関所を開いて通行できるようにする、それまでは前日の日没からは関所を閉じておく、という規則があった。\n関所を通行できないと、孟嘗君たちが脱出できず、秦の兵士たちに殺されてしまうので、鳴きまねで関所の番人をだまそうとして、関所を開かせたのである。だませたかどうかはどもかく、鳴きまねにつられて本物の鶏も鳴いたし、ともかく関所が開かれ、孟嘗君たちが関所を通行でき、秦から脱出できたのである。\n・「狗盗」(くとう)・・・狐白裘(こはくきゅう)を盗ませる。この盗んだ狐白裘を、欲しがってた姫に差し出して、孟嘗君の抑留を解いてもらったのである。\n日本で、鶏鳴の故事をふまえて作られた和歌がある。百人一首にも収められている清少納言の、\nという和歌である。\n男女の出会いの「逢う」と、「逢阪の関」の「逢」(あう)とを掛けている掛詞がある。ある貴族の男からの口説きを、清少納言が断っている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E9%B6%8F%E9%B3%B4%E7%8B%97%E7%9B%97"} {"text": "『鶏口牛後』は一般に「けいこう ぎゅうご」と読む。\n春秋戦国時代の、「戦国の七雄」と言われる、七つの強い国ができた時代の話。\n秦(しん)は、その中でも、とくに強い国の一つ。\n(強国である)秦(しん)の国の人々が、周辺諸国を(軍事力で)脅して、(秦に)領土を割譲(かつじょう)せよ、と迫って(せまって)きた。\n洛陽の人で、蘇秦(そしん)という人がいた。\n蘇秦(そしん)はかつて政治家になるための就職活動で、秦の恵王に演説しにいったが、雇用(こよう)してもらえず、\nそのため(他国に)行って、燕(えん)の国の文侯(ぶんこう)に自説を演説して、趙(ちょう)と同盟を結ばせようとした。\n燕(えん)の文侯(ぶんこう)は(この同盟案に賛同し、そこで外交の使者として、)蘇秦(そしん)に金銭(=旅費などの費用)を与え、(蘇秦を)趙に行かせた。\n(蘇秦が、趙の)粛侯(しゅくこう)に説得して言うには、「(秦以外の)諸侯が力を合わせたとすると、兵(の数)は(秦の)十倍です。(諸国が)力を合わえて西の秦に対抗すれば、秦は必ず敗れるでしょう。王様のための計画を考えますと、(秦以外の)六国(=燕・趙・斉・魏・韓・楚)が協力して秦を追い払う事に、まさる策はありません。」と。\n(趙の)粛侯(しゅくこう)は、この同盟案に賛同し、そこで蘇秦(そしん)に金銭(=旅費など)を与え、(蘇秦を使者として諸国に同盟を結ばせに行かせて、)そして同盟を結ばせた。\n蘇秦(そしん)は、通俗的な表現を用いて、諸侯に説明して言ったことは、\n「いっそ鶏のくちばしになることはあっても、牛の尻になるな。」と。\nこうして六国は、同盟を結んだ。\n秦人(しんひと) 諸侯(しょこう)を恐喝(きょうかつ)して、地(ち)を割かん(さかん)ことを求む(もとむ)。 \n洛陽(らくよう)の人(ひと)、蘇秦(そしん)というもの有り(あり)。 \n秦の恵王に游説(いうぜい)して用ゐられず(もちゐれず)、\n乃ち(すなはち)往きて(ゆきて)燕(えん)の文侯(ぶんこう)に説き(とき)、趙(ちょう)と従親(しょうしん)せしめんとす。\n燕(えん) 之(これ)に資し(しし)、以て(もって)趙(てう)に至ら(もたら)しむ。 \n粛侯(しゅくこう)に説きて(ときて)曰はく(いはく)、\n「諸侯(しょこう)の卒(そつ)、秦(しん)に十倍(じふばい)せり。\n力(ちから)を并せて(あわせて)西(にし)に向かはば(むかわば)、秦(しん) 必ず(かならず)破れん(やぶれん)。大王(だいおう)の為(ため)に計る(はかる)に、六国(りっこく)従親(しょうしん)して以て(もって)秦(しん)を擯くる(しりぞくる)に若く(しく)は莫し(なし)。」と。 \n粛侯(しゅくこう) 乃ち(すなはち)之(これ)に資し(しし)、以て(もって)諸侯(しょこう)に約(やく)せしむ。 \n蘇秦(そしん) 鄙諺(ひげん)を以て(もって)諸侯(しょこう)に説きて(ときて)曰はく(いはく)、\n「寧ろ(むしろ)鶏口(けいこう)となるとも、牛後(ぎゅうご)と為る(なる)無かれ(なかれ)。」と。 \n是(ここ)に於いて(おいて)、六国(りっこく)従合(しょうごう)す。\n現在、「鶏口となるとも牛後となることなかれ」・「鶏口牛後」とは、「大きな組織などに従うよりかは、小さい組織などの長になるほうが良い。」のような意味で使われる。\n反対の意味のことわざは、「寄らば(よらば)大樹(たいじゅ)の陰(かげ)」\n秦人恐喝諸侯求割地。有洛陽人蘇秦。遊説秦恵王、不用。乃往説燕文候、与趙従親。燕資之、以至趙。説粛候曰、「諸侯之卒、十倍於秦。并力西向、秦必破矣。為大王計、莫若六国従親以擯秦。」粛候乃資之、以約諸侯。蘇秦以鄙諺、説諸侯曰、「寧為鶏口、無為牛後。」於是六国従合。\n秦人諸侯を恐喝して地を割かんことを求む。洛陽の人蘇秦なるもの有り。秦の恵王に遊説して用ゐられず。乃ち往きて燕の文候に説き、趙と従親1せしむ。燕之に資し、以て趙に至らしむ。粛候に説きて曰く、「諸侯の卒は、秦に十倍す。力を并せて西に向かはば、秦必ず破れん。大王の為に計るに、六国従親して以て秦を擯くるに若くは莫し」と。粛候乃ち之に資し、以て諸侯に約せしむ。蘇秦鄙諺2を以て諸侯に説きて曰く、「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ」と。是に於いて六国従合す。\n蘇秦(そしん)は、鬼谷先生(きこくせんせい)という人を師(し)としている。\n初めに(秦に)遊説する為に故郷を出たが、困窮の果てに帰ってきた。(しかし)妻は、はたおり機を下りず、兄嫁は彼の為に食事を作らなかった。その後、連合の長となり、六国の宰相を兼ねることになった。(旅の途中で)洛陽を通り過ぎた(ときのこと)。彼の行列の車や馬は、王のようであった。\n兄弟や妻、兄嫁などは(恐れ入って)彼から目をそらし、まともに見ることができなかった。ただ平身低頭で付き従い、食事の給仕をした。蘇秦は笑って言った。「どうして前は威張っていたのに、今度はうやうやしいのか」と。兄嫁は「あなたの身分が高く、金持ちになったのを見たからです」と言った。蘇秦はがっかりしてため息をついて言った。「私は同一人物であるのに、\n裕福で身分が高ければ親戚も恐れてびくびくし、貧しく身分も低ければ軽んじあなどる。まして一般の民衆はなおさらだ。\nもし、私に洛陽郊外の良田が二頃あれば(安穏としていられたのだから)、六国の宰相の印を腰につけることができただろうか」と。そこで、莫大な金をばらまいて、親族や友人に与えた。やがて蘇秦は同盟を結び終えて、趙に帰った。粛侯は彼に領土を与え、武安君とした。その後、秦は犀首に命じて、趙をあざむき同盟を破壊しようとした。(その計略によって)斉と魏は趙を攻撃した。蘇秦は(その様子を見て)恐れて趙を去ったため、南北の六国同盟は苦しみつつも消滅してしまった。 \n(さて、今度は)魏の国の人に張儀という者がいた。蘇秦と同じ鬼谷先生に師事した。かつて、楚に遊説した際、楚の宰相に恥をかかされた。妻は怒って文句を言った。張儀は「私の舌を見ろ、まだちゃんとあるか(もしあるならばきっと名誉を挽回してやる)」と言った。蘇秦が南北六国の同盟を結んだとき、(蘇秦は)張儀を怒らせ(ると同時に発奮させ)て秦に行くよう仕向けた。張儀はこう言った、「蘇君が健在なうちは、どうして私は(彼の策に反するような)自説を説くだろうか(いや、そんなことはしない)」と。蘇秦が趙を去って、南北六国の同盟は崩れた。(そこで、ついに)張儀はもっぱら連衡を説いて、六国を横に連ねてそれぞれを秦に仕えさせた。 \nこの話の中で少しわかりにくいのは張儀が「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん(蘇君が健在なうちは、どうして私は彼の策に反するような自説を説くだろうか)」といったことだろう。\nまず蘇秦の説いた「合従」について見てみよう。これは秦以外の全ての国々が協力して秦に対抗する作戦である。それに対して張儀が説いた「連衡」は秦が六国それぞれと同盟を結ぶことで、六国をばらばらにすると同時に事実上、秦に服属させる外交戦略である。蘇秦・張儀によって七国の同盟関係が変化した(「対秦包囲網」から「秦への従属政策」へ)ことから二人が行った外交戦略の名前をとって「合従連衡」という言葉が生まれた。現代では立場や目的が異なる団体や人物が一時の利害から協力すること(そして、それがすぐに破綻ないし変化しそうなこと)を指す。\nこのあたりは『史記』の「蘇秦列伝」「張儀列伝」に詳しいのだが、少し述べる。蘇秦は合従が秦によって破られるのをおそれ、同門の張儀を秦に派遣することで合従を有利に運ぼうとした。しかも、ただ派遣するだけでなく侮辱して怒らせ、発奮させると同時に活動資金に困っている張儀をひそかに支援して秦に行かせて、恵王に仕えられるようにした。張儀は後日、このことに気付き、蘇秦への恩義と深い洞察への感服から蘇秦が健在なうちは合従策に手を出さないことにしたといわれる。\n蘇秦者、師鬼谷先生。初出遊、困而帰。妻不下機、嫂不為炊。至是、為従約長、并相六国。行過洛陽。車騎輜重、擬於王者。昆弟妻嫂、側目不敢視、俯伏侍取食。蘇秦笑曰、「何前倨而後恭也」。嫂曰、「見季子位高金多也」。秦喟然歎曰、「此一人之身。富貴則親戚畏懼之、貧賎則軽易之。況衆人乎。使我有洛陽負郭田二頃、豈能佩六国相印乎。」於是、散千金、以賜宗族朋友。既定従約帰趙。粛侯封為武安君。其後、秦使犀首欺趙、欲破従約。斉魏伐趙。蘇秦恐去趙、而解従約。\n魏人有張儀者。与蘇秦同師。嘗遊楚、為楚相所辱。妻慍有語。儀曰、「視吾舌、尚在否。」蘇秦約従時、激儀使入秦。儀曰、「蘇君之時、儀何敢言。」蘇秦去趙而従解。儀専為横、連六国以事秦。 \n蘇秦は、鬼谷先生3を師とす。初め出遊し、困しみて帰る。妻は機を下らず、嫂は為に炊がず。是に至り、従約の長となり、六国に并せ相4たり。行きて洛陽を過ぐ。車騎輜重、王者に擬す。昆弟妻嫂、目を側めて敢て視ず、俯伏して侍して食を取る。蘇秦笑ひて曰はく、「何ぞ前には倨りて後には恭しきや」と。嫂曰はく、「季子の位高く金多きを見ればなり」と。秦喟然5として歎じて曰はく、「此れ一人之身なり。富貴なれば則ち親戚も之を畏懼し、貧賎なれば則り之を軽易す。況んや衆人をや。我をして洛陽負郭の田二頃6有らしめば、豈に能く六国の相印を佩びんや」と。是に於いて、千金を散じ、以て宗族朋友に賜ふ。既に従約を定めて趙に帰る。粛侯封じて武安君と為す。其の後、秦犀首7をして趙を欺かしめ、従約を破らんと欲す。斉魏、趙を伐つ。蘇秦恐れて趙を去り、而して従約解けぬ。\n魏人に張儀といふ者有り。蘇秦と師を同じくす。嘗て楚に遊び、楚相の辱しむる所と為る。妻慍りて語有り。儀曰はく、「吾が舌を視よ、尚ほ在りや否や」と。蘇秦従を約せし時、儀を激して8秦に入らしむ。儀曰はく、「蘇君の時、儀何ぞ敢へて言はん」と。蘇秦趙を去りて従解けぬ。儀専ら横9を為し、六国を連ねて以て秦に事へしむ。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E9%B6%8F%E5%8F%A3%E7%89%9B%E5%BE%8C"} {"text": "涼州詞(りょうしゅうし)\n主人公は兵士。西域の辺境の戦場で、警備に当たる兵士の心境を詠んだ歌。\nぶどうで作ったうまい酒を、夜中も光る杯(さかづき)に注ぐ(そそぐ)。\n飲もうとすると、(誰かが)馬上で琵琶を弾いていて、酒興(しゅきょう)をそそる。\n(たとえ私が)酔っぱらって、この砂漠(さばく)(=戦場)に倒れ伏しても、君(きみ、(二人称))よ、(私を)笑わないでくれ。\n昔から、この辺境の地に遠征して、いったい何人が(生きて)帰ってこれただろうか。(私は生きては戻れないかもしれない。)\n七言絶句\nぶどうの酒や、「夜光杯」は、西域の特産物。「沙場」も、砂漠が多いのは、西域の特徴。\nこの誌に異国情緒(いこくじょうちょ)を出すための、作者(王翰)の工夫だろう。\nしかし、詩を読みすすめていくと、戦場での不安を酒で紛らわしている(まぎらわしている)ことが分かり、情緒どころか刹那的(せつな てき)な快楽で紛らわしているのであり、その落差や対比によって、われわれ読者をゆさぶり、また、その落差や対比が、戦場の悲惨さを演出する表現にもなっている。\n「杯」(はい)、「催」(さい)、「回」(かい)が、すべて発音が二文字で、読みが「い」で終わる。つまり、「杯」(はい)、「催」(さい)、「回」(かい)が、韻(いん)をふんでいる。\n発音について本来は、中国の当時の発音で検証する必要があるのだが、日本の学校教育の漢文では、日本語でも分かる韻(いん)が取り上げられるため高校生は気にしなくて良い\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%BC%A2%E8%A9%A9/%E6%B6%BC%E5%B7%9E%E8%A9%9E"} {"text": "早(つと)に白帝城(はくていじょう)を発す(はっす)\n川下りの速さを歌っている歌である。\nなので、後述する第二句の「千里(せんり)の江陵(こうりょう) 一日(いちじつ)にして還る(かえる)」が、特に重要。\n\n七言絶句\n文章から確実に分かる対比は、\nなどの対比だろう。\n「間」(かん)、「還」(かん)、「山」(さん)で、韻を踏んでいる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E6%97%A9%E7%99%BA%E7%99%BD%E5%B8%9D%E5%9F%8E"} {"text": "高い建物から見渡した、雄大な眺めに対する感動。\nその建物の名前が「鸛鵲楼」(かんじゃくろう)。\n登鸛鵲楼\n鸛鵲楼(かんじゃくろう)に登る(のぼる)\n五言絶句\n転句と結句\n千里目 ⇔ 一層桜\n「千」と「一」との対比。\n「流」(りゅう)と「楼」(ろう)\n「欲」で願望を表す。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E7%99%BB%E9%B8%9B%E9%B5%B2%E6%A5%BC"} {"text": "秋の物寂しい山を行く作者が道中で、つい見とれた楓林の美しさを詠んだ詩。\n山行 山行\n遠上寒山石径斜 遠く寒山に上れば石径斜めなり\n白雲生処有人家 白雲生ずる処 人家有り\n停車坐愛楓林晩 車を停めて坐ろに愛す楓林の晩(くれ)\n霜葉紅於二月花 霜葉は二月の花よりも紅なり\n晩唐の詩人、杜牧の七言絶句。\n詩の前半では、秋の山の寂しさと特に見るべきものがない単調な風景を描写している。\n詩の後半、転句で作者は夕日に映える紅葉した楓の林に気付き車を止め、しばらく眺めている。\n結句では深紅に染まる楓の葉は、春に咲く桃の花などよりも美しいと詠じている。\n遠景と近景との対比、モノトーンとカラフルさとの対比描写が見事な詩である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E5%B1%B1%E8%A1%8C"} {"text": "雪景色の、静かな風景を詩にしている。作者の孤独な気持ちを表している。(なお、作者は、この地に左遷(させん)されている。)\n現代語では、「左遷」(させん)とは、組織づとめをしてるサラリーマンなどが、低い役職に落とされること。\n江雪\n(原典: 唐詩三百首)\n江雪(こうせつ)\n「蹤」(しょう)とは、「足あと」のこと\n「千」「万」「孤」「独」というふうに、すべて数に関する字になっている。\n五言絶句\n倒置法(とうちほう)で訓読されている。\n普通の語順では、「独り寒江の雪に釣る」になる。\n「絶(ぜつ)」「滅(めつ)」「雪(せつ)」\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E6%B1%9F%E9%9B%AA"} {"text": "\n香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁 香炉峰下新たに山居を卜(ぼく)し 草堂初めて成り偶(たまたま)東壁に題す\n日高睡足猶慵起 日高く睡(ねむ)り足りて 猶お起くるに慵(ものう)し\n小閣重衾不怕寒 小閣に衾(ふすま)を重ねて 寒きを怕(おそ)れず\n遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聴き\n香炉峰雪撥簾看 香炉峰の雪は 簾(すだれ)を撥(かか)げて看る\n匡廬便是逃名地 匡廬(きょうろ)は便ち是れ名を逃るるの地\n司馬仍為送老官 司馬は仍お老(おい)を送るの官為(た)り\n心泰身寧是帰処 心泰く身寧きは 是れ帰する処\n故郷何独在長安 故郷 何ぞ独り長安に在るのみならんや\n中唐期の詩人白居易の七言律詩。\n朝廷への越権行為により左遷された地で作られた詩である。\n隠遁生活のような日常を詠じる中に作者の無念の思いも伝わってくる。\nなお、第四句は清少納言の『枕草子』「香炉峰の雪」でもよく知られている。\nある雪の日、中宮定子から「少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」と問われた清少納言は、\nこの詩の第四句をふまえて、格子を上げさせ簾を高く上げさせたという。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%BC%A2%E8%A9%A9/%E9%A6%99%E7%82%89%E5%B3%B0%E4%B8%8B%E3%80%81%E6%96%B0%E5%8D%9C%E5%B1%B1%E5%B1%85%E3%80%81%E8%8D%89%E5%A0%82%E5%88%9D%E6%88%90%E3%80%81%E5%81%B6%E9%A1%8C%E6%9D%B1%E5%A3%81"} {"text": "(ざつせつ)\n優れた才能があっても、それを見抜くことができなければ、いないのと同じ。\n「ある国に、もし優秀な人物がいても、その国の君主が愚かなら、その優れた人物を見抜くことはできず、その人物は登用もされない。」\nだいたい、このような感じの解釈が通説である。つまり、登用をする側を戒めている(いましめている)、たとえ話である。\n世の中に馬を見分ける名人がいて、そこで初めて(名人が名馬を見つけて)、一日に千里を走る名馬がいるのだ。 \n千里を走れる名馬はいつの時代でもいるのだけれど、名人は、いつの時代にもいるとは限らないのである。 \nだから、たとえ名馬がいたとしても、(発見されないので、)ただ(馬の世話をするだけの)使用人の手によって粗末に扱われ、馬小屋の中で(平凡な馬と)首を並べて死んでしまい、千里の馬として讃えられる(たたえられる)ことはないのである。 \n一日に千里を走る馬は、ときには、一食につき、穀物を一石も食べ尽くしてしまうこともある。 \n(ところが)馬を飼っている者(もの)は(=飼い主)、その馬が一日千里を走る馬だとは知らないで、(馬を)飼っている。 \n(なので、)この馬は、千里の能力を持っているのに、餌(えさ)が不十分なので、(お腹がすいて)力がほとんど発揮(はっき)できず、(名馬の)才能の素晴らしさは表には出てこない。 \nそれどころか(その名馬が)、(他の)平凡な馬と同じように生きようとしても、(エサ代がかかるから? エサが不十分だから?)それすらもできない。 \n(こんな状況で、)どうしてその(名馬の)能力の千里を走るように求めることができようか。(いや、求めるのは無理である。) \nこの馬を鞭で打って調教するのに、(飼い主は、けっして、名馬に)ふさわしい扱い方を取らず、名馬を飼うのに、名馬の才能を発揮させることができない。 \n(名馬が)飼い主に鳴いて(訴えかけて)も、(飼い主は)馬の気持ちを理解することができない。\n(名馬にふさわしくない粗末な扱い方しかできないのに、飼い主が)鞭(むち)をとって馬に向かって言うには、「この世には名馬が、いないものだ。」と。\nああ、(はたして)それは本当に名馬が(この世に)いないのだろうか、(それとも、)名馬を見抜けないのか。\n世(よ)に伯楽(はくらく)有りて(ありて)、然る(しかる)後(のち)に千里(せんり)の馬(うま)有り(あり)。 \n千里(せんり)の馬(うま)は常に(つね)有れども(あれども)、伯楽(はくらく)は常には(つねには)有らず(あらず)。 \n故に(ゆえに)名馬(めいば)有りと(ありと)雖も(いえども)、祇(ただ)奴隷人(どれいじん)の手に(てに)辱め(はずかしめ)られ、槽櫪(そうれき)の間(かん)に駢死(へんし)して、千里(せんり)を以て(もって)、称(しょう)せられざるなり。 \n馬(うま)の千里(せんり)なる者(もの)は、一食(いっしょく)に或いは(あるいは)粟(ぞく)一石(いっこく)を尽くす(つくす)。\n馬(うま)を食ふ(やしなふ)者(もの)は、其の(その)能(のう)の千里なるを知りて食はざる(やしなわざる)なり。 \n是の(この)馬(うま)や、千里(せんり)の能(のう)有り(あり)と雖も(いえども)、食(しょく)飽かざれば(あかざれば)、力(ちから)足らず(たらず)、才(さい)の美(び)、外に見えず(あらわれず)。 \n且つ(かつ)常馬(じょうば)と等しからん(ひとしからん)と欲するも(ほっするも)得(う)べからず。\n安くんぞ(いづくんぞ)其の(その)能(のう)の千里(せんり)なるを求めん(もとめん)や。\n之(これ)を策つ(むちうつ)に其の(その)道(みち)以つて(もって)せず、之を(これを)食ふ(やしなう)に其の(その)材(ざい)を尽くさ(つくさ)しむる能はず(あたわず)。\n之(これ)に鳴けども、其の(その)意(い)に通ずる(つうずる)能はず(あたわず)。 \n策(むち)を執りて(とりて)之に(これに)臨みて(のぞみて)曰はく(いわく)、「天下(てんか)に馬(うま)無し(なし)。」と。 嗚呼(ああ)、其れ(それ)真に(しんに)馬(うま)無き(なき)か、其れ(それ)真に(しんに)馬(うま)を知らざる(しらざる)か。\n千里馬常有、而伯楽不常有。 \n故雖有名馬、祇辱於奴隷人之手、駢死於槽櫪之間、不以千里称也。 \n馬之千里者、一食或尽粟一石。 \n食馬者、不知其能千里而食也。 \n是馬也、雖有千里之能、食不飽、力不足、才美不外見。 \n且欲与常馬等、不可得。 \n安求其能千里也。 \n策之、不以其道、食之、不能尽其材。 \n鳴之、而不能通其意。 \n執策而臨之曰、 \n「天下無馬。」\n嗚呼、其真無馬邪、其真不知馬也。\n「名馬があるといっても、(しかしながら、)」の意味。「雖」(いえどモ)で、逆接の仮定を表す。\n「どうして、その馬に千里を走る能力を求められようか。いや、求められない。」の意味。\n「安」で「いづクンゾ」と訓読し反語を表す。\n「いつもいるとは、かぎらない。」の意味。\n「不常〜」で「つねには〜ず」と訓読して、部分否定を表す。\n「祇」(ただ)は限定を表す。「ただ」だけでも限定の意味合いは通じるが、高校や大学入試のテストなどで訳す場合には、採点者に限定の意味合いを明示するため、訳文に「ただ〜だけ」というふうに「だけ」を付けたほうが良いだろう。\n「祇辱於奴隷人之手」で、奴隷人の手によって、辱め(はずかしめ)られる。\n「祇辱於奴隷人之手」(ただ奴隷人の手に)の「於」は助字で、「於」には文脈によって色々な意味があるが、この文での「於」は受身の意味。\n「この馬は」の意味。\nここでの「是」とは、「この」と訓読し、指示代名詞である。\nなお、「也」は「や」と訓読し、さまざまな意味を表す。この文での「也」の意味は、文脈から考えて、主格を強調している。\n「不能」で「あたはず」。\n「できない〜」の意味。\n「也」を「か」と訓読する場合は、疑問(ぎもん)を表す。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%95%A3%E6%96%87%E3%83%BB%E8%AA%AC%E8%A9%B1/%E9%9B%91%E8%AA%AC"} {"text": "孔子と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物のこと。『孟子』『大学』『中庸』と併せて儒教における最も重要な経典である「四書」の一つに数えられる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%80%9D%E6%83%B3/%E8%AB%96%E8%AA%9E"} {"text": "原文\n宋人有耕田者。 \n田中有株。兔走触株、折頸而死 。 \n因釈其耒而守株、冀復得兔。 \n兔不可復得、而身為宋国笑。 \n書き下し文\n宋人に田を耕す者有り。 \n田中に株有り。兔走りて株に触れ、頸を折りて死す。 \n因りて其の耒を釈てて株を守り、復た兔を得んことを冀ふ。 \n兔復た得べからずして、身は宋国の笑ひと為れり。\n読み方\nそうひとにたをたがやすものあり。\nでんちゅうにかぶ(くいぜ)あり。うさぎはしりてかぶ(くいぜ)にふれ、くびをおりてしす。よりてそのほこをすててかぶ(くいぜ)をまもり、またうさぎをえんことをこいねがう。\nうさぎまたうべからずして、みはそうこくのわらいとなれり。\n意味\n宋国に田を耕している人がいた。その田の中に株が有った。うさぎが走ってきて株にぶつかり、首を折って死んだ。その人は耒(鋤の意)を捨てて株を守り、またうさぎが死ぬことを待った。うさぎが来ることはなく、その人は宋国の笑い者となった。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E_%E6%BC%A2%E6%96%87/%E5%AE%88%E6%A0%AA"} {"text": "孔子過泰山側。有婦人哭於墓者而哀。夫子式而聴之、使子路問之曰、子之哭也、壱似重有憂者。而曰、然。昔者吾舅死於虎、吾夫又死焉、今吾子又死焉。夫子曰、何為不去也。曰、無苛政。夫子曰、小子識之、苛政猛於虎也。\n孔子泰山の側を過ぐ。婦人墓に哭する者有りて哀しげなり。夫子1式2して之を聴き、子路3をして之に問はしめて曰く、子の哭するや、壱に重ねて憂ひ有る者に似たり、と。而ち曰く、然り。昔者吾が舅虎に死し、吾が夫又焉に死し、今吾が子又焉に死せり、と。夫子曰く、何為れぞ去らざるやと。曰く、苛政4無ければなり、と。夫子曰く、小子5之を識せ、苛政は虎よりも猛なりと。\n(原典:『礼記』)\n孔子が泰山のそばを通った。墓のところで声を上げて泣く婦人がいて、(その様子は)悲しげだった。先生は車の横木に手をついて丁寧に礼をしてその声を聴いて、子路に(伝言して)そのわけを質問させた。(質問内容は以下の通り)「あなたが声を上げて泣く様子は重ね重ねの悲しみがおありのようです。」そうしたら(その婦人は)言った。「そうです。昔、私の舅が虎によって死に、私の夫もまた(虎によって)死に、今度は私の子が(虎によって)死にました。」先生は「どうして(危険なこの場所を)立ち去らないのですか」と言った。(婦人は)「ひどい政治がないからです」と言った。先生は「おまえたち、このことをよく覚えておきなさい。ひどい政治は虎よりも恐ろしいのだ」と言った。\n中国において虎は最強の動物とされてきた。そんな虎よりも獰猛(または恐ろしい)のが厳しい政治だという話である。\n宋有狙公者。愛狙養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。俄而匱焉。将限其食、恐衆狙之不馴於己也。先誑之曰、与若芧、朝三而暮四、足乎。衆狙皆起而怒。俄而曰、与若芧、朝四而暮三、足乎。衆狙皆伏而喜。 \n宋1に狙公2なる者(もの)有り(あり)。狙を愛し之(これ)を養ひて群(むれ)を成す(なす)。\n能く(よく)狙(さる)の意(い)を解(かい)し、狙(さる)も亦た(また)公(こう)の心(こころ)を得たり(えたり)。其の(その)家口3を損(そん)して、狙(さる)の欲(よく)を充(じゅう)たせり。俄かにして匱し。将に(まさに)其の(その)食(しょく)を限らん(かぎらん)とし、衆狙の己(おのれ)に馴れ(なれ)ざらんことを恐る(おそる)。 先ず(まず)之(これ)を誑きて曰はく(いはく)、若に芧4を与ふる(あたふる)に、朝(あした)に三(さん)にして暮れ(くれ)に四(よん)にせん、足るか(たるか)と。衆狙(しゅうそ)皆(みな)起ちて(たちて)怒る(いかる)。俄(にわか)にして曰はく(いわく)、若(なんじ)に芧(しょ)を与ふる(あたふる)に、朝に四にして暮に三にせん、足るかと。衆狙(しゅうそ)皆(みな)伏して(ふして)喜べり(よろこべり)。\n(原典:『列子』)\n宋(そう)に狙公(そこう)という者がいた。(彼は)サルを愛して養い(増えていき)群れをなしていた。(狙公は)よくサルの心がわかり、サルもまた狙公の気持ちがわかった。(狙公は)自分の家族の食事を減らしても、サルの食欲を満足させた。(ところが)突然、貧乏になった。(そこで)サルの食事を減らそうとしたが、サルたちが自分になじまなくなることを恐れた。まず、サルをだまそうとして言った。「お前たちにトチの実を与えるのに、朝は三つ、夕方に四つにしよう。足りるか。」サルたちはみんな立ち上がって怒った。(そこで彼は)急に(言葉を変えて)言った。「(では) お前たちにトチの実を与えるのに、朝は四つ、夕方に三つにしよう。足りるか。」サルたちはみんなひれ伏して喜んだ。\nこの故事成語「朝三暮四」だが、狙公の立場とサルの立場とで意味が異なる。\n狙公の立場なら前者、サルの立場なら後者の意味で取れる。どちらも用法は正しい。\n朝少ないと損をした気分になるが、朝を増やして夜を減らせば一緒である。このことに気がつかないのが、猿知恵といえよう。\n学校教科書では、たとえ話の部分が出るが、参考書では、たとえの前後の楚(そ)の宣王の話も出るので、時間があれば、そこも勉強しておくこと。\n借虎威\n荊宣王問群臣曰、「吾聞北方之畏昭奚恤也。果誠何如。」群臣莫対。\n江乙対曰、「虎求百獣而食之、得狐。狐曰、『子無敢食我也。天帝使我長百獣。今、子食我、是逆天帝命也。子以我為不信、吾為子先行。子隨我後観。百獣之見我、而敢不走乎。』虎以為然。故遂与之行。獣見之皆走。虎不知獣畏己而走也。以為『畏狐也。』今、王之地、方五千里、帯甲百万、而専属之昭奚恤。故北方之畏奚恤也、其実畏王之甲兵也、猶百獣之畏虎也。」\n虎の威を借る\n荊1の宣王、群臣に問ひて曰く、「吾、北方2の昭奚恤3を畏るるを聞くなり。果たして誠か何如」と。群臣対ふる莫し。 \n江乙4対へて曰く、「虎、百獣を求めて之を食らひ(くらい)、狐を得たり。 狐曰はく(いわく)『子 敢へて(あえて)我を(われを)食らふこと無かれ。 天帝5、我をして百獣に長たらしむ。 今、子、我を食らはば、是れ(これ)天帝の命に逆らふなり。 子 我を以て(もって)信ならずと為さば、吾 子の為に先行せん。 子 我が後ろに随ひて(したがいて)観よ。 百獣の我を見るや敢へて(あえて)走らざらんや』と。 虎 以て(もって)然りと為す(なす)。 故に遂に之と行く。 獣 之を見て皆走る。 虎 獣の己を畏れて走るを知らざるなり。 以為へらく(おもえらく)『狐を畏るるなり』 と。 今、王の地、方五千里にして帯甲6百万ありて、専ら之を昭奚恤に属す。故に北方の奚恤を畏るるは、其の実、王の甲兵7を畏るること、猶ほ百獣の虎を畏るるがごときなり」と。\n(原典: 『戦国策』)\n本文は混同しやすい句法も多いため、重要句法をよく確認しておきたいところである。\n「与」は「故に 遂に之と行く」の「之と」の「と」の部分。「与」で「と」と読む。「与之」で「これと」。この文章での「之」とは狐(きつね)のこと。「遂に 之 と 行く」→意味「そのまま狐と一緒に行く。」\n楚(そ)の宣王(せんおう)が家臣たちに「私は北方の国々が昭奚恤(しょうけいじゅつ)を恐れていると聞いた。(これは)はたして本当なのかどうなのか」と聞いた。家臣たちは答えなかった。江乙(こういつ)がこう答えて言った。「虎がたくさんの動物を探して食べていたところ、狐を捕まえました。狐は『君は決して私を食べてはいけない。天帝(てんてい、意味:神様のこと)は私を全ての動物の長官とした。今、君が私を食べたなら、それは天帝の命令に逆らうことになるのだ。(もし)君が私の言ったことを信じないのならば、私は君のために先に立って行こう。君は私の後ろに従って見てみなさい。全ての動物は私を見ると必ず逃げ出す』と言いました。虎はそれをもっともだと思いました。ですから、結局、狐と(一緒に)歩きました。動物たちは狐と虎を見るとみんな逃げました。虎は動物が自分を恐れて逃げるのを知りませんでした。『狐を恐れているのだ』と思いました。(さて、)今、王様の領地は五千里四方で兵士は百万人おりますが、それをすっかり昭奚恤に任せております。ですから、北方の国々は奚恤を恐れていますが、実のところ王様の兵隊を恐れているのです。が、(それは先ほどの話の中で)全ての動物が虎を恐れていたのと同じなのです。」\n「虎の威を借る狐」の語源となった話。これから「勢力や権力者の影響力を利用していばる人物」の意味となった。なお、この話は権力を持つ者への警告ともとれる。\n虎に例えられている人物は、宣王(せんおう)。狐に例えられている人物は、昭奚恤(しょうけいじゅつ)である。この喩え話を考えて話した人物は、江乙(こういつ)である。\nつまり、江乙(こういつ)は、遠回しに、昭奚恤(しょうけいじゅつ)を批判している。\n「百獣」は、楚(そ)の周辺諸国の例え。つまり、秦(しん)・魏(ぎ)・斉(せい)の国が、百獣。\n現在、「虎の威を借る」の意味は、「実力の低い小人物が、権力を持つ他人にとり行って、その権力ある他人の力に頼って、小人物が威張り散らすこと。」のような意味で使われる。「虎の威を借る狐」とは、そのような小人物のこと。\nこの用法では、「虎」が、権力・権威のある人物として、扱われている。\n趙且伐燕。\n蘇代為燕謂恵王曰、「今日臣来過易水。蚌方出曝。而鷸啄其肉。蚌合而箝其喙。鷸曰『今日不雨、明日不雨、即有死蚌。』蚌亦謂鷸曰、『今日不出、明日不出、即有死鷸。』両者不肯相舎。漁者得而幷擒之。今趙且伐燕。燕趙久相支、以敝大衆。臣恐強秦之為漁父也。願王之熟計之也。」\n恵王曰、「善。」乃止。\n趙且に燕を伐たんとす。\n蘇代1、燕の為に恵王に謂いて曰く「今日臣2来たり、易水3を過ぐ。蚌4方に出でて曝す5。而して鷸6其の肉を啄む。蚌合して其の喙を箝む。鷸曰く『今日雨ふらず、明日雨ふらずんば、即ち死蚌有らん』と。蚌も亦た鷸に謂ひて曰く『今日出ださず、明日も出ださずんば、即ち死鷸有らん』と。両者、相舎つるを肯んぜず。漁者、得て之を幷せ擒ふ。今、趙且に燕を伐たんとす。燕趙久しく相支えて、以て大衆を敝らん。臣強秦の漁父と為らんことを恐るるなり。願はくは王之を熟計せよ」と。\n恵王曰く「善し」と。乃ち止む。\n(原典: 『戦国策』)\n趙がいまにも燕を攻撃しようとした。蘇代は燕のために(趙の)恵王にこう言った。「今日、わたくしがここに来るところ、易水を通りました。どぶ貝がちょうど出てきてひなたぼっこをしていました。するとシギがどぶ貝の肉をつつきました。どぶ貝は(貝殻を)閉じてシギのくちばしを挟みました。シギは『今日雨が降らず、明日も雨が降らなければ、たちまち死んだどぶ貝ができるぞ』と言いました。どぶ貝もまたシギに向かって『今日、(くちばしが)抜けず、明日も抜けなければ、たちまち死んだシギができあがるぞ』と言いました。両方とも相手を放すことを承知しません。(そうしたところ、やってきた)漁師が両方一度に捕まえてしまいました。(さて、)今、趙はいまにも燕を攻撃しようとしています。燕と趙が長く互いに争っていると民衆は疲れるでしょう。わたくしは強大な秦が(先ほどの話の)漁師になることを恐れるのです。王様はこのことを良くお考えください。」恵王は「そのとおりだ」と言った。そして(燕を攻撃することを)やめた。\n元々は原文から「漁父(ぎょほ)の利」と言われたが今では「漁夫の利」と書く。「鷸蚌の争い」とも呼ばれる。ただし意味の変化はなく、いずれも意味は「争っている隙に第三者が利益を得る」である。\nさて、ここに出てくる蘇代のような遊説家は言葉次第で地位を高めることもできるが、失敗すれば最悪の場合、命の危険にさらされる。だからこそ、彼らはたくみなたとえ話を用いて自説を説く必要があった。この「漁夫の利」は優れたたとえ話の一つに数えられるだろう。\n楚有祠者。賜其舎人巵酒。舎人相謂曰、「数人飲之不足、一人飲之有余。請画地為蛇、先成者飲酒。」一人蛇先成。引酒且飲之。乃左手持巵、右手画蛇曰、「吾能為之足。」未成。一人之蛇成。奪其巵曰、「蛇固無足。子安能為之足。」遂飲其酒。為蛇足者、終亡其酒。 \n楚に祠る1者有り。其の舎人2に巵酒3を賜ふ。舎人相謂ひて曰く、「数人之を飲めば足らず、一人之を飲まば余り有り。請う4地に画きて蛇を為り、先ず成る者酒を飲まん」と。一人の蛇先ず成る。酒を引き且に之を飲まんとす。乃ち左手もて巵を持し、右手もて蛇を画きて曰く「吾能く之が足を為る」と。未だ成らず。一人の蛇成る。其の巵を奪ひて曰く、「蛇固より足無し。子安んぞ能く之が足を為らん」と。遂に其の酒を飲む。蛇の足を為る者、終に其の酒を亡ふ。\n(原典: 『戦国策』)\n楚に神官がいた。その食客に大杯一杯の酒を与えた。食客たちは相談して言った。「数人でこれを飲めば足りないし、一人で飲めばあまるほどある。地面に蛇を描いて、一番先にできた者が酒を飲むようにしよう。」一人の蛇がまず描き上がった。酒を引き寄せて、いまにも飲もうとした。そして、左手で杯をもって、右手で蛇を書き足して、「私は蛇の足を描くことができる」と言った。(しかし、その足は)まだできなかった。(そのうち別の)一人の蛇が完成した。最初に蛇を描いた者の杯をうばって「蛇にはもともと足はない。君はどうして蛇の足を描けるのだ(いや、描けはしない)。」と言った。結局、(二番目に蛇を描いた者が)その酒を飲んだ。蛇の足を描いた者は、とうとう酒を飲みそこなった。\n速く書きあがった者は余裕を見せたつもりだったが、「蛇には足がない」とつっこまれて結局、酒を飲み損ねた。この話から、「蛇足」は「よけいなつけたし」「無用の長物」の意味を持つ。「画蛇添足」ということもある。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%95%85%E4%BA%8B%E3%83%BB%E5%AF%93%E8%A9%B1#%E8%8B%9B%E6%94%BF%E3%81%AF%E8%99%8E%E3%82%88%E3%82%8A%E3%82%82%E7%8C%9B%E3%81%AA%E3%82%8A"} {"text": "(とうかげんき、とうかげんのき)\n昔々\n桃のたくさん咲く林を抜け、異世界のような場所にある漁師が迷い込んだ。\nそこに住む人々により歓迎を受け、何日か滞在して元の場所に帰ることにした。\n漁師は戻るときに、道にいくつか目印をつけておいた。\nその話を聞いた者が、その場所を探したが、見つからなかった。\n題名で「記」を名乗り、事実という名目をとっているが、あくまで作り話である。\n桃花源-現代の世界--无塵(无尘)(无)。\n晉太元中、武陵人、捕魚為業。緣溪行、忘路之遠近。忽逢桃花林、夾岸数百步、中無雜樹、芳草鮮美、落英繽紛。漁人甚異之、復前行、欲窮其林。林尽水源、便得一山。\n山有小口、髣髴若有光。便捨船、従口入。初極狹、纔通人。復行数十步、豁然開朗。土地平曠、屋舍儼然。有良田、美池、桑竹之属。阡陌交通、鷄犬相聞。其中往来種作男女衣著、悉如外人。黃髮垂髫、並怡然自樂。\n見漁人、乃大驚、問所従來。具答之。便要還家、設酒殺鷄作食。村中聞有此人、咸来問訊。自云、「先世避秦時乱、率妻子・邑人、来此絶境、不復出焉。遂与外人間隔。」問、「今是何世。」乃不知有漢、無論魏晋。此人一一為具言所聞。皆歎惋。余人各復延至其家、皆出酒食。停数日辞去。此中人語云、「不足為外人道也。」\n既出、得其船、便扶向路、処処誌之、及郡下詣太守、説如此。太守即遣人隨其往。尋向所誌、遂迷不復得路。南陽劉子驥、高尚士也。聞之、欣然規往。未果、尋病終。後遂無問津者。\n晋(しん)の太元(たいげん)年間に、武陵(ぶりょう)の人で、魚を取ることを職業としている人がいた。\n(ある日、)谷川に沿って(船で)行くうちに(迷って)、どれほどの道のりかが分からなくなってしまった。\n突然、桃の花の咲いている林に出くわした。(桃の木は)川の両側に数百歩、中には(桃以外の)他の木は混ざってなかった。香りの良い草が鮮やか(あざやか)で美しく、(桃の)花びらが乱れ散っている。漁師は、この景色をたいそう不思議に思い、さらに先に進んで、その林の奥を突き止めようとした。\n林は川の水源で終わり、すぐに一つの山を見つけた。\n晋(しん)の太元中(たいげんちゅう)、武陵(ぶりょう)の人(ひと)、魚(うお)を捕らふる(とらうる)を業(ぎょう)と為す(なす)。渓(たに)に縁りて(よりて)行き(ゆき)、路(みち)の遠近(えんきん)を忘る(わする)。\n忽ち(たちまち)桃花(とうか)の林(はやし)に逢ふ(あう)。\n岸(きし)を夾む(さしはさむ)こと数百歩(すうひゃっぽ)、中(うち)に雑樹(ざつじゅ)無し(なし)。\n芳草鮮美(ほうそうせんび)、落英(らくえい)繽紛(ひんぷん)たり。漁人(ぎょじん)甚だ(はなはだ)之(これ)を異しむ。復た(また)前行(ぜんこう)して、其(そ)の林(はやし)を窮めん(きわめん)と欲す(ほっす)。林(はやし)尽きて(つきて)水源(すいげん)あり、便ち(すなわち)一山(いちざん)を得(え)たり。\n山に小さな穴があり、(穴の中の奥のほうが)かすかに見えて光があるようだった。すぐに船を置いて、穴から中に入った。\nはじめのうちは非常にせまく、人がかろうじて通れるだけだった。さらに数十歩進むと、広々として明るいところだった。土地は平らで広く、家屋は整然と並んでいる。\n良い田、美しい池、桑や竹のたぐいがある。田畑のあぜ道が縦横に通じ、鶏や犬の鳴き声があちこちから聞こえてくる。\nその中を(人々が)往来して種をまき耕作している男女の衣服は、(漁師から見ると)「外人」のようであった。(※「外人」の訳に諸説あり。1:異国の人。 2:外の世界の人。つまり、中国の一般の人。 )\n髪の毛の黄色くなった老人や、おさげ髪の子どもが、皆、たのしんでいる。\n山に小口有り、髣髴として光有るがごとし。便ち船を捨てて口より入る。\n初めは極めて狭く、纔かに人を通ずるのみ。復た行くこと数十歩、豁然として開朗なり。\n土地(とち)平曠(へいこう)、屋舎(おくしゃ)儼然たり。良田(りょうでん)・美池(びち)・桑竹(そうちく)の属(ぞく)有り(あり)。阡陌(せんぱく)交通(こもごもつう)じ、鶏犬(けいけん)相聞こゆ(あいきこゆ)。其の中(うち)に往来(おうらい)種作(しゅさく)する男女(だんじょ)の衣着(いちゃく)は悉く外人(がいじん)の如し(ごとし)。黄髪(こうはつ)垂髫、並びに(ならびに)怡然(いぜん)として自ら(みずから)楽しむ。\n(村人は)漁師を見て大変おどろき、どこから来たのかを尋ねた。(漁師は)詳しく質問に答えた。(村人は)ぜひ家に来てくれと、(そして)酒を出して鶏を殺して(肉料理をつくり)、食事を作って(もてなして)くれた。\n村中、この人が来たのを聞いて、皆やって来て、話を聞いてくる。\n(村人が)自ら言うには、「先祖は、秦の時代の戦乱を避けて、妻子や村人を引き連れて、この世間から隔絶した地に、やって来て、二度とは世間に出ませんでした。そのまま、外の世界とは、隔たってしまったのです。」と。\n(そして村人が)質問するのは、「今は、(外の世界は、)何という時代なのですか。」と。\n(なんと / つまり)村人は、漢の時代があったのを知らず、(その後の時代の)魏・晋は言うまでもない。(魏晋を知らない。) この人(=漁師)は村人のために、一つ一つ、聞かれたことを、細かく、答えてあげた。\n皆、驚き、ため息をついた。\n他の村人たちも、それぞれまた、漁師を招待して、酒や食事を出しまいました。\n(こうして漁師は)数日間、とどまってから、(村人に)別れを告げた。\n(別れ際に)この村の中の人が語るには、「外の世界の人には、言うほどのことではありません(ので、言わないでほしい)。」と。\n漁人(ぎょじん)を見て(みて)、乃ち(すなわち)大い(おおい)に驚き(おどろき)、よりて来たる所(ところ)を問ふ。具さに(つぶさに)之(これ)に答ふ、便ち(すなわち)要へて家に還り、酒を設け鶏を殺して食を作る。村中(そんちゅう)此の(この)人(ひと)有るを聞き、咸来たりて問訊(もんじん)す。自ら云ふ「先世(せんせい)秦時(しんじ)の乱を避け、妻子(さいし)邑人を率ゐて(ひきいて)此の(この)絶境(ぜっきょう)に来たり、復た(また)出でず。遂に(ついに)外人(がいじん)と間隔(かんかく)せり」と。問ふ「今(いま)は是れ(これ)何れ(いずれ)の世(よ)ぞ」と。\n乃ち(すなわち)漢(かん)有るを知らず、魏(ぎ)・晋(しん)に論(ろん)無し。此の人(ひと)一一(いちいち)為に(ために)具に聞く所を言ふ。皆嘆惋す。余人(よじん)各(おのおの)復た延きて(ひきて)其の家に至らしめ、皆(みな)酒食(しゅしょく)を出だす。停まる(とどまる)こと数日(すうじつ)にして、辞去(じきょ)す。此の中(なか)の人(ひと)語げて(つげて)云ふ、「外人の為に(ために)道ふ(いう)に足らざる(たらざる)なり。」と。\n(漁師は)既に(村を)出て、自分の船を見つけ、ただちに、以前(来たとき)の道をたどって、(帰りながら、)ところどころに目印をつけた。(帰宅後、漁師は)郡の役所のある町に行き、太守(たいしゅ)に面会して頂いて、このようなことがあったと報告した。\n太守はすぐに人を派遣して、漁師が(案内で)行くのに付いて行かせ、先ほど目印をつけておいた所を探させたが、結局迷ってしまい、(桃花源の村への)道を探しだすことはできなかった。\n南陽の劉子驥(りゅうしき)は、志(こころざし)の高い人である。この(桃花源の)話を聞き、喜んで、その村に行こうと計画した。(しかし)まだ実現しないうちに、そのうち病気にかかって死んでしまった。\nこれ以降、(漁師が降りた桃花源への)船着き場を探す者は、そのまま、いない。\n既に(すでに)出でて(いでて)其の船を得て、便ち向の路(みち)に扶り(より)、処処(しょしょ)に之(これ)を誌す(しるす)。郡下(ぐんか)に及び(および)、太守(たいしゅ)に詣り(いたり)、説く(とく)こと此くの如し(ごとし)。\n太守即ち(すなわち)人を遣はして(つかわして)其れに随ひて往き、向(さき)に誌しし(しるしし)所を尋ね(たずね)しめしも、遂(つい)に迷ひて(まよいて)、復た(また)路(みち)を得ず(えず)。\n南陽の劉子驥は、高尚の士なり。之を聞き、欣然として往かんことを規る。未だ果たさず。尋いで病みて終はる。後遂に津を問ふ者無し。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E5%85%B8B/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E6%A1%83%E8%8A%B1%E6%BA%90%E8%A8%98"} {"text": "漁父の辞 (ぎょほのじ)\n楚辞(そじ)\n屈原既放、游於江潭、行吟沢畔。顔色憔悴、形容枯槁。漁父見而問之曰、「子非三閭大夫与。何故至於斯。」屈原曰、「挙世皆濁、我独清。衆人皆酔、我独醒。是以見放。」\n漁父曰、「聖人不凝滞於物、而能与世推移。世人皆濁、何不淈其泥、而揚其波。衆人皆酔、何不餔其糟、而歠其釃。何故深思高挙、自令放為。」\n屈原曰、「吾聞之、『新沐者必弾冠、新浴者必振衣。』安能以身之察察、受物之汶汶者乎。寧赴湘流、葬於江魚之腹中、安能以皓皓之白、而蒙世俗之塵埃乎。」\n漁父莞爾而笑、鼓枻而去。乃歌曰、\n遂去、不復与言。\n屈原[※ 1]既に放たれて、江潭[※ 2]に游び、行く沢畔[※ 3]に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁せり。漁父[※ 4]見て之に問うて曰はく、「子は三閭大夫[※ 5]に非ずや。何の故に斯[※ 6]に至れる」と。屈原曰はく、「世を挙げて皆濁れるに、我独り清めり。衆人皆酔へるに、我独り醒めたり。是を以て放たる。」と。\n漁父曰はく、「聖人は物に凝滞[※ 7]せずして、能く世と推移す。世人皆濁らば、何ぞ其の泥を淈して、其の波を揚げざる[※ 8]。衆人皆酔はば、何ぞ其の糟[※ 9]を餔ひて、其の釃[※ 10]を歠らざる。何の故に深く思ひ高く挙がり、自ら放たれしむるを為すや」と。\n屈原曰はく、「吾之を聞けり。『新たに沐する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振ふ』と。安くんぞ能く身の察察[※ 11]たるを以つて、物の汶汶[※ 12]たるを受くる者ならんや。寧ろ湘流[※ 13]に赴きて江魚の腹中に葬らるとも、安くんぞ能く晧晧の白き[※ 14]を以つて而も世俗の塵埃を蒙らんや」と。\n漁父莞爾[※ 15]として笑ひ、枻を鼓して[※ 16]去る。乃ち歌ひて曰く、\n滄浪[※ 17]の水清まば、 以つて吾が纓[※ 18]を濯ふべし。\n滄浪の水濁らば、 以つて吾が足を濯ふべし と。\n遂に去りて、復た与に言はず。\n屈原(くつげん)は追放されて、湘江(しょうこう)の淵や岸をさまよい、歩きながら沢のほとりで歌を口ずさんでいた。顔色はやつれはて、その姿は痩せ(やせ)衰えている。老人の漁師が彼を見るとたずねて言うには、「あなたは三閭大夫(さんりょたいふ)ではありませんか。どうしたわけで、こんなことになったのですか。」と。屈原は言うには、「世の中がすべて濁っている中で、私だけが清らかである。人々すべて酔っている中で、私だけが(酔いから)さめている。こういうわけで、追放されたのだ。」と。\n老漁師が言うには、「聖人は物事にこだわらず、世間と共に移り変わるのです。世の人が皆濁っているならば、なぜ(ご自分も一緒に)泥をかき乱し、その濁った波を高くあげようとしないのですか。人々が皆酔っているなら、なぜ(ご自分も)その酒かすを食べて、薄い酒を飲もうとしないのですか。どうして深刻に思い悩み、お高くとまって、自分から追放されるようなことをなさるのですか。」と。\n屈原が言うには、「私はこう聞く。『髪を洗ったばかりの者は、必ず冠の塵を弾き(よごれを払ってから被り)、入浴したばかりの者は、必ず衣服をふるって(塵を落として)から着るものだ』と。どうして私自身の潔白な身に、汚れたものを受けることができるだろうか。(いや受けいれない。)(それなら)いっそのことの湘江の流れに行って(身を投げて)、川魚の(えさとなって)腹の中に葬られても、どうして純白の身を世俗の塵やホコリを受けられるだろうか。」と。\n老漁師はにっこりと笑い、(ふなばたを)櫂で叩きながら漕ぎ去った。そしてそのとき、こう歌った。\nとうとうそのまま去って、二度と語り合うことがなかった。\nあなたは三閭大夫(さんりょたいふ)ではありませんか。\n\nなぜ(ご自分も一緒に)泥をかき乱し、その濁った波を高くあげようとしないのですか。\n自分から追放されるようなことをなさるのですか。\nどうして私自身の潔白な身に、汚れたものを受けることができるだろうか。\n文末の「乎」(や)は助詞。\nいっそ湘江の流れに行って((身を投げて)川魚の(えさとなって)腹の中に葬られても、どうして純白の身を世俗の塵やホコリを受けられるだろうか。)\nここで注目すべきは屈原と魚父の人物の対比である。それぞれの人物像をまとめてみよう。\nこの二人の姿からは儒家と老荘思想(道家)の理想の違いを見出すこともできよう。屈原は儒家の思想を、いっぽう漁父は老荘思想を体現しているともいえる。あるいは、作中の「屈原」と漁父の両方とも屈原自身の心が生み出したものであり、一方は理想を求める自己、もう一方は世間の中で生きていこうとする自己であるという解釈も成り立つだろう。\n二人が別れる間際、漁父は「莞爾として笑う」が、ここにはどのような意味があるのだろうか。二人の意見は一つの点にまとめられたわけではない。漁父はこのとき、よく言えば一本気、悪く言えばかたくなな屈原の言葉に「自分の意見と異なるが、大変尊いからがんばりなさい」と思ったとも「あなたの意見はずいぶんと尊いが子どもっぽい。しかし、まぁがんばりなさい」と思ったとも解釈される。\nなお、この作品は屈原が大変客観的に書かれていることと、「寧ろ湘流に赴いて江魚の腹中に葬らるとも」とあるように彼の最期を暗示するような台詞があることから、屈原本人の作品ではなく、後世の人の作品ではないかとも言われる[1]。また、漁父が一目で「顔色憔悴し、形容枯槁」した人物を元政府高官の屈原であることを見抜いたりしているところからして、この漁父も只者ではない。\n対句(ついく)表現についてみてみよう。ここでは白文から引用する。\n対句かどうかを見抜くにはいささか慣れも必要だが、本文の対句はとてもわかりやすい。まず、一文の字数が5(以身之察察 ⇔ 受物之汶汶者乎)を除いて同じであること、そして2(挙世皆濁 我独清 ⇔ 衆人皆酔 我独醒)以外は返り点も同じところに打っている。漢文の場合、対句になっている部分は返り点が同じになることが多い。対句のある文章では、返り点を打つ問題や複文の問題ではどことどこが対句なのかを見抜くことも重要であることがこれからわかるだろう。\n内容面でも対句が大きな役割を果たしている。2と3を見てほしい。2(挙世皆濁 我独清 ⇔ 衆人皆酔 我独醒)は屈原の台詞から、3(世人皆濁 何不淈其泥而揚其波 ⇔ 衆人皆酔 何不餔其糟而歠其釃)は漁父の台詞からだが、はじめの部分(挙世皆濁 / 世人皆濁。 衆人皆酔 / 衆人皆酔 。)はほとんど同じである。そして、対句ではないが屈原の「挙世皆濁、我独清」と「世人皆濁、何不淈其泥而揚其波」という漁父の台詞が対応し、屈原の「衆人皆酔、我独醒」に漁父の「衆人皆酔、何不餔其糟而歠其釃」が対応する。こうした屈原と漁父の台詞が先のような対応関係にすることによって、この二人の姿の対比がより鮮やかとなるのである。\n屈原(くつげん)は、楚の王族。はじめ楚の懐王に仕えていたが、中傷されて左遷させられた。その後、懐王が秦によって監禁されたころに復帰するが、襄王のときにまたも中傷されて追放された。その後、楚の将来に絶望して汨羅江で入水自殺した。\nちなみにその日が5月5日であったため、この日は「屈原のような立派な人物になってほしい」という願いが込められて、男の子の節句となった。端午(たんご)の節句である。また、この日に ちまき を食べるようになったのも、屈原の死をいたみ、最初は竹筒に入れた米を投げ入れていたが、その米が竜に食べられるというので、竜の嫌う楝(おうち)の葉で包んだ米を投げ入れたことに由来するとされる。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%95%A3%E6%96%87%E3%83%BB%E8%AA%AC%E8%A9%B1/%E6%BC%81%E7%88%B6%E8%BE%9E"} {"text": "胡蝶の夢 (こちょう の ゆめ)\n昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。\n自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。\n不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。\n周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。\n昔者(むかし)荘周(そうしゅう)夢(ゆめ)に胡蝶(こちょう)と為る(なる)。栩栩然(くくぜん)として胡蝶(こちょう)なり。\n自ら(みずから)喩しみて(たのしみて)志(こころざし)に適える(かなえる)かな。周(しゅう)たるを知らざるなり。 俄(にわか)にして覚むれば(さむれば)、則ち蘧々然(きょきょぜん)として周(しゅう)なり。\n知らず、周の夢に胡蝶(こちょう)と為れる(なれる)か、胡蝶(こちょう)の夢に周と為れるか(なれるか)を。\n周と胡蝶とは、則ち必ず分(ぶん)有らん(あらん)。此れ(これ)を之(これ)物化(ぶっか)と謂う(いう)。\n以前、荘周(そうしゅう)は夢の中で蝶(ちょう)になった。ひらひらと飛んでいて、蝶そのものであった。自身が楽しくて、思いのままだった。そして自分が(人間の)周であることに気づかなかった。急に目が覚めて、我にかえって、そこには周がいた。(私には)分からない、(はたして)人間である周が夢の中だけで蝶になったのか、(それとも)蝶が夢の中で人間になったのか。\n(常識的には)周と蝶には必ず区別があるはずである。(しかし、実際は常識どおりではない。)このこと(=夢のように、区別など無いのだ、ということ)を「物化」(ぶっか)(=万物は変化する)という。\n政治の知識や商売の知識などを、世俗(せぞく)の知識として嫌っているようである。世俗(せぞく)の知識には、とらわれるべきではない、という思想のようである。\n老子(ろうし)の思想に近いと考えられており、老子・荘子の両者の思想をまとめて、老荘思想(ろうそう しそう)という。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E5%85%B8B/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E8%83%A1%E8%9D%B6%E4%B9%8B%E5%A4%A2"} {"text": "孟子曰ハク「人皆有リ二不ルレ忍ビレ人二之心一。先王有リテ二不ルレ忍ビレ人二之心一,斯二有リ二不ルレ忍ビレ人二之政一矣。\n以ツテ二不ルレ忍ビレ人二之心ヲ一,行ハバ二不ルレ忍ビレ人二之政ヲ一,治ムルコト二天下ヲ一可シレ運ラス二之ヲ掌上ニ一。\n所-以①レ謂フ二人皆不ルレ忍ビレ人二之心ヲ一者,今②人乍チ③ 見ルニニ孺子將ニ/ルニ④ 一レ入二ラムト於井ニ一,皆有リ二怵惕惻隱之心一。\n非ズレ所-以二レ內ルルニ交ハリヲ於孺子之父母ニ一也, 非ズレ所-以二レ要ムルニ譽ヲ於鄉黨朋友ニ一也, 非ザル下惡ミテニ其聲ヲ一而然ルニ上也。\n由リテレ是二觀レバレ之ヲ⑤,無キハ二惻隱之心一,非ザルレ人二也。無キハ二羞惡之心一,非ザルレ人二也。無キハ二辭讓之心一,非ザルレ人二也。無キハ二是非之心一,非ザルレ人二也。\n惻隱之心,仁之端也。羞惡之心,義之端也。辭讓之心,禮之端也。是非之心,智之端也。\n人之有ルハ二是ノ四端一也,猶ホ/シ⑥ 三其ノ有ルガ二四體一也。」\n孟子曰はく「人皆人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有れば、斯(すなは)ち人に忍びざるの政(まつりごと)有り。 \n人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること之を掌上に運(めぐ)らすべし。 \n人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以(ゆゑん)の、今(いま)人(ひと)乍(たちま)ち孺子(じゅし)の将に井(せい)に入らんとするを見れば、皆怵惕(じゅつてき)惻隠(そくいん)の心有り。 \n交はりを孺子の父母に内(い)るる所以に非(あら)ざるなり、誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以に非ざるなり、其の声を悪(にく)みて然(しか)るに非ざるなり。 \n是(これ)に由(よ)りて之を観(み)れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり、羞悪(しゅうお)の心無きは、人に非ざるなり、辞譲の心無きは、人に非ざるなり、是非の心無きは、人に非ざるなり。 \n惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。\n人の是の四端有るや、猶(な)ほ其の四体有るがごときなり」と。\n(『孟子』「公孫丑上篇」より)\n孟子が言った。\n「人には、誰でも他人にむごいことができない(慈悲深い)心を持っている。\n古代の聖王は、この、慈悲の心を持っていたからこそ、人民に仁政を行ったのである。\n人の不幸を見過ごせない気持ちで、人の不幸を見過ごせない政治を行えば、天下を治めることは、手のひらにのせて(玉をころがすように)たやすくできる。\n人には誰でも、他人の不幸を見過ごせない気持ちがあるというその理由は、もし幼な子が今にも井戸に落ちそうになっているのを見たなら、はっと驚いて痛ましいと思い、助けようとするだろう。\n(それは、)幼な子の両親と交際を結ぼうとして、そうするのではない。\n村人や友人にほめてもらおうとして、そうするのでもない。\n見殺しにしたら非難されることを嫌ったから(そうするの)でもない。\nこうしたことから見れば、あわれみの心がないものは人ではない。\n自分の不善を恥じ、他人の不善を憎む心のないものは人ではない。\n譲り合う心のないものは、人ではない。\n善し悪しを見分ける心がないものは、人ではない。\n人の不幸を見過ごせない心は、仁の芽生えである。\n自分の不善を恥じ、他人の不善を憎む心は、義の芽生えである。\n譲り合う心は、礼の芽生えである。\n善し悪しを見分ける心は、智の芽生えである。\n人がこの四つの芽生えを持つことは、ちょうど両手両足があるのと同じなのだ。」\n孟子は、人間の本質を、「善」(ぜん)だと考えている。その土台となるのが、ここで「惻隠の心(仁の端)・羞悪の心(義の端)・辞譲の心(礼の端)・是非の心(智の端)」という四つの「端(顕れ・糸口)」である。これを「四端」という。この四つは打算や名誉を求める心から生じたものではなく、人間が元々持っている「忍びざるの心」に由来するのだという。その顕れをもとにして、仁義礼智が成り立つ。\nそのため、孟子は人間の本性(ほんせい、ほんしょう)を善だと考えた。この思想を、性善説(せいぜんせつ)という。孟子は、性善説の代表的な思想家である。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E5%85%B8B/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E4%B8%8D%E5%BF%8D%E4%BA%BA%E4%B9%8B%E5%BF%83"} {"text": "\n絶句 絶句\n江碧鳥逾白 江碧(みどり)にして 鳥逾(いよいよ)白く\n山青花欲然 山青くして 花然(も)えんと欲す\n今春看又過 今春看(みすみす) 又(また)過ぐ\n何日是帰年 何(いづ)れの日か 是(こ)れ帰年ならん \n盛唐期の詩人杜甫の五言絶句。\n詩の前半では作者が滞在する地の春の美しい風景を詠い、後半では故郷に帰りたいけれども何年も帰れない作者の心境が詠じられている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%BC%A2%E8%A9%A9/%E7%B5%B6%E5%8F%A5"} {"text": "\n静夜思 静かな夜に思う\n牀前看月光 牀前(しょうぜん) 月光を看る\n疑是地上霜 疑うらくは是れ地上の霜かと\n挙頭望山月 頭を挙(あ)げて 山月を望み\n低頭思故郷 頭を低(た)れて 故郷を思う\n盛唐期の詩人李白の五言絶句。\n詩の前半では作者の寝室の床を明るく照らす月光を詠う。\n後半では月光に誘われるようにして窓から外を眺めた作者が、ふと故郷のことを思い出し、その郷愁にかられ頭を下げてうなだれる様子を詠じている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%BC%A2%E8%A9%A9/%E9%9D%99%E5%A4%9C%E6%80%9D"} {"text": "\n送元二使安西 元二の安西に使ひするを送る\n渭城朝雨浥軽塵 渭城の朝雨 軽塵を浥し\n客舎青青柳色新 客舎青青 柳色新たなり\n勧君更尽一杯酒 君に勧む 更に尽くせ一杯の酒\n西出陽関無故人 西のかた陽関を出づれば 故人無からん\n盛唐期の詩人、王維の七言絶句。\n詩の前半では、友人(元二)との別れの場面、すがすがしい朝の情景を描写している。\n詩の後半、転句では手元の一杯の酒に目線が注がれる。「更に尽くせ」と酒を勧める行為に、作者の深い友情を感じることができる。\n結句では視点をさらに西方に移し、遙か彼方の安西へ旅立つ友人との離別の悲しさを詠じている。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%B7%8F%E5%90%88/%E6%BC%A2%E6%96%87/%E9%80%81%E5%85%83%E4%BA%8C%E4%BD%BF%E5%AE%89%E8%A5%BF"} {"text": "\n春暁 孟浩然\n春眠不覺曉 春眠暁を覚えず、\n處處聞啼鳥 処処啼鳥を聞く、(「処処、鳥啼くを聞く」とも)\n夜来風雨聲 夜来風雨の声、\n花落知多少 花落つること知りぬ多少ぞ。(「花落つること知る多少」とも)\n盛唐期の詩人孟浩然の五言絶句。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%BC%A2%E8%A9%A9/%E6%98%A5%E6%9A%81"} {"text": "\n春望 杜甫\n国破山河在 国破れて山河在り\n城春草木深 城春にして草木深し\n感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ\n恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす\n烽火連三月 烽火 三月に連なり\n家書抵萬金 家書 万金に抵る\n白頭掻更短 白頭掻けば更に短く\n渾欲不勝簪 渾て簪に勝えざらんと欲す\n盛唐期の詩人杜甫の五言律詩。\n", "url": "https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%8F%A4%E6%96%87/%E6%BC%A2%E8%A9%A9/%E6%98%A5%E6%9C%9B"}